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此処に 「卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸」 あり!!
卑弥呼は魏から得た100枚の銅鏡に換えて出雲と “同じ決め事”で 持ち寄った銅剣と銅鐸を封印した!
「出雲の弓ヶ浜」の成因は、四千年前の大津波か?
  (下記の、以下~以上迄は、ブログ「いずものこころ」に投稿したものを集約したものです)
村の古老ばなし、
その昔のこと、出雲の大神様は、全国・八百万の神々様に、「神議」を行うから、毎年の十月に集合せよ」との通達をだされた。なにせぇ、おお神様のいうことだからと、全国津々浦々の神様たちは、全てが出雲に出向いた。ところぅが、この席に四国のこんぴら様だけは、いかなんだ。大変立腹した大神様は、なぜこなんだと問い糾した。いうことにゃ~、「忙しゅうて、忙しゅうて、行けませんでした」。 「そんなら、お前の暇な時ゃ~、いつなら、わしが行ってみるけぇ」と言われた。「十月の九日~十一日頃なら暇ですけぇ、来てみてつかあせぇ」と言われ、行ってみれば!?、その日は祭りでドンドンいうとったそうな。これを見て大神様は 『暇な時さえこの賑わい、他の日はもっと忙しいのであろう』 と納得され、以来この神議に、四国の琴平様だけは行かんでもええということになって、十月のことを他の国では、神様が出払っていない“神無月”というのに四国のこんぴら様だけは、「この月を神在月というんだ」と。 むかし、こっぽり!

議題「何故出雲に、八百万の神々様に集合をかける程の力を持った大神様が出現したか?」
それ程の力を持つ大神様(の考え)が、誕生(発生)したのは、全国でも類をみない「この地の成因」に特異性がある。それを推み解くまえに、日本海の成因は、弓状列島の形の謎をもって、太平洋側(安山岩を有しない)へ、引っ張られて、一気に成されたという説がありました。

 疑問その1> 弓ヶ浜はホントに海流によって成ったのか?
ここに国土地理院の50,000分の1の地形図「松江」「今市」「大社」があります。それ等を精査しながら想いをいたすことにしましょう。
 境線・ゆみがはま駅の近くに米子工業高等専門学校があります。その海抜が18、7m。そして、その近くの中村に16mが見えますから、おそらく弓ヶ浜の海抜高さは、こんなものなのでしょう。「礫層をつくるには、必ず、その高さの水流が要る!」 それとも後から隆起したのか?

 疑問その2> 出雲平野は、ホントに斐伊川・神戸川の分水嶺域を他の河川と比べてみて、それが広いとは言えず、その流出土砂のすべてで 出雲平野を形づくったとはおもえないが?(註: 神戸川上流の山瓶山で3,600年前に大噴火あり)

 「出雲が全国でも、類まれなる地形をしているとは、なんぞや?」
<弓ヶ浜の真の成因>
 BC2001年、12月25日の朝6時頃、三陸地方に端を発した巨大地震は、列島を震撼させ巨大津波をひきおこした。日本海側へ発生した片V字沿岸津波(筆者独自論)は、土石流を発生させながら、新潟・富山湾、若狭・宮津湾をへて、朝8時頃、出雲へたどり着く。ところが松江を湾奥としたV字湾の海水は、地震でゆるんだ山陰沿岸から運ばれた土石流を、その入り口で阻止した。それが今の弓ヶ浜だ! だがその津波の水量と勢いは支えきれるものではなく、鉄砲水となって「宍道」を(当時は、今より海水位が5~6m高かった?)突きぬけた。津波は2波3波とやってくる。

出雲平野の大半の土砂は、この津波よって運ばれたものだ?。
かの地で発生した地震は約4秒足らずで出雲に到達する。揺れに揺れた、その朝に大津波がやってきた。 「島根半島・巨大竜、長さ60㎞幅5㎞が海を泳いだ!」 祖先は、この驚異を伝説として「地名」として遺している。これを信じられないお人は、茶臼山や床几山へいって“その急流の痕を”さがし、その朝日山のほうへ登って弓ヶ浜を眺めれば、その大津波の跡が確認できるかも知れない。弓ヶ浜は、美しい珍しいだけではないこのような “祖先の思い” がつまっている。

弓ヶ浜の海抜約19mを造成した大津波は、それによって退路を断たれた!
 <宍道湖へぬけたその津波の大きさを概略計算してみよう>
津波の理論上の波高hは、水深dの4乗根と入り口幅wの2乗根に反比例する。当時の水深を今の水深20mに、5mをプラス(陸中の貝塚より推定)して25m。津波の入り口幅wを15km。そこの波高は弓ヶ浜の海抜高さの19m。 湾奥の幅を幾らにするかが問題だが、仮に1kmとすると湾湾奥の松江あたりが最大の「約69m」となる。(計算間違っていたらご免なさい。実際には周囲への溢水等があるので、これより多少低いかな?) 

さて、具材は揃ったから、「祖先からの地名という伝言」をこれにからめて料理を致すことにしましょう。

国土地理院の50,000分の1の地形図「松江・今市・大社」より
安来市に流れ込む川は「飯梨川と、吉田川・伯太川」 等がみえます。 これ等のつくる扇状地の広さは、握り拳大です。(おおざっぱでゴメンナサイ・笑・)これは覚えておいてください。安来は「八洲岐」と云っていた時もあったそうです。これ等の河川がはたして八洲をつくる程の流量があるのか? 疑ってみるのも面白いと思います。なぜなら、祖先は津波の戻り水をいうのに「垂水・篠津・下津」等の地名をつけることがあるからです。

次は、「豊島・荒島」へ、 荒島は、その時の津波で表土を洗い流されたのかも知れません。 当時の海岸線は、「飯生町」の学校辺りの海抜が6、9mですから、この辺りかな?。
 「津波は川を上る」といいますから「石原」辺りが、その時に運ばれた土砂であろうかなと推んでいます。なぜなら、祖先は石が原をなせるほどにあると云っているからです。(これは、その小石のサイズと「量を」他の河川の状態と比べてみればわかります。通常の河川活動では、経年的に洪水を繰り返すわけですから、大きなサイズやら、ちいさなサイズの石が混ざりあっています。これに比して津波というのは、一時に、大量に、異種を分別し“同サイズ”のものを集めます。これは、さらなる大きな謎解きに発展しますからよく覚えておいてくださいネ、ごめん小学校で習ってました。(笑)

次に、「出雲郷(アダカエ)」を通って中津に入りましょう。ここにある茶臼山・171mが湾奥になりますから、ここが最大波高の69m!!、この山の東南に、お宮のマークがあります。そこに、この津波が造った露出岩壁があるはずですから、その辺りが実際の波高かな?。 そういえば琵琶湖内陸津波では、そこに「石山寺」の名がありました。

古い言葉で「打つ・たたく」を意味する「チヨウス」という語があり、これに「茶臼」の字があてられたのが「茶臼山」なのである。 (PART PARTⅢ あの地・あの街の地名の由来)より、
 そういわれればば、「チョウ打する。チョウ々発しと剣を交える」なんてのもありますよね。鼓や太鼓等の神聖化もこれからきているのかも知れません。

この「茶臼山」の名は、全国300ヶ所?ぐらいあり、全国最多数の山名だそうですが、世俗性を含んでいるか?どうかは定かではありませんが、国土地理院では、およそ200ヶ所の?「円山」を一番目にあげているそうですから面白いですね。頂上が丸い「円山」の山容は神奈備山にも通じると云います。この「円山」「茶臼山」に加えて「雨乞山」の山名は、雨乞いに関係する山名ですから、列島での分布図を作れば、当時の文化の繋がりや広がり、そして気候までもが推し量れると思いますよ。すこし時代は下がりますが「大塔山・笠置山・玉置山・瓶割山」等も、雨乞いの「儀式」に関係する地名だと思っています。

 なにしろ、雨乞いというのは見渡すかぎりの「天の井戸」を相手に、そのお願いをするのですから、その場所だけで雨乞いをしても意味はうすく、今私達が考えているものより、もっと広域的に雨乞い施設を考えないといけません。これが「緩い連帯感」 となり、弥生期以前は戦争(痕跡)が少なかった原因だとみています。 

次に進みましょう。
「上竹矢・東光台・東津田町・“切剥山”・床几山・嫁ヶ島」。これ等は急流が狭い所を流れたときにつくる地形になっていることを確認してください。特に「切剥山」は、その時の祖先が付けた山名ですから、今でもそのようになっているんでしょうか?、さらに「塩楯島」の塩は、潮・海水のことで、楯でその大流を止めようとして、その頂部は“丸っこく”なっている筈です。でも抗しきれるものではなく、その下流に「松島・中島・剣先川」に、洲を形成しています。「朝酌川」がこれだけの土砂を運ぶ川だとは思えないが? それにしても、晩酌とは聞くが朝から「お酌」とは。出雲の人はお酒好きかな?(笑) 他の地のご先祖様は、その大津波が朝方に到来したと、兵庫では「朝来町」。岡山では「朝寝鼻貝塚」と云っていますよ。 筆者には、その大津波がないとしたら「朝来るとか、朝の寝鼻」の地名を付ける必然性が思い浮かばない。

その津のついた地名が、「比津・川津・東津田・西津田」 等です。 
先のインドネシア地震の恐ろしさは、皆さんの知るところですが、「片V字沿岸津波(筆者独自論)」の恐ろしさは、受V字湾奥津波と異なり、その中に土石を含むことによって 「その表土までを削りとる」 ことにあります。そして、津波は「似たものは、似たものどうし集める」性質があります。出雲の「佐草町・大草町」は、その草類が津波によって集められたのでしょうね。これに類する地名で、「瑞穂・千種・草津」、それに、「木津・木更津」等があります。 出雲の津波が木までをうがしたかどうか分かりませんが、「松江」をはじめ「浜乃木・上乃木」等の地名が気になります。

さぁて、一番大切なことは、その時、津に関係する地名を付けた人が「いた」と言うことです。
 その人的被災をいう地名を発見けました!!
「忌部川」に、「下忌部・西忌部・東忌部」。 このように方向性が3つ以上連なると、そこに歴史という時の流れがあったと推むことができます。
「忌む」とは、人が死んだ時につかう言葉。 ここに「千本」という地名があります。縄文の人が「千や、万の数」をつかうときは、多数?を意味し、人の死を葬る数に「一柱」がありますから、
           ここに夥しい人が打ち上げられた!! (合掌)

もう一度ズームアウトして上空から、この松江の地形図を眺めて見ましょう。
松江を中心にして、Xの字形になっているのが確認できます。津波の通り道の一番狭いところが茶臼山あたりでしょうか。今度はズームインして宍道湖に目をやりましょう。嫁ヶ島の南から600mくらいの所の海底に水深5mの凹地があります。これはその時の津波の渦巻きによって出来た地形ですから、あきらかにその土質は、まわりのものと異なり、津波以前のものが掬えると思います。 そして「嫁ヶ島」の名から推察できることは、竜神様に娘を嫁がせる神事があったこと。今ではそれが「お雛流し、灯籠流し、お船流し」等に変化しています。

ここ迄が「いずものこころ」に、投稿したものへ集約・加筆したものです。引き続き書きたしていきますので、楽しんでください。

津波とともに宍道湖を“西進”して行きましょう。途中大切な地名伝言が抜けていたらごめんなさい(笑)。両岸に流れ込む川のつくる扇状地は指先ほどの広さです。「碇下・いかりじも」海抜0、5mから上陸します。碇とは船をつなぐ錨?、この南「瑞穂・1、4m」があります。そして、「島灘・前島・北島・灘西・中の島」の地名を付けた頃は海。「中州・2、4mや砂川」は津波後の地名かも知れません。海の中に川や中洲の名前は付けませんからね。「蔵島・北島・福富」、このあたりは少し時代が下がった名付けかな? 「大島・岩野原東・岩野原前」、このあたりは、津波が運んだ“石の原っぱ?”か、そばの「名島」あたりの海抜が8、6m~9、5mです。

「富中・とびなか」、・・・?、鳶中???、ご先祖さまヨゥー「富をトビ」と読むには少々無理がありませんか?(笑)。あたりに「鳥屋・鳥井」の地名が見えます。この島根半島の西部山塊には、やたら鳥の名の付く地名が目に付きます。「鳶が巣山・鵜峠・鷲浦・鷹取山・鷲峠・鶴島」 これは見過ごせない何かがあります。 先の中出雲で“木の付く地名”気になると言いましたよねえ。私達がそこに地名を付ける時、何に関心があるかによって変わります。 回りくどさを除外して言うと、中出雲は草木農耕文化、西出雲は鳥獣狩猟文化の違いがあるのでは?と思っています。 要は、他の地と、その分布数の比較が問題です。出雲には古来の「牛神」文化より、「馬」の地名が多く残されているのでこれも対比してみると面白いかも知れない。 ちょっと脇へ逸れました。

さて、「斐伊川」を渡って「大津町・おおつまち」に入りましょう。
この大津は、滋賀県の大津ではありませんよね。ついでながら申し上げますが、このように全国的にみて同じような地名(伝言)がつく場合、そこには、その考え方の関連や伝達があったのではないかと疑ってみる必要があります。 「津」の名前を思い出すままにあげますと、「九州の豊津・中津。 四国の多度津。 岡山の吉備津。 津の名ではありませんが兵庫の神戸。 和歌山の和泉。 富山では、井波・砺波。 そして、先にあげた大津・草津。 さらに、伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ。 東北では、一戸~九戸。」 “戸と津”とは同じ意だと教えてくれたのが、出雲の「神戸川」です。 筆者が考えているのは、“卑弥呼以前に、それ等をつなぐ交通がすでにあった”点にあります。 “その媒体”については後ほどに致しましょう^^。 これ等は、その文化発祥の地であることを確認してください。

「大津町(おおつまち)」の海抜が、5、1m。「中野町」に6,3mが見えますから、ここから西へは下り坂になっているのでしようか? 対岸の標高が8、6mでしたから「斐伊川」は、天井川になっているのがわかります。 ここで本論の“出雲平野の成因”に入りましょう。 天井川であれば川上からの土石を一番多く集めている所と言えます。もう一度ズームアウトして、出雲平野全体を眺めてみましょう。その広さは握り拳5個分(笑)くらい。 低い所で、「江田町」3、0m。「北荒木」3、3m。 江田町の「江」というのは人為的ということでしょうから、出雲平野の多くは人為的な埋め立て地である!!。 これで納得できないのが少年心(こどもごころ)!。そうであるならば、「出雲風土記」にあるという “一帯は、石ゴロゴロの荒れ地” であった!と云うのが解せない。 河川の“下流域を形成”するのは「砂」であり、決して「石ゴロゴロ」の荒れ地ではない。

「ご先祖様は、嘘つかない」 嘘の地名を付けても得がない。 たとえ私達がそこに「緑が丘とか希望ヶ丘団地」と名付けようが、それはそれで歴史に遺る。 今、私達が「科学」だと豪語しているのは、『人知であり時流』である。 決して、その云う科学が 『自然の摂理』 の総てを云っているのではない。  口

<まとめ> ??、
話が佳境の出雲大社に近くなってきましたので、ここで今迄のおさらいしておきましょう。
議題「何故出雲に、八百万の神々様に集合をかける程の力を持った大神様の考えが発生したか?」
  仮定≪この地の成因に、全国でも類をみない特異性がある≫
疑問その1> 弓ヶ浜はホントに海流によって成ったのか? 津波成因ではないのか?
疑問その2> 出雲平野を形成する土砂は、全て斐伊川と神戸川が運んだのか? 津波の土石流ではないのか?


疑問その1は、 弓ヶ浜の海抜が約19mであるところから、この高さを越える海流の存在は、考えられず。又あったとしとても湾の奥から積み上げられるはずで、このような形を造るには、土石流を含んだ大津波があったと推定。
疑問その2は、 出雲平野の標高調査(?)から、その約8・9mの分水嶺が斐伊川沿いにあり、これより東へは約10kmのなだらかな斜面。 道路の直進性とそれに隣接する人家からそのほとんどは干拓によるものと判明。

 蛇足ながら、 「千家あたりから、富村・正興・社・若宮・砂川・分市大沢までの街道は、くねくねと故意に(?)蛇行させていて、その名付けも古く、“竜神・木・舟”で、対岸の嫁ヶ島方面へ関係する神事が(※若宮と嫁ヶ島で、竜神への嫁取り儀式・人身供儀か? )あったと思われるので要注意!(拙・電子出版の『巨大隕石と大津波』の、近江“蛇砂川”を参照) この故意に(?)蛇行させた道路・川が吉備の最上稲荷にもありますよ。

斐伊川から西へは、約6kmほどで南北に長さ約2km海抜約40mの浜山公園に突き当たる。この北の「北荒木」あたりの海抜が3、3mで出雲大社の前にでる。地図上ではあるが、 まずはお参りして御利益を!!、この出雲大社が御座す山塊が、西進した竜の頭部だ!。『竜が、この大津波に乗って泳いだ!』 出雲に“大神さま”が出現した。 全国どこを見渡しても出雲ほどの規模をもつ巨大竜はいない。 紀伊半島にも二見浦から入進し、和歌山の「日ノ御埼」に抜けた、山波を泳ぐ巨大竜が居るにはいるが、これは“出雲竜”になぞらえた後追い文化だ!。 

 BC2001年12月25日、未だ暗い朝の6時頃、東北の三陸地方に降臨した巨大隕石は、火山の噴火を誘い大雨という慈雨をもって、“八雲たつという隕石の冬”を誘発する。 この大事変は、人心に“荒神という神を誕生”させ、それ迄の交換文化を主流とした小集団が、雨乞いという広域性をもった大集団へと展開する 『核』 となる。

 この報告書は、中学生をも対象としているので、この集団社会の「核」について、もう少し素人なりに考えてみます。 私達が、今、集団社会の核としているのは、大きく分けて自由民主主義、共産主義、神のしもべ主義?それに宗教。 又はそれ等の複合等があるように思います。これ等の考えは、人間が大集団社会を形成する為の要件だと考えています。 それ等のすべてを削ぎおとし「富の分配」ということについて考えてみましょう。 この場合の「富」とは、唯単に物質のみに限らず精神的な富も含みます。つまり、有形無形のものすべてを含ませて「益」という言葉を使うことにしましょう。 集団社会は、この「益を得る与える」で成り立っています。

始源太古の昔からの集団性について考えてみると。 妻が居て私が居る。子供達が生まれる。その子達が結婚し分家をする。近親結婚は遺伝的に成り立たないから、他家から嫁をむかえたり婿をむかえたりする。これで他家との縁戚関係ができる。このようにしてその集団は大きくなっていくが、端々では、その「縁」が薄れて程度以上には大きくならない。「程度」というのは、その地域がもつ生産性で、例えれば、海は魚。山は獣。野原は野菜。それと水。 石器時代の生活は、それ等の交換文化でじゅうぶん成り立つ。 戦争によってそれ等を拡大していったとの考えもあるが、私は、そうは思わない。事足りていれば争いは発生しない。日本列島のようにそれ等が狭い地域で得られていれば、せいぜいそれは小集団どまりで、小集団同士がくっつきあう大集団には発展しにくい。 それが大集団へと発展するには「精神的な核」がいる!
『人々の共有する神(核)が、人間という個人に重なった時』 その集団性は、強力に増していく。 神という概念は、自然から受けた驚異によって発生する。 人が興している宗教のもつ集団性は、そのあとに続く。

四千年前の巨大隕石は、巨大地震が誘発した火山の粉塵によって大雨慈雨を人々に与え、大津波によって、津々浦々に夥しい魚介類と海産物を打ち上げた。 その恐怖とともに!!
これによって列島の人々に、地域によって被災の差こそあれ、荒神という『共通』した認識が生まれる。 その荒神は、天空より至りて地を揺すり海を揺すり、「大雨と、海の幸と、瑞穂」 という飴と、それが起こした被災という鞭をもってやって来た。言い換えると「災いと幸を為すのは、その荒神さま」 だと!。 魏志倭人伝に「人々席次をつくらず座する」というのがありますが、序列をつくって座る中国と違い、それまでの日本においては、その神の下においては平等の考えがあったのでしょうね。 列島の集団性を語るときには、この「同一の驚異」を外すことはできません。ちよっと話が長くなりました。(笑い) 出雲のほうに話を戻しましょう。

「神西湖」命名の不思議?
出雲大社の“南”に位置し、日本海に面したところに、差し渡し約1km余りの「神西湖」があります。これをその言葉どおりに受け取ると「神様の西に位置する湖」となります。大社の南にあって何故「西」なのか? これはこの湖の命名のほうが先で大社の設営がその後になったと考えます。ここが西ですから「その神様は」ここより東におわすことになります。では、その「東は何処に?」これより東に行くと・・・、「松江」→「境港」?、前述の弓ヶ浜でもとりあげましたが、日本人には、この「境目」という言葉におおきなこだわりがあるようです。
思い出せば「神戸・こうど、境内」がありました。弓ヶ浜が「その境」ですから、その神様はさらにこの東にある?ことになります。四千年前の大津波に乗って、≪その東から荒神さまが「西進」してきた!!≫ その突きあたりがこの「神西湖」なのでしょうね。見ればこの近くに、なにやら意味ありげな「蛇池」「蓮池」なる地名がみえます。

 蛇足ながら(笑い)出雲と吉備の地の文化交流にご興味がある方に!
総社市・吉備津神社に松並木の参道があります。この松並木が不思議なことに、街道180号線に沿ってではなくて、それに直行するかたちに植えられています。素人は、この松並木は出雲の弓ヶ浜を模したものであると推んでいます。そして、此処に『境目』なる地名がひっそりと隠れています。 さらに「吉備津さまは出雲の方角を見て御座る」という、お人もありました。

 出雲大社は「出雲半島・巨大竜」の頭部に設営されている!
出雲半島は「巨大竜か?」 次は、何故これに「?」をつけたかについてを考えて見ましょう。
出雲半島は巨大竜か?、いいえ!「竜ではありません」 厳密にいうと竜ではないのです。正しくは人間が、修厳者が、その雨欲しいと四千年前の荒神を竜として呼び寄せ、お招きしたとき、その山塊は「竜」に変身するのです。 昔の人はそれを「宿る」と形容しています。宿ると「御座る」は、ちがいますよねえ。宿は宿ですから何時までもそこへ泊まることは出来ません。 そういえばこんな和歌を詠んだお人がいましたよ。「八大竜王さま、私は慈雨が欲しいとお願いしましたが、大洪水を伴うほどの豪雨は、お願いしてない」って(人間ってかって?、笑い)荒神様は手におえないって! そのときは、都合よく台風でも襲来したのでしょうか?

では、どちらへ向いてお願いしたのでしょうか? まさかお尻を向けてお願いするわけにはいきませんから、それは東です。いいえ西かもしれません。なぜならご先祖様は、中海・宍道湖を東から西へ抜けた四千年前の大津波を見ていますから。未だ暗い12月末の朝の6時頃、大地震でたたき起こされて、その大津波が出雲に到達したのが朝の8時頃」ですよ。いずれにしても「東や西へ向いて」お願いしたのでしょうね。 南や北でないことだけは確かです。
「神官は、頭上のすすを お祓いし」、って川柳がありました。こども心には、そのすす払い?が四千年前の“白い波頭”の大津波に見えてなりません。 皆さんも一度、神社・ご先祖様に頭をたれて『現代科学という、そのスス』をお祓いして貰えば? ゴメン言葉がすぎました^^!。

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どなた様> ('13/11/9)↓の拍手をありがとう御座います。気になっていました。^^♪
   記事; 「出雲の弓ヶ浜の成因は四千年前の大津波か?」← アーカイブ('07/12/7)
この記事を読み返して見ました。あとで読み返してみると、知識ではなく調査をもって描いているので自分ながらの駄文、長文にうんざりする部分もあります^^!。(10/14~17,19,24,27)に拍手ですが、「何故、拍手を頂けたのでしょうか^^?」 主に、出雲関係の記事のように思います。 特に、弓ヶ浜の成因の記事は、国土地理院地図の地名をたどっての記事ですから、出雲の地に詳しい方でないと拍手は頂けないと思うのですが??  どんな、お方様が?>
何故に、(笑い)拍手を下さったのか興味が湧きます。
私が歴史の師と仰ぐ<Sigechan Izumo>氏から「出雲大社の石垣造営時に発見かった銅かと勾玉は、もっと他にもあるのでは?」との依頼を受けていましたが、おかげさまでヒラメキました。その考えをいずれ記事に載せますので楽しみにして下さい^^! ~拍手合計12拍^^

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出雲竜(島根半島)を封印している銅戈(どうか)を捜せ!・Ⅰ
     【 お知らせ 】 
 長いあいだ遅々駄文に付きあって下さってありがとう御座いました。(深礼)
Dr.と、 6人+α人のクルー(同志)と、 Mr.素人が作り上げたこの推理小説?が、
      世界史を変える幕開けとなったらいいですね♪

 
1月/8日 「結び文」を終了しました。 
次{驚愕の出雲}の記事を予定していましたが仮想メモリが0%になって思案中です(^-^)♪ 
ごめんなさい(^^!)。 当分のあいだの( 約1ヶ月?)記事の更新はありません。 ただし、コメント欄はOKかも♪ 興味のおありの方は、どうぞそちらへ↓ 只今(1/11) Dr.と♪
そしてお時間のある方は、下へどうぞ、クリック↓すればそちらへ飛びます♪これにはもっと 々・・・!!         極秘報告書「巨大隕石と大津波」
                第一章 巨塊衝突・祖先からの伝言
                第二章 恐竜はなぜ大絶滅したか
                第三章 小惑星の衝突と合体
                第四章 宝捜し
                第五章 あやまち(創作話・三題)
                おまけ) 不条理の空間(不条理の大因)
創性粒子(直径D)4個が接着した空間に入る、破壊性粒子(直径d)の大きさは、
                d = 1/10π × D である。
D=1 の時、 d は0、πパイ となる。Dが超巨大球体(例:太陽)であろうが超微小球体(素粒子)であろうがこの関係は成り立つ。これが証明されれば、直径D・dという実数と、その破壊性粒子を内包する空間の最大直径d(虚数)がイコールとなり、 d(実数)=0、πパイ(虚数?)という、ありえないイコールでつながれる。 素人はこの<dφ>の空間を「不条理の空間」と名付け、不条理の大因としました。 どなた様かこの計算・証明をお願い致します。・・・・・汗~!)
       
     
   1/16 新しい記事<驚愕の(島根半島)出雲竜!>を立ち上げてみます。
        ( 処理スピード遅っ!~汗!)
     



 <出雲の巨大竜を縛り付けている銅戈(どうか)を捜せ!>
こども心と、遊び心を乗せた [この大冒険♪>は、いずもの師の<一信から>始まった!
 
お願い
 shigechanizumo | URL | 2008-09-16-Tue 16:40 [EDIT]
「平成20年2月29日長野県埋蔵文化財センターは、中野市の柳沢遺跡で先月中旬に「銅戈」(どう か)2本が出土したのに続いて、新たに「銅鐸」(どうたく)の破片2点と「銅戈」5本が出土したとして(9月)1日、発掘調査現場で記者会見し、発表した。」
 この記事について、平さんの率直なコメントが頂けるとうれしいです。



shigechanizumoさん> ようこそおいでくださいました♪
   平 素人 | URL | 2008-09-16-Tue 21:01 [EDIT]
そんなんあったんですかぁドキドキです。教えて下さらなければ、知らずじまいでした。今後興味をもって調べてみます。 師とあおぐ卓抜した見識をお持ちの方に「お願い」の文字をいただくなんて恐縮のきわみです。 遊び心からではありますが歴史音痴だから(特に卑弥呼以後)、警察ではなく探偵を名乗っています。 少年心というインスピレーションだけなので、 多くの「思いこみや間違い」を含んでいます。私は、それを正してくださる Dr.ワトソンを探しています。・・つづき御ブログへうかがいます。(^-^)♪

Yahoo!ブログ(いずものこころ) 出雲の青銅器の謎 (その18最終回)へ、
こちらへお邪魔するのは、お久しぶりで~す♪ 2008/9/17(水) 午前 0:56 [ 平 素人 ] 
「長野県・中野市・柳沢遺跡の銅か(?)銅鐸片の出土について」 表題については、分かりませ~ん(汗~!)一般的な考え方として。銅鐸や銅剣・銅矛・(銅か)が、<一括して>埋められているのは、それまでの銅鐸を使用し稚児を生け贄とする荒神主神文化の変革をとなえた、卑弥呼は、太陽が主神であり、その象徴の鏡をくもらせる「護摩炊き?」で事が足りるとし、その荒神が二度と銅鐸に乗り移らないようにと封印した・させたのだと推んでいます。いかに慈雨を願うためだとはいえ愛児をさしだすのは嫌ですから「卑弥呼の提唱」は、その没後であっても容易に広がっていきます。銅鐸を欠いたり銅材にするのは、形を無くする為や祟るという恐怖が薄れていく過程であり、銅剣→銅矛→銅カ、等は地域的・時間的差異かな? その色の一番濃いのが出雲だったらいいですね(^-^)

 2008/9/17(水) 午後 1:33 [ shigechanizumo ] 
平 素人さん>ありがとうございます。それにしても、千曲川のあたりに何故銅戈なのか。どうしてそのようなところにまで運ばれたのか、不思議でなりません。出雲でも銅戈の発見が心待ちです。


 【 後述・追記 】 12/6 ~(  ) この項はコメント欄にはありません。  
出雲と富山で、銅カが<共に>出土している! 陸路にしても海路にしても「当時の航海術」では難しいと思われるのに、なぜ共通した文化が??、
 わたしは、このような場合、その一方だけを考えるのではなく、その陸海の両方があったのではと!?、考えます。そう考える方が楽ですからね(笑)。 途中が解らないからって、二つの地に共通した(銅カと四隅突出古墳という)史実があるのは否定出来ませんから。
 ①海路について  徐福(始皇帝・代)が卑弥呼代より400年も前に!海路の整備開拓?
 ②陸路について  熊野古道・等のように、隠れた陸路は、ないか?
 ③ヒスイつながり  出雲のヒスイが、糸魚川水系か、それとも大陸系か?
 以上の詳細は、長くなりそうなので・・・、一時筆を止めておきます(^^!)



こんばんわ(^-^)♪   2008/9/17(水) 午後 8:39 [ 平 素人 ]
(銅か)初めて知りました。何しろ歴史書は、おろか本の体裁したものを見るのは、ん十年?このかた御ブログが初めて(汗)、実際にこれで人が殺められたかどうかは分かりませんが、「慈雨・生け贄文化」に限って言えば、“土で三尺、木で三尺、六尺高い木の上で”の竹槍処刑から(銅か)に至るまでの時の流れでしょうか? 長野市・松代に「茶臼山文化」の(←全国で300箇所?)地名があるのを確認しています。今の大勢は当時の交通手段を大きく見くびっていると思います。なぜなら御ブログで、これも初めて(笑)知った「徐福」が黒船以上の影響を各地に及ぼし、そのインフラ整備が、中国と同等とは言えないまでも、すでにあったのではと・・・? もっと々、勉強させて下さい御ブログで♪

  [ shigechanizumo ]2008/9/18(木) 午前9:53
先に、「出雲でも銅戈の発見が心待ちです。」としましたが、正確には、出雲大社の東側の命主神社の大岩の下から、このblogの上の写真にあるヒスイの勾玉(重要文化財)と一緒に、かなり質の良い銅戈が出土しています。しかし、上田正昭先生などに言わせれば、出雲には銅矛・銅剣と同じように大量の銅戈が埋もれているはずだということですが、まだ大量銅戈は見つかっていないのです。平さん、是非発見を・・・お願いします。

こんばんわ(^-^)    2008/9/18(木) 午後 10:17 [ シャーロック・ホームレス ]
銅矛と銅か、の区別も知らなかった素人です(汗)。長野のものを写真で見ましたが時代から言えば(銅か)が、後と理解していいのですか? そんなセンセがいらっしゃるのなら「それへの挑戦」も楽しみですね♪ それにはもっと々、御ブログを熟読しなきゃ~、まだ端しかかじっていません(笑)勾玉はの出土は当然ですよね。「出雲半島龍の首根っこ」ですから。で(銅か)の埋め方?が問題です。「大竜を突き刺す」ような形なら<まだまだあります>なにしろ、一本・一カ所<ガリバー旅行記・小人の国>だけで「おとなしく」なるような代物ではない! そこを発見けるのは「その周りの現存する神社や伝承」を聞き!金属探知機で♪  探偵業20年、初めての御依頼でしたぁ!(笑)
 
おはようございます(^-^)♪ 昨日につづいて・・・、
  2008/9/19(金) 午後 7:31 [ 史実探偵: 平 素人 ]
「首ねっこ」を押さえたら、次は「足カセ」ですよね、松江の東あたりかな。日本海側もですよ両足を押さえておかないとね。シッポあたりのは、すでに掘り出し済みかも。「酒かっ喰らわせて尻尾から剣が出てきた伝説」がありますからね(笑)「いいや、之でも未だ足りないぞ!竜山、猪の目、あたりも押さえておこうか!?と、云ったかも知れない。 次は<勾玉>この勾玉は、大きくて立派ですよね。材料のヒスイは水神つながり。当時の最高技術で別注した(銅か、も)のでしょうかぁ。それが「一つ?」だけの首飾りでは寂しいですよねえ。もっと首周りに!? 御師の力をもってすれば、これ等を捜すのは難しいとは思えません!後は「警察」へおまかせ(笑) おっと!大事なことを言い忘れてました。【その埋め方は、命主神社と同じで、(銅か)は同じ鋳型だと思いますよ。そして、これだけの大きな<呪術・封印>ができるのは卑弥呼しかいないと!♪】

史実探偵: 平 素人さん>確かに、卑弥呼は出雲をどう見ていたのでしょうかね。
 2008/9/20(土) 午前 9:06 [ shigechanizumo ]

「卑弥呼は出雲をどう見ていたか?」   2008/9/20(土) 午後 10:05 [ 平 素人 ]
ごめんなさい。私はそれにお答え出来る知識を持ち合わせていません。それにお答えするには、膨大な御ブログを熟読しなきゃーならない(汗~!) 卑弥呼が、100枚の銅鏡を手に入れた時、何処に(九州・出雲・吉備・神戸・纏向・等々)居たかによって思いは変わるとおもいます。その後の卑弥呼は<引っ張りだこ♪> 転居・出張りの旅先で?って、ことも考えておかなくちゃ~(^-^)
 
ご神体は隕石か?
   shigechanizumo | URL | 2008-11-13-Thu 14:44 [EDIT]
出雲大社の御本殿のご神体の正体は、隕石だという地元のうわさがあります。私も中学生の時、社会科の先生から聞きました。その根拠は、1.遷宮の際にご神体が仮殿に移されるのですが、異常に重いこと。2.次の遷宮(60年後)までの間に、分厚いご本殿の床板が異様にたるむこと。3.オオクニヌシの祟りが、人の髪の毛を抜け落ちさせたり、やせ衰えさせることは、放射能とまでは断定できないが、地球外物質の影響を語ったものではないかということ。4.丹波などに残るオオクニヌシの岩裂伝承(大きな岩を砕いて沼の水を抜くこと)は、鉄以上に硬い地球外鉱石を使っての仕業ではないかということ。5.近年も、美保関隕石(メテオプラザに飾ってあります)という隕石が民家の屋根をぶち抜いて落下したことは、出雲は隕石の通り道ではないかということ。などなどから推測されるそうです。平さん(森の岩松?さん)探求して見ては頂けませんでしょうか。

shigechanizumoさん> コメントありがとう御座います♪(^-^)
   史実探偵: 平 素人 | URL | 2008-11-13-Thu 23:23 [EDIT]
ご無沙汰を重ねていますこと、どうぞお許しください。出雲ぬきでは「卑弥呼」を語ることは出来ません。いずれ又ゆっくりとお伺いしたいと思っています。^^! 「ご神体は隕石?」たいへん興味をひくお話ですね。 島根半島を「巨大竜」にした考えに、「その地形と、巨大津波のなかを泳いだ!」だけでは、弱いものを感じていました。 画竜点睛といいますからね。 それ等の<お話から>確率たかいと思います。何かの「曰く」がなければご神体にはしません。祖先は島根半島全体を竜の神体と見ていますから、竜王山か、裏山の鉱山の一部を欠いてくる手も考えられますが、それだと形状で<隕石か割石>の判断はすぐにつきます。(^-^)  つづく・・、

<そのつづき1>です♪  地球は隕石の集合体ですが、「隕石の通り道」の考え、そのような傾向はあると考えています。この前の木星へ衝突した21連発! 或いは、惑星に軌道を乱され衝突した破片・小天体{彗星とか小惑星の区別をしない}が再び(自転は別として)同様な周期でめぐってくる? 親子で運行していて、親か子の一方だけがぶつかり残ったものが似た軌道に? わたしはそれを隕石銀座とか(隕石の巣)とよんでいます。 そのほかに、出雲のほうの日本海で轟音(隕石音?)のニュースもありました。時期の特定こそ出来ませんが、出雲のモリブデン鉱、石見銀山、人形峠のウラン鉱、このように星の深部で沈み込み・生成される重金属類の性質上、その浮き上がりを考えるより「星の輪廻で爆発」したものが外から隕石となって?の確率がたかいのでは?と考えています。 中南米にも、その「巣」があり? みやげもの店で<隕石の欠けら?>売っているって!(^-^)、
出雲大社のご神体が「隕石かどうか?」は、謎として残されていたほうが・・・?(笑)

<そのつづき2>です♪
「ひらめき」だけがとり柄の素人探偵です。^^! 新幹線・高速道建設の頃から、その意識が変わってきたとは云え、まだまだ学術より信仰心が上! 私には、それを確かめる胆力を持ち合わせていません。 (ゴメンナサイ)  私のほうから<師に>お願いがあります。 出雲大社のよこのほうの神社で発見かった<勾玉と銅カ>ですが、これは、卑弥呼を含めての後に、「島根半島=出雲竜蛇」を、ガリバー旅行記のこびとの国のように縛り付け動かさないためのもので、必ず<その四肢に>あたる場所の神社に、同様な手口で埋めて「亀さん石」で押さえつけ封印しているはずですから、まずその「封印石」があるかどうかを確かめて頂けませんか。(深礼)
長くなりましたので「60年の不思議」についてはべつの機会に!

 shigechanizumo | URL | 2008-11-14-Fri 10:44 [EDIT]
ご指摘の神社は「命主神社」ですが、その東南に「出雲井神社」があります。ここは、クナト神を祀る賽の神で、道案内の神だとも言われています。そして、「出雲の神は大国主神とされる以前はクナト神と呼ばれていた。」との噂もあります。私は、この神社に何かが封印されていてもおかしくないと考えています。いかがでしょうか。

①付言すると、出雲大社を出てどこかの方角に向かおうとすると、この出雲井神社の神が道案内をするわけですが、逆にいえば、どこへも行かせないということも可能なわけです。恐ろしいことではないでしょうか。あるいは、誤った道案内をして災いの方角に連れて行くことも可能なわけです。さらにご指摘のように、「縛り付け動かさないためのもの」としての機能も果たせるわけです。ヒントになるのではないでしょうか。

②さらに付言すると、この「出雲井神社」の西500mくらいのところに有名な原山遺跡があります。この弥生遺跡には、当時では珍しい石槨の墓棺に人骨が収められていたそうです。封印に近い形で埋葬されていたわけです。そこは現在は、出雲大社教の墓地となっていますが、妖気漂う場所なのです。そして、なぜか、この原山(砂洲)には、オオクニヌシのヒメ神である、下照姫が祀られている出雲大社境外摂社があるのです。弥生・クナト・石棺・姫神・墓所・・・・。大いに匂いませんか・・・。

③もう少し付言すると、この原山と命主神社の間には、かつては菱根池という海につながる大きな湖水があり、出雲国造が亡くなると、この池に赤牛に遺骸を乗せて運び、そこから小さな喪舟に乗せて水葬したそうです。出雲では、人が臨終を迎える際のことを「あの人も赤牛さんになられた」と言っていました。しかも、この菱根池殻は、時々ガスが吹き出たということです。今は池ではありませんが、地下からガスが吹き出るそうで、昭和30年代に、そのガスに引火して旅館の一部が吹き飛んだことがあるそうです。恐ろしいことに、その菱根池のあった所に先年オープンした「古代出雲歴史博物館」が建てられているのです。これも何かの導きではないかと・・・。ご検討くださいますよう。

④もっと付言すると、この菱根池のもっとも西の端には蛇池という地下から水が湧き出る池がありました。名前のとおり、池の水面には、私も記憶がありますが蛇がウヨウヨと、それこそウナギの養殖池のように群れていました。中には蝮もいるということで、近寄れない場所となっていました。封印と言えば何も物理的なことだけで可能になるものではないと考えれば、この蛇池の水底に大切なものが沈められていれば、見事に封印の約を果たすわけです。いかがでしょうか。

⑤まだ付言すると、下照姫が祀られている原山の神社は、「乙見神社」といいますが、そのそばから鉱泉が湧き出ていて、皮膚病にとてもよく効くということで有名で、戦前まではその鉱泉を沸かして湯治に来る人がたくさんいたそうです。弥生・クナト・石棺・姫神・墓所・水葬・ガス・蛇池・鉱泉、そしてヒスイと銅戈。たった500m四方の空間にこれだけのものが詰まっているのです。出雲恐るべしではないでしょうか。従って封印されなければならない必然も、こうしたことから生じているのではないでしょうか。

⑥最後に、ホラーな話をすると、古老の言い伝えに寄れば、乙見神社の鉱泉が皮膚病に効くのは、その鉱泉につかると人間がいったん蛇になり、それが脱皮するのでツルツルの肌を取り戻すのだということです。やはり根源は竜蛇なのです。また、下照姫は伯耆一の宮の倭文(しとり)神社にも祀られていますが、そこには出雲山という小高い赤土の山があり、蝮(まむし)の巣窟だということになっています。もちろん出雲大社の裏山は、今では八雲山といいますが、地元ではむしろ昔から蛇山で通っている山なのです。ご参考下さいますよう、よろしくお願いします。

⑦蛇足ですが、「出雲井神社」の宮司さんは、以前は「富」家という位の高い社家が受け持っていました。その富家の後継の人によると、出雲井神社の神は、出雲大社の裏手3kmの山中にある鵜峠(うど)銅山の坑道に封じ込められて、大岩で出口をふさがれて憤死したのだと言っていらっしゃいます。富といえば「トミ」=「蛇」なのです。社紋は亀甲紋の中に、何と交差した大根なのです。何を意味するのでしょうか・・・。出雲の熊野大社の神紋は亀甲の中に「大」とあります。大社の「大」と思っていますが、ひょっとして大根の「大」なのかもしてません。

 「森の岩松」こと、平 素人 | URL | 2008-11-14-Fri 22:25 [EDIT]
恩師どのぉ゛~> いずもへは「ご挨拶と中帰り」のつもりで帰ったのにぃ~~(^^!)
今は東北へわらじを脱いでます。どうぞ(興味尽きないお話)であっしを(いずも)へ引き止めないでおくんなせぇ。(笑)  師の博識についていけない部分がたくさんあります。出雲(御ブログ)へは、もっと時間をかけて長逗留したいと思っています。 おぼろ気で、まだ考えがまとまっていない部分が多くありますが・・・。
 ①出雲の大量の銅鐸と銅剣の埋納は、それまでの荒神・銅鐸文化を封印し、太陽主神・銅鏡文化への変換点にある。
 ②それに関連して、出雲竜(荒神が竜の姿で宿るための)=島根半島の封印もおこなった。 ちいさい範囲で「事」が完備しているのは、その後人口が増え(衆人挙りての祈祷)が難しくなり「代表でとか象徴的に」とかのコンパクト性が加わったかと?別事ながら当時の(先進国出雲)の文化が、(伝播→後から後追いへと) 例; 宍道湖・中海、かんなび4山→猿沢池、 島根半島竜→日ノ御碕~伊勢までの紀伊半島竜(これは逆に巨大化・笑)。出雲竜の尾っぽ?(ふつうは腹)から出たという、あめの叢雲の剣が伊勢文化へ移動している?のが面白いですねえ。
( 11/16・ 追 記 ) ≪岩割伝承≫から、
御神体はもっと固い場所かも? 石飛=龍飛(崎)か? 精査すれば飛来地が?
何れにしても、その<地質学的・隕石の痕跡>は必ず残っています♪ ご先祖様嘘つかない♪


「森の岩松」こと、平 素人 | URL | 2008-11-15-Sat 00:17 [EDIT]
 前コメントの!そのつづきです。(^^!) >
やはり出雲を考えるには、卑弥呼以前においても<広く大きく>考えたほうがいいと思っています。その範囲は、西の、三瓶山・神戸川~東の、伯耆大山・天神川までかと?。 たとへ部族はことなっていても(同一の荒神・雨乞い文化圏)かと? この人達は<島根半島巨大竜が>、その時の(今、東北でその痕跡を追ってます)大津波のなかを泳いでいるのを見ていますから。 その巨大竜は、<日御碕が口、地蔵埼がシッポです>  御ブログの勾玉は首! 四肢にあたる神社はどこか? そのヒスイの勾玉と同様な手口で<必ず>封印されています。
神社名、ほとんど覚えていません(汗)。後で御ブログの神社寺組合?で勉強します。
 ③御ブログにあった、そのガスはその時の大津波の打ち上げによる魚介類の腐泥ガスだと断言できます。<富中>トビナカと読むのなぜですか? 鳥の地名が多いのなぜですか?
 ④大根のお考え面白いです♪ (正月飾りで)、干し大根の×飾り、鰯の丸干し×飾り。これも御ブログで再度べんきょうを^^!
卑弥呼の墓・情報ありがとう御座います。後でゆっくり♪ 東北へ帰るエネルギーがぁ~、



[追記・12月13日~12月16日 ]  Dr.付言①~⑦への 総括コメントを挿入
 出雲竜の概略図

      【出雲竜の頭部】                     【足部】         【尾部】   
                                                        
       <卍?宮?>   猪の目                                  
 (口部)宇竜  ↑ 竜山                      (島根)?             
日御碕    鷺峠  ←_______約60km______枕木山___ → 地蔵崎
   八雲山  ↑ 弥山                             ムラクモノ剣?    
  <出雲大社>                          <松江>?            
          ↑(首部)
<命主神社>勾玉&銅戈
    原山遺跡   菱根池  出雲井神社                
  <富>家・墓地  (蛇池)   (賽の神)
     下照姫    赤牛    道案内       出雲山(小高い赤土の山)
       *→・・・・・・・・→ 伯耆一の宮(倭文(しとり)神社 ここにも下照姫が祀られている 

 
 以上、師の情報と、Mr.素人の思いを<図表化>してみました^^!。  以下、かならずしも師のお問い合わせに的確にお答えしていない部分や質問の意を取り違えていることがあろうかと思いますが、ひらにご容赦ください。

 ○出雲井神社(クナト神)に、なにか封印されているのでは?、とのお考えには、その根拠となる背景が、もっと々、おありのようですから、それを御ブログで勉強しなければなりません。 (クナト神)は、はじめて聞く言葉です。

 ○出雲井神社・道案内の件ですが、その道案内は、黄泉の国への道案内だと思います。これは仏教にもとづく考えですから、卑弥呼より後のことかも知れません。

 ○原山遺跡の石棺は、さらに後か?と考えます。 なぜなら、「オオクニヌシのヒメ神である下照姫、云々」は、<人物史>ととらえていて、わたしの無知の分野でもあります。 卑弥呼以前では、神を呼び寄せ「何かの媒体に乗り移す」考えはあっても「人=神」の考えはなかったとみています。その「何か」とは、土器・偶像や銅鐸であったり、人であったり、建家であったり、山(島根半島)であったり、と時代や地域によっても差異があったのではないでしょうか。

 <菱根池、蛇池、鉱泉>恐るべし!
これが、師のおっしゃる「出雲恐るべし!」の原点になっているような気がします。中学生諸君のために少しいい添えますが、<菱>は、池の底からつる草状に生えて、その実は、三菱の形にあるように痛いトゲをもっています。食べたことはありませんが食べられるそうですよ。その池には、腐泥ガスぷくぶくと! さらに蛇がうじゃうじゃ! おまけに、一皮?むく鉱泉があるわけですから、古代の人にとってもその場所は近寄りがたい“恐ろしい所”だったのでしょうね。 やっと解りました。「何故、その地に出雲大社が設営された必然性が!」 大社の設営は菱根池にあり!

池の底からはトゲトゲの実がなり、メタンガスの否な臭い。蛇がうじゃうじゃ!これは、わたしもテレビの映像で見たことがありますよ。南方の洞窟のなかで。 今日の日本ではそんな所は、見かけませんが、富栄養価が高い沼で食物連鎖の上にある蛇が大量に生息かと。その蛇の脱皮と、人の皮もむくアルカリ泉?の話。こわいですねぇ。 でも今では、蛇にとっては人間が天敵!人のほうが蛇より恐ろしい(笑)。これは進化の昔、人の祖先がネズミ類のときに蛇に食べられた潜在意識からの仕返しからだという学者さんがおられました。 

 ○ Dr.付言 ⑦ に、
【 「出雲井神社」の宮司さんは、以前は「富」家という位の高い社家が受け持っていました。・・云々・・。 富といえば「トミ」=「蛇」なのです。社紋は亀甲紋の中に、何と交差した大根なのです。何を意味するのでしょうか・・。出雲の熊野大社の神紋は亀甲の中に「大」とあります。大社の「大」と思っていますが、ひょっとして大根の「大」なのかもしてません。】 とあります。
 出雲市に「富中」と書いて<トビナカ>と読む地名があります。わたしは、これを変な地名だなぁ?と気になっていましたが、師とのやり取りのなかで、この<トビナカ>に重大な謎解きの鍵が潜んでいることに気付きました。それは後述のコメントに関連するので、そちらへ回すことにしましょう。^^! 次の<ひょっとして大根の「大」>も大変大きな謎解きになります。それに気付かせてくださった Dr.に感謝します。 さて、この二つをどのようにまとめましょうか? 後の Dr.コメントが待ってます(笑)。 この、シップのクルーに、クイズ好き?の方がいます。 その手法を借りて^^!  ヒント1.当初の図表と<赤字枠>二つ!  ヒント2.このブログ記事の全読破(汗~!)  ヒント3.亀さんペースで楽しみながら♪、 もちろん<じいさま>は、わたしに付き合って下さいますよねえ。(^-^)

『 社紋は亀甲紋の中に、何と交差した大根なのです。何を意味するのでしょうか・・。出雲の熊野大社の神紋は亀甲の中に「大」とあります。・・』
 さらに、チラッと見せ)をしますと『交差』の言葉ですが、これは、この記事での本論になりますので後まわしにします。^^!
 出雲に熊野大社? おもしろいですねえ。
出雲に熊野大社があるのは、はやくから知っていました。何故、出雲に熊野大社があるのか?とのつよい疑問をもっていました。師とのやり取りのなかで、その答が思い浮かびました。<その答を求めるには、今の私達がなにを成しているか!>に基づけばいいって! 例えば、地方(熊野)で、大きな会社があった。だが文化の発信地?の中央は東京(出雲)である。熊野から出雲に上京するには<日にち>がかかるし、外国(大陸)の最新情報も享受したい。そして毎年の10月(神無月)には次年度の方針(主に雨乞い)を決める会議(神議)がある。 出雲に支社(使者)を置いておくとなにかと便利。それが「出雲の熊野支社」(笑)。 全国(八百万の神)に影響力をもつ大会社は、一番遠い支社、(北は秋田県の岩崎。西は不明)が、新年の始まるまでに帰えれる往復の時間(2ヶ月足らず?)を考えて審議(祈祷)の開催日を決めてやらねばならない。12月(師走)の今頃、その支店長さん達(地方神を呼び寄せる術力をもつ御太夫さん)は、貴方の地へもう帰り着いたかな?(笑) 蛇足ながら、今、素人探偵が探求している話は、卑弥呼以前の(神代)の時代ですよ。念のため ^^! そして、この考えを追認して下さるには、今、考古学でいわれている当時の航海術と、歩行力と行動範囲、社会的基盤(インフラ)を大きく変えなければなりませんよ! それには秦の始皇帝が不老不死の薬を求めて、3000人の童男童女を引き連れて、東方列島へ使わした「徐福」を<伝説だ>といわず史実だととらえることから始めなければなりません。「徐福」のことを知ったのは、師のブログ(いずものこころ)!。 私は、そこで「ペリー来航」も比でないほどの大きなカルチャーショックを受けました。  ここ迄がDr.付言①~⑦迄の総括コメントです。12/13~16追記


shigechanizumo  | URL | 2008-11-15-Sat 09:31 [EDIT]
「御ブログにあった、そのガスはその時の大津波の打ち上げによる魚介類の腐泥ガスだと断言できます。」・・・すばらしい御明察です。ここからすると他のご見解もそのようではと・・・。実は、このガスは、「オモンバ」といって、大量に堆積した藻だということで、メタンガスなのです。ということは、ご指摘のように大津波で根こそぎはがれた海藻が菱根池(海につながっていました)に到達したと考えられ、しかもそれには大量の魚介類も混じっていたということになり、貴方の見解は正しいということになります。さて、荒神ですが、この原山には下照姫の乙見神社とは別に原の荒神さんという荒神が祀られています。この点からも、貴方の見解はさらに敷衍していただく価値があると考えます。どうか御検討を・・・。「鳥の地名が多いのなぜですか?」ということについても、確かに鳥(戸)屋、鳥屋尾、鳥谷、鳥井(居)、鳥島、鳥中など多くのものがありますが、私は、飛田、飛島、石飛、鳶巣(須)などと同類で、「トビ」=蛇を示すものだと考えています。ご検討の程を・・・。

[12月/17日、追記コメントを挿入] Ⅰ
腐泥ガス大半は海藻だったのですね。そう言われれば、近年の石油の値上がりで日本海沖で大量のホンダワラを養殖し、その腐泥ガスを石油の代用にする話がありました。その時の泥流波が何波まで押しよせたかは分かりませんが、出雲平野を東西に分ける「分水嶺」が大津町あたりですから、それより西は比較的浮遊物の堆積が多くなっていると思っています。大津町以東は段々と東へ行くにつれて砂礫粒が大きくなっているのかな? 海岸の砂浜を思いだして頂けれはいいですよ。
  力が水(津波)という媒体によって運ばれる時、物質はたいへん効率よく分別される。
  すなわち、砂礫→砂粒(大津町あたり?)→貝殻→海藻・浮泥(芥)?→魚→流木・等に、
 素人は、これを似たものは似たもの同志集まる『同似集合の原理・作用』と名付けています。

 御ブログにありましたように水田になる前の昔は、石ゴロゴロの荒れ地でしたよね。 わたしは、斐伊(ひい)川や、神戸(かんど)川の下流域に運ばれるのは<砂粒であって>決して石ゴロゴロでないと思っています。 だから、その石は「荒神さま(津波)が運んだ石」だから、ご先祖さまが恐れたのかとも!?
 鳥の名の付く地名たくさんありましたね(笑) 特に「鳥名」の付く地名は<西出雲>に多いですよね。 わたしは、Dr.のお話を伺っているうちに、それ等は、四千年前の大事変とは<別のもの>かと?思うようになりました。 これは後に回しましょう。(^^!)

shigechanizumo  | URL | 2008-11-15-Sat 10:17 [EDIT]
「(雨乞い文化圏)かと?」・・・。これもすばらしい御明察と見受けました。島根半島の出雲大社寄りの山塊には、雨乞いの山がいくつかあります。まず有名なのは楯縫郡の神奈備山である「大船山」。ここは、オオクニヌシの御子神であるアジスキタカヒコネの妻神であるアメノミカジキという女神が雨乞いを司っています。二神の間にはタギツヒコという子神がおり、旱魃でも水の絶えることのない滝の神とされています。次に有名なのは、出雲大社の東一キロほどにある弥山です。ここに雲がかかると雨になるといわれています。その周辺には、旱魃でも水の絶えることのない湧き井戸がたくさんあります。さらに驚くべきは、弥山の頂は500m近いところなのですが、たくさんの貝殻の化石が露出しています。「巨大竜は、<日御碕が口、地蔵埼がシッポです> 」・・・と指摘されますが、全くそのとおりで、竜は口から水を吐くと言いますが、この山塊にある水が絶えることのない滝や湧き井戸の原因は、竜が口に含んだ大量の水なのではないでしょうか。旱魃の時巨大竜の口から吹き出される水が慈雨となって降り注ぐのです。まさしく、八大竜王なのです。ご指摘のとおりと考えます。ご検討の程を・・・。

[12月/13日、追記コメントを挿入] Ⅱ
弥山の「弥」の漢字の意は知りませんが、その地域で「一番目」に位置する山かと。貝化石の件は、岡山県南にも<貝殻山>があり、雨乞いのためとはわかっていても、何故<山の上に貝を持ち込んだか?>と疑問をもう一つ重ねるとその意が解りません。 さらに、「大船山」の地名がこども心を揺さぶります。何故、山に船の名前が付いているのか? 類似名として、岡山県・津山、三重県・船山?(あとで確かめます。^^!) 四国の土佐には山名に<丸・シップ名>等、これらは、朝鮮文化からの影響と、雨水の輪廻からかな?と漠然と思ってはいますが、はっきりとした祖先の意が伝わって来ません。どうぞ師のお考えをお聞かせください。 いずれにしても、師の博識によって素人のこども心が具現化してゆくそんな楽しさを覚えます♪ 

 < 付 記 >
 4千年前の東北地方に端を発した巨大津波は、朝鮮半島は<元山、洪?^^!>に! 大陸では<天津や、北京の近くの竜因>にまで達したと推んでいます。これは津波の力が熱によるロスが無いことと、二つの地が超巨大な受けV字湾になっていること。「津波、川を上る」で、川が遠浅状になっている。ことに加えて祖先が<それらしい地名>を付けているという簡単な理由からです(笑)。 だから秦の始皇帝は、東方に神の異変をみて<徐福>を遣らしたとも思っています。

shigechanizumo  | URL | 2008-11-15-Sat 11:48 [EDIT]
「<雨乞い>のために隔離し育てた “幼児の人身供犠“」・・・これも御明察だと考えます。まさしく、タギツヒコがその象徴なのです。不思議なことに、大船山のタギツヒコは、アジスキタカヒコネとアメノミカジキという二神の間にできた由緒正しい神(オオクニヌシの孫神)なのに、その後の動向が全く不明なのです。おっしゃる如く「<雨乞い>のために隔離し育て」られ、まさしく出雲危急の大旱魃の時に、「人身供犠」にされたのではないでしょうか。よく、供犠にされたものは石になるとされていますが、実はこの大船山には『出雲国風土記』にも記載があるとおり、また今日も、大小多数の石神が祀られているのです。これら大小多数の石神こそ、旱魃のたびに人身供犠にされた幼児なのではないでしょうか。ご検討の程を・・・。

[12月/17日、追記コメントを挿入] Ⅲ
「よく、供犠にされたものは石になるとされていますが」 恐ろしい言葉ですね。全くそのとおりなのでしょう。 その石の数をかぞえれば<荒神谷遺跡の大量の銅剣数>に、一致するかと?チラッと思いましたが、墓石としての形を留めるのは、せいぜい100年余りで?、2000年は遠くておよばない。 だが祖先は、それを<塚>が付く地名として全国津々浦々に残しています。 その考えは、後の五百羅漢へと継承したのでしょうかぁ?



釣りじいさん  | URL | 2008-11-15-Sat 18:03 [EDIT]
shigechanizumoさんとのやりとりも面白い!!
世の中にはこれだけ知識をしっかり持って書き込める方もおられるんですね~・・・わしは・・・ただ読ませてもらって、にやにやしているだけですが。。。すんまへん!

釣りじいさま> コメントありがとうごぎいます♪
   平 素人 | URL | 2008-11-16-Sun 00:57 [EDIT]
「見ていてくれる♪」 と思っただけでも、活力の源になります。なにしろブログを始めるまでの20年間無視のされつづけでしたからね。スパムに近い広報活動のなか(いずもの師)が、はじめて応対して下さったうれしさは今でも忘れません。 でもね、師のブログは、一度入り込んだらまるで <歴史のジャングルを探検する様♪> なかなか抜け出られませんよう ・・、(^^!) 

くされ縁?  平 素人 | URL | 2008-11-16-Sun 01:27 [EDIT]
釣りじいさん・さん> つづきです。 
これで日本海方面への釣り行きに、たのしみが加わったでしょう? そのキスが潜む海に写った、朝日・夕日の光道は、卑弥呼に通じる道かと(^-^) 腐れ縁、腐れ縁!(笑) 今、外は大雨か゜降ってます。明日(あした)になれば晴れてくれればいいのですが・・、
 
shigechanizumo  | URL | 2008-11-17-Mon 09:36 [EDIT]
「石飛=龍飛(崎)か?」・・・これも御明察です。出雲には、「飛龍」さんという苗字まであるのです。飛ぶ龍・龍が飛ぶ、しかもそれらは日御碕・龍飛岬、因縁としか思えません。私は、アメノカカセオを彗星と考えました、もう一度「、「大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男の荒魂を封じ込めた石である」を考えてもらえないでしょうか。  
    http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/54017348.html

[12月/19日、追記コメントを挿入] Ⅳ
↑上記の御ブログ訪問してきましたが、ドクターの深淵をみるには、まだ々時間が必要です。 以下、師のお考えに対応したコメントにならないかとも思いますがご容赦ください。
「アメノカカセオを彗星だと考えます」 そのとおりの御明解だと思います。私はそれ等について、次のような、歴史ストーリー(前々記事の概略)を考えています。 
 1、四千年前、地球を半周した巨大(彗星)隕石が、東北地方に落下した。
   それによって発生した巨大津波は、列島各地に押しよせ大量の魚介類を恵みとして打 
   ちあげた。(津や福が関係する地名)
   舞いあげた粉塵と蒸気は、大雨(慈雨)となって降りそそぎ、隕石の冬を伴った。
 2、この大事変は、列島各地の人々に共通した恐怖をあたえ、被災(わざわい)と慈雨(恵
   み)とを併せ持つ<荒神・雷神・イカヅチ!>の考えが生まれた。
 3、稲作の発展とともに雨水の必要性が大きくなる。
 4、当初は、土器の破壊や小動物の捧げものから、「私達には、この稚児以上に大切なも
   のはありません。どうぞ荒神さま・水神さま、慈雨との交換を」 となる。
   【ここからあとが師へのコメントです】
 5、その「生け贄との交換文化」が永々とつづいていたある日に<伝承の彗星・アメノカカセオ=荒神>が、朝方夕方の地平線(金星の方角)に現れた。
その星は、段々と輝きを増し、やがて尾を引いた。それが全天に広がった時!人々は、「荒神の再来だ!荒神さまが怒ってござる!」と恐れおののいた。(卑弥呼)は、その星が巨大化すると予測しその難を逃れる祈祷をすると民衆に伝えた。 その彗星は東方より出でて西方へと沈む。卑弥呼は、その星が出でる東方の山頂に、剣を携えた<二武神>を従え 『 荒神よ!おとなしくし給え 』 と、祈り、舞い踊る。(かぐや姫の話にも似てますねぇ^^!) これが、謡い(うたい)や神楽(かぐら)や角力(すもう)のはじまりだ。 <祟り>という概念が浸透している社会において、その荒神と対峙(たいじ)するのであるから並の胆力ではもたない。 結果的に、この彗星はニアミス(退散)に終わり、卑弥呼はこの件で一躍有名になりカリスマ性を増した。
列島各地に残る、三上山、御上山、妙高、妙光、妙見山(信仰)、阿星(一番星信仰)は、その時の彗星に関係する地名だ! これ等の山名を東方に頂く地をさぐれば、その時、卑弥呼がどこに居たかが分かってくる。 出雲の神を舞う「備中神楽」の分布を調べれば卑弥呼文化の影響圏がみえてくる。 そして、約76年で周回するハレー彗星と70年で遷宮をする出雲大社本殿や伊勢神宮が近似値なのがおもしろいですね。 ( 以上、師のお考えを頂いてストーリーを仕立てあげました^^)
 石飛、飛龍、宿魂石の件は、後に回しましょう。


shigechanizumo  | URL | 2008-11-17-Mon 10:10 [EDIT]
さらに、お考えのための材料を・・・。スサノヲを祀る日本初の宮「須我神社」の一キロほど西に、「海潮温泉」があります。ここの温泉は濃い塩分を含んでいるところから、海潮というのです。海岸線からは数十キロ奥まった山中です。さらに、スサノヲの本拠地「須佐神社」の「ゆかり温泉」の近くには、海につながっているという池があり、そこからも濃い塩分を含んだ冷水が湧いているのです。ここも海岸線からは数十キロの距離があります。温泉学者の説によれば、地中のナトリュウム塩だというのですが納得いきません。私は、この二つの、前者は隕石の衝突による地裂・地溝帯の出現が海水を呼び込んだのであり、後者は、隕石が地下の深部に及んだため地下の深部の割れ目から日本海の海水が流れ込んでいると推測するのです。なぜ、スサノヲと温泉、そして山中の海水が関係付けられているのか。また、玉造温泉、湯の川温泉は、源泉が異常に地表に近く、絶えず湯煙が上がる場所です。日本に多い別府温泉などの火山性の温泉ではないのに、なぜに源泉がこれほど地表に近いのか。クレーターだとしか考えられないのです。いかがでしょうか・・・。

[12月/21日~12月/25日、追記コメントを挿入] Ⅴ
 師のお考えをまとめると
スサノヲの本拠地      「須佐神社」の      「ゆかり温泉」      Na塩泉
               雲南市大東町須賀  宍道湖から直線でおよそ10km
                             出雲中心から東、直線でおよそ24km
隕石が地下の深部に及んだため地下の深部の割れ目から日本海の海水が流れ込んでいる。

スサノヲを祀る日本初の宮  「須我神社」の      「海潮温泉」      Na塩泉
               出雲市佐田町宮内  日本海から直線でおよそ10km
                             出雲中心から南、直線でおよそ12km
隕石の衝突による地裂・地溝帯の出現が海水を呼び込んだ。
 さらに、この二つは火山性の温泉ではないのに源泉がこれほど地表に近いのは、クレーターだとしか考えられない。
 【 火山性ではないのに?海から直線で10kmの内陸の地表近くでNa塩の源泉がわく! 】
そうですよねえ。 云われてみれば不思議ですよねえ。 そんなこと今まで考えたことがありませんでした。 つぎは師への対応論としてではなく、多岐にある考え方の一論ということでお願いします。(^-^)
一つ目は、<温泉熱の供給源は?>
 ゆかり温泉から○km離れたところに三瓶山(さんべやま)火山、海潮(うしお)温泉から○km離れたところに伯耆大山があります。この地下にいまでも熱源があるとして、岩石の熱伝導率から、その地下を温泉にするだけの熱が伝わっているか否かが計算できないか?
さらに、別のてを? プレート同士がこすり合わせて熱が地表へ向けて上がるとき、或いはマントル熱が上昇するとき、岩石より熱を伝えやすい金属脈(鉱脈)を伝わって上がることが考えられる。 これって新しい考えかたかも~(笑) 1/4
二つ目は、<内陸なのにナトリウム塩?>
  塩があるのは海。 それがなぜ内陸に? この問題は、かつて、こどもの頃の大きな問題でした。欧州の岩塩、サハラ砂漠、ゴビ砂漠にまで塩があります。私は、これを6500万年前の南極に惑星単位の衝突があり、それで発生した大津波によって海水が運ばれたためだと結論づけました。<電子版報告書・巨大隕石と大津波> これは、にわかには信じがたいので中止します( 汗!)。 海水が津波によって内陸の盆地状のところに運ばれ、後の雨水によっても海に流れ出ることなくそこへ塩分だけが留まることがあります。 しかし、このふたつの温泉は神戸川(かんどかわ)や、斐伊川(ひいかわ)と赤川を数十キロもさかのぼって津波が運んだとも思えません。 こんな時「そこは昔は海だった!」と、かたづけてしまうのが今の学説(笑)。 ならば地溝帯から海水の侵入か? でも海潮温泉近くの標高は54m。ゆかり温泉近くの標高は○m。 富士五湖なんかは火山弾礫で地下水位がつながっている湖があるというから、そのても考えておきたい。 しかし、だれが何といおうとも須佐神社の<塩の井>では、日本海が満潮の時潮の花を吹くという現実がある!

三つ目は、<スサノヲと塩・温泉との関係>
 スサノヲと塩・温泉をむすびつけるお考えに敬服します。(→中学生諸君向けに)
塩の重要さを知らない現代っ子がほとんどですが、つい先だっての昭和代?(あとで調べます^^!)まで専売品として扱われ、戦前?までは食あたりの薬として使用されていました。塩には滅菌作用があるから傷口になすりつけた?(痛いのにねえー笑) 時代という時間を区切っての話は難しいのですが、弥生代以前においても塩水や塩分を生活にとりいれていたと思われます。塩と水は生活の必需品です。この塩と水の循環を考える、言い換えて<山に雨が降り、川となって海に至り、それが蒸発して、天に上り、再び地上に降りそそぐ> これ等を古代人が知り得ているのは明白の理。 このことを「雨乞い儀式」にとりいれた。

どんな儀式なのでしょうか。それ等の全て推み解いている分けではありませんが。
わたしは、護摩を焚くのを見たことがあります。コウラの中心にコップで塩を盛ります。そして、小さい割り木に、願い事と歳と名前を書きます。それをお太夫さんが、さきほどのコウラの上に積み上げ火を付け、お祈りをしながら一本一本燃やすのです。参拝者はそれに唱和します。 ことが終わると、懐に両手を入れ<イン>を結びます。このインは門外不出とか。そしてその後「エイッ!ヤッ!」と、神殿に向かって×印に<クジ?>をきります。 塩は?といえば崩れているかと思いきや、その形のまんまで固い「焼き塩」となっています。これを欠いて参拝者の各家庭にお下げ物といっしょに分け与えます。この塩は食あたりは勿論、その他諸々の病気に効くそうです。今ではそれは塩ではなくて「らくがん」に変わっていますよ(笑)。

わたしは、この護摩焚きに、古代雨乞いの原型をみています。お釜やコウラで海水を沸かし、「この海水が湯気になって天にのぼり、どうぞ雨に変わりませ」とお祈りをする。卑弥呼以前の神様は荒神さまで、以後は太陽神かな。潮水を煮詰めれば塩ができる。この塩は薬としてよく効いたでしょうね。
ひるがえって、『 なぜ、スサノヲと温泉、そして山中の海水が関係付けられているのか 』
キーワードは、「 荒ぶる(すさぶ)神、 温泉=熱い潮水、 そして、山中=源流(三瓶山火山) 」 これ等を関係づけた師の着眼点に敬服します。

スサノヲについて今少し、スサノヲは、イザナミ、イザナギの御子神で、姉がアマテラス大御神でしたかね? すみません間違っていたらごめんなさい。(この程度の知識もありません。汗!) わたしは、これ等を実在の人物だととらえています。 卑弥呼以前の神は、<天上(天井)におわす荒神>であり人物とはまったく乖離(かいり)している。それを何かの媒体に呼びよせ乗り移させる。出雲では究極的には、長さ60km、幅5kmの島根半島になっています。 卑弥呼は、その荒神彗星は、主神太陽が使わした竜であるとし、その変革をとなえた。 それ以後は、スサノヲと荒神、アマテラスと卑弥呼のように、神と人物がかぶる考えが生まれ現在にいたる。 弟は姉・卑弥呼の意(身代わり象徴物)に反して、従来の生け贄をともなう(乱暴な)雨乞いを主張する。だが幼児を生け贄にする雨乞に社会は嫌気がさしている。スサノヲは旗色悪く、その死後は当時の本拠地(出生地)出雲から離れたところ須我に追いやられ埋葬されたと考えるのは筆者のうがった考えでしょうか? その卑弥呼の死後太陽神にかわっても、欲しい雨は降るとはかぎらない。「やっぱり荒神さまは、生娘を欲しがっている」 と・・・、歴史は続いてゆく。
【 付 記 】
須佐神社の七不思議に、星滑(ほしなめら)という光る岩肌が須佐の中山にあるそうです。 それは、その時の彗星をあらわし、境内摂社の下方近くにある、雨壺(あまつぼ)という岩は、隕石の落下凹地を象徴しているとみています。
須我神社へ行くには、斐伊川の支流<赤川>を上っていかなければなりません。地図で見るだけなのですが、途中海潮温泉あたりは、山もせり出して川幅も狭く?古代の歩行では難しいようにみえます。尚、筆者は<赤川>の地名につよい興味をもっています。赤川は、師のブログで見たように鉄分によって赤いのか?それとも生け贄の血を流したから赤川と名付けをしたのかと。これ等から須我神社は隔離された場所かと推理しています。さらに「日本初の宮」にも興味を覚えます。「初」とは、人物を神としてみる考えの発祥地?かと。そして須我神社の上方に宮印が見えます。あってはならない所に御宮がある。わたしは、ここがスサノヲの埋葬地で、今ある須我神社は摂社(社務をつかさどる所)かと推理します。いわゆる社殿と本殿の関係かな^^! いずれにしても、そこへお参りして宮司さんの言葉を聞いてみたいものですね、

shigechanizumo  | URL | 2008-11-17-Mon 11:11 [EDIT]
更なる材料として、以前私のblogにも書きましたが、出雲大社のある場所は風水でいう「龍穴」に当たると、出雲国造千家統尊様が指摘されています。「龍穴」は、別な見方から「女陰」、「女陰」は別の見方からすればキサカイヒメが示すように「赤貝」、すなわち貴方の指摘される、「荒神=龍」=「荒神様は貝が好き♪」というのは、あながち「?(笑)」ではないように思われるのです。また、鮫龍の天敵は「貝」だという説もあります。中国の伝説の中に、巨大な貝に足を挟まれて、天に昇れなかった龍の話があります。アラフラ海の巨大貝のようなものに挟まれたのでしょうか。出雲全体が巨大な龍穴だったのではないか?・・・ご検討ください。松江藩主松平直政が、出雲大社のご神体を見たいといって無理やり本殿に入ったら、八穴の大アワビが、突然大蛇(龍)に変身したという記録も残っています。やはり、龍と巨貝は関係するのです。

[12月/26日、追記コメントを挿入] Ⅵ
これはあまり立ち入りたくない問題ですね(笑)。 というのは当ブログは、中学生子女をも対象にしているからです。それをいやらしいととるか、神事としてとるかは、そちらに委ねることに致しましょう。 師のお考えは大明解だと思います。それに続いて話をすすめます。 性の交わりを神事に重ね合わせる考えの発祥は、四千年前の巨大隕石にあります。 巨大隕石が男性で、それを受ける大地・凹地が女性。 山が男性で海や湖が女性。 これ等の考えは、昔の史記にあったかな? 今、各地で行われている祭りのなかに男女の交わりを象徴している行事があると気付かれた方もあろうかと思います。
中部地方以北で「石棒」という男性根に似た遺物が出土しています。 なぜ中部地方以北なのかを考えてみるのも面白いかも知れません。 さらに、山の名前のなかで一番多いという<茶臼山>もそのことと、雨乞いに関係した山ですよ。 その分布をマップ化すると雨乞い文化圏がよめるかも知れません。
正月が近くなりました。その正月前に餅をつくのはなぜ? おめでたい時の紅白のお餅なぜ?こども心には、この謎解きを始めるまで、その祖先の意が解りませんでした。 即ち、杵が男性で臼が女性。 白餅が精子色で紅色が月経色であることも。 子宝を願うのは古今東西みな同じ! 今、師の啓発でやっと分かりました。 なぜに出雲大社が<縁結びの神様>かと。 島根半島の形状は男性根にも似ています。 すると女性は海かな? 海には貝も生息していますしね.。さしずめ、龍が男性で巨貝は女性ってとこかな?(笑)


shigechanizumo  | URL | 2008-11-17-Mon 11:31 [EDIT]
もう一つ材料を・・・。アメフラシ(雨虎、雨降)、別名ウミウシは、貝殻を持たない軟体動物の一種だとされています。和布刈(メカリ)神事をする日御碕神社の海岸には、このアメフラシが大量発生するのです。「アメフラシの名前の由来は、海水中で紫色の液をだすとそれが雨雲がたちこめたように広がるからと言われる。また、雨の時に岩場に集まるからという説もある。」とされています。しかし、一番の特徴は、刺激すると角を出すことです。それを、牛の角と例えるか、龍の角と例えるか、私は龍の角と例えるのが妥当だと考えます。しかるに、またの別名に「タツナミガイ」というものがあるのです。こうしたことから、出雲でもある意味神聖な海の生物とされていますが、連想できるのは、アメ・雨・龍・貝、そして出現地が日御碕・・・どう考えれば・・・。

[12月/28日、追記コメントを挿入] Ⅶ
「和布刈(メカリ)神事をする日御碕神社の海岸には、このアメフラシが大量発生する」。 とても面白いですね。「メカリ神事」のこと御ブログにあったような気がしますから後で調べてみましょう。(その前に、その記事を捜しだすのが大変 ^^!) 祖先が生き物を神聖視化するものには、どんなものがあるのでしょう? 奈良の鹿、因幡の白ウサギ、鹿児島の丹頂鶴、北海道のクマ、その他、白ネズミ、白ヘビ、白キツネ、イノシシ、赤牛さん、等々。 これ等には北海道の熊を除いて共通点があります。
その共通点とは、目や頭が<赤い>ということと、体外に出た角や牙や<長いシッポ>を持っていることにあります。 これは、4008年前の夜空を飛んだ巨大隕石が <赤く尾をひいた>ことに起因しています。 師のブログに 「流星と、網目の赤いホオズキ」の写真がありました。 この赤く垂れ下がったホオヅキを横に向けるか下に向けるかにすれば、その時の巨大隕石に見えませんか? でないと、わたくし個人的には 「ホオヅキ祭り」 を神聖化する考えが生まれません。 さらに、貝塚時代の門歯の抜歯。 時代劇のお歯黒。 額をそり上げる月代(さかやき)等々、こども心には理解が出来ないことばかりでした。 この底流には頭骨が隕石で、体外に出ている角や歯や尾は、その飛翔を表していると推んでいます。 さらに々、花嫁さんの「角隠し」ってなぜ? あんなに可愛い花嫁さんが 「角」 持っているのかぁ~?(笑) 奥さんとか、おカミさんって云うのなぜぇ? ちなみに、我が家での妻と私の関係は?、尻に敷かている。そのふりをしている? これに付いては深く追求しないことに致しましょう。


shigechanizumo  | URL | 2008-11-17-Mon 14:29 [EDIT]
さらに材料を・・・。出雲では山の中を歩く時、ある時期になると、「トビョウ」がいるから気をつけろ、とよく言います。足元だけではなく、木の上からの危害も気をつけろということです。木の枝に巣を作った鳥の卵を狙って、蛇が木を登るのです。蛇はウロコを立てて進むのですから、木に登ることはできるのです。しかし、降りるとなるとウロコの歯止めが逆さですから降りられなくなるのです。そこで、どうするかというと、バサッと飛び降りるのです。蛇が空を飛ぶように見えるのです。「飛ぶヘビ」がなまって「トビョウ」というのです。従って足元ばかりを気をつけていると、突然、空中からヘビに襲われたようなことになるのです。ヘビが空中を飛ぶのなら、龍も空中を飛ぶことになるのですから、飛龍もいるだろうとなるのです。・・・少し次元が落ちましたが、いかがでしょうか・・・。

[12月/29日、追記コメントを挿入] Ⅷ   さて、ここからが保留(クイズ)にしておいた、

≪出雲大社の御神体は隕石か?≫に、思いをめぐらすことに致しましょう。
( 11/16・ 追 記 )で、その≪岩割伝承≫から、御神体はもっと固い場所かも? 石飛=龍飛(崎)か? 精査すれば飛来方向が? と掲げておきました。
師のお話に「出雲には、「飛龍」さんという苗字まである」がありました。私は、島根県の人で「石飛さん」という人に会ったことがあります。日本での名付けは、○○村の吾作どんというように、性に地名がつくことが多々あります。そのなかで石飛さんは異質ですよね。<石飛=隕石>。 石が飛んだから「 石飛!」、隕石というよりこのほうが直接的で分かりやすいと思いませんか? 飛龍さんは少し後の名前かも知れません。 先の須我神社・海潮温泉の近くに<飛石>という地名がありました。ここに「古代鉄歌謡館・ミューズエコー」があります。その歌がどんな歌か? そしてその傍らにある御宮の宮司さんにも、お話をうかがえば何かの手がかりが得られるかも知れない。
以前に、<富中>とびなかと読みます。が気になっていると申し上げました。師のお話を聞いているうちに、「富とび」のはじめは「飛び」であろうと気付きました。そして「中」ですが、これは中心の中! そして「「出雲井神社」の宮司さんは、以前は「富」家という位の高い社家が受け持っていました。云々」がありました。位が高いということは重要性が高いということ。 私はこのふたつから出雲大社の御神体はこの辺りに落下した可能性大ではないかと思っています。
出雲大社には八百万の神々が集まるという神話があります。たとえそれが神話であろうとなかろうと、他の地にはそのような神話がありますか?と質問したい。 さらに、出雲の大社町では望楼?とされるスギの大木の根っこが発掘されています。 そのような並々ならぬ歴史を持つ出雲大社が、その辺の路傍の石を御神体にするでしょうか? それは衆知が認めるとんでもない石でなければならない。

その時が何時かは特定出来ないが、<その時を想像すると>、
○○時、出雲の地に隕石シャワー?があった。 人々恐れおののき出雲おそるべし!
その中にウラン鉱を?含むものがあった。 隕石が金属を含むものには鉄が大多数であるが、中には、高温極重圧で生成するダイヤモンドを含むものがあるから、それが放射性物質ではないと完全には否定出来ない。 それに近寄れば体調を崩すし髪の毛も抜けたかも知れない。 「荒神さまの御神体だ!分身だ!」 それやこれやで大社の御神体に! しかし、それを確かめることが出来るチャンスがあるのは、60年後の本殿遷宮(せんぐう)の時であるのがつらい。クルーの皆さんへ、以上、Dr.のお考えに付けたした部分は、素人の全くの想像ですからね。念のため(笑)  つづきます。

<出雲大社の御神体(隕石)の落下地を絞り込め!>
 ①先ず、「 飛石、富中(とびなか)、石神 」等の、隕石に関係した地名を<国土地理院・電子版、Yahoo!地図>等で捜しだし分布図を作成する。
 ②次に、それ等に関係した姓名の分布を電話帳で捜しだす。(電話帳は図書館にあります)
このふたつで、かなりその候補地が浮き上がってくるはずです。(分布色の一番濃いところ)
 ③三つ目、それに関係した名前や由来の社寺を捜しだす。
これは、素人探偵がつよく言っておきたいことですが、「現存する社寺」以外に、その御神体・隕石の落下地はありません! (もし、これを疑う貴方がいたら、このゲームには参加されないほうが・・・、笑) 祖先は、その<場所>を、冒すべからざる生誕の地等の類似語で、必ず遺しているはずですから。 この時、その言葉や言い回し、表現の違いに惑わされてはいけませんよ。(飛石=隕石=竜神=石神さま、等はいっしょですからね) そして、こういったことには、「おれが本家だ!おれが元祖だ!」という場合がなきにしもあらずですから、ご注意を^^!
 ④ 師のお言葉で、『1.遷宮の際にご神体が仮殿に移されるのですが、異常に重いこと。2.次の遷宮(60年後)までの間に、分厚いご本殿の床板が異様にたるむこと。4.丹波などに残るオオクニヌシの岩裂伝承(大きな岩を砕いて沼の水を抜くこと)』がありました。
これから、その御神体の大きさ・重さを想像すると200kg以下、100kg程度かな?? 建築基準法で床の抜けない強度は平方m当たり200kgと聞いたことがあります。 他事ながら、ピアノを置く場合の床は補強しておかないとね。 
 ⑤その隕石の落下・衝撃痕の大きさは?、『岩裂伝承(大きな岩を砕いて沼の水を抜くこと)』から想像すると、池でなくて「沼」ですから差し渡し15m以下かな??


 読者の皆さん、[ ビッグゲームへの御参加を!]
以上を御参考に、その落下地を捜索してみませんか?  こっから先は実行あるのみ!! 
おっと!大切なことを忘れていました。その沼の形は必ず<円形>ですよ(^-^)♪ そして、その沼?が発見かったらその沼底が熱的変化、即ち熔けてはいないか? さらに顕微鏡単位のSiO2・酸化ケイ素の捜索も致しましょう。 でないと地質学者は、それと認めてくれませんからね。(笑)


shigechanizumo  | URL | 2008-11-17-Mon 16:02 [EDIT]
今回最後の材料です。どのようにお考えかご教示いただけたら幸いです。問題は、龍と玉の関係です。私は、出雲の龍は、命主神社のヒスイの勾玉に封印されたと考えたいと思います。様々な絵画や、彫刻に龍と玉が一緒になっているものがあります。しかし、通俗的な関係ではなく、出雲特有の考えを述べたいと思います。龍は玉に入り(吸い込まれ)、凝縮されて固形化されたと考えるのです。従って、出雲のヒスイの勾玉には、龍の命(魂)が潜んでいるのです。そのヒスイの薄緑の透けた色は、龍の肌の色の象徴なのです。では、そのヒスイがなぜ銅戈とセットなのか。「戈」は、動物(人も含む)の首を掻く武器なのです。ヒスイに封印された龍が抜け出そうとすると、この銅戈が龍の首を掻くのです。鮫龍は金属を嫌うというのも、そうしたことからです。中国には、斬蛇伝説がいくつもあります。太刀で前をふさぐ大蛇をヅタヅタに切り刻んだ者は、王になれる(なる)というものです。出雲の龍は、ヒスイの大勾玉に押し込まれ、銅戈で、その復活をふさがれ、さらに命主神社の大岩の下に、そのヒスイの大勾玉と銅戈はセットにされて埋められたのです。おっしゃるように、それは、銅鐸から銅鏡へのチェンジの一端であったのかもしれません。しかし、私は、いつの時代にかはヒスイの大玉から出雲の龍が抜け出して、大きな時代の変化をもたらすのではないかと思っています。すべての封印が解かれ、時代が動き出すのです。そのためにも、貴方のような探索をしておく必要を、ヒシヒシと感じるのです。これからの探求を心から、いや出雲龍に代わって願っております。長々と、出雲に引き止めて申し訳ありませんでした。

[12月/日31、追記コメントを挿入] Ⅸ
Dr.とのやりとりも、この記事で一番重要な部分になってきました。いちどふり返って読み直してみましたが、自分でも何書いてんだか分からないところがあったりして。 このような駄文にお付きあい頂いてありがとう御座います。 Dr.のブログ初頭写真にあり、出雲大社の東側にある命主神社の大岩の下から銅戈と共に出土したヒスイの大勾玉には列島の歴史が凝縮されているように思います。次のDr.へのコメントⅩと、いっしょにして自分の思いを述べたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

平 素人  | URL | 2008-11-18-Tue 00:23 [EDIT]
shigechanizumoさん> こんばんわ♪ コメントありがとう御座います。 
師が、こんなに長いコメントを下さるなんて、その長さだけ当ブログを!と思うと・・「感激」に耐えることが出来ません。改めてお礼をいいます。 それに全てお答えできるか、又ピント外れや、にわか返事にも、ご容赦を頂いて筆を進めたいと思います。

   と、思って筆をとったのですが、あまりにも衝撃が大きく筆が進みません。
   別の記事(カテゴリー出雲地方、2)をたちあげますので少しお時間をください。
 衝撃その① 「銅カ」が首を掻く武器だと知ったこと!
       予想が的中し、それが具現してゆく、恐ろしさでいっぱいです。
 衝撃その② 出雲大社のご神体が、氏の予想のように放射能を発する隕石では?
       そして、「石飛さん」等の地名・姓名の分布からと、「岩割伝承」等の氏の知見をプ
       ラスすれば、その落下地が絞り込めること。
*申し訳ないだなんて、師の仰ることばではありません。氏が動いて下さらなければ、世界史が動くまでに後30年はかかるかも知れません。  ねえ○○さぁん♪共に長生きしましょうね。ボケないで(笑)  カテゴlリ<出雲地方1>のコメントを、上の「極秘報告書」のポチもどうぞ!

shigechanizumo  | URL | 2008-11-18-Tue 15:38 [EDIT]
誤字脱字があったので再度掲載します。ごめんなさい。・・・最後の最後です。勾玉のあの形状は何から来ているのか。一説によれば、腎臓だという人がいます。古代人は心臓よりも腎臓の方が神聖だというのです。そして、その、ソラマメのような形に魂が宿ると述べられるのです。もう一つの有力な説は、人間の胎児の形だというのです。妊婦のお腹の中で丸まっている胎児の形を模したものだとされるのです。しかし、これらの説には納得できません。なんといっても、聖や畏れの本質に全く迫っていないからです。腎臓を見て畏敬の念を感じるでしょうか、胎児の形を見て、確かに神聖さを感じることはあるかもしれませんが、何かもっと超越的な、おののくような畏れを感じるのでしょうか。私は、龍の形、それもヒスイに凝固(封印)された龍の形ではないかと考えるのです。話が軽くなるのですが、勾玉はタツノオトシゴに似ているのではないでしょうか。また、玉というものは表面に水滴を発生させます。水晶玉もそうです。そこから、降雨、祈雨につながると言うことが昔からいわれています。龍-玉-祈雨となれば一連のつながりとなります。また、ヒスイの原石は日本では原石の原産地こそ糸魚川周辺ですが、そこの原石を割って加工したものではなく、割れた原石が糸魚川から日本海にたどり着き、そこの海岸に打ち上げられたり、海底から採集されたものを加工したものです。水底の宝とされてこそヒスイなのです。では、平さんが指摘される出雲龍=島根半島(頭が日御碕、尻尾が美保関)は何なのでしょうか。私は出雲大社のヒスイの大勾玉に凝固(封印)された出雲龍の抜け殻ではないかと思っています。巨大な出雲龍は、新しい祭儀の登場によってヒスイの大勾玉に凝固(封印)されたのですが、その巨大な形状は島根半島となって残されたのではないでしょうか。ということは、ヒスイの大勾玉を封印し続けることこそ、新しい祭儀をもたらした卑弥呼の役割だったといわなければならないのです。ご参考までに・・・。次はありません。期待しています。

[12月/31日、追記コメントを挿入] Ⅹ
Dr.へのコメントⅨと、Ⅹをいっしょにして、この記事の末尾でむすびたいと思いますのでよろしくお願い致します。




Mr.シャーロック ホームレス(和訳:降岩 放浪人)
               | URL | 2008-11-19-Wed 23:42 [EDIT]
Dr.(いずも)さま> 数々の興味深いコメントありがとう御座います♪
お問い合わせの件♪、少しの間?(ちょっと長くなるかも知れませんがぁ~笑)お時間をいただけませんか。東北の記事は、佳境にはいってます。 こちらが卑弥呼へつながる源です。どうぞ<出雲地方・2>を立ち上げるまで、こちら東北でも楽しんで下されば幸いです。(^-^)


一太郎        | URL | 2008-11-20-Thu 01:35 [EDIT]
   すばらしいやりとりで、立ち入る隙もありません。
    真実を知りたい。包み隠されたものでない事実を!
    それを追い求めている平素人さんに、(拍手)

大事なお知らせが!   平 素人 | URL | 2008-11-20-Thu 20:48 [EDIT]
一太郎さん> ありがとう御座います♪
大事なお知らせがあります。ぜひカテゴリー<出雲地方・1>のコメント欄のほうへ飛んでみてください。^^! 

  <記事出雲地方・1の、コメント欄より>
shigechanizumo  | URL | 2008-11-18-Tue 17:22 [EDIT]
種明かし。私が突如として、非力を承知で上腕周り45センチの腕をキーボードに向け、部下の怪訝そうな目線もいとわず迷惑なほどの投稿を今日までしたのは、氏の「皆さんも一度、神社・ご先祖様に頭をたれて『現代科学という、そのスス』をお祓いして貰えば?」という文章にいたく感動したからです。平さんこそ、その言を使う資格があると思っています。私も、今まで人から首をかしげられないために、まともを装って物を書いてきましたが、平さんに非科学をぶつけることによって何かを産んでくださると思うようになりました。私の中に膨大に堆積しているトンデモ話を、これからも少しづつぶつけますのでよろしくお願いします。


Mr.シャーロック ホームレス(和訳:降岩 放浪人)  | URL | 2008-11-18-Tue 22:54 [EDIT]
 Dr.(ワトソン)と呼んでいいですかぁ?
師を Dr.(いずも)と呼んでいいですかぁ♪ 私は20年ドクターワトソンと呼べる人を探し続けてきました。 私には少年心(こどもごころ)はあっても知識は中学生並。 この、≪大事変≫を世に伝えるにはドクターワトソンが必要でした。 やっとそのお人がという感じが致します。(ただしOKをもらえればね) 昨日の師の行動はわたしが観てもじんじょうではない。仕事前の8:58分に毎日の記事がUPができるほどの知見の持ち主。 日曜祭日は必ず休み。 このん年間、判を押したよう。でもねただ一度だけ特権つかって時間内に(笑)。 コメントは短く。 文章は2分間で400字?がうてる頭の廻転の速さ。 清張氏の愚弄呼ばわりでは毅然と!。(カッコよかったですぅ♪)その氏が・・・!、(それほど迄に・・・、と思うとうれしくて目頭が・)

Mr.シャーロック ホームレス(和訳:降岩 放浪人)  | URL | 2008-11-19-Wed 00:16 [EDIT]
 わたしがイメージしていた師の姿は、体重75~79kg 身長178cm、顔はヤマモトカンサイさんふう、髪はオールバックで白髪まじり。 でもね、上腕45cmは想像もつかなかった。 これについて絶対返事しないでくださいね! でないとシャーロックホームズが、「わたしの名をかたるなぁ!」 って、怒ってくるから(笑)  [自己紹介です?]・んで、 わたしのほうは、「あんな大論を書くお人がぁ゛~幻滅うぅ~!」 です。(^^!) バガボンのパパ似かな?ぼそり!
只今のわたしを支え応援して下さる方は、6人(+α人)います。お二人はコメントを! あとの4人は、ドリフ・カトちゃんのずんどこ節♪「電信柱の影」で、私を(笑)みまもって?くれてます♪ この方たちを(6人のクルー)と位置づけています。 ことが成ってからチヤホヤされるのは、私も嫌いです。 今、出雲の銅カと、ご神体の落下地を発見出来るのは、師しかいません! 世紀を変えるトップびきは貴方です。 お互いが得意とすることを出し合い、その8つ目の海に出帆しませんか♪  (まえの記述に3時間かかったスローペースの亀さんより)^^!

shigechanizumo  | URL | 2008-11-19-Wed 09:18 [EDIT]
 漕ぎ出しましょう。宇宙という八つ目の海に向かって・・・。


 ♪緊急の告知です♪
Mr.シャーロック ホームレス(和訳:降岩 放浪人)  | URL | 2008-11-19-Wed 21:32 [EDIT]
sigechanizumoさん> コメントありがとう御座います。 八つ目の海:グッドネーミング♪
さっそくの御快諾ありがとう御座います。今後略して師のことを<Dr.>と呼ばせて貰います。私を支えて下さっている釣りじいさん・さんは<じいさま>、一太郎さんは、桃太郎、浦島太郎も含めて<たろさん>はいかが? そして6人+?の<クルー>のかたは? もしよければ御自分の愛称をつけて名乗り出てください。^^! 私はMr.で結構です♪ 船の名は<竜神丸>英訳:Ship of Dragon 通称<シップ>。 役割はいままでとおり。但しこの船の<航跡>を後世に伝えることを約束してください。 Dr.が命名してくださった、<八つ目>の宇海・うみへ!♪(註;宇は、宇宙の宇であり全てを鵜呑みにした大津波の宇でもあります) それには約1700年の、眠りに就いている船<出雲半島・巨大竜>を縛り付けている錨<銅カ>を上げることから始めねばなりません。さらに「大量の銅剣」も要るかも知れない。 皆さんには、もう一度コメントも含めてmyブログ読破して欲しい。^^!
私はその間にやり残している<東北での仕事>を・・・!(汗~!) 以上提案します。 2008 11/19  (^-^)♪

一太郎  | URL | 2008-11-23-Sun 01:40 [EDIT]
 いいですよ。 同行させてください。
航海楽しみだな。            < た ろ >

平 素人  | URL | 2008-11-23-Sun 04:07 [EDIT]
わ~ぃ♪ ももたろさん+うらしまさん+きんたろさんがプラスされた<たろさん>が、いっしょだぁ~♪ こころつよいよ~!
( こども心と、あそび心 )を乗せて、しゅっぱぁ~つ!


クルーへ、「推理実話」をつくりましょう♪
史実探偵: 平 素人 | URL | 2008-12-04-Thu 21:39 [EDIT]
 これは、ロマンでもなければ、夢でもない。 その史実の解明へ向けて、 『21世紀発・(宇宙という八つ目の海)』 へ、
その(シップ≫は、出雲半島で1700年の眠りに就いている。 さあ、来たれクルー(同士)よ!
錨を上げて、帆を張れ! 銅剣を携え、ドラを鳴らせ! ともに、その(宇海)へ出帆だぁ~~! 
このやりとりは、歴史に残る! それが史実だけに コナンドイルさん、どころじゃあないよ。
以後、クルーのコメントも関係すれば、より面白くするために(素人の独断で^^!)、随時入れさせて頂きますので、どうぞ御了解のうえでのコメントを^^!。ご異論や、ご要望があれば、かえって「この物語」をもりあげる。 不備があれば訂正すればいい。 よりよい<推理実話>をつくりあげるために!どうぞよろしくです(^-^)♪



< Dr.~!>大変長らくお待たせしました。^^!
以後、この記事をさかのぼって、緑の色字で [○月/○日、追記コメントを挿入」 として、私見を入れたいと思っています。 読みにくいとは思いますが、どうぞよろしくお願い致します。 (2008 12/11)




釣りじいさん | URL | 2008-12-11-Thu 11:59 [EDIT]
にゃははは~! へいへい、「じいさま」でやんすよ~。
巨ギスの住むと言う(?)八つ目の海を目指して、シップでの航海、わしも乗り込みやしょうかね~。老人と海にならんように祈りながら、Dr.さん、たろうさん、Mr.さん、よろしくで~す・・・って、一体どうなるんじゃろうかね~、楽しみ、楽しみ♪

Mr.平 素人  | URL | 2008-12-11-Thu 19:53 [EDIT]
じいさま> コメントありがとうございます。このコメントも記事に入れさせていただきます♪。 この企画(遊び心と、少年心があって)気に入ってもらえるでしょう? 記事一辺倒では、おもくて愉しくないですからね。 その楽しみ方を教えて下さったのが<じいさま>ですから(^-^)。 責任とっていただきます!

 オオッ!!!   shigechanizumo  | URL | 2008-12-13-Sat 17:30 [EDIT]
13日付けの内容は、すばらしい出来です。次を楽しみにしています。「大社の設営は菱根池にあり!」、私も秘かにそのように・・・。付け加えれば、菱根池の北山側には、「本郷・菱根遺跡」があり、これは縄文・弥生と続いた遺跡です。
 参考までに、PDFを添付します。
       http://www.taisha.jp/files/20050311175237arakizeniki.pdf


Mr.平 素人  | URL | 2008-12-13-Sat 22:08 [EDIT]
Dr.(いずも)さん> コメントありがとう御座います。(^-^)
ドクターに、最高の褒め言葉をいただくなんて!と思うとうれしくて、々・・・♪
・・・でしょう!?。 少年期に受けた<思いって>こころの奥底にふかく刻まれていますものね。 わたし素人も、当時「科学だといってることが『何かおかしい?』 今では、それが高じて「今にみてろよ」(笑) 師と組めばそれが、できそうな気がします。 参考の<PDF>あとで調べてみます(人差し指2本でボチボチと・・・、汗~!)
 そうでしたか本郷には、遺跡がありましたか。祖先からの伝言として「本・中・元・古・小・子・源」等がつく地名には、その発祥地?として注視しています。

一太郎 | URL | 2008-12-14-Sun 07:48 [EDIT]
 研究も佳境に向かっていますね。          (拍手)

Mr.平 素人  | URL | 2008-12-15-Mon 06:21 [EDIT]
一太郎(たろ)さん> コメントありがとう御座います♪
ハイ! 楽しみにしてください。 それがXmasプレゼントになればいいのですが ^^!

一太郎  | URL | 2008-12-21-Sun 07:22 [EDIT]
どんどん推理が深まっていきます。 謎も解かれ、また謎を呼びと・・
迷宮に入り込みながらも、あきらめないで追い求める。 平素人名探偵さんに、 拍手

Mr.平 素人  | URL | 2008-12-21-Sun 14:51 [EDIT]


一太郎さ~ん> コメントありがとうございます♪
「名探偵」だなんてぇ~・・・汗!、 そんなほめことば、はじめてです♪
ほんとにその気になっちゃいますよう。 迷探偵にならないようにがんばりま~す(^-^)♪


龍眼   shigechanizumo | URL | 2008-12-22-Mon 16:36 [EDIT]
私が不思議に思うのは、「龍」というその「龍」は日本列島の龍だろうか、あるいは中国大陸・朝鮮半島の龍だろうか、それとも南海生まれの龍だろうかということです。そもそも出雲に封印された龍は、出雲産の龍なのか、それとも外地から出雲にやって来た龍なのかということです。鷺銅山や鵜峠銅山と並んで、同じ山塊に鰐淵銅山があるのですが、ここには出雲修験の本山みたいな鰐淵寺があるのです。しかも、推古天皇の「龍眼をいやした」ことから勅願寺となり、推古天皇が女帝であったことから、子年女性の守り本尊として祀られる。といういわくもあるのです。鰐は龍と結びつきます。推理の程よろしくお願いします。

鰐と龍   shigechanizumo | URL | 2008-12-22-Mon 16:56 [EDIT]
中国の伝説上の動物、竜のイメージの原型は、絶滅したマチカネワニではないかという説もあるそうです。・・・『ワニ学者の青木良輔は、竜の起源は、古代に長江や漢水に実在したワニの一種(マチカネワニ)であり、寒冷化により絶滅した後、伝説化したものだと主張している』・・・。ご参考までに。

マチカネリュウ   shigechanizumo | URL | 2008-12-22-Mon 17:11 [EDIT]
 URLを紹介します。
 http://www.museum.osaka-u.ac.jp/valuable_specimen/sample0012.html


 Mr.平 素人  | URL | 2008-12-22-Mon 22:37 [EDIT]
Dr.> コメントありがとうございます♪
 まず始めに、師が掲げられた問題に、知識がなくてついていけなかったり、興味をひかれ道草したりして、コメント記事が遅々としていることをお詫びいたします。(^^!)
「龍と鰐」のお話、とてもおもしろいですね。 わたしも始めは、龍は中国伝来のものとばかり思っていましたが、祖先の「地名という伝言」を受け取るにあたって、絵に描かれている龍は、日本の考えが逆輸入されたものと思うようになりました。(ちなみに、地名で竜とあれば古い地名で、龍と書けばその後の地名かと? あるいは外来の語句(今では英語化)がかっこいいから竜から龍に変えたかと)

【 その構図を簡単に描きますと 】
 四千年前、北海道・東北地方の空を飛んだ<赤い巨大隕石>を祖先は「リュウ」と命名した。
 東北発の大津波は、すでに相当な文明を蓄積していた大陸に甚大な被害をもたらした。
 中国は東方の海洋に、その大地震や大津波をもたらした神がおわすと思った。

そういう歴史的下地があったからこそ、秦の始皇帝は徐福に3000人の童男童女を連れさせ、神が住むという東方列島へ「不老不死」の薬草をとりにやらせた。(たとえ何代かかろうとも必ず持って帰れってか?笑) こっから先は、師のおとくい分野!(笑) その列島の人達は「リュウ」が空から降りてきて、地震や津波や曇天(隕石の冬→類似語、核の冬→粉塵による地球規模の気温降下)をもたらしたという。その「リュウ」は?と聞けば、赤い頭をして尾は細長く、その咆哮は天地に轟き、八方に飛び散ったという。 もとより中国も地鳴りや大津波を同様に経験している。 絵を描くのは中国が得意。八方に散った角 生やし、赤い火の玉握らせて!。こんなものか?と「マチカネワニ」♪。(こっから先は、そのセンセ!)

いかに大陸の文化が優れていようとも、その文化の全てが一方通行で入ってきたとは思えない。その隕石の<赤>を基調とする鳥居や建物は、日本古来のものであり、大陸や、遠くヨーロッパへも渡った唐草模様・アスベスク模様は、日本発の 「緑なす大津波」 だと思いたい。 だから、欧州人が、その震源地・神秘の国ジパングへ操り出したのだとも! ちょっと唐草模様の大風呂敷を広げてみました。(笑)

絶賛  shigechanizumo  | URL | 2008-12-24-Wed 14:42 [EDIT]
「中国は東方の海洋に、その大地震や大津波をもたらした神がおわすと思った。」・・・中華思想を打ち破るすばらしい発想です。絶賛!!!中国の人は、すでにその時代に、・・・「日本列島は、地球を覆っている十数枚のプレートのうち4枚のプレートの衝突部にあって、世界的にも活発なサブダクションゾーンのフロントに位置している。」ことを薄々知っていた!


 Mr.平 素人  | URL | 2008-12-24-Wed 20:40 [EDIT]
Dr.ったらぁ~> ほめすぎ、ほめすぎ♪
わたしは、四千年前の大事変を中国の人や韓国・朝鮮、ひいては世界の人達と共に解明できたらいいなと思っています。( 追記;学問に国境はありませんからね♪)
六千年・八千年ともいえる歴史をのこす中国なのに 「中国四千年の歴史」 と、なぜいうのか? こども心には合点がいきません。

謎  shigechanizumo  | URL | 2008-12-25-Thu 17:35 [EDIT]
私は、中国大陸はあっても中国という国はなかったと思うのです。日本列島にある程度均一的に暮らしていた人達から見れば、海南島あたりの人、揚子江河口の人、黄河河口の人などを比べると顔かたちは似ていても彼らの文化的な基底・内容の違いにとても驚いていたのではないでしょうか。とすれば、中国・中国と一まとめにすると、とても間違った見方をしてしまうことがあるように思っています。私は、中国大陸と日本列島とは平らさんが考えるように、海・水つながりで考えると分かりやすいと思っています。従って、平さんが日本で起こった大津波によって中国が東の海の方向に覚醒されたという考え方を高く評価するのです。日本への騎馬民族の影響などほんの1500年前あたりの近い過去の出来事に過ぎません、従って、平らさんの時間的な設定、すなわち4000年前の大事変・出来事を中心とした考察に期待しているのです。


 Mr.平 素人  | URL | 2008-12-25-Thu 21:46 [EDIT]
Dr.いずもさん> コメントありがとうございます♪
お褒めのお言葉に恐縮しています。 Dr.のブログ広しといえど、このような絶賛のお言葉みたことがありません。 そのようなお方がそれ程までにと思うと感謝のこころで身が縮むおもいが致します。 師と組めばなにか大きなことがやれそうな気がしています。 世界史においてはBC2001年、日本史においては銅鐸文化が銅鏡文化にかわる時が大きな節目。(それしか知らない^^!)    そうですよねえ。中国は他民族国家。 せんだって兵馬俑の朝日記事がありましたが、あれってどっち向きですか? 東を向いていたら面白いですねえ。 どっち向いていたってかまわないのに、なぜ東向きにってことになるから・・・??

期待  shigechanizumo  | URL | 2008-12-29-Mon 17:09 [EDIT]
平さん、来年は期待してます。平さんによる、驚愕の超古代史が展開されますよう・・・。

 Mr.平 素人  | URL | 2008-12-29-Mon 20:29 [EDIT]
Dr.izumoさん> コメントありがとう御座います♪
Dr.が、この{シップ>に乗船してくださって、夢が夢でなくロマンがロマンでない、志が具現化してゆく喜びがあります♪。 その八つ目の海の先には八代竜王がしくんだ七難八苦が待ちかまえている予感がします。Dr.& クルーの皆さん!来年も、どうぞよろしくお願いいたします。
Dr.は、明日から4日までお休みですね。ありがとう御座いました。どうぞ御ゆっくり充電なさってください。 クルーの皆さんも♪(^-^)♪



< 結 び >
Dr.izumo 氏>への コメント Ⅸと Ⅹです。 年が変わり2009年1月1日になりました。
 表題<出雲の巨大竜を縛り付けている「銅戈」を捜せ!>の結びです。

出雲の祖先には島根半島が、四千年前の東北地方へ降臨した巨大隕石によって発生した巨大津波に乗って西進しているように見えた。 (カテゴリー出雲地方1を参照して下さい)  
以来、祖先は島根半島を竜神が宿る島として崇(あが)めるようになった。その後、列島には、禍や慈雨を成すのは、荒神さまである竜であるとの考えが生まれ定着し、稲作の発達から慈雨を願い幼児の人身供犠へとエスカレートした。その文化が永々と続いていたある日に、禍をなすという彗星が現れた。ヒミコは云った。「やがてあの星は全天を覆うだろう。私がその難をのがれるお祈りをしてあげる」と! 結果的にその星はニアミスにおわり人々おおいに安堵した。卑弥呼は荒神は太陽の使者・従神だと称え、それまでに使っていた銅鐸や銅剣を集めて封印し、代わりに太陽神の象徴である銅鏡を与えて、それまでの人身供犠を止めさせようとした。 (詳細は前の記事を参照して下さい) 

それに続いて、銅戈によって<島根半島・出雲竜>を縛り付け動かさないようにしたか? というのが今回の謎解きです。 師の御質問に 「平さんが指摘される出雲龍=島根半島(頭が日御碕、尻尾が美保関)は何なのでしょうか」 とありますが、<日御碕を有する山塊が頭部で、美保関より東の地蔵さき(土へん)までが尻尾>だと御理解ください。不適切な表現をお詫びいたします。つづきは師への対応論としてではなく、併記論としてお受取り下されば幸いです。
<ヒスイの勾玉(まがたま)について>
列島でのヒスイの産出は、唯一糸魚川水系のみとされてきましたが、年が明けたから去年に九州でも産出することが発見されました。その論は、横に置いて。古代人がヒスイに持つ感情は師のおっしゃるとおりなのでしょう。 ヒスイの持つ神秘性については、師のブログのコメント欄にもありましたが、こんな話もあります。 中国でのとある土産物店での話です。ヒスイには熱や病をすいとる働きがあって首飾りにし、肌に当てておくと病が退散するというのです。中国には、ヒスイにかぎらず色々な宝石を身につけておくとそれぞれの効力がある考えがあるとも聞きました。 つぎに彼女のとった行動は信じがたいものでした。それを実証しましょうといって、その印材に自分の髪の毛を抜いて巻き付けて。あなたの持っているライターで火をつけろというのです。燃えると思いきや燃えませんでした。その現実を受け入れがたい自分があります。 皆さんもどうぞ確かめてみて下さい。(^-^) (註; ヒスイの産出をネットで調べると、鳥取県若桜、兵庫県大屋、岡山県大佐、長崎県長崎市三重、北海道でも産出とありました)

品質については、御ブログの写真にあるようなものが最高級なようで、とても手が出る値段ではありません。 わたしは、その少しくすんだ煙入りのものより鮮やかなグリーンが好きだというと、他のお土産品を買ってくれたから「あなたにプレゼントする」といって頂きました♪ ヒスイの靱性はダイヤモンドより強靱で、印刻には難儀をしたと聞きました。わたしは、とても気に入って今でも愛用しています。

つぎ、勾玉の形です
勾玉は何故あのような曲がった形をしているのでしょう? その必然性が考えられない。少年心には理解しがたいものでした。 これから述べることは歴史無知の素人の論だとご容赦してお聞き下さい。 勾玉の前身は、動物の牙や角に穴をあけて首飾りにしたようです。 何故首飾りに? 突き刺さると痛いのにねぇ(笑) 念願の勾玉の首飾り買ったが、さて、その尖った先の部分を内側に向けるか、外側に向けるか? こども心に、装飾の意味なら、何もそんな形でなくて球体でも水滴形でもいいんではないのか?と思いました。牙から石へと変わってきたとはいえその形を造るにはより多くの時間と技術の蓄積を必要とする。 前述のように強靱で磨きや穴をあけるのにはより硬いものが必要となる。ちなみに、ヒスイの硬度は6、5~7、一般的にある石英は7、 ダイヤは10。

それでは、何故牙を首飾りに
それは、縄文代にさかのぼり、四千年前の巨大隕石の落下衝突の瞬間の形に起因していると筆者はみています。すなわち、人の頭部が隕石(この場合の人は行者・お太夫さん)で、飛び散る土石や水滴が勾玉の形です。 だから<跳ね上がり>の部分は外側に向けて首にかけて下さい。(笑)  カッパの頭部のお皿も、隕石の落下の瞬間を模したものですよ! 他には、大湯の環状列石、ストンサークル等もこの類似形です。 出雲の御神体の落下地の池は、周囲が円形で、その跳ね上がり形を示す似たような大きさの石を並べていたら確定的♪

さて、つぎからが師からお受けしている課題です。
 師のお言葉で、『 龍は玉に入り(吸い込まれ)、凝縮されて固形化されたと考えるのです。従って、出雲のヒスイの勾玉には、龍の命(魂)が潜んでいるのです。そのヒスイの薄緑の透けた色は、龍の肌の色の象徴なのです 』

師のお言葉とは、多少のニュアンスは違いますが、あたっていると思います。 この竜神雨乞いの歴史は「卑弥呼」以前と、以後では少し変わっているように思います。 つまり持論をまとめると、卑弥呼以前での島根半島の役割は、荒神・竜神を呼び寄せる媒体。 卑弥呼以後での島根半島は、生命を持ってくる男性根の意がそれに加わったかと? 中学生子女には(吸い込まれる)は、ちょっと刺激的ですが、海や大地がその受け皿かな。 ヒスイについてお詳しい師へ論をはさむ余地はありませんが、ヒスイには、中国や日本、そして中米でも水性・慈雨への思いがあったと受け取っています。
一方、龍がその鋭い爪に握っている<火の玉>は、赤く輝いて空を飛んだ巨大隕石を象徴したものだと謎解きしました。 そして、お稲荷さんの白キツネが持っている火の玉も同類です。白い色は、隕石の冬によって大雪となった白と受け取っています。 さらに、竜ではなくて龍と書けば、中国からの逆輸入で、分かりやすく例えれば「日本が発注者で中国が画家♪」  私は、このような場合中国の史家に「聞けばいいのに」と思います。 その龍は東南西北どちらから来たのかと? 何故「東・トン」を一番先にいういうのかも!西洋ではN・北が先。^^? ついでに卑弥呼の円墳で云われている「歩」の単位についても! 師のブログファンに中国の人がいましたよね?^^!

<出雲のヒスイ製の大勾玉>
わたしは、出雲の大勾玉の大きさや、銅かといっしょに幾つ出土したのかを知りません。「大」がつくからには一般のものに比べると大きいのでしょう。 又、その色相についても師が述べられているように色々な意味合いがあるのでしょう。 色相の好みは人それぞれですが、この勾玉についていえば、中国の影響をつよく受けていると思います。 何故このように言うかというと、その深みがある青い色に白い雲が入っているものは、先に紹介した(青島大学付属の)土産物店で見た最高級のものに似ていたからです。 これは素人の個人的考えですが、宝石をつけて身を飾るのは、人がもつ自己顕示欲と権威付けの象徴的役割からだと思います。卑弥呼以前から縄文代の列島人の考えは、荒神の下において人々は平等であり自己顕示を必要とする社会性はなかったと見ています。 石器・縄文代の宝石に対する考えは、美しい物への憧れはあっても、それによって顕示付けの考えはなく、それが芽生えたのは、列島各地を薬草・薬石を求めて探索したという<除福の大集団>の影響かなと推理します。

 <除福について>
わたしが除福のことを知ったのは師のブログが初めてです。歴史の時間いねむりでもしていたのでしょうか(^^!) わたしはその時、身も震うほどのカルチャーショックを受けました。 除福という人物にではなくて、徐福が引き連れてきたという3000人の童男童女にです。話半分という言葉がありますが、その半分の1500人にしてもすごい数です。しかもそれが卑弥呼よりも○○百年前の弥生式生活を営んでいた列島にです。未だ卑弥呼の代すら解明出来ていない?その時の中国には、すでに3000人の人を海を越えて送り出す社会的基盤が出来上がっていたということです。徐福を送り出した皇帝は、秦(しん)の始皇帝です。 不老不死の薬草・薬石を持ち帰えれと東方の島へ使わしたようです。英知に長けていた徐福が願い出たという説もあります。(徐福のことに興味が湧いてきたお人は、ヤフーブログ・いずものこころへ飛んで見てください。わくわくドキドキしたのを覚えています。ちょっと師のことを宣伝してみました。^^!)

通常は 「三千人を引き連れて」 と云えばいいところをなぜ童男童女がつくのでしょうか?
中国語で童男童女といったとき、どの年齢をさすのか知りませんが、壮年という言葉もありますから、幼いというイメージはぬぐえません。おそらく日本でいう少年少女なのでしょう。今の私達にすれば「そんな少年少女やって大丈夫かぁ」という疑問がわいてきます。往復に時間がかかるから? それ等に習熟させてだせばいい? このように肯定的にとらえるとそこで終わり。 3000人の衣食をまかなうことに加えて、「不老不死の薬草・薬石を求めて」という専門的条件が加わるのですから、徐福には相当な指導力と多岐なる教育力が要求される。 これもOK♪とするか(笑)。 では「童女」を連れるのはなぜ? ほんの3・4百年の北米大陸の移民のときでさえ婦女子をつれての航海は難儀したという。 男尊女卑のこの時代、これで生まれたのがレディファースト。 にもかかわらず、童女を連れて行かせたのは「たとえ何代かかろうとも必ず不老不死の薬を持って帰れ」という、始皇帝の強い権力が働いている。
 

もとより不老不死の薬などあろうはずもなく、徐福にとっては片道切符。 圧倒的優位をもつ3000人が列島各地に分散して探索する。 年月がたちその人達同士で夫婦になったり、現地(日本人)を妻にめとるものも出てくる。 ということは、その人達が定住して日本の薬石を中国へ送るという交流があったと考えることが出来る。その人達がもつ造船、航海術、鉱石、冶金、その他が列島に及ぼし影響は計り知れない。 富山の方だったかな<秦さん>という名字のお方がおられましたよね、Dr♪ でもね、食文化と信仰文化だけは、なかなか同化しない側面をもっています。蛇足ながら、最近岡山県・総社市でも「秦」の地名があるのを知りました。 祖先が地名をつけるとき<一番の関心事>で、周囲が同調し、地域が追認しないかぎり地名としては定着しません。そして、一度つけた地名はなかなか変えられない側面をもっています。変えれば 「あんたの云う山ってどこよ?」ってなりますからね。^^! ちょっと深入りしそうな話をもとにもどして(^^!)

<勾玉の形>
勾玉の形は、「腎臓、胎児の形、あるいはタツノオトシゴ」。 それはそれであたっていると思います。 なぜならそれ等をいうお人は、わたし素人のように直感的に、それと言っているとは思えず、何かの論拠があってのことで、それは地域的差異や、時間的差異かなと思います。 しかしながら 「事のはじまりは、隕石の跳ね返り形」 でしょうね。^^!

勾玉は首につけるもの! 祖先は、その「命主神社」のある場所を巨大龍の首部とみている!
その大勾玉は、出雲巨大龍のために別注したものだ! ならば、それ一カ所ひとつだけかぁ?

勾玉ひとつだけぶら下げて、ハイ首飾り♪ これではちょっと淋しいですよね(笑) それは、この記事の主題である<出雲龍・島根半島を縛り付けている銅かを捜せ!>と、いっしょにして考えることにします。 さきに保留しておいた(クイズ)のヒント二つを持ってきましょう。

 出雲竜の概略図
      【出雲竜の頭部】                     【足部】         【尾部】   
                                                        
       <卍?宮?>   猪の目                                  
 (口部)宇竜  ↑ 竜山
                      (島根)?             
日御碕    鵜峠  ←_______約60km______枕木山___ → 地蔵崎
   八雲山  ↑ 弥山                             ムラクモノ剣?

  <出雲大社>                         <松江>?
          ↑(首部)
 <命主神社>勾玉&銅戈                 

 Dr.付言 ⑦ に、
→【 「出雲井神社」の宮司さんは、以前は「富」家という位の高い社家が受け持っていました。・・云々・・。 富といえば「トミ」=「蛇」なのです。社紋は亀甲紋の中に、何と交差した大根なのです。何を意味するのでしょうか・・。出雲の熊野大社の神紋は亀甲の中に「大」とあります。大社の「大」と思っていますが、ひょっとして大根の「大」なのかもしてません。】 とあります。

【 答 その1. 】 大勾玉は、3カ所に埋めてあります。
もうお気付きと思いますが、その3カ所は、命主(  )神社と、鵜峠(うど)と、日本海側の神社(  )。お寺の可能性もありますが、仏教以前のことですから御宮さんの方にしておきましょう。 埋めかたは命主神社と同じ! 大岩の下! 大岩ってどの程度の大きさですかぁ? あまり大きいと金属探知機が・・・、
で? それだけでしょうかぁ? 勾玉って首飾りでしたよねえ。 それだけだと、玉がバラけっちゃう!^^! 紐をとおさないとねえ。 何使いましょうか? ちょっと太いが大社のしめ縄使いましょうかぁ。(笑) あの垂れ下がりって、三つでしたか? 二つでしたか? あとで師のブログ写真で調べてみましょう。 三つだったら大正解♪
正月に、<(しめと読みます→)〆飾り>をつかいます。 縛り付けると、締め付けるとでは、ニュアンスが違います。 ご先祖さまは、巨大竜の首っ玉、縛り付け〆付けて大人しくさせようとでも思ったのでしょうかぁ? 横綱は腰ですよね。その他正月に頂いた「煮染め・にしめ」も関係あるのかなあ?

【 答 その2. 】 銅戈は、5カ所に埋めてあります。
上記の3カ所に加えて<松江あたり>と、日本海側にある<島根>かな? この5カ所で大の字が書けます?! 松江あたりはちょっと難しいですが境内の<大岩>が目印♪
これについては、Dr.付言⑦の、『大社の大は、ひょっとして大根の「大」なのかもしてません』が、おおきなヒントになりました。<ひょっとしなくても大根の「大」>だと気付きました。(Dr.に感謝・拍手♪) 出雲竜は大の字に寝そべっていたのか、伏せていたのかは知りませんが、とりあえず5カ所を押さえとこかと?  そして、『出雲井神社の社紋は、亀甲紋の中に、何と交差した大根なのです』とあります。 出雲の中海には<大根島>という島があります。少年心には変な地名だなあと思っていました。大根ではなくて牡丹の栽培で有名でしたか? <根が生えたように動かない>動かさないための大根です。交差の意味は、さきほどの「〆」と同じ意味ですよね。出雲熊野大社の神紋の亀甲の中に「大」は、大の字に締め付けるでしょうね。 時代劇で罪人を縛り付ける特異な縄のくくり方は、これを表しているのでしょうか。荒ぶる悪しき心をしばりつける。<この×印し>については、当ブログの「卑弥呼が埋めさせた大量の銅鐸と銅剣」で述べていますが、その銅鐸や、銅剣を差し込む部分にも刻印されています。

【 答; その確認! 】
この記事の文頭に、 『 長野県埋蔵文化財センターは、中野市の柳沢遺跡で先月中旬に「銅戈」(どう か)2本が出土したのに続いて、新たに 「銅鐸」(どうたく)の破片2点と「銅戈」5本が出土したとして、』  がありました。
この件に関しての詳細を知り得ていないのですが、「銅戈2本と、銅戈5本銅鐸2片」とが離れた場所から出土したと受け取って話を進めます。 <なぜ2本と、5本なのか?> 2本の方は分かりませんが、5本の方は、荒神を封印するために出雲で5カ所とした数に準じたのではと疑っています。 銅鐸2片の方は、銅鐸から銅鏡へ変わるにつけ、それへの祟り感がうすれたことと、2片を残すことによって、「荒神さま!貴方の帰る所はありません。どうぞ、あきらめてお引き取りください!」 ってかぁ(笑) それを1片や、まったく無くしてしまったのでは、荒神さまがひょっとして見失ったり、どこやらへ間違って取りついては困るからね。 「ご先祖さまよぅ~。貴方の恐れる荒神さまって、その程度のモンかぁ?」 ゴメン言葉が過ぎました。^^! 残りは、ちゃっかり(銅鏡造りの)鋼材へ! 鋼材へのリサイクルは、他の地でもありましたよね。

つづいて「大」の字についてです。
もう、筆者が何を言おうとしているか、お分りかとは存じますが蛇足的につけ加えておきましょう。 この 「大」 の字に関係した行事に、奈良市の 高円山(まどかやま)で行われる<大文字焼き>があります。 ネットで調べるとその他の地でもたくさんあるようです。 「高円山」の、「円山」については、さきにあげた茶臼山の数より多かったかな? またまた 反れそうな話を 「よーそろう。 おもかじいっぱ~い」(笑)もとにもどして! つまり、<大の字の端々の4カ所と、その交わる点の1カ所を加えた5カ所で、出雲の巨大竜は押さえ付けられている!> 京都では「焼く」という言葉を嫌って「五山の送り火」というそうです。この文化の広がりは多い。 
その根源は出雲にあり! その後の出雲では四つの神奈備山(かんなびやま→頂上が円山)と、その要である<茶臼山>へと変遷している。 ( 西行きの左大文字・島根半島竜蛇が、東向いて・右大文字としてお帰りになる!) そうでしたよね、Dr.♪  こっから先の政教分離(国譲り神話)について知りたいお方は、Yahoo!ブログ(いずものこころ)の方へどうぞ♪(^-^)♪

 ( あ と が き )
< 出雲の巨大竜を縛り付けている銅戈を捜せ!>これは、<izumo の Dr.>の啓発と導きがなければ成し得なかったことであり、気付かずじまいで終わるところでした。 深く感謝をいたします。 また、<じいさま、たろうさん・6人+α人のクルーの方達>の参加・閲覧は、おおきな励ましでもあり活力にもなりました。 深くお礼をいいます。 なにしろ20年このかた「だれも相手にして」くれなかったものですからね。(笑) 出雲の銅戈と大勾玉は必ず 「大の字」 に埋められています。 しかしながら、“その錨をあげて八つ目の海へ漕ぎ出す”  には、この先、世論を喚起し、行政を動かし、専門家に気付いてもらうという幾多の困難が待ちかまえています。 あとは、Dr.が、これをどのように取り上げて下さるか、上腕周り45cmの腕のみせどころ♪ つぎに「古事記の序記」を、わたくし流にあげて、史実探偵:平 素人の “job No1” を終えます。 遅々駄文に付きあって下さってありがとう御座いました。(^-^)♪

『 朕の聞いている、諸家がもっている帝記(皇譜系)や物語伝承は、正実に違(たがい)、多くの虚偽が加えられている。 今の時に当たりて、その失(誤り)を改めずば、この先、幾年も経たないうちに“その旨”が滅びるであろう。“このこと”は、国家(歴史)の根幹であり、天皇・天皇家(貴方の私の)任(つとめ)である。あれこれとある帝記を選録し、旧辞を討究して、偽りを削り、実(まこと)を定めて、後の世に伝えたいと欲(おも)う。』 

 長いあいだ遅々駄文に付きあって下さってありがとう御座います。ただいま仮想メモリが少なくなって思案中です。コメントはOKかも?(^-^)♪
拍手をありがとう御座います(^^) 只今までで(‘10 5/21)8拍になりました。
驚愕の(島根半島)出雲竜!・Ⅰ
           <驚愕の(島根半島)出雲竜!・Ⅰ>
      つぎに揚げるのは、拙・電子出版 極秘報告書「巨大隕石と大津波」の
   第一章<巨塊衝突・祖先からの伝言>の “おおまとめ” を軸に、前作同様<Dr.izumo氏のコメント>と、{♪シップのクルー>のコメントを揚げて、この記事をつくりあげています。

【 八つ目の宇宙という海へ(Dr.命名・略して宇海へ)漕ぎ出す新しいクルーを募集 】 しています♪
特に、次代を担う中学生の皆さんの参加も希望します。 あなた達が社会を動かす時代にならないと世界はうごかないかと・?(笑) 関係ないCMも大歓迎ですよ♪ そのほうが臨場感が増すからね。 但し、先々、本になるやも知れませんので著作権委譲等の了解もされたうえでのご投稿を! といって、何も尻込みなさることはありませんよ。 当方の{論}なんか間違いだらけ(^^!)ですから。 コメントは、例によって素人の独断と偏見でもって掲載させていただきます。 但し、ピンクさんと広告やさんにはご遠慮願うかも~(^-^)♪ 今までどおり電信柱のかげで見守り応援して下さるも好し、ニックネームをつけて名乗りでられるもよし。わたしは、コメントを残されて、何時の日か 「爺ちゃん婆ちゃんは、父さん母さんは、あの大業に参加したんよ♪」と、こども達、孫たちに言えるほうがいいと思いますが? みなさんもこちらが声かけた時は知らんぷりで、<事が成ってから> チヤホヤしたりされたりするのはきらいですよね(^-^)。
     さあて、ひきつづき、遅々駄文のお付きあいをお願いできますかぁ?( ^^!)♪

  <序 記>  “ 竜は隕石、竜は神 ”
竜は隕石、竜は神、その頭は大きく、火となり、大津波を呼び起こし、地表を洗い流す。粉塵を舞いあげ、天を覆いかくす。火山や地震、大雨や大洪水を欲しいままにし、生け贄を強要する。 同胞よ、心しよう。自分の心に宿っている欲望という引力に心せよ。際限なく肥大化する欲望を分配し、均衡を保持しよう。しかし、欲望は捨てずほどほどに持とう。宝を捜せ、鍵は足元にある。謎解きは簡単な事例で、引力と磁力でもって考えよ。引力は創生を、磁力は刷新を司る。天は極大であり、人心は極小である。宇宙の具象は相似形にある。考えることも宇宙なのだ。あるがままをあるがままに考えよう。あたりまえには始元の理(ことわり)が潜んでいる。
力を蓄え、防壁を海岸にめぐらし、高地に遷都せよ。そして、寒さに強い食料の開発を怠るな。食料は腹八分にして常に確保し来たるべき異変に備えよう。大事変は内にあると思うな。人間は賢い。自滅は例外である。ノストラダムスは、巨大隕石のことを光りの反対なるものと表現している。多くの先人達は、このことを知っていたのだ。祖先のメッセージに耳を傾け非科学といわず未科学と言え。百年前も、二百年前も、いつの世も今の科学を最高だと言ってきた。
お題目を問い(たずね)、宇宙の真理を考えよう。釈迦もキリストも、その他の聖人たちも真理に気付かれ、それを説かれている。子供たちには、言い換えて子孫には、いかに生きたいと思っていたかを伝えればいい。いつの頃から預言者を予言者と呼び、伝道所を教会と呼ぶようになったのであろうか。こうしたものを話されるに、それを文字として残さなかったのはなぜだ? その時代には、文字も絵文字も象形文字も無かったとは思えない。文書の方がより多くの人に、より正確に伝わると思うが?? 釈迦もキリストも“教典・聖書”を残してはいない。
わたしが大切なようにあなたが大切なのだ。私たちは、共存している。たとえ、それが「人類に仇なす細菌」であってもだ。ばい菌も生きるための活動をしている。誰でも人から尊ばれるのは嬉しい。それは他人が決めることであって自分が決めることではない。自分がそう思った瞬間から堕落が始まっている。
 ・・・が、祖先が、種族が、国が、人類が、『他より、偉い』と思ったときから崩壊が始まる。
与え続けると無くなってしまい、求め続けると動けなくなる。五分五分にするか。四分六にするか、それとも欲張って九分一にするか。考えながら迷いながら、自分が喜び他人も喜ぶ。あの時々に、この時に、この配分を探しながら問(たずね)ながら・・・。 give and take(^-^)♪
            註; ソ連崩壊前の1990年頃の記です。 ( 第一章 祖先からの伝言より )

 < 第一章 祖先からの伝言【おおまとめ】 より > (注;加筆・修正も含めて書き込みます)
紀元前2001年、今から4009年前の年末。 全天を覆ったその巨大彗星は、イースター島の白昼の空から侵入し、地上絵を遺すナスカ。 そして、クリスマスイブとなったヨーロッパの24日の夜空を経由し、日本時間 12月25日未明の東北地方に光臨した。 欧州では、その巨塊が赤く輝いたことから、赤い服のサンタクロースへと変身し、日本では、その飛翔音が 「リュ~」と尾を引いたことから、その巨塊を<リュウ→竜>と命名した。 この大事変は慈雨を誘い、その津波は列島各地に、瑞穂の打ちあげや、魚介類の恵みをもたらした。 瑞穂、千種、大草、草津、大津。 津波の戻り水として、垂水、篠津。 そして<戸>のつく地名は、「ここ迄この高さ迄、津波が押しよせました」 という<津波際の記念碑だ!> これ等の類似名をあげればきりがない。 代表地として、三重県・津市の地名をあげておきましょう。 ここには<垂水、神戸、嬉野>の津波地名の<三点セット>がそろっています。 見たこともない程の大量の魚介類が打ちあげられれば誰だって嬉しいよね。(^-^)♪  拙・報告書では、あなたのお住みになっている町の、その地名の記述があるかも知れませんよ。^^!

<一方で、その衝撃は、巨大地震を発生させる!>
内陸部の琵琶湖においてでさえ、その西端の石山寺へ怒濤の津波高45m級?を発生させる程の巨大地震だ。( 祖先からの伝言パート1 参照 ) その衝撃は、今でいう、マグニチュード7、0や、8、0でないのは言うまでもない。 それによる直接的な粉塵の舞い上げや、火山活動の活発化で、より多くの粉塵が舞い上がり豪雨をともない、稲妻がはしり、太陽光をさえぎり、やがて地球規模で気温が下がってくる。 この現象を“隕石の冬”という。

『 人類が、衣食住だけの生活から、“巨大隕石” という自然の驚異を受け、それが神となって人々の心に入り込んだ時、それは、驚異的・爆発的な力となって、それを語り継ぐ難しい語彙(ごい・ことば)が、困難に打ち勝つ抵抗力が、そして、新しい文化と集団性が生まれてくる 』
  ( 祖先からの伝言パート2 より ) 

一太郎 | URL | 2009-01-20-Tue 04:43 [EDIT]
語りが、表現が、文学の境地になってきました
楽しみながら読ませてもらいますね
(・・||||rパンパンッ

Mr.平 素人 | URL | 2009-01-20-Tue 08:04 [EDIT]
<一太郎さん>に、そんなほめ方をされると、とても嬉しいです♪ 幾ら書き込んでもうまく書けない。 書いてるときはそれなりに高揚して書いているのですが、期間をおいた後で読み返してみると、「つまらないとか、大したことではないな」と感じることがほとんどです。 自分がそうなのだから人様は、なおさら・・! 中で『人類が、衣食住だけの生活から、云々』の文章は、制作に一ヶ月はついやしたかな。 苦労をしたかいがありました。(笑) こんごともどうぞよろしく(^^!)

わしは・・・今。   釣りじいさん | URL | 2009-01-20-Tue 20:51 [EDIT]
「隕石の冬」ね~。
わしも・・・キスちゃんの季節に向けて、
受験生と隕石の冬状態でやんす・・・。
早く解放されて、隕石探しの旅に出てみたい!!

Mr.平 素人 | URL | 2009-01-20-Tue 22:07 [EDIT]
釣りじいさま> 只今訪問してきましたよ♪ ですねぇ~(熱い思いは内に秘めて^^)
ひとまずごくろうさま。 外は寒いしぃ、はやく花咲く春がこないかなぁ~、ぶつぶつ^^!
ところで、当地の小学校、インフルエンザで2学級の閉鎖!こんなこと初めてです。


オオッ!!!   shigechanizumo | URL | 2009-01-10-Sat 15:43 [EDIT]
私の昨年のドサクサ紛れのコメントによくここまで応えて下さいました。新年早々感謝いたします。Mr.平様の想像力をお借りするために、来週は更なるコメントの渦を寄せたいと思いますので、よろしくお願いします。船出は始まったばかりですから・・・。


竜と銅   shigechanizumo | URL |2009-01-10-Sat 16:12 [EDIT]
来週を待たずに第一弾です。島根半島は隆起半島だとされています。隆起したことを示すのが、島根半島の各所に検出される地層の褶曲です。また褶曲に伴った断層のズレが、たくさんの洞窟(猪目洞窟もそのひとつ)を生み出しています。また隆起の際に、岩盤を粉々に砕く圧力が下方部から加わったために、島根半島の山々は破砕された岩石で成り立っています。別名破砕山脈とも言われています。そのために、落石崩落が多く、地合、牛の首といった地域からは海岸線に沿った道路さえも作れないのです。その隆起によって、本来地下深くにあったグリーンタフが生成した鉱脈が銅鉱脈などとなって地上付近に突出したともされています。この銅鉱脈が風雪の浸食によって露出し、自然銅となり、島根半島のいたるところに出現していたとされています。鷺銅山、鵜峠銅山などは、露出した自然銅を採り尽くした後、地下の坑道へと掘り進んだものとされています。その自然銅の純度は99%にもなり、そうした自然銅がゴロゴロしていて、美保関あたりでは小牛の胴体ぐらいの自然銅も見つかったそうです。竜を金属に例えれば銅鉱脈が似合うのではないでしょうか。現実に鷺銅山の山は、地元では古来より「竜」あるいは、「竜山」と呼ばれています。それにしても、日本海海域で他に島根半島のような隆起半島は見かけられません。なぜ、島根半島の部分だけが隆起したのか、しかも標高500m近くまで隆起したのです。また、約65kmにも及ぶ半島でありながら、幅は数キロという細長い半島なのです。どんな力が働いて、島根半島などという特異な半島が形成されたのか、Mr.平様の想像力を借りたいと思います。


<銅について>   註;以下は、素人の私見です。(1/24挿入)
 銅のことを屑鉄業界では「赤・アカ」と呼びます。一般的に大量に扱う「鉄」と区別して、他の金属の、鉛や真鍮(しんちゅう)、電線やお鍋等のアルミ製品を「色もの」といいます。鉄の白色に対して、銅線の赤い色から「アカ」と呼ぶのでしょう。

          銅(アカ)の思い出 (祖先からの伝言パート1より)
             悲しさを知らないと、優しさは生まれない。
           ひもじさを知らないと、ありがたいとは思わない。
  今では、あり余るほどある甘いものも、戦後の子供たちには、充分でなかった。
              電灯も、一軒に一つか二つしかない。
         一つを二つに、二つを三つにするのが、望みであった。
            望みがかなった家に、電気屋さんはやってくる。
                  子供たちは、わくわくする。
       配線工事後の屑線を拾えるからだ。これを売れば、お金になる。
             あめ玉一円、あんパン十円の時代である。
       銅は “アカ”といって、よい値で買ってくれる。鉄の十倍はしたかな。
      おじさんたちは、その全てを拾わない。子供たちに残しておいてくれる。
               一握りの屑線が、三円・五円である。
これでは、十円コッペや、十円キャラメルは買えない。(カバヤ、グリコ、森永は20円?^^!)
         貯めておこう。 しかし、これがアオ(緑)く、錆びることがある。
               有毒の”緑青・ろくしょう”に変わるのだ。
        これを売った手で、あんパンをつまみ、キャラメルを頬張る。
               後で、腹がキリキリ痛む、下痢をする。
         その時には、このせいだとはわからなかったものでした。


 今においても銅は鉄に比べると稀少である。しかも、その扱いには注意を要する。銅の精錬(瀬戸内海・日比精錬所)で、島のすべての緑を枯らしたこともある。太古(縄文・弥生)の人達でも、これは同じだ。 (以上が、パート1からの引用です)
つづきます。
筆者は、銅の精錬・鋳造の歴史をまったく知らない。 しかし、ごく近代でさえそうだったのだから、その扱いを熟知していない太古の時代には「職業病」という危険をともない、それが銅製器に恐れを抱くようになった主因であろうことが容易に想像できる。 その危険性と、稀少性や、アカからアオに変わることが、赤く飛んだ竜の伝承や、隕石の冬による慈雨の伝承とで重なりあい、<神聖視>考えが生まれたのだ。 青銅器のアカ色は巨大隕石の赤。その青は慈雨の水色であり、その緑は大地甦る緑の色だと!。 その考えは、今に至りて<神社本殿の屋根に銅板>を巻くことになったのだとも。(^-^)♪ ところで、神社本殿に銅板巻き屋根と、茅葺き(かやぶき)屋根の違いがあるのは、何故でしょうか? 素人には、今Dr.がブログ取り上げられている「出雲と大和」の違いに思えてならないのですが・・・、

竜と銅・第二弾   shigechanizumo | URL | 2009-01-10-Sat 16:36 [EDIT]
前のコメントで、「竜を金属に例えれば銅鉱脈が似合うのではないでしょうか。」としましたが、思いつきではありません。銅は他の金属と親和性が高く、ご存知のように、錫や鉛を混ぜると、その混ぜ具合、配合によって様々な性質を持った銅になるのです。クニャクナな銅を作ることもできるし、それを延圧して細長い銅線を作ることもできます。また、ポキンと折れるような非常に固くて脆い銅を作ることもできます。また色も、白銅から黄金色、そして赤銅色など様々な色を演出できるのです。さらに、錆びた時は緑青を生じて緑あるいは青色の金属となるのです。緑青は毒にもなりますが薬にもなるとされています。この千変万化は鉄などの金属には及びもつかないことなのです。そして竜です。竜も昇り竜から眠り竜、怒り竜。八大竜王から竜の落とし子まであります。色も緑色から、白色、金色の表皮を持つ竜とあります。さらに、人に災いを及ぼす竜から、慈雨をもたらす竜もいます。同じく千変万化なのです。銅の属性・神秘性と、竜の属性と神秘性には合い通じるところがあると思うのです。Mr.平様の想像力を付け足していただきたいと思うのです。


弓状列島は、ゆば端ライン♪   Mr.平 素人 | URL | 2009-01-11-Sun 02:15 [EDIT]
Dr.~♪> すごい!凄すぎる。両腕にジンジンときます。
銅については全くの無知ゆえにつよい興味をもっていました。出雲半島を人文史にからめるのもさることながら、その質的成因については全く分かりません。 形状については。アリューシャン列島、千島列島、日本列島、南西諸島の、各々の<弓状ライン>から、太平洋側へ強い力で引っ張られて形成していると推測できます。(拙電子出版・第三章小惑星の衝突と合体・3-2地球誕生への足取り) それにくっついて来たのが島根半島! 子牛ほどの銅塊ゴロゴロびっくり仰天! ならば、【島根半島(銅)ー能登半島(?)ー佐渡(金)】 のラインが考えられるから能登の(?)が楽しみ♪ これ極秘ですよ(笑)  蛇足ながら、北九州が北朝鮮のハムフン、中国地方がチョンジン・ナホトカ、金沢あたりから北海道の檜山支庁あたりの弓状ラインがシホテアリニ山脈に対応します。これら「ゆば端」が一気に太平洋側へ引っ張られ、その空隙をうめるがごとくに朝鮮半島が折れまがり入り込んだ!
この課題毎日考えても六ヶ月以上! Dr.の頭の廻転の速さには、ついてけない。困った々^^!

出雲半島は、なぜ破砕山脈に?   Mr.平 素人 | URL | 2009-01-11-Sun 09:22
  そのシナリオ
 1. 原始薄皮溶融岩体)の小地球に、北太平洋元体惑星が衝突合体! この時、その淵々に“グリーンタフ”という膿が噴出。
 2.北太平洋元体の 「沈み込みと、球体化」 の力によって、ゆば状の表皮は、太平洋側へ引っ張られ、各々の弓状ラインが出来あがる。
 3.その後、太平洋は知らぬ存ぜぬと、約2億年で海底を塗り替えてしまった。
 4. 時は過ぎて、四千年前の東北地方に降臨した巨大隕石によって発生した巨大地震は、波打ちながら西進する。
 5.その細長い帯状の島根半島が後ろから波打ち、幾度も々も、揺すられる (巨船とイカダの違い) のですから、いかに固い岩塊とはいえ千々に砕ける。 ご先祖さま驚いたでしょうね。
( これ簡単に?調べる方法ありますよ♪ 互いの岩石の接触面が擦れて熔けている!)
 6.その噴出帯(グリーンタフ)の切れ端が列島日本海側と、それに対応する大陸側にくっついているかもね♪ 「標高500mの山塊を狙え!」 とりあえず<朝日山地>をあげておきます。これも極秘?  以上、素人探偵の “job No2” でしたすでに掘り上げすみでした(Dr.言)

一太郎 | URL | 2009-01-11-Sun 20:58 [EDIT]
もう、立ち入るすきもないですよ

こんな長文になると・・、メモリもくいますね
(・・||||rパンパンッ

Mr.平 素人 | URL | 2009-01-11-Sun 22:03 [EDIT]
一太郎さん> コメント&パンパンありがとう御座います♪ そんなことはないかも?
 < 能登半島・朝日山地に金鉱脈はあるか?>
出雲半島(銅)-能登半島(?)-佐渡(金)-朝日山地(??) ← 地下鉱脈・グリーンタフの噴出ラインと推んでいます。 グリーンタフが地下深くから地表近くに噴出し、その鉱脈には金が含まれることがあります。 朝日山地は新潟・山形県境ですから、気にとめておいて下さい。<佐渡に近いぶん、ひょっとしたら金鉱脈が!?> これを確かめるの誰でもできますよ! 「佐渡北側の表皮岩と、朝日山地北側の表皮岩の “岩質が同じ” であればその可能性は大きいよね^^!。 何かの情報があったら教えてください。お金があれば山買い占めて・・・、(笑)

竜と銅・第三弾   shigechanizumo | URL | 2009-01-13-Tue 09:31 [EDIT]
Wikiに次のような指摘があります。『竜山文化は仰韶文化が終わった後の紀元前2500年ごろに始まったもので、こちらの特徴は黒い土器です。ですのでこのようなものを黒陶文化と呼んでいます。この頃には高温で焼く事が出来るようになったために薄手で硬い土器が作られていました。この文化の終わりごろになると銅器も作られるようになりました。』・・・。
黒陶文化が有名なので、青銅器はあまり語られていません。しかし、その影響力は絶大で、次の遼東半島文化につながります。特に、wiki以外の指摘に、・・・『文様には弦文・竹節文・透かし孔などがあり、一部に商(殷)周時代の青銅器にある雲雷文や饕餮(とうてつ)文などに似たものもある。習俗として抜歯・頭骨変形・卜占(ぼくせん)など、大汶口文化からひきついだものがみられる。』・・・とあるように、日本列島にも大きな影響をもたらしたと思われます。
鷺銅山・鵜峠銅山・鰐淵銅山が、鷺の竜山につながる鉱脈を源泉とするなら、なぜに、その源泉を「竜」といったのか。中国の古い大きな文化の記憶が貼り付けられたのではないでしょうか。
ご指摘のとおり、島根半島のグリーンタフは、山形・秋田で再び地表に現れてきます。秋田が鉱山で有名なのはそのためです。そして注目すべきは、八郎潟・男鹿半島と考えるのですが、・・・オッと電話です。


Mr.平 素人 | URL | 2009-01-16-Fri 21:06 [EDIT]
Dr.> コメントのお返事おまたせしました。
今回のDr.コメントは、中国の歴史についてであり、初めて目にする耳にする言葉が殆どで、その読み方もわからず手こずっています。師のおっしゃる「中国の一言では表せない」多様な歴史の一端をみる気がいたします。そのなかで<中国でBC2500年ごろからの竜山文化とか習俗として抜歯>とかがあったようですから、素人が考えている<竜神文化>は再構築の必要があるようです。 「黒い土器→祭器←隕石の冬>の線を思い浮かびましたが、巨大隕石が四千年前、黒陶文化が四千五百年前ですから、これも当たっていません。
「男鹿半島=グリーンタフ!」、おもしろいお考えですね。さらに広げて「♪西にも東にも~♪」 90年代の初め頃だったかな?「お上が金鉱探しでグリーンタフを!あれって、その後はどうなったのかな?」 私<史実探偵に聞きにくれば【男鹿半島・八竜にも、必ず油田がある!】と、教えてあげるのにねえ。(笑) この場合、相手がお上ですから、たんまりと礼金を♪と、マネージャーの黒孔雀(ブラックジャック)がいってます ^^!)

竜と銅・第四弾   shigechanizumo | URL | 2009-01-19-Mon 10:54 [EDIT]
平さんが、出雲竜の頭部だとされる大社・日御碕の山塊の西の果て日御碕灯台は、日本でも珍しい、柱状節理の見られる岩盤の上に立っています。
参考=柱状節理:http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/fieldguide/book/078.html
この参考のhpからすると、柱状節理は溶岩の変形であり、日御碕灯台の下には、柱状節理を作り出した溶岩(マグマ)があるということになります。つまり、出雲竜の頭部は、溶岩(マグマ)の上に横たわっているということになります。島根半島は決して火山活動が作り出したものではないと思っていましたが、ここからすると、島根半島の隆起は、地下深いマグマの活動、盛り上がりが地表に影響を与えたからではないかと思われるのです。さらに、隠岐の島の島前は大きなカルデラだとされています。ここで、三瓶山・大山・隠岐島前を結ぶ大きな三角形が出来上がります。そしてその中間点に横たわるのが、出雲竜(島根半島)だということになります。そして、日御碕の柱状節理が、ただ冷えて固まった溶岩でなく、噴火寸前の溶岩だったとしたら、まさに、竜の口から火が噴き出ていたということになったのではないでしょうか。日御碕の柱状節理・・・是非ご検討ください。更に言えば、これもそれも平さんご指摘の天変地異と関わるのではないかと・・・。


竜と銅・第五弾   shigechanizumo | URL | 2009-01-19-Mon 16:06 [EDIT]
午前中のコメントから、私の妄想癖が・・・。島根半島の地底深くにマグマが潜んでいることは、島根原発の安全性を担保するために周辺の活断層が調査された結果からも判明しています。
これは大変なことではないでしょうか。隠岐の島前がカルデラであったことの証拠は、隠岐の島々の壁腹から黒曜石が産出され、それがナイフ代わりの石器として各地に運ばれていたことからも分かります。黒曜石は火山活動に伴うガラス質の変成岩だからです。
一方、島根半島が、マグマの上に乗っているのは、日御碕の柱状摂理から判明しました。そして、鷺銅山・鵜峠(うど)銅山・鰐淵銅山のように地表近くまで地底の銅鉱脈が押し上げられたのも、マグマの隆起が原因だったのです。
そして、島根半島の南には、休火山から活火山に格上げされた三瓶山(2003年の活火山の定義見直しで活火山に指定された。)があり、また西日本で一番活発に活動したとされる大山が東西軸の上に乗っているのです。
もし、このマグマが眠りを醒まし、再び島根半島を持ち上げないとも限りません。その時こそ、出雲竜(島根半島)が、覚醒され、動き始めるのではないでしょうか。一番マグマに近い出雲竜の頭部(日御碕)が頭をもたげ、うねうねと続く胴体と尻尾は揺れ動き、蛇行を始めるのではないでしょうか。
そして、柱状節理が示すように一番マグマに近い日御碕の突端(出雲竜の口)から、溶岩の噴出が起きるのではないでしょうか。
不幸なことですが、中越地震、能登地震、中越沖地震と日本海側に相次ぐ異変ともいえる大地震の連発は、出雲竜の眠りを遠くから醒まそうとする揺らぎではないでしょうか。
その時に備えるべき日が近いのではないでしょうか。不幸の到来を喜ぶものではありません。災いを最小限にするために、予知し予期し、その日に何を備えるべきか、平さんのご明察と「平トラダムス」ともいうべき予知能力と想像力に期待したいと思います。


Dr.コメント第四・五弾へのレス  Mr.平 素人 | URL | 2009-01-19-Mon 21:00
Dr.~> すごい、すご~い♪ コメントお待ちしていました。
島根半島出雲竜が、日御碕から柱状摂理という<火舌>をのぞかせた!
これは、師が教えて下さらねば分からないこと! 隠岐の島や大山まで取り込めるかどうかはわかりませんが、おもしろくなりそうです。 

なるほど(訂正)   shigechanizumo | URL | 2009-01-20-Tue 09:30 [EDIT]
私のつたない文章を、『日御碕から柱状摂理という<火舌>をのぞかせた! 』などと、すばらしいフレーズに・・・この中の「柱状摂理」は「柱状節理」の誤りです。訂正します。


Mr.平 素人 | URL | 2009-01-20-Tue 18:07 [EDIT]
Dr.~> コメント&ご閲覧ありがとう御座います♪
もし、投稿コメントの訂正(変換誤記)等がありましたら[EDIT]をクリックなさると[訂正とか削除]ができるかも・・。 私が訂正してみたのですが投稿者名がDr.ではなくて「平素人」になりましたのでやめました( 汗~!)
<Dr.の柱状節理の情報>は、今あげている記事の核心部分になりますので、お後の楽しみにとっておきま~す。^^!

竜と銅・第六弾   shigechanizumo | URL | 2009-01-22-Thu 10:03 [EDIT]
地質学には詳しくないのですが、私の推測は次のとおりです。出雲の西の三瓶山と東の大山という二つの火山の地底にはマグマがうごめいています。このマグマの上昇や下降がこの二つの火山を結ぶラインの隆起や陥没や地溝帯を作り出したと思われます。陥没の痕跡は、宍道湖・中海の湖沼と低湿地帯です。地溝帯は、海潮温泉や玉造温泉を生み出しています。さらに、陥没の北側では、再び隆起が起こったのです。それが島根半島だったのですが、マグマの上昇は地表近くで止まり、噴火には至らなかったので、柱状節理が出来たと思われます。そして、島根半島の北側では再び陥没が起こり、それは日本海の海底となっています。島根半島の活断層は、こうした地層の変動によって引き起こされたものでしょう。さらに、次のマグマの上昇は隠岐の島あたりで起こったのです。この上昇は、噴火を伴ったものでした。そして、その大爆発は、西ノ島(島前)のカルデラを作り、その外輪山が、島前の島々が円形に並び、海上に頭を出しているという状態なのです。以上より考えると、島根半島の地底にはマグマが存在し、その上に出雲竜が横たわっているということになります。とすると、横たわる出雲竜を封じ込めるだけでは不十分で、地底のマグマを封じ込まなければ、出雲竜はその封印を、下から持ち上げるようにブッ千切ってしまうのではないでしょうか。おっしゃるとおり、出雲竜は、真ん中の止め釘と、四方の止め釘で封印されていると思いますが、マグマの隆起に耐えられるでしょうか。そして、その隆起の原因となるのは、内因するマグマの動きだけでなく、外からの大きな衝撃も考えられます。今まで幾度か、島根半島を直撃した隕石もありますが(美保関隕石)、小さなものでした。また、私が推測するところでは、出雲大社の西に「鏡の池」というものがありますが、底なし池だとされています。私は、この池は、隕石が衝突して地底にもぐりこんだことから生まれたものではないかと思っています。鏡といいますが、これは顔を映す鏡ではなく、「カガ、カカ」すなわち蛇の池だと思っています。この鏡の池を生み出した隕石の一部が、出雲大社のご神体(不思議な重さの石)だと考えています。出雲竜の眠りを醒ますのは、マグマの再びの活動か、はたまた、巨大隕石の再びの衝突か。平さんの御明察を期待しています。


<島根半島の成因について>
島根半島と、大山、隠岐の島、三瓶山(火山)等の目に見えるものから、地下のマグマの状態を推察する。師のお考えに敬服します。
島根半島の成因について、私は、つぎのように考えています。先のコメントで、日本列島を含む弓状ラインは、太平洋側へ強く引っ張られたからだとしました。 この力の発生については、後述するとして、弓状の日本列島と日本海にしぼって取りあげてみましょう。 『 日本海は、一気に造られた!』 これは、どこぞで見かけたお説で、わたしの論ではありません。 私は、太平洋側への引っ張り力と、この日本海一気論とをあわせて、つぎのような考えを築いています。
地球創世期において、球体内部は熔けて、その表面は冷えて陸地らしきものができた。 例えれば、つきたての餅の表面だけが“こわばって”いる状態。(このような状態は寒い冬に外でお餅をついた時になります)。この餅を二つに分けると「伸び餅状態」になり、柔らかい内部と、表皮の固まりかけた部分に分かれます。柔らかいところが日本海で、固い部分が日本列島。 ちなみに、陸の成因と海の成因はまったく違います。(中学生さんに^^!) これを確かめるには、日本列島の地図を切り抜き、大陸側に沿わせて下さい。 ちょうど、ウェゲナーが、「大西洋を挟んだ大陸どうしが合わさる」 と言ったように、ぴったりと合わさるはずですから(笑)。朝鮮半島は別ですよ。その空隙を埋めるように、あとへ折れ込んで入り込んだのですから。 ウェゲナーは、その大陸移動説を海を渡らないミミズの分布でしらべあげ、それが、それぞれに対応していることで証明したといいます。これってほんとですかぁ^^?

<弓状ラインを生んだ形成力は?>
ここで先にあげた太平洋側へ引っ張る力についての私見を述べます。地球は隕石の集合体であり、トーナメント方式で肥大化したものとみています。最初は小さいもの同士から、段々と巨大化して、惑星同士の衝突合体へと進みます。その大きさをはっきりとは言えませんが、始元地球体の大きさをサッカーボールとしましょう。 それに、後や先は判りませんが、ソフトボール大の北太平惑星と南太平洋惑星が衝突合体する。 例えれば前述した<つきたて冷え餅>を両手でつまみ、北太平洋と南太平洋という親指二つで押し込み、その反対側がひび割れ押し広げられた状態が大西洋かと考えています。 マントルの沸き上がりだけでは両大陸を引き離すほどの力は生まれない。(マントルの沸き上がり力、だけで両大陸が離れたとする考えに疑問を持つ学者さんもおられるとか?) さらに大陸移動説の映像をみると、一つであった陸地が分割し、それぞれに収まったとありますが、全陸地を表皮として合算した球体は、いま現在の地球の体積よりはるかに小さい。(笑) 海の存在がまったく語られていない。こども心には到底納得出来ない。 この惑星同士の衝突肥大化がない限り、海の表皮面積は生まれてこない。 (水惑星と陸惑星の不思議;これは私の言葉ではありません。地球儀があれば確認してください。大洋の反対側に大陸があるはずですから、これも中学生さんね(^^!) さらに、このような合体が地軸を傾けたとするのが素人の:見解です。

<グリーンタフについて>
北太平洋溶岩体の沈み込みの力は、漬け物フタを押さえたときのように、周囲の表皮を引きずり込み、プッシュした力は、表皮の切れ目・ほころび目あたりに噴出する。その断続については推みきれませんが、その顔をのぞけたところが列島の日本海側にあるグリーンタフ(島根半島、能登半島の先端?、佐渡島、等々)かなと思っています。 念のために言い添えますが、その時期は、ウェゲナーが言っている地球創世期で、師の言われている海岸近くの熱の沸き上がりは、比熱の大きい海水と重力の大きい陸部との境目あたりの噴出かな?と考えます。 「マグマの熱だって、比熱の大きい海水に抵抗されたり、重力の大きい陸塊に阻止されれば、熱を伝えやすい金属(銅)鉱脈を伝わって上にあがってきますからね」。鳥海山も大山と同じ成因かな? 素人はこれを<地熱のほころび目>と名付けておくことにしましょう。
(^-^)♪

<隠岐の島について>
今あげている記事の主題は、「驚愕の島根半島・出雲竜」ではありますが、これは何故に出雲が「八百万の神々が集まるほどの力」をもったのかを解き明かすためのものですから隠岐の島についてもふれてみましょう。
師のお言葉で、隠岐の島について、つぎの二つをあげておきます。
「次のマグマの上昇は隠岐の島あたりで起こったのです。この上昇は、噴火を伴ったものでした。そして、その大爆発は、西ノ島(島前)のカルデラを作り、その外輪山が、島前の島々が円形に並び、海上に頭を出しているという状態なのです。」
「隠岐の島前がカルデラであったことの証拠は、隠岐の島々の壁腹から黒曜石が産出され、それがナイフ代わりの石器として各地に運ばれていたことからも分かります。黒曜石は火山活動に伴うガラス質の変成岩だからです。」

 素人は、隠岐の島について多くを知りません。今の今まで火山成因か隕石成因かを決めかねていました。勿論隠岐の島が火山成因であることは衆知の事実です。それを疑ってかかるのが探偵の性ですから、どうぞのお許しを。でも、「黒曜石の壁腹」で火山成因が決定づけられました。しかも、ナイフ石器として各地に運ばれていた。中学生さんのために言い添えますが、石器・縄文・弥生前期・後期・古墳代と変わるにつれ、石器・木竹製器・土器・銅器・鉄器へと変わってはいきますが、列島に住む人達にそれ等がすべて行き渡っていたとは思えません。なかで銅製品は、前述のように祭祀専用に。鉄製品でも古墳代の刀剣として出土しているわけですから、一般の生活用品に使われるようになったのは遙かに(?)あとのことです。
もし私達がサバイバル生活を強いられたならば一番先に必要とするのは<ナイフ>です。
器がなければ手でつまめばいい。木でも竹でも加工すれば器にはなりますが、加工するのにナイフがいる。つぎには「火」。火をおこすには木でもできますが、火打ち石のほうが早くて便利。黒曜石の硬度は;5 一般的な石英の硬度は;7 サヌカイト(讃岐産)も硬度;7 これ等の原石は、どこにでも転がっているわけではなく、その大きさや量、地域性もあり、より固い石を求めて探し歩く。

師の言葉で隠岐の島の黒曜石が「ナイフ代わりの石器として各地に運ばれていた」とありますから、出雲の交易品としても扱われていたのでしょう。私は、その交易をした人達は、さきにあげた秦の始皇帝が遣わした「徐福の3000人の童男童女集団」に関係する人達であったとみています。 徐福の立ち寄り伝説というのは東北地方にまであるようですから、それ等の人が列島各地を不老不死の薬石を求めて、探し歩いたのでしょう。 出雲には、徐福伝説はない(?)ようですが、銅鉱石ゴロゴロ、砂鉄粒々、粘土ありの、浅い海と干潟ありいの「豊かな出雲」を見逃すはずがない。 徐福伝説がないことがかえって怪しい?! 私達は当たり前と思うことは、口にしないし歴史としては語らない。もし私が徐福なら列島文化の中心地にベースキャンプをおく。それが出雲か、九州か、伊勢か、はたまた他の地かは知らないが、そういった所には、主立った部下をおき、その地の珍品を本土中国へ送り続ける。そして、いかに圧倒的優位な文化を持つ集団でも、現地の人達の力を借りなければ「事は」成しえない。それは、今も昔も同じである。 今やっと解った。『津』という言葉の統一流布を誰がなしたのかが。 

<祖先からの地名伝言>
島根半島西部山塊の日本海側に<十六島>と書いて、「うっぷるい」と読む地名があります。この発音は、日本語にはない響きがあります。さらにここへ流れ出る川の名前が<唐川川>(笑)。何と読むのか知りません。この上流に<別所>。ふつう私達と同じ集団が住んでいたなら<別>の字はつけません。ここには多少の水田はありますが、その昔においてはとても厳しい住環境かなと思います。何故<別所>なのか? 私は、ここで“銅鐸を含めた銅の精錬・鋳造”をする大陸からの技術集団が住んでいたと推んでいます。 ここへ交換の衣食をもって、銅鐸の制作を依頼しにいったかと。松江あたりを朝出発しても、その日の明るいうちには別所へは着きません。途中山中へ泊まらねばなりません。その場所に<旅伏山>という地名が残っています。 これが当たっていれば出雲には早くから大陸の文化が入り込んだ、列島でもまれに見る“先進地”かと思います。 

「銅か」(首を掻き取る武器)は、日本で考え出された武器ではない!
大陸からの “最新兵器だ!” その最新兵器で、大の字に眠る<島根半島・出雲竜>は、封印されている。その「銅か」と、ヒスイの勾玉が出土したのは、大社近くの「命主神社」だった! 命主神社は「大の字」の書き始めの位置にある! 次なる私達の行動は、鷺峠を越えて、その筆止めの『日本海側にある神社』の境内に埋められている“銅かとヒスイの勾玉”を掘り上げることだ! その境内には命主神社とまったく同じ大きさの岩があるはずだ! その大岩で「次なる」銅かと、ヒスイの勾玉は押さえ付けられている! わたしは誰彼は問わない。 その一番手柄をあげる御仁が出現するのを熱望する!
 でもね、今(1/28)は、雪が積もってると思うから暖かくなってからのほうがぁ~・・・、ねえ○○さん!(笑)?

『出雲竜の眠りを醒ますのは、マグマの再びの活動か、はたまた、巨大隕石の再びの衝突か。』と、師のお言葉にありますが、出雲竜の眠りを醒まさせるのは、マグマの活動でも、巨大隕石の衝突でもありません。 それを<醒まさせる>のは、師と私と、それを見守り、励まして下さるクルーです。(^-^)♪ 「鏡の池」については、つぎに回しましょう。

<第六弾の、末尾文を移載します>
私(Dr.izumo)が推測するところでは、出雲大社の西に「鏡の池」というものがありますが、底なし池だとされています。私は、この池は、隕石が衝突して地底にもぐりこんだことから生まれたものではないかと思っています。鏡といいますが、これは顔を映す鏡ではなく、「カガ、カカ」すなわち蛇の池だと思っています。この鏡の池を生み出した隕石の一部が、出雲大社のご神体(不思議な重さの石)だと考えています。

竜と銅・第七弾   shigechanizumo | URL | 2009-01-22-Thu 16:43 [EDIT]
さて、平さんへの情報提供として、「鏡の池」の様子をお知らせします。この池の淵の北側には、天神さん、すなわち天満宮が祭られています。出雲大社と天神さんの組み合わせは不思議な組み合わせです。しかし、毎年七月には、天神祭りが挙行され、学問が上達するとして私達は、筆やペンを持って参拝し、それらをお供えするのです。しかし、これは俗的な行事であって、その本来のお祭りは、天変地異をもたらすという怨霊である菅原道真に仮託して、実はその池で起こった天変地異、すなわち隕石の落下の記憶がその根源だったのではないでしょうか。菅原道真は、雷、雷光、落雷で都の貴族を脅かしました。そのような現象とよく似た隕石の落下と衝突、そして吹き上がった噴煙とぽっかりと大きな穴が開いた場所という遠い記憶があり、その後に水がたまって池となったことを、後の世に天神様の仕業だとこじつけたのだと思うのです。しかも、放射性の物質が周囲に残ったことから、蛇がいる危険な池、すなわち、「カガミの池」と呼んで、この池に近づかないというタブーを作り上げたのではないでしょうか。そして、隕石の一部が地上に残っていたのを見た人々は、周囲の普通の石と比べると尋常ではない重さであることに気付いたのです。そして、その石は、やがて、神が天から降らせた石だとして崇めるようになったのではないでしょうか。残念ながら、隕石が衝突した鏡の池の周辺は、低湿地の泥地であったため、粉砕されたその他の隕石の破片は、泥の中に埋もれてしまい、すっぽりと開いた穴と、地上に残された隕石の一部以外は何の痕跡も残されなかったのです。出雲大社の御神体、近くの底なし池、天神・・・何かが隠されているとにらんでいます。ご参考ください。


<出雲大社・御神体の降臨の最有力地!>
さすが、Dr.♪> 早々に、その候補地を挙げられました。
「鏡の池」のネーミングがいい。鏡餅もありますよね。 ふつう、池に「鏡」の名前はつけませんから。「底なし池だ」というのもいい。「蛇・カカが潜り込む」というのもいい。「天満宮・天神さま」というのもいい。「菅原道真は、雷、雷光、落雷で都の貴族を脅かしました」 そして、筆は見ようによっては隕石落下に見えます。
<御神体の落下地なら!?>
こんどは、<99%>そこが御神体・隕石の落下地として考えてみましょう。(^^)♪
 ①時期は、何時か? 
天神様のまつりが7月があやしい。時間は?何時からその神事が始まるのか?「鏡」と付いているが、その降下は銅鏡文化の以後の命名か? それとも・・・・?、
 ②その池の形と、サイズは?
カガミというのは銅鏡の円形のこと。まんまる池か?( これは必須条件!) かりに御神体の重さを200kgとした時の衝撃がつくる円痕の大きさは?
 ③その池の深さは? ( じいさまぁ~釣り糸たれる出番ですよ-笑 )
御神体の仮殿移行は、何人でかついでいるのか? ( 蛇足;御神輿文化へ移行 ) 200kgなら4人? 300kgなら6人? それによって、専門家なら深さを算出できる。
 ④「低湿地の泥地であった」 とありますが、
軟着陸か?(笑) 粉砕・分砕か?( 後に分骨等の慣習あり?) その着弾地面の物理的・化学的状況は? ( これは、後のことになるでしょうね^^!)

< 証拠、固めとして >
 ⑤その 「飛来の方向」 は?
潮温泉の近くに<飛石>の地名がありましたが何故か? 又、隕石に関係する<地名・姓名>等の分布から、その飛来方向が推定出来ないか?
 ⑥これに関係するその他の 「伝承」 はないか?
素人は、祖先からの伝言を受け取るとき、それは 「言葉とか表現の違いである!」としています。
 ⑦その池の周囲に<ストンサークル状>の石組みはないか?
 私・史実探偵は、ご先祖様が、それ等の遺跡を<冒すべからざる所>として、必ず残しているとの経験をえています。 それが破壊されだしたのは、ごく近時です。 ご先祖様が怒っておられる!「 神を恐れぬ不届き者めが!」 と。 
    これは、そこが<隕石落下地>であることの必須条件です。

竜と銅・第八弾   shigechanizumo | URL | 2009-01-23-Fri 10:02 [EDIT]
出雲大社は、『古事記・日本書紀』の記載が強烈であるため、出雲が大和に屈服した時代の頃からのものと考えられがちですが、実は出雲大社の境内は、もっともっと古くからの祭祀場だったと思われます。そのことを示すのが、出雲大社境内遺跡と呼ばれる遺跡は、縄文時代に遡るものなのです。同じく出雲大社の東にある、菱根・本郷遺跡も縄文時代からの遺跡なのです。とすれば、平さんが指摘される、BC2000年頃の天変地異が発生した時には、出雲大社周辺で、人々が生活を営んでいたことになります。そして、その人々が、祭祀場としていたのが今の出雲大社の境内だったのです。ここからすると、その出雲大社境内の西に、大きな隕石が落下し、鏡の池を作ったことは、当然その目撃者や被害者がいたことになります。しかも落下地点は自分達が祭祀場としていた場所だったのですから、まさしく神が落下した、あるいは神が降した石だと思うのは当然ではないでしょうか。ここで、出雲大社境内は、他にもあるたくさんの縄文時代の祭祀場とは異なった、特に神聖な場所として語り継がれるようになったのではないでしょうか。出雲大社のある場所は、決してオオクニヌシなどの時代になって初めて神聖な場所となったのではないのです。とすれば、出雲竜の記憶も、はるか時代を遡るものであり、出雲創生の時代は、まずこの出雲竜の出現、あるいは巨大隕石の出現時期に焦点を合わせるべき事になるのです。先学が指摘するように、オオクニヌシの国造りの前史として、出雲にはヤツカミズオミツヌの国引き神話があります。この神話は、縄文神話だという有力な指摘があるのです。出雲の人が、神が遠くから四つの地塊を引き寄せ、それが島根半島となったという伝承を語り継ぐようになったさらにその前史に、出雲竜の出現があったのです。すなわち、国引き神話という雄渾な神話が、出雲という土地で語られるようになったのは、それよりも大きな衝撃的な出来事が出雲で起こり、その変形物として国引き神話ができたと考えられるのです。私が変形物というのは、国引き神話と平さんが指摘される出雲竜の出現の話とに、重なる部分があるからです。どこが重なるかといえば、つなぎ止めたという部分です。国引き神話では、四つの大きな地塊が引き寄せられつなぎ止められたのが島根半島です。出雲竜の話では、出雲竜は真ん中の止め釘と、四方の止め釘とでつなぎ止められているのです。そして出雲竜は島根半島なのです。この類似は、国引き神話の発生は、その根源に出雲竜が島根半島としてつなぎ止められたという、始原の記憶に基づくものなのではないでしょうか。平さんのご明察をお願いします。


<Dr.の言、その1.>
実は出雲大社の境内は、もっともっと古くからの祭祀場だったと思われます。そのことを示すのが、出雲大社境内遺跡と呼ばれる遺跡は、縄文時代に遡るものなのです。同じく出雲大社の東にある、菱根・本郷遺跡も縄文時代からの遺跡なのです。

<Dr.の言、その2.>
その出雲大社境内の西に、大きな隕石が落下し、鏡の池を作ったことは、当然その目撃者や被害者がいたことになります。しかも落下地点は自分達が祭祀場としていた場所だったのですから、まさしく神が落下した、あるいは神が降した石だと思うのは当然ではないでしょうか。


 * この二つを<地名伝言>で、検証してみましょう

【 出雲大社・周辺図式 】
                  約1km   <出雲大社>   約1km  
  {     △奉納山                             本郷  
日{      (73m)     山根                            弓
  { 仮の宮  中村  新町 東新町
  { (標高2.5m~5m6m)                              
本{                                               ヶ
  { 湖                                               
  {    南北におよそ20m~30m高さの断続的な丘陵の連なり          浜
海{ 稜 △ 妙見山(56.9m)
  {   神西湖
  <三瓶山>                                     <大山>

* 出雲大社遺跡・等を遺した縄文の人達はどこへ住んでいたのでしょうか? 
それは、<本郷>です!。 筆者は以前に「本・元・中」の類の地名がつく所は<中心のなか>だとしました。覚えていない?それは残念、今一度(笑)。 私達は今でも、少し田舎へいくと「元家、中屋、本家、等」の言い方が残っています。このような家から、分家、新家へと分かれていきます。 地名の場合もまったくいっしょです。 農耕採集を主とする民族は驚くほど定着性がつよく、たとえ為政者が変わってもほとんどの場合が定住しています。 何故こんなにつよい言葉でいえるのかというと現に変わっていないからです。特に「山、川、野、等」の始原的な地名は特例を除きほとんど変わりません。変えると「あんたの云う山どこよ?」って混乱をまねくからです。例えそれが国土地理院であっても地元の慣用を変えられないのです。
人口が多くなると中心地が移ることがあります。それが<中村>です。上の図式でそれを確かめて下さい。中村から新町→東新町へと発展した様子がわかります。このように中村を中心にして「前、先、後ろ、西東、北南のような方向性の地名が付いてきます。 大社の御神体・隕石?が、「どこへ、いつ」落ちたのかは、今のところ確定しないで、このような「状況証拠」を積み重ねていきましょう。
* 祖先が、その大社遺跡を残した時の地勢は、どうなっていたか?
列島に住む縄文の人達は、海と山の幸が得られる山際に住みます。それに飲み水が得られる川が要ります。それが<本郷>だったのでしょうか。 しかし、出雲の地形を論じるには、{それが何時かを定めて} 論じる必要があります。 宍道湖や中海は過去に、幾度かの海水位の上下が認められているそうです。今までに論じてきた<四千年前の巨大津波がつくった砂州> <隕石の冬による海岸線の海退>、それと <もう一つの大事変>による変異で?大きく変わっているからです。 <もう一つの変異>の方は、先にとっておいた<日御碕の柱状節理>と、ともに、今、揚げている記事の結論部分になるのでここでは控えておきます。(!^-^!)

とりあえず、暫定的に上図の新町・東新町あたりに海岸線をおいて考えてみましょう。東西に細長い島根半島と本州とつながっているのは、神戸川、堀川は別として、西側の<湖陵>だけです。言い換えれば、「巨大竜・島根半島」をつないでいるのは “綱状の湖陵” だけです。
→<四千年前に、東方から巨大津波が発生した>
その時、高さ約17mの弓ヶ浜ができて島根半島(島)と本州がつながり、津波が運んだ広大な砂州・出雲平野が出来る。
→<隕石の冬による海岸線の海退>が、
急速(1年2年のうちに)始まる。まいあがったチリは次第に降下し温暖化へと転じる。
ご先祖さま、おどろいたでしようねえ。 わたしも思考が錯乱して、どのように記事を組み立てていいのかが分からなくなりました。 おまけに仮想メモリが少なくなり処理スピードが超遅っぅ~( コンピューターも汗~かくのですかぁ?!) こんな時は、他ブログを徘徊?して気分転換をするに限る(笑) しばらくの休止時間をください。「亀さんが休んでどうするよ~怒、ふつう休むのは兎さんだろ!^^?) 少し新クルー>も増えてきたようです? そんなお人には<カテゴリー>別で御覧になることをお勧め致します。 クルーの方は、今一度、記事をふり返えれば、筆者が推理小説ふうに^^?、前触れヒントとして、さりげなく & ぎんぎらぎんに(笑)挿入した{言}が見つかるかも知れませんよ♪ そして、この記事は、表題と「Dr.コメ」に沿って書く予定ですから、先へ進んで<御自分なら何と返答>なさるかを考えると別の楽しみかたが加わるかも知れませんね♪。 2/1記(深礼)

<Dr.の言、その3.>
先学が指摘するように、オオクニヌシの国造りの前史として、出雲にはヤツカミズオミツヌの国引き神話があります。この神話は、縄文神話だという有力な指摘があるのです。出雲の人が、神が遠くから四つの地塊を引き寄せ、それが島根半島となったという伝承を語り継ぐようになったさらにその前史に、出雲竜の出現があったのです。


「国引き神話」の話は、
御ブログで初めて知ったのですが、師のお考えにまったく敬服同感です。
では、島根半島・出雲竜を『つなぎ止めた』発想は、どこから生まれたのでしょうか? 島根半島を竜とみる考えについては前述のとおりですが、前で図示したように島根半島を本州につないでいるのは、出雲平野の西端にある南北におよそ20m~30m高さの断続的な丘陵の連なり<縄状の湖稜>です。

四千年前の大事変以前には、
弓ヶ浜は影も形もなく、斐伊川や神戸川がつくる出雲平野は、ごく小さいものであった。(これは前述した素人の持論です) 本州から<島根島>へ渡るには、神戸川や堀川の川渡りはべつとして、この湖稜づたいに行くか船で渡る方法しかなかった。

四千年前に西進した巨大津波は、
弓ヶ浜をつくり、出雲平野を造りあげた! ご先祖さま、驚いたでしょうねえ。『荒神さまが、弓ヶ浜という<綱>を持ってきて、前述した湖稜<縄>とでもって、島根半島を引っ張り寄せ、出雲平野をお造りなさった!』 この大事変をご先祖さまは、『国引きとか、国造りとか』のことばで云い表して御座るのに、それを「つくり話の神話」だなんて!、今の私達のほうが「どうかしてる」と思いますよ。 強いて、それをいうならば、この時に何かの異変があったかも知れない、<三瓶山火山や、大山>に、その縄や綱を括りつけて引っ張ったことぐらいでしょうかぁ。わたしは、我と我が身をその時におけば、無理からぬ話だと思いますが?

この「先学」を変える謎解きは、師の啓発なくては成し得なかったこと。 深く感謝を致します。(2/8)

<Dr.の言、その4.>
出雲竜の話では、出雲竜は真ん中の止め釘と、四方の止め釘とでつなぎ止められているのです。そして出雲竜は島根半島なのです。この類似は、国引き神話の発生は、その根源に出雲竜が島根半島としてつなぎ止められたという、始原の記憶に基づくものなのではないでしょうか。



次、ここへ書き込んでいます。^^!)、ノコノコ亀より(汗~!)
<命主神社について>
     「Mac遊びの昼食」の <たねち様>よりの、承諾を頂いて掲載します。
場所は、古代出雲歴史博物館の北側 (大社町字森で、出雲大社東500m)
     民家の間にあって目立たないので行き過ぎかけてしまいました。
祭神は、神産巣日神(かみむすびの神)。造化三神の一柱で、小さいですが、その名に恥じない立派な大社造りの社です。
大国主命は兄たちに憎まれて、伯岐国(ははきのくに:伯耆国)の手間山の麓で、だまし討ちに遭い、命を落とすのですが神産巣日神が蚶貝比売(きさがいひめ)と蛤貝比売(うむかいひめ)を使わせて大国主命を蘇らせます。こういった要所要所で大国主命を助けたから祀られているようです。
大国主命が憎まれた発端は、因幡の素兎と八上比売(やがみひめ)が原因なんですよ。これは後で知ったのですが大国主命が命を落とした伯耆の手間山は、鳥取県会見町の手間山だそうです。ここに焼かれた大石を祀る赤猪岩(あかいわ)神社があるそうです。今度行ってみよ。
命主神社社殿裏に大岩があったそうで、出雲大社造営のため切り出された際に、そこからヒスイ製の勾玉と銅戈(どうか)が見つかったそうです。その場所には真名井遺跡と書いた標識がありました。出土したヒスイは糸魚川産と判定されたそうで、昔、出雲地方と越(高志)とで交易があったことをうかがわせます。
(中略)
命主神社裏からヒスイと共に出土した銅戈は、北部九州のそれの特徴があるそうで神話も合わせて考えると、越-出雲-筑紫の日本海交易ルートがうかがえます。(以上です)



<次なる、銅戈の埋め場所はどんな所で、どのような埋め方がなされているのか!>
銅かとヒスイは、荒ぶる<島根半島・出雲竜>を括りつけ“封印し”動かさないためのものであり、『大の字』の要所である5カ所に埋められていると推定しました。
  Dr.>の言により、その大の字の書き始めの位置が命主神社であることが解りました!  ( 註; この考えの発生は、銅鐸・荒神文化から、銅鏡・太陽神へ移り変わる卑弥呼以後のものだと推定しています。)
この記事は、銅かを掘り上げるのが主目的ですから命主神社の(いまさら恥ずかしいのですが何と読むのですか^^?)由来等は、その道に詳しい人にお譲りするとして、素人は<たねちさん>の言葉から別の角度で切り込んでみたい♪ 

<次なる “銅かとヒスイ” の埋め場所を特定するには、>
第一に、たねちさん>言で、そこが「民家の間にあって目立たないので行き過ぎかけてしまいました。」と、云われるほどの場所であること。
第二で、「小さいですが、その名に恥じない立派な大社造りの社です。」と、云われるように、小さいながらも格式を保った「社」等があること。
第三に、「祭神は、神産巣日神(かみむすびの神)。」とあるように、そこに『結ぶ』等の“いわれ”が残っていること。
第四に、「命主神社社殿裏に大岩があったそうで、出雲大社造営のため切り出された際に、そこからヒスイ製の勾玉と銅戈(どうか)が見つかったそうです。」 これに合わせて、Dr.>の言では、「出雲竜の話では、出雲竜は真ん中の止め釘と、四方の止め釘とでつなぎ止められているのです。」と、あります。

<これは大切なことなので深く追求してみましょう> 
祖先は、ヒスイの勾玉を埋めることで、その場所を巨大竜の首部だとし、銅かを埋めることで、師の言葉を借りて、縛り付ける “綱の一端を釘付け” にする考えに及んでいますから、銅かは、<突き立てる>姿で埋めてあったことが想像できます。「首根っこを押さえる」という言葉がありますからね。 その銅かとヒスイは当時の最高技術品で、最高の品質のものでなければなりません。これ等は、ともに中国の影響を強く受けた品々ですから、それについては専門家にお任せしましょう♪ 
そして、次には、その銅かを打ち付け押さえつけた 「大岩」 について述解しましょう。 その大岩は 「社殿の裏」 にあること。 「出雲大社造営のため切り出された際」 にとありますが、その岩は、【小さく割られて転用】されたのですか?? もし、そうだとしたら 「貴重な財産」 を失いました。(^^!) でも、それは遠くない昔?ですから、当時建設に携わったお人に聞けば、転用した場所が分かるかも知れません。 想像するに、それは当時の人が動かせる最大級の岩であること。 これは、とても大事なことです。何故なら、他の「四つの大岩」も似たようなサイズでなければなりません。その一つが小さければ、せっかく打ち付けた釘が、そこから抜けて竜が暴れ出さないとも限りませんからね(笑)。
 蛇足ながら、貴方のお住まいの近くに大岩を突き立てたような信仰の場所があれば、この考え 「荒ぶる神を押さえつけて大人しくして頂く考え」 を継承しています。 さらに中学生さんに(笑)、貴方のお家の庭に大石が突き立ててあれば、災禍をなす荒神さま、「どうぞ大人しくしていて下さいね」 という意味があると承知しておいて下さい。(^-^) さらに々に、頭に火のついたロウソクを括りつけ深夜のわら人形に五寸釘を打ち込むなんてぇのがありますから、その呪術は深夜に行われたのでしょうか? あな、おそろしや、恐ろしや!

 *別談ながら、たねちさん>の言に、
  「ここに焼かれた大石を祀る赤猪岩(あかいわ)神社があるそうです。」
   これは、出雲大社の御神体が「イノシシの形」をしているように思えます。
   空を飛んでるイノシシの上に、「三頭一身」の武神(満利支天?)を描いた
   掛け軸を見たことがありますから、すみませんが、Dr.>これについての
   コメントを下さい。御神体の隕石は、三分割したのかも知れませんから?

< 鷺峠に大岩があれば、その下に!?>
大岩があった<真名井遺跡>から、次なる埋め地の<鷺峠・さぎとうげ>へ向かいましょう。 ( 註; このように記述すると、さも実地を踏破したように思われるかも知れませんが、Yahoo!地図や、国土地理院の電子版地図上でのことですから、どうぞ誤解のなきように(^^!)
真名井から鷺峠に向かうには、大社の後ろ山・八雲山175mを挟んで右側と左側から上る二筋の道がありますが、首飾り?縄は、クネクネと曲がるのは嫌ですから右側の道を選びましょう。こちらの方が道幅は狭いようです。これも途中でクネッと合流してますから直に行きたいですね。この山塊には「出雲自然道」というのがありますから、遙か古代より受け継がれてきた隠れ山道に沿って整備されているのかも知れません。 車での通行は出来ないかも知れないので地元の人によく聞いて下さいね。大社の西から上がる方は、それより少し復員が広いようですが、それでも今は雪が積もっていると思われますので、雪解けを待ってからですよね!。

峠に着きました。国土地理院の地図で、その峠に立った東側の斜面を50mほど上ると“黒い印し”がついていますから、おそらくそれが「大岩」なのでしょうね。しかし、くれぐれも『俺が、私が一番手柄を♪』等と、現地破壊をしないようにしてくださいね。素人が言いたいのは、「その銅かやヒスイの勾玉」よりもその現状が大切だと思われるからです。そこに同サイズの大岩があれば100%です。100%の言葉は使いたくありませんが、このように祖先からの地名という伝言や、いわれを当時の科学だと気付ば簡単なことなのです。
もし、これで納得できない御仁がいたら、もう一度「カテゴリー出雲」を読破なさって下さい(^^!)。 それでも「???」が付くお人が居たら、「 どうぞ、御勝手に!」 Dr.~、ジイサマァ~、たろさぁ~ん・・・、どうかぁ“ブレーキ”をぉ~! 積年の恨み辛み・・がぁ゛噴・・(笑)

この鷺峠を散策して<次なる銅か勾玉の埋め地の鷺浦>へ向かいましょう。
しかし、こっからの北下りを国土地理院の電子版地図で見ると、雪が積もっていなくても難儀するかも? 雪崩注意報も出てたりしますからねえ。 引き返して、○道431号線に迂回して<畑口>あたりから<十六島・うっぷるい>方面からいくことに行くことにしましょう。 今日(2/9?) NHKの8Oちゃん号、十六島で♪

< 銅か & 勾玉 の 埋め地・鷺浦!>
鷺浦へ行くには、十六島側からのほかに、大社から西回りで<笹子トンネル>を抜けて行く方法があります。こちらの方が道が広いようです。このように書くと出雲を熟知してるかに思われますが、これも「ネット地図」での徘徊?です。(笑)
ここは、日本海に面した入江で、小さな漁港のようです。文珠院というお寺があります。<お宮>もありますが地図に、その名は付されていません。その社の裏手に大岩があれば、その下で「三点目」のヒスイの大勾玉が銅かによって「打ち付け」られています。銅かは、真名井遺跡と同じ鋳型で制作されたものだと予測しておきましょう。
 史実探偵: 平 素人

追 伸; つぎの「銅か」の捜索は、<大の字>の「ハネ部の2カ所」ですが、左ハネは<松江市!> 右ハネは<島根半島の日本海側にある島根!> 特に、左ハネの松江市は、師の御見識なくしては難しいのでよろしくお願いいたします。(深礼)
さて、ハネ部は竜の足ですから、首に架ける勾玉は埋められないですよね。(笑)何でしょう? 銅かという釘だけ埋めたとは思えません。師のお言葉に、「竜は金属を嫌う!」ガありました。これは大きなヒントになりました。青銅器ではありません。鉄です!現在の地鎮祭で四隅に『鉄球を埋めて』悪しきを鎮めるお祈りがあると聞いています。奴隷時代に鎖付き鉄球を足に施錠した歴史があります。『ハネ部には銅かと鉄球が埋めてあると結論します!』 西安の兵馬傭(秦代?)には青銅剣のみの出土ですが、その時すでに鉄器はあったとするお人がありました。ヒスイの珍重文化は中国、銅かも中国、加えて鉄球が出土すれば、きわめて時代も絞れてくるはずです。しかもそれ等が当時の最高技術で?最高品質で?あれば、それ等の技術者は日本にはなく?、大陸からの指導をうけたか、大陸へ発注したかの2通りが考えられます。・・・?、だん々卑弥呼に近づいてきたぞぅ~~~♪
<鉄球>であれば、大岩の脇掘って?金属探知機で簡単に!♪♪? '09.02.12

竜と銅・第九弾   shigechanizumo | URL | 2009-01-23-Fri 10:54 [EDIT]
情報提供です。日御碕灯台に行くとき私達は、柱状節理の上を歩くわけですが、その足元の石の形は、五角形・六角形のタイルを敷き詰めたようなものとなっています。敷き詰めたと書きましたが、まさしく規則正しく並んでいるのです。おや、これは、竜のウロコではと思わせるものがあるのです。さて、鷺銅山のあたりには、今は自然銅の路頭など見つけることは出来ないのですが、黄銅鉱や黄鉄鉱などはたくさん見つけることが出来ます。たまには手のひらサイズの塊を見つけることもあります。今でもそうなのですから、はるか昔はもっとたくさんの黄銅鉱や黄鉄鉱が露頭していたことでしょう。そして、黄銅鉱や黄鉄鉱の形は、これまた五角・六角錐すなわち水晶鉱石のような形なのです。そしてそれが、黄金色に光っているのです。今の私達でも、どうしてこんなものがここにあるのかと思うのですから、縄文時代の人達は、さらに不思議だったことでしょう。ここで、語り継がれている遠い昔の天変地異の記憶がよみがえるのです。底なし池を作り、不思議な重さの石を残した、あの天変地異、すなわち隕石の落下の記憶です。とすれば、柱状節理も、黄銅鉱・黄鉄鉱の神秘性も、すべてあの時の天変地異に結び付けて考えられるようになったのではないでしょうか。そしていずれも五角形・六角形、これは竜のウロコに似ているとすれば、あの天変地異は竜が引き起こしたものだと考えるようになったのではないでしょうか。


< 逆鱗に触れる!>
Dr.>、 まさに “逆鱗に触れる”とは、このことをいうのでしょうか。「Dr.コメ第九弾」は、その逆鱗のようで、今の素人には、恐ろしくて記述することが出来ません。
   『 わしを起こすと、その鎖を解くと、大変なことになるぞ! 心してかかれいっ!』 

でもね、私には、それを両脇で支えてくれる <優しいじいさまと、力持ちの太郎さんと、じっと(笑)観ていてくれるクルー> がいる! 躊 躇(ちゅうちょ)するわけにはいかない。

竜と銅・第十弾   shigechanizumo | URL | 2009-01-23-Fri 14:41 [EDIT]
平さんの迷惑を顧みず、第十弾です。平さんの出雲竜についての着目は、これまでの見解を塗り替えるものだと思っています。その理由は、出雲竜を中心に様々な出来事を見ていくと、謎とされていたことがすごく分かりやすく説明できるからです。
その一例を私の見た目から述べてみます。私は、なぜ出雲が古代からの信仰の発信地だったのか、よく分かっていませんでした。単に、出雲の人々は信心深かったからだとか、渡来人がもたらした新しい宗教形態が出雲に到来したからだとか、もっともらしい理屈をつけていたのです。
しかし、信仰や宗教の根底には、人知を超えた出来事を目の当たりにしたという、あるいは驚愕の事実に遭遇したという、人間の実存を脅かすことに出会ってこそ、そうしたことに出会わなかった人達と異なる心象を抱くことになるのだという単純なことを忘れていました。
そして出雲が、日本列島の中でもまれな、神々の物語や、宗教的特異性を持っているということは、出雲の人々が過去に、人知を越えた出来事に遭遇したという事実がそうさせたのだと考えるのが妥当であろうと考えるようになりました。
それが出雲竜の出現と、出雲竜のその後だったのではないでしょうか。宗教を広める、あるいは自分達の宗教が他の土地の人に認められるというためには、その宗教を語る当の本人に、確たる信念がなければなりません。その信念を湧き出させるのは、自分達あるいは自分達の祖先が、とんでもない体験をした、そうでない人達にはわからないであろうという、心の核を持たねばならないのです。
出雲の人々には、その心の核が、意識するにせよ、はたまた無意識の深層に横たわっていようと、出雲竜の出現という、原体験だったのではないでしょうか。その原体験が宗教的な様々な派生物となったり神々の姿になったり、あるいは敬虔な信仰心となったりしていたのです。
ここから出雲特有の、しかも出雲という地域にとどまらずに広く受容された、出雲発の信仰や神々、そして神話や・伝承が発信されたのではないでしょうか。信仰や神々のことをもっともらしく語ったり広めたりするのは、もしそれらが薄弱な根拠しか持たないものであれば、本当は恥ずかしくて語れるものではありません。しかし、古代より出雲の人々は自分達の神々や信仰を誇らしげに語っているのです。その根源は、出雲竜にあったのだと説明すれば、私達出雲人は、厚顔な人々ではないと分かってもらえるのではないでしょうか。独りよがりのコメントになりましたが、ご笑読くだされば幸いです。


「迷惑」だなんて、なにを仰いますやら、 Dr.あっての<解明>です。 ただスピードのほうがぁ^^!) そんな Dr.には、拙著の電子出版 ¥500「文芸社」 
極秘報告書「巨大隕石と大津波」 ←クリックOK!
をお勧めします。 そこで時間つぶし?をなさっていて下さい。 これには、もっと々恐ろしいことがぁ~゛

<出雲地方の特異性について>   八百万の神々が集まるほどの!
出雲地方の特異性について、素人は次のような(シナリオ)を考えています。
 1.BC.2001年12月25日の<西行き・列島大事変・巨大地震と巨大津波>の共有したこと。 (カテゴリー・巨大隕石と大津波を、参照してください)
 2. それがたどり着いた西止まりの最終地に、海に浮いた特異形状・長さ約60km、幅約5kmの竜蛇形の島根半島があること。
 3. その島根半島自体の特異性(Dr.述)に、加えて特異な天変地変があったと思われること。 これは、この記事の本論ですから、あとのお楽しみに(保管)しておきます。(^^)♪
 4. 金属(銅鉄)文化がなかった以前でも、海と干潟があり、山に鳥獣が生息し、その植生等に豊かな生活環境があったと思われること。 筆者は、大事変前の平均気温を今より約15℃高かったとみています。(電子出版・報告書で)
 5. そして、大陸の近く位置し、進んだ大陸文化が早くに取り入れられる列島1. & 2.の?優位性があること。
 6. 露出銅鋼(Dr.述)があり、それが石器としても有用であったと思われ、砂鉄等においても豊富な鋼資源があり、それ等に目をつけた大陸人によって鋼文化が列島の他の地に先駆けて進んだと思われること。これにより、列島各地からの『銅鐸の制作・修理・大型化の依頼』があったと思われること。
 7. そういった環境下で、何時とは特定出来ませんが<大社御神体隕石?>の降下があったと思われること。 
 8. これはその後になりますが、『卑弥呼が埋めたか、埋めさせたかの大量の銅鐸と銅剣』が、今現在で野洲や神戸に比していちばん多く出土しており、加えて「銅かとヒスイの勾玉」が出土すれば「卑弥呼が出雲に?」の可能性がきわめてたかくなってきたこと。
   ◎3.の島根半島特異な天変地変はこの記事の末尾に予定しています。(^-^!)
   ◎7.の出雲大社御神体隕石?、これは只今探求中で、これからの課題。
   ◎8.の出雲に卑弥呼がいたとなると、俄然その優位性は高くなってきます。

Mr.平 素人 | URL | 2009-01-24-Sat 06:42 [EDIT]
Dr.~!> はやすぎ、速すぎますう~^^!
まるで、Dr.が少年の頃から抱かれていた疑問と、いずもの歴史とが怒濤の津波となって押しよせてくるみたい^^!> 師のおっしゃる「出雲の断片を見て、いずもを論じて欲しくない!」。  <出雲に八百万の神々が集まるほどの力> が何故生まれたのか?を私も知りたい。 今後ともよろしくお願い致します。 氏はPCピアニスト♪、私は人差し指二本のノコノコ亀!あとからゆっくり付いていくことに致しましょう(笑)。
 只今(1/24)、 Dr.コメント第二弾へ(銅について)を加筆挿入ちゅうです。(^^!)
えっ!?、Dr.が<PCピアニスト>だと、なぜ分かったのかって?
種明かしは簡単♪ Dr.は、コメントを連ねることがあります。例えば00:40分に、続けて、00:42分に400字のコメントを! えっ!?、400字以上打てるって^^!) ついでに、他のクルーを紹介します。( ついでかよー、怒^^!) あるお人が稲穂を前にして田園風景を写しました。それには、赤とんぼが小さくこっち向きに写っていました。それはアップにしなければ分かりません。赤とんぼは一度逃がすと、なかなか次には寄ってきません。じっとそのシャッターチャンスを待っておられたのでしょうね。「偶然という必然性を」。 あるお人は富山湾を前にして曇天の下に連なる白く輝く能登半島を写しておられました。わたしは能登半島に前述の記事の中で金鉱?とか、交通路の遮断とかの思いを乗せて、じっと魅入っていました。と!?汚れのようなものが?虫眼鏡でみるとカモメでした。この方もその一羽がカメラアイに入るのを待たれていたのでしょうか? 写真に生き物を入れるとがぜん生気が入りますからね。 あるお人は愛児の後ろ姿を載せることがあります。ふつう後ろ姿は撮らないもの? 又、あるアルバムにはパパの姿は、ほとんどありません。その多くの写真を撮った父のまなざしを何時感じてくれるのでしょうか。 又あるお人は、ブログ友の死に際してシクラメンの花を掲げておられました。なぜでしょう? 和名は「かがり火草」。花言葉は「過ぎし日の楽しい時間」。そんな思いの献花だったのでしょうか・・・。素人は謎解きに、行づまった時そんな時間をもつことを覚えました。 一枚の写真に30分でも1時間でも・・・。

竜と銅・第11弾   shigechanizumo | URL | 2009-01-26-Mon 15:47 [EDIT]
地名が出てきましたね。実は、十六島のみならず、よく考えると日本語離れした地名が島根半島にはたくさん見つかるのです。例えば、美保関灯台の近くには、軽尾(かるび)という所があります。野波(のなみ)というのも、海に面した平野などない場所なのに、野というのもおかしいですね。また、七類(しちるい)という所も少し様な響きですし、さらに、手結と書いて(たゆ・い)という所もあります。そして、恵曇(えとも)というのも普通では読めません。また、地合(ちごう)というのもなぜ地合なのか、よくわかりません。また、釜浦というのもありますが、なぜ海岸の小集落が釜なのか、そして、十六島です。その西の、猪目、鵜峠、鷺浦、宇竜もなんかおかしい。特に、宇竜は以前は、宇礼保(うれほ)と言っていたのですから、余計におかしい。なぜそのような名前がついたのか、『出雲国風土記』には詳しく書いてありません。半島側ではない所の地名には、オオクニヌシやスサノヲゆかりの地名起源などがたくさん載っています。しかし、半島側には、恵雲の地名起源は載っていますが、それ以外はほとんど載っていないのです。さて、十六島(うっぷるい)は、一説には、ご存知でしょうが、アイヌ語だという指摘があります。確かに、(っぷ)などは、ノサップを連想させたりします。また、別というのも江別、登別、紋別などの別とも考えられなくはありません。しかし、有力な説とはされていません。平さんのお考えを前提にすると、ひょっとして、北方で起こった大津波が、その人達を押し流して来たのかも知れません。そして、朝鮮半島の人達とのとんだスクランブルがあったのかも知れません。ご明察を・・・


茶飲み話 ♪
Mr.平 素人 | URL | 2009-01-26-Mon 20:59 [EDIT]
Dr.こんばんわ> コメントありがとう御座います♪
かわった地名たくさん出てきましたねぇ~。 <地名&言葉>に関しては、Dr.のお得意分野!素人のほうが反対に聞きたいですう♪ 私の歴史的知識のほとんどは、御ブログで得たもの^^!  なかで出雲の方言・言葉には大陸の響?があるという記事がありましたが、素人には、そのことも含めて「除福」のベースキャンプ地が出雲では?の疑問か頭から離れません。 ところで、中国の京劇と安来節の「高音部」が似てると思いません? お面なんかも「京劇と神楽」似てる? 以上、ハチャメチャ、どうぞのご見解を!(^^!) 
茶飲み話 つづき♪
たくさん出てきた<地名伝言>のなかで二つ・三つを。 あとは保留か、どうぞのご勘弁を!
<軽尾>よく動く、つまりその地が波打った? <野波>がどこにあるのか知りませんが、これは師が興味を持たれている富山平野の<砺波・井波→海岸線から20km以上>と同類の名付けで、4009年前の列島津波が押しよせた跡かと? <宇竜は以前は、宇礼保>「宇」がつく地名は、「鵜呑みの、宇」と解釈しています。つまり、津波が海水を丸飲みして魚だけをその地に残して引き去った跡かと?このような所には<垂水>と付くことがあります。<釜浦>わたしも、その伝言が解けなくて悩んでいます。今は、宇竜>→竜の口部?とあわせた「お釜神事」かなと思ってはいますがウラが取れていません。 半島側は本土側と「別意」の地名!ありがとう御座います。 とても興味がわきました。(^-^)♪

追分   shigechanizumo | URL | 2009-01-28-Wed 10:52 [EDIT]
中国の京劇と安来節の「高音部」とは少し異なりますが、出雲には出雲追分というものがあります。出雲のような平野部で、追分とは珍しいのですが、これは東北の追分と同じ傾向だそうです。特に高音部の響きに特色がありますね。一説によると、ウラルアルタイ系の高音で、、スイスのヨーデルとも関係するそうです。なぜ出雲に追分が・・・。


Dr.~> 知りもしないのに何にでも首を突っ込むのが素人の悪癖。
どうぞご笑止ください。 そう言われれば、東北にも<追分け>の地名が? 美空ひばりさんの「りんご追分け」が有名♪ 出雲の追分けは、牛馬ではなくてヒョットして津波の分かれ目かも??

砺波・井波   shigechanizumo | URL | 2009-01-28-Wed 11:22 [EDIT]
平さん、さすがです。砺波・井波と野波の関係は、出雲の郷土史家さんからもいくつかの指摘があります。そしてご指摘のように、「砺波・井波」という富山県の地名が出雲から伝播したのか、その逆なのかも論じられています。また、国引き神話の、「良波」、丹波との関係も見過ごせません。


ここへの書き込みは、2/15です(ノコノコ亀より(^^!)
Dr.> 私は、除福(約○○年前)~卑弥呼(約○○年前の)日本海側の交流を、つぎの三つの混合として想像しています。①は、除福集団のもつ航海力と寄港の開発 ②は、中国に比して稚拙とはいえ琵琶湖で竜神船・工船の下地があった近江(商)人が除福に影響されて日本海へ繰りだした? ③は、「越中富山の薬売り」は、昔から有名!この人達が陸路の開発? これ等は一朝一夕にしてなるものではなく、出雲へ神々(地方神の神託をうけたお太夫さん)が集まった時には、すでに出来上がっていたのではないかと思っています。でないと竜神文化を色濃く残している?青森県の<十二湖・艫作崎>の説明がつかない。いちばんの難所は?能登半島廻り! そこで考えた船の係留♪東行きは、河北潟に船とめて残員おいて<倶利伽羅峠>。西行きは、<新湊>から倶利伽羅峠! いや待てよ。<七尾>からのてもあるか?等と考えてみる素人探偵でした。(^^!)

おやっ   shigechanizumo | URL | 2009-01-28-Wed 11:26 [EDIT]
「猪目、鵜峠、鷺浦、宇竜」と出雲竜の頭の地名を列記しましたが、いずれも動物に関係していることが分かります。出雲の地名で動物に関係するものは、この他では、生馬などが散見されますが、あまりないのです。なぜ、島根半島の西端の海岸部の地名に、連続するように動物由来の地名があるのか、・・・おやっ!です。


Dr.~> そうですねえ。
西出雲には概して鳥獣名が多く、特に大社裏の山塊は気になっていました。祖先が地名をつける時、原則的には、そこに住んでいた人の<一番の関心事>につけるわけで、漠然と朝鮮半島の狩猟を糧とする人達の移入かなぁと思っていましたが、師の云われた、北方系の人達のセンも捨てがたくなってきました。

噴火   shigechanizumo | URL | 2009-01-28-Wed 15:30 [EDIT]
「三瓶町多根小豆原地区には、約4000年前の活動で埋積された巨木群が存在し、「三瓶小豆原埋没林」として国の天然記念物に指定されている。」・・・三瓶山の最後の活動時期が、大津波の時期と重なります。何かあるのでしょうか。


Dr.~> それは耳よりな話です!
史実探偵:素人は、三瓶山の噴火情報を『3500年前』だと得ています。富士箱根辺りや、岩手山の大きな最新噴火も、3600年?~3700年?前かと受けとっています。その500年ほどが埋められないのです。勿論!それ等が4000年前であったらいいなと思っているのは、言うまでもありません。さらなる詳しい情報を下さい。( 「何かあるか?」その理由を、どこやらの記事に書いたのですが思い出せない、・・笑?)
思いだしたのではなくて調べました(汗!) その記事は<BC.2001の巨大隕石>東北に!

ご指摘   shigechanizumo | URL | 2009-01-28-Wed 15:38 [EDIT]
平さんも、同様の指摘をされていますが、三瓶山の4000年前の活動による、砂礫、火砕噴の流出が、神戸川に流れ込み出雲平野の沖積を早めたとされています。天変地異は必ずしも害悪だけをもたらすのではなく、その時点では害悪だったことが、後の時代の恩恵になるという点は注目すべきことではないでしょうか。


ここへの書き込みも、2/15です(ノコノコ亀より(^^!)
Dr.> 三瓶山の噴火が4000年前?かどうかを除いてまったく同感です。 桜島大根! 出雲の大根!のように、火山灰は根菜類がよくできるといいますからね。


釣りじいさん | URL | 2009-01-28-Wed 16:25 [EDIT]
地球はある時真っ赤に燃えていた、やがて大きな雨雲が現れ延々と雨が降ってきた、そしてそこに日が差し始め、生命が誕生した。あの・・・つまりですね~、その雨雲が登場したことにより現在の地球が存在しているわけで・・・その、「雲の出ずる国」が出雲で、その雨雲に乗って登場したのが「出雲竜」だったとか・・・ま、Dr.やMr.さんのような学術的根拠もデータも持たない庶民のクルーとしては・・・取りあえずロマンチックにとらえてみました~、にゃは! いやいや、茶化してごめんです!!

水と、生命の誕生!?   Mr.平 素人 | URL | 2009-01-28-Wed 20:14 [EDIT]
釣りじいさま> コメントありがとう御座います。 お待ちしてましたよん♪
     < それが、今いわれている「地球誕生科学の最前線」ですね。 >
(Dr.~、チョット、コメ返;お待ちくださいね^^!)
じいさまぁ;わたし、その件にかんして「中坊」のときより抱き続けた疑問があるんですよぉ。(中坊は、中学生のこと。当ブログのクルーには何人かの先生方がいます ^^!) いつかその事に関して「私見」を述べる機会はないかと! 理科の実験でアルコールか?なんかをビーカー内で燃やすと、その内面に水滴ができた? びっくりしましたねえ「火を燃やして水が出来るのかぁ?と!」 反対に、水を電気分解すると、水素と酸素に。 当時には、原子核と電子はあったと思いますけど「原子」が物質の最小単位と教えられました。 「慣性の法則」 「質量普遍の法則」 「質量とエネルギーは等価」等、こども心をワクワクさせる言葉が、先生の口からポンポンと飛び出してきました。 今の私に内有する 「こども心」は、その時に出来上がったといっても過言ではありません。巨大隕石のぶつかり合いで発生するエネルギーは核爆弾の比ではありません。 衝突の接触部においては、たとえそれが岩石であろうと金属であろうと、核分解をおこし、質量の小さいヘリウムや、水素、酸素、の「様々」にまで細分化する。 そして、その衝突熱が冷える時、より大きい原子量の窒素等に収束する? さらに窒素は水素と結びつきアンモニアが出来る。 そのアンモニアが巨大隕石の衝突のうちに蛋白質へと重合する。 言い換えれば、中惑星型の衝突で水が出来、その原始水惑星に小惑星がぶつかり冷える時に蛋白質という{生命の元}が誕生した。 (これ全くの素人考えですから間違いがあるかもです。^^♪)
その誕生した水量の海水を酸素と水素に戻すには、どれだけの電気(衝突)がいるのでしょうか? もはや、雷様でも無理かもね・・・、(笑)


<驚愕の(島根半島)出雲竜・Ⅱ>へつづきます。♪ 
   
驚愕の(島根半島)出雲竜! ・Ⅱ
           <驚愕の(島根半島)出雲竜!・Ⅱ>
      つぎに揚げるのは、拙・電子出版 極秘報告書「巨大隕石と大津波」の
   第一章<巨塊衝突・祖先からの伝言>の “おおまとめ” を軸に、前作同様<Dr.izumo氏のコメント>と、{♪シップのクルー& 新来の方>のコメントを揚げて、この記事をつくりあげています。どうぞの御参加を! ただし記事にUPしたコメントは、先々に本になるやも知れませんので著作権の移譲等、ご了解での投稿をお願い致します。 後世の為に、御自分の名を刻んでおくのも愉しいと思いませんかぁ?(笑)
   
< Dr.~ & クルーの皆さん & 新来の皆さん > 愉しいコメントいっぱい書き込んどいてくださいね♪ 関係ないCMも大歓迎ですよ。息抜きができますからね。(但し;即返はないかも~^^!) わたしは後から、ゆっ・く・り・と~(笑) 

【 八つ目の宇宙という海へ(Dr.命名・略して宇海へ)漕ぎ出す新しいクルーを募集 】 しています♪
 


一太郎 | URL | 2009-02-02-Mon 06:05 [EDIT]
驚愕の(島根半島)出雲竜!・Ⅱスタートですね
(・・||||rパンパンッ

“たろさん” コメントありがとう御座います♪。
 「応援する、パンパン」 だけで励みになります。ご遠慮なさらず時々入れてくださいね。(^^) 
「はい。始まりました」と言いたいのですが、仮想メモリが少なくなり、文字変換スピードまでが、超遅っ! 苦肉の策で<新しい記事>を立ち上げました。これから、前の記事のコメント欄の移設を始めます。 Dr.へのレスは後追いになろうかと思いますが、もう「Dr.を止められない!」(笑) 力つよい応援ありがとう御座います。 (・・||||rパンパンッ、 この文字化け?何時か解いてやろうと思ってはいるのですがぁ゛~(^^!)

釣りじいさん | URL | 2009-02-02-Mon 13:23 [EDIT]
いよいよパートⅡですか!!
ほんと、Mr.やDr.の「徘徊エネルギー」(いやいや、冗談ですよ~)には感動もんでやんす。そのエネルギーを少しお裾分け頂きたいもんです。頑張ってくらはいね~、徘徊し過ぎでお風邪を召しませんように、にゃは!

“じいさま” コメントありがとう御座います♪。優しいお言葉をありがとう御座います。
じいさまは、今が一番大切な時、充分な睡眠を! わたしの記事は亀さんですから、たまにで。
ええ。思考がからまってくると何かと、安らぎを?求めて「徘徊癖」が出てくるんですよう。夜中の2時でも、3時でも (^^!) その節は、ご迷惑?お世話になりました。 今後ともよろしくお願いいたします。
『 Dr.へ、火を付けたのは、わたしです。その責任は、さいごまで!』 あちゃ~!←ぱくり?



    以下<驚愕の(島根半島)出雲竜!・Ⅰ>から、Dr.コメントを移行しています。

距離   shigechanizumo | URL | 2009-01-29-Thu 09:34 [EDIT]
「稚内(ワッカナイ)」・・・「十六島(ウップルイ)」似てるな~。奥尻島にコトシロヌシの青苗神社(江戸期)。「島根半島鷺銅山の竜山」・・・「男鹿半島の八竜」。「島根の飛竜さん・・・青森の竜飛岬」。「出雲大社の巨木文化・・・青森の三内丸山の巨木遺跡」。「島根半島の軽尾・・・北海道の奥尻・利尻」。「宍道湖・中海・・・青森の十三湊・秋田の八郎潟」。・・・距離が離れているけど、似てるな~。


Dr.~> コメントありがとう御座います♪。(2./15に コメ返です^^!)
出雲から、いっきよに北海道まで飛びましたかぁ(^^) 日本海沿岸には<地名的>にみても共通した歴史があるとみられ興味をそそられますねえ。 わたしは八百万の神々が出雲へ集まる北限が、青森県の<十二湖>かな?と思っていましたが、<奥尻島>もですかぁ。 東北地方で気になる<地名付け>があります。『 数字番号が多いこと?』何故なんでしょうか。
例えば、<一戸~四戸が無しで?~九戸>、 日本海側で、八郎潟、八竜、五城目、二つ井、八森、十二湖、十三湖、五所河原、三厩。 太平洋側へまわり、六ヶ所、三木原、八甲田山、十和田湖、三沢、・・・等々・・・!? ( 汗だくぅ~!) 『 ええぃ! 異国の名前は、判りづらいっ!伝えにくい!』 地元名に番号付けて呼んでやれっ! とでもいって徐福集団が番号をふったのでしょうかぁ???

釣りじいさまへ> Dr.より、   shigechanizumo | URL | 2009-01-29-Thu 10:48 [EDIT]
『「雲の出ずる国」が出雲で、その雨雲に乗って登場したのが「出雲竜」だったとか・・・』。
白鵬の雲竜型・・・確かに雲は竜を呼ぶ・・・あるいは竜は雲を呼ぶ。ということは、出雲は出竜。竜は何時までも雲の上を漂っているわけではありませんから、どこかに身を置かなければなりませんね。その身を横たえたところが、出雲・・・島根半島。時として、男鹿半島、竜飛岬・・・。お尻・尻尾が奥尻・利尻。。。。オオッツ・・・。


男鹿   shigechanizumo | URL | 2009-01-29-Thu 10:54 [EDIT]
男鹿とありますが、竜の角は、鹿の角を模したものとも・・・鹿≒竜。男鹿とは男竜。島根半島に鹿島町。島根半島に鵜・鷺の地名。鵜・鷺は水鳥。竜も水棲。


ふーん   shigechanizumo | URL | 2009-01-29-Thu 11:07 [EDIT]
今年はことのほか、日御碕の経島(ふみしま)に飛来する海猫が多く、その乱舞する姿は圧巻です。この、経島は、海猫の繁殖地の南限とされ、その珍しさ規模から、国の天然記念物となっています。海猫の繁殖地は、中部の日本海側にはあまり見られず、ウミネコのWIKIによれば、『繁殖地として、国の天然記念物に指定されている箇所は以下のとおり。青森県八戸市蕪島 、岩手県陸前高田市椿島 、宮城県女川町江島 、山形県酒田市飛島 、島根県大社町経島』とされています。やはり北と出雲のつながりはここにも潜んでいました。


ふーん②   shigechanizumo | URL | 2009-01-29-Thu 11:16 [EDIT]
海猫に限らず、鳥の繁殖地は、鳥の持つ本能の帰巣本能との関係ではないかとされています。ではなぜ、東北青森・山形と出雲が結ばれ、しかも出雲に至るまでの間に繁殖地がないのか・・・。4000年前の記憶が、出雲と東北の日本海側に残されている・・・すなわち、平さんが指摘されるように、東北から出雲に何かが飛来した。その物質が、南限の出雲の繁殖地を生み出した。つまり、出雲の経島には、東北と同じような、海猫の帰巣本能を活性化させる物質が、距離を越えて存在するのではないか・・・。


Dr.~> コメントありがとう御座います♪。(2./16に コメ返です^^!)
海猫の乱舞♪ 圧巻なのでしょうね。 鳥類がなぜ渡りをするかということについては、食餌の欠乏や、気温の変化、日照時間の変化、あるいは鳥類のもつ帰巣本能等、色々と考えられているようですが、はっきりしたことは分かっていないようです。 渡り鳥のなかには、南極から北極まで渡りをする種もあるそうですから驚きです。素人は、Dr.も考えておられるように何かの異変によっても{渡り}が発生すると考えています。Dr.に誤解を与えているようですが「東北地方からの直接的な飛来ではなくて、東北地方からの変移です」^^!) 渡りの多くは南北の緯度方向であって東西に渡りをするとは聞いていません。その何かとは、先に申し上げた「隕石の冬」です。 これによる長期的な気温の降下によって南下を余儀なくされた種が、永代的な遺伝子の変換と、帰巣本能とがあいまって渡りが発生したと考えていますから、ヒョッとして出雲の<経島>の海猫もそうなのかもしれませんね。
(中学生さんに♪) 鳥には、その他<刷り込み>といって、たまごの殻打ちをして外界へ出たとき、最初に見た動くものを親と認識する本能?があるそうです。 ひるがえって、今の私達も、現科学を確定的にとらえず「最良的」なものと認識したいものです。

ありがとうございます!   釣りじいさん | URL | 2009-01-29-Thu 12:38 [EDIT]
Dr.& Mr.さん!
わしのしょもない幼稚なコメントにご丁寧な説明を頂き、汗顔の至りでやんす~。こんなど素人がいてもええですよね?
庶民派クルーとして、お二人のやりとりをしっかり拝見させて頂いておりますよ~。頑張ってくらはいね~、男のロマンバンザイ♪

“じいさま” コメントありがとう御座います♪。( 2/2記入)
ど素人だなんて、とんでもありません。ど素人なら、わたしが上。(笑) Dr.も、じいさまも、レベルを落として下さってお話をして下さっているのは分かりますが、それでも中学生程度の知識しかない素人にとって、Dr.の言葉には難解な部分があります。 この「報告書」は、中学生にも分かって欲しいと願っています。 第一Dr.と、素人の二人よがり?では、観客なしの二人芝居? 「いょっ~、待ってましたぁ♪」のかけ声があるほうが演技も生きてこようかと思いますので、今後ともよろしくお願い致します。(^-^)♪ 

失礼   shigechanizumo | URL | 2009-01-29-Thu 16:53 [EDIT]
訂正です。白鳳は不知火型でした。朝青龍が雲竜型でした。


<!愕!>   Mr.平 素人 | URL | 2009-01-29-Thu 20:04 [EDIT]
ちょっと、ちょっとぉ~~~♪
Dr.ったらぁ゛~~> はやすぎ、早すぎ^^!) それに 「なんですか」
釣られたとはいえ <じいさま>までぇ~~♪
「いいですよっ♪ お二人で愉しんでらっしゃい♪」  どうせ、わたしはノコノコ亀! あとからゆっくりついてきますっ! <じいさまのおはこ>盗ってってやるぅ! こんなDr.今までに、みたことない<ぶつぶつ!>(^^!)

Dr.~!> 二武神の話どこに書いたか思いだせません。(^^!) Dr.が云われた出雲風土記でかな?? 備中神楽では、二人の武神が八岐大蛇(やまたのおろち)退治をする場面があります。角力の円形土俵(鏡形?)。四隅の柱。奉納相撲では四本の笹竹( 神奈備山!)。弓取り式?。横綱?。これ等は、一連の歴史のなかにあると思えてなりません。 ヒョッとして、Dr.と、素人は、同じ思いかも・・・?(笑) (2/17)

shigechanizumo | URL | 2009-01-30-Fri 16:55 [EDIT]
次のような記事がありました。・・・『出雲平野の北に広がる出雲北山山地は、今から2000万年から2500万年前に生成されたといわれている。泥岩や砂岩などの堆積岩と海中で火山噴火を繰り返しながら形成された火山岩からなり、摺曲や隆起を繰り返して現在のような地形になったそうです。昔の国引き神話では、大山と三瓶山を杭にして新羅の国、佐伎の国や良波の国から余った土地を引き寄せて島根半島を作り上げたと言い伝えられています。ロマンですね。真偽を確かめるためにこの半島の最高峰から見渡してみたいものです。・・・この山塊はホンシュウジカの生息地ですから、どちらも鹿よけのゲートを通って進むことになります。 ・・・』
北山の反対側が、中国山地の南山です。不思議なことに、出雲の南山には、ほとんどホンシュウジカはいないのです。鹿≒竜・・・・????


Mr.平 素人 | URL | 2009-01-30-Fri 20:56 [EDIT]
Dr.> こんばんわ♪ コメントありがとう御座います。
二千万年前の出雲北山山地には考えも及びませんが、すでに神代に国引き神話として素人と同じ「島根半島引きずられ論」があったことに驚きを覚えます。特に北山の本州鹿は遠い昔から<鹿=竜>として保護されていたのでしょうか。これから揚げる、第八弾の“コメ返”に関係するようなので、そちらで私見をのべることに致します。貴重なご意見と情報ありがとう御座いました。深礼(^-^)

なるほど   shigechanizumo | URL | 2009-01-31-Sat 11:09 [EDIT]
すばらしい考察です。私が返答できる範囲でとりあえずコメントします。
⑦その池の周囲に<ストンサークル状>の石組みはないか?・・・・
Re:ストーンサークル状の石は、私がblogに紹介したように、鷺銅山へ向かう途中にあります。 http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/54676390.html・・・ご参照下さい。
②その池の形と、サイズは?・・・
Re:円形です。直径20mぐらいです。
③その池の深さは?・・・・
Re:指摘したように、棒でも、竿でも、ズブズブとどこまでも入っていきます。底なしです。
④「低湿地の泥地であった」 とありますが、
軟着陸か?・・・・
Re:池の北側は岩盤が剥き出た山肌のようになっています。池の東西はやや盛り上がっていますが、南は平地になっています。
⑤その 「飛来の方向」 は?潮温泉の近くに<飛石>の地名がありましたが何故か?・・・・
Re:海潮温泉の周辺には、飛石・湯石などがあり、鏡神社もあります。また、刈畑という所からは、名前が示すようにカリ=金属であり、銅鉱山がありました。また、金山・金成という地名もありここからも銅が採れていました。さらに、薦沢という所がありますが、これまた薦(すげ)=鉄ともいわれ鉄・銅が採れたそうです。


Dr.~> コメントありがとう御座います♪。(2./18の コメ返です^^!)
又々、Dr.が誤解をなさるような表記をしてしまいました。ごめんなさい。 ご存じのように、ストーンサークルの和訳は環状列石ですが、これには。色々あるようです。円形に石を敷き詰めた中心に大きな石を突き立てるもの(大湯)。
等々、(あとで調べて・・・、 ^^汗ぇ~!) Dr.の云われる噴墓は別の意味かも?
ではなくて、鏡の池の円周上に縁取り石があるか、ないかです。何のためかというと、ここが、その 「隕石が落ちた場所」 だと記念に印しておくためです♪
『円形で20mぐらい』は、その御神体・隕石の重さを250kg~300kgとして、想像したとおりの大きさです。自動車爆弾がその程度の穴があいたといいますからね。今、御神体は60年に一度とかの本殿やりかえのために仮の宮に移されていますよね。その石を秤ではかるなどと罰当たりなことは出来ませんが、何人で担いだのかを調べれば、ほぼ予測はつきますよ。(一人あたり50kg?)その人達に聞くことが出来れば一番たしかですけどね。この移動は集目を避けるために四方を竹笹と白布で囲み闇夜に行われたのかな?魏志倭人伝では、卑弥呼の移動で?人々草むらに隠れて?ひれ伏したとか?これは後の「土下差」に変わっています。
さて、その深さですが、直径が20mなら、その<半径分の10m>は欲しいですね。形状は、干渉物がなく均一な土質であれば<きれいなお碗形♪>。 これを調べる方法ありますよ。 池面に方眼状に綱はって、各々のポイントに釣り糸を垂れてその水深を記録する。 ねッ! じいさま♪ ただし、これは周囲の奇異の目に耐えうるだけの勇気がいりますけどね。(笑)
第一お宮の宮司さんが許して下さらないかも~> そして、その鏡池が天然地形か、人工状か、はた又、隕石の痕跡でできたものかを伺ったり考えたりしたいものです。
Re:池の北側は岩盤が剥き出た山肌のようになっています。池の東西はやや盛り上がっていますが、南は平地になっています。
Dr.> これは儲けものですよ♪ 北側の岩肌に<擦過痕か溶融痕>のありや、なしや! そして東西の盛り上がり土のなかに、岩石の<溶融した微粒子と、形状>が含まれてはいないか? 南の方の平地は、その隕石を掘り上げる時に足場をつくるために平らにしたのかもしれませんね。
<さぁ♪ クルー & ブロガーのみなさん!> 次なる貴方の行動は?? わたしの場合は「全部、イヤっ♪」 だって其処まで出かけるのもねえ・・・^^!。 それに寒いしさぁ。≪吉備の大量の銅剣捜し≫も大詰めが残っているしぃ・・・♪(^-^)♪



 *前の記事<出雲竜・Ⅰ>からの転載です。

【 出雲大社・周辺図式 】
                 約1km   <出雲大社>   約1km     島根半島60km長
  {     △奉納山                           →本郷  
{      (73m)     山根                            
  { 仮の宮  中村  新町 東新町
  { (標高2.5m~5m6m)                              
{  赤塚                                         
  {                                                
  {    南北におよそ20m~30m高さの断続的な丘陵の連なり          
{ △ 妙見山(56.9m)
  {   神西湖
  <三瓶山>                                     <大山>

地図   shigechanizumo | URL | 2009-01-31-Sat 11:31 [EDIT]
よく出来た地図です。特筆すべきは、妙見山が載っていることです。妙見信仰は、飛鳥・奈良時代あたりからとよく言われていますが、ここにある妙見山の信仰は、その先史があるとにらんでいます。ご存知のように、妙見信仰は、北斗七星・北極星に関する信仰ですが、要は星辰信仰です。出雲大社の近くから夜空・星を仰ぐと北山が邪魔をして、満天の夜空を仰ぐことは出来ません。しかし、この妙見山に至ると、東西南北、地平から水平線に及ぶ夜空を仰ぎ見ることが出来ます。平さんのご指摘からすると、出雲の人々は、4000年前に衝撃的な彗星の落下を経験しました。再びの衝撃はいつか、どこから降ってくるのか、・・・夜空を気にするようになったのではないでしょうか。ここの妙見山からはパノラマの夜空を観察できるところから、出雲独特の夜空への関心が先行していた場所なのです。それが、たまたま後の世に登場した妙見信仰と習合したのだと考えています。従って、ここの妙見山は、他の地域の妙見山とは異なった意味深い記憶を持っているのです。


Dr.~> 拙図をお褒めいただいて、ありがとう御座います♪。(2./20に コメ返です^^!)
<妙見山と奉納山>の地名は、祖先が「国引き」の綱にみたてた<湖稜>周辺の地図を精査している時、たまたま出合いました。「何かあるな!?」との疑問のままでいましたが、多少のニュアンスは違いますが、こうまで Dr.に解説して頂けるとは!、との高まりをおさえることができません。

<祖先(卑弥呼以前)は、大社設営の地で、どんなお祈りをしていたのか?>
<妙見山について>
師の云われるように<妙の地名>がつく「妙見さま信仰」には、早くから興味をもっていました。 わたしは、「妙」とは、妙なる光。すなわち≪彗星≫をイメージしていました。 そのおぼろげなる考えが師の言葉によって確信に変わりました。 師の言葉で「出雲大社の近くから夜空・星を仰ぐと北山が邪魔をして、満天の夜空を仰ぐことは出来ません」があります。 四千年前の列島を襲った大事変の前ぶれは、彗星の出現によって始まった。 いうまでもなく彗星は、辰巳の方向である南東と、未申の南西の、朝夕の地平線近くにおいてのみ目視できます。 その彗星を“観測できる場所”が妙見山(妙光寺山等の、妙の付く山)なのです。 だから、他の社寺が山の中腹にあるのに“妙見さま”は、山頂近くにあるのかな?(^^!) それ等のお宮さんがどっちを見て建てられているのかを調べてみたいものです。 四千年前の列島を襲った恐怖は歴史として語り継がれ、それ等の彗星の出現のたびに人々は不安にかられる。 60年?の周期をもつハレー彗星。これは推測ですが<卑弥呼の時>。飛鳥・奈良時代あたり。近くには明治の空に現れたという大彗星? これ等の彗星が同一とは思いませんが、祖先は、そのたびに「 あの荒神様の再来かと!」恐怖におののく! 今では、その歴史をすっかり忘れていますけどね。(笑)
もちろん、彗星や、巨大隕石については、列島だけには留まらず、地球規模で観測されたはずですから、それ等について世界の学者は語り合うべきだと思っています。祖先は、その彗星の出没した方向の金星に興味をもっていましたし、四千年前の巨大隕石が赤くなって夜空を飛んだことから火星を不吉な星だともいっています。それ等を「当時の科学」だと受け取らずに「伝説だ!伝承だ!」といっているうちは無理かも知れませんね。 ?(^-^)?.

地図・奉納山   shigechanizumo | URL | 2009-01-31-Sat 11:57 [EDIT]
この奉納山は、出雲阿国の石碑があるところです。ちなみに、歌舞伎の祖といわれる出雲阿国は、出雲大社の巫女で、地図にある中村の出身です。現在も、中村家という出雲阿国の子孫がいらっしゃって、出雲阿国の長持が残っているということです。さて、この奉納山の西側の海岸線に近い山肌にぽっかりと坑道が口を開けています。もちろん、銅の坑道です。奉納山の地下には銅鉱脈があるのです。私も小学校高学年の時に鷺銅山まで黄銅鉱を採りに行くのは時間がかかったので、この奉納山の銅の坑道に黄銅鉱を採りに行ったことがあります。大人から厳しく叱られました。奉納山の土質は赤粘土の土質ですが、出雲の赤土の山には蝮がウヨウヨいるのです。いわんや、坑道などにはどれだけいるのか知っているのか、無謀なことをしたものだというのです。赤土からも分かるように、奉納山の表面の山肌は、なんと大量の鉄分を含んでいるということです。しかも、奉納山を中心としたあたりにしか、その赤土の山肌は存在しないのです。この関係からか、私が小さい時に京都大学の鉱山・鉱物資源研究室の人達が、ひと夏にわたって調査に来ていました。奉納山の東斜面は「池の奥」という地名で、水溜りには絶えず石油のような油膜が張った状態の所をたくさん見ることが出来ました。何かあるようです・・・。


Dr.~> コメント、ありがとう御座います♪。(2./21の コメ返です^^!)
<奉納山について>
島根半島の西の山塊のなかで<奉納山>の地名は、そのつづら折れの登山道とともに早くから気付いていましたが、誰に何を奉納したのかが推めませんでした。師のおかげで、その糸口が見えてきたような気がします。卑弥呼までの神の考え方は、悪しきことや、豊穣をつかさどるのは、四千年前の荒神であり、その荒神へ自分たちの大切なものを差し出すことによって、荒神の怒りを静めたり慈雨との交換を願うものであった。最初は小動物の生け贄から稚児へとエスカレートしたが、卑弥呼は、それを止めさせようとした。しかし、何千年も続いてきた生け贄文化をいかに卑弥呼といえども、完全にたちきることは出来なかった。その没後は、稚児から生娘へと変換し永々とその歴史は続いて行く。 筆者は、雨乞いの基軸は、松江市の<茶臼山>にあったと思っていますが、なぜそれが大社の方へ移っていったのかが分かりません。 いずれにしても、今の史学は「施設・地域を限定」して、狭く考える傾向があります。 素人は、もっと広く列島全体に<同時関連として>調査をして欲しいと願っています。なにしろ「雨乞いをする空」に、区切りはありませんからね(笑)

奉納?→「おさめたてまつる」の言葉は、「捧げたてまつる」より新しいような気がします。 奉納神楽、奉納相撲。 奉納盆踊り?、歌舞伎を奉納する。これ等の一連の行事は、先に触れた「八岐大蛇退治の二武神」に根源があるのではないかと思っています。卑弥呼の代に天を覆い隠すほどの彗星が現れた?。 卑弥呼は、舞台を設え、弓を背におい太刀を持った二武神を従え、太鼓を叩かせ自身は鼓(つづみ)を打ち、その彗星(八岐大蛇)退治の<祈りの舞い>を舞った! 衆人挙りて(こぞり)て、これに唱和する。 結果的には、その彗星はニアミスに終わり退散してくれた。 このように考えれば、今、私達がなしている諸々の行事の根源の説明がすべてつきます。 もうじき来るおひな様の右大臣、左大臣は、その時の二武神を表しているのかも知れませんね。

<おひな様流し>
これに似た言葉で、灯籠ながし、お盆のお船ながし、七夕の笹ながし、等があります。では、卑弥呼は、その時、舞台の上でこれ等のお祈りをしただけでしょうか? いいえ。それだけではありません。それまでに永々と続いてきた生け贄文化の身代わり代用物としての、ひな人形を作らせたのが卑弥呼ではないでしょうか? 御雛のことをお内裏様(だいり)というのは、筆者の駄洒落でしょうかぁ? わたしは、その川が神戸川か、堀川かは知りませんが<経島>に向けて、それを流したか置き去りにしたかのどちらかと思っています。 さらに時をへて<隠岐の島>へ遠島(えんとう)になったかとも・・。

<迎え火、送り火について>
おひな様には、「ぼんぼり」がつきもの、筆者は、<ぼんぼり、迎え火、送り火、かがり火>は、同源で、その竜神・水神を呼ぶ<呼び水>は、やがて、御神酒(おみき)に変わり、「竜神さまはお酒が好き♪」となり、さらに末期(まつご)の水や、おとそ(屠蘇)にも変わっていったかと想像しています。そういえば、出雲大社から、海岸沿いに日御碕へ行く最初のトンネルは<笹子トンネル>といっています。 {ササ}は、宮中言葉で酒のことを云いますから、島根半島巨大竜に酒でも飲ませようとしたのでしょうか? この手前に国土地理院・2万5千分の一の地図でも確認できるような階段状の大岩二枚重ねがあるようですから、ここから日本海へ「 トボトボと酒を流した♪ まるでウワバミだぁ~」(笑)  さて、冗談は?それぐらいにして、
師の言で、「奉納山の土質は赤粘土です」 「奉納山の表面の山肌は、なんと大量の鉄分を含んでいる」があります。
わたしは、この言葉に強い興味をもっています。奉納山の地下坑道は、<銅を掘るため>であり、鉄ではありません。それなのに「その表土だけが何故、赤粘土なのか??」 銅線を焼くと白色化する。鉄分を含む花崗岩が風化すると山土という砂利状になり、さらに風化がすすむと「赤色粘土」となり、決してこの二つは相容れない性質をもつと思うのだが?  なのにその現実がある!・・??

<話は、少し変わります>
わたしは、祖先からの地名という伝言を受け取るにあたり<赤>という言葉には特に注ししています。 それを語れば(拙・電子出版)長くなるので(^^!)、ここでは、<赤土>にだけに絞りましょう。 花崗岩の土質上で、間断はありますが一定場所で“焚き火”をつづけると、赤色化し、さらに炊き続けると白色化する?経験をもっています。 なにを言いたいかというと、「雨乞いの迎え火として、山を焚き、この煙が雨雲に変わり給え!」 との永々たる行為が各地にあり、その表土が酸化して赤くなったのではないかと見ています。 その体表的なものは、奈良の<若草山>? 阿蘇山の山焼きは、牧草のためと聞きましたが、これも始まりは神事であったのではないかと思っています。 この場合<手頃な?大きさで、他に延焼しない場所で、頂上ないしその山姿が円形>のものが選ばれているようです。 師の云われるように「何故この山の土だけが赤いのか?」と子供心に思ったものです。 このような山は各地に散在していると思いますよ。 これに大社町の<奉納山>があたっていると思うのですが、奉納山の地下は黄銅鉱! その表土だけが鉄分を含む?? まったく矛盾したこの現実が解けません。 蛇足ながら、祖先はその山に竹林を植えて火を放っていましたから、今でも竹林が残っていればいいのですが・・?
奉納山の東斜面は「池の奥」という地名で、水溜りには絶えず石油のような油膜が張った状態の所をたくさん見ることが出来ました。何かあるようです・・・。
 それは、6500万年前からの<石油>です。でも、それについての言及は、ここでは止めておきましょう。(笑)

そうそう、一番大事なことを忘れていました。(!^-^!)
八百万の(神々)が集まる?という大社の周辺でどのような神事が営まれていたのか?
 今までをふり返り、出雲の地名をからめて、その最大?のものを仮想?してみましょう。 
卑弥呼の存命中の暁の空に何やら光るものが現れた。日に日に大きくなるその彗星に、人々は四千年前の(当時の四千年前ではありません)列島を襲った荒神の再来だと恐れおののいた。その観測をしたのが<妙見山>だ。卑弥呼は、その難を逃れるお祈りをするすると言い、スギの大木を立てさせ、望楼をしつらえた。卑弥呼はこの上でお祈りする。その姿は神楽を舞うように見えたかも知れない。望楼は屋根をのせる楼閣であっては、決してならない。 屋根は慈雨をさえぎり、天を見えなくしてしまう。奉納山の竹林に火を放つ!(奉納山には旧名が必ずあると思いますが) この時、生け贄として生娘をさしだしたかどうかは確定(竹取物語のかぐや姫)出来ないが、出雲にかぎらず稚児を天に召す前史は各地に残っている。土葬が一般的な社会においての火葬は異例だ。その遺灰を納めたのが、上図に忍ばせていた≪赤塚≫だ。 結果的にこの大彗星はニアミスに終わった。 人々おおいに安堵し、一躍「卑弥呼」の名を馳せた。やはり卑弥呼様だと!

地図・丘陵   shigechanizumo | URL | 2009-01-31-Sat 17:25 [EDIT]
妙見山に至る間に、・・・「南北におよそ20m~30m高さの断続的な丘陵の連なり」・・・とありますが、少し補足させて下さい。確かにそのくらいの高さのでこぼこが海岸線に沿って連なっています。しかし、この丘陵は砂山なのです。真っ白な石英を含んだきれいな砂の盛り上がりなのです。日本で一番大きな砂丘は鳥取砂丘だと言われていますが、私はこの薗の長浜の砂洲が、一番大きな砂丘だと思っています。残念ながら、飛砂防止の防風林の植林や、タバコ栽培や、ブドウ栽培で開拓されたために、鳥取砂丘のような自然景観が失われているのです。驚くべきは、丘陵でない平地では、地下水位が高く、30cmも砂を掘れば、水が湧いてくるのです。この地下水位の高さの原因は、斐伊川の伏流水が、海岸部で浸透圧の関係から地表に押し上げられているからだという説があります。また、この砂は、斐伊川によって運ばれた風化花崗岩の粒砂ですから、ここでは、黒くなる程の砂鉄が、比重選鉱によって浮き上がり、海岸線の水際に沿って表れています。小さい頃は、自転車のランプ用の発電機を分解して、内蔵されていた磁石を取り出し、ロープの先につけて十数mも歩くと、磁石には拳大の砂鉄の塊が付着したものです。この丘陵が開拓される前の風情は、『出雲国風土記』に記載されており、「飛砂がものすごい」とあります。今日のコメントの流れでお気づきでしょうが、今は、のんびりとした田園風景のように見えますが、大昔は、平さんが開示された図式の地域は、鉱物資源の宝庫だったのです。浜には砂鉄、山には銅、池にはメタンなどと・・・・。これらは、出雲竜がもたらしたものではないかと、いにしえの人々は思っていたのではないでしょうか。


Dr.~> コメント、ありがとう御座います♪。(2./22の コメ返です^^!)
師のコメントで少し考えがゆらぎました。というのは、当初<湖陵>の成因は、6500万年前の地球を覆い隠すほどの巨大津波がつくったものであろうと思っていました。でもそれだと、これより南側の沿岸に鉄を含む鉱脈がないとうまく説明できません。それはさておき、2万5千分の一の地勢図を手に入れてこの辺りを観ていたとき驚きましたねえ。平均で20m~30m高さの連なりがある! 日本海へ面したこの沿岸は、四千年前に西進した巨大津波が運んだ低い海辺を予想していたからです。 出雲のお金持ちが私財を投じて風防のための堤防を築いたのかとも思いましたが、その膨大な高さは、当時の人力でなせるものではありません。 しかし、宮津湾の天橋立・鳥取砂丘・それに太田市「鳴り砂」だったかな?等は、四千年前の津波成因だと思います。 鳥取の砂丘は対馬海流が成したとの考えが一般的ですが、それには砂浜より高い海流がなくてはならず、子供の頃よりの大きな疑問でした。ならば風が寄せ集めた? では山口県から北海道まである長い日本海沿岸なのに何故、鳥取県だけに?の疑問が生じます。 いずれにしても子供心は大切にしておきたいものです。

ついでに地図・妙見山   shigechanizumo | URL | 2009-01-31-Sat 17:54 [EDIT]
先ほど、「20m~30m高さの断続的な丘陵」は砂山だと指摘したのですが、大事なことを忘れていました。平さんの指摘される「妙見山(56.9m) 」は砂山ではなく、砂山(薗の長浜)の中に突然盛り上がった火山、あるいは溶岩の隆起だという有力な説があります。多分そうだと思います。ご明察を・・・・。


Dr.~> コメント、ありがとう御座います♪。(2./22の コメ返です^^!)
Dr.~!、すごい。凄い! これも、さきに保留にしておいた<日御碕の柱状節理>=竜の逆鱗(げきりん)とともに、結論部へまわしましょう。(^-^)♪

溶岩   shigechanizumo | URL | 2009-02-02-Mon 10:25 [EDIT]
妙見山を火山あるいは溶岩の隆起としたのですが、実は、出雲・斐川平野周辺には、あれもそうではないかとの場所がいくつか指摘されています。斐川町の荒神谷遺跡に近い「岩野」・・・ここは薬師祭りで有名ですが、平野にぽっかりと岩盤・岩塊が隆起しているのです。次に、加茂町・大東町境の高麻山・岩根山も火山ではないかとされています。アサは鉄(硬い岩)を示します。岩野・岩根という名前も、いかにも固い岩盤の隆起や深部を想像させます。また、妙見山の近くには湖陵温泉、岩野には湯の川温泉、そして高麻山・岩根山の近くには海潮温泉があります。こうしたことからすると、日御碕の柱状節理も突然そこに異変が起こったというのではなく、出雲平野を中心にして、その地底には、マグマの巣、あるいはマグマの網の目が張り巡らされているように思えるのです。大山と三瓶山の活動が、大きな1000m級の山塊を作り出したために、そこが根源のように思われていますが、思い切って見方を変えてみると大変面白いことになりそうです。


Dr.~> コメント、ありがとう御座います♪。(2./22の コメ返です^^!)
Dr.~!、すごい。凄い! さらに々、ですね。 これも結論部へまわしましょう。(^^!)

うわさ   shigechanizumo | URL | 2009-02-02-Mon 17:07 [EDIT]
鷺銅山や鵜峠銅山は、銅鉱山だとされています。確かに銅が採れます。世界遺産になった石見銀山の発見は、この銅山に北九州から銅の仕入れに来ていた「かみやじゅてい」という人が、日本海を航行中に石見銀山あたりの山並みに不思議な光を見たということからだとされています。しかし、よく考えると、九州は宇佐や延岡に有力な銅山があり、わざわざ日本海経由で鷺辺りまで行く必要はなかったのではないでしょうか。真偽不明の噂ですが、実は鷺銅山の銅は、銅ではあるけれども、非常に高い銀成分を含んでいたというものがあります。精錬技術が未熟だったのでうまく銀を抽出できず、銅だと言われて銅として出荷していたのではないかとか・・・。確かに、石見銀山も、灰吹き法という銀抽出の技術が出てから飛躍的に銀の出荷量が高まっています。とすれば、鷺銅山は、銅山ではあったけれど、銀山でもあったのではないかという疑問が出てきます。「かみやじゅてい」さんは、銅の値段で買い付けて、どこかでその銅から銀を抽出していたのではないか。だからはるばる北九州から出雲まで船出していたのではないか。そして大事な部分を掘り尽くす、寸でで、新しい石見銀山を発見して大もうけをしたとか。本当なら、惜しいことをしました。


さすがのDr.; それは々、惜しいことをしましたねぇ(笑)  そう言われれば「海から鉱山を!」そんな話がアフリカの黄金海岸であったような気が・・・^^? Dr.は、その道の専門家とお話ができる程の見識の持ち主、脱帽ですぅ♪ 
その、ご見識で<鏡の池>周辺の顕微鏡探査を・・・?! 「 福は内ぃ~♪」
(2/3記)

釣りじいさん | URL | 2009-02-04-Wed 16:25 [EDIT]
石見銀山の発見のように、キスを釣り上げた! と、思ったら、実は巨大なパールだった・・・ってなことになりませんかね~、Dr.
なんせ、キスは別名パールピンクでやんすから・・・はい、茶化してごめんなさい。

<卑弥呼はパールを何処から調達したのですかぁ?>
   Mr.平 素人 | URL | 2009-02-06-Fri 19:33 [EDIT]
じいさまぁ> キスの美しさは虹色パール♪
越冬キスは、海底の砂場ですかぁ? だったらヒョッとして「真珠貝」も? 御木本さんは「世界中の女性の首を(パールで)しめて御覧にいれます」といったとか?(^^!) ところで卑弥呼が中国の皇帝に贈ったという多量の真珠はどこで手に入れた??のでしょうか・・・?。 Dr.& どなたか、それを教えて下さい。(^-^)?

はじめまして   たねち | URL | 2009-02-04-Wed 03:03 [EDIT]
小生のblogへのコメント、どうもありがとうございました。
こちらへ来て、皆さんのコメントを読んで見て
脳みその隅がチクチク刺激されるようで
大変興味深かったです。

私のblogの文章は乱文ですが
お役に立てるようでしたら、引用していただいて構いません。
ご配慮、どうもありがとうございます。

釈迦に説法かもしれませんが
出雲の神迎祭では神として海蛇が登場、祭られます。
出雲では神迎祭を中心に、八岐大蛇など
蛇(竜)との絡みが大変密接なものです。

とぐろを巻いた蛇のように見え、信仰の対象とされる神奈備山が
出雲に4つあるのも面白いです。
揖屋神社などでは、おそらく蛇であろう、
とぐろ状に巻かれたしめ縄が沢山奉納されています。

蛇信仰に関しては、
吉野裕子著 蛇-日本の蛇信仰 (講談社学術文庫)
が詳細に書かれてあり、参考になります。

ありがとうございます♪   Mr.平 素人 | URL | 2009-02-04-Wed 20:48 [EDIT]
たねちさん> ようこそおいで下さいました♪ さっそくのご快諾ありがとう御座います。
色々の<お人>が入ると、この記事も、よりおもしろくなると思います。 出雲は八百万の神々が集まるところ。 興味は尽きません。今後もおもしろい情報入れて下さいね♪ おまちしています。(^-^)♪ <ご記事は、驚愕の出雲!・Ⅰ>のDr.コメント第八弾へ入れさせて頂きました。

爬虫類と金属   shigechanizumo | URL | 2009-02-04-Wed 17:03 [EDIT]
鏡の池には、先にしたように、蛇類と亀類がウヨウヨしています。ここにある秘密があるように思います。単に泥池なので、蛇や亀が棲みやすいので多いのだと考えていたのですが、少し見方を変える必要がありました。参考になるのは、鰐や蜥蜴も大型化する地域では鉱物資源や鉱物成分が関係しているという説です。ガラパゴス諸島は火山性の諸島からなっていますが、そこに独特の大蜥蜴や珍種の蜥蜴がいるのもそのせいだとか、大型鰐の生息地である、ナイル川やメコン川あるいは、インドネシア諸島、マレー半島も、火山性あるいは鉱物資源の豊富な地域です。ということは、隕石もマグマもと同じように特異成分をたくさん含んでいるという共通点があります。さらに地球外物質の成分を落下地点に振り撒くわけですから、その落下の後に、そこに棲む生物も、そのような成分が好きな生物ということになります。言いたいことは、鏡の池はやはり隕石の落下が作り出したもので、その周辺や中心には爬虫類が好む火山性の鉱物が散らばっていたということなのです。つまり鏡の池の蛇類や亀類は、ガラパゴスやインドネシアの大型鰐と同じ性向から、そこに棲み付いているということなのです。竜も爬虫類とすれば、鏡の池が出雲竜と関係することが論証できそうなように思えるのです。


Dr.~> コメントありがとう御座います♪   Mr.平 素人 | URL | 2009-02-04-Wed 21:40 [EDIT]
そう言われれば、「蛇の鱗」 固いような気がしますねえ。 とすると是非とも 「鏡の池」 周辺の土を採集して・・・、^^!) 鉱物探査を!

鏡餅   shigechanizumo | URL | 2009-02-04-Wed 17:43 [EDIT]
鏡の池は、古語でカカ、カガと呼ぶ蛇の池だと指摘しました。吉野裕子先生は、鏡餅も、蛇がトグロを巻いた姿だとされています。大小のお餅を二重に乗せていますが、上から見ると蛇のトグロを巻いた姿だとされるのです。上の橙(ダイダイみかん)は、蛇の頭だとか。確かに、出雲大社の神迎祭の時の竜蛇様が三方に載せられ、頭をトグロの上に出している姿を上から見れば、確かに色は違いますが、二重のお餅に橙を乗せた形となるのです。ここからも、鏡の池は、蛇・竜と関係するとされなくてはなりません。


Dr.~> コメントありがとう御座います♪   Mr.平 素人 | URL | 2009-02-04-Wed 22:00 [EDIT]
「鏡餅は、銅鏡起源」、とばかり思っていました。^^!)  ほぉ~、神迎祭で三方の上にトグロを巻いた蛇ですか。  恐ろしい発想ですね! 「 いずも恐るべし!」


 *以下、<Dr.とのコメントやりとり>(細線~細線の間)を記事へアップするのを一時控えておりました。 ・・何故?かって、それは御覧になってからのお楽しみ♪(2/17)

なまはげ・能登・出雲神楽   shigechanizumo | URL | 2009-02-05-Thu 10:14 [EDIT]
さて、私は北方文化、特に日本海に対面するウラジオストックあたりの文化が、東北から佐渡、能登を通って、出雲に到着したのではないかと考えてみたいと思います。追分もそうですが、江戸期あたりの北前船の航路の関係から、東北の文化が出雲などにもたらされたのではないかという考えが一般的ですが、浅きに失すると考えるのです。私は北東シベリアの文化がスルリとこれらの地域に伝来したのではなく、いったん青森や秋田で停留し、後にゆっくりと日本海弓状弧を南下して出雲にたどり着いたのではないかと考えるのです。ではなぜ停留していた青森や秋田でのそれらの文化が南下したのか。まさしく、平さんが指摘される、大津波と隕石の影響ではないかと思うのです。つまり、この二つの異変は東北地方で起こり、津波は日本海を南下し、同じく隕石は、ひとつは東北に落ちたのでしょうが、分解した一部は南の空へと流れて行ったのです。その目撃は衝撃的なものでした。自分達の足元も大変なことになったのだが、それから先の南西の人々はどうなったのか。大津波、隕石の軌跡に導かれるように、東北の人々は大津波と隕石の、その後の姿を追い始めたのではないでしょうか。ではどのような文化的な記憶となったのか。秋田になまはげの行事があります。佐渡・能登には、海藻のような残バラ髪を頭にのせ、腰には荒縄ふんどしを巻いたような、なまはげに似た人々が太鼓を乱打する祭りがあります。まさしく異人の振る舞いのようです。では、出雲ではどうかというと、神楽面を見てください。頭髪は残バラ、しかも黒ではなく金や銀の毛髪です。目は大きく、鼻は天狗の太鼓鼻なのです。これら三者は日本人の異形なものではなく、北東シベリアから漂着した白人系を現したものではないでしょうか。すなわち、異種はどうして生まれるのか。まさしく天変地異と同じ原因からではないかと考えたのです。地勢からして、青森・秋田にはこうした異種の人々がいて、それらと一緒になって出雲への旅を、大津波と隕石の後を追って始めたのです。異種との混交は、秋田美人・新潟美人・金沢美人・出雲美人となったのです。顔貌もさることながら、秋田に赴任していた私の友人に言わせると、美人に見えるのは、どこも、肌の透明度が高いということでした。雪国美人と言いますが、それと共に、白人系の遺伝子がこれらの地域では混交していると思えるのです。不思議なことは、山形美人・富山美人・福井美人・鳥取美人とは言いません。およそ一県おきに美人の県があるようですが、その原因は何なのか。俗説に任せましょう。


秘密にならない秘密(^^!)   Mr.平 素人 | URL | 2009-02-05-Thu 21:35 [EDIT]
Dr.~> こんばんわ♪ 毎回興味深いコメントありがとう御座います。 
今回のコメントは、美人系ですか。師のブログでも「女酋」のお話、にやりですね。でも博多を忘れていたのは、博多の人からクレームがぁ?(笑) ちなみに、わたしは、言葉として、「小野小町は秋田うまれだお前はん知らねのけ♪」と、「博多人形」の二カ所しか知りませんでした。(他の地の女御人ごめんなさい^^!)師の言葉に啓発されれば、確かに知ってるかぎり秋田の女の人って色白だし、男の人は鼻筋がとおっていたかと思われます。それを素人の「隕石・津波論」と結びつける考えを頂いて、次のように考えてみました。 これは、今あげている記事の結論部分なので多くを語りたくないのですが、東北に降臨した巨大隕石は、太平洋側には壊滅的被害を与えたが日本海側の生存率は高かったのではと思っています。次に来るのは{隕石の冬}です。これは余りなじみがないので「核の冬」と、言い換えた方がいいかも知れません。つまり、巨大隕石による直接的な粉塵と、それによって誘発された火山の粉塵による気温の降下です。 以前東南アジアでの大規模な火山噴火でも気温の降下が観測されたとか? 四千年前の巨大隕石は、この比ではありません。素人はそれが、幾らの降下だとは言い切れませんが、地球規模で『1年2年のうちに5℃6℃( それ以上かな?)の気温の降下』かあったのではと想像しています。 2年続くと北方民族は、その地での生活が成り立ちませんから、南下を始めます。

竜と美女   shigechanizumo | URL | 2009-02-05-Thu 16:00 [EDIT]
さて、美人の話になりましたが博多美人を忘れていました。出雲美人まで、北東シベリア・コーカサス系の美人が南下しました。その南下はいったん出雲で停留しますが、最後には博多美人を生んだのです。私のblogで、何度となく北部九州・宗像と出雲の関係を指摘してきました。オオクニヌシとタギリヒメの物語です。つまり、オオクニヌシはすでに白人系の遺伝子を持った混交人種となっており、そこにタギリヒメとの神婚が発生したのですから、生まれてくる子孫として、肌の透明度の高い博多美人という子孫が出てくるようになったのではないでしょうか。ここで、先に指摘した、出雲が海猫の繁殖地の南限であるということを思い出しましょう。海猫が、あえて出雲を天然記念物に指定されるほど珍しい繁殖の南限地として選んだのか。他の場所はいずれも東北地方です。その原因を、私は、「出雲の経島には、東北と同じような、海猫の帰巣本能を活性化させる物質が、距離を越えて存在するのではないか・・・。」としました。この論理は、今日述べている、東北地方の人達が、「大津波、隕石の軌跡に導かれるように、東北の人々は大津波と隕石の、その後の姿を追い始めたのではないでしょうか。」というものと同じなのです。すなわち、海猫と同じように大津波と隕石の、その後の行方を追っていたら、たどり着いた南限が出雲だったということなのです。出雲には、東北の人達や、その人達と一緒に南下した「北東シベリア・コーカサス系」の人達のコロニーができたと考えられるのです。そして、そのコロニーはいずれ出雲の在来の人達と混交し、出雲美人を生んでいたのです。さて、本題です。竜は、美女を好むと言う指摘があります。竜宮城の話もそのひとつではないでしょうか。浦島太郎は、不覚にも竜宮城の美女達にはべられて、うっかり時を忘れてしまっていたのです。また竜・水神への人身御供は美少女・美女として登場します。また竜に雨乞いをする巫女もまた同列です。秋田美人・新潟美人・金沢美人・出雲美人・博多美人と竜の関係も、出雲竜について解明されるべきではないでしょうか。


続・秘密にならない秘密(^^!)   Mr.平 素人 | URL | 2009-02-05-Thu 22:49 [EDIT]
Dr.~っ!>  ちょっと、ちょっとぉ~(^^!)
「美人(混血?)は、隔県おき?」 これって問題発言?ではないですかぁ?(笑) 御歯に(羽衣)着せられたほうがぁ゛? クルーには女御人がおられますからねと、いっても,火のついた<Dr.>もう誰も止めることが出来ない^^? 

素人は、それに付いて次のように考えます。
<除福>が海路を開拓した。海路といっても、引き潮の浅瀬や岩礁だけではありません。船が一日で航行する距離によって船の係留地と飲み水・食料等の補給が必要となります。宿場町や駅馬車と同じ考え方です。それが隔県になったのかと? この考えが正しいのなら<地名>として残っているはずで、たとえば出雲の大陸からの玄関口は<湊原>のような古い地名を捜せばいいかと?それからは話が少し反れますが、素人は、<日本海側の海路の開拓は、近江商人。陸路の開拓は富山の薬売り>がおおいに関係しているとおもっています。これ等は一朝一夕にしてなるものではなく、今に云われている歴史以前から永々とした積み重ねがあったからこそなるものだと想像しています。


湊原   shigechanizumo | URL | 2009-02-06-Fri 14:34 [EDIT]
すごい着眼点です。湊原の近くには、唐島・蛇島・本郷・恵比寿・荒茅など意味ありげな地名があります。


Mr.平 素人 | URL | 2009-02-06-Fri 17:43 [EDIT]
Dr.~> コメントありがとう御座います♪
Dr.にほめて頂くと照れちゃいます(^^!)。たまたま地図検索していたら、<湊原>の地名に出会いました。ふつうなら見逃すところですが、そのふりがなが、<みなと>とだけふってあります。 「みなと・はら」と書いて「みなと」は、変ですよね。直感で<秦・しん>の国からの、<さんずい・港>だと思いました。 港なのに「原」が、つくのは変ですが、当時の船が大した大きさとも思えず潮の満ち引きを利用すれば着岸可能かと思いました。 又、大陸から出雲に上がるには、ここが一番近く、神戸川の河口や、堀川?もあり、人も住んでいて、<飲料水や食料の調達>も出来そうだし狙い目ですよね♪ 「唐」の地名は、全国いっぱいあるのに、「秦・しん、隋・ずい」の地名が少ないのはなぜですか・・??

秦   shigechanizumo | URL | 2009-02-07-Sat 17:14 [EDIT]
湊原あたりには、「秦」さんという苗字の家がたくさんあります。また、そこから4キロくらい離れた地区でも畑さん畑田さんという苗字があります。地名ですが、海潮温泉の近くには、幡屋という地名があり、波多さんという苗字がたくさんあります。もちろん『出雲国風土記』の波多の小川は有名ですね。


Mr.平 素人 | URL | 2009-02-07-Sat 20:41 [EDIT]
Dr.~> こんばんわ。 コメントありがとう御座います♪
今回のコメントは、さっぱりだめ^^!> 全然わかりません。 ごめんなさい。
やはり、出雲にも、「除福、あるいは、その集団の一部」は、来ていたのでしょうか?? 出雲にあって中国にないもの」  徐福が中国へ送品したいような珍しい物が出雲にありますか・・・? 思い浮かばないのですが・・(^^!)、

おやっ   shigechanizumo | URL | 2009-02-09-Mon 09:19 [EDIT]
平さんらしくないことを、・・・。あるじゃないですか・・・・たくさん、・・・山ほど・・・。


Mr.平 素人 | URL | 2009-02-09-Mon 18:22 [EDIT]
Dr.~> コメントありがとう御座います♪
それが駄目なんです。今「波多の小川」グーグルで見ましたか「砂鉄あり」とのこと。わたしが調査しているのは、「大量の銅鐸がなぜ埋められたのか」迄で、それも「卑弥呼まで」が精一杯! それ以後の「神代・古墳・鉄文化」の歴史になると、さっぱりなんです。裾野も急にひろがりますからね。そちらの方の謎解きは、Dr.にたよるしかありません。徐福についてもこれからの勉強です。
ブログを始めたのは、その広報が主目的♪ <地名を祖先からの伝言>として読み解く手法をとっています。地名がたくさん出てくることから『 調査、出張してるのでは?』と、思われがちですが、<吉備の銅剣探査>以外は、PCの前をまったく離れたことがありません。 ならば「本に囲まれて?」それも当たっていませんねえ。(笑)本らしきものは・・と?、中学生用の地図が一冊!それと、my電子本が一冊、それもたまに・・ ^^! 何しろ本の体裁をしたもの?を見るのは<御ブログ>が、はじめて、しかもその端かじり( 汗~!)

竜は猪か?   shigechanizumo | URL | 2009-02-13-Fri 16:52 [EDIT]
猪が海を泳いでいる映像が、先般NHKで流れていました。頭を海面上に出して、後ろに航跡を引いて泳いでいるのです。一見、怪物かと思いました。竜は、胴体は長いのですが、蛇ではないようです。それは、頭部を見ればわかります。蛇はポツンとした穴のような鼻を持っていますが、竜の鼻は膨らんで肉がついています。私は怒った猪の鼻が、竜の鼻に似ていると思います。以前、竜は鹿かと書きましたが、それは角を指してのことです。どうも猪と鹿=猪鹿をあわせて様な特徴を持っているように思うのです。猪鹿だから、後は蝶で、空を飛ぶ・・・な~んちゃって・・・。スッキリ。とはいえ、鹿も神聖な動物、猪も神聖な動物です。春日大社や諏訪大社のお祭り行事が証明しています。ところで、島根半島、特に出雲大社の裏手の杉林は、鹿の被害に困っています。鹿が、杉の木で角を研ぐからです。また、出雲大社の裏手には、猪もたくさんいます。私が小さい頃の話ですが、出雲大社の町中に、鹿と猪が迷い出て、大暴れをしたそうです。今でも時々町中に迷い出るそうです。ご参考までに、・・・・。


Dr.~> 「コメ返」をありがとう御座います♪ (2/14記)
そうですか、猪が泳ぐなんて初めて聞きました。そう言われれば隠岐の島から牛を泳がせて本土へ運ぶ。出雲の「赤牛さん」「赤い猪岩」。 これ等の動物を神聖視する考えには共通点があると、どこやらで書いたと思いますが、この考えの底流には<彗星が巨大隕石となり長く尾をひいた>ことにあります。 牛、猪、鹿、丹頂鶴、白ウサギ、白キツネ、白蛇、二十日鼠、等々。『角・牙・長いクチバシや尾っぽは、彗星や隕石を表し、その隕石が赤かったと云うことで、赤い目や、供物に皮を剥いで赤裸に! 白い色は隕石の冬がもたらした大雪です。 卑弥呼以後は、それ等が神の使いに変わっています。大社の裏山はそれ等を獲ってはならない場所と定めてありますから、増えすぎて町中に(^^!)

『龍の発祥は中国から』、この考えを、今の史学は改めなければなりません。
竜は日本列島“発”なのです。 その時の巨大津波が中国の<天津>に迄届き大きな災害をもたらしました。 中国は東方へ繰り出し、その列島の住人から竜の正体を聞き、それを絵にしたのが中国の「龍・ロン」です。だから師の云われたように、中国には「龍を斬殺すれば国を治める者」との考えが発生したのです。 このことは、中国ん!千年の歴史の中で何時?龍の考えが生まれたかを調査すれば判ることです。 素人は、それが四千九年前よりあとの事だと断言できます。・・チョット言葉使い強くなりました。(笑)


「猪(いの)鹿(しか)蝶(ちょう)」のお考え当たっていると思いますよ。(^^)
猪鹿蝶をいうのは「札場」で発生した?賭場ですよね。 札場の発生は天神さまの入り口! { こ~こは、何処の細道じゃ~、} の童謡に謎解きの鍵があると、拙・電子出版で述べています。(^^!)

珍宝   shigechanizumo | URL | 2009-02-13-Fri 17:28 [EDIT]
「徐福が中国へ送品したいような珍しい物が出雲にありますか・・・?」という質問にお答えします。中国には、目立った火山地帯はありません。とすれば、中国で珍しいものと言えば、火成岩質の特性を持った加工品です。次に、2000mから3000m級の山々は、中国の中原にはありません。とすれば、中国で珍しいものと言えば、高山で採れる様々な物品ということになります。次に、中国華南、江南には、寒流が磯を洗う海岸地帯はありません。日本列島の北からはリマン海流が南下し、その南限が出雲です。とすれば、中国で珍しいものと言えば、寒流が産む様々な特産品と言うことになります。ここまでで単純に物品を並べれば、ヒスイ・メノウの玉類、高山で採れる薬草、寒流で採れる昆布、ワカメ・海苔・トドやアシカの毛皮です。島根半島の両端である美保関と日御碕には共に、「トド島」があります。トドが棲み付く南限だったのです。また、竹島はニホンアシカの繁殖地でした。アシカの毛皮が欲しくて乱獲したために、今は絶滅したのです。ほんのちょっとですが、ご参考までに、・・・。


Dr.~> 「コメ返」をありがとう御座います♪ (2/14記)
Dr.~、ったらぁ~> 貴石や、ワカメや、トドでは、中国の皇帝は喜ばないと御自分が一番よく知っておられるのにぃ(笑)
又々、Dr.に大きなヒントを頂きました♪ 「中国には、目立った火山地帯はありません」。
中国には、地下に眠る膨大な量の石炭があります。 「火カ山や、火炎山」の話は、それに火が付いたためだろうと推測できます。 インドネシアでは焼畑の火が、それに移り今でもくすぶり続けているといいます。 当時この二つの成因がわかっていたとは思えませんが、除福は驚いたでしょうねぇ。 列島には、「火を噴く山々がある!やっぱり神秘の島だ!」と、住民に聞けば?温泉が湧き、その鉱泉は薬(ラジウム系?)になるという。 中国に「突泉」はあるが、それが健康にはいいが薬にまでなるとは聞いていません。 今でこそ温泉水を薬代わりとして飲むことはほとんどありませんが当時には「温泉水を薬(神水→後の御神酒)として飲む」ことがあったのではないでしょうか? この出雲の考えは他の地にも広まっているように思います。 岡山県・総社市にある最上稲荷では、『 尽きることのない竜神さまの井戸水がお薬にと!』 このような神社は、皆さん(クルー)の地でも、あるかもしれませんね。 おまけに出雲のお人は親和的(Dr.言)だし♪ 温泉に浸かれば肌はつるつる♪ 除福や小泉八雲さんでなくても出雲に居をかまえたいよねぇ♪  しかも、出雲にいれば<銅鐸の修理制作>の依頼に、全郷(国々)の御太夫(たゆう)さんという神々様が、その制作代金として持ってくる ”珍宝の品々と情報の数々” が集まるからねえ♪。 このことが<北九州>とは違っているかなと?(笑)
と、すれば、徐福は出雲と唐津を行ったり来たり。有力情報があればそちらへ出向く! 集積したそれ等の珍宝と≪温泉の花♪≫を、唐津出荷→対馬→朝鮮半島経由で、皇帝に送り届ければ始皇帝は喜こんだでしょうねえ。 この話は、素人の想像ですから、どうぞその裏付けを!!(^-^!)

オットッ   shigechanizumo | URL | 2009-02-14-Sat 14:42 [EDIT]
≪温泉の花♪≫・・・私の早書きの拙速な文章によくぞ反応いただきました。実は、ラジウム(これは伯耆の三朝温泉ですが)に限らず、海潮温泉にはホウ酸などと湯の花が咲き誇っています。海潮温泉の湯の花を、親指の先ほど持ち帰って、家庭の風呂に入れると、まさしく温泉の湯になります。その他、マグネシウム、硫黄などそれぞれの温泉の主成分の鉱物結晶が湯の花の中には含まれていますね。もしこれを、化学合成で人工的に作り出そうとするなら、トンデモな施設が必要になるでしょうね。まさに、出雲・伯耆の温泉の湯の花の粉末が仙薬として中国に届けられていたかもしれません。あるものは、出雲竜の仙薬と名づけられていたかもしれませんね。


Mr.平 素人 | URL | 2009-02-14-Sat 19:45 [EDIT]
Dr.~> コメントありがとう御座います♪
「出雲竜の仙薬」グッとネーミング♪ これで売り出しましょう。 色々に効きそうですね(笑)。 今なお各地にのこる「お釜神事」というのがあります。この詳細を筆者は知りませんが、護摩焚き等とあわせて海水を煮詰めて「塩という当時の薬」をつくる製法は、徐福福以前の?列島で確立していたとみています。 これを温泉水に応用すれば大量に<仙薬>が、・・♪



 * やっと、Dr.コメントへの追記を完了することが出来ました。♪ (2/22)
     この記事は< Dr.と、 皆様(クルー)と、Mr.と>でつくり揚げたものです♪。
 これは、きっと歴史に刻まれることになるでしょう。 それがせめてもの皆さんへの恩返しです。
             ありがとう御座いました。深く御礼申し上げます。


これをもって≪記事へのUP≫は、締め切らさせて頂き、結論部の、
<驚愕の(島根半島)出雲竜!・Ⅲ>へ、つづきます♪(^-^)♪
どうぞ、ひきつづきの駄文に、おつきあい下されば幸いです。♪(^-^)♪


Dr.~、皆さん! 記事へのUPはありませんが、引きつづき愉しいコメント置いておいて、くださいね。おまちしています♪。
 拍手をありがとう御座います(^^) 只今までで(‘10 5/21)3拍になりました。
驚愕の(島根半島)出雲竜! ・Ⅲ
    <驚愕の(島根半島)出雲竜・Ⅰ&Ⅱの結び>
以上<Dr.izumo氏>とともに、何故?出雲に『八百万の神が集まる』ほどのエネルギーが生まれたのか? それは<島根半島・出雲竜にあり!>として、色々に論をまじえてまいりました。 以下、それに加えて、別紙、拙電子出版・「巨大隕石と大津波」の、祖先からの伝言・おおまとめ加筆・削除しながら掲げますので、皆様の御一考の端に加えて頂けたら幸いに存じます。

紀元前2001年、全天を覆ったその彗星は、地球の引力に捕らえられ、イースター島の上空から侵入し、地上絵を遺すナスカ、そして、クリスマスイブとなったヨーロッパに“隕石(竜)のマーキング;環状列石”を残しながら、日本時間で12月25日未明の東北地方に光臨した。 欧州では、その巨塊が赤く輝いたことから赤い服のサンタクロースだと呼び、箒(ほうき)に乗った黒魔女だとも称した。 日本(北海道)の祖先は、その飛翔音から、その巨塊を“竜”と命名した。 この大事変は慈雨を、その津波は列島に、瑞穂を打ちあげ、魚介類という恵みをもたらしたが、その粉塵や、火山活動の活発化は“隕石の冬”という気温の降下も伴っていた。

隕石の冬による変移を、陸中にある島名や貝塚の所在から、気温で15℃~16℃の降下(理科年表より算出^^!)。海水位で6m前後が下降していると推定した。海水位の降下は、ただ単に日本だけに留まらないことにこの論の強みがある。それは、現在、世界中に残されているであろう陸中の州名や島名を拾い集めればわかることだ。

今(2004年2月3日・記)、出雲大社町の<日御碕>に、水深20m~28m付近に加工された石段やほこら、洞窟。そして、沖縄県与那国島にも幅1mくらいの石段が遺されていると聞いた。これ等は、いずれも民放テレビで放映されたものである。今でも素潜りで海底下30mの石段造りは絶無の技だ。とすれば、その水深30mが海面付近であること、人がそれ等の石加工の技術を蓄積した時でなければならない。

さらに、これ等が何のためにあるかというと、人のためではない。1mもの石段を上がり降りする巨人は現存しない。また出雲のほうは、幅50cm?くらいだが岩肌を刻んだものだという。 舟を、魚を、海水を汲みにいくのに、私ならなにもそこまではしない。(笑) この階段は日用的に使用するものではない。 祭祀のためにしつらえたものだ。 「四千年前の竜が海水を飲み干すために降りた階段だ!」(今に、御神輿(みこし)を海へ担ぎ入れるのはその名残かな?) この水中の階段は、それを言った言わないの伝説でもなく、それを記した地名でもない。 これは確たる物証だ!! 加えて、富山県で港湾整備のときに、水深(?十数m?)の海底にも、林立したままの木が沈んでいるという。

『 隕石の冬は、海水位の変化で: 
  大事変前を0とすると、  事変後は、(-28m-6m)、  現在は、マイナス6m
“氷雪と大気”が、その下降分の海水位を保持してくれればいいのだ。 と!、
   このように締めくくるつもりだったが・・・・、???!  マイナス34m!! 』
 その消えた-34mの海水は、いったいどこに!?


海水位の降下が34m! この話は何千万年や、何億年前の地質時代の話ではない。日御碕にあるという海面下28mの石段は人が刻んだものである。<海面下にある>ということと、<人が刻んだ>ということは<動かしがたい事実>である。それも永々と続いていた石器時代の祖先が岩肌を刻む術(すべ)と、工具を持った時からである。

(つぎは、素人考えであると前置きして; 中学生の皆さんに^^!) (2/26)
まえに、惑星のぶつかりで核分裂がおこり、水素や酸素にまで分解し、冷却の過程で水ができる?ことと「質量普遍の法則」とを申し上げておきました。地球の表面にできたH2Oは雷が電気分解しないかぎり他の物へは変換しません。それでは宇宙へ飛散する? 宇宙は無重力ですから、それもありませんねえ(笑) ならば太陽光が?これは素人の知る限りではありませんが、人類史500万年のあいだの増減があるとは思えません。安定であるからこそ大量に存在していると考えています。一度誕生したH2Oは(異変)がないかぎり無くならない。このことからNASAは火星に水がと考えているのかな?


①隕石の冬では、全海洋34mの降下は、絶対無理!
「海進と海退」は、言葉をかえれば、「地球温暖化と氷河記」に言い換えることが出来る。今においては、主に極の氷雪の多少で、その水位が変わる。現在の海洋と陸地の面積の比は、<陸地1に対して、海洋2,42>である。深さ34mの海水を氷雪に変えて全陸地に積み上げれば約80mにもなってしまい、今の私は存在しない。
ならば、大気が水分としてそれを保持してくれたか? これも無理! 空気は無制限に水蒸気を含むことが出来るわけではなく、その温度と気圧によって、その時の最大量が決まる。 例として;関係湿度27℃、80%の密閉空気を冷却してゆけば、23℃で100%の飽和状態となり、それ以下に下げれば余分な分は水蒸気ではなくて水分の形をとる。さらに気圧では、温度が下がれば空気中の各分子は密となり、水蒸気の入る隙間はより少なくなる。 これ等の現象は、水分を多く持つ台風や、冷蔵庫の下に水が溜まるのでもわかる。(今の冷蔵庫は水が溜まらない工夫がされてる?^^!)
「隕石の冬」論で、海水位34mの降下を進めようとしたが自分で自分の首を絞める結果になってしまった。

  Coffe Time !! (茶飲み話?)
“地球温暖化”で思うこと・・・、

地球温暖化  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
  以下; 2009 02 28に検索しました。
< この項目では20世紀後半から顕著になった温暖化について記述しています。一般的な「気候の温暖化」については気候史をご覧ください。  この項目は現在、改稿作業が進められています。ノートページをご参照下さい。>
地球温暖化(ちきゅうおんだんか)とは、地球表面の大気や海洋の平均温度が長期的に見て上昇する現象である。単に「温暖化」と言うこともある。

地球の歴史上では、気候が温暖になったり寒冷になったりということが幾度となく繰り返されてきたと考えられており、「温暖化」は単に地球全体の気候が温暖に変わる現象を指すこともある。しかし普通は、近年観測され将来的にも続くと予想される、「20世紀後半からの温暖化」について指すことが多い。過去の気候における温暖化であることを特に明記していなければ、「温暖化」という言葉は後者を指す。この記事では後者の温暖化について説明する。

大気や海洋の平均温度の上昇だけではなく、生物圏内の生態系の変化や海水面上昇による海岸線の浸食といった、気温上昇に伴う二次的な諸問題まで含めて「地球温暖化問題」と言われることもある。現在、温暖化が将来の人類や環境へ与える悪影響を考慮して、さまざまな対策が立てられ、実行され始めている。

地球の気候に関しては、時間的・空間的にさまざまなスケールで温暖化と寒冷化が起こってきた。この、「人為的・自然起源に関わらないすべての気候の時間的変動」を気候変動(climate change)という。後述のIPCCはこちらの意味を採用しているが、UNFCCCでは「人為的なものに起因する気候の変動」という意味で用いられ、非人為的なものは気候変化(climate variability)と呼んで区別している。また、「人為的・自然起源に関わらないすべての気候の時間的変動」を気候変化と呼ぶ向きもある。地球温暖化問題は「人為的なものに起因する気候の変動」という意味での「気候変動問題」と呼ばれることもある。 * 以上『ウィキペディア(Wikipedia)』より、引用しました。


<短期的な温暖化傾向について>
筆者の実感としての、温暖化による(瀬戸内の)生態系の変化では、松林の減少と、クマゼミの増加がある。筆者の子供の頃は、他の蝉(せみ)はべつとして、クマゼミは珍しい蝉で、アブラゼミがほとんどであった。この二つの蝉は木の高い所へとまりなかなか捕れなかった。クマゼミが虫かごの中にいると誇らしげにした。それが今では逆転しアブラゼミのほうが少なくなり、クマゼミは子供の手の届くところにとまる程になった。又、松林においては、「山といったら」松林のことを指すくらいに松の木だらけであり、松茸などは子供でもひける程にはえていた。それが今では、松の木を捜さねばならない程に減少した。その原因は、酸性雨だの、松食い虫だのといっていたが、筆者は、これも温暖化の影響ではないかと思っている。特に夏が暑いと一斉に枯れるようだ。山中の松が、その立ち枯れで皮がはがれ白い木肌をさらしたさまは、まるで山が白髪化したごとくに見え、これが<北上川の、白髭信仰?>の謎解きにおおいに役だった。


<長期的な気候変動のなかの温暖化について>
地球の気候史については、「気候が温暖になったり寒冷になったりということが幾度となく繰り返されてきた」 種の絶滅をともなう程のおおきな氷河記は、7回前後だったかな? 筆者は、これに付随して磁場の移転(逆転)があるとし、それは地球というマグネットを、他の惑星ハンマーの衝突合体で磁場が移動したり、その舞いあげた粉塵により太陽光をさえぎった為だとしました。 自転車のマグネットを取り出すのDr.もやりましたか。 あれって心棒を取り外してやろうとハンマーでガンガン叩いたら磁力が弱くなりませんでしたか(笑)? その時舞い上がった粉塵は地球の引力と雨とによって、長期的には地表に落下する。その結果太陽光のとおりを良くし温暖化へと進む。今はその温暖化へ進む方向にあります。これを証明するには<濁り水を放置>しておけばいいと言っても、そんな稚拙な実験では誰も納得してくれませんね。(笑)
念のために、後述のほうは、私が言い出したことではありません。(^^!)


 話を戻しましょう、<その消えた-34mの海水は、いったいどこに!?>
②日本列島沈没論<小松左京・氏>というので、世間を賑わせたことがある。
  筆者は、それを読んではいないが、(34mも)列島が沈没したのか??
現状の海水位を 0 として、
  出雲大社町・日御碕の石段の最下段   水深28m?
  沖縄県与那国島の石段の最下段      筆者・不知
  魚沼市・富山湾の埋没林の深さ    筆者・不知(港の造成時発見。深さ数mか?)
 これ等を考え合わせると、人の有史において、「 日本列島が 約30m沈んでいる!」
  
もっとも、富山湾の海底林は、炭素年代測定法で数千年前かと?記憶しています。(塩水中にあるのも土中にあるのと一緒ですかぁ??) さらに、近頃の南海・東南海地震でいわれているように、日本列島プレートの下に、太平洋プレートが潜り込んでいるというから、素人的には列島は浮き上がり傾向にあると思われ、これも矛盾してしまう。 例え太平洋プレートが日本列島プレートを押し込み押し下げたとしても、接触部は熔けて潤滑剤の役目をし、30mも沈み込むまえに負荷に耐えきれず、小刻みにそのストレスを解消すると思われるが!? では、その<日御碕>のあたりだけが陥没したか? この陥没論をいうには、あたりに「溺れ谷」がなければならず、それは存在しない。< 万事休す、・・!!>

押しても駄目なら引いてみな・・、沈み込みが無ければ浮き上がりかぁ~~んっ?んんっ!?
    なにいっ!  『浮き上がりだとぉ~~っ』   列島が30数m浮き上がった!!
        「事実はいつでも、科学という、人知の先に用意きれている」

その時の筋書きは、こうだ。 BC.2001年12月25日、日本の東北地方に巨大隕石が衝突した。(カテゴリー巨大隕石・参照)太平洋プレートによって押し込まれていた日本列島プレートは、その隕石を引き金に、たまっていたストレスを一気に解放した。想像で直径20km弱の小天体がぶつかろうとも、列島を30数mも浮き上がらせるだけの力は発生しない。たゆまなく太平洋側から押しつけている力の蓄積があったから、東北の隕石を引き金に波打ちが連鎖的に伝わり浮き上がっていったのだ。この地震の連鎖・連動は、南海地震と東南海地震でも云われている。

ご先祖さまは、驚いたでしょうねえ。大地震、大津波とともに、列島が30数m?も浮き上がったのだから。でも浮き上がったとは思わず、西進してきた巨大津波に乗ってきた竜神さまが海水を呑み干したから海水が減ったのだと思いました。その後にくる滝のような大雨は、その竜神さまが吐き出した水だとも! その歴史的言い伝え・記憶が、<竜の口部、日御碕に階段を造りましょう>に発展したのだ。

マントル上の岩石プレートは、巨視的・短時的にみれば、板バネの性質をもつ。思いだして下さい。Dr.が云われた「島根半島は粉砕半島」のこと。幅も広く厚みも厚い中国山脈よりも、細く長い島根半島のほうが大きく波打つ。巨船に寄り添うイカダ状態だ! その千々に砕けた粉砕音は如何ばかりか! きっとその地鳴りは竜の咆哮に聞こえたに違いない。 さらにDr.が云われた日御碕の近くにある 『竜のウロコ=五角形ないし六角形の柱状節理』 のことや、出雲の地下にうごめく溶岩のコメントを思いだして下さい。

一時に浮き上がった列島は、ささえの無い浮き上がりだ。跳ね上がったものなら跳ね落ちる。例えが悪いが漬け物板を押さえつけて見てください。その透き間から勢いよく水が噴き出してくるでしょう。それがトコロテン状の柱状節理かな(笑)。 次にはその重みで沈み込みへと移る。この地殻の動きを人間の時間感覚でいってはならない。今度はじんわりと押さえつけが始まる。断定的には言えないが、それによって溶岩が滲みでてきたのが<出雲・妙見山>をはじめ、Dr.がいわれた「あれも、これも?」かな。

では、「何故、東北から離れたところの出雲の地だけに?」
この謎が解けない!!
少し論としては弱いが、 ・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ど素人ですが・・・   釣りじいさん | URL | 2009-03-02-Mon 19:43 [EDIT]
平面的に見れば東北と出雲は遠いと思いますが、
上空から見ればたいした距離ではないのでは・・・。
巨大隕石が途中で何らかの形で衝突を繰り返せば、
その痕跡は北海道から沖縄の3000kmもたいした差ではないような気がするんじゃけど・・・。

 Mr.平 素人 | URL | 2009-03-03-Tue 05:38 [EDIT]
じいさま> おはようごさいます。 コメントありがとう御座います♪
おブログ賑わってますねえ。待望太公望の三月に入りました。楽しみです。わたしのほうは、仮想メモリが少なくなってさていかに・・・トホホです。(3/4に分記で解決♪)
そのお考えを頂いて 「もう一度巨大隕石の気持ちになって考え直してみます」 なにしろご先祖さまは、その巨大隕石を 『八岐大蛇』だといっていますからねえ・・・、(^-^)?

ご存命中に!   釣りじいさん | URL | 2009-03-04-Wed 11:59 [EDIT]
パートⅢですね!
いやいや、是非ともご存命中に出版して頂き、クルーの一員として名乗り出たいものでありや~す。
↑ 「美保関」・・・よく釣りに行った場所です!!


青春とは心のありよう♪   Mr.平 素人 | URL | 2009-03-05-Thu 00:22 [EDIT]
じいさま> コメントありがとう御座います♪
願わくばそうあって欲しいですね。このような「突飛論」は得てしてその没後に♪、というのが常! じいさまの御家系は90代以上の長寿系♪ 私んとこは親父が78才で母が88才。今までに20年余りをついやしました。この論が世を圧巻するには、後30年はかかるかも・(^^)? でも今は、「そんなことはどーでもいい!楽しむ気持ち♪」 にして下さったのが<じいさま>、その時が何時やわかりませんが、ともに燃え尽きるまで楽しみましょうかぁ~(笑) 松下幸之助氏いわく『青春とは歳ではなくて、心のありようである』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 (3/7)に追記しました。
ずいぶん前のことだが、NHK・TVで日本海溝の底に巨大な岩柱が林立している映像があった。その成因は、「地下マグマが海底砂中を貫通し、後に砂が流れて、その姿をあらわしたためであろう」 との解説があった。 ・・??、 素人が思うに、砂の中なら直立の柱状ではなくて、餅・団子状態にべちゃっと広がるのではないのか? 水深6000m~10000mでの水圧は凄いと思うが? さらに、その流れたとされる砂は、いったい何処へ?? 砂というのは流れの弱い所や低い所に溜まるんではないのか? その潜り映像では、ちょっとの動きでも砂塵は舞い上がり、そこに棲む生物は漂うているように見受けたが(笑)? 海流というのは、表層が速くて極底部は遅くなるのが普通と思いますが? ならば、その成因は? <日本列島漬け物石!> が落ち着く時に淵から溶岩という水分を噴き上げた。とするのは素人の妄想でしょうかぁ。

<驚愕の出雲竜・Ⅰの、Dr.コメント第五弾より>
島根半島の地底深くにマグマが潜んでおり、・・・・・、
もし、このマグマが眠りを醒まし、再び島根半島を持ち上げないとも限りません。その時こそ、出雲竜(島根半島)が、覚醒され、動き始めるのではないでしょうか。一番マグマに近い出雲竜の頭部(日御碕)が頭をもたげ、うねうねと続く胴体と尻尾は揺れ動き、蛇行を始めるのではないでしょうか。
そして、柱状節理が示すように一番マグマに近い日御碕の突端(出雲竜の口)から、溶岩の噴出が起きるのではないでしょうか。
不幸なことですが、中越地震、能登地震、中越沖地震と日本海側に相次ぐ異変ともいえる大地震の連発は、出雲竜の眠りを遠くから醒まそうとする揺らぎではないでしょうか。
その時に備えるべき日が近いのではないでしょうか。不幸の到来を喜ぶものではありません。災いを最小限にするために、予知し予期し、その日に何を備えるべきか、平さんのご明察と「平トラダムス」ともいうべき予知能力と想像力に期待したいと思います。


(日本海沿岸の地震) (3/8) に追記しました。
日本海沿岸地震に、師が云われた地震に加えて、奥尻島沖地震(中越地震、能登地震、中越沖地震)それに、大きなものではありませんが島根半島沖地震が時折発生しています。列島の太平洋側に起きる地震が海洋プレートの潜り込みによって発生しているのに対して、この日本海側の地震を発生させるメカニズムは分かっていなかったようで、出雲を除く(?)すべてが不測・不意打ちだったように記憶しています。 もっとも地震はすべて不意打ちですが・・、(^^!)

<日本海側地震の発生のメカニズムについて考える>
日本海側地震を<一連のもの>としてとらえる師の考えに拍手します。そのように考えたことはありませんでした。それに気付けば今までの論の積み重ねから導けるような気がします。
 ①列島は、太平洋側へ地質学的にいう短時間のうちに引っ張られ、弓状になった。
 ②比熱の大きい日本海側と、日本列島岩石塊の間に、比熱と重力の“ほころび”が出来て、鉱質を含む地下マグマが噴出してグリーンタフ帯を造った。(グリーンタフの鉱質は地下熱を放出しやすくてその溶解温度も低いのが特徴だ)
 ③弓状になる時、列島岩塊は耐えきれずに、糸魚川~天竜川でバキッと折れて<中央分断地質帯・フォッサマグナ>を造った。 ( 注; 中央分断地質帯は筆者の造語です。割れたから地下マントルが表出したのであり、この逆では決してない。^^!)
 ④“ブーメラン状”になった列島は、その後に太平洋側から押しよせる海底地殻によって絶えず日本海へ押さえつけられている。
 ⑤ブーメラン列島の一方の<支点>奥尻島で地震がおきた。もう一方の島根半島沖の<支点>にもDr.の云われるように注視しておきたいものだ。
 ⑥この論を確かめる簡単な方法がある。
青森・龍飛崎と、伊豆・石廊崎辺りと、出雲・日御碕の定点観測を過去にさかのぼって調べればよい。きっと“への字形”の端々は遠ざかっているはずだ。
Dr.のお問いかけである日本海沿岸の一連の地震が、何時、空白の出雲におきるかは分からないが用心にこしたことはない。 史実探偵:素人のJobはここ迄、あとは専門家(警察)におまかせ! といっても相手にしてくれないか!?(笑)

<出雲・日御碕の柱状節理について考える> (3/10) に追記しました。
岩石が柱状節理をとるには、溶岩が狭い隙間を下部からの強い力で、“一瞬のうちに”噴き上げるトコロテン状だと申し上げておきました。 Dr.が、日御碕の灯台近くにあると云われた岩柱の五角形・六角形を「竜のウロコ」と、命名されたのは、グッドネーミング♪ そう云われれば竜のウロコにそのようなものを描いていたようなものを見かけた記憶があります。 まさに、「逆鱗に触れる思い!」。 でも、それに五角形があるのですか?六角形だけと思っていたこども心をそそるものがあります。 Dr.推奨の写真付きウエブ見ました。 後でゆっくりじっくり観たいですね。とても興味深いものがありました♪。

【 仮 説 】 では、日御碕の柱状節理は、何時どのようにして出来たのでしょうか? 
BC.2001の年末、東北に端を発した巨大な地震波が出雲にとどく。、約60kmのイカダ状・島根半島は大きく上下に波打つ! ここで注視したいのは、<地震の舟尾効果!←筆者命名>だ。いかに硬い地殻・地塊であろうが、それに対応する強大な力が働けば、岩塊はマントルに浮いた船のように振る舞う。 まず、西進してきた地震波は<島根半島の西部岩塊>の舳先を持ち上げる。これによって舟尾の日御碕は、ぐっと沈み込む! 地震波は第一波が大きいとは限らない。幾度も、々も、揺すられ続ける。 で!、接触・摩擦熱が発生し“トコロテン”が噴きだした。(笑)

では、他の地にも柱状節理は、ないのか? ありました♪
Dr.が、「岩割伝承」があると云われた<丹波?の玄武洞!> 筆者は玄武洞の名は早くから知っていましたが兵庫県の瀬戸内海側にとばかり思い込んでいました。 ん・・・? 混乱!  もう一度調べなおします。( 汗~!) やはり、日本海側でした。

玄武洞は160万年前に起こった火山活動でマグマが山頂から流れ出して固まる時に、規則正しいきれいな割れ目をつくりだしたものです。6000年前波に洗われて姿を現し、・・・(ウェブ・玄武洞公園より)

丹波の山塊は、出雲の山塊と似たような大きさと形をしていて、これもその舟尾の西側に位置しています。 だが、「160万年前に起こった火山活動で、6000年前波に洗われて姿を現した」 とある。素人のいう4000年前とは大きく異なる。 素人は何時もこの年代決定の問題でいきづまってしまう。 放射性同位元素の年代測定法に誤りはない。遠い過去からその岩質が同じ圧力で同じ温度にさらされていればその考えは正しい。だが実際にはそのようなことはあり得ない。その判断や補正のしかたに誤差があるのではと何時も思います。 今、論じているのは、何万年・何百万年も前の地質時代の話をしているのではない。 四千年前の列島になにが起きたかを探している。

「玄武洞は、160万年前のマグマが固まって柱状節理をとった」と、される岩石も、玄武洞の地下にあった160万年前の岩質が4000年前に噴出したと思えばよい。 後は「6000前の波」と、「4000前の大津波」との差をつめる討究がなされれはいいことだ。

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そうだ!   shigechanizumo | URL | 2009-03-09-Mon 09:14 [EDIT]
お久しぶりです。以前の平らさんが作成された大社の地図ですが、地震の構造線が走っています。その構造線は、稲佐の浜の弁天さん(島)から、仮の宮、中村、新町、東新町、越峠、そして馬場へと続いているようです。なぜなら、戦後直後の地震の時に、これらの地域を結ぶ線上の旅館や家が倒壊したのです。とりあえず・・・。


そうですか、ふむふむ♪   Mr.平 素人 | URL | 2009-03-12-Thu 01:04 [EDIT]
Dr.> いつもいつも、興味深いコメントありがとう御座います♪
教えて下さるご教示や情報の数々は、とおりいっぺんの調査では出ない、とても貴重な情報です。 Dr.の云われる 「とんでも話」 と、素人の 「こども心」 のハーモニーを楽しく思います。

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<では、何故山塊の西側だけに柱状節理があり、東側にはないのか?> (3/12) に追記しました。
これは地震波の波状攻撃のスピードが速いからではないのか? 船首が沈み込まないうちに、次の波が船首をもち上げる。結果、船首側より船尾側のほうにより大きく作用し沈み込む。 しかし船首側になんの変異がないとは思えないから<石英の溶脈>があるであろうと予測しておきましょうか♪

<ドクターより新しい情報が入った>
「島根半島の西部岩塊の南側に沿って構造線」が走っていた! 構造線というのは、断層や地質のあきらかな違い面が接することをいうようだ。 前述で、島根半島を巨船・中国山地に寄り添うイカダだと表現した。おなじ波の大きさでも巨船よりイカダのほうが大きく波打つ! であるならば、その構造線をトレンチ(掘削)調査してみたい。筆者の論が正しければ<激しく上下運動>を繰り返した痕がきっと残っている。
 さらに、驚くべきは、この構造線の西端?に、<稲佐の浜の弁天(島)>があることだ。師が子供のころ泳いで渡られた(笑)という日本百選にも選ばれている美しい浜と島だ。 この島は写真で見る限り溶岩の噴出であるようだ。 史実探偵:素人は、この島が『四千年前の大事変の時に噴出した』と、断言する。このような強い言葉で言えるのは、この島で旧暦の10月10日に、津々浦々の神々さまが集まるという「神迎祭」がとり行われるという祖先の強い後押しがあるからだ。 その大事変がなければ、この島にそれ程の集客(神)力は生まれない! 弁天さんは女の神様。そして<薗の浜>その後の歴史の変移が思い浮かびます。ねっDr.~♪

<さらに、日御碕、玄武洞の柱状節理と、似たような所はないのか>

他にも   shigechanizumo | URL | 2009-03-12-Thu 09:13 [EDIT]
柱状節理といえばその他、越前の東尋坊が有名です。日御碕と同じように海岸に向けてがけが屹立しています。日御碕と異なり、自殺の名所とか。日御碕では東洋一の石造灯台からの飛び降りはありますが、海へ飛び込んだという話はほとんど聞きません。


 Dr.> ♪即応の♪、   Mr.平 素人 | URL | 2009-03-13-Fri 08:10 [EDIT]
コメントありがとう御座います。(深礼)
東尋坊が柱状節理だとは、知りませんでした。(^^!) さっそく調べてみます。
              <東西の岩塊の長さ>    < 岩塊の形>    <柱状節理の位置>
①島根半島・西部山塊  約  km     鼻高山   mを含む長円形     西
②玄武洞(兵庫県・北)  約8km      ブロックとは云えず、南北に長い   西
③東尋坊(福井県)    約2,5km      標高80,6mのお碗形        西
④綿向山麓の接触変質地帯(滋賀県蒲生郡日野町音羽)
  この山麓の接触変質地帯というのは、石灰岩の岩体に花崗岩の溶岩が噴き抜けて(貫入という)その熱作用により、石灰岩が熔けて大理石化したものである。断層もあるようだ。 年代的に色々に云われていることはさておき、素人が問題にするのは、<綿向山・わたむきやま←ムク=丸裸か?>の名前と、信仰の対象とされた登山道があることである。 この山は中部山岳地帯の西端にあり、<竜王山>と隣り合わせにある。四千年前の大事変により山と山が擦り合わされて、花崗岩が溶岩となって噴出したのだ。「竜王が火を噴き」その火は木々に燃え移り、「綿のように燃え上がった!」 この事変を目の当たりにすれば、祖先でなくとも恐れおののき信仰の対象にする。 重ねていうが人類の記憶にない地質時代の話ではない。<火と大音響>を体験したから、<日野・音羽>の地名がついたとするのは筆者の思いすぎか? 何時になったら専門家がこの異変に気付いてくれるのでしょうか。 「 先ゃ~長ぇ~なぁ~、じいさまぁ(^^!)」

お見通し   shigechanizumo | URL | 2009-03-12-Thu 09:26 [EDIT]
弁天さんは、今は海砂の堆積でほぼ歩いて行けますが、私が中学生だった頃は禁断の島だったのです。浜辺から80mくらい沖にあり、島のいたるところで渦が巻いていました。また弁天さんの前の浜辺の波打ち際に立つと、くるぶしくらいの浅瀬でも、足元をさらう引き潮が出現して、あっという間に数十メートルも流されてしまうのです。穏やかな浜辺の中で、このあたりは遊泳禁止となっていました。私が中二の時、うかつにもこのあたりの危険を知らない他市の町内会の団体が海水浴に来て、不幸にも子供三人が足をすくわれて水死したのです。私はたまたま、その日部活のトレーニングを稲佐の浜で仲間としていて、大きな叫び声を聞き駆けつけたところ、三人の子供が波にさらわれたというのです。何でここで泳ぐのだと思いましたが、手遅れでした。一人は駆けつけた漁協の人が地引網をすぐに仕掛けて、それに引っかかり引き上げられましたがすでに死亡していました。私は、それを目撃しました。あとの一人は、それから三日後に数百メートル南の浜に打ち上げられました。その時もトレーニング中で、駆けつけたのですが、無残な姿でした。あとの一人は十日後くらいに、沖合いに浮き上がったそうです。弁天さんは恐ろしいとつくづく思いました。


そうでしたか   Mr.平 素人 | URL | 2009-03-13-Fri 23:24 [EDIT]
Dr.> コメントありがとう御座います。
それは、それは、悲しくも恐ろしい思いをなさいましたねえ。 私も以前に似たようなことを聞いたことがあります。海流が複雑に流れている海岸には表面流より速い下層流がおきることがあり、それに足をとられて事故にあう。加えて、そのような所の海底砂は、ふんわりと積もっていて足がズボッてしまう。そんな歴史が稲佐の浜で幾度も刻まれたのでしょうか。 師のことばを通して 「出雲恐るべし!」がヒシヒシと伝わってきます。(合掌)

屏風磐   shigechanizumo | URL | 2009-03-12-Thu 09:36 [EDIT]
弁天さんは海に浮かぶ島ですが、仮の宮(上の宮)・・・神在月に神々が相談をする(神議り)お宮があるところの近くには、屏風磐という大岩があり、国譲りの使者タケミカヅチはこの磐のところでオオクニヌシと問答をしたとされています。いかにもゴツゴツとした溶岩といった様子の磐です。海砂が堆積する前は、弁天さんと同じように海の中に立っていたことでしょう。今は、三・四メートルの頭を出しているだけです。そしてこの磐の前には、タケミカヅチを祀る速玉神社がひっそりと建てられています。私達は、この神社に必勝を祈願したものです。武運の神だとされているからです。


それは、いいですねえ♪   Mr.平 素人 | URL | 2009-03-13-Fri 23:50 [EDIT]
Dr.> コメントありがとう御座います。 Dr.& クルーの皆さん♪
その屏風磐にかくれて? {四千年の歴史}をくつがえす祈願・謀議を致しますか!(笑)
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<さて、このへんでこの記事を結びましょうか>
文頭にかえり、
今(2004年2月3日・記)、出雲大社町の<日御碕>に、水深20m~28m付近に加工された石段やほこら、洞窟があると聞いた。
 (地もとのダイバー(○○さん)が、その映像を撮影されたそうです)

この現実は、<岩肌に石段を刻んだものであり>そこが空気にさらされ水面上にあったことは、何人たりとも否定できない。後から投げ入れた等の異論が挟めない史実である。 ならば、それは出雲だけには限らない。列島が一律に浮き上がったとは思えないが、他の地にもきっと似たような施設を遺しているはずだ。それを地名という伝言から予測して置きましょう。

* 和歌山県の <日ノ御埼>
出雲の碕は、石へんですが、和歌山の埼は、土へんですからその違いがあるかも? この地にも竜神文化を伝える地名が残っています。
* 静岡県の伊豆 <石廊崎>
石廊とは階段をあらわす言葉であり、<伊豆>は、出雲のいずるから来ているのかも知れない。ここにも竜神文化をあらわす地名があります。
* ほかにもあるかも知れませんから皆さんで捜してくださいね(^^!)。 いずれにしても、その発祥の地は<出雲>ではないかと思っています。そして、その竜神文化の伝播交流の手助けをしたのは( BC210年頃?始皇帝代)に、童男童女3千人を?率いて 、列島の各地を不老長寿の仙薬を求めて来訪した『除福の集団』ではないかとも思っています。(^-^)


【 後 述 】
<驚愕の(島根半島)出雲竜>について、駄文を連ねてまいりました。 この話は、なにも出雲だけに限ったことではなく、遠い昔の話でもありません。 今、出雲・日御碕の海底にその姿を隠している石段は、今私達がお参りしている神社の<石段や回廊>に変身しています。 そして、その鳥居は、BC2001年の巨大隕石という火の鳥がとまる止まり木であり、そのお口をすすがれた石鉢には、竜が吐き出した清水(せいすい)が湧きだしています。 この史実が専門家に、そして世間に伝わらないのは、その事実がなかったからではなく素人の論が至らないからです。 専門は問わない。 より多くの人をうながし、私達一人ひとりが、その持てる力を出し合い、この史実を解明しませんか。

竜の吐き出す清水   shigechanizumo | URL | 2009-03-14-Sat 17:48 [EDIT]
そういえば、日御碕の沖合いにあるトモ島(以前はトド島とも言いました)周辺は、日本でも屈指の巨大クエや石鯛が釣れる場所で太公望の垂涎の島です。日御碕の海岸の海中からは、驚くべき量の真水が湧き出す場所がいくつもあるということです。私も、一度この真水に当てられて死ぬ思いをしました。黒田というところですが、小生得意の潜水をしていたところ、突如として体がしびれるほどの冷水に当たってしまいました。しかも、その湧き上がる冷水に押されて海面近くまで押し上げられたのですが、その間からだの周りには冷水が取り付いていたのです。身体が急激に冷え、心臓麻痺寸前でした。すぐに、近くの夏の陽に熱せられた岩肌に密着して、何とか身体を温めたのですが、それでも数分間はガチガチと歯が鳴るほどでした。つまり、柱状節理の隙間からしみこんだ雨水は、地下に蓄えられ、その冷水が海中に泉のように噴出しているのでしょう。クエや石鯛が大きくなるのも、地上の養分を含んだ真水と海水が混ざるという特異な浸透圧からではないでしょうか。クワバラ・クワバラ・・・。


目に見えぬもの?   Mr.平 素人 | URL | 2009-03-14-Sat 21:54 [EDIT]
Dr.> コメントありがとう御座います。
それは、恐ろしい体験をなさいました。図らずも素人の文面が、Dr.のご体験と符号したのは、なにかの縁(えにし)が働いているのかも知れません。ぜひとも結び文に入れておきましょう。(深礼)

追記(‘09 4/9) 石段の最下段(水深28m付近?)あたり迄に、潮間帯上部に生息する “フジツボ” の付着がみとめられれば決定的ですよね。

「 論より実行!」 春を告げる鳥、ウグイスの初鳴きも聞こえる時候になって参りました。
Dr.& クルーの皆さん! ありがとう御座いました(^-^)。 つぎの記事でお待ちしています。


  次の記事へ、つづきます♪  (3/15)


出雲竜!(島根半島)を縛り付けている銅戈を捜せ!・Ⅱ
             【 お 知 ら せ 】
 世紀をくつがえす記事への、ご訪問に心より感謝いたします。
折角ご訪問してくださったのに、只今スランプ中でいい考えが思い浮かばず、筆が全く進みません。まことに勝ってながら、下記記事のつづきは読者皆様におあづけします(^^!)。 ごめんなさい。 しばらくの間(?)気分転換の休暇をくださいますようお願い申し上げます。(深礼) 
 尚、卑弥呼が埋めさせた「大量の銅剣と銅鐸」を発見けたい人この指とまれ! に、ご興味があるお方さまは、カテゴリーの 【この指とまれ】(クリック) からお入りください。 全記事は一本の線でつながっていますが、カテゴリー別にお読みになると読みやすく、面白いかも(?)です。♪(^-^)♪  (4月/24日)

    
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 <出雲竜!(島根半島)を縛り付けている銅戈を捜せ・Ⅱ>
表題で、前作同様<Dr.izumo氏のコメント>と、{♪シップのクルー& 新来の方>のコメントを揚げて、この記事をつくりあげていく予定ですから、どうぞの御参加を! ただし、先々に、本になるやも知れませんので著作権の移譲等、ご了解での投稿をお願い致します。 その時、「父さん母さん!爺ちゃん婆ちゃんは、「あの大業に参加したんよ♪」と、御自分の孫子に言えるのも愉しいと思いませんかぁ? 但し、わたしの存命中は無理だと思いますが?(笑)   

【 八つ目の宇宙という海へ(Dr.命名・略して宇海へ)漕ぎ出す新しいクルーを募集 】 しています♪

< Dr.~ & クルーの皆さん & 新来の皆さん >
愉しいコメントいっぱいお待ち申し上げます♪ 関係ないコメントも大歓迎ですよ。息抜きができますからね。(但し;即返はないかも~^^!) わたしは後から、ゆっ・く・り・と~(笑)

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

shigechanizumo | URL | 2009-02-23-Mon 11:14 [EDIT]
コメupは、締め切られましたが、余りとしてひとつ。出雲竜の頭部は杵築の山塊、胴体は楯縫郡の細長い山塊、そして、確か疑問とされていたと思いますが、尻尾の部分について、私の考えを書きます。尻部はいったん恵曇と浜佐陀を結ぶ線の佐陀川で区切られると思います。浜佐陀のお寺には弘法大師伝説が残り、佐陀川には、蛇と亀がウヨウヨしており、水海も作っていました。今はその水海は広い田んぼになっています。その宍道湖側のお寺に伝わる話では、弘法大師は竜を何とかしたとか、そこで朱(辰砂)が出ることを発見したとされています。ここが尻部です。辰砂は出雲竜のウンコです?そこから東の再び細長くなり美保関地蔵埼に至る嶋根郡の山塊が尾部ではないでしょうか。
(註;前記事へのぶんをこちらへ移させて頂きました)

Dr.~> お待たせして申し訳ありません。(^^!) 表題でコメントの受け付けを再開します♪
ごめんなさい。 (3/4現で)この件に関しては(国土地理院電子版調査)まったくの手づかずですので、<Dr.>のみならず、クルーの皆さんも推理を働かせて先行のコメントを置いといて下さい。(^^)

 <大の字の一文字部> 出雲竜・首っ玉の三カ所は、
   1. 命主神社の大岩の下  銅戈(どうか)と、ヒスイの勾玉! → 寛文(1665)に発掘!
   2. 鷺峠に、大岩の有無?   銅戈と、ヒスイの勾玉  →  未発見・未発掘です♪
   3. 鷺浦町の ?神社(大岩?)  銅戈と、ヒスイの勾玉 → 未発見・未発掘です♪
 <大の字のハネ部> 出雲竜・脚部の二カ所!
   4. (日本海側・?神社)の大岩の下? 銅戈と、鉄球!? → 未発見・未発掘です♪
   5. (松江市側・?神社)の大岩の下? 銅戈と、鉄球!? → 未発見・未発掘です♪
  キーワードは、『 大岩の下!』 ネッ(^^)♪

そうだ!2   shigechanizumo | URL | 2009-03-09-Mon 16:02 [EDIT]
松江市の**神社の大岩は、恵曇神社の磐坂彦の磐座だと思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/53327106.html


それは、々は、♪   Mr.平 素人 | URL | 2009-03-09-Mon 17:48 [EDIT]
Dr.~> コメントありがとう御座います♪
只今、訪問してきました。 ご記事長いようなので、じっくり勉強させて下さい。(^^!)

一太郎 | URL | 2009-03-14-Sat 09:38 [EDIT]
仮説がどんどんと、とかれていってますね
今後の展開にも大いに期待です
(・・||||rパンパンッ


夜来風雨の声!   Mr.平 素人 | URL | 2009-03-14-Sat 11:58 [EDIT]
一太郎さん>  ご訪問&応援、ありがとう御座います。
拍手数2に増えました(笑)。 例の拍手!元気が出ます(^-^)。 こちら瀬戸内、昨夜からの春嵐も風は残っているももの晴れてきました。どうやら東北のほうに移っているようです。 どうぞ、ご用心を! 

Dr. & クルーの皆さん> 長い間お待たせしました。これから探索に入ります。(^-^!) (3/15)

師のご記事は、素人にとって未知の神や未知の地名等が多々あり頭に入れ理解するまでに時間がかかっております。まだ1/14の消化に手こずっています。恵曇神社(   )を、YaHoo! 地図で捜しだしました♪ 日本海側へ流れる○○川と宍道湖側へ流れる○○川が、○○峠でつながっています。師の記事で恵曇の旧名は<画鞆・えとも>とありました。鞆とは、弓を右手で矢を射るとき放した弦(つる)が弓を持つ左手にあたって痛いのを防ぐ防具とか。 地形的にみても島根半島の中央部にあたります。≪磐座≫は、師のブログ写真で見たことがあり要注意ですね。命主神社(○○神社^^! )の大岩がどの程度の大きさだったのか?分かりませんが、当時の人達が動かせる大きさでなくてはなりません。

私は、Dr.の云われた『ひょっとして大根』が、頭から離れないのです。その時ビビットきましたからね(笑)。 大の字のハネ部。根が生えたように動かない。動ごかせない。根占(ねじめ)根付け(ねつけ)等の言葉もあります。 そして、島根県の<島根>。 地形的にみても<竜の足部>は、<松江市島根町>かと? それで、ヤフー地図で捜すと、なにやら分けのわからん(汗~!) <○佐加志能為神社・にさの かしのゐ>とか、<大己貴命・○○の みこと>が、出てきました。 いっぺんこの線でもあたってみて貰えないでしょうか(^^!)?

釣りじいさん | URL | 2009-03-16-Mon 17:51 [EDIT]
「恵曇(えとも)」は有名な釣り場でもありやす。また、韓国の漁船が入り乱れ、一帯の飲み屋には得たいのしれない韓国語を話す男どもでにぎわっています。漁師には越境も国境もないようですね~。ここは、大陸と大いに関係ありそうですよん、にゃは!


ファイト~、一発ぁつ!   Mr.平 素人 | URL | 2009-03-16-Mon 21:44 [EDIT]
じいさま> コメント&アドバイスありがとう御座います♪
 日曜日よい天気でよかったですね。ウグイスも鳴いていましたよ。
(えとも)でしたか^^! 人様が考え無いような余分事を考えてるから、脳に負担がかかって痴呆が始まっているのかも? 特に人の名と数字が思い出せない(汗~) どこの漁師さんも言葉は粗そうに聞こえるが真はやさしいのでしょうね。 私も一発、吊り上げた~~い!(笑)

 そうでしたか、韓国の漁船が島根半島・恵曇の入江にねえ。・・・ その昔(卑弥呼以前)の、船のありようは知りませんが、帆布の制作やら、手こぎ船のことを考え合わせると、朝鮮半島を出発しても対馬海流に流されて、前述の<湊原・みなと>や、<恵曇・えとも>に着いたのでしょうか? そして還りは、日本海沿岸沿いに航行して、唐津あたりから出航すれば流されても朝鮮半島に帰り着く? この論だと恵曇から唐津までに中継港が必要となりますから、それを捜さねば・・。 このあたりも<じいさま>のテリトリーかな!? (笑)
  ・・・帆布に木綿!?・・・雲州木綿? 船材は杉か桧か? 造船・修理はどこで・・・?


釣りじいさん | URL | 2009-03-17-Tue 18:12 [EDIT]
修理、造船、食料調達・・・きっと山口の日本海側じゃないでしょうか、だから・・・あそこには「卑弥呼の里」がある。佐賀に出るにもちょうど中間点じゃし・・・素人のわしには学術的には分かりませんが、山口に「卑弥呼の里」があること自体謎です。釣りの帰りに見ましたが、畑の隅っこに社のようなものがありましたが・・・。


じいさま> コメント&お返事ありがとう御座います♪
山口に「卑弥呼の里」がねえ?? とすると<萩>あたりになりますか^^!)? Dr.の云われた「美人は隔県おき?」にもちかくなりますし(笑) 一昨年に?なりますか。屈強の若者10人程が大分あたりから大阪まで手こぎ舟で石棺を運ぶイベントがありました。あの一日の航海量ってどの程度だったんでしょうねえ。

おこぼれ!?   shigechanizumo | URL | 2009-03-17-Tue 15:14 [EDIT]
・・・『一帯の飲み屋には得たいのしれない韓国語を話す男どもでにぎわっています。(釣りじいさん)』・・・、実は韓国語らしきチャンポン語で、酒を飲んでいると、勘定が安くなります。なぜ?・・・。

Mr.平 素人 | URL | 2009-03-17-Tue 18:26 [EDIT]
Dr.~> コメントありがとう御座います♪
出雲に、また一つ「謎」がふえました。 こまった困った! Dr.のお酒好きは知っていましたが、とくにビールね?(笑) じいさまはどうでしたか? 円座(ブログ)で伺う限りでは、あまりその話題はなかったように記憶してますが?

釣りじいさん | URL | 2009-03-17-Tue 18:16 [EDIT]
shigechanizumoさん、ども!
確かに、恵曇には小さい小料理屋飲み屋があります。昼間の定食が刺身やエビ一匹、他にもたくさん料理があって、確か2000円でした。旨かったですよ!! 帰りに、出雲のざるそばを食べましたが、これも最高!!


< 今からいえば、ちょい悪おやじ!?^^?>
思いだせば、今から30年以上も前になるでしょうか。30代40代が「年寄りカブ隊」と称して、50CCのバイク10数台と軽トラ、乗用車、各1台で山陰方面へ一泊ツーリングをしたことがありました。その時立ち寄ったの○○の魚市場。 安くて新鮮で豊富♪ それとワイナリーの利き酒し放題^^!)  信号無視^^!一人も含めて懐かしい思い出です。

釣りじいさん | URL | 2009-03-18-Wed 12:03 [EDIT]
Mr.おはようございます・・・今日は。
わしは基本的に酒はやりません。20代の若い頃商社マンだったときに毎日接待で日本橋~銀座で飲み歩いていたとき胃に穴があいて、以来酒を受け付けなくなりました(泣)。手術をして治ったときには体質ががらっと変わっていたんです・・・。でも、酒の場は大好きですよ♪


じいさま> コメント&お返事ありがとう御座います♪
そうだったんですか。で、そのほうの話題が少なかったんですね。 じいさまのぶろぐ友と、その話題の豊富さはお人柄ゆえかな? わたしも下戸ですが、その軽妙な応答に影響されてブログを楽しむことを覚えました。 なにしろブログを始めた当初はスパム行為さながらでしたからね(^^!)。 そんな素人にも応答して下さったのが、Dr.でした。

出雲竜のオシッコ   shigechanizumo | URL | 2009-03-18-Wed 14:28 [EDIT]
日御碕の先端の海中からは、大量の地下水が湧き出ているということで、出雲竜の吐く水とされました。今度は、出雲竜のオシッコです。嶋根郡の西のあたりの膨らんだ部分を、出雲竜の腰、あるいは尻部としました。ここの中海側のふくらみに大井浜という浜があります。その隣りが大海崎です。ここは「出雲国風土記」によれば、「邑美冷水(おうのしみず)」という泉が湧く場所です。中海の海中にも湧出口があり、干潮になると水面が盛り上がるほどの清水が湧き出しています。出雲竜のオシッコではないでしょうか。


Dr.> コメントありがとう御座います♪ 
その線にしたがって、もう一度再考してみます。 しばらくのお時間を下さい。
大の字の「横一文字部」の、<鵜峠と、鷺浦町の ?神社>の情報が入ると『何かの共通性』がでてくるかも知れないと思っていますが、いまのところ雪が積もって?駄目なんでしょうね(^^!)

もしかして   shigechanizumo | URL | 2009-03-19-Thu 09:41 [EDIT]
「伊奈西波岐神社」では?


もしかして2   shigechanizumo | URL | 2009-03-19-Thu 09:54 [EDIT]
出雲大社の西側沿いには素我川が流れています。この川を遡ると鷺銅山に着きます。その途中に、三歳社があり正月三日の福迎神事が有名です。鬼の面と青竹で有名な「番内さん」と呼ばれる厄除けの装束をして「悪魔払い(あくまんばらい)」といって各町内のお家を回って歩く人達は、ここから出発します。私も小さい頃は、夜中から始まる焚き火を伴った出発式の見学に、夜闇の中を友達と一緒にこの宮に向かったものです。出雲大社の西北にあるところから、魔よけの毘沙門天も祭られていて、毘沙門さんとも呼ばれています。ここから峠を越えると鷺浦の伊奈西波岐神社に着きます。つまり北と南の分水嶺(峠)を境にして対になるようにこの二社はあるのです。


Dr.> コメントありがとう御座います♪
すごいすごい! Dr.ならではのコメントです。そういうコメントをお待ちしていました。 通りいっぺんの学術ではなく、もう一歩も二歩も踏み込んで、今私達が神仏にたいして成している所業や、地名という祖先からの伝言のなかに何が潜んでいるのかを問いつめた時、わたしは四千年前の東北に降臨した巨大隕石に突きあたりました。

今回のDr.>コメントは、それのだめ押しのようなものです。大の字の『一文字ライン上』に必ず<命主神社>とまったく同じ埋め方で銅かと勾玉が埋められています!。国土地理院の電子版では、鷺浦町に、文殊院と、お宮さんがありますが、お宮の名前は付されていませんでした。このようにその史実は歴史からも忘れ去られようとしています。 私は、大量の銅鐸と銅剣の封埋と、出雲竜の封縛は三点セットでなされていると考えています今私達が声を上げなければ、その 「封印された歴史」 が陽の目をみるのは何時のことになるやら分かりません。命主神社の大勾玉と銅かが出土したのは三百年以上も前でしたからね。それも寺社造営の偶然からです。『 キーワードは、大岩です!』 これほど分かりやすい目印はありません。

Dr.>に、提案があります。
大の字の<ハネ部の二カ所>は、まだ特定しえていません。それを出雲に不得手な素人が、拙ブログで遅々として捜すより、舞台を師のブログへ移したほうが効率がよかろうかと存じます。出雲のことは出雲の人にしか判らない何かがあります。島根半島・出雲竜を封印している銅かと勾玉は、それを掘り出すのが主目的ではなく。それに気付きさえすれば、簡単に発見つかることのほうが大事なのです。その広報には当ブログで、その解明を進めるよりも、読者数で圧倒的に多い御ブログへ舞台を移したほうが、より多くの人達に見てもらえると思います。

その一つを<鷺浦町の伊奈西波岐神社>と、特定しえても、勝手に掘り上げるわけにはいきません。現実的には、それから後のほうが大変 (経験済み~10年かかってます。で、ブログを始めました^^!)と思います。 世間を喚起し、行政(資金援助)の理解を得て、専門家(調査)が動いてくれるまでには相当な時間を要するのではないでしょうか。 そして最大の難関は出雲の人の信仰心の厚さです。 『 学術より信仰!』 簡単に掘らしてくれないと思いますよ。

えっ?なぜ出雲の人が信仰心が厚いのがわかったかって? それは、Dr.の言葉の端々に出てくる蛇の多さ(ウジャウジャ)です。他の地?では蛇ウジャウジャはねえ^^!。 それは、『蛇を決して殺してはならぬ』 との言い伝えがあるからではないでしょうか? 素人探偵の直感があたってなかったらご免なさい。 でも、ネット・リース(ポケットマネー可、^^!)の金属探知器なら許してもらえるかも?(^-^)♪

これから先は師のお得意分野! Dr.がこれを取り上げて下されば、また別の切り口が楽しめるかと思います。 どうぞ、この素人の思いかなえて頂けないでしょうか。?(^-^)? もちろん今掲げているご記事が終わってからの話です。(^^!)

釣りじいさん | URL | 2009-03-20-Fri 13:17 [EDIT]
おっ、いよいよ舞台がDr.に移されるのでしょうか。ちびっと寂しい気がするのですが・・・。佳境に入りそうですね~。「給付金」をいくら集めても・・・足りない。こうなると軍資金に甲府金山でも最初に発掘せんと・・・にゃは!
いやいや、真面目なお話に申し訳ない!


♪リースの金属探知器で♪   Mr.平 素人 | URL | 2009-03-21-Sat 06:12 [EDIT]
じいさま> いつもの愛読&愉しいコメントありがとう御座います♪
「吉備の総社市・岩屋にも大量の銅鐸」が有るとし、その掘り上げを画策したことがありました。その時の見積もりが<600~700万円>でした( 汗~!)。 でもこれは考古学的トレンチを行ってのこと。 こんどの場合は、大岩の真下にあるのが分かっていますから、『その横、掘り下げて!金属探知器で!♪』

その埋めてある深さが問題ですが、命主神社の「偶然の発見」から推測しますと、深い位置(三尺)では見つからなかったはずですから、おそらく表土に近い一尺ぐらいの所かなと? ならば掃除機に似た金属探知器の先のセンサー部分がその場所に対応すればいいわけですからスコップで30cmほど掘ればいいかと!

まずは、Dr.のあげて下さった出雲市鷺浦町(日本海側)の「伊奈西波岐神社」境内の大石を捜すことから始めなければなりません^^!。どなたかその大岩の写真掲載を♪ クルーに甲州の埋蔵金を追って?おられる方がいますが、この金銭的価値や、歴史的価値はそれに勝るとも劣らないでしょうね。(笑) それから、クルーに、滋賀県の三上山山頂付近のしめ縄をした大岩を撮っておられる方がいましたが、これもその類が埋めてある可能性が大とみています。・・・ボソリ(^-^)? と、リップサービスね(^^!) 金属探知器のネットのリース代 ; 機種により、一日2100円~3150円だったかな。

ご覧あれ!   shigechanizumo | URL | 2009-03-21-Sat 09:21 [EDIT]
http://images.google.com/imgres?imgurl=http://www.taisha.jp/images/S20081026142034948.jpg&imgrefurl=http://www.taisha.jp/%3FID%3D186%26s%3D10&usg=__p_e4KM-reYsNkgtOiBZ1X822rv8=&h=128&w=80&sz=17&hl=ja&start=9&um=1&tbnid=_C4ArweV2G4ieM:&tbnh=91&tbnw=57&prev=/images%3Fq%3D%25E4%25BC%258A%25E5%25A5%2588%25E8%25A5%25BF%
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 鷺大明神のHPです。


“係わりたくない”   Mr.平 素人 | URL | 2009-03-22-Sun 04:12 [EDIT]
Dr.~> 情報ありがとう御座います♪
URL ではヒットしませんでしたが、「鷺大明神」 で検索できました(^-^)♪。
今までに、幾度か“その筋”のHPにアクセスしたことがありますが、返事を頂いたことは皆無です。^^!) こんな<突飛論>にわかに言われても信じられませんよね。 どなたもが“係わりたくないと”無視されます。 そのたびに、『今に見てろよ!事がなってからでは遅いぞ』 が頭をもたげてきます。 もう、そんな気持ちは味わいたくないのです。 で、今はHPの活動は完全閉鎖しています。 どうせ存命中は無理? それも含めて愉しまなくっちゃあね ♪

 【 お ま た せ し ま し た。 (^^!)   (3/29)
Dr.に>場所がえの提案をしましたが、なにかのご都合がおありなのでしょうと勝手に解釈して、当ブログで引き続いて、「おいしいとこ(イチロー選手をまねて)」を頂くことにいたしましょう。(笑) クルーの方にも「追記」がないにも関わらず毎日の訪問に頭がたれる思いがいたします。 でもね。それは私の心に刻まれているだけのことで、いくら電信柱の影で応援して下さっても、コメントとして残さなければ、私の命がなくなれば歴史には遺りません。これは世界史を見据えての広報活動です。日本では大口をたたくのを良しとせず、控えめな方が美徳とされますが、外国人の目にはそのような行動は<自説に自信がないからだ>ともうつるようです。勿論、自論には間違いも多く含んでいると承知しています。 しかし、『 巨大隕石と大津波 』だけは譲れないのです。

 随分前(20年前?)の拙文です^^!。
血餅であろうか、黒いしみの付いたその地図は、子羊のなめし皮で出来ていた。長い歳月でよれよれになり、おまけに半分しかなかった。海洋に浮かんだ小島らしいとは識別出来たが、緯度、経度にいたってはまったくわからない。ここに自分隠した金銀財宝があると言って、息絶えたキャプテンの言葉(祖先からの伝言)より物語りは始まる。 こんな童話に心躍らせた経験は、多くの人が持つところである。今、私は、宝の地図と宝の箱を開ける鍵を持っている。宝の地図とは地球儀であり、「鍵」は、万有引力、総物質、総輪廻で出来ていて、それには、似たものは似たもの同志で集まる。そして、相似形にあると刻まれていた。しかも、謎解きを記した百科事典まである。 しかし、謎解きが出来ても力(実績)がない。博識有能な仲間がいない。私には船もないし、船長もいない。宝は、そこにあるのに取りに行けない。似たもの同志を探すことは、宝を捜すことより難しい。信じて欲しいとは言わない。気付いて欲しい。誰もが知っていて誰もが気付いていないこと・・・、(報告書の第四章宝探しより)


それから、20年経った今、 < Dr.と、7人?のクルー>を得た(^-^)♪ 何しろ巨大竜という4000年の歴史が相手だ! あと30年はかかるかも知れない。 「満たされた時の酒池よりも、渇いた時の一杯の水♪」 その時の愉しみの大きさと同じだけ量の辛さを背負っています。 その一杯の水は、あなたの 『応援する』 の一言です。 ただし、じいさま>だけは別ですよっ!(笑)

釣りじいさん | URL | 2009-03-30-Mon 13:48 [EDIT]
「飲まなきゃクルーに入れない!」って、言われれば、
わしだって・・・飲みやすよん、にゃは!
「御神酒」は御利益もありやすからね~。


<秘密主義!♪   Mr.平 素人 | URL | 2009-03-30-Mon 22:10 [EDIT]
じいさま> いつものコメントありがとう御座います♪
じいさまぁ “酒池○林” などと好き者のようなたとえ話をだしましたが、一杯のおちょこも受けつけないまったくの下戸。 釣りじいさんの尺キス ♪、素人の掘り出し物♪ どちらが先になっても祝宴を上げたいですね。ただしブログ上で! 当方の<秘密主義>は、その時の喧噪から逃れるためと、生来のイタズラ好きからかな?(^^!)

水・飲料水   shigechanizumo | URL | 2009-03-30-Mon 15:40 [EDIT]
先日、荒神谷博物館で会議があり、その中で、渡来人の上陸地はどこだという話になりました。半島側は、私は河下辺りと、恵曇辺りだと発言しました。根拠は、河下には唐川という清水があり、恵曇には、佐陀川があるからだとしました。似たような地域としては、猪目洞窟がある、猪目、鷺浦あたりも考えられるとしました。ここも、カジカが棲む猪目川があるからです。何といっても、航海の後に上陸して容易に飲料水が手に入らなければ、たちまち困るからだろうと考えたからです。いかがでしょうか。

Mr.平 素人 | URL | 2009-03-30-Mon 23:53 [EDIT]
Dr.> コメントありがとう御座います♪ 心待ちにしていました。
 やはり、地元で史家(司家)としても著名人だったのですね。だって、<出雲のしげちゃん>と呼ばれる?ほどの方ですから(^-^)♪
お問い合わせにコメントできる知識は持ち合わせていませんが、師が当ブログへは史学を外してお話して下さっていることを前提にして、素人の考えを述べさせて頂けるならば、その考えは当たっていると思います。まずは飲み水の確保は最優先ですからね。 詳しくは、考えをまとめますので<記事へのUP>にさせて下さい。

一概に列島への「渡来人」となると、東南アジア、中国大陸、朝鮮半島。 それに以外でしたが、師の云われる北方系の人達と色々にあるようです。又、その時代の特定についても、「長い間に」色々な人達が住みついたとされているようです。次には、ご返答としてではなく場所を<出雲に限り>私見を巡らせてみたいと思います。 私は、以前に師のブログで、秦の始皇帝代の徐福という人物が3千人?の童男童女を率いて、東方の島に不老不死の仙薬を求めてくりだしたことを知り、強いショックを受けたと申し上げました。それは卑弥呼をさかのぼること400余年も前のBC212年(219年?)でした。卑弥呼の解明でさえ定かでない列島に、『童男童女』3千人を送りだしたことに驚愕を覚えました。

先ずは、徐福側に立って考えてみます。秦の始皇帝といえば、万里の長城・西安の兵馬傭が思いだされます。その強権をもって多くの資材を与えられ不老不死の仙薬を持って帰れと命じられた(願い出た?)徐福にすれば片道切符! 不老不死の薬などあろうはずがありません。それにしても、中国人の息の長さには驚かされます。あえて童男童女を持たせたということは、「たとえ何代かかろうとも必ず探してまいれ!」ということですからね。 このような発想は日本人にはありません。 それを云う話で、日本人は南に日陰をなす山があればその南に住家を移すと言い。大陸人は、たとえ何代かかろうともその山を崩し去るといいますからね。このような思想のちがいは、金属・石炭・石油をいわない時代での、列島には<狭い範囲>で衣食住をまかなえるだけの恵まれた自然(飲料水・鳥獣・魚介・採集栽培・石材・木材)があり、それに比して大陸では<広大な>物資の片よりによって住家を移し得ないことによって生まれたのかと思っています。

さて<3千人の徐福船団が未知なる冒険>を! 
  (以下、誤りがあったら、どなたでもいいですから正して下さい^^!)
始皇帝代の中国では、北は万里の長城。西はシルクロード。南は南方諸島を知り得ています。知らないのは。東の海です。 当時からでは1800年ほど前になるでしょうか? その巨大津波と大地震で、大きな厄災を送ってきた東方です。 恐れもあるが未知なる誘惑があってのことです。 始皇帝の強権を持ってすれば「何するものぞ」です。その行程等をふくめて筆者はまったく知りませんから、朝鮮半島経由の場合を考えてみます。現在の韓国・釜山(プサン)か、それより西の(ヨス)あたりからの出立としましょう。この場合、どこから発航したかが問題ではなく、準備万端整えての最終出航地がどこかとして考えることが大事かと思います。

当時の中国では、長江、黄河の大河を行き来する帆船技術はすでに持っています。 とは云え職業は専業化し、3千人を構成する陣容は、薬、衣食住をまかなう人達と童男童女を加えていて船舶関係者だけではありません。目の当たりに見える対馬へ渡るにしても、大河を横切るのとは比べようもありません。いかに帆船とは云え弱風の時もあり漕ぎ手は疲れて強い海流に流されてしまいます。3千人もの人達が「用意ドン!」と出発したわけでもなく、同じ場所へは漕ぎ付かないのではないでしょうか。そしてその分団のひとつが流れ着いたのが、師の云われた<出雲の十六島・唐川>あたりかと?

この場合、徐福の乗る船は、船団の旗艦ですから、一番先に立ち一番強い漕ぎ手達が乗り込みます。以下分団長達がこれにつづきます。このように考えると、一番西側に着岸するのは徐福で、それより先に進む船はありません。以下流されて、鳥取から北への各県で、最北は青森県の艫作崎(ヘナシ)かな?と考えています。 そして、その徐福の着岸地点は長崎から出雲あたりとしておいた方が無難かと? 仮に徐福の接岸地を十六島湾としましょう。 最初に求めるのは飲料水! それが得られれば次は食料を求めます。徐福の船団が一番多い人数をようしていますから、無人島状態で生活を始めるより、より豊かな地を求めて移動しなければなりません。それには現地の人が住んでいるところを探したほうがいい。

参考   shigechanizumo | URL | 2009-04-02-Thu 09:54 [EDIT]
ご参考になるでしょうか
http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/52453065.html


(謝々)♪   Mr.平 素人 | URL | 2009-04-03-Fri 05:57 [EDIT]
Dr.> いつもありがたいコメントありがとう御座います♪
なります、なります。  ただいま訪問してきました。♪(^-^)♪

クルーの皆さんに、それをご紹介します♪
   古代出雲『楯縫郡の謎』(その1~8) 2008・1・22~2008・1・30迄
Dr.のテンプレートにカレンダーがあります。その【←2009→ ←4月→】と、右上の部分の 【リスト】 等をクリック検索していくと、そのご記事にたどり着くことが出来ます(^^!)。素人の子供じみた空想がより現実味を帯びた史実として浮かび上がってこようかと思いますので歴史にお強い方は是非訪問してみてください。

それを素人的に解釈、要約すると(^^!)
楯縫郡(たてぬいのこおり)とは、島根半島を構成する4つの郡の1つで、その中ほどにあり、『出雲国風土記』によれば、ここは(島根半島は)「北門(きたど)の佐伎(さき)の国」から引き寄せられた土地だとされています。 北門というのは島根半島の日本海側を云い、ここに佐伎の国(大陸)から圧倒的文明をもつ人達(神話の神々名で語られている人達)が渡来し、出雲(や列島)の歴史をつくるのに深く大きく関わっていった。 ・・・、でいいですか? Dr.>

その時の島根半島は、無人状態だと推定しています。 なぜなら、島根半島は出雲の人達にとって竜神を呼び寄せのり移させるための信仰の島であり、決して冒してはならない島(?)だったからです。 その当時の島根半島は、宍道湖(現在の水深5m~6m)や中海は、干上がっていて潟化していたかも知れません。土質調査では過去に幾度かの乾期があったと報告されています。 出雲の人達にすれば驚いたでしょうねえ。信仰の対象とする無人の島から圧倒的文明を誇る異質の人達が突然現れたわけですから、その人達を「神々さま」と思っても無理からぬことです。

その人達が食料を求めれば、心やすく提供したと思いますよ。 中には、この渡来人達(徐福達?)を、移住とか侵略の目的だとする向きもありますが、私はそうは思いません。 ものごと最初の出会いが大きく後々にひきます。徐福達にすれば厄災を送ってきた東方の島に船出をするわけですから、当然の兵力は携えています。たとえ戦いを知らぬ石矢石斧の住人が抵抗しても難なく扼殺してしまいます。 ところがあに図らんや!、下へもおかぬ“おもてなし♪” 徐福(?)達は喜んだでしょうねえ。 このことは歴史を語る上でとても大切なことです。その後の列島文化の融和へと発展したわけですから。 ものごと<その目的と、最初の出会い>が異なれば、その後の歴史に大きく作用すると中世の歴史で知るところです。

圧倒的文明の差と表現しました。それをDr.に教えて頂かなければなりませんが、卑弥呼をさかのぼること(約450年??)ほど前のことです。 中国では西安に数千人の等身大の兵馬傭や、万里の長城を造るだけの国力があり。列島のほうはたて穴式住居の石器時代。船では帆船(?○○人乗り以上?どなたか教えて下さい)。 列島では杉の大木を半分割りにしなかをくり抜いた3mほどの舟。(先だって野洲市で境界水路?から長さ3m余りの棺のふたとされる縄文代の遺物が出土したとの報あり)。 素人はこれを竜神の舟か?とみています。3mもの巨人はいませんからね(笑)。

「徐福、3000人の童男童女を引き連れて」とありますが、はたして本当にその数3000人だったのでしょうか? 中国には「白髪三千丈」という表現があります。数千人の表情の異なる等身大の兵馬傭からすれば、あながちこれが誇大した数字とは思えないのが中国です。 潮来(いたこ)一枚下は地獄の時代。海の藻屑となった人達もいたことでしょう。話半分!の1500人にしても、すごい数字です。

<次も仮想です>
先の<十六島・うっぷるい><曇鞆・えとも>に、それぞれ100人の人達が上陸したことにして話しを進めます。十六島湾から○○の谷間を通って南へ、雲鞆から佐蛇川に沿って南へそれぞれに食料を求めて移動します。その時の本土側には松江市の<雨乞い山>を基軸として東は<米子>から、西は<出雲市>くらいまでの雨乞い信仰の文化圏が出来上がっていました。 特に松江市あたりは、遺跡の密集地帯ですから、その人口も多かったと推定できます。

これも仮想ですが、現在の海水位と当時の海水位が同じかどうかは特定し得ませんが、その時の宍道湖は「潟」の状態であったとしておきましょう。潟であれば易くて鳥獣や、魚介類は手に入れることができます。当時の出雲に米の普及があったかどうかは知りませんので「五穀」としておいて、これも歓待を受けた♪ 日が経って二つの集団は合流したが、当時にすれば200人の人口はすごい数だ。歓待してくれた人達のテリトリーを侵すことも出来ないし、さりとて全員の混住も出来ない?ので、比較的現地の人達の人口の少ない出雲西部へ移動したかと? このように考えるのは、西部には鳥獣のつく地名が多いからです。
 
ここで、ちょっと食習慣の違いについて考えてみます。
私達日本人の多くは、自分達が美味しいものは、相手国の人達も美味しいと思っていますが。この考えには誤りがあります。(少数の人を除いて)まったく<味付け>の好みが異なります。日本へ来ている中国の娘さん曰く。「日本の食べ物、お米の他は、おいしくない!」。 米人さんにしても「日本のステーキ、おいしくない」 といってハンバーグ定食を! 霜降り肉がですよ(笑) 相手国へいっても美味しいと思えるのは3ヶ月まで。それを過ぎると胃のほうがシクシクして受けつけない。ふりかけやみそ汁の素で元気回復♪ なかには現地食があう人もいますが多くは自炊へと移るようです。 アメリカへ行っている野球選手が「カレーライスを食べてホームランを!」が分かるような気がします。(イチロー選手の胃潰瘍かわいそう) このようなことから、出雲西部地域には、狩りを糧とする渡来人が多かったのでは?と考えています。 

次に、生活が安定してくれば、徐福達は、(この場合、今は仮想段階ですから除福に限ることはありませんが)離ればなれになった仲間達と≪薬を捜す旅≫に出かけます。徐福にすれば、これより東に部下が流されているのは分かっています。分団長にすれば西へ進めば徐福や、仲間に逢えるかと西進します。 これに年月が加わって日本海沿岸に航路ができたかと推定します。 今の段階では、徐福と出雲にこだわらないほうがいいかと思います。その接岸地が、<博多>であろうが<萩>であろうが、あるいは、丹波、金沢、富山、新潟、・・・、青森。(Dr.は、利尻島まで)であろうが、前述と似たような経過をたどると思われるからです。九州博多は川を挟んで文化が異なると聞きますから要注意です。さらに、過去の歴史(蒙古襲来等)から考えて出立時期は、米の収穫を終えての台風(神風)時期と重なることもあり長蛇の船団にどんなアクシデントが待ちかまえていたかも知れません。

釣りじいさん    | URL | 2009-04-07-Tue 12:57 [EDIT]
要は、当時の海の広さがどのくらいだったのか、潮の動きはどうだったのか、船造りの技術はどうだったのか、等々の要因が影響したのかと素人なりに当時を映像化して楽しく読ませていただいています。今後の展開はいかに!!


Mr.平 素人    | URL | 2009-04-08-Wed 06:06 [EDIT]
じいさま> コメントありがとう御座います♪
潮をよむのは、じいさまのお得意分野♪ その時の徐福船団になったつもりでの推理想像には楽しいものがありますね。 筋書きはありませんので、今後ともよろしくお願いいたします。

行動パターン   shigechanizumo | URL | 2009-04-08-Wed 15:25 [EDIT]
渡来人が嶋根半島に着いた時に、何をしたか。まず、おいしい水を飲んだはずです。次に、近くの見晴らしの良い山に登ったと思われます。海岸に着いた時の太陽の方向を、その時しっかりと見極めています。山の頂上から、太陽の方向を確かめながら四囲を見渡すのです。すると、来し方とこれからどこへ行くべきかの確認と判断ができます。私は、猪目・鷺浦辺りに上陸した渡来人は、猪目川などで喉を潤し、次に山に上ったと思います。その山は、分水嶺となる山でなくてはあまり意味がありません。四囲の見通しがはっきり付くからです。多分、鷺浦だと竜山に登ったと思います。眼下には、来し方の日本海が広がり、また行く手になる出雲平野と宍道湖が見渡せたと思われます。目指すは、出雲平野となったのではないでしょうか。ところが、竜山にはさらに渡来人を驚かす鉱物がゴロゴロしていたのです。うぇッ!!!


Mr.平 素人 | URL | 2009-04-08-Wed 20:42 [EDIT]
Dr.> コメントありがとう御座います♪
そうです。そうかも知れません。私も吉備の山で道を失った時、高いところへ移動しました。確かロビンソンクルーソーも、そのようにしたかと。 その人達は「薬石を捜す」のが目的で渡来したわけですから、遅かれ早かれ必ず、<その鉱石>は必ず見つかりますよねえ。 なにしろ、子牛の胴ぐらいの大きさのものが見つかったとか云われてましたよね。

 <八百万の神々(渡来人)が出雲へ集まる?>
列島のなかでの出雲の優位性は、前述の(○○の記事)で申し上げました。徐福が渡来した当時、日本海側で、西から<唐津><福岡><出雲><丹波><金沢?><富山><新潟><秋田・八郎潟>は、四千年前の津波に関係する地名であり、すでに人口密度の高い『群落』が出来上がっていたかと思います。なかで福岡あたりと、出雲と、富山平野は特に大きな社会性を持った「郡・こおり」であったと推定します。しかしながら、いかに出雲が他の地に対して優位性があっても他の地では、それを知るよしもありません。それを助けたのが分散した徐福団ではないでしょうか。

時がたち徐福分団は、それぞれに蒐集した薬石・珍品・情報を持って、本国である中国めざして西進する。仮想で徐福は出雲に居たとしました。当然、徐福とは再会する。さらに列島に沿って西進する。ここには、舟形の石棺の遺物や、何やらの命(みこと)が桧(水に強い性質あり)を大陸から持ち帰った?とか、黄泉の国伝説がありますから、捜せば<帆布(木綿や麻;水に濡れると強力を増す)・造船所>に関係した地名が見つかるかも知れません。

でも出雲から直接、朝鮮半島へ渡るわけにはいきません。北進する対馬海流にはばまれ流されてしまうので、沿岸沿いに、福岡まで進む。ここで大陸へ帰る道中の食料・物資の調達する。さらに西進して<唐津>→<壱岐>→<対馬>→<釜山>へと渡る。 特に朝鮮海峡(西水道)は、東に比べて流れが速いのでしょうかねえ? じいさま> (^^!)

この便で徐福は、一時帰国でもしたのでしょうか? いいえ帰れませんねえ。(笑)たとえ「何便」送ろうとも「不老不死の薬」等あろうはずもなく、徐福はさらなる展開へと、列島各地(九州、瀬戸内・紀伊半島・その他)へ、使いを出す。あるいは情報を得て自分で出向く。この場合のベースキャンプは出雲か博多か、はたまた他の地かは分かりません。 どの道、徐福は本国へ帰れない浮浪の身。 皇帝は怒る!『あれほどの物資を持たせたのに、未だ帰ってこれぬのか』と! ・・・こっから先も、Dr.のお得意分野! 皆さんのお好きなように!(笑)

さて、列島の各地へ散った徐福の分団長達は、当地で蒐集した、珍品や薬石を本国へ送るのに、いつのこつので、「各々が勝手に本国へ送る」では、大変効率がわるい。そこで徐福は考えた(笑)。 『 師走月に出雲にそれ等を持ち寄れと!』 そして、持ち寄った情報に新たな検討を加えて、次年度の活動方針をきめる。 何故それを師走月(10月)にしたのか? 中国の年末年始・旧正月に届けて皇帝に喜んでもらいたい。 このように考えると、日本の師走月から中国の旧正月までが当時の日程・航海力だと思われます。(^-^)!  (4/15・追記)

岡山県総社市に<秦・はた>という地名があります。ここは、岡山の西端に流れている一級河川の高梁川の(当時の?)河口ちかくにあります。これを筆者は、除福分団の居住地の一つ?と推(み)ています。ここは、吉備文化の近くにあり、ここから川沿いに、吉備高原や、中国山地に入り込みます。この高梁川には、世界最大の両生類・サンショウウオが生息しています。サンショウウオは清水にしか棲めず清流の少ない中国にいるとは思えません。又サンショウウオは精力剤にもなるといわれます。もしそうであるならばイモリの黒焼きの比ではありません。権力者は世継ぎを願うのが常。きっと秦の始皇帝は驚き喜んだでしょうねえ。 皆さんの近くにも、このような地があるかも知れませんよ。

その他の、面白い話を提案しましょう。
岩手県だったかな? 縄文時代?の<遮光面土偶>が出土しています。当時の人の服装にしてはとても進歩的で、しかも写実性も高いと思われることから、これを宇宙人では、と考える人もいます。筆者はこれを津軽海峡から太平洋側へ廻った渡来の武人に、遮光面(前述の東北○○の記事^^!)を重ね合わせたものかな?と思っていますがいかがでしょうか?(^-^)!

今度は<列島の住人側から>徐福集団を眺めてみましょう。
Dr.>の参考とされた文面のなかに島根半島「松神社???薬師如来???」がありました。・・・汗゛~! はっきり思い出せません。もう一度調べなおしま~~す。(^^!)
    http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/52453065.html

<Dr.の記事を読んで思いついたこと、1>
Dr.も揚げられていますが島根半島の北側に<釜浦>の地名があります。鉱石が採れるようでもなく、さりとて日本各地にある「お釜神事」に結びつけられるようなところでもありません。何故、この地に「釜」の字が付されたのかと、喉にとげのごとくにひっかかっていました。Dr.の言に「故郷の地名を付ける」があります。 皆さんもかも知れませんが、未だ知らない地を訪れた時、「あっ!この景色は故郷のどこそこに似てる」 と感じることがあります。釜浦の景色は、<韓国の釜山>に似ているのではないでしょうか? 筆者はそのどちらも訪れたことはありませんが・・、(笑)

すばらしい   shigechanizumo | URL | 2009-04-10-Fri 13:09 [EDIT]
遮光面土偶の不思議な点を良くぞ指摘されました。私も、遮光面土偶が羽織っているデコボコの着衣のようなものに注目していました。縄文時代といいながら遮光面土偶がなぜ着衣のようなものを羽織っているのか。しかもそれは普通の着衣ではなく、鎧のような着衣に見えるのです。遮光面土偶は明らかに、正装した中国の武人ではないでしょうか。一説には、その文様は文身(刺青)ではないかともいわれていますが、それにしてはデコボコが盛り上がりすぎているように思うのです。平さんの慧眼に感謝です。


思いつき!   Mr.平 素人 | URL | 2009-04-11-Sat 04:33 [EDIT]
Dr.~> コメントありがとう御座います♪
慧眼だなんてぇ^^;  それは、師のご記事あっての思いつき! Dr.のさらなるご確認の一助に加えて頂ければ、こんなにうれしいことはありません。

ムムッ shigechanizumo | URL | 2009-04-10-Fri 13:26 [EDIT]
釜浦・釜山・・・私は、ここでは「釜」の「カマ」が大事ではなく、「フ」、「プ」が大事ではないかとひそかに思っています。、「フ」、「プ」は、「ス」に転訛します。スサノヲの父は、一説には「フツ」だという説があります。釜浦の隣りの塩津には「石上神社」があり、そこの祭神は「フツ」だそうです。また、「フツ」は、「プル」に相通じます。出ましたよ!「ウップルイ(十六島)」です。まさに、十六島は、釜浦の厳しい峠を一山越えたところなのです。釜山は、読みでは「プサン」ですよね。またスサノヲの故郷は、朝鮮半島の「クシフルタケ」と関係するとの「日本書紀」の記載があります。

さすが、Dr.~> 
言語学はもとより、中国の人をして「今の私達より中国のこと(歴史)をよく知っておられる」と言わしめた広いご見識の持ち主! でもね、これ以上深入りすると素人のアタマんなか満パンで破裂しそう( 汗~!)

<Dr.の記事を読んで思いついたこと、2>
以前のDr.コメントのなかに「陸奥部に野波あり」がありました。 その<野波>を地図でさがしている時、島根半島<塩津>の地名はみかけていました。その時は「四千年前の津波」を経験した住人が付けた地名だろうと簡単にかたづけていましたが、今回のご記事やコメントで島根半島の日本海沿岸に、大陸や半島の人が漂着したとなると、その<塩津、三津、小伊津>の地名は、<何時、誰がつけたのか?>が気になってきました。 と言うのは、
1.その地形が津波の特色であるV字湾奥や片V字湾奥であるとは思えない。
2.この日本海沿岸の浸食された海岸は、交通手段のとぼしいその時代には列島側の住人が住んでいなかっただろうとの論をあげられたこと。
3.人が住んでいなければ地名はつかない。又、「四千年前の大津波」があった時、すでに、この地に渡来があったとも思えない。
4.「津」に、付随している「塩・三・小伊」等の地名は、比較的後のことかと思える。
5.佐蛇川上流に、<佐太講武貝塚・標高○○m>があり、これと前述の「島根半島アップダウン」との海水位の関係は?
 解らないことがドンドン増えてくる。・・・(^^!)

匂い   shigechanizumo | URL | 2009-04-11-Sat 09:59 [EDIT]
私は、出雲平野の片隅にいますが、海が好きでした。海というよりも、侵食された海岸線の岩肌や、むき出しの地層に込められた遥か太古の痕跡を、島根半島の海岸線に行くと見ることが出来たからです。
しかし、もうひとつの楽しみがありました。それは、島根半島の海岸に立つと、海でつながった遠い大陸の匂いを感じることが出来たからです。多分、今回のミサイルで有名になった、ムスダンリ岬と島根半島は結ばれていただろうということが地形から分かります。最近、山陰海岸とロシアの海岸とは一体だったということがしきりに言われています。世界ジオパークの活動が盛んになったからでしょうが、そのようなことが無くても、島根半島の海岸に立つと、ここは切り離された運命の海岸なのだというような不思議なスピリチュアルを感じるのです。海の潮風からだけではなく、岩盤の傷跡に大陸のにおいを感じるのです。
ところで、塩津・坂浦・三津・小伊津・地合といった海岸集落の民俗には、かなり出雲平野の集落とは異なった風習が残っています。例えば、平野部からお婿さんを迎えた家で、お婿さんの義父とか義母が亡くなると、そのお婿さんは葬儀葬送に出席できないという風習があるところがあります。聞くところによると、その家の血統の中にはお婿さんは入らないからだとされています。では、平野部から来たお嫁さんの場合はどうかというと、出席できるのです。オヤッと思いますが、要するに父系制の血統を重んじているということだと分かるのです。では、その父系制はどこから来たのかといえば、もちろん大陸からではないでしょうか。平野部は、母系制あるいは双系制とされているから、それが島根半島の海岸部で突然父系制となるはずはないからです。つまり、島根半島の海岸部は「隠れ大陸」なのではないでしょうか。大陸の匂いといったのも、風が運んでくるものではなく、そこに染み付いた大陸の匂いなのです。
とすれば、半島といって軽んずべからずということになるのです。ご指摘のとおり、半島の文化は決して渡来人だけが運んできたものではなく、大陸の大地の痕跡と同じように、大陸の人類のDNAが刷り込まれているのです。


DNAの覚醒   shigechanizumo | URL | 2009-04-11-Sat 10:31 [EDIT]
【「四千年前の大津波」があった時、すでに、この地に渡来があったとも思えない。】と、平さんのコメントにありました。直近の私のコメントを敷衍すると、次のようになります。確かに、その頃に大陸からの渡来はなかったというのは正しいのでしょう。しかし、未曾有の大津波が半島を襲った時、半島の海岸部に住んでいた人達は、大陸とつながっていた時のDNAを覚醒させられたのです。大陸との分離は徐々に起こっていた事かもしれませんが、時には大津波と同じような異変を伴った変化も幾度となく起こった挙句、大陸とは切り離されたのです。忍び寄る別離や孤立の際に、人々は失われまいとその悲しみをDNAに刻んでいったのではないでしょうか。
大津波の到来は、再び大陸と結ばれるのではないか、その異変こそDNA待ち望んでいたことをよみがえらせるのではないか、との期待と願望が半島の人達に自分達の出自を覚醒させたのです。大陸の血を引く人達であって渡来人ではない、在来の列島人であって本州の人達ではない。こうした大きな矛盾を抱えたのも、大陸から日本列島が切り離される時に取り残された人達だったからではないでしょうか。そんなことを言えば、日本列島にいる人達は全てそうではないかとの反論が考えられますが、そうではありません。海が割れた「十戒」にも似た怖ろしい分離の現象を目の当たりにしていた半島の人達のDNAにこそ、特別なこととして刷り込まれたのです。大津波は、それを覚醒させたのではないでしょうか。そこで、「大陸の血を引く人達であって渡来人ではない」という特異な人達が出現したのではないでしょうか。山陰海岸・能登半島・男鹿半島の人達も同じなのではないでしょうか。


類似   shigechanizumo | URL | 2009-04-11-Sat 16:51 [EDIT]
ムスダンリ・・・【舞水端(ムスダン)は、「陸が終わって水が舞う所」という意味を持つ。朝鮮半島東北部の海岸線が日本海へ突出し、山塊が75 - 500mの絶壁となって海へと落ち込む場所である。海食崖や奇岩列石が織り成す地形は、北朝鮮の天然記念物に指定されている。】・・・ウィキより。


Mr.平 素人 | URL | 2009-04-12-Sun 03:05 [EDIT]
Dr.~> 数々の興味深いコメント、ありがとう御座います♪

私くしの、【「四千年前の大津波」があった時、すでに、この地に渡来があったとも思えない。】 とした表記に対するご意見ありがとう御座います。
正直に申しますと、この表記には40%の迷いがありました。今回は除福と出雲にスポットをあてて話を進めていますので、間の朝鮮半島の介在を除外していました。しかし、歴史を語るとき自分の興味があることだけを重要視して思いを語ることは出来うるかぎり避けねばなりません。
事実(一部の人の疑問視あり)?、卑弥呼の代においても、始皇帝は朝鮮半島経由で返礼の品々を送り届けていますから、途中、朝鮮半島の国王が臣下を水先案内人としてやらせたとも考えられますし、地理的にも中国より朝鮮のほうが列島に近いわけですから、列島への渡来や知識は中国人より朝鮮人のほうが早かったことが充分考えられます。そして、その渡航手段にしてもなにも船舶にかぎらず、その昔、イカダ状で朝鮮半島からの津波によって運ばれたといっても完全には否定できません。 等、素人なりに考えてみました。
 『史実は多様なり』 そのパーセンテージをどんな言葉で表すかが難しいところです。 (^-^)  興味ある ご教示ありがとう御座いました♪

さて、全国津々浦々に散在する≪津の地名≫が何時、誰によってなされたか?
徐福の集団が関係しているのではないか?と、思われますが決定的な答が導きだせません。徐福達の先人は、四千年前の (当時からいえば1800程前ですが) 巨大津波を<天津・テンシン>で経験したと前述しました。 天津は巨大V字湾奥にあります。 しかし、津のことを<シン?>と云うようです。日本で云う『つ』の語源が解りません。
参考までに中国の杭州(こうしゅう)も巨大なV字湾奥にあり大潮の時の、そのさまは「車馬が押しよせるごとく」と形容され観光地ともなっているようです。一時その波に見物人がさらわれニュースになったことがありました。日本では厄災と海産物の打ちあげという二面性をもった大津波でしたが、ここで云う車馬は、厄災のみで兵馬を意味すると受け取っています。つまり、師の云われたように中国では東方から(津波に乗って)きた「龍蛇(厄災)を斬殺できるものが国を治めることが出来る」という歴史観が生まれたかと想像します。 きっと中国の史書に、その四千年の大津波が記載されている思いますが? なにはともあれこの件は、棚上げしておくことにしましょう。^^!  (4/19記)
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<列島の住人側から>徐福集団を眺めて、に話をもどします。
Dr.>の参考とされた文面のなかに島根半島「松尾神社の本尊は薬師如来」がありました。島根半島・坂浦町にも<一畑薬師>があります。素人は、この『薬師』という言葉につよい興味をおぼえます。薬師信仰は全国津々浦々にあり、お薬師っさんの呼び方でも親しまれています。徐福達の第一の目的は不老不死の薬をさがすことにありました。この<薬師の起源>は、徐福集団の薬師ではないでしょうか。 当時の列島では、病の根源は荒神さまに差し障りがあるからであり、ご祈祷や、ご加持によって治療の主であったと思われます。今でも原因不明の病は神頼みです。これが大陸の進歩的な薬事療法を知ったわけですから、治癒の進行は格段にちがいます。列島の住人達は、きっと驚いたに違いありません。
 
徐福達の薬師は列島の山野に分け入り、不老不死の仙薬を探し求めます。それには、その地に住んでいる人からの聞き取り調査や、未知の薬石を治験薬として試すことができる相互利益の関係がうまれます。住人達にすれば、この人達は不治と思われた病を治して下さるありがたい “如来さま“ に思えたことでしょうね。

Dr.>の上記参考文献(楯縫郡の謎3)のなかに大変興味深い記載があります。
さて、『出雲国風土記』には楯縫郡の佐香郷について、・・・『佐香郷。都家の正東四里一百六十歩なり。佐香の河内に百八十神等集い坐して、御厨立て給いて、酒を醸させ給いき。即ち百八十日喜讌して解散坐しき。故、佐香という。』・・・という記載があります。

これを素人流に解釈しますと、(なかに分からない語句がありますが^^!)
島根半島の<佐香郷>で、徐福達180人が 「無事再会を喜びあい」 180日の酒が醸す(かもす・出来る)間に、「次なる展開を話し合って」 解散していった。
このように不確かとされる風土記も、徐福集団(一部に伝説論あり)を動かしがたい史実としてとらえれば、より現実味をおびてくるから不思議です。 今でも 180人もの異国の人達が一カ所に集えば異様で忘れられない事として語り継がれるに違いありません。 尚、人数の 180人については、“およそ” と受けとった方がよろしいかと思います。“嘘の三八(さんぱち)” といいますからね(笑)。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
折角ご訪問してくださったのに、只今スランプ中でいい考えが思い浮かばず、筆が全く進みません。 もう一度まえに返って読み直してみます。ごめんなさい しばらくの間(一週間ほど?)休暇をください。(深礼) (4月/20日)

ゆっくり、のんびり。   釣りじいさん | URL | 2009-04-21-Tue 12:47 [EDIT]
人間生身ですから、スランプがあるのは当然です。そうでなかったら、それは機械です。そのスランプから新しい発想が出てくるのではないでしょうか。これだけの文章を書いたり、shigechanizumoさんとのやり取りをされていたら、そりゃパンクもスランプもありますよ(笑)。ゆっくり、のんびり、ご自身のペースで・・・そして、何よりも「楽しんで」調査、研究、執筆をなさってくださいね。わしも、のんびり、ゆっくり覗かせていただきますから。本当は、新鮮な釣りたてのキスちゃんでもお送りしたいのですが、わしのとってくる数ではすべておふくろの胃袋を満たす程度なので、ぶつぶつ。


じいさま> コメントありがとう御座います♪ (^-^)♪
 思考が途切れて、考えがまったく前に進みません。 お言葉に甘えまして、とりあえずこの記事は、中断させていただきます。

<(島根半島)を縛り付けている銅戈を捜せ!>
   今までの過程をとりまとめますと!
<大の字の一文字部> 出雲竜・首っ玉の三カ所は、
   1. 命主神社の大岩の下  銅戈(どうか)と、ヒスイの勾玉! → 寛文(1665)に発掘!
   2. 鷺峠に、大岩の有無?   銅戈と、ヒスイの勾玉  →  未発見・未発掘です♪
   3. 鷺浦町の ?神社(大岩?)  銅戈と、ヒスイの勾玉 → 未発見・未発掘です♪
     鷺浦の<伊奈西波岐神社>に、大岩有りか?
 <大の字のハネ部> 出雲竜・脚部の二カ所!
   4. (日本海側・?神社)の大岩の下? 銅戈と、鉄球!? → 未発見・未発掘です♪
     Dr.は、日本海側・恵曇神社の坂彦の磐座!を揚げられている。
     素人は、旧島根郡島根町?神社、大岩が有るのか? 根っ子の地名が棄てがたい。
   5. (松江市側・?神社)の大岩の下? 銅戈と、鉄球!? → 未発見・未発掘です♪
      *ここは、未だ特定しえていません。ので、どうぞ皆さんもお考え下さい(^^)。
    キーワードは、『 大岩の下部!』 これは、絶対不可欠の条件です。
 ご先祖さまは、その大岩で、銅戈(どうか)を打ち付け押さえ付けていますからね!(笑)

出雲に興味を持たれるお人の訪問もチラホラと♪ 時候もよくなって参りました。 皆さんの<新しい現地情報とお考えを、出来れば写真情報も>お待ちしています♪(^-^)♪

→ コメントお待ちしています。深夜も営業中・笑♪  但し、記事へのUPと、著作権移譲をご了解のうえでお願いいたします。(深礼)  

【 クルー(同志)の皆さんへの,お知らせ 】
Dr.>&クルーの皆さん♪ 長い間、駄文長文にお付きあい下さいましてありがとう御座いました。 力およばず<出雲の銅戈・五ヶ所を特定する>という答の出ずままの突然の中断をたいへん心苦しく思います。 この<シップ・舟>は、ここ出雲へ繋留しておきますから、時に覗いてみて下さい。 GWもちかづいて参りました。 “ スランプをチャンスに♪ ” 気分の転換をはかることにします。 ねえ、じいさま(笑)♪
    『 又の集合をかけるその時まで 』 再会を楽しみにしておきます。 ♪(謝々)♪


      私は、次の記事の準備に入ります♪  今しばらくのお待ちを^^!)
  題は、忘却の彼方<天空平・てんくうだいら>←地名です! どうぞお楽しみに♪


どなた様、拍手をありがとう♪ 只今までで(‘10 5/21)5拍になりました。(^-^)
出雲の巨大竜を縛り付けている銅戈(どうか)&勾玉を捜せ!のⅢ
 そのお宝が出土してから騒ぐより、その出土前を楽しみませんか(^-~♪)
ご訪問ありがとう御座います^^。
  しばらくのあいだ、次のようなお手紙を添えてこの記事の送信活動にうつります。


  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
01~ [宛  先] 〒000-0000                             May 12, 2017
□□市 ○○町 津々浦々 1-4         初 便  2007年 3月 14日
       歴男歴女                                今回便 2017年 5月 09日
このブログを御覧の貴方様                                         
                         (喧騒を逃れる為、身分秘匿の無礼をどうかお許し下さい)
                                 (差出人) 史実探偵  平(ヒイラ)素人(モト)
                        http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-17.html

 1 □□市○○ 考古学関係  様
 2. 其の他、関係する学会  様
 3. 観光資源開発担当  様  侍史、                                 
 4. 謎とロマン探求 大好き 様    NO: 00 其の他関係機関様(未定です^^!) (順不同)
     素人探偵局(ブログ)を開設しています^^!。
    < 吉備にも大量の銅剣と銅鐸が埋めてある!>→出雲と同様な方法で^^、
    <吉備の大量の銅鐸を画策その1 & 2>
     に続き、<卑弥呼が縛り付けた出雲半島・巨大竜> を今回お送りします。
    東風来らば 想いおこせよ “大事変” 私(卑弥呼)亡くとも 竜神忘るな (パクリ^^)
   この<記事>を先様が“回覧、コピー喧伝される”のは自由です。
    各機関の皆様がコラボしてさらなる観光資産 及び、学問に発展させて頂ければ幸いです。
     (以上同文)
Dear Sir,  古代歴史探求と、謎とロマン探求の 大好きな 貴方様
  前略を失礼いたします。前記事はいかがでしたでしょうか。貴家さま>には第○便になります。
残念なことながら、実績や肩書きの無い素人の話等、sigechan izumo 様>を除いて世間の
どなた様からも相手にされず 無視されています(笑い)。 一方通行無しのツブテ状態です^^!。
今回の謎解き、『出雲半島の頭部に未出土の銅戈と大勾玉あり』の件は、1%の欠損もありません。
私が、このような強い言葉でいえるのは、数多くの先様や、ご先祖様からの情報と、Dr.いずも氏>
の御教示から導きだされた賜ものがあるからです。素人のいうように命主社と同様な埋め方で、
鷺峠と、伊奈西波岐神社の裏手から、その銅戈と勾玉が出土すれば、十年来、この方 相手にして
下さらなかった専門家や貴方さまは、どんな顔をなさり 「なんと云わはる?」 のでしょうか(^-^!)。

  しかしながら、現実にそれを掘り上げるとなると、文化財保護法やら、地主様の了解やら、その
調査発掘の費用を誰がもつか等の諸問題が 発生してきます。素人が、スコップとツルハシ担いで
という分けにはいかないのです。それを掘り上げるには、マスコミの参加やら、専門家と行政のコラ
ボがあってのみ成せることのように思います。先様が “それに気付き” さえすれば簡単なこと。
まずはそれを掘り上げたい。この件は考古学のみならず、多くの歴史が関係しています。それ等を
統合し学問に昇華させるには、各分野の専門家の御参加と協力が必要かと思います。
 今回は、命主社での出土の詳細が分かれば金属探知機を使って「予備調査をした後での発掘」
が可能であり、費用の面においても大変安あがりですみます^^ 。 ー卑弥呼が関係しています。ー
くれぐれも学術調査なしの現状破壊は厳しく慎まねばなりません。そんな早急な貴方さま>には、
まだ大の字のハライ部の謎解きが残っていますので、そちらの方の解明をお勧めします。
ちなみに、この件の100%は、素人探偵の机上論であり、私は現地を訪れたことがありません^^!。
 そのお宝が出土してから騒ぐより、その出土前を楽しみませんか(^-~♪)

 <是非に貴方様>の御参加を希望します。
尚、わたしが御高配を頂いている Blog 名 (いずものこころ) Dr.いずも氏は、ブログのみのお付き
合いではありますが、氏の御教示がなかったら、この記事は成しえなかったことであり、ここに多大
の敬意と感謝を申し上げます。
                          乱文ご容赦、      史実探偵 平 素人 拝、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


出雲の巨大竜を縛り付けている銅戈(どうか)&勾玉を捜せ!のⅢ
           乞うご参加!          →掘り上げろ!     (2017/4/ 09~30

<初めて、ご訪問のお方様に>
ご訪問ありがとう御座います。このブログで掲載している記事のすべては関連モノです。その後シリーズでは、その要旨や言葉足らずのところを書き足しています。 興味が湧いた方は “ふりだし”から、どうぞ(但し、お暇な方に限ります^^)。 お勧めは、カテゴリー別で入って下さると読みやすいかも知れません。 尚、コメントは、後々(の世^^!)まで残るものであり、本になるやも知れませんので、真に勝手ではありますが、その時には当方が、そのコメントを無償で使用出来ることを 御了解されたものとして扱います。 なぜこのようなことを申し上げているかというと 「 先で、この『広報』を妨げる要因は一切取りのぞいておきたいからです」。御一緒に、そのコメントを歴史に刻み、その“出土前を楽しみ”ませんか? コメントお待ちしています。(^-^)♪
但し、内輪のご連絡や、それが嫌なお方様は管理者のみでどうぞ^^     (敬白) 史実探偵: 平 素人



 <本文>ここからが、この記事の本文です。
まず、最初にお断りしておきますが私は歴史のことを殆んど知らない。それがあろうことか四千年まえの青森県竜飛崎を経由し釜石あたりに降臨した巨大隕石が、祖先の心に竜紳として入り込んだことを知り(詳しくは当ブログの最初から)、以来、地名という祖先からのメッセージをたぐり史実探偵を名乗っています。表題は、そのⅠとⅡの続きです。

こども心と、遊び心に始まった “大捜索”は、Dr.いずも氏の、次の一信>から始まった!

いずも氏は、ブログ 『いずものこころ』 を開設され 私の歴史の知識の三分の二以上を占める大先生でもあり、尊敬をこめて Dr.>と御呼びしています。そのご教示を仰ぎながら四千年前の竜神にからめ地名という祖先からの伝言をもとにして推理探索してきましたが中途半端なところで終わっていました。今一度そのⅠ&Ⅱの考えを反すうしたり改めたりしながら深めていきたいと思います。Dr.とやり取りの詳細は、Ⅰ&Ⅱにありますので、どうぞそちらでお楽しみ下さい。氏のブログは、プレビューにその大勾玉を貼っておられます^^。 拙ブログのリンク管理者の上にあります。

お願い  shigechanizumo | URL | 2008-09-16-Tue 16:40 [EDIT]
「平成20年2月29日長野県埋蔵文化財センターは、中野市の柳沢遺跡で先月中旬に「銅戈」(どう か)2本が出土したのに続いて、新たに「銅鐸」(どうたく)の破片2点と「銅戈」5本が出土したとして(9月)1日、発掘調査現場で記者会見し、発表した。」
 この記事について、平さんの率直なコメントが頂けるとうれしいです。


 shigechanizumo | URL | 2008-09-18(木)-午前 9:53 [EDIT]
先に、「出雲でも銅戈の発見が心待ちです。」としましたが、正確には、出雲大社の東側の命主神社の大岩の下から、このblogの上の写真にあるヒスイの勾玉(重要文化財)と一緒に、かなり質の良い銅戈が出土しています。しかし、上田正昭先生などに言わせれば、出雲には銅矛・銅剣と同じように大量の銅戈が埋もれているはずだということですが、まだ大量銅戈は見つかっていないのです。平さん、是非発見を・・・お願いします。

< これを受けて、・・・^^>
卑弥呼は、それまでの稚児の生贄を伴った銅鐸・雨乞い文化を 「降雨を司るのは、竜荒神ではなくて太陽神だ!」として、魏から得た100枚の銅鏡を太陽の象徴だとし、それを分け与えて、それまで使用してきた「荒神を呼び寄せるため銅鐸と稚児を殺めた銅剣」を人里離れた「岩」の付く場所や谷あいに「二度と使わないとして」封印し、埋めた埋めさせた。銅鐸と銅剣を二山越えに離して埋めたのは誤って銅鐸に呼び寄せられた荒神にその銅剣を持たせない為である。時もおり、彗星のニアミスや皆既日食とかさなり、雨乞いのため(七・五・三歳の)愛児を生贄として差し出す社会制度に不満がうっせきしていた人々は、卑弥呼の提唱する銅鏡太陽神文化へと容易に変わってゆく・・。その100枚の銅鏡を分け与えて大量の銅鐸と銅剣の埋めた場所は “出雲と、吉備と、神戸と、野洲” だった。(その詳しくは、カテゴリー「この指とまれ」へどうぞ)

 しかし、四千年前(BC.2001年)に東北に降臨した巨大隕石が発した巨大地震と大津波に乗って波打った長さ約60km幅5km出雲半島・巨大竜が、又暴れだしては困る。(註:前述で、地震波は列島タンカーに沿う小舟島根半島の方がより大きく上下する)こいつを何とかして,“大人しく”させておかないとならない。そこで考えだされたのが、ガリバーと小人のように大の字に寝かせて、縛り付けておくことになった。実際にそのように(大注連に)したか、形式的にしたかどうかは分からないが、その時使用した荒縄は出雲大社の西にある奉納神社で保管したかと推理した。この歴史の覚醒は(この言葉はDr.いずも氏のです^^)、今の大社の大注連縄(しめなわ)となっている。
 そして、縄だけでは心許ないから当時の最新鋭で大陸からの武器である銅戈を“大の字”の要所に打ち付けることにした。これは、後には五寸釘でワラ人形を打ち付ける呪術へと移行した。五寸の長さにしたのは四寸。つまり、奴は強大だ。並みのやり方で、又起き出しては困る。死(し)寸を超えるほどの強力なものでないといけないからだ。このように、今私たちが成している行為や聞き伝えに、その謎解きのカギは潜んでいる。
   (これ等の詳しくは、カテゴリー「出雲地方」へどうぞ)

島根半島の“大の字”の要所に『〆(シメ)縄で縛り付けよう』となった。それが下記の図です。

  ⅰ 島根半島・出雲竜の概略図 (銅戈を捜せの・Ⅰ&Ⅱより)
      【出雲竜の頭部】                     【足部】         【尾部】   
       <卍?宮?>   猪の目                                  
 (口部)宇龍  ↑ 竜山                      (島根町)?             
日御碕    鷺峠  ←_______約60km______枕木山___ → 地蔵崎
   八雲山  ↑ 弥山                             ムラクモノ剣?
  <出雲大社>                         <松江>?
          ↑(首部)
      <命主社>勾玉&銅戈の出土(寛文5年 1665)
    原山遺跡   菱根池  出雲井神社
   <富>家・墓地  (蛇池)   (賽の神)
     下照姫    赤牛    道案内       出雲山(小高い赤土の山)

ⅱ Dr.いずも氏の付言 ⑦ に、(2008-11-14-Fri10:44)  
⑦蛇足ですが、「出雲井神社」の宮司さんは、以前は「富」家という位の高い社家が受け持っていました。その富家の後継の人によると、出雲井神社の神は、出雲大社の裏手3kmの山中にある鵜峠(うど)銅山の坑道に封じ込められて、大岩で出口をふさがれて憤死したのだと言っていらっしゃいます。富といえば「トミ」=「蛇」なのです。社紋は亀甲紋の中に、何と交差した大根なのです。何を意味するのでしょうか・・・。出雲の熊野大社の神紋は亀甲の中に「大」とあります。大社の「大」と思っていますが、ひょっとして大根の「大」なのかもしてません。とあります。

竜と銅・第八弾   shigechanizumo | URL | 2009-01-23-Fri 10:02
・・・、出雲竜の話では、出雲竜は真ん中の止め釘と、四方の止め釘とでつなぎ止められているのです。そして出雲竜は島根半島なのです。この類似は、国引き神話の発生は、その根源に出雲竜が島根半島としてつなぎ止められたという、始原の記憶に基づくものなのではないでしょうか。

<これ等をもとに>思考錯誤をかさねてきた。
   ↓記事 出雲竜を縛り付けている銅戈を捜せ!のⅡより、
<大の字の一文字部> 出雲竜の首っ玉の三ヶ所は、
   1.命主社の大岩の下   銅戈(どうか)と、ヒスイの勾玉!→寛文5年(1665)に発掘!
   2.鷺峠に大岩の有無?     銅戈とヒスイの勾玉   →  未発見・未発掘です♪
   3.鷺浦町の ?神社(大岩?) 銅戈とヒスイの勾玉   →  未発見・未発掘です♪
<大の字のハライ部> 出雲竜・後足部の二ヶ所!
   4.日本海側の大岩下   恵曇神社(Dr)?,島根? 銅戈と、鉄球!? → 未定です♪
   5.松江市側の大岩下   城辺りと思われるが??  銅戈と、鉄球!? → 未定です♪
    と、推定していました。 キーワードは、『大岩の下』です。  □
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<その銅戈とヒスイの大勾玉は大岩の下に埋められている>
        ここからが、今回の記事で、例によって追記形式ではじめます^^!。

その1.<命主社の大岩の下>で、
  その情報をいま少し集めてみよう。
寛文5年(1665)に、出雲大社の石垣を造営するために、大社から東に歩いて10分足らずのところにある命主社(いのちぬしのやしろ)の本殿の裏の大岩を割り砕いていたところ、その下から銅戈(どうか)とヒスイの大勾玉が出土した。現在それは出雲大社の宝物殿に収められていて、そのレプリカは、出雲古代史博物館に展示されているそうです。
<命主社について>
     「Mac遊びの昼食」の <たねち様>よりの、承諾を頂いて再度掲載しています。
場所は、古代出雲歴史博物館の北側 (大社町字森で、出雲大社東500m)
     民家の間にあって目立たないので行き過ぎかけてしまいました。
祭神は、神産巣日神(かみむすびの神)。造化三神の一柱で、小さいですが、その名に恥じない立派な大社造りの社です。


出雲観光協会公式ホームページ https://www.izumo-kankou.gr.jp/254 命主社より、
  出雲大社の摂社  
正式な名称は「神魂伊能知奴志神社(かみむすびいのちぬしのかみのやしろ)」で天地開闢(世界のはじまり)の造化三神の一柱、神皇産霊神(かみむすびのかみ)が祀られています。
巨岩の前に建てられていることから、古代の磐座(いわくら。神の御座所。自然の巨石をさす場合が多い)が神社に発展した例として貴重な神社です。
寛文5年(1665)の出雲大社御造営にあたり、命主社の裏の大石を石材として切り出したところ、下から銅戈(どうか)と硬玉製勾玉(こうぎょくせいまがたま)が発見されました。
※銅戈 = クリス杉、長さ33.7ミリ、幅10.3ミリ。茎(まがご)が短くて身に対し斜めに関(まち)がついている。
※勾玉 = 長さ3.6ミリ、厚さ9.9ミリ、半透明濃緑色の硬玉。穿孔が大きく孔は一方から穿たれたもの。( 注: ミリはセンチの間違いか^^?)


<以下の表記を考える>
命主社は裏の巨岩の前に建てられている
命主社の裏の大石を石材として切り出した
古代の磐座(いわくら。神の御座所。自然の巨石をさす場合が多い) ・・・等、とある。

筆者は当地を訪れたことがありません。
巨岩か、大石か、磐座かの三つの言葉には、微妙な意味の違いがある。巨岩だといえば山の基岩の意を含むし、大岩だといえば、せいぜい10m程度か。そして磐座だといえば、2~3m程度の大きさで(?)、当時の人が動かせない大きさではではない。知りうる仏閣では,しめ縄をめぐらしていた。筆者は、当初「銅戈を釘のごとくに打ち付ける役目の意」の盤座の大きさだと思っていたが、巨岩の表記があることから、どうやらそれが実態のようだ。巨岩か?盤座か?の大きさで、その埋め方は大きく変わってくる。巨岩だと、その側面に沿わして埋める。盤座だと銅戈とその勾玉を埋めてその上に盤座を載せて押さえつけておきたい。もっとも、後には四国の石鎚山やら、瀬戸内海の大槌島へとその信仰の対称は大きくなっている。

「巨岩」であるならば石垣造営のために相当量切り出していると思われるから、その銅戈と勾玉がどこに、どの深さで埋めてあったか推定しづらくなるが、概ねは社(やしろ)の真後ろであろうか。いずれにしても、「 どのような状態で出土したか?」 それを正確に知りたい。この埋め方は、他のヶ所の埋め方にも通じるからだ。・・・記録に残っているといいのですが・・・。

<その埋めた深さについて考えてみよう>
以前の謎解きで銅鐸や、銅剣の埋めた深さを四尺だとしたことがある。これは「四」は「死」につうじ、当時の男子の平均身長を五尺として、その肩先の高さが四尺で、それ以上深く掘ると顔に土がかかり掘りづらくなるからだとした。土葬などは概ねこの深さに掘る。この比較的浅いといえる深さにも関わらず、それ等が盗掘に合わなかったのは墓泥棒も恐れるほどの“タタリ”があると信じられていたからだ。実際、先の <たねち様>の言では、「民家の間にあって目立たないので行き過ぎかけてしまいました」とある。このようにその参道が細いのは、そこが近寄ってはならないほどの恐ろしき場所であったからだ。それが今では? とほほのホ・・・、グーグルアースで参拝できます^^!。

 しかし、ここで難しい問題が生じて来た。この命主社の前方にある根上がりの大ムクの木だ。樹齢およそ○千年。幹周り、およそ○m。根上がり、およそ2m。根上がりとは。樹木の生えていた表土が流れてだんだんと根の部分が表われてくることをいう。盆栽などは、その趣をだすために植え替えのたびに根の部分を持ち上げて植える。このように、「根上がり」とは、年月をかけて除々に表土が流れ去るか、取られるかがないかぎり見えてこない。樹木の直根は種類にもよるが1.5m~2m。幼木で、短期にその深さの根が空気中に晒されれば樹木はかれてしまう。そして、銅戈や勾玉が、筆者がいう四尺の深さに埋められていたならば、その深さは浅くなってくる。さらに、どこやらで「何やらを倍の深さに埋めたが、未だその声鳴りやまず」との文面をみたが、この深さだと金属探知機もきかない。いずれにしても、この大ムクの木の根上がりになった年月は解明されなければならない。

<銅戈について>
詳しくは、先様に譲りますが、筆者は銅戈というものを知りませんでした。
写真に載せられるといいのですが、銅矛の進化形のようで、矛の根の方に関(まち)という両刃の鎌状のものが付いていて、戦闘時に、突いたり、相手の首を掻きとるための恐ろしい兵具のようです。当時の最先端の兵具だったのでしょう。この首を掻きとることからと勾玉・首飾りで、祖先はその埋め場所を「竜の首部だとした」と推察しました。

一方の<勾玉について>
この勾玉があることからも、「竜の首だ」と導きだしました。(勾玉と銅戈のセットは出雲だけ?)
さらに勾玉を竜の「首飾り」だとすれば、その一ヶ所だけとは考えられないことから、鷺峠と、日本海側の社寺にも、同様に埋められているはずだとしたところで終わっていました。
長さ3.6ミリ、厚さ9.9ミリ、の大きさはセンチの勘違いと思われますが、とても立派なものである。古来より中国でのヒスイはとても珍重され、半透明で雲のかかる空と見えるものがもっとも上質だと聞いたことがある。それはただ単にその石の美しさだけではなく。この石に神秘性を感じたのでしょうか。この石に髪の毛を巻きつけてライターの火をあてても燃えないことから、ミゾオチへあたる首飾りにするとか、腕輪にしておくと病熱を奪ってくれるそうだ。そして、この石は硬石ともいわれるように、とても硬く(○度)細工がしずらい。その硬い石で「穿孔が大きく」あけられていることは、その技術の高さをあらわす。命主社から出土した銅戈と、その勾玉は、最高品質のもので最新兵器が使われている。この思いは、祖先がいかに島根半島・巨大竜を強大に思っていたかに通じる。当時の列島にそれ等を製作する技術はなく。大陸からの輸入か大陸人の技術によるものと思える。当時でも舶来品は別格だったのでしょうね(笑い)。

<四千年前の島根半島・出雲竜が受けた大事変の概略>
①この詳しくは、このカテゴリーで述べていますが、東北からの巨大津波と大地震は中海の入り口へ土砂・弓ヶ浜を積み上げシャットアウトした。(津波高さ約20m以上?の片V字湾奥津波: 筆者提唱 )
②その大地震と大津波は、当時海のなかに浮かんでいた島根半島を蛇のようにくねらせ、破砕半島にした。(Dr.いずも氏言、「今はありませんが子牛ほどの銅鉱石がゴロゴロしていた」)
  *地震波は、列島に沿う島のような小さい山塊により大きく作用する。 (これも筆者提唱 )
  例:島根半島(カテゴリー出雲地方)、宮島(アーカイブ00/00)、小豆島等、信仰の対象!
③日御碕の灯台下の玄武岩柱ありは(Dr.いずも氏言)。 蛇の尾っぽのごとく、激しく上下して、列島に沿う日本海グリーンタフラインを刺激してマグマが噴出した。(地震の船尾効果:島根半島をマントルに浮いた船に例えて、地震進行方向の末尾では、地震力は次へ伝わるものがないことからその端で大きく上下すること。←筆者提唱(日御碕の海底階段遺跡アクア工房岡本哲夫氏発見)
 *列島・巨船は、太平洋プレートによって、たえず日本海側へ押し付けられており日本海側でもその圧縮力と圧縮熱は蓄積される。(筆者論 )このことから、岩石に比べて比熱の小さい金属鉱石は温まり易く熔け易いので上昇しやすい。例;石見銀山、佐渡の金鉱、
④松江市の茶臼山あたりは、津波が縮流となって、顕著な流紋痕を残している。縮流とは流れが狭められて、その破壊力が増すこと。例:長野県の寝覚ノ床のように、
⑤其の他、三瓶山の噴火の誘発はこの時の地震で、三瓶山の埋没林は、この時の日本海沿岸津波でなった。彗星衝突による『縄文超々巨大津波』 文芸社(奥州市・岩淵國人先生)
  ちなみに、筆者は鳥取の砂丘もこの時に出来たかと疑っています^^!。
⑥BC2001年、北陸・三陸地方巨大隕石→隕石の冬10℃~15・6℃の降下。5m~6mの海退。(これも筆者独自論です→拙ブログ: カテゴリー巨大隕石と大津波)

かの昔の人達は、以上のような大事変を体験し、その歴史を伝承してきたが、江戸の初期。寛文5年(1665)今から350年ほど前には、その恐ろしさをすっかり忘れ、バチ当たりにも命主神社の巨石を砕き採るとは!! かく言う、今日の史学からも、常識外扱いされてます!^-^!

その2.<日本海側の大岩の下>で、
大文字の一文字部分の止め部にあたる日本海には、卍と御宮の二つがあり、どちらか決めかねていた。この度、ネットで調べると文殊院と伊奈西波岐神社であった。さらにグーグルアースでその神社を子細に訪問(?)してみれば、その鳥居の前に台座の上に何やら大きな石が据えてある。本殿は大社造りとある。ひるがえって命主社も大社造りであった。この裏手に大石はあるのか?
色々ネット上を調べてはみたが分からない。さらに、鳥居の前方に立ち(グーグルアース・ストリートビューで^^!)その後方をみたが雲がかかってよく見えない。何をに見当を付けているかというと、その後方に前々の謎解きで、この地に<竜山>の地名があったからだ。島根半島を竜の全身としたならば、住家の大半がある出雲平野から見える<鼻高山>か<弥山みせん>に、私ならその一番大事な、「竜」の山名を付ける。なのに、何のへんてつもない?人家から遠くのこの山に「竜の名」を冠したのがよく解からなかった。さらに詳しく調べると、鳥居から見てその真後ろに竜山はあった。文殊院から見ればその頂はよく見えるのかも知れない。その銅戈と勾玉を埋めた場所は、本堂の裏に大岩があれば、そこであろう。無ければ竜山の麓になる。この竜山に付いては後ほどに^^!
〔注:その後、青面金剛様のご教示を受けて西波岐神社の奥の院の御陵神社に変更しました。〕

その3.<鷺峠に大岩はあるのか?> それを捜せ!
鷺峠の地名は大の字の一文字を書いて、左右のハライ部の起点にある。蛇足ながら神主や行者さまが「払えたまえ」とやるところでもある。奈良の大文字焼きはその後の歴史の流れかと。
 この峠をストリートビューで何度も行き来してみるが、それらしき大岩が見当たらない。峠の辻には、峠茶屋や峠を記す石碑がよくあるものだがそれもないようだ。わずかに建物の印があり、この度よく調べると、「出雲動物管理センター」であった。この道沿いには人家や畑も見えないようだ。概してさびしいところである。この私の見当違いであったのか?。もし、この素人探偵の推理が当たっていれば、祖先は必ずその痕跡か、言い伝えを遺しているはずだ。さらに、この辺りの山をストリートビューやら、グーグルアースのアップダウンを繰り返してみると・・!? この峠のすぐそばにある小高い山から伊奈西波岐神社方面を見ると鷺浦の湾が見えた!!

  ならば、反対側の大社方面も見えるはずだ! 推みは間違っていなかった。大社への直線参道が正面に見える。真南より少しずれているのは、地軸の傾きからくるズレかも知れない。千年もの永きに渡れば真北はズレてくる。国土地理院ではある年月で緯度経度を修正する。逆算すれば、その直線参道が何時引かれたかが判ってくる。 

*卑弥呼は、この峠山に立ち日没から深夜まで封印の大祈祷をおこなった。
人数は、少なく見積もって2030人、向きは日没の西方向だ。その人数が立てる広場を探せ!  国土地理院 <35°24′54.79″N,  132°40′53.26″E, h345m。> 
その上に盤座が据えてあるのか?地図では二武神がシコを踏んだ土俵のようにも見えるが? 
 この小高い山の名が分からないので仮に「竜の咽首」とでも呼んでおきましょうか^-^!。

    <咽首(仮称^^!)から鷺浦の湾を眺める>Google earth 350m高さよりの写真
            のど首より鷺浦方面
  <咽首(仮称^^!)から出雲大社方面を眺める>Google earth 350m高さよりの写真
            のど首より大社方面

<竜山について考える>
「竜」の地名は、調べるかぎり、この半島には見当たらない。「竜」の山名は、その大事変の この大祈祷の要(かなめ)である。・・・さかのぼってDr.>とのやりとりで 「出雲には、地元の人しか言わない火山性の盛り上がりや、噴出岩と思われるものがある。その一つに日御碕の灯台は玄武岩柱の上に建っています。」 釜石辺りに降臨した巨大隕石は列島を揺るがし、太平洋側から日本海側へ押し付けられている巨船に例えた列島のストレスを連鎖的に解き放った!岩手山、箱根山の崩落、三つに重なった若草山、滋賀県の接触変質地帯、小豆島の断層、宮島弥山の崩落、そして三瓶山の噴火(Dr.言)。さらに、日御碕の海底階段。これ等は、タイムラグもあるでしょうが“四千年前の大事変”に起因するものではないでしょうか。(この詳しくは別紙で)だとすると『島根半島の竜山は、その時の盛り上がりであり、その熱後々までも冷めやらず“出雲”していた!』 それが出雲の始まりだ!何かの異変がなければ、祖先はこのへんてつも無い山に竜の字は付けない。病魔に侵されたお殿様のハチマキは垂れ下がっているよね(笑い)。ひょっとしたらこの山の南の断層と見えるところで、マグマの地熱と激しく上下に擦れた岩塊とで発火したのかも知れない。ならば祖先は「竜が火を噴いた!」と思うに違いない。別述の宮島の弥山(みせん)や、滋賀県綿向山麓接触変質地帯でも同様なことがおこり山火事が発生したかとした。だとすれば、その境界あたりで筆者が提唱するような根炭(ねずみ;地中低温炭化)か、溶融岩の白色脈帯(石英脈等)が見つかればいいのですが^^!

『 その〆縄を解いて、わし(島根竜)を起こすと、大変なことになるぞ! 覚悟してかかれぃ!』
ご先祖さまから受けたこの伝言には1%の欠損もない!
「さて、貴方さま」は、どうされますぅ^^?
        出る前を楽しむ。それとも、出てから参加する!
 三択の① それ自体興味もなく、史学にないことであり相手にしない~~!。
      ② もし言うように、出土したら考えなおし騒ぎたてる^^! 
      ③ 目からうろこ、大の字のハライ部の探索に挑戦したい^^


私のような常識はずれで史学にない突飛論を言う人は、世に数限りなくいる。それが史実かどうかに “気付き見極める”ほうが何万倍も、それ以上倍も難しい。まずは貴方さまが、行政が、そして専門家が動いて下さらない限り前には進まない。 素人が 「ここぞと指差しても」 それを掘り上げることが出来なかった十年の過去がある^^!。 まずは、命主社に埋められていた銅戈と勾玉の詳しい状態を知りたい。 他のヶ所もそれと同じ方法で埋められている。  完

<↓ コメント掲載欄^^>
あなた様のコメントをお待ちしています^^!。

 (5/14)  平 素人
鷺峠の咽首<35°24′54.79″N,  132°40′53.26″E, h345m。>には、盤座があるのか?
それとも、円形土俵の形に設えてあるのか? 筆者は、それが知りたい。
土俵様に設えてあるならば、その中心下に何かを埋める。・・であるならば、今、国技館での
土俵設営時の神事には、銅戈や、勾玉に関係するものが埋められていないか?
  何方さま>か、 それを教えて頂けませんか^^!






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日々必ず訪問してくださる何方さま、他さま>
ありがとう御座います^^。この記事をもってしばらくのあいだ通信活動にうつります。
4/30でこの記事を完了しました^^!
尚、この記事は、先述の Dr.izumo氏>の依頼と、御教示がなくては成らなかったものであり、Dr.>に敬意をこめて深く感謝を申し上げます。Dr.>とのやりとりが、下記の関連記事にありますので、そちらでもお楽しみくだされば幸いです。
<出雲竜を縛り付けている銅戈&勾玉を捜せのⅢ- 掘り上げろ!>
(2018/5/23)
   連日訪問して下さるお客さまへ、ありがとう御座います。 励みになります。
                                           shanks^^
<出雲市に、卑弥呼が関係した「岩戸」の原形が隠れている!>
目峠茶屋跡から坪背山方向へ7分ほど登った所に北へ向かう行き止まりの道跡がある。そこに「岩戸」で閉じられた「南東向きの約十丈の坑道」が土で埋まっている。その坑口は、およそ1700年前の冬至の旭光が、扇形をした鼻突峠から射し込むところでもあった。卑弥呼はそこで大祈祷をおこなった。そこに、“その坑道を掘ったズリの有る無しがこの論の正否をきめる” さらに、その旭光が射した南東ラインの先に、大量の銅鐸が出土した加茂岩倉があります。
>さて先学はどうされますか^-^?
 すべては、猪の目峠茶屋の大文字地形から始まる。そこは、かつては墓泥棒もおそれをなし、今では「タクシー運転手も避けるほどの恐ろしき場所」 自己判断と自己責任でお願いします。雪が積もっているかも知れない。くれぐれもご注意を! あなた様が、そこに近寄り、その祟りをうけても当方は一切かんちしない。(国土地理院地図に加図)
         大の字の円形地042_LI - コピー
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                     皆様へ>
 その“銅戈と勾玉”を掘り上げる相手をして下さる方を捜しています^-^!。コメント下さい!
  コメントは当ブログ本文へ公開、非公開どちらでもお受けしますが、後々、本になるやも知れませんので^^!、
  その時は当方が、そのコメントを無償で使用で出来ますよう御了解ください。貴方さまのコメントを歴史に刻ん
  でおきませんか^^?  私のように大口をたたく者は世に五万といる。だが、それと認められるお人は、2/75
   億人に満たない。


('18/1/01)
since 1988/1/11~から ・これならば、・・・々ば、と広報を重ねて30年になりました^^!。
  → 南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ!津波は地球の90%を覆い大氷河期となる。
        この電子出版(文芸社)は、14冊売れて(プレミア付?)'16/10/21に絶版しました(^-^!)
  → BC.2001年12月25日朝6時頃、地球を半周した小天体(竜)が東北地方へ降臨した。
  → 卑弥呼は魏から得た100枚の銅鏡を与え、それ迄の生贄銅鐸文化を封印した。
 → 天ノ岩戸の原型が島根半島竜の鷺峠・大の字地形のハライ部に埋封されている。
     (猪目峠茶屋跡から7分ほど登った所で、北へ向かう道跡の行き止まりに!)
      この斜面に土石・ズリの有り無しが隠れた坑道口(岩戸)の存在の正否を決める!
      1700年前の冬至の朝。鼻突峠方向の扇形中央から御来光は(幟)昇ってくる。
     その御射光は、坑道奥の銅鏡に〇〇年の隕石の冬岩戸開きまで幽閉されていた?

   さて、本年'18はどんな年になりますやら^-^?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

<出雲竜を縛り付けている銅戈&勾玉を捜せのⅢ- 掘り上げろ!>
                                      (2017/6/25∼8/15)
筆者が『竜は隕石、竜は神』と言うような施設が、ここになければ今、私たちが行っている歴史はないと断言できる。四千年前。東北に降臨した巨大隕石からの巨大地震によって破砕し、巨大津波に泳いだ島根半島を「神竜」と思うに何んの不思議があろうか。(この詳しくは、カテゴリー,巨大隕石と大津波) 「出雲風土記」では、そこに何やらの神を幽閉したとあるそうだ。伝説や伝聞を表現の違いとし、その 「目から鱗」を取り去れば、学識に長けた貴方さまには、より多くが見えてくるはずだ。そこにそのお宝があることが問題ではない。それが予見できることに問題と楽しみがある。無視され続けて30年。かれこれ2千通を送りました。貴方さまがそれが出土してから大騒ぎする世間さまと同じであって欲しくないものです。
                                 ( 史実探偵: 平  素 人 )
(9/) 新情報<法師崎のやまある記>坪背山
    http://www.geocities.jp/houshizaki/tuboseyama.htm
    この記事を参考に、その場所をピンポイントで絞り込みませんか(^-^)?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  以下は、 青面金剛さま>より、有り難いコメントを頂いて考察した記事です。
「鷺峠は近づくべきではない」
青面金剛
| URL | 2017-06-17-Sat 15:43 [EDIT]
 平 素人 様、古代史掲示板から来ました。鷺峠は出雲の大神が幽閉されたところ故、地元のタクシーの運転手も、通ることを避ける場所です。幽閉した犯罪者側が、王権の象徴である勾玉や銅矛などを埋める訳も有りません。発掘など、地元の方々の感情を逆なでする結果に成ります。
 また、古い銅山の辺りは、地下の坑道が複雑に入り組んでいて、長い年月の風雨により、坑道の上の土が薄く成っている恐れも有り、それを知らずに歩き廻ると、平さん自身が坑道に落ち込み、閉じ込められる危険性を知るべきです。
出雲の歴史については、大元出版の本をお勧めします。
最初の一冊には、『出雲と蘇我王国』が好いでしょう。
http://www.d1.dion.ne.jp/~kunado/index.htm


鷺峠は近づくべきではない」 のですね。 平 素人 | URL | 2017-06-23-Fri 23:31 [EDIT]
青面金剛様>コメントありがとう御座います^^♪  PCの不調でお返事が遅れました。
<鷺峠は近づくべきではない>のですね。大変貴重な情報を頂きました(深礼)。
前のコメントから〇カ月ぶりのコメントです^^!。「卑弥呼からの伝言」についての送信は20年前からで、「出雲竜を〆縛り付けている銅戈と勾玉」ついては、10年前からですが、歴史全くの素人が「ここにそのお宝が埋められている」と提言しても、私が尊敬するDr.いずも氏を除いて全く無視され反論さえ頂けない年月を重ねて来ました。身元を明かさず、「そのお宝を掘り上げれば一攫千金」というと「そんな詐欺師がいます。お金の話はしない方がいい。」と迄云われました。(笑い) 準備してます「追加情報」に、貴兄>のコメントを挿入させて頂きたいと思います。差し障りがあれば何時でも仰って下されば削除します。今後ともご鞭撻を^^!

  < 追 伸 >
 「タクシー運転手も、通ることを避ける(ほど恐ろしい)場所」 なのですね。
   そんな地元の人しか知りえない情報をお待ちしていました^^。
わたしのような素人が、それ等の埋蔵文化財を 「ここぞ!」と、特定しえても、勝手に掘り上げる分にはいきません。現実的には、それから後のほうが大変で、まずは地主の許可を得なければなりません。肩書や実績のない見ず知らずの他所者が、その仔細を説明しても、これまでの史学にないことを述べる分けですから、不審者扱いを受けるのは必定。例え一度は耳を傾けてくれても、二度目は「忙しい」と体よく断られる。ならば、「専門家に」と思えば史学から外れている事ゆえ門前払い。さらには、行政に報道にと「その報告書」を送りましたが無視される。 ・・で20年経ちました。

次には、「埋蔵文化財保護法」をクリヤーしなければならない。
知らず偶然ならともかく、それと承知しているわけですから、所管の行政、例えば県知事へ、その発掘申請と許可を取らねばなりません。その道すじがある専門家の申請ならともかく、まるで少年・こどものような稚拙な論説文等、提出するだけ無駄な気がします。
合わせて、その場所がすでに埋蔵文化財の認知場所かその周辺であれば、県の教育委員会の許可を取らねばなりません。では 「知りませんでしたと勝手に発掘する」 これって許されるかしら?

(以下は素人知識ですから間違いがあるかも知れません。) ドウゾノご訂正を^^!
こういう場所はえてして寺社領か公共の所有が多いと思いますが、そこが私有地なら、かなり強引にやれる。しかし、地主の許可が必要なのは言うまでもありません。所有者がNOといった場合は、それまでか?。この場合、地主は「私有地につき立ち入り禁止」の表示をしなければならない。 奥の手はあるもので(笑)、例え地主がNOといった場合でも、その公益性が認められれば現状に修復を条件に(立ち木等、出来ない場合はお金に換算^^?)強権をもって調査発掘が出来るようだ。その場合は、地主に文書でその旨の詳細を書留で通知しなければならない。 さらに、そこが土砂流出防止林の場合は、草木一本、土砂の一握りも乱取してはならないと定められている。但し、昔からの地元住民の山野草や、キノコ採りかタキギ取りの入会権は認められているようです。

この調査発掘の費用は並みの金額ではない。
  ウエブ等でご存知のように、その発掘は細微をきわめる。それは個人の出せる金額ではない。出雲での大量の銅剣の時には、何一つも見逃すまいぞ」と、焼き鳥の竹串や、カメラレンズ掃除のパフパフでやったそうですからその費用は推してしかるべしです。ゆえに、その発掘の多くが偶然性か、もしくは毎年の決められた予算内での公共工事前の調査での発見がうなづけます。ちなみに、20年前その道の事業所での参考費用は600万円でした。「史学にない素人の論説に、お金をかけるなど 、もってのほか!」 わたし素人探偵は、この相手にしてくれないことを逆手にとり、私有地ならば、探知機とツルハシかついで、大した費用もかけずに私設観光起業化が出来ないかと^^? これが出土すれば、『卑弥呼絡みが確定し、予見した!』 とのプレミアムが付きますから^^♪ 但し、この場合“卑弥呼が埋めた!”と専門家に鑑定して頂かなくてはなりません(^-^!)。 

そして最後の難関は(出雲の人の)信仰心の厚さです。
  『 学術より信仰!』 簡単に掘らしてくれないと思いますよ。わたしが指さす「その咽首」は、出雲大社の社寺領の可能性が大です。もし、そうであれば、由緒ある千家家のお許しを請わねばなりません。神への畏れとか、祟りとかの信仰心がうすれてきたのは、新幹線の開通や、高速道路の施設のころからと認識しています。今では、「祟り」については、まったく死語化しています?
  島根竜曰く、『その〆縄を解いて、ワシを起こすと史学が変わるぞ! 覚悟してかかれぃ』

ハンドルネイム・青面金剛さま>
 青面金剛は、はじめて聞くことばですので、少し調べてみました。三眼、三角目の夜叉とか、何やらを踏みつけている」との語句が出ました。そういえば、そんな仏画を見たような記憶があります。三眼の発想は異様です。その三眼目の頂点に位置するのが鷺峠の「咽首」かと思います。夜を徹しての大祈祷などの言葉も出てきました。わたしは、銅戈と勾玉が墳墓でない命主社から出土していることに注目しています。その後の亜流はあるかと思いますが、他所に銅戈1と勾玉1のセットで出土した例があるのでしょうか。素人探偵の予見したように鷺峠(猪の目峠茶屋)と伊奈西波岐神社(奥の院)からの出土に至れば、卑弥呼が絡んだことが確定します。なぜなら、長さ60km幅5kmの島根半島を竜に見立てる発想は、四千年前の大地震で破砕半島にした歴史の覚醒(Dr.いずも氏 言)と、銅鏡100個を受けて銅鐸文化から銅鏡文化へと変えた卑弥呼以外には考えられないからです。竜は中国からの伝来が定説ですが、私は、そうは思いません。四千年前、大陸にまで達した巨大地震と巨大津波の探検と不老長寿の薬石を求めた徐福等が、その探検におよんで列島人から聞き集めた “巨大隕石が飛んだ、モンタージュ画の逆輸入” だと、前述記事で謎解きしています。

「信仰心を逆なでする」 竜の逆鱗に触れる!
  前々の記事で 出雲の島根半島西端の日御碕の立っている所は玄武岩柱の噴出があると出雲のDr.氏に教わりました。“宇竜”の地名やら、海底階段の発見やらで、そのDr.と共に、それを「竜の逆鱗、竜の火舌」と名付けたことがありました。そのいきさつは前々の記事で参照して下さい。その地の「探索は陥没の危険をともなう」との御忠告に感謝します。Dr.からも子供のころの探索で大人にひどく叱られたとか。飛蛇(トビョウ)も出るとか。私は、横井さんや小野田少尉を見つけだし『男のロマン』の名言をいった、かつての鈴木青年のような、自費や命を賭してまでの勇気を持ち合わせていません。頭脳寿命も衰えてきました^^!。没後のために拙論を歴史に刻んでおくのみです^^!。□

<追加情報> 2017/05/30 ∼
その1. 地方名<杵築・きずき>について、
 杵築の地名が妙にひっかかる。この杵築は、大社を含めて東西南北がある。筆者が“それと見当”をつけている円形地形(35°24′54.79″N,  132°40′53.26″E,)の行政区が鷺浦になるか、杵築にあるのかは分からないが、「杵・きね」とは、餅をつくキネとあるように、ツキ固める意をもつ。それに「築く」がつけば、何かを突き固めて「何か」を造った意になる。つまり、その円形(に見える)場所は、土を突き固めた“版築土塁”ではないのか? 版築土塁とは、塀を築いたり、河川の土手を築く工法である。今、国技館での土俵も土を突き固めて造っている。その中心に「何かを埋めるのか埋めないのか」を知りたいと思う。もし、それが銅戈や、勾玉に関係するものであればここに、その銅戈と勾玉が埋められていることが確定的となる。      

その2.大の字の地形と泉水(仙水?)について、
 その咽首(筆者がつけた仮称)の地図をよく観察すると、西を上にした大の字の地形にある。大の字はガリバーと小人の国や、呪いのワラ人形と前述したように、島根竜の要(かなめ)であり、そこに 「最新兵器の銅戈を五寸釘のごとくに打ち付けた」ことにもなる。さらに国土地理院の地図をよく観察すると大の字の太い字の部分に「川の印」がついている。普通にこのような地形は数限りなくあり、特に川の印を記入する必要もないと思うが? これは、他の神社でよく見かけることであるが竜の口から泉水が湧き出ている施設がある。その泉水には鉱物等を含んでおり薬水にもなると聞く。そして、咽の字の字形にも注意して頂きたい。因の字形の内に大の字があり、その脇に口がある。そういえば、力士が相撲をとる前に、口をススグのは、ここから来ているのではないのか。ここ島根半島はグリーンタフに接しておりそれ等の鉱水が湧き出しているところが、いたるところにあると思われる。もし、これが当たっていれば、その太い字の点部分には遺跡やイワレが残っているはずだ。筆者はそれ等のありやナシやを伺いたい。
 <鷺峠> 咽首(仮称)の‟大文字地形”と、それは“仙水か”? (国土地理院地図に加図)            竜の咽首041
   35°24′54.79″N,  132°40′53.26″E, h345m。 ☜ ここに、銅戈と勾玉を埋めてありか 

その3. 鷺浦の祭りについて
 鷺浦の地区には、竜に模した荒縄で練る祭りがある(ネットで見ました^^)。これはその昔、巨大地震によって暴れまくり(破砕半島と云われる←Dr言)島根半島竜の首っ玉を縛り付けた名残りと見ることができる。もし、そうであれば、大社側から鷺浦までの約5km余に荒縄を実際に沿わしたことになる。この件は「ああそうか」では済まされない。なぜなら、それだけの量の稲わらの収集を考えねばならず、その収集を可能にした水稲栽培域の人口数や、それを提唱する人物や通念までもが浮かび上がってくるからだ。しかし、さすがに、島根半島竜のこの距離を縛り付けておくのは大変だから、今では、出雲大社の大〆縄や、横綱のマワシに“象徴として”略しておこうとなった。(笑い)このように、今私たちが為している神事や行為に、この謎解きのカギは潜んでいる。(中学生諸君に^^!)

その4. 咽首 ( 仮称 ) の円形地を考える
       『ドンの首』 のことばを聞いたことを思い出しました。今後そこをドンの首と呼ぶことにします。
  ドンの首(ブログ用)
  坪背山
この直径30m程の円形地?を(版築土塁=土俵)造りだとすると、その上部は平たく均していなければならない。その上で武神である力士はシコを踏み塩をまく。なぜ塩をまくのか。これを私流に解釈すると、島根半島は、前述のような巨大竜であり、竜は火を吹く火竜であり、大雨をもたらす水神でもある。 『火竜ならば海水の象徴として塩で鎮火しておきたい』 と思うのが無理のない展開^^? 今に開店時に塩を盛るのは。「ヤク神さま、どうぞ暴れないで下さい」 との願いからではないか。それほどの大行事であれば、その歴史はしばらく続いていたと考えられる。それが卑弥呼からだとなると千七百年以上たっているから、その塩分の多くは雨で流れ去るだろうが、薄く染み入っているかも知れない。正確には土壌分析の調査をしたい ・・と、このように終えるつもりでしたが? 大きな疑問が生じてきた。・・・・・・・、

 340mの丸い等高線より上に5mの盛り上がりがある。そのイメージは土俵ではなく土饅頭に近い。土俵仕様でなければ、上記の考えはまったく役にたたない。今まで営々と積み上げてきた謎解きは、この一事で全てが瓦解してしまう。思いだせば吉備地方・倉敷市船穂町竜王山で、この土饅頭形の頂上があり、その地形に不思議な感覚を味わったことがある。そういえば、船穂町竜王山では、南東の方角にある小さな祠に青い花シキビがたむけてあった。さらに、倉敷市・鬼山、足高神社には小さな土俵(月別アーカイブ2016/3月)が設えてあった。出雲の「ドンの首」でも、それ等と歴史的つながりがあるのか?
     ・・・・ご先祖さま> どうか、この関係のありやなしやを教えて下さい。

「神官は、頭上のすすを お祓いし」、って川柳がありました。
こども心には、そのすす払いが四千年前、出雲にまで届いた巨大な津波の白波の形に見えてなりません。
皆さんも御一緒に、出雲大社にお参りし、頭をたれて『現史学』という、そのススをお祓いして貰いませんか^^? ゴメン言葉がすぎました^^!。 ( 拙「出雲弓ヶ浜の成因」より、)

その5. 「 ドンの首」の饅頭形が気になる、 … どうも気になる。・・・
・・長考・・、 そうだ!土饅頭との考えが間違いではないのか。実際にその地を探索してないので何とも言えないが、これは鏡餅形を表してしているのではないか。以下、鏡餅形として考えを進めてみよう。鏡餅=銅鏡と考えることが出来る。この大祈祷は、卑弥呼が関わったとして、銅鐸文化から銅鏡文化への変換期でもあるから、その線でもいける。埋蔵物は「銅戈と勾玉だけ」と固執したことがいけなかった。それに銅鏡をプラスすればいいわけだ。卑弥呼は、彗星のニアミス時その退散祈祷により、それまで永々と続けてきた“雨乞い水神竜”から、『お天気を司るのは太陽であり竜神様は、そのお使者であるよ』 として太陽主神説を唱えた。(この詳しくは初頭ブログで)のであるから、銅鏡も一緒に埋めた可能性は大である。鏡が一緒だとすると、その歴史は、鏡開きや天岩戸の神話 へと、都合の悪い方へ、さらに広がりそうだが、いずれにしても今、出雲大社での催事の詳細を知りたいと思う。

その6. 三方・さんぼう>からの考察
三方は、神に鏡餅等の供物をお供えする用具で、折敷(おしき)と呼ばれるお盆の下に胴(台)がついた形をしており、その胴に三方向の穴があいていることから、三方・三宝(さんぼう/さんぽう)と呼ばれ、台の穴は宝珠の形やハートの形があり、主に桧の白木で作られている。台の形は、四角が一般的であるが丸い筒状のものもあるようだ。
    http://ameblo.jp/izumo-shintotsukawa/entry-11744162888.html
筆者が注目したいのは、三方にあいた穴である。「なぜ四方でなく三方なのか?」 この刳り穴は只の装飾とみる考えもあるようだが、はたして、そうであろうか? 一般的に言えば、仏具がきらびやかな装飾に進化しているのに対して、神具は一切の装飾を廃し、白木や白磁様の簡潔なものとなっている。このような供物台の制作の進化を考えると、皿・盆に足をつけ、高坏・たかつき状になっていく。なのに、台や胴部の内を空洞につくり、しかも、ジョウゴ状の刳り穴まで開けている厄介な造りになっている。素人的には、神に対して一切の汚れを落とし簡潔にしたいのなら棒状に切った木をくっ付けた形にすればいいと思うが? そのようにしていないのは、何かの意味があるのではないか。 
 <何を狙っているかというと> 
青面金剛さまや、Dr.いずも氏>が言われた「何やらの神を幽閉した」 とあるように“閉じ込めておく為の空洞ではないのか” それが悪しき神か、善なる神かは知らないが、歴史を遡ると、前述の“環状木柱列”で謎解きしたように「冬至の旭光=荒神」を招き入れ幽閉する為に背後だけには穴をあけずに三方とした。その光を包み込む為なら、その穴は木箱に入っている大黒様のように前方だけの穴あけでよいと思うが、それが推めない。 どなた様かご教示を!

 筆者の推理が正しければ、その咽首の円形地の “南東の方角にその坑道の入り口をふさいだ大岩”が現存していなければならないし、今、鷺浦でのお祭りで桧の丸太の“幟・のぼり”を立てているように、 “円形地の四方に掘っ立て柱の痕跡”がなければならない。そして、その坑道〈穴〉の中にそれぞれの象徴である勾玉と銅鏡と銅戈(も?)が埋まっているのは言うまでもない。蛇足ながら 『その穴の中で、銅鏡である大黒天様が、四千年前の冬至の朝に暴れた島根竜が二度と暴れないように鎮め守って下さって居ます』 ということだ。 但し、その探索や発掘によっての危険や、それより何より「神をも畏れぬフトドキ者めが」と、 “その祟り” を貴方さまが被っても、(スパイドラマ風^^!)当方は一切の責任が持てないので自己判断と自己責任でお願いします^^。 

その7. 坪背山、付名の不思議 
 さらに、この円形地の西〇mの所に坪背山がある。なぜ「坪背」と付名したのであろうか。少しこじつけになるかも知れないが、坪の字を分解すると「土を平たくした」にも読める。平たくした土俵の真ん中に鏡餅や盤座は置けない。そういえば、この近くに<太々山・だいだいやま>があった。これも今の橙・ミカンに関係するのかも知れない。「背」とは何かの後ろを意味する。後ろであれば、今の催事で金屏風を背にしているから屏風風の岩があるかも知れない? 鏡餅、それをお供えした三方・さんぼうの後ろの意か? そして、その岩が南東の向きであれば “武神”を刻むか、それらしき名前で言い伝えられているかも知れない。
 この冬至の旭光を銅鏡に招き入れ封印、あるいは入魂する考えは、環状木柱列・ウッドサークル 月別アーカイブ(2009/6月)
で前述したが、・・・まてよ・・・・、 大の字の左ハライ部の先に「大量の銅鐸が出土した加茂岩倉があるのではないか?」 ・・予想は的中した。その南東を指したハライ部の先に加茂岩倉があった。この問題は、大量の銅鐸を埋めた加茂岩倉が先か、銅戈と勾玉と銅鐸を封印した、この円形地「竜の咽首」が先か?に通じる。筆者は、確信はありませんが、①竜の咽首(銅戈・勾玉・銅鏡) ②加茂岩倉(大量の銅鐸) ③荒神谷遺跡(大量の銅剣)の順で封印したかと思います。
   その大祈祷は、冬至十夜に始まり、一月の松の明けまで続いたのでしょうか^-^?

その8.<では誰が埋めたのか> →<卑弥呼の謎解き その後と付言、そのⅡ.>へ移設しました。
この話は、推理とは言い難く、想像といった方がいいと思いますが・・・、とお断りして・・・、
筆者は、(出雲・鷺峠大文字の)その銅鏡 が出土するまでは、それが卑弥呼だと断定したくありませんが、おそらく卑弥呼だと? 卑弥呼は、それまでの幼児を生贄とした荒神竜・雨乞い文化を、東南の空に現れた(地球の歳差運動により当時は真東)、彗星退散祈祷を期に、「その荒神さまは太陽のお使者だ」とし太陽主神説を唱えた。そして、魏から得た100枚の銅鏡を分け与え、それまで荒神を呼び寄せ乗り移るために使っていた銅鐸を持ち寄って封印した。この詳しくは、カテゴリー<この指とまれ>て゛述べています。

その9.冬至の旭光の封印儀式
このドンの首の円形地は、今から四千年前の巨大隕石が放った「冬至の旭光」である荒神を銅鏡に招き入れ幽閉する為の施設である。南東に向かう坑道を掘って前の晩から待機し、その日の出の瞬間の旭光が射すのを待ち受ける。そして、幕内力士が行う土俵入りの所作を思い出して頂きたい。両の手を挙げてその光を招き入れ柏手を打つ。皆さんは、その後の所作で “化粧まわしを掴みあげてストンと降ろす所作”に不思議を感じませんかぁ。しかも一度だけ? 寂しすぎるし、なにか拍子抜けに感じる。わたしなら二度三度と上げ下げして派手にやりたい(笑い)。それは絶対しないで下さい。せっかく取り入れた光神様が逃げ出してしまいますから。

 前述の富山県や石川県にある環状木柱列(ウッドサークル)の記事を読み返して頂きたい。 
東南部の入り口の柱の上に横木が復元されていた。そして、岡山県倉敷市船穂町の高量山の記事ではその旭光の “影をつくるため” のノボリが立てられていたと推理した。であるならば、ここ出雲でも、そのような柱が(北緯〇〇度、東経〇〇度)あたりに立てられていた筈である。その掘っ立て穴の跡を是非に発見けたい。
鏡餅形の南東部の坑道には古墳形式の石の門構えが為されていて、その門は大石の扉で、決して開けてはならずと閉ざされている。さらに、その上には土を被せていると思われるが千〇百年の時を経て、その表土は、青面金剛さま>の言われたように薄くなっているかも知れない。
ここ出雲の“ドンの首”は、それらの歴史の“始まり”である。
  筆者の言うような施設が、
       そこになければ今、私たちが行っている大文字の歴史はないと断言できる

さて、貴方さまは、それが出たら騒ぐタイプですか^^? それとも、今ほかの事が忙しくて、そんなことには関心がない方ですか。いやいや、そこは墓泥棒も恐れたところ 『触らぬ神に祟りなし』、その祟りが恐ろしいから近づかない方がいい、と思われるお方なのでしょうか。(笑い)         
('17/8/15) 青面金剛さま>貴重な情報をありがとう御座いました。
    おかげさまでより深く追求することが出来ました。 今後もよろしくお願いいたします。 □

その10. 坪背山(壺背山) ('17/11/07~)
       http://www.geocities.jp/houshizaki/tuboseyama.htm
<法師崎のやまある記>さまのブログより新しい情報を見つけた。氏の自己紹介では「山口県を中心にした中国地方・その他の山々」の登山家のようで、その山の歴史的背景はもとより写真・動画ありの臨場感にあふれるご記事である。多々ある中の坪背山(壺背山)のご記事に注目したい。筆者が大の字の中心部を、鷺峠としたのは誤りで、その少し南寄りの猪目峠であることを知った。この峠は鷺浦や猪目洞窟へ行く三叉路にあり猪目峠茶屋跡がある。そして近くに弥山への登山口もある。猪目洞窟はおおくの遺物が出土し、その入り口が△目のイノシシにも似ているところからの命名のようだ。弥山(みせん)の山名は安芸の宮島にもありその関連性も気になるが、今回は坪背山に絞りたい。

坪背山は出雲国風土記の烽火山五山の一つ。
その山頂からは、木立にさえぎられてはいるが出雲大社側と鷺浦が見えるようだ。茶屋を登り口とし3~6番までの石柱がある。筆者が円形地形とした場所は3番であり、そこでは筆者が思っていた土俵とか鏡餅形のイメージは、木立を刈払えばいいのかも知れないが沸いてはこない。そこをピークとして尾根道を4番、5番、6番へと進む。6番は明らかな山頂ではなく、なだらかな平地のようであるから、ここで烽火・のろし火を焚いていたのであろう。その平地の広さも問題で、そこに何人が立てるかによって、祈祷の規模がわかってくる。石柱には番号と山境灌水流と刻んであるが、その意味は分からないとのこと。何時にその石柱を立てたのかも分からないが字体や風情からして百年未満と思われる。高さ1m余りの石柱は、かなり立派であり、そこに番号までふっていることは、そこで何かの所作を行っていたと窺うことができる。番号をふっての登山や寺社巡りは多くが知るところであり、真宗や真言宗にその形態を残している。わずか3百メートル余りの山に番号をふり石柱まで立てている重要性とはなにか。1番と2番がどこにあるかを知りたいが、真名井の清水が一番であれば面白いのだが? 石柱の「山境灌水流」とはなにか。「山境」の意は、この尾根道が大社側と日本海側の分水嶺であるとは、前述してきた。

「灌水流」とは、何を意味するのであろうか?
出雲や大社の神事に詳しい人の教えを願いたいところだが、素人なりに考えを進めてみる。潅水とは、潅がい用水にあるように、作物や木々に水をやることと認じている。ちなみに「かんすい」を語句変換すると、冠水、寒水、環水、簡水、換水、鹹水と、なにやら意味ありげな語句がでてくる。古代においては、語彙数が少なく、一つの言葉に多くを重ねていると知るところである。ここは「戦いの為」のノロシを焚く場所が定説であるが、その為だけであれば「流」の字はいらない。分水嶺で水を“流し”北の日本海側に流れるか、南の水稲地側に流れるかの占いの意もあったのかも知れない。坪背山は壺背山とも知った。壺に呼び水を入れ「水田側により多くの水を」と撒きながら登ったに違いない。

壺背山6番の山頂にたどりつく。
↓ この項、筆者の知識不足からの推み違いのため、お詫びして削除いたします。
最後の願いは、底に残した水をカマドにかけ、水蒸気となし「慈雨」を願い天に昇らせる。その時のカマドは瀬戸内で多出している<特種器台>だ。出雲にその方向を向けるという吉備津神社があり、歴史の多くがつながっている。壺の底が尖っている形状は保管には向かない。 祈りが終われば割砕き八方へ破片を放る。山頂からタブレットを投げる風習は今に残っている。これだけの所作は一度きりとは思えない、
筆者の推理が正しければ、
その南側で多くの壺片が発見かるはずだ。
青面金剛さま>に云われてます。くれぐれもマナーや安全に気を付けての探索にして下さい。
言い添えておきますが、出雲での雨乞いの本拠地は、松江市の「茶臼山」であるとカテゴリー「出雲地方で」前述しています。

 以上、猪の目茶屋から、坪背山山頂までをたどって来た。
この道すじに岩屋ありとにらんで来たが、とくに<コレ>といった場所には当たらなかった。
 <法師崎のやまある記>坪背山の文面の最初から始めて、次の文面に注目したい。
<茶屋跡の南端より登山開始  明確な道を進む>
 右に歴史ある茶屋跡を眺めながら緩やかな坂へ向かう。これだけでも烽火山の坪背山へ向かう期待感が高まる。周囲は樹林に覆われているが、足下に夏草も無く歩きやすい。なお、尾根との合流点付近まで目印のビニールテープをつけておいたので、今年いっぱいは持つだろう。登山口から7分程度進めば尾根道へ着き、明確な登山道に合流する。この合流点付近には昔の道が北へ向かって延びているようだが、途中でこの道は消えてしまう


  ドンの首の坑道口
「この合流点付近には昔の道が北へ向かって延びているようだが、途中でこの道は消えてしまう」
皆さん。この文面から“オカシさ”を感じませんか? ここは、脇道と茶屋から登った合流点であり、大文字地形では、左ハライ部の中間にあり、「北の道が」北へ向かう必要のないところ。 必要でないところに道痕がある! 
その先の行き止まりに、その坑道の入り口が隠れているのではないか! 
何やらの神が坑道へ埋められた。あるいは、幽閉されたのであれば、坑道とあるように、その穴を掘り進めるための日数が必要であり、その行き帰りの道を踏み固めることとなる。そこが自然洞穴であれば、わざわざ「坑道」などと断わりはしない。穴を掘るための道があったのである。もし、この坑道の奥に銅鏡がある。あったのであれば、環状木柱列の謎解きで冬至の旭光を迎え入れるとした意もあることから、坑道=光道につうじ、ある程度の長さを持っていることとなる。そして、千〇百年前は銅製器のみと考えられた時期ではあるが、坑道を掘るための鏨・タガネ鉄器が必要になる岩盤にあたるかも知れない。出雲は銅の自然鉱石及び砂鉄の産地であり、大陸技術最先端の土地柄。銅製期にかさなって鉄器の移入があったのかも知れない。

<冬至の旭光>
冬至の旭光については幾度となく触れてきたが、その坑道があるとして考えを進める。その坑道の奥へ南東からの冬至の旭光が射しこむのであろうか。いや射しこまなければならない。
  ここで、千〇百年前の冬至の旭光に触れておきたい。かつてのニュースに、イヌイットの長老が冬至の朝の旭光の昇る位置がずいぶんズレて来たとNASAへ投稿したことがあった。この件に関しては地軸の歳差運動が知られているが、長老の覚えを十五歳から八十五歳として高緯度になればその昇る場所が大きく移動する?かが問題なのだ。 まったくアテにならない素人の計算であるが、「70年に、∠1度時計回りに移動するか?」としたことがあった。どなた様かご教示を!!人生50年と云われた時代。朝日の昇る向山に∠一度、振れようがふれまいが認識は出来ない。英国で日時計の意もあったとされるストンサークルでは、その構築に700年もかかっているとし、日の出の位置がズレてくることから、その意をなさなくなったとして途中止めにしたとする説がありました。でも、今でもそれが観光になっています。逸れた話をもとにもどして、(~~!)
 筆者のいうのは卑弥呼の代である。今からおよそ1700前。その坑口に立ち弥山の山稜のどの位置から昇ってくるのか? それを知りたい。見当では鼻突峠辺りかと思っているが“見分”が必要だ。

     ※ 予想する坑道口の位置 (出雲市大社町杵築東)大の字地形の左ハライ部、
         <北緯35度24分52.89秒 東経132度41分2.82秒>

ここから、第三ポールの下まで、約200mはある。信じられない数字である。実際にどの程度掘っているかは分からないが(ツナシの)十丈約33mは掘りたいところだ。その〇〇を置いた奥まで朝日が見えて光が届く必要がある。その長さは、この歴史の移行かと思える古墳の玄室をイメージすればよい。ついでながら、冬至の日の出は、いつもいつも快晴の日ばかりではない。快晴であっても雲に隠れたりモヤがかかったりもする。以前の記事でも述べたが、それを補正するために冬至十夜が考えだされ、定位置にノボリや剣先(錫杖)を立てたりして、その突先に太陽が昇ればいい。 「お陰様で」や「御来光」の言葉は、これより発生しているのではないだろうか。わたしなら、影より万物を育てるお日い様が欲しいし、一秒間に地球を7回り半もする光の速さを御来光とは云わないで「御射光」と言いたい。「来る」という言葉は光と共に神様が来るということを意味する。この考えは先尖りの山「剣山信仰」へと<歴史の拡散>-筆者の造語です^^!をしている。  ('17/11/11)□

その11. 以降は、皆様にお譲りします。・・・、 今回はとりあえずこれまでにします・・・・^^!
    ・・・ 貴方さま>の情報をお待ちしています。・・・・^^、

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

('17/12/01)に、以下を古代史掲示板に投稿しました。
<未掘・出雲の銅戈と大勾玉を掘り上げろ!>⑧
      表題に「参画」 して下さる一人でも多くのお方を捜しています。
[4109] 青面金剛 さまへのお返事です。

>龍蛇縄の祭りは出雲・伯耆・諏訪地方に広く伝わる祭事ですので、その中の二社の一致だけでは根拠が薄すぎます。命主社の大石は荒縄を巻き付け数人で引っ張れば、動かせるものですが、御陵神社のは、岩壁自体が大岩で、動かし様も有りませんので、「命主社と同様に」の条件からは外れます。

又々、貴重な情報ありがとう御座いました。「命主社の大石は荒縄を巻き付け数人で引っ張れば、動かせる」 命主社にそんな大石があったのですか。わたしは大社の石垣造営のために、この命主社のうらの巨岩を石材として切り出していたところ表題の勾玉と銅戈が出土した」との情報を受けて思考を重ねて参りましたが、その表記を命主社の裏の<岸壁、巨岩、大岩、大石、盤座>等の表記に微妙な違いを感じていました。「大社の石垣造営のため」であれば、相当量のものでしょうから、「巨岩の下に」か、「巨岩の下方に」ともとれます。巨岩の真下には埋められないことから後者のほうをとっていました。その時が考古学的造詣のありや無しやにしても、偶然の出土ですから、びっくりしたでしょうし、そのお宝が「ここから出土しましたよ!」の指標がないのを不思議に思っていました。
先様の云われる「大岩」が、どこにあるのかが興味あります。「数人で引っ張れば動かせる」ということは、大きな意味をもちます。古代の祖先が銅戈や勾玉を埋めて、その上に、その大石を載せたのか? それとも、寛文〇年の採掘時に、お宝があった場所として新たに置いた?のかが問題になってきます。前者であれば、筆者の提唱する「島根半島出雲竜の封縛」の意をもちます。

<その「大石」に×印は刻まれていないか?>
先様の推奨されるウエブの検索中に×印をつけた盤座を見かけました。それを再び探し出そうとしましたが見つけられませんでした。それがお返事が遅れた理由でもあります。この×印は荒神谷で大量に出土した銅剣の茎(なかご)にも刻まれており、筆者は、先の記事で、それを「稚児を殺めたこの銅剣二度と使うまじ!」とした卑弥呼がつけたものだとしました。この×印は、バツとかペケとかに呼ばれ、封をするとか不良品につけることは知るところです。この×印がその「大石」に刻まれて、同様な石が御陵神社の巨岩のそばにもあれば、話は面白くなってきます。そして、この地の冬至の旭光・南東ラインにある加茂岩倉に繋がれば話はますます面白くなってきます。
 この×印については、キシ先生の情報にもありますので、それをお借りします。
> 4 ×印
 弥生時代の島根県荒神谷の銅剣などに刻まれ、古墳時代の但馬地方などの土器に書かれている。明らかに信仰的なものとしては高松塚古墳壁画や薬師寺金堂本尊台座の青竜像の首にある。アイヌ民族の神に捧げる酒箸や修験者の錫杖にも付く。
 会津若松城では現存の5つのすべての虎口(入り口)の石垣に×印が刻印されている。

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> 呪いのワラ人形は、侵略者(徐福)の側である、中国由来の道教の呪術ですので、出雲王家の側が用いるものでは有りません。
そうですか。青面金剛さまの云われる中国由来の道教」 キシ先生の云われる五行」等、卑弥呼より〇百年前に来訪した徐福たちが持ち込んだのかも知れないですね。“徐福が不老長寿の薬石探索”に伴った「方士、童男童女、婦人、五穀&樹木種、百工、軍人、船乗り」三千人?の陣容のうちには、それらに長けた人達(外人も連れて行け)がいて、卑弥呼は?それ等の人達が残し伝えた呪術の影響を受けたことも考えられます。

青面金剛さま>お叱りありがとう御座います。
   ご指摘ような欠如が、世間様が相手にしてくれない理由かも知れません。
  > ※平さんは、当初、「先祖からの悲願」⇒「Drいずも氏からのミッション」⇒「出雲の復興のために協力を」⇒ 机上論の探偵。と、呼びかけ人で有りながら、立場をコロコロと変えて、一貫性の無い処が、「そんな詐欺師も居ます。」と言われてしまう原因です。
先祖からの悲願であれば、細目に出雲の地を廻りながら探そう、との貪欲さが全く見られ無い。
 Dr.いずも氏からのミッションならば、断れば良いだけです。
 出雲に何らの貢献も無い、平さんが、復興を呼び掛ける立場にも有りません。
 机上論の私立(史実)探偵ならば、呼びかけて参加者を求める必要も無い。


<表記の違いについて>
先様のおっしゃるままが歴史に刻まれるとチトまずいので、すこし訂正させて頂きます。
この件については、魏志倭人伝でも、口伝者→筆記者→編さん者へと移るにつれて微妙に変わってくることはご存知のとうりです。又、「国引き神話」を大の字とみる」は、Drいずも氏も述べられていましたが、それは後の代のことであり、私は、今回の件とは別ものと見ています。
「先祖からの悲願」について>
 その悲願を私は全く知りません^^!。
出雲の復興について>
 自分の投稿を読み返しましたが「出雲のかつての栄興を呼びもどす」とありますが復興とはありませんでした。「復興」の言葉には八百万の神々が出雲に集う意も含まれますから。
協力を!について>
 肩書や実績や、既成論で世が動くのが常。しかしながら、異論端論が世を変えてゆくのも常であります。足りないのは充分承知しています。素人でもわかるようなことなれば、人脈、学識、実績に長けた先様方が、それに“気付き”さえすれば、簡単なこと。私の出る幕はありません。協力ではなく、共同共立を願っているのです。事が成ったらよりまくる。わたしはそんな人たちの姿を見たくはありません。それが身分を伏せている理由の一つでもあります。
「そんな詐欺師も居ます。」
 これ、有り難くいただきます。でもね^^、わたしは、キシ先生の情報をお借りして、
 鳥祖卵生「没後の灰の中から蘇る孤高孤独のアオサギ」 存命中は無理かも知れない。 
その青鷺が我が家の屋根にとまることがあります。ジライヤのように巻物をくわえ片足あげてドロンと消えましょか(笑い)

sigechanizumo氏>の談、2008/11/14
 http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-21.html
⑦蛇足ですが、「出雲井神社」の宮司さんは、以前は「富」家という位の高い社家が受け持っていました。その富家の後継の人によると、出雲井神社の神は、“出雲大社の裏手3kmの山中”にある鵜峠(うど)銅山の坑道に封じ込められて、大岩で出口をふさがれて憤死したのだと言っていらっしゃいます。富といえば「トミ」=「蛇」なのです。社紋は亀甲紋の中に、何と交差した大根なのです。何を意味するのでしょうか・・・。出雲の熊野大社の神紋は亀甲の中に「大」とあります。大社の「大」と思っていますが、ひょっとして大根の「大」なのかもしてません。

もうすぐ冬至になります。首根っこを押さえる」 根がついたように動かない・動かせない」といいます。 何方さまが先に、島根半島・出雲竜を封縛している
その〆縄や、坑道()や、勾玉(首飾り)、銅戈(五寸釘)を発見ける のでしょうか。
                                    ('17/12/01)□
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(2017/12/17)古代史掲示板に以下を投稿しました。
    http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/4147
  !天の岩戸の原型がここに隠れている!
 <坑道を掘り出した ズリ・土石の廃棄はどこへ?>
  (猪目の峠茶屋跡から7分ほど登った所から、北に向かう道跡の行き止まり斜面下)

  入口を出たところの斜面へ放るのが一番手っとり早い。広場も造れるしぃ^^!。
  “天の岩戸の始源の形がここに埋まっている!”
実地を確かめないと分かりませんが、そこに「掘削した角ばった石」が含まれていれば、坑口の存在が確定的となり、ズリの中の大きな石は斜面の下の方へ転がり寄っている可能性があります。さらに、その量から、どの程度掘り進んでいたかも分かってきます。予想する坑道の長さは十丈。十には、一つ二つのつが付かない止まりの意があります。そして、約1700年前の冬至の朝の御斜光が、南東の谷あい鼻突峠あたりから坑道の奥まで射しこむように掘られていると思いますよ^^! その朝ノボリにあるような八雲がかかっていれば最高! さて、坑道の奥に設えた石棚の上には何が幽閉されているのでしょうか? 勾玉?銅戈?それとも銅鏡? 今も、それ等があるのでしょうか(銅鏡は〇〇百年前の隕石の冬による大飢饉時に「お日様を幽閉したのはまずかった」と合議し岩戸開きして取り出したか??)蛇足ながら、岩戸の前には “シメ縄が張ってあったはず”ですから、発掘には細心の注意をはらってネッ^^!。『此処に、そのズリの有る無しがこの論の正否を決める!』 さて、あなた様は、どうされますう(^-^)?







('18/1/01) mo 様? 貴重な1拍手をありがとう御座いました^^。
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