卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」
此処に出雲と同様、“大量の銅剣”が埋めてある! 全国歴史ファンの方々、三上山に集合せよ。
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<出雲竜を縛り付けている銅戈&勾玉を捜せのⅢ- 掘り上げろ!>
<出雲竜を縛り付けている銅戈&勾玉を捜せのⅢ- 掘り上げろ!>
                                      (2017/6/25∼8/15)
                     皆様へ>
          この記事の相手をして下さる方を捜しています^-^!。 
筆者の言うような施設が、ここになければ今、私たちが行っている歴史はないと断言できる。
  伝聞に耳を傾け、すべてを受け入れ 「目から鱗」を取り去ればより多くが見えてくる。
その巨大隕石を 竜というか大津波や巨大地震を 大鯨や大鯰と云うかは表現の違いである。
   それが出土してからでないと、「それと認めない」 貴方さまになって欲しくないものです。
                                (史実探偵: 平  素 人)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  以下は、 青面金剛さま>より、有り難いコメントを頂いて考察した記事です。
「鷺峠は近づくべきではない」
青面金剛
| URL | 2017-06-17-Sat 15:43 [EDIT]
 平 素人 様、古代史掲示板から来ました。鷺峠は出雲の大神が幽閉されたところ故、地元のタクシーの運転手も、通ることを避ける場所です。幽閉した犯罪者側が、王権の象徴である勾玉や銅矛などを埋める訳も有りません。発掘など、地元の方々の感情を逆なでする結果に成ります。
 また、古い銅山の辺りは、地下の坑道が複雑に入り組んでいて、長い年月の風雨により、坑道の上の土が薄く成っている恐れも有り、それを知らずに歩き廻ると、平さん自身が坑道に落ち込み、閉じ込められる危険性を知るべきです。
出雲の歴史については、大元出版の本をお勧めします。
最初の一冊には、『出雲と蘇我王国』が好いでしょう。
http://www.d1.dion.ne.jp/~kunado/index.htm


鷺峠は近づくべきではない」 のですね。 平 素人 | URL | 2017-06-23-Fri 23:31 [EDIT]
青面金剛様>コメントありがとう御座います^^♪  PCの不調でお返事が遅れました。
<鷺峠は近づくべきではない>のですね。大変貴重な情報を頂きました(深礼)。
前のコメントから〇カ月ぶりのコメントです^^!。「卑弥呼からの伝言」についての送信は20年前からで、「出雲竜を〆縛り付けている銅戈と勾玉」ついては、10年前からですが、歴史全くの素人が「ここにそのお宝が埋められている」と提言しても、私が尊敬するDr.いずも氏を除いて全く無視され反論さえ頂けない年月を重ねて来ました。身元を明かさず、「そのお宝を掘り上げれば一攫千金」というと「そんな詐欺師がいます。お金の話はしない方がいい。」と迄云われました。(笑い) 準備してます「追加情報」に、貴兄>のコメントを挿入させて頂きたいと思います。差し障りがあれば何時でも仰って下されば削除します。今後ともご鞭撻を^^!

  < 追 伸 >
 「タクシー運転手も、通ることを避ける(ほど恐ろしい)場所」 なのですね。
   そんな地元の人しか知りえない情報をお待ちしていました^^。
わたしのような素人が、それ等の埋蔵文化財を 「ここぞ!」と、特定しえても、勝手に掘り上げる分にはいきません。現実的には、それから後のほうが大変で、まずは地主の許可を得なければなりません。肩書や実績のない見ず知らずの他所者が、その仔細を説明しても、これまでの史学にないことを述べる分けですから、不審者扱いを受けるのは必定。例え一度は耳を傾けてくれても、二度目は「忙しい」と体よく断られる。ならば、「専門家に」と思えば史学から外れている事ゆえ門前払い。さらには、行政に報道にと「その報告書」を送りましたが無視される。 ・・で20年経ちました。

次には、「埋蔵文化財保護法」をクリヤーしなければならない。
知らず偶然ならともかく、それと承知しているわけですから、所管の行政、例えば県知事へ、その発掘申請と許可を取らねばなりません。その道すじがある専門家の申請ならともかく、まるで少年・こどものような稚拙な論説文等、提出するだけ無駄な気がします。
合わせて、その場所がすでに埋蔵文化財の認知場所かその周辺であれば、県の教育委員会の許可を取らねばなりません。では 「知りませんでしたと勝手に発掘する」 これって許されるかしら?

(以下は素人知識ですから間違いがあるかも知れません。) ドウゾノご訂正を^^!
こういう場所はえてして寺社領か公共の所有が多いと思いますが、そこが私有地なら、かなり強引にやれる。しかし、地主の許可が必要なのは言うまでもありません。所有者がNOといった場合は、それまでか?。この場合、地主は「私有地につき立ち入り禁止」の表示をしなければならない。 奥の手はあるもので(笑)、例え地主がNOといった場合でも、その公益性が認められれば現状に修復を条件に(立ち木等、出来ない場合はお金に換算^^?)強権をもって調査発掘が出来るようだ。その場合は、地主に文書でその旨の詳細を書留で通知しなければならない。 さらに、そこが土砂流出防止林の場合は、草木一本、土砂の一握りも乱取してはならないと定められている。但し、昔からの地元住民の山野草や、キノコ採りかタキギ取りの入会権は認められているようです。

この調査発掘の費用は並みの金額ではない。
  ウエブ等でご存知のように、その発掘は細微をきわめる。それは個人の出せる金額ではない。出雲での大量の銅剣の時には、何一つも見逃すまいぞ」と、焼き鳥の竹串や、カメラレンズ掃除のパフパフでやったそうですからその費用は推してしかるべしです。ゆえに、その発掘の多くが偶然性か、もしくは毎年の決められた予算内での公共工事前の調査での発見がうなづけます。ちなみに、20年前その道の事業所での参考費用は600万円でした。「史学にない素人の論説に、お金をかけるなど 、もってのほか!」 わたし素人探偵は、この相手にしてくれないことを逆手にとり、私有地ならば、探知機とツルハシかついで、大した費用もかけずに私設観光起業化が出来ないかと^^? それが出土すれば、『卑弥呼絡みが確定し、予見した!』 とのプレミアムが付きますから^^♪ 但し、この場合“それ!”であると専門家に鑑定して頂かなくてはなりません(^-^!)。 

そして最後の難関は(出雲の人の)信仰心の厚さです。
  『 学術より信仰!』 簡単に掘らしてくれないと思いますよ。わたしが指さす「その咽首」は、出雲大社の社寺領の可能性が大です。もし、そうであれば、由緒ある千家家のお許しを請わねばなりません。神への畏れとか、祟りとかの信仰心がうすれてきたのは、新幹線の開通や、高速道路の施設のころからと認識しています。今では、「祟り」については、まったく死語化しています?
  『その〆縄を解いて、ワシ島根竜を起こすと、史学が変わるぞ! 覚悟してかかれぃ』

ハンドルネイム・青面金剛さま>
 青面金剛は、はじめて聞くことばですので、少し調べてみました。三眼、三角目の夜叉とか、何やらを踏みつけている」との語句が出ました。そういえば、そんな仏画を見たような記憶があります。三眼の発想は異様です。その三眼目の頂点に位置するのが鷺峠の「咽首」かと思います。夜を徹しての大祈祷などの言葉も出てきました。わたしは、銅戈と勾玉が墳墓でない命主社から出土していることに注目しています。その後の亜流はあるかと思いますが、他所に銅戈1と勾玉1のセットで出土した例があるのでしょうか。素人探偵の予見したように鷺峠と伊奈西波岐神社からの出土に至れば、卑弥呼が絡んだことが確定します。なぜなら、長さ60km幅5kmの島根半島を竜に見立てる発想は、四千年前の大地震で破砕半島にした歴史の覚醒(Dr.いずも氏 言)と、銅鏡100個を受けて銅鐸文化から銅鏡文化へと変えた卑弥呼以外には考えられないからです。竜は中国からの伝来が定説ですが、私は、そうは思いません。四千年前、大陸にまで届いた巨大地震と巨大津波の探検と不老長寿の薬石を求めた徐福等が、その探検におよんで列島人から聞き集めた“巨大隕石が飛んだ、モンタージュ画の逆輸入”だと、前述記事で謎解きしています。

「信仰心を逆なでする」 竜の逆鱗に触れる!
  前々の記事で 出雲の島根半島西端の日御碕の立っている所は玄武岩柱の噴出があると出雲のDr.氏に教わりました。“宇竜”の地名やら、海底階段の発見やらで、そのDr.と共に、それを「竜の逆鱗、竜の火舌」と名付けたことがありました。そのいきさつは前々の記事で参照して下さい。その地の「探索は陥没の危険をともなう」との御忠告に感謝します。Dr.からも子供のころの探索で大人にひどく叱られたとか。飛蛇(トビョウ)も出るとか。私は、横井さんや小野田少尉を見つけだし『男のロマン』の名言をいった、かつての鈴木青年のような、自費や命を賭してまでの勇気を持ち合わせていません。頭脳寿命も衰えてきました^^!。没後のために拙論を歴史に刻んでおくのみです^^!。□

<追加情報> 2017/05/30 ∼
その1. 地方名<杵築・きずき>について、
 杵築の地名が妙にひっかかる。この杵築は、大社を含めて東西南北がある。筆者が“それと見当”をつけている円形地形(35°24′54.79″N,  132°40′53.26″E,)の行政区が鷺浦になるか、杵築にあるのかは分からないが、「杵・きね」とは、餅をつくキネとあるように、ツキ固める意をもつ。それに「築く」がつけば、何かを突き固めて「何か」を造った意になる。つまり、その円形(に見える)場所は、土を突き固めた“版築土塁”ではないのか? 版築土塁とは、塀を築いたり、河川の土手を築く工法である。今、国技館での土俵も土を突き固めて造っている。その中心に「何かを埋めるのか埋めないのか」を知りたいと思う。もし、それが銅戈や、勾玉に関係するものであればここに、その銅戈と勾玉が埋められていることが確定的となる。      

その2.大の字の地形と泉水(仙水?)について、
 その咽首(筆者がつけた仮称)の地図をよく観察すると、西を上にした大の字の地形にある。大の字はガリバーと小人の国や、呪いのワラ人形と前述したように、島根竜の要(かなめ)であり、そこに 「最新兵器の銅戈を五寸釘のごとくに打ち付けた」ことにもなる。さらに国土地理院の地図をよく観察すると大の字の太い字の部分に「川の印」がついている。普通にこのような地形は数限りなくあり、特に川の印を記入する必要もないと思うが? これは、他の神社でよく見かけることであるが竜の口から泉水が湧き出ている施設がある。その泉水には鉱物等を含んでおり薬水にもなると聞く。そして、咽の字の字形にも注意して頂きたい。因の字形の内に大の字があり、その脇に口がある。そういえば、力士が相撲をとる前に、口をススグのは、ここから来ているのではないのか。ここ島根半島はグリーンタフに接しておりそれ等の鉱水が湧き出しているところが、いたるところにあると思われる。もし、これが当たっていれば、その太い字の点部分には遺跡やイワレが残っているはずだ。筆者はそれ等のありやナシやを伺いたい。
 <鷺峠> 咽首(仮称)の‟大文字地形”と、それは“仙水か”? (国土地理院地図に加図)            竜の咽首041
   35°24′54.79″N,  132°40′53.26″E, h345m。 ☜ ここに、銅戈と勾玉を埋めてありか 

その3. 鷺浦の祭りについて
 鷺浦の地区には、竜に模した荒縄で練る祭りがある(ネットで見ました^^)。これはその昔、巨大地震によって暴れまくり(破砕半島と云われる←Dr言)島根半島竜の首っ玉を縛り付けた名残りと見ることができる。もし、そうであれば、大社側から鷺浦までの約5km余に荒縄を実際に沿わしたことになる。この件は「ああそうか」では済まされない。なぜなら、それだけの量の稲わらの収集を考えねばならず、その収集を可能にした水稲栽培域の人口数や、それを提唱する人物や通念までもが浮かび上がってくるからだ。しかし、さすがに、島根半島竜のこの距離を縛り付けておくのは大変だから、今では、出雲大社の大〆縄や、横綱のマワシに“象徴として”略しておこうとなった。(笑い)このように、今私たちが為している神事や行為に、この謎解きのカギは潜んでいる。(中学生諸君に^^!)

その4. 咽首 ( 仮称 ) の円形地を考える
       『ドンの首』 のことばを聞いたことを思い出しました。今後そこをドンの首と呼ぶことにします。
  ドンの首(ブログ用)
  坪背山
この直径30m程の円形地?を(版築土塁=土俵)造りだとすると、その上部は平たく均していなければならない。その上で武神である力士はシコを踏み塩をまく。なぜ塩をまくのか。これを私流に解釈すると、島根半島は、前述のような巨大竜であり、竜は火を吹く火竜であり、大雨をもたらす水神でもある。 『火竜ならば海水の象徴として塩で鎮火しておきたい』 と思うのが無理のない展開^^? 今に開店時に塩を盛るのは。「ヤク神さま、どうぞ暴れないで下さい」 との願いからではないか。それほどの大行事であれば、その歴史はしばらく続いていたと考えられる。それが卑弥呼からだとなると千年以上たっているから、その塩分の多くは雨で流れ去るだろうが、薄く染み入っているかも知れない。正確には土壌分析の調査をしたい ・・と、このように終えるつもりでしたが? 大きな疑問が生じてきた。・・・・・・・、

 340mの丸い等高線より上に5mの盛り上がりがある。そのイメージは土俵ではなく土饅頭に近い。土俵仕様でなければ、上記の考えはまったく役にたたない。今まで営々と積み上げてきた謎解きは、この一事で全てが瓦解してしまう。思いだせば吉備地方・倉敷市船穂町竜王山で、この土饅頭形の頂上があり、その地形に不思議な感覚を味わったことがある。そういえば、船穂町竜王山では、南東の方角にある小さな祠に青い花シキビがたむけてあった。さらに、倉敷市・鬼山、足高神社には小さな土俵(月別アーカイブ2016/3月)が設えてあった。出雲の「ドンの首」でも、それ等と歴史的つながりがあるのか?
     ・・・・ご先祖さま> どうか、この関係のありやなしやを教えて下さい。

「神官は、頭上のすすを お祓いし」、って川柳がありました。
こども心には、そのすす払いが四千年前、出雲にまで届いた巨大な津波の白波の形に見えてなりません。
皆さんも御一緒に、出雲大社にお参りし、頭をたれて『現史学』という、そのススをお祓いして貰いませんか^^? ゴメン言葉がすぎました^^!。 ( 拙「出雲弓ヶ浜の成因」より、)

その5. 「 ドンの首」の饅頭形が気になる、 … どうも気になる。・・・
・・長考・・、 そうだ!土饅頭との考えが間違いではないのか。実際にその地を探索してないので何とも言えないが、これは鏡餅形を表してしているのではないか。以下、鏡餅形として考えを進めてみよう。鏡餅=銅鏡と考えることが出来る。この大祈祷は、卑弥呼が関わったとして、銅鐸文化から銅鏡文化への変換期でもあるから、その線でもいける。埋蔵物は「銅戈と勾玉だけ」と固執したことがいけなかった。それに銅鏡をプラスすればいいわけだ。卑弥呼は、彗星のニアミス時その退散祈祷により、それまで永々と続けてきた“雨乞い水神竜”から、『お天気を司るのは太陽であり竜神様は、そのお使者であるよ』 として太陽主神説を唱えた。(この詳しくは初頭ブログで)のであるから、銅鏡も一緒に埋まっている可能性は大である。鏡が一緒だとすると、その歴史は、鏡開きやらへと、都合の悪い方へ、さらに広がりそうだが、いずれにしても今、出雲大社での催事の詳細を知りたい。

その6. 三方・さんぼう>からの考察
三方は、神に鏡餅等の供物をお供えする用具で、折敷(おしき)と呼ばれるお盆の下に胴(台)がついた形をしており、その胴に三方向の穴があいていることから、三方・三宝(さんぼう/さんぽう)と呼ばれ、台の穴は宝珠の形やハートの形があり、主に桧の白木で作られている。台の形は、四角が一般的であるが丸い筒状のものもあるようだ。
    http://ameblo.jp/izumo-shintotsukawa/entry-11744162888.html
筆者が注目したいのは、三方にあいた穴である。「なぜ四方でなく三方なのか?」 この刳り穴は只の装飾とみる考えもあるようだが、はたして、そうであろうか? 一般的に言えば、仏具がきらびやかな装飾に進化しているのに対して、神具は一切の装飾を廃し、白木や白磁様の簡潔なものとなっている。このような供物台の制作の進化を考えると、皿・盆に足をつけ、高坏・たかつき状になっていく。なのに、台や胴部の内を空洞につくり、しかも、ジョウゴ状の刳り穴まで開けている厄介な造りになっている。素人的には、神に対して一切の汚れを落とし簡潔にしたいのなら棒状に切った木をくっ付けた形にすればいいと思うが? そのようにしていないのは、何かの意味があるのではないか。 
 <何を狙っているかというと> 
青面金剛さまや、Dr.いずも氏>が言われた「何やらの神を幽閉した」 とあるように“閉じ込めておく為の空洞ではないのか” それが悪しき神か、善なる神かは知らないが、歴史を遡ると、前述の“環状木柱列”で謎解きしたように「冬至の旭光=荒神」を招き入れ幽閉する為に背後だけには穴をあけずに三方とした。その光を包み込む為なら、その穴は木箱に入っている大黒様のように前方だけの穴あけでよいと思うが、それが推めない。 どなた様かご教示を!

 筆者の推理が正しければ、その咽首の円形地の “南東の方角にその坑道の入り口をふさいだ大岩”が現存していなければならないし、今、鷺浦でのお祭りで桧の丸太の“幟・のぼり”を立てているように、 “円形地の四方に掘っ立て柱の痕跡”がなければならない。そして、その坑道〈穴〉の中にそれぞれの象徴である勾玉と銅鏡と銅戈(も?)が埋まっているのは言うまでもない。蛇足ながら 『その穴の中で、銅鏡である大黒天様が、四千年前の冬至の朝に暴れた島根竜が二度と暴れないように鎮め守って下さって居ます』 ということだ。 但し、その探索や発掘によっての危険や、それより何より「神をも畏れぬフトドキ者めが」と、 “その祟り” を貴方さまが被っても、(スパイドラマ風^^!)当方は一切の責任が持てないので自己判断と自己責任でお願いします^^。 

その7. 坪背山、付名の不思議 
 さらに、この円形地の西〇mの所に坪背山がある。なぜ「坪背」と付名したのであろうか。少しこじつけになるかも知れないが、坪の字を分解すると「土を平たくした」にも読める。平たくした土俵の真ん中に鏡餅や盤座は置けない。そういえば、この近くに<太々山・だいだいやま>があった。これも今の橙・ミカンに関係するのかも知れない。「背」とは何かの後ろを意味する。後ろであれば、今の催事で金屏風を背にしているから屏風風の岩があるかも知れない? 鏡餅、それをお供えした三方・さんぼうの後ろの意か? そして、その岩が南東の向きであれば “武神”を刻むか、それらしき名前で言い伝えられているかも知れない。
 この冬至の旭光を銅鏡に招き入れ封印、あるいは入魂する考えは、環状木柱列・ウッドサークル 月別アーカイブ(2009/6月)
で前述したが、・・・まてよ・・・・、 大の字の左ハライ部の先に「大量の銅鐸が出土した加茂岩倉があるのではないか?」 ・・予想は的中した。その南東を指したハライ部の先に加茂岩倉があった。この問題は、大量の銅鐸を埋めた加茂岩倉が先か、銅戈と勾玉と銅鐸を封印した、この円形地「竜の咽首」が先か?に通じる。筆者は、確信はありませんが、①竜の咽首(銅戈・勾玉・銅鏡) ②加茂岩倉(大量の銅鐸) ③荒神谷遺跡(大量の銅剣)の順で封印したかと思います。

   その大祈祷は、冬至十夜に始まり、一月の松の明けまで続いたのでしょうか^-^?

その8.<では誰が埋めたのか> →<卑弥呼の謎解き その後と付言、そのⅡ.>を新設します。
 次の話は、推理とは言い難く、想像といった方がいいと思いますが、とお断りして・・・・、
筆者は、その銅鏡(出雲・鷺峠大文字の銅鏡)が出土するまでは、それが卑弥呼だと断定したくありませんが、おそらく卑弥呼だと? 卑弥呼は、竜神雨乞い文化が永々と続いていた瀬戸内の「里木」という所で生まれた。(ヒミコは一般名で櫛稲田姫?)後に卑弥呼と呼ばれるようになったこの子は、里木神社の祭神を父に持ち、やがて娘となり、出雲の男神に嫁いでいった。その仲人・媒体役をしたのが、高梁川の河口に住んでいた秦(はた・総社市)の人たちだ。この人たちは不老長寿の薬石を求め列島を探索した徐福のながれを持ち出雲とも陸路で通じていた。卑弥呼は幼少時から予知・予見能力が特にすぐれ、当地の長で大陸人とも交わりのある父の影響をうけて大陸文化の知識ももっていた。それが、当時の中央都市・八百万の神が集まるという出雲にも伝わり嫁?として請われたわけだ。

卑弥呼は、常々幼児を慈雨と交換する「雨乞い文化」に疑問をもっていた。時もおり、暁の空に現れた荒神・彗星を太陽のお使者だとし、それが全天に広がると予見し、その退散祈祷をおこなったことは、頭書ブログで述解している。この話しが、列島を股にかけ大陸との交易をおこなっている秦の人たちの手助けしている列島人を通じて全国的に広まった。もとより、幼児を生贄とした雨乞い・社会制度に、嫌気がさしていた人々は、卑弥呼の言う太陽主神説に容易に従う。 しかも、卑弥呼さまは、それまで使っていた銅鐸を太陽光を放つ銅鏡と交換して下さるという。この交換は出雲を始まりとし、その卑弥呼の出所の「里」でもある吉備地方へとなった。その吉備地方総社・岩屋に封印されている大量の銅鐸と、その周辺に埋められている銅剣は未だ発見されていない。

さらに、卑弥呼は東進し、神戸でも銅鐸を銅鏡に換える封印祈祷をおこなったと前述している。
<姫路の地名は>、卑弥呼が輿・こしに乗って千人(多人数の意)の従者を連れての大旅行に由来していると謎解きした。途中の人たちは、その卑弥呼さまのお輿を、「決して目にしてはならぬと地にひれ伏した」 なぜなら、不用意にそれを見てしまうと己の目が見えなくなってしまうと信じられていたからだ。この件は四千年前の東北に光臨した巨大隕石が放った閃光によって眼底がヤケドしたことに由来すると謎解きしている。それを魏志倭人伝では「虫のように草むらに隠れる」と称している。これは後の大名行列での土下座となった。 さらに、卑弥呼は野洲にもおもむき、ここでも銅鏡を与え大量の銅鐸と銅剣を封印した。しかしながら、神戸と野洲で大量の銅鐸は発見されているが、大量の銅剣のほうは未だ出土していない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて<ここからは、本邦初公開の素人探偵の大想像です(笑い)>
卑弥呼は、野洲からの帰路についた。・・・が、長の旅の疲れがドットでて箸墓でその命を終えた。弟子たちはその遺体を出雲まで、せめて出生地の吉備の里へと持ち帰りたいと思うのが心情だ。しかし、それは出来ない相談だ。そこで、この地に墓を築こうとなったのが箸墓古墳だ。当時は土葬が一般的であったが、卑弥呼さまは特別な人だから、火葬にしよう」となったのかも知れない。その分骨を帰路の吉備の総社でなしたのであろうか。吉備地方で古墳群・古墳期が発達したのは、その影響があったかとも思われる。

その後の歴史は、素人のまったく識らぬところであり、ましてや、邪馬台国論争には立ち入れるものではないが、卑弥呼が魏から受けた100枚の銅鏡のほかに長剣や金印がある。長剣はともかく金鑑は卑弥呼個人のものであり、他の人には用をなさないものである。当時に、それを押印する紙が一般的に出回っていたとは思えないし、旅先にまで、その金印は持ち歩かない。卑弥呼はその印鑑を出雲に残したままあの世に旅立った。その金印は、その分骨や遺品とともに埋めちゃえ^-^!となるのが、無理のない展開。 その円墳は出雲にある!! ・・・どうぞ、その探求を!!

最後に<卑弥呼の出所、誕生地>であるが、
先に、卑弥呼の生地として吉備地方をあげておいた。筆者は「吉備地方」をどこからどこまでを言うのかは知らない。倉敷市船穂町に里木貝塚を前にみる所に「里木神社」がある。詳しくは覚えていないが、このところの立て看板に、この神社の祭神を父に持つ娘(櫛稲田姫)が出雲の何やらの神に嫁いだと記されている。船穂町は、海抜5m~6mのところにあり、今では倉敷市に合併されている人口一万?に満たない小さな町である。その昔は海辺であったことから、道路施設前の「前田遺跡」の調査では、製塩に関係する土器が出たそうだ。この船穂地区を昨年の10月に絶版となった、拙著の電子出版、極秘報告書「巨大隕石と大津波」で “竜神雨乞い文化のモデル地区”だと提唱した。その理由は、わずか10km平方のところに竜神雨乞い文化に関係するすべての地名が具備されていたからである。

<后王>という地名の不思議
この船穂町北谷に<后王>という地名がある。皇后様の「后」であろうか。聞く範囲ではその読み方さえ知らない。とくに歴史的に取沙汰されることもないような、この小さな集落に「后」の字は大仰(おおぎょう)である。天皇さまの地名は各地で聞いたことがあるが、男社会のその昔からだとすると、女名のこの地名は大層すぎる。その谷あいに小さなため池があり、それにに付随して小さな祠はあるが、それとてどこにでも見かけるようなもので特筆すべきとは感じない。その地名が “淘汰されずに残っている” 事態に大きな違和感を感じる。それが、今の今まで残されているのは何かの訳がある。もし、ここが出雲へ嫁いだ卑弥呼の出所で、里木神社の祭神を父とし、卑弥呼の母御に由来するものであれば話しは面白くなってくる。ちなみに、この「后王」の地名は、国土地理院発行の船穂町の詳細地図で見つけたもので、その地に住んでおられる人さえ聞いたことがないような地名であった。 (以上、素人の本邦初発表でした。^^!
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

その9.冬至の旭光の封印儀式
このドンの首の円形地は、今から四千年前の巨大隕石が放った「冬至の旭光」である荒神を銅鏡に招き入れ幽閉する為の施設である。南東に向かう坑道を掘って前の晩から待機し、その日の出の瞬間の旭光が射すのを待ち受ける。そして、幕内力士が行う土俵入りの所作を思い出して頂きたい。両の手を挙げてその光を招き入れ柏手を打つ。皆さんは、その後の所作で “化粧まわしを掴みあげてストンと降ろす所作”に不思議を感じませんかぁ。しかも一度だけ? 寂しすぎるし、なにか拍子抜けに感じる。わたしなら二度三度と上げ下げして派手にやりたい(笑い)。それは絶対しないで下さい。せっかく取り入れた光神様が逃げ出してしまいますから。

 前述の富山県や石川県にある環状木柱列(ウッドサークル)の記事を読み返して頂きたい。 
東南部の入り口の柱の上に横木が復元されていた。そして、岡山県倉敷市船穂町の高量山の記事ではその旭光の “影をつくるため” のノボリが立てられていたと推理した。であるならば、ここ出雲でも、そのような柱が(北緯〇〇度、東経〇〇度)あたりに立てられていた筈である。その掘っ立て穴の跡を是非に発見けたい。
鏡餅形の南東部の坑道には古墳形式の石の門構えが為されていて、その門は大石の扉で、決して開けてはならずと閉ざされている。さらに、その上には土を被せていると思われるが千〇百年の時を経て、その表土は、青面金剛さま>の言われたように薄くなっているかも知れない。
ここ出雲の“ドンの首”は、それらの歴史の始まりである。祖先からは、そのように伝聞している。
  筆者の言うような施設が、
       そこになければ今、私たちが行っている歴史・大文字はないと断言できる

さて、貴方さまは、それが出たら騒ぐタイプですか^^? それとも、今ほかの事が忙しくて、そんなことには関心がない方ですか。いやいや、そこは墓泥棒も恐れたところ 『触らぬ神に祟りなし』、その祟りが恐ろしいから近づかない方がいい、と思われるお方なのでしょうか。(笑い)

その10. 以降は、皆様にお譲りします。・・・、 今回はとりあえずこれまでにします・・・・^^!  ('17/8/15)□

    ・・・ 貴方さま>の情報をお待ちしています。・・・・^^、
青面金剛さま>貴重な情報をありがとう御座いました。
    おかげさまでより深く追求することが出来ました。 今後もよろしくお願いいたします。



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出雲の巨大竜を縛り付けている銅戈(どうか)&勾玉を捜せ!のⅢ
 そのお宝が出土してから騒ぐより、その出土前を楽しみませんか(^-~♪)
ご訪問ありがとう御座います^^。
  しばらくのあいだ、次のようなお手紙を添えてこの記事の送信活動にうつります。


  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
01~ [宛  先] 〒000-0000                             May 12, 2017
□□市 ○○町 津々浦々 1-4         初 便  2007年 3月 14日
       歴男歴女                                今回便 2017年 5月 09日
このブログを御覧の貴方様                                         
                         (喧騒を逃れる為、身分秘匿の無礼をどうかお許し下さい)
                                 (差出人) 史実探偵  平(ヒイラ)素人(モト)
                        http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-17.html

 1 □□市○○ 考古学関係  様
 2. 其の他、関係する学会  様
 3. 観光資源開発担当  様  侍史、                                 
 4. 謎とロマン探求 大好き 様    NO: 00 其の他関係機関様(未定です^^!) (順不同)
     素人探偵局(ブログ)を開設しています^^!。
    < 吉備にも大量の銅剣と銅鐸が埋めてある!>→出雲と同様な方法で^^、
    <吉備の大量の銅鐸を画策その1 & 2>
     に続き、<卑弥呼が縛り付けた出雲半島・巨大竜> を今回お送りします。
    東風来らば 想いおこせよ “大事変” 私(卑弥呼)亡くとも 竜神忘るな (パクリ^^)
   この<記事>を先様が“回覧、コピー喧伝される”のは自由です。
    各機関の皆様がコラボしてさらなる観光資産 及び、学問に発展させて頂ければ幸いです。
     (以上同文)
Dear Sir,  古代歴史探求と、謎とロマン探求の 大好きな 貴方様
  前略を失礼いたします。前記事はいかがでしたでしょうか。貴家さま>には第○便になります。
残念なことながら、実績や肩書きの無い素人の話等、sigechan izumo 様>を除いて世間の
どなた様からも相手にされず 無視されています(笑い)。 一方通行無しのツブテ状態です^^!。
今回の謎解き、『出雲半島の頭部に未出土の銅戈と大勾玉あり』の件は、1%の欠損もありません。
私が、このような強い言葉でいえるのは、数多くの先様や、ご先祖様からの情報と、Dr.いずも氏>
の御教示から導きだされた賜ものがあるからです。素人のいうように命主社と同様な埋め方で、
鷺峠と、伊奈西波岐神社の裏手から、その銅戈と勾玉が出土すれば、十年来、この方 相手にして
下さらなかった専門家や貴方さまは、どんな顔をなさり 「なんと云わはる?」 のでしょうか(^-^!)。

  しかしながら、現実にそれを掘り上げるとなると、文化財保護法やら、地主様の了解やら、その
調査発掘の費用を誰がもつか等の諸問題が 発生してきます。素人が、スコップとツルハシ担いで
という分けにはいかないのです。それを掘り上げるには、マスコミの参加やら、専門家と行政のコラ
ボがあってのみ成せることのように思います。先様が “それに気付き” さえすれば簡単なこと。
まずはそれを掘り上げたい。この件は考古学のみならず、多くの歴史が関係しています。それ等を
統合し学問に昇華させるには、各分野の専門家の御参加と協力が必要かと思います。
 今回は、命主社での出土の詳細が分かれば金属探知機を使って「予備調査をした後での発掘」
が可能であり、費用の面においても大変安あがりですみます^^ 。 ー卑弥呼が関係しています。ー
くれぐれも学術調査なしの現状破壊は厳しく慎まねばなりません。そんな早急な貴方さま>には、
まだ大の字のハライ部の謎解きが残っていますので、そちらの方の解明をお勧めします。
ちなみに、この件の100%は、素人探偵の机上論であり、私は現地を訪れたことがありません^^!。
 そのお宝が出土してから騒ぐより、その出土前を楽しみませんか(^-~♪)

 <是非に貴方様>の御参加を希望します。
尚、わたしが御高配を頂いている Blog 名 (いずものこころ) Dr.いずも氏は、ブログのみのお付き
合いではありますが、氏の御教示がなかったら、この記事は成しえなかったことであり、ここに多大
の敬意と感謝を申し上げます。
                          乱文ご容赦、      史実探偵 平 素人 拝、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


出雲の巨大竜を縛り付けている銅戈(どうか)&勾玉を捜せ!のⅢ
           乞うご参加!          →掘り上げろ!     (2017/4/ 09~30

<初めて、ご訪問のお方様に>
ご訪問ありがとう御座います。このブログで掲載している記事のすべては関連モノです。その後シリーズでは、その要旨や言葉足らずのところを書き足しています。 興味が湧いた方は “ふりだし”から、どうぞ(但し、お暇な方に限ります^^)。 お勧めは、カテゴリー別で入って下さると読みやすいかも知れません。 尚、コメントは、後々(の世^^!)まで残るものであり、本になるやも知れませんので、真に勝手ではありますが、その時には当方が、そのコメントを無償で使用出来ることを 御了解されたものとして扱います。 なぜこのようなことを申し上げているかというと 「 先で、この『広報』を妨げる要因は一切取りのぞいておきたいからです」。御一緒に、そのコメントを歴史に刻み、その“出土前を楽しみ”ませんか? コメントお待ちしています。(^-^)♪
但し、内輪のご連絡や、それが嫌なお方様は管理者のみでどうぞ^^     (敬白) 史実探偵: 平 素人



 <本文>ここからが、この記事の本文です。
まず、最初にお断りしておきますが私は歴史のことを殆んど知らない。それがあろうことか四千年まえの青森県竜飛崎を経由し釜石あたりに降臨した巨大隕石が、祖先の心に竜紳として入り込んだことを知り(詳しくは当ブログの最初から)、以来、地名という祖先からのメッセージをたぐり史実探偵を名乗っています。表題は、そのⅠとⅡの続きです。

こども心と、遊び心に始まった “大捜索”は、Dr.いずも氏の、次の一信>から始まった!

いずも氏は、ブログ 『いずものこころ』 を開設され 私の歴史の知識の三分の二以上を占める大先生でもあり、尊敬をこめて Dr.>と御呼びしています。そのご教示を仰ぎながら四千年前の竜神にからめ地名という祖先からの伝言をもとにして推理探索してきましたが中途半端なところで終わっていました。今一度そのⅠ&Ⅱの考えを反すうしたり改めたりしながら深めていきたいと思います。Dr.とやり取りの詳細は、Ⅰ&Ⅱにありますので、どうぞそちらでお楽しみ下さい。氏のブログは、プレビューにその大勾玉を貼っておられます^^。 拙ブログのリンク管理者の上にあります。

お願い  shigechanizumo | URL | 2008-09-16-Tue 16:40 [EDIT]
「平成20年2月29日長野県埋蔵文化財センターは、中野市の柳沢遺跡で先月中旬に「銅戈」(どう か)2本が出土したのに続いて、新たに「銅鐸」(どうたく)の破片2点と「銅戈」5本が出土したとして(9月)1日、発掘調査現場で記者会見し、発表した。」
 この記事について、平さんの率直なコメントが頂けるとうれしいです。


 shigechanizumo | URL | 2008-09-18(木)-午前 9:53 [EDIT]
先に、「出雲でも銅戈の発見が心待ちです。」としましたが、正確には、出雲大社の東側の命主神社の大岩の下から、このblogの上の写真にあるヒスイの勾玉(重要文化財)と一緒に、かなり質の良い銅戈が出土しています。しかし、上田正昭先生などに言わせれば、出雲には銅矛・銅剣と同じように大量の銅戈が埋もれているはずだということですが、まだ大量銅戈は見つかっていないのです。平さん、是非発見を・・・お願いします。

< これを受けて、・・・^^>
卑弥呼は、それまでの稚児の生贄を伴った銅鐸・雨乞い文化を 「降雨を司るのは、竜荒神ではなくて太陽神だ!」として、魏から得た100枚の銅鏡を太陽の象徴だとし、それを分け与えて、それまで使用してきた「荒神を呼び寄せるため銅鐸と稚児を殺めた銅剣」を人里離れた「岩」の付く場所や谷あいに「二度と使わないとして」封印し、埋めた埋めさせた。銅鐸と銅剣を二山越えに離して埋めたのは誤って銅鐸に呼び寄せられた荒神にその銅剣を持たせない為である。時もおり、彗星のニアミスや皆既日食とかさなり、雨乞いのため(七・五・三歳の)愛児を生贄として差し出す社会制度に不満がうっせきしていた人々は、卑弥呼の提唱する銅鏡太陽神文化へと容易に変わってゆく・・。その100枚の銅鏡を分け与えて大量の銅鐸と銅剣の埋めた場所は “出雲と、吉備と、神戸と、野洲” だった。(その詳しくは、カテゴリー「この指とまれ」へどうぞ)

 しかし、四千年前(BC.2001年)に東北に降臨した巨大隕石が発した巨大地震と大津波に乗って波打った長さ約60km幅5km出雲半島・巨大竜が、又暴れだしては困る。こいつを何とかして,“大人しく”させておかないとならない。そこで考えだされたのが、ガリバーと小人のように大の字に寝かせて、縛り付けておくことになった。実際にそのように(大注連に)したか、形式的にしたかどうかは分からないが、その時使用した荒縄は出雲大社の西にある奉納神社で保管したかと推理した。この歴史の覚醒は(この言葉はDr.いずも氏のものです^^)、今の大社の大注連縄(しめなわ)となっている。
 そして、縄だけでは心許ないから当時の最新鋭で大陸からの武器である銅戈を“大の字”の要所に打ち付けることにした。これは、後には五寸釘でワラ人形を打ち付ける呪術へと移行した。五寸の長さにしたのは四寸。つまり、奴は強大だ。並みのやり方で、又起き出しては困る。死(し)寸を超えるほどの強力なものでないといけないからだ。このように、今私たちが成している行為や聞き伝えに、その謎解きのカギは潜んでいる。
   (これ等の詳しくは、カテゴリー「出雲地方」へどうぞ)

島根半島の“大の字”の要所に『〆(シメ)縄で縛り付けよう』となった。それが下記の図です。

  ⅰ 島根半島・出雲竜の概略図 (銅戈を捜せの・Ⅰ&Ⅱより)
      【出雲竜の頭部】                     【足部】         【尾部】   
       <卍?宮?>   猪の目                                  
 (口部)宇龍  ↑ 竜山                      (島根町)?             
日御碕    鷺峠  ←_______約60km______枕木山___ → 地蔵崎
   八雲山  ↑ 弥山                             ムラクモノ剣?
  <出雲大社>                         <松江>?
          ↑(首部)
      <命主社>勾玉&銅戈の出土(寛文5年 1665)
    原山遺跡   菱根池  出雲井神社
   <富>家・墓地  (蛇池)   (賽の神)
     下照姫    赤牛    道案内       出雲山(小高い赤土の山)

ⅱ Dr.いずも氏の付言 ⑦ に、(2008-11-14-Fri10:44)  
⑦蛇足ですが、「出雲井神社」の宮司さんは、以前は「富」家という位の高い社家が受け持っていました。その富家の後継の人によると、出雲井神社の神は、出雲大社の裏手3kmの山中にある鵜峠(うど)銅山の坑道に封じ込められて、大岩で出口をふさがれて憤死したのだと言っていらっしゃいます。富といえば「トミ」=「蛇」なのです。社紋は亀甲紋の中に、何と交差した大根なのです。何を意味するのでしょうか・・・。出雲の熊野大社の神紋は亀甲の中に「大」とあります。大社の「大」と思っていますが、ひょっとして大根の「大」なのかもしてません。とあります。

竜と銅・第八弾   shigechanizumo | URL | 2009-01-23-Fri 10:02
・・・、出雲竜の話では、出雲竜は真ん中の止め釘と、四方の止め釘とでつなぎ止められているのです。そして出雲竜は島根半島なのです。この類似は、国引き神話の発生は、その根源に出雲竜が島根半島としてつなぎ止められたという、始原の記憶に基づくものなのではないでしょうか。

<これ等をもとに>思考錯誤をかさねてきた。
   ↓記事 出雲竜を縛り付けている銅戈を捜せ!のⅡより、
<大の字の一文字部> 出雲竜の首っ玉の三ヶ所は、
   1.命主社の大岩の下   銅戈(どうか)と、ヒスイの勾玉!→寛文5年(1665)に発掘!
   2.鷺峠に大岩の有無?     銅戈とヒスイの勾玉   →  未発見・未発掘です♪
   3.鷺浦町の ?神社(大岩?) 銅戈とヒスイの勾玉   →  未発見・未発掘です♪
<大の字のハライ部> 出雲竜・後足部の二ヶ所!
   4.日本海側の大岩下   恵曇神社(Dr)?,島根? 銅戈と、鉄球!? → 未定です♪
   5.松江市側の大岩下   城辺りと思われるが??  銅戈と、鉄球!? → 未定です♪
    と、推定していました。 キーワードは、『大岩の下』です。  □
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<その銅戈とヒスイの大勾玉は大岩の下に埋められている>
        ここからが、今回の記事で、例によって追記形式ではじめます^^!。

その1.<命主社の大岩の下>で、
  その情報をいま少し集めてみよう。
寛文5年(1665)に、出雲大社の石垣を造営するために、大社から東に歩いて10分足らずのところにある命主社(いのちぬしのやしろ)の本殿の裏の大岩を割り砕いていたところ、その下から銅戈(どうか)とヒスイの大勾玉が出土した。現在それは出雲大社の宝物殿に収められていて、そのレプリカは、出雲古代史博物館に展示されているそうです。
<命主社について>
     「Mac遊びの昼食」の <たねち様>よりの、承諾を頂いて再度掲載しています。
場所は、古代出雲歴史博物館の北側 (大社町字森で、出雲大社東500m)
     民家の間にあって目立たないので行き過ぎかけてしまいました。
祭神は、神産巣日神(かみむすびの神)。造化三神の一柱で、小さいですが、その名に恥じない立派な大社造りの社です。


出雲観光協会公式ホームページ https://www.izumo-kankou.gr.jp/254 命主社より、
  出雲大社の摂社  
正式な名称は「神魂伊能知奴志神社(かみむすびいのちぬしのかみのやしろ)」で天地開闢(世界のはじまり)の造化三神の一柱、神皇産霊神(かみむすびのかみ)が祀られています。
巨岩の前に建てられていることから、古代の磐座(いわくら。神の御座所。自然の巨石をさす場合が多い)が神社に発展した例として貴重な神社です。
寛文5年(1665)の出雲大社御造営にあたり、命主社の裏の大石を石材として切り出したところ、下から銅戈(どうか)と硬玉製勾玉(こうぎょくせいまがたま)が発見されました。
※銅戈 = クリス杉、長さ33.7ミリ、幅10.3ミリ。茎(まがご)が短くて身に対し斜めに関(まち)がついている。
※勾玉 = 長さ3.6ミリ、厚さ9.9ミリ、半透明濃緑色の硬玉。穿孔が大きく孔は一方から穿たれたもの。( 注: ミリはセンチの間違いか^^?)


<以下の表記を考える>
命主社は裏の巨岩の前に建てられている
命主社の裏の大石を石材として切り出した
古代の磐座(いわくら。神の御座所。自然の巨石をさす場合が多い) ・・・等、とある。

筆者は当地を訪れたことがありません。
巨岩か、大石か、磐座かの三つの言葉には、微妙な意味の違いがある。巨岩だといえば山の基岩の意を含むし、大岩だといえば、せいぜい10m程度か。そして磐座だといえば、2~3m程度の大きさで(?)、当時の人が動かせない大きさではではない。知りうる仏閣では,しめ縄をめぐらしていた。筆者は、当初「銅戈を釘のごとくに打ち付ける役目の意」の盤座の大きさだと思っていたが、巨岩の表記があることから、どうやらそれが実態のようだ。巨岩か?盤座か?の大きさで、その埋め方は大きく変わってくる。巨岩だと、その側面に沿わして埋める。盤座だと銅戈とその勾玉を埋めてその上に盤座を載せて押さえつけておきたい。もっとも、後には四国の石鎚山やら、瀬戸内海の大槌島へとその信仰の対称は大きくなっている。

「巨岩」であるならば石垣造営のために相当量切り出していると思われるから、その銅戈と勾玉がどこに、どの深さで埋めてあったか推定しづらくなるが、概ねは社(やしろ)の真後ろであろうか。いずれにしても、「 どのような状態で出土したか?」 それを正確に知りたい。この埋め方は、他のヶ所の埋め方にも通じるからだ。・・・記録に残っているといいのですが・・・。

<その埋めた深さについて考えてみよう>
以前の謎解きで銅鐸や、銅剣の埋めた深さを四尺だとしたことがある。これは「四」は「死」につうじ、当時の男子の平均身長を五尺として、その肩先の高さが四尺で、それ以上深く掘ると顔に土がかかり掘りづらくなるからだとした。土葬などは概ねこの深さに掘る。この比較的浅いといえる深さにも関わらず、それ等が盗掘に合わなかったのは墓泥棒も恐れるほどの“タタリ”があると信じられていたからだ。実際、先の <たねち様>の言では、「民家の間にあって目立たないので行き過ぎかけてしまいました」とある。このようにその参道が細いのは、そこが近寄ってはならないほどの恐ろしき場所であったからだ。それが今では? とほほのホ・・・、グーグルアースで参拝できます^^!。

 しかし、ここで難しい問題が生じて来た。この命主社の前方にある根上がりの大楠木だ。樹齢およそ○千年。幹周り、およそ○m。根上がり、およそ2m。根上がりとは。樹木の生えていた表土が流れてだんだんと根の部分が表われてくることをいう。盆栽などは、その趣をだすために植え替えのたびに根の部分を持ち上げて植える。このように、「根上がり」とは、年月をかけて除々に表土が流れ去るか、取られるかがないかぎり見えてこない。樹木の直根は種類にもよるが1.5m~2m。幼木で、短期にその深さの根が空気中に晒されれば樹木はかれてしまう。そして、銅戈や勾玉が、筆者がいう四尺の深さに埋められていたならば、その深さは浅くなってくる。さらに、どこやらで「何やらを倍の深さに埋めたが、未だその声鳴りやまず」との文面をみたが、この深さだと金属探知機もきかない。いずれにしても、この大楠木の根上がりになった年月は解明されなければならない。

<銅戈について>
詳しくは、先様に譲りますが、筆者は銅戈というものを知りませんでした。
写真に載せられるといいのですが、銅矛の進化形のようで、矛の根の方に関(まち)という両刃の鎌状のものが付いていて、戦闘時に、突いたり、相手の首を掻きとるための恐ろしい兵具のようです。当時の最先端の兵具だったのでしょう。この首を掻きとることからと勾玉・首飾りで、祖先はその埋め場所を「竜の首部だとした」と推察しました。

一方の<勾玉について>
この勾玉があることからも、「竜の首だ」と導きだしました。(勾玉と銅戈のセットは出雲だけ?)
さらに勾玉を竜の「首飾り」だとすれば、その一ヶ所だけとは考えられないことから、鷺峠と、日本海側の社寺にも、同様に埋められているはずだとしたところで終わっていました。
長さ3.6ミリ、厚さ9.9ミリ、の大きさはセンチの勘違いと思われますが、とても立派なものである。古来より中国でのヒスイはとても珍重され、半透明で雲のかかる空と見えるものがもっとも上質だと聞いたことがある。それはただ単にその石の美しさだけではなく。この石に神秘性を感じたのでしょうか。この石に髪の毛を巻きつけてライターの火をあてても燃えないことから、ミゾオチへあたる首飾りにするとか、腕輪にしておくと病熱を奪ってくれるそうだ。そして、この石は硬石ともいわれるように、とても硬く(○度)細工がしずらい。その硬い石で「穿孔が大きく」あけられていることは、その技術の高さをあらわす。命主社から出土した銅戈と、その勾玉は、最高品質のもので最新兵器が使われている。この思いは、祖先がいかに島根半島・巨大竜を強大に思っていたかに通じる。当時の列島にそれ等を製作する技術はなく。大陸からの輸入か大陸人の技術によるものと思える。当時でも舶来品は別格だったのでしょうね(笑い)。

<四千年前の島根半島・出雲竜が受けた大事変の概略>
①この詳しくは、このカテゴリーで述べていますが、東北からの巨大津波と大地震は中海の入り口へ土砂・弓ヶ浜を積み上げシャットアウトした。(津波高さ約20m以上?の片V字湾奥津波: 筆者提唱 )
②その大地震と大津波は、当時海のなかに浮かんでいた島根半島を蛇のようにくねらせ、破砕半島にした。(Dr.いずも氏言、「今はありませんが子牛ほどの銅鉱石がゴロゴロしていた」)
  *地震波は、列島に沿う島のような小さい山塊により大きく作用する。 (これも筆者提唱 )
  例:島根半島(カテゴリー出雲地方)、宮島(アーカイブ00/00)、小豆島等、信仰の対象!
③日御碕の灯台下の玄武岩柱ありは(Dr.いずも氏言)。 蛇の尾っぽのごとく、激しく上下して、列島に沿う日本海グリーンタフラインを刺激してマグマが噴出した。(地震の船尾効果:島根半島をマントルに浮いた船に例えて、地震進行方向の末尾では、地震力は次へ伝わるものがないことからその端で大きく上下すること。←筆者提唱(日御碕の海底階段遺跡アクア工房岡本哲夫氏発見)
 *列島・巨船は、太平洋プレートによって、たえず日本海側へ押し付けられており日本海側でもその圧縮力と圧縮熱は蓄積される。(筆者論 )このことから、岩石に比べて比熱の小さい金属鉱石は温まり易く熔け易いので上昇しやすい。例;石見銀山、佐渡の金鉱、
④松江市の茶臼山あたりは、津波が縮流となって、顕著な流紋痕を残している。縮流とは流れが狭められて、その破壊力が増すこと。例:長野県の寝覚ノ床のように、
⑤其の他、三瓶山の噴火の誘発はこの時の地震で、三瓶山の埋没林は、この時の日本海沿岸津波でなった。彗星衝突による『縄文超々巨大津波』 文芸社(奥州市・岩淵國人先生)
  ちなみに、筆者は鳥取の砂丘もこの時に出来たかと疑っています^^!。
⑥BC2001年、北陸・三陸地方巨大隕石→隕石の冬10℃~15・6℃の降下。5m~6mの海退。(これも筆者独自論です→拙ブログ: カテゴリー巨大隕石と大津波)

かの昔の人達は、以上のような大事変を体験し、その歴史を伝承してきたが、江戸の初期。寛文5年(1665)今から350年ほど前には、その恐ろしさをすっかり忘れ、バチ当たりにも命主神社の巨石を砕き採るとは!! かく言う、今日の史学からも、常識外扱いされてます!^-^!

その2.<日本海側の大岩の下>で、
大文字の一文字部分の止め部にあたる日本海には、卍と御宮の二つがあり、どちらか決めかねていた。この度、ネットで調べると文殊院と伊奈西波岐神社であった。さらにグーグルアースでその神社を子細に訪問(?)してみれば、その鳥居の前に台座の上に何やら大きな石が据えてある。本殿は大社造りとある。ひるがえって命主社も大社造りであった。この裏手に大石はあるのか?
色々ネット上を調べてはみたが分からない。さらに、鳥居の前方に立ち(グーグルアース・ストリートビューで^^!)その後方をみたが雲がかかってよく見えない。何をに見当を付けているかというと、その後方に前々の謎解きで、この地に<竜山>の地名があったからだ。島根半島を竜の全身としたならば、住家の大半がある出雲平野から見える<鼻高山>か<弥山みせん>に、私ならその一番大事な、「竜」の山名を付ける。なのに、何のへんてつもない?人家から遠くのこの山に「竜の名」を冠したのがよく解からなかった。さらに詳しく調べると、鳥居から見てその真後ろに竜山はあった。文殊院から見ればその頂はよく見えるのかも知れない。その銅戈と勾玉を埋めた場所は、本堂の裏に大岩があれば、そこであろう。無ければ竜山の麓になる。この竜山に付いては後ほどに^^!

その3.<鷺峠に大岩はあるのか?> それを捜せ!
鷺峠の地名は大の字の一文字を書いて、左右のハライ部の起点にある。蛇足ながら神主や行者さまが「払えたまえ」とやるところでもある。奈良の大文字焼きはその後の歴史の流れかと。
 この峠をストリートビューで何度も行き来してみるが、それらしき大岩が見当たらない。峠の辻には、峠茶屋や峠を記す石碑がよくあるものだがそれもないようだ。わずかに建物の印があり、この度よく調べると、「出雲動物管理センター」であった。この道沿いには人家や畑も見えないようだ。概してさびしいところである。この私の見当違いであったのか?。もし、この素人探偵の推理が当たっていれば、祖先は必ずその痕跡か、言い伝えを遺しているはずだ。さらに、この辺りの山をストリートビューやら、グーグルアースのアップダウンを繰り返してみると・・!? この峠のすぐそばにある小高い山から伊奈西波岐神社方面を見ると鷺浦の湾が見えた!!

  ならば、反対側の大社方面も見えるはずだ! 推みは間違っていなかった。大社への直線参道が正面に見える。真南より少しずれているのは、地軸の傾きからくるズレかも知れない。千年もの永きに渡れば真北はズレてくる。国土地理院ではある年月で緯度経度を修正する。逆算すれば、その直線参道が何時引かれたかが判ってくる。 

*卑弥呼は、この峠山に立ち日没から深夜まで封印の大祈祷をおこなった。
人数は、少なく見積もって2030人、向きは日没の西方向だ。その人数が立てる広場を探せ!  国土地理院 <35°24′54.79″N,  132°40′53.26″E, h345m。> 
その上に盤座が据えてあるのか?地図では二武神がシコを踏んだ土俵のようにも見えるが? 
 この小高い山の名が分からないので仮に「竜の咽首」とでも呼んでおきましょうか^-^!。

    <咽首(仮称^^!)から鷺浦の湾を眺める>Google earth 350m高さよりの写真
            のど首より鷺浦方面
  <咽首(仮称^^!)から出雲大社方面を眺める>Google earth 350m高さよりの写真
            のど首より大社方面

<竜山について考える>
「竜」の地名は、調べるかぎり、この半島には見当たらない。「竜」の山名は、その大事変の この大祈祷の要(かなめ)である。・・・さかのぼってDr.>とのやりとりで 「出雲には、地元の人しか言わない火山性の盛り上がりや、噴出岩と思われるものがある。その一つに日御碕の灯台は玄武岩柱の上に建っています。」 釜石辺りに降臨した巨大隕石は列島を揺るがし、太平洋側から日本海側へ押し付けられている巨船に例えた列島のストレスを連鎖的に解き放った!岩手山、箱根山の崩落、三つに重なった若草山、滋賀県の接触変質地帯、小豆島の断層、宮島弥山の崩落、そして三瓶山の噴火(Dr.言)。さらに、日御碕の海底階段。これ等は、タイムラグもあるでしょうが“四千年前の大事変”に起因するものではないでしょうか。(この詳しくは別紙で)だとすると『島根半島の竜山は、その時の盛り上がりであり、その熱後々までも冷めやらず“出雲”していた!』 それが出雲の始まりだ!何かの異変がなければ、祖先はこのへんてつも無い山に竜の字は付けない。病魔に侵されたお殿様のハチマキは垂れ下がっているよね(笑い)。ひょっとしたらこの山の南の断層と見えるところで、マグマの地熱と激しく上下に擦れた岩塊とで発火したのかも知れない。ならば祖先は「竜が火を噴いた!」と思うに違いない。別述の宮島の弥山(みせん)や、滋賀県綿向山麓接触変質地帯でも同様なことがおこり山火事が発生したかとした。だとすれば、その境界あたりで筆者が提唱するような根炭(ねずみ;地中低温炭化)か、溶融岩の白色脈帯(石英脈等)が見つかればいいのですが^^!

『 その〆縄を解いて、わし(島根竜)を起こすと、大変なことになるぞ! 覚悟してかかれぃ!』
ご先祖さまから受けたこの伝言には1%の欠損もない!
「さて、貴方さま」は、どうされますぅ^^?
        出る前を楽しむ。それとも、出てから参加する!
 三択の① それ自体興味もなく、史学にないことであり相手にしない~~!。
      ② もし言うように、出土したら考えなおし騒ぎたてる^^! 
      ③ 目からうろこ、大の字のハライ部の探索に挑戦したい^^


私のような常識はずれで史学にない突飛論を言う人は、世に数限りなくいる。それが史実かどうかに “気付き見極める”ほうが何万倍も、それ以上倍も難しい。まずは貴方さまが、行政が、そして専門家が動いて下さらない限り前には進まない。 素人が 「ここぞと指差しても」 それを掘り上げることが出来なかった十年の過去がある^^!。 まずは、命主社に埋められていた銅戈と勾玉の詳しい状態を知りたい。 他のヶ所もそれと同じ方法で埋められている。  完

<↓ コメント掲載欄^^>
あなた様のコメントをお待ちしています^^!。

 (5/14)  平 素人
鷺峠の咽首<35°24′54.79″N,  132°40′53.26″E, h345m。>には、盤座があるのか?
それとも、円形土俵の形に設えてあるのか? 筆者は、それが知りたい。
土俵様に設えてあるならば、その中心下に何かを埋める。・・であるならば、今、国技館での
土俵設営時の神事には、銅戈や、勾玉に関係するものが埋められていないか?
  何方さま>か、 それを教えて頂けませんか^^!






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日々必ず訪問してくださる何方さま、他さま>
ありがとう御座います^^。この記事をもってしばらくのあいだ通信活動にうつります。
4/30でこの記事を完了しました^^!
尚、この記事は、先述の Dr.izumo氏>の依頼と、御教示がなくては成らなかったものであり、Dr.>に敬意をこめて深く感謝を申し上げます。Dr.>とのやりとりが、下記の関連記事にありますので、そちらでもお楽しみくだされば幸いです。
史実探偵局開設
        史実探偵局開設しています。
               ( since 09/4/2014 ~)

       Welcome to my blog (Historical fact Detective Station).
       I'm sorry, my English translation does not have confidence^^!. 
       Please come to a Category; Huge Meteorite(6), Big Game(9).
       I do not understand it^^!. Why you do not understand the trace
       of such the clear tsunami in Google earth.

                   I wait for your request. 

お知らせ:  更新がないにも関わらず、度のご訪問ありがとう御座います。
  3/21 「古代史掲示板」 さまに投稿しました。よろしかったらそちらへ、どうぞ^^。

   http://8220.teacup.com/toraijin/bbs

M ー 様> '17/4/07 コメント欄より、
コンタクトありがとう御座います。諦めかけていたので身に余る喜びです。素人の拙い記事のどの部分が、貴方さまのご琴線に触れることができたのでしょうか。その気付かれた思いにつきまして心ゆくまで話し合いたいものです。後日れんらく致します。記事ではmyブログのカテゴリーBig game(9)の後ろからがお勧めです^^!。
 


 ('17/01/01) 探偵局 再開しました。~~
     「 ここ掘れワンワン^^♪」
         You must dig here.
bow wow^^.
           あんず
  Nice to meet you. My name is Anzu. ⇒ This way Please.「ゲスト様Ⅱの末^^」
  散歩中 「アンちゃん、何んでも拾って食べたらダメよッ!」 見ればサビた百円玉♪
  別の日 「アンちゃん、ダメよッ! ・・・??」 見ればサビた十円玉 ^^♪
  さて次は、どこで何を探し出してくれるのでしょうか^-^?  Give me a job^^.
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<新しいお客様へ、>
* 「卑弥呼が埋めた・させている大量の銅剣銅鐸」は、カテゴリー「この指とまれ!」へどうぞ!
記事は独立の形式をとっていますが、全てへ関連した続きモノです。← カテゴリー別(クリック)で御覧になると読みやすいかも知れません。(^-^!)長駄文あります要注意~~!
* 「BC2001年12月25日未明の6時頃、東北に降臨した巨大隕石と大津波」について、  
わたしが世界のなかでたった二人と(Only two)尊敬している岩淵先生がおられます。 氏と知り合ったのは、拙ブログのアーカイブ '08/10/1 「奥州・胆沢扇状地は北上山地越えの巨大津波が運んだ堆積土丘だ!」がご縁でした。医学博士ですが多岐にわたって卓越した見識の持ち主で、'13.1/15 文芸社から彗星衝突による縄文超々巨大津波』 を出されています。御本は私とちがい専門家の視点に充分かなうものと思います。是非にご覧になることをお勧めします。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       拙;電子出版 極秘報告書「巨大隕石と大津波」文芸社               
        ↑上記の電子出版は契約切れで絶版となりました。               
     サイトアップ(2005/8/15~2016/10/21)で、買って下さった方14冊^-^! 
     こういった極大論 『南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ!』 は、没後に認め 
     られるが世の常~~!、 それまで大事に保管っといて下さいネ^^。             
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 <これからのお仕事、お受け致します。>^^!
            赤貧の素人探偵にお仕事を^^!
              I wait for your request.
  ただし、素人の可能分野で、その時の気分しだいでお受けします。<応談^^>
  私は、探偵であり逮捕権を持つ警察や検察ではありませんので、『ヒントのみ』とし、
  その先の探索は、お客さまがなさって下さい。
報酬は成功報酬で<五円~ ∞>お客様が決めて下さい。ただし損金時の全てはお客様もち!
尚、この件につきましては、当方一切の責任を持ちませんので悪しからずの<御了承後>での御依頼として下さい。御依頼は 当ブログ公開、非公開(管理者のみ のどちらでもお受けしますが、非公開の場合は、当方マネージャーのブラックジャック(黒孔雀)が、絡みますのでお高くつく場合があります(^-^!)  

お受けできる Mission その1.宝物探し
   * 日本国内でダイヤモンド探し??
お受けできる Mission その2.
   * 油田探し^^?
     Do you want an oil field? I will help with the discovery.
お受けできる Mission その3.
   * レアアース(希土類)探し^^?
     Do you need rare earth elements? I will help with the discovery.
お受けできる Mission その4.
   * 隕石痕と隕石探し^^!
     隕鉄から造った刃物を見ましたがとても美しい組織をしていました。


(尚) 仕事の詳細は<カテゴリー記事>のほうへ、どうぞ^^!
素人探偵の<Big Job^^.の 1.>
南極大陸は、6500万年前の衝突惑星だ!!
その衝突によって地球の90%以上を覆う巨大津波が発生し、ゴビ砂漠西部あたりには、特に、その流紋を残している。タクラマカン砂漠は、その津波で運ばれた海水の巨大干湖だ!!
その流紋は Google Earth の、ダウンロード (無料~~?) によって、克明に観察できる。
Google Earth>は、軍事情報を得るために開発されたが、今では、誰もが簡単にPC画面に入手でき地球を自在に操れるすぐれものだ。国内はもちろん、諸外国のナビ等にも、さまざまに利用できるので是非にお勧めしたい。
 まずは、それを入手して筆者の言う、その痕跡を確かめて欲しい。その流紋を確かめるのに、素人とか専門家とかの区別は要らない。それほど判りやすくて簡単なものだ。そして、貴方に言って欲しい。 『 とても信じることが出来ない 』と^^? “信じる”とは人が言うと書く。この極大論を論じるとき、僅か2mに満たない人間的感覚を用いてはならない。人が言うことほど当てにならないことはない。そうして科学は更新されて来た。この広報(since,11/1/1988)を始めて26年が過ぎた。出来れば、その了認を存命中にお願いしたいと思う。(^-^!)  ↓絶版^^!
  参考文献: 拙電子出版 極秘報告書「巨大隕石と大津波」文芸社←クリックOK(^-^)
→文芸社画面 →トップページへ、をクリック →ジャンル・自然科学 →立ち読み(一部)可^^!
       &, 当ブログのカテゴリー<Big Game Ⅰ.~ Ⅲ. >へ、どうぞ^^!
 <1. of Big job>
The Antarctic Continent is a collision planet 65 million years ago!
A huge tsunami covering up more than 90% of earth by the collision is generated and, around the western part of Gobi, records the particularly trace. The Taklamakan is a huge dried lake of seawater carried by the tsunami! Anyone can observe this trace by downloading of Google Earth.


素人探偵の<Big Job^^.の 2.>
BC.2001年12月25日(日付変更線による違いで西洋では24日^^)イースター島上空から突入した彗星が、ナスカ、ドーバー海峡、スエーデン、シベリアを経由し、日本の東北地方の釜石、大槌辺りの未明(6時頃)に降臨した
 <2. of Big job>
On about the daytime of December 24 of the BC.2001 year, a comet invaded it from the sky of Easter Island. It became the red lump and passed Nazca and Strait of Dover and Sweden and Siberia. And it collided to the area of Outuchi(This is the place name of the meaning called the big hammer.) of the Tohoku district at about 6:00 on the morning of 25th in Japan!

 祖先は、その驚愕をストーンサークル等の巨石遺構物として、地上絵として、西洋では、サンタクロースや箒に乗った魔女として語り、中国では東海に異変をみた “始皇帝→徐福” の探索団が<3千人の童男童女→養父(ヤブの地名として残る)→仏画の童子>を引き連れて列島に渡来し、住人からその事変を聞き及んで龍画にモンタージュした。日本では、その時発生した巨大津波の痕跡を津々浦々に地名として残している。
この詳しくは、当ブログのカテゴリー <巨大隕石(6)、巨大津波の痕跡(4)、徐福達が日本史に与えた影響(7)>等で述べています。
列島の 『津』の地名に統一されている不思議を “貴方さまは、何時だと答えることが出来ますか?” 私素人探偵は、それが何時だとは解からないが、徐福の漂着分散隊をナビゲート(人夫提供&補佐案内)した“太夫・たゆう”達が出雲を中継して逢坂(後に大阪)の<摂津>に集まり(摂津ラウンド)を開いた。そして、その統一名を各地に持ち帰ったと謎解きしている。
    その他の参考文献:   拙電子出版 極秘報告書「巨大隕石と大津波」文芸社
  ご先祖さまが怒って御座る。
『それを巨大隕石と言ったら科学で、竜と呼んだら伝説か? それが科学ならチャンチャラおかしい』
と^^!


  《 素人探偵,その他のお仕事^^! 》 
<Jobその1.>
卑弥呼が埋めた(埋めさせている)未出土の大量の銅剣と銅鐸の予見
  ↑ 歴史好きで一攫千金とその栄誉を狙う貴方へ>
スコップ片手にツルハシかついでと言うわけにはいきませんが・・・、私のいう候補地をもとに
   「ここぞ!と思う所」を捜してみませんか^^! もし、そこが私有地ならば言い値^^?

何故なら、“卑弥呼が・・” というブランドと、それに “予測出来た!”という付加価値がつくわけですから、赤貧の私なら寄贈^^等しないで^^!、「ん億?で売るか、観光地化すれば?」 とするかも・・・、(笑い)
 卑弥呼は、それまでの稚児の生贄を伴った銅鐸・雨乞い文化を「降雨を司るのは、竜荒神ではなくて太陽神だ!」として、魏から得た100枚の銅鏡を太陽の象徴だとし、それを分け与えて、それまで使用してきた「荒神を呼び寄せるため銅鐸と稚児を殺めた銅剣」を人里離れた「岩」の付く場所や谷あいに「二度と使わないとして」封印し、埋めた埋めさせた。銅鐸と銅剣を二山越えに離して埋めたのは誤って銅鐸に呼び寄せられた荒神に(ぐっすい神さまがいたもんだ^^!)その銅剣を持たせない為である。時もおり、彗星のニアミスや皆既日食とかさなり、雨乞いのため(七・五・三歳の)愛児を生贄として差し出す社会制度に不満がうっせきしていた人々は、卑弥呼の提唱する銅鏡太陽神文化へと変わってゆく・・、この詳しくは前記事へどうぞ^^

     (大量の銅鐸の現在迄の出土数) ↓赤字ハ,未出土の大量の銅鐸・銅剣の出土予測数

<出雲>  岩倉         39個       神庭荒神谷・西谷    358本
<吉備>  岩屋 出土予測数  (23個)    黒尾地区 西谷 目安予測数(200本)
<神戸> いわや,神岡(古名;かむか)14個 地獄谷or大月地獄谷?目安予測数(120本)
<野洲>  大岩山        24個       三上山との谷間  目安予測数(200本)
        <合計> 100(-1卑弥呼の手持ち分
卑弥呼が銅鐸との交換に使った銅鏡の数( = 魏から得た銅鏡数) (^-^)100個
註)銅剣で・目安予測数としているのは、出雲の銅鐸1個に対する銅剣数を(358÷39=9本)として算出した数であり、これは、あくまで目安としての数です。(減る傾向ありか?)
   ↑ Myブログ、月別アーカイブ 2011/1月&2月<銅剣銅鐸探査のあれこれ!>より、

<Jobその2.>
   銅戈の探索 Yahoo! Blogいずものこころ, shigechanizumo氏>よりの依頼^^!
出雲竜(出雲半島)を縛り付けている銅戈とヒスイの大勾玉を捜せ!
  探訪好きな貴方へ>
先ずは銅戈を打ち付けている鵜峠にあると思われる大岩を探してみたいものです^^.
   命主神社の大岩は、割り砕いて大社の石垣造りに使用したとか・・^^?

 BC.2001年に東北地方に降臨した巨大彗星は、(その事変により“隕石の冬”になる前の気温は、現在より15・6℃高く、海水位は、今より5~6m高かった。) 当時、日本海に浮かんでいた長さ約60km、幅約5kmの細長い<島根>は、大地震によって破砕され轟音を轟かせ、その大津波は、その島を竜蛇のごとくに泳がせた。さらに、東北からの沿岸津波は、土石流となって弓ヶ浜や鳥取砂丘を作った。 さらに々、その頭部にあたる日御碕には玄武岩柱が噴出しているという。これは竜の逆鱗となり、六角形の鱗として今の竜画に描かれている。それ等を目の当たりにしたご先祖様は生きた心地がしなかったでしょうね。キット!!!  列島の他には見ないこれ等ことが八百万の神々を出雲に詣でさせるエネルギーの根源だと謎解きした。この事変により舞い上がった粉塵や地震に刺激されて噴出した火山灰は豪雨となったことから、後の雨乞い信仰となって稚児の生贄を差し出すまでにエスカレートした。それを止めさせようとしたのが卑弥呼だった。

 卑弥呼は、それまで雨乞い用具として使っていた銅鐸と銅剣を魏から得た100枚の銅鏡を与えて持ち寄った銅鐸と銅剣を二度と使わないように“封印"した。残る問題は出雲半島・出雲竜だ。こいつが暴れ出しては困る^^!。こいつをなんとかせねばならない!! そこで考え出されたのが「ガリバーと小人の国」のように島根半島を 『〆(シメ)縄で縛り付けよう』となった^^!。

 これほどの大祈祷ができるのは卑弥呼をおいて他にはいない!

 「首根っこ」に〆縄をめぐらし、「大の字」に押さえ込む! さらには、当時の最新鋭の武器であった銅戈を大の字の要所部に打ち込む! 祖先は、それを「首っ玉をつかむ」とか、「首根っこを押さえる」とかの言葉で残している。首部にはヒスイの大勾玉を!!!、足部の大の字のハライ部には、これも又、希少品の鉄球を埋めて「払えたまえ、清めたまえ」と祈ったに違いありません。<島根>の根の意は、その荒ぶる竜を「根が生えたように動かせない」為だったと思いますよ。(笑い) さらに々、時は流れて「ワラ人形を五寸釘で!!」このように、今「私たちが為して来た」言葉や地名(例:大根島)、正月の注連飾り(大社の大しめ縄)、盆踊りのやぐら(の前身:出雲の掘っ立て柱)、矢を射る行事(恵鞆エトモ)や奉納相撲等、その他モロモロの神事に、この謎解きのカギは潜んでいる。

   さて、その埋め場所は、どこか???
 出雲竜の概略図
      【出雲竜の頭部】                     【足部】         【尾部】   
                                                        
       <卍?宮?>   猪の目                                  
 (口部)宇竜  ↑ 竜山                      (島根) ?             
日御碕    鷺峠  ←_______約60km______枕木山___ → 地蔵崎
   八雲山  ↑ 弥山                             ムラクモノ剣?
  <出雲大社>                         <松江>
          ↑(首部)
   命主神社の勾玉&銅戈(*出土済み)   

<大の字の一文字部> 出雲竜・首っ玉の三カ所は、
   1. 命主神社の大岩の下  銅戈(どうか)と、ヒスイの勾玉! → 寛文(1665)に発掘!
   2. 鷺峠に、大岩の有無?   銅戈と、ヒスイの勾玉  →  未発見・未発掘です♪
   3. 鷺浦町の ?神社(大岩?)  銅戈と、ヒスイの勾玉 → 未発見・未発掘です♪
     鷺浦の<伊奈西波岐神社>に、大岩有りか?
 <大の字のハネ部> 出雲竜・脚部の二カ所!
   4. (日本海側・??神社)の大岩の下? 銅戈と、鉄球!? → 未発見・未発掘です♪
      Dr.いずも氏>は、 日本海側・恵曇神社の磐坂彦の磐座!を揚げられている。
      素人は、旧島根郡島根町?神社、大岩が有るのか? 根っ子の地名が棄てがたい。
   5. (松江市側・??神社)の大岩の下? 銅戈と、鉄球!? → 未発見・未発掘です♪
      *ここは、未だ特定しえていません。ので、どうぞ皆さんもお考え下さい(^^)。
    キーワードは、『 大岩の下部!』 これは、絶対不可欠の条件です。
 ご先祖さまは、その大岩で、銅戈(どうか)を打ち付け押さえ付けていますからね!(笑)
     ↑ 以上の、詳しくは、Myブログの、カテゴリー「出雲地方」>より、

<Jobその3.>
<宮島の焼山(通称?)の断層帯で、一反木綿と、根炭を探せ!>
此処は世界遺産にもなっていますので、個人で探索するのは無理××>
  さらに、遊歩道のルートよりも外れていますので、お勧めは出来ません。
  先ずは同島にある広大付属へ伺ってから^^


一反木綿>とは、
漫画家・水木しげる先生のマンガに出てくる妖怪ですが、筆者は、これになぞらえて激震によって出来た断層が擦れあって岩石が溶融し再結晶するとき白脈(主に石英脈)が出来ることだと謎解きしました。その白脈帯はどこにあるのでしょうか? 後の風雨作用で隠されているかも知れないし、土砂崩れ等でその破片が谷川へ流れ出ているかも知れません。この山頂付近にある大断崖は宮島へ渡るフェリー上からも見えます。山歩きの好きな貴方^^ どうぞ、その断崖の下の “一反木綿”を捜して頂けませんか^^?
根炭・ねすみ>とは、
これも水木先生の(ネズミ男から^^!)なぞらえて素人探偵がつけた付名です。 地震による断層帯で連続波によって岩塊と岩塊が擦れて高温を発し山火事となった時、上部の立木は燃えてなくなるが“根部”が酸素不足や、接触部から少し離れた所での根部は低温炭化作用で“炭”として地中に残っていることが考えられます。このことは通常の山火事や、一度っきりで起こる大断層とは根本的に異なります。低温炭化とは、発火温度に達していなくても、それが長時間続けば炭化してしまうことです。 弥山>と、焼山>の断層帯があやしい!!もし、それが発見かれば、14C(大文字Cの左肩に小さく14と書き、シー14と読む)炭素年代測定法で、その時が四千年前のBC2001年12月だと云って下さると嬉しいのですが? 
   ↑ 以上の、詳しくは、Myブログの、カテゴリー「巨大隕石によって変形した山々」>より、
何故、東北から遠く離れた宮島の地に激震断層がおきたのかは解かりませんが、似たような例として先のJob、竜の逆鱗、小豆島の大断層、山が三つに割れたという奈良の若草山等を考えています。いずれにしても四千年前の祖先がその大事変に遭遇し、それが<信仰の対象になっている>という必須条件がつきます。

<Jobその4.> 観光遺産
< 岩手県 閉伊郡 田野畑村の(弧状)列石遺構 >
   標高175mにあるこの列石遺構は、BC.2001の巨大津波の喫水線だ!
 橋が架かるまでは陸の孤島とも言われたところ>
   でも、行ってみれば絶景だそうですよ^^

Jobその5.観光資源; 青森県下北・仏ヶ浦の絶壁の凹部(h15m付近)は、その津波の削痕跡
Jobその6.観光資源; 岩手胆沢扇状地は北上山地越の巨大津波(上記)が運んだ堆積土だ!
       扇状地胆沢川沿いの北部丘は6500万年前の超巨大津波が成した落水泥丘だ!
       この時の長大なものは北米アバラチアン山脈からの津波落水土が大西洋沿岸州
       となり、広大な大西洋への視界をさえぎっている。
Jobその7.観光遺産; 英国にもナスカと同様な巨鳥の地上絵があった!
                   Google earth で確認出来ます^^,




(15/5/08) Mさま^^?>5拍手をありがとう御座います^^今後ともよろしくお願い致します。
('15, 5/27) ほぼ毎日、真夜中の訪問者さま>へ、更新もないのに頭が下がります。(深礼)
    わたしには出来ないことです。このまま“その日が”来るまで見守って欲しい気持ちと、
    こころ行くまで話してみたい気持ちが、あい半ばします。 
(15/6/30) Dr. I さま> コメント(6/18)が入っているのに気付くのが
             遅れてすみませんでした。お返事は別便で・・・^^!
(15/12/21) R-n.さま>はじめまして、不肖ブログに(6拍目)拍手コメントをありがとう御座
います^^♪。 今後ともよろしくお願い致します。
('15, 1/18)只今は、極秘Job(デモンストレーション)を JP&USへ売り込み中です^^!。
~('17, 1/01迄)7拍目、8拍目のどなた様。ありがとう御座いました。
('17, 3/27)~10拍目のどなた様。拍手をありがとう御座います。できればコメントを^^!。
<巨大隕石の衝突核: 釜石鉱山>
  ご訪問ありがとう御座います。本日('16/9/15)をもって、この記事の掲載を終えています。
当分の間、次の記事の予定がありません。長駄文へのお付き合いありがとう御座いました。 
 (12/28) 3ヶ月ほどネットを中断していました^^!。
中断中にも関わりませず日々訪問して下さった皆さまへ、わたしには出来ないこと。深く感謝いたします。ありがとうございました。 ことしも残り少なくなりました。どうぞよいお年を^-^♪

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この広報を始めてから29年経ちました。どうしたらこれが世に伝わるのかその謎がいまだに解けない。現状は、「天動説中の地動説!」 素人にも分かるような簡単なことなのに。あなた様が事が成ってから大騒ぎする世間様とおなじであって欲しくないと思います。現科学は、いつになったら気付いてくださるのでしょうかぁ? 往々にしてこのような大論はその没後に認められるもの、少々ボケも入って参りました。出来れば存命中にお願いしたいのですがぁ~~-~! 
                                   史実探偵: 平  素 人
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<巨大隕石の衝突核: 釜石鉱山>
     (副題) その痕跡を探せ!!     16/7/18 ~7/20

 釜石鉱山をBC.2001年に衝突した巨大隕石だと掲げて○○年になる。人文史的には、地名という祖先からの伝言(別紙)をえて、かなりいい線(myブログで)まで踏み込んだと自負しているが、地質学的には、国土地理院の地質図を取り寄せては見たものも、まったくその痕跡が見当たらず専門家の教えを待つしかないと思っていた。これも何年か前になるが 『釜石鉱山の鉱質の分布図や岩様』 を求めようと電話するも、閉山されていて保安業務のみとのことであった。その時、地勢図で得た“釜石馬蹄形”より先には進んでいなかった。
 この度、ウエブで(釜石鉱山)天狗森鉱床 「水平鉱床」という情報をえてヒラメクものがあり素人なりにその解明に挑むことにした。解明というにはおこがましく、無知や間違いを含めた想像に近いものではあるが、あえて問題を提起し専門家のご意見を聞きたいと思う。下記がその断面の想像図です。

 <天狗森鉱床断面想像図> '16/7/18作成 (コピー喧伝OKです^^)
  天狗森鉱床-2
 天狗森鉱床 縦横同比率 想像図
  天狗森鉱床縦横同比予想図

 <天狗森鉱床は「石灰接触鉱床」
わたしは、この意味、状態がよく分からなかった。この地には露岩としての石灰岩は近くにも分布しているし、鍾乳洞もあったと思う。 このことから、かつての海底堆積物の上に太平洋側から押し寄せられた鉱床が乗っかり、後に浮上したとする説があったが、筆者はその両方とも理解に苦しむ。  石灰分がそのように海底で層を成すほどに堆積するものなのか? ならば現在に太平洋海底でそのような場所があってもいいはずだが? そして、この広大な太平洋は、(ギュヨーを除き)マンガン塊や希土類の堆積はあるものの、安山岩を有しない地域であり、約2億年で?湧き上がり塗り変わるというその海底地殻に鉱質を含んでいる部分があるとは思えない。私は大洋殻の成因と陸の成因はまったく別のものと考えています。釜石鉱山の場合(別述の)巨大津波によって図のように、すでに陸上に打ち寄せられていた石灰床の上に金属核を持った小惑星体が落下したのである。

<水平鉱床>
水平鉱床ということは、平たいということであり、他の鉱床と比較して薄平たいということを形容していると思われる。では何故、隕石がぶつかって薄べったくなったのか。それにはその飛翔体の温度にある。この小惑星体は彗星の軌道をとり(別紙報告書)太陽への近日点を地球より内側にもっていた。当然太陽に炙られている。仮にその飛翔体の直径を20kmφとしておこう。それが日本時間の冬至の朝、イースター島上空の大気圏に突入した。この時その表面は極度の高温にさらされる。そして大気との衝撃力は大変なものだ。いくつかに分裂しナスカ上空、ドーバー海峡上空へとゆく。欧州の祖先はそれを赤鼻のトナカイと表現しているから、その主核は赤かったと思われる。その後も表皮を落としながら日本へと向かってゆく。最終的な直径は、これも仮の仮で10kmφとしておこう。日本の祖先は、その飛翔体を火の鳥として伝承し、止まり木である鳥居に朱色の赤をもちいている。ということは、その巨塊の表面温度は700℃~800℃。この温度は鉄が赤色化する温度。岩石の溶融する温度は約?℃ ~1600℃であるから熔ける前段階の温度である。

<飛翔中の小惑星塊の内部温度>
図は惑星内部のモデル(注:拙論)である。無重力空間で、各々の存在量が図のごとくで、全溶融して「重い金属等が沈殿化」してゆく時間があれば図ような形態を示すものである。だが実際にはこのような完全形ではなくて未完結の形をとっていると思われる。だから釜石鉱山総延長○○○kmの坑道を調べれば、その内部構造が解明できると思ったのだが、その時は保安業務のみを残して閉山中であった。
   今は学術的な試掘や、予約の児童生徒の見学団体は受け付けているようで、
   個人的な観光客は受け付けていない。 鉱泉水の販売を始めているとか^^♪


<その衝突を想像してみよう>
この星は太陽系の遥かかなたからやって来た。彗星軌道をとっているので当然冷え切っている。太陽に近づくにつれ表層は炙られガス化して長い尾を引いていく。ケプラーの法則により太陽に近づくにつれそのスピードを増す。近日点をすぎるとスイングバイを受けてハンマー投げのごとくに放り投げられる。時は、地球の冬至点近く(別紙祖先からの伝言より)。地球公転面に対しては約25°角を想定しています。別紙極秘報告書「巨大隕石と大津波」P12の図より
↑これは当ブログの原本となるもので本年'16/10/21に掲載終了です^^! ご希望の方は、 お早めにどうぞ)

その公転面の上部から入り下方に抜けて北半球冬至時のイースター島上空へと向かう。この時、気を付けないといけないのは、そのスピードと塊の大小だ。太陽脇を通り過ぎるスピードが速ければ太陽から受ける熱は少ないし、その塊が大きければ表層のみ炙られてその内部まで熱は浸透しない。焼き鳥で実験できます(笑い)。 その通り道になったナスカ地上絵(別紙)では分裂を表す絵が描かれていることから、そのスピードはかなり速く表面のみの加熱であり表層剥離をおこしたことが考えられる。専門家ならば結果から逆算できると思います。

<飛翔時の内部を考える>
その飛翔体の内部では、空を飛ぶジェット機内でのアナタとわたしの関係~~! しかし、加速していればGという力を受けてその金属核は後ろへもっていかれる。空気等の抵抗を受けて減速していれば内核は前に移動する。これに地球引力の潮汐力を受けるから、さらに話はヤヤコシクなる。北海道の住民は、その飛翔物体を 『空知郡』、『美唄』 といい血の赤い色をしてビリバリと音がしたと言っているから、衝突の直前まで溶融前の赤い温度であったと思われる。

<そして衝突の時を迎える!>
馬蹄形の形状(→私が仰ぐ岩淵先生は視力検査のランドルト環)から、かなり斜めからの突入と思われる。岩石中の金属核は車のダミーのごとくフロントガラスを突き破る。だから馬蹄形になったのだ。その全体としては、多くの巨大隕石が示す凹部形状をとるが、その二つの合力によりランドルト環となった。このことから天狗森鉱床はランドルト環に沿って存在していると予測できる。前図の銅系金属や重金属系は、筆者の知識不足でイマイチその行動が推めてないが、衝突の力は重いものにより大きく働くので、内核に金や銀が含まれていれば衝突熱により全溶融しているはずだから図の<日向>より南東の地下に眠っているかも知れない。もし、遊び心があってお金持ちで行動力のある貴方さまや、団体があったら、 図の辺りをボーリングなさるといい^^。 但し、金の性質の一つに延性が強く “うすく平べった” になっている可能性があるので採算にあうかどうかは掘ってみてから考えたい。たいして深くはないと思いますよ~~♪。

私たちは、普通に巨大隕石は固い巌(いわお)の塊だと思っているが、実際の宇宙空間には様々な形態をした天体が存在している。「地球生命体」をいう学者がおられたが、地球は岩石という主食と、金属という骨成分と、汚れた氷玉という水成分まで食している。その一つだけと 論じていれば偏食になってしまう^^!。 ( 中学生諸君に^^!)

<宝さがし耳寄りな話^^♪>
 以上を考察して、大地と巨大隕石の接触部では千度に近い接触差があり、想像を絶する反応が行われる。自然界で重金属のイリジウムや、オスミウムが生成するのは、巨大質量をもつ天体内や巨大隕石の衝突で(ルイ・アルバレス)発成すると考えられている。それ等がどのように飛び散り、あるいは内包しているかは専門家の調査に待ちたい。さらに、隕石質が石灰床へいかに反応するかも?
  先図の石灰床は、巨大隕石の熱と圧力を受けて結晶化し大理石化していると断言できる。

<さらに、ダイヤモンドの話に移ります>
この地の衝突前は巨杉が生い茂る緑豊かな森であった。それは<藤里>で立木した珪化木から推察することが出来る。この大衝突によって 「近郷の山は<毛無山>となり<黒森山>となって燃えつくした」 と祖先は言う。 さらに、炭化した木材の一部は、この時発生した巨大津波と泥流によって北上山地を越え北上川へと運ばれ泥炭化している。この話の “より詳しくは” 私と広報を共にされている 奥州市・岩淵國人先生の 『縄文の超々巨大津波』 文芸社のほうへどうぞ^^。
 さらに々、その巨大津波は、その木々を岩手県<久慈・くじ>に大量に積み上げ、その流した木汁(くじゅう^^!)は琥珀と化し、国内最良の^^産地となっている。
 ダイヤモンドの生成は、
炭素が○○○○℃の高温のもとで○○○気圧の極圧が○秒間続くことによって生成される。  筆者は、図にあるような場所の杉がそのような条件下にあったかどうかの確証は持てない.。しかしながら 「今までにこのような見方をしたお人が誰一人としていなかった」。もし、その川に流されている白色透明な石があったとしても、石英石と見まがいダイヤの原石であろう等とは、思っても見なかったに違いない。 この夏、多くの少年少女達が川に遊ぶ。 もし、白色透明な石を発見けたらガラスにこすって見なさるがいい。傷が付けばその小さな石片はダイヤかも知れない^^!。

< 最後に、 39°18′36″N, 141°48′09″E, 正否の確かめ!?>
この素人探偵の論の正否を確かめる方がある。それは図中の<岩倉山>西に赤い点線を引いた所の西Bと東Aで“温度差の違いによる境界が出来る”ことである。 Aの方で高温になった基岩が津波の水を被った時、その表面がガス化し気泡組織をつくることがある。このクボミの有りや無しやがこの論の正否を決定する。さらに、西と東で岩質や温度差による色の違い、輝石脈等があればこの論を補強してくれる。 そして、釜石鉱山の坑道内が観察できる貴方さまにお願いしたい。衝突時の溶融や片麻岩様化、金属の溶解度と変容、鍛造組織、大地との接触部で原子の変異 等々。その学術的価値と世界に与える影響は計り知れない。
               私は、釜石を世界で初めての
       『衝突惑星の内部が観察できる』 ジオパークにと願っています。 □



     <What is this?>

 岩手県 岩倉山の西 あたりの掘削地 2ヶ所 の 図 (橋野町分か?)
下図は国土地理院の電子版地図を略図化したもので、そちらで詳しくご覧になれます。

                   謎の 掘 削 地 2箇所!
           + (39°18′36″N ,   141°48′06″E)

                             橘野町へ至る
                               ↑
                             ↑
          △雄岳 1312m      ↑
                       ↑ - - - -     ) 
                         i//////i くっさく地 )
                      ↑ i /////// i          )
 △大峰山                  i///////i           )
    △雌岳 1291m ( 峠越え)↑                   )
                 ・936  ↓       +    ・962     )    △ 岩倉山
                        → | 約 50m | ←       )    1059.1m
                        ↓   i///////i        )(跳ね返り痕)
                          i /////// i くっさく地 ) 
                        ↓   i///////i      )
                         ↓ - - - -
                            ↓
                           陸中大橋駅方面

            釜石鉱山
                                  ↓
                                陸中大橋駅

    ◎ 誰が何のために掘ったのか??
国土地理院電子版で、岩手県釜石市岩倉山 1059.1mと、大峰山に挟まれた峠状の場所がある。そこに「謎の掘削地2ヶ所」がある。筆者が謎と称するのはその掘削の意味が判らないからである。道も定かでないような、その峠を挟んで約50mほどの広さで2箇所が掘られている。誰が、何時、何のために掘ったのか? 峠状のところを道を通すために切り通しにすることはある。しかし、アッチャコッチャの2箇所に分かれていたのではその意味をなさない(笑い)。その迂回路もあるようだ。
では、埋め立て用の土石の採集のためか? これも当たっていないように思える。この地方には石灰岩の掘削地は処々にある。それにしては小規模であるのが解せない。さらに、建築用材、陶器配合材、鑑賞石等、色々とあげることが出来るがいずれも?が付く。なぜなら、2箇所に分かれているからだ。

 ならば、何のために??
筆者の推察の域をでないが、「岩様を調べるための学術調査の掘削」 ではないのか?
筆者が掲げるように「釜石馬蹄形」が巨大隕石体ならば、この峠あたりが衝突の境目となる。その時を想像を含めて再現してみよう800~℃の溶ける直前で大地に衝突する。岩体は溶けて放射線状に飛び流れていく。芯部の重いところは海方向へ押し出される。岩倉山から西の部分は大峰山方向へ流れていく。 と同時に登りきれなかった溶岩が反動を受けて東側へ彎曲した等高線となって現れている。その直後に大量の海水が大津波となって、その形状を固定して行く。このように水を被った溶岩が表す、いくつかの特徴がある。表面がガス化してエクボが出来ることは前述したが、極端な温度差によりクラフト(表皮)が出来て剥がれ易くなると付け加えておきます。

<探索好きの貴方さまにお願いしたい>
この峠、2箇所の掘削地には、長年広報してきた「釜石馬蹄形は巨大隕石だ」の正否を分ける地質学的な岩様が刻まれているはずだ。その報告を雪のふる前に聞きたいものです。
                            ( 2016 / 9 / 01 ) 史実探偵: 平 素人
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長駄文へのお付き合いありがとう御座いました。当分の間、次の記事の予定はありません。
この記事の送付活動にうつります。 Dr.ワトソンを捜して・・・・・・・・・・・・・・・^^!、





'16/9/2 どなた様> 拍手をありがとう御座います。出来ればコメントを置いて下されば、尚うれしいです。反論も結構です。なぜなら、その反論は、我が論の欠如部分であり、その反論に正答が出なければ、この論は受け入れて頂けないからです。無視されることがいちばん辛い^^!
<総社・神明遺跡を推み解く!?>
<総社・神明遺跡を推み解く!?>        2016 5 07 記

 この記事は、前回(8/19で、 今回 (8/20) の追記で完了しました^^。
ただいま「古代史掲示板」http://8220.teacup.com/toraijin/bbsさまへ、訪って
拙コメントを(30ぐらい)残していますので、よろしかったら、そちらへも どうぞ^^!
尚、当ブログの記事は、全てが関連しています。カテゴリー別で見ると読みやすい
かも知れません。

 < 筆者より のお知らせ、>
長い間、駄文へのお付き合いありがとう御座いました^^!
つぎの記事のアップは 9月にはいってからを予定しています。
尚、当ブログの“原本”となる 拙;電子出版 極秘報告書「巨大隕石と大津波」文芸社← は、
本年10/21で契約解除でなくなります。その内容は、天動説のなかで地動説を唱えているようなもの。11年で15冊(泣き笑い)しか売れていませんが、ご入用の方は、お早めにどうぞ^^!  
              ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
はじめに
 この遺跡の存在を知ったのは、総社市・北斗神社をたずねて前述の鬼ノ城・新山<天空のなごみ茶屋太一や>を訪れたときのこと。「北斗神社の御本尊七社宮の今は、下方の神明神社に移されている」とのこと。そして 、「近時、その近くで銅鐸1個が出土した」とのこと。さらに「その宮司○○さんもここに訪れた」こと。筆者が興味を示すと、つづけて「専門家の発表があると思います。」
(この遺跡の発掘は、筆者が知らなかっただけで銅鐸の出土は'14/8月。ネットで発表済みでした^^!)

(2016 / 5 / 01)
その足で「神明神社」を尋ねて、道も定かでないような細い路地をぬけると田畑にかこまれ、石を二つ三つ積み上げた決して広いとはいえない場所にその小さな神社はあった。造りは拝殿と本殿の一般的な造りで脇神も祀られていたように思う。驚くべきは参道も定かでないようなこの場所であるが手入れが行き届いていること。昨日今日の保守ではないとすぐ分かる。運のよいことに四十がらみ?の宮司さま夫妻が掃除をなさっていた。近所の人も声かけをなさる。その信仰の厚さがうかがえる。聞けば「一日(ついたち)参り」とのこと。今一番逢いたいお人に会えた嬉しさでお掃除中にもかまわず>共通の話題は、今にも消滅しかねないような「北斗神社」から始まった。北斗の意は「北極星」だと教わり、判らなかった「七社宮の七は、北斗七星」とも教わった。さらに、“神明”に繋がる鶏のはなしを出すと「時を告げる一番鳥」で中国からの移入ではと云われる。傍らの保管庫にりっぱなお御輿があった。その頂部に鶏のありやなしやを見ておけばよかった。冬至の旭光の話をだすと「その方面に“日差山”があります」 「いま現在の冬至の日の出は○○山からです」と云われた。
このあたりは、「今は田園となっていますが、その昔には、かなり川幅の広い“宮前?川”が流れていた」とのこと。

( 8/13後述; お御輿の頂部には、筆者が知らなかっただけで、鶏造りが標準のようだ。
ということは、ここ神明遺跡の環状木柱列は、お御輿造りの原型になったようで、冬至の朝の“御来光”の時刻を知るために、「その一番鶏」の鳴き声を目覚めに利用していたかと伺い知ることが出来る。しかし、とあるお御輿をみれば、その四方に鳥居を備えており、「東西南北どこからでもいらっしゃい」 との造りになっているのが解からない?? そのお御輿の中には何を納めているのか? 又々謎が増えた^^?)


銅鐸が出土した遺跡の話にうつり、
「丸い住居あとの中に約30cm大の銅鐸一つが斜めに突き立てられた形」であったという。
銅鐸が出土した遺跡の話にうつり、
「丸い住居あとの中に約30cm大の銅鐸一つが斜めに突き立てられた形」であったという。
この「住居跡?に銅鐸出土」は非常に珍しく、中央の偉い先生もお見えになった。
    場所: 神明神社の住所(岡山県総社市福井字神明240)の北側の田園地帯
         一宮・総社バイパスの予定地で、
         その区間工事中に銅鐸が重機に引っかかり一部が欠けて出土した。
    神明神社の現状は、  西、北、東の三方は、稲田や畑に囲まれた田園地帯、
         南側は墓地に連なる住家地帯となっている。辺りは農家と新入者の混住地帯。

「その住居あとは住居ではなく朝を告げる鶏を飼っていた唐丸カゴではないのですか」と私。
『竹柱あとにしては、かなり大きな穴痕で、竹柱痕とは考えられない』と宮司さま。
「この、西に御崎神社があります」 と私。
『そうですね。その線と、北の北斗神社と、東の冬至光の線は固いですね』 と、このような話をして別れた。(注: インターネットの発表でも銅鐸の出土が住居域の中か、住居の中であるかは不明?)

<神明遺跡を推み解く>
                       北斗神社
                         △経山    
                         ↑
   御崎神社 ←          柱痕遺跡(銅鐸)           → 東の、○○山
                       神明神社           → 日差山
                         ↓            → 今現在、冬至光の○○山
                     南方の ○○山
<このような仮説を立てて>
今までの謎解きの経緯( 環状木柱列は銅鏡の入魂施設だ!→myブログ)から 御崎神社→ 柱痕遺跡→日差山の一直線上を考えていたが、地図やGoogle earth等で調べると柱痕遺跡の真東には名前の分からない○○山であった。日差山も、どこを捜しても見つけられない。日差山は、現地(宮司さま)の人しか知り得ない情報なのだ。何故、ご先祖さま達は、何んの特徴もない田んぼのど真ん中にそのような重要と思われる施設をお造りなさったのか? 土地の私有化が進んでいるとは思えないその時期に、それをどこへ置こうが自由勝手~~!   そこと定めたのは何かの理由・ワケがあるはずだ。現地に立たなければその意は伝わってこない。  

<いざ現地へ>
                  <北斗神社>(石碑のみ)
                  北斗神社-2
                     ↑  △経山373m                    
 
   △47m←    環状木柱列遺跡(標高13m)   →△43m石鎚神社(円形遺跡あり?)   
 <御崎神社>        <神明神社>               →△庚申山74m
                                              大梵帝釈天
 (Google earthより)神明神社
                                  ← <日差山>どこにあるのですか?
                                      そこに矢射台石ありや無しや?
                     △和霊山220m和霊神社
                   △福山302m
                    <猿田彦神社>
  ご先祖さまは、
①北斗神社(北極星)を真北とし、②南に福山?・和霊山、③真西に御崎神社、④東に石鎚神社or庚申山、の順に定め、 この中心に環状木柱列を置いている。

<環状木柱列を推測する>
これは、住宅施設ではないと断言できる!何故なら銅鐸の出土があるからだ。差障りある銅鐸を住家には置かない(土中保管説)。それが銅鏡でなく銅鐸なのは銅鏡文化より以前であったことを意味する。さらに、その大きさが30cm前後と比較的小さいのは、銅鐸文化の初期あたりのものかと思われる。専門家の解析が楽しみだ。木柱列が何本あったのか筆者は知らない。仮にその本数を8本(or10本)として話を進めると。前述の要領で中心点をきめ適当な円(4~6m)を描く。つぎに真北の方向を 1と決め右回りで8等分にする。北を 1と定めるのは、今の日本建築でもその柱列の番号を北の1から始める。そして、暦においても、真北の子(ネ)の刻から始まっている。

 次に、この環状木柱列で最も大切な“入り口”を決める。8等分にした円環を右回転させて行き、暦で云う辰巳(タツミ)の方角(南東)を入り口とし、その2本を決める。この入り口2本の柱は残りの6本より別形状のものを使うか、全8本のなかで入り口として最も格好の良いものを使う。石川県のチカモリ遺跡では発掘;総数350本のうち約250本がカマボコ形に割っていた。入り口の中心線となるのは冬至の日の出光の方角であり、この方角に<日差山>があると断言できる。この入り口 2本に横木を乗せる。これが今で言う止まり木の始まりだ。あとは八方郭風に仕上げて、「御輿の上でコケコッコウと一番鶏が鳴いて」その旭光とともに水神でもある竜神さまが“興し”になるのを待てばいい^^。注意すべきは、その日の出の位置が地球の歳差運動(軸振り運動)で、素人のあてにならない計算ではあるが<70年に 1°角?>南側へずれていくことだ。今の日の出位置から逆算すればその設置年代が絞りこめる。それが何故使用されなくなったかと言うと、日の出位置が年とともにズレていくことと、銅鐸文化から銅鏡文化への変革があったからかも知れない。

木材の使用は、栗材か楠木であろうと思われる。初期にはイガグリ=太陽光の考えから栗材を使用し、後にはさらに腐りにくい楠木に移っていったと思われるが、神明神社の裏手に何やらの木(ゴメンナサイ覚えてなくて^^!)が植えられていたので、その木が使用されていたのかも知れない?。

                           ○      
                    ○
                                  ○                            
                ○
                         +      
                 ○                 ◎
                                 入口
                               ◎   冬至の日の出光
                        ○               <日差山>方向 
                                       
<銅鐸の埋め方を解く>
 そこにあった30cm大の銅鐸のレプリカを持たれ半円部を下に、少し斜めにして
  『その中央部で、このようにして埋められていました』と奥さま
この埋め方は、別紙報告書「巨大隕石と大津波」で述解したが、銅鐸は空を飛んだ大隕石形で、その半円部は、その頭。下へ向けるのは大地へ突き刺さる形。少し斜めに向けるのは、その方向から飛んできたことを表す。ゆえに、日差山方向から飛んできてヒレの部分を立てて、埋めてあったと推測します。この埋め方は愛知県の一宮でもあったと記憶しています。ヒレの部分を寝かせて「おとなしく寝ていて下さい」としたのは卑弥呼以後であり、そのようにしていないのは卑弥呼の言うことが、すぐに聞けなかった群郡(こおり)であったかと解いています。

<このあたりの地勢と住環境を考える>
この遺跡の西に「御崎神社」とあることからそこが浅海に突き出た海退時期があったと考えられる。ほかに恩崎の地名もあります。宮司さま>のいわれた、かつての宮前川?の流れの位置や、あたりの標高を勘案する必要があります。これは、ウネウネと曲がった道や、現在に残る川底の高さでも想像推察できますが(現在の標高なら、国土地理院かGoogle earthで調べられます)専門家のトレンチの発表を待ちたいものです。特筆すべきは、この近くの高梁川西岸に<秦>の地名があることです。当時の河口にあり 「徐福たち」のながれをくむ人達がこの一帯の歴史に関わっていることは見逃せません。

<何故、銅鏡でなく銅鐸なのか?>
銅鏡への入射施設とした倉敷足高神社(二条岩三条岩)、又は、総社の経山には冬至の旭日光に擬えてそこから矢を放つ台石があった。日差山 にもその施設があれば、その考えを一昔さかのぼることになる。それがなぜ銅鏡ではなく銅鐸だったのかの謎解きは、(史学)貴方さまにバトンを渡します~~!”。
    さて、素人探偵の推理、何が当たって、なにが外れているかが楽しみです。
                ここまでで、この記事を終了とします。^^!  (2016 / 7 / 27,了)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
次は、
    おまけ、<犬墓山>を考える。
【鳴釜神事】  ↓ウエブ吉備津神社より、抜粋
この神事の起源は御祭神の温羅退治のお話に由来します。命は捕らえた温羅の首をはねて曝しましたが、不思議なことに温羅は大声をあげ唸り響いて止むこと がありませんでした。そこで困った命は家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしても唸り声は止まず、ついには当社のお釜殿の釜の下に埋めてしまいましたが、それ でも唸り声は止むことなく近郊の村々に鳴り響きました。命は困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの釜殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに 鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん』とお告げになりました。命はそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れました。これが鳴釜神事の起源であり現在も随時ご奉仕しております。~中略~、そうすると鬼の唸るような音が鳴り響き、祝詞奏上し終わるころには音が止みます。この釜からでる音の大小長短により吉凶禍福を判断します が、そのお答えについては奉仕した神官も阿曽女も何も言いません。ご自分の心でその音を感じ判断していただきます。 以上□

この話を想像も含めた<素人流の創作話>にします。(反意修正大歓迎^^)
今はその昔のこと。この地方は、浅口と呼ばれる水深5~6mの海が広がっていた。近くには(今は)高梁川と呼ばれている大きな河口近くでもあることから汽水を生じ、海や川の幸を比較的簡単に漁獲することが出来た。一方、陸のほうは、平野部が少なく、200~300m低い山々の連なりで麦や黍(キビ)がよく採れることから両備地方と呼ばれるようになった。根菜類はサトイモが主流である。それに貯蔵食物としてドングリも利用された。陸生物はイノシシや鹿、ウサギに加えて鳥類に雉(キジ)もいた。住家はそのワラを屋根にふいた竪穴式住居であった。近年までその麦わらはバッカン真田として帽子やカゴ等に編まれた歴史がある。土器の土質は備前焼きほどによくはないが(倉敷)酒津焼としてその味わいを残している。農具等は木製が主流で樫やこの地方でモロ木と呼ばれているトショウの木を利用していた。それに外してはならないものに、竹材や葦もあった。唯一の欠点は、硬い石を産出しないことぐらい^^!。年間の平均気温は、海進、海退から素人のあてにはならない算出で今より15℃前後高く。種子島・沖縄あたりと同じであったと思われる。降雨は適度にあるが、北に中国山地、南に四国山脈を持つ瀬戸内独特の気候に加えて山間部が多く、時に干天が続き人々飲み水にも困窮することがあった。その時、慈雨のお願いをするのが、この地に西進してきた前述の荒神・竜神・天神・水神さまであった。この地の津波の高さは6~7mであろうか。地鳴りとともに襲来してきた地震の大きさは想像すら出来ない。慈雨との交換に差し出す供物は、私達はこれ以上に大切なものはありません。この幼子の命を煙に変えますから、どうぞ、その煙を雨雲に変え、「慈雨降らし給へや」、までにエスカレートした。

このような文化が永々と続いていたある日に魏の国から、東海の列島に「不老長寿」の薬石を求めに来た“徐福”の分団が現れた。この人達は長生き実証用の多数の童男童女をつれての渡来であった。丸太くりぬき船の縄文人からすれば、西安に等身大の兵馬庸一千体を作り、大船団を操る国との文明差は歴然であった。飲み水や食物や宿の提供に多大の礼品をくれた。中国人にとって相手より少ない返品は、相手の下位に下ったことを意味する^^!。さらに、この人達は祈祷による難病平癒を主としていた列島人に対して、珍しい薬石を見つけそれを試してみたいとの思惑もあることから、薬石治療を施してくれた。ありがたいことである。列島の人々は薬師さま道通さまとして石仏二体として路傍に遺している。唯、この人達、徐福団の中には危うい考えの人もいた。

 医食同源の国。他の生命を取り入れることによって自らの命を永らえる考えがあった。(←前述)筆にするのもためらうが、卑弥呼が魏帝に献上した “生口” は、余命長い幼子の命をわが身に取り入れることによって長生きするという考えである。 この考えは、列島にあった 「雨乞い時に、荒神様に幼子の命を献上する」 考えと都合わるく(?)符合した。 このことは、獅子舞、山姥、鬼神伝説として列島の各地に、その言い伝えや風習として残っていると確認して頂きたい。

 <ここからが、本題「鳴釜神事」の素人探偵の作り話です^^。>
筆者は、この話の当時、“総社市・鬼ノ城”に住んでいた人達が倭国人か渡来人か、或いは、その合同集団であったかを知らない。この人達は銅鐸・雨乞い文化を継承する人達であった。高い文術を持ち、自然石を組み合わせた巨石の石崖を築き一帯の厄事、難病平癒、雨乞い等に答えていた。その返礼としてのお礼参りが今に残っている、そのなかで、「一歳でお札を受ける」新生児登録(前述、鬼ノ城の謎)を行っていた。雨乞い時の供物に要するためだ。その幼児が「七歳」になるまでに雨乞い等の神事がなければ 「お役御免の厄明け」として、お札を返しに行っていた。その記載をするためとした木簡とかスズリの破片が 鬼ノ城中央の住家跡と思われる所から出土した。このような歴史が続いているある早朝に、海を隔てた総社・中山(現吉備津神社がある所)にいる男児に白羽の矢がたてられた。その男児 「神子として上に差し出せよ!」との社会の決まりだ。これも前述しています。
  ところが吉備中山で長(オサ)を務める爺婆には桃太郎と称する勇ましい兄がいて、「かわいい弟・吉備津彦を武力にかえても差し出さない」 と言い出した。(筆者は、吉備津と吉備津彦が “何故、山裾の近くに二つ”との疑問を持っていたことから)吉備津彦神社が 鬼ノ城からみて吉備津さまの南にあり、その後ろで吉備津さまに守られているような気がしてならない。

  海を挟んでの矢撃ち合戦から始まる。その中央が、現存の「矢食い石」だ! この戦い桃太郎が優勢に終わり「温羅・うら」の首をはねた。鬼とされる鬼神ではあるが「温羅」の字をあてているのは温かいところもあった羅漢であったと思うのは筆者の思い過ごしであろうか。今でも、鬼ノ城の東端にその石碑が祀られている。ちなみにウラは陰陽に対する裏(陰)の意味からかと思っています。墓に犬の名が絡んでいるのは、当時から狩猟用犬を飼っていて、前述でもしましたが、神子として差し出した愛児を取り返しにくる親を阻むための番犬→狛犬・戦闘犬が関係したのかも知れない。 さて、これで平穏になったかと思いきや社会秩序の崩壊と、ご祈祷を願う相手がいなくなったことから、四方近効の村々はぶつぶつと言って治まらない。そこで“命・みこと、桃太郎”は、ウラのカシラを犬墓山の中腹に“現存する”二基の石墓の一つに晒した。この石台は、筆者がかつての探検で、恐ろしさを感じその頂部をみることが出来なかった所でもあります。

 <犬墓山中腹の石墓と石台>(2016/4/24撮影)
    犬墓山石碑2基

それでも中々収まらない。 “桃太郎”は、夢枕にたった温羅 の言に従い、長(おさ)を継ぐことをやめて引退しその没後は霊神となった。さらに、「祝」と呼ぶ温羅の妻の娘「阿曽姫・あそひめ」を遣わして竈(カマド)で御饌米(ごせんまい)を炊く「鳴釜の神事を行いなさい」との言にも従った。そうすれば、わたしは、一使者となって参り給う人々に、鳴釜(米が沸々煮える時に釜の内に共鳴共振してブぉーと鳴る)を告げ、「裕と鳴れば幸」「荒らかに鳴れば禍あり」と霊神(あなた命・ミカド)のお告げを鳴り響かせ四方の民に賞罰を与えるであろう。以来、平和がおとずれ今日に至っている。  以上です^^! □
(注)当時の主産は、麦、ヒエ、粟、キビで、味のよい米は高級品であったと思われる。今に赤色米を残すお人がいる。

その<阿曽>の地名は、今でも鬼ノ城のふもとに残り、近年まで、お釜の修理鋳造や 阿曽女の専出はこの村で行っていたとか。 さて貴方さまは、この素人の作り話を信じますぅ^^?。 それとも吉備津神社のお釜神事に聞きますかぁ(笑い)   その詳しくは吉備津神社で御検索を^^! ( 完了)
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 < 筆者より >
長い間、駄文へのお付き合いありがとう御座いました^^!
つぎの記事のアップは9月にはいってからを予定しています。
尚、当ブログの“原本”となる 電子出版; 極秘報告書「巨大隕石と大津波」文芸社 は10/21で契約解除でなくなります。
ご入用の方は、お早めにどうぞ^^! といっても 12年の販売で15冊ほどの実績です(泣き笑い)
                                        史実探偵 平 素人 拝、
「吉備の大量の銅剣の探索」 その続きⅣ
 「吉備の大量の銅剣の探策」 その続きⅣ
<卑弥呼が埋めた(吉備の)大量の銅剣を捜して!>
                                       (2016/4/20 )
   お客さまへ> この記事は追記方式で進めています。
            今回(7/05)をもって、一旦この記事を終えます。
   書き込みがないにも関わらず、日々訪問して下さる<お方様>
     こころよりお礼を申し上げます。
    つぎの記事は、「総社市・神明遺跡」を予定しています^^。
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 さてと、吉備の岩屋に埋めてあるとした大量の銅鐸のほうは一応の目星がついた。
 あとは実行を残すのみ。ですが、そこは“立ち入り禁止”の場所なので一時休止して^^! 
 次は、その銅鐸とセットして埋められている大量の銅剣類の探索に移ります。


<その前に、今迄の(拙ブログの)要点を、今一度整理しておきます。>
新しいお客様のために^^

今からおよそ1700年前、 卑弥呼は、「私達が今まで崇めてきた荒神さまは、主神太陽のお使者であるよ」と唱え、その象徴であるとした魏からの銅鏡100枚を「出雲と総社と神戸と野洲」 の4ケ所に分け与え, それまで各部族が雨乞い等の厄災時に、荒神を呼び寄せ乗り移させるために使用してきた銅鐸は 「岩」の付く地に埋め。そして生け贄を殺めた銅剣(等)は、その西進してきた荒神に容易に取られぬようにと、ふた山越えて、その西方向及び西南方向で、約1里(=約4km)離れた場所にあって、天に抗う△剣山の形をした山の北側と対面した陽光のあたる山の斜面に。
     
       ひと山越えてぇ  ふた山こえてぇ  三山のまえでぇ  
        狸さん、々さん踊ろじゃないかぁ~

 卑弥呼は、
『 この銅鐸、二度と その荒神に乗り移せまじ!この銅剣、二度と その荒神に持たせまじ!!』
と持ち寄った銅鐸につづき、その大量の銅剣に大祈祷をして “埋封”(筆者の造語)した。
(注: それまでの一時保管する埋納ではなく、二度と使わないとして封印して埋めること。)

 銅剣の埋め地を銅鐸の埋め地より、西及び南西方向としたのは、BC.2001年12月、竜飛崎上空を飛び、東北地方に降臨した巨大隕石が発した巨大津波と巨大地震の西進によるもので、その大事変は、大雨を降らし、津波は魚介と瑞穂を運んできたことから、竜となり、荒神さまとなって人々の心に入り込んだと謎解きした。その後、その時の降雨と交換してもらうために、「私達には、これ以上に大切なものはありません。どうぞ、そのお力で慈雨を下さい」 と稚児の命を差し出すまでになった。その歴史が永々と続いたある年に、全天を覆うほどの大彗星が現れた。その退散祈祷をしたのが卑弥呼であった。この件でカリスマ性を増した卑弥呼は、稚児の生け贄を伴う「銅鐸文化」を止めさせ、「銅鏡文化」、すなわち太陽を主神とした身代わり象徴文化へと変えていった。
  ( 詳細は当ブログ: カテゴリー「巨大隕石と大津波」 と「・・・、この指とまれ」を参照して下さい^-^!
       

卑弥呼が魏から得た銅鏡100枚 =
    出雲の銅鐸39個+野洲の銅鐸24個+神戸の銅鐸14個+吉備の予測銅鐸数(23個)

    吉備の予測銅剣数は、吉備の予見銅鐸数23(±α個)×9 =207本

※ この9の数は、 私が Dr.>と仰ぐブログ “いずものこころ”での<論説>から、
      (出雲岩倉の銅鐸数39個と 出雲荒神谷の銅剣数358本の比率) を引用しました。


以上ような論をたて、色々に探索するも、素人の貧弱な知識と行動力では、中々にその的が絞れていない。一番最初は、「谷奥」の言葉にとらわれ<黒尾・西谷>から入っての探索であったが、現地での探索は思っている以上に広くて悪戦苦闘を強いられた。つぎに<経山>の北側に連なる峠状で筆者が「牛の背」と名付けた辺りを思いついたが、これもシックリとこない。さらに、大量の銅剣が出土した出雲・神庭西谷の荒神谷では、その南側に「三宝荒神(さんぽうこうじん)が祀られていた」という情報を新しく得たことから、鬼ノ城(きのじょう)の西に「三宝」に似た「山王神社」があったことを思い出し、その裏山で倒木バタバタの山斜面を捜索するも、その大量の銅剣を埋めるような場所は見当たらずじまいで今日に至っている。 しかし、この度の岩屋の(前記事)銅鐸探査で新しく^^?仕入れたことがあった。

<その一つ、矢谷>
岩屋での銅鐸の埋め地を絞り込みに出かけた時、駐車場でそこを管理しているお人からの情報で、「今はこの地を離れているが、以前に、この所の谷あいに住んでいたことがあって、そこは新山地区<矢谷>と呼ばれていること。そして、「その名の由来は、○○の命がこの所に向かって矢を放ったことから付いた」と聞いていると、教えて下さった。 まてよ・・・・・?? だったら『その矢はどこから放ったのであろうか? 前の記事「足高神社」で見つけた“矢射り台石(仮称)”。 それと、<経山探索>の時、気になっていた上部が平らの据え石があった。大小2基あった。その時は、その上で何かに向かってお祈りする為の石台かとも思っていたが、足高神社と同様に、その上部で矢を放つ為の台石だったのではないのか? 共に急峻した山の中腹にある。急峻している場所を選んだのは、見通しがよく何にも邪魔されず矢が撃ちやすいからだ。そうだ!その写真を撮りに行こう。
<経山、登山道の中腹にある矢撃ち台石?> (2016/4/24撮影)
  経山・矢撃ち台

さらに、岩屋寺金堂の境内に残っている基礎石は、「今は建物の形はないが、昔、鐘楼があった」とも伺っている。これも前記事の倉敷「足高神社」と船穂町の「高徳寺の鐘楼」の関係に似ている。以前、なにげなく見過ごしてきた小さなことが、推理小説風に段々とからみ繋がってきた。面白くなってきたぞ^^。 このセンで捜して大きくは間違っていない。
(蛇足ながら、my報告書の全記事は、独立形式をとってはありますがその全ては“隕石”に繋がっています^^!)

<その二つ目、新山>
この銅剣探査で、絶対に外せないことがある。その一つに、「ひと山越えて~、ふた山越えて~、み山の前でぇ~」 その大量の銅剣を埋めたとの “伝言 ・マリツキ唄” がある。出雲では、大量の銅鐸が埋めてあった加茂岩倉~大山、大黒山~仏教山の間の二山。神戸では、いわや(桜ヶ丘)~○○山と○○山~荒神山。野洲では、大岩山~○○山と妙光寺山~三上山までの間に二山があった。しかし、この総社市岩屋の捜索では、岩屋と経山との間には「犬墓山」の一山しかない。新山とあるが、その頂きらしいものが見当たらない。しかも岩屋から経山まで(約4km)一里、離すべきところが1km少々しか離れていない。「その進入許すまじ」とした剣山型の経山は絶対外せない。・・こまった。困った。・・、そこでご先祖さまは考えた。4kmのほうは無理だが、その間を「二山(にやま)地区」と名づけて「ふた山」あることにしょう(^^!)。それが訛って→<新山・にいやま>になったか^^? この新山は、以前の筆者が登龍山に上った竜神を竜神木に見立て砂川へと引っ張り出す歴史がつづき大きな神木がなくなってきたから、新しい山から伐りだそうとしてその山名をつけたと謎解きしていたが、それは間違いだったかも知れない。いずれにしても、その昔が卑弥呼の生存する1700年?の前のことだから確かめに行けない^^!。

<その三っつ目、北斗神社>
この北斗・ホクトの名前は岩屋銅剣探索の段階で早くに得ていた。この新山地区で鬼ノ城に行くかたわらに直径1m余りの大きな釜が据えてあった。「鬼の釜」と呼ばれているそうだ。そこで出会ったご老人からの話で、「山王神社を少し上ったところに「北斗神社」が石碑だけだがある」と伺っていた。その時は、卑弥呼の代に去来したと思われる彗星に関係すると推理した「妙見信仰」や「北斗信仰」に繋がっているかと軽くうけながしていた。しかし、この度の「もとの名は、二山(にやま)で、それが新山(にいやま)の字をあてるようになったのではないか?」 と思い込む(^^!)ことにしたことから、 ひょっとして、吉備の大量の銅剣の埋め場所は、その“石碑・北斗神社” あたりではないのか? たとえ岩屋と経山の間が一山であろうと、南であろうと、 「巨岩がある岩屋と剣山形の経山は、絶対外せない“約束事”だ!」 その間はワイルドに考えればいいとの思いが生じてきた。
 先の探索では、銅鐸の埋め地である「岩屋」に段々近くになり、離して埋めることの意味がうすくなることや、ふた山離して埋めるべきところ、<犬墓山>の一山 しかないことから意識から外していた。 ・・・そうだ。 これも現地をおとずれ、写真撮影に行ってみよう。

総社市岩屋・経山付近図    ( 図はYahoo!Japan,Zenrin地図に加工を加えています。)
   岩屋・経山付近図-2

         <↓大量の銅剣が埋めてあるとした北斗神社石碑周辺 >

             × (2016/5/00撮影の予定)





    素人探偵の推理が正ければ、
大量200本余りの銅剣類が“ここで”1700年の眠りについている!! □

      あとは、「その場所を探して写真に収めればいい」・・・と、 
      このように結んでこの記事を終えればいいと思っていましたが???

<一筋縄ではいかなかった!>
 筆者としては、かなり近くまで絞ったつもりでいたが、現地調査においては、私有地も多くその承諾をとりながらの捜索になるので、実績や肩書きのない ドが付く素人の説明では 「ここを掘らしてください」 といっても許可が出そうにない。地元の人の協力なくしては、ことがならない。 一度、事をこじらせてしまうと “立ち入り” さえも出来なくなってしまう。 
   ・・・「時を待ちたい」・・・

     経山矢撃ち台石より北斗神社方向(天空の茶屋太一や)を望む
   経山矢撃ち台石より北斗神社方向
   

    
 まことに、申し訳ありませんが、以下の 『 記事 3頁分は、』 ブログには揚げないこととしますので、よしなに・・・・・・・(^-^!)

('16/7/05)をもって、この記事を一旦おえます。・・・ありがとう御座いました。(深礼)
       つぎの記事は、 「総社市・神明遺跡」 を予定しています^^。
       どなた様> 2拍手目をありがとう御座います^^。
< 岩屋 に埋められている大量の銅鐸、現地画策,その 2 >
     (岡山県総社市の)
< 岩屋に埋められている大量の銅鐸、現地画策,その 2

    ご訪問ありがとうございます。この記事は、今回(5/12)で完了しました。
         「お知らせ」
月別アーカイブ2016/11月<徐福達が日本史に与えた影響のⅦ>の記事を挿入しました。
(5/29記) 5/26に、ご訪問のお客さま> 3拍手をありがとう御座います。気付くのが遅れました。コメントを下されば助かります。コメント欄は、最下段のC0をクリックして頂けると表示されます^^!

   次の記事は (6/01)を予定しています。
     その間、カテゴリー<ゲスト様>で時間まちして下されば助かります^^!。 

  < 卑弥呼が埋めた(か埋めさせた)大量の銅剣と銅鐸を見つけたい人この指とまれ!>
表題を掲げて、十数年の広報活動を続けてきましたが、未だ、何方さまからも取り合って貰えていない。もう、私には貴家や世間さまがこのビッグゲームに参加して下さるまで、お待ちできる頭脳寿命は残っていない^^!。
      この先は “ ツルハシかついでスコップ片手に”の暴挙にうつります。
さて、あなた様は、「出土してから騒ぐ、それとも出土するまでを楽しむ」 のどちらになさいますかぁ~^^?(笑い)

      今までの概略・(卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸よりの抜粋)
<なぜ、“大量の”銅剣や銅鐸が埋められたのであろうか?> ← はじめて訪問して下さるお客様に^^、
銅鐸は、大量にまとめて埋められた以前にも、必要時以外は個々に(土中保管説)埋められていた。話は、これを大きくさかのぼり、「BC.2001年の12月25日、未だ暗い朝の6時頃、地球を半周した彗星が、龍飛崎の上空を通過し、三陸地方に巨大隕石となって光臨した!」 ←この詳細は、myブログのカテゴリー「巨大隕石」へ、どうぞ^^!
祖先はその赤く輝いた巨塊をその風切り音から“竜”と命名した。この巨大隕石は、隕石の冬による慈雨と、津波による魚介類や瑞穂という恵みを打ち上げ、そして犠牲を強要する荒神となって“人々の心の中”に入り込んだ。神の発生は大集団社会へと展開する核となる。その過程で雨水の必要性もだんだんと増してきて“雨乞い”が始まる。願う相手は、その慈雨をもたらした八大竜王だ。 この荒神様は、慈雨との交換に赤い血を欲しがる。生け贄の歴史は、最初の小動物からエスカレートして、 ついには 「私達には、これ以上に大切なものは有りません。 この幼子を煙に変えますから、どうぞ、この海水を、この幼子の煙を雨雲に換えて下さい」 と迄になる。 “その天竜水神を呼び寄せ、荒神を乗り移す媒体となったのが銅鐸だ!”  それ等の “雨乞い生贄文化” が永々と続いていた3世紀の初頭に、言い伝えの箒星が現れた。 朝夕の空にあるその星は日々に大きさを増していった!
  又来るあの大事変が!!   人々が恐れおののくなかで、ヒミコは云った。 
     「やがて、あの星は全天を覆うだろう。 私がその難を逃れるお祈りをしてあげる」 と、 
        結果的に、この彗星はニアミスに終わり、人々は大きく安堵した。
 
火巫女は説いた。「真は、お日様が主神で荒神彗星は、そのお使者であるよ。 その証しに、その星は、朝夕のお日様の方から来たでしょ。悲しい習慣りは、止めにしましょう」 元は、と云えばヒミコは、一般の子と区別するために、その削がれた耳を、おカッパ頭で隠し、人里離れた境内で “人身供儀用” として、大切にそだてられていた三歳~七歳までの幼子のうちの1人であったが、その口寄せが 「よく当たる」 ことから、その厄を逃れていた。この一件でカリスマ性を増した卑弥呼は、銅鐸を中国・魏から取りよせた銅鏡に替えさせた。初めて見る銅鏡に修厳者達は驚愕した。並みの驚愕ではない。太陽の光を反射するその鏡は直視することが出来ない。 目を閉じて地に‘ヒレ伏’した。日巫女さまの云うことに間違いはない! 早朝の戸口に白羽の矢を立てられれば、否でも愛児を差し出さねばならない社会制度。 雨乞いや厄災時には“その命”神が召すのだと! 稚児たちを殺めた。 一度使った刃は二度と使いたくない。出雲の大量の銅剣は、犠牲者の数だ。 このような「衆生雨乞いのための社会制度」に、不満がくすぶっていたから、卑弥呼の提唱する“銅鏡象徴文化”へと、容易に変わっていく。 しかも、ヒミコさまは、その銅鏡を下さると云う。 荒神・銅鐸文化が発達し、卑弥呼(銅鏡)文化へと変わった所には、 「その神二度と起こしてはならない! その剣二度と持たしてはならない!」、と
不使用にした銅鐸と銅剣が持ち寄られ、それぞれが 別離させて“封印”されている。 その「雨乞いは」、村人こぞりて行う大行事であり、その埋め場所は “衆知の事実”なのに、その銅鐸や銅剣が、ごく近時まで盗掘の被害に遭わなかったのは、墓泥棒も恐れるほどの “祟り”があったからだ。しかし、銅鏡にかえても欲しい雨は降るとばかりは限らない。「やっぱり荒神様は、生娘を欲しがっているのだなぁ~」と歴史は続いていく。 
以上が解れば、「主題の、大量の銅剣捜しは」簡単だ! 出雲では、すでに、その両方が出土しているから、
これに習えばいい。←この詳細は、myブログのカテゴリー「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」へどうぞ^^!
魏からの銅鏡数100個=出雲銅鐸数39個+<吉備銅鐸数23±α個>+神戸銅鐸数14個+野洲銅鐸数24個
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 2016 / 2 / 04(木)        
 この日の気温は10°C前後で晴天。総社市鬼ノ城(きのじょう)へ着いたのは午後の1時頃、平日のせいか、60~70台停められる駐車場には、10台ほどしか停まっていない。観光の時期を外れるとここまで足をのばす人は、歴史に興味のある人か健康志向のハイカーしかこないようだ。ここから車で10分ほど走ると目的の岩屋へ着く。それでも、10台ほど停められる駐車場には2台の車が停めてあった。目的は(自説)卑弥呼が関係したとする大量の銅鐸(予測数23個)が埋められていると推察している岩屋(宮?)の裏山で、その銅鐸が埋められているとした場所をピンポイントで写真を収めておきたいとの思いからだった。というのは去る1月23日、岡山県立図書館で、著名なお二方の吉備の歴史についての講演を受けたことに影響された。

 以下、その講演の概要
<吉備の弥生文化と青銅器>
 日時 平成28年1月23日(土)  午後1時~4時
 場所 岡山県立図書館多目的ホール(岡山市北区丸の内2-6-30)
 主催 岡山県古代吉備文化財センター
     ■  弥生時代の瀬戸内地域の交流と吉備地域
         田崎 博之  愛媛大学文化財調査室長・教授 
     ■  吉備の銅鐸  (仮題)
         難波 洋三  奈良文化財研究所埋蔵文化財研究センター長

<御講演で “銅鐸”についての所感>
銅鐸は四千年前、東北地方に降臨した巨大隕石(奥州市、岩淵國人先生「縄文超々巨大津波」文芸社)=荒神=竜神=水神を呼び寄せ乗り移す媒体だと、すでに謎解きしていたが、具体的にどんな使われかたをしていたかいまいち解けていなかった。
①流水紋は、その時の津波紋だとすぐに分かったが、綾杉紋は初めて聞く言葉である。御講演を聴きながら思いついたのが地震波ではないかと? 三角紋は巨大隕石が飛ぶ時の光り輝く隕石光だとすでに謎解きしている。銅鐸文化の根幹には、四千年前の大事変(myブログで)の巨大地震と大津波(宮島辺のご先祖は、朝南から朝来たと云い津波高約16・7m?myブログ)が大きく作用している。
②銅鐸のすそ部の柄、四区紋から六区紋について、
四区は区画四方かと思った。つまり、東西南北の四方の気から神を呼び寄せ銅鐸に乗り移って貰うためのもの。それに天と地が加わり六方の考えへと移行した。シコで変換すると四股、四戸が出てくる。「シコを踏む」とか「六方を踏む」とかの言葉もある。さらに東西南北を分けて八方(郭)へと移っていく。そして、八方に天地を加えて十方へと移行した。十方暮れ等の言葉もあります。
③銅鐸上方の粗雑に開けられている穴(他の精巧さに比べて)について、
難波先生は、「銅鐸は湯沸かし器でその穴は燃した時の煙穴」だと云った人がいた。とユーモアを交えて仰ったが、ふと、そのセンもあるかもと思った。というのはこの時期、吉備津さまで鳴る釜の神事があると聞いている。その神事がいかにされているのか知らないが、銅鐸でいうと、荒神様を呼び寄せて荒神が宿った時になにかの変異がなければならない。私は、新築時に悪しきを払うご祈祷をして貰ったことがある。湯釜の上の蒸篭(せいろ)でもち米を蒸す。その時、共鳴共振現象が起きて「ブオツー」と鳴る。鳴る時ばかりはないそうだ。銅鐸を吊るしてその下で火を燃す。すると、舌が揺れて銅鐸をたたく? 円形にしたのではたたき辛いから楕円形にか^^? 神事を終え熱く憑いた銅鐸荒神を冷ます時、素手では熱くて持てないので、その粗雑な穴に棒かなにかを突っ込んで水に漬ける。この事は、結果として埋めてあった銅鐸の錆付きや土を落とす事となり、銅鐸の長持ちにつながる。いずれにしても吉備津さまの「鳴る釜の神事」の子細を知りたいと思う。
④銅材料について、
銅鐸の銅材料から、年代、産地を割り出す方法があるとは、新聞か何かで見たことがある。
詳しいことは、素人には分からないが、段々と立派なものにしたいのが世の常^^! さらに、より裕福な郡(こおり)ほど、大きなものへと造り替えていった。この場合、現在使っているものに材料を足して新型大型へと造り変えたことも考えられる。特に、吉備地方は破壊文化(田崎先生)があることも知った。 さて、銅製材や銅鐸の拡布だが、私は『徐福達を外しては語れない-myブログ』と思っています。彼等は、その製法や製品、はたまた薬事治療を持って、人足や列島各地の珍宝薬石を集材し、中国の旧正月に合わせて中国へ送り届ける交通網を作り上げた。陸路は出雲から備後へと、そして出雲・千屋を経由して備中へと。さらに、敦賀湾から愛発関を通り琵琶湖へと。海路は田崎先生に勉強させて頂きました。TVで村上水軍を先祖にもつ秦(性)の人がいました。
⑤銅製品のお金的価値(難波先生)について、
興味ある考え方ですね。それが判れば食料生産量等から その群落が持つ人口数等も推察出来そう。昔の人がいうに「一畝一俵、一株一茶椀、一穂八十八粒、大人一食1、5合」 と教わりました。                                      以上、思いつきまで、□

< 公園デビュー(予告 )出来なかったのは、全て自分のせい >この講演(1/23岡山県立図書館) の最後に、「時間のつごうで、お一人だけご質問をお受けします」と頂いたのに挙手が出来なかった自分の不甲斐なさを思うと悔やんでも悔やみきれない。120名の歴史家の方達のまえで、( 新米ママが我が拙論を連れて) 公園デビュー出来たのにと思うと残念でならない。願ってもこない千載一遇の好機を逸してしまった。 これで又、広報の振り出にもどってしまった。 ・・・・・、 今となっては、それ(大量の銅鐸や銅剣)を 自分で掘り上げるしかない! ! 

<こんなこともあっての岩屋寺の探索である。二度探索した>
  岩屋寺観音院
    ○○時代のその昔には、東の比叡山と並び称されるほどにぎわっていたとか。
  岩屋寺観音院

  鬼の差し上げ岩
  岩屋鬼の差上げ岩

岩屋という地名は、この人手とも自然風化ともつかない姿形をした巨岩に由来する。そして「鬼の差し上げ岩」と呼ばれるのは、鬼が差し上げたとする(右手の)痕が巨岩の下方についていると伺った。それをネットで知った若者連れが下にマットを敷き寝転んでその霊気をもらう パワースポットとなっているとか^^!。 近年に下部が崩落し、危険なことから、現在は、縄を張りめぐらし立ち入り禁止となっている。

  鬼の差し上げ岩と、同じ敷地内にある岩屋寺金堂
      岩屋寺金堂
この先の記述(3頁分)は、地区のご迷惑や 歴史破壊に繋がるから^^!
( '16, 2/15 現で! ) ブログには揚げない〔極秘〕未公開 とします。この先は、先様でお考え下さい。長駄文にお付き合い頂きまして、ありがとう御座いました^^。 
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<記事が中途半端 になって真に申し訳ありませんが>
このあたり一帯は、鬼ノ城の観光地化に伴い、心無いハイカー(私自身^^!)もあるのでしょうか^^! 「私有地・地主さまの協力のもとに成り立っている」 との立て看板がありコースを外れての立ち入りが禁止されています。

<卑弥呼が埋封した大量の銅剣や銅鐸の埋め地を 「ここぞと推定しても>
立て看板には、『樹木の伐採、草木の採取、土石の掘削等は県知事の許可がいる』 と書いてある。埋蔵文化財は貴重な国民の共有財産です。文化財保護法では,周知の埋蔵文化財包蔵地、またはこれに隣接する土地において土木工事などの開発事業を行う場合には,都道府県・政令指定都市等の教育委員会に事前の届出等を,また新たに遺跡を発見した場合にも届出等を行うよう求めている。その発掘費用(今から18年前の見積もり数百万円!アーカイブ2008/4月へどうぞ^^)は原則的には地主持ち。素人が勝ってに掘り出しても専門家のお墨付きがなければ意味がない^^!。

さらに、土砂災害防止法では、土砂災害のおそれのある地で『上記』のような作業をする場合、あらかじめ規定の届出をせず、又は虚偽の届出をした者は科料が科せられる。宅地又は垣、柵等で囲まれた他人の占有する土地に立ち入ろうとする場合においては、その立ち入ろうとする者は、立入りの際、あらかじめ、その旨を当該土地の占有者に告げなければならない。等の規定もある。実績のない素人が 「ここに、卑弥呼が埋めた大量の銅剣や銅鐸があります」と言っても、だれ一人(専門家が)相手にしてくれない現在、その申請書がとおるとは思えない。

このように、二重三重四重の幾多の困難が待ち構えている。金属探知機をかつげばいいのだが。それでは意味が半減する。素人探偵がたどり着いたように、 「地名と、地勢と、その歴史的背景」 を探れば、ピンポイントでその埋封地(筆者の造語)を特定できることに意味がある。
   ドがつく素人が、スコップ片手にツルハシかついで掘る前に、先様の“お許し”が要る。
     たがために、血反吐吐くかや、時鳥(ホトトギス)、おぼろなりとも、月さえあらまじ
       ( カテゴリー<ゲスト様>粗茶室より
闇夜のホトトギス。 その口内は、血反吐を吐いたような赤い色をしている。温暖化のせいでしょうか? その不如帰(ホトトギス)の声も年々少なくなり、今年は当地で一度も聞いたことがありません。 

史実探偵: 平 素人
(5/29記) 5/26に、ご訪問のお客さま> 3拍手をありがとう御座います。気付くのが遅れました。コメントを下されば助かります。コメント欄は、最下段のC0をクリックして頂けると表示されます^^!
<銅鏡の入魂遺構(その)歴史の移り変わり>
('16/3/29)
本日をもってこの記事を終えます。一ヶ月ほどのお付き合いありがとう御座いました^-^。
尚、記事の全ては関連しています。カテゴリー別でみるとご覧になり易いかも知れません。
  ←お勧めは、「史実探偵局」です^^!
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<銅鏡の入魂遺構(その)歴史の移り変わり>
 「かぐや姫伝説」本当にあった! 
     時の帝(みかど)が満月の夜、かぐや姫を迎えにきた使者を阻止するために
     (銅鏡)月に向かって矢を放ったというもの。その矢射台(仮称)があった!


<倉敷市船穂に銅鏡の入魂遺構あり>の記事、その後
  “本年(2015)の冬至の朝” に、倉敷市船穂に集って下さるよう前々の記事で呼びかけた。
  二十数年来、奥州市の I.先生を除いて、何方様からも相手にして貰ってはいない^^!。
  今回も、「駄目だろうなぁ~」と思うが、万が一のお人があった場合のためにその下準備
  だけは、詰めておきたい。12月に入って“冬至の朝”ではないが、船穂の神戸に立って
  東方のどの位置から朝陽が昇るのか確かめておきたい思いがあった。以前の調査では、
  自分の思っていた神戸→向山公園ラインより、20度角ほど南に振っていたように思う。
  東の空には雲がかかり都合よく明けてはくれない。タイミングが合わない。
  倉敷市・向山>の稜線から昇る朝日が拝めない! 旧庄屋宅のそばの池の土手に立てば、
  谷の右手の山に隠れて全く見えない。谷の左側中腹にある宝満寺あたりに上ってみると、
  細長い向山を外れて、その南に見える小高い山のあたりから昇っているように思えた。

<倉敷市・ 足高神社へ!>
その小高い○○山へ行ってみた。
 前述の思いから12月のとある日に、その○○山へ行ってみた。名前こそ知らないがその山は、東西に走る国道2号線の南わきにあり、そのわきを通るたび、社寺の建物は見えないが、なにかの社寺があるのは知っていた。国道工事で削り取ったのであろうか、その北側は、かなり急峻している。そこへ行けば何か教えてくれるかも知れない思いからだ。

<○○山 ←鬼山?
小高い山(標高63 m)にあるその神社の名前は、足高神社。山の北側から上るとその道は、かなり急で道幅も狭く乗用車のすれ違いも難しいほど。晴れてはいるが肌寒い土曜日の朝、途中二・三組のハイカーとすれ違う。頂上は意に反して起伏こそあるがかなり広いと言える。案内版を見れば、社寺のほかに、遊園地、ちょっとしたグラウンド、頂上の一段高い展望台、屋根付きの休憩所、等々、山の周囲が市街化してゆくなか、健康志向の人達の穴場^^!であろうか、その人たちが散々と上ってくる。平野部に孤立した山の山上部からは、木立を通してではあるが360度、倉敷市街が見渡せる。手入れも十分行き届いており是非のお勧めだ。駐車場は数台と、十台余りが停められる二ヶ所がある。

<探索、その1>
まずは、山上の展望所へ、小広いながら一段と高い山頂は展望台として整地されてはいるが周囲の木立が邪魔をしてよく見えない。ので筆者一番の関心事であった西方へ下りていった。途中樹齢こそ若いが植樹されたヤブ椿の花のトンネルを抜けてゆく。この赤色のヤブ椿は、その昔、農事呪縛の木とされた桜と並んでいたと筆者は(別紙の報告書で)認識しているから要注意だ。「なぜ、それを植えたのですか」と。その先に四角い中国風の穴窓がある屋根付きの休憩所がある。中に、二列の丸太様のいすが設えてある。まずは一服^^! 周囲を見渡すと幼児の乗馬風の遊具の基礎であろうかが残っている。枯れ葉の季節ではあるが筆者の欲していた西方の<船穂町神戸>が確認出来ない。 望遠鏡をもってくれば良かった。
・・・さてと、帰るとするか。 ・・・・・・、

< 気になる立石!?>
と、何気なくその広場の西方の端に立つと、急峻した下方に自然石風の立石がみえる。このような石は、総社市・経山の探索(別記事)で、経験したことがある。2mに近いその石の下にはハセ石があって明らかに人手があったと記憶している。何んのためにかは判らなかったが。今回もそれがあるのではないかと降りてみた。ハセ石はないようだ?。・・が、明らかに割り砕いたあとがある。説明が難しいので写真を入れるといいのだが、約1m四方の立場石と、それに沿って前方に50cmほど小高くした二つの囲い石がある。その囲い石は立場での落下防止か? それにしては低すぎる。
   (↓入れました^^!)
 矢射り足場台石
 さらに同様の石組み(下の写真の左上隅)が、その下にあった。このような石組が1ヶ所だけなら、何かの偶然かも知れない。しかし、同様なものが2ヶ所となると、それは重要な意味をもってくる。祈祷の場所か?? そして降り口からこの2ヶ所をつなぐように、今は崩れてはいるが上り下りを易くするような階段石もころがっている。しかし、その方向性は、筆者の欲していた<船穂の神戸>より、かなり右手方向の北に振っている? 分からない。解からない。心無い人が記念にと何字かを刻んでいる石もある。史学がこの “二組の足場石”を認識している(?)とは思えないほど荒れている。(後で宮司さまに聞けば、二条岩、三条岩と呼ばれているとのこと。
 二矢射り足場台石
     ・・・、足高神社へお参りすれば何かを教えて下さるかも知れない。・・・、 

<足高神社>
祭神は、正面に天照大明神、向かって右手に足高大明神、バチ当たりが先か、ボケが先かは知らないが左手の大神様は覚えていない~~!。 上がった所は神社の正面に向かって右からであった。そこに以外というか成るほどなというか、小さな(  m)土俵が設えてある。建屋はなく露天である。小さいと感じたのは大人が実際に相撲をとれる大きさでないこと。 さりとて、幼児ならとれそうだが、その不思議は周りに観客席用の空地が無いことだ。それを伺わなければなるまいが、何かの象徴的な神事のためかも知れない。昨日今日の設えではなく、近年の設えでもない。きれいに掃き清められていて遠い昔から大事に受け継がれたかの風雨のあとが見える。南側の正面にまわり拝殿より、その神殿をおがむ。拝殿の正面には大きな銅鏡が飾られてある。
今上天皇・皇后様のお写真もあり、その御座位60周年を記念してお出でになったもよう。その記念樹の楠木も植えてあった。全国数ある神社のなかで天皇・皇后の両陛下がお出でになるとは、かなりの名刹なのであろう。おどろくべきは、その境内を一周しても寒風、落葉の季節ではあるが、箒目のあとがたち落ち葉一つ落ちてはいない。その信仰の深さが伺える。近年の改修も含めてかなりの数の寄進の石柱が立っている。覚えているなかでは、白楽町や四十瀬、の地名があった。

<足高神社その不思議>
以下は、筆者がその神社を訪れた時、直感的に感じたものの覚えであり大きな間違いや観察違いがあるかも知れないことをあらかじめお断りしておきます。

その 1. 鳥居がない不思議
拝殿から振り返って、言い換えて拝殿を背にして南方向を眺めれば遠くの山すそと山すそが合う谷間を眺めており、その視界をさえぎるモノは一切無い。普通、神社といえば鳥居があるものだが、上部に横たえる石状のものはなく、石段の上がり口の左右に丸い石柱がズドンと立ててあるだけ。左右の狛犬も無かった?(後日訪れると有りました^^! )ように思うし、その見通しをさえぎりそうな木々は途中で伐採されている。不動産業に「お宮の前に、お寺の後ろ」という言葉があるが、そこは買い手がつき難いというもの。これも何かの意味があるのかも知れない。

その 2. 足高神社その立地場所の不思議
一般的に言えば人家の密集した倉敷市の中央にある鶴形山の阿智神社のほうが知名度は高い。足高神社は、その倉敷中心街より2kmほど離れたところにあり、今では新興の住宅が増えつつあるが、その昔は田園地帯に周りを囲まれ、わずかに高い南側の山すその旧人家だけであり、阿智神社に比べると圧倒的に閑散として(ゴメンナサイ^^!)その氏子数は少ないと思うが、その足高神社が何故に天皇家の訪れを受けるほどの古刹なのか?

その 3. 足高神社その方角性の不思議
足高神社は、平地にあり東西およそ700m。南北がおよそ250mほどの孤立した山。高さは標高63mであった。<前述記事で銅鏡の入魂遺跡ありとした>船穂町の神戸を基点とした東西線から約20度角ほど南へ振っている。前々の記事の図にかえり、高量山を基点にその角度を測ってみると、約20度角ほど北へ振っている。ということは、足高神社の山の西端と、高量山・高徳寺と、旧庄屋宅は一直線上に並ぶ。しかしながら、先の立石を囲んでいる二つの縁石の中央を延長して眺めると、船穂町神戸をはるかに外れた北寄りになってしまう。・・・・・なにかが間違っている。  (後で調べると、北寄りと思ったのは間違いで、ほぼ西方向でした。good^^!)

その 4. 足高神社その名の不思議
足高神社とは、妙な名前である。神聖とされる神社に足の字を付けるのが解せない。体の部位では足は、一番下にあり一般的に、足には下等のイメージがある。なのに何故? 広場の脇に<葦高小学校>の記念樹が植えてあった。<足高>が先か<葦高>が先か? 普通に考えれば、葦の名をイメージの悪い足の字に変えて神社名にはしない。 ・・ ・・・、まてよ ・・・・、
 ことの本質には、「 冬至の日の出光、光陰矢のごとし!」 がある。
絵本で見たことがあるが、かぐや姫を月からの使者が迎えにくる時、それに抗って時の帝が満月に向かって矢を放たせた。 つまり、冬至の旭光がその先に設置してある銅鏡に届くように、
 その“高く設えた縁石は、矢を遠くへ射るために片足を高くのせるための台であった”のだ。
「 足高神社の由来石!」 右利きの人なら、その縁に左足を乗っけて天に向かって矢を放つ!

 なぁ~んだ。ご先祖様からの伝言は、そのままに受け取ればよかったのだ。その立石が2基あるのは一人では心もとないから、一の矢、次の矢と強く撃ちたいと考えたからだ! 勿論、その放たれた矢が○km先の高徳寺までとどきはしないが、形式的な儀式として行っていたと考えられる。

 <高梁川河口周辺地図>
                ・・ を載せたいのですが、仮図として^^!、
旧庄屋宅  ←
船穂町神戸                                        (北)
           高量山・高徳寺                            ↑
                      ← 高梁川(川幅ほぼ600m)
                                         向山
                                    ←
                                         鬼山・足高神社  

  <足高神社その昔>
足高神社のある山は、その昔は葦に囲まれた島であった。周りは海であるからして放たれた矢は海に落ちてしまうが象徴的な行事として行っていたのである。海だったことを語るのに、笹沖とか○○新田の地名が周囲にある。その中に<鬼山>の地名があり、山の頂部にある貯水搭の脇の電柱にも鬼山分とあった。その島の昔は、そのように(今でも?)呼ばれていたのであろうか。それはそれで鬼に関わる別の歴史があったのかも知れない。
 
<別の日の朝、日の出の位置を確認>
本年の冬至('15/12/22)は、まだこないが、日の出がどの位置から昇るのか確かめにいった。まずは、なにものにも遮られない高梁川の土手の上でその日の出を待っていた。その日は快晴。その日の出は、思っていた鬼山・足高神社から、さらに南に外れた場所から昇ってきた。時間をみておくはずだったが、見忘れてしまった(モノ忘れ& ボケが始まっている。 汗~)。 たぶん、7時20分前後ではなかったかと思っている。

<ここで、つぎのような地球の軸振り運動の話をしておこう>
今年のいつ頃だったが、覚えていないが、イヌイットの長老がNASAへ出した手紙がニュースになったことがある。「地軸が傾いて、若い頃の日の出の位置と、今とでは、その上る位置が変わって来た」 というものであった。地軸には歳差運動があってコマの軸のように振れているのは既知の事実であるが、長老の一代で確認できるほどのものかがニュースになったのである。全くもっての素人判断であるが、緯度によって、つまり極にいくほど大きく振れるのではないでしょうか?(^^!) 以前に、ウエブで調べて、その素人計算をしたことがあった。全くあてにならない数字だと思うが、70年に、1度角ずれていくとの答えであった。観測する緯度にもよるが、仮に15歳で観測した日の出の位置と、85歳で観測する日の出位置が1度角のずれであれば、人知では確認できない。しかし、それが700年、1400年の歴史を経ると10度角、20度角とその位置は変わって行くのである。おおざっぱな数字で申し訳ありませんが、徐福来訪が今からおよそ2200年前、卑弥呼が今からおよそ1700年前、さらに時を経て神代(かみよ)の歴史が続いて行く。・・・ ・・・、

<今回の日の出の調査では>
   船穂町神戸を基点として
              高徳寺・高量山
                        向山(公園辺りか?)を基線として、
                         ↓
                         鬼山・足高神社
                            ↓
                        (2015/12月)今現在の日の出位置へと移動している。
 ※仮に、その間を10度角+10度角の20度角にしても<神戸→高量山→向山>ラインは、
   1400年前となる。是非に史学、天文学での正確な数字を出して頂きたい。

 もう一つお願いがあります。
史学がこの足高神社 の“二組の足場立石”を認識しているとは思えない。大枚をかけて公園様に整備されてはいるが、その立石のある西端は荒れている。もし、そうであれば、なにやらの名を付けて復元して頂きたい。きっと大きな“観光遺産”になり得る^^。私は、かつて、総社市の<鬼の城きのじょう>の復元の後先を訪れたことがある。その前は、石ころさえもありやなしやの山林と化していた。素人目には、かつてそのような遺跡があろうなどとは小指の先ほどにも思えない所であった。専門家の考査に、驚きと敬服を覚えた記憶がある。それに比べると今度は簡単。それと、気付きさえすれば、素人目にも判る(笑い)。

<その確認>
足高神社西端から放たれた矢(=冬至の日の出光)は、どこを狙って射ていたのか?
 船穂の高徳寺を訪れた時、妙な違和感を覚えていた。小高く盛られたお寺へあがる時の門が、“鐘つき堂”となっていたのである。「妙だな」と、思いながらも、今に至っていた。しかし、この度、ひょっとして、その矢は、その鐘つき堂を狙っているのではないか? ・・・、その思いは的中した! その鐘つき棒は、外から内へ向かっていた! 筆者がその形式を知らないだけかも知らないが、総社のお稲荷さま等は、内から、外へ打っていた?ように思う。さらに、先の出雲の記事の冬至の光道ラインに、<鐘築>の地名が残っている。 それが今では、煩悩を落とすとか、時を知らせる時報の歴史へと変わっている^^!。蛇足ながら、前々(環状木柱列・ウッドサークル)記事の富山県桜町遺跡、石川県チカモリ遺跡にも同様な石組みがあると予測出来る。近場のあなた、興味のある貴方さまがいらっしゃったら是非の探索をお勧めします^^♪。

(この記事を終えるにあたって)
     「 かぐや姫伝説の月(銅鏡)に向けて矢を放つは史実であった!!」
この『祖先からの伝言』が貴方さまに伝わらない。初めからいえば、これ等の広報に27年あまりをついやして来た。この実績のない素人がこの先、幾数の駄文を連ねようと専門家の認証がなければ世間さまは納得しない。「足高」とは、変な付名だなぁ~と 子ども心に思ったことが誰にもあるはずだ。その一語に何故?なぜ?なぜを重ねてゆけば、より大きな歴史へと繋がって行く。「足高」の付名の現存は何人も否定することが出来ない。もし、この「足高」の歴史を否定する貴方さまがおられたら「足高神社」にお参りして、頭(コウベ)を垂れそのお頭(オツム)にたまった<現史学のスス> を宮司さまに、お払いして貰らえば^^!、 きっと、ご先祖さまからの真言は見えてくる。 もう、この素人探偵の力では、とても無理だぁ~~、お願いします<困ったときの神(足高神社さま)頼みぃ>^^!
                                      ('15/12/10) □
                   史実 を 探偵する : 平 素人(ヒイラ モト)、  拝

'16/4/24 ○○様> 本日は、ありがとうございました。 拍手に感謝します。^-^♪ 
'16/3/27 & 4/2, うさぎ様> コメントありがとうございます^-^♪
 真夜中の訪問者さまへ> 
更新のないときにも関わらず、何故? 毎日訪問してくださるのですか?  
子ども心なら残っているのですが、自分ながらの、長駄文に魅力があろうはずもなく、
「なぜに、毎日に?」 の疑問がぬぐえません^^?。  ありがたいことです(深礼)。
 広報を始めて28年ちかくになりますが、どうしたら、この報告書が世間様に伝わる
のかの謎が未だに解けません。疲れました。この上は駄文を連ねるではなく。 「実行
あるのみ」 かとも思います。あなた様の思いを<杖>として、がんばります。

・・・・・、つづきます ^-^!
徐福達が日本史に与えた影響のⅦ(まとめ)
<徐福達が日本史に与えた影響Ⅶ>まとめ

('16/6/11記) Dr.さま> コメントありがとう御座います。
コメントに気付くのが遅れてゴメンナサイ。田沢湖5角ないし6角形の件は、『実は私では、・・・』と仰っていましたよね。洞爺湖に類似していたのですね。先生が教えて下さった<渡来人>をたどりコメントを入れました。レベルが高く難解が殆んどですが、趣味するところが一緒のようなので頑張っています^^!。「吉備の大量の銅剣と銅鐸」のほうは、かなりいい線までいきましたが無名の素人が実掘するとなると、地権者さまにその了解を得ねばならず、難しい問題が横たわっています。しばらく [渡来人・古代史掲示板]で、がんばりますので、時おり覘いて下さい。 まずはお礼まで、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

≪地名の・養父について≫
(まず始めに)
 この記事の作成は、徐福・ジョフク(中国人) の名前すら知らなかった筆者に大きなカルチャーショックを与え、そして、それについても多くのご教示を頂いた<いずものこころshigechan izumo 氏なしでは考え付くことすら出来なかったことに多大な敬意と謝意を表します。その氏とのコメントのやりとりが前述記事のⅠ~Ⅵにありますので楽しんで頂ければ幸いです。又、当ブログのリンクに<いずものこころ>を張ってありますで是非に訪れてみて下さい。すごいお人ですよ^^♪。

<何故に養父ヤブなのか?>
この地名が倉敷市玉島乙島にあるのを知ったとき、少年心に何故か異質なものを感じた。日本語読みでは養父母の「ヨウフ」なのに。それを何故「ヤブ」と読み、何故、地名になっているのかと? ちなみに中国では「ヤフ」と発音する。
 後に、兵庫県の養父市を知り。 さらに、前述の記事「宮島」の地で小さく隠れて、そのヤブの地名があった。この「養父ヤブ」の地名に素人探偵は、一つの疑念を持ち、 ・・・いつか記事にしようと思っていた ・・・、つづく^^!
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 【 前記事、Ⅰ~Ⅴ.Ⅵまでの要約 】
列島の津々浦々から出土している銅鐸は、どのように列島へ流布・拡布したのか(謎Ⅰ)?
 又、「津」の地名は、誰が統一したのか(謎Ⅱ)?←この思いは徐福達なしでは考えられなかった。

  秦の始皇帝(BC246誕生 BC221即位)が、徐福(BC278誕生)に童男童女3000人と
  武人、百工、五穀、等を与え、東方彼方の蓬莱国の三神山(日本列島)から“不老不死、
  不老長寿”の薬石と仙人を連れて帰れと命じた。(又は、徐福が願い出た。)
大船団を組んだ徐福たちは、流れの強い対馬海流によって分断され、海難や漂流にあいながらも日本海沿岸に分散漂着した。このことはお互いに他を捜し合うことになり、後の薬石探査に幸いした。各々は、その漂着地に生活拠点をつくり、そこから内陸部へも果敢に進出していった。
そのなかで、徐福が列島のどの地に着岸したかは判らないが、彼が乗る船は、屈強な船員が乗る旗艦であることからして、最も先の西よりに着岸する。 神話で、「○○から下りた神々が集いて酒を酌み交わした」と、ブログ<いずものこころ>で知った筆者は、それを徐福達が再会を喜びあったとし、その地は、当時の航海力をかんがみ、出雲(出雲市唐船の近くか?)ではないかと思っています。
 各々は情報交換の後、各地に帰り、とりあえず蒐集した薬石・珍宝を中国の正月に間に合うよう始皇帝のもとへ送り届けたい。それには強い対馬海流に流されても大陸や半島に渡りつけるであろう列島の西よりに移動し、そこから出帆するのがいい。その地は九州の唐津(時代が下がると長崎へ移動)ではないだろうか。
 さらに、その探索は瀬戸内沿岸や、徐福伝説の残る、九州・四国・紀伊半島・東海地方。 北は、津軽海峡を太平洋側へと回りこんで三陸側へと進み、列島住人と交易できる宿場(や、市)を形成しながら、年一の神無月に出雲に「八百万の神々が集い」。時を経ながらも海路を主とした交通網を列島に作っていった。当時の出雲の先進性は、今の中央都市の東京のようであり、そこへ本社組織をおき、列島各地の支部組織と連絡をとりあったのではないでしょうか。
  そして、ⅤとⅥでは、列島人と徐福分隊との関わり合いについて考えてみた。
        ここまでが、<徐福について>の記事(Ⅰ~Ⅴ,Ⅵ)の概略です。



 新訪問のお客さまの為に^^!
<↓以下~以上までは、前々の記事からのピックアップです。>
“蓬莱の地 に三神山日本列島 =蓬莱頭の仙人 縄文人” という情報は、朝鮮半島を経由して中国へ入っていたとしか思えず、徐福以前にも朝鮮半島から列島への渡来があったのではなかろうか。

特に、朝鮮半島の東海岸には<津>に関係する地名が多く魚の打ち上げを表す地名がある。
<魚大津・オデジン> 
これは又、直接的でたいへん分かりやすい地名だ。魚が大量に打ち上げた。しかも大きな魚だ。

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<方魚津・パンオジン>
ちょっと閃きました^^! (この項 '15/10/19記) BC.2001/12/25. 日本時間で未明の朝6時ごろ、東北地方に巨大隕石が衝突した。(カテゴリー巨大隕石と大津波) それが発した巨大地震や巨大津波の来襲を半島の人達は「東方神起」と唱した。今、私達は自分たちの国のことを「日本・にほん・ニッポン」と云い「ジャパン」とは言わない。「ジャパン」は、外国人が付けた名だ。この<方魚津>の発音は、その「ジャパン」に似ている。<方魚津・パンオジン>とは、その方向から津波によって大量に打ち上げられた魚を言い表す意である。<津ジン、方パン>の国。それが「ジャパン」の始まり ^^! だと、素人探偵は断言できるのですが。 さて、貴方さまは、いかが^^?
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卑弥呼より500年ほど前だったかな。日本では縄文の頃。前記のような歴史的背景から秦の始皇帝(BC221即位)は、「徐福(BC278誕生)」という人に童男童女3000人を与え、東方の彼方へ出向き “不老長寿” の薬石・薬草を持って帰れと命じた。

古代中国の人々は “人を拒むような危険な場所や深山にこそ、その霊薬が秘そんであり!” との考えが強い?と思っています^^) 
これは明らかに私の偏見ですが、中国の人って「その危険を好んで?“薬食”を求める」傾向があるように思います。深山にしか生えないという茸や、絶壁の岩ツバメの巣・くまの肉球・しかり、危険をおかしてまで手に入れた “薬食”ほど高価に売れる。なにもそこまでしなくってもねえ、と私は思うのですが?(^^!)

③ 列島の津々浦々へ散らばった、徐福達・秦(はた)の人は、珍宝薬石を本国へ送るための集荷地として、年1回、十月の<神無月>に出雲へ集まることを申し合わせた。 
④ これに、列島各地の倭人達が徐福分隊と、どのような言葉を交わし、『八百万の神々』となって、海路陸路をふくめて<出雲>へ出向くようなったのか?の謎は解明できませんでしたが、今私達が「神」という神を秦の人達と、とるか銅鐸を求めに出雲に出かけた各地の太夫さん達と、するかは、別として、出雲へ八百万の神々が集まるというのは、史実に基づいた伝承である。(^-^)

童男童女3000人を引き連れて」とはいうけれど、Dr.>の云われるような可能性を考えると、現実的には<童男童女を含む3000人>に修正したほうが良いかも知れませんね。始皇帝は徐福の出立後9年後?(○○歳)で没しています。

列島では、丸太くり抜き舟がやっとの時、中国では、すでに○○人乗りの帆船を有していた。とは言え、3000人のこども達を分乗させた操船力・推力の弱い船団の全てが、ヨーイドンの横一列で出帆するわけでなく、海流の速い対馬海峡を渡って同じ地に着岸できるものではない。それから○○百年?後の遣隋使・遣唐使の時でさえ航運を祈るための特別な男(○○)をしつらえて航行が上手くいけば接待三昧♪、上手くいかなかったら、全ぇん~部、その男が役に立たなかったからだとして^^!その命を断ったという。いかに○○人乗りとはいえ未成熟な帆船。海流に流され分散して列島の日本海沿岸の各地(唐津?、萩?、出雲、石川、富山、あるいは秋田、青森まで?かな^^!)にたどり着いた。

この人達の目的は、その恐ろしき神が棲むという東方から『不老不死』の薬石を皇帝に持って帰ることである。童男童女を伴わせたのは、例え何代かかろうとも 「必ず持って帰れ!」との皇帝の強い意志があり。そこで安穏と定住したとの噂でも立とうものなら、たちまち皇帝の十万二十万の 大軍に討伐されてしまう。始皇帝は万里の長城を築城させるほどの強権の持ち主。その恐ろしさは云うまでもない。(その出帆の9年後? に没した始皇帝ではありましたが「あれほどの物資や人を持たせたのに、何故、徐福は<その妙薬>を持ち帰えらんのだ!」と怒ったそうです^^!。)

<徐福・その後> 
徐福達は、例え何隊に分断しようとも<一段落>がつけば必ず沿岸沿いに西進、或いは東進して仲間達(徐福)を捜し合う。ブログ<いずものこころ>の記事のなかに『大勢の神々が天より下りて酒を酌み交わした』 というくだりがありましたが、素人探偵はこれを徐福達の船団が再開か無事を喜びあった場面だととらえています。そこで「我が着岸地にはこんな“モノ”が有りました」等の連絡・情報の交換が行われ東西に妙薬探しの為に行き来する航路がだんだんに出来あがる。そして徐福が居るべき本拠地も定まってくる。徐福は(?)、一時的に(?)かどうかは分かりませんが、薬石・物資を集める司令地として“出雲”に在住していたのではないでしょうかぁ? (出雲の優位性、先進性は、カテゴリー出雲地方; Dr.>とのやりとりへどうぞ・・)

賢明な徐福のこと。如何にすれば列島の珍宝薬石を集材し、中国に送り届けるための組織をつくりあげることは簡単なことだ。今の会社組織でも本社があり支店がある。創作話として、出雲に本社、支店を丹後、越前、富山、越後、新潟、酒田、牡鹿半島、艫作崎におく。(これ等は、思いつきであげましたが、要は今現在に発展しているところと竜神文化と出雲の神の影響があるところと申し上げておきましょう。何故ならば、この人達が日本海沿岸の発展に寄与したと思っているからです。)次に徐福のなすことは、要職をきめ・部下の配置転換。そして(童男童女の)社員教育。有力情報があれば支部への視察出張もしなければならない。さらには、本社で年一回の<支店長会議>を設ける。忙しい忙しい師走に!(笑)


<しかしDr.izumo氏とのやりとりから >
「童男童女を使わしたのは、例え何代かかろうとも」とか 「童男童女の社員教育」と考えたのは私の間違いであった。それを教えて下さったのが<Dr.の 次のコメントです。

『 私の推理はこうです。
彼らは決して日本列島の人々に文字を教えたり、中国語を教えたりはしなかった。
その理由は、彼らがプロとしてのエージェント教育を受けていたからです。日本列島の人々が漢字をたやすく使えたり、中国語を理解できるようになってそれを話すようになれば、特命を受けて日本列島にやって来た自分たちやその子孫と、区別がつかなくなるのです。
彼らはあくまで秘密結社としての集団性を維持する必要があったのです。いかに多方面に散らばろうとも、漢字を用いて中国語を話す人と出会えば、それはまさしく秘密結社の一員との遭遇であり、同胞との遭遇であると確信できるように、彼らの文字と言葉は彼らだけの間のものとして保持していたのです。』


<童男童女は被験用か?> 
何故、童男童女3000人なのであろうか。わたしは、それを「たとえ、何代かかろうとも必ず持って帰れ!」との始皇帝の強い意志からだとした。だが、それだけであろうか? ドクターとのやりとりで強い疑念がわいてきた。不老不死の薬石は、“それと確かめてこそ、その価値が認められる”人類の歴史で<新薬の開発>には多大の時間と、費用と、多くの実験と経験を重ねてきた。それ(残虐性)と、口にするかしないか、向き合うか向き合わないかは別として、最終的には「人体実験」をしてのみその効能が認められる。 
始皇帝の功績とその暴君ぶりは、Dr.>のほうがよく識るところであり、わたしは始皇帝が何を考え、どんな死生観をもち、兵馬俑や不老不死の霊薬を求めさせるに至ったのかをまったく知りません。それを逆に、お伺いしたいくらいです。始皇帝は、それを諫めた長男を追いやり、460人の学者を穴埋めにし(その中で、「自分たちで、その薬を発明し生き長らえよ」とでも言ったのでしょうか?)、その声は「狼(ろう)の如し」といいますから誰も抗らえません。少なくとも徐福は、自身の考えはどうであれ始皇帝が没する(9年後?まで)皇帝の意(?)に沿うような薬石探しをせざるをえなかったと思います。ご存じのように秦朝は12年後(汗~^^?これも後で調べます)で、滅びています。もとより始皇帝の“不老不死”の考えは無理な話しで多勢が受け入れない部分。その死後は急速にさびれ・・・、「後は野となれ山となれ」・・・、(笑)

<徐福;今までの概略>  
 さて、童男童女を含む3000人の徐福団一行は、対馬海流に流され、海の藻くずと消えながらも、千々に分団されたことが幸いして列島の日本海側に各拠点もできた。各々はお互いを捜しあい連絡をとりあい、とりあえず<出雲>にその本拠地をおいた。出雲を本拠地としたのは筆者の独断であり、むしろ史家は、その足跡の少ないことから徐福は出雲にはいなかったとするのがおおかたの見方のようです。(そうでしたね。Dr.^^?) わたしが izumo氏 のことを<Dr.と呼ぶのは
Dr.ワトソンと、シャーロックホームズをもじって、Dr.Izumo>と、Sher-rock.Homeless(降岩家無人)略して、Mr.ホームレスと名乗るようになりました。(アハハと、・・・泣き笑い^^!)

徐福団3000人のすべてが無事に列島に着岸できたとは思えない。
今から2200年余り前の航海力。最悪の場合を想定して、半分の1500人がそれぞれの地にたどり着いたとしよう(合掌)。1500人にしても大した数である。例え、一船団の30人?(or ○○人?)が着岸しても当地の人達はビックリ仰天する^^。
徐福団は自給自足の生活は覚悟の上ではあるが、難儀のあとの航海疲れもあり。そこに住民がいれば水や食料をくれないかと乞う。勿論抵抗すれば争いとなるが、住民側にすれば、びっくりが先で「何も拒む理由はない」そこで融和らしき関係が出来上がる。徐福団の場合、薬石の探索が主目的であり、中世にみられる植民地化を目的とはしていない。植民地化が行われたのはその地に自分達の欲しいモノがあると分かってから後のことである。そして住地・住家の獲得提供へと進めば、お礼として病人の治癒へと発展する。 列島の人達から見れば「神様がお出でなすった」(^-^!)

始皇帝は、徐福達に「不老不死の薬石と、その仙人を連れて帰れ!」と命じた。 その時、中国へ入っていた日本列島の情報は、「はるか彼方、東方の三神山に、水墨画にみるような蓬莱頭(ばさばさあたま)で不老長寿の仙人が棲む神秘の国」というイメージでしかなかった。いわば未知への探検である。中世ヨーロッパの歴史で、東方に「黄金の国ジパングあり」として船団をくり出したことはある。共に未知への出立ではあるが、それとこれとは大きな違いがある。かたや黄金という富を求めてであり、一方の徐福達は、富と権力は、すでに手に入れた始皇帝が欲するその薬石である。又、その構成人員にも違いがある。欧州の方は当然船をあやつる屈強な者たちであろうが、徐福達は“童男童女3000人”という断り書きがついている。中世でさえ海難はつきものの時代。それより○○○年も前の話だ。 何故に、童男童女3000人なのであろうか? それが解せない・・!

徐福達は、日本列島にどのような人がどの程度住んでいるのかは、分からずに出航した。一概に「不老不死の薬」と言っても、その対象が五十・六十歳の人か。三十・四十歳の人か、あるいは十九・二十歳の人かによって薬の処方は異なる。徐福が列島で自称120歳の人と、その人が服用していた“養老の水”だ。といって連れ帰ったところで誰も信用しない。さて、困った・・。
④ これに、列島各地の倭人達が徐福隊と、どのような言葉を交わし、『八百万の神々』となって、海路陸路をふくめて<出雲>へ出向くようなったのか?の謎は解明できませんでしたが、「神」を現地集合の秦の人達と、とるか銅鐸を求めに出かけた各地の太夫さん達と、するかは、別として、出雲へ八百万の神々が集まるというのは、史実に基づいた伝承である。(^-^)
(この項 '15/10/19記)→ 当初の「神」は、中国の人達であったが時代が移るにつれて列島神話人も加わった?
⑤ なにはともあれ、出雲は、永々として築きあげた列島本来が持つ<竜神・雨乞い文化>と、大陸文化が絡まり合って、『八百万の神々が集いて神議』をおこなう郡郷・中央都市へと発展していった。

<徐福、没する>
徐福が没したのはBC208年とされる。されると言うのは何処で何時死んだか不確かなようだ。そのことは専門家に委ねるとして、BC208年であれば始皇帝没から2年後で渡航後11年後となる。中国の史家、司馬遷(しばせん)によれば、「平原広沢の王となり戻らなかった」とあるようだが、帰らなかったのではなくて帰れなかったのである。始皇帝から大資を受けて「そのような霊薬はありませんでした」等といって帰ろうものならひどい処遇にあうのは目に見えている。事実、始皇帝の暴君ブリを知っている人達からすれば、「徐福はうまいことやったな」 というかも知れない。徐福にそのような下心があったかどうかは知らないが、徐福は列島に大陸にない美しさと神秘性にひかれ、住民のいう荒神伝承(前述の大事変による巨大地震と大津波)を聞けば、日本列島の何処かに“三神山”はあると信じて探しつづけていたに違いない。なかで静岡県にも徐福伝説があるというが、富士の山を見れば、きっとその形状に心を奪われたであろう。不二の山とは、列島のすべてを知る者ぞのみ付けられる山名であり、この山名は、列島の住民が付けた山名ではない。ちなみに「不」を先につけるのは中国語の特徴でしたよね^^。不知・、不客知・(笑い)

<徐福の没後>
徐福が亡くなったからといって、その配下やナンバー2はいたはずだ。不老不死の薬石探しを止めるわけにはいかない。彼等とて始皇帝の命を受けて渡航しているからだ。しかしながら、そうはいっても徐福が亡くなり、その命を出した始皇帝や秦代(BC221~BC206)さえも滅びてしまえば、その呪縛は?除々に解き放たれてゆく。だが仲間同士が神無月に出雲に寄り合うことは続いていった。9年のあいだに培われた海路はその後に発展したであろう陸路(古代陸路)とともに、中国本土や列島各地との商工路として機能するようになった。
富山の薬売り、近江商人、出雲の特殊鋼、○○の遠洋漁業のもとづえは、徐福達がなしたのだと私は思っている。そして端(はた)=秦(はた)=湊(みなと)の人達として歴史は流れてゆく。富山には今でも立派な内倉を持ったお家が残っている。そして、奈良の大仏殿の造営では秦の人達が財を寄進したというから、その人達はその後にも中国本土や列島各地との交易や工商によって蓄財をなしていったのかも知れない。

上記の“白砂青松”は、徐福達の初期の日本海沿岸行動と重なる。徐福達の目的は不老不死の薬石を探すことにある。それは<東方神起>の神の居場所を探す旅でもある。なぜなら、神=不老不死の考えに基づいているからだ。徐福達は、きっとその美しさと白砂の鳴き音に心を奪われたはずだ。一方、列島の住民達は、その白浜は四千年前の荒神竜が運んできたとの信仰(これは筆者の思いつきです)がある。 ここで双方何んらかのコミニュケーションがあったと思われるが、それが推(よ)めない。この徐福についての記事のなかでもくろんできた(謎Ⅱ)の「津の地名は何時誰が統一したのか?」に、全く関連づけられない!! 

< 註 & 訂正 > 始皇帝について少し調べました。
始皇帝は不老不死を求めて、徐福より以前に二人の方士(薬石や施術によって医療行為をする人?)にその仙薬をつくらせようとしたが、もとよりそのような薬はつくれるばずがなく皇帝の怒りを怖れて二人は逃亡してしまった。これを怒った皇帝は見せしめのために460人の学者を穴埋め→トラウマにしてしまった。さらに、これを諫めた長男を格下げにし北方の警備隊に追いやってしまった。その後、徐福に3000人の童男童女(若者)と 百工(色々な職業のひと)と 五穀を与え、蓬莱(国)より不老不死の薬と、その仙人を連れて参れと命じたようです。

<今回、わたしは、これに、二つの持論を重ねて>
 一つは、その遮光器は、BC.2001年の未明、釜石あたりに落ちた巨大隕石の強烈な光を目の当たりにして、眼底を焼かれた人々がいて、それが歴史の伝承として遮光眼鏡となったのではないかということ。これを導き出したのは、青森県・白神岳、秋田県境・真昼岳、山形県境・面白山、等の地名からです。これ等は巨大隕石と大津波によって、その表土を剥ぎ取られた<岩の手地方>を囲むような位置にあります。(詳しくは、カテゴリー巨大隕石へどうぞ^^♪)
    又々、岩手県で、その時の巨大津波の痕跡見つけました。どうぞお楽しみに!
二つには、徐福(   年出航)の船団がこの地に来訪したと考えるほうが確率的に大きいこと。その土偶が身に付けている装身具は、あまりにリアリティであることから、徐福団の武人が着用していた武具を着せたのではないか。ということ。片方や、等身大8000体の武士俑がつくれる国。それも一人一人の面相が異なっているそうですよ! 此方ぁ(こなた)蓬莱頭(ほうらいあたま・ぼさぼさ頭)の仙人が棲むところ。 これくらいの物質文明(?)の差があれば当時の人達でも、『 宇宙人が来た!=別世界の神々さまが来た!』 と思っても無理もありませんね(笑)。

<徐福の立ち寄り場所>
いずものこころ -Yahoo!ブログ- 古代出雲『徐福伝説』の謎 2005/12/21 より、
  ↓以下を借用します。
徐福の出身は斉(現在の山東省)で、身分は道教の方士。神仙思想(東方の海上にある三神山に、不老長生のための薬を持つ仙人がいるという説)に基づく不老不死を実現するための呪術や祈祷・薬剤の調合に長け、医薬・天文・占術などに通じた学者でした。しかし、徐福は中国には戻りませんでした。
徐福の渡来地として日本のいろいろな土地が挙げられ、伝承が残っているとされています。主なところを挙げると、青森県小泊村、山梨県富士吉田市、東京都八丈町、三重県熊野市、宮崎県延岡市、佐賀県佐賀市、佐賀県諸富町、佐賀県武雄市、広島県宮島町、京都府伊根町、鹿児島県串木野市など、北は青森から南は鹿児島にまで及んでいます。日本には30もの徐福伝説があるとされています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
             ↑以上は、前々の記事からのピックアップです^^!


 徐福達が日本史に与えた影響、(前々の記事の)その概略^^!   (Nov.09,2015)
  次は筆者の独自案であり、思いつき感がつよいので、その道に詳しいお人の論評と訂正を求めます^^!。         

〔 徐福達が関係した、そのひとつ々、〕                                                                                        
<中国(の正月)に仕送りするべく、年一に出雲に集合する交通網をつくりあげた。>
 日本海沿岸と瀬戸内を幹線にして大陸への出帆地を北九州の唐津港とした。
 後には、出雲を“中央都市”として、列島人(荷役人)を交えた陸路に発展していった。
 徐福たちが提供するものの最たるものは、列島人が欲しがる銅鐸だったと思われる。
<中国五穀の種の持ち込みと、水稲の稲作に貢献した。>
 彼等は永住こそ出来ないものの「たとえ何代かかっても」の言葉が生きている限り、定住して
の食物生産は必要であり中国五穀や、野菜果物の種子も持って行きたい。今に列島で中国
 原産種といわれるものの中には、徐福たちが持ってきた物があるかも知れない。  
<列島の薬石探査と中国の医呪術を施術、加持、試行した。>
 方や、8千体の兵馬俑、十万二十万の軍隊を繰り出せる国。 こな方、蓬莱頭(バサバサ頭)
 の縄文人で小さな埴輪の土器出土の群郡。その圧倒的文明差をもつ徐福たちが求めるもの
 は“不老長寿の薬石”。徐福たちにすれば、新しく見つける薬石の聞き取りやら、その処方を
 試してみたいが当然なこと。その被験体に列島人がなった。共に長生きが主目的。列島人に
 すれば病気を治して下さるありがたい神様仏様^^。前述の記事で各地に残る道祖神二体は、その夫婦かとした。
<住家の建材調達や建築、船作りを手伝わせた。>
 徐福たちがどのような建材を求めどのような住家を建てたのか。筆者はまったく知らない。
 その時の縄文弥生の人達の住家は竪穴式住居だ。
 徐福たちの住居とするところは、船を係留できる港のちかく。今の湊・ミナトの地名はそのな
 ごりかと。それと内陸にあっては“唐人山”にあるように山の頂上ちかく。それに対して列島の
 人達が住んでいたのは山と海川が交わり、その両方の幸を得ることができる丘状にあった。
 この二つが共に居住区を同じにして交えることは決してなかった。が、徐福たちにすれば、大
 陸へ渡る船造りは必須条件であり、その建材を求めることは重要だ。人手もいる。大海へ繰
 り出したという江州人や、ソマ(木へんに会)の地名やいかだを組んでの川くだりは、そのこと
 に関係しているとにらんでいる。それからブログ<いずものこころ>であった「なにやらの木を
 なにやらの神さまが(大陸から?)持ち帰った」 とありましたが、それは幾度かの往航の後、
 あれこれと追加で持って行きたい物の中に、水に強い桧の苗があったのではないでしょうか。
<陶器や織物づくり(にも関係した。>
陶器や織物造りは徐福たちにとっても生活の必需品。ガマのお綿の因幡の白兎の話に始ま
り雲州木綿や、備中綿の種は、その人たちが持ち込んだのではと思っています。ちなみに、
中国やインドは綿花の大産地で、とくにインド綿は良質のものがあり。
 陶器は、多岐にわたりそうなので、ここではノータッチします^^!。

〔関係しなかったもの〕
<食文化>
 外国の人が日本に来た場合、反対に日本人が外国へと住んだ場合、一部の例外を除いて、
 食文化は中々交わらない。味覚というものがどのようにして覚えられ刷り込まれていくのか
は分からないが異国に住む時、集団や、仲間うちだけで生活する場合は、ほとんど食文化は
交わらない。ちなみに、欧米人のうちには日本人のことを魚臭いと思っている人達がいるし
日本人は欧米人のことをバタ臭い人達と思っている人達がいる^^!。
<宗教及び信仰>
仏教がいつごろより日本人の内に入り込んだのか、筆者はまったく知らない。逆に徐福たち
は、日本のことを「東方三神山」四千年前(注;除福からは○千年前)の大事変発祥の地とと
らえている。徐福より○百年後の卑弥呼の代になっても魏志倭人伝では、列島の稚児を生け
贄とした雨乞い儀式を見聞きしたのであろうと思うが、卑弥呼のことを「鬼道に事へ、能く衆を
惑わす」とある。徐福たちは、東方よりの“四千年前”の巨大津波と大地震によって良渚文明を
一瞬にして滅ぼした(奥州市・岩淵先生)中国の歴史を伝聞しており、その恐ろしくもある未知
の地への薬石探しが目的であり、“列島に既存している四千年前の大事変をもたらした荒神を
主体とする信仰”には関係していない。しかし、中国大陸まで伝わった大地震や大津波をもた
らした、その恐ろしき神には興味があり、その事変を列島の人達から聞き及んで龍画として
モンタージュした。 竜は中国発ではなくて日本発の逆輸入(史実探偵)なのだ!!
中国の為政者のうちには、その龍を討伐すること(龍の舞)によって政治をおさめる考えがあっ
たと筆者はみています。西安8千体の兵馬俑は、東を向いている。さらに、中国にある朱塗り
の寺院は、日本の東北の空を飛翔した巨大隕石の朱であり、ミドリ成す唐草模様は、日本発の
巨大津波の色だ(としました^^!)。
<教育。 とくに漢字や言葉は教えなかった。>
 特に、この項は素人探偵の思いの及ばなかったことであり、御教示を受けたDr.いずも氏の
 言を再び掲載します。        
『 私の(shigechan izumo氏)推理はこうです。
彼らは決して日本列島の人々に文字を教えたり、中国語を教えたりはしなかった。
その理由は、彼らがプロとしてのエージェント教育を受けていたからです。日本列島の人々が漢字をたやすく使えたり、中国語を理解できるようになってそれを話すようになれば、特命を受けて日本列島にやって来た自分たちやその子孫と、区別がつかなくなるのです。
彼らはあくまで秘密結社としての集団性を維持する必要があったのです。いかに多方面に散らばろうとも、漢字を用いて中国語を話す人と出会えば、それはまさしく秘密結社の一員との遭遇であり、同胞との遭遇であると確信できるように、彼らの文字と言葉は彼らだけの間のものとして保持していたのです。』 又、氏のコメントで 『クラスター爆弾のように列島に散らばった除福たちではあったが 弥生式土器に残された文字は極めて少なく、その上にひとつの土器に一文字くらいのものが稀にやっと見つかっている』 との不思議を言われている。
 ですよねえ~。通訳を含めて “不老長寿の薬石やその探索” に来たとは、列島人にベラベラ
 と喋れない^^!。徐福は、3千人の童男童女。あるいは、童男童女を含む3千人を受けて列島
 に渡って来た。例え、徐福が列島から自らを120才を越えた。あるいは、それ以上という
 仙人を中国へ連れて帰ったところで始皇帝(誰も^^?)は、信用しないし出来ない(笑い)。
 さすが、白髭三千丈をいう気の長い中国。3千人の “童男童女は、長命実証用” として連れ
 て来たのだ。この件は、当記事の本題であるので、・・・つづきは後へ回します^^!。

< 政治。港湾を除いたインフラ整備>
史学の多くは、列島で名ある神々や為政人の中には、政治に携わったとする大陸や半島人を
挙げる向きがありますが、筆者は例外を除いて、彼等は政治に加わることはなかったと見てい
ます。圧倒的文明差や病の治癒をしたことにより、現地人からは神様仏様と崇められた徐福た
ちではあったが、大陸との往航を重ねるうち豪商とは成りえてもても、決して、列島人を統利す
る長にはならなかった。否、なれなかったのである。「その声、狼ロウの如し」という始皇帝。
殺生与奪を欲しいままにし、長命の薬石の作成を命じた方士((薬石や施術によって医療行為
をする人?)2名がトンズラしたことを怒り、460名の方士に「お前達でその薬を作って生き永ら
えよ」といって穴埋めにした始皇帝の恐ろしさは骨の髄まで染入っている。列島の長となり安穏
と暮らしているとの噂でも立とうものなら、十万二十万の兵を繰り出されて、たちまちのうちに
討伐されてしまう。例え、始皇帝が亡くなり秦朝が滅びたあとでも、大資をうけて出立したてまえ、
人々「何を云うやら」分からない。それより何より、徐福のプライドがそれを許さない。徐福は
その薬石を探して列島のどこやらで(?)果てている。徐福たちは例え何代かかろうとも、その
根底は “サバイバル”であり、そのサバイバルに港湾を除いてのインフラの整備は必要ない。  

<秘密性の 特に高かったものⅰ~ⅲ.> 
       この項は、とくに筆者の独自性が強いので専門家のご批判を望みます^^!。
 今、筆者が論じているのは、卑弥呼より○百年も前の徐福(代)以降の話であり、日本では
縄文弥生の時代だと、あらかじめお断りしておきます。

秘密 そのⅰ. 銅の鉱材造りと、その加工
 このブログのカテゴリー出雲地方で述べたことですが、彼等は、銅の鉱材加工を銅の精錬
には公害を伴うため隔離した場所・大社町、島根半島の山中の<別所(←地名)>でした。
としました。しかし、この度の(出雲市)間屋・西神湖の調査で、大社町のほかの神門町にも
<別所>の地名があることを知り、この場所が当時の海の中にあったかどうかは分かりま
せんが、(地名の多い)人家の多い所にあります。これによって少し考えが変わりました。
鉱害ではなく機密を保つためではなかったか?と。

なぜ、<別所>との地名をつけたのか? 
この地名が「いつ、どこの、誰が付けた」のかは確定できない。しかし、今までに述べた出雲市に神代から付けたかと思われる特異地名はワンサカとある。その中にあっての<別所>である。この地名は徐福たちが付けたのか。それとも列島人がつけたのか? ここで、特に考えておかなければならないことは、徐福たちは、先のDr.が言われた「秘密結社」である。表立った行動をしては、ならないのだ。彼等は、列島の付名には殆ど関係していない。例えば「秦」の地名だ。中国よみでは「シン」と読む。これを日本語よみでは「はた」と読むことから、筆者は傍らの「端はた」に住む人達だとした。この例に代表されるように、列島では彼等が関係する地名は見かけ難い。人口が多ければ、先住民の地名を使っている。東北地方に数字付きの地名が多いのは、人口が少なく地名が付いていなかったので、番号付けの地名を振ったかとした。
 余談になりますが、(特に中学生諸君に^^!)北海道では、思いの外、小地域で地名が密集している。(国土地理院5万分の1地図)。これは、アイヌの人達が土地自体を神と考える信仰ありか?としました。

<別所>とは、何に対しての別の所か? 何を成すところか?
神のオワす所か?。違う。 それは、神座とか。大社とか。盤座。御座・・・・・神庭^^! 等という。
では、異人さんの住む所か? これも、しっくりこない。自分達が外国人であり、地元の人からは、
すでに<秦はた>傍、端、で住む所の地名で呼ばれている。 徐福たちは、百工と呼ばれているよろずの職業の人達を引き連れて渡航している。衣服であれば<服部・はっとり>とか<織部・おりべ>。陶器であれば<陶・すえ>のような地名を付けて。これらが、さして機密性をようするとも思えない。住家や造船においては、ことが大きく人手(手伝い)も要すことから、機密性は保てない。
 以上のことを考え合わせると、祈祷のための別場所か?と、銅の鉱材加工場 が残る。
列島人においては、すでに雨乞い儀式で荒神を呼び寄せ、それを銅鐸へと乗り移らせるための、お太夫さんの修行として滝行とか徒歩行(かちぎょう)がある。最後に残ったのは“銅の鉱材加工”。

<銅材について考える>
歴史をみると、石器時代→銅器時代→鉄器時代へとつづく。石器においては、打器にはじまり、石刃、矢ジリへと移っている。銅材においては、その融点が鉄より低いことから、鉄より先に発見された。ここで、大切なことは、銅は大陸からの移入であり、列島で発見されたものではない。
大型のイノシシや、鹿を狩るとき、石斧ではトドメを与えることが出来難い。その点で、銅の刃では、心臓まで届く突剣が作れる。大陸の出土品が殺傷用のものが多いのに対して、日本では祭祀用として発達している。このように銅材に対する考えは、大陸人が戦闘の実効用とするのに対して、列島人は神や権威の象徴用として用いているように全く異なる。もちろん銅材は中国においても大量に簡単に手に入るものではなく、鉄に対してさえもその希少性は高い。その銅材を得るための鉱石が出雲半島では、先のDr.Izumo氏>言で、「ゴロゴロと転がっていた」と、言われていた。それを徐福たちが見つけないはずがない。
 ちなみに、鉄器のほうですが、
鉄は、銅の融点に対して、約500℃ほど高いだけであり、その温度をつくり得れば銅の精錬より、はるかに簡単であり、木炭と砂鉄を交互にして皮革のフイゴを使うタタラ製鉄では素人でも体験できるとか^^!。出雲の“安来鋼”は不純物が少なく品質の良いことで有名。
 出雲の優位性は、銅鉱あり、砂鉄あり、おまけに少量ですが石炭の露頭まであると聞いている。
それに、火山・三瓶山・大山ありの温泉あり。それから作れる温泉の花。 海は、浅海・宍道湖での魚場ありいの、伯方の塩。おまけのおまけで雲州木綿。それに加えて、出雲の人の融和の良さとくれば小泉八雲でなくても、住みたいと思うよね^^。 長期在住していたかどうかは別にして、この地を「徐福」が逃す理由が見つからない。再度の確認になりますが、今、筆者が論じているのは、日本の八百万(やおよろず)の神様が出雲へ集まるという神代・かみよ以前の話であると申し添えておきます。大きく外れた話をもとにもどして・・・(^^!)

<徐福隊の工人は、“別所で”その鉱石で銅材を精錬した>
秘密 そのⅰ. 何故、徐福たちの工人は、その精錬を<別所>で成したのか?
 一つに、列島人が銅材で武器にするのを防ぐため。
彼等のうちには、銅材=武器の考えがあり、列島人がそれを知り得て武器をつくりだしては、ちょっとまずい^^!。 当時の銅材は、今でいうウランの精製や核兵器のようなもの。極力秘密にして教えたくない^^。では何故,人里多い出雲市○町に<別所>の地名があるのか。これは、大陸人(や欧米人)と日本人の“防犯意識の根本的な違い”にある。大陸では略奪にそなえて実効的な壁や塀を造るのに対して、薄れたとはいえ(今でも?)日本人のうちには、「境内」の思想が潜在しており、一度そこを境界と定めると 決して侵してはならない考えがはたらいている。
 二つに、商いとしての希少性を保つため。
当時の、列島人の群郡では、雨乞い祈祷の為に○○から→銅鐸を使用する過程にあり、大陸からの銅材製品はとくに魅力的であり、是非に欲しいもの。そして一度手に入れると段々と大きくて立派なものに作り替えたい欲求があった。そして、当時の列島人には、たとえ離れて交流のない群郡であっても“四千年前の巨大津波や大地震を共に経験”しており、それは“荒神様”が行為したとの共通した認識がある。その神を呼び寄せ乗り移させるための銅鐸は是非に欲しかったのである。徐福たちは、それに応えた。交換として、珍宝薬石の探索案内やら、荷役等の協力を頼んだのである。こうして、銅鐸は、列島の各地に拡散していった。この銅材作成の機密性は、奈良の大仏の作成では○秦の豪商の寄進があったと聞くからおそくまで機能していたのかも知れない。

 「銅鐸の出土している所に、徐福隊あり」
徐福自身がその地に出向いたかどうかは別にして、銅鐸は、東海の浜松あたりからも出土している。不二の山・富士山は、列島の全てを知るものぞのみ付けられる山名だ。「不」をフ、プ と発音するのは大陸の発音であり、徐福隊は東海地方へもその探索を広げている。と前述した。

秘密 そのⅱ. 新薬の試用と結婚
徐福たちは、自身も長生き実証の宿命をおっており、新しい薬石を試す時は、新薬として列島人に試用したと思われる。そして、列島人と血を交えることはしなかった。だが、その結束も時代が下がるにつれ、薄れ去り、今では、史学でさえ、その史実を忘れ去り 徐福たちを 「伝説だ」と云っている^^!。

秘密 そのⅲ. 長命実証用としての童子たちを<養父・やぶ>に隔離して育てていた!!!

       (長々と駄文を連ねましたが、次からがこの記事の本題です)


<養父の地名を検索する>             (Nov.09,2015~ 記)    
 徐福たちは、長命実証用としての童子たちを<養父・やぶ>に隔離して育てていた。
  次が、今回調べた養父の地名がつく場所の7箇所です。

日本国内のランドマークより
  ①兵庫県養父市養父市場 養父神社-ビル ⑤ 愛知県東海市養父町2丁目16
   兵庫県養父市薮崎字唐木   愛知県東海市養父町義神
   兵庫県養父市別宮   愛知県東海市養父町釈迦御堂
   兵庫県養父市新津
    ④大阪府枚方市養父元町

  ③広島県宮島市宮島町養父     ②岡山県倉敷市玉島乙島養父

  ⑥佐賀県鳥栖市養父町 ⑦徳島県鳴門市大津町木津野字養父の内

<なぜ、その地を[養父・やぶ]というのか?>
何時、誰が付けたのかは知らないが、考えてみれば、ずいぶん不思議な地名である。古今東西“子”の無い夫婦は、たくさんいる。その人達がこどもを欲しがり養子を迎えたとする。その行為があったところに「養父」の地名を付けたのでは、列島のそこら中が「養父」だらけになる^^!。歴史において、中国の大家同士が実子のやりとりをした例があると聞くし、日本の戦国時代で人質的に幼子を迎えて戦争抑止力としたことはある。しかし、そのことで、そこに「養父」の地名は付かない。その行為は、すでに社会的基盤ができあがった後のことであり、すでに「他」の地名が付いているからだ。くどいほどに言いますが、史学では、「地名」を「物証」に比べて一ランクも二ランクにも下に扱う。「地名」というのは、一度その地名を付すと中々変えがたい。もし、この私くしが勝手に地名を変えたならば、[あんたの言う“○○”は、どこよ?」と、なり混乱を生じる。「養父」は、「山、川、野、原」のような一般的地名とは異なり、人がなす行為によって付けられた地名であり、地名としては、かなり特殊な地名である。その地名が今回調べただけでも上記の7箇所あった。しかも、それ等の地の列島人のお互いが社会的、人的交流があったとは思えない。・・今日へとつづく^^!、        

<徐福は3千人の童男童女を連れて列島にやって来た。>
 次は、素人探偵の推理・想像の作り話です^^!。
徐福が童男童女を連れてきたのは、“長命実証用”のためだ。3千人の童男童女か、徐福団3千人の内に含まれる童男童女かは分からない。しかし、それでは話が進まないので、童男童女を含む3千人としよう。その3千人の大船団が、ヨーイドンの横一線で出航しない。隊列を組んで出発する。いかに、文明を誇る秦代の船であっても、推力は弱い。ごく近世まで「潮来一枚下は地獄」といわれた大航海。その内の千~千五百人は、海難にあったかも知れない。3千人の全てが列島に着岸出来たわけではない。そして、強い流れの対馬海流は彼等を分断した。さらに悪いことに、彼等は多くの食料を持たねばならず、実りの秋の米麦の収穫を終えてから出発する。これは台風の時期にかさなる。筆者は、大陸からの進出の度々が阻まれたのは、このことによると見ています。
 事実、徐福隊の第一回目は、その大鯨(=台風)によって阻まれている。“四千年前の”巨大津波と大地震を経験し、神風を発し、その行くてを阻む“東方三神山”の神秘性は、ますます増してゆく。深山のレイシ、熊の手しかり、切り立つ断崖のツバメの巣しかり、神秘性があり、危険を伴うところにこそ、その仙薬ありとするのが中国人の心意気だ^^?。

<徐福船団の編成>これも作り話です。
命カラガラではあるが、その内の1500人(とする)が分断されながらも列島に漂着した。一船の乗員をこれも仮で30人~60人としよう。徐福は、百工を伴ったとあるから、その内には色んな職業の人がいたに違いない。徐福たち方士はもちろんのこと、武人、船乗り、大工、陶工、織部、鍛冶、農工、そして、“長命実証用の童子達”の、面倒をみる婦人達。

<会社組織の作成>
分断した徐福たちは漂着した初期の生活が成るようになればお互いを捜しあう。彼等は徐福の元へ集結し、無事を喜び、情報を交換する徐福は(前述の)出雲の優位性から出雲に本拠地を置くことにした。徐福は、多勢を失いながらも人員を再編成し、出雲を本社とし、列島の各地に薬石探しのための支部をつくった。そして、年一の年末の前に出雲に集まるように指示した。今、私達がお土産を持って年末に大移動するのは、このことに起因しているのかな^^(中学生諸君に、笑い)。これは、後の商港や航路として発展する。徐福のもと各地に配置配属された人材は一様ではない。薬に長けた人(越中富山の薬売り?) 船作りに長けた人(竜神丸を繰り出した江州人?)特に、列島の遠く東北地方へ送り出す人達は、未知の々であるから操船に長けた人達で武人がいい?(八戸の遠洋航海)。()内は筆者が勝手に関連づけました^^!。 先の記事では、東北地方から出土した遮光面土器は、徐福たちのなかの武人の甲冑を列島人が写したものだとしました。他に、蕨手刀(持ち手がワラビの形をした刀)や、○○の土饅頭墓は中国の影響を受けたのではと見ています。
 徐福本人は、といえば出雲に定住出来るものではなく、耳寄りな情報を得れば列島の各地へも出向きたい。このように徐福を“秘密結社の社長”とした会社組織は、列島人と係わり合いながら、熟成しながら、時は流れていったと思われます。中で、出雲から中国山地を越えて瀬戸内(吉備)や、日本海航路を経て、愛発関を越えて琵琶湖(近江)へも進出したのではないでしょうか。

<さて、本題の“長命用の子供たち”を何処に住まわせるか??>
   この子達を何処に住まわせるか。この子達は“大切な、々な、長命被験用”である。
出雲に住まわせたいところだが、出雲にあっては列島人が多く在住し、それとの混在は避けたい。そこで、すこし離れた兵庫県<養父市>に“センター?”を置いた。ここなら日本海列島の中心にあり住環境もよさそうだ。この子達の歳がいくつで、その連れてきた総数が幾人かは分からない。
   ・・・仮に、その歳は七才前後で、これも仮の々で100人にしておこう。
その百人の全部を養父市 一箇所に住まわせる分けにはいかないので、既成のグループを母体として十人、五人と分けていこう。徐福団のなかには、当然若者夫婦もいるし、既婚者もいる。
すでにその歳に該当する子もいるし新しく出生する子達もいる。その区別は難しいところだ。
なにはともあれ、(そこ以外にもあるかも知れませんが^^!)上記の7箇所に 分けた。とする^^!
 ところが、5人を過ぎるあたりから、列島人の目には「子沢山だなあ」と奇異にうつる。
<養父>の地名は徐福たちが付けた地名ではない。
何故なら、自分達は養父母ですとは言っても、この地は「養父・ヤブ」ですとは言わないからだ。
「養父・ヤブ」の地名は、その人達が住んでいた所を指して列島人がつけた地名だと断言できる。  
 このこと一つとっても、いかに徐福たちが秘密裏に行動していたかを窺い知ることが出来る。
  
<「ヤブ医者」の由来を考察する。>
普通に「ヤブ医者」という言葉は、見通しの悪い籔の先にたとえて、それを揶揄する言葉だと受け取っている。もとはと云えば「ヤブの医者」は、そうではなくて真逆であった。徐福達のなかの方士(医療や呪術によって病気を治す人)は、大陸の圧倒的、先進的な医療を行う人達であり、列島人との関わりのなかで難病も治すし、新薬も試したい。列島人にすれば、ありがたい、々い、神様仏様である。その人達は幾人かの養子を育てていた。先の記事では、『如来様と、その脇に描かれている“童子の仏画”は、徐福の方士女人達を列島人が言い伝えて描き記したものだ!』 と、しました。

<長命実証用の童子達の隔離施設か??>
  広島県宮島市宮島町養父 ,    岡山県倉敷市玉島乙島養父 ,
(残りの4ヶ所は調べていませんが^^!)この二つの場所は、明らかに兵庫県の養父市とは異なる条件の場所にある。倉敷市玉島乙島の養父 ,は、今では陸中にあるがその昔は、海で囲まれた島であった。この二箇所をその “隔離施設” だと考えた理由は、共に本土から見れば、その反対側にあり、列島住民からは、見えない場所にある。何故、徐福たちは、このような場所で童子を育てていたのであろうか? 徐福たちの使命は、長命用の薬石探査が目的であり、良かれと思われる薬石が見つかればそれを子供達に試さなければならない。中には「良薬口に苦し」というように、苦いものもあったに違いない。しかしながら、相手はこども。いやがって泣き叫ぶだろう。薬石の中には長期に服用してこそ、その効果を発するものもある。嫌がるこども達に無理矢理飲ます。
その様子を列島の住民には決して知られてはならない。そして子供達が大きくなり、物心つけば、逃亡を図るものも出てくるかも知れない。さらに、もう一つ加えれば、その島は、江戸時代にあった遠島島流しであってはならないのだ。遠すぎれば、その行き来に大変だ。この三つの条件にあう所で、本土に中継できる港湾が近くにある場所としてこの二つの地を選んでいる。

< 結 び >
<養父・ヤブ>は、徐福たちが “長命実証用” の子供達を育てていた場所だと断言します。
その後、その子たちがどのような運命をたどったかは分からない。このほか<ヤブ>と発音する地名を探せば、きっとたくさん出てくるに違いない。そこが、徐福たちと直接関係あるなしは別として、それ等の地に残る イワレや行事の調査の続きは、その地の歴史をよく識る貴方さまにお願いしたい。

    愛知県東海市養父町
    大阪府枚方市養父元町
    佐賀県鳥栖市養父町
    徳島県鳴門市大津町木津野字養父の内

  こどもの頃、何故、その地を「養父ヤブ」と言うのか?と不思議に思ったことは誰にもあるはずだ。
  何故、何故、を三つ重ね深く追求しなければ、その祖先からの伝言は貴方には伝わらない^^!。

上記の4箇所は、今回調べられませんでしたが、私くしの目的は、地名という祖先からの伝言に気付いて頂き、専門家やその地をよく識る貴方さまへその追求解明へのキッカケを与えることにあります。列島の各地に不老長命の薬石を探すべく散らばった徐福達のなかの“方士達”夫婦や童子達は、その“道祖神”二体として刻まれ、仏画の“如来様”や童子として描かれている。
 又、徐福が伴った兵士達は、列島の<四千年前の厄災や雨乞い文化>と合いまみえ毘沙門天や仁王様のモデルにもなっていると前述してきた。それが卑弥呼を ン百年も遡る、列島の縄文期であることが問題なのだ。 もし、このことを史実として受け入れ難い史学や仏教界の貴方さまがおられたら、その貴方さまにお尋ねしたい。一ヶ所ならともかく、その地名は列島の何ヶ所にもあり、「養父という地名の‘現存’を何んと考えられますか?」と。“ヤブ”と発音するそれ等の地が、市とまでになった<兵庫県の養父市>を中心として“コラボ” され^^♪ この拙い報告書に含まれる誤りを正し、さらなる歴史の解明へと 導いて下されば幸いです。  (~ Dece.01,2015) □     

尚、この「徐福」の記事は、初頭にも述べてありますが、その名前はおろか存在すら知らなかった筆者に、ご教示してくださったブログ<いずものこころ>Shigechan izumo氏、なしでは成しえなかったことであり、氏に敬意と多大の謝意をここに表します。→拙ブログにもリンクを張ってありますので、徐福について詳しく知りたいお方さまには、是非の、ご訪問をお勧めします。
                      史実を探偵する; 平 素人 より、

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* (カテゴリー:卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸を見つけたい人この指とまれ!)
     * 徐福達が日本史に与えた影響、 そのⅠ~Ⅵ → 当記事Ⅶは '16/5/28に発表しました^^!)
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