史実探偵 ; 平 素人(ヒイラ モト)より、
卑弥呼が埋めた・させた“大量の銅剣”を発見ける事は、有るか無いかも分からない「徳川の埋蔵金」を探し出すよりいとも簡単。あなたは、わたしの予言する所へ足を運べばいいだけだ!
但し、その“封印”を解くと、震えが止まらない程の 恐ろしい祟り(タタリ)があるかもヨ! (笑)
出雲・野洲・神戸には、大量の銅鐸を寝かせて埋めるという 「共通した文化」 がある。
“ 共通の文化には、共通の事象あり!”
その出雲で大量の銅剣類が出土している。共通の文化には、共通した事象があるならば、
「野洲や神戸にも」(そして吉備にも)出雲と全く同じような関係場所に、
100%の確率で “大量の銅剣類” がセットされて、1700年余の眠りに就いている!!!
遺物が出土してからでないと動けない動かない。 物証至上主義も美学だが、考古学をそんな魅力のない学問にしたくない。推理好きで遊び好きの貴方の参加を是非に希望します。
Blog: since 2007 June 22,
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『ここ掘れワンワン^^♪』 You must dig here. bow wow^^.
【332】ここに卑弥呼が埋めた未掘の銅鐸23±α個が1700年の眠りについている!!
岡山県総社市岩屋寺金堂の上の均地の中央(写真目印)

ご訪問ありがとう御座います。 ('12/10/31)
当ブログに掲げている記事の全ては関連モノであります。
カテゴリー別が読みやすいかも知れません^^!
<コメントについて>
コメント欄は、訳あって閉鎖しています。運がよければ開いてる時があるかも知れません^^? コメントを置かれるのは、意のままで結構ですが、そのコメントは<評価の歩み>として後に残る^^?やも知れませんので、その『著作権』を当方が無償で使用できる事を “御了解”でのコメントにして下さい^^。
<リンクについて>
リンクは、フリーですが当方の偏見と気まぐれ^^で削除することがあるかも知れませんので、その時は、あしからず!(`-`!)
題 『卑弥呼が埋めた・させた大量の銅剣と銅鐸 』
出雲地方で銅鐸39個と、358本もの銅剣類が出土した。滋賀県の野洲町で銅鐸24個が、神戸の桜ヶ丘では、銅鐸14個が出土している。これ等の殆どは、道路工事中にとか畑の開墾でとかの “偶然性” によるもので 「予測して発見かったものではない!」 (訂正;出雲を除く)
銅鐸の埋め方は、ヒレという部分を寝かせて並べ、銅剣は、整然と並べられて埋めてあった。 共に、何の保護もなく素のまんまで、しかも “浅いといえる” 深さに埋められていた。
<なぜ、“大量の”銅剣や銅鐸が埋められたのであろうか?>
銅鐸は、大量にまとめて埋められた以前にも、必要時以外は個々に(土中保管説)埋められていた。 話は、これを大きくさかのぼり、「BC.2001年の12月25日、未だ暗い朝の6時頃、地球を半周した彗星が、龍飛崎の上空を通過し、三陸地方に巨大隕石となって光臨した!」
祖先はその赤く輝いた巨塊を、その風切り音から“竜”と命名した。この巨大隕石は、隕石の冬による慈雨と、津波による魚介類や瑞穂という恵みを打ち上げ、そして、犠牲を強要する荒神となって “人々の心の中” に入り込んだ。神の発生は大集団社会へと展開する核となる。その過程で雨水の必要性もだんだんと増してきて“雨乞い”が始まる。願う相手は、その慈雨をもたらした八大竜王だ。 この荒神様は、慈雨との交換に赤い血を欲しがる。
生け贄の歴史は、最初の小動物からエスカレートして、 ついには 「私達には、これ以上に大切なものは有りません。 この幼子を煙に変えますから、 どうぞ、この海水を、この幼子の煙を雨雲に換えて下さい」 と迄になる。 “その天竜水神を呼び寄せ、荒神を乗り移す媒体となったのが銅鐸だ!” それ等の “雨乞い生贄文化” が永々と続いていた3世紀の初頭に、言い伝えの箒星が現れた。 朝夕の空にあるその星は日々に大きさを増していった! 又来るあの大事変が!!
人々が恐れおののくなかで、ヒミコは云った。
「やがて、あの星は全天を覆うだろう。 私がその難を逃れるお祈りをしてあげる」 と、
結果的に、この彗星はニアミスに終わり、人々は大きく安堵した。
火巫女は説いた。「真は、お日様が主神で荒神彗星は、そのお使者であるよ。 その証しに、その星は、朝夕のお日様の方から来たでしょ。悲しい習慣りは、止めにしましょう」 元は、と云えばヒミコは、一般の子と区別するために、その削がれた耳を、おカッパ頭で隠し、人里離れた境内で “人身供儀用”として、大切にそだてられていた三歳~七歳までの幼子のうちの1人であったが、その口寄せが 「よく当たる」 ことから、その厄を逃れていた。
この一件でカリスマ性を増した卑弥呼は、銅鐸を中国・魏から取りよせた銅鏡に替えさせた。初めて見る銅鏡に修厳者達は驚愕した。並みの驚愕ではない。太陽の光を反射するその鏡は直視することが出来ない。 目を閉じて地に‘ヒレ伏’した。
日巫女さまの云うことに間違いはない! 早朝の戸口に白羽の矢を立てられれば、否でも愛児を差し出さねばならない社会制度。 雨乞いや厄災時には、その命神が召すのだと! 稚児たちを殺めた。 一度使った刃は二度と使いたくない。出雲の大量の銅剣は、犠牲者の数だ。 このような「衆生雨乞いのための社会制度」に、不満がくすぶっていたから、卑弥呼の提唱する“銅鏡象徴文化”へと、容易に変わっていく。 しかも、ヒミコさまは、その銅鏡を下さると云う。 荒神・銅鐸文化が発達し、卑弥呼(銅鏡)文化へと変わった所には、 「その神二度と起こしてはならない! その剣二度と持たしてはならない!」と、 不使用にした銅鐸と銅剣が持ち寄られ、それぞれが 別離させて“封印”されている。
しかし、「離しただけでは心配だから、重しの一つも置いたろか」となる。
さらに、もう一つ重ねとこ、と思ったりもする。 否ぃや「荒神さまのことだから、これでも不十分だ」といって、さらに横木で押さえ、その両端へ竹杭をX状に打ち込み仕上げ縄(化粧縄・対語・荒縄)でしばる。そして、両の手を組み合わせ“インを結び、クジをきれば”万全だ!! そのX状の形は、竹槍での処刑や刑場の竹垣、閉門蟄居の形にあり、今では、神社本殿の屋根上にその形を残している。そして、横木のほうは、貴方のお家の棟木に変わり 「その棟木の下に、その刃、二度と荒ぶることのないように」と、括り付けてあるかも知れない。 このように、この謎解きのヒントは、今の私達の所業の内にある。 それに気付くのは、明日の貴方かも知れないし、遙か先の貴方かも知れない。
その 「雨乞いは」、村人こぞりて行う大行事であり、その埋め場所は“衆知の事実”なのに、その銅鐸や銅剣が、ごく近時まで盗掘の被害に遭わなかったのは、墓泥棒も恐れるほどの “祟り”があったからだ。(今は、すっかり忘れられていますが^^!)
しかし、銅鏡にかえても欲しい雨は降るとばかりは限らない。 「やっぱり荒神様は、生娘を欲しがっているのだなぁ~」と歴史は続いていく。
以上が解れば、「主題の、大量の銅剣捜しは」簡単だ!! 出雲では、すでに、その両方が出土しているから、これに習えばいい。
その大量の銅剣の埋め場所は、大量の銅鐸の埋め場所から西へ、一里(約4km)程離れた谷間の奥まった所!! 谷奥へ埋めるのは、人が容易に入るのを防ぐためと、命のみなもとでもある雨落つる源流を象徴している。 野洲町の方は、すでに、筆者が国土地理院のネットサービス(25,000分の1)の地形図で、それとおぼしき所、
* <北緯35度3分31秒、東経136度2分23秒→27秒に訂正>を予測している。
三上山(近江富士)と妙光寺山とに挟まれた谷間を5、600m登り切った源流に、卍印がある。これを西へ5、60m程行った所が少し平らになっている。そこに、干天でもヒビ割れない“亀の甲羅”の形をした封印石が残っていれば、その下4尺(4尺は約120cmで、ほぼ肩の深さ)の所で、その“大量の銅剣は”眠っている。
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註1: 出雲の埋め場所は“急な南斜面”とあったが、南向き斜面と南側の斜面とでは、南北が全く逆になるので確認が必要だ。これは、とても大切な要素で、熟慮のすえ“陽で陰を封じる”南向き斜面を予想しています。そして急斜面では石が置けないので、その封印石は無しと訂正します。全ては出雲に習えばいい!(註1:部分は、2007 9月29日に加筆・修正しました。)
註2: Yahoo!サービスの航空写真で、再度その谷奥の卍印の周辺を探索しました。見るとその寺社の境内・広場は、山の南向き斜面に対して建物の上側に。言い換えて「建物の奥側」にある。“これは変だ!”今の社寺の建て様を見れば、階段を登って、広場があって、社殿があって、その後ろに本殿が鎮座まします順番となっている。このことは「神様が私達を見ているのか、私達が神様を見ている」のかの主体性・方向性の違いを意味する。回りくどい言い方を排して言えば、この広場の上方斜面に大量の銅剣(出土銅鐸数24×9=200余本)が埋められている! それは、目通りより上(階段にして13段?)の高さのところで、それより高くなっても低くなってもいけない。その予測封印場所を、<北緯35度3分31秒、東経136度2分23秒から→27秒に訂正します。> 2010 July 02
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神戸の方は手付かずだが、ヒントは、地名を祖先の伝言として、それ等を伝説だ。神話だ。と云わず耳を傾けるように進言します。 「それを巨大隕石と云ったら科学で、竜と呼んだら伝説かぁ!? それが科学ならチャンチャラおかしい!」
と、ご先祖様が怒って御座る。 貴家の専門は問わない。 だが、くれぐれも頭脳ゲームにとどめ、学究なしの現地破壊をなさらないように!! その状態が、祖先が残した大切な遺産であるからだ。 そして、この荒ぶる神様を起こすと大変なことになる。 世界史を動かす程の力を持っている。 十二分に覚悟して、なされますように!!
貴家の参加をお待ちしています。
Since 6/22/2007 ~ Last updated 9/30/2007. 口
(卑弥呼の、つづき、そのよもやま話、ⅠとⅡ)を書いていますので、引き続き楽しんで下さい。
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尚、そのコメントは<評価の歩み>として将来の歴史に残るやも知れませんので、その『著作権』を、当方が無償で使用できる事を “御了解”のうえで、コメントをして下さい^^!。
どなた様、拍手をありがとう♪ 只今(‘10 5/21)17拍になりました。(^-^)
( ~ ‘11 3/02)21拍になりました。
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出雲・野洲・神戸には、大量の銅鐸を寝かせて埋めるという 「共通した文化」 がある。
“ 共通の文化には、共通の事象あり!”
その出雲で大量の銅剣類が出土している。共通の文化には、共通した事象があるならば、
「野洲や神戸にも」(そして吉備にも)出雲と全く同じような関係場所に、
100%の確率で “大量の銅剣類” がセットされて、1700年余の眠りに就いている!!!
遺物が出土してからでないと動けない動かない。 物証至上主義も美学だが、考古学をそんな魅力のない学問にしたくない。推理好きで遊び好きの貴方の参加を是非に希望します。
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題 『卑弥呼が埋めた・させた大量の銅剣と銅鐸 』
出雲地方で銅鐸39個と、358本もの銅剣類が出土した。滋賀県の野洲町で銅鐸24個が、神戸の桜ヶ丘では、銅鐸14個が出土している。これ等の殆どは、道路工事中にとか畑の開墾でとかの “偶然性” によるもので 「予測して発見かったものではない!」 (訂正;出雲を除く)
銅鐸の埋め方は、ヒレという部分を寝かせて並べ、銅剣は、整然と並べられて埋めてあった。 共に、何の保護もなく素のまんまで、しかも “浅いといえる” 深さに埋められていた。
<なぜ、“大量の”銅剣や銅鐸が埋められたのであろうか?>
銅鐸は、大量にまとめて埋められた以前にも、必要時以外は個々に(土中保管説)埋められていた。 話は、これを大きくさかのぼり、「BC.2001年の12月25日、未だ暗い朝の6時頃、地球を半周した彗星が、龍飛崎の上空を通過し、三陸地方に巨大隕石となって光臨した!」
祖先はその赤く輝いた巨塊を、その風切り音から“竜”と命名した。この巨大隕石は、隕石の冬による慈雨と、津波による魚介類や瑞穂という恵みを打ち上げ、そして、犠牲を強要する荒神となって “人々の心の中” に入り込んだ。神の発生は大集団社会へと展開する核となる。その過程で雨水の必要性もだんだんと増してきて“雨乞い”が始まる。願う相手は、その慈雨をもたらした八大竜王だ。 この荒神様は、慈雨との交換に赤い血を欲しがる。
生け贄の歴史は、最初の小動物からエスカレートして、 ついには 「私達には、これ以上に大切なものは有りません。 この幼子を煙に変えますから、 どうぞ、この海水を、この幼子の煙を雨雲に換えて下さい」 と迄になる。 “その天竜水神を呼び寄せ、荒神を乗り移す媒体となったのが銅鐸だ!” それ等の “雨乞い生贄文化” が永々と続いていた3世紀の初頭に、言い伝えの箒星が現れた。 朝夕の空にあるその星は日々に大きさを増していった! 又来るあの大事変が!!
人々が恐れおののくなかで、ヒミコは云った。
「やがて、あの星は全天を覆うだろう。 私がその難を逃れるお祈りをしてあげる」 と、
結果的に、この彗星はニアミスに終わり、人々は大きく安堵した。
火巫女は説いた。「真は、お日様が主神で荒神彗星は、そのお使者であるよ。 その証しに、その星は、朝夕のお日様の方から来たでしょ。悲しい習慣りは、止めにしましょう」 元は、と云えばヒミコは、一般の子と区別するために、その削がれた耳を、おカッパ頭で隠し、人里離れた境内で “人身供儀用”として、大切にそだてられていた三歳~七歳までの幼子のうちの1人であったが、その口寄せが 「よく当たる」 ことから、その厄を逃れていた。
この一件でカリスマ性を増した卑弥呼は、銅鐸を中国・魏から取りよせた銅鏡に替えさせた。初めて見る銅鏡に修厳者達は驚愕した。並みの驚愕ではない。太陽の光を反射するその鏡は直視することが出来ない。 目を閉じて地に‘ヒレ伏’した。
日巫女さまの云うことに間違いはない! 早朝の戸口に白羽の矢を立てられれば、否でも愛児を差し出さねばならない社会制度。 雨乞いや厄災時には、その命神が召すのだと! 稚児たちを殺めた。 一度使った刃は二度と使いたくない。出雲の大量の銅剣は、犠牲者の数だ。 このような「衆生雨乞いのための社会制度」に、不満がくすぶっていたから、卑弥呼の提唱する“銅鏡象徴文化”へと、容易に変わっていく。 しかも、ヒミコさまは、その銅鏡を下さると云う。 荒神・銅鐸文化が発達し、卑弥呼(銅鏡)文化へと変わった所には、 「その神二度と起こしてはならない! その剣二度と持たしてはならない!」と、 不使用にした銅鐸と銅剣が持ち寄られ、それぞれが 別離させて“封印”されている。
しかし、「離しただけでは心配だから、重しの一つも置いたろか」となる。
さらに、もう一つ重ねとこ、と思ったりもする。 否ぃや「荒神さまのことだから、これでも不十分だ」といって、さらに横木で押さえ、その両端へ竹杭をX状に打ち込み仕上げ縄(化粧縄・対語・荒縄)でしばる。そして、両の手を組み合わせ“インを結び、クジをきれば”万全だ!! そのX状の形は、竹槍での処刑や刑場の竹垣、閉門蟄居の形にあり、今では、神社本殿の屋根上にその形を残している。そして、横木のほうは、貴方のお家の棟木に変わり 「その棟木の下に、その刃、二度と荒ぶることのないように」と、括り付けてあるかも知れない。 このように、この謎解きのヒントは、今の私達の所業の内にある。 それに気付くのは、明日の貴方かも知れないし、遙か先の貴方かも知れない。
その 「雨乞いは」、村人こぞりて行う大行事であり、その埋め場所は“衆知の事実”なのに、その銅鐸や銅剣が、ごく近時まで盗掘の被害に遭わなかったのは、墓泥棒も恐れるほどの “祟り”があったからだ。(今は、すっかり忘れられていますが^^!)
しかし、銅鏡にかえても欲しい雨は降るとばかりは限らない。 「やっぱり荒神様は、生娘を欲しがっているのだなぁ~」と歴史は続いていく。
以上が解れば、「主題の、大量の銅剣捜しは」簡単だ!! 出雲では、すでに、その両方が出土しているから、これに習えばいい。
その大量の銅剣の埋め場所は、大量の銅鐸の埋め場所から西へ、一里(約4km)程離れた谷間の奥まった所!! 谷奥へ埋めるのは、人が容易に入るのを防ぐためと、命のみなもとでもある雨落つる源流を象徴している。 野洲町の方は、すでに、筆者が国土地理院のネットサービス(25,000分の1)の地形図で、それとおぼしき所、
* <北緯35度3分31秒、東経136度2分
三上山(近江富士)と妙光寺山とに挟まれた谷間を5、600m登り切った源流に、卍印がある。これを
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註1: 出雲の埋め場所は“急な南斜面”とあったが、南向き斜面と南側の斜面とでは、南北が全く逆になるので確認が必要だ。これは、とても大切な要素で、熟慮のすえ“陽で陰を封じる”南向き斜面を予想しています。そして急斜面では石が置けないので、その封印石は無しと訂正します。全ては出雲に習えばいい!(註1:部分は、2007 9月29日に加筆・修正しました。)
註2: Yahoo!サービスの航空写真で、再度その谷奥の卍印の周辺を探索しました。見るとその寺社の境内・広場は、山の南向き斜面に対して建物の上側に。言い換えて「建物の奥側」にある。“これは変だ!”今の社寺の建て様を見れば、階段を登って、広場があって、社殿があって、その後ろに本殿が鎮座まします順番となっている。このことは「神様が私達を見ているのか、私達が神様を見ている」のかの主体性・方向性の違いを意味する。回りくどい言い方を排して言えば、この広場の上方斜面に大量の銅剣(出土銅鐸数24×9=200余本)が埋められている! それは、目通りより上(階段にして13段?)の高さのところで、それより高くなっても低くなってもいけない。その予測封印場所を、<北緯35度3分31秒、東経136度2分
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神戸の方は手付かずだが、ヒントは、地名を祖先の伝言として、それ等を伝説だ。神話だ。と云わず耳を傾けるように進言します。 「それを巨大隕石と云ったら科学で、竜と呼んだら伝説かぁ!? それが科学ならチャンチャラおかしい!」
と、ご先祖様が怒って御座る。 貴家の専門は問わない。 だが、くれぐれも頭脳ゲームにとどめ、学究なしの現地破壊をなさらないように!! その状態が、祖先が残した大切な遺産であるからだ。 そして、この荒ぶる神様を起こすと大変なことになる。 世界史を動かす程の力を持っている。 十二分に覚悟して、なされますように!!
貴家の参加をお待ちしています。
Since 6/22/2007 ~ Last updated 9/30/2007. 口
(卑弥呼の、つづき、そのよもやま話、ⅠとⅡ)を書いていますので、引き続き楽しんで下さい。
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去る日の土曜日に意を決して、とある大学の考古学研究会の例会に行きました。 と申しますのは、表題のような活動を20年来続けていますが、「我啼けど、未だに、闇夜の時鳥(ホトトギス)」、何とか、この状態を脱したいと!思い、考古学専門家の皆さんに、この卑弥呼の埋めさせた 「野洲と、神戸の大量の銅剣の掘り起こし」 を直接に、お願いしたいと思ったからです。
例会終了後の5分間では、ありましたが用意した10部のブログ資料のうちの、8部を渡すことが出来ました。 いざ行かん、その云う、七つの大海原へ! その8部の資料は、世界史を変える為の第一歩を 記したものです。 プレミアが付くように? しておきました。(笑い)
ホトトギスは、その姿をあまり人には見せません。人々寝静まり未だ明けやらぬ闇夜に、その澄んだ声を聞かせます。その鳴いた口内は、血を吐くような赤い色をしていると聞きます。そして、このことはあまり好きではありませんが、‘春告鳥ウグイス’に託卵をする習性があるそうですから子育ては苦手なのでしょう。筆者は、この‘時鳥ホトトギス’に重なり合うものを感じます。
その春は、必ずめぐり来る! この報告書が貴方に伝わらないのは、その史実がなかったからではなく、素人の論がいたらないからだ。 専門は問わない。 より多くの貴方の参加を是非に希望します。 史実探偵: 平 素人(ヒラ モト)より、
以下、何故?「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」の考えに至ったのかの、よもやまをつづっていきますので、どうぞ楽しみにして下さい。 ①~⑳迄、
①大量の銅鐸の出土が「出雲と、野洲と、神戸」であった。一方、大量の銅剣の出土は、出雲だけであるが、共通の文化をもつ「野洲と神戸」でも、大量の銅剣類が、必ず埋められている。 その出土は、時間の問題で、世論の盛り上がりと考古学の動きにかかっている。 (それか、スポンサーの出現に?) この件の謎解きは簡単だ! あなたが、それに気付けばいい。
では何故、 その大量に埋められた、銅鐸と銅剣類が、卑弥呼と結びつくのですか?
②卑弥呼については、魏志倭人伝に記載があり、その邪馬台国にいたっては、中国から邪馬台国までの行程の仔細まで記されているのに、 その所在地においては、 諸説紛々、百花繚乱、我田引水、的で?、 薄識の素人に立ち入る余地はない。 ので(笑い)、 別の角度から当時の青銅器に、スポットを当てて考察してみたい。
当時の日本の青銅器には、銅剣(矛)、銅鐸、銅鏡がある。
銅剣は、切ったり、突いたり、殺めたりするものから、強さ権威の象徴へと変化。
銅鐸は、衣食住に関係するもので無いことから、謎の青銅器とも呼ばれるもので、別紙の報告書で、雨乞い儀式のなかでの打音楽器とか、慈雨をもたらす荒神そのものとか、色々に挑んではきたが、最終的には 「慈雨をもたらす竜神を呼び寄せ乗り移す媒体」 になったと結論付けた。 今においては、そのなごりとして「呼び水・送り火」「とり憑く」の言葉が残っています。
③銅鏡は、顔を映すものか?? 中国のそれは知らないが、日本では、そうではなかったはずだ! 今の鏡は、顔や身姿を映すものから、商品のバックや建材の一部として使用され、そこには、神聖さのかけらも残っていない。 それでも、昭和の後期頃までは、“鏡は女の命”なる言葉が残っており、嫁入り道具の必需品であった。うちの母などは、正月にシメ飾りを掛けていた。 もっともっと歴史をさかのぼれば、その神聖さは、より増していくのだろう。このように鏡に対する考え方は、今と昔では随分と違う。 銅鏡は、今でも御神体として、決して“人目に晒してはならぬ”と、今でも、どこやらの神社の奥深くにおさまっている。
この項に、3つの重要なキーワードを忍ばせて置きました。 まだまだつづくヨ!
④青銅器について
この謎解きは、中学生をも対象としているので、少しそれに立ち入ってみたい。歴史的には、銅器の発見が先で、鉄器が後にくる。これは、それぞれが持つ融点の違いで、銅の融点は1084、5℃で、鉄は1535℃。この融点が低いということは、人類が早くに、それを手に入れるということである。今捨てた、たばこの温度が700度、と云うように、野焼きで得られる温度は、せいぜい700-800℃である。 これより高い温度を得るには、燃料の選定と大量の酸素の供給、登り窯等の蓄熱、が必要となる。 人類の歴史は 「高温を得ること」とも云え、核爆発の臨界温度や、大気圏突入時の高温に耐えるだけの宇宙ロケットの表材のように、いかに高温を発生させても、それを制御できなかったり、受け皿が熔けたり破壊したのでは何にもならない。ちょっと脇へそれました。
⑤魏から、卑弥呼への数多くの贈り物のなかに (Yahoo!魏志倭人伝 参照) 金印は別として、特に目を引くものがある。 五尺刀が2口と、 銅鏡の100枚である。
何故 銅剣が、1振りでなくて2振りなのか? 何故 100個もの銅鏡なのか??
卑弥呼は、女である。 その女の卑弥呼が、100枚もの銅鏡を並べて、身の丈もあるような大刀の二本を腰にぶら下げて、己の姿形を眺めている場面が想像出来ない。(笑い)
この “数”には意味がある。
⑥魏の天子は、「遠くの国から、私への贈り物をようしてくれた。 汝(卑弥呼)を、倭の国の国王と認め、その金印を贈る。 そして、返礼として、汝の “好物”を 使いの者に託したから受け取ってくれ」と、云っている。 ( 註:要旨概略 )
その贈り物の、数量についての考察をするまえに、日本人と中国人の儀礼的な贈り物にたいする考え方の違いに言及しておきたい。日本のお中元とか、お歳暮とかは、目下のものが目上のものに 「色々とお世話になり、ありがとう御座いました。今後ともよろしく」 との意味合いをもつ。 中国ではこの逆で、その徳と富を表すためだと思うが、目上のものが目下のものへ贈り物をする。 ある公司(会社)に、トラックいちだんの西瓜が届いた。別の公司からの贈り物だという。また、訪問した時の食事のパンがとても美味しいと褒めると、バックいっぱいのパンをもたす。 宴会料理のあり余る程の多さは云うまでもない。 ちなみに、欧州でも、目上のものが目下のものに贈り物をすると聞く。 米国では、スモール・プレゼントの言葉があるように、お互いが負担にならないような(対等の立場?)愛用の小物をプレゼントする。 このように贈り物に対する考え方は、国によって、こもごもで、それ等をふまえての謎解きに入りたい。
⑦まず五尺の大刀が、なぜ2本なのか!!
五尺もの銅製の大刀を腰にぶら下げる分けにはいかないから、これは、飾り物でありそれを有する者の権威とか地位を“象徴”するものだとすぐ分かる。 だがまてよ! これを有する者は、その最高位であるから1本でいい。 2本あったら困る。 中国の皇帝が贈り物をする相手を困らすようなことはしない。衆知が認める卑弥呼と同等な者が、もう一人いたのである。 魏志倭人伝に、卑弥呼は、「鬼道に事へ、能く衆を惑わす」 そして、「男弟あり、佐けて国を治む」 とあるから、通常は、弟が国を治めていて、何か“困り事”があったら、その都度、卑弥呼がご祈祷を行って神やご先祖からの“付託を聞き”それぞれを決める社会制度が整っていたのである。 だから、もう1本は、その弟の為に贈ったのである。このように、中国での贈り物は、個人から個人へ、上から下へと、おすそ分けしてゆく“権威の文化”であり、日本では、何かとの交換の“交換文化”が発達している。さらに、何故五尺の大刀なのか、この長さのことは中国側にも聞かねばなるまいが、それを帯びる者は、四(死)尺を超える神の代行者として、つまり、日本の文化が「祈祷決定文化」から、「権威為政者文化」へと変わりゆく発端・過程にあったのではなかろうか。
⑧その“社会制度”とは、どんなものか?
魏志倭人伝では、前記のように、卑弥呼は 「鬼道を行い、衆人を惑わす」 とある。非常にキツイ表現である。 これは、異国言語の表記の違いではない。 中国の使者の目には、卑弥呼が行っている祈祷が、鬼道だと映ったのである。それは、(前述の)、BC.2001年の12月、東北地方に降臨した竜神(水神)に、「幼子の生け贄を捧げ」 衆が生きうる為という、雨乞い儀式を見聞きしたからだ。 当時は、今のような病院があるわけではない。村落に一人は、拝み屋さんがいて、この人が病気の治療から、困りごと迄の、よろず相談を受けていた。 その制度・社会の上部にあったのが卑弥呼だ。 困ったときの神頼み! その形は、今でも残っている。 貴方(現科学)と、私(素人)の違いは、それ等を神話だ、伝説だ、昔話だと、とるか、 それ等を 祖先からのメッセージだと、受け取るかの違いにある。
⑨次は、なぜ「100個」もの銅鏡を卑弥呼に贈ったのか?
中国と日本での贈り物にたいする考え方は、根本的に違う。それでも、贈り手は、その数をいくつにしょうかと考えたはずだ。 倭の国には、100余国と聞くからそれ等に分け与えるために100個と決めたと考えるのも一理はある。 いかに中国でも銅鏡は、非常に高価ものである。有り余るほど与えられるものではない。日本に銅鏡が何時に、幾つ入ったのかの後先は知らないが、この時、大量の銅鏡が日本に入ったのは事実である。(もっとも、魏志倭人伝を考えたあげく、それは、当てにならない‘作り話’だとする考古学者もいる。だから考古学が面白い。)
⑩日本国内へ、“銅鏡が”大量移入し、『一時的に』 その総数・絶対数が、増大した!!
ここが、この時が、「銅鐸文化」から「銅鏡文化」へ変わる歴史の節目だ!
中国の皇帝は、卑弥呼の“好物”を贈るとある。 皇帝は「卑弥呼の好物は、欲しいものは、何か?」と、日本からの使者に問うたはずだ。 鏡が珍しいだけなら、自分(卑弥呼の)だけのためなら「100個も!の鏡」は、いらない。又、当時の諸国・諸部族のすう勢は、永々と続いてきた「銅鐸文化」であり、より立派な銅鐸へと造り替えたい願望があった。 ならば、なにも鏡ではなくて、「銅材料」でもよかったはずだ。 それを、あえて鏡にしたのは 「卑弥呼の強い意志」 がある。 それまでの、「生け贄文化」を止めさせたい、卑弥呼の強い意志がはたらいている。 口 よもやま話のⅡ~⑳へつづきます^^。
それを知りたいお方は、
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さらに知りたいお方は、 今、私達が行っている 諸々の所業( 神社・仏閣・お祭り )の方へ、どうぞ!! -笑い-
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2012/9/18
どなた様>累計7拍手をありがとう御座います。なぜこの記事に拍手が頂けたのか分かりませんが。自分ながら駄作多い記事のなかでお勧めの一つです。なにぶん知識が乏しい上に表記の拙さも手伝って、未だにこの思いが皆さん(現史学)に届きません。今後ともよろしくお願いいたします。できればコメントを^^
2017/8/8
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2019/2/8
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例会終了後の5分間では、ありましたが用意した10部のブログ資料のうちの、8部を渡すことが出来ました。 いざ行かん、その云う、七つの大海原へ! その8部の資料は、世界史を変える為の第一歩を 記したものです。 プレミアが付くように? しておきました。(笑い)
ホトトギスは、その姿をあまり人には見せません。人々寝静まり未だ明けやらぬ闇夜に、その澄んだ声を聞かせます。その鳴いた口内は、血を吐くような赤い色をしていると聞きます。そして、このことはあまり好きではありませんが、‘春告鳥ウグイス’に託卵をする習性があるそうですから子育ては苦手なのでしょう。筆者は、この‘時鳥ホトトギス’に重なり合うものを感じます。
その春は、必ずめぐり来る! この報告書が貴方に伝わらないのは、その史実がなかったからではなく、素人の論がいたらないからだ。 専門は問わない。 より多くの貴方の参加を是非に希望します。 史実探偵: 平 素人(ヒラ モト)より、
以下、何故?「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」の考えに至ったのかの、よもやまをつづっていきますので、どうぞ楽しみにして下さい。 ①~⑳迄、
①大量の銅鐸の出土が「出雲と、野洲と、神戸」であった。一方、大量の銅剣の出土は、出雲だけであるが、共通の文化をもつ「野洲と神戸」でも、大量の銅剣類が、必ず埋められている。 その出土は、時間の問題で、世論の盛り上がりと考古学の動きにかかっている。 (それか、スポンサーの出現に?) この件の謎解きは簡単だ! あなたが、それに気付けばいい。
では何故、 その大量に埋められた、銅鐸と銅剣類が、卑弥呼と結びつくのですか?
②卑弥呼については、魏志倭人伝に記載があり、その邪馬台国にいたっては、中国から邪馬台国までの行程の仔細まで記されているのに、 その所在地においては、 諸説紛々、百花繚乱、我田引水、的で?、 薄識の素人に立ち入る余地はない。 ので(笑い)、 別の角度から当時の青銅器に、スポットを当てて考察してみたい。
当時の日本の青銅器には、銅剣(矛)、銅鐸、銅鏡がある。
銅剣は、切ったり、突いたり、殺めたりするものから、強さ権威の象徴へと変化。
銅鐸は、衣食住に関係するもので無いことから、謎の青銅器とも呼ばれるもので、別紙の報告書で、雨乞い儀式のなかでの打音楽器とか、慈雨をもたらす荒神そのものとか、色々に挑んではきたが、最終的には 「慈雨をもたらす竜神を呼び寄せ乗り移す媒体」 になったと結論付けた。 今においては、そのなごりとして「呼び水・送り火」「とり憑く」の言葉が残っています。
③銅鏡は、顔を映すものか?? 中国のそれは知らないが、日本では、そうではなかったはずだ! 今の鏡は、顔や身姿を映すものから、商品のバックや建材の一部として使用され、そこには、神聖さのかけらも残っていない。 それでも、昭和の後期頃までは、“鏡は女の命”なる言葉が残っており、嫁入り道具の必需品であった。うちの母などは、正月にシメ飾りを掛けていた。 もっともっと歴史をさかのぼれば、その神聖さは、より増していくのだろう。このように鏡に対する考え方は、今と昔では随分と違う。 銅鏡は、今でも御神体として、決して“人目に晒してはならぬ”と、今でも、どこやらの神社の奥深くにおさまっている。
この項に、3つの重要なキーワードを忍ばせて置きました。 まだまだつづくヨ!
④青銅器について
この謎解きは、中学生をも対象としているので、少しそれに立ち入ってみたい。歴史的には、銅器の発見が先で、鉄器が後にくる。これは、それぞれが持つ融点の違いで、銅の融点は1084、5℃で、鉄は1535℃。この融点が低いということは、人類が早くに、それを手に入れるということである。今捨てた、たばこの温度が700度、と云うように、野焼きで得られる温度は、せいぜい700-800℃である。 これより高い温度を得るには、燃料の選定と大量の酸素の供給、登り窯等の蓄熱、が必要となる。 人類の歴史は 「高温を得ること」とも云え、核爆発の臨界温度や、大気圏突入時の高温に耐えるだけの宇宙ロケットの表材のように、いかに高温を発生させても、それを制御できなかったり、受け皿が熔けたり破壊したのでは何にもならない。ちょっと脇へそれました。
⑤魏から、卑弥呼への数多くの贈り物のなかに (Yahoo!魏志倭人伝 参照) 金印は別として、特に目を引くものがある。 五尺刀が2口と、 銅鏡の100枚である。
何故 銅剣が、1振りでなくて2振りなのか? 何故 100個もの銅鏡なのか??
卑弥呼は、女である。 その女の卑弥呼が、100枚もの銅鏡を並べて、身の丈もあるような大刀の二本を腰にぶら下げて、己の姿形を眺めている場面が想像出来ない。(笑い)
この “数”には意味がある。
⑥魏の天子は、「遠くの国から、私への贈り物をようしてくれた。 汝(卑弥呼)を、倭の国の国王と認め、その金印を贈る。 そして、返礼として、汝の “好物”を 使いの者に託したから受け取ってくれ」と、云っている。 ( 註:要旨概略 )
その贈り物の、数量についての考察をするまえに、日本人と中国人の儀礼的な贈り物にたいする考え方の違いに言及しておきたい。日本のお中元とか、お歳暮とかは、目下のものが目上のものに 「色々とお世話になり、ありがとう御座いました。今後ともよろしく」 との意味合いをもつ。 中国ではこの逆で、その徳と富を表すためだと思うが、目上のものが目下のものへ贈り物をする。 ある公司(会社)に、トラックいちだんの西瓜が届いた。別の公司からの贈り物だという。また、訪問した時の食事のパンがとても美味しいと褒めると、バックいっぱいのパンをもたす。 宴会料理のあり余る程の多さは云うまでもない。 ちなみに、欧州でも、目上のものが目下のものに贈り物をすると聞く。 米国では、スモール・プレゼントの言葉があるように、お互いが負担にならないような(対等の立場?)愛用の小物をプレゼントする。 このように贈り物に対する考え方は、国によって、こもごもで、それ等をふまえての謎解きに入りたい。
⑦まず五尺の大刀が、なぜ2本なのか!!
五尺もの銅製の大刀を腰にぶら下げる分けにはいかないから、これは、飾り物でありそれを有する者の権威とか地位を“象徴”するものだとすぐ分かる。 だがまてよ! これを有する者は、その最高位であるから1本でいい。 2本あったら困る。 中国の皇帝が贈り物をする相手を困らすようなことはしない。衆知が認める卑弥呼と同等な者が、もう一人いたのである。 魏志倭人伝に、卑弥呼は、「鬼道に事へ、能く衆を惑わす」 そして、「男弟あり、佐けて国を治む」 とあるから、通常は、弟が国を治めていて、何か“困り事”があったら、その都度、卑弥呼がご祈祷を行って神やご先祖からの“付託を聞き”それぞれを決める社会制度が整っていたのである。 だから、もう1本は、その弟の為に贈ったのである。このように、中国での贈り物は、個人から個人へ、上から下へと、おすそ分けしてゆく“権威の文化”であり、日本では、何かとの交換の“交換文化”が発達している。さらに、何故五尺の大刀なのか、この長さのことは中国側にも聞かねばなるまいが、それを帯びる者は、四(死)尺を超える神の代行者として、つまり、日本の文化が「祈祷決定文化」から、「権威為政者文化」へと変わりゆく発端・過程にあったのではなかろうか。
⑧その“社会制度”とは、どんなものか?
魏志倭人伝では、前記のように、卑弥呼は 「鬼道を行い、衆人を惑わす」 とある。非常にキツイ表現である。 これは、異国言語の表記の違いではない。 中国の使者の目には、卑弥呼が行っている祈祷が、鬼道だと映ったのである。それは、(前述の)、BC.2001年の12月、東北地方に降臨した竜神(水神)に、「幼子の生け贄を捧げ」 衆が生きうる為という、雨乞い儀式を見聞きしたからだ。 当時は、今のような病院があるわけではない。村落に一人は、拝み屋さんがいて、この人が病気の治療から、困りごと迄の、よろず相談を受けていた。 その制度・社会の上部にあったのが卑弥呼だ。 困ったときの神頼み! その形は、今でも残っている。 貴方(現科学)と、私(素人)の違いは、それ等を神話だ、伝説だ、昔話だと、とるか、 それ等を 祖先からのメッセージだと、受け取るかの違いにある。
⑨次は、なぜ「100個」もの銅鏡を卑弥呼に贈ったのか?
中国と日本での贈り物にたいする考え方は、根本的に違う。それでも、贈り手は、その数をいくつにしょうかと考えたはずだ。 倭の国には、100余国と聞くからそれ等に分け与えるために100個と決めたと考えるのも一理はある。 いかに中国でも銅鏡は、非常に高価ものである。有り余るほど与えられるものではない。日本に銅鏡が何時に、幾つ入ったのかの後先は知らないが、この時、大量の銅鏡が日本に入ったのは事実である。(もっとも、魏志倭人伝を考えたあげく、それは、当てにならない‘作り話’だとする考古学者もいる。だから考古学が面白い。)
⑩日本国内へ、“銅鏡が”大量移入し、『一時的に』 その総数・絶対数が、増大した!!
ここが、この時が、「銅鐸文化」から「銅鏡文化」へ変わる歴史の節目だ!
中国の皇帝は、卑弥呼の“好物”を贈るとある。 皇帝は「卑弥呼の好物は、欲しいものは、何か?」と、日本からの使者に問うたはずだ。 鏡が珍しいだけなら、自分(卑弥呼の)だけのためなら「100個も!の鏡」は、いらない。又、当時の諸国・諸部族のすう勢は、永々と続いてきた「銅鐸文化」であり、より立派な銅鐸へと造り替えたい願望があった。 ならば、なにも鏡ではなくて、「銅材料」でもよかったはずだ。 それを、あえて鏡にしたのは 「卑弥呼の強い意志」 がある。 それまでの、「生け贄文化」を止めさせたい、卑弥呼の強い意志がはたらいている。 口 よもやま話のⅡ~⑳へつづきます^^。
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2012/9/18
どなた様>累計7拍手をありがとう御座います。なぜこの記事に拍手が頂けたのか分かりませんが。自分ながら駄作多い記事のなかでお勧めの一つです。なにぶん知識が乏しい上に表記の拙さも手伝って、未だにこの思いが皆さん(現史学)に届きません。今後ともよろしくお願いいたします。できればコメントを^^
2017/8/8
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この“世界史を変える”myブログへ、ようこそ・・ それは、貴方の参加より始まる。
、 「卑弥呼が埋めさせた“大量の銅剣”を発見けたい人、この指止まれ!」は、
(このページの左欄の月別アーカイブ2007年06月をクリックして下さると入れます^^)
、 「その、よもやま Ⅰ 」 の記事の方から、お先にどうぞ・・・ (深礼)
これから、そのつづきの、「よもやま Ⅱ」 ⑪~⑳を書き込んでいます。 どうぞ、楽しんで下さい。
⑪卑弥呼は、銅鐸文化を銅鏡の文化に、なぜ変えさせようと思ったのか?
一口でいえば、中国の人をして“鬼道”だと言わしめ、幼児の生け贄にまで発展した「銅鐸荒神文化」を 象徴物「銅鏡太陽神文化」に、変えたかったからだ。言い添えて、慈雨との交換に、生け贄を要求する荒神・箒星は、太陽の従神・使者であり、 雨を降らせるか降らせないかを決めるのは、主神の太陽だとしたからである。 その象徴が鏡だ!! 煙を雨雲に換えたい考えは自然発生する。その鏡と太陽を曇らせればいい。 この時から、生け贄雨乞い文化は、象徴物代用文化へと大きく踏み出し、銅鐸を使用しての雨乞いは、急速に衰退した。
⑫しかし中には、卑弥呼の考えに従わぬ者もいて、卑弥呼は大いに悲しんだ。
この時都合よく? 天文学者は、北九州で皆既日食があったと計算している。だが、ニアミスをした箒星のほうについての科学的検証を出すことは、不可能に近い。 しかし、祖先は、その箒星を‘山名’として記録している。阿星山とか、伯耆大山とか、鶏尾とかに類する地名を拾い出せばいい。さらに広げて、中国や韓国へもお願いしたいところだ。その前に、日本の考古学・地名学・天文学者が協力しあって事にあたって欲しい。(笑い) そうすれば、より確定的になる。 この事変は、一つの学問だけで解明できるものではない。考古学を限定的、画一的に考えないで、そこには、歴史という時間と、面という地域性と、私のような変わり者という例外が、同時進行している現実を認めて欲しい。 中には、卑弥呼のいうことが、直に受け入れられなくて、銅鐸文化から、銅鏡文化への移行が、後や先になったりもする。 (荒神谷遺跡で銅剣類が2カ所にあった内の一方は“後追い”で埋められたものと推察している。)
⑬卑弥呼の “生い立ち” について、
ここは何処の細道じゃー、天神さまの細道じゃー、 ちょっと通してくだしゃんせー、 御用のない者、通しゃせぬー、 この子の七つのお祝いにー、 お札を納めに参りますー、 行きはよいよい、帰りは恐いー、 恐いながらも通りゃんせー通りゃんせ~、
当時は、この謡のような社会制度があった。 再度の述解になるが、主には雨乞いのための制度で、人里離れた山奥に 「境内」をさだめ、白羽の矢をたてた三歳~七歳までの女児を 「神子」と呼び “人身供儀用”として隔離し大切に育てていた。筆にするのもためらうが、一般の子と区別するために、その耳を削ぎ、長髪を肩で切り、おかっぱ頭にして、それを隠した。 祖先は、それを耳削ぎ(みそぎ)とか、耳納(みのう)とかの言葉や地名で残している。←(註:これは、筆者の独自解釈です) しかし、いかに大切に育てようがその子がなつくはずがない。 そこで、その施術・荒神と、養育係・修厳者とにその役割を分けた。 最初は、夫婦二人から始まったこの形は、だんだんと強固に制度化していった。そして、この人達は、山奥でもあることから、里人に米の提供(租税の始まり)を受けた。今でもこの形は、お寺や神社に残っている。
そして、人口が増えてくるに従って雨乞いの回数も増えてくることから、女児が足りなくなり男児に変わる地域もでてくる。 いくら衆生(しゅじょう)のためとは云え、我が子恋しさに取り返しにいく親や、為政者も出てくる。これに類似する昔話や民話は数多く語られている。それを防ぐために荒神は、門神・仁王様に変わり、番犬は、狛犬に変わっている。 又、たとへ運良く、その子を取り戻したとしても、短髪では“(神=)髪を切ってはならない”とする長髪社会の中で隠し通すことは難しい。 社会がそれを許さないのだ!! このような社会背景のなかで、卑弥呼は出てきた。卑弥呼は、もとはと云えば前述の神子のうちの一人であったが、予知予見能力や、治癒能力が、特にすぐれていた事から、その厄難をのがれていた。
日本各地にある「塚」のつく地名は、その難を受けた子達を弔った蹟だ。
このように、その時、その社会で正しいと思えることでも、あとで振り返ってみると誤りがあると、今の私達も知らねばならない。
⑭ 「境内」について、 ( 註:この項も、筆者の独自解釈です。)
この境内という言葉は、この謎解きで(大量の銅剣と銅鐸の埋め場所を推定するのに)もっとも重要なキーワードとなる。普通、境内といえば、お寺や、お宮の境内で、人が決して冒してはならない神聖な場所。 この考えの発生を説明するには、多くの言葉を要するが(詳しくは、別紙報告書本文で)この考えのおおもとは、四千年前の三陸地方へ降臨した巨大隕石がおこした大津波に起因する。 祖先は、その津波際に「神の戸・こうど」の地名を付けた。 「戸」は、そこで止めるの意があり、境目・境界の意味も含んでいる。 家の戸は、内と外の境目。戸張おちる夕暮れ時は、昼と夜の境目。 時代劇で死人を戸板に乗せるのは、生と死の境目。
日本人には、この境界という意識が潜在して植え付けられている。帝の前のすだれは、権現化した帝と一般人とのしきり。 さらに、襖や障子の一枚、腰ひも一本でも、それは、決して侵してはならない境界であり、この“考え”は、外国人には、とうてい理解できない。
⑮当時の人達は、その「境内」を “人里離れた場所” に作った。
人里離れたと云っても、集落の本拠から、関係ないほど遠い所であってはならない。それは、近すぎては親近感がわくし、遠すぎては行き帰りがたいへんだ。報告書の本文では、そこは、往復の所要時間がほぼ半日の所だとした。 卑弥呼は、その境内で育てられた。「早朝」の「戸口」に、「白羽の矢」を立てられて・・・! 早朝は、津波の到達した時間を表し、戸口は、津波の波打ち際を、そして白羽の矢は、津波の白波(シワの波)を表す。 これを教えてくれたのは、渥美半島の祖先で、そこには‘片神戸’や‘白波’‘赤羽根’の地名がある。 (*ちょっと閃きました。‘渥美、熱海’の地名は、伊豆方面の海底火山の発生があったと云っているのかも知れない。
ーシワ・志波・紫波、の言葉ありー これは、地震の到達時間と津波到達の時間差による。)
⑯卑弥呼は、その境内で、修厳者に育てられた。
この「修厳者」という言葉を選ぶのは難しい。 他に、行者、祈祷師、太夫、占い師、潮来、口寄せ、憑依、権現、等も当たっているように思える。 この人達は、「四千年前の荒神」を相手に、これを呼び寄せ慈雨を願うお祈りをするのであるから並みの体力ではもたない。 行をする。 滝にうたれる。 不眠不休をする。火渡りをする。 報告書の本文で、これ等の修行の発生は、熊野信仰で‘伊勢’から‘古座’までの、熊野参道に色濃く残っているとした。 それを特筆できるのは、「行や、滝」での“センター的”な修験地が、三重県多気郡、大台町?にある。 そこには、8つの滝(不動滝、七つ釜滝、光滝、予八郎滝、堂倉滝、三滝、巴滝)が密集している。 そして、行・ギョウを積んだと思われる、くねくね道をどこかで? 見たのですが、只今その場所を思い出し中です。( 無責任でゴメン!なさい。 ー笑いー )
⑰出雲の大量の「銅剣」の埋め方について、
もう少し、詳細に、その考察を重ねてみよう。出雲で358本もの銅剣類が、道路工事中の偶然から発見された。(その詳細は、ネットで調べてみると)←註;偶然は間違い。事前調査で土器破片がみつかり予測トレンチ一発目で掘り当てた! そのお人に極意を伺いたいのですが?
、何の、へんてつもない谷間 (これは、すでに織りこみ済み。)
、その、いちばん奥の辺り (これは、慈雨が出流する源流を表す。)
、その谷間の、急な(45°?)南斜面の中腹 (筆者は、これを隠地の、北斜面の裾の、平ら な部分と推んでいたから、X 間違いであった!!)
、地表から、4尺下! (これは、その表土が取り去られた状態であるから正確には分からないが、筆者がこだわっている項目だから、少し言及を重ねてみよう。この銅剣は、二度と使用しないと“封印”したのである。この考えは、土葬にも通じ、その墓穴を掘るときには、幾らでも掘ればいいと云うものではない。肩の高さまで掘り進むと、顔に土がかかって堀づらい。当時の人達の男子の平均身長を5尺とみて、その肩の高さの「4尺」を割りだしたのである。 この4と云うのは、四=死、にも通じ忌み嫌われる数字でである。 このネット関係で「何やらを8尺下に封印したが、その声、未だ鳴りやまず」というのがあったが、これも一理ある。 それは人間ではない。その倍の4尺X2、の8尺にしたろか、という考えもなりたつ。 しかし、8尺下だと金属探知器がきかないから、筆者は、4尺下であって欲しいと願うばかりである。 ー笑いー
⑱その、銅剣358本中の344本の根元(茎・なかご)に、X印の刻印がしてあった。
これは、謎解きという程の難しい問題ではない。すでに述解したように、封印のX印である。地方によって、バツとか、ペケとかの“しるし”である。要するに「その商品は不良品」で使用不能と云うしるしである。 祖先は、これ等の銅剣を二度と使用(合掌・深礼)しないと、決めたのだから、このX印を付けて当然だ。 貴方は、厄除け神社にお参りしたことがありますか? 私はある。 その時、行者さまは「インを結び、クジを切る」。 インは、袖や衣の中で結び門外不出だ。クジは、垂れた頭の上でX印を行う! この所作に謎解きの原点があることに気付いてほしい。 残り14本の無印は、なぜか? これは無使用(合掌・深礼)剣だ!! この“数”を、あーそうかで済まさないで欲しい。その数は、準備剣(合掌・深礼)だとも考えられ、その地方の部族数にも通じる。 このように、想像や洞察を重ねていくことに、 この謎解きの楽しみがある。
今、私達の云うその「科学」は、ファッション(時流)であり、ファッションに過ぎない。
百年前も、二百年前の“祖先”も、今の科学を最高だと云ってきた。
⑲ ‘地名’は、 「祖先からのメッセージ」 である!
これが、本報告書の主題とするところで、もっとも貴方に伝えたいことでもある。 地名は、考古学でいう「物証」ではないが、‘地名’は、その昔 「そこで何があったかを語りかけている祖先からの言葉であり、記録である」 そして、祖先が私達に残してくれている遺産である!! 物証至上主義におちいらず、祖先の言葉に耳を傾ければ、より多くの歴史がみえてくる。 こんなにも簡単なことが、貴方に!、考古学に!、そして、今の社会に伝わらない。どうしたら、それが貴方に伝わるのかが解らない。 まずは 『野洲や、神戸にも、埋めてある大量の銅剣を予測して発見ける!』 それには、どうしても世論を盛り上げるための貴方の参加が要る!!、 再度いう! 「 大量の銅剣や銅鐸を “予測して” 発見けたい人、この指とまれ!」
⑳ ・・ 「神戸に埋めてある」大量の銅剣を 発見け出せ !!
このブログを見て下さった、幸運な“あなた”だけに、チョコット教えてあげましょか? ー笑いー そのキーワードは、‘イワヤ、西、一里、荒神、谷奥’です。 (2007 8 21)
まず国土地理院で検索して下さい。 そしてホームページの地図閲覧か、サービストップページをクリックして下さい。 次に検索画面か、ウオッちずをクリックすると全国画面が出てきますから、その「京都及び大阪」をクリックして下さい。すると20万分の1の地勢図が出てきます。その画面下方に「西宮」があります。これには区切り線は入ってはいませんが四分割されていますので、その左側上部あたりをクリックすると、目的の「大月地獄谷」が出てきます。 ここは住吉川の上流でもあり、少し南に「荒神山・・・m」が見えます。 もし、この地図の西宮「南西」の神戸製鋼が出てきたら、少し上へ移動すると西宮「北西」の画面が出てきます。(国土地理院から; 地図上をスクロールしないで下さい! クリックするとそこの北緯・東経が出てきます)
神戸の大量の銅剣の埋め場所をズバリ予測!!
この「大月地獄谷」の入り口あたりに小さい砂防ダムのようなものが見えます。道はないようです。その砂防ダムを渡ったところの“南向斜面”
第一候補地 北緯34度44分39秒 東経135度15分15秒 をあげておきましょう。
現地に立たないと分かりませんが、この第一候補地は険しくて埋めづらいようなので、もう一カ所をあげておきます。この谷を東へ渡りますが、墓地の北側の櫛状地形の中央あたり、
第二候補地 北緯34度44分58秒 東経135度15分28秒
要は、そこが源流の南向斜面(陽で陰を封じる考えに基づく?) 斜面が急だと埋めづらいし、緩いとその上を人が歩く! さらに、その斜面を眺めて、その下で行者集団が拝む場所があること。そんな場所を捜せばいいのです。 すべては、出雲に習えばいい!
そこに埋められている銅剣の本数?を予測!
桜ヶ丘の銅鐸数14 X その対応数9 = 126本+α
その深さは? 地表下4尺の所で1700年余の眠りに就いている!!!
さて、あなたはどうされますぅ?
史実探偵; 平 素人 より、 (2007 9 19)
(余 談)
<大量の銅剣の封印の儀式>
出雲の「大量の銅剣の埋め場所」は、急な南斜面ということであった。 筆者は、斜面ではさぞ埋めにくかろうと、平面を考えていたが、その考えは間違いであった。 そして、封印石としての亀甲状の巨石を考えていたが、これもピントがずれているように思う。これは雨乞いではない! 祖先は、二度とそれ等を使用しないと“封印”したのである。その荒神の使用した剣は、「人里離れ源流と定められた谷奥にあり、そこで行者集団が祈祷できる広さを持ち、その目通り・目の高さより上の遠からじの南向き斜面の、地下四尺の所で!」、1700年余の眠りに就いている。 すべては出雲に習えばいい!
<雨乞い儀式>
出雲に「四つの神奈備山かんなび山が(いずものこころshigechanizumoブログで)あるのを知った。この中央に宍道湖がある。大和にも四つのかんなび山があるそうで、その中央には猿沢池があるだろうと予測している。四つのかんなび山は、笹竹を立てる山であり、「四方の風をナビかせ、八方の雨雲を呼び寄せ、中央の水瓶」に慈雨を願うためのものである。この雨乞いの笹竹は、今の新築時の地鎮祭、神楽、奉納相撲、護摩壇等に、その形式を残している。それ等に、貴方が、専門家が“気付いて”欲しいと、今は願うばかりである。 口 (2007 09 20)
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、 「卑弥呼が埋めさせた“大量の銅剣”を発見けたい人、この指止まれ!」は、
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、 「その、よもやま Ⅰ 」 の記事の方から、お先にどうぞ・・・ (深礼)
これから、そのつづきの、「よもやま Ⅱ」 ⑪~⑳を書き込んでいます。 どうぞ、楽しんで下さい。
⑪卑弥呼は、銅鐸文化を銅鏡の文化に、なぜ変えさせようと思ったのか?
一口でいえば、中国の人をして“鬼道”だと言わしめ、幼児の生け贄にまで発展した「銅鐸荒神文化」を 象徴物「銅鏡太陽神文化」に、変えたかったからだ。言い添えて、慈雨との交換に、生け贄を要求する荒神・箒星は、太陽の従神・使者であり、 雨を降らせるか降らせないかを決めるのは、主神の太陽だとしたからである。 その象徴が鏡だ!! 煙を雨雲に換えたい考えは自然発生する。その鏡と太陽を曇らせればいい。 この時から、生け贄雨乞い文化は、象徴物代用文化へと大きく踏み出し、銅鐸を使用しての雨乞いは、急速に衰退した。
⑫しかし中には、卑弥呼の考えに従わぬ者もいて、卑弥呼は大いに悲しんだ。
この時都合よく? 天文学者は、北九州で皆既日食があったと計算している。だが、ニアミスをした箒星のほうについての科学的検証を出すことは、不可能に近い。 しかし、祖先は、その箒星を‘山名’として記録している。阿星山とか、伯耆大山とか、鶏尾とかに類する地名を拾い出せばいい。さらに広げて、中国や韓国へもお願いしたいところだ。その前に、日本の考古学・地名学・天文学者が協力しあって事にあたって欲しい。(笑い) そうすれば、より確定的になる。 この事変は、一つの学問だけで解明できるものではない。考古学を限定的、画一的に考えないで、そこには、歴史という時間と、面という地域性と、私のような変わり者という例外が、同時進行している現実を認めて欲しい。 中には、卑弥呼のいうことが、直に受け入れられなくて、銅鐸文化から、銅鏡文化への移行が、後や先になったりもする。 (荒神谷遺跡で銅剣類が2カ所にあった内の一方は“後追い”で埋められたものと推察している。)
⑬卑弥呼の “生い立ち” について、
ここは何処の細道じゃー、天神さまの細道じゃー、 ちょっと通してくだしゃんせー、 御用のない者、通しゃせぬー、 この子の七つのお祝いにー、 お札を納めに参りますー、 行きはよいよい、帰りは恐いー、 恐いながらも通りゃんせー通りゃんせ~、
当時は、この謡のような社会制度があった。 再度の述解になるが、主には雨乞いのための制度で、人里離れた山奥に 「境内」をさだめ、白羽の矢をたてた三歳~七歳までの女児を 「神子」と呼び “人身供儀用”として隔離し大切に育てていた。筆にするのもためらうが、一般の子と区別するために、その耳を削ぎ、長髪を肩で切り、おかっぱ頭にして、それを隠した。 祖先は、それを耳削ぎ(みそぎ)とか、耳納(みのう)とかの言葉や地名で残している。←(註:これは、筆者の独自解釈です) しかし、いかに大切に育てようがその子がなつくはずがない。 そこで、その施術・荒神と、養育係・修厳者とにその役割を分けた。 最初は、夫婦二人から始まったこの形は、だんだんと強固に制度化していった。そして、この人達は、山奥でもあることから、里人に米の提供(租税の始まり)を受けた。今でもこの形は、お寺や神社に残っている。
そして、人口が増えてくるに従って雨乞いの回数も増えてくることから、女児が足りなくなり男児に変わる地域もでてくる。 いくら衆生(しゅじょう)のためとは云え、我が子恋しさに取り返しにいく親や、為政者も出てくる。これに類似する昔話や民話は数多く語られている。それを防ぐために荒神は、門神・仁王様に変わり、番犬は、狛犬に変わっている。 又、たとへ運良く、その子を取り戻したとしても、短髪では“(神=)髪を切ってはならない”とする長髪社会の中で隠し通すことは難しい。 社会がそれを許さないのだ!! このような社会背景のなかで、卑弥呼は出てきた。卑弥呼は、もとはと云えば前述の神子のうちの一人であったが、予知予見能力や、治癒能力が、特にすぐれていた事から、その厄難をのがれていた。
日本各地にある「塚」のつく地名は、その難を受けた子達を弔った蹟だ。
このように、その時、その社会で正しいと思えることでも、あとで振り返ってみると誤りがあると、今の私達も知らねばならない。
⑭ 「境内」について、 ( 註:この項も、筆者の独自解釈です。)
この境内という言葉は、この謎解きで(大量の銅剣と銅鐸の埋め場所を推定するのに)もっとも重要なキーワードとなる。普通、境内といえば、お寺や、お宮の境内で、人が決して冒してはならない神聖な場所。 この考えの発生を説明するには、多くの言葉を要するが(詳しくは、別紙報告書本文で)この考えのおおもとは、四千年前の三陸地方へ降臨した巨大隕石がおこした大津波に起因する。 祖先は、その津波際に「神の戸・こうど」の地名を付けた。 「戸」は、そこで止めるの意があり、境目・境界の意味も含んでいる。 家の戸は、内と外の境目。戸張おちる夕暮れ時は、昼と夜の境目。 時代劇で死人を戸板に乗せるのは、生と死の境目。
日本人には、この境界という意識が潜在して植え付けられている。帝の前のすだれは、権現化した帝と一般人とのしきり。 さらに、襖や障子の一枚、腰ひも一本でも、それは、決して侵してはならない境界であり、この“考え”は、外国人には、とうてい理解できない。
⑮当時の人達は、その「境内」を “人里離れた場所” に作った。
人里離れたと云っても、集落の本拠から、関係ないほど遠い所であってはならない。それは、近すぎては親近感がわくし、遠すぎては行き帰りがたいへんだ。報告書の本文では、そこは、往復の所要時間がほぼ半日の所だとした。 卑弥呼は、その境内で育てられた。「早朝」の「戸口」に、「白羽の矢」を立てられて・・・! 早朝は、津波の到達した時間を表し、戸口は、津波の波打ち際を、そして白羽の矢は、津波の白波(シワの波)を表す。 これを教えてくれたのは、渥美半島の祖先で、そこには‘片神戸’や‘白波’‘赤羽根’の地名がある。 (*ちょっと閃きました。‘渥美、熱海’の地名は、伊豆方面の海底火山の発生があったと云っているのかも知れない。
ーシワ・志波・紫波、の言葉ありー これは、地震の到達時間と津波到達の時間差による。)
⑯卑弥呼は、その境内で、修厳者に育てられた。
この「修厳者」という言葉を選ぶのは難しい。 他に、行者、祈祷師、太夫、占い師、潮来、口寄せ、憑依、権現、等も当たっているように思える。 この人達は、「四千年前の荒神」を相手に、これを呼び寄せ慈雨を願うお祈りをするのであるから並みの体力ではもたない。 行をする。 滝にうたれる。 不眠不休をする。火渡りをする。 報告書の本文で、これ等の修行の発生は、熊野信仰で‘伊勢’から‘古座’までの、熊野参道に色濃く残っているとした。 それを特筆できるのは、「行や、滝」での“センター的”な修験地が、三重県多気郡、大台町?にある。 そこには、8つの滝(不動滝、七つ釜滝、光滝、予八郎滝、堂倉滝、三滝、巴滝)が密集している。 そして、行・ギョウを積んだと思われる、くねくね道をどこかで? 見たのですが、只今その場所を思い出し中です。( 無責任でゴメン!なさい。 ー笑いー )
⑰出雲の大量の「銅剣」の埋め方について、
もう少し、詳細に、その考察を重ねてみよう。出雲で358本もの銅剣類が、道路工事中の偶然から発見された。(その詳細は、ネットで調べてみると)←註;偶然は間違い。事前調査で土器破片がみつかり予測トレンチ一発目で掘り当てた! そのお人に極意を伺いたいのですが?
、何の、へんてつもない谷間 (これは、すでに織りこみ済み。)
、その、いちばん奥の辺り (これは、慈雨が出流する源流を表す。)
、その谷間の、急な(45°?)南斜面の中腹 (筆者は、これを隠地の、北斜面の裾の、平ら な部分と推んでいたから、X 間違いであった!!)
、地表から、4尺下! (これは、その表土が取り去られた状態であるから正確には分からないが、筆者がこだわっている項目だから、少し言及を重ねてみよう。この銅剣は、二度と使用しないと“封印”したのである。この考えは、土葬にも通じ、その墓穴を掘るときには、幾らでも掘ればいいと云うものではない。肩の高さまで掘り進むと、顔に土がかかって堀づらい。当時の人達の男子の平均身長を5尺とみて、その肩の高さの「4尺」を割りだしたのである。 この4と云うのは、四=死、にも通じ忌み嫌われる数字でである。 このネット関係で「何やらを8尺下に封印したが、その声、未だ鳴りやまず」というのがあったが、これも一理ある。 それは人間ではない。その倍の4尺X2、の8尺にしたろか、という考えもなりたつ。 しかし、8尺下だと金属探知器がきかないから、筆者は、4尺下であって欲しいと願うばかりである。 ー笑いー
⑱その、銅剣358本中の344本の根元(茎・なかご)に、X印の刻印がしてあった。
これは、謎解きという程の難しい問題ではない。すでに述解したように、封印のX印である。地方によって、バツとか、ペケとかの“しるし”である。要するに「その商品は不良品」で使用不能と云うしるしである。 祖先は、これ等の銅剣を二度と使用(合掌・深礼)しないと、決めたのだから、このX印を付けて当然だ。 貴方は、厄除け神社にお参りしたことがありますか? 私はある。 その時、行者さまは「インを結び、クジを切る」。 インは、袖や衣の中で結び門外不出だ。クジは、垂れた頭の上でX印を行う! この所作に謎解きの原点があることに気付いてほしい。 残り14本の無印は、なぜか? これは無使用(合掌・深礼)剣だ!! この“数”を、あーそうかで済まさないで欲しい。その数は、準備剣(合掌・深礼)だとも考えられ、その地方の部族数にも通じる。 このように、想像や洞察を重ねていくことに、 この謎解きの楽しみがある。
今、私達の云うその「科学」は、ファッション(時流)であり、ファッションに過ぎない。
百年前も、二百年前の“祖先”も、今の科学を最高だと云ってきた。
⑲ ‘地名’は、 「祖先からのメッセージ」 である!
これが、本報告書の主題とするところで、もっとも貴方に伝えたいことでもある。 地名は、考古学でいう「物証」ではないが、‘地名’は、その昔 「そこで何があったかを語りかけている祖先からの言葉であり、記録である」 そして、祖先が私達に残してくれている遺産である!! 物証至上主義におちいらず、祖先の言葉に耳を傾ければ、より多くの歴史がみえてくる。 こんなにも簡単なことが、貴方に!、考古学に!、そして、今の社会に伝わらない。どうしたら、それが貴方に伝わるのかが解らない。 まずは 『野洲や、神戸にも、埋めてある大量の銅剣を予測して発見ける!』 それには、どうしても世論を盛り上げるための貴方の参加が要る!!、 再度いう! 「 大量の銅剣や銅鐸を “予測して” 発見けたい人、この指とまれ!」
⑳ ・・ 「神戸に埋めてある」大量の銅剣を 発見け出せ !!
このブログを見て下さった、幸運な“あなた”だけに、チョコット教えてあげましょか? ー笑いー そのキーワードは、‘イワヤ、西、一里、荒神、谷奥’です。 (2007 8 21)
まず国土地理院で検索して下さい。 そしてホームページの地図閲覧か、サービストップページをクリックして下さい。 次に検索画面か、ウオッちずをクリックすると全国画面が出てきますから、その「京都及び大阪」をクリックして下さい。すると20万分の1の地勢図が出てきます。その画面下方に「西宮」があります。これには区切り線は入ってはいませんが四分割されていますので、その左側上部あたりをクリックすると、目的の「大月地獄谷」が出てきます。 ここは住吉川の上流でもあり、少し南に「荒神山・・・m」が見えます。 もし、この地図の西宮「南西」の神戸製鋼が出てきたら、少し上へ移動すると西宮「北西」の画面が出てきます。(国土地理院から; 地図上をスクロールしないで下さい! クリックするとそこの北緯・東経が出てきます)
神戸の大量の銅剣の埋め場所をズバリ予測!!
この「大月地獄谷」の入り口あたりに小さい砂防ダムのようなものが見えます。道はないようです。その砂防ダムを渡ったところの“南向斜面”
第一候補地 北緯34度44分39秒 東経135度15分15秒 をあげておきましょう。
現地に立たないと分かりませんが、この第一候補地は険しくて埋めづらいようなので、もう一カ所をあげておきます。この谷を東へ渡りますが、墓地の北側の櫛状地形の中央あたり、
第二候補地 北緯34度44分58秒 東経135度15分28秒
要は、そこが源流の南向斜面(陽で陰を封じる考えに基づく?) 斜面が急だと埋めづらいし、緩いとその上を人が歩く! さらに、その斜面を眺めて、その下で行者集団が拝む場所があること。そんな場所を捜せばいいのです。 すべては、出雲に習えばいい!
そこに埋められている銅剣の本数?を予測!
桜ヶ丘の銅鐸数14 X その対応数9 = 126本+α
その深さは? 地表下4尺の所で1700年余の眠りに就いている!!!
さて、あなたはどうされますぅ?
史実探偵; 平 素人 より、 (2007 9 19)
(余 談)
<大量の銅剣の封印の儀式>
出雲の「大量の銅剣の埋め場所」は、急な南斜面ということであった。 筆者は、斜面ではさぞ埋めにくかろうと、平面を考えていたが、その考えは間違いであった。 そして、封印石としての亀甲状の巨石を考えていたが、これもピントがずれているように思う。これは雨乞いではない! 祖先は、二度とそれ等を使用しないと“封印”したのである。その荒神の使用した剣は、「人里離れ源流と定められた谷奥にあり、そこで行者集団が祈祷できる広さを持ち、その目通り・目の高さより上の遠からじの南向き斜面の、地下四尺の所で!」、1700年余の眠りに就いている。 すべては出雲に習えばいい!
<雨乞い儀式>
出雲に「四つの神奈備山かんなび山が(いずものこころshigechanizumoブログで)あるのを知った。この中央に宍道湖がある。大和にも四つのかんなび山があるそうで、その中央には猿沢池があるだろうと予測している。四つのかんなび山は、笹竹を立てる山であり、「四方の風をナビかせ、八方の雨雲を呼び寄せ、中央の水瓶」に慈雨を願うためのものである。この雨乞いの笹竹は、今の新築時の地鎮祭、神楽、奉納相撲、護摩壇等に、その形式を残している。それ等に、貴方が、専門家が“気付いて”欲しいと、今は願うばかりである。 口 (2007 09 20)
尚、コメントを置いて下さる方は、下の CO-0 のクリックをお願いいたします。
このページ左欄の月別アーカイブ2007年11月へつづきます^^!
どなた様、拍手をありがとう^^。 その1拍の積み重ねが世論をうごかし、ひいては「歴史を塗り替える」と思われた方も、そうでない方も"ぽちっ"と押してみてっ?(←F○さんのパクリです^^!)只今('10 5/23)までで4拍になりました。
【 お 知 ら せ 】
次の記事の予定はいまのところありません(^^!。
富山へ届いた4千年前の大津波!、出雲でもウッドサークルがあるのでは??、下北半島に残る巨大津波痕!等。 興味は、色々ありますがイマイチ燃え上がるものがありません。それとも北海道の油田でも発見けたろか♪などと思いおる今日この頃です^^!。
新しい記事のUPがないのにも関わりませず、多数(13名♪)の方がご訪問して下さり、頭がさがる思いが致します(深礼)。 早く次の記事をと思ってはいるのですが、いまいちピントがしぼれず、そのご期待におこたえ出来ないことを心苦しく思います。 その間、拙・電子出版極秘報告書「巨大隕石と大津波」でも見て、お待ちして頂けると助かります。
↑クリックOKです。(^^)♪ 買って下さるともっと助かります(^^!)。 赤貧の史実探偵より、
追伸; 『第○章宝捜し』で油田の発見つけ方等を記してありますから、遊び心とお金に余裕のある方は、どうぞ♪ ただし、当面500円の投資と、容量が1万Kbを超えますので、ダウンロードに相当の時間がかかるから御就寝(おやすみ)前がいいとか?! ( わたしは買ったことがありません。( 汗~(^^!)!) ・・・で私は、皆様のブログへご訪問したり、情報を集めたりして、しばしの休息を楽しみます。♪(^-^)♪ (7/6)記
・・・、再開しました^^↓
< 銅鏡の入魂遺跡?!>
富山県小矢部市の 桜町遺跡に<環状木柱列遺跡>があります。 それを知ったのは、前の記事同様に、ブログ ≪今宵もGacktコスでお散歩~♪≫の<隊長Mさま>のご記事です。
今宵もGacktコスでお散歩~♪ 5月は祭りが多いです
http://fatale.blog24.fc2.com/blog-entry-255.html
↓その一部を引用させて頂きました。
目が冴えちゃったので、次に向かったのは隣の市に在る、桜町遺跡です
友人が発掘作業に参加してたので、覗いて見たくなったのですが、果たして…
何しろ、8000年前~2300年前の縄文時代の遺跡と言われても、???
これ、高床式建物の柱材なのかな?(滝汗) ↓
sakurazuka-2.jpg (←環状木柱列の写真)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<環状木柱列>
*柱穴や、一部地下だけの残存で、上部は考証による復元!
その朝日に照らされた木柱列のお写真を見たとき、直感的に “イギリスのストーンヘンジ“ に似てると思いました。 そして、その “朝の光は” ナスカの地上絵を現地で寝泊まりして調査したという(独?英?)の女史が見た<冬至の日の出>に重なる一本の直線を連想しました。 (拙記事 の「BC.2001年の巨大隕石」-(07/02) をご参照ください。→で飛んで見たら・・、南半球の夏至で、しかも朝日ではなくて日没の太陽でした。ゴメンナサイ^^!)
この遺跡は、“冬至の朝日”を取り入れる施設だ! だが、「 何のために朝日を取り入れるのか・・・?」 「・・・・銅鏡に、冬至の朝日を取り入れる!」 ・・・これに間違いない。 新しくに手に入れた銅鏡に冬至の朝陽(あさひ)を取り込むことによって<御神体化する銅鏡の入魂施設だ!!
筆者の直感をもとに、この写真の柱の本数を数えてみると? 四方八方の「8本であろう」との予測に反し、その数は10本であった! ・・・、思惑が違う・・・、自信が揺らぐがこのような時、史実探偵素人が座右の銘にしてきた言葉がある。 『 ご先祖様は嘘つかない!』 現存している史実に、理があわないからといって、その現実を否定することは出来ない。この私くしや今の史学に間違いがあるのだ。この私くしの考えが至らないのだと。
以下<その裏付け>をとることに致しましょう♪(^-^)♪
<方位より>
( ・・・ウェブで調べました。 間違いがあったらお許し、お正し下さい。^^!)
四方とは、東西南北。 八方とは、それを4分割して、北東・南東・北西・南西の四隅を加えての8方。 ちなみに、日本建築では、北を<前>だというそうですよ。わたしなら南に向いたほうが気持ちがいいから<南を前>にするのにねえ(笑) これにも何か隠れていそうだ。
五方とは、四方に自分の立つ中央を加えたもの。
六方とは、東西南北の4方に、「天と地」を加えた6方。
思案六方、十方はブタ! ←これは花札用語です(^^!)
花札賭博で数が6になったとき、次札を引いてより強い8(カブ)に近い数字にするかどうかを迷うこと。それが10になると流れて引き分け。(中学生諸君に汗しました)
「十方」という言葉がある?? そういえば歌舞伎で「じっぽうを踏む」ということがある。 ドリフの加藤(カトちゃん)さんが五右衛門姿でやってましたね(片足で舞台をドンドンと打ち鳴らす所作^^)。お相撲さんが“シコを踏む”というのもあるから、前記事での謎解き<島根半島・出雲竜>では、竜の四股に“銅か”を埋め込み、2武神がシコを踏み押さえつけてあるのでしょうね。ちょっと脇にそれました。^^!
八方で思いだすのは、法隆寺の八角円堂(夢殿)が有名! なぜ八角形にしているのか? そして入り口の方角は? その意味が知りたい。 中国のとある寺院では、八角円堂に似た十角の??高層円堂があったが、あれは何だったのか? 厨子か?(厨子とは本来ご本尊を安置するためのもの)、 中国思想と、列島思想との関連は・・・? 難しいことになりそうだ(^^!)
「十方暮・じっぽうぐれ」 ←ありました♪
(十方闇とも書く) 十方暮の「十方」とは天地と八方のことで、暮の本来は「闇」である。すなわち、四方八方が閉ざされたという意味であるが、「途方に暮れる」の語呂合わせであるとの説もある。またその期間が10日間であるから「十」の字を宛てたとも言われる。
以上、Wikipedia より抜粋
この「環状木柱列」は、十方を闇にして、つまり十方を暗くしてその入り口から冬至の朝の光を取り入れるように設えている。十本の柱の数は、「八方プラス天と地」の十方を象徴しているのだ。 入り口の二本の柱には補強杭が添わしてあり、他の柱より少し高くしてその上部に横木を設えている。この≪戸口・とぐち≫ふうの復元がなかったならば「高床式建物の柱」と見間違えてしまうところであった。専門家の復元力に敬服し、感謝を申し上げたい。 この<戸口>の持つ意味合いについては、「神戸(こうど)とか、夜と昼の境界、闇と光の境目、現世と黄泉(よみ)の国との境界、そして四千年の津波が押しよせた境界」等だと前述しています。
<冬至の朝陽・アサヒを銅鏡に取り入れる>
さて、十方を象徴する10本の柱は立てたし、それを覆い隠す闇をつくり、陰と陽の境目である戸口も付けた。その手に入れた銅鏡が他の依頼か、自分のとこかは知らないが、そのままで「御神体」として使用する分けにはいかない。 いよいよ “冬至の日の出” の光を銅鏡に取り入れ御神体化する「入魂式」が始まる。前夜からその『包・パオ→封(部屋?)←これは仮称です』(祖先は必ずその施設に名を付けていると思いますよ♪)の中に銅鏡を安置しご祈祷をして日の出を待つ。・・だがぁ? 残念!その朝は曇り、日の出が見えない。せっかく待っていたのに「次年度にしましょうや」(汗!~笑)ではかなわない。 そこで考え出されたのが『冬至十夜・とうじとうや』。12月21日~12月30日までの間なら、「いいことにしましょうや^^!」。
<年の暮れ時から、ご祈祷して、旭光を待つ!>
イヨォ(伊与)~、待ってましたぁ~! これ等の所業の根源に気付くのは明日のあなたかも知れないし、はるか先のあなたかも知れない。^^! この考えは?、比叡山・弘法大師・真言宗に色濃く残しています??。 それは専門家に譲りましょう。(^^)♪
<その環状木柱列を設営する場所には決まりがある!>
どこでもいいやという分にはいかない。
筆者は、とある<神戸・こうど>とついた地名の谷間に出かけたことがある。神戸に類する地名の由来が解せなかったからである。 何故、そこが<神さまの戸>なのか? その地名をつけた祖先の発想が思い浮かばない。 冬至の薄暗い朝に車を走らせ、その小さな谷間の上方から下っていった。 ・・・、神戸・こうど=光道・こうどう・・・?ではないのか?の思いがあった。 その小さく湧いた疑念を確かめたかったからだ。 予想はみごとに的中した。
日の出の光が地を這(は)い、谷の奥まで一直線に射し込んで、この身を包んだ!
その谷を見下ろす場所に「宝満寺」。谷の入り口の小高い場所に「高徳寺」。その時の身震いは今でもおぼえている。 小高く(新島・高量山・にいじまたかくさん)している?のは、そこへ何かのお供えものをするためだ。 その谷がある地区名は<西の谷>。 ちなみに、その谷は、“四千年前の津波”が上陸した場所だと、別紙報告書『祖先からの伝言』で述べています。
<上記と“桜町遺跡”との共通性を探っていきましょう> Yahoo!& 国土地理院・地図で、
【 桜町・環状木柱列・周辺図 】
(北)
→ 子撫川 → → ↑
\ ↑
△104,5m\ ↑小
\(桜町西交差点) ↑矢
==========国道8号== ↑ 部
○環状木柱列\ \○○神社 ↑
○○神社 \ ======国道8号=== ↑川 →高岡C.C.△
△約80 m\ 卍大乗寺 ↑
*\JOMONパーク
城山△185m \ → 御坊山△
愛宕神社 \国道
\74号
◎小矢部市街地 註: ○○神社名は不明です。
長い間、お待たせしました^^!。
追記がないにも関わりませず多数の(18名^^)、ご訪問に感謝いたします。(^-^)♪ 6/18
桜町・環状木柱列のピンポイントでの所在位置の確認に手間どりました。それにこだわったのは、この10本の掘っ立て柱は前述のように、『その谷あいで、冬至の朝陽(あさひ)をとりいれる場所に設営されている!』と推んだからです。調べるとこの“円状の10本の掘っ立て柱”は、桜町遺跡に限ったものではないようで、他にもあるようです。その中のひとつ、(石川県)チカモリ遺跡を取りあげて類推することに致します。
環状柱列の、所在生け贄(?)等の供物場所 谷間から眺めた日の出の方向
① 神戸・こうど(西之谷) → 高徳寺 → 向山公園(岡山県・倉敷市)
岡山県・倉敷市・船穂町 (東西線からの角度: 約 )
*遺跡の確認はありません^^!
② 桜町・遺跡 → (~約700m)神社名・未調査 → 高岡・カントリークラブ
富山県・小矢部市 (東西線からの角度: 約 )
③ チカモリ・遺跡 → (~約1, 2km)西金沢公民館 → 涌波・日吉神社(石川県・金沢市)
石川県・金沢市 隣接する神社名は未調査^^! 太陽が丘・北陸大学
(東西線からの角度: 約 )
①の「神戸・こうど」のつく地名は西之谷の奥まった所にある。谷の入り口一帯が<西之谷>という人家のある地区名。ここに小さな池がある。その堤防に立って東の日の出の方向を見れば平地に小高く石垣を積んだ上に「高徳寺」があり、その先の「向山・公園」辺りから太陽が昇るのであろう。向こう山とは、たいへん分かり易い地名をつけたものだ。(笑)
②の桜町・環状木柱列(標高○○m)は、先の図示で△104,5mと△約80mの谷あいにある。 そこから700m程離れて神社(標高○○m)の印しがあるが、地図でその名は確認できない。700mと、離れているのは、その14km程先にある「高岡・C.C.」とかぶらせない為であろう。その時の“日の出”とカブってしまったのでは意味がないからね。 桜町の由来は調べてはないが、<桜木>は、古くには農事呪縛の木であったと前述しておきました。 この谷の南側の△約80mが気になる。ヤフーの航空地図で見ると、周りの桧か?杉?の植林に対して、約150mの円形の植生の違いがあるように思える。その丘上で何かの祈祷集会があり周りに石組み等が遺ってはいないだろうか?と思うのは素人の思い過ごしかも知れない。一時期「城山」として使用されてたようですから、それで壊されてなければの話です。
③のチカモリ遺跡から、それと見当をつけた神社は、東方1.2km程先の「西金沢町公民館」に隣接しており、これもその名は確認できない。さらにその先○○kmに「太陽が丘・北陸大学キャンパス」があるから、おそらく、その辺りから日の出が拝めるのであろう。このように環状木柱列が、谷ではなくて平地にあり、しかもその距離間が長いのは、日の出にカブらない為でもあるが、人口も増えその集団が大きくなったことを意味する。 「太陽が丘」は、もちろん近年につけたのであろうが、それを希望が丘とつけたり、緑が丘とつけたりしてもかまわないのに、それをあえて太陽が丘と名付けたのは、金沢の人達にとってのその辺りは(医王山939mか?)、太陽が昇る場所であるからである。“チカモリ”の由来は知りませんが、おそらく木柱列の周りに森をU字形にして<谷状に作った>のだと思いますよ。「近森」とは、人里近くにその場所を「鎮守の森」と定めたわけですから、きっと、この近くにその居住区があったに違いない。
以上、極小地帯と中・広域の三例をあげましたが、このような文化(考え)は、めずらしいことではなく、他にもあると思います。「ほら♪あなたのお住みになっている町にもね」。ちょっと考えれば、銅鏡が中国から入った初期ならいざしらず、それを自分達で造るようになれば、<その入魂式( ・・銅鐸もか??)>がなければ“ありがたみ”が涌かない。 あっ!それから、「ご先祖さまは、その “環状木柱列” という難しい名前でなくて、何かの名前を付けている」と申し上げましたが、それは 『納戸・なんど』 とか、 『納屋・なや』 と呼んでいたのではないでしょうか? 今では、それさえも死語に近くなってきましたが、こども心には、田の字造りの北西にあり寝所で薄暗い納戸部屋が恐ろしくもあり、何で<戸>の字がつくのかな?と思ったりしたものでした。 それが正倉院や夢殿へと変わってゆく?歴史は、専門家に委ねましょう。(^^!)♪
<チカモリ遺跡・環状木柱列について>
所在: 石川県金沢市新保本町5丁目33
① 北
⑩ ② ↑
\
⑨ ③
\ 北から番号を振りました
*
⑧ \ ④ /
\ ④と⑤は入り口か?
⑦ ⑤ (/印は、S状の板)
⑥ / \
← 直径約6m → 当時の冬至の朝の光が射し込む方向?
以下; 石川県埋蔵文化財センターより、概略を引用しました。
遺跡の発掘;総数350本のうち約250本が栗の木を半分に割り断面をカマボコ状に加工していた。(栗の木は堅くて重く石斧で加工しにくい。昔は鉄道線路の枕木に使用されていた。)
直径約50cmを超える巨大な柱根は約40本であり、中には直径85cmに達するものもあり、根本にひっぱる為の藤つるが固く巻き付けられているものもあった。
カマボコ状の弧の部分は奇麗に加工され(枝や凸凹をなくして?)その部分を環状の内側にして掘っ立てられていた。 又、割れを防ぐためであろうか、その芯が取りのぞかれていた。
図にある⑤と⑥番目の柱には板状に削ぎおとしたものを添わして出入り口状にしていた。
環状柱列の直径は約6mであり、環の中心をずらしながら(幾重にも円が)重なりあっていた(円環のどの部分を起点にしてずらしていったかを知りたい)。 これは伊勢の遷宮(20年で本殿をやりかえる。出雲大社では60年・よき年よき日だったかな?)のような事かと思われる。
<往時、どのような構造物だったかの意見は分かれている>
一つは、ヨーロッパなどで見られるストンサークルのような大柱を円形に配して神の宿る域を示したもの。 いま一つは、屋根や床、壁などを備えた「祭の館」ともいえるものだとの説がある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<素人の見解♪>
上記のように、専門家の意見が分かれた時、素人のやり方は、「まあまあ、どちらも、そう仰らないで^^!」 といって、双方の意見をとりあげます。 何故かというと専門家というのは、思いつきを語る素人と違い多くの知識のうえに立っての言であるからです。 只、専門家のわるいくせは、このように意見が分かれた時、他の意見を認めないことかな?。(汗~!) ・んで、素人探偵が導きだした折衷案は、『屋根があって壁がない東屋(あずまや)風^^』
<環状木柱列の不思議?>
以下、思いつくままにあげて、思いつくままに試考?していきますので、あたっていないかも知れません。 皆さんのどうぞのご意見をお聞かせ願えれば幸いです。
① 何故、真円で線対称にしているのか?
真円は太陽神からくるものか? だとすると、入り口?から奥を見て左右対称形にしているのは何故か・・? 話は少し変わりますが、今でも朝日・夕日に手を合わすご老人がいることを話したこと(別紙・報告書)がありました。 さすれば、10本の柱は両手の指か? 入り口両脇の柱に添わしてある板状のものは、親指の爪にも見えなくはない。 「爪」に、ついては、「指を詰める」とか<爪崎>等の地名もあり、竜(竜神舟)の爪を削いでおとなしくして頂いて、その禍(わざわい)を小さくするように願ったと謎解きした。
② 何故、出入り口? が東南?に振っているのか?
これは、素人には「荷が重すぎる」 冬至の朝の太陽光を取り入れるまでは、謎解きしてきたが、それにしても南へ振りすぎていたり、富山の桜町遺跡や、他の地の出入り口がどの方向にあるのかが確認できていない。それと、ストーンヘンジ等にあったように<夏至の日没>が気になる。 (是非に天文学の御参加を願っています。)
③ 何故、栗材を使用しているのか?
これは、まったくの根拠のない当てずっぽうですが^^!、栗の実のトゲトゲが太陽に見えなくでもない。そして、屋根があっても無くっても、掘っ立て柱にすれば、松や杉ではその境目が直ぐに腐ってしまう。その点でも栗材は丈夫だ?
④ 何故、大木を半割りにしているのか?
そして、その割り面を外側にしているのか? 丸太のままでも良さそうに思うがその意味がわからない。(荒)神威力の半減か? 夢殿は円柱だったと思うが?
⑤ 何故、同じ場所に設えているのか?
これは、用材の腐りや、<4千年前>の彗星が荒神に変身したことに基づくのではないだろうか。(ハレー彗星の周期は76年)彗星が現れたら新しくやりかえる? 最初は細い用材から段々に太い用材へとかわっていく。 8本の円環もあるのは、最初は八方の考えであったが後に十方の考えへと変化した? 蛇足ながら、遺跡の保存という無理からぬ事情があるにせよ、他の場所へ復元したのでは、この施設の意味を失う! 祖先は四千年前の津波が押しよせた<冬至の朝日が射し込む谷>の入り口に、この施設を設えている。 どの谷でも、どの場所でもいいや」と云うわけにはいかない理由がここにある。
⑥ では、前のものを掘り上げて、同じ穴を使用してもいいように思うが?
そこは、それ、誰でも? 神様でも?(笑)新しいものには新しい穴がいいからね。この場合、10本の内のどの柱を起点にして新設しているかが重要な意味をもつ。
⑦ その他 この施設が何時に始まりどのように変遷していったかについては、今後の課題としましょう。^^!
<仮想メモリがなくなりました。簡単に結びます>
この施設で笹竹を燃やしその倒れる方向によって次年度を占うというのがあった。 時代の流れとともに微妙に変わる “多目的ホール” と考えるほうが楽だと思いますよ。(笑い) いずれにしても、今の私達が神仏にたいして何をなしているかが謎解きの鍵になる。
“冬至の朝の光” を取り入れるために、入り口を残し暗幕を張る! 今でもお葬式や事始めのお祝いのときには幕を張りますよね。地球には 『歳差運動』 があり、約70年に1度角(?)、日の出の方向がずれていく。 筆者は、3世紀初頭の卑弥呼の代(約1700年前)の <冬至と、夏至の、日の出の方向>を知りたい。 その<伸びゆく影>が、これ等の環状木柱列の入り口に重なって欲しいと願っています。(今年の冬至が楽しみだ♪)
そして、その願いを新しく来る年の <初日の出> に拝むことに致しましょう。(^-^)♪
次の記事の予定はいまのところありません。 風の向くまま気の向くままかな? ・・・^^!、
・・・つづく・・
どなた様、拍手をありがとう♪ 只今までで('10 5/21)3拍になりました。(^-^)
次の記事の予定はいまのところありません(^^!。
富山へ届いた4千年前の大津波!、出雲でもウッドサークルがあるのでは??、下北半島に残る巨大津波痕!等。 興味は、色々ありますがイマイチ燃え上がるものがありません。それとも北海道の油田でも発見けたろか♪などと思いおる今日この頃です^^!。
新しい記事のUPがないのにも関わりませず、多数(13名♪)の方がご訪問して下さり、頭がさがる思いが致します(深礼)。 早く次の記事をと思ってはいるのですが、いまいちピントがしぼれず、そのご期待におこたえ出来ないことを心苦しく思います。 その間、拙・電子出版極秘報告書「巨大隕石と大津波」でも見て、お待ちして頂けると助かります。
↑クリックOKです。(^^)♪ 買って下さるともっと助かります(^^!)。 赤貧の史実探偵より、
追伸; 『第○章宝捜し』で油田の発見つけ方等を記してありますから、遊び心とお金に余裕のある方は、どうぞ♪ ただし、当面500円の投資と、容量が1万Kbを超えますので、ダウンロードに相当の時間がかかるから御就寝(おやすみ)前がいいとか?! ( わたしは買ったことがありません。( 汗~(^^!)!) ・・・で私は、皆様のブログへご訪問したり、情報を集めたりして、しばしの休息を楽しみます。♪(^-^)♪ (7/6)記
・・・、再開しました^^↓
< 銅鏡の入魂遺跡?!>
富山県小矢部市の 桜町遺跡に<環状木柱列遺跡>があります。 それを知ったのは、前の記事同様に、ブログ ≪今宵もGacktコスでお散歩~♪≫の<隊長Mさま>のご記事です。
今宵もGacktコスでお散歩~♪ 5月は祭りが多いです
http://fatale.blog24.fc2.com/blog-entry-255.html
↓その一部を引用させて頂きました。
目が冴えちゃったので、次に向かったのは隣の市に在る、桜町遺跡です
友人が発掘作業に参加してたので、覗いて見たくなったのですが、果たして…
何しろ、8000年前~2300年前の縄文時代の遺跡と言われても、???
これ、高床式建物の柱材なのかな?(滝汗) ↓
sakurazuka-2.jpg (←環状木柱列の写真)
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<環状木柱列>
*柱穴や、一部地下だけの残存で、上部は考証による復元!
その朝日に照らされた木柱列のお写真を見たとき、直感的に “イギリスのストーンヘンジ“ に似てると思いました。 そして、その “朝の光は” ナスカの地上絵を現地で寝泊まりして調査したという(独?英?)の女史が見た<冬至の日の出>に重なる一本の直線を連想しました。 (拙記事 の「BC.2001年の巨大隕石」-(07/02) をご参照ください。→で飛んで見たら・・、南半球の夏至で、しかも朝日ではなくて日没の太陽でした。ゴメンナサイ^^!)
この遺跡は、“冬至の朝日”を取り入れる施設だ! だが、「 何のために朝日を取り入れるのか・・・?」 「・・・・銅鏡に、冬至の朝日を取り入れる!」 ・・・これに間違いない。 新しくに手に入れた銅鏡に冬至の朝陽(あさひ)を取り込むことによって<御神体化する銅鏡の入魂施設だ!!
筆者の直感をもとに、この写真の柱の本数を数えてみると? 四方八方の「8本であろう」との予測に反し、その数は10本であった! ・・・、思惑が違う・・・、自信が揺らぐがこのような時、史実探偵素人が座右の銘にしてきた言葉がある。 『 ご先祖様は嘘つかない!』 現存している史実に、理があわないからといって、その現実を否定することは出来ない。この私くしや今の史学に間違いがあるのだ。この私くしの考えが至らないのだと。
以下<その裏付け>をとることに致しましょう♪(^-^)♪
<方位より>
( ・・・ウェブで調べました。 間違いがあったらお許し、お正し下さい。^^!)
四方とは、東西南北。 八方とは、それを4分割して、北東・南東・北西・南西の四隅を加えての8方。 ちなみに、日本建築では、北を<前>だというそうですよ。わたしなら南に向いたほうが気持ちがいいから<南を前>にするのにねえ(笑) これにも何か隠れていそうだ。
五方とは、四方に自分の立つ中央を加えたもの。
六方とは、東西南北の4方に、「天と地」を加えた6方。
思案六方、十方はブタ! ←これは花札用語です(^^!)
花札賭博で数が6になったとき、次札を引いてより強い8(カブ)に近い数字にするかどうかを迷うこと。それが10になると流れて引き分け。(中学生諸君に汗しました)
「十方」という言葉がある?? そういえば歌舞伎で「じっぽうを踏む」ということがある。 ドリフの加藤(カトちゃん)さんが五右衛門姿でやってましたね(片足で舞台をドンドンと打ち鳴らす所作^^)。お相撲さんが“シコを踏む”というのもあるから、前記事での謎解き<島根半島・出雲竜>では、竜の四股に“銅か”を埋め込み、2武神がシコを踏み押さえつけてあるのでしょうね。ちょっと脇にそれました。^^!
八方で思いだすのは、法隆寺の八角円堂(夢殿)が有名! なぜ八角形にしているのか? そして入り口の方角は? その意味が知りたい。 中国のとある寺院では、八角円堂に似た十角の??高層円堂があったが、あれは何だったのか? 厨子か?(厨子とは本来ご本尊を安置するためのもの)、 中国思想と、列島思想との関連は・・・? 難しいことになりそうだ(^^!)
「十方暮・じっぽうぐれ」 ←ありました♪
(十方闇とも書く) 十方暮の「十方」とは天地と八方のことで、暮の本来は「闇」である。すなわち、四方八方が閉ざされたという意味であるが、「途方に暮れる」の語呂合わせであるとの説もある。またその期間が10日間であるから「十」の字を宛てたとも言われる。
以上、Wikipedia より抜粋
この「環状木柱列」は、十方を闇にして、つまり十方を暗くしてその入り口から冬至の朝の光を取り入れるように設えている。十本の柱の数は、「八方プラス天と地」の十方を象徴しているのだ。 入り口の二本の柱には補強杭が添わしてあり、他の柱より少し高くしてその上部に横木を設えている。この≪戸口・とぐち≫ふうの復元がなかったならば「高床式建物の柱」と見間違えてしまうところであった。専門家の復元力に敬服し、感謝を申し上げたい。 この<戸口>の持つ意味合いについては、「神戸(こうど)とか、夜と昼の境界、闇と光の境目、現世と黄泉(よみ)の国との境界、そして四千年の津波が押しよせた境界」等だと前述しています。
<冬至の朝陽・アサヒを銅鏡に取り入れる>
さて、十方を象徴する10本の柱は立てたし、それを覆い隠す闇をつくり、陰と陽の境目である戸口も付けた。その手に入れた銅鏡が他の依頼か、自分のとこかは知らないが、そのままで「御神体」として使用する分けにはいかない。 いよいよ “冬至の日の出” の光を銅鏡に取り入れ御神体化する「入魂式」が始まる。前夜からその『包・パオ→封(部屋?)←これは仮称です』(祖先は必ずその施設に名を付けていると思いますよ♪)の中に銅鏡を安置しご祈祷をして日の出を待つ。・・だがぁ? 残念!その朝は曇り、日の出が見えない。せっかく待っていたのに「次年度にしましょうや」(汗!~笑)ではかなわない。 そこで考え出されたのが『冬至十夜・とうじとうや』。12月21日~12月30日までの間なら、「いいことにしましょうや^^!」。
<年の暮れ時から、ご祈祷して、旭光を待つ!>
イヨォ(伊与)~、待ってましたぁ~! これ等の所業の根源に気付くのは明日のあなたかも知れないし、はるか先のあなたかも知れない。^^! この考えは?、比叡山・弘法大師・真言宗に色濃く残しています??。 それは専門家に譲りましょう。(^^)♪
<その環状木柱列を設営する場所には決まりがある!>
どこでもいいやという分にはいかない。
筆者は、とある<神戸・こうど>とついた地名の谷間に出かけたことがある。神戸に類する地名の由来が解せなかったからである。 何故、そこが<神さまの戸>なのか? その地名をつけた祖先の発想が思い浮かばない。 冬至の薄暗い朝に車を走らせ、その小さな谷間の上方から下っていった。 ・・・、神戸・こうど=光道・こうどう・・・?ではないのか?の思いがあった。 その小さく湧いた疑念を確かめたかったからだ。 予想はみごとに的中した。
日の出の光が地を這(は)い、谷の奥まで一直線に射し込んで、この身を包んだ!
その谷を見下ろす場所に「宝満寺」。谷の入り口の小高い場所に「高徳寺」。その時の身震いは今でもおぼえている。 小高く(新島・高量山・にいじまたかくさん)している?のは、そこへ何かのお供えものをするためだ。 その谷がある地区名は<西の谷>。 ちなみに、その谷は、“四千年前の津波”が上陸した場所だと、別紙報告書『祖先からの伝言』で述べています。
<上記と“桜町遺跡”との共通性を探っていきましょう> Yahoo!& 国土地理院・地図で、
【 桜町・環状木柱列・周辺図 】
(北)
→ 子撫川 → → ↑
\ ↑
△104,5m\ ↑小
\(桜町西交差点) ↑矢
==========国道8号== ↑ 部
○環状木柱列\ \○○神社 ↑
○○神社 \ ======国道8号=== ↑川 →高岡C.C.△
△約80 m\ 卍大乗寺 ↑
*\JOMONパーク
城山△185m \ → 御坊山△
愛宕神社 \国道
\74号
◎小矢部市街地 註: ○○神社名は不明です。
長い間、お待たせしました^^!。
追記がないにも関わりませず多数の(18名^^)、ご訪問に感謝いたします。(^-^)♪ 6/18
桜町・環状木柱列のピンポイントでの所在位置の確認に手間どりました。それにこだわったのは、この10本の掘っ立て柱は前述のように、『その谷あいで、冬至の朝陽(あさひ)をとりいれる場所に設営されている!』と推んだからです。調べるとこの“円状の10本の掘っ立て柱”は、桜町遺跡に限ったものではないようで、他にもあるようです。その中のひとつ、(石川県)チカモリ遺跡を取りあげて類推することに致します。
環状柱列の、所在
① 神戸・こうど(西之谷) → 高徳寺 → 向山公園(岡山県・倉敷市)
岡山県・倉敷市・船穂町 (東西線からの角度: 約 )
*遺跡の確認はありません^^!
② 桜町・遺跡 → (~約700m)神社名・未調査 → 高岡・カントリークラブ
富山県・小矢部市 (東西線からの角度: 約 )
③ チカモリ・遺跡 → (~約1, 2km)西金沢公民館 → 涌波・日吉神社(石川県・金沢市)
石川県・金沢市 隣接する神社名は未調査^^! 太陽が丘・北陸大学
(東西線からの角度: 約 )
①の「神戸・こうど」のつく地名は西之谷の奥まった所にある。谷の入り口一帯が<西之谷>という人家のある地区名。ここに小さな池がある。その堤防に立って東の日の出の方向を見れば平地に小高く石垣を積んだ上に「高徳寺」があり、その先の「向山・公園」辺りから太陽が昇るのであろう。向こう山とは、たいへん分かり易い地名をつけたものだ。(笑)
②の桜町・環状木柱列(標高○○m)は、先の図示で△104,5mと△約80mの谷あいにある。 そこから700m程離れて神社(標高○○m)の印しがあるが、地図でその名は確認できない。700mと、離れているのは、その14km程先にある「高岡・C.C.」とかぶらせない為であろう。その時の“日の出”とカブってしまったのでは意味がないからね。 桜町の由来は調べてはないが、<桜木>は、古くには農事呪縛の木であったと前述しておきました。 この谷の南側の△約80mが気になる。ヤフーの航空地図で見ると、周りの桧か?杉?の植林に対して、約150mの円形の植生の違いがあるように思える。その丘上で何かの祈祷集会があり周りに石組み等が遺ってはいないだろうか?と思うのは素人の思い過ごしかも知れない。一時期「城山」として使用されてたようですから、それで壊されてなければの話です。
③のチカモリ遺跡から、それと見当をつけた神社は、東方1.2km程先の「西金沢町公民館」に隣接しており、これもその名は確認できない。さらにその先○○kmに「太陽が丘・北陸大学キャンパス」があるから、おそらく、その辺りから日の出が拝めるのであろう。このように環状木柱列が、谷ではなくて平地にあり、しかもその距離間が長いのは、日の出にカブらない為でもあるが、人口も増えその集団が大きくなったことを意味する。 「太陽が丘」は、もちろん近年につけたのであろうが、それを希望が丘とつけたり、緑が丘とつけたりしてもかまわないのに、それをあえて太陽が丘と名付けたのは、金沢の人達にとってのその辺りは(医王山939mか?)、太陽が昇る場所であるからである。“チカモリ”の由来は知りませんが、おそらく木柱列の周りに森をU字形にして<谷状に作った>のだと思いますよ。「近森」とは、人里近くにその場所を「鎮守の森」と定めたわけですから、きっと、この近くにその居住区があったに違いない。
以上、極小地帯と中・広域の三例をあげましたが、このような文化(考え)は、めずらしいことではなく、他にもあると思います。「ほら♪あなたのお住みになっている町にもね」。ちょっと考えれば、銅鏡が中国から入った初期ならいざしらず、それを自分達で造るようになれば、<その入魂式( ・・銅鐸もか??)>がなければ“ありがたみ”が涌かない。 あっ!それから、「ご先祖さまは、その “環状木柱列” という難しい名前でなくて、何かの名前を付けている」と申し上げましたが、それは 『納戸・なんど』 とか、 『納屋・なや』 と呼んでいたのではないでしょうか? 今では、それさえも死語に近くなってきましたが、こども心には、田の字造りの北西にあり寝所で薄暗い納戸部屋が恐ろしくもあり、何で<戸>の字がつくのかな?と思ったりしたものでした。 それが正倉院や夢殿へと変わってゆく?歴史は、専門家に委ねましょう。(^^!)♪
<チカモリ遺跡・環状木柱列について>
所在: 石川県金沢市新保本町5丁目33
① 北
⑩ ② ↑
\
⑨ ③
\ 北から番号を振りました
*
⑧ \ ④ /
\ ④と⑤は入り口か?
⑦ ⑤ (/印は、S状の板)
⑥ / \
← 直径約6m → 当時の冬至の朝の光が射し込む方向?
以下; 石川県埋蔵文化財センターより、概略を引用しました。
遺跡の発掘;総数350本のうち約250本が栗の木を半分に割り断面をカマボコ状に加工していた。(栗の木は堅くて重く石斧で加工しにくい。昔は鉄道線路の枕木に使用されていた。)
直径約50cmを超える巨大な柱根は約40本であり、中には直径85cmに達するものもあり、根本にひっぱる為の藤つるが固く巻き付けられているものもあった。
カマボコ状の弧の部分は奇麗に加工され(枝や凸凹をなくして?)その部分を環状の内側にして掘っ立てられていた。 又、割れを防ぐためであろうか、その芯が取りのぞかれていた。
図にある⑤と⑥番目の柱には板状に削ぎおとしたものを添わして出入り口状にしていた。
環状柱列の直径は約6mであり、環の中心をずらしながら(幾重にも円が)重なりあっていた(円環のどの部分を起点にしてずらしていったかを知りたい)。 これは伊勢の遷宮(20年で本殿をやりかえる。出雲大社では60年・よき年よき日だったかな?)のような事かと思われる。
<往時、どのような構造物だったかの意見は分かれている>
一つは、ヨーロッパなどで見られるストンサークルのような大柱を円形に配して神の宿る域を示したもの。 いま一つは、屋根や床、壁などを備えた「祭の館」ともいえるものだとの説がある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<素人の見解♪>
上記のように、専門家の意見が分かれた時、素人のやり方は、「まあまあ、どちらも、そう仰らないで^^!」 といって、双方の意見をとりあげます。 何故かというと専門家というのは、思いつきを語る素人と違い多くの知識のうえに立っての言であるからです。 只、専門家のわるいくせは、このように意見が分かれた時、他の意見を認めないことかな?。(汗~!) ・んで、素人探偵が導きだした折衷案は、『屋根があって壁がない東屋(あずまや)風^^』
<環状木柱列の不思議?>
以下、思いつくままにあげて、思いつくままに試考?していきますので、あたっていないかも知れません。 皆さんのどうぞのご意見をお聞かせ願えれば幸いです。
① 何故、真円で線対称にしているのか?
真円は太陽神からくるものか? だとすると、入り口?から奥を見て左右対称形にしているのは何故か・・? 話は少し変わりますが、今でも朝日・夕日に手を合わすご老人がいることを話したこと(別紙・報告書)がありました。 さすれば、10本の柱は両手の指か? 入り口両脇の柱に添わしてある板状のものは、親指の爪にも見えなくはない。 「爪」に、ついては、「指を詰める」とか<爪崎>等の地名もあり、竜(竜神舟)の爪を削いでおとなしくして頂いて、その禍(わざわい)を小さくするように願ったと謎解きした。
② 何故、出入り口? が東南?に振っているのか?
これは、素人には「荷が重すぎる」 冬至の朝の太陽光を取り入れるまでは、謎解きしてきたが、それにしても南へ振りすぎていたり、富山の桜町遺跡や、他の地の出入り口がどの方向にあるのかが確認できていない。それと、ストーンヘンジ等にあったように<夏至の日没>が気になる。 (是非に天文学の御参加を願っています。)
③ 何故、栗材を使用しているのか?
これは、まったくの根拠のない当てずっぽうですが^^!、栗の実のトゲトゲが太陽に見えなくでもない。そして、屋根があっても無くっても、掘っ立て柱にすれば、松や杉ではその境目が直ぐに腐ってしまう。その点でも栗材は丈夫だ?
④ 何故、大木を半割りにしているのか?
そして、その割り面を外側にしているのか? 丸太のままでも良さそうに思うがその意味がわからない。(荒)神威力の半減か? 夢殿は円柱だったと思うが?
⑤ 何故、同じ場所に設えているのか?
これは、用材の腐りや、<4千年前>の彗星が荒神に変身したことに基づくのではないだろうか。(ハレー彗星の周期は76年)彗星が現れたら新しくやりかえる? 最初は細い用材から段々に太い用材へとかわっていく。 8本の円環もあるのは、最初は八方の考えであったが後に十方の考えへと変化した? 蛇足ながら、遺跡の保存という無理からぬ事情があるにせよ、他の場所へ復元したのでは、この施設の意味を失う! 祖先は四千年前の津波が押しよせた<冬至の朝日が射し込む谷>の入り口に、この施設を設えている。 どの谷でも、どの場所でもいいや」と云うわけにはいかない理由がここにある。
⑥ では、前のものを掘り上げて、同じ穴を使用してもいいように思うが?
そこは、それ、誰でも? 神様でも?(笑)新しいものには新しい穴がいいからね。この場合、10本の内のどの柱を起点にして新設しているかが重要な意味をもつ。
⑦ その他 この施設が何時に始まりどのように変遷していったかについては、今後の課題としましょう。^^!
<仮想メモリがなくなりました。簡単に結びます>
この施設で笹竹を燃やしその倒れる方向によって次年度を占うというのがあった。 時代の流れとともに微妙に変わる “多目的ホール” と考えるほうが楽だと思いますよ。(笑い) いずれにしても、今の私達が神仏にたいして何をなしているかが謎解きの鍵になる。
“冬至の朝の光” を取り入れるために、入り口を残し暗幕を張る! 今でもお葬式や事始めのお祝いのときには幕を張りますよね。地球には 『歳差運動』 があり、約70年に1度角(?)、日の出の方向がずれていく。 筆者は、3世紀初頭の卑弥呼の代(約1700年前)の <冬至と、夏至の、日の出の方向>を知りたい。 その<伸びゆく影>が、これ等の環状木柱列の入り口に重なって欲しいと願っています。(今年の冬至が楽しみだ♪)
そして、その願いを新しく来る年の <初日の出> に拝むことに致しましょう。(^-^)♪
次の記事の予定はいまのところありません。 風の向くまま気の向くままかな? ・・・^^!、
・・・つづく・・
どなた様、拍手をありがとう♪ 只今までで('10 5/21)3拍になりました。(^-^)
このブログ記事をご覧の歴男歴女の皆様へ、
本年('15)の冬至の朝<船穂町神戸>に 「 集いませんか^^?」
地を這(は)う、その旭光を身に浴びれば、何かが変わるかも・・・^^♪
但し、その日の朝、都合よく旭光を拝めればの話ですよ^^!
ん?、冬至十夜のてもあるぞ(笑い)
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岡山県<倉敷市船穂に銅鏡の入魂遺構ありと予見する!>misstionⅡ
「光陰矢のごとし」と、言うが月日のたつのは早いもので、
銅鏡の入魂施設とした環状木柱列遺跡は、「新たに入手した銅鏡に冬至の旭光を照射し入魂する(包パオ)施設であり、納戸とか納屋(納谷も出てきました)と呼ばれていたのではないか」としたブログ記事を書いて6年が過ぎました。その間、I.>先生を除いて、未だに何方さまからも相手にされていない。(笑い)
(注:冬至の旭光 =四千年前東北に光臨した巨大隕石が放った閃光 →myブログ&別紙報告書に)
< 御先祖さまの思い>
ほんとは、冬至の前夜からはじめて、次の朝一番に昇る陽射しを取り入れたいところだが、お天道様は、かならずしもその日の東の空を天気にはしてくれない。「折角だが、来年にしましょうや」 ともいかない・んで^-^! 冬至当夜は“冬至十夜”として、12月21日~12月30日のあいだで晴れの旭光が迎えられれば、「それで、ヨシ^^」と考えるのがワイルドな展開^^! もちろん(太夫)御坊は、冬至当夜からはじめて、その日の朝がくるまで“不眠不休”でお祈りをする。鳴り物の鐘(カネ)や太鼓をうち衆人もそれに唱和する。今日では、それが除夜の鐘をつきお正月を迎えるようになっている。その歴史は連なっている。今、私達が為している行為にその謎解きのカギは潜んでいる。 (以上がこれまでの展開です。) (^-^!)
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<光陰矢のごとし>
さて、この記事の本題に入ります。
('15/05/24)何方さまから拍手をいただいた。何分、拍手もいただけないような長駄文を連ねている素人であるから、拍手を頂けるとうれしい。各々の記事は、知識として書いているのではなくて、こども心と遊び心に絡めて、その時々の不思議の探求としての調査やヒラメキとして書いているものだから、その全ては覚えていない。 何んで^^?拍手が頂けたのかと、その記事を反省も含めて読み返すようにしている。それで^-^!「光陰矢のごとし」の言葉に行き当たった。
<なぜ「光陰矢のごとし」というのか?>
ウエブで調べると、中国の詩人がつかったのが始まり等・・とある。中、和の論争はさておいて、
この私(素人)が考えるのに、時の速さを光に例えるなら、「光日矢のごとし」と言えばよく、陰の字はいらないと思うが? 光と陰は、明と暗をあらわす反対語であり、瞬く間をいう言葉としては、陰はブレーキとなり、その意に反する。漢詩に「花落つることしる多少」の記憶があるが浅学の当方としては、これ以上の深入りはしたくない。と、このような愚からこの記事を始めます。
前記事に銅鏡の入魂施設(!?、とした)3施設がある。
岡山県倉敷市の 船穂町神戸コオド遺跡 ← 仮称であり、その存在確認さえありません。
富山県小矢部市の 桜町遺跡
石川県金沢市の チカモリ・遺跡
このなかの、岡山県倉敷市船穂町の高徳寺で、その昔は新島・高量山(にいじまたかくさん)と、呼ばれていた。というのが気になっていた。“新島”は、近代まで浅口と呼ばれていた地域であり、大川である高梁川の河口付近に位置することから、その昔は浅海か、河口のなかにあっての島であろうと容易に想像できた。だが、「高量山・たかくさん」が読めない。<量>の字が推めない。・・・何故「量」の字をつかうのか? 冬至の旭光を、倉敷市○○の向山から迎え、そこに「供物」を供えるのが主目的なら、なにも「量」の字を当てなくてもよい。前の拙記事で「供物を供える為の台」と、したのは間違いではないのか。台としての使用なら○○台とか○○平と付名すればよい。さらに、朝陽を銅鏡に入れ「封印する」考えもズレていたと思う。封印ではなくて “入魂”なのだ。
その<伸びゆく影>が、と前記事に書いてあった。
自分でも、それと書いていながら気付いていない^^!。・ そうだ!!。(光)陰なのだ。影なのだ。現、高徳寺がある谷の入り口に土を盛り、その<延びゆく影の先端>が谷奥の環状木柱列に届くように設えたのだ。その為には、環状木柱列と<定めた場所>へその影(陰)が届くには、土量を高く積まねばならない。だから量なのだ。・・なぁんだぁ~、高くしたから 「高量山・たかくさん^^♪」 ご祖先さまからの伝言は、そのままに受け取ればよかったのだ。今に仏飯を高く盛るのはこのことからきていると、私は断言できる。そして四国香川県の飯野山(讃岐富士)飯山町の地名は同様な文化を引き継いでいることを意味する。でないと、この山を飯になぞらえる発想が思いつかない。仏様でも山盛りご飯は食べにくいぞよと思うのが子ども心。(笑い)
<その入魂儀式を再現する>
その環状木柱列の普段に、屋根や壁があったかどうかは筆者は知らないが、日の出の旭光は、時間がたつにつれて高くなる。この儀式をする時は、他の光をさえぎるために入り口だけを残し、周りを囲う。この建屋の奥に安置した銅鏡に高量山の影が伸びて入り込む時間は長くない。もたもたしていると(^-^!)、せっかく入った太陽神(光神or、荒神)は、その影とともに逃げてゆく。その影が入り込むやイナヤ素早く戸口を閉める。あるいは「幕を下ろす」。このような儀式がキット行われていたはずだ。備中神楽において四方を囲んだ注連縄を二武神が斬るしぐさや、力士のサガリや幕内力士の土俵入りで化粧まわしの上げ下げのしぐさは、そのことに関係していると推察できる。さらに、横綱、土俵入り(←矢を射る)、太刀(たち←断つ)、その他、筆者の知らない相撲の言葉や“シキタリ→仕切り”の解明は貴方さまにお願いしたい^^!。
<岡山県倉敷市船穂町神戸に環状木柱列遺構あり(あった)と予見する!>
(ふなおちょう ・こうど) (史実探偵: 平 素人 )
船穂町は、縄文の昔は海辺であった。その後の海退やら埋め立てやらで今では陸中にあり、新田の地名もある。ここに西之谷地区がある。そこに灌漑用の池があり、その上に神戸の地名がある。この谷の西に里木貝塚があり人骨も出たそうだ。四千年ほど前の三陸地方に巨大隕石が落下し、大津波がこの地に押し寄せたことは、myブログ等で報告している。この地の祖先は、その津波の波打ち際に<神戸・こおど>の地名を付けた。時は流れて “卑弥呼が関係し” 銅鐸文化から銅鏡文化へと移っていった。 ( この詳しくは、別紙電子出版 「巨大隕石と大津波」や myブログ で述べています。)
<ご先祖さま、嘘つかない^^!>
銅鏡の入魂施設、環状木柱列(ウッドサークル)設営場所の条件^^!。
銅鏡は製作・入手したそのままで、御神体として使うわけにはいかない。そこで、冬至の旭光(なぜ冬至の旭光なのかは、前々の記事をご参照ください。)を呼び込んで太陽神を入魂する。その施設は、大事な祈祷・儀式であるから 「どこでもいいや」と、いうわけにもいかない。“その昔四千年前の冬至、東北に降臨した巨大隕石が発した東方からの巨大地震や、大津波が入り込み、その旭光が入り込む谷あい、あるいは、平地ではそのように植樹した。この二つの条件が要る。祖先は、その入り口に山を盛り(高量山たかくさん)あるいは、その条件に位置する山影が「光陰矢のごとし」と届く場所に、その入魂施設を設営している。
<船穂町・西之谷>の谷を少し入った所にある池の上(カミ=神)に、表題の環状木柱列は建てられていた。工事等で荒らされていなければ、今でもその柱根や柱穴は残っているはずだ。
この祖先からの伝言 『神戸・こうど』には、1%の欠損もない!。コウド=光道・こうどなのだ!!
そうでなければ、その史学からも忘れ去られ、どこにでもあるようなこの小さな谷あいに、
ご先祖さまが 『神戸や、高量山・たかくさん』という二つの特異な地名を付ける必然性が思い浮かばない。^^!
<モデル地区船穂町>
こういった施設は、住民、人口が増え社会基盤が大きくなるにしたがって、だんだんと大きくなっていったり、増えていくのが世の常だ。小域の岡山県船穂、中域(?)の富山県桜町、広域の石川県チカモリ遺跡へは、同じ文化が広がっている。桜町には<子矢部>の地名も遺されていた。子は大人になる前段階のことで、矢の字は「光陰矢のごとし」^^。今の矢ブサメ等の神事は、このことに始まっていると推測できる。 このような入魂施設は、銅鏡にはじまり、その他を御神体として使用するモノへの入魂も考えられることから、貴方さまがお住みの近くにも、あったかも知れないし、あるかも知れない。しかしながら、逮捕権を持ち合わせていない素人探偵ができるのはここまでで、その探索や発掘は貴方さまや専門家にバトンタッチしましょう。
( おわりに )
これ等の論があなた様に伝わらないのは、その史実が無かったからではなく、わたしの論法が拙いからだ。‘地名’は、その昔 「そこで何があったかを語りかけている祖先からの言葉であり、
記録である」 そして、祖先が私達に残してくれている遺産である!!
(↑myブログよもやま話Ⅱより)
もし、あなたが、現史学が、その地名の全てを「歴史としては不確定で変わりやすいもの」と受け取っておられるうちは、決して祖先からの声は貴方には伝わらない」 (ゴメン、ちょっと言葉が過ぎました^^!)
<・・と!? このように結んで> この記事の“幕を下ろす”つもりでしたが???
その確認のために地図を見る。 ヤフー、グーグルアース、国土地理院、等々・・・
ところが、国土地理院の<電子地図Web>で私の意に反する??ものが見つかりました。
その高量山は、私の思っていた円形ではなくて南南西から北北東に長い長円形であった。
次がその電子版を参考にして緯度経度、等を書き込んだものです。
(地理院の了解とっていないのでよろしく^^!)下手でゴメンナサイ^^!)。
<新島 高量山 : 高徳寺 周辺地図>
にいじま たかくさん (人家を略しています)
北緯34°35′32″, 東経133°42′40″, 標高7m

< 高量山は長円形であった!!>
前回の調査では(電子出版・報告書「巨大隕石と大津波」p57 祖先からの伝言パート2,モデル地区船穂町)
それが長円地形であったとは意にも留めていなかった。なぜ、長円形にしたのか?円形なら、ともかく長円形では、その方向性が重要な意味をもってくる。ご先祖はその方向性を重視して、わざわざ長円形に築いている。その方向を見ると旧庄屋宅となり、私が環状木柱列の所在と思っていた溜め池の上・の神戸ではなくなってくる。
<いざ、現地調査へ>
高徳寺と呼ばれる、その古刹は真言宗で御本尊は毘沙門天。石垣で○mほど高く築かれた立派な構えである。グーグルアース ・ストリートビューでは、良くぞと思われるぐらい。周囲の細い道まで入っていける映像が楽しめるので是非おすすめしたい^^。さらに、広徳寺をクリックすると、その由来やら歴史の詳細ものっています。
<高徳寺・高量山>は、
現地に立つとかなりの土量である。素人が論じているのは、今から1700年をさかのぼる卑弥呼以降の話である。もとの地形を利用して、その形に盛ったとも考えられるが、円形の方が土量も労力も少なくてすむ。近年かその昔かは知らないが<防ケ砂ぼうがさこ>の地名も残っている。なのに、なぜ長円形にしたのか? 天井川でもある高梁川の堤防上にたち、高徳寺を正面に拝んだその先は、筆者の思っていた溜め池の上ではなくて、旧庄屋宅を向いている。未だ見ぬ環状木柱列の所在は、溜め池の上か?、 それとも図面で12・3°角ずれての旧庄屋宅となるのか??
<この12・3°角のズレは大きい!>
もし、旧庄屋宅がその入魂施設の跡地ならば、対岸の冬至の朝日が昇る山とした倉敷市の向山(公園)からは外れてしまう。それは出来ない。なぜなら、(縄文の?)祖先は、今は陸中にあるが当時は海中にあったであろうと想像できる近くの山に連島とか片島の島名をつけている。ならば、“向山” にも当然、それと同じように、沖島・向島・遠島、等の付名でよいところだが、島名でなくて山の名をつけている。このことは、祖先は、特に変わっているとは思えない山姿のこの山を見て、“冬至の太陽の昇る位置を観測していた” さらに、その背後にみえる金甲山付近の山に貝殻を運んで‘貝殻山’にしている(別紙報告書)。なぜ、この近くで一番高い金甲山(403m)ではなくて、なんの特異性も見当たらない貝殻山(289m)なのか? ちなみに貝殻山は、高量山からの東西線より大見当で(5°角?)南へ振っている。さらに、貝殻山遺跡は、愛知県や千葉県のほうにも、あるそうだから、これ等も類推してみる必要がありそうだ。その入魂施設の跡地は、溜め池の上(34°35'35″N, 133°42'24″E)か? 旧庄屋宅(34°35'36″N, 133°42'29″E)か? 困ったコマった^^!。
「地球の歳差運動」
これは、前々の報告書やブログ記事でも申し上げましたが地軸がコマのように軸をふって回転していて、今の北は、北極星方向にあるが○○年後には○○座方向にズレてくるというもの。
英国のストーンサークルの当初は、巨石を立てて冬至・夏至?の朝陽が中央の生け贄台に差し込むように設計されたが、その構築には時がかかりすぎて、始まりからいえば700年もかかり 「途中止めにしたのではないか」と聞くから、筆者は、時とともにこの歳差運動により陽光がズレて役に立たなくなったら途中止めにしたと謎解きした。(myブログ:英国のストーンヘンジより)
他方、「石川県のチカモリ遺跡の発掘;総数350本」と、聞くからその立柱10本として、その老朽化による建替えは、伊勢の遷宮20年を勘案すると、苦しくもその歴史は700年になる。さらに、その方向性はズレていたとも聞くから陽光にあわせて修正していった^^。(こっから先は天文家に^^!)
<入魂施設の跡地は、池の上か? 旧庄屋宅か?>
堤防川幅600mの高梁川の堤防上( 注: この標高16、6mは場所によっては日の出光をさえぎる.)にたち高徳寺を正面に拝んだその先は、池と思しきところではなくて、旧庄屋宅だった。 その○○氏宅は、庄屋宅の名にふさわしく長屋門や蔵を備えた立派な構えであり、近代建築が進むなか、その保存にかける思いが伝わってくる。邸宅内をお伺いすることは出来ないので、国土地理院のwebや、グーグルアースで、確認すると建物に囲まれた広い中庭があり、植え込みがなされている。 ここか!!?? もう一方の“池の上”は、川底1mほどを渡ったところにあり、橋は無い。竹が立錐の余地もないほどに生えている。前回訪れたときは、おそろしくて近寄ることも出来なかった。それとも、 ここになるのか!!?? (※ グーグルアースの、ストリートビュー映像で可視できます^^ )
<神戸入魂施設と、高量山と、向山との位置関係>
神戸・池の上← 約0、36km →高量山・高徳寺← 約6、5km →倉敷市・向山
標高、約14m 標高7m 向山公園の標高96m
→ 約24km~25km先 → 金甲山(403m), 貝殻山(289m)
向山は、北西~南東の細長い山で最高が99m、冬至の日の出の位置が分からないので、
仮に、その位置を向山公園の96mとし(算数苦手な筆者ではあるが、)向山から日の出の光が
差込み高量山の影が、神戸・池の上,に届くようにするには、高量山の高さを標高18、3m
にしなければならない。標高7mの高量山では、高さが11、3m足りない。・・・・・、(> <?)
先の報告書等で、『地球謎学ブック』平川氏の話をしたことがあった。私達は水平線のかなたを見るとき60km~100km先を見ていると思っているが、実は、170cmの人が東京湾にたつと5・6km(この数字は不確かな覚えであり、あとで調べます^^!。)先の水平線しか見えていないと言うものであった。このように、地球は丸いのだとも。さらに、帆船が行くとき船体から見えなくなって、帰るときは帆の先から見えてくる話もあった。 これを考えても、 土を盛るのがキツクなってきた!! ・・・、さて、どうしたものか・・・???
そうだ、高徳寺の御本尊は毘沙門天だ。相撲に関係している。国技館では長いノボリが立つ。
足りない分<塔か、ノボリか、錫杖か、剣・槍を>立ててやれ?と、ご先祖さまが言ったかどうかは、その昔のことなので責任が持てない!^-^! これは無理ヤリの語源かも(笑い)
さらに、高徳寺の下からではあるが両手を合わせた大きな石刻が見える。新造ではあるが、これもキットなにかのイワレがあってのことに違いない。私はかつて尾道の千光寺を訪れたことがあったが、その山上に二つの石を据えて、そのスリットから冬至の朝の光が差し込むとの説明書があったと記憶している。そして、朝な夕なに、朝日を拝み、夕日を拝む古老の話をしたこともある。わたしが両の手を合わすと隙間ができる。さて、貴方さまは、そのスキマから何が見えますか・・・(^^?) えっ!スキマが出来ない? それは残念(><)!
<結び>
入魂の施設が、溜め池の上か? 旧庄屋宅か?は、解明できなかったが、高量山と、土俵を高く盛る(仏飯をたかく盛る)という、これ等の事実は、全くの無関係ではない。素人探偵の拙い報告書に間違いや、貴方さまからの反論はあると思う。その反論が大事なのだ。その反論に正答がでないは、この私くしが至らないからで、その史実がなかったからではない。この謎解きにジャンルはない。その反論を究明し 『より正しい学問となす』 のは、貴方さまや、それぞれの道に長けた専門家の役目だ^^。それには、船穂町神戸に 「 ある。あった。」 と思われる銅鏡(その他も?)の入魂施設の柱痕跡の発掘から始めなければならない。この私くしが、ツルハシ担いでスコップ片手に(^-^!) という分けにはいかない。地方創生をいう昨今、倉敷市船穂、富山県桜町、石川県チカモリが、コラボしてあたればより強い観光資産になりうる^^。ことが成ってからの寄りまくりなら誰もができる^^!
貴方さまや、貴方さまが関係する機関の“参加、発信”を 強く希望します。 □
2015 / 6 / 28 Messenger : 平 素人
さて、貴方さまは、どちらになさいますか^^?
<出土する前を楽しむ? それとも出土してから騒ぐ^^!>
ⅰ そんなことは、初めて聞くし興味もない。卑弥呼がどうだとか、今のわしには関係ねぇ。
(他趣味な人)
ⅱ 何かの遺物が出ているならともかく、地名だけでは(税の使用)動けない。動かない。
(行政&現史学)
ⅲ 著名な史家なら、ともかく、実績のない素人の言うことなど、とても信じられない。(歴男)
ⅳ 目からうろこ」 発掘に関係して、観光資産^^・事業にしたい。(起業・社長)
ⅴ 現地を訪れ、冬至(十夜)のその旭光を身に受けて、ご利益を授かりたい^^。(歴女)
ⅵ 面白い。先が楽しみ、声援(コメント応援^^♪)します。(観客&報道)
'15/6/28 で、この記事を完了しました。これを関係機関へ送ってみます。^^!
さて々、何人のお方さまが “本年の冬至の朝” に倉敷市船穂に集って下さるでしょうか^^!
・・・以上、<出土する前を楽しむ♪>お方さまは、↓をポチッと押してみて・(笑い)
銅鏡の入魂遺跡
<出雲のウッドサークルを捜せ!> misstion - Ⅲ ’15/10/10
(はじめに)
このキッカケは、国土地理院の地図で四千年前の津波の地名探索を (myブログ・カテゴリー出雲地方)している時であった。この地に<神戸川>の地名をみた時、つよい興味を覚えた。なぜなら、当時の筆者は、兵庫県の「神戸・こうべ」 以外には、おおきな関心はなかった。すでに<戸>の付く地名は、四千年前に発した“巨大津波の津波際の記念碑”だと謎解きしていたが、兵庫県但馬地方と、遠く離れた出雲の地に同様な地名があることが意外であったからである。「神戸」の読みには、その土地、々によって、「こうべ、かんべ、こうど」等があるようだが、未だに出雲の<神戸川>の読みを筆者は知らない。それは、それでさておいて(^^!)
<同様な地名に同様な文化あり>
移住した人達がふるさとを想い、そこに同様な地名をつけることがあるが、それはそれで全く関係ないとはいえないのである。「神戸」は、通常の発想から生まれる一般名ではない。ましてや地名に「神」という特別な名を付名するには、その地に相当な祖先の思い入れがあったからだと思えてならない。
<銅鏡の入魂遺構(ウッドサークル)としたその共通点>
今一度、前述ブログの三地域と、出雲の④を掲げてみよう。
岡山県倉敷市の 船穂町神戸(コオド)遺跡 ← 仮称であり、その存在確認さえありません。
富山県小矢部市の 桜町遺跡
石川県金沢市の チカモリ・遺跡
環状木柱列の、所在 冬至の日の出、指標 谷間から眺めた日の出の場所
① 神戸・こうど(西之谷) → 高量山・高徳寺 → 向山公園(岡山県・倉敷市)
岡山県・倉敷市・船穂町 (東西線からの南角度: 約 )
② 桜町・遺跡 → (~約700m)神社名・未調査 → 高岡・カントリークラブ
富山県・小矢部市 (東西線からの南角度: 約 )
③ チカモリ・遺跡 → (~約1, 2km)西金沢公民館 → 涌波・日吉神社(石川県・金沢市)
石川県・金沢市 隣接する神社名は未調査^^! 太陽が丘・北陸大学
(東西線からの南角度: 約 )
④ 出雲市・神戸川流域を捜せ!?
“同様な地名に同様な文化あり”
ならば、出雲の神戸川流域にも、その施設はあるはずだ!
・・・・、 あったぁー!!
<間谷・アンヤ> → <神谷> → <朝山町>
出雲市○○に<神谷>、そして○km離れた東に<朝山町>、この「朝」がつく山名は、これより西に住む人達がつけた山名であり、それより、北や、東や、南に住んでいる人達がつけた地名ではないと、別紙報告書(巨大隕石と大津波)で述解してきた。なぜなら朝日は東から昇るとの単純な理由から(笑い)。そして、これ等の西に、小さく隠れて知井宮町に<間谷・アンヤ>があった。「間谷」とは、暗夜、闇夜の意を含んだ変形ではないのか? そして、「間」の字が表す字姿は、谷あいに射し込む朝光を表しているともとれる。前記事で述解したモデル地域、倉敷市船穂町 の地名3点セット(神戸・高量山・向山 )との言葉や表現の違いは、かなりあるが、その意味するところは同じである。・・・と、・・喜んだのはつかの間 ・・・、
<間谷・あんやは、谷あいにはない!>
ご存知のように、出雲・山陰地方の河川の多くは、南の中国山地から北の日本海側へ流れ込む地形をとっている。冬至の旭光が射し込む東から西へ向かっている谷あいはほとんどない。それとも、出雲IC.の近くに立つ鉄塔・標高26mに立ち、山波をとおして東の朝山(標高188m)方面をながめれば、その山稜から、その日の出を拝むことが出来るのか?? 木立が一本あっても、その陽射しを遮ることはある。現地に立ってはいないのでその様子が見えない。 ・・・万事休す!!!
“Google earth” のプレビューで、‘間谷’付近から、東方の‘朝山’を見るべく走破・探索して見るが朝山の山稜は全く見えない。<間谷 >→<神谷>→<朝山> このラインは間違いなのか? しかし<神戸川>や、前記事で “神戸=光道”とした<神門町・こおどちょう>の地名は現実として存在している。この<間谷>の地名は、衣食住だけの生活から発生する地名ではない。それと推み解けないのは、この私の考えが至らないからであり、祖先の伝言に偽りはないはずだ。
<朝山神社・朝山八幡宮>
ウエブで調べると、その昔には、「全国の神々は出雲大社の神在祭の前、旧暦10月1日から10月10日まで(新暦では、およそ11月の下旬?)この神社に立ち寄ってから出雲大社へ向かわれると伝えられる」 とあり、このことは、銅鏡に冬至の朝日を迎えて大社の方へ向ったことが、のちに常態化したのではないだろうか。<神門>の字をあてているのは、その通り道なのだ。間谷の丘部を外れて、もう少し北から眺めれば朝山の稜線から昇る日の出が拝めるのではないか・・・?
<真幸ヶ丘(まさかがおか)公園>
この 真幸ヶ丘公園の標高は○mで、JR山陰線を挟んで間谷の北側に位置する。
・・、 まてよ??
「間谷」とは、このJR線の谷あいを云うのではないのか! この丘は、南側を除き周りはほぼ平地であり、行政区は知井宮町ではなくて神門町に入るが、この丘からだと “朝山の稜線”が見えるのではないか? <真幸>は、「真っ向」とも読み替えることが出来る?(^^!)。 プレビューで見る東方の山波は、朝山ではないのか? この公園に六角形○階立ての少し大きめのビルがある。何故、六角形にしているのか?普通に考えれば、四角形ビルが通常であり、何故、 六角形にしてあるのか不思議でならない。 これは、全くの推論であるが、その昔、ここに何かの“伝承”があって、六角堂ならぬ東屋風の構築物があったからではないのか?? この考えが当たっていれば、ここに 「環状木柱列・ウッドサークル」 があったことになる。是非にそのイワレ等を聞きたいと思うが残念なことに、今は、広場や、テニスコートを備えた大きな公園に変容?整地されている。
旭光 地名ライン( 神西湖~高瀬山,の周辺地図 )
<高瀬山>
朝山のさらに東方○kmに、この<高瀬山304m>の名が見える。山々に囲まれたなかの高瀬山である。普通「高瀬」とは、水に関係する言葉であり、山々のなかに「高瀬」と地名にする必然性が思い浮かばない^^! 筆者が何故、この 高瀬山に注視するかというと、先のブログ記事<船穂>であった<神戸→高量山→向山→貝殻山>ラインの4点目の配置に酷似しているからだ。
つまり、<間谷→神谷→朝山→高瀬山>が意味することは、貝殻山=高瀬山 と同様であり、この推みが正しければ高瀬山には、その山上に“海産物を運んだ遺跡”がなければならない。
<出雲市・「高瀬川と」、倉敷市船穂「高瀬通し」、の共通名の不思議>
前の記事<船穂・ふなお>の地図に、『高瀬通し』という水路を潜ませていた^^。この 高瀬通しは、その昔、商港だった玉島港と高梁川上流の高梁市をつなぐ物流ラインで昭和の初期まで底の平らな高瀬舟に綱をつけ、それを両岸で引っ張り、上流に物資を運んでいたそうだ。ちなみに、高瀬舟の発祥はこの岡山の地からだと知った。この例を取り上げるまでもなく、総社市の吉備津神社の神殿は、出雲大社のほうを向いているとも聞くし、さらには、船穂町里木神社の祭神を父にもつ娘が出雲のスサノウの尊(みこと)へ嫁いだと、その表示板にあったとも記憶している。これ等のことから出雲文化と吉備文化は、相互に交流がありおおきく関わり合ったことがうかがえる。
出雲平野の高瀬川は、国土地理院5万分の1の地図で見ると東西がつながって一本の川に見える(^^?)。そして、真幸ヶ丘周囲の標高は、先の船穂地区にあった<新島・高量山>あたりの標高5~6mに一致する。それが同じ時期だとは断定できないが考えの内には入れておきたい。
次は、全くの想像ですが、当時(弥生期のその昔)、現在の標高5~6mまでは海であり、高瀬川の西は日本海へ流れ込み。東へは渡橋町の“境町、辺りを分水嶺”にし、大津町をへて斐伊川に注ぎ、さらには宍道湖へと流れ込む。これは、波高の荒い日本海を避けて、西の日本海と宍道湖をつなぐ(徐福団の)航路としていたのではないか??
・・と言うのは、前々のブログ記事、(カテゴリー出雲地方、吉備地方)で申し上げましたが、船穂の「高瀬通し」の上流に、水面高さの高い高梁川へ物資を載せた船を運ぶ時、スエズ運河と同様な方法で樋門の開け閉めが為されていたとあり、それはパナマ運河より、二百数十年も前のことだとその説明板で見たことがある。このように東西へ分かれる二つの川を航路としてつなぐ時、運河の施工が要る。もし、出雲の高瀬川が東西をつなぐ航路として使用されていたのであれば、出雲の高瀬川にも、そのような水門がなければならない。そして○○○あたりにある溜まり池は、その船待ちのなごりかも知れない(^^?)。
<西神湖・さいじんこ>
西神湖←<間谷→神谷→朝山→高瀬山>このラインは、ほぼ東西の一直線上に並んでいる。
この地の祖先は、冬至の荒ぶる神=光神(こうじん)様が、東の高瀬山に出でて、→鐘築→朝山→神谷→間谷・真幸ヶ丘→西神湖の地名を意味づけの為に一直線上に置き、それを信仰の対称としていたと推論出来る。その根底には、四千年前、東北地方に巨大隕石が光臨し、列島を揺るがした巨大地震と巨大津波への畏怖が潜んでいる。その時の大閃光をこの地の人達が直接見たわけではないが、その伝承を補助し“列島流布への媒体”となったのが魏の始皇帝から不老長寿の薬石を見つけるべく、3千人の童男童女を受けて列島に分団し、それ等の集荷網をつくった“徐福達”だとした。 出雲神戸川河口に<唐島>。そして、先の船穂地区には少しはずれるが<唐船>の地名が残っている。このように出雲の“間谷”と、船穂の“神戸”は酷似している。出雲の方の名づけは無理矢理感があるので船穂に習ったかも知れない^^。(詳しくは、前々の記事へどうぞ^^!)
( 結 び )
一連(関連4ヶ所)の謎解きをこれで一旦終えますが、筆者の目的は、皆様がこの報告書をキッカケにして、これに気付いて下さることであり、これ等の歴史をよく識る貴方さまが、この報告書に含まれる誤りを正し、より確かな学問へと成して欲しい。知井宮町の智伊神社の神紋には『弓』の字が使われている。“本年(2015)の冬至十夜の朝” 出雲市神門町 “真幸ヶ丘公園の六方郭”に上り、東方の朝山方向から昇る旭光が、その昔と同じように、その光 「矢を射るが如し」と射し込むのかを? 皆さまに是非確かめて欲しいと願っています^^!。
Oct.10,’15 史実探偵: 平 素人 □
本年('15)の冬至の朝<船穂町神戸>に 「 集いませんか^^?」
地を這(は)う、その旭光を身に浴びれば、何かが変わるかも・・・^^♪
但し、その日の朝、都合よく旭光を拝めればの話ですよ^^!
ん?、冬至十夜のてもあるぞ(笑い)
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岡山県<倉敷市船穂に銅鏡の入魂遺構ありと予見する!>misstionⅡ
「光陰矢のごとし」と、言うが月日のたつのは早いもので、
銅鏡の入魂施設とした環状木柱列遺跡は、「新たに入手した銅鏡に冬至の旭光を照射し入魂する(包パオ)施設であり、納戸とか納屋(納谷も出てきました)と呼ばれていたのではないか」としたブログ記事を書いて6年が過ぎました。その間、I.>先生を除いて、未だに何方さまからも相手にされていない。(笑い)
(注:冬至の旭光 =四千年前東北に光臨した巨大隕石が放った閃光 →myブログ&別紙報告書に)
< 御先祖さまの思い>
ほんとは、冬至の前夜からはじめて、次の朝一番に昇る陽射しを取り入れたいところだが、お天道様は、かならずしもその日の東の空を天気にはしてくれない。「折角だが、来年にしましょうや」 ともいかない・んで^-^! 冬至当夜は“冬至十夜”として、12月21日~12月30日のあいだで晴れの旭光が迎えられれば、「それで、ヨシ^^」と考えるのがワイルドな展開^^! もちろん(太夫)御坊は、冬至当夜からはじめて、その日の朝がくるまで“不眠不休”でお祈りをする。鳴り物の鐘(カネ)や太鼓をうち衆人もそれに唱和する。今日では、それが除夜の鐘をつきお正月を迎えるようになっている。その歴史は連なっている。今、私達が為している行為にその謎解きのカギは潜んでいる。 (以上がこれまでの展開です。) (^-^!)
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<光陰矢のごとし>
さて、この記事の本題に入ります。
('15/05/24)何方さまから拍手をいただいた。何分、拍手もいただけないような長駄文を連ねている素人であるから、拍手を頂けるとうれしい。各々の記事は、知識として書いているのではなくて、こども心と遊び心に絡めて、その時々の不思議の探求としての調査やヒラメキとして書いているものだから、その全ては覚えていない。 何んで^^?拍手が頂けたのかと、その記事を反省も含めて読み返すようにしている。それで^-^!「光陰矢のごとし」の言葉に行き当たった。
<なぜ「光陰矢のごとし」というのか?>
ウエブで調べると、中国の詩人がつかったのが始まり等・・とある。中、和の論争はさておいて、
この私(素人)が考えるのに、時の速さを光に例えるなら、「光日矢のごとし」と言えばよく、陰の字はいらないと思うが? 光と陰は、明と暗をあらわす反対語であり、瞬く間をいう言葉としては、陰はブレーキとなり、その意に反する。漢詩に「花落つることしる多少」の記憶があるが浅学の当方としては、これ以上の深入りはしたくない。と、このような愚からこの記事を始めます。
前記事に銅鏡の入魂施設(!?、とした)3施設がある。
岡山県倉敷市の 船穂町神戸コオド遺跡 ← 仮称であり、その存在確認さえありません。
富山県小矢部市の 桜町遺跡
石川県金沢市の チカモリ・遺跡
このなかの、岡山県倉敷市船穂町の高徳寺で、その昔は新島・高量山(にいじまたかくさん)と、呼ばれていた。というのが気になっていた。“新島”は、近代まで浅口と呼ばれていた地域であり、大川である高梁川の河口付近に位置することから、その昔は浅海か、河口のなかにあっての島であろうと容易に想像できた。だが、「高量山・たかくさん」が読めない。<量>の字が推めない。・・・何故「量」の字をつかうのか? 冬至の旭光を、倉敷市○○の向山から迎え、そこに「供物」を供えるのが主目的なら、なにも「量」の字を当てなくてもよい。前の拙記事で「供物を供える為の台」と、したのは間違いではないのか。台としての使用なら○○台とか○○平と付名すればよい。さらに、朝陽を銅鏡に入れ「封印する」考えもズレていたと思う。封印ではなくて “入魂”なのだ。
その<伸びゆく影>が、と前記事に書いてあった。
自分でも、それと書いていながら気付いていない^^!。・ そうだ!!。(光)陰なのだ。影なのだ。現、高徳寺がある谷の入り口に土を盛り、その<延びゆく影の先端>が谷奥の環状木柱列に届くように設えたのだ。その為には、環状木柱列と<定めた場所>へその影(陰)が届くには、土量を高く積まねばならない。だから量なのだ。・・なぁんだぁ~、高くしたから 「高量山・たかくさん^^♪」 ご祖先さまからの伝言は、そのままに受け取ればよかったのだ。今に仏飯を高く盛るのはこのことからきていると、私は断言できる。そして四国香川県の飯野山(讃岐富士)飯山町の地名は同様な文化を引き継いでいることを意味する。でないと、この山を飯になぞらえる発想が思いつかない。仏様でも山盛りご飯は食べにくいぞよと思うのが子ども心。(笑い)
<その入魂儀式を再現する>
その環状木柱列の普段に、屋根や壁があったかどうかは筆者は知らないが、日の出の旭光は、時間がたつにつれて高くなる。この儀式をする時は、他の光をさえぎるために入り口だけを残し、周りを囲う。この建屋の奥に安置した銅鏡に高量山の影が伸びて入り込む時間は長くない。もたもたしていると(^-^!)、せっかく入った太陽神(光神or、荒神)は、その影とともに逃げてゆく。その影が入り込むやイナヤ素早く戸口を閉める。あるいは「幕を下ろす」。このような儀式がキット行われていたはずだ。備中神楽において四方を囲んだ注連縄を二武神が斬るしぐさや、力士のサガリや幕内力士の土俵入りで化粧まわしの上げ下げのしぐさは、そのことに関係していると推察できる。さらに、横綱、土俵入り(←矢を射る)、太刀(たち←断つ)、その他、筆者の知らない相撲の言葉や“シキタリ→仕切り”の解明は貴方さまにお願いしたい^^!。
<岡山県倉敷市船穂町神戸に環状木柱列遺構あり(あった)と予見する!>
(ふなおちょう ・こうど) (史実探偵: 平 素人 )
船穂町は、縄文の昔は海辺であった。その後の海退やら埋め立てやらで今では陸中にあり、新田の地名もある。ここに西之谷地区がある。そこに灌漑用の池があり、その上に神戸の地名がある。この谷の西に里木貝塚があり人骨も出たそうだ。四千年ほど前の三陸地方に巨大隕石が落下し、大津波がこの地に押し寄せたことは、myブログ等で報告している。この地の祖先は、その津波の波打ち際に<神戸・こおど>の地名を付けた。時は流れて “卑弥呼が関係し” 銅鐸文化から銅鏡文化へと移っていった。 ( この詳しくは、別紙電子出版 「巨大隕石と大津波」や myブログ で述べています。)
<ご先祖さま、嘘つかない^^!>
銅鏡の入魂施設、環状木柱列(ウッドサークル)設営場所の条件^^!。
銅鏡は製作・入手したそのままで、御神体として使うわけにはいかない。そこで、冬至の旭光(なぜ冬至の旭光なのかは、前々の記事をご参照ください。)を呼び込んで太陽神を入魂する。その施設は、大事な祈祷・儀式であるから 「どこでもいいや」と、いうわけにもいかない。“その昔四千年前の冬至、東北に降臨した巨大隕石が発した東方からの巨大地震や、大津波が入り込み、その旭光が入り込む谷あい、あるいは、平地ではそのように植樹した。この二つの条件が要る。祖先は、その入り口に山を盛り(高量山たかくさん)あるいは、その条件に位置する山影が「光陰矢のごとし」と届く場所に、その入魂施設を設営している。
<船穂町・西之谷>の谷を少し入った所にある池の上(カミ=神)に、表題の環状木柱列は建てられていた。工事等で荒らされていなければ、今でもその柱根や柱穴は残っているはずだ。
この祖先からの伝言 『神戸・こうど』には、1%の欠損もない!。コウド=光道・こうどなのだ!!
そうでなければ、その史学からも忘れ去られ、どこにでもあるようなこの小さな谷あいに、
ご先祖さまが 『神戸や、高量山・たかくさん』という二つの特異な地名を付ける必然性が思い浮かばない。^^!
<モデル地区船穂町>
こういった施設は、住民、人口が増え社会基盤が大きくなるにしたがって、だんだんと大きくなっていったり、増えていくのが世の常だ。小域の岡山県船穂、中域(?)の富山県桜町、広域の石川県チカモリ遺跡へは、同じ文化が広がっている。桜町には<子矢部>の地名も遺されていた。子は大人になる前段階のことで、矢の字は「光陰矢のごとし」^^。今の矢ブサメ等の神事は、このことに始まっていると推測できる。 このような入魂施設は、銅鏡にはじまり、その他を御神体として使用するモノへの入魂も考えられることから、貴方さまがお住みの近くにも、あったかも知れないし、あるかも知れない。しかしながら、逮捕権を持ち合わせていない素人探偵ができるのはここまでで、その探索や発掘は貴方さまや専門家にバトンタッチしましょう。
( おわりに )
これ等の論があなた様に伝わらないのは、その史実が無かったからではなく、わたしの論法が拙いからだ。‘地名’は、その昔 「そこで何があったかを語りかけている祖先からの言葉であり、
記録である」 そして、祖先が私達に残してくれている遺産である!!
(↑myブログよもやま話Ⅱより)
もし、あなたが、現史学が、その地名の全てを「歴史としては不確定で変わりやすいもの」と受け取っておられるうちは、決して祖先からの声は貴方には伝わらない」 (ゴメン、ちょっと言葉が過ぎました^^!)
<・・と!? このように結んで> この記事の“幕を下ろす”つもりでしたが???
その確認のために地図を見る。 ヤフー、グーグルアース、国土地理院、等々・・・
ところが、国土地理院の<電子地図Web>で私の意に反する??ものが見つかりました。
その高量山は、私の思っていた円形ではなくて南南西から北北東に長い長円形であった。
次がその電子版を参考にして緯度経度、等を書き込んだものです。
(地理院の了解とっていないのでよろしく^^!)下手でゴメンナサイ^^!)。
<新島 高量山 : 高徳寺 周辺地図>
にいじま たかくさん (人家を略しています)
北緯34°35′32″, 東経133°42′40″, 標高7m

< 高量山は長円形であった!!>
前回の調査では(電子出版・報告書「巨大隕石と大津波」p57 祖先からの伝言パート2,モデル地区船穂町)
それが長円地形であったとは意にも留めていなかった。なぜ、長円形にしたのか?円形なら、ともかく長円形では、その方向性が重要な意味をもってくる。ご先祖はその方向性を重視して、わざわざ長円形に築いている。その方向を見ると旧庄屋宅となり、私が環状木柱列の所在と思っていた溜め池の上・の神戸ではなくなってくる。
<いざ、現地調査へ>
高徳寺と呼ばれる、その古刹は真言宗で御本尊は毘沙門天。石垣で○mほど高く築かれた立派な構えである。グーグルアース ・ストリートビューでは、良くぞと思われるぐらい。周囲の細い道まで入っていける映像が楽しめるので是非おすすめしたい^^。さらに、広徳寺をクリックすると、その由来やら歴史の詳細ものっています。
<高徳寺・高量山>は、
現地に立つとかなりの土量である。素人が論じているのは、今から1700年をさかのぼる卑弥呼以降の話である。もとの地形を利用して、その形に盛ったとも考えられるが、円形の方が土量も労力も少なくてすむ。近年かその昔かは知らないが<防ケ砂ぼうがさこ>の地名も残っている。なのに、なぜ長円形にしたのか? 天井川でもある高梁川の堤防上にたち、高徳寺を正面に拝んだその先は、筆者の思っていた溜め池の上ではなくて、旧庄屋宅を向いている。未だ見ぬ環状木柱列の所在は、溜め池の上か?、 それとも図面で12・3°角ずれての旧庄屋宅となるのか??
<この12・3°角のズレは大きい!>
もし、旧庄屋宅がその入魂施設の跡地ならば、対岸の冬至の朝日が昇る山とした倉敷市の向山(公園)からは外れてしまう。それは出来ない。なぜなら、(縄文の?)祖先は、今は陸中にあるが当時は海中にあったであろうと想像できる近くの山に連島とか片島の島名をつけている。ならば、“向山” にも当然、それと同じように、沖島・向島・遠島、等の付名でよいところだが、島名でなくて山の名をつけている。このことは、祖先は、特に変わっているとは思えない山姿のこの山を見て、“冬至の太陽の昇る位置を観測していた” さらに、その背後にみえる金甲山付近の山に貝殻を運んで‘貝殻山’にしている(別紙報告書)。なぜ、この近くで一番高い金甲山(403m)ではなくて、なんの特異性も見当たらない貝殻山(289m)なのか? ちなみに貝殻山は、高量山からの東西線より大見当で(5°角?)南へ振っている。さらに、貝殻山遺跡は、愛知県や千葉県のほうにも、あるそうだから、これ等も類推してみる必要がありそうだ。その入魂施設の跡地は、溜め池の上(34°35'35″N, 133°42'24″E)か? 旧庄屋宅(34°35'36″N, 133°42'29″E)か? 困ったコマった^^!。
「地球の歳差運動」
これは、前々の報告書やブログ記事でも申し上げましたが地軸がコマのように軸をふって回転していて、今の北は、北極星方向にあるが○○年後には○○座方向にズレてくるというもの。
英国のストーンサークルの当初は、巨石を立てて冬至・夏至?の朝陽が中央の生け贄台に差し込むように設計されたが、その構築には時がかかりすぎて、始まりからいえば700年もかかり 「途中止めにしたのではないか」と聞くから、筆者は、時とともにこの歳差運動により陽光がズレて役に立たなくなったら途中止めにしたと謎解きした。(myブログ:英国のストーンヘンジより)
他方、「石川県のチカモリ遺跡の発掘;総数350本」と、聞くからその立柱10本として、その老朽化による建替えは、伊勢の遷宮20年を勘案すると、苦しくもその歴史は700年になる。さらに、その方向性はズレていたとも聞くから陽光にあわせて修正していった^^。(こっから先は天文家に^^!)
<入魂施設の跡地は、池の上か? 旧庄屋宅か?>
堤防川幅600mの高梁川の堤防上( 注: この標高16、6mは場所によっては日の出光をさえぎる.)にたち高徳寺を正面に拝んだその先は、池と思しきところではなくて、旧庄屋宅だった。 その○○氏宅は、庄屋宅の名にふさわしく長屋門や蔵を備えた立派な構えであり、近代建築が進むなか、その保存にかける思いが伝わってくる。邸宅内をお伺いすることは出来ないので、国土地理院のwebや、グーグルアースで、確認すると建物に囲まれた広い中庭があり、植え込みがなされている。 ここか!!?? もう一方の“池の上”は、川底1mほどを渡ったところにあり、橋は無い。竹が立錐の余地もないほどに生えている。前回訪れたときは、おそろしくて近寄ることも出来なかった。それとも、 ここになるのか!!?? (※ グーグルアースの、ストリートビュー映像で可視できます^^ )
<神戸入魂施設と、高量山と、向山との位置関係>
神戸・池の上← 約0、36km →高量山・高徳寺← 約6、5km →倉敷市・向山
標高、約14m 標高7m 向山公園の標高96m
→ 約24km~25km先 → 金甲山(403m), 貝殻山(289m)
向山は、北西~南東の細長い山で最高が99m、冬至の日の出の位置が分からないので、
仮に、その位置を向山公園の96mとし(算数苦手な筆者ではあるが、)向山から日の出の光が
差込み高量山の影が、神戸・池の上,に届くようにするには、高量山の高さを標高18、3m
にしなければならない。標高7mの高量山では、高さが11、3m足りない。・・・・・、(> <?)
先の報告書等で、『地球謎学ブック』平川氏の話をしたことがあった。私達は水平線のかなたを見るとき60km~100km先を見ていると思っているが、実は、170cmの人が東京湾にたつと5・6km(この数字は不確かな覚えであり、あとで調べます^^!。)先の水平線しか見えていないと言うものであった。このように、地球は丸いのだとも。さらに、帆船が行くとき船体から見えなくなって、帰るときは帆の先から見えてくる話もあった。 これを考えても、 土を盛るのがキツクなってきた!! ・・・、さて、どうしたものか・・・???
そうだ、高徳寺の御本尊は毘沙門天だ。相撲に関係している。国技館では長いノボリが立つ。
足りない分<塔か、ノボリか、錫杖か、剣・槍を>立ててやれ?と、ご先祖さまが言ったかどうかは、その昔のことなので責任が持てない!^-^! これは無理ヤリの語源かも(笑い)
さらに、高徳寺の下からではあるが両手を合わせた大きな石刻が見える。新造ではあるが、これもキットなにかのイワレがあってのことに違いない。私はかつて尾道の千光寺を訪れたことがあったが、その山上に二つの石を据えて、そのスリットから冬至の朝の光が差し込むとの説明書があったと記憶している。そして、朝な夕なに、朝日を拝み、夕日を拝む古老の話をしたこともある。わたしが両の手を合わすと隙間ができる。さて、貴方さまは、そのスキマから何が見えますか・・・(^^?) えっ!スキマが出来ない? それは残念(><)!
<結び>
入魂の施設が、溜め池の上か? 旧庄屋宅か?は、解明できなかったが、高量山と、土俵を高く盛る(仏飯をたかく盛る)という、これ等の事実は、全くの無関係ではない。素人探偵の拙い報告書に間違いや、貴方さまからの反論はあると思う。その反論が大事なのだ。その反論に正答がでないは、この私くしが至らないからで、その史実がなかったからではない。この謎解きにジャンルはない。その反論を究明し 『より正しい学問となす』 のは、貴方さまや、それぞれの道に長けた専門家の役目だ^^。それには、船穂町神戸に 「 ある。あった。」 と思われる銅鏡(その他も?)の入魂施設の柱痕跡の発掘から始めなければならない。この私くしが、ツルハシ担いでスコップ片手に(^-^!) という分けにはいかない。地方創生をいう昨今、倉敷市船穂、富山県桜町、石川県チカモリが、コラボしてあたればより強い観光資産になりうる^^。ことが成ってからの寄りまくりなら誰もができる^^!
貴方さまや、貴方さまが関係する機関の“参加、発信”を 強く希望します。 □
2015 / 6 / 28 Messenger : 平 素人
さて、貴方さまは、どちらになさいますか^^?
<出土する前を楽しむ? それとも出土してから騒ぐ^^!>
ⅰ そんなことは、初めて聞くし興味もない。卑弥呼がどうだとか、今のわしには関係ねぇ。
(他趣味な人)
ⅱ 何かの遺物が出ているならともかく、地名だけでは(税の使用)動けない。動かない。
(行政&現史学)
ⅲ 著名な史家なら、ともかく、実績のない素人の言うことなど、とても信じられない。(歴男)
ⅳ 目からうろこ」 発掘に関係して、観光資産^^・事業にしたい。(起業・社長)
ⅴ 現地を訪れ、冬至(十夜)のその旭光を身に受けて、ご利益を授かりたい^^。(歴女)
ⅵ 面白い。先が楽しみ、声援(コメント応援^^♪)します。(観客&報道)
'15/6/28 で、この記事を完了しました。これを関係機関へ送ってみます。^^!
さて々、何人のお方さまが “本年の冬至の朝” に倉敷市船穂に集って下さるでしょうか^^!
・・・以上、<出土する前を楽しむ♪>お方さまは、↓をポチッと押してみて・(笑い)
銅鏡の入魂遺跡
<出雲のウッドサークルを捜せ!> misstion - Ⅲ ’15/10/10
(はじめに)
このキッカケは、国土地理院の地図で四千年前の津波の地名探索を (myブログ・カテゴリー出雲地方)している時であった。この地に<神戸川>の地名をみた時、つよい興味を覚えた。なぜなら、当時の筆者は、兵庫県の「神戸・こうべ」 以外には、おおきな関心はなかった。すでに<戸>の付く地名は、四千年前に発した“巨大津波の津波際の記念碑”だと謎解きしていたが、兵庫県但馬地方と、遠く離れた出雲の地に同様な地名があることが意外であったからである。「神戸」の読みには、その土地、々によって、「こうべ、かんべ、こうど」等があるようだが、未だに出雲の<神戸川>の読みを筆者は知らない。それは、それでさておいて(^^!)
<同様な地名に同様な文化あり>
移住した人達がふるさとを想い、そこに同様な地名をつけることがあるが、それはそれで全く関係ないとはいえないのである。「神戸」は、通常の発想から生まれる一般名ではない。ましてや地名に「神」という特別な名を付名するには、その地に相当な祖先の思い入れがあったからだと思えてならない。
<銅鏡の入魂遺構(ウッドサークル)としたその共通点>
今一度、前述ブログの三地域と、出雲の④を掲げてみよう。
岡山県倉敷市の 船穂町神戸(コオド)遺跡 ← 仮称であり、その存在確認さえありません。
富山県小矢部市の 桜町遺跡
石川県金沢市の チカモリ・遺跡
環状木柱列の、所在 冬至の日の出、指標 谷間から眺めた日の出の場所
① 神戸・こうど(西之谷) → 高量山・高徳寺 → 向山公園(岡山県・倉敷市)
岡山県・倉敷市・船穂町 (東西線からの南角度: 約 )
② 桜町・遺跡 → (~約700m)神社名・未調査 → 高岡・カントリークラブ
富山県・小矢部市 (東西線からの南角度: 約 )
③ チカモリ・遺跡 → (~約1, 2km)西金沢公民館 → 涌波・日吉神社(石川県・金沢市)
石川県・金沢市 隣接する神社名は未調査^^! 太陽が丘・北陸大学
(東西線からの南角度: 約 )
④ 出雲市・神戸川流域を捜せ!?
“同様な地名に同様な文化あり”
ならば、出雲の神戸川流域にも、その施設はあるはずだ!
・・・・、 あったぁー!!
<間谷・アンヤ> → <神谷> → <朝山町>
出雲市○○に<神谷>、そして○km離れた東に<朝山町>、この「朝」がつく山名は、これより西に住む人達がつけた山名であり、それより、北や、東や、南に住んでいる人達がつけた地名ではないと、別紙報告書(巨大隕石と大津波)で述解してきた。なぜなら朝日は東から昇るとの単純な理由から(笑い)。そして、これ等の西に、小さく隠れて知井宮町に<間谷・アンヤ>があった。「間谷」とは、暗夜、闇夜の意を含んだ変形ではないのか? そして、「間」の字が表す字姿は、谷あいに射し込む朝光を表しているともとれる。前記事で述解したモデル地域、倉敷市船穂町 の地名3点セット(神戸・高量山・向山 )との言葉や表現の違いは、かなりあるが、その意味するところは同じである。・・・と、・・喜んだのはつかの間 ・・・、
<間谷・あんやは、谷あいにはない!>
ご存知のように、出雲・山陰地方の河川の多くは、南の中国山地から北の日本海側へ流れ込む地形をとっている。冬至の旭光が射し込む東から西へ向かっている谷あいはほとんどない。それとも、出雲IC.の近くに立つ鉄塔・標高26mに立ち、山波をとおして東の朝山(標高188m)方面をながめれば、その山稜から、その日の出を拝むことが出来るのか?? 木立が一本あっても、その陽射しを遮ることはある。現地に立ってはいないのでその様子が見えない。 ・・・万事休す!!!
“Google earth” のプレビューで、‘間谷’付近から、東方の‘朝山’を見るべく走破・探索して見るが朝山の山稜は全く見えない。<間谷 >→<神谷>→<朝山> このラインは間違いなのか? しかし<神戸川>や、前記事で “神戸=光道”とした<神門町・こおどちょう>の地名は現実として存在している。この<間谷>の地名は、衣食住だけの生活から発生する地名ではない。それと推み解けないのは、この私の考えが至らないからであり、祖先の伝言に偽りはないはずだ。
<朝山神社・朝山八幡宮>
ウエブで調べると、その昔には、「全国の神々は出雲大社の神在祭の前、旧暦10月1日から10月10日まで(新暦では、およそ11月の下旬?)この神社に立ち寄ってから出雲大社へ向かわれると伝えられる」 とあり、このことは、銅鏡に冬至の朝日を迎えて大社の方へ向ったことが、のちに常態化したのではないだろうか。<神門>の字をあてているのは、その通り道なのだ。間谷の丘部を外れて、もう少し北から眺めれば朝山の稜線から昇る日の出が拝めるのではないか・・・?
<真幸ヶ丘(まさかがおか)公園>
この 真幸ヶ丘公園の標高は○mで、JR山陰線を挟んで間谷の北側に位置する。
・・、 まてよ??
「間谷」とは、このJR線の谷あいを云うのではないのか! この丘は、南側を除き周りはほぼ平地であり、行政区は知井宮町ではなくて神門町に入るが、この丘からだと “朝山の稜線”が見えるのではないか? <真幸>は、「真っ向」とも読み替えることが出来る?(^^!)。 プレビューで見る東方の山波は、朝山ではないのか? この公園に六角形○階立ての少し大きめのビルがある。何故、六角形にしているのか?普通に考えれば、四角形ビルが通常であり、何故、 六角形にしてあるのか不思議でならない。 これは、全くの推論であるが、その昔、ここに何かの“伝承”があって、六角堂ならぬ東屋風の構築物があったからではないのか?? この考えが当たっていれば、ここに 「環状木柱列・ウッドサークル」 があったことになる。是非にそのイワレ等を聞きたいと思うが残念なことに、今は、広場や、テニスコートを備えた大きな公園に変容?整地されている。
旭光 地名ライン( 神西湖~高瀬山,の周辺地図 )
<高瀬山>
朝山のさらに東方○kmに、この<高瀬山304m>の名が見える。山々に囲まれたなかの高瀬山である。普通「高瀬」とは、水に関係する言葉であり、山々のなかに「高瀬」と地名にする必然性が思い浮かばない^^! 筆者が何故、この 高瀬山に注視するかというと、先のブログ記事<船穂>であった<神戸→高量山→向山→貝殻山>ラインの4点目の配置に酷似しているからだ。
つまり、<間谷→神谷→朝山→高瀬山>が意味することは、貝殻山=高瀬山 と同様であり、この推みが正しければ高瀬山には、その山上に“海産物を運んだ遺跡”がなければならない。
<出雲市・「高瀬川と」、倉敷市船穂「高瀬通し」、の共通名の不思議>
前の記事<船穂・ふなお>の地図に、『高瀬通し』という水路を潜ませていた^^。この 高瀬通しは、その昔、商港だった玉島港と高梁川上流の高梁市をつなぐ物流ラインで昭和の初期まで底の平らな高瀬舟に綱をつけ、それを両岸で引っ張り、上流に物資を運んでいたそうだ。ちなみに、高瀬舟の発祥はこの岡山の地からだと知った。この例を取り上げるまでもなく、総社市の吉備津神社の神殿は、出雲大社のほうを向いているとも聞くし、さらには、船穂町里木神社の祭神を父にもつ娘が出雲のスサノウの尊(みこと)へ嫁いだと、その表示板にあったとも記憶している。これ等のことから出雲文化と吉備文化は、相互に交流がありおおきく関わり合ったことがうかがえる。
出雲平野の高瀬川は、国土地理院5万分の1の地図で見ると東西がつながって一本の川に見える(^^?)。そして、真幸ヶ丘周囲の標高は、先の船穂地区にあった<新島・高量山>あたりの標高5~6mに一致する。それが同じ時期だとは断定できないが考えの内には入れておきたい。
次は、全くの想像ですが、当時(弥生期のその昔)、現在の標高5~6mまでは海であり、高瀬川の西は日本海へ流れ込み。東へは渡橋町の“境町、辺りを分水嶺”にし、大津町をへて斐伊川に注ぎ、さらには宍道湖へと流れ込む。これは、波高の荒い日本海を避けて、西の日本海と宍道湖をつなぐ(徐福団の)航路としていたのではないか??
・・と言うのは、前々のブログ記事、(カテゴリー出雲地方、吉備地方)で申し上げましたが、船穂の「高瀬通し」の上流に、水面高さの高い高梁川へ物資を載せた船を運ぶ時、スエズ運河と同様な方法で樋門の開け閉めが為されていたとあり、それはパナマ運河より、二百数十年も前のことだとその説明板で見たことがある。このように東西へ分かれる二つの川を航路としてつなぐ時、運河の施工が要る。もし、出雲の高瀬川が東西をつなぐ航路として使用されていたのであれば、出雲の高瀬川にも、そのような水門がなければならない。そして○○○あたりにある溜まり池は、その船待ちのなごりかも知れない(^^?)。
<西神湖・さいじんこ>
西神湖←<間谷→神谷→朝山→高瀬山>このラインは、ほぼ東西の一直線上に並んでいる。
この地の祖先は、冬至の荒ぶる神=光神(こうじん)様が、東の高瀬山に出でて、→鐘築→朝山→神谷→間谷・真幸ヶ丘→西神湖の地名を意味づけの為に一直線上に置き、それを信仰の対称としていたと推論出来る。その根底には、四千年前、東北地方に巨大隕石が光臨し、列島を揺るがした巨大地震と巨大津波への畏怖が潜んでいる。その時の大閃光をこの地の人達が直接見たわけではないが、その伝承を補助し“列島流布への媒体”となったのが魏の始皇帝から不老長寿の薬石を見つけるべく、3千人の童男童女を受けて列島に分団し、それ等の集荷網をつくった“徐福達”だとした。 出雲神戸川河口に<唐島>。そして、先の船穂地区には少しはずれるが<唐船>の地名が残っている。このように出雲の“間谷”と、船穂の“神戸”は酷似している。出雲の方の名づけは無理矢理感があるので船穂に習ったかも知れない^^。(詳しくは、前々の記事へどうぞ^^!)
( 結 び )
一連(関連4ヶ所)の謎解きをこれで一旦終えますが、筆者の目的は、皆様がこの報告書をキッカケにして、これに気付いて下さることであり、これ等の歴史をよく識る貴方さまが、この報告書に含まれる誤りを正し、より確かな学問へと成して欲しい。知井宮町の智伊神社の神紋には『弓』の字が使われている。“本年(2015)の冬至十夜の朝” 出雲市神門町 “真幸ヶ丘公園の六方郭”に上り、東方の朝山方向から昇る旭光が、その昔と同じように、その光 「矢を射るが如し」と射し込むのかを? 皆さまに是非確かめて欲しいと願っています^^!。
Oct.10,’15 史実探偵: 平 素人 □
('16/3/29)
本日をもってこの記事を終えます。一ヶ月ほどのお付き合いありがとう御座いました^-^。
尚、記事の全ては関連しています。カテゴリー別でみるとご覧になり易いかも知れません。
←お勧めは、「史実探偵局」です^^!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<銅鏡の入魂遺構(その)歴史の移り変わり>
「かぐや姫伝説」本当にあった!
時の帝(みかど)が満月の夜、かぐや姫を迎えにきた使者を阻止するために
(銅鏡)月に向かって矢を放ったというもの。その矢射台(仮称)があった!
<倉敷市船穂に銅鏡の入魂遺構あり>の記事、その後
“本年(2015)の冬至の朝” に、倉敷市船穂に集って下さるよう前々の記事で呼びかけた。
二十数年来、奥州市の I.先生を除いて、何方様からも相手にして貰ってはいない^^!。
今回も、「駄目だろうなぁ~」と思うが、万が一のお人があった場合のためにその下準備
だけは、詰めておきたい。12月に入って“冬至の朝”ではないが、船穂の神戸に立って
東方のどの位置から朝陽が昇るのか確かめておきたい思いがあった。以前の調査では、
自分の思っていた神戸→向山公園ラインより、20度角ほど南に振っていたように思う。
東の空には雲がかかり都合よく明けてはくれない。タイミングが合わない。
倉敷市・向山>の稜線から昇る朝日が拝めない! 旧庄屋宅のそばの池の土手に立てば、
谷の右手の山に隠れて全く見えない。谷の左側中腹にある宝満寺あたりに上ってみると、
細長い向山を外れて、その南に見える小高い山のあたりから昇っているように思えた。
<倉敷市・ 足高神社へ!>
その小高い○○山へ行ってみた。
前述の思いから12月のとある日に、その○○山へ行ってみた。名前こそ知らないがその山は、東西に走る国道2号線の南わきにあり、そのわきを通るたび、社寺の建物は見えないが、なにかの社寺があるのは知っていた。国道工事で削り取ったのであろうか、その北側は、かなり急峻している。そこへ行けば何か教えてくれるかも知れない思いからだ。
<○○山 ←鬼山?>
小高い山(標高63 m)にあるその神社の名前は、足高神社。山の北側から上るとその道は、かなり急で道幅も狭く乗用車のすれ違いも難しいほど。晴れてはいるが肌寒い土曜日の朝、途中二・三組のハイカーとすれ違う。頂上は意に反して起伏こそあるがかなり広いと言える。案内版を見れば、社寺のほかに、遊園地、ちょっとしたグラウンド、頂上の一段高い展望台、屋根付きの休憩所、等々、山の周囲が市街化してゆくなか、健康志向の人達の穴場^^!であろうか、その人たちが散々と上ってくる。平野部に孤立した山の山上部からは、木立を通してではあるが360度、倉敷市街が見渡せる。手入れも十分行き届いており是非のお勧めだ。駐車場は数台と、十台余りが停められる二ヶ所がある。
<探索、その1>
まずは、山上の展望所へ、小広いながら一段と高い山頂は展望台として整地されてはいるが周囲の木立が邪魔をしてよく見えない。ので筆者一番の関心事であった西方へ下りていった。途中樹齢こそ若いが植樹されたヤブ椿の花のトンネルを抜けてゆく。この赤色のヤブ椿は、その昔、農事呪縛の木とされた桜と並んでいたと筆者は(別紙の報告書で)認識しているから要注意だ。「なぜ、それを植えたのですか」と。その先に四角い中国風の穴窓がある屋根付きの休憩所がある。中に、二列の丸太様のいすが設えてある。まずは一服^^! 周囲を見渡すと幼児の乗馬風の遊具の基礎であろうかが残っている。枯れ葉の季節ではあるが筆者の欲していた西方の<船穂町神戸>が確認出来ない。 望遠鏡をもってくれば良かった。
・・・さてと、帰るとするか。 ・・・・・・、
< 気になる立石!?>
と、何気なくその広場の西方の端に立つと、急峻した下方に自然石風の立石がみえる。このような石は、総社市・経山の探索(別記事)で、経験したことがある。2mに近いその石の下にはハセ石があって明らかに人手があったと記憶している。何んのためにかは判らなかったが。今回もそれがあるのではないかと降りてみた。ハセ石はないようだ?。・・が、明らかに割り砕いたあとがある。説明が難しいので写真を入れるといいのだが、約1m四方の立場石と、それに沿って前方に50cmほど小高くした二つの囲い石がある。その囲い石は立場での落下防止か? それにしては低すぎる。
(↓入れました^^!)

さらに同様の石組み(下の写真の左上隅)が、その下にあった。このような石組が1ヶ所だけなら、何かの偶然かも知れない。しかし、同様なものが2ヶ所となると、それは重要な意味をもってくる。祈祷の場所か?? そして降り口からこの2ヶ所をつなぐように、今は崩れてはいるが上り下りを易くするような階段石もころがっている。しかし、その方向性は、筆者の欲していた<船穂の神戸>より、かなり右手方向の北に振っている? 分からない。解からない。心無い人が記念にと何字かを刻んでいる石もある。史学がこの “二組の足場石”を認識している(?)とは思えないほど荒れている。(後で宮司さまに聞けば、二条岩、三条岩と呼ばれているとのこと。)

・・・、足高神社へお参りすれば何かを教えて下さるかも知れない。・・・、
<足高神社>
祭神は、正面に天照大明神、向かって右手に足高大明神、バチ当たりが先か、ボケが先かは知らないが左手の大神様は覚えていない~~!。 上がった所は神社の正面に向かって右からであった。そこに以外というか成るほどなというか、小さな( m)土俵が設えてある。建屋はなく露天である。小さいと感じたのは大人が実際に相撲をとれる大きさでないこと。 さりとて、幼児ならとれそうだが、その不思議は周りに観客席用の空地が無いことだ。それを伺わなければなるまいが、何かの象徴的な神事のためかも知れない。昨日今日の設えではなく、近年の設えでもない。きれいに掃き清められていて遠い昔から大事に受け継がれたかの風雨のあとが見える。南側の正面にまわり拝殿より、その神殿をおがむ。拝殿の正面には大きな銅鏡が飾られてある。
今上天皇・皇后様のお写真もあり、その御座位60周年を記念してお出でになったもよう。その記念樹の楠木も植えてあった。全国数ある神社のなかで天皇・皇后の両陛下がお出でになるとは、かなりの名刹なのであろう。おどろくべきは、その境内を一周しても寒風、落葉の季節ではあるが、箒目のあとがたち落ち葉一つ落ちてはいない。その信仰の深さが伺える。近年の改修も含めてかなりの数の寄進の石柱が立っている。覚えているなかでは、白楽町や四十瀬、の地名があった。
<足高神社その不思議>
以下は、筆者がその神社を訪れた時、直感的に感じたものの覚えであり大きな間違いや観察違いがあるかも知れないことをあらかじめお断りしておきます。
その 1. 鳥居がない不思議
拝殿から振り返って、言い換えて拝殿を背にして南方向を眺めれば遠くの山すそと山すそが合う谷間を眺めており、その視界をさえぎるモノは一切無い。普通、神社といえば鳥居があるものだが、上部に横たえる石状のものはなく、石段の上がり口の左右に丸い石柱がズドンと立ててあるだけ。左右の狛犬も無かった?(後日訪れると有りました^^! )ように思うし、その見通しをさえぎりそうな木々は途中で伐採されている。不動産業に「お宮の前に、お寺の後ろ」という言葉があるが、そこは買い手がつき難いというもの。これも何かの意味があるのかも知れない。
その 2. 足高神社その立地場所の不思議
一般的に言えば人家の密集した倉敷市の中央にある鶴形山の阿智神社のほうが知名度は高い。足高神社は、その倉敷中心街より2kmほど離れたところにあり、今では新興の住宅が増えつつあるが、その昔は田園地帯に周りを囲まれ、わずかに高い南側の山すその旧人家だけであり、阿智神社に比べると圧倒的に閑散として(ゴメンナサイ^^!)その氏子数は少ないと思うが、その足高神社が何故に天皇家の訪れを受けるほどの古刹なのか?
その 3. 足高神社その方角性の不思議
足高神社は、平地にあり東西およそ700m。南北がおよそ250mほどの孤立した山。高さは標高63mであった。<前述記事で銅鏡の入魂遺跡ありとした>船穂町の神戸を基点とした東西線から約20度角ほど南へ振っている。前々の記事の図にかえり、高量山を基点にその角度を測ってみると、約20度角ほど北へ振っている。ということは、足高神社の山の西端と、高量山・高徳寺と、旧庄屋宅は一直線上に並ぶ。しかしながら、先の立石を囲んでいる二つの縁石の中央を延長して眺めると、船穂町神戸をはるかに外れた北寄りになってしまう。・・・・・なにかが間違っている。 (後で調べると、北寄りと思ったのは間違いで、ほぼ西方向でした。good^^!)
その 4. 足高神社その名の不思議
足高神社とは、妙な名前である。神聖とされる神社に足の字を付けるのが解せない。体の部位では足は、一番下にあり一般的に、足には下等のイメージがある。なのに何故? 広場の脇に<葦高小学校>の記念樹が植えてあった。<足高>が先か<葦高>が先か? 普通に考えれば、葦の名をイメージの悪い足の字に変えて神社名にはしない。 ・・ ・・・、まてよ ・・・・、
ことの本質には、「 冬至の日の出光、光陰矢のごとし!」 がある。
絵本で見たことがあるが、かぐや姫を月からの使者が迎えにくる時、それに抗って時の帝が満月に向かって矢を放たせた。 つまり、冬至の旭光がその先に設置してある銅鏡に届くように、
その“高く設えた縁石は、矢を遠くへ射るために片足を高くのせるための台であった”のだ。
「 足高神社の由来石!」 右利きの人なら、その縁に左足を乗っけて天に向かって矢を放つ!
なぁ~んだ。ご先祖様からの伝言は、そのままに受け取ればよかったのだ。その立石が2基あるのは一人では心もとないから、一の矢、次の矢と強く撃ちたいと考えたからだ! 勿論、その放たれた矢が○km先の高徳寺までとどきはしないが、形式的な儀式として行っていたと考えられる。
<高梁川河口周辺地図>
・・ を載せたいのですが、仮図として^^!、
旧庄屋宅 ←
船穂町神戸 (北)
高量山・高徳寺 ↑
← 高梁川(川幅ほぼ600m)
向山
←
鬼山・足高神社
<足高神社その昔>
足高神社のある山は、その昔は葦に囲まれた島であった。周りは海であるからして放たれた矢は海に落ちてしまうが象徴的な行事として行っていたのである。海だったことを語るのに、笹沖とか○○新田の地名が周囲にある。その中に<鬼山>の地名があり、山の頂部にある貯水搭の脇の電柱にも鬼山分とあった。その島の昔は、そのように(今でも?)呼ばれていたのであろうか。それはそれで鬼に関わる別の歴史があったのかも知れない。
<別の日の朝、日の出の位置を確認>
本年の冬至('15/12/22)は、まだこないが、日の出がどの位置から昇るのか確かめにいった。まずは、なにものにも遮られない高梁川の土手の上でその日の出を待っていた。その日は快晴。その日の出は、思っていた鬼山・足高神社から、さらに南に外れた場所から昇ってきた。時間をみておくはずだったが、見忘れてしまった(モノ忘れ& ボケが始まっている。 汗~)。 たぶん、7時20分前後ではなかったかと思っている。
<ここで、つぎのような地球の軸振り運動の話をしておこう>
今年のいつ頃だったが、覚えていないが、イヌイットの長老がNASAへ出した手紙がニュースになったことがある。「地軸が傾いて、若い頃の日の出の位置と、今とでは、その上る位置が変わって来た」 というものであった。地軸には歳差運動があってコマの軸のように振れているのは既知の事実であるが、長老の一代で確認できるほどのものかがニュースになったのである。全くもっての素人判断であるが、緯度によって、つまり極にいくほど大きく振れるのではないでしょうか?(^^!) 以前に、ウエブで調べて、その素人計算をしたことがあった。全くあてにならない数字だと思うが、70年に、1度角ずれていくとの答えであった。観測する緯度にもよるが、仮に15歳で観測した日の出の位置と、85歳で観測する日の出位置が1度角のずれであれば、人知では確認できない。しかし、それが700年、1400年の歴史を経ると10度角、20度角とその位置は変わって行くのである。おおざっぱな数字で申し訳ありませんが、徐福来訪が今からおよそ2200年前、卑弥呼が今からおよそ1700年前、さらに時を経て神代(かみよ)の歴史が続いて行く。・・・ ・・・、
<今回の日の出の調査では>
船穂町神戸を基点として
高徳寺・高量山
向山(公園辺りか?)を基線として、
↓
鬼山・足高神社
↓
(2015/12月)今現在の日の出位置へと移動している。
※仮に、その間を10度角+10度角の20度角にしても<神戸→高量山→向山>ラインは、
1400年前となる。是非に史学、天文学での正確な数字を出して頂きたい。
もう一つお願いがあります。
史学がこの足高神社 の“二組の足場立石”を認識しているとは思えない。大枚をかけて公園様に整備されてはいるが、その立石のある西端は荒れている。もし、そうであれば、なにやらの名を付けて復元して頂きたい。きっと大きな“観光遺産”になり得る^^。私は、かつて、総社市の<鬼の城きのじょう>の復元の後先を訪れたことがある。その前は、石ころさえもありやなしやの山林と化していた。素人目には、かつてそのような遺跡があろうなどとは小指の先ほどにも思えない所であった。専門家の考査に、驚きと敬服を覚えた記憶がある。それに比べると今度は簡単。それと、気付きさえすれば、素人目にも判る(笑い)。
<その確認>
足高神社西端から放たれた矢(=冬至の日の出光)は、どこを狙って射ていたのか?
船穂の高徳寺を訪れた時、妙な違和感を覚えていた。小高く盛られたお寺へあがる時の門が、“鐘つき堂”となっていたのである。「妙だな」と、思いながらも、今に至っていた。しかし、この度、ひょっとして、その矢は、その鐘つき堂を狙っているのではないか? ・・・、その思いは的中した! その鐘つき棒は、外から内へ向かっていた! 筆者がその形式を知らないだけかも知らないが、総社のお稲荷さま等は、内から、外へ打っていた?ように思う。さらに、先の出雲の記事の冬至の光道ラインに、<鐘築>の地名が残っている。 それが今では、煩悩を落とすとか、時を知らせる時報の歴史へと変わっている^^!。蛇足ながら、前々(環状木柱列・ウッドサークル)記事の富山県桜町遺跡、石川県チカモリ遺跡にも同様な石組みがあると予測出来る。近場のあなた、興味のある貴方さまがいらっしゃったら是非の探索をお勧めします^^♪。
(この記事を終えるにあたって)
「 かぐや姫伝説の月(銅鏡)に向けて矢を放つは史実であった!!」
この『祖先からの伝言』が貴方さまに伝わらない。初めからいえば、これ等の広報に27年あまりをついやして来た。この実績のない素人がこの先、幾数の駄文を連ねようと専門家の認証がなければ世間さまは納得しない。「足高」とは、変な付名だなぁ~と 子ども心に思ったことが誰にもあるはずだ。その一語に何故?なぜ?なぜを重ねてゆけば、より大きな歴史へと繋がって行く。「足高」の付名の現存は何人も否定することが出来ない。もし、この「足高」の歴史を否定する貴方さまがおられたら「足高神社」にお参りして、頭(コウベ)を垂れそのお頭(オツム)にたまった<現史学のスス> を宮司さまに、お払いして貰らえば^^!、 きっと、ご先祖さまからの真言は見えてくる。 もう、この素人探偵の力では、とても無理だぁ~~、お願いします<困ったときの神(足高神社さま)頼みぃ>^^!
('15/12/10) □
史実 を 探偵する : 平 素人(ヒイラ モト)、 拝
'16/4/24 ○○様> 本日は、ありがとうございました。 拍手に感謝します。^-^♪
'16/3/27 & 4/2, うさぎ様> コメントありがとうございます^-^♪
真夜中の訪問者さまへ>
更新のないときにも関わらず、何故? 毎日訪問してくださるのですか?
子ども心なら残っているのですが、自分ながらの、長駄文に魅力があろうはずもなく、
「なぜに、毎日に?」 の疑問がぬぐえません^^?。 ありがたいことです(深礼)。
広報を始めて28年ちかくになりますが、どうしたら、この報告書が世間様に伝わる
のかの謎が未だに解けません。疲れました。この上は駄文を連ねるではなく。 「実行
あるのみ」 かとも思います。あなた様の思いを<杖>として、がんばります。
・・・・・、つづきます ^-^!。
本日をもってこの記事を終えます。一ヶ月ほどのお付き合いありがとう御座いました^-^。
尚、記事の全ては関連しています。カテゴリー別でみるとご覧になり易いかも知れません。
←お勧めは、「史実探偵局」です^^!
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<銅鏡の入魂遺構(その)歴史の移り変わり>
「かぐや姫伝説」本当にあった!
時の帝(みかど)が満月の夜、かぐや姫を迎えにきた使者を阻止するために
(銅鏡)月に向かって矢を放ったというもの。その矢射台(仮称)があった!
<倉敷市船穂に銅鏡の入魂遺構あり>の記事、その後
“本年(2015)の冬至の朝” に、倉敷市船穂に集って下さるよう前々の記事で呼びかけた。
二十数年来、奥州市の I.先生を除いて、何方様からも相手にして貰ってはいない^^!。
今回も、「駄目だろうなぁ~」と思うが、万が一のお人があった場合のためにその下準備
だけは、詰めておきたい。12月に入って“冬至の朝”ではないが、船穂の神戸に立って
東方のどの位置から朝陽が昇るのか確かめておきたい思いがあった。以前の調査では、
自分の思っていた神戸→向山公園ラインより、20度角ほど南に振っていたように思う。
東の空には雲がかかり都合よく明けてはくれない。タイミングが合わない。
倉敷市・向山>の稜線から昇る朝日が拝めない! 旧庄屋宅のそばの池の土手に立てば、
谷の右手の山に隠れて全く見えない。谷の左側中腹にある宝満寺あたりに上ってみると、
細長い向山を外れて、その南に見える小高い山のあたりから昇っているように思えた。
<倉敷市・ 足高神社へ!>
その小高い○○山へ行ってみた。
前述の思いから12月のとある日に、その○○山へ行ってみた。名前こそ知らないがその山は、東西に走る国道2号線の南わきにあり、そのわきを通るたび、社寺の建物は見えないが、なにかの社寺があるのは知っていた。国道工事で削り取ったのであろうか、その北側は、かなり急峻している。そこへ行けば何か教えてくれるかも知れない思いからだ。
<○○山 ←鬼山?>
小高い山(標高63 m)にあるその神社の名前は、足高神社。山の北側から上るとその道は、かなり急で道幅も狭く乗用車のすれ違いも難しいほど。晴れてはいるが肌寒い土曜日の朝、途中二・三組のハイカーとすれ違う。頂上は意に反して起伏こそあるがかなり広いと言える。案内版を見れば、社寺のほかに、遊園地、ちょっとしたグラウンド、頂上の一段高い展望台、屋根付きの休憩所、等々、山の周囲が市街化してゆくなか、健康志向の人達の穴場^^!であろうか、その人たちが散々と上ってくる。平野部に孤立した山の山上部からは、木立を通してではあるが360度、倉敷市街が見渡せる。手入れも十分行き届いており是非のお勧めだ。駐車場は数台と、十台余りが停められる二ヶ所がある。
<探索、その1>
まずは、山上の展望所へ、小広いながら一段と高い山頂は展望台として整地されてはいるが周囲の木立が邪魔をしてよく見えない。ので筆者一番の関心事であった西方へ下りていった。途中樹齢こそ若いが植樹されたヤブ椿の花のトンネルを抜けてゆく。この赤色のヤブ椿は、その昔、農事呪縛の木とされた桜と並んでいたと筆者は(別紙の報告書で)認識しているから要注意だ。「なぜ、それを植えたのですか」と。その先に四角い中国風の穴窓がある屋根付きの休憩所がある。中に、二列の丸太様のいすが設えてある。まずは一服^^! 周囲を見渡すと幼児の乗馬風の遊具の基礎であろうかが残っている。枯れ葉の季節ではあるが筆者の欲していた西方の<船穂町神戸>が確認出来ない。 望遠鏡をもってくれば良かった。
・・・さてと、帰るとするか。 ・・・・・・、
< 気になる立石!?>
と、何気なくその広場の西方の端に立つと、急峻した下方に自然石風の立石がみえる。このような石は、総社市・経山の探索(別記事)で、経験したことがある。2mに近いその石の下にはハセ石があって明らかに人手があったと記憶している。何んのためにかは判らなかったが。今回もそれがあるのではないかと降りてみた。ハセ石はないようだ?。・・が、明らかに割り砕いたあとがある。説明が難しいので写真を入れるといいのだが、約1m四方の立場石と、それに沿って前方に50cmほど小高くした二つの囲い石がある。その囲い石は立場での落下防止か? それにしては低すぎる。
(↓入れました^^!)

さらに同様の石組み(下の写真の左上隅)が、その下にあった。このような石組が1ヶ所だけなら、何かの偶然かも知れない。しかし、同様なものが2ヶ所となると、それは重要な意味をもってくる。祈祷の場所か?? そして降り口からこの2ヶ所をつなぐように、今は崩れてはいるが上り下りを易くするような階段石もころがっている。しかし、その方向性は、筆者の欲していた<船穂の神戸>より、かなり右手方向の北に振っている? 分からない。解からない。心無い人が記念にと何字かを刻んでいる石もある。史学がこの “二組の足場石”を認識している(?)とは思えないほど荒れている。(後で宮司さまに聞けば、二条岩、三条岩と呼ばれているとのこと。)

・・・、足高神社へお参りすれば何かを教えて下さるかも知れない。・・・、
<足高神社>
祭神は、正面に天照大明神、向かって右手に足高大明神、バチ当たりが先か、ボケが先かは知らないが左手の大神様は覚えていない~~!。 上がった所は神社の正面に向かって右からであった。そこに以外というか成るほどなというか、小さな( m)土俵が設えてある。建屋はなく露天である。小さいと感じたのは大人が実際に相撲をとれる大きさでないこと。 さりとて、幼児ならとれそうだが、その不思議は周りに観客席用の空地が無いことだ。それを伺わなければなるまいが、何かの象徴的な神事のためかも知れない。昨日今日の設えではなく、近年の設えでもない。きれいに掃き清められていて遠い昔から大事に受け継がれたかの風雨のあとが見える。南側の正面にまわり拝殿より、その神殿をおがむ。拝殿の正面には大きな銅鏡が飾られてある。
今上天皇・皇后様のお写真もあり、その御座位60周年を記念してお出でになったもよう。その記念樹の楠木も植えてあった。全国数ある神社のなかで天皇・皇后の両陛下がお出でになるとは、かなりの名刹なのであろう。おどろくべきは、その境内を一周しても寒風、落葉の季節ではあるが、箒目のあとがたち落ち葉一つ落ちてはいない。その信仰の深さが伺える。近年の改修も含めてかなりの数の寄進の石柱が立っている。覚えているなかでは、白楽町や四十瀬、の地名があった。
<足高神社その不思議>
以下は、筆者がその神社を訪れた時、直感的に感じたものの覚えであり大きな間違いや観察違いがあるかも知れないことをあらかじめお断りしておきます。
その 1. 鳥居がない不思議
拝殿から振り返って、言い換えて拝殿を背にして南方向を眺めれば遠くの山すそと山すそが合う谷間を眺めており、その視界をさえぎるモノは一切無い。普通、神社といえば鳥居があるものだが、上部に横たえる石状のものはなく、石段の上がり口の左右に丸い石柱がズドンと立ててあるだけ。左右の狛犬も無かった?(後日訪れると有りました^^! )ように思うし、その見通しをさえぎりそうな木々は途中で伐採されている。不動産業に「お宮の前に、お寺の後ろ」という言葉があるが、そこは買い手がつき難いというもの。これも何かの意味があるのかも知れない。
その 2. 足高神社その立地場所の不思議
一般的に言えば人家の密集した倉敷市の中央にある鶴形山の阿智神社のほうが知名度は高い。足高神社は、その倉敷中心街より2kmほど離れたところにあり、今では新興の住宅が増えつつあるが、その昔は田園地帯に周りを囲まれ、わずかに高い南側の山すその旧人家だけであり、阿智神社に比べると圧倒的に閑散として(ゴメンナサイ^^!)その氏子数は少ないと思うが、その足高神社が何故に天皇家の訪れを受けるほどの古刹なのか?
その 3. 足高神社その方角性の不思議
足高神社は、平地にあり東西およそ700m。南北がおよそ250mほどの孤立した山。高さは標高63mであった。<前述記事で銅鏡の入魂遺跡ありとした>船穂町の神戸を基点とした東西線から約20度角ほど南へ振っている。前々の記事の図にかえり、高量山を基点にその角度を測ってみると、約20度角ほど北へ振っている。ということは、足高神社の山の西端と、高量山・高徳寺と、旧庄屋宅は一直線上に並ぶ。しかしながら、先の立石を囲んでいる二つの縁石の中央を延長して眺めると、船穂町神戸をはるかに外れた北寄りになってしまう。・・・・・なにかが間違っている。 (後で調べると、北寄りと思ったのは間違いで、ほぼ西方向でした。good^^!)
その 4. 足高神社その名の不思議
足高神社とは、妙な名前である。神聖とされる神社に足の字を付けるのが解せない。体の部位では足は、一番下にあり一般的に、足には下等のイメージがある。なのに何故? 広場の脇に<葦高小学校>の記念樹が植えてあった。<足高>が先か<葦高>が先か? 普通に考えれば、葦の名をイメージの悪い足の字に変えて神社名にはしない。 ・・ ・・・、まてよ ・・・・、
ことの本質には、「 冬至の日の出光、光陰矢のごとし!」 がある。
絵本で見たことがあるが、かぐや姫を月からの使者が迎えにくる時、それに抗って時の帝が満月に向かって矢を放たせた。 つまり、冬至の旭光がその先に設置してある銅鏡に届くように、
その“高く設えた縁石は、矢を遠くへ射るために片足を高くのせるための台であった”のだ。
「 足高神社の由来石!」 右利きの人なら、その縁に左足を乗っけて天に向かって矢を放つ!
なぁ~んだ。ご先祖様からの伝言は、そのままに受け取ればよかったのだ。その立石が2基あるのは一人では心もとないから、一の矢、次の矢と強く撃ちたいと考えたからだ! 勿論、その放たれた矢が○km先の高徳寺までとどきはしないが、形式的な儀式として行っていたと考えられる。
<高梁川河口周辺地図>
・・ を載せたいのですが、仮図として^^!、
旧庄屋宅 ←
船穂町神戸 (北)
高量山・高徳寺 ↑
← 高梁川(川幅ほぼ600m)
向山
←
鬼山・足高神社
<足高神社その昔>
足高神社のある山は、その昔は葦に囲まれた島であった。周りは海であるからして放たれた矢は海に落ちてしまうが象徴的な行事として行っていたのである。海だったことを語るのに、笹沖とか○○新田の地名が周囲にある。その中に<鬼山>の地名があり、山の頂部にある貯水搭の脇の電柱にも鬼山分とあった。その島の昔は、そのように(今でも?)呼ばれていたのであろうか。それはそれで鬼に関わる別の歴史があったのかも知れない。
<別の日の朝、日の出の位置を確認>
本年の冬至('15/12/22)は、まだこないが、日の出がどの位置から昇るのか確かめにいった。まずは、なにものにも遮られない高梁川の土手の上でその日の出を待っていた。その日は快晴。その日の出は、思っていた鬼山・足高神社から、さらに南に外れた場所から昇ってきた。時間をみておくはずだったが、見忘れてしまった(モノ忘れ& ボケが始まっている。 汗~)。 たぶん、7時20分前後ではなかったかと思っている。
<ここで、つぎのような地球の軸振り運動の話をしておこう>
今年のいつ頃だったが、覚えていないが、イヌイットの長老がNASAへ出した手紙がニュースになったことがある。「地軸が傾いて、若い頃の日の出の位置と、今とでは、その上る位置が変わって来た」 というものであった。地軸には歳差運動があってコマの軸のように振れているのは既知の事実であるが、長老の一代で確認できるほどのものかがニュースになったのである。全くもっての素人判断であるが、緯度によって、つまり極にいくほど大きく振れるのではないでしょうか?(^^!) 以前に、ウエブで調べて、その素人計算をしたことがあった。全くあてにならない数字だと思うが、70年に、1度角ずれていくとの答えであった。観測する緯度にもよるが、仮に15歳で観測した日の出の位置と、85歳で観測する日の出位置が1度角のずれであれば、人知では確認できない。しかし、それが700年、1400年の歴史を経ると10度角、20度角とその位置は変わって行くのである。おおざっぱな数字で申し訳ありませんが、徐福来訪が今からおよそ2200年前、卑弥呼が今からおよそ1700年前、さらに時を経て神代(かみよ)の歴史が続いて行く。・・・ ・・・、
<今回の日の出の調査では>
船穂町神戸を基点として
高徳寺・高量山
向山(公園辺りか?)を基線として、
↓
鬼山・足高神社
↓
(2015/12月)今現在の日の出位置へと移動している。
※仮に、その間を10度角+10度角の20度角にしても<神戸→高量山→向山>ラインは、
1400年前となる。是非に史学、天文学での正確な数字を出して頂きたい。
もう一つお願いがあります。
史学がこの足高神社 の“二組の足場立石”を認識しているとは思えない。大枚をかけて公園様に整備されてはいるが、その立石のある西端は荒れている。もし、そうであれば、なにやらの名を付けて復元して頂きたい。きっと大きな“観光遺産”になり得る^^。私は、かつて、総社市の<鬼の城きのじょう>の復元の後先を訪れたことがある。その前は、石ころさえもありやなしやの山林と化していた。素人目には、かつてそのような遺跡があろうなどとは小指の先ほどにも思えない所であった。専門家の考査に、驚きと敬服を覚えた記憶がある。それに比べると今度は簡単。それと、気付きさえすれば、素人目にも判る(笑い)。
<その確認>
足高神社西端から放たれた矢(=冬至の日の出光)は、どこを狙って射ていたのか?
船穂の高徳寺を訪れた時、妙な違和感を覚えていた。小高く盛られたお寺へあがる時の門が、“鐘つき堂”となっていたのである。「妙だな」と、思いながらも、今に至っていた。しかし、この度、ひょっとして、その矢は、その鐘つき堂を狙っているのではないか? ・・・、その思いは的中した! その鐘つき棒は、外から内へ向かっていた! 筆者がその形式を知らないだけかも知らないが、総社のお稲荷さま等は、内から、外へ打っていた?ように思う。さらに、先の出雲の記事の冬至の光道ラインに、<鐘築>の地名が残っている。 それが今では、煩悩を落とすとか、時を知らせる時報の歴史へと変わっている^^!。蛇足ながら、前々(環状木柱列・ウッドサークル)記事の富山県桜町遺跡、石川県チカモリ遺跡にも同様な石組みがあると予測出来る。近場のあなた、興味のある貴方さまがいらっしゃったら是非の探索をお勧めします^^♪。
(この記事を終えるにあたって)
「 かぐや姫伝説の月(銅鏡)に向けて矢を放つは史実であった!!」
この『祖先からの伝言』が貴方さまに伝わらない。初めからいえば、これ等の広報に27年あまりをついやして来た。この実績のない素人がこの先、幾数の駄文を連ねようと専門家の認証がなければ世間さまは納得しない。「足高」とは、変な付名だなぁ~と 子ども心に思ったことが誰にもあるはずだ。その一語に何故?なぜ?なぜを重ねてゆけば、より大きな歴史へと繋がって行く。「足高」の付名の現存は何人も否定することが出来ない。もし、この「足高」の歴史を否定する貴方さまがおられたら「足高神社」にお参りして、頭(コウベ)を垂れそのお頭(オツム)にたまった<現史学のスス> を宮司さまに、お払いして貰らえば^^!、 きっと、ご先祖さまからの真言は見えてくる。 もう、この素人探偵の力では、とても無理だぁ~~、お願いします<困ったときの神(足高神社さま)頼みぃ>^^!
('15/12/10) □
史実 を 探偵する : 平 素人(ヒイラ モト)、 拝
'16/4/24 ○○様> 本日は、ありがとうございました。 拍手に感謝します。^-^♪
'16/3/27 & 4/2, うさぎ様> コメントありがとうございます^-^♪
真夜中の訪問者さまへ>
更新のないときにも関わらず、何故? 毎日訪問してくださるのですか?
子ども心なら残っているのですが、自分ながらの、長駄文に魅力があろうはずもなく、
「なぜに、毎日に?」 の疑問がぬぐえません^^?。 ありがたいことです(深礼)。
広報を始めて28年ちかくになりますが、どうしたら、この報告書が世間様に伝わる
のかの謎が未だに解けません。疲れました。この上は駄文を連ねるではなく。 「実行
あるのみ」 かとも思います。あなた様の思いを<杖>として、がんばります。
・・・・・、つづきます ^-^!。
<総社・神明遺跡を推み解く!?> 2016 5 07 記
この記事は、前回(8/19で、 今回 (8/20) の追記で完了しました^^。
ただいま「古代史掲示板」http://8220.teacup.com/toraijin/bbsさまへ、訪って
拙コメントを(30ぐらい)残していますので、よろしかったら、そちらへも どうぞ^^!
尚、当ブログの記事は、全てが関連しています。カテゴリー別で見ると読みやすい
かも知れません。
< 筆者より のお知らせ、>
長い間、駄文へのお付き合いありがとう御座いました^^!
つぎの記事のアップは 9月にはいってからを予定しています。
尚、当ブログの“原本”となる 拙;電子出版 極秘報告書「巨大隕石と大津波」文芸社← は、
本年10/21で契約解除でなくなります。その内容は、天動説のなかで地動説を唱えているようなもの。11年で14冊(泣き笑い)しか売れていませんが、ご入用の方は、お早めにどうぞ^^!
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はじめに
この遺跡の存在を知ったのは、総社市・北斗神社をたずねて前述の鬼ノ城・新山<天空のなごみ茶屋太一や>を訪れたときのこと。「北斗神社の御本尊七社宮の今は、下方の神明神社に移されている」とのこと。そして 、「近時、その近くで銅鐸1個が出土した」とのこと。さらに「その宮司○○さんもここに訪れた」こと。筆者が興味を示すと、つづけて「専門家の発表があると思います。」
(この遺跡の発掘は、筆者が知らなかっただけで銅鐸の出土は'14/8月。ネットで発表済みでした^^!)
(2016 / 5 / 01)
その足で「神明神社」を尋ねて、道も定かでないような細い路地をぬけると田畑にかこまれ、石を二つ三つ積み上げた決して広いとはいえない場所にその小さな神社はあった。造りは拝殿と本殿の一般的な造りで脇神も祀られていたように思う。驚くべきは参道も定かでないようなこの場所であるが手入れが行き届いていること。昨日今日の保守ではないとすぐ分かる。運のよいことに四十がらみ?の宮司さま夫妻が掃除をなさっていた。近所の人も声かけをなさる。その信仰の厚さがうかがえる。聞けば「一日(ついたち)参り」とのこと。今一番逢いたいお人に会えた嬉しさでお掃除中にもかまわず>共通の話題は、今にも消滅しかねないような「北斗神社」から始まった。北斗の意は「北極星」だと教わり、判らなかった「七社宮の七は、北斗七星」とも教わった。さらに、“神明”に繋がる鶏のはなしを出すと「時を告げる一番鳥」で中国からの移入ではと云われる。傍らの保管庫にりっぱなお御輿があった。その頂部に鶏のありやなしやを見ておけばよかった。冬至の旭光の話をだすと「その方面に“日差山”があります」 「いま現在の冬至の日の出は○○山からです」と云われた。
このあたりは、「今は田園となっていますが、その昔には、かなり川幅の広い“宮前?川”が流れていた」とのこと。
( 8/13後述; お御輿の頂部には、筆者が知らなかっただけで、鶏造りが標準のようだ。
ということは、ここ神明遺跡の環状木柱列は、お御輿造りの原型になったようで、冬至の朝の“御来光”の時刻を知るために、「その一番鶏」の鳴き声を目覚めに利用していたかと伺い知ることが出来る。しかし、とあるお御輿をみれば、その四方に鳥居を備えており、「東西南北どこからでもいらっしゃい」 との造りになっているのが解からない?? そのお御輿の中には何を納めているのか? 又々謎が増えた^^?)
銅鐸が出土した遺跡の話にうつり、
「丸い住居あとの中に約30cm大の銅鐸一つが斜めに突き立てられた形」であったという。
この「住居跡?に銅鐸出土」は非常に珍しく、中央の偉い先生もお見えになった。
場所: 神明神社の住所(岡山県総社市福井字神明240)の北側の田園地帯
一宮・総社バイパスの予定地で、
その区間工事中に銅鐸が重機に引っかかり一部が欠けて出土した。
神明神社の現状は、 西、北、東の三方は、稲田や畑に囲まれた田園地帯、
南側は墓地に連なる住家地帯となっている。辺りは農家と新入者の混住地帯。
「その住居あとは住居ではなく朝を告げる鶏を飼っていた唐丸カゴではないのですか」と私。
『竹柱あとにしては、かなり大きな穴痕で、竹柱痕とは考えられない』と宮司さま。
「この、西に御崎神社があります」 と私。
『そうですね。その線と、北の北斗神社と、東の冬至光の線は固いですね』 と、このような話をして別れた。(注: インターネットの発表でも銅鐸の出土が住居域の中か、住居の中であるかは不明?)
<神明遺跡を推み解く>
北斗神社
△経山
↑
御崎神社 ← 柱痕遺跡(銅鐸) → 東の、○○山
神明神社 → 日差山
↓ → 今現在、冬至光の○○山
南方の ○○山
<このような仮説を立てて>
今までの謎解きの経緯( 環状木柱列は銅鏡の入魂施設だ!→myブログ)から 御崎神社→ 柱痕遺跡→日差山の一直線上を考えていたが、地図やGoogle earth等で調べると柱痕遺跡の真東には名前の分からない○○山であった。日差山も、どこを捜しても見つけられない。日差山は、現地(宮司さま)の人しか知り得ない情報なのだ。何故、ご先祖さま達は、何んの特徴もない田んぼのど真ん中にそのような重要と思われる施設をお造りなさったのか? 土地の私有化が進んでいるとは思えないその時期に、それをどこへ置こうが自由勝手~~! そこと定めたのは何かの理由・ワケがあるはずだ。現地に立たなければその意は伝わってこない。
<いざ現地へ>
<北斗神社>(石碑のみ)

↑ △経山373m
△47m← 環状木柱列遺跡(標高13m) →△43m石鎚神社(円形遺跡あり?)
<御崎神社> <神明神社> →△庚申山74m
大梵帝釈天
(Google earthより)
← <日差山>どこにあるのですか?
そこに矢射台石ありや無しや?
△和霊山220m和霊神社
△福山302m
<猿田彦神社>
ご先祖さまは、
①北斗神社(北極星)を真北とし、②南に福山?・和霊山、③真西に御崎神社、④東に石鎚神社or庚申山、の順に定め、 この中心に環状木柱列を置いている。
<環状木柱列を推測する>
これは、住宅施設ではないと断言できる!何故なら銅鐸の出土があるからだ。差障りある銅鐸を住家には置かない(土中保管説)。それが銅鏡でなく銅鐸なのは銅鏡文化より以前であったことを意味する。さらに、その大きさが30cm前後と比較的小さいのは、銅鐸文化の初期あたりのものかと思われる。専門家の解析が楽しみだ。木柱列が何本あったのか筆者は知らない。仮にその本数を8本(or10本)として話を進めると。前述の要領で中心点をきめ適当な円(4~6m)を描く。つぎに真北の方向を 1と決め右回りで8等分にする。北を 1と定めるのは、今の日本建築でもその柱列の番号を北の1から始める。そして、暦においても、真北の子(ネ)の刻から始まっている。
次に、この環状木柱列で最も大切な“入り口”を決める。8等分にした円環を右回転させて行き、暦で云う辰巳(タツミ)の方角(南東)を入り口とし、その2本を決める。この入り口2本の柱は残りの6本より別形状のものを使うか、全8本のなかで入り口として最も格好の良いものを使う。石川県のチカモリ遺跡では発掘;総数350本のうち約250本がカマボコ形に割っていた。入り口の中心線となるのは冬至の日の出光の方角であり、この方角に<日差山>があると断言できる。この入り口 2本に横木を乗せる。これが今で言う止まり木の始まりだ。あとは八方郭風に仕上げて、「御輿の上でコケコッコウと一番鶏が鳴いて」その旭光とともに水神でもある竜神さまが“興し”になるのを待てばいい^^。注意すべきは、その日の出の位置が地球の歳差運動(軸振り運動)で、素人のあてにならない計算ではあるが<70年に 1°角?>南側へずれていくことだ。今の日の出位置から逆算すればその設置年代が絞りこめる。それが何故使用されなくなったかと言うと、日の出位置が年とともにズレていくことと、銅鐸文化から銅鏡文化への変革があったからかも知れない。
木材の使用は、栗材か楠木であろうと思われる。初期にはイガグリ=太陽光の考えから栗材を使用し、後にはさらに腐りにくい楠木に移っていったと思われるが、神明神社の裏手に何やらの木(ゴメンナサイ覚えてなくて^^!)が植えられていたので、その木が使用されていたのかも知れない?。
○
○
○
○
+
○ ◎
入口
◎ 冬至の日の出光
○ <日差山>方向
<銅鐸の埋め方を解く>
そこにあった30cm大の銅鐸のレプリカを持たれ半円部を下に、少し斜めにして
『その中央部で、このようにして埋められていました』と奥さま
この埋め方は、別紙報告書「巨大隕石と大津波」で述解したが、銅鐸は空を飛んだ大隕石形で、その半円部は、その頭。下へ向けるのは大地へ突き刺さる形。少し斜めに向けるのは、その方向から飛んできたことを表す。ゆえに、日差山方向から飛んできてヒレの部分を立てて、埋めてあったと推測します。この埋め方は愛知県の一宮でもあったと記憶しています。ヒレの部分を寝かせて「おとなしく寝ていて下さい」としたのは卑弥呼以後であり、そのようにしていないのは卑弥呼の言うことが、すぐに聞けなかった群郡(こおり)であったかと解いています。
<このあたりの地勢と住環境を考える>
この遺跡の西に「御崎神社」とあることからそこが浅海に突き出た海退時期があったと考えられる。ほかに恩崎の地名もあります。宮司さま>のいわれた、かつての宮前川?の流れの位置や、あたりの標高を勘案する必要があります。これは、ウネウネと曲がった道や、現在に残る川底の高さでも想像推察できますが(現在の標高なら、国土地理院かGoogle earthで調べられます)専門家のトレンチの発表を待ちたいものです。特筆すべきは、この近くの高梁川西岸に<秦>の地名があることです。当時の河口にあり 「徐福たち」のながれをくむ人達がこの一帯の歴史に関わっていることは見逃せません。
<何故、銅鏡でなく銅鐸なのか?>
銅鏡への入射施設とした倉敷足高神社(二条岩三条岩)、又は、総社の経山には冬至の旭日光に擬えてそこから矢を放つ台石があった。日差山 にもその施設があれば、その考えを一昔さかのぼることになる。それがなぜ銅鏡ではなく銅鐸だったのかの謎解きは、(史学)貴方さまにバトンを渡します~~!”。
さて、素人探偵の推理、何が当たって、なにが外れているかが楽しみです。
ここまでで、この記事を終了とします。^^! (2016 / 7 / 27,了)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
次は、
おまけ、<犬墓山>を考える。
【鳴釜神事】 ↓ウエブ吉備津神社より、抜粋
この神事の起源は御祭神の温羅退治のお話に由来します。命は捕らえた温羅の首をはねて曝しましたが、不思議なことに温羅は大声をあげ唸り響いて止むこと がありませんでした。そこで困った命は家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしても唸り声は止まず、ついには当社のお釜殿の釜の下に埋めてしまいましたが、それ でも唸り声は止むことなく近郊の村々に鳴り響きました。命は困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの釜殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに 鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん』とお告げになりました。命はそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れました。これが鳴釜神事の起源であり現在も随時ご奉仕しております。~中略~、そうすると鬼の唸るような音が鳴り響き、祝詞奏上し終わるころには音が止みます。この釜からでる音の大小長短により吉凶禍福を判断します が、そのお答えについては奉仕した神官も阿曽女も何も言いません。ご自分の心でその音を感じ判断していただきます。 以上□
この話を想像も含めた<素人流の創作話>にします。(反意修正大歓迎^^)
今はその昔のこと。この地方は、浅口と呼ばれる水深5~6mの海が広がっていた。近くには(今は)高梁川と呼ばれている大きな河口近くでもあることから汽水を生じ、海や川の幸を比較的簡単に漁獲することが出来た。一方、陸のほうは、平野部が少なく、200~300m低い山々の連なりで麦や黍(キビ)がよく採れることから両備地方と呼ばれるようになった。根菜類はサトイモが主流である。それに貯蔵食物としてドングリも利用された。陸生物はイノシシや鹿、ウサギに加えて鳥類に雉(キジ)もいた。住家はそのワラを屋根にふいた竪穴式住居であった。近年までその麦わらはバッカン真田として帽子やカゴ等に編まれた歴史がある。土器の土質は備前焼きほどによくはないが(倉敷)酒津焼としてその味わいを残している。農具等は木製が主流で樫やこの地方でモロ木と呼ばれているトショウの木を利用していた。それに外してはならないものに、竹材や葦もあった。唯一の欠点は、硬い石を産出しないことぐらい^^!。年間の平均気温は、海進、海退から素人のあてにはならない算出で今より15℃前後高く。種子島・沖縄あたりと同じであったと思われる。降雨は適度にあるが、北に中国山地、南に四国山脈を持つ瀬戸内独特の気候に加えて山間部が多く、時に干天が続き人々飲み水にも困窮することがあった。その時、慈雨のお願いをするのが、この地に西進してきた前述の荒神・竜神・天神・水神さまであった。この地の津波の高さは6~7mであろうか。地鳴りとともに襲来してきた地震の大きさは想像すら出来ない。慈雨との交換に差し出す供物は、私達はこれ以上に大切なものはありません。この幼子の命を煙に変えますから、どうぞ、その煙を雨雲に変え、「慈雨降らし給へや」、までにエスカレートした。
このような文化が永々と続いていたある日に魏の国から、東海の列島に「不老長寿」の薬石を求めに来た“徐福”の分団が現れた。この人達は長生き実証用の多数の童男童女をつれての渡来であった。丸太くりぬき船の縄文人からすれば、西安に等身大の兵馬庸一千体を作り、大船団を操る国との文明差は歴然であった。飲み水や食物や宿の提供に多大の礼品をくれた。中国人にとって相手より少ない返品は、相手の下位に下ったことを意味する^^!。さらに、この人達は祈祷による難病平癒を主としていた列島人に対して、珍しい薬石を見つけそれを試してみたいとの思惑もあることから、薬石治療を施してくれた。ありがたいことである。列島の人々は薬師さま道通さまとして石仏二体として路傍に遺している。唯、この人達、徐福団の中には危うい考えの人もいた。
医食同源の国。他の生命を取り入れることによって自らの命を永らえる考えがあった。(←前述)筆にするのもためらうが、卑弥呼が魏帝に献上した “生口” は、余命長い幼子の命をわが身に取り入れることによって長生きするという考えである。 この考えは、列島にあった 「雨乞い時に、荒神様に幼子の命を献上する」 考えと都合わるく(?)符合した。 このことは、獅子舞、山姥、鬼神伝説として列島の各地に、その言い伝えや風習として残っていると確認して頂きたい。
<ここからが、本題「鳴釜神事」の素人探偵の作り話です^^。>
筆者は、この話の当時、“総社市・鬼ノ城”に住んでいた人達が倭国人か渡来人か、或いは、その合同集団であったかを知らない。この人達は銅鐸・雨乞い文化を継承する人達であった。高い文術を持ち、自然石を組み合わせた巨石の石崖を築き一帯の厄事、難病平癒、雨乞い等に答えていた。その返礼としてのお礼参りが今に残っている、そのなかで、「一歳でお札を受ける」新生児登録(前述、鬼ノ城の謎)を行っていた。雨乞い時の供物に要するためだ。その幼児が「七歳」になるまでに雨乞い等の神事がなければ 「お役御免の厄明け」として、お札を返しに行っていた。その記載をするためとした木簡とかスズリの破片が 鬼ノ城中央の住家跡と思われる所から出土した。このような歴史が続いているある早朝に、海を隔てた総社・中山(現吉備津神社がある所)にいる男児に白羽の矢がたてられた。その男児 「神子として上に差し出せよ!」との社会の決まりだ。これも前述しています。
ところが吉備中山で長(オサ)を務める爺婆には桃太郎と称する勇ましい兄がいて、「かわいい弟・吉備津彦を武力にかえても差し出さない」 と言い出した。(筆者は、吉備津と吉備津彦が “何故、山裾の近くに二つ”との疑問を持っていたことから)吉備津彦神社が 鬼ノ城からみて吉備津さまの南にあり、その後ろで吉備津さまに守られているような気がしてならない。
海を挟んでの矢撃ち合戦から始まる。その中央が、現存の「矢食い石」だ! この戦い桃太郎が優勢に終わり「温羅・うら」の首をはねた。鬼とされる鬼神ではあるが「温羅」の字をあてているのは温かいところもあった羅漢であったと思うのは筆者の思い過ごしであろうか。今でも、鬼ノ城の東端にその石碑が祀られている。ちなみにウラは陰陽に対する裏(陰)の意味からかと思っています。墓に犬の名が絡んでいるのは、当時から狩猟用犬を飼っていて、前述でもしましたが、神子として差し出した愛児を取り返しにくる親を阻むための番犬→狛犬・戦闘犬が関係したのかも知れない。 さて、これで平穏になったかと思いきや社会秩序の崩壊と、ご祈祷を願う相手がいなくなったことから、四方近効の村々はぶつぶつと言って治まらない。そこで“命・みこと、桃太郎”は、ウラのカシラを犬墓山の中腹に“現存する”二基の石墓の一つに晒した。この石台は、筆者がかつての探検で、恐ろしさを感じその頂部をみることが出来なかった所でもあります。
<犬墓山中腹の石墓と石台>(2016/4/24撮影)

それでも中々収まらない。 “桃太郎”は、夢枕にたった温羅 の言に従い、長(おさ)を継ぐことをやめて引退しその没後は霊神となった。さらに、「祝」と呼ぶ温羅の妻の娘「阿曽姫・あそひめ」を遣わして竈(カマド)で御饌米(ごせんまい)を炊く「鳴釜の神事を行いなさい」との言にも従った。そうすれば、わたしは、一使者となって参り給う人々に、鳴釜(米が沸々煮える時に釜の内に共鳴共振してブぉーと鳴る)を告げ、「裕と鳴れば幸」「荒らかに鳴れば禍あり」と霊神(あなた命・ミカド)のお告げを鳴り響かせ四方の民に賞罰を与えるであろう。以来、平和がおとずれ今日に至っている。 以上です^^! □
(注)当時の主産は、麦、ヒエ、粟、キビで、味のよい米は高級品であったと思われる。今に赤色米を残すお人がいる。
その<阿曽>の地名は、今でも鬼ノ城のふもとに残り、近年まで、お釜の修理鋳造や 阿曽女の専出はこの村で行っていたとか。 さて貴方さまは、この素人の作り話を信じますぅ^^?。 それとも吉備津神社のお釜神事に聞きますかぁ(笑い) その詳しくは吉備津神社で御検索を^^! ( 完了)
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< 筆者より >
長い間、駄文へのお付き合いありがとう御座いました^^!
つぎの記事のアップは9月にはいってからを予定しています。
尚、当ブログの“原本”となる 電子出版; 極秘報告書「巨大隕石と大津波」文芸社 は10/21で契約解除でなくなります。
ご入用の方は、お早めにどうぞ^^! といっても 12年の販売で15冊ほどの実績です(泣き笑い)
史実探偵 平 素人 拝、
この記事は、前回(8/19で、 今回 (8/20) の追記で完了しました^^。
ただいま「古代史掲示板」http://8220.teacup.com/toraijin/bbsさまへ、訪って
拙コメントを(30ぐらい)残していますので、よろしかったら、そちらへも どうぞ^^!
尚、当ブログの記事は、全てが関連しています。カテゴリー別で見ると読みやすい
かも知れません。
< 筆者より のお知らせ、>
長い間、駄文へのお付き合いありがとう御座いました^^!
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尚、当ブログの“原本”となる 拙;電子出版 極秘報告書「巨大隕石と大津波」文芸社← は、
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はじめに
この遺跡の存在を知ったのは、総社市・北斗神社をたずねて前述の鬼ノ城・新山<天空のなごみ茶屋太一や>を訪れたときのこと。「北斗神社の御本尊七社宮の今は、下方の神明神社に移されている」とのこと。そして 、「近時、その近くで銅鐸1個が出土した」とのこと。さらに「その宮司○○さんもここに訪れた」こと。筆者が興味を示すと、つづけて「専門家の発表があると思います。」
(この遺跡の発掘は、筆者が知らなかっただけで銅鐸の出土は'14/8月。ネットで発表済みでした^^!)
(2016 / 5 / 01)
その足で「神明神社」を尋ねて、道も定かでないような細い路地をぬけると田畑にかこまれ、石を二つ三つ積み上げた決して広いとはいえない場所にその小さな神社はあった。造りは拝殿と本殿の一般的な造りで脇神も祀られていたように思う。驚くべきは参道も定かでないようなこの場所であるが手入れが行き届いていること。昨日今日の保守ではないとすぐ分かる。運のよいことに四十がらみ?の宮司さま夫妻が掃除をなさっていた。近所の人も声かけをなさる。その信仰の厚さがうかがえる。聞けば「一日(ついたち)参り」とのこと。今一番逢いたいお人に会えた嬉しさでお掃除中にもかまわず>共通の話題は、今にも消滅しかねないような「北斗神社」から始まった。北斗の意は「北極星」だと教わり、判らなかった「七社宮の七は、北斗七星」とも教わった。さらに、“神明”に繋がる鶏のはなしを出すと「時を告げる一番鳥」で中国からの移入ではと云われる。傍らの保管庫にりっぱなお御輿があった。その頂部に鶏のありやなしやを見ておけばよかった。冬至の旭光の話をだすと「その方面に“日差山”があります」 「いま現在の冬至の日の出は○○山からです」と云われた。
このあたりは、「今は田園となっていますが、その昔には、かなり川幅の広い“宮前?川”が流れていた」とのこと。
( 8/13後述; お御輿の頂部には、筆者が知らなかっただけで、鶏造りが標準のようだ。
ということは、ここ神明遺跡の環状木柱列は、お御輿造りの原型になったようで、冬至の朝の“御来光”の時刻を知るために、「その一番鶏」の鳴き声を目覚めに利用していたかと伺い知ることが出来る。しかし、とあるお御輿をみれば、その四方に鳥居を備えており、「東西南北どこからでもいらっしゃい」 との造りになっているのが解からない?? そのお御輿の中には何を納めているのか? 又々謎が増えた^^?)
銅鐸が出土した遺跡の話にうつり、
「丸い住居あとの中に約30cm大の銅鐸一つが斜めに突き立てられた形」であったという。
この「住居跡?に銅鐸出土」は非常に珍しく、中央の偉い先生もお見えになった。
場所: 神明神社の住所(岡山県総社市福井字神明240)の北側の田園地帯
一宮・総社バイパスの予定地で、
その区間工事中に銅鐸が重機に引っかかり一部が欠けて出土した。
神明神社の現状は、 西、北、東の三方は、稲田や畑に囲まれた田園地帯、
南側は墓地に連なる住家地帯となっている。辺りは農家と新入者の混住地帯。
「その住居あとは住居ではなく朝を告げる鶏を飼っていた唐丸カゴではないのですか」と私。
『竹柱あとにしては、かなり大きな穴痕で、竹柱痕とは考えられない』と宮司さま。
「この、西に御崎神社があります」 と私。
『そうですね。その線と、北の北斗神社と、東の冬至光の線は固いですね』 と、このような話をして別れた。(注: インターネットの発表でも銅鐸の出土が住居域の中か、住居の中であるかは不明?)
<神明遺跡を推み解く>
北斗神社
△経山
↑
御崎神社 ← 柱痕遺跡(銅鐸) → 東の、○○山
神明神社 → 日差山
↓ → 今現在、冬至光の○○山
南方の ○○山
<このような仮説を立てて>
今までの謎解きの経緯( 環状木柱列は銅鏡の入魂施設だ!→myブログ)から 御崎神社→ 柱痕遺跡→日差山の一直線上を考えていたが、地図やGoogle earth等で調べると柱痕遺跡の真東には名前の分からない○○山であった。日差山も、どこを捜しても見つけられない。日差山は、現地(宮司さま)の人しか知り得ない情報なのだ。何故、ご先祖さま達は、何んの特徴もない田んぼのど真ん中にそのような重要と思われる施設をお造りなさったのか? 土地の私有化が進んでいるとは思えないその時期に、それをどこへ置こうが自由勝手~~! そこと定めたのは何かの理由・ワケがあるはずだ。現地に立たなければその意は伝わってこない。
<いざ現地へ>
<北斗神社>(石碑のみ)

↑ △経山373m
△47m← 環状木柱列遺跡(標高13m) →△43m石鎚神社(円形遺跡あり?)
<御崎神社> <神明神社> →△庚申山74m
大梵帝釈天
(Google earthより)

← <日差山>どこにあるのですか?
そこに矢射台石ありや無しや?
△和霊山220m和霊神社
△福山302m
<猿田彦神社>
ご先祖さまは、
①北斗神社(北極星)を真北とし、②南に福山?・和霊山、③真西に御崎神社、④東に石鎚神社or庚申山、の順に定め、 この中心に環状木柱列を置いている。
<環状木柱列を推測する>
これは、住宅施設ではないと断言できる!何故なら銅鐸の出土があるからだ。差障りある銅鐸を住家には置かない(土中保管説)。それが銅鏡でなく銅鐸なのは銅鏡文化より以前であったことを意味する。さらに、その大きさが30cm前後と比較的小さいのは、銅鐸文化の初期あたりのものかと思われる。専門家の解析が楽しみだ。木柱列が何本あったのか筆者は知らない。仮にその本数を8本(or10本)として話を進めると。前述の要領で中心点をきめ適当な円(4~6m)を描く。つぎに真北の方向を 1と決め右回りで8等分にする。北を 1と定めるのは、今の日本建築でもその柱列の番号を北の1から始める。そして、暦においても、真北の子(ネ)の刻から始まっている。
次に、この環状木柱列で最も大切な“入り口”を決める。8等分にした円環を右回転させて行き、暦で云う辰巳(タツミ)の方角(南東)を入り口とし、その2本を決める。この入り口2本の柱は残りの6本より別形状のものを使うか、全8本のなかで入り口として最も格好の良いものを使う。石川県のチカモリ遺跡では発掘;総数350本のうち約250本がカマボコ形に割っていた。入り口の中心線となるのは冬至の日の出光の方角であり、この方角に<日差山>があると断言できる。この入り口 2本に横木を乗せる。これが今で言う止まり木の始まりだ。あとは八方郭風に仕上げて、「御輿の上でコケコッコウと一番鶏が鳴いて」その旭光とともに水神でもある竜神さまが“興し”になるのを待てばいい^^。注意すべきは、その日の出の位置が地球の歳差運動(軸振り運動)で、素人のあてにならない計算ではあるが<70年に 1°角?>南側へずれていくことだ。今の日の出位置から逆算すればその設置年代が絞りこめる。それが何故使用されなくなったかと言うと、日の出位置が年とともにズレていくことと、銅鐸文化から銅鏡文化への変革があったからかも知れない。
木材の使用は、栗材か楠木であろうと思われる。初期にはイガグリ=太陽光の考えから栗材を使用し、後にはさらに腐りにくい楠木に移っていったと思われるが、神明神社の裏手に何やらの木(ゴメンナサイ覚えてなくて^^!)が植えられていたので、その木が使用されていたのかも知れない?。
○
○
○
○
+
○ ◎
入口
◎ 冬至の日の出光
○ <日差山>方向
<銅鐸の埋め方を解く>
そこにあった30cm大の銅鐸のレプリカを持たれ半円部を下に、少し斜めにして
『その中央部で、このようにして埋められていました』と奥さま
この埋め方は、別紙報告書「巨大隕石と大津波」で述解したが、銅鐸は空を飛んだ大隕石形で、その半円部は、その頭。下へ向けるのは大地へ突き刺さる形。少し斜めに向けるのは、その方向から飛んできたことを表す。ゆえに、日差山方向から飛んできてヒレの部分を立てて、埋めてあったと推測します。この埋め方は愛知県の一宮でもあったと記憶しています。ヒレの部分を寝かせて「おとなしく寝ていて下さい」としたのは卑弥呼以後であり、そのようにしていないのは卑弥呼の言うことが、すぐに聞けなかった群郡(こおり)であったかと解いています。
<このあたりの地勢と住環境を考える>
この遺跡の西に「御崎神社」とあることからそこが浅海に突き出た海退時期があったと考えられる。ほかに恩崎の地名もあります。宮司さま>のいわれた、かつての宮前川?の流れの位置や、あたりの標高を勘案する必要があります。これは、ウネウネと曲がった道や、現在に残る川底の高さでも想像推察できますが(現在の標高なら、国土地理院かGoogle earthで調べられます)専門家のトレンチの発表を待ちたいものです。特筆すべきは、この近くの高梁川西岸に<秦>の地名があることです。当時の河口にあり 「徐福たち」のながれをくむ人達がこの一帯の歴史に関わっていることは見逃せません。
<何故、銅鏡でなく銅鐸なのか?>
銅鏡への入射施設とした倉敷足高神社(二条岩三条岩)、又は、総社の経山には冬至の旭日光に擬えてそこから矢を放つ台石があった。日差山 にもその施設があれば、その考えを一昔さかのぼることになる。それがなぜ銅鏡ではなく銅鐸だったのかの謎解きは、(史学)貴方さまにバトンを渡します~~!”。
さて、素人探偵の推理、何が当たって、なにが外れているかが楽しみです。
ここまでで、この記事を終了とします。^^! (2016 / 7 / 27,了)
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次は、
おまけ、<犬墓山>を考える。
【鳴釜神事】 ↓ウエブ吉備津神社より、抜粋
この神事の起源は御祭神の温羅退治のお話に由来します。命は捕らえた温羅の首をはねて曝しましたが、不思議なことに温羅は大声をあげ唸り響いて止むこと がありませんでした。そこで困った命は家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしても唸り声は止まず、ついには当社のお釜殿の釜の下に埋めてしまいましたが、それ でも唸り声は止むことなく近郊の村々に鳴り響きました。命は困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの釜殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに 鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん』とお告げになりました。命はそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れました。これが鳴釜神事の起源であり現在も随時ご奉仕しております。~中略~、そうすると鬼の唸るような音が鳴り響き、祝詞奏上し終わるころには音が止みます。この釜からでる音の大小長短により吉凶禍福を判断します が、そのお答えについては奉仕した神官も阿曽女も何も言いません。ご自分の心でその音を感じ判断していただきます。 以上□
この話を想像も含めた<素人流の創作話>にします。(反意修正大歓迎^^)
今はその昔のこと。この地方は、浅口と呼ばれる水深5~6mの海が広がっていた。近くには(今は)高梁川と呼ばれている大きな河口近くでもあることから汽水を生じ、海や川の幸を比較的簡単に漁獲することが出来た。一方、陸のほうは、平野部が少なく、200~300m低い山々の連なりで麦や黍(キビ)がよく採れることから両備地方と呼ばれるようになった。根菜類はサトイモが主流である。それに貯蔵食物としてドングリも利用された。陸生物はイノシシや鹿、ウサギに加えて鳥類に雉(キジ)もいた。住家はそのワラを屋根にふいた竪穴式住居であった。近年までその麦わらはバッカン真田として帽子やカゴ等に編まれた歴史がある。土器の土質は備前焼きほどによくはないが(倉敷)酒津焼としてその味わいを残している。農具等は木製が主流で樫やこの地方でモロ木と呼ばれているトショウの木を利用していた。それに外してはならないものに、竹材や葦もあった。唯一の欠点は、硬い石を産出しないことぐらい^^!。年間の平均気温は、海進、海退から素人のあてにはならない算出で今より15℃前後高く。種子島・沖縄あたりと同じであったと思われる。降雨は適度にあるが、北に中国山地、南に四国山脈を持つ瀬戸内独特の気候に加えて山間部が多く、時に干天が続き人々飲み水にも困窮することがあった。その時、慈雨のお願いをするのが、この地に西進してきた前述の荒神・竜神・天神・水神さまであった。この地の津波の高さは6~7mであろうか。地鳴りとともに襲来してきた地震の大きさは想像すら出来ない。慈雨との交換に差し出す供物は、私達はこれ以上に大切なものはありません。この幼子の命を煙に変えますから、どうぞ、その煙を雨雲に変え、「慈雨降らし給へや」、までにエスカレートした。
このような文化が永々と続いていたある日に魏の国から、東海の列島に「不老長寿」の薬石を求めに来た“徐福”の分団が現れた。この人達は長生き実証用の多数の童男童女をつれての渡来であった。丸太くりぬき船の縄文人からすれば、西安に等身大の兵馬庸一千体を作り、大船団を操る国との文明差は歴然であった。飲み水や食物や宿の提供に多大の礼品をくれた。中国人にとって相手より少ない返品は、相手の下位に下ったことを意味する^^!。さらに、この人達は祈祷による難病平癒を主としていた列島人に対して、珍しい薬石を見つけそれを試してみたいとの思惑もあることから、薬石治療を施してくれた。ありがたいことである。列島の人々は薬師さま道通さまとして石仏二体として路傍に遺している。唯、この人達、徐福団の中には危うい考えの人もいた。
医食同源の国。他の生命を取り入れることによって自らの命を永らえる考えがあった。(←前述)筆にするのもためらうが、卑弥呼が魏帝に献上した “生口” は、余命長い幼子の命をわが身に取り入れることによって長生きするという考えである。 この考えは、列島にあった 「雨乞い時に、荒神様に幼子の命を献上する」 考えと都合わるく(?)符合した。 このことは、獅子舞、山姥、鬼神伝説として列島の各地に、その言い伝えや風習として残っていると確認して頂きたい。
<ここからが、本題「鳴釜神事」の素人探偵の作り話です^^。>
筆者は、この話の当時、“総社市・鬼ノ城”に住んでいた人達が倭国人か渡来人か、或いは、その合同集団であったかを知らない。この人達は銅鐸・雨乞い文化を継承する人達であった。高い文術を持ち、自然石を組み合わせた巨石の石崖を築き一帯の厄事、難病平癒、雨乞い等に答えていた。その返礼としてのお礼参りが今に残っている、そのなかで、「一歳でお札を受ける」新生児登録(前述、鬼ノ城の謎)を行っていた。雨乞い時の供物に要するためだ。その幼児が「七歳」になるまでに雨乞い等の神事がなければ 「お役御免の厄明け」として、お札を返しに行っていた。その記載をするためとした木簡とかスズリの破片が 鬼ノ城中央の住家跡と思われる所から出土した。このような歴史が続いているある早朝に、海を隔てた総社・中山(現吉備津神社がある所)にいる男児に白羽の矢がたてられた。その男児 「神子として上に差し出せよ!」との社会の決まりだ。これも前述しています。
ところが吉備中山で長(オサ)を務める爺婆には桃太郎と称する勇ましい兄がいて、「かわいい弟・吉備津彦を武力にかえても差し出さない」 と言い出した。(筆者は、吉備津と吉備津彦が “何故、山裾の近くに二つ”との疑問を持っていたことから)吉備津彦神社が 鬼ノ城からみて吉備津さまの南にあり、その後ろで吉備津さまに守られているような気がしてならない。
海を挟んでの矢撃ち合戦から始まる。その中央が、現存の「矢食い石」だ! この戦い桃太郎が優勢に終わり「温羅・うら」の首をはねた。鬼とされる鬼神ではあるが「温羅」の字をあてているのは温かいところもあった羅漢であったと思うのは筆者の思い過ごしであろうか。今でも、鬼ノ城の東端にその石碑が祀られている。ちなみにウラは陰陽に対する裏(陰)の意味からかと思っています。墓に犬の名が絡んでいるのは、当時から狩猟用犬を飼っていて、前述でもしましたが、神子として差し出した愛児を取り返しにくる親を阻むための番犬→狛犬・戦闘犬が関係したのかも知れない。 さて、これで平穏になったかと思いきや社会秩序の崩壊と、ご祈祷を願う相手がいなくなったことから、四方近効の村々はぶつぶつと言って治まらない。そこで“命・みこと、桃太郎”は、ウラのカシラを犬墓山の中腹に“現存する”二基の石墓の一つに晒した。この石台は、筆者がかつての探検で、恐ろしさを感じその頂部をみることが出来なかった所でもあります。
<犬墓山中腹の石墓と石台>(2016/4/24撮影)

それでも中々収まらない。 “桃太郎”は、夢枕にたった温羅 の言に従い、長(おさ)を継ぐことをやめて引退しその没後は霊神となった。さらに、「祝」と呼ぶ温羅の妻の娘「阿曽姫・あそひめ」を遣わして竈(カマド)で御饌米(ごせんまい)を炊く「鳴釜の神事を行いなさい」との言にも従った。そうすれば、わたしは、一使者となって参り給う人々に、鳴釜(米が沸々煮える時に釜の内に共鳴共振してブぉーと鳴る)を告げ、「裕と鳴れば幸」「荒らかに鳴れば禍あり」と霊神(あなた命・ミカド)のお告げを鳴り響かせ四方の民に賞罰を与えるであろう。以来、平和がおとずれ今日に至っている。 以上です^^! □
(注)当時の主産は、麦、ヒエ、粟、キビで、味のよい米は高級品であったと思われる。今に赤色米を残すお人がいる。
その<阿曽>の地名は、今でも鬼ノ城のふもとに残り、近年まで、お釜の修理鋳造や 阿曽女の専出はこの村で行っていたとか。 さて貴方さまは、この素人の作り話を信じますぅ^^?。 それとも吉備津神社のお釜神事に聞きますかぁ(笑い) その詳しくは吉備津神社で御検索を^^! ( 完了)
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< 筆者より >
長い間、駄文へのお付き合いありがとう御座いました^^!
つぎの記事のアップは9月にはいってからを予定しています。
尚、当ブログの“原本”となる 電子出版; 極秘報告書「巨大隕石と大津波」文芸社 は10/21で契約解除でなくなります。
ご入用の方は、お早めにどうぞ^^! といっても 12年の販売で15冊ほどの実績です(泣き笑い)
史実探偵 平 素人 拝、
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