前記事<卑弥呼の謎解き<その後Ⅰ>のつづきです。 ご訪問ありがとう御座います。 またまたお付きあい願います^^。 (8/01~8/13)
【 前記事の要旨 】
Ⅰ、列島の津々浦々から出土している (謎Ⅰ)銅鐸は、いつ誰が流布したのか?
そして、(謎Ⅱ) 「津」の地名は誰が統一したのか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<徐福について> (7/27)
話は変わり、卑弥呼より400年ほど前だったかな。日本では縄文の頃。前記のような歴史的背景から秦の始皇帝(BC221即位)は、「徐福(BC278誕生)」という人に童男童女3000人を与え、東方の彼方へ出向き “不老長寿” の薬石・薬草を持って帰れと命じた。(又は、徐福が願い出た。) いわゆる 「徐福伝説」 と云われているものである。 私は、この史実(?)をブログ<いずものこころ>で知ったとき、「ペリーの黒船来航」も比ではない程のカルチャーショックを受けました。(詳しくは、そちらの方へどうぞ^^)
特に気を引いたのは「3000人もの童男童女」です。西洋にも東方探検の歴史はある。しかし、それは未知なる地への探検であり、当然屈強な男達を連れて行きたい。危険を伴う船出に女性子供は足手まといだ。 「潮来一枚下は地獄」といわれた時代。なぜ童男童女なのかが解せない。米大陸の“レディファースト”の考えが生まれたのは大西洋を渡る時、非力な女性の数を少数に制限しなければならなかったからだ。
<コメント欄より転載> またまた転載させて頂きました~^^
童男童女 shigechanizumo | URL | 2010-07-28-Wed 16:14 [EDIT]
新しいシリーズのご健筆をお祈りします。と、言いつつ困って頂きたいことを書きます。
なぜ童男童女を連れて行ったのか、足手まといなのに・・・とあります。
私は、徐福さんと握手をした夢を見ました。そして、その時徐福さんは、「この童男と童女、あなたにあげるあるね。」と言ったように思います。
「何でこの童男童女を私にくれるのか。」と聞いたところ、徐福さんは、「あなたのいい様に育てれば良いあるよ。」と言いました。
その間、じっと私を見ていた童男童女の目が忘れられません。
なぜ徐福さんはそのようなことを異国の私に言ったのか、考えざるを得ませんでした。
私が出した結論は、日本列島の乗っ盗りのために童男童女を連れて来たのだということでした。
童男童女の心の深層には、どのように育てられようとも、幾年が経とうとも、同胞が再び訪れたならば、あるいは機が熟したら日本で増殖した子孫とともに永劫楽土を作るのだということが刷り込まれていたのです。
徐福さん一代では、どのように頑張ろうとも限界があります。その後を託すために、いかにも貢ぎ物のように日本列島の男に童男童女を与えて育てさせるのです。
いつかはその童男童女あるいはその子孫に、育ての親を捨てさせて、徐福さんが頭の中に描いていた理想郷を作るというスィッチが入るのです。
そうです、徐福さんが童男童女を伴った理由は、その童男童女をトロイの木馬ならぬ、恐ろしい貢ぎ物とするためだったのです。
真夏の夜の夢夢でした。迷わず書き進められますように・・・。
お暑う御座います。 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-07-28-Wed 19:19 [EDIT]
Dr.> コメントありがとう御座います♪
楽しく興味ぶかく読まさせて頂きました・・・^^。深淵な“ヨミ”をすれば本当にそうなのかも知れません。(米国は、第二次世界大戦で敗戦国である日本の学校給食に脱脂粉乳というタオル(援助)を投げ入れました。それが今では牛乳を飲みパンを食す文化にどっぷり浸かりました^^!)古代中国では大家同士で、実の我が子をやりとりする風習がありましたよね(師のブログ中だったかな?)これが戦争抑止力に働くのか、お互いが親戚として末永くお付きあいしましょうねに働くのか、はたまた相手国を乗っ取る結果になるのかは解りませんが。その童達からすれば悲しいものを感じます。歴史をみれば列島からも娘達を相手国へ差しだしたとも聞きます。<おカミへ○○を差しだす>その○○が童や娘であるのは悲しいことです。楽しいコメントや(きついコメントも含めて^^! 翻意や正答に繋がりますので)お待ちしています(^-^)♪
<それが、何故、童男童女なのか?> (7/28)
列島では、丸太くり抜き舟がやっとの時、中国では、すでに○○人乗りの帆船を有していた。とは言え、3000人のこども達を分乗させた操船力・推力の弱い船団の全てが、ヨーイドンの横一列で出帆するわけでなく、海流の速い対馬海峡を渡って同じ地に着岸できるものではない。それから○○百年?後の遣隋使・遣唐使の時でさえ航運を祈るための特別な男(○○)をしつらえて航行が上手くいけば接待三昧♪、上手くいかなかったら、全ぇん~部、その男が役に立たなかったからだとして^^!その命を断ったという。いかに○○人乗りとはいえ未成熟な帆船。海流に流され分散して列島の日本海沿岸の各地(唐津?、萩?、出雲、石川、富山、あるいは秋田、青森まで?かな^^!)にたどり着いた。
この人達の目的は、その恐ろしき神が棲むという東方から『不老不死』の薬石を皇帝に持って帰ることである。童男童女を使わしたのは例え何代かかろうとも「必ず持って帰れ!」との皇帝の強い意志があり。そこで安穏と定住したとの噂でも立とうものなら、たちまち皇帝の軍に討伐されてしまう。始皇帝は万里の長城を築城させるほどの強権の持ち主。その恐ろしさは云うまでもない。(その出帆の9年後?に没した始皇帝ではありましたが「あれほどの物資や人を持たせたのに、何故、徐福は<その妙薬>を持ち帰えらんのだ!」と怒ったそうです^^!。)
<徐福・その後> (7/29)
徐福達は、例え何隊に分断しようとも<一段落>がつけば必ず沿岸沿いに西進、或いは東進して仲間達(徐福)を捜し合う。ブログ<いずものこころ>の記事のなかに『大勢の神々が天より下りて酒を酌み交わした』というくだりがありましたが、素人探偵はこれを徐福達の船団が再開か無事を喜びあった場面だととらえています。そこで「我が着岸地にはこんな“モノ”が有りました」等の連絡・情報の交換が行われ東西に妙薬探しの為に行き来する航路がだんだんに出来あがる。そして徐福が居るべき本拠地も定まってくる。除福は(?)、一時的に(?)かどうかは分かりませんが、薬石・物資を集める司令地として“出雲”に在住していたのではないでしょうかぁ? (出雲の優位性、先進性は、カテゴリー出雲地方; Dr.>とのやりとりへどうぞ・・)
賢明な徐福のこと。如何にすれば列島の珍宝薬石を集材し、中国に送り届けるための組織をつくりあげることは簡単なことだ。今の会社組織でも本社があり支店がある。創作話として、出雲に本社、支店を丹後、越前、富山、越後、新潟、酒田、牡鹿半島、艫作崎におく。(これ等は、思いつきであげましたが、要は今現在に発展しているところと竜神文化と出雲の神の影響があるところと申し上げておきましょう。何故ならば、この人達が日本海沿岸の発展に寄与したと思っているからです。)次に徐福のなすことは、要職・部下の配置転換。そして(童男童女の)社員教育。有力情報があれば支部への視察出張もしなければならない。さらには、本社で年一回の<支店長会議>を設ける。忙しい忙しい師走に!(笑)
これから先は、Dr.>や、皆さんのほうがお詳しいから、そち等へバトンタッチ^^!
<皆様へ> わたしが、shigechanizumo氏>のことをDr.>とお呼びしているのは、素人探偵の歴史的知識の80%以上は氏のブログから得ており、遊び心と尊敬から、Dr.ワトソンと、シャーロックホームズをもじって、Dr.Izumo>と、Sher-rock.Homeless(降岩家無人)略して、Mr.ホームレスと名乗るようになりました。(アハハと、・・・泣き笑い^^!)
<中国へ仕送りする航路の準備> (7/30)
それぞれの分団もその地での仮生活が営めるようになれば、早々に集めた物資を本国へ送らねばならない。傷んできた船も修理したい。途中、水やら食料を補給するための沿岸中継港もいる。帰りの航路で対馬海流を横切るには出来るだけ西から出港した方がよい。それの当初は長崎辺りかも知れないし、対岸への着岸は朝鮮半島の東方に流されたかも知れない。<唐津>からの出港は、その名からして船の推力が増してから後のことかも知れない。このようにして三角形の航路ができあがる。九州<博多>で気になる情報を得ている。○○川の西と東で祭りの形式が異なる・・・?
<前記事の、コメント欄より転載>
不思議 shigechanizumo | URL | 2010-07-30-Fri 16:41 [EDIT]
3000人もの童男童女とされています。
ここで不思議なことがあります。
彼らは文字を使っていたのか。
彼らの話し言葉は何だったのか。
もちろん当時の漢字と中国語を使っています。
多くの技術者や、童男童女が日本列島に着いた。そして散らばった。
漢字や中国語が何らかの痕跡を残さないはずはありません。しかし、その痕跡がない。弥生式土器に残された文字は極めて少なく、その上にひとつの土器に一文字くらいのものが稀にやっと見つかっているのです。
私たちは、縄文語だなんだと日本語の起源を探ろうとしていますが、ドッと3,000人もの中国語を話す人が一度に来たのなら、それはクラスターともいえるのですから、どこかの地域あるいは広がりに中国語の痕跡が残らなければなりません。
ところがこれもその痕跡がない。
では、ただ残らなかっただけなのか。そんな馬鹿なことはありません。
私の推理はこうです。
彼らは決して日本列島の人々に文字を教えたり、中国語を教えたりはしなかった。
その理由は、彼らがプロとしてのエージェント教育を受けていたからです。日本列島の人々が漢字をたやすく使えたり、中国語を理解できるようになってそれを話すようになれば、特命を受けて日本列島にやって来た自分たちやその子孫と、区別がつかなくなるのです。
彼らはあくまで秘密結社としての集団性を維持する必要があったのです。いかに多方面に散らばろうとも、漢字を用いて中国語を話す人と出会えば、それはまさしく秘密結社の一員との遭遇であり、同胞との遭遇であると確信できるように、彼らの文字と言葉は彼らだけの間のものとして保持していたのです。
徐福の一団恐るべし、と言うべきでしょう。
自分も似たようなことを^^! 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-07-30-Fri 20:10
Dr.> コメントありがとう御座います(^-^)♪
さすが、Dr.>わたしの弱いところを突いてこられました。ありがとうございます^^。 “徐福団”が銅鐸の流布や津々浦々の言葉の統一に関与している?と踏んではいるのですが、Dr.の云われるように各々の関連性がまったくみえないのです。中国では天津(てんしん)日本では津(つ)。そして、中国では秦(しん)を日本では秦(はた)と読みます。はた」は自分達の村落の近くに住む<端(はた)の人>なのでしょうか? このように仏教がはいるまで、(否、入ってもかな?)物質文明はべつとして、言語・精神文明は全く交えていません。かといって徐福団の関与を否定すると・・・《では、いったい誰がどのようにして銅鐸を流布したか??》・・・こまった!困った! (コメントを勝手に記事へUPさせていただいてます。もし差し障りがあれば・・・、)
<“徐福”薬石探索隊が、日本史に与えた影響とその役割 ?> (8/01)
童男童女3000人を引き連れた“徐福薬石探索隊”
(以下、Dr.に習って徐福団と呼ぶことに致しましょう)
その「童男童女」とは? そして、その航海・探索隊の構成は? (以下、リアルタイムで考えていきますので間違いを含め多いに迷走ありと思われます。Dr.を始め皆様のコメントが頂け、正しい方向へ討究できることを期待します。 どうぞの御参加を! 尚、このブログ記事は、将来(没後^^?)に、本になるやも知れませんので、そのコメントを当方が無償で使用できることを御了解のうえでの投稿をお願い致します。-深礼-)
童男童女とは何歳ぐらいの者をいうのか。
中国で云う童男童女とは何歳ぐらいの者をいうのでしょうか? 筆者はこれについてまったく知らない。青年以上の者なら「童男童女」とことわりはしない。(ちなみに、中国語の火車=自動車、汽車=列車、お手紙=トイレットペーパー、^^!)日本の場合にしても「男女7歳にして席を同じゅうするべからず」とあり、今の感覚でそれを云うのは差し控えねばならないが、考えようがないので仮に15歳以下としよう。下は長旅にも耐えなければならないので10歳以上とする。では3000人のすべてがその年齢の者達とするには無理がある。話半分として1500人にしよう。青年以上が1500人。その青年以上の振り分けが問題だ。
当然のことながら、前準備として、その選考選抜。教育等が行われる。第一には船を操る者。次には薬事に長けたる者。これは少数でよい。珍しいものを持ち寄らせ長たる者が検分すればよいからだ。第三番目には人が居住するやらしないやらも分からない未知なる恐ろしきところへ出向くわけであるから軍人はしっかりと確保しておきたい。次に考えたいことは帰れるやら帰れないかも知れない長の旅路。衣食住もそこそここなす者も連れていきたい。
古代中国の分業がいかに進んでいるかは知らないが、日本の場合には<服部、金辺、陶>のような専業を表す地名が残っている。(つい今し方の^^?江戸期や明治においてもそれぞれの技術は門外不出であった)それらの兼業ができる者が欲しい。婦人もいくばくかは連れて行きたい。これ等3000人もの人の構成を考えるには、相当の準備と熟慮を要するが、一番重きを割きたいのは軍人と船乗り。1500人の半分以上は是非とも欲しい。これは水兵として兼務できる。 何故、筆者がこのように細々とその割り振りを試みているかと云うと、その時の列島では(こん棒片手に?毛皮の腰巻き??-笑-)の縄文石器の時代。それに対して3000人を未知なる地へ送り出すことができる圧倒的優位の文明を持つこの人達が、その後の日本史へ与える影響は決して少なくないと考えるからです。
疑問 shigechanizumo | URL | 2010-08-02-Mon 13:48 [EDIT]
例えば、1500人の童男童女。とはいっても、童男と童女の割合が分かりません。
同数だったのか。
童男1に対して童女10だったのか。
あるいははたまた童男10に対して童女1だったのか。
極端な話、童男1に対して童女100だったのか。またその逆なのか。
探検の足手まといになるはずの童男童女を伴ったのですから、その割合に何か秘密があるようにも・・・。
ひょっとして shigechanizumo | URL | 2010-08-02-Mon 14:55 [EDIT]
童男10人、童女1490人だったとしましょう。一番単純に考えれば、何年か後に徐福の集団構成はどのように成るのでしょうか。種馬10頭、牝馬1490頭の壮絶な種付けやいかに・・・。
あれっ shigechanizumo | URL | 2010-08-02-Mon 15:50 [EDIT]
男1490人、女10人とすると、同じく1500人でも、夫婦としては10組がいるようなものです。
ところが、男10人、女1490人とすれば1490組の夫婦がいるようなものでは・・・???
ひとりの女が4人子供を生むとすれば、前者では、一世代で40人の増加であるのに対し、後者では5960人の増加となります。
童男童女を含む3000人か? 平 素人 | URL | 2010-08-02-Mon 23:17 [EDIT]
Dr.~ッ> ハハハッ たのしいコメントありがとうございます^^♪
童男童女3000人を引き連れて」とはいうけれど、Dr.>の云われるような可能性を考えると、現実的には<童男童女を含む3000人>に修正したほうが良いかも知れませんね。始皇帝は徐福の出立後9年後?(○○歳)で没しています。徐福に膨大なる物資と人を与えたということは、よほどその “不老不死の霊薬”が欲しかったのでしょうねえ。そして何故に<東方>を選んだかにも注目しなければなりません。東方には 「未知なる恐ろしき神」 がおわすところであり、だからこそ、そこに霊薬がありと考えたのではないでしょうか? 3000人の構成は全くわかりませんが、この二つを強く念頭において、もし自分が(皇帝・徐福)だったらどのような陣容にするかを考えるのも楽しいでしょうね(^-^)?
徐福団3000人のすべてが無事に列島に着岸できたとは思えない。 (8/04)
今から2200年余り前の航海力。最悪の場合を想定して、半分の1500人がそれぞれの地にたどり着いたとしよう(合掌)。1500人にしても大した数である。例え一船団の30人?が着岸しても当地の人達はビックリ仰天する^^。
徐福団は自給自足の生活は覚悟の上ではあるが、難儀のあとの航海疲れもあり。そこに住民がいれば水や食料をくれないかと乞う。勿論抵抗すれば争いとなるが、住民側にすれば、びっくりが先で「何も拒む理由はない」そこで融和らしき関係が出来上がる。徐福団の場合、薬石の探索が主目的であり、中世にみられる植民地化を目的とはしていない。植民地化が行われたのはその地に自分達の欲しいモノがあると分かってから後のことである。そして住地・住家の獲得提供へと進めば、お礼として病人の治癒へと発展する。 列島の人達から見れば「神様がお出でなすった」(^-^!)
<中国という国に思うこと> (8/5) (中学生諸君のために^^)
中国に、「白髪三千丈」をいう漢詩があります。「丈」は長さの単位で10尺(1尺は約30cm)。憂えていたら白髪が三千丈にもなった^^!。ちょっと?おおげさな形容のようですがあり得ない話ですよね。日本にも「嘘の三八・さんぱち」という言葉があり、3と8がつけば嘘っぽい数字のことをいいます。このようなことから「童男童女3000人」は、あてにならない数字だとする人もいます。しかしながら、万里の長城や、西安の兵馬俑(○○体)をみれば、中国の場合。まんざらその数字が嘘でもないような気がします。
そして、中国は“医食同源”国。特に医薬において驚異的な?話を聞かされます。何万元もするような茶葉、熊の肉球、コウモリの糞から得た未消化の蚊の目玉、或いは、深山にしか生えないというレイシ茸、絶壁に住む岩ツバメの巣。勿論このようなものが一般に食されるわけではなく富と権力を得た人が蒐集するのでしょう。しかしながら、その蒐集にはすざましい迄の意気込みを感じます。 対して、日本では 「初物を食べると三日長生きをする」(笑)(この“初物”の言葉に、素人探偵は歴史的な深い意味があると思っています。それは又の機会に、^^!)
さらに、中国に「童子撫髭」という絵があります。これは、長く伸びた老人のあごひげを童子が不思議そうに撫でて、それを老人は嬉しそうに楽しんでいる場面の絵柄です。これは、特に誰それの絵という分けではなく、中国の人達が好む(習作?)題材のようです。長寿を重んじ、老人を大切にする國。日本でもこの夏休み中に孫と爺婆が行動を楽しむ場面が見られたらいいですね。
深海魚 shigechanizumo | URL | 2010-08-06-Fri 15:27 [EDIT]
私は、徐福さんが発見しようと思ったのは、深海魚エキスだったのではないかと思います。
中国は大陸棚のおかげで近くに深海がありません。しかし、時たま変な深海魚が流れ着いていたことでしょう。
ではどこへ行けばそうした深海魚は採れるのか。東の深海、すなわち日本海溝、マリアナ海溝辺りの深海に目をつけたとか・・・。
深海サメの軟骨? 平 素人 | URL | 2010-08-06-Fri 22:25 [EDIT]
Dr.> こんばんわ 暑いですねぇ^^!。コメントありがとう御座います♪
“深海魚のエキス” それはそれは興味深いはなしですね。あとの記事に揚げさせて頂くことにしましょう。人類が追い求めたくすりで、<精力剤・かぜの薬・薄毛の薬>があります。 これを発見発明すれば大金持ちになれると云われてきました。精力剤はバイアグラ。風邪の薬はイタチごっこ。薄毛の薬は兆しうすし^^! でも、その”深海魚のエキス”が何に効くのかは分かりませんので、Dr.>が保証してくださいよ(笑)。
<徐福のとある一団の場合を仮想> (8/08)
徐福団のなかのとある一団について仮想をしてみよう。これは、それぞれの船団の構成員と着岸地の状況によって異なってくるのは当然であるが、目的が同一なのでおおむねは似たような経過をたどる。その一船団を30人としよう。これも仮想です。割り振りは軍人の男達が20人。残りの10人は婦人とこども達。場所は、佐渡島を経由して<新潟・富山>としよう。この北陸地方を選んだのは、ブログ<いずものこころ>の一ファンの方で<秦・はた>に関係する名字の方がおられたからです。
まず漂着の後になすことは、そこに住民のありや無しやを確かめる。「東方神起」の列島である。自分達に危害が加わるようであれば戦わねばならない。だが意外や意外「狩猟、焼畑を?営む石器時代の人達」であった。(今でも、東北?中部?の方だったかな。伝統の焼畑をまもり続けている村落をTVが紹介していました。)航海疲れもあり食物や水を乞う。勿論、抵抗すれば争いとなるが、女子供を有する軍団。出来れば戦いは避けたい。一方住民側にすれば、見たこともない異様な人達が大船でやって来た。びっくりが先で戦う気などおこりようがない。
ペリー提督が4隻の軍艦を連ね、その砲筒を江戸城に向けて開国をせまったというが、実際に戦えば多勢に無勢。砲弾がつきれば退却をせざるを得ない。そのようにならなかったのは、圧倒的巨船(○○○トン)を見せつけることによって、相手が戦意を失ったからだ。ちなみに、大陸や半島の銅剣が殺傷用なのに対して、日本側の銅器の多くは祭祀用として出土している。遺骨に殺傷の痕跡がでるのは弥生期以降と聞きます。
<コメント欄より転載しました。>
怖れ shigechanizumo | URL | 2010-08-09-Mon 09:09 [EDIT]
怖れとはひとつの想像力なのでしょうから、その想像力を働かせる範囲を越えたものを見たときには、人々は違った反応をするでしょうね。
むしろ好奇心が湧いてきたりするでしょうね。
そうなれば融和は簡単ですね。
対立 shigechanizumo | URL | 2010-08-09-Mon 09:13 [EDIT]
対立というのも同じようなことで、相手を推し量れるから対立関係が成り立つのでしょうね。もしそれが推し量れないほど圧倒的なさであったなら、ひれ伏すか、逃げ出すか、その反対なら慈愛を持つとか、庇護的な立場を採ることになるのでしょうね。
暑さで思考が支離滅裂! 平 素人 | URL | 2010-08-09-Mon 21:28 [EDIT]
Dr.> コメントありがとう御座います(^-^)♪
この暑さで、一度筆をおくと、思考の連なりがとぎれてしまい、さて何処まで進んでいたのだっけとか、なにを書こうとしたのだっけとかが思い出せず、考えが支離滅裂になってしまいます。 このコメントも記事本文へ転載させていただきますね^^!。
<Dr.コメント; 怖れと対立へのお返事> <8/09>
怖れについて; 徐福の一行が列島に対して抱いていた「怖れ」とは。今から4000年程前。東北地方の釜石あたりへ降臨した巨大隕石(?20kmφ?)に伴う地震と津波。通常の地震が地下100km~10km深さに対して、巨大隕石が起こす地震は表層地震であり、力の伝導はより動きやすい方(弱い方)へより大きく働きます。素人は例え話しとして「風呂場の湯漕の底の方で拳を動かすのと、同じ力で水面を叩くのとでは、力は同じでもその水面の波高は大きく異なる」としています。その時出雲にとどいた地震は幅約5km、長さ60km、帯状の島根半島の岩石を粉砕したと謎解き(カテゴリー出雲地方)しましたよね。そして、帯端(日ノ御碕)は大きく跳ね上がり、リバウンドして玄武岩を噴出した(地震の舳先・船尾効果←筆者提唱)ともしました。この地震が半島や大陸へどのように伝わったかは分かりませんが、朝鮮半島へ伝わった津波はその地名を調べていますので後ほど・・・^^、
Dr.>の言葉で、歴史という言葉に人格をもたせて 『歴史が記憶する』 があります。わたしは、この言葉をとても気に入っています。徐福が東方へ出かけたのが、その大事変から約1800年程後ですから、未だ歴史はそれを<怖れ>として覚えていたのでしょうか?(それとも想像かな)それが4010年経った今では史学・科学でさえ、欠片もない程にすっかり忘れてしまった。(笑)わずかに、その名残として<荒神さま、竜神さま、水神さま>が生きていらっしゃる。
<徐福一行と、現地住民との対立と融和> (8/10)
徐福のとある一団30人は( それを甲組と名付けます。)恐ろしき地と思いこんで着岸したが、思いのほかそこの住民から水やら食料の提供も受けた。(中学生諸君へ、ここでちよっと子供心が閃きました。何故、神様に“お水”をあげますの? 水は 「湯水のごとく」 と云うようにふんだんにある。神様がその水を貰ってもちっとも嬉しくない。水はいらないから御神酒のほうをくれ^^! って神様が云うかなぁ?(笑) このように今の私達が何気なくしている所業にも謎解きの鍵は潜んでいます。)ちょっと脇へそれましたが、仮設の住家も住民達の近くに決まった。列島の住民が山と平地の境目の小高い丘(焼畑)をテリトリーとしていた(??)のに対し、甲組の人達の食料は米作りに適した平地の湿地帯を選んだ?のも幸いした。 列島の住民はその人達を『秦=端・はたの人』と呼んだ。列島の米作りの始まりは6千年前(米に含まれるプラントオパールより岡山大学)ともいわれるが、その栽培技術は大きく異なっていたと思われる。このように住家地帯を棲み分けることと、その先進性を取り入れることでたいしたトラブルもなく徐々に融和へと進んでゆく。
その裏付けとして、北陸地方に秦の名字あり? Dr.>も、西出雲と東出雲の(或いは出雲市内でも??)風習が微妙に異なると云われていましたよね。筆者がそれと確信したのは<九州博多>で川の西と東では祭りごとが異なると聞いた時からです。 読者諸氏の地域でもこのような心当たりがあれば、史実として確定的!
対立について;
では、甲組~甲乙丙丁組のすべてが融和へと進んだか? Dr.>が「対立」の言葉を払拭しきれていないように、筆者も列島の一部地域では対立もあったのではと想像しています。それはもう少し記事を進めてからにしましょう。
<徐福達が列島で求めたモノは?>
一口に「不老不死の薬」といっても・・・皆さんもごいっしょに^^←乞コメント)
①
不老不死の薬 shigechanizumo | URL | 2010-08-11-Wed 09:24 [EDIT]
不老不死といっても、それは単なる願望から来たものだとは思われないのです。やはり、何らかの実例に近い事例があったのではないでしょうか。
150歳の老人が元気に酒を飲んで笑っているとか、180歳の老婆の肌が、若い娘のようにツヤツヤだったとか。
そうした事例を見て、これには何かの原因があるはずだと考え、不老不死の薬があるに違いないと思ったのではないでしょうか。
そうでないとしても、例えば夢・錯乱の中でそのような光景を見たために、不老不死を実在の現象として確信したとかということがあったのだと思います。
それにしても、今日身の回りを見渡しても、元気の出る薬とか疲労回復の薬といったものがありますので、一見それの延長のような形で不老不死の薬が存在すると思ったのでしょうか。
私は、そうではなくて全く別物として存在するのが不老不死の薬だったのではないかと思うのです。どういうことなのか。以下続きます。
感謝 shigechanizumo | URL | 2010-08-11-Wed 09:35 [EDIT]
私は今回いろいろと考えさせてもらえるこのblogに感謝しています。
というのも、長寿と不老不死とは同じなのかということについて考えさせられたのです。
そして、やはり長寿と不老不死とは全く別の概念なのではないかと思ったからです。長寿を願うものは人みな同じです。そしてその延長に安らかな満ち足りた死があるというものです。
しかし、不老不死とは老いず、死せずなのです。秦の始皇帝は長寿を願ったのでしょうか。あるいは、老いず、死せず、を願ったのでしょうか。それによって徐福が探しに行った薬も異なるように思うのです。
頭に暑気がぁ~ 平 素人 | URL | 2010-08-12-Thu 04:42 [EDIT]
(謝々) ↑、皆さん>URL Dr.ブログへヒットしますよ♪
Dr.> こんばんわ?から、いくら考えてもコメントがまとまらず朝になってしまいました^^!。
コメントありがとう御座います♪ 師がコメントを下さることにより素人の拙い記事でもより多くの人か面白く読んで頂けるものと感謝いたしております。私の「不老不死、長寿、(健康)、霊薬、妙薬、(薬石)」の言葉は、師のブログで得たものであり、始皇帝のことを全く知らず、それを軽薄に使ってしまいました。私は師のブログをみてショックを受けたことがあります。「國譲り」の件で「現世(現世界?)は大和に譲るが、霊界(あの世)は出雲がとる」。こども心が思うに「あの世を貰ってもねえ・・・笑」 古代人には”あの世”^への概念がかくも強くあったのかと・・・! (それともお布施・寄進のシステムの保持・・・?) 「不老不死」とは、現状に安息を感じているものであり、あの世の安息ではない?? これは中国人と日本人の考え方の違いか・・??
・・・前頭葉がぁ~~~コメントにならずごめんなさい。・・・・
ヒント shigechanizumo | URL | 2010-08-12-Thu 09:22 [EDIT]
いいことをおっしゃいますね~。秦の始皇帝が考えた不老不死とは、「死して後生きる」ということだったのかもしれません。「死して後生きる」ということの証明は、兵馬俑(へいばよう)に表現されているのではないでしょうか。
秦の始皇帝は死んでいます。しかし、その死とは現世での死だったのです。
兵馬俑は地下にありました。明らかに黄泉の国です。秦の始皇帝が望んだ不老不死とは、現世での死と、あの世での死とをにらんだものです。現世では死しても、あの世ではなお生き続ける。これこそ不老不死であると・・・。
そして、秦の始皇帝が求めた不老不死の薬とは、あの世で生きながらえることができる薬だったのではないでしょうか。
徐福は、秦の始皇帝にその薬を届けたのではないでしょうか。秦の始皇帝は、その薬を飲んで現世での死に臨んだのです。
そして現世での死後にその薬が効き始め、あの世での不老不死を得たのです。
そのことを予期していたからこそ、地下すなわちあの世に兵馬俑を作らせておいたのです。
結語。徐福は薬を得て、再び秦に戻った。不老不死の薬を得た秦の始皇帝は、その薬を飲んであの世に旅立った。秦の始皇帝はあの世で行き続けている。その事実は知られてはならない。徐福は殺されたのですが、そのことを秘するために秦には戻らなかったとされたのです。
深読みに拍手! 平 素人 | URL | 2010-08-13-Fri 06:38 [EDIT]
Dr.> (ヒント)コメントありがとう御座います。(^-^)♪
『「死して後生きる」ということの証明は、兵馬俑(へいばよう)に表現されているのではないでしょうか。』 ・・・深読みですねえ・・・。そこまでは考えが及びませんでした。兵馬俑が何故造られたかは謎の一つですよね。それはじゅうぶん過ぎるほどあり得る話です。徐福については中国においても重きをおいて取り上げられて居ない?ようですから、Dr.>が、その<始皇帝=徐福=兵馬俑>の関係を、明らかにされれば面白いことになりそうですね♪(^-^)♪
URLの件、ありがとう御座いました。 そのURLを徐福の御記事に連結して下さると、これに興味を持たれた他の人達もそちらへ・・^^!、確か、わたしもコメントをおいてありますよね^^。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仮想メモリが少なくなり文字の変換スピードがおそくなりました。今しばらくのお待ちを・・・^^!
コメント欄はOKです^^
つづきます。(^-^)♪
【 前記事の要旨 】
Ⅰ、列島の津々浦々から出土している (謎Ⅰ)銅鐸は、いつ誰が流布したのか?
そして、(謎Ⅱ) 「津」の地名は誰が統一したのか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<徐福について> (7/27)
話は変わり、卑弥呼より400年ほど前だったかな。日本では縄文の頃。前記のような歴史的背景から秦の始皇帝(BC221即位)は、「徐福(BC278誕生)」という人に童男童女3000人を与え、東方の彼方へ出向き “不老長寿” の薬石・薬草を持って帰れと命じた。(又は、徐福が願い出た。) いわゆる 「徐福伝説」 と云われているものである。 私は、この史実(?)をブログ<いずものこころ>で知ったとき、「ペリーの黒船来航」も比ではない程のカルチャーショックを受けました。(詳しくは、そちらの方へどうぞ^^)
特に気を引いたのは「3000人もの童男童女」です。西洋にも東方探検の歴史はある。しかし、それは未知なる地への探検であり、当然屈強な男達を連れて行きたい。危険を伴う船出に女性子供は足手まといだ。 「潮来一枚下は地獄」といわれた時代。なぜ童男童女なのかが解せない。米大陸の“レディファースト”の考えが生まれたのは大西洋を渡る時、非力な女性の数を少数に制限しなければならなかったからだ。
<コメント欄より転載> またまた転載させて頂きました~^^
童男童女 shigechanizumo | URL | 2010-07-28-Wed 16:14 [EDIT]
新しいシリーズのご健筆をお祈りします。と、言いつつ困って頂きたいことを書きます。
なぜ童男童女を連れて行ったのか、足手まといなのに・・・とあります。
私は、徐福さんと握手をした夢を見ました。そして、その時徐福さんは、「この童男と童女、あなたにあげるあるね。」と言ったように思います。
「何でこの童男童女を私にくれるのか。」と聞いたところ、徐福さんは、「あなたのいい様に育てれば良いあるよ。」と言いました。
その間、じっと私を見ていた童男童女の目が忘れられません。
なぜ徐福さんはそのようなことを異国の私に言ったのか、考えざるを得ませんでした。
私が出した結論は、日本列島の乗っ盗りのために童男童女を連れて来たのだということでした。
童男童女の心の深層には、どのように育てられようとも、幾年が経とうとも、同胞が再び訪れたならば、あるいは機が熟したら日本で増殖した子孫とともに永劫楽土を作るのだということが刷り込まれていたのです。
徐福さん一代では、どのように頑張ろうとも限界があります。その後を託すために、いかにも貢ぎ物のように日本列島の男に童男童女を与えて育てさせるのです。
いつかはその童男童女あるいはその子孫に、育ての親を捨てさせて、徐福さんが頭の中に描いていた理想郷を作るというスィッチが入るのです。
そうです、徐福さんが童男童女を伴った理由は、その童男童女をトロイの木馬ならぬ、恐ろしい貢ぎ物とするためだったのです。
真夏の夜の夢夢でした。迷わず書き進められますように・・・。
お暑う御座います。 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-07-28-Wed 19:19 [EDIT]
Dr.> コメントありがとう御座います♪
楽しく興味ぶかく読まさせて頂きました・・・^^。深淵な“ヨミ”をすれば本当にそうなのかも知れません。(米国は、第二次世界大戦で敗戦国である日本の学校給食に脱脂粉乳というタオル(援助)を投げ入れました。それが今では牛乳を飲みパンを食す文化にどっぷり浸かりました^^!)古代中国では大家同士で、実の我が子をやりとりする風習がありましたよね(師のブログ中だったかな?)これが戦争抑止力に働くのか、お互いが親戚として末永くお付きあいしましょうねに働くのか、はたまた相手国を乗っ取る結果になるのかは解りませんが。その童達からすれば悲しいものを感じます。歴史をみれば列島からも娘達を相手国へ差しだしたとも聞きます。<おカミへ○○を差しだす>その○○が童や娘であるのは悲しいことです。楽しいコメントや(きついコメントも含めて^^! 翻意や正答に繋がりますので)お待ちしています(^-^)♪
<それが、何故、童男童女なのか?> (7/28)
列島では、丸太くり抜き舟がやっとの時、中国では、すでに○○人乗りの帆船を有していた。とは言え、3000人のこども達を分乗させた操船力・推力の弱い船団の全てが、ヨーイドンの横一列で出帆するわけでなく、海流の速い対馬海峡を渡って同じ地に着岸できるものではない。それから○○百年?後の遣隋使・遣唐使の時でさえ航運を祈るための特別な男(○○)をしつらえて航行が上手くいけば接待三昧♪、上手くいかなかったら、全ぇん~部、その男が役に立たなかったからだとして^^!その命を断ったという。いかに○○人乗りとはいえ未成熟な帆船。海流に流され分散して列島の日本海沿岸の各地(唐津?、萩?、出雲、石川、富山、あるいは秋田、青森まで?かな^^!)にたどり着いた。
この人達の目的は、その恐ろしき神が棲むという東方から『不老不死』の薬石を皇帝に持って帰ることである。童男童女を使わしたのは例え何代かかろうとも「必ず持って帰れ!」との皇帝の強い意志があり。そこで安穏と定住したとの噂でも立とうものなら、たちまち皇帝の軍に討伐されてしまう。始皇帝は万里の長城を築城させるほどの強権の持ち主。その恐ろしさは云うまでもない。(その出帆の9年後?に没した始皇帝ではありましたが「あれほどの物資や人を持たせたのに、何故、徐福は<その妙薬>を持ち帰えらんのだ!」と怒ったそうです^^!。)
<徐福・その後> (7/29)
徐福達は、例え何隊に分断しようとも<一段落>がつけば必ず沿岸沿いに西進、或いは東進して仲間達(徐福)を捜し合う。ブログ<いずものこころ>の記事のなかに『大勢の神々が天より下りて酒を酌み交わした』というくだりがありましたが、素人探偵はこれを徐福達の船団が再開か無事を喜びあった場面だととらえています。そこで「我が着岸地にはこんな“モノ”が有りました」等の連絡・情報の交換が行われ東西に妙薬探しの為に行き来する航路がだんだんに出来あがる。そして徐福が居るべき本拠地も定まってくる。除福は(?)、一時的に(?)かどうかは分かりませんが、薬石・物資を集める司令地として“出雲”に在住していたのではないでしょうかぁ? (出雲の優位性、先進性は、カテゴリー出雲地方; Dr.>とのやりとりへどうぞ・・)
賢明な徐福のこと。如何にすれば列島の珍宝薬石を集材し、中国に送り届けるための組織をつくりあげることは簡単なことだ。今の会社組織でも本社があり支店がある。創作話として、出雲に本社、支店を丹後、越前、富山、越後、新潟、酒田、牡鹿半島、艫作崎におく。(これ等は、思いつきであげましたが、要は今現在に発展しているところと竜神文化と出雲の神の影響があるところと申し上げておきましょう。何故ならば、この人達が日本海沿岸の発展に寄与したと思っているからです。)次に徐福のなすことは、要職・部下の配置転換。そして(童男童女の)社員教育。有力情報があれば支部への視察出張もしなければならない。さらには、本社で年一回の<支店長会議>を設ける。忙しい忙しい師走に!(笑)
これから先は、Dr.>や、皆さんのほうがお詳しいから、そち等へバトンタッチ^^!
<皆様へ> わたしが、shigechanizumo氏>のことをDr.>とお呼びしているのは、素人探偵の歴史的知識の80%以上は氏のブログから得ており、遊び心と尊敬から、Dr.ワトソンと、シャーロックホームズをもじって、Dr.Izumo>と、Sher-rock.Homeless(降岩家無人)略して、Mr.ホームレスと名乗るようになりました。(アハハと、・・・泣き笑い^^!)
<中国へ仕送りする航路の準備> (7/30)
それぞれの分団もその地での仮生活が営めるようになれば、早々に集めた物資を本国へ送らねばならない。傷んできた船も修理したい。途中、水やら食料を補給するための沿岸中継港もいる。帰りの航路で対馬海流を横切るには出来るだけ西から出港した方がよい。それの当初は長崎辺りかも知れないし、対岸への着岸は朝鮮半島の東方に流されたかも知れない。<唐津>からの出港は、その名からして船の推力が増してから後のことかも知れない。このようにして三角形の航路ができあがる。九州<博多>で気になる情報を得ている。○○川の西と東で祭りの形式が異なる・・・?
<前記事の、コメント欄より転載>
不思議 shigechanizumo | URL | 2010-07-30-Fri 16:41 [EDIT]
3000人もの童男童女とされています。
ここで不思議なことがあります。
彼らは文字を使っていたのか。
彼らの話し言葉は何だったのか。
もちろん当時の漢字と中国語を使っています。
多くの技術者や、童男童女が日本列島に着いた。そして散らばった。
漢字や中国語が何らかの痕跡を残さないはずはありません。しかし、その痕跡がない。弥生式土器に残された文字は極めて少なく、その上にひとつの土器に一文字くらいのものが稀にやっと見つかっているのです。
私たちは、縄文語だなんだと日本語の起源を探ろうとしていますが、ドッと3,000人もの中国語を話す人が一度に来たのなら、それはクラスターともいえるのですから、どこかの地域あるいは広がりに中国語の痕跡が残らなければなりません。
ところがこれもその痕跡がない。
では、ただ残らなかっただけなのか。そんな馬鹿なことはありません。
私の推理はこうです。
彼らは決して日本列島の人々に文字を教えたり、中国語を教えたりはしなかった。
その理由は、彼らがプロとしてのエージェント教育を受けていたからです。日本列島の人々が漢字をたやすく使えたり、中国語を理解できるようになってそれを話すようになれば、特命を受けて日本列島にやって来た自分たちやその子孫と、区別がつかなくなるのです。
彼らはあくまで秘密結社としての集団性を維持する必要があったのです。いかに多方面に散らばろうとも、漢字を用いて中国語を話す人と出会えば、それはまさしく秘密結社の一員との遭遇であり、同胞との遭遇であると確信できるように、彼らの文字と言葉は彼らだけの間のものとして保持していたのです。
徐福の一団恐るべし、と言うべきでしょう。
自分も似たようなことを^^! 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-07-30-Fri 20:10
Dr.> コメントありがとう御座います(^-^)♪
さすが、Dr.>わたしの弱いところを突いてこられました。ありがとうございます^^。 “徐福団”が銅鐸の流布や津々浦々の言葉の統一に関与している?と踏んではいるのですが、Dr.の云われるように各々の関連性がまったくみえないのです。中国では天津(てんしん)日本では津(つ)。そして、中国では秦(しん)を日本では秦(はた)と読みます。はた」は自分達の村落の近くに住む<端(はた)の人>なのでしょうか? このように仏教がはいるまで、(否、入ってもかな?)物質文明はべつとして、言語・精神文明は全く交えていません。かといって徐福団の関与を否定すると・・・《では、いったい誰がどのようにして銅鐸を流布したか??》・・・こまった!困った! (コメントを勝手に記事へUPさせていただいてます。もし差し障りがあれば・・・、)
<“徐福”薬石探索隊が、日本史に与えた影響とその役割 ?> (8/01)
童男童女3000人を引き連れた“徐福薬石探索隊”
(以下、Dr.に習って徐福団と呼ぶことに致しましょう)
その「童男童女」とは? そして、その航海・探索隊の構成は? (以下、リアルタイムで考えていきますので間違いを含め多いに迷走ありと思われます。Dr.を始め皆様のコメントが頂け、正しい方向へ討究できることを期待します。 どうぞの御参加を! 尚、このブログ記事は、将来(没後^^?)に、本になるやも知れませんので、そのコメントを当方が無償で使用できることを御了解のうえでの投稿をお願い致します。-深礼-)
童男童女とは何歳ぐらいの者をいうのか。
中国で云う童男童女とは何歳ぐらいの者をいうのでしょうか? 筆者はこれについてまったく知らない。青年以上の者なら「童男童女」とことわりはしない。(ちなみに、中国語の火車=自動車、汽車=列車、お手紙=トイレットペーパー、^^!)日本の場合にしても「男女7歳にして席を同じゅうするべからず」とあり、今の感覚でそれを云うのは差し控えねばならないが、考えようがないので仮に15歳以下としよう。下は長旅にも耐えなければならないので10歳以上とする。では3000人のすべてがその年齢の者達とするには無理がある。話半分として1500人にしよう。青年以上が1500人。その青年以上の振り分けが問題だ。
当然のことながら、前準備として、その選考選抜。教育等が行われる。第一には船を操る者。次には薬事に長けたる者。これは少数でよい。珍しいものを持ち寄らせ長たる者が検分すればよいからだ。第三番目には人が居住するやらしないやらも分からない未知なる恐ろしきところへ出向くわけであるから軍人はしっかりと確保しておきたい。次に考えたいことは帰れるやら帰れないかも知れない長の旅路。衣食住もそこそここなす者も連れていきたい。
古代中国の分業がいかに進んでいるかは知らないが、日本の場合には<服部、金辺、陶>のような専業を表す地名が残っている。(つい今し方の^^?江戸期や明治においてもそれぞれの技術は門外不出であった)それらの兼業ができる者が欲しい。婦人もいくばくかは連れて行きたい。これ等3000人もの人の構成を考えるには、相当の準備と熟慮を要するが、一番重きを割きたいのは軍人と船乗り。1500人の半分以上は是非とも欲しい。これは水兵として兼務できる。 何故、筆者がこのように細々とその割り振りを試みているかと云うと、その時の列島では(こん棒片手に?毛皮の腰巻き??-笑-)の縄文石器の時代。それに対して3000人を未知なる地へ送り出すことができる圧倒的優位の文明を持つこの人達が、その後の日本史へ与える影響は決して少なくないと考えるからです。
疑問 shigechanizumo | URL | 2010-08-02-Mon 13:48 [EDIT]
例えば、1500人の童男童女。とはいっても、童男と童女の割合が分かりません。
同数だったのか。
童男1に対して童女10だったのか。
あるいははたまた童男10に対して童女1だったのか。
極端な話、童男1に対して童女100だったのか。またその逆なのか。
探検の足手まといになるはずの童男童女を伴ったのですから、その割合に何か秘密があるようにも・・・。
ひょっとして shigechanizumo | URL | 2010-08-02-Mon 14:55 [EDIT]
童男10人、童女1490人だったとしましょう。一番単純に考えれば、何年か後に徐福の集団構成はどのように成るのでしょうか。種馬10頭、牝馬1490頭の壮絶な種付けやいかに・・・。
あれっ shigechanizumo | URL | 2010-08-02-Mon 15:50 [EDIT]
男1490人、女10人とすると、同じく1500人でも、夫婦としては10組がいるようなものです。
ところが、男10人、女1490人とすれば1490組の夫婦がいるようなものでは・・・???
ひとりの女が4人子供を生むとすれば、前者では、一世代で40人の増加であるのに対し、後者では5960人の増加となります。
童男童女を含む3000人か? 平 素人 | URL | 2010-08-02-Mon 23:17 [EDIT]
Dr.~ッ> ハハハッ たのしいコメントありがとうございます^^♪
童男童女3000人を引き連れて」とはいうけれど、Dr.>の云われるような可能性を考えると、現実的には<童男童女を含む3000人>に修正したほうが良いかも知れませんね。始皇帝は徐福の出立後9年後?(○○歳)で没しています。徐福に膨大なる物資と人を与えたということは、よほどその “不老不死の霊薬”が欲しかったのでしょうねえ。そして何故に<東方>を選んだかにも注目しなければなりません。東方には 「未知なる恐ろしき神」 がおわすところであり、だからこそ、そこに霊薬がありと考えたのではないでしょうか? 3000人の構成は全くわかりませんが、この二つを強く念頭において、もし自分が(皇帝・徐福)だったらどのような陣容にするかを考えるのも楽しいでしょうね(^-^)?
徐福団3000人のすべてが無事に列島に着岸できたとは思えない。 (8/04)
今から2200年余り前の航海力。最悪の場合を想定して、半分の1500人がそれぞれの地にたどり着いたとしよう(合掌)。1500人にしても大した数である。例え一船団の30人?が着岸しても当地の人達はビックリ仰天する^^。
徐福団は自給自足の生活は覚悟の上ではあるが、難儀のあとの航海疲れもあり。そこに住民がいれば水や食料をくれないかと乞う。勿論抵抗すれば争いとなるが、住民側にすれば、びっくりが先で「何も拒む理由はない」そこで融和らしき関係が出来上がる。徐福団の場合、薬石の探索が主目的であり、中世にみられる植民地化を目的とはしていない。植民地化が行われたのはその地に自分達の欲しいモノがあると分かってから後のことである。そして住地・住家の獲得提供へと進めば、お礼として病人の治癒へと発展する。 列島の人達から見れば「神様がお出でなすった」(^-^!)
<中国という国に思うこと> (8/5) (中学生諸君のために^^)
中国に、「白髪三千丈」をいう漢詩があります。「丈」は長さの単位で10尺(1尺は約30cm)。憂えていたら白髪が三千丈にもなった^^!。ちょっと?おおげさな形容のようですがあり得ない話ですよね。日本にも「嘘の三八・さんぱち」という言葉があり、3と8がつけば嘘っぽい数字のことをいいます。このようなことから「童男童女3000人」は、あてにならない数字だとする人もいます。しかしながら、万里の長城や、西安の兵馬俑(○○体)をみれば、中国の場合。まんざらその数字が嘘でもないような気がします。
そして、中国は“医食同源”国。特に医薬において驚異的な?話を聞かされます。何万元もするような茶葉、熊の肉球、コウモリの糞から得た未消化の蚊の目玉、或いは、深山にしか生えないというレイシ茸、絶壁に住む岩ツバメの巣。勿論このようなものが一般に食されるわけではなく富と権力を得た人が蒐集するのでしょう。しかしながら、その蒐集にはすざましい迄の意気込みを感じます。 対して、日本では 「初物を食べると三日長生きをする」(笑)(この“初物”の言葉に、素人探偵は歴史的な深い意味があると思っています。それは又の機会に、^^!)
さらに、中国に「童子撫髭」という絵があります。これは、長く伸びた老人のあごひげを童子が不思議そうに撫でて、それを老人は嬉しそうに楽しんでいる場面の絵柄です。これは、特に誰それの絵という分けではなく、中国の人達が好む(習作?)題材のようです。長寿を重んじ、老人を大切にする國。日本でもこの夏休み中に孫と爺婆が行動を楽しむ場面が見られたらいいですね。
深海魚 shigechanizumo | URL | 2010-08-06-Fri 15:27 [EDIT]
私は、徐福さんが発見しようと思ったのは、深海魚エキスだったのではないかと思います。
中国は大陸棚のおかげで近くに深海がありません。しかし、時たま変な深海魚が流れ着いていたことでしょう。
ではどこへ行けばそうした深海魚は採れるのか。東の深海、すなわち日本海溝、マリアナ海溝辺りの深海に目をつけたとか・・・。
深海サメの軟骨? 平 素人 | URL | 2010-08-06-Fri 22:25 [EDIT]
Dr.> こんばんわ 暑いですねぇ^^!。コメントありがとう御座います♪
“深海魚のエキス” それはそれは興味深いはなしですね。あとの記事に揚げさせて頂くことにしましょう。人類が追い求めたくすりで、<精力剤・かぜの薬・薄毛の薬>があります。 これを発見発明すれば大金持ちになれると云われてきました。精力剤はバイアグラ。風邪の薬はイタチごっこ。薄毛の薬は兆しうすし^^! でも、その”深海魚のエキス”が何に効くのかは分かりませんので、Dr.>が保証してくださいよ(笑)。
<徐福のとある一団の場合を仮想> (8/08)
徐福団のなかのとある一団について仮想をしてみよう。これは、それぞれの船団の構成員と着岸地の状況によって異なってくるのは当然であるが、目的が同一なのでおおむねは似たような経過をたどる。その一船団を30人としよう。これも仮想です。割り振りは軍人の男達が20人。残りの10人は婦人とこども達。場所は、佐渡島を経由して<新潟・富山>としよう。この北陸地方を選んだのは、ブログ<いずものこころ>の一ファンの方で<秦・はた>に関係する名字の方がおられたからです。
まず漂着の後になすことは、そこに住民のありや無しやを確かめる。「東方神起」の列島である。自分達に危害が加わるようであれば戦わねばならない。だが意外や意外「狩猟、焼畑を?営む石器時代の人達」であった。(今でも、東北?中部?の方だったかな。伝統の焼畑をまもり続けている村落をTVが紹介していました。)航海疲れもあり食物や水を乞う。勿論、抵抗すれば争いとなるが、女子供を有する軍団。出来れば戦いは避けたい。一方住民側にすれば、見たこともない異様な人達が大船でやって来た。びっくりが先で戦う気などおこりようがない。
ペリー提督が4隻の軍艦を連ね、その砲筒を江戸城に向けて開国をせまったというが、実際に戦えば多勢に無勢。砲弾がつきれば退却をせざるを得ない。そのようにならなかったのは、圧倒的巨船(○○○トン)を見せつけることによって、相手が戦意を失ったからだ。ちなみに、大陸や半島の銅剣が殺傷用なのに対して、日本側の銅器の多くは祭祀用として出土している。遺骨に殺傷の痕跡がでるのは弥生期以降と聞きます。
<コメント欄より転載しました。>
怖れ shigechanizumo | URL | 2010-08-09-Mon 09:09 [EDIT]
怖れとはひとつの想像力なのでしょうから、その想像力を働かせる範囲を越えたものを見たときには、人々は違った反応をするでしょうね。
むしろ好奇心が湧いてきたりするでしょうね。
そうなれば融和は簡単ですね。
対立 shigechanizumo | URL | 2010-08-09-Mon 09:13 [EDIT]
対立というのも同じようなことで、相手を推し量れるから対立関係が成り立つのでしょうね。もしそれが推し量れないほど圧倒的なさであったなら、ひれ伏すか、逃げ出すか、その反対なら慈愛を持つとか、庇護的な立場を採ることになるのでしょうね。
暑さで思考が支離滅裂! 平 素人 | URL | 2010-08-09-Mon 21:28 [EDIT]
Dr.> コメントありがとう御座います(^-^)♪
この暑さで、一度筆をおくと、思考の連なりがとぎれてしまい、さて何処まで進んでいたのだっけとか、なにを書こうとしたのだっけとかが思い出せず、考えが支離滅裂になってしまいます。 このコメントも記事本文へ転載させていただきますね^^!。
<Dr.コメント; 怖れと対立へのお返事> <8/09>
怖れについて; 徐福の一行が列島に対して抱いていた「怖れ」とは。今から4000年程前。東北地方の釜石あたりへ降臨した巨大隕石(?
Dr.>の言葉で、歴史という言葉に人格をもたせて 『歴史が記憶する』 があります。わたしは、この言葉をとても気に入っています。徐福が東方へ出かけたのが、その大事変から約1800年程後ですから、未だ歴史はそれを<怖れ>として覚えていたのでしょうか?(それとも想像かな)それが4010年経った今では史学・科学でさえ、欠片もない程にすっかり忘れてしまった。(笑)わずかに、その名残として<荒神さま、竜神さま、水神さま>が生きていらっしゃる。
<徐福一行と、現地住民との対立と融和> (8/10)
徐福のとある一団30人は( それを甲組と名付けます。)恐ろしき地と思いこんで着岸したが、思いのほかそこの住民から水やら食料の提供も受けた。(中学生諸君へ、ここでちよっと子供心が閃きました。何故、神様に“お水”をあげますの? 水は 「湯水のごとく」 と云うようにふんだんにある。神様がその水を貰ってもちっとも嬉しくない。水はいらないから御神酒のほうをくれ^^! って神様が云うかなぁ?(笑) このように今の私達が何気なくしている所業にも謎解きの鍵は潜んでいます。)ちょっと脇へそれましたが、仮設の住家も住民達の近くに決まった。列島の住民が山と平地の境目の小高い丘(焼畑)をテリトリーとしていた(??)のに対し、甲組の人達の食料は米作りに適した平地の湿地帯を選んだ?のも幸いした。 列島の住民はその人達を『秦=端・はたの人』と呼んだ。列島の米作りの始まりは6千年前(米に含まれるプラントオパールより岡山大学)ともいわれるが、その栽培技術は大きく異なっていたと思われる。このように住家地帯を棲み分けることと、その先進性を取り入れることでたいしたトラブルもなく徐々に融和へと進んでゆく。
その裏付けとして、北陸地方に秦の名字あり? Dr.>も、西出雲と東出雲の(或いは出雲市内でも??)風習が微妙に異なると云われていましたよね。筆者がそれと確信したのは<九州博多>で川の西と東では祭りごとが異なると聞いた時からです。 読者諸氏の地域でもこのような心当たりがあれば、史実として確定的!
対立について;
では、甲組~甲乙丙丁組のすべてが融和へと進んだか? Dr.>が「対立」の言葉を払拭しきれていないように、筆者も列島の一部地域では対立もあったのではと想像しています。それはもう少し記事を進めてからにしましょう。
<徐福達が列島で求めたモノは?>
一口に「不老不死の薬」といっても・・・皆さんもごいっしょに^^←乞コメント)
①
不老不死の薬 shigechanizumo | URL | 2010-08-11-Wed 09:24 [EDIT]
不老不死といっても、それは単なる願望から来たものだとは思われないのです。やはり、何らかの実例に近い事例があったのではないでしょうか。
150歳の老人が元気に酒を飲んで笑っているとか、180歳の老婆の肌が、若い娘のようにツヤツヤだったとか。
そうした事例を見て、これには何かの原因があるはずだと考え、不老不死の薬があるに違いないと思ったのではないでしょうか。
そうでないとしても、例えば夢・錯乱の中でそのような光景を見たために、不老不死を実在の現象として確信したとかということがあったのだと思います。
それにしても、今日身の回りを見渡しても、元気の出る薬とか疲労回復の薬といったものがありますので、一見それの延長のような形で不老不死の薬が存在すると思ったのでしょうか。
私は、そうではなくて全く別物として存在するのが不老不死の薬だったのではないかと思うのです。どういうことなのか。以下続きます。
感謝 shigechanizumo | URL | 2010-08-11-Wed 09:35 [EDIT]
私は今回いろいろと考えさせてもらえるこのblogに感謝しています。
というのも、長寿と不老不死とは同じなのかということについて考えさせられたのです。
そして、やはり長寿と不老不死とは全く別の概念なのではないかと思ったからです。長寿を願うものは人みな同じです。そしてその延長に安らかな満ち足りた死があるというものです。
しかし、不老不死とは老いず、死せずなのです。秦の始皇帝は長寿を願ったのでしょうか。あるいは、老いず、死せず、を願ったのでしょうか。それによって徐福が探しに行った薬も異なるように思うのです。
頭に暑気がぁ~ 平 素人 | URL | 2010-08-12-Thu 04:42 [EDIT]
(謝々) ↑、皆さん>URL Dr.ブログへヒットしますよ♪
Dr.> こんばんわ?から、いくら考えてもコメントがまとまらず朝になってしまいました^^!。
コメントありがとう御座います♪ 師がコメントを下さることにより素人の拙い記事でもより多くの人か面白く読んで頂けるものと感謝いたしております。私の「不老不死、長寿、(健康)、霊薬、妙薬、(薬石)」の言葉は、師のブログで得たものであり、始皇帝のことを全く知らず、それを軽薄に使ってしまいました。私は師のブログをみてショックを受けたことがあります。「國譲り」の件で「現世(現世界?)は大和に譲るが、霊界(あの世)は出雲がとる」。こども心が思うに「あの世を貰ってもねえ・・・笑」 古代人には”あの世”^への概念がかくも強くあったのかと・・・! (それともお布施・寄進のシステムの保持・・・?) 「不老不死」とは、現状に安息を感じているものであり、あの世の安息ではない?? これは中国人と日本人の考え方の違いか・・??
・・・前頭葉がぁ~~~コメントにならずごめんなさい。・・・・
ヒント shigechanizumo | URL | 2010-08-12-Thu 09:22 [EDIT]
いいことをおっしゃいますね~。秦の始皇帝が考えた不老不死とは、「死して後生きる」ということだったのかもしれません。「死して後生きる」ということの証明は、兵馬俑(へいばよう)に表現されているのではないでしょうか。
秦の始皇帝は死んでいます。しかし、その死とは現世での死だったのです。
兵馬俑は地下にありました。明らかに黄泉の国です。秦の始皇帝が望んだ不老不死とは、現世での死と、あの世での死とをにらんだものです。現世では死しても、あの世ではなお生き続ける。これこそ不老不死であると・・・。
そして、秦の始皇帝が求めた不老不死の薬とは、あの世で生きながらえることができる薬だったのではないでしょうか。
徐福は、秦の始皇帝にその薬を届けたのではないでしょうか。秦の始皇帝は、その薬を飲んで現世での死に臨んだのです。
そして現世での死後にその薬が効き始め、あの世での不老不死を得たのです。
そのことを予期していたからこそ、地下すなわちあの世に兵馬俑を作らせておいたのです。
結語。徐福は薬を得て、再び秦に戻った。不老不死の薬を得た秦の始皇帝は、その薬を飲んであの世に旅立った。秦の始皇帝はあの世で行き続けている。その事実は知られてはならない。徐福は殺されたのですが、そのことを秘するために秦には戻らなかったとされたのです。
深読みに拍手! 平 素人 | URL | 2010-08-13-Fri 06:38 [EDIT]
Dr.> (ヒント)コメントありがとう御座います。(^-^)♪
『「死して後生きる」ということの証明は、兵馬俑(へいばよう)に表現されているのではないでしょうか。』 ・・・深読みですねえ・・・。そこまでは考えが及びませんでした。兵馬俑が何故造られたかは謎の一つですよね。それはじゅうぶん過ぎるほどあり得る話です。徐福については中国においても重きをおいて取り上げられて居ない?ようですから、Dr.>が、その<始皇帝=徐福=兵馬俑>の関係を、明らかにされれば面白いことになりそうですね♪(^-^)♪
URLの件、ありがとう御座いました。 そのURLを徐福の御記事に連結して下さると、これに興味を持たれた他の人達もそちらへ・・^^!、確か、わたしもコメントをおいてありますよね^^。
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仮想メモリが少なくなり文字の変換スピードがおそくなりました。今しばらくのお待ちを・・・^^!
コメント欄はOKです^^
つづきます。(^-^)♪
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<徐福達が日本列島で求めた薬石は?>
ご訪問ありがとう御座います。
ひきつづきの駄文にお付きあいをお願い致します。
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【 前記事の要旨 】
列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?
徐福そのⅠ:秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、徐福に童男童女3000人を与え、東方彼方の日本列島から“不老長寿”の薬石を持って帰れと命じた(又は、除福が願い出た)。
<徐福達が日本列島で求めた薬石は?>
中国の国土は広い! 秦の始皇帝の富と権力をもってすれば、手に入らぬもの等無いように思われるが。その何んでも有りいの中国が、「何故?」東方彼方の日本列島に薬石を求めたのか? それは列島に(東方神起)恐ろしき神が棲むと思われたからだ。「薬石のためなら、恐ろしき神、何するものぞ!?」それが中国人の心意気だ^^。
その中国に無くて、日本列島にしか無いと思われるモノは?(素人探偵の独断と偏見から^^!)
その①、 温泉の素 (8/16)
もし間違っていたら御免なさい。中国に活火山は(あっても極少?)あるのだろうか? 中国に無尽蔵にある地下の石炭に野火が付いたカカ山、火炎山は(孫悟空の・笑)あったと想像できるが・・。日本の当時に(今から○○年前)、火を噴いていたかどうかは知らないが、南から桜島、阿蘇山、三瓶山(出雲)?、大山?、焼山、鳥海山、寒風山(男鹿半島)、岩木山、等々がある。徐福達は「やはり列島恐るべし!火を噴く山がある!」と驚いたに違いない。それぞれの温泉の効能は調べるまでもないが、猿でも知っている(笑)。しかし、その湯を(皇帝に)送る分けにはいかない。すでに製塩法は知っている。湯を煮詰めて温泉の素をつくる。日本には、今でこそ温泉水や鉱泉を飲むことは少ないが、その昔には薬として飲んでいたと思われる。それが徐福の後や先かは知りませんが、今でも貴方のお参りしている社寺の脇にはその鉱泉が湧き出ているかも知れませんね。
その②、 オオサンショウウオ (8/17)
以前の記事でとりあげました。富と権力を得た者が“世継ぎ”を願うのが世の常。これは世界最大の両棲類で日本固有種。大きさは50~70cmで、1mになるものもいる。‘イモリの黒焼き’も、この大きさには叶わない。渓流にしか棲まずその生命力から“ハンザキ”とも呼ばれた。これを見せれば皇帝はきっと喜ぶ。と思っていましたが、今回ウエブで調べると中国の東部(貴州)にも「中国オオサンショウウオ」と呼ばれているものがいた。(汗~)中国って國はなんでもありだね。しかし、絶滅危惧種であり稀少高価であることは間違いない。中国で人工飼育に成功したとか。表皮はゼラチン状、身はカエルに似て淡泊。スープでも食すとあり。日本でも人工飼育に成功したと聞いたことがありますよ。
その③、 カブトガニ
これも絶滅危惧種だが、その昔には精力剤にもなったと云う。今では岡山県の笠岡市周辺にしか棲まず天然記念物。だが、このカブトガニは、中国の南部地方にもいるからねえ^^。
その他、皆様からの有力情報をお待ちしています(笑)。
④、 Dr.>情報の「深海魚のエキス」。 ・・・これに入る前に・・・、
<朝鮮半島に到達した巨大津波> (8/18)
これは前々の記事で(後で調べます)としておきました。調べました^^。
BC.2001年12月25日の未明、日本の東北地方に端を発した巨大津波は、現地時間(時差なし)の朝8時過ぎに彼の地に上陸した。それを朝鮮半島の祖先は、次のような言葉(地名)で、遺し(記録)ている。
北から<羅津・ラジン>
網羅の網は魚をとる網。羅は鳥をとる羅(あみ)。それに津をつけて<羅津>。津波が鳥を捕まえたのか?? 以前、カテゴリー(出雲地方)で西出雲には鳥のつく地名が多いのを不思議に思ったことがあります。津波は二波三波と襲ってくる。第一波で打ち上げた魚をついばんでいる鳥の群れが、次の波で被災したかと? しましたが真偽のほどは解らない。もしそれがホントなら、ぐっすい(方言^^!)鳥がいたもんだ(笑)。
<清津・チョンジン> 北緯42°辺り (8/19)
これもカテゴリー(出雲地方)で謎解きしました。通常、風で発生する波が水位の上下動であるのに対して、津波で発生する波は、進行方向へ押し寄される波となる。片V字沿岸津波(前述・筆者提唱)では沿岸の土石を削り取りながら進むがV字湾奥では双方の波が押し寄せるためその場にあった水の抵抗を受け水位は高くなるが土石を含まないので清水域となる。それを祖先は<清津>と云っている。だが、最大の謎は清津がそのV字湾奥ではなくて片V字の沿岸にあることだ。これは弓状列島の地殻地震(地震の力は陸地の方が海より速く伝わる)によって発生した津波の集合場所が?北側へ押し寄せられた?せいかも知れない。それとも・・・??
<魚大津・オデジン> (8/20)
これは又、直接的でたいへん分かりやすい地名だ。魚が大量に打ち上げた。しかも大きな魚だ。この12月のこの時期どんな魚が打ち上げられたのであろうか? これは全く当てにならない素人の数字であるが、その津波の影響を受けた魚が水深20mより上を泳いでいる魚達としよう。これだと外洋を遊泳しているマグロもひっかかる。日本の縄文遺跡でマグロの骨の出土があったというが。水深20mより深いところの外洋を回遊しているマグロを丸太くり貫き船の縄文の人が漁獲出来るとは思えない。マグロは泳ぎを止めることが出来ない魚である。速く泳ぐときは時速150kmを超えるという。いかに半島の船とはいえそのスピードには追いつけない。縄文時代の人達の漁法では無理がある魚である。日本のどこの遺跡からの出土したのか知らないが、その時の津波によってその大魚が打ち上げられたのではなかろうか? 日本海にもマグロは回遊する。それ等のなかに小魚を追うマグロが混ざっていても不思議ではない。
次は、Dr.>の云われた深海魚であるが、私素人の考えですが、この時の津波は表層にちかく大陸棚200mまでの影響は及ばなかったのでは無いかと思います。しかしながら、それを完全には否定できない。地殻を大きく揺する巨大地震は時に磁気異常を伴う。これによって深海に棲む魚達が浮き上がらないでもない。大王イカ、竜宮の使い、サメ、そして鯨までもがその犠牲になったとしても不思議ではない。素人の論法が正しければ朝鮮半島のご先祖さまは、必ずそれ等を言い伝えとか風習とかで遺している。<魚大津>とは、わたし素人探偵が言っている言葉ではない。その言葉を発したご先祖にその理由(ワケ)を聞くのが一番てっとり早い。何故<魚大津>と、その地名を付けたのですかって?(笑)。
<無水端・ムスダン> 北緯41°辺り (8/21)
先のインドネシア・スマトラ島沖地震(2004~2010年)の時、大津波が上陸する前に “引き潮現象”があり、残された魚を取りにいった人が犠牲になったことがある。<無水・ムス>とは、その引き潮(筆者造語=行き潮)のことを云っているのではないだろうか。<端・ダン>は“岬”のことか?? もし、そこが岬であっても筆者の思いが正しければ、その一方の海岸は遠浅になっていなければならない。筆者はその沿岸地形を知りたいと思う。
<永興湾・ヨンフン> 巨大V字湾奥 (8/22)
永興湾は巨大なV字湾奥をしている。日本の東北地方にコンパスの針をおくとちょうど“受けV字”の位置にあり、当然、筆者は<永興>に巨大津波が襲っているものと見当をつけていた。だが祖先は、そこではなくて<清津>が津波の集合点だと云っている? ・・・、困った?。「永興」とは・・・? この謎解きの鍵は「興る」にあるような気がする。 日本では似たような地名で、愛知県の<興津・こうづ>。静岡県に<興津・おきつ>があり、そこが陸生津波( 筆者の造語で: 海洋からの津波ではなく、先に届いた地震によって発生する津波) の出立地だといっていた。 <永興>の地名の意が分からない・・。 静岡県の<清水>も気になって来だした・・・、ちょっと無理があるが朝鮮半島の祖先は、ここから津波が発生し、<永>は永続の“永”で、『この地より永続して(続けて)津波が興きて(発生して)いった』と云っているのではないだろうか? なにはともあれ素人の思いよりご先祖さまの地名・伝言のほうが優先するからね^^!)
<注文津・チュムンジン> 北緯38°線の韓国側辺り (8/23)
さらに、その南にある韓国の<チュムンジン>では、『その津波を<注文・ちゅうもん?>します』と云っている!^^? 日本人がお天道様に慈雨をお願いするのと同じ感覚だろうか? 見たこともないような大魚を打ち上げて下さる津波なら、『その津波、注文します』と云ってみたいよね(笑)。筆者の考えが正しければ<注文津>には、その願いが叶う信仰の対象になるような(ありがたい)社寺が必ず遺されている。 南北分断の時に韓国側が 「聖地“注文津”だけは北にやれない!」と云ったかどうかは、筆者の“想像”であるから定かではない^^!。
<この項の結び> (8/24)
ということは韓国にとっての東方神起の神は恐ろしくも有りがたい神様となる。中学生のころに何故、朝鮮の国名なのかと不思議に思ったことがある。 今、やっとその謎がとけた。 その日の『朝方に』 大挙して 『生鮮魚が打ち上げられた』のだ。 だから 『朝鮮國』と名付けたのである。もし、これを確証のない素人の戯れ言だと云われる貴方(専門家)がいたら、わたしは言いたい 『祖先の付けた地名という伝言に反論する余地は微塵もない!』 と。
中国では津のことをシンと発音する。朝鮮ではジンと似たような発音するのに、日本ではツと発音し、そこにはDr.>が指摘されたように日本海で言語のルートは遮断され、そこには何んの関連性も見出せない。当初にあげた謎Ⅱ「列島の津・ツと云う言葉の伝播と統一は、どのようにしてなされたのか?」その謎は深まるばかりである。
謎Ⅰの(銅鐸の伝播)にしろ、謎Ⅱの(津という言葉の統一)にしろ、誰かが何とかしない限り、その伝播と統一はあり得ない。徐福団がその媒体をしたと踏んではいるのだが、その謎解きの糸口すら見えてこない。 トホホ・・・
shigechanizumo | URL | 2010-08-24-Tue 09:25 [EDIT]
朝はどこからやって来るのでしょう。もちろん東方です。鮮はあざやかです。鮮やかな朝が東方からやってくる。その東方とはどこでしょう。出雲です。出雲から鮮やかな朝がやってくる。その朝は、海上から昇る朝日が象徴します。海上とはどこでしょう。出雲の海です。出雲から昇る鮮やかな朝日を伴った朝。そこで朝鮮と出雲は結ばれているのです。慶州の迎日湾はまさしくそのことを地名としたのです。
ところで、朝鮮には「熊津」があります。ぜひこの地名の謎解きを・・・。
史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-08-24-Tue 21:05 [EDIT]
Dr.> こんばんわ コメントありがとう御座います♪
連日猛暑日が続いております。・・熱い論議なら大歓迎^^。「微塵だにとか世界史に残るとか」ちょっと?(笑)過激な言葉をつかってみました。コメントを記事の本文へ移設させて頂きました^^!
Dr.>の鮮やかな論法に感化されました。100%?翻意致しましょう^^!。確かに朝鮮半島の最東端に<慶州><迎日湾>の地名がありました。この二つの地名は、その位置を考えあわせると旭日を尊ぶ考えからの名付けがなされています。これが≪朝鮮≫の国名に影響していることは多いに考えられます。只、それを下支えするものとしての津波の打ち上げ(恩恵)を否定するわけにはいきません。特に、朝鮮半島の東海岸には<津>に関係する地名が多く<魚大津>の外に、魚の打ち上げを表す<方魚津・パンオジン>。津波の上陸を表す?<洪原・ホンウォン>。上陸した津波の引き潮を表す<退潮・テジョ>等がありました。詳細地図で小字名まで調べるともっとたくさん出てくると思います。日本にもそれに似たような地名があります。朝の襲来を表す、岡山県に<朝寝鼻遺跡>、兵庫県<朝来町>。海産物が打ち上げた、三重県<嬉野>他の地で<福原>等。津波の戻り水を表す<垂水・篠津・下津>このように拾い上げるとキリがありません。 いずれにしても<日・中・韓>のさらなる探求を望むところです。
<熊津>見あたりませんでした^^!。
似たような地名に<元山・ウォンサン>の西60kmほどの山岳地に<熊たむ・ウンダム>たむの字は譚のごんべんをさんずいに変えたもの>がありました。<たむ>は、日本読みで(タン・ふち)で、意味は、水を深くたたえた所でした。<熊津>がどこにあるのかは分かりませんが、ご指摘のように津波は到底及ばないような山の中に<津>のつく地名が、日本にもあります。岡山県<津山市>。岐阜県に<中津川市>。これ等を素人探偵は、何事も例外はつきもの。<津山>は山波。<中津川>は、三河地方の中心の川で、人々の生活圏が拡大するにしたがって、雨乞い信仰の対象が上流の<源流部>へ移っていったかと?推理しましたが、ちょっと弱い論法でしょうか(^^?)
コメント欄より移設しました。難しい字の一部が変換不能のようです^^!。
shigechanizumo | URL | 2010-08-26-Thu 14:55 [EDIT]
「熊津(ゆうしん、웅진、ウンジン)は、古代朝鮮の百済の古都であり、万葉仮名では久麻那利(くまなり、こむなり)、百済語では古莫那羅(コムナル、곰나 루)と表記・呼称される。熊川(錦江)の畔の都市であり、現在の忠清南道公州市にあたる。」とあります。
<熊津> 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-08-30-Mon 05:32 [EDIT]
Dr.> おはようございます。26~29日までお休みしました。コメントありがとう御座います♪
又々、むつかしい問題を戴きました(汗!)。人と獣との付き合いのなかで子供心が不思議に思うことがあります。牛神様、絵馬、猪と武神、竜虎、十二支、等々の絵(掛け軸)はよく見かけるのですが、狼と熊の絵は、あまり見たことがありません。地名が地名(伝言)として、いつ頃に定着したかは確定出来ませんが、石器・縄文期においても、列島に熊や狼は人々の命を脅かす存在としてあったと思われます。熊で思い出されるのがアイヌ(ほかを知りませんので差別呼称だったらお許しを)の人達の熊信仰があります。列島の「熊のつく地名」は熊山とか熊野古道しか知りません。それが朝鮮半島にもあることに興味をそそられます。 熊と津は全く異質なもの! 半島の<熊津>・・渡来・・<出雲>・・<國譲り>・・<天孫続→=大和??>・・思いは色々に・・・。・・<熊津>の場所捜しは図書館へ行かねばならぬので・・・(^^!)
ところで、Dr.> 話は全く変わりますが。いつぞや「出雲大社の御神体は隕石か?」の話がでましたよね。私は、その御神体の形と大きさは“猪の形”をしているのではないかと思っています。確か、乱暴者のスサノウの命が赤むげの猪(=空を赤く飛んだ隕石)を投げ入れた話から・・。Dr.>は、「出雲のシゲちゃん」と呼ばれるほどのお方。決して衆目にさらしてはならぬ御神体ですが、Dr.>なら宮司さんから、その形を聞けるのでは^^?
<熊津>についてのコメントは保留にさせて下さい。このようにフッと>思い付くことがあるものですから^^!
猪 shigechanizumo | URL | 2010-08-31-Tue 09:33 [EDIT]
「私は、その御神体の形と大きさは“猪の形”をしているのではないかと思っています。」・・・オッ、鋭いですね。オオクニヌシは二度死んでいます。その一度目が、八十神が、猪が落ちてくるから捕まえろと言って、真っ赤に焼いた大石を転がり落として、それを猪と思ったオオクニヌシが抱きかかえたために死んでしまいます。大やけどをしたオオクニヌシに、ウムカイヒメとキサカイヒメがハマグリの汁と赤貝の粉を混ぜた薬を塗って蘇生させるという話があります。神話とはいえ、どこからこのような話が発想できるのか不思議です。出雲大社の御神体が猪ではないかとは、この話と関係があるのかもしれません。物としての御神体はオオクニヌシの命を奪った猪の形をした大石、霊としての御神体はオオクニヌシそのものではないでしょうか。そして霊薬は、神秘的な深海の何とか貝のエキスだったりして・・・。
Dr.の<出雲大社御神体・隕石説>が現実味を! (9/01)
史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-01-Wed 00:28 [EDIT]
Dr.> こんばんわ コメントありがとう御座います♪
連日猛暑日が続いております。残暑お見舞い申し上げます。
「ハマグリの汁と赤貝の粉を混ぜた薬」は、意味深な話しですね^^!。 当時は一夫多妻制なのですね? きっと2女神の献身的な看病のおかげでスサノウは蘇生したのでしょうね? 空を飛んだ赤色といい、猪形石といい、重量石といい、Dr.>の云われた「出雲大社の御神体 =隕石・放射能?説」が、出雲に落下した<隕石>として、ますます現実味を帯びてきました。
ご存じのように、出雲で屋根を突き破って落下した隕石の小片でも相当な衝撃! その隕石(御神体)が空気抵抗を受けて推定で200kg以上も焼け残るには、大気圏突入前の大きさは如何ほどだったのでしょうか? 専門家の考えを聞かねばなりませんが、優に数倍は?超えるでしょうね? 祖先が聞いたであろうその衝撃音は想像するにも余りがあります。又、それが小惑星なら心材に近いほど重い傾向があるとにらんでいます。60年?に一度とかいう出雲大社の御神体移設は、もうすんだのでしょうか? これも想像ですが、御神体(隕石)の、もとは帚星の軌道をとっていたのではないでしょうか? それがある時、地球の引力に捕まって(笑)。 ハレー彗星の周期、伊勢神宮の遷宮の周期、そのおおもとの考えは<60年周期の?彗星=出雲小惑星 → 隕石=出雲大社御神体>であるような気がしてなりません。
この件は、もとはと云えば、Dr.>が言い出されたこと。 さらなる追求(ガイガーカウンター片手に、その一欠片を!)が出来たらいいですね^^!( ばちあたり~ 汗~!)
<皆さんへ> 出雲大社御神体=隕石説の、Dr.>とのやりとりは、当ブログのカテゴリー「出雲地方」でしています。興味のあるお方は、そちらへどうぞ! その<落下池?>にまで言及してますから^^。<2姫神=隕石の落下痕池>としたら、隕石は二つに分裂か? だとしたら、“円形状の深い池”は二カ所でなければならない。 (その一カ所は、すでにDr.>が^^)
さらに、“ハマグリの汁”は、落下痕池に溜まった水で、“赤貝の粉”は、その時の粉塵と推むことが出来ます。そうであるならば、その池の水は聖水として扱われ、その池の底には溶融跡があり、周囲には飛び散った酸化珪素の粉塵(微視的にも)が今でも残って?いなければなりません。そう言えば、どこやらの社寺で、何やらの男神(=隕石)を、何やらの女神(=落下痕池)が癒したという話しもありましたね。段々面白くなって来たぞ~^^。でも、これはDr.>が言い出されたこと。その責任はDr.>がとってね。わたしは、<徐福>のほうが忙しいので(笑)。
⑤ドクターからのヒント『あの世で生きながらえる薬』 (8/31)
前記事のコメント欄より、その一部を引用。
前略・・、そして、秦の始皇帝が求めた不老不死の薬とは、あの世で生きながらえることができる薬だったのではないでしょうか。 徐福は、秦の始皇帝にその薬を届けたのではないでしょうか。秦の始皇帝は、その薬を飲んで現世での死に臨んだのです。・・・後略
西安の兵馬俑が発掘された時。その桁外れの規模(等身大の焼き物○○体)から、世界に大きな衝撃が走りました。その始皇帝の死生観に徐福が大きく関わっていたと考えるのは興味深いことです。『生きて死する!、死して生きる!』即身仏の考えもその一つでしょうか。だけど、始皇帝や当時の死生観にまで踏み込むと大変なことになりそうなので、ここでは現実的な薬石のみに絞って取り上げることに致しましょう。
先ず思いつくのがケシ坊主からとれる“阿片”。アヘンは、英国が輸出入のバランスをとるために中国にその輸入をせまり、アヘン戦争にまで発展したしろもの。それは強い中毒性があり廃人までにおいこまれ生きながら地獄を味わうことになる。例えそのような麻薬の類を手にいれても、それは一時の快楽であり、皇帝や側近がその使用をゆるさない。そして皇帝には常に暗殺の危険があり “毒味役” が付いていたと思われる。つぎに考えられるのが“トリカブト”。これを長期にとりこめば確実に死にいたるが「不老不死」の考えからはほど遠い。(笑) くすりというものは、その取り扱いを誤れば「毒にも薬にもなる」。不老不死・不老長寿の薬石探しはなかなか難しい。そして、トリカブトは中国が原産地でした^^!)
リアリティ shigechanizumo | URL | 2010-08-31-Tue 09:43 [EDIT]
「等身大の焼き物○○体」・・・これまた鋭いですね。兵馬俑から発掘された焼き物の兵や馬などと、日本の古墳にある埴輪との違いは何か。そのリアリティさだと思います。埴輪にリアリティは感じられません。オモチャのようです。一方、兵馬俑の兵や馬は、まさしく生きている人間や馬を彷彿させます。そこから、古墳の埋葬者には生の復活ということは感じられませんが、兵馬俑からは秦の始皇帝の生の復活という執念のようなものが感じられるのです。
Dr.> 西安の兵馬俑は「どっち向き?」に、なっているかご存じありませんか・? ウエブで調べても分かりませんでした。 東方? 西方? それとも・・? これが分かると始皇帝の求めた楽土はどこにが・・??
実験 shigechanizumo | URL | 2010-09-03-Fri 17:26 [EDIT]
「暗殺の危険があり “毒味役” が付いていた」とありました。逆はなかったのでしょうか。不老不死の妙薬と称するものを持ってきた者がいるとします。誰が最初に飲むのでしょうか。死んでしまいました。その妙薬が、そ、それを飲むことによって死んでしまった人にとって、不老不死の薬でないことは証明できたといえるでしょう。また次のそのような者が現れました。いよいよ怖くて手が出せません。しかし持ってきた者は、これこそが不老不死の薬だと言い張ります。誰が飲むのでしょうか。誰かが飲みました。なんともありませんでしたが、本当にそれを飲むことによって不老不死の身体になったのか、誰も証明できません。老衰で死ぬのが真近な老人に不老不死の薬を飲ませました。元気になりました。しかし、それで不老不死の身体になったと証明できるのでしょうか。この難問に挑戦する人はいませんか。問題:「不老不死の妙薬だと証明することは可能か」!
ある自信 shigechanizumo | URL | 2010-09-03-Fri 17:40 [EDIT]
徐福伝説を根底から覆すある前提があります。
徐福は中国を出発するにあたって、ある物が不老不死の妙薬なるものであることを証明できるということを知っていて出発したのか、あるいは、そのような証明はできないということを知っていて出発したのか。
問題1.もし、持ち帰ったある物が不老不死の妙薬であると証明できる手立てがあるという前提で出発したのであれば、・・・・。
問題2.もし、持ち帰った物が不老不死の妙薬であることなど証明できないという前提で出発したのであれば・・・。
「・・・」にどのような文章が入ることになるのか答えなさい。
<恐ろしい考え?> 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-04-Sat 06:23 [EDIT]
Dr.> おはようございます。 コメントありがとう御座います♪
Dr.>コメントによって記事が面白くなると、じいさま>は云っておられました・・・^^。
問題を二つ戴きました。それについては“おそろしいこと”を考え付いていますので、しばらくのお待ちを^^!)
私は、「不老不死」の言葉は願望であり、「不老長寿」は健康で長生きぐらいにとらえています。私は、始皇帝について、かれが何を望んでいたのか? 権力の座の維持か、世継ぎが欲しいのか、自分の血筋(こども)の拡大か、はた又、彼独自の死生観にによるものか。 そして、その時の健康(持病)状態は?等について全く知りません。 そして何故それ等の薬石を求めたのが東方(兵馬俑の向きは東方ではないのか!、日本は西方浄土なのに!)なのか。 さらに、皇帝が除福に命じたのか。除福が願い出たのか。あるいは双方の合意か。これ等の条件が変わることによって微妙に除福団の編成と行動は異なってくるのではないかとみています。コメントのお返事になっていないかと思いますが記事を進めながら考えます。・・・^^!
問題1:問題2 shigechanizumo | URL | 2010-09-04-Sat 15:27 [EDIT]
問題1.もし、持ち帰ったある物が不老不死の妙薬であると証明できる手立てがあるという前提で出発したのであれば、・・・・徐福は持ち帰った物が不老不死の妙薬でないと証明されてしまえば死罪になるので、本当にそのようなものを見つけるまで中国に戻れない。本当にそのようなものを見つけたのであれば、それを持ち帰れば大変な地位を与えられるので当然中国へ帰ったはずではないでしょうか。帰らなかったのは、そのような物が見つからなかったからです。
問題2.もし、持ち帰った物が不老不死の妙薬であることなど証明できないという前提で出発したのであれば・・・どんなものを持ち帰ったとしても不老不死の妙薬であるか否かは証明できないのだから、褒賞ももらえずくたびれ損になる可能性があります。そこで、往路復路のための資材や金品を勝手に使ってしまい、中国には帰らないと決めて出発したのではないでしょうか。
その他様々な解答があると思いますので、期待しています。
それにしても、もし当時の中国で「これは不老不死の妙薬である」との証明が出来る手立てがなかったとしたら、なぜ秦の始皇帝はそのようなものを見つけてくるといった徐福の言葉を信じたのでしょうか。徐福は、「こういった条件を満たす薬であるならばそれは不老不死の妙薬である」といったような証明方法を呈示して、秦 の始皇帝の納得を得たのではないでしょうか。
何故、童男童女か? 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-05-Sun 06:57 [EDIT]
Dr.> おはようございます。 いつもコメントありがとう御座います♪
これも、直接のお答えではなく、考えもまとまっている分けではありませんが、そのお答えの一つは「何故童男童女か?」にあるような気がしています。 何故「東方彼方に?」については、古代中国にとって、東方は神秘なるところ。「神秘なる所には神秘なる薬が・・・?」と考えたのではないでしょうか。 (これは、私の偏見かと思いますが。古代中国の人々は “人を拒むような危険な場所や深山にこそ、その霊薬が秘そんであり!” との考えが強い?と思っています^^) 古代中国の人々が東方を如何に考えていたかについては、Dr.ブログ>へかえって調べなおさなければなりません(^^!)
<列島にあって中国にないモノ> (9/06)
ひきつづき薬石についての情報をお待ちしています。何故なら、それが列島のどの地方にあるか(徐福が立ち寄った場所か?)によって、それが日本史の解明へと繋がるからです。
護衛隊 shigechanizumo | URL | 2010-09-06-Mon 15:09 [EDIT]
私は、薬石のある場所にはその薬石を護る護衛隊のような動物や障害物があったのではないかと思っています。例えば前にも投稿しましたが、池の底にその薬石があるとすれば、その池には毒蛇がウヨウヨといて水底まで行くことができないとか、洞穴の中にあるとすれば、その洞穴の中には火山性の毒ガスが充満しているとか、あるいははたまた海底にあるとすれば、その薬石に手を伸ばそうものなら巨大なウツボが手を噛みちぎるとかといった具合です。
そうした薬石の効能以前に、そうした薬石に近づくことが出来ないといったファクターも、切歯扼腕、徐福を悩ませたのではないでしょうか。
とすれば、薬石以前に、そうした護衛隊や守護神のような動物がいるところ、あるいは不思議な現象ゆえにその場所に近づけないといったところに薬石があると目論んでみてはどうでしょうか。
ちなみに私は、そこを素通りすると必ず道に迷って方角を失うという場所を出雲で見つけました。しばらく内緒です。
物か術か shigechanizumo | URL | 2010-09-06-Mon 16:14 [EDIT]
不老不死の妙薬といっても三つの分類が出来ると思います。
ひとつは、その物自体が珍品で、しかも不老不死という効能を自ずと内包しているというものです。
もうひとつは、ありふれた物なのだけれど、その物に対してある術を仕掛ける、あるいはある加工を施すと、不老不死の薬石となるというものです。
さらにもうひとつは、珍品であるけれどもそれだけでは十分な効能を持たず、その珍品に対してしてある術を仕掛ける、あるいはある加工を施すと、不老不死の薬石となるというものです。
徐福が東方に求めたものは、術ではなく物であったことは間違いありません。ありふれた物にある術を施すことなら中国で出来ることだからです。
では、それ自体が効能を持つ珍品を探しにいったのでしょうか、あるいは、珍品ではあるがさらにある術や加工を施すことによって効能を発揮するというものだったのでしょうか。
先に指摘したように、術や加工をを施すということは中国で出来ることですから、徐福としては東方へ赴いて、中国にない珍品ならそうした物を何から何まで持って帰ればよいわけです。
従って、徐福が探しにいったのはそれ自体で不老不死の効能のある薬石だったと思うのです。
<現代の科学で説明できないこと> 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-06-Mon 16:45 [EDIT]
Dr.> コメントありがとう御座います♪
Dr.>も、似たようなお考えをお持ちなのですね。科学者からみれば一笑にふされるようなことでも、現代の科学では説明しきれない不思議なことってありますよね。霊薬を守る「護衛隊」ですかぁ^^)。 これは明らかに私の偏見ですが、中国の人って「その危険を好んで?“薬食”を求める」傾向があるように思います。深山にしか生えないという茸や、絶壁の岩ツバメの巣・くまの肉球・しかり、危険をおかしてまで手に入れた “薬食”ほど高価に売れる。なにもそこまでしなくってもねえ、と私は思うのですが?(^^!)
「そこを素通りすると必ず道に迷って方角を失う」 そんな場所があるのですか。出雲恐るべし! ですねえ・・・、(そう云われれば、御ブログで、そこを素通りすると別の場所へ案内する神様がぁ^^)
史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-06-Mon 18:03 [EDIT]
Dr.> かえってみたら、次のコメントが入ってましたぁ~(^^)
ふうむぅ~~、“不老長寿の薬石” 色々に深読みできるのですねえ。 私のほうは、もう一度、御ブログの 『徐福の記事』へかえって勉強しなおします^^。 さて、・・その記事を捜しだすのが大変だぁ~~~
つづきます^^♪
拍手をありがとう御座います♪ お一人はAさん? もうお一人は I さん? 三人目はどなたかな^^? 出来れば、(公開じゃあなくてもいいですから)「応援します」のコメントも頂ければ励みになります! このように書いたら今は亡き<じいさま>が、『じゃあ、応援します』
「えっ?」じいさまの場合は「その一言」だけじゃあ済まないでしょ! と、やりとりしたのが想い出されます。私にはあの世があるのやら無いのやらは分かりませんが、どうぞ<この行方>を見定めてくださいね・・・。
残念ですがこの記事の“仮想メモリ”がなくなってしまいました。
ご訪問ありがとう御座います。
ひきつづきの駄文にお付きあいをお願い致します。
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【 前記事の要旨 】
列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?
徐福そのⅠ:秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、徐福に童男童女3000人を与え、東方彼方の日本列島から“不老長寿”の薬石を持って帰れと命じた(又は、除福が願い出た)。
<徐福達が日本列島で求めた薬石は?>
中国の国土は広い! 秦の始皇帝の富と権力をもってすれば、手に入らぬもの等無いように思われるが。その何んでも有りいの中国が、「何故?」東方彼方の日本列島に薬石を求めたのか? それは列島に(東方神起)恐ろしき神が棲むと思われたからだ。「薬石のためなら、恐ろしき神、何するものぞ!?」それが中国人の心意気だ^^。
その中国に無くて、日本列島にしか無いと思われるモノは?(素人探偵の独断と偏見から^^!)
その①、 温泉の素 (8/16)
もし間違っていたら御免なさい。中国に活火山は(あっても極少?)あるのだろうか? 中国に無尽蔵にある地下の石炭に野火が付いたカカ山、火炎山は(孫悟空の・笑)あったと想像できるが・・。日本の当時に(今から○○年前)、火を噴いていたかどうかは知らないが、南から桜島、阿蘇山、三瓶山(出雲)?、大山?、焼山、鳥海山、寒風山(男鹿半島)、岩木山、等々がある。徐福達は「やはり列島恐るべし!火を噴く山がある!」と驚いたに違いない。それぞれの温泉の効能は調べるまでもないが、猿でも知っている(笑)。しかし、その湯を(皇帝に)送る分けにはいかない。すでに製塩法は知っている。湯を煮詰めて温泉の素をつくる。日本には、今でこそ温泉水や鉱泉を飲むことは少ないが、その昔には薬として飲んでいたと思われる。それが徐福の後や先かは知りませんが、今でも貴方のお参りしている社寺の脇にはその鉱泉が湧き出ているかも知れませんね。
その②、 オオサンショウウオ (8/17)
以前の記事でとりあげました。富と権力を得た者が“世継ぎ”を願うのが世の常。これは世界最大の両棲類で日本固有種。大きさは50~70cmで、1mになるものもいる。‘イモリの黒焼き’も、この大きさには叶わない。渓流にしか棲まずその生命力から“ハンザキ”とも呼ばれた。これを見せれば皇帝はきっと喜ぶ。と思っていましたが、今回ウエブで調べると中国の東部(貴州)にも「中国オオサンショウウオ」と呼ばれているものがいた。(汗~)中国って國はなんでもありだね。しかし、絶滅危惧種であり稀少高価であることは間違いない。中国で人工飼育に成功したとか。表皮はゼラチン状、身はカエルに似て淡泊。スープでも食すとあり。日本でも人工飼育に成功したと聞いたことがありますよ。
その③、 カブトガニ
これも絶滅危惧種だが、その昔には精力剤にもなったと云う。今では岡山県の笠岡市周辺にしか棲まず天然記念物。だが、このカブトガニは、中国の南部地方にもいるからねえ^^。
その他、皆様からの有力情報をお待ちしています(笑)。
④、 Dr.>情報の「深海魚のエキス」。 ・・・これに入る前に・・・、
<朝鮮半島に到達した巨大津波> (8/18)
これは前々の記事で(後で調べます)としておきました。調べました^^。
BC.2001年12月25日の未明、日本の東北地方に端を発した巨大津波は、現地時間(時差なし)の朝8時過ぎに彼の地に上陸した。それを朝鮮半島の祖先は、次のような言葉(地名)で、遺し(記録)ている。
北から<羅津・ラジン>
網羅の網は魚をとる網。羅は鳥をとる羅(あみ)。それに津をつけて<羅津>。津波が鳥を捕まえたのか?? 以前、カテゴリー(出雲地方)で西出雲には鳥のつく地名が多いのを不思議に思ったことがあります。津波は二波三波と襲ってくる。第一波で打ち上げた魚をついばんでいる鳥の群れが、次の波で被災したかと? しましたが真偽のほどは解らない。もしそれがホントなら、ぐっすい(方言^^!)鳥がいたもんだ(笑)。
<清津・チョンジン> 北緯42°辺り (8/19)
これもカテゴリー(出雲地方)で謎解きしました。通常、風で発生する波が水位の上下動であるのに対して、津波で発生する波は、進行方向へ押し寄される波となる。片V字沿岸津波(前述・筆者提唱)では沿岸の土石を削り取りながら進むがV字湾奥では双方の波が押し寄せるためその場にあった水の抵抗を受け水位は高くなるが土石を含まないので清水域となる。それを祖先は<清津>と云っている。だが、最大の謎は清津がそのV字湾奥ではなくて片V字の沿岸にあることだ。これは弓状列島の地殻地震(地震の力は陸地の方が海より速く伝わる)によって発生した津波の集合場所が?北側へ押し寄せられた?せいかも知れない。それとも・・・??
<魚大津・オデジン> (8/20)
これは又、直接的でたいへん分かりやすい地名だ。魚が大量に打ち上げた。しかも大きな魚だ。この12月のこの時期どんな魚が打ち上げられたのであろうか? これは全く当てにならない素人の数字であるが、その津波の影響を受けた魚が水深20mより上を泳いでいる魚達としよう。これだと外洋を遊泳しているマグロもひっかかる。日本の縄文遺跡でマグロの骨の出土があったというが。水深20mより深いところの外洋を回遊しているマグロを丸太くり貫き船の縄文の人が漁獲出来るとは思えない。マグロは泳ぎを止めることが出来ない魚である。速く泳ぐときは時速150kmを超えるという。いかに半島の船とはいえそのスピードには追いつけない。縄文時代の人達の漁法では無理がある魚である。日本のどこの遺跡からの出土したのか知らないが、その時の津波によってその大魚が打ち上げられたのではなかろうか? 日本海にもマグロは回遊する。それ等のなかに小魚を追うマグロが混ざっていても不思議ではない。
次は、Dr.>の云われた深海魚であるが、私素人の考えですが、この時の津波は表層にちかく大陸棚200mまでの影響は及ばなかったのでは無いかと思います。しかしながら、それを完全には否定できない。地殻を大きく揺する巨大地震は時に磁気異常を伴う。これによって深海に棲む魚達が浮き上がらないでもない。大王イカ、竜宮の使い、サメ、そして鯨までもがその犠牲になったとしても不思議ではない。素人の論法が正しければ朝鮮半島のご先祖さまは、必ずそれ等を言い伝えとか風習とかで遺している。<魚大津>とは、わたし素人探偵が言っている言葉ではない。その言葉を発したご先祖にその理由(ワケ)を聞くのが一番てっとり早い。何故<魚大津>と、その地名を付けたのですかって?(笑)。
<無水端・ムスダン> 北緯41°辺り (8/21)
先のインドネシア・スマトラ島沖地震(2004~2010年)の時、大津波が上陸する前に “引き潮現象”があり、残された魚を取りにいった人が犠牲になったことがある。<無水・ムス>とは、その引き潮(筆者造語=行き潮)のことを云っているのではないだろうか。<端・ダン>は“岬”のことか?? もし、そこが岬であっても筆者の思いが正しければ、その一方の海岸は遠浅になっていなければならない。筆者はその沿岸地形を知りたいと思う。
<永興湾・ヨンフン> 巨大V字湾奥 (8/22)
永興湾は巨大なV字湾奥をしている。日本の東北地方にコンパスの針をおくとちょうど“受けV字”の位置にあり、当然、筆者は<永興>に巨大津波が襲っているものと見当をつけていた。だが祖先は、そこではなくて<清津>が津波の集合点だと云っている? ・・・、困った?。「永興」とは・・・? この謎解きの鍵は「興る」にあるような気がする。 日本では似たような地名で、愛知県の<興津・こうづ>。静岡県に<興津・おきつ>があり、そこが陸生津波( 筆者の造語で: 海洋からの津波ではなく、先に届いた地震によって発生する津波) の出立地だといっていた。 <永興>の地名の意が分からない・・。 静岡県の<清水>も気になって来だした・・・、ちょっと無理があるが朝鮮半島の祖先は、ここから津波が発生し、<永>は永続の“永”で、『この地より永続して(続けて)津波が興きて(発生して)いった』と云っているのではないだろうか? なにはともあれ素人の思いよりご先祖さまの地名・伝言のほうが優先するからね^^!)
<注文津・チュムンジン> 北緯38°線の韓国側辺り (8/23)
さらに、その南にある韓国の<チュムンジン>では、『その津波を<注文・ちゅうもん?>します』と云っている!^^? 日本人がお天道様に慈雨をお願いするのと同じ感覚だろうか? 見たこともないような大魚を打ち上げて下さる津波なら、『その津波、注文します』と云ってみたいよね(笑)。筆者の考えが正しければ<注文津>には、その願いが叶う信仰の対象になるような(ありがたい)社寺が必ず遺されている。 南北分断の時に韓国側が 「聖地“注文津”だけは北にやれない!」と云ったかどうかは、筆者の“想像”であるから定かではない^^!。
<この項の結び> (8/24)
ということは韓国にとっての東方神起の神は恐ろしくも有りがたい神様となる。中学生のころに何故、朝鮮の国名なのかと不思議に思ったことがある。 今、やっとその謎がとけた。 その日の『朝方に』 大挙して 『生鮮魚が打ち上げられた』のだ。 だから 『朝鮮國』と名付けたのである。もし、これを確証のない素人の戯れ言だと云われる貴方(専門家)がいたら、わたしは言いたい 『祖先の付けた地名という伝言に反論する余地は微塵もない!』 と。
中国では津のことをシンと発音する。朝鮮ではジンと似たような発音するのに、日本ではツと発音し、そこにはDr.>が指摘されたように日本海で言語のルートは遮断され、そこには何んの関連性も見出せない。当初にあげた謎Ⅱ「列島の津・ツと云う言葉の伝播と統一は、どのようにしてなされたのか?」その謎は深まるばかりである。
謎Ⅰの(銅鐸の伝播)にしろ、謎Ⅱの(津という言葉の統一)にしろ、誰かが何とかしない限り、その伝播と統一はあり得ない。徐福団がその媒体をしたと踏んではいるのだが、その謎解きの糸口すら見えてこない。 トホホ・・・
shigechanizumo | URL | 2010-08-24-Tue 09:25 [EDIT]
朝はどこからやって来るのでしょう。もちろん東方です。鮮はあざやかです。鮮やかな朝が東方からやってくる。その東方とはどこでしょう。出雲です。出雲から鮮やかな朝がやってくる。その朝は、海上から昇る朝日が象徴します。海上とはどこでしょう。出雲の海です。出雲から昇る鮮やかな朝日を伴った朝。そこで朝鮮と出雲は結ばれているのです。慶州の迎日湾はまさしくそのことを地名としたのです。
ところで、朝鮮には「熊津」があります。ぜひこの地名の謎解きを・・・。
史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-08-24-Tue 21:05 [EDIT]
Dr.> こんばんわ コメントありがとう御座います♪
連日猛暑日が続いております。・・熱い論議なら大歓迎^^。「微塵だにとか世界史に残るとか」ちょっと?(笑)過激な言葉をつかってみました。コメントを記事の本文へ移設させて頂きました^^!
Dr.>の鮮やかな論法に感化されました。100%?翻意致しましょう^^!。確かに朝鮮半島の最東端に<慶州><迎日湾>の地名がありました。この二つの地名は、その位置を考えあわせると旭日を尊ぶ考えからの名付けがなされています。これが≪朝鮮≫の国名に影響していることは多いに考えられます。只、それを下支えするものとしての津波の打ち上げ(恩恵)を否定するわけにはいきません。特に、朝鮮半島の東海岸には<津>に関係する地名が多く<魚大津>の外に、魚の打ち上げを表す<方魚津・パンオジン>。津波の上陸を表す?<洪原・ホンウォン>。上陸した津波の引き潮を表す<退潮・テジョ>等がありました。詳細地図で小字名まで調べるともっとたくさん出てくると思います。日本にもそれに似たような地名があります。朝の襲来を表す、岡山県に<朝寝鼻遺跡>、兵庫県<朝来町>。海産物が打ち上げた、三重県<嬉野>他の地で<福原>等。津波の戻り水を表す<垂水・篠津・下津>このように拾い上げるとキリがありません。 いずれにしても<日・中・韓>のさらなる探求を望むところです。
<熊津>見あたりませんでした^^!。
似たような地名に<元山・ウォンサン>の西60kmほどの山岳地に<熊たむ・ウンダム>たむの字は譚のごんべんをさんずいに変えたもの>がありました。<たむ>は、日本読みで(タン・ふち)で、意味は、水を深くたたえた所でした。<熊津>がどこにあるのかは分かりませんが、ご指摘のように津波は到底及ばないような山の中に<津>のつく地名が、日本にもあります。岡山県<津山市>。岐阜県に<中津川市>。これ等を素人探偵は、何事も例外はつきもの。<津山>は山波。<中津川>は、三河地方の中心の川で、人々の生活圏が拡大するにしたがって、雨乞い信仰の対象が上流の<源流部>へ移っていったかと?推理しましたが、ちょっと弱い論法でしょうか(^^?)
コメント欄より移設しました。難しい字の一部が変換不能のようです^^!。
shigechanizumo | URL | 2010-08-26-Thu 14:55 [EDIT]
「熊津(ゆうしん、웅진、ウンジン)は、古代朝鮮の百済の古都であり、万葉仮名では久麻那利(くまなり、こむなり)、百済語では古莫那羅(コムナル、곰나 루)と表記・呼称される。熊川(錦江)の畔の都市であり、現在の忠清南道公州市にあたる。」とあります。
<熊津> 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-08-30-Mon 05:32 [EDIT]
Dr.> おはようございます。26~29日までお休みしました。コメントありがとう御座います♪
又々、むつかしい問題を戴きました(汗!)。人と獣との付き合いのなかで子供心が不思議に思うことがあります。牛神様、絵馬、猪と武神、竜虎、十二支、等々の絵(掛け軸)はよく見かけるのですが、狼と熊の絵は、あまり見たことがありません。地名が地名(伝言)として、いつ頃に定着したかは確定出来ませんが、石器・縄文期においても、列島に熊や狼は人々の命を脅かす存在としてあったと思われます。熊で思い出されるのがアイヌ(ほかを知りませんので差別呼称だったらお許しを)の人達の熊信仰があります。列島の「熊のつく地名」は熊山とか熊野古道しか知りません。それが朝鮮半島にもあることに興味をそそられます。 熊と津は全く異質なもの! 半島の<熊津>・・渡来・・<出雲>・・<國譲り>・・<天孫続→=大和??>・・思いは色々に・・・。・・<熊津>の場所捜しは図書館へ行かねばならぬので・・・(^^!)
ところで、Dr.> 話は全く変わりますが。いつぞや「出雲大社の御神体は隕石か?」の話がでましたよね。私は、その御神体の形と大きさは“猪の形”をしているのではないかと思っています。確か、乱暴者のスサノウの命が赤むげの猪(=空を赤く飛んだ隕石)を投げ入れた話から・・。Dr.>は、「出雲のシゲちゃん」と呼ばれるほどのお方。決して衆目にさらしてはならぬ御神体ですが、Dr.>なら宮司さんから、その形を聞けるのでは^^?
<熊津>についてのコメントは保留にさせて下さい。このようにフッと>思い付くことがあるものですから^^!
猪 shigechanizumo | URL | 2010-08-31-Tue 09:33 [EDIT]
「私は、その御神体の形と大きさは“猪の形”をしているのではないかと思っています。」・・・オッ、鋭いですね。オオクニヌシは二度死んでいます。その一度目が、八十神が、猪が落ちてくるから捕まえろと言って、真っ赤に焼いた大石を転がり落として、それを猪と思ったオオクニヌシが抱きかかえたために死んでしまいます。大やけどをしたオオクニヌシに、ウムカイヒメとキサカイヒメがハマグリの汁と赤貝の粉を混ぜた薬を塗って蘇生させるという話があります。神話とはいえ、どこからこのような話が発想できるのか不思議です。出雲大社の御神体が猪ではないかとは、この話と関係があるのかもしれません。物としての御神体はオオクニヌシの命を奪った猪の形をした大石、霊としての御神体はオオクニヌシそのものではないでしょうか。そして霊薬は、神秘的な深海の何とか貝のエキスだったりして・・・。
Dr.の<出雲大社御神体・隕石説>が現実味を! (9/01)
史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-01-Wed 00:28 [EDIT]
Dr.> こんばんわ コメントありがとう御座います♪
連日猛暑日が続いております。残暑お見舞い申し上げます。
「ハマグリの汁と赤貝の粉を混ぜた薬」は、意味深な話しですね^^!。 当時は一夫多妻制なのですね? きっと2女神の献身的な看病のおかげでスサノウは蘇生したのでしょうね? 空を飛んだ赤色といい、猪形石といい、重量石といい、Dr.>の云われた「出雲大社の御神体 =隕石・放射能?説」が、出雲に落下した<隕石>として、ますます現実味を帯びてきました。
ご存じのように、出雲で屋根を突き破って落下した隕石の小片でも相当な衝撃! その隕石(御神体)が空気抵抗を受けて推定で200kg以上も焼け残るには、大気圏突入前の大きさは如何ほどだったのでしょうか? 専門家の考えを聞かねばなりませんが、優に数倍は?超えるでしょうね? 祖先が聞いたであろうその衝撃音は想像するにも余りがあります。又、それが小惑星なら心材に近いほど重い傾向があるとにらんでいます。60年?に一度とかいう出雲大社の御神体移設は、もうすんだのでしょうか? これも想像ですが、御神体(隕石)の、もとは帚星の軌道をとっていたのではないでしょうか? それがある時、地球の引力に捕まって(笑)。 ハレー彗星の周期、伊勢神宮の遷宮の周期、そのおおもとの考えは<60年周期の?彗星=出雲小惑星 → 隕石=出雲大社御神体>であるような気がしてなりません。
この件は、もとはと云えば、Dr.>が言い出されたこと。 さらなる追求(ガイガーカウンター片手に、その一欠片を!)が出来たらいいですね^^!( ばちあたり~ 汗~!)
<皆さんへ> 出雲大社御神体=隕石説の、Dr.>とのやりとりは、当ブログのカテゴリー「出雲地方」でしています。興味のあるお方は、そちらへどうぞ! その<落下池?>にまで言及してますから^^。<2姫神=隕石の落下痕池>としたら、隕石は二つに分裂か? だとしたら、“円形状の深い池”は二カ所でなければならない。 (その一カ所は、すでにDr.>が^^)
さらに、“ハマグリの汁”は、落下痕池に溜まった水で、“赤貝の粉”は、その時の粉塵と推むことが出来ます。そうであるならば、その池の水は聖水として扱われ、その池の底には溶融跡があり、周囲には飛び散った酸化珪素の粉塵(微視的にも)が今でも残って?いなければなりません。そう言えば、どこやらの社寺で、何やらの男神(=隕石)を、何やらの女神(=落下痕池)が癒したという話しもありましたね。段々面白くなって来たぞ~^^。でも、これはDr.>が言い出されたこと。その責任はDr.>がとってね。わたしは、<徐福>のほうが忙しいので(笑)。
⑤ドクターからのヒント『あの世で生きながらえる薬』 (8/31)
前記事のコメント欄より、その一部を引用。
前略・・、そして、秦の始皇帝が求めた不老不死の薬とは、あの世で生きながらえることができる薬だったのではないでしょうか。 徐福は、秦の始皇帝にその薬を届けたのではないでしょうか。秦の始皇帝は、その薬を飲んで現世での死に臨んだのです。・・・後略
西安の兵馬俑が発掘された時。その桁外れの規模(等身大の焼き物○○体)から、世界に大きな衝撃が走りました。その始皇帝の死生観に徐福が大きく関わっていたと考えるのは興味深いことです。『生きて死する!、死して生きる!』即身仏の考えもその一つでしょうか。だけど、始皇帝や当時の死生観にまで踏み込むと大変なことになりそうなので、ここでは現実的な薬石のみに絞って取り上げることに致しましょう。
先ず思いつくのがケシ坊主からとれる“阿片”。アヘンは、英国が輸出入のバランスをとるために中国にその輸入をせまり、アヘン戦争にまで発展したしろもの。それは強い中毒性があり廃人までにおいこまれ生きながら地獄を味わうことになる。例えそのような麻薬の類を手にいれても、それは一時の快楽であり、皇帝や側近がその使用をゆるさない。そして皇帝には常に暗殺の危険があり “毒味役” が付いていたと思われる。つぎに考えられるのが“トリカブト”。これを長期にとりこめば確実に死にいたるが「不老不死」の考えからはほど遠い。(笑) くすりというものは、その取り扱いを誤れば「毒にも薬にもなる」。不老不死・不老長寿の薬石探しはなかなか難しい。そして、トリカブトは中国が原産地でした^^!)
リアリティ shigechanizumo | URL | 2010-08-31-Tue 09:43 [EDIT]
「等身大の焼き物○○体」・・・これまた鋭いですね。兵馬俑から発掘された焼き物の兵や馬などと、日本の古墳にある埴輪との違いは何か。そのリアリティさだと思います。埴輪にリアリティは感じられません。オモチャのようです。一方、兵馬俑の兵や馬は、まさしく生きている人間や馬を彷彿させます。そこから、古墳の埋葬者には生の復活ということは感じられませんが、兵馬俑からは秦の始皇帝の生の復活という執念のようなものが感じられるのです。
Dr.> 西安の兵馬俑は「どっち向き?」に、なっているかご存じありませんか・? ウエブで調べても分かりませんでした。 東方? 西方? それとも・・? これが分かると始皇帝の求めた楽土はどこにが・・??
実験 shigechanizumo | URL | 2010-09-03-Fri 17:26 [EDIT]
「暗殺の危険があり “毒味役” が付いていた」とありました。逆はなかったのでしょうか。不老不死の妙薬と称するものを持ってきた者がいるとします。誰が最初に飲むのでしょうか。死んでしまいました。その妙薬が、そ、それを飲むことによって死んでしまった人にとって、不老不死の薬でないことは証明できたといえるでしょう。また次のそのような者が現れました。いよいよ怖くて手が出せません。しかし持ってきた者は、これこそが不老不死の薬だと言い張ります。誰が飲むのでしょうか。誰かが飲みました。なんともありませんでしたが、本当にそれを飲むことによって不老不死の身体になったのか、誰も証明できません。老衰で死ぬのが真近な老人に不老不死の薬を飲ませました。元気になりました。しかし、それで不老不死の身体になったと証明できるのでしょうか。この難問に挑戦する人はいませんか。問題:「不老不死の妙薬だと証明することは可能か」!
ある自信 shigechanizumo | URL | 2010-09-03-Fri 17:40 [EDIT]
徐福伝説を根底から覆すある前提があります。
徐福は中国を出発するにあたって、ある物が不老不死の妙薬なるものであることを証明できるということを知っていて出発したのか、あるいは、そのような証明はできないということを知っていて出発したのか。
問題1.もし、持ち帰ったある物が不老不死の妙薬であると証明できる手立てがあるという前提で出発したのであれば、・・・・。
問題2.もし、持ち帰った物が不老不死の妙薬であることなど証明できないという前提で出発したのであれば・・・。
「・・・」にどのような文章が入ることになるのか答えなさい。
<恐ろしい考え?> 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-04-Sat 06:23 [EDIT]
Dr.> おはようございます。 コメントありがとう御座います♪
Dr.>コメントによって記事が面白くなると、じいさま>は云っておられました・・・^^。
問題を二つ戴きました。それについては“おそろしいこと”を考え付いていますので、しばらくのお待ちを^^!)
私は、「不老不死」の言葉は願望であり、「不老長寿」は健康で長生きぐらいにとらえています。私は、始皇帝について、かれが何を望んでいたのか? 権力の座の維持か、世継ぎが欲しいのか、自分の血筋(こども)の拡大か、はた又、彼独自の死生観にによるものか。 そして、その時の健康(持病)状態は?等について全く知りません。 そして何故それ等の薬石を求めたのが東方(兵馬俑の向きは東方ではないのか!、日本は西方浄土なのに!)なのか。 さらに、皇帝が除福に命じたのか。除福が願い出たのか。あるいは双方の合意か。これ等の条件が変わることによって微妙に除福団の編成と行動は異なってくるのではないかとみています。コメントのお返事になっていないかと思いますが記事を進めながら考えます。・・・^^!
問題1:問題2 shigechanizumo | URL | 2010-09-04-Sat 15:27 [EDIT]
問題1.もし、持ち帰ったある物が不老不死の妙薬であると証明できる手立てがあるという前提で出発したのであれば、・・・・徐福は持ち帰った物が不老不死の妙薬でないと証明されてしまえば死罪になるので、本当にそのようなものを見つけるまで中国に戻れない。本当にそのようなものを見つけたのであれば、それを持ち帰れば大変な地位を与えられるので当然中国へ帰ったはずではないでしょうか。帰らなかったのは、そのような物が見つからなかったからです。
問題2.もし、持ち帰った物が不老不死の妙薬であることなど証明できないという前提で出発したのであれば・・・どんなものを持ち帰ったとしても不老不死の妙薬であるか否かは証明できないのだから、褒賞ももらえずくたびれ損になる可能性があります。そこで、往路復路のための資材や金品を勝手に使ってしまい、中国には帰らないと決めて出発したのではないでしょうか。
その他様々な解答があると思いますので、期待しています。
それにしても、もし当時の中国で「これは不老不死の妙薬である」との証明が出来る手立てがなかったとしたら、なぜ秦の始皇帝はそのようなものを見つけてくるといった徐福の言葉を信じたのでしょうか。徐福は、「こういった条件を満たす薬であるならばそれは不老不死の妙薬である」といったような証明方法を呈示して、秦 の始皇帝の納得を得たのではないでしょうか。
何故、童男童女か? 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-05-Sun 06:57 [EDIT]
Dr.> おはようございます。 いつもコメントありがとう御座います♪
これも、直接のお答えではなく、考えもまとまっている分けではありませんが、そのお答えの一つは「何故童男童女か?」にあるような気がしています。 何故「東方彼方に?」については、古代中国にとって、東方は神秘なるところ。「神秘なる所には神秘なる薬が・・・?」と考えたのではないでしょうか。 (これは、私の偏見かと思いますが。古代中国の人々は “人を拒むような危険な場所や深山にこそ、その霊薬が秘そんであり!” との考えが強い?と思っています^^) 古代中国の人々が東方を如何に考えていたかについては、Dr.ブログ>へかえって調べなおさなければなりません(^^!)
<列島にあって中国にないモノ> (9/06)
ひきつづき薬石についての情報をお待ちしています。何故なら、それが列島のどの地方にあるか(徐福が立ち寄った場所か?)によって、それが日本史の解明へと繋がるからです。
護衛隊 shigechanizumo | URL | 2010-09-06-Mon 15:09 [EDIT]
私は、薬石のある場所にはその薬石を護る護衛隊のような動物や障害物があったのではないかと思っています。例えば前にも投稿しましたが、池の底にその薬石があるとすれば、その池には毒蛇がウヨウヨといて水底まで行くことができないとか、洞穴の中にあるとすれば、その洞穴の中には火山性の毒ガスが充満しているとか、あるいははたまた海底にあるとすれば、その薬石に手を伸ばそうものなら巨大なウツボが手を噛みちぎるとかといった具合です。
そうした薬石の効能以前に、そうした薬石に近づくことが出来ないといったファクターも、切歯扼腕、徐福を悩ませたのではないでしょうか。
とすれば、薬石以前に、そうした護衛隊や守護神のような動物がいるところ、あるいは不思議な現象ゆえにその場所に近づけないといったところに薬石があると目論んでみてはどうでしょうか。
ちなみに私は、そこを素通りすると必ず道に迷って方角を失うという場所を出雲で見つけました。しばらく内緒です。
物か術か shigechanizumo | URL | 2010-09-06-Mon 16:14 [EDIT]
不老不死の妙薬といっても三つの分類が出来ると思います。
ひとつは、その物自体が珍品で、しかも不老不死という効能を自ずと内包しているというものです。
もうひとつは、ありふれた物なのだけれど、その物に対してある術を仕掛ける、あるいはある加工を施すと、不老不死の薬石となるというものです。
さらにもうひとつは、珍品であるけれどもそれだけでは十分な効能を持たず、その珍品に対してしてある術を仕掛ける、あるいはある加工を施すと、不老不死の薬石となるというものです。
徐福が東方に求めたものは、術ではなく物であったことは間違いありません。ありふれた物にある術を施すことなら中国で出来ることだからです。
では、それ自体が効能を持つ珍品を探しにいったのでしょうか、あるいは、珍品ではあるがさらにある術や加工を施すことによって効能を発揮するというものだったのでしょうか。
先に指摘したように、術や加工をを施すということは中国で出来ることですから、徐福としては東方へ赴いて、中国にない珍品ならそうした物を何から何まで持って帰ればよいわけです。
従って、徐福が探しにいったのはそれ自体で不老不死の効能のある薬石だったと思うのです。
<現代の科学で説明できないこと> 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-06-Mon 16:45 [EDIT]
Dr.> コメントありがとう御座います♪
Dr.>も、似たようなお考えをお持ちなのですね。科学者からみれば一笑にふされるようなことでも、現代の科学では説明しきれない不思議なことってありますよね。霊薬を守る「護衛隊」ですかぁ^^)。 これは明らかに私の偏見ですが、中国の人って「その危険を好んで?“薬食”を求める」傾向があるように思います。深山にしか生えないという茸や、絶壁の岩ツバメの巣・くまの肉球・しかり、危険をおかしてまで手に入れた “薬食”ほど高価に売れる。なにもそこまでしなくってもねえ、と私は思うのですが?(^^!)
「そこを素通りすると必ず道に迷って方角を失う」 そんな場所があるのですか。出雲恐るべし! ですねえ・・・、(そう云われれば、御ブログで、そこを素通りすると別の場所へ案内する神様がぁ^^)
史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-06-Mon 18:03 [EDIT]
Dr.> かえってみたら、次のコメントが入ってましたぁ~(^^)
ふうむぅ~~、“不老長寿の薬石” 色々に深読みできるのですねえ。 私のほうは、もう一度、御ブログの 『徐福の記事』へかえって勉強しなおします^^。 さて、・・その記事を捜しだすのが大変だぁ~~~
つづきます^^♪
拍手をありがとう御座います♪ お一人はAさん? もうお一人は I さん? 三人目はどなたかな^^? 出来れば、(公開じゃあなくてもいいですから)「応援します」のコメントも頂ければ励みになります! このように書いたら今は亡き<じいさま>が、『じゃあ、応援します』
「えっ?」じいさまの場合は「その一言」だけじゃあ済まないでしょ! と、やりとりしたのが想い出されます。私にはあの世があるのやら無いのやらは分かりませんが、どうぞ<この行方>を見定めてくださいね・・・。
残念ですがこの記事の“仮想メモリ”がなくなってしまいました。
<徐福達の次なる行動>へ、
ご訪問ありがとう御座います。
ひきつづきの駄文にお付きあいをお願い致します。
記事は(追記)の形で更新をしています^^!。 この記事は、(9/07~9/26)迄です。
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列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?
【 前記事、Ⅰ~Ⅱの要旨 】
徐福そのⅠ: 秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、除福に童男童女3000人を与え、東方彼方の日本列島から“不老長寿”の薬石を持って帰れと命じた(又は、徐福が願い出た)。
除福そのⅡ: 徐福達が日本列島で求めた“不老不死、不老長寿”の薬石にはどんなモあったのであろうか? 情報をお待ちしています^^!。
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<徐福達の次なる行動>
以下の予定で書き進めていこうと思ってはいますが、確たるモノがあるわけではなく、
<あなた様の投稿>によって如何様にもかわります。どうぞの御参加を(^-^)♪
<徐福;今までの概略> (9/07)
さて、童男童女を含む3000人の徐福団一行は、対馬海流に流され、海の藻くずと消えながらも、千々に分団されたことが幸いして列島の日本海側に各拠点もできた。各々はお互いを捜しあい連絡をとりあい、とりあえず<出雲>にその本拠地をおいた。出雲を本拠地としたのは筆者の独断であり、むしろ史家は、その足跡の少ないことから徐福は出雲にはいなかったとするのがおおかたの見方のようです。(そうでしたね。Dr.^^?)
徐福の乗る船は “旗艦” であり、当然、屈強な男達が乗り込んでいる。当時の船が帆船だとしても風まかせとばかりにはいかない。遺跡等にはカイのついている図絵が遺されている。このことから、もっと西の<博多>あたりに徐福は着岸したとも思えるが、筆者が(とりあえず?)それを出雲としたのは、そのすぐれた先進性からである。今から40年ほど前の一点集中型の都市<東京>のようなものかな? 憧れの都・東京へ東京へ「東京ばかりがなんでいいものかぁ~♪」という歌もありました。・・と、ここまでが、今までの記事(Ⅰ~Ⅲ)の概略です。
徐福団の行動、その1
<薬石情報の収集> (9/08)
その地の首長との融和
千々に漂着したとある一団の場合: 恐ろしき地と思って上陸はしたが、あに図らんや、その地の人々の生活は、後進性のつよい縄文石器の生活を営む人々であった。 水や食料を請えば好意的に提供してくれ、仮ではあるが住家・住地も得た。分断した仲間達とも除々にではあるが連絡もとれた。次になすことは、皇帝の命である『長生不老の薬石』(この言葉はウィキペディアから引用)を 探索することである。 先にも申し上げましたが、この人達は、“その薬を得るためには、その危険なにするものぞ! との覚悟をもった人達である。 とは言え、できれば危うい目は見たくないよね(笑)。 “薬というももの持つ宿命” は、Dr.>が述解して下さったので、ここでは省くが、それは人が飲用、使用してのみ、その効用が確かめられる。それ等の情報は、その地の人に聞いたり観察したりするのが一番手っ取り早い。 例えば、長命の者はいるか。肌つやはどうか。病の多少とその種類は? 言葉の違いはあるが、意外にゼスチャーだけで主意は伝わるものである。首長には、返礼として先進性のつよいお土産もあげた^^。 さて、これからが本格的な探索の開始だ!
< 註 & 訂正 > 始皇帝について少し調べました。 (9/10)
始皇帝は不老不死を求めて、徐福より以前に二人の方士(薬石や施術によって医療行為をする人?)にその仙薬をつくらせようとしたが、もとよりそのような薬はつくれるばずがなく皇帝の怒りを怖れて二人は逃亡してしまった。これを怒った皇帝は見せしめのために460人の学者を穴埋めにしてしまった。さらに、これを諫めた長男を格下げにし北方の警備隊に追いやってしまった。その後、徐福に3000人の童男童女(若者)と百工(色々な職業のひと)と五穀を与え、蓬莱(国)より不老不死の薬と、その仙人を連れて参れと命じたようです。
蓬莱(ほうらい)は、日本のことをいうようで、蓬莱とは、ヨモギが生えるような荒れ果てた地のこと。蓬頭とはヨモギのようなぼさぼさした頭。草莱とは荒れ果てた草地のことをいい、草莱子になると時勢にうとい人のことをいうようですから、当時の人は日本のことを人手の入らない山野で、身だしなみを気にしない白髪長寿の仙人の住む所とでも思ったのでしょうか?(笑)。ということは当時の縄文石器の生活を営んでいた列島の情報は多少なりとも、中国に入っていたことになります。皇帝の晩年には咸陽(かんよう:挟西省にある地方都市名)に隠れ臣下に政(まつりごと)をとらせ、これを遠隔操作した時期もあったようで、これは私の想像ですが始皇帝は、山水画にみる仙人のような生き方を望んでいたのかも知れません。実際に“カスミ”を食べて? 摂取カロリーを少なくすれば老化の速度は遅くなるようです。しかしながら、それを実行されても、その責任は、当方一切持ちませんっ!ので悪しからず(^-^!)
<兵馬俑坑・へいばようこう、について> ウィキペディアより引用 2010/9/10
秦の始皇帝は中国史初の皇帝であったが、その強大な力を利用し大きな陵墓を建てた(人形を作り埋葬したのは二代皇帝胡亥という説もある)。これが秦始皇帝陵である。1974年に地元の住民により発見された。また兵馬俑坑は、この陵を取り巻くように配置されており、その規模は2万m2余におよぶ、きわめて大きなもので、3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体ちかくあり、みな東を向いている。
これを見て筆者はジンジンするほどの高鳴りを覚えました。その規模の大きさではなく、最後の語句の 『みな東を向いている』 にです。『みな』ですよっ! 普通に考えれば稜墓の護衛であるから少なくとも四方を向く。そしてあの世にまで戦車や、軍馬はもっていかない。これほどのものを築くには “相応の思想形成” が要る。 東を向くには理由(わけ)がある!。中国の祖先は、その東、BC.2OO1年12月25日朝6時頃(日本時間)の日本の東北地方へ降臨した巨大隕石がなす大地震と巨大津波を必ず経験している。それがない限り兵馬俑は東へは向かない。史実探偵;素人は、それを中国の史家(史書)がどのように遺しているかを是非に知りたい。 結局、Dr.>の徐福についての御記事は捜し出せずじまいで、そのいう『蓬莱国の三神山』が気になります(^^!)。
<列島各地へと蒐集網の拡大、そして支部の設置> (9/11)
《 除福;日本における伝承 ← Wikipediaより引用≫ 2010/9/8
青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、宮崎県延岡などが有名である。 以上>
筆者は、これ等の地の歴史について無知であり、史学もはっきりとした判定は与えていないようだ。今回の場合、<徐福自身>がそこに立ち寄ったか立ち寄らなかったかは大きな問題ではなく、除福の分隊が、その蒐集活動で、その地の文化に影響を与えるほど、そこに長期に留まったか留まらなかったかに問題がある。この時、決して外してはならない条件がある。それは、そこに珍宝・薬石があり、それは<列島にあって中国にないモノ>でなければならない。 さらに、そこが収集活動の拠点・要所でなければならない。列島の青森から佐賀・鹿児島まで、太平洋側で宮崎県、三重県があり、瀬戸内海に面した和歌山県もあることから、当然、波の穏やかな内海も航行している。内陸部では山梨県がある。山梨県側には富士山があり、その言う“三神山”の一つか? その三神山は火を噴く山だとみている。何故なら中国には火山が少なく(無い?)わずかに朝鮮に接している○○山があるだけだ。
(註)中国の火山: 調べました。
ロシアに国境を接する中国東北部の黒龍江省(こくりゅうこうしょう)北部の<五大連池火山>。面積は64万平方kmで(平方mの間違いでは?)14の形のきれいな火山体と40あまりの形の崩れた火山体からなり、国家の天然保護区。冷泉は治療にもちいられ,ミネラルウォータはフランスに輸出されているという。 (中国には、何でもあるもんですねえ^^!。 かといって自説が大きく崩れるとは思えない。当時、煙を上げていたかどうかも、一つの目安にはなります。)
彼らが、火を噴く山を目の当たりにするのは驚きであり、そのような山にこそ、その霊薬ありと求めに行ったはずだ。 『火山を探せ!』 その第一は<阿蘇山>。 中国で 「阿」 と発音すると一番目を意味すると見ているから「阿宮」(一宮)等もその考えからでしょうね^^!。 山梨県側(富士吉田市)から?二番目の不二山(富士山)も発見(みつ)けた。 さて三番目は、すでに見ている伯耆(ほうき)大山にするか? 鳥海山にするか? それとも・? ひょっとしたら貴方の近くの火山がその三番目かも知れませんよ(笑)。 この行程を推む(よむ)時、大切なことは日本海沿岸に太いラインが出来上がっていて、そこから枝分かれして内陸部へ入っていったと見ています。( そうでしたよね? Dr.>^^) 瀬戸内からや、鹿児島(桜島)経由日向灘への航行は、第二・第三段のルートでしょうか。
(子供心に思うこと) (9/12)
わたしは、少年のころ不思議に思ったことがある。何故にその昔の中心が<京都なのか?>今での京都は列島の奥まった盆地にあり、その交通面に関していえば不便とも思える所に位置している。さらに<京都府>は日本海に面した丹波地方から、内陸の<奈良>にまで接している。列島の歴史形成は海に流れ出る川から上流へと展開していったと考えられるのに。概していえば、京都は不便なところにある。(京都の人ゴメンなさい^^!) 今、やっとその答が分かった。その昔の京都の玄関は、<宮津・舞鶴港>であったと!
<徐福分隊、列島北部への航行> (9/13)
徐福分隊の最北端支部は、青森県の<岩崎・艫作崎・へなし(黄金崎)・十二湖>あたりかなと? わたしは思っています。何故なら地名的に、そこは竜神雨乞い文化が遺っているような気がしてならないからです。筆者独断でここに<列島北部支店>をおくことにしよう^^!。船も古くなったことだし<艫作・へなし>て新造船でもつくろうかと云ったかどうかは筆者の想像なので定かではない^^。北海道の記述は後まわしにして^^!、ここから津軽海峡を通って太平洋へ進出する。途中<仏ヶ浦>の絶壁は圧巻だ。(素人は情報不足から、この仏ヶ浦を記事にはしていませんが、その湾曲部は、その時の巨大隕石で発生した大泥流が削り取った痕だと推(み)ています。) そして<恐山>や<朝比奈岳>の山塊はきっと探索したに違いない。 さて、ここから千島海流にのって南下が始まる。補給基地<八戸>へも支店・支部をおこう。
ここで<子供心>が気になることがあります。 (9/14)
<八戸>という地名の不思議もさることながら、何故? 一戸(いちのへ)~八戸(はちのへ)・九戸(くのへ)なのか? 何故?四戸と十戸は無いのか? 次に気になることは、八戸へ流れ出る馬淵川の上流の、<一戸>から国道4号線にのって<二戸><三戸>・・<五戸><六戸><七戸>と内陸側を北上し、その先の<野辺地・のへじ・陸奥湾>へ行き着く。その先に八戸・九戸を置かないで(笑)、引き返した太平洋側に置き、そこから入り込んで<九戸>と名付けている。・・何故なの? その数字を付す規則性がまったく推(よ)めない。さらに青森県には数字がつく地名が多く隣県にもまたがるが、それ等をざっとあげると、八森、五所川原、三厩、六ヶ所、三沢、百石、三本木原、十和田湖、八甲田山^^。筆者はこれ等をヨソ者(徐福団)が付した後付の地名か!? としたが真偽のほどは解らない。<八戸>の意に興味がある方は、以前の記事(カテゴリー○○)か、拙著の極秘報告書「巨大隕石と大津波」(←クリックOK) の方へどうぞ^^! <八戸>は、今でも世界の大海原へ操りだす大漁港。その礎は、徐福団がつくったと、わたしは、推(み)ています(^-^)。
<岩手県・田野畑村の近くにある○○遺跡の不思議> (下の↓記憶違いでした^^!)
(9/16)
土偶(遮光器土偶) 青森県つがる市木造亀ヶ岡(きづくりかめがおか)出土(東京国立博物館)
わたしが、この遮光器土偶を知ったのは<まんがドラえもん>からである^^。まず目に付くのは大きな目玉。遮光器というそうな。なかに横一筋入れていることから遮光としたのかな? まるで、まん丸の大きなゴーグルをつけたよう。身体全体はデフォルメ(抽象化)されてはいるが、おっぱい等はそれと分かるように作られている。身に付けている装具は緻密ともいえるほどに作られている。今から(?およそ2300年前の?)縄文期の人々の生活水準からは考えにくく、宇宙人の飛来かと?したものだった。 今回、泥縄的に^^!調べてみると、この前身にあたる土偶は、それ以前からあったようで、関東、東北、北海道の南部からの出土が多く、なかでも東北が特に多いとのこと。特徴は女性がほとんどである。何かの後に故意に壊されて埋められていることから、禍よけのまじないから厄災除けの地域信仰へ発展したのではないかとの説。女性を表しているのは女性の大役である出産豊穣の無事を願った等の説がある。わたしは、このような場合、今の私達の風習になにが残っているかで判断します。東北の皆さん。その心当たりはありませんか^^?
<今回、わたしは、これに、二つの持論を重ねて> (9/17)
一つは、その遮光器は、BC.2001年の未明、釜石あたりに落ちた巨大隕石の強烈な光を目の当たりにして、眼底を焼かれた人々がいて、それが歴史の伝承として遮光眼鏡となったのではないかということ。これを導き出したのは、青森県・白神岳、秋田県境・真昼岳、山形県境・面白山、等の地名からです。これ等は巨大隕石と大津波によって、その表土を剥ぎ取られた<岩の手地方>を囲むような位置にあります。(詳しくは、カテゴリー巨大隕石へどうぞ^^♪)
又々、岩手県で、その時の巨大津波の痕跡見つけました。どうぞお楽しみに!
二つには、徐福( 年出航)の船団がこの地に来訪したと考えるほうが確率的に大きいこと。その土偶が身に付けている装身具は、あまりにリアリティであることから、徐福団の武人が着用していた武具を着せたのではないか。ということ。片方や、等身大8000体の武士俑がつくれる国。それも一人一人の面相は異なっているそうですよ! 此方ぁ(こなた)蓬莱頭(ほうらいあたま・ぼさぼさ頭)の仙人が棲むところ。 これくらいの物質文明(?)の差があれば当時の人達でも、『 宇宙人が来た!=別世界の神々さまが来た!』と思っても無理もありませんね(笑)。
<東北地方の蕨手刀(ワラビ手・とう)について> (9/18)
岩手県立博物館・トップ頁 →展示室案内→ いわての夜明け(考古分野)→遮光器土偶の図(詳しくは・こちら)を検索し →そのNEXT x 14頁から引用 ↓
『蕨手刀(わらびてとう)』という名前からもわかるように柄の部分(手に持つ部分)がわらびの穂先(ほさき)に似ていることから名前がつけられた刀です。
現在のところ中国大陸や朝鮮半島に結びつく直接的な証拠がないため、わが国独自に発生したものとする考えもありますが、まだ断定できていません。全国での出土例は二百数十例、その中で東日本や北海道からの出土が多く、とりわけ岩手では七十数例と群を抜いていることから、蕨手刀が作られた背景やこの地方とのつながりなどが注目されています。
岩手では奈良時代の刀と言われている『蕨手刀』ですが、東北地方には7世紀末から8世紀初めにかけて信州地方から古東山道(ことうさんどう)を経由して伝えられたと考えられています。製品として伝えられた蕨手刀がのちのち砂鉄の豊富なこの地で多く作られるようになった可能性は高く、また北上川中流域に分布する奈良時代の終末期古墳群、とりわけ川原石積(かわはらいしづみ)の石室をもつ古墳(こふん)からの出土が多く、集落からの出土は少ないという点が特徴にあげられます。
出現期の蕨手刀は剣と同じように「突く」機能を優先させたものでしたが、岩手県を中心とした東北地方北部で形態的(けいたいてき)に変化し、「突く」ことから「切る」あるいは「振り下ろす」機能へと変質しています。蕨手刀はその後も「切る」機能を強化され、9世紀後半以降には〔毛抜形(けぬきがた)蕨手刀〕、柄のところに強い反りをもつ〔奥州刀(おうしゅうとう)〕、そして現在の〔日本刀〕へとつながっていったと言われています。 以上を転載!
素人がこの蕨手刀に興味をもったのは、その持ち手の部分が振り下ろしたり、なぎ払ったときに「すっぽ抜け」ないような工夫が施されていることである。出雲で出土した大量の銅剣や古墳代の副葬剣の形状のおおくが、祭祀や権威付けと思われるのに対し、この形状は、実戦的な<戦いのための形状>をもっている。(^-^!) つまり、相手が動かないとか弱わっちい者であれば、<突くとか切る>に、加えて持ち手を長くして<振り下ろす>機能が備わっていれば充分だ。だが、この蕨手刀の形状は、接戦において相手が大型動物や強者が襲ってきた時、自分の護身のために身をかわしながら<片手で、なぎ払う>機能を持たせている。
そして、その分布が 『その中で東日本や北海道からの出土が多く、とりわけ岩手では七十数例と群を抜いている・』 のは何故であろうか。
<馬淵川・まべちがわ: の群集(円)墳について> (9/19)
岩手県立博物館・トップ頁 →上記・・・検索 →NEXT x 18頁から、部分を引用 ↓
岩手県では、7~8世紀にかけて北上川中・上流域、馬淵川(まべちがわ)流域に小型の円墳(えんふん)がまとまって造られました。これを群集墳(ぐんしゅうふん)といいます。7世紀頃の県内は、鉄器などの農工具類の質の向上や量の増加がみられ、社会が転換期を迎えた時で、集落はかなり大規模になり、生産力が増したと思われます。そのため政治的に大きな力をもった支配者層が多く現れ、その人たちも古墳を造るようになったので群集墳が形成されていったと考えられます。
県内にみられる群集墳の多くは、直径10メートル前後で、高さ1メートル程の墳丘(ふんきゅう)をもち、その周囲に堀(周湟=しゅうこう)が巡らされています。 形は土饅頭型(どまんじゅうがた)をした円墳がほとんどですが、中には四角い形をした方墳もみられます。 遺体を埋葬(まいそう)する主体部は、川原石を積み重ねた石室をもつもの、土を舟底形(ふなぞこがた)に掘った土壙(どこう)タイプのもの、底部に小石を敷いたものがあります。 また主体部の輪郭(りんかく)に沿って川原石を並べただけのものなどもあります。
群集墳の副葬品は、土器や、蕨手刀・馬具・冑(かぶと)をはじめとする鉄製品、勾玉(まがたま)などの玉類、か帯金具(かたいかなぐ=位を示すベルト飾り)、和同開珎(わどうかいちん)など様々なものがあります。これらは葬られた人が生前使っていたものが中心になっていますが、中には奈良の都との交流を示すものも含まれています。「蝦夷(えみし)」と呼ばれたこの地方の人々は、都と接触)しながら独自の文化を形成していたと考えられています。
群集墳をはじめとする古墳については、まだまだわからないことがたくさんあります。 研究が進んで、早くなぞが解明されるといいですね。
以上を転載!
(9/20)
わたしは中国人の死生観や埋葬方法についてまったく知らない。 又、一口に中国といってもその広い国土では様々な埋葬方法があるのであろう。これを前提として話を進めるのであるが。 ある時 「孔子廊」を訪れた時のこと。それは数々の建物で構成された広大な一つの街であったとの記憶にしかないが、その散策で例によって^^?子供心の意を引いたものがある。木立・草地のなかに散在する直径約2m高さ1mほどの土饅頭があった。聞けば墓だという。 直感的に<これは、列島古墳の前身だ!>と思った。
と言うのは、筆者がそのような墳墓を見るも聞くのも初めてであった。 日本での埋葬方法は土葬が中心で、それが火葬に変わったのは昭和の代(○○年)からで、長い土葬の歴史を思うと咳払いの時間にも満たない。首長格は別として、時代劇等で知る一般人の土葬は、木製の樽棺であり、4尺ほど掘り下げて棺を納めその上に掘り返した土をかぶせる。必然的に棺の分だけ小高くなる。何年か後に遺体や棺は腐れてその盛り土は落ちてほぼ平らになる。それまでは木製柱か、ちっちゃな小屋(○○屋?名前忘れました^^!)を立てる。財力のある人は土が“落ち着いて”から石塔をすえる。一般が石塔墓を設えることが出来るほどになったのは、ごく近年(明治以降?)かな。このことから列島住人の死生観は、土(大地)に還るが主流であり、天国に召される考えは西洋的な考えからと推察する。(さて、仏教のお浄土はどこなのでしょうか?)
墓の形状は、その考えや財力にもよるが、多くはその地域で“何が”手に入るかによっても決まる。日本のように狭い地域に野や山や川があれば、木でも石(山石や河原石)でも容易に手に入る。そこで石の一つも置いて埋葬の目印にできる。ところが中国では見渡す限りの堆積土の平原。遠い山から石を取りよせ石塔を切るとなると大変だ。(もちろん山間部を除く、その昔の話ですから誤解なきように!) 黄河や、長江の(中流?)下流域では土砂ばかりで、石の一つも見つかりはしない。今でも車窓から注意すれば、畑のなかに、ポッツリとこの土饅頭を見ることができる。愛する人を我が畑に埋葬したいのは無理からぬこと。中国政府ではこのような土葬が増え続け、その場所を確保するのが大変なことから火葬に切り替えたいとのニュースがありましたが、火葬は遺体の損傷との考えがつよい?この国の抵抗やいかに・・・?。(合掌)
<遮光器土偶と、蕨手刀と、土饅頭墳から思うこと> (9/22)
さて、長々と迂回した話を「八戸市馬淵川あたり」に進行した<除福探検隊>にもどして、
一口に除福隊と云っても、その性格は様々だ。始皇帝は徐福に<百工・色々な職業の人>を与えている。(それを推理小説風に?、前の方へ忍ばせておきましたが・・? 気づいて頂けましたかぁ~^^) 特に、この部隊には強力な武人がいた。この場合、現地住民との最初の出逢いは大切で何かの不都合があれば殺傷を含む戦いとなる。それはさておき・・、遮光器土偶は、厄災除けの土偶に、この武人の鎧甲(よろいかぶと)を着せたものだとしました。
蕨手刀は、『中国大陸や朝鮮半島に結びつく直接的な証拠がない』 とあったが、完全にそれを否定できない。 又、『岩手では奈良時代の刀と言われている』 とあり、これを切り崩すのは大変だが、『製品として伝えられた蕨手刀がのちのち砂鉄の豊富なこの地で多く作られるようになった可能性は高く』 とあることから、徐福達の武人が最初に持ちこんだ可能性もないことではない。何故このように無理矢理に^^? 徐福に結びつけるかというと。列島で戦いの痕跡(遺骨等の傷つき)があるのは米作りが進んだ弥生期以降であり、縄文晩期より以前の出土は見あたらない(?)こと。(列島の住人は、概しておとなしい^^) さらに、集落を離れた所からの蕨手刀の出土もあやしい。何故なら、徐福達は、Dr.izumo>が指摘されたように、有る意味(秘薬探し)の“秘密結社”であり、現地住民とは生活圏を異にする。
円墳についてだが、列島の他の地で土饅頭形墳の群集は、多くを見かけない?。そして、「遺体を埋葬(まいそう)する主体部は、川原石を積み重ねた石室をもつもの」 とあるが、先に指摘したように広い堆積平原に住む中国の人達にとっては、“角のとれた川原石や、清流は珍しく” その貴重な石で石室や墳墓を飾り、清流にのせて故人を送りたいとの考えが発したのではないか。香川県で初期の墳丘とされるものにも川原石で覆われていたと思われるものがあり、この考えは後々の巨大墳にも引き継がれている。 素人探偵は、出土物の 「時間的(歴史)流れと広がり」を突き崩すことが出来ない。 しかし、以上の3点は列島の文化からみれば異質であり、今は、それをうまく説明できないが、徐福団を外したら 「では、いったい誰が!?」と、なる。まさか、貴方は、『宇宙人が飛来した』 等とは仰らないでしょうね(笑)
あっ!それから言いそびれましたが。<馬淵川>につないだ(?)“馬”も、徐福達が連れてきたのではないでしょうか? 出雲にも馬のつく地名がありました。 北上川流域に古代牛の骨はたくさん埋まっていましたが、 「どこの馬の骨とも分からず(笑)」 の語があるように、その骨が馬ではなく「牛や鹿の骨のほうがいいんでないかい」と思うのが子供心です。この場合の『どこ』は外国のことを指し、列島では野生化した馬はあっても、もともとの<野生>の馬は棲んでいなかったのではないかと、わたしは思っています。
<例外の北海道; 現地人との融和には、ならなかった?!> (9/24)
以前わたしは、北海道<勇払平野><石狩平野><石狩川流域>の地名に興味を持ち、国土地理院の2万5千分の1 地形図と、にらめっこしたことがある。なかで、<夕張山地>の地名が “小さく、数多く、アイヌ語” の地名で区切られていた。このことは、広大な北海道であるから地名も広域的であろうとの先入観をもっていた自分には意外であった。地名が小さく区切られているということは、その昔の人口密度が高かったことにつながる。 中で<神居・カムイ>とか<神室・かむろ>の地名は、信仰の聖地であることはいうまでもない。そして、そこには熊がたくさん生息していたのでは無いだろうか。ご存じのように、アイヌの人達は熊を神聖な生きものとしてあつかう。この聖地へ徐福達が足を踏み入れれば、当然争いを生じる。
徐福達にすれば、そういった神秘的な山にこそ好んで(?)その霊薬を求めて入る。徐福達は、中国を統一した始皇帝の武人をもつ。人が相手なら強力でも、相手が熊ではねえ^^!。さらに、熊と共存するアイヌの人達の戦闘力は侮れないものがある。 以上のような理由かどうかは分からないが、蕨手刀の分布は、渡島半島の一部と、石狩平野からの出土であり山間部には入っていない。蕨手刀の形は、熊の突進から体をかわし、なぎ払うために考案されたのではないだろうか。 北海道の地名で申し添えておきますが、北海道には全国津々浦々と同じ地名や、篠津・十津川等の地名があります。これは、その後に入植した人達が付けた地名かなと思っています。
その2 治験薬の実験 (9/26)は次の記事へ移動します^^。
つづきます^^、・・・♪
(9/08) 1拍手いただきぃ~~~(^-^)♪ Fさん>だよね?ありがと^^♪ それから、近時よく訪問して下さるSTさん>、返礼の訪問をしてもエラーが出てシャットダウンを余儀なくされます。(>,<) ついでに(で、ゴメン)?言っておきますが、足跡も残さず日々欠かさずに訪問して下さるありがたいお方が8名ほど?おられます。 この方々は、素人が記事を続ける上で大きな励みに(深礼)なってはいますが、わたしの記憶にも残らないし歴史にも遺らないので(足)あしからず(笑)。
ご訪問ありがとう御座います。
ひきつづきの駄文にお付きあいをお願い致します。
記事は(追記)の形で更新をしています^^!。 この記事は、(9/07~9/26)迄です。
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列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?
【 前記事、Ⅰ~Ⅱの要旨 】
徐福そのⅠ: 秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、除福に童男童女3000人を与え、東方彼方の日本列島から“不老長寿”の薬石を持って帰れと命じた(又は、徐福が願い出た)。
除福そのⅡ: 徐福達が日本列島で求めた“不老不死、不老長寿”の薬石にはどんなモあったのであろうか? 情報をお待ちしています^^!。
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<徐福達の次なる行動>
以下の予定で書き進めていこうと思ってはいますが、確たるモノがあるわけではなく、
<あなた様の投稿>によって如何様にもかわります。どうぞの御参加を(^-^)♪
<徐福;今までの概略> (9/07)
さて、童男童女を含む3000人の徐福団一行は、対馬海流に流され、海の藻くずと消えながらも、千々に分団されたことが幸いして列島の日本海側に各拠点もできた。各々はお互いを捜しあい連絡をとりあい、とりあえず<出雲>にその本拠地をおいた。出雲を本拠地としたのは筆者の独断であり、むしろ史家は、その足跡の少ないことから徐福は出雲にはいなかったとするのがおおかたの見方のようです。(そうでしたね。Dr.^^?)
徐福の乗る船は “旗艦” であり、当然、屈強な男達が乗り込んでいる。当時の船が帆船だとしても風まかせとばかりにはいかない。遺跡等にはカイのついている図絵が遺されている。このことから、もっと西の<博多>あたりに徐福は着岸したとも思えるが、筆者が(とりあえず?)それを出雲としたのは、そのすぐれた先進性からである。今から40年ほど前の一点集中型の都市<東京>のようなものかな? 憧れの都・東京へ東京へ「東京ばかりがなんでいいものかぁ~♪」という歌もありました。・・と、ここまでが、今までの記事(Ⅰ~Ⅲ)の概略です。
徐福団の行動、その1
<薬石情報の収集> (9/08)
その地の首長との融和
千々に漂着したとある一団の場合: 恐ろしき地と思って上陸はしたが、あに図らんや、その地の人々の生活は、後進性のつよい縄文石器の生活を営む人々であった。 水や食料を請えば好意的に提供してくれ、仮ではあるが住家・住地も得た。分断した仲間達とも除々にではあるが連絡もとれた。次になすことは、皇帝の命である『長生不老の薬石』(この言葉はウィキペディアから引用)を 探索することである。 先にも申し上げましたが、この人達は、“その薬を得るためには、その危険なにするものぞ! との覚悟をもった人達である。 とは言え、できれば危うい目は見たくないよね(笑)。 “薬というももの持つ宿命” は、Dr.>が述解して下さったので、ここでは省くが、それは人が飲用、使用してのみ、その効用が確かめられる。それ等の情報は、その地の人に聞いたり観察したりするのが一番手っ取り早い。 例えば、長命の者はいるか。肌つやはどうか。病の多少とその種類は? 言葉の違いはあるが、意外にゼスチャーだけで主意は伝わるものである。首長には、返礼として先進性のつよいお土産もあげた^^。 さて、これからが本格的な探索の開始だ!
< 註 & 訂正 > 始皇帝について少し調べました。 (9/10)
始皇帝は不老不死を求めて、徐福より以前に二人の方士(薬石や施術によって医療行為をする人?)にその仙薬をつくらせようとしたが、もとよりそのような薬はつくれるばずがなく皇帝の怒りを怖れて二人は逃亡してしまった。これを怒った皇帝は見せしめのために460人の学者を穴埋めにしてしまった。さらに、これを諫めた長男を格下げにし北方の警備隊に追いやってしまった。その後、徐福に3000人の童男童女(若者)と百工(色々な職業のひと)と五穀を与え、蓬莱(国)より不老不死の薬と、その仙人を連れて参れと命じたようです。
蓬莱(ほうらい)は、日本のことをいうようで、蓬莱とは、ヨモギが生えるような荒れ果てた地のこと。蓬頭とはヨモギのようなぼさぼさした頭。草莱とは荒れ果てた草地のことをいい、草莱子になると時勢にうとい人のことをいうようですから、当時の人は日本のことを人手の入らない山野で、身だしなみを気にしない白髪長寿の仙人の住む所とでも思ったのでしょうか?(笑)。ということは当時の縄文石器の生活を営んでいた列島の情報は多少なりとも、中国に入っていたことになります。皇帝の晩年には咸陽(かんよう:挟西省にある地方都市名)に隠れ臣下に政(まつりごと)をとらせ、これを遠隔操作した時期もあったようで、これは私の想像ですが始皇帝は、山水画にみる仙人のような生き方を望んでいたのかも知れません。実際に“カスミ”を食べて? 摂取カロリーを少なくすれば老化の速度は遅くなるようです。しかしながら、それを実行されても、その責任は、当方一切持ちませんっ!ので悪しからず(^-^!)
<兵馬俑坑・へいばようこう、について> ウィキペディアより引用 2010/9/10
秦の始皇帝は中国史初の皇帝であったが、その強大な力を利用し大きな陵墓を建てた(人形を作り埋葬したのは二代皇帝胡亥という説もある)。これが秦始皇帝陵である。1974年に地元の住民により発見された。また兵馬俑坑は、この陵を取り巻くように配置されており、その規模は2万m2余におよぶ、きわめて大きなもので、3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体ちかくあり、みな東を向いている。
これを見て筆者はジンジンするほどの高鳴りを覚えました。その規模の大きさではなく、最後の語句の 『みな東を向いている』 にです。『みな』ですよっ! 普通に考えれば稜墓の護衛であるから少なくとも四方を向く。そしてあの世にまで戦車や、軍馬はもっていかない。これほどのものを築くには “相応の思想形成” が要る。 東を向くには理由(わけ)がある!。中国の祖先は、その東、BC.2OO1年12月25日朝6時頃(日本時間)の日本の東北地方へ降臨した巨大隕石がなす大地震と巨大津波を必ず経験している。それがない限り兵馬俑は東へは向かない。史実探偵;素人は、それを中国の史家(史書)がどのように遺しているかを是非に知りたい。 結局、Dr.>の徐福についての御記事は捜し出せずじまいで、そのいう『蓬莱国の三神山』が気になります(^^!)。
<列島各地へと蒐集網の拡大、そして支部の設置> (9/11)
《 除福;日本における伝承 ← Wikipediaより引用≫ 2010/9/8
青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、宮崎県延岡などが有名である。 以上>
筆者は、これ等の地の歴史について無知であり、史学もはっきりとした判定は与えていないようだ。今回の場合、<徐福自身>がそこに立ち寄ったか立ち寄らなかったかは大きな問題ではなく、除福の分隊が、その蒐集活動で、その地の文化に影響を与えるほど、そこに長期に留まったか留まらなかったかに問題がある。この時、決して外してはならない条件がある。それは、そこに珍宝・薬石があり、それは<列島にあって中国にないモノ>でなければならない。 さらに、そこが収集活動の拠点・要所でなければならない。列島の青森から佐賀・鹿児島まで、太平洋側で宮崎県、三重県があり、瀬戸内海に面した和歌山県もあることから、当然、波の穏やかな内海も航行している。内陸部では山梨県がある。山梨県側には富士山があり、その言う“三神山”の一つか? その三神山は火を噴く山だとみている。何故なら中国には火山が少なく(無い?)わずかに朝鮮に接している○○山があるだけだ。
(註)中国の火山: 調べました。
ロシアに国境を接する中国東北部の黒龍江省(こくりゅうこうしょう)北部の<五大連池火山>。面積は64万平方kmで(平方mの間違いでは?)14の形のきれいな火山体と40あまりの形の崩れた火山体からなり、国家の天然保護区。冷泉は治療にもちいられ,ミネラルウォータはフランスに輸出されているという。 (中国には、何でもあるもんですねえ^^!。 かといって自説が大きく崩れるとは思えない。当時、煙を上げていたかどうかも、一つの目安にはなります。)
彼らが、火を噴く山を目の当たりにするのは驚きであり、そのような山にこそ、その霊薬ありと求めに行ったはずだ。 『火山を探せ!』 その第一は<阿蘇山>。 中国で 「阿」 と発音すると一番目を意味すると見ているから「阿宮」(一宮)等もその考えからでしょうね^^!。 山梨県側(富士吉田市)から?二番目の不二山(富士山)も発見(みつ)けた。 さて三番目は、すでに見ている伯耆(ほうき)大山にするか? 鳥海山にするか? それとも・? ひょっとしたら貴方の近くの火山がその三番目かも知れませんよ(笑)。 この行程を推む(よむ)時、大切なことは日本海沿岸に太いラインが出来上がっていて、そこから枝分かれして内陸部へ入っていったと見ています。( そうでしたよね? Dr.>^^) 瀬戸内からや、鹿児島(桜島)経由日向灘への航行は、第二・第三段のルートでしょうか。
(子供心に思うこと) (9/12)
わたしは、少年のころ不思議に思ったことがある。何故にその昔の中心が<京都なのか?>今での京都は列島の奥まった盆地にあり、その交通面に関していえば不便とも思える所に位置している。さらに<京都府>は日本海に面した丹波地方から、内陸の<奈良>にまで接している。列島の歴史形成は海に流れ出る川から上流へと展開していったと考えられるのに。概していえば、京都は不便なところにある。(京都の人ゴメンなさい^^!) 今、やっとその答が分かった。その昔の京都の玄関は、<宮津・舞鶴港>であったと!
<徐福分隊、列島北部への航行> (9/13)
徐福分隊の最北端支部は、青森県の<岩崎・艫作崎・へなし(黄金崎)・十二湖>あたりかなと? わたしは思っています。何故なら地名的に、そこは竜神雨乞い文化が遺っているような気がしてならないからです。筆者独断でここに<列島北部支店>をおくことにしよう^^!。船も古くなったことだし<艫作・へなし>て新造船でもつくろうかと云ったかどうかは筆者の想像なので定かではない^^。北海道の記述は後まわしにして^^!、ここから津軽海峡を通って太平洋へ進出する。途中<仏ヶ浦>の絶壁は圧巻だ。(素人は情報不足から、この仏ヶ浦を記事にはしていませんが、その湾曲部は、その時の巨大隕石で発生した大泥流が削り取った痕だと推(み)ています。) そして<恐山>や<朝比奈岳>の山塊はきっと探索したに違いない。 さて、ここから千島海流にのって南下が始まる。補給基地<八戸>へも支店・支部をおこう。
ここで<子供心>が気になることがあります。 (9/14)
<八戸>という地名の不思議もさることながら、何故? 一戸(いちのへ)~八戸(はちのへ)・九戸(くのへ)なのか? 何故?四戸と十戸は無いのか? 次に気になることは、八戸へ流れ出る馬淵川の上流の、<一戸>から国道4号線にのって<二戸><三戸>・・<五戸><六戸><七戸>と内陸側を北上し、その先の<野辺地・のへじ・陸奥湾>へ行き着く。その先に八戸・九戸を置かないで(笑)、引き返した太平洋側に置き、そこから入り込んで<九戸>と名付けている。・・何故なの? その数字を付す規則性がまったく推(よ)めない。さらに青森県には数字がつく地名が多く隣県にもまたがるが、それ等をざっとあげると、八森、五所川原、三厩、六ヶ所、三沢、百石、三本木原、十和田湖、八甲田山^^。筆者はこれ等をヨソ者(徐福団)が付した後付の地名か!? としたが真偽のほどは解らない。<八戸>の意に興味がある方は、以前の記事(カテゴリー○○)か、拙著の極秘報告書「巨大隕石と大津波」(←クリックOK) の方へどうぞ^^! <八戸>は、今でも世界の大海原へ操りだす大漁港。その礎は、徐福団がつくったと、わたしは、推(み)ています(^-^)。
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(9/16)
土偶(遮光器土偶) 青森県つがる市木造亀ヶ岡(きづくりかめがおか)出土(東京国立博物館)
わたしが、この遮光器土偶を知ったのは<まんがドラえもん>からである^^。まず目に付くのは大きな目玉。遮光器というそうな。なかに横一筋入れていることから遮光としたのかな? まるで、まん丸の大きなゴーグルをつけたよう。身体全体はデフォルメ(抽象化)されてはいるが、おっぱい等はそれと分かるように作られている。身に付けている装具は緻密ともいえるほどに作られている。今から(?およそ2300年前の?)縄文期の人々の生活水準からは考えにくく、宇宙人の飛来かと?したものだった。 今回、泥縄的に^^!調べてみると、この前身にあたる土偶は、それ以前からあったようで、関東、東北、北海道の南部からの出土が多く、なかでも東北が特に多いとのこと。特徴は女性がほとんどである。何かの後に故意に壊されて埋められていることから、禍よけのまじないから厄災除けの地域信仰へ発展したのではないかとの説。女性を表しているのは女性の大役である出産豊穣の無事を願った等の説がある。わたしは、このような場合、今の私達の風習になにが残っているかで判断します。東北の皆さん。その心当たりはありませんか^^?
<今回、わたしは、これに、二つの持論を重ねて> (9/17)
一つは、その遮光器は、BC.2001年の未明、釜石あたりに落ちた巨大隕石の強烈な光を目の当たりにして、眼底を焼かれた人々がいて、それが歴史の伝承として遮光眼鏡となったのではないかということ。これを導き出したのは、青森県・白神岳、秋田県境・真昼岳、山形県境・面白山、等の地名からです。これ等は巨大隕石と大津波によって、その表土を剥ぎ取られた<岩の手地方>を囲むような位置にあります。(詳しくは、カテゴリー巨大隕石へどうぞ^^♪)
又々、岩手県で、その時の巨大津波の痕跡見つけました。どうぞお楽しみに!
二つには、徐福( 年出航)の船団がこの地に来訪したと考えるほうが確率的に大きいこと。その土偶が身に付けている装身具は、あまりにリアリティであることから、徐福団の武人が着用していた武具を着せたのではないか。ということ。片方や、等身大8000体の武士俑がつくれる国。それも一人一人の面相は異なっているそうですよ! 此方ぁ(こなた)蓬莱頭(ほうらいあたま・ぼさぼさ頭)の仙人が棲むところ。 これくらいの物質文明(?)の差があれば当時の人達でも、『 宇宙人が来た!=別世界の神々さまが来た!』と思っても無理もありませんね(笑)。
<東北地方の蕨手刀(ワラビ手・とう)について> (9/18)
岩手県立博物館・トップ頁 →展示室案内→ いわての夜明け(考古分野)→遮光器土偶の図(詳しくは・こちら)を検索し →そのNEXT x 14頁から引用 ↓
『蕨手刀(わらびてとう)』という名前からもわかるように柄の部分(手に持つ部分)がわらびの穂先(ほさき)に似ていることから名前がつけられた刀です。
現在のところ中国大陸や朝鮮半島に結びつく直接的な証拠がないため、わが国独自に発生したものとする考えもありますが、まだ断定できていません。全国での出土例は二百数十例、その中で東日本や北海道からの出土が多く、とりわけ岩手では七十数例と群を抜いていることから、蕨手刀が作られた背景やこの地方とのつながりなどが注目されています。
岩手では奈良時代の刀と言われている『蕨手刀』ですが、東北地方には7世紀末から8世紀初めにかけて信州地方から古東山道(ことうさんどう)を経由して伝えられたと考えられています。製品として伝えられた蕨手刀がのちのち砂鉄の豊富なこの地で多く作られるようになった可能性は高く、また北上川中流域に分布する奈良時代の終末期古墳群、とりわけ川原石積(かわはらいしづみ)の石室をもつ古墳(こふん)からの出土が多く、集落からの出土は少ないという点が特徴にあげられます。
出現期の蕨手刀は剣と同じように「突く」機能を優先させたものでしたが、岩手県を中心とした東北地方北部で形態的(けいたいてき)に変化し、「突く」ことから「切る」あるいは「振り下ろす」機能へと変質しています。蕨手刀はその後も「切る」機能を強化され、9世紀後半以降には〔毛抜形(けぬきがた)蕨手刀〕、柄のところに強い反りをもつ〔奥州刀(おうしゅうとう)〕、そして現在の〔日本刀〕へとつながっていったと言われています。 以上を転載!
素人がこの蕨手刀に興味をもったのは、その持ち手の部分が振り下ろしたり、なぎ払ったときに「すっぽ抜け」ないような工夫が施されていることである。出雲で出土した大量の銅剣や古墳代の副葬剣の形状のおおくが、祭祀や権威付けと思われるのに対し、この形状は、実戦的な<戦いのための形状>をもっている。(^-^!) つまり、相手が動かないとか弱わっちい者であれば、<突くとか切る>に、加えて持ち手を長くして<振り下ろす>機能が備わっていれば充分だ。だが、この蕨手刀の形状は、接戦において相手が大型動物や強者が襲ってきた時、自分の護身のために身をかわしながら<片手で、なぎ払う>機能を持たせている。
そして、その分布が 『その中で東日本や北海道からの出土が多く、とりわけ岩手では七十数例と群を抜いている・』 のは何故であろうか。
<馬淵川・まべちがわ: の群集(円)墳について> (9/19)
岩手県立博物館・トップ頁 →上記・・・検索 →NEXT x 18頁から、部分を引用 ↓
岩手県では、7~8世紀にかけて北上川中・上流域、馬淵川(まべちがわ)流域に小型の円墳(えんふん)がまとまって造られました。これを群集墳(ぐんしゅうふん)といいます。7世紀頃の県内は、鉄器などの農工具類の質の向上や量の増加がみられ、社会が転換期を迎えた時で、集落はかなり大規模になり、生産力が増したと思われます。そのため政治的に大きな力をもった支配者層が多く現れ、その人たちも古墳を造るようになったので群集墳が形成されていったと考えられます。
県内にみられる群集墳の多くは、直径10メートル前後で、高さ1メートル程の墳丘(ふんきゅう)をもち、その周囲に堀(周湟=しゅうこう)が巡らされています。 形は土饅頭型(どまんじゅうがた)をした円墳がほとんどですが、中には四角い形をした方墳もみられます。 遺体を埋葬(まいそう)する主体部は、川原石を積み重ねた石室をもつもの、土を舟底形(ふなぞこがた)に掘った土壙(どこう)タイプのもの、底部に小石を敷いたものがあります。 また主体部の輪郭(りんかく)に沿って川原石を並べただけのものなどもあります。
群集墳の副葬品は、土器や、蕨手刀・馬具・冑(かぶと)をはじめとする鉄製品、勾玉(まがたま)などの玉類、か帯金具(かたいかなぐ=位を示すベルト飾り)、和同開珎(わどうかいちん)など様々なものがあります。これらは葬られた人が生前使っていたものが中心になっていますが、中には奈良の都との交流を示すものも含まれています。「蝦夷(えみし)」と呼ばれたこの地方の人々は、都と接触)しながら独自の文化を形成していたと考えられています。
群集墳をはじめとする古墳については、まだまだわからないことがたくさんあります。 研究が進んで、早くなぞが解明されるといいですね。
以上を転載!
(9/20)
わたしは中国人の死生観や埋葬方法についてまったく知らない。 又、一口に中国といってもその広い国土では様々な埋葬方法があるのであろう。これを前提として話を進めるのであるが。 ある時 「孔子廊」を訪れた時のこと。それは数々の建物で構成された広大な一つの街であったとの記憶にしかないが、その散策で例によって^^?子供心の意を引いたものがある。木立・草地のなかに散在する直径約2m高さ1mほどの土饅頭があった。聞けば墓だという。 直感的に<これは、列島古墳の前身だ!>と思った。
と言うのは、筆者がそのような墳墓を見るも聞くのも初めてであった。 日本での埋葬方法は土葬が中心で、それが火葬に変わったのは昭和の代(○○年)からで、長い土葬の歴史を思うと咳払いの時間にも満たない。首長格は別として、時代劇等で知る一般人の土葬は、木製の樽棺であり、4尺ほど掘り下げて棺を納めその上に掘り返した土をかぶせる。必然的に棺の分だけ小高くなる。何年か後に遺体や棺は腐れてその盛り土は落ちてほぼ平らになる。それまでは木製柱か、ちっちゃな小屋(○○屋?名前忘れました^^!)を立てる。財力のある人は土が“落ち着いて”から石塔をすえる。一般が石塔墓を設えることが出来るほどになったのは、ごく近年(明治以降?)かな。このことから列島住人の死生観は、土(大地)に還るが主流であり、天国に召される考えは西洋的な考えからと推察する。(さて、仏教のお浄土はどこなのでしょうか?)
墓の形状は、その考えや財力にもよるが、多くはその地域で“何が”手に入るかによっても決まる。日本のように狭い地域に野や山や川があれば、木でも石(山石や河原石)でも容易に手に入る。そこで石の一つも置いて埋葬の目印にできる。ところが中国では見渡す限りの堆積土の平原。遠い山から石を取りよせ石塔を切るとなると大変だ。(もちろん山間部を除く、その昔の話ですから誤解なきように!) 黄河や、長江の(中流?)下流域では土砂ばかりで、石の一つも見つかりはしない。今でも車窓から注意すれば、畑のなかに、ポッツリとこの土饅頭を見ることができる。愛する人を我が畑に埋葬したいのは無理からぬこと。中国政府ではこのような土葬が増え続け、その場所を確保するのが大変なことから火葬に切り替えたいとのニュースがありましたが、火葬は遺体の損傷との考えがつよい?この国の抵抗やいかに・・・?。(合掌)
<遮光器土偶と、蕨手刀と、土饅頭墳から思うこと> (9/22)
さて、長々と迂回した話を「八戸市馬淵川あたり」に進行した<除福探検隊>にもどして、
一口に除福隊と云っても、その性格は様々だ。始皇帝は徐福に<百工・色々な職業の人>を与えている。(それを推理小説風に?、前の方へ忍ばせておきましたが・・? 気づいて頂けましたかぁ~^^) 特に、この部隊には強力な武人がいた。この場合、現地住民との最初の出逢いは大切で何かの不都合があれば殺傷を含む戦いとなる。それはさておき・・、遮光器土偶は、厄災除けの土偶に、この武人の鎧甲(よろいかぶと)を着せたものだとしました。
蕨手刀は、『中国大陸や朝鮮半島に結びつく直接的な証拠がない』 とあったが、完全にそれを否定できない。 又、『岩手では奈良時代の刀と言われている』 とあり、これを切り崩すのは大変だが、『製品として伝えられた蕨手刀がのちのち砂鉄の豊富なこの地で多く作られるようになった可能性は高く』 とあることから、徐福達の武人が最初に持ちこんだ可能性もないことではない。何故このように無理矢理に^^? 徐福に結びつけるかというと。列島で戦いの痕跡(遺骨等の傷つき)があるのは米作りが進んだ弥生期以降であり、縄文晩期より以前の出土は見あたらない(?)こと。(列島の住人は、概しておとなしい^^) さらに、集落を離れた所からの蕨手刀の出土もあやしい。何故なら、徐福達は、Dr.izumo>が指摘されたように、有る意味(秘薬探し)の“秘密結社”であり、現地住民とは生活圏を異にする。
円墳についてだが、列島の他の地で土饅頭形墳の群集は、多くを見かけない?。そして、「遺体を埋葬(まいそう)する主体部は、川原石を積み重ねた石室をもつもの」 とあるが、先に指摘したように広い堆積平原に住む中国の人達にとっては、“角のとれた川原石や、清流は珍しく” その貴重な石で石室や墳墓を飾り、清流にのせて故人を送りたいとの考えが発したのではないか。香川県で初期の墳丘とされるものにも川原石で覆われていたと思われるものがあり、この考えは後々の巨大墳にも引き継がれている。 素人探偵は、出土物の 「時間的(歴史)流れと広がり」を突き崩すことが出来ない。 しかし、以上の3点は列島の文化からみれば異質であり、今は、それをうまく説明できないが、徐福団を外したら 「では、いったい誰が!?」と、なる。まさか、貴方は、『宇宙人が飛来した』 等とは仰らないでしょうね(笑)
あっ!それから言いそびれましたが。<馬淵川>につないだ(?)“馬”も、徐福達が連れてきたのではないでしょうか? 出雲にも馬のつく地名がありました。 北上川流域に古代牛の骨はたくさん埋まっていましたが、 「どこの馬の骨とも分からず(笑)」 の語があるように、その骨が馬ではなく「牛や鹿の骨のほうがいいんでないかい」と思うのが子供心です。この場合の『どこ』は外国のことを指し、列島では野生化した馬はあっても、もともとの<野生>の馬は棲んでいなかったのではないかと、わたしは思っています。
<例外の北海道; 現地人との融和には、ならなかった?!> (9/24)
以前わたしは、北海道<勇払平野><石狩平野><石狩川流域>の地名に興味を持ち、国土地理院の2万5千分の1 地形図と、にらめっこしたことがある。なかで、<夕張山地>の地名が “小さく、数多く、アイヌ語” の地名で区切られていた。このことは、広大な北海道であるから地名も広域的であろうとの先入観をもっていた自分には意外であった。地名が小さく区切られているということは、その昔の人口密度が高かったことにつながる。 中で<神居・カムイ>とか<神室・かむろ>の地名は、信仰の聖地であることはいうまでもない。そして、そこには熊がたくさん生息していたのでは無いだろうか。ご存じのように、アイヌの人達は熊を神聖な生きものとしてあつかう。この聖地へ徐福達が足を踏み入れれば、当然争いを生じる。
徐福達にすれば、そういった神秘的な山にこそ好んで(?)その霊薬を求めて入る。徐福達は、中国を統一した始皇帝の武人をもつ。人が相手なら強力でも、相手が熊ではねえ^^!。さらに、熊と共存するアイヌの人達の戦闘力は侮れないものがある。 以上のような理由かどうかは分からないが、蕨手刀の分布は、渡島半島の一部と、石狩平野からの出土であり山間部には入っていない。蕨手刀の形は、熊の突進から体をかわし、なぎ払うために考案されたのではないだろうか。 北海道の地名で申し添えておきますが、北海道には全国津々浦々と同じ地名や、篠津・十津川等の地名があります。これは、その後に入植した人達が付けた地名かなと思っています。
その2 治験薬の実験 (9/26)は次の記事へ移動します^^。
つづきます^^、・・・♪
(9/08) 1拍手いただきぃ~~~(^-^)♪ Fさん>だよね?ありがと^^♪ それから、近時よく訪問して下さるSTさん>、返礼の訪問をしてもエラーが出てシャットダウンを余儀なくされます。(>,<) ついでに(で、ゴメン)?言っておきますが、足跡も残さず日々欠かさずに訪問して下さるありがたいお方が8名ほど?おられます。 この方々は、素人が記事を続ける上で大きな励みに(深礼)なってはいますが、わたしの記憶にも残らないし歴史にも遺らないので(足)あしからず(笑)。
<徐福達の行動:その2、治験薬の実験>へ
ご訪問ありがとう御座います。 Dr.>コメントが(10/19)に入りました^^。
列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?
【 前記事、Ⅰ~Ⅲの要旨 】
徐福そのⅠ: 秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、除福に童男童女3000人を与え、東方彼方の日本列島から“不老長寿”の薬石を持って帰れと命じた(又は、徐福が願い出た)。
徐福そのⅡ: 徐福達が日本列島で求めた“不老不死、不老長寿”の薬石にはどんなモノがあったのであろうか? 情報をお待ちしています^^!。
徐福そのⅢ: 日本海沿岸に太い探索拠点を作った徐福達の、次になすことは、日本列島の “三神山(火山?)”を探して、内陸部や、津軽海峡をぬけ三陸の方にも進出していった。
ここまでが、今までの記事(Ⅰ~Ⅲ)の概略です。
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その2 治験薬の実験 (9/26)
始皇帝は、徐福達に「不老不死の薬石と、その仙人を連れて帰れ!」と命じた。 その時、中国へ入っていた日本列島の情報は、「はるか彼方、東方の三神山に、水墨画にみるような蓬莱頭(ばさばさあたま)で不老長寿の仙人が棲む神秘の国」というイメージでしかなかった。いわば未知への探検である。中世ヨーロッパの歴史で、東方に「黄金の国ジパングあり」として船団をくり出したことはある。共に未知への出立ではあるが、それとこれとは大きな違いがある。かたや黄金という富を求めてであり、一方の徐福達は、富と権力は、すでに手に入れた始皇帝が欲するその薬石である。又、その構成人員にも違いがある。欧州の方は当然船をあやつる屈強な者たちであろうが、徐福達は“童男童女3000人”という断り書きがついている。中世でさえ海難はつきものの時代。それより○○○年も前の話だ。 何故に、童男童女3000人なのであろうか? それが解せない・・!
↓ 前記事のコメント欄から移設しました。
もしかして shigechanizumo | URL | 2010-09-28-Tue 09:36 [EDIT]
私は、広い中国大陸のことですから、秦の始皇帝は205歳とか、360歳などと称する老人に、しかも若々しい人にあったことがあるのではないかと思うのです。その人達に、何で長生きなのかと聞いたら、あるものを飲用しているとか、たまたま若い頃あるものを口にしたなどと適当なことを言ったのではないでしょうか。
日本にも、「八百比丘尼」の話があります。人魚の肉を食べたから「十代の美しさを保ったまま何百年も生きた。」というものです。
おっしゃるように、10代の童男童女3000人に人魚の肉のみならず、様々なものを食べさせたり服用させ、それを記録しておいてその物とともに中国へ帰る。もしその中で10代の若さを保ったまま60歳を迎えた者がいたら、50年ほどの治験期間でその効能を証明できるわけです。否、40歳でそのようであれば、30年ほどで効用を認めることができるのです。御筆の趣旨に賛成です。
立場が逆に~^^? 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-28-Tue 22:02 [EDIT]
Dr.> こんばんは♪ コメントありがとう御座います♪
しばらく、意に反して、コメント欄を閉ざしていました。こめんなさい。お詫びいたします。
205歳とか、360歳と称する老人。日本にも、「八百比丘尼」の話。おもしろそうですね。
・・念のためにこのブログをご覧になっている皆さんに申し添えておきますが、Dr.>が言われている数字や、話は口から出まかせを言っておられるのではありません。氏のブログへ訪問なされば、それがよく分かると思いますよ。只、当ブログへよせているドクターコメントは、Dr.>の外れた部分かな(笑)?。 現代科学・史学が相手にしない“突飛論”を語っているこの素人(私)のほうが常識的なコメントしか思い付かないのがつらい・^^!。
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<童男童女は被験用か?>
何故、童男童女3000人なのであろうか。わたしは、それを「たとえ、何代かかろうとも必ず持って帰れ!」との始皇帝の強い意志からだとした。だが、それだけであろうか? ドクターとのやりとりで強い疑念がわいてきた。不老不死の薬石は、“それと確かめてこそ、その価値が認められる”人類の歴史で<新薬の開発>には多大の時間と、費用と、多くの実験と経験を重ねてきた。それ(残虐性)と、口にするかしないか、向き合うか向き合わないかは別として、最終的には「人体実験」をしてのみその効能が認められる。
徐福達は、日本列島にどのような人がどの程度住んでいるのかは、分からずに出航した。一概に「不老不死の薬」と言っても、その対象が五十・六十歳の人か。三十・四十歳の人か、あるいは十九・二十歳の人かによって薬の処方は異なる。徐福が列島で自称120歳の人と、その人が服用していた“養老の水”だ。といって連れ帰ったところで誰も信用しない。さて、困った・・。そこに人が住んで居なかったらどうしよう。 その場合は、中国から人を連れて行って、その薬が<霊薬>で長生きをすることを証明しなければならない。そして、一口に長生きといっても、五十・六十歳の人より、三十・四十歳の人のほうが平均余命は長い。さらに、健常者に薬は要らないと思うが、中国には病気にかかりにくい身体作りの思想「○○←思い出せない」があり、健常者においても常日頃から漢方のサプリメントは行う。あれこれ考えても解らないことだらけだ。「えぇ~い。若い子供を連れて行け! その子達が長生きして帰れば一番の証明になる」というのは、論としてあまりに乱暴すぎますか?(笑)。 始皇帝は、徐福の出航から9年後(?あとで確かめます^^!)に死亡している。
(9/30)
一口に、「不老不死」といっても、漠然として掴みどころがない。とりあえずは<健康で長生き>したい^^。その時、始皇帝が何の持病があったのか、何を患っていたのかによって、徐福の求める薬石は決まってくる。こういった権力者は世継ぎを願うのが常であるが、美女3000人を集めての桃源郷の話もあるようだから、そっちの方は強かったらしい^^。始皇帝は、中国平定、統一のさい縁者子孫でかためる“血統”にするか、“群県制度?”にするかの二者があったようですが、結局は後者のほうを選んだ。 徐福も列島での薬石集めは、これに(本社・支社の関係)習ったと思いますよ。日本では、江戸に幕府をおき・諸侯を統率する代官制度をとり入れた家康が中国の歴史を学んでいたのでしょうか?
<揺れる死生観・その1> (10/1)
今までに、「死生観」等と○○ばって考えたことはありませんでした。昭和のなかばに「人生50年」という言葉がありました。多くの人が50歳後半でこの世を去っていました。それが今では70・80歳まで生きることはザラ。豊かになったものです。では何時まで人は生きるのでしょう。占い師&人生アドバイザー(?)の<細木和子先生>が言われた『人(私達)に与えられた命は120年。それを如何ように使う(長く生きるか短くいきる)かは、その人の摂生次第。』というような主旨のことばを述べられたことがあります。 私は、今までの現状をみれば、このことばが一番当たっているように思います。『還暦は、その半分の折り返し地点』 ともいわれました。知りうる歴史においても、喜寿、米寿、古稀、等のことばがあるから100歳近くまで生きる人はあったのでしょう。 それが、Dr.>が言われた205歳。360歳にがく然としました。もちろん、それは直ぐに信じられる数字ではありませんが、自然界には≪例外≫という摂理が仕組まれている。と、私は思っています。これを語ると長くなりますので^^!、興味があるお方は、拙著の電子出版極秘報告書「巨大隕石と大津波」の冒頭と末尾の方へどうぞ(笑)。 205歳。360歳。 あったかも知れないと考えるのがこの素人(私)です。話半分としても180歳。まんざら信じられない話ではありません。
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(10/03)<話しは、まったく変わり^^!>
日々のご訪問。真にありがとう御座います^^。
10/1 に、日本蜜蜂の来蜂を受けました。庭の松の幹に直径20cmぐらいの楕円のスイカ状のもので蜂球というそうです。さっそくネットで調べてもらっての巣箱づくり。どうやら取り込みました♪。日本蜜蜂を花虻とばかりに思っていたほどの ド素人。 今は、そちらの方が興味津々^^>・・・で、 「卑弥呼」の方の思考がうまく働きません。真に勝手なわがままを言いますが、こちらは、しばしのご猶予をお願いいたします。 興味のあるお方はカテゴリー<ゲスト様>【MY粗茶室 】 のほうへ入らして下さい。なにも茶菓子の一つもお出しすることは出来ませんが “中実のない” コメントぐらいなら・・(^-^)♪
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そうかな? shigechanizumo | URL | 2010-10-04-Mon 10:38 [EDIT]
不老長寿、不老不死、こういったものも人の願望かもしれませんが、もうひとつ似たような願望があります。よみがえりです。秦の始皇帝は死にました。しかし、彼は蘇りという願望を持っていたのではないでしょうか。兵馬俑を作ったのも、死してまた蘇るという意思を持っていたのではないでしょうか。であれば、徐福が帰って来るのは何時でも良いことになります。3000人の童男童女が80歳になって中国に帰ってきたとしても、彼らが蘇りの薬を持って帰ったのなら、始皇帝は蘇ることが出来るのです。
<その手がありましたかぁ^^> 平 素人 | URL | 2010-10-04-Mon 21:37 [EDIT]
Dr.> いつもコメントありがとう御座います♪
コメント欄の開けたり閉めたりで、ご不自由をおかけしております^^!。
ふ~む。 その手がありましたか。わたしが蘇りで一番に思いだすのはキリストです。何故そのようなことが語り継がれているのかも不思議の一つです。 これは非常に生くさい話しで、真偽のほどは分かりませんが、スターリン?の遺体に人工心臓をとりつけ輸血をはじめ生命維持装置をとりつけ、生体 (?)のまま保存し100年・200年後の医学が進歩したとき、再び甦らせるためとか。双頭の山羊をはじめて造った国。まんざら嘘でもないような現実味があります^^?
生死の判断の線引きをどこにするかは医学でもむつかしい問題ですが、心臓の冠動脈血栓をとる手術で人工心臓に切り替えるとき、「○○さん、大きなショックがありますが心配しないでくださいね」と言われた人の話。「ガーンとかガクンとか形容のできないショックの後、目の前が真っ白になり後は無意識」 これも瞬時ではあるが死からの蘇りと言えなくもありません。
砂漠に棲む両棲類だったかな。乾期になるとカラカラの干物の状態で身を潜めておき、雨季になると即席ラーメンのごとくに生き返る!(テレビで見ました)。始皇帝が甦るには内臓を保持し腐敗を防ぐ防腐剤処理か、食物を断ち即身仏のような状態で待ち受けなければなりませんね。それともDr.ブログ>にあったような、国譲りで、『現世は大和にやるが、あの世は出雲がとる!』 というような精神論になると素人には、まったくわかりません^^!
<揺れる死生観・その2> (10/9) おまたせしました。
それでは、この私くしが180歳まで長生きした時のことを考えてみます。20代のままで・・^^。もし、そのような霊薬があったならばそのような霊薬が大量にあるとは考えられず、もしその薬があったならば人類はとっくにそれを手に入れている。妻をめとり子供が生まれる。まわりのすべてが底上げして長生きするのならばいいが、ひどい場合は、この私だけが長生きする。妻が死に子供達も逆死する。新しい妻をめとり子供をもうける。360歳までも生きたとしたら、
「幾度となくその悲しみ」を繰り返えさなければならない。例え妻子が同じようにその霊薬を処方してもその線引きが広がるだけで、それはあたかも“ローヤルゼリー”で育てられた女王蜂に似ている。私にはこのような長生きは、とうてい耐えられない。このような長生きを<始皇帝>は望んだのであろうか。何はともあれ、始皇帝のその薬への執着は、すさまじく “みせしめ” のために460人もの学者を穴埋めにしている。
<薬の試験は、し烈を極める> (10/10)
*この項目は、素人(私)の無知から発する雑感であり誤りや偏見等が含まれていると、
ご承知おき下さい。
徐福たちは、列島で始皇帝の命を受けた薬やら、その処方やらを探さなくてはならない。しかしながら、何が何の病気に効くのかが分からない。しかも、それは中国にはないモノて列島の特産品であるという制約がつく。中国にあるものなら大資をだしてまで列島に操りださない。動植物は勿論のこと、土石にいたるまで珍しいと思えるものなら何でも試す。薬石のもつ宿命から、それは人体実験をしてのみ、その効用が確かめられる。薬石とその処方は、人類の長い歴史の積み重ねの上になりたつものであり、如何に徐福がその道に長けているとは言え、それを短期のうちに求めようとすれば、当然何処かで無理が生じる。(ドクターの云われるようなことであれば別だが)皇帝は悠長にそれを待ってはくれない。
(10/12)
近代の試薬は、二十日鼠、モルモット、ウサギ、ビーグル犬、猿、等の動物実験からはじまる。そして最終的には人へと移してゆく。薬はその性質上「毒にも薬にもなる」というように、用量と処方を守ってのみその効果があらわれる。徐福達の場合は、「見たことがない効きそうだ」という“カン”だけでそれが試される分けであるから、当然生命の危険や副作用の苦痛をともなう。ある意味ではその<限界を探る>のが試薬だと言える。歴史的にみれば、老母を妻を自らを試験体にした異例はあるが、常にその対象は “社会的弱者” であり、特に戦争時においては悲惨をきわめる。 それは、“必要悪”かも知れないが、治験薬の美名のもとに行われるこうした行為に目をそらしてはならない。時代によりその線引きや思想も変わってきているようだが、今、何が許されて何を許してはならないのかの、自己チェック(註:ヘルシンキ条約)を怠ってはならない。特に、徐福隊の場合は、それ等に加えて『不老長寿』という条件がつく。筆者はその被験体用として3000人の童男童女が用意されたとの疑念をぬぐい去ることが出来ない。
<徐福達の行動:その3、薬石・珍宝の集荷>
<徐福たちの集めたもの> (10/13)
(以下は筆者の思いつきで挙げたもので、もっと外にもあると思います。それを教えて下さい)
まず第一に挙げたのが温泉水。これは、そのままという分けにはいかないから、鬼の釜?で蒸留して“温泉の花”としました^^。 次に挙げたいのが、糸魚川水系の“翡翠”。列島のヒスイの産地は、糸魚川のみと思っていましたが、ドクターとのやりとりで、質は、やや糸魚川より劣るが出雲の○○島にもあるとのこと。近年に宮崎辺りでも見つかり話題になったことがある。
古墳等から出土するヒスイや玉石類のルーツは、当時の列島人には、固い玉石を研磨・加工する技術が確立していなかったとみられることから、考古学でも色々に云われているようです。中国人は、玉石のなかでも特に翡翠がお好き♪^^?。
(以下は、筆者の考えですが^^!)
玉石を身にまとうことは、他に対して身分とか富の自己アピールであり、古墳代→弥生期以前の列島人は、玉石を身につける風習はなかったとみている。卑弥呼以前のそれまでは、神(荒神さま)の下において平等であり、年功や性差の序列はあっても「身分制度」までには至っていなかったのではないか。魏志倭人伝では、それを見て「人々、序列をつくらず座する」と云っている。それ以前にあった牙の首飾りとか、貝の腕輪とかは、なにかの<困り事や、決め事>が発生したとき<巫女や、太夫さん>が<その神>を我が身や他に呼び寄せるための準備のための用具であり、今の袈裟のような役目をするものとみている。物事を決めるのは人ではなく『因は荒神にあり』とする社会制度であり、その荒神さまのいうことで政(まつりごと)や困り事を解決していた。列島人が玉石を身に付けることはその延長であり、中国の権威着けの身飾り?とは意味が異なる。今でも、そのようなよろず相談の<拝み屋>さんは居ますよ。『 あの先生は、よく当たる^^』 このような集落が、大きいか小さいかは別として列島各地に散在していたのではないかと前述しました。以上、ちょっと脇へそれました^^!。
そして、三つめに挙げたのが、オオサンショウウオ! これは中国にもありましたが、日本のは固有種。産地によって含有分も変わるのでしょうか。朝鮮人参でも天然物と人工物との価格は(質も?)雲泥の差!(←月とスッポン。天地の差より、パクリました。笑)
(10/14)
近時、先進国が開発途上国から、それ等の<生物資源>を探索蒐集することを○○海賊行為と呼び問題になっています。歴史的(今も?)には、大英帝国(ゴメンこの呼び方には問題有り)の“プラント・ハンター”。 イギリスは元種の保存という面から、このような問題に早くから取り組んでいます。そして、これも近時、話題になっている電子機器に使う“○○メタル”。これ等の稀少類の寡占問題が発生しました。この二つの問題は忘れる程前の『 ゴルゴサーティーン』で、取り上げられていましたよ。(笑い)
あっ! それからもう一つ取り上げたいものに、“マッコウクジラの脂”。 これは、かの<ペリー>が、灯油の需要にこたえるため、遙か西太平洋に、水や食料の補給基地として日本に開国を迫ったいわく付きのもの。日本近海にはそのマッコウクジラがたくさんいたのでしょうか。それを語るに、宮崎県には<油津><鰐塚山地>という変わった地名があり、これを史実探偵は、4010年前の東北に端を発した巨大津波が鯨おも打ち上げたことを遺している地名だと思っています。鯨やサメが打ち上げられた! 当時の人達はビックリしたでしょうねえ^^。そして地名に遺した。 「地名は祖先からのメッセージ!」それを徐福隊にも語ったのでしょうか? なにはともあれ、素人の言うこと(^-^)であるから定かではないが<徐福会社>は、日本列島の各地を探索し、そこから集めた珍品・薬石を列島の<何処かに>集荷する。
<正月に各地分団が寄り合う> (10/15)
中国の人達は(日本人も^^)正月(旧暦)に寄り合う風習がある。ご存じの華僑に代表されるように「世界で中国人が商売していない国はない」と云われる程。その散り々に別れた人達は本国の親族とあいたい願望がある。徐福達にしても、その想いは同じだ。そして忘れてはならないものに『皇帝に薬石を持ち帰る』ことがある。たとえそれが不老不死の薬であろうがなかろうが、とりあえずの珍品・薬石は皇帝のもとへ送り届けなければならない。<徐福>は、前述した出雲(?)に、その本社をおいたとした。そこへ「 各支部、好きな時に持っておいで!」という分にはいかない。その日にちを決めたい。
(10/16)
ここで思いだして頂きたいことがある。<神無月>。列島に散らばった各分団は、その正月に集まろうと決めたが、遠くであればあるほど早く出発しなければならない。今でも全国展開の会社が支社長会議をするとき、その開催時間を一番遠くの鹿児島とか北陸支社が間に合う時間にきめる。通常時間は8時からだが、10時からにしようかとなる。その出立が神無月(10月)。そして12月が復路を急ぐ師走月(12月)^^!。このように決めれば正月前には、皆々が集まることができる。さらにそこから<中国送り隊>を結成して集荷した珍品を送り出せば中国の旧正月(新暦の○月○○日)にはまにあう? 要は、皇帝のおわす中国の旧正月から逆算して前に前へと、さかのぼりその出発日を決めればいい。
(10/17)
次に大切なことは当時の航海力と運行力である。九州の<佐世保><唐津><博多>から、今、決めたその○ヶ月で秦朝の首都<咸陽市・かんようし>(咸陽は、黄河河口から上流へ約1000km。日本でいうと下関から秋田ぐらい)へ着くかどうかは、素人考えなので責任がもてない^^。 おおよその目やすは、それより○○年後の遣隋使、遣唐使の運行を参考にすればよい。そして、この話は、列島文化の古墳期、神代(かみよ)、卑弥呼(AC175?~248?)をおよそ400年もさかのぼる紀元前3世紀頃の模索であるとご承知おきください。(^-^!) ちなみに何時の頃とは断定できないが佐賀県・唐津市の<神集島><呼子>の地名は、その徐福団が集合し、「 行ってきま~す!」 「 お帰りなさ~い♪」 と呼び合う人達、こども達の言葉(地名)とみるのは素人探偵の思いすぎでしょうか?(笑)。
不思議 しげちゃん | URL | 2010-10-18-Mon 08:51 [EDIT]
不老不死・不老長寿といっても、どの時点からの不老なのか、長寿なのか。青年の若さで不老なのか。秦の始皇帝のように絶大な権力を得てからの長寿なのか。ただ馬齢を重ねつつも185歳でも生きているといったことなのか。どれを採るかによって霊薬の種類も異なるのではと思うのですが・・・。
始皇帝は何を考えていたのか? 平 素人 | URL | 2010-10-18-Mon 10:51 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん>^^!へ、 いつもコメントありがとう御座います^^♪
コメント欄の開閉でご不自由をおかけしていることをお詫び致します。
そうですね。それによって徐福が列島の<何処で><何を>求めたかにつながり、徐福の立ち寄り場所が推定できます。一説には水銀もあるようですから、その水銀は何処に・・・?
始皇帝の功績とその暴君ぶりは、Dr.>のほうがよく識るところであり、わたしは始皇帝が何を考え、どんな死生観をもち、兵馬俑や不老不死の霊薬を求めさせるに至ったのかをまったく知りません。それを逆に、お伺いしたいくらいです。始皇帝は、それを諫めた長男を追いやり、460人の学者を穴埋めにし、その声は「狼(ろう)の如し」といいますから誰も抗らえません。少なくとも徐福は、自身の考えはどうであれ始皇帝が没する(9年後?まで)皇帝の意(?)に沿うような薬石探しをせざるをえなかったと思います。ご存じのように秦朝は12年後(汗~^^?これも後で調べます)で、滅びています。もとより始皇帝の“不老不死”の考えは無理な話しで多勢が受け入れない部分。その死後は急速にさびれ・・・、「後は野となれ山となれ」・・・、(笑)
“ 業 ” しげちゃん | URL | 2010-10-19-Tue 08:55 [EDIT]
不老不死と不老長寿とは少しニュアンスが異なるように思います。不老不死は業のようなもので、死を怖れるという心象が込められているように思います。一方、不老長寿は祝福のように思えます。秦の始皇帝が怖れたのは己の業であり、死と共にその権勢が失われた時に、それまでの業の償いが襲いかかって来ると思ったが故に、自らの死を恐れ、不老不死を願っていたのではないでしょうか。
ご明察!! 平 素人 | URL | 2010-10-19-Tue 21:09 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> こんばんわ コメントありがとう御座います^^♪
わたしは、何故8000体もの兵馬俑なのかが解りませんでした。これは、始皇帝が死してから造営されるから2代目が成したのかも知れませんが、遺言に残しておいたとも考えられます。いずれにしてもあの世にまで兵馬を連れて行く発想が分かりませんでした。晩年は身を隠しトンネルで行き来をするほど<暗殺>に対しての用心ぶかさ。現世の戦乱をかいくぐり、あの世にまで兵馬をもってゆく、・・・。 その心の強さと同時に一抹の寂しさを感じます。 “ご明察” ありがとう御座いました。
これで、ますます、徐福は、その呪縛から逃れられなくなってしまいました。(^-^!)
<列島人から見た徐福たち>へ、・・・
つづきます^^!
ご訪問ありがとう御座います。 Dr.>コメントが(10/19)に入りました^^。
列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?
【 前記事、Ⅰ~Ⅲの要旨 】
徐福そのⅠ: 秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、除福に童男童女3000人を与え、東方彼方の日本列島から“不老長寿”の薬石を持って帰れと命じた(又は、徐福が願い出た)。
徐福そのⅡ: 徐福達が日本列島で求めた“不老不死、不老長寿”の薬石にはどんなモノがあったのであろうか? 情報をお待ちしています^^!。
徐福そのⅢ: 日本海沿岸に太い探索拠点を作った徐福達の、次になすことは、日本列島の “三神山(火山?)”を探して、内陸部や、津軽海峡をぬけ三陸の方にも進出していった。
ここまでが、今までの記事(Ⅰ~Ⅲ)の概略です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その2 治験薬の実験 (9/26)
始皇帝は、徐福達に「不老不死の薬石と、その仙人を連れて帰れ!」と命じた。 その時、中国へ入っていた日本列島の情報は、「はるか彼方、東方の三神山に、水墨画にみるような蓬莱頭(ばさばさあたま)で不老長寿の仙人が棲む神秘の国」というイメージでしかなかった。いわば未知への探検である。中世ヨーロッパの歴史で、東方に「黄金の国ジパングあり」として船団をくり出したことはある。共に未知への出立ではあるが、それとこれとは大きな違いがある。かたや黄金という富を求めてであり、一方の徐福達は、富と権力は、すでに手に入れた始皇帝が欲するその薬石である。又、その構成人員にも違いがある。欧州の方は当然船をあやつる屈強な者たちであろうが、徐福達は“童男童女3000人”という断り書きがついている。中世でさえ海難はつきものの時代。それより○○○年も前の話だ。 何故に、童男童女3000人なのであろうか? それが解せない・・!
↓ 前記事のコメント欄から移設しました。
もしかして shigechanizumo | URL | 2010-09-28-Tue 09:36 [EDIT]
私は、広い中国大陸のことですから、秦の始皇帝は205歳とか、360歳などと称する老人に、しかも若々しい人にあったことがあるのではないかと思うのです。その人達に、何で長生きなのかと聞いたら、あるものを飲用しているとか、たまたま若い頃あるものを口にしたなどと適当なことを言ったのではないでしょうか。
日本にも、「八百比丘尼」の話があります。人魚の肉を食べたから「十代の美しさを保ったまま何百年も生きた。」というものです。
おっしゃるように、10代の童男童女3000人に人魚の肉のみならず、様々なものを食べさせたり服用させ、それを記録しておいてその物とともに中国へ帰る。もしその中で10代の若さを保ったまま60歳を迎えた者がいたら、50年ほどの治験期間でその効能を証明できるわけです。否、40歳でそのようであれば、30年ほどで効用を認めることができるのです。御筆の趣旨に賛成です。
立場が逆に~^^? 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-28-Tue 22:02 [EDIT]
Dr.> こんばんは♪ コメントありがとう御座います♪
しばらく、意に反して、コメント欄を閉ざしていました。こめんなさい。お詫びいたします。
205歳とか、360歳と称する老人。日本にも、「八百比丘尼」の話。おもしろそうですね。
・・念のためにこのブログをご覧になっている皆さんに申し添えておきますが、Dr.>が言われている数字や、話は口から出まかせを言っておられるのではありません。氏のブログへ訪問なされば、それがよく分かると思いますよ。只、当ブログへよせているドクターコメントは、Dr.>の外れた部分かな(笑)?。 現代科学・史学が相手にしない“突飛論”を語っているこの素人(私)のほうが常識的なコメントしか思い付かないのがつらい・^^!。
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<童男童女は被験用か?>
何故、童男童女3000人なのであろうか。わたしは、それを「たとえ、何代かかろうとも必ず持って帰れ!」との始皇帝の強い意志からだとした。だが、それだけであろうか? ドクターとのやりとりで強い疑念がわいてきた。不老不死の薬石は、“それと確かめてこそ、その価値が認められる”人類の歴史で<新薬の開発>には多大の時間と、費用と、多くの実験と経験を重ねてきた。それ(残虐性)と、口にするかしないか、向き合うか向き合わないかは別として、最終的には「人体実験」をしてのみその効能が認められる。
徐福達は、日本列島にどのような人がどの程度住んでいるのかは、分からずに出航した。一概に「不老不死の薬」と言っても、その対象が五十・六十歳の人か。三十・四十歳の人か、あるいは十九・二十歳の人かによって薬の処方は異なる。徐福が列島で自称120歳の人と、その人が服用していた“養老の水”だ。といって連れ帰ったところで誰も信用しない。さて、困った・・。そこに人が住んで居なかったらどうしよう。 その場合は、中国から人を連れて行って、その薬が<霊薬>で長生きをすることを証明しなければならない。そして、一口に長生きといっても、五十・六十歳の人より、三十・四十歳の人のほうが平均余命は長い。さらに、健常者に薬は要らないと思うが、中国には病気にかかりにくい身体作りの思想「○○←思い出せない」があり、健常者においても常日頃から漢方のサプリメントは行う。あれこれ考えても解らないことだらけだ。「えぇ~い。若い子供を連れて行け! その子達が長生きして帰れば一番の証明になる」というのは、論としてあまりに乱暴すぎますか?(笑)。 始皇帝は、徐福の出航から9年後(?あとで確かめます^^!)に死亡している。
(9/30)
一口に、「不老不死」といっても、漠然として掴みどころがない。とりあえずは<健康で長生き>したい^^。その時、始皇帝が何の持病があったのか、何を患っていたのかによって、徐福の求める薬石は決まってくる。こういった権力者は世継ぎを願うのが常であるが、美女3000人を集めての桃源郷の話もあるようだから、そっちの方は強かったらしい^^。始皇帝は、中国平定、統一のさい縁者子孫でかためる“血統”にするか、“群県制度?”にするかの二者があったようですが、結局は後者のほうを選んだ。 徐福も列島での薬石集めは、これに(本社・支社の関係)習ったと思いますよ。日本では、江戸に幕府をおき・諸侯を統率する代官制度をとり入れた家康が中国の歴史を学んでいたのでしょうか?
<揺れる死生観・その1> (10/1)
今までに、「死生観」等と○○ばって考えたことはありませんでした。昭和のなかばに「人生50年」という言葉がありました。多くの人が50歳後半でこの世を去っていました。それが今では70・80歳まで生きることはザラ。豊かになったものです。では何時まで人は生きるのでしょう。占い師&人生アドバイザー(?)の<細木和子先生>が言われた『人(私達)に与えられた命は120年。それを如何ように使う(長く生きるか短くいきる)かは、その人の摂生次第。』というような主旨のことばを述べられたことがあります。 私は、今までの現状をみれば、このことばが一番当たっているように思います。『還暦は、その半分の折り返し地点』 ともいわれました。知りうる歴史においても、喜寿、米寿、古稀、等のことばがあるから100歳近くまで生きる人はあったのでしょう。 それが、Dr.>が言われた205歳。360歳にがく然としました。もちろん、それは直ぐに信じられる数字ではありませんが、自然界には≪例外≫という摂理が仕組まれている。と、私は思っています。これを語ると長くなりますので^^!、興味があるお方は、拙著の電子出版極秘報告書「巨大隕石と大津波」の冒頭と末尾の方へどうぞ(笑)。 205歳。360歳。 あったかも知れないと考えるのがこの素人(私)です。話半分としても180歳。まんざら信じられない話ではありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(10/03)<話しは、まったく変わり^^!>
日々のご訪問。真にありがとう御座います^^。
10/1 に、日本蜜蜂の来蜂を受けました。庭の松の幹に直径20cmぐらいの楕円のスイカ状のもので蜂球というそうです。さっそくネットで調べてもらっての巣箱づくり。どうやら取り込みました♪。日本蜜蜂を花虻とばかりに思っていたほどの ド素人。 今は、そちらの方が興味津々^^>・・・で、 「卑弥呼」の方の思考がうまく働きません。真に勝手なわがままを言いますが、こちらは、しばしのご猶予をお願いいたします。 興味のあるお方はカテゴリー<ゲスト様>【MY粗茶室 】 のほうへ入らして下さい。なにも茶菓子の一つもお出しすることは出来ませんが “中実のない” コメントぐらいなら・・(^-^)♪
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そうかな? shigechanizumo | URL | 2010-10-04-Mon 10:38 [EDIT]
不老長寿、不老不死、こういったものも人の願望かもしれませんが、もうひとつ似たような願望があります。よみがえりです。秦の始皇帝は死にました。しかし、彼は蘇りという願望を持っていたのではないでしょうか。兵馬俑を作ったのも、死してまた蘇るという意思を持っていたのではないでしょうか。であれば、徐福が帰って来るのは何時でも良いことになります。3000人の童男童女が80歳になって中国に帰ってきたとしても、彼らが蘇りの薬を持って帰ったのなら、始皇帝は蘇ることが出来るのです。
<その手がありましたかぁ^^> 平 素人 | URL | 2010-10-04-Mon 21:37 [EDIT]
Dr.> いつもコメントありがとう御座います♪
コメント欄の開けたり閉めたりで、ご不自由をおかけしております^^!。
ふ~む。 その手がありましたか。わたしが蘇りで一番に思いだすのはキリストです。何故そのようなことが語り継がれているのかも不思議の一つです。 これは非常に生くさい話しで、真偽のほどは分かりませんが、スターリン?の遺体に人工心臓をとりつけ輸血をはじめ生命維持装置をとりつけ、生体 (?)のまま保存し100年・200年後の医学が進歩したとき、再び甦らせるためとか。双頭の山羊をはじめて造った国。まんざら嘘でもないような現実味があります^^?
生死の判断の線引きをどこにするかは医学でもむつかしい問題ですが、心臓の冠動脈血栓をとる手術で人工心臓に切り替えるとき、「○○さん、大きなショックがありますが心配しないでくださいね」と言われた人の話。「ガーンとかガクンとか形容のできないショックの後、目の前が真っ白になり後は無意識」 これも瞬時ではあるが死からの蘇りと言えなくもありません。
砂漠に棲む両棲類だったかな。乾期になるとカラカラの干物の状態で身を潜めておき、雨季になると即席ラーメンのごとくに生き返る!(テレビで見ました)。始皇帝が甦るには内臓を保持し腐敗を防ぐ防腐剤処理か、食物を断ち即身仏のような状態で待ち受けなければなりませんね。それともDr.ブログ>にあったような、国譲りで、『現世は大和にやるが、あの世は出雲がとる!』 というような精神論になると素人には、まったくわかりません^^!
<揺れる死生観・その2> (10/9) おまたせしました。
それでは、この私くしが180歳まで長生きした時のことを考えてみます。20代のままで・・^^。もし、そのような霊薬があったならばそのような霊薬が大量にあるとは考えられず、もしその薬があったならば人類はとっくにそれを手に入れている。妻をめとり子供が生まれる。まわりのすべてが底上げして長生きするのならばいいが、ひどい場合は、この私だけが長生きする。妻が死に子供達も逆死する。新しい妻をめとり子供をもうける。360歳までも生きたとしたら、
「幾度となくその悲しみ」を繰り返えさなければならない。例え妻子が同じようにその霊薬を処方してもその線引きが広がるだけで、それはあたかも“ローヤルゼリー”で育てられた女王蜂に似ている。私にはこのような長生きは、とうてい耐えられない。このような長生きを<始皇帝>は望んだのであろうか。何はともあれ、始皇帝のその薬への執着は、すさまじく “みせしめ” のために460人もの学者を穴埋めにしている。
<薬の試験は、し烈を極める> (10/10)
*この項目は、素人(私)の無知から発する雑感であり誤りや偏見等が含まれていると、
ご承知おき下さい。
徐福たちは、列島で始皇帝の命を受けた薬やら、その処方やらを探さなくてはならない。しかしながら、何が何の病気に効くのかが分からない。しかも、それは中国にはないモノて列島の特産品であるという制約がつく。中国にあるものなら大資をだしてまで列島に操りださない。動植物は勿論のこと、土石にいたるまで珍しいと思えるものなら何でも試す。薬石のもつ宿命から、それは人体実験をしてのみ、その効用が確かめられる。薬石とその処方は、人類の長い歴史の積み重ねの上になりたつものであり、如何に徐福がその道に長けているとは言え、それを短期のうちに求めようとすれば、当然何処かで無理が生じる。(ドクターの云われるようなことであれば別だが)皇帝は悠長にそれを待ってはくれない。
(10/12)
近代の試薬は、二十日鼠、モルモット、ウサギ、ビーグル犬、猿、等の動物実験からはじまる。そして最終的には人へと移してゆく。薬はその性質上「毒にも薬にもなる」というように、用量と処方を守ってのみその効果があらわれる。徐福達の場合は、「見たことがない効きそうだ」という“カン”だけでそれが試される分けであるから、当然生命の危険や副作用の苦痛をともなう。ある意味ではその<限界を探る>のが試薬だと言える。歴史的にみれば、老母を妻を自らを試験体にした異例はあるが、常にその対象は “社会的弱者” であり、特に戦争時においては悲惨をきわめる。 それは、“必要悪”かも知れないが、治験薬の美名のもとに行われるこうした行為に目をそらしてはならない。時代によりその線引きや思想も変わってきているようだが、今、何が許されて何を許してはならないのかの、自己チェック(註:ヘルシンキ条約)を怠ってはならない。特に、徐福隊の場合は、それ等に加えて『不老長寿』という条件がつく。筆者はその被験体用として3000人の童男童女が用意されたとの疑念をぬぐい去ることが出来ない。
<徐福達の行動:その3、薬石・珍宝の集荷>
<徐福たちの集めたもの> (10/13)
(以下は筆者の思いつきで挙げたもので、もっと外にもあると思います。それを教えて下さい)
まず第一に挙げたのが温泉水。これは、そのままという分けにはいかないから、鬼の釜?で蒸留して“温泉の花”としました^^。 次に挙げたいのが、糸魚川水系の“翡翠”。列島のヒスイの産地は、糸魚川のみと思っていましたが、ドクターとのやりとりで、質は、やや糸魚川より劣るが出雲の○○島にもあるとのこと。近年に宮崎辺りでも見つかり話題になったことがある。
古墳等から出土するヒスイや玉石類のルーツは、当時の列島人には、固い玉石を研磨・加工する技術が確立していなかったとみられることから、考古学でも色々に云われているようです。中国人は、玉石のなかでも特に翡翠がお好き♪^^?。
(以下は、筆者の考えですが^^!)
玉石を身にまとうことは、他に対して身分とか富の自己アピールであり、古墳代→弥生期以前の列島人は、玉石を身につける風習はなかったとみている。卑弥呼以前のそれまでは、神(荒神さま)の下において平等であり、年功や性差の序列はあっても「身分制度」までには至っていなかったのではないか。魏志倭人伝では、それを見て「人々、序列をつくらず座する」と云っている。それ以前にあった牙の首飾りとか、貝の腕輪とかは、なにかの<困り事や、決め事>が発生したとき<巫女や、太夫さん>が<その神>を我が身や他に呼び寄せるための準備のための用具であり、今の袈裟のような役目をするものとみている。物事を決めるのは人ではなく『因は荒神にあり』とする社会制度であり、その荒神さまのいうことで政(まつりごと)や困り事を解決していた。列島人が玉石を身に付けることはその延長であり、中国の権威着けの身飾り?とは意味が異なる。今でも、そのようなよろず相談の<拝み屋>さんは居ますよ。『 あの先生は、よく当たる^^』 このような集落が、大きいか小さいかは別として列島各地に散在していたのではないかと前述しました。以上、ちょっと脇へそれました^^!。
そして、三つめに挙げたのが、オオサンショウウオ! これは中国にもありましたが、日本のは固有種。産地によって含有分も変わるのでしょうか。朝鮮人参でも天然物と人工物との価格は(質も?)雲泥の差!(←月とスッポン。天地の差より、パクリました。笑)
(10/14)
近時、先進国が開発途上国から、それ等の<生物資源>を探索蒐集することを○○海賊行為と呼び問題になっています。歴史的(今も?)には、大英帝国(ゴメンこの呼び方には問題有り)の“プラント・ハンター”。 イギリスは元種の保存という面から、このような問題に早くから取り組んでいます。そして、これも近時、話題になっている電子機器に使う“○○メタル”。これ等の稀少類の寡占問題が発生しました。この二つの問題は忘れる程前の『 ゴルゴサーティーン』で、取り上げられていましたよ。(笑い)
あっ! それからもう一つ取り上げたいものに、“マッコウクジラの脂”。 これは、かの<ペリー>が、灯油の需要にこたえるため、遙か西太平洋に、水や食料の補給基地として日本に開国を迫ったいわく付きのもの。日本近海にはそのマッコウクジラがたくさんいたのでしょうか。それを語るに、宮崎県には<油津><鰐塚山地>という変わった地名があり、これを史実探偵は、4010年前の東北に端を発した巨大津波が鯨おも打ち上げたことを遺している地名だと思っています。鯨やサメが打ち上げられた! 当時の人達はビックリしたでしょうねえ^^。そして地名に遺した。 「地名は祖先からのメッセージ!」それを徐福隊にも語ったのでしょうか? なにはともあれ、素人の言うこと(^-^)であるから定かではないが<徐福会社>は、日本列島の各地を探索し、そこから集めた珍品・薬石を列島の<何処かに>集荷する。
<正月に各地分団が寄り合う> (10/15)
中国の人達は(日本人も^^)正月(旧暦)に寄り合う風習がある。ご存じの華僑に代表されるように「世界で中国人が商売していない国はない」と云われる程。その散り々に別れた人達は本国の親族とあいたい願望がある。徐福達にしても、その想いは同じだ。そして忘れてはならないものに『皇帝に薬石を持ち帰る』ことがある。たとえそれが不老不死の薬であろうがなかろうが、とりあえずの珍品・薬石は皇帝のもとへ送り届けなければならない。<徐福>は、前述した出雲(?)に、その本社をおいたとした。そこへ「 各支部、好きな時に持っておいで!」という分にはいかない。その日にちを決めたい。
(10/16)
ここで思いだして頂きたいことがある。<神無月>。列島に散らばった各分団は、その正月に集まろうと決めたが、遠くであればあるほど早く出発しなければならない。今でも全国展開の会社が支社長会議をするとき、その開催時間を一番遠くの鹿児島とか北陸支社が間に合う時間にきめる。通常時間は8時からだが、10時からにしようかとなる。その出立が神無月(10月)。そして12月が復路を急ぐ師走月(12月)^^!。このように決めれば正月前には、皆々が集まることができる。さらにそこから<中国送り隊>を結成して集荷した珍品を送り出せば中国の旧正月(新暦の○月○○日)にはまにあう? 要は、皇帝のおわす中国の旧正月から逆算して前に前へと、さかのぼりその出発日を決めればいい。
(10/17)
次に大切なことは当時の航海力と運行力である。九州の<佐世保><唐津><博多>から、今、決めたその○ヶ月で秦朝の首都<咸陽市・かんようし>(咸陽は、黄河河口から上流へ約1000km。日本でいうと下関から秋田ぐらい)へ着くかどうかは、素人考えなので責任がもてない^^。 おおよその目やすは、それより○○年後の遣隋使、遣唐使の運行を参考にすればよい。そして、この話は、列島文化の古墳期、神代(かみよ)、卑弥呼(AC175?~248?)をおよそ400年もさかのぼる紀元前3世紀頃の模索であるとご承知おきください。(^-^!) ちなみに何時の頃とは断定できないが佐賀県・唐津市の<神集島><呼子>の地名は、その徐福団が集合し、「 行ってきま~す!」 「 お帰りなさ~い♪」 と呼び合う人達、こども達の言葉(地名)とみるのは素人探偵の思いすぎでしょうか?(笑)。
不思議 しげちゃん | URL | 2010-10-18-Mon 08:51 [EDIT]
不老不死・不老長寿といっても、どの時点からの不老なのか、長寿なのか。青年の若さで不老なのか。秦の始皇帝のように絶大な権力を得てからの長寿なのか。ただ馬齢を重ねつつも185歳でも生きているといったことなのか。どれを採るかによって霊薬の種類も異なるのではと思うのですが・・・。
始皇帝は何を考えていたのか? 平 素人 | URL | 2010-10-18-Mon 10:51 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん>^^!へ、 いつもコメントありがとう御座います^^♪
コメント欄の開閉でご不自由をおかけしていることをお詫び致します。
そうですね。それによって徐福が列島の<何処で><何を>求めたかにつながり、徐福の立ち寄り場所が推定できます。一説には水銀もあるようですから、その水銀は何処に・・・?
始皇帝の功績とその暴君ぶりは、Dr.>のほうがよく識るところであり、わたしは始皇帝が何を考え、どんな死生観をもち、兵馬俑や不老不死の霊薬を求めさせるに至ったのかをまったく知りません。それを逆に、お伺いしたいくらいです。始皇帝は、それを諫めた長男を追いやり、460人の学者を穴埋めにし、その声は「狼(ろう)の如し」といいますから誰も抗らえません。少なくとも徐福は、自身の考えはどうであれ始皇帝が没する(9年後?まで)皇帝の意(?)に沿うような薬石探しをせざるをえなかったと思います。ご存じのように秦朝は12年後(汗~^^?これも後で調べます)で、滅びています。もとより始皇帝の“不老不死”の考えは無理な話しで多勢が受け入れない部分。その死後は急速にさびれ・・・、「後は野となれ山となれ」・・・、(笑)
“ 業 ” しげちゃん | URL | 2010-10-19-Tue 08:55 [EDIT]
不老不死と不老長寿とは少しニュアンスが異なるように思います。不老不死は業のようなもので、死を怖れるという心象が込められているように思います。一方、不老長寿は祝福のように思えます。秦の始皇帝が怖れたのは己の業であり、死と共にその権勢が失われた時に、それまでの業の償いが襲いかかって来ると思ったが故に、自らの死を恐れ、不老不死を願っていたのではないでしょうか。
ご明察!! 平 素人 | URL | 2010-10-19-Tue 21:09 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> こんばんわ コメントありがとう御座います^^♪
わたしは、何故8000体もの兵馬俑なのかが解りませんでした。これは、始皇帝が死してから造営されるから2代目が成したのかも知れませんが、遺言に残しておいたとも考えられます。いずれにしてもあの世にまで兵馬を連れて行く発想が分かりませんでした。晩年は身を隠しトンネルで行き来をするほど<暗殺>に対しての用心ぶかさ。現世の戦乱をかいくぐり、あの世にまで兵馬をもってゆく、・・・。 その心の強さと同時に一抹の寂しさを感じます。 “ご明察” ありがとう御座いました。
これで、ますます、徐福は、その呪縛から逃れられなくなってしまいました。(^-^!)
<列島人から見た徐福たち>へ、・・・
つづきます^^!
<列島人から見た徐福たち>へ、
ご訪問ありがとう御座います^^。
この 記事は、(10/19~11/13)追記の形で更新をしています^^!。
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列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?
除福そのⅠ~Ⅳ: 秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、徐福に童男童女3000人を与え、
東方彼方の日本列島から“不老不死、不老長寿”の薬石と仙人を連れて
帰れと命じた。対馬海流によって分散した徐福たちは、列島各地や、内陸
部へも果敢に進出していった。 そして、とりあえず蒐集した薬石・珍宝を
始皇帝のもとへ送り届ける交通網を列島につくりあげた。
ここまでが、<徐福について>の記事(Ⅰ~Ⅳ)の概略です。
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<列島人から見た徐福達>
<列島住人が巨大隕石で被災、その概略> (10/19)
石器生活を営んでいた列島住人は、BC2001年12月25日未明の6時頃。 東北の釜石辺りに衝突した巨大隕石(詳しくは前述の報告書)と、それで発生した巨大地震と巨大津波によって被災した。 奥羽山脈より東側は、衝突による直接的被害と水界峠(250m)越えの巨大津波による被災。 そして、北上川を北上した土石流は<一関>を造り、<盛岡>で盛り上げられ、ほぼ壊滅の状態。 北海道は、勇払平野の表土を削ぎおとし石狩湾へ抜けた巨大津波(推定160m?以上)で、これも壊滅状態。 一方、東北の日本海側は、ハッキリとは推(よ)めていないが想像するほどには被災しなかったし、人口も少なかったのではないか? 北陸地方を襲った巨大津波は、砺波、井波の内陸へ25km。 内陸地震で発生した琵琶湖大津波は、大津、石山寺へ高さ40m級。 山陰では、天橋立を造り、弓ヶ浜(黄泉ヶ浜)を造った大津波の高さは17m?ほどだったかな。 太平洋側は、鹿島灘、波崎、銚子半島で津波の力は方向を変えられ、それより西は相応に、とでも申し上げておきましょうか(笑)。
(10/20)
その大事変前の平均気温は、今より+15-6℃ 高かった。( 前述の報告書; 濃尾平野、瀬戸内の島名と理科年表で推定)それから巨大隕石とその巨大地震によって刺激された火山が舞いあげる粉塵により “隕石の冬”へと向かう。舞い上がった粉塵は大雨を誘い、列島人の心に天井(天の井戸)をつかさどる “共通の荒神”となって入り込んだ。この共通の体験と認識は、人々の≪核≫となり神となり、その被災が大きい地ほど信仰の対象地となり極小集団から小集団、中集団へと展開していった。大事変の後の大雨は口伝され<雨乞い>へと発展する。列島で<津>の付く地名と竜神文化は、この大事変によって到達した津波による地名だと合点している。このような文化が永々と続いていた列島へ除福達はやって来た。
< 註: 隕石の冬 > 前述したかも知れませ~ん^^! (10/21)
隕石の冬とは、聞き慣れない言葉であるが、巨大隕石が地球に衝突したとき、その舞い上がる粉塵が太陽光をさえぎり、やがて気温が降下し冬のような状態になることをいう。地球が過去に経験している幾度かの氷河期は、巨大隕石のせいではないかと云われている。対して「核の冬」はよく聞く言葉であるが「隕石の冬」から生まれた考えである。○○年にインドネシアであった○○火山の噴火では地球規模で 1・2℃の降下があったとも云われている。 舞い上がった粉塵は、その高さにもよるが、やがては引力や、雨水によって地表に降下する。たとえれば濁り水がだんだんに沈下し澄んでいくようなものかな^^? 今、盛んに云われている「CO2 による温暖化」の影に隠れてはいるが、大きく見れば今の地球は間氷期(氷河期から氷河期の間)にあり、そのせいで温暖化へ向かっているともいえる。さきのTVで、一方向しか見ないマスコミや私達に、東大教授(ちょっとユーモアのある外人教授^^)は、その返答(それを云うと長くなるから)に困っておられました^^。( そうでしたよね^^? 気象○○さん>←最近よく訪問してくださる^^♪)
<荒神さまが帰来した!> (10/22)
人々が自然の脅威をうけ、それが列島共通の神となって人々の心に入り込んだ時。 その神は≪核≫となリ、強固な信仰集団へとなって行く。この『 全ての因は、その荒神さまの、お考えにあり!』とする考えは、前述したようにご祈祷によりその荒神を呼び寄せ<物事>をうかがい、まじないによって<病気の治癒>をおこなう文化でもある。“まじない”によって物事をきめる社会は、おおくの迷信を産み、必然的にその進歩がおそくなる。
そこへ、西方から天と地ほどの先進性を持ち、甲冑兵士(かっちゆうへいし)を伴って来た徐福達を 列島住民は、○○年前に西方へ進んでいった巨大津波に乗って行かれた、その荒神さまが帰来したと “勘違い” するのは無理からぬこと。蛇足ながら、その甲冑兵士は、後の毘沙門天や仁王様に変身していると謎解きしました(^-^)。
<秦(はた)の人達> (10/23)
異様な出で立ちの人達が、その西方からやって来た。そして水を請い食物はないかというから、水を差しだし食物を提供した。お礼に何やらみたことも無いような土産をびっくりする程たくさんくれた。中国の人達にすれば人から物を貰い「はい!ありがとう」ですませ、返礼品がそれより少なければ、その人の下方に下ったことを意味する^^? この供物に対する意識のズレは後々の “卑弥呼外交”まで続いていると前述しておいた^^。
身振り手振りながら聞けば『何かの探し物をしにやって来たといい、仮住まいをしたい』という。「私達の “端(はた)”でよかったら住みなされ」 ということになった。 わたしは、少年の頃 <秦・しん>を何故<はた>と読むのかが解せなかった。それは 『端(はた)に住む人達』 の意だったのだ。徐福達にすれば長旅の疲れもあり、全くの無人島より、何かにつけて人と接触したほうが好都合。この端に住む形態は後々の世まで続いているように見受けますが(^-^)?
<秦の人達が稲作を始めた> (10/24)
徐福が列島に来たのはBC219(~?)年頃の石器・縄文の時代。当時の列島住人の多くは、山と平野の境目で、近くに涸れることのない川が流れているところへ住んでいた。そして、そこが少しの高台であれば申し分ない。言うなれば(?)、米は主食とまではいかず、狩猟、漁労、採集、焼畑雑穀等の生活をを営んでいた。そんな時代に秦(以下はたとよみます)の人達がやって来た。彼等は河口付近の川縁(かわべり)へ住みだした。そこは時に、洪水にみまわれ多くを利用していない土地でもあった。徐福達にすれば、稲作での水路が得られ、船で列島の他の地へ移動できることが彼らの必須の条件である。そこでとりあえず水稲作りを始めだした。
(1025)
前文に、「始皇帝は彼等に五穀を与え」という言葉を推理小説風に^^!)忍ばせておいたのですが気付いて頂いてましたかぁ?(笑)
未知への旅立ちであるから食料はとうぜん携えるが、“蓬莱の地”列島では何が作れるのかが分からない。だから、わざわざ五穀を与え、(現在日本では、米、麦、粟、キビ、豆をさすことが多いが時代やその社会での主な穀物をいう) とことわったのだ。麺やマントウをつくる小麦や、米は、彼等の主食と思われるが彼等には<次の地で薬石を探す。本拠地へ集荷物の移送>という決して外せない条件がある。そこで、山地に強い麦よりも水路に近い米作りのほうへ比重がうつる。(陸稲・おかぼ、という手も考えられますがここではあえて水稲にしました。)
<湿田の開拓と営農法> (10/26)
この項、素人考えなので<間違い>は、 正して下さい^^!。当ブログを訪問してくださる2名?の専門家さま!
湿田を造るということは、その地へ長期に滞在することを意味する。稲の作田は一朝一夕には成りはしない。大陸と違い、花崗岩質の砂地の多い列島では、粘土質を溜め、水が地下へと抜けないようにするためには長年(?)を要する。そうかと言っても稲は作るし、探せばその適地はある。 以前TVで東南アジアのとある国で、水をはった作田に苗を放り投げて、その植え付けをしている場面を見たことがある。よく考えた農法だなと思った。子供心にそのほうが楽なのにと思っていたからだ。でも、その考えは間違いであることを後で知った。苗を筋植えにし等間隔の「田の字」植えにするのは、なにも見た目をきれいにするためではない。後の田の草取りや、間隔を同じにすることで、それぞれの苗に均等に陽があたり、同じように根がはり、風通しがよくなり、病害に強い丈夫な稲となる。加えて、米粒の熟しかたも均等に熟れてきて収穫作業がしやすい。植物本来の生理は、時期をずらして(発芽)実がなるようにしくまれている。なぜなら、鳥害や天候の異変等で一斉に全滅するのを避けるためである。(と、素人探偵は思うのですが・・^^)それが一斉に熟れるようになったのは数々の品種改良がなされた結果である?
当時(弥生期か?それ以前)の出土品の石器で、稲穂の一本一本をすごき取ったのであろうと思われるものがある。このことは、当時の列島では、田の字植え以前の農法がなされていたのではないだろうか? 「単位当たりに、本数をたくさん植えれば、たくさんとれるのに?」(笑)
何を隠そう、私・素人もそのように考えていた時期がありました^-^!
<田の字植えは明治になってから> の間違いでした^^!。(10/26・27)
ウエブで調べたら、定規や紐を使っての「田の字植え」は、明治時代になってからでした。しかしながら、中国統一では、20万・30万人?の兵をくり出したというから、その兵糧をまかなうには、それだけの営農法と備蓄法が確率していなくてはならない。対して列島の方は、まだ国と呼べるほどの集団性には至っていない。さらに中国大陸と日本列島には地勢の違いがある。仮に当時の人達の一日の歩行が100kmとしよう。大陸の方は一日中歩いても景色は変わらない? 一方、日本列島のほとんどは、10km、20kmも歩けば、「山あり、川あり、平野あり、加えて海がある」このことは、狭い範囲において、色々な食材が手に入るということでもある。食料の確保をこの両面から考えても列島では水田への比重は小さく、営農法も遅れていたと思える。渡航後の徐福達にすれば、船を持っている以上、海や川から遠く離れるわけにはいかず、おのずと水田への比重がおおきくなる。・・、それを見た列島の住人から見れば<何やら変わった米の作り方だ>!(^-^)♪
弥生時代を云うのに<米作り>がある。遺跡等の発見から、列島の米作りは2500年ほど?前からと思われていたが、2005年に、岡山・朝寝鼻遺跡の6000年前の土壌から稲のプラント・オパールが発見されたことにより、ずいぶんさかのぼることになった。そのルーツ等の論議はともかく、その作農が拡大するきっかけを作って行ったのは、除福達の行動に重なると素人はみていますが? 北陸や東北地方には豪農が多いしね^^)。 この考えは、今の史学には全く(?)ありません?。なにしろ、除福は “伝説上の人物” ですから(^-^)!
<徐福は“百工”を連れて来た!>
この項、筆者の知識不足と思慮不足です。少々?お待ちください。( 汗~!)
Dr.>ブログにあった、何やらの神が何やらの木の苗を列島にもって来た」 というのが気になっています^^!。(船建材のためか?)
<神様になった徐福達> (10/30)
徐福は、もとは「方士」であった。方士とは・・・? ウィキぺディアから削除されたのでハッキリとはわからないが薬事や、呪い(まじない)、天文方角等、の諸々に長けていて、それ等をもちいて医療行為をする者のようだ。 日本では、それにあたるのが太夫さん(拝み屋さん)だとしたが、中国の漢方のほうがより効果的にはたらく。 彼等に頼めば難病を治してくれるし、数々の命を救ってくれる恩人でもあった。 ・・、その人たちの没後は丁重に弔われ神となった。列島のそれまでの<神>は自然界の全ての因縁を司る神であり、それが人と重なることは決してなかったが、徐福達の来訪をきっかけとして、その後は人が神へと昇華する文化へと移行していったのではないだろうか。 素人探偵は、荒神や観音様の掛け軸の図で、かたわらに童子を描いているものがあり、これが徐福たちが連れてきた童男童女に重なって見えてならない!
<贈り物文化の違い?> (10/31)
中国での贈り物は上から下へ、日本での贈り物(お供え)は、下からお上(神)へすると前述した。蛇足ではあるが中国での贈り物は珍品・珍宝。列島での贈り物は初物を良しとする。この考えは、今でも残っていて、初競りでは法外な値がつく。いつぞやは夕張メロンの2個が45万円♪(今ではもっと上?) 欧州のマスコミがこれに揶揄(やゆ)を加えて報道していたが、彼等だって日本人の目からみれば、年代物の生ハムや○○(思い出せない。トリュフ^^?)には法外な値がつくから、これは文化の違いと受け取っておいたほうがよさそうだ(笑)ちょっと外れましたが、日本人と中国人贈り物にたいする互いの思い違いは「倍返しや祝い負け」として後々の関係にうまく作用してゆく。その中国からの贈り物は銅材(鉄)? 列島からの贈り物は、若者か娘か? (参考)卑弥呼は、魏の皇帝へ真珠等のほかに○○人の奴女(生口・せいこう)を始皇帝に献上していた。
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どうかな? しげちゃん | URL | 2010-11-01-Mon 09:17 [EDIT]
不老長寿の薬を日本列島に求めてきたのなら、まず、その日本列島で長寿を全うしている老人を探し当てるということもひとつの手ではないでしょうか。
目の前に恐ろしく長寿のような老人がいたとします。185歳くらいでしょうか。不老長寿の薬を探しに来た人達なら、まず何を食べているか、どんな暮らし方をしているかなど、その長寿の秘訣について質問するでしょう。
次に、238歳の人を見つけました。同じような聞き取りをします。どんどんこうやって資料を集め、その資料の共通点を探すのです。徳之島の長老は柿がお好き。隠岐の島の長老も柿がお好き。・・・・、そして、その柿も熟柿が好きだったとします。・・・後はご想像に任せます。でもこれなら中国でも出来ますよね・・・????
そうかな? しげちゃん | URL | 2010-11-01-Mon 09:30 [EDIT]
老年学という医学の範疇があるそうです。私の知り合いの先生も老年学会の理事をしていらっしゃいます。ある説によると、老化と劣化は違うそうです。ウンチクを聞きましたがよくわかりませんでした。生まれ立てが一番劣化が少なく年が寄るにつれて劣化が進み老化するというのは間違いらしいのです。不老というのは老化しない、すなわち生物としての劣化がないということではないとすれば次の組み合わせが可能です。
老化したが不老。
老化せず不老。
老化して劣化。
劣化せず不老。・・・本当でしょうか。もう少し考えます・・・。
参考 しげちゃん | URL | 2010-11-01-Mon 09:40 [EDIT]
ウィキより。
「老化の原因ははっきりとは解明されていないが、以下のような複数の要因が考えられている。
プログラム説 [編集]
それぞれの細胞には、分裂できる限界がはじめから設定されており、その回数を迎えて分裂ができなくなることにより老化が発生するという説。分裂できる限界数は、種によってまちまちであるが、概ねその種の寿命と比例していることから現在有力な説のひとつである。テロメアは細胞分裂の度に短くなることから、このプログラム説の機構を行う部分であるとされる。
この説における解決法としては現在、テロメラーゼが有力である。がん細胞においては、テロメラーゼが高活性化することにより細胞が「不死化」する]ことから、テロメラーゼの活性をコントロールすることで不老不死の実現が可能なのではないかと考えられている。」
コメントに感謝! 平 素人 | URL | 2010-11-02-Tue 04:38 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> おはよう御座います。 コメントありがとう御座います^^♪
またまた、むつかしい問題と興味深いおはなしを頂きました。・・・思考が混沌として日が変わってしまいました^^!。 Dr.>とのやりとりは、翻意するもの、または自説がより確定化してゆくもの。または好奇心をそそられるもの等、色々な楽しさを覚えます。 このコメントも、より多くの人に見て頂けるように本文へ転載させて頂きますので・・・、どうぞよろしく(^-^)♪
即、返答できません^^!。・・しばらくのご猶予をいただけませんか^^。
「そうですよねえ」
<卑弥呼以前の列島に、役場の制度が確立していた!> (11/03)
除服たちが列島での生活基盤ができた後で、真っ先にすることは、皇帝の命のその仙人を探すことでした。わたしは、Dr>が何故に「185歳、238歳」のような具体性のある数字をあげられるうらには、どのような伝承があるのかを知りたいと思っていましたが、それは隠岐の島や、徳之島にあったのですね。しかも<柿>を食べて♪ 「柿のみが赤くなるとお医者があおくなる」と言いますから柿には“何”か身体にいいものが含まれているのでしょうね。しかしながら、185歳、238歳といっても「自称」ですから確かめようがなくて、たとえその仙人を連れて帰っても皇帝は納得してくれない(^^!)。そこで“長生き”した童男童女を連れて帰れば・・・となるのでしょうが・・・。私は、何時のころからと断定出来ませんが、その昔(卑弥呼以前)に。今のような戸籍(歳)を登録しておく制度があった(前述)と思っています。それは3~才の幼児の人身供犠であり、登録しておいたその子達の中から白羽の矢をたて神に捧げるという・・・。一歳の宮参りで登録し七歳がくれば、その“役目”から除かれると。それを今にひきづっている?のが「役場」であり^^、それに関連して、焼き場、札場、厄よけ、厄明け、等であるとも・・(“やく”をPC変換すると、その謎が見えてくるのが面白いですね。) ちなみに岡山県・総社市の<鬼の城・きのじょう>の遺跡から硯(すずり)が出たと聞きますから、その昔の役場だったのでしょうね。・・ちょっと話が反れました(^^)
昨日、文化の日。植物園にいきました。そこで伐採された枝々のなかに親指の先ほどのミニトマトそっくりの柿を見つけました。黒色の柿を見た時も、そうでしたが私(私達)が知らないだけで、世には未だ見ぬ色々な「柿」があるのかも知れませんね^^。
「劣化せず不老」 (11/04)
老化したが不老。老化せず不老。老化して劣化。劣化せず不老。
いろいろにあるのですね。色々に考えてみましたがやっぱり解りませんでした。物事には時間の経過があり、その変化の経過時間は速いときもあれば遅いときもあるように感じています。そのスピードの変化は放物線(円錐曲線)を描いているようにも見えます。素人(私)の見聞きするところでは、人の寿命は120歳まで。又、身長は1m未満でその容姿は幼いとも見えるのに身体的老化は相当にすすんでいる人。又は、60代なのに40代とも見える女の人^^(TVの宣伝で♪)。これ等が常識的な範囲でしょうが、物事は偶然の確率とか奇跡の確率で進化していると思っていますから、その常識的な範囲をこえるところが分からない(汗~)。
「老化の原因」 (11/06)
老化の原因について、今まで深く考えたことはありません^^!。「氏の参考」をはじめとして、付け焼き刃的に色々調べてはみましたが、これも素人の思考範囲をこえています^^。 なかで、主旨を外れるとは思いますがEM菌(有用微生物群)なる言葉に興味をもちました。
【 EM菌は20年近くも前、琉球大学農学部 比嘉照夫教授により開発されました。当初は農業での利用を主体とし、土壌改良、作物の品質向上を目的に研究され、その結果すばらしい成果をあげてきました。】 EM販売ニコマートより
これを分かりやすくとらえれば、牛乳をチーズにする菌と腐敗させる菌との違いのようです。
植物にとっては特に影響があるようで、一昨日のTVですが、それらの選択された有用微生物群を施肥することによってニュージーランドでは羊の牧草として成果をあげているそうです。また東北のりんご園でも土壌を自然の有用微生物群で活性化し、(人工的な)無農薬・無肥料の栽培をしていると紹介されてていました。わたしも数年前にEM菌で処理された堆肥の安売りがあったのでバラやサツキに“大量に”施しましたが、「安いから大量に、良い物なら大量に使ってやれ!」との思いが浅はかだったようで、バラは斑点病が発生するし、サツキは未だに大きくなりません^^!。 今も昔も、徐福達もこのような試行錯誤があったのでしょうね。 きっと?
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記述をもとへ戻します^^。
<その贈り物には?> (11/07)
列島各地にBC2001の大事変後から、永々と積み上げてきた「竜神雨乞い文化」があった。
その荒神信仰の祭祀とは、≪問題の発生から→ (迎え火・呼び水)→ 荒神の呼び寄せ(生け贄を捧げる)→ 解決策のお告げを聞く→ お告げの後の(送り火)→ (祭祀終了後)→ 祭祀用具の破壊、埋葬・散逸→ (次回への保管具を)仮印する!≫だと前述した。(詳しくは本文で)その祭祀用具のなかに、朝鮮半島からとされる風鐸がある。この風鐸が銅鐸の前身だとする論説がある。(筆者は風鐸・ふうたくの詳しくを知らないが、呼び鈴のようなもので?)これに列島の住人が徐福達の携えてきた銅剣、同材料に興味を示し、それまでに使用してきた土器製のものを銅製へと変えていったのではなかろうか? 銅材のもつ神秘性は、「アカ」から、アオ(緑)へ錆びて変わることと、緑青(ろくしょう)の持つ毒性が荒神へ重なると前述した。 列島の住民からすればその銅材を欲しいと思う。 徐福達にすれば行く先々で、その地の首長・太夫に銅材や銅製品を贈ることによって家屋の建設、農作業、の人手。はたまた薬石探しの案内人(シェルパ)を得ることができる。
<日本前史における韓国の影響> (11/09) この項、筆者の全くの想像です^^!
日本前史においては、日本と中国の関係におもきをおいて、韓国は常にその経由地とか仲介役として語られてしかいないと思うが、日本と韓国は対馬海峡を隔てて、晴れの日にはお互いの地が望める関係にある。始皇帝が、<蓬莱>より、(なりふりをかまわないボサボサ頭の人達。又はヨモギの生える荒れ地より、)「不老不死の薬石と仙人を持ち帰れ!」 と命じているからには、その “蓬莱の地 = 日本列島 = 縄文人” という情報は、朝鮮半島を経由して中国へ入っていたとしか思えず、徐福以前にも朝鮮半島から列島への渡来があったのではなかろうか。先の<風鐸>にしろ、もっと韓国(朝鮮半島)と、日本の関わりを知りたいと思う。
Dr.>の言われた、出雲半島西端にある“ドルメン;韓国人墓?”が気になってしかたがない。
うらやましい? しげちゃん | URL | 2010-11-09-Tue 16:14 [EDIT]
私は、中国大陸やその地続きである朝鮮半島の人達が、日本列島に何かうらやましいと思うようなことがなかったかを考えています。今までの関係は、先進文化が中国や朝鮮半島から流入してきたとして、日本列島は受身のような立場で語られています。しかし、それだけだったのでしょうか。私たちから見れば当たり前のようなことが、中国大陸や朝鮮半島の人から見ればとてもうらやましいと思える何かが日本列島にはあったのではないかという視点を持ってみるのです。殺伐とした黄砂地帯、ゴツゴツとした半島、どこからともなく突然と現れる侵略者、ダラダラと続く同じ風景、あまりおいしくない農産物や魚介、まだまだあることでしょう。・・・それに比べて日本列島の住人は・・・ということに思い当たった中国大陸や朝鮮半島の人が考えたことは・・・。目指せ、日本列島・・・となったことがあったりして・・・。
「同感です。」 平 素人 | URL | 2010-11-10-Wed 08:37 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> いつも、コメントありがとう御座います^^♪
それに付いては(も^^!)、すこし長くなりますので本文のほうへ移させていただきました^^。
わたしも同感です。彼等にとって日本列島は“魅力ある地”であったとみています。地勢の違いから、もう一度考えてみますと、中国大陸では何んでもありですが、広大がゆえに食物にしても資源にしても片よりがあります。中国の人が珍品珍宝をよしとするのはこのためでしょうか?
合わせて日本ではどこでもきれいな水を“あたりまえに”手にすることが出来ますが、大陸では、長江、黄河がつくる広大な堆積土のため清水を得ることが難しいのでしょう。中国は今でもきれいな水を大量に要する染色等の工業用水をつくるのに苦労をしているようです。
朝鮮半島の方ですが、Dr.>が言われた<熊津^^>を探すために観たのですが、その地勢は東の山岳地帯と西の平野部に、おおむね二分されています。(以下は、素人的考えであり後でお叱りを受けるかも知れませんが)こういった所では生活が単調になり、必要物資が欲しい時には、他所へ出かけなければなりません。それが“中央市場”で事足りている内はいいのですが、人々が集団性を持ち欲しい物が大量の建築資材、鉱石、薬石等に発展すると、他の住人の所へいってそれ等を求めるようになります。遠隔地ゆえに車馬が発達し、大挙して押し寄せれば、そこで争いが生じる!
(11/11)
中国の歴史が争いを抜きにしては語れないのは、この理由でしょうか。反面、万里の長城や<客家・きゃっか=2m厚さの防御土壁で造られた集合住宅>等でみるように、その防御性の強さには驚かされます。一方、朝鮮半島のほうですが、Dr.>が言われるのは“馬賊”のことでしょうか? わたしは馬賊のなにやらを知りませんが、この二つの国の“歴史に”共通していえるのは<青銅器>に戦闘性がありとみています。大型動物にトドメを刺すためや人を殺傷するための実用的な形をしています。それが列島へ渡ってからは祭祀や身分を表すための非戦闘的なものへと変わっているように思います。日本の各地に<朝鮮式山城>と云われているものがありますが、素人は、これを戦国時代に臨時的に使用されたことはあるかも知れないが、本来の目的は、戦闘のための施設ではなくて<雨乞い用>に造られた施設だと(報告書本文で詳細を)謎解きしています。このような事から徐福たちは列島人を 戦いを好まない<和人?><倭国>だとみたのでしょうか^^? 戦うことを常としてきた徐福たちにとっては別天地♪
(11/○○) Dr.>とのやりとりで「生口・せいこう」が気になりだしました^^。ヒョッとして??
生口は、この度はじめて耳にする言葉なのでウィキペディアで(以下を)検索しました。
生口(せいこう)は、弥生時代の日本(当時は倭)における捕虜または奴隷とされている。
107年(後漢永初1)に当時の倭国王帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じている(『後漢書』)。その後、倭王卑弥呼も239年(魏景初2)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人を、243年(魏正始4)に魏少帝へ生口を献じ、その後継者の台与も248年に生口30人を魏へ献じている
(『魏志倭人伝』)。
生口は元来、捕虜を意味する語であるため、捕虜を起源とする奴隷的身分であると考えられている。時代的に献上物が豊富ではなく、そのため生口を送ったと見る向きもある。ただし異論も多く、捕虜と関係ない奴隷とする説や、あえて中国へ献上されていることから、単なる捕虜・奴隷ではなく、何らかの技能を持った者とする説もある。さらに中国への留学生とする説もあった。またこの時代は食人の風習があったので、そのための食材であったという説もある。魏志倭人伝の記述から、弥生時代後期に奴婢という奴隷階層がいたことが判っている。生口が奴婢と全く別の存在なのか、重複するのかは論が分かれている。 (以上)
生口 しげちゃん | URL | 2010-11-12-Fri 17:22 [EDIT]
生口とは生きた口ですね。この人達を中国に残して遣使たちは倭に帰っています。「中国への留学生とする説もあった。」とされています。生きた口、口から連想するのは言葉です。倭から連れて来られた生口は倭の言葉を話します。中国人は倭の言葉を良く知ってはいません。そこで、生口に中国で生活させて中国語を覚えさせ、**は倭では++と言う、意味するというようなことが出来るようにするのです。倭と中国との意思の疎通はよりスムースになります。当時は辞書や百科事典はありませんから、そのような役割を果たせるようにするために、生口を置いて帰ったのです。何年か、あるいは何十年かの後に倭の使者が中国へ行けば、その生口が登場するか、その後継者が、通訳をするのです。まさに生ける口です。
生口2 しげちゃん | URL | 2010-11-12-Fri 17:38 [EDIT]
「後漢の安帝へ生口160人を献じている(『後漢書』)。その後、倭王卑弥呼も239年(魏景初2)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人」とあります。これでいよいよ生口の役割が分かります。最初にドンと送っているのです。その中の何人か何十人かは先に述べた役割を果たせるようになっていたことでしょう。そのうちの何人かを残し、新しい生口に彼らの役割を伝授させ、習得させるのです。そして何人かは倭へ連れて帰るのです。とすれば、倭では最新の中国語の通訳が得られるのです。中国から倭へ使者が来たら帰ってきていた生口が通訳したり接待したりするのです。つまり、捕虜に用いる生口は、穀つぶしすなわち、生かされて口でただ飯を食うと言う意味での生口であり、奴隷に匹敵する貧困層は当時の中国には掃いて捨てるほどいたのでしょうから、わざわざ送る必要もないのです。倭が送った生口を馬鹿にした見解は見直されるべきです。
「グッドアイディア」 平 素人 | URL | 2010-11-12-Fri 22:52 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> こんばんわ コメントありがとう御座います^^♪
「生口=通訳人説」ですか。グッドアイディアです^^。 これも本文へ移させて頂きました^^。
わたし(素人)は、このような諸説紛々としている場合、奇異をてらう(統計上の)端々の5%を除いて、すべてを受け入れるようにしています。なぜなら専門家というのは、その道に長けていて何かの根拠があって、その“言”を発しているからです。ただ専門家というのは、相手の言を受け入れ難いという欠点はありますがね(笑)。
Dr.>が言われるように「奴隷に匹敵する貧困層(や捕虜)は、当時の中国には掃いて捨てるほどいた」でしょうから、珍品珍宝をよしとする中国へ若い男女を贈ることに疑問があったからです。今までの私は、中国の歴史で、天皇家から養女を受け入れたとか、残留孤児を受け入れたとかで、幼い子達をやりとりする場合は、長家が互いの実子をやりとりすることによって、それが戦争抑止力にはたらく。又は、一般層においては広い国土のこと、人手は幾らでも欲しいから労役?として受け入れていた。ぐらいにしか考えていませんでした。 が・・・?
<わたしは、「生口」を次のように考えました> (11/13)
先に、Dr>とのやりとりで、生口は『ヒョッとして?』と記述したのは、食肉のためか?と、ふと思ったからです。・・・それで、ウィキ>で調べたのですが、一説として 『この時代は食人の風習があった』 を見たときは、筆も止まるほどに愕然としました。
話しは、まったく変わりますが、私は少年のころ。伝書鳩を飼っている友人が卵に触ってはいけない。親が食べてしまうからとか。生まれたばかりの子猫を人が触ると親ネコが食べてしまうとかを聞いたことがあります。近時にもTVで、野生ライオンが病弱な我が子を食べてしまうとありました。何故?このような行動が仕組まれているのか分かりませんでしたが、女の人から我が愛児を「食べてしまいたいくらい可愛い」との言葉を聞いたことがあることから、これはその形容ではなくて本当に人間にもその感情が潜んでいるのではないかと?素人なりに解釈していました。 未開の時代。食人の風習は、腹を満たすためではなく、 「対象(捕虜等)の持つ生命を我が体内に取り入れるため」 と聞いたこともあります。 富と権力。殺生与奪、までもを手に入れた皇帝のこと。 「・・・は、」ありうる話しかも知れないと。
生口3 しげちゃん | URL | 2010-11-13-Sat 09:22 [EDIT]
「対象(捕虜等)の持つ生命を我が体内に取り入れるため」 ・・・とありました。確かにそのようですが、次のような延長線があります。闘いの中で相手を倒すのですから、ひとつ間違えば自分が生命を落とします。その相手の勇気や闘争心を獲得するためとも言われています。そのことはまた形を変えて、動物や植物を食する際にも用いられています。蛇の生命力、鷹の獰猛さ、狐の狡知さ、葦の成長力などを自分の身体に取り入れたいとして食するのです。今日でも一脈通じる習慣ですね。
生口4 しげちゃん | URL | 2010-11-13-Sat 09:31 [EDIT]
「本当に人間にもその感情が潜んでいるのではないか」とあります。潜んでいても、その一線をどこで乗り越えるのか。アメリカの奴隷は、黒人は人間ではないという形で合理化され、白人に使役されました。同じ人間だと思えば、とても出来ないような仕打ちを平気で出来たのはそのような合理化があったからなのです。翻って、生口を食人のためのものとするには、同じような合理化が必要です。遣使はいろいろな贈答品を貢いでいます。もらったものは捨てようが踏みつけようが後の処理はもらった人の自由です。となれば、贈答品としてもらった人間(生口)は物であり、食べても良いという合理化が働くのです。食用としての人間・・・まさに珍品かもしれません。
生口5 しげちゃん | URL | 2010-11-13-Sat 09:38 [EDIT]
それにしても、160人もの生口を中国へ運ぶとなると、そのための船の段取りが必要になります。その時代では大変なことではないでしょうか。しかし、それでも連れて行ったのです。そこは生口と言えども人間です。もし、鹿や猪を連れて行くとなると、それこそ船内で暴れたりして大変です。今日でも馬や牛が運送中に暴れてトラックが横転したという事故があります。何か珍しい食肉を生きたままで贈答しようと思った時、一番安全に届けられるのは人間だと思ったとするならば、それなりに納得できるのです。
生口6 しげちゃん | URL | 2010-11-13-Sat 14:05 [EDIT]
おいおい、いくらなんでも先に生口は通訳や文化理解のための使いだったとしながら、次には食人用の贈答品だったなどと平気で言えるな・・・とお思いでしょうか。ところが矛盾しないのです。遣隋使・遣唐使としての留学生は、最澄や空海のように、選ばれし人でした。どうして当たり外れなく選ばれたかと言えば、才能や学問的素養を見極める学問所や僧の養成所があったからです。しかし、倭の時代には、そのような選抜に耐えうる学校などはありません。ちょっと利発なものとか、ものになりそうだという程度の基準で160人を選んでいるのです。その、160人をどうぞ通訳、文化伝道者となるように鍛えて下さいとして贈答品として差し出しているのです。もし、その役割を果たせないような無能な者がいたら無駄飯食いをしたのですから、家畜を養っていたと思って、どうぞ食して下さいといって差し出したのです。こうなれば矛盾は無いのです。なにかホラーのようになりましたが、それがその頃の時代だったのです。
思いようで・・・ 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-11-14-Sun 06:42 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> おはよう御座います。いつもコメントありがとう御座います^^♪
<じいさま>が、おられたら、このやりとりも、きっと喜んでくれたでしょうに・・・
人。 思いようで、幾らでも残虐になれるのですね・・・、
<・・・「生口」つづきます。> (11/14)
生きるということは「命」を口にすること。私達は、動物、植物を問わず多くの命を体内に取り入れることで、この命をつないでいる。ただ、それが許されることか、許されないことかを<人間的良心>によって決めているに過ぎない。このように古代人が考えたかどうかは分かりませんが、“生き先長い”幼子の命を取り入れることで“己・おのれ”が長生きすると! 徐福が訪れた前後期の列島には、荒神に幼子の「命」を差しだす信仰があると謎解きしました。一方、中国のほうでは珍しくて手に入れがたい食物ほど高価に売れる?風潮があった。(今でもかな^^)とはいっても自国の子女を食したとあっては、後々までその社会で生きていくことは出来ない。 この双方の“思い違い”は、うまくからまりあい「生口」の運びとなった。「奴婢」をはじめとする色々な論説ならば、なにも<生>と<口>の字を当てなくても、ほかに、それを表す適当な言葉があったはずだ。しかしながら「160人の生口」となると、この論説はなりたたない。その数が多すぎるからだ。そこで、そのほとんどは専門家さんがおっしゃるように振り分けられてゆく!!
どうか、Dr>とのやりとりで思いついたこの素人の ‘思いつき’ が間違いであって欲しい。そして後々からお叱りを受けますように! (合掌)
<魅力的な列島♪>へもどります。
今までになかった?日本史の見方^^! つづきます(^-^)♪
ご訪問ありがとう御座います^^。
この 記事は、(10/19~11/13)追記の形で更新をしています^^!。
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列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?
除福そのⅠ~Ⅳ: 秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、徐福に童男童女3000人を与え、
東方彼方の日本列島から“不老不死、不老長寿”の薬石と仙人を連れて
帰れと命じた。対馬海流によって分散した徐福たちは、列島各地や、内陸
部へも果敢に進出していった。 そして、とりあえず蒐集した薬石・珍宝を
始皇帝のもとへ送り届ける交通網を列島につくりあげた。
ここまでが、<徐福について>の記事(Ⅰ~Ⅳ)の概略です。
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<列島人から見た徐福達>
<列島住人が巨大隕石で被災、その概略> (10/19)
石器生活を営んでいた列島住人は、BC2001年12月25日未明の6時頃。 東北の釜石辺りに衝突した巨大隕石(詳しくは前述の報告書)と、それで発生した巨大地震と巨大津波によって被災した。 奥羽山脈より東側は、衝突による直接的被害と水界峠(250m)越えの巨大津波による被災。 そして、北上川を北上した土石流は<一関>を造り、<盛岡>で盛り上げられ、ほぼ壊滅の状態。 北海道は、勇払平野の表土を削ぎおとし石狩湾へ抜けた巨大津波(推定160m?以上)で、これも壊滅状態。 一方、東北の日本海側は、ハッキリとは推(よ)めていないが想像するほどには被災しなかったし、人口も少なかったのではないか? 北陸地方を襲った巨大津波は、砺波、井波の内陸へ25km。 内陸地震で発生した琵琶湖大津波は、大津、石山寺へ高さ40m級。 山陰では、天橋立を造り、弓ヶ浜(黄泉ヶ浜)を造った大津波の高さは17m?ほどだったかな。 太平洋側は、鹿島灘、波崎、銚子半島で津波の力は方向を変えられ、それより西は相応に、とでも申し上げておきましょうか(笑)。
(10/20)
その大事変前の平均気温は、今より+15-6℃ 高かった。( 前述の報告書; 濃尾平野、瀬戸内の島名と理科年表で推定)それから巨大隕石とその巨大地震によって刺激された火山が舞いあげる粉塵により “隕石の冬”へと向かう。舞い上がった粉塵は大雨を誘い、列島人の心に天井(天の井戸)をつかさどる “共通の荒神”となって入り込んだ。この共通の体験と認識は、人々の≪核≫となり神となり、その被災が大きい地ほど信仰の対象地となり極小集団から小集団、中集団へと展開していった。大事変の後の大雨は口伝され<雨乞い>へと発展する。列島で<津>の付く地名と竜神文化は、この大事変によって到達した津波による地名だと合点している。このような文化が永々と続いていた列島へ除福達はやって来た。
< 註: 隕石の冬 > 前述したかも知れませ~ん^^! (10/21)
隕石の冬とは、聞き慣れない言葉であるが、巨大隕石が地球に衝突したとき、その舞い上がる粉塵が太陽光をさえぎり、やがて気温が降下し冬のような状態になることをいう。地球が過去に経験している幾度かの氷河期は、巨大隕石のせいではないかと云われている。対して「核の冬」はよく聞く言葉であるが「隕石の冬」から生まれた考えである。○○年にインドネシアであった○○火山の噴火では地球規模で 1・2℃の降下があったとも云われている。 舞い上がった粉塵は、その高さにもよるが、やがては引力や、雨水によって地表に降下する。たとえれば濁り水がだんだんに沈下し澄んでいくようなものかな^^? 今、盛んに云われている「CO2 による温暖化」の影に隠れてはいるが、大きく見れば今の地球は間氷期(氷河期から氷河期の間)にあり、そのせいで温暖化へ向かっているともいえる。さきのTVで、一方向しか見ないマスコミや私達に、東大教授(ちょっとユーモアのある外人教授^^)は、その返答(それを云うと長くなるから)に困っておられました^^。( そうでしたよね^^? 気象○○さん>←最近よく訪問してくださる^^♪)
<荒神さまが帰来した!> (10/22)
人々が自然の脅威をうけ、それが列島共通の神となって人々の心に入り込んだ時。 その神は≪核≫となリ、強固な信仰集団へとなって行く。この『 全ての因は、その荒神さまの、お考えにあり!』とする考えは、前述したようにご祈祷によりその荒神を呼び寄せ<物事>をうかがい、まじないによって<病気の治癒>をおこなう文化でもある。“まじない”によって物事をきめる社会は、おおくの迷信を産み、必然的にその進歩がおそくなる。
そこへ、西方から天と地ほどの先進性を持ち、甲冑兵士(かっちゆうへいし)を伴って来た徐福達を 列島住民は、○○年前に西方へ進んでいった巨大津波に乗って行かれた、その荒神さまが帰来したと “勘違い” するのは無理からぬこと。蛇足ながら、その甲冑兵士は、後の毘沙門天や仁王様に変身していると謎解きしました(^-^)。
<秦(はた)の人達> (10/23)
異様な出で立ちの人達が、その西方からやって来た。そして水を請い食物はないかというから、水を差しだし食物を提供した。お礼に何やらみたことも無いような土産をびっくりする程たくさんくれた。中国の人達にすれば人から物を貰い「はい!ありがとう」ですませ、返礼品がそれより少なければ、その人の下方に下ったことを意味する^^? この供物に対する意識のズレは後々の “卑弥呼外交”まで続いていると前述しておいた^^。
身振り手振りながら聞けば『何かの探し物をしにやって来たといい、仮住まいをしたい』という。「私達の “端(はた)”でよかったら住みなされ」 ということになった。 わたしは、少年の頃 <秦・しん>を何故<はた>と読むのかが解せなかった。それは 『端(はた)に住む人達』 の意だったのだ。徐福達にすれば長旅の疲れもあり、全くの無人島より、何かにつけて人と接触したほうが好都合。この端に住む形態は後々の世まで続いているように見受けますが(^-^)?
<秦の人達が稲作を始めた> (10/24)
徐福が列島に来たのはBC219(~?)年頃の石器・縄文の時代。当時の列島住人の多くは、山と平野の境目で、近くに涸れることのない川が流れているところへ住んでいた。そして、そこが少しの高台であれば申し分ない。言うなれば(?)、米は主食とまではいかず、狩猟、漁労、採集、焼畑雑穀等の生活をを営んでいた。そんな時代に秦(以下はたとよみます)の人達がやって来た。彼等は河口付近の川縁(かわべり)へ住みだした。そこは時に、洪水にみまわれ多くを利用していない土地でもあった。徐福達にすれば、稲作での水路が得られ、船で列島の他の地へ移動できることが彼らの必須の条件である。そこでとりあえず水稲作りを始めだした。
(1025)
前文に、「始皇帝は彼等に五穀を与え」という言葉を推理小説風に^^!)忍ばせておいたのですが気付いて頂いてましたかぁ?(笑)
未知への旅立ちであるから食料はとうぜん携えるが、“蓬莱の地”列島では何が作れるのかが分からない。だから、わざわざ五穀を与え、(現在日本では、米、麦、粟、キビ、豆をさすことが多いが時代やその社会での主な穀物をいう) とことわったのだ。麺やマントウをつくる小麦や、米は、彼等の主食と思われるが彼等には<次の地で薬石を探す。本拠地へ集荷物の移送>という決して外せない条件がある。そこで、山地に強い麦よりも水路に近い米作りのほうへ比重がうつる。(陸稲・おかぼ、という手も考えられますがここではあえて水稲にしました。)
<湿田の開拓と営農法> (10/26)
この項、素人考えなので<間違い>は、 正して下さい^^!。当ブログを訪問してくださる2名?の専門家さま!
湿田を造るということは、その地へ長期に滞在することを意味する。稲の作田は一朝一夕には成りはしない。大陸と違い、花崗岩質の砂地の多い列島では、粘土質を溜め、水が地下へと抜けないようにするためには長年(?)を要する。そうかと言っても稲は作るし、探せばその適地はある。 以前TVで東南アジアのとある国で、水をはった作田に苗を放り投げて、その植え付けをしている場面を見たことがある。よく考えた農法だなと思った。子供心にそのほうが楽なのにと思っていたからだ。でも、その考えは間違いであることを後で知った。苗を筋植えにし等間隔の「田の字」植えにするのは、なにも見た目をきれいにするためではない。後の田の草取りや、間隔を同じにすることで、それぞれの苗に均等に陽があたり、同じように根がはり、風通しがよくなり、病害に強い丈夫な稲となる。加えて、米粒の熟しかたも均等に熟れてきて収穫作業がしやすい。植物本来の生理は、時期をずらして(発芽)実がなるようにしくまれている。なぜなら、鳥害や天候の異変等で一斉に全滅するのを避けるためである。(と、素人探偵は思うのですが・・^^)それが一斉に熟れるようになったのは数々の品種改良がなされた結果である?
当時(弥生期か?それ以前)の出土品の石器で、稲穂の一本一本をすごき取ったのであろうと思われるものがある。このことは、当時の列島では、田の字植え以前の農法がなされていたのではないだろうか? 「単位当たりに、本数をたくさん植えれば、たくさんとれるのに?」(笑)
何を隠そう、私・素人もそのように考えていた時期がありました^-^!
<田の字植えは明治になってから> の間違いでした^^!。(10/26・27)
ウエブで調べたら、定規や紐を使っての「田の字植え」は、明治時代になってからでした。しかしながら、中国統一では、20万・30万人?の兵をくり出したというから、その兵糧をまかなうには、それだけの営農法と備蓄法が確率していなくてはならない。対して列島の方は、まだ国と呼べるほどの集団性には至っていない。さらに中国大陸と日本列島には地勢の違いがある。仮に当時の人達の一日の歩行が100kmとしよう。大陸の方は一日中歩いても景色は変わらない? 一方、日本列島のほとんどは、10km、20kmも歩けば、「山あり、川あり、平野あり、加えて海がある」このことは、狭い範囲において、色々な食材が手に入るということでもある。食料の確保をこの両面から考えても列島では水田への比重は小さく、営農法も遅れていたと思える。渡航後の徐福達にすれば、船を持っている以上、海や川から遠く離れるわけにはいかず、おのずと水田への比重がおおきくなる。・・、それを見た列島の住人から見れば<何やら変わった米の作り方だ>!(^-^)♪
弥生時代を云うのに<米作り>がある。遺跡等の発見から、列島の米作りは2500年ほど?前からと思われていたが、2005年に、岡山・朝寝鼻遺跡の6000年前の土壌から稲のプラント・オパールが発見されたことにより、ずいぶんさかのぼることになった。そのルーツ等の論議はともかく、その作農が拡大するきっかけを作って行ったのは、除福達の行動に重なると素人はみていますが? 北陸や東北地方には豪農が多いしね^^)。 この考えは、今の史学には全く(?)ありません?。なにしろ、除福は “伝説上の人物” ですから(^-^)!
<徐福は“百工”を連れて来た!>
この項、筆者の知識不足と思慮不足です。少々?お待ちください。( 汗~!)
Dr.>ブログにあった、何やらの神が何やらの木の苗を列島にもって来た」 というのが気になっています^^!。(船建材のためか?)
<神様になった徐福達> (10/30)
徐福は、もとは「方士」であった。方士とは・・・? ウィキぺディアから削除されたのでハッキリとはわからないが薬事や、呪い(まじない)、天文方角等、の諸々に長けていて、それ等をもちいて医療行為をする者のようだ。 日本では、それにあたるのが太夫さん(拝み屋さん)だとしたが、中国の漢方のほうがより効果的にはたらく。 彼等に頼めば難病を治してくれるし、数々の命を救ってくれる恩人でもあった。 ・・、その人たちの没後は丁重に弔われ神となった。列島のそれまでの<神>は自然界の全ての因縁を司る神であり、それが人と重なることは決してなかったが、徐福達の来訪をきっかけとして、その後は人が神へと昇華する文化へと移行していったのではないだろうか。 素人探偵は、荒神や観音様の掛け軸の図で、かたわらに童子を描いているものがあり、これが徐福たちが連れてきた童男童女に重なって見えてならない!
<贈り物文化の違い?> (10/31)
中国での贈り物は上から下へ、日本での贈り物(お供え)は、下からお上(神)へすると前述した。蛇足ではあるが中国での贈り物は珍品・珍宝。列島での贈り物は初物を良しとする。この考えは、今でも残っていて、初競りでは法外な値がつく。いつぞやは夕張メロンの2個が45万円♪(今ではもっと上?) 欧州のマスコミがこれに揶揄(やゆ)を加えて報道していたが、彼等だって日本人の目からみれば、年代物の生ハムや○○(思い出せない。トリュフ^^?)には法外な値がつくから、これは文化の違いと受け取っておいたほうがよさそうだ(笑)ちょっと外れましたが、日本人と中国人贈り物にたいする互いの思い違いは「倍返しや祝い負け」として後々の関係にうまく作用してゆく。その中国からの贈り物は銅材(鉄)? 列島からの贈り物は、若者か娘か? (参考)卑弥呼は、魏の皇帝へ真珠等のほかに○○人の奴女(生口・せいこう)を始皇帝に献上していた。
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どうかな? しげちゃん | URL | 2010-11-01-Mon 09:17 [EDIT]
不老長寿の薬を日本列島に求めてきたのなら、まず、その日本列島で長寿を全うしている老人を探し当てるということもひとつの手ではないでしょうか。
目の前に恐ろしく長寿のような老人がいたとします。185歳くらいでしょうか。不老長寿の薬を探しに来た人達なら、まず何を食べているか、どんな暮らし方をしているかなど、その長寿の秘訣について質問するでしょう。
次に、238歳の人を見つけました。同じような聞き取りをします。どんどんこうやって資料を集め、その資料の共通点を探すのです。徳之島の長老は柿がお好き。隠岐の島の長老も柿がお好き。・・・・、そして、その柿も熟柿が好きだったとします。・・・後はご想像に任せます。でもこれなら中国でも出来ますよね・・・????
そうかな? しげちゃん | URL | 2010-11-01-Mon 09:30 [EDIT]
老年学という医学の範疇があるそうです。私の知り合いの先生も老年学会の理事をしていらっしゃいます。ある説によると、老化と劣化は違うそうです。ウンチクを聞きましたがよくわかりませんでした。生まれ立てが一番劣化が少なく年が寄るにつれて劣化が進み老化するというのは間違いらしいのです。不老というのは老化しない、すなわち生物としての劣化がないということではないとすれば次の組み合わせが可能です。
老化したが不老。
老化せず不老。
老化して劣化。
劣化せず不老。・・・本当でしょうか。もう少し考えます・・・。
参考 しげちゃん | URL | 2010-11-01-Mon 09:40 [EDIT]
ウィキより。
「老化の原因ははっきりとは解明されていないが、以下のような複数の要因が考えられている。
プログラム説 [編集]
それぞれの細胞には、分裂できる限界がはじめから設定されており、その回数を迎えて分裂ができなくなることにより老化が発生するという説。分裂できる限界数は、種によってまちまちであるが、概ねその種の寿命と比例していることから現在有力な説のひとつである。テロメアは細胞分裂の度に短くなることから、このプログラム説の機構を行う部分であるとされる。
この説における解決法としては現在、テロメラーゼが有力である。がん細胞においては、テロメラーゼが高活性化することにより細胞が「不死化」する]ことから、テロメラーゼの活性をコントロールすることで不老不死の実現が可能なのではないかと考えられている。」
コメントに感謝! 平 素人 | URL | 2010-11-02-Tue 04:38 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> おはよう御座います。 コメントありがとう御座います^^♪
またまた、むつかしい問題と興味深いおはなしを頂きました。・・・思考が混沌として日が変わってしまいました^^!。 Dr.>とのやりとりは、翻意するもの、または自説がより確定化してゆくもの。または好奇心をそそられるもの等、色々な楽しさを覚えます。 このコメントも、より多くの人に見て頂けるように本文へ転載させて頂きますので・・・、どうぞよろしく(^-^)♪
即、返答できません^^!。・・しばらくのご猶予をいただけませんか^^。
「そうですよねえ」
<卑弥呼以前の列島に、役場の制度が確立していた!> (11/03)
除服たちが列島での生活基盤ができた後で、真っ先にすることは、皇帝の命のその仙人を探すことでした。わたしは、Dr>が何故に「185歳、238歳」のような具体性のある数字をあげられるうらには、どのような伝承があるのかを知りたいと思っていましたが、それは隠岐の島や、徳之島にあったのですね。しかも<柿>を食べて♪ 「柿のみが赤くなるとお医者があおくなる」と言いますから柿には“何”か身体にいいものが含まれているのでしょうね。しかしながら、185歳、238歳といっても「自称」ですから確かめようがなくて、たとえその仙人を連れて帰っても皇帝は納得してくれない(^^!)。そこで“長生き”した童男童女を連れて帰れば・・・となるのでしょうが・・・。私は、何時のころからと断定出来ませんが、その昔(卑弥呼以前)に。今のような戸籍(歳)を登録しておく制度があった(前述)と思っています。それは3~才の幼児の人身供犠であり、登録しておいたその子達の中から白羽の矢をたて神に捧げるという・・・。一歳の宮参りで登録し七歳がくれば、その“役目”から除かれると。それを今にひきづっている?のが「役場」であり^^、それに関連して、焼き場、札場、厄よけ、厄明け、等であるとも・・(“やく”をPC変換すると、その謎が見えてくるのが面白いですね。) ちなみに岡山県・総社市の<鬼の城・きのじょう>の遺跡から硯(すずり)が出たと聞きますから、その昔の役場だったのでしょうね。・・ちょっと話が反れました(^^)
昨日、文化の日。植物園にいきました。そこで伐採された枝々のなかに親指の先ほどのミニトマトそっくりの柿を見つけました。黒色の柿を見た時も、そうでしたが私(私達)が知らないだけで、世には未だ見ぬ色々な「柿」があるのかも知れませんね^^。
「劣化せず不老」 (11/04)
老化したが不老。老化せず不老。老化して劣化。劣化せず不老。
いろいろにあるのですね。色々に考えてみましたがやっぱり解りませんでした。物事には時間の経過があり、その変化の経過時間は速いときもあれば遅いときもあるように感じています。そのスピードの変化は放物線(円錐曲線)を描いているようにも見えます。素人(私)の見聞きするところでは、人の寿命は120歳まで。又、身長は1m未満でその容姿は幼いとも見えるのに身体的老化は相当にすすんでいる人。又は、60代なのに40代とも見える女の人^^(TVの宣伝で♪)。これ等が常識的な範囲でしょうが、物事は偶然の確率とか奇跡の確率で進化していると思っていますから、その常識的な範囲をこえるところが分からない(汗~)。
「老化の原因」 (11/06)
老化の原因について、今まで深く考えたことはありません^^!。「氏の参考」をはじめとして、付け焼き刃的に色々調べてはみましたが、これも素人の思考範囲をこえています^^。 なかで、主旨を外れるとは思いますがEM菌(有用微生物群)なる言葉に興味をもちました。
【 EM菌は20年近くも前、琉球大学農学部 比嘉照夫教授により開発されました。当初は農業での利用を主体とし、土壌改良、作物の品質向上を目的に研究され、その結果すばらしい成果をあげてきました。】 EM販売ニコマートより
これを分かりやすくとらえれば、牛乳をチーズにする菌と腐敗させる菌との違いのようです。
植物にとっては特に影響があるようで、一昨日のTVですが、それらの選択された有用微生物群を施肥することによってニュージーランドでは羊の牧草として成果をあげているそうです。また東北のりんご園でも土壌を自然の有用微生物群で活性化し、(人工的な)無農薬・無肥料の栽培をしていると紹介されてていました。わたしも数年前にEM菌で処理された堆肥の安売りがあったのでバラやサツキに“大量に”施しましたが、「安いから大量に、良い物なら大量に使ってやれ!」との思いが浅はかだったようで、バラは斑点病が発生するし、サツキは未だに大きくなりません^^!。 今も昔も、徐福達もこのような試行錯誤があったのでしょうね。 きっと?
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記述をもとへ戻します^^。
<その贈り物には?> (11/07)
列島各地にBC2001の大事変後から、永々と積み上げてきた「竜神雨乞い文化」があった。
その荒神信仰の祭祀とは、≪問題の発生から→ (迎え火・呼び水)→ 荒神の呼び寄せ(生け贄を捧げる)→ 解決策のお告げを聞く→ お告げの後の(送り火)→ (祭祀終了後)→ 祭祀用具の破壊、埋葬・散逸→ (次回への保管具を)仮印する!≫だと前述した。(詳しくは本文で)その祭祀用具のなかに、朝鮮半島からとされる風鐸がある。この風鐸が銅鐸の前身だとする論説がある。(筆者は風鐸・ふうたくの詳しくを知らないが、呼び鈴のようなもので?)これに列島の住人が徐福達の携えてきた銅剣、同材料に興味を示し、それまでに使用してきた土器製のものを銅製へと変えていったのではなかろうか? 銅材のもつ神秘性は、「アカ」から、アオ(緑)へ錆びて変わることと、緑青(ろくしょう)の持つ毒性が荒神へ重なると前述した。 列島の住民からすればその銅材を欲しいと思う。 徐福達にすれば行く先々で、その地の首長・太夫に銅材や銅製品を贈ることによって家屋の建設、農作業、の人手。はたまた薬石探しの案内人(シェルパ)を得ることができる。
<日本前史における韓国の影響> (11/09) この項、筆者の全くの想像です^^!
日本前史においては、日本と中国の関係におもきをおいて、韓国は常にその経由地とか仲介役として語られてしかいないと思うが、日本と韓国は対馬海峡を隔てて、晴れの日にはお互いの地が望める関係にある。始皇帝が、<蓬莱>より、(なりふりをかまわないボサボサ頭の人達。又はヨモギの生える荒れ地より、)「不老不死の薬石と仙人を持ち帰れ!」 と命じているからには、その “蓬莱の地 = 日本列島 = 縄文人” という情報は、朝鮮半島を経由して中国へ入っていたとしか思えず、徐福以前にも朝鮮半島から列島への渡来があったのではなかろうか。先の<風鐸>にしろ、もっと韓国(朝鮮半島)と、日本の関わりを知りたいと思う。
Dr.>の言われた、出雲半島西端にある“ドルメン;韓国人墓?”が気になってしかたがない。
うらやましい? しげちゃん | URL | 2010-11-09-Tue 16:14 [EDIT]
私は、中国大陸やその地続きである朝鮮半島の人達が、日本列島に何かうらやましいと思うようなことがなかったかを考えています。今までの関係は、先進文化が中国や朝鮮半島から流入してきたとして、日本列島は受身のような立場で語られています。しかし、それだけだったのでしょうか。私たちから見れば当たり前のようなことが、中国大陸や朝鮮半島の人から見ればとてもうらやましいと思える何かが日本列島にはあったのではないかという視点を持ってみるのです。殺伐とした黄砂地帯、ゴツゴツとした半島、どこからともなく突然と現れる侵略者、ダラダラと続く同じ風景、あまりおいしくない農産物や魚介、まだまだあることでしょう。・・・それに比べて日本列島の住人は・・・ということに思い当たった中国大陸や朝鮮半島の人が考えたことは・・・。目指せ、日本列島・・・となったことがあったりして・・・。
「同感です。」 平 素人 | URL | 2010-11-10-Wed 08:37 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> いつも、コメントありがとう御座います^^♪
それに付いては(も^^!)、すこし長くなりますので本文のほうへ移させていただきました^^。
わたしも同感です。彼等にとって日本列島は“魅力ある地”であったとみています。地勢の違いから、もう一度考えてみますと、中国大陸では何んでもありですが、広大がゆえに食物にしても資源にしても片よりがあります。中国の人が珍品珍宝をよしとするのはこのためでしょうか?
合わせて日本ではどこでもきれいな水を“あたりまえに”手にすることが出来ますが、大陸では、長江、黄河がつくる広大な堆積土のため清水を得ることが難しいのでしょう。中国は今でもきれいな水を大量に要する染色等の工業用水をつくるのに苦労をしているようです。
朝鮮半島の方ですが、Dr.>が言われた<熊津^^>を探すために観たのですが、その地勢は東の山岳地帯と西の平野部に、おおむね二分されています。(以下は、素人的考えであり後でお叱りを受けるかも知れませんが)こういった所では生活が単調になり、必要物資が欲しい時には、他所へ出かけなければなりません。それが“中央市場”で事足りている内はいいのですが、人々が集団性を持ち欲しい物が大量の建築資材、鉱石、薬石等に発展すると、他の住人の所へいってそれ等を求めるようになります。遠隔地ゆえに車馬が発達し、大挙して押し寄せれば、そこで争いが生じる!
(11/11)
中国の歴史が争いを抜きにしては語れないのは、この理由でしょうか。反面、万里の長城や<客家・きゃっか=2m厚さの防御土壁で造られた集合住宅>等でみるように、その防御性の強さには驚かされます。一方、朝鮮半島のほうですが、Dr.>が言われるのは“馬賊”のことでしょうか? わたしは馬賊のなにやらを知りませんが、この二つの国の“歴史に”共通していえるのは<青銅器>に戦闘性がありとみています。大型動物にトドメを刺すためや人を殺傷するための実用的な形をしています。それが列島へ渡ってからは祭祀や身分を表すための非戦闘的なものへと変わっているように思います。日本の各地に<朝鮮式山城>と云われているものがありますが、素人は、これを戦国時代に臨時的に使用されたことはあるかも知れないが、本来の目的は、戦闘のための施設ではなくて<雨乞い用>に造られた施設だと(報告書本文で詳細を)謎解きしています。このような事から徐福たちは列島人を 戦いを好まない<和人?><倭国>だとみたのでしょうか^^? 戦うことを常としてきた徐福たちにとっては別天地♪
(11/○○) Dr.>とのやりとりで「生口・せいこう」が気になりだしました^^。ヒョッとして??
生口は、この度はじめて耳にする言葉なのでウィキペディアで(以下を)検索しました。
生口(せいこう)は、弥生時代の日本(当時は倭)における捕虜または奴隷とされている。
107年(後漢永初1)に当時の倭国王帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じている(『後漢書』)。その後、倭王卑弥呼も239年(魏景初2)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人を、243年(魏正始4)に魏少帝へ生口を献じ、その後継者の台与も248年に生口30人を魏へ献じている
(『魏志倭人伝』)。
生口は元来、捕虜を意味する語であるため、捕虜を起源とする奴隷的身分であると考えられている。時代的に献上物が豊富ではなく、そのため生口を送ったと見る向きもある。ただし異論も多く、捕虜と関係ない奴隷とする説や、あえて中国へ献上されていることから、単なる捕虜・奴隷ではなく、何らかの技能を持った者とする説もある。さらに中国への留学生とする説もあった。またこの時代は食人の風習があったので、そのための食材であったという説もある。魏志倭人伝の記述から、弥生時代後期に奴婢という奴隷階層がいたことが判っている。生口が奴婢と全く別の存在なのか、重複するのかは論が分かれている。 (以上)
生口 しげちゃん | URL | 2010-11-12-Fri 17:22 [EDIT]
生口とは生きた口ですね。この人達を中国に残して遣使たちは倭に帰っています。「中国への留学生とする説もあった。」とされています。生きた口、口から連想するのは言葉です。倭から連れて来られた生口は倭の言葉を話します。中国人は倭の言葉を良く知ってはいません。そこで、生口に中国で生活させて中国語を覚えさせ、**は倭では++と言う、意味するというようなことが出来るようにするのです。倭と中国との意思の疎通はよりスムースになります。当時は辞書や百科事典はありませんから、そのような役割を果たせるようにするために、生口を置いて帰ったのです。何年か、あるいは何十年かの後に倭の使者が中国へ行けば、その生口が登場するか、その後継者が、通訳をするのです。まさに生ける口です。
生口2 しげちゃん | URL | 2010-11-12-Fri 17:38 [EDIT]
「後漢の安帝へ生口160人を献じている(『後漢書』)。その後、倭王卑弥呼も239年(魏景初2)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人」とあります。これでいよいよ生口の役割が分かります。最初にドンと送っているのです。その中の何人か何十人かは先に述べた役割を果たせるようになっていたことでしょう。そのうちの何人かを残し、新しい生口に彼らの役割を伝授させ、習得させるのです。そして何人かは倭へ連れて帰るのです。とすれば、倭では最新の中国語の通訳が得られるのです。中国から倭へ使者が来たら帰ってきていた生口が通訳したり接待したりするのです。つまり、捕虜に用いる生口は、穀つぶしすなわち、生かされて口でただ飯を食うと言う意味での生口であり、奴隷に匹敵する貧困層は当時の中国には掃いて捨てるほどいたのでしょうから、わざわざ送る必要もないのです。倭が送った生口を馬鹿にした見解は見直されるべきです。
「グッドアイディア」 平 素人 | URL | 2010-11-12-Fri 22:52 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> こんばんわ コメントありがとう御座います^^♪
「生口=通訳人説」ですか。グッドアイディアです^^。 これも本文へ移させて頂きました^^。
わたし(素人)は、このような諸説紛々としている場合、奇異をてらう(統計上の)端々の5%を除いて、すべてを受け入れるようにしています。なぜなら専門家というのは、その道に長けていて何かの根拠があって、その“言”を発しているからです。ただ専門家というのは、相手の言を受け入れ難いという欠点はありますがね(笑)。
Dr.>が言われるように「奴隷に匹敵する貧困層(や捕虜)は、当時の中国には掃いて捨てるほどいた」でしょうから、珍品珍宝をよしとする中国へ若い男女を贈ることに疑問があったからです。今までの私は、中国の歴史で、天皇家から養女を受け入れたとか、残留孤児を受け入れたとかで、幼い子達をやりとりする場合は、長家が互いの実子をやりとりすることによって、それが戦争抑止力にはたらく。又は、一般層においては広い国土のこと、人手は幾らでも欲しいから労役?として受け入れていた。ぐらいにしか考えていませんでした。 が・・・?
<わたしは、「生口」を次のように考えました> (11/13)
先に、Dr>とのやりとりで、生口は『ヒョッとして?』と記述したのは、食肉のためか?と、ふと思ったからです。・・・それで、ウィキ>で調べたのですが、一説として 『この時代は食人の風習があった』 を見たときは、筆も止まるほどに愕然としました。
話しは、まったく変わりますが、私は少年のころ。伝書鳩を飼っている友人が卵に触ってはいけない。親が食べてしまうからとか。生まれたばかりの子猫を人が触ると親ネコが食べてしまうとかを聞いたことがあります。近時にもTVで、野生ライオンが病弱な我が子を食べてしまうとありました。何故?このような行動が仕組まれているのか分かりませんでしたが、女の人から我が愛児を「食べてしまいたいくらい可愛い」との言葉を聞いたことがあることから、これはその形容ではなくて本当に人間にもその感情が潜んでいるのではないかと?素人なりに解釈していました。 未開の時代。食人の風習は、腹を満たすためではなく、 「対象(捕虜等)の持つ生命を我が体内に取り入れるため」 と聞いたこともあります。 富と権力。殺生与奪、までもを手に入れた皇帝のこと。 「・・・は、」ありうる話しかも知れないと。
生口3 しげちゃん | URL | 2010-11-13-Sat 09:22 [EDIT]
「対象(捕虜等)の持つ生命を我が体内に取り入れるため」 ・・・とありました。確かにそのようですが、次のような延長線があります。闘いの中で相手を倒すのですから、ひとつ間違えば自分が生命を落とします。その相手の勇気や闘争心を獲得するためとも言われています。そのことはまた形を変えて、動物や植物を食する際にも用いられています。蛇の生命力、鷹の獰猛さ、狐の狡知さ、葦の成長力などを自分の身体に取り入れたいとして食するのです。今日でも一脈通じる習慣ですね。
生口4 しげちゃん | URL | 2010-11-13-Sat 09:31 [EDIT]
「本当に人間にもその感情が潜んでいるのではないか」とあります。潜んでいても、その一線をどこで乗り越えるのか。アメリカの奴隷は、黒人は人間ではないという形で合理化され、白人に使役されました。同じ人間だと思えば、とても出来ないような仕打ちを平気で出来たのはそのような合理化があったからなのです。翻って、生口を食人のためのものとするには、同じような合理化が必要です。遣使はいろいろな贈答品を貢いでいます。もらったものは捨てようが踏みつけようが後の処理はもらった人の自由です。となれば、贈答品としてもらった人間(生口)は物であり、食べても良いという合理化が働くのです。食用としての人間・・・まさに珍品かもしれません。
生口5 しげちゃん | URL | 2010-11-13-Sat 09:38 [EDIT]
それにしても、160人もの生口を中国へ運ぶとなると、そのための船の段取りが必要になります。その時代では大変なことではないでしょうか。しかし、それでも連れて行ったのです。そこは生口と言えども人間です。もし、鹿や猪を連れて行くとなると、それこそ船内で暴れたりして大変です。今日でも馬や牛が運送中に暴れてトラックが横転したという事故があります。何か珍しい食肉を生きたままで贈答しようと思った時、一番安全に届けられるのは人間だと思ったとするならば、それなりに納得できるのです。
生口6 しげちゃん | URL | 2010-11-13-Sat 14:05 [EDIT]
おいおい、いくらなんでも先に生口は通訳や文化理解のための使いだったとしながら、次には食人用の贈答品だったなどと平気で言えるな・・・とお思いでしょうか。ところが矛盾しないのです。遣隋使・遣唐使としての留学生は、最澄や空海のように、選ばれし人でした。どうして当たり外れなく選ばれたかと言えば、才能や学問的素養を見極める学問所や僧の養成所があったからです。しかし、倭の時代には、そのような選抜に耐えうる学校などはありません。ちょっと利発なものとか、ものになりそうだという程度の基準で160人を選んでいるのです。その、160人をどうぞ通訳、文化伝道者となるように鍛えて下さいとして贈答品として差し出しているのです。もし、その役割を果たせないような無能な者がいたら無駄飯食いをしたのですから、家畜を養っていたと思って、どうぞ食して下さいといって差し出したのです。こうなれば矛盾は無いのです。なにかホラーのようになりましたが、それがその頃の時代だったのです。
思いようで・・・ 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-11-14-Sun 06:42 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> おはよう御座います。いつもコメントありがとう御座います^^♪
<じいさま>が、おられたら、このやりとりも、きっと喜んでくれたでしょうに・・・
人。 思いようで、幾らでも残虐になれるのですね・・・、
<・・・「生口」つづきます。> (11/14)
生きるということは「命」を口にすること。私達は、動物、植物を問わず多くの命を体内に取り入れることで、この命をつないでいる。ただ、それが許されることか、許されないことかを<人間的良心>によって決めているに過ぎない。このように古代人が考えたかどうかは分かりませんが、“生き先長い”幼子の命を取り入れることで“己・おのれ”が長生きすると! 徐福が訪れた前後期の列島には、荒神に幼子の「命」を差しだす信仰があると謎解きしました。一方、中国のほうでは珍しくて手に入れがたい食物ほど高価に売れる?風潮があった。(今でもかな^^)とはいっても自国の子女を食したとあっては、後々までその社会で生きていくことは出来ない。 この双方の“思い違い”は、うまくからまりあい「生口」の運びとなった。「奴婢」をはじめとする色々な論説ならば、なにも<生>と<口>の字を当てなくても、ほかに、それを表す適当な言葉があったはずだ。しかしながら「160人の生口」となると、この論説はなりたたない。その数が多すぎるからだ。そこで、そのほとんどは専門家さんがおっしゃるように振り分けられてゆく!!
どうか、Dr>とのやりとりで思いついたこの素人の ‘思いつき’ が間違いであって欲しい。そして後々からお叱りを受けますように! (合掌)
<魅力的な列島♪>へもどります。
今までになかった?日本史の見方^^! つづきます(^-^)♪
只今、次ネタの準備・思考中です。(^-^!)
お待ち時間に、クリック♪ ↓
(無料立ち読みあり)→ 極秘報告書「巨大隕石と大津波」 ←電子出版です。
去る年、ご奇特な方がいらっしゃいまして^^!、お一人の方がこれを買って下さいました。(謝々、お申し出下さればプレミアム付きのコメントを^^)。 もし貴方が大国の責任者なら、この報告書から、ん十億、ん百億の価値を見い出すでしようし、もし貴方が中学生なら、¥500 で大きな夢が買えるのにねえ(笑)。さて、貴方さまは、ブレイクしてからになさる? それとも・・・^^?
「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」が出土するのは、まだまだ先のことになりそうです。 その出土が何時になるやらは分かりませんが、その時には、ご訪問して下さった貴方さまと共に喜び合いましょうね v(^-^)。
卑弥呼に興味のないお方は、【 MY粗茶室 】 を用意してお待ちしております。
MY粗茶室&、では、<卑弥呼>だけでなく色んなことを食っちゃべっていますの
で・・・、興味のあるお方は、左欄下のカテゴリー<ゲスト様>の方へ、どうぞ(^-^)♪
又は、アーカイブ 2009/10月から・・・、(お手数ですが“貼り方”を知らない^^!)
<初めて、ご訪問の方に>
ご訪問ありがとう御座います。このブログで掲載している記事のすべては関連モノです。その後シリーズでは、その要旨や言葉足らずのところを書き足しています。 興味が湧いた方は “ふりだし”から、どうぞ(但し、お暇な方に限ります^^)。 お勧めは、カテゴリー別で入って下さると読みやすいかも知れません。 尚、コメントは、後々(の世^^!)まで残るものであり、本になるやも知れませんので、真に勝手ではありますが、その時には当方が、そのコメントを無償で使用出来ることを 御了解されたものとして扱います。 なぜこのようなことを申し上げているかというと 「 先で、この『広報』を妨げる要因は一切取りのぞいておきたいからです」。御一緒に、そのコメントを歴史に刻みませんか?(^-^)♪
(敬白) 史実探偵: 平 素人
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<徐福達が日本史に与えた影響、そのⅥ.(完)>
【 前記事、Ⅰ~Ⅴまでの要旨 】
列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
どのように流布・拡布したのか? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?
秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、徐福に童男童女3000人を与え、
東方彼方の日本列島から“不老不死、不老長寿”の薬石と仙人を連れて
帰れと命じた。対馬海流によって分散・漂着させられた徐福たちは、列島
各地や、内陸部へも果敢に進出していった。 そして、とりあえず蒐集した
薬石・珍宝を始皇帝のもとへ送り届ける交通網を列島につくりあげた。
そして、Ⅴでは、列島人と徐福達との関わり合いについて考えてみた。
ここまでが、<徐福について>の記事(Ⅰ~Ⅴ)の概略です。
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<朝鮮・中国、から見た魅力的な日本列島♪> (11/16)
近年に‘脱北者’が、日本へ漂着した時のこと。「なぜ貴方は上陸して、すぐに隠れなかったのですか?」 「緑の景色がきれいだったから・」と、云ったそうです。今ここで論じているのは紀元前・後の境目あたりですが、私達は、近代の一時期その緑を失った時があるとはいえ、自分達の国土の美しさに気付くべきです。今でこそ「狭い日本」といいますが、幾十里も歩かなければ山や海へたどり着くことが出来ない大陸。確かに大陸には奇勝絶景があるようですが、それ等へ歩いて行くには遠く離れすぎている。広大なゆえの単調な植生。決して澄むことのない黄河等。それに比べて列島では数里も歩けば、山、河、海へと思いのまま♪ (大陸では今でも死ぬまで海を観たこともない人がいるそうですよ。)このことは、色々な食材が多くを歩かずに手に入れることが出来るということであり、しかも列島には幾筋にも清流が流れ、白砂青松の海岸。加えて四季によっても、景色や食材が変わるのである。このことは縄文石器を営む列島人には、狭い地域での自給自足が可能であり、他人のテリトリーを侵す必然性が生まれない。ゆえに列島人はきわめて平和的(^-^)。戦いの痕跡が遺物に見られるのは卑弥呼より少し前だったかな? 大陸とは異なり、海の幸が得られ、四季ごとに変わりゆく景色、気象の変化、雲の形までもが異なり? 「花鳥風月」のうつろう “時間” を楽しめる国は、そう多くはないと思いますよ。出雲に帰化された<小泉八雲さん>は、そのような日本が気に入ったのでしょうね。出雲の夕日と、それに手をあわす人々に惹かれて! 日本のよさは “観光資源” は、「外国人に聞け」ってかぁ?( 大笑だぁ^^)
列島は、「細長い国土と変化に富んだ地形。そして移りゆく四季が財産です」そういう私は、朋友釣りじいさん>をなくしてから、それを楽しむ心のゆとりをなくしてしまいました。短い秋が過ぎ去ろうとしているのに! せいぜい<日本蜜蜂さん>のお世話にいそしむとしましょうか。 衣・食・住・が物余りして、今や車や宝石でさえも興味がうすれてきた日本。これからどのように動くのでしょうか。
<魅力的な、日本列島 の2.> (11/21)
徐福達から見た列島は、海・山・川・野、の色々な食材を多くを歩かずに<狭い>範囲で得ることが出来る。しかも、建材にする石や草木までもが何処でも簡単に手に入る。そして、住人は戦いを好まず平和的♪ さらに出雲では “砂鉄や銅鉱” の露出岩(Dr.>の言;島根半島で今でもゴロゴロ)があった! 砂鉄とかゴロゴロ状態の鉱石は、採掘の労力なしで、それに熱を加えるだけで「鋼」が得られるということである。さらに、更に、出雲の神の酒造り^^♪ そして温泉もあるしね(笑)。蛇足ながら、ガマのお綿(出雲木綿?)もあるよ^^! 徐福達にとっては、まるで桃源郷♪しかし、それでは困るのである。
徐福達は列島に永住しに来たのではない。 始皇帝の命である“不老不死の薬石”を求めにきたのである。もし定住でもしょうものなら・・・?、その声狼(ロウ)の如し、その薬石をと命じた方士2名にトンズラされ、それに立腹し、方士達400余名を「自分達でその法を考え生き長らえよ!」と、“穴埋め?”にした皇帝の恐ろしさは骨の髄までしみ入っている。
<東方神起!、日本列島の神秘を探せ!> (11/22)
この項は徐福達が<東方神起>列島の地勢になにを感じ、なにを神秘的に思ったかは、全く分からないので、‘素人の勝って^^’ で、このブログで以前に出てきたものを取り上げてみたい。 まず火山と温泉。それに、日ノ御碕の西端の玄武岩、(出雲)○○市の鳴き砂、鳥取の砂丘、弓ヶ浜、丹後の玄武洞の柱状節理、天橋立、北へ行って青森の仏ヶ浦、恐山、三陸海岸の絶壁かな? そのほか全く知りませぇ~~ん^^!。これ等の多くは4010年前の東北に落ちた巨大隕石に関係するとみているが、今回は「鳴き砂の浜」について取り上げたい。
「鳴り砂・但しなきずなと読む^^!」を学問的に取り上げると難しいようなので、素人流でいうと奇麗な石英の砂浜を踏めば鳴る」とでもしておきましょうか(笑)。以前この鳴き砂を持つ自治体が縁組を?して、その学問的価値とそれを観光資源にしようとする動きがあった。全国で100~200カ所あるようだが、
その主なものを< Wikipedia >で調べると。
* 小清水海岸(北海道斜里郡小清水町) * 青谷浜(鳥取県鳥取市)
* イタンキ浜(北海道室蘭市) * 井手ヶ浜(鳥取県鳥取市)
* 猿ヶ森砂丘(青森県下北郡東通村) * 石脇海岸(鳥取県東伯郡湯梨浜町)
* 大須賀海岸(種差海岸)(青森県八戸市) * 波根海岸(島根県大田市)
* 浪板海岸(岩手県上閉伊郡大槌町)* 琴ヶ浜(島根県大田市仁摩町馬路)-日本の音風景100選
* 小久保海岸(岩手県上閉伊郡大槌町) * 犬ヶ浜(島根県大田市温泉津)
* 九九鳴浜(宮城県気仙沼市) * 清ヶ浜(山口県阿武郡阿武町)
* 十八鳴浜(宮城県気仙沼市) * 小原浜(山口県萩市)
* 夏浜(宮城県牡鹿郡女川町) * 室津海岸(山口県下関市)
* 小屋取浜(宮城県牡鹿郡女川町) * 姉子の浜(福岡県糸島市)
* 鳥の海(宮城県亘理郡亘理町) * 奈多海岸(福岡県福岡市)
* 豊間海岸(福島県いわき市) * 恋の浦(福岡県福津市)
* 角海浜(新潟県新潟市) - 現在は鳴らない * 勝浦浜(福岡県福津市)
* 千代浜(石川県輪島市門前町) * 白石浜(福岡県福津市)
* 琴ヶ浜(石川県輪島市門前町) * ぎぎが浜(長崎県松浦市)
* 琴引浜(京都府京丹後市 -日本の音風景100選 * 月ヶ浜(沖縄県八重山郡竹富町(西表島))
子供(中学生)のころ、鳥取の砂丘が何故できたのか?を不思議に思ったことがある。それまでの私は砂の成因は河川の流れによってのみ出来るのであって、決して海の底の岩石は砂にならないし、水流のない風化作用だけではその砂粒は出来はしない。その砂浜を作るにはその高さ以上の水流が要ると! 上記の砂浜が4010年前の<釜石辺り>で発生した巨大地震に揺すられた≪巨大津波沿岸流≫によるものかどうかを精査するのは今後の課題だが、なかに背後地に石英の母岩を持たない所がある。『その石英粒はいったい何処から運ばれたのでしょうね?(笑) 別談になりますが、サハラ砂漠も津波成因なのですよ! (NHKが調べたらサハラの砂は南からだって!) 今、専門家は、まったく相手にしてくれないが、何れ世界が素人の極秘報告書「巨大隕石と大津波」を認めざるを得ない時がくるのにねえ(大笑だぁ^-^) (電子出版 ↑クリックOK、部分的ですが無料立ち読み有り。 ご購入は ¥500。 ただし11,000Kbの大作?ですから、お暇な方で“史実を知りたい方”にかぎります^^。)
拙い素人の論で、頭の固い地質学を切り崩すのは、頭の古い考古学に気付いて貰うより更に、々に、難しい。(ゴメン又、言葉が過ぎました。20余年もやってると、ついつい恨み節がぁ~^^!)
何故、そんなに強気の言が吐けるのかって? 私には、その白砂にまつわる御先祖さまからの『伝説やら民話』がありますからね。その砂浜の傍らの社(やしろ)に手をあわせれば、貴方にも<その砂浜は神様が“一朝”にして創った>との声が聞こえるかも知れませんよ。(^-^)♪
<とは、言っても!?> (11/23)
上記の“白砂青松”は、徐福達の初期の日本海沿岸行動と重なる。徐福達の目的は不老不死の薬石を探すことにある。それは<東方神起>の神の居場所を探す旅でもある。なぜなら、神=不老不死の考えに基づいているからだ。徐福達は、きっとその美しさと鳴き音に心を奪われたはずだ。一方、列島の住民達は、その白浜は四千年前の荒神竜が運んできたとの信仰(これは筆者の思いつきです)がある。 ここで双方何んらかのコミニュケーションがあったと思われるが、それが推(よ)めない。この徐福についての記事のなかでもくろんできた(謎Ⅱ)の「津の地名は何時誰が統一したのか?」に、全く関連づけられない!! まあいい!?無理に答を出そうとすれば無理が生じる(笑)。 徐福達と津名の統一は何んらかの関連があるとは思われるのだが、それが全く推(よ)めない。 どなた様か、どうぞの御教示を(^-^)! 素人探偵は、その鳴き砂の浜にまつわる『伝説やら民話』の実際が知りたい。 蛇足ながら、能登の荒神太鼓(御陣乗太鼓)、秋田のナマハゲ、それに太平洋側へ離れてはいますが“三保の羽衣伝説” これ等も徐福達の一行が関係しているのではないかと疑っています。 なにしろここで取り上げている話しは、卑弥呼より400年?も前のBC200年頃の話しですからね。
<列島文化の強い独自性> (11/25)
前述のようにあげると、大陸や半島の先進文明で列島の文化が、かき消された感を受ける
が・・・?? Dr.>が、先に、ご教示して下さった下記のコメントが気になっています。
≪ 不思議 ≫ shigechanizumo | URL | 2010-07-30-Fri 16:41 [EDIT]
3000人もの童男童女とされています。 ここで不思議なことがあります。
彼らは文字を使っていたのか。彼らの話し言葉は何だったのか。もちろん当時の漢字と中国語を使っています。 多くの技術者や、童男童女が日本列島に着いた。 そして散らばった。 漢字や中国語が何らかの痕跡を残さないはずはありません。しかし、その痕跡がない。弥生式土器に残された文字は極めて少なく、その上にひとつの土器に一文字くらいのものが稀にやっと見つかっているのです。 私たちは、縄文語だなんだと日本語の起源を探ろうとしていますが、ドッと3,000人もの中国語を話す人が一度に来たのなら、それはクラスターともいえるのですから、どこかの地域あるいは広がりに中国語の痕跡が残らなければなりません。 ところがこれもその痕跡がない。 では、ただ残らなかっただけなのか。そんな馬鹿なことはありません。
私の推理はこうです。
彼らは決して日本列島の人々に文字を教えたり、中国語を教えたりはしなかった。その理由は、彼らがプロとしてのエージェント教育を受けていたからです。日本列島の人々が漢字をたやすく使えたり、中国語を理解できるようになってそれを話すようになれば、特命を受けて日本列島にやって来た自分たちやその子孫と、区別がつかなくなるのです。 彼らはあくまで秘密結社としての集団性を維持する必要があったのです。いかに多方面に散らばろうとも、漢字を用いて中国語を話す人と出会えば、それはまさしく秘密結社の一員との遭遇であり、同胞との遭遇であると確信できるように、彼らの文字と言葉は彼らだけの間のものとして保持していたのです。 徐福の一団恐るべし、と言うべきでしょう。
Dr.>のコメントは徐福達の行動をするどく突いている! これを受けて・・・、つづきます
<企業秘密> (11/27)
徐福達の求める“不老不死”の薬石を現代風にいうと、企業秘密の薬石である。いかに他国の住人であれ、それについてべらべらとしゃべる分けにはいかない。徐福達は列島人との生活場所に一線を引いている。列島人は、徐福達を<秦・しん>の人と呼ばずに、端・はた(=秦)に住む人と呼んでいるのは、主住地に対しての端の意であり、その生活圏のリードマンは、列島人であったということである。徐福達は、列島人のことを戦争のない平和の人達という意味で<倭・わ>の人達と呼ぶようになったと(仮に^^?)謎解きしました(笑)。列島人にすれば、徐福達は、永々と続けてきた雨乞いを主体とする“荒神文化の延長線上”に現れた神(上・かみ(上紙^^?)、天上人・てんじょうびと→殿上人)ではあるが、四千年前(BC.2001)の大事変という実体験の伝承から生まれた<信仰心-前述>は簡単に変わるものではない。徐福達にすれば一カ所に永住できず、そこで統理するわけにはいかないし、もし、そんなことが中国の本土に知れたらぁ~~!?
<始皇帝の没後> (12/03)
始皇帝は徐福達が出帆したわずか9年後のBC210年に49歳で?亡くなっている。その後、秦国の二代目は数年(?)しか続いていない。もとより、不老不死の薬石などあろうはずもなく、徐福達にすれば、“始皇帝の命“というタガは無くなったが、9年の間に幾度かは、日本列島で求めた薬石、珍宝を中国本土へ送っているはずだ。徐福達3000人の中には危うい考えの武人もいて、東北地方では“なまはげ”となって “余命長い” 幼児も皇帝へ送りました。各地に残る「神隠し」という拐(かどわ)かしが、その幼児達でなかったことを願っています。はたまた、正月のその獅子舞が 「泣ぐ子はいねがぁ゛喰てまうどぉ」 それが今では、獅子にカブられることにより、そこで一端、命を断ち、その後の余命が長くなることを意味するようになりました。なにはともあれ、このようにして出来上がった海路や、中継地、集荷地は後々の日本列島の発展へと関与・寄与していく。
その詳細は、Drブログ>いずものこころ、 古代出雲 『発想の転換 徐福伝説』 2005/12/21 ~ 12/27迄へ、どうぞ!♪ (スミマセン^^!、貼り方を知らない。 暦の上にある矢印から検索したほうがいいかも^^) 尚、この素人の「除福について」の記事は、氏の御記事に出会い
‘ペリー来航’もその比ではないほどのカルチャーショックを受けたことから発したものであり、記事の内容は、その二番煎じ、三番煎じであることを申し添えておきます。
感謝 しげちゃん | URL | 2010-12-03-Fri 09:36 [EDIT]
私は、日本には不老不死の思想は受け容れられなかったと思うのです。徐福が列島に到着した時代に、日本列島に祖霊信仰があったのかどうか分かりません。しかし、日本列島は祖霊信仰の国柄です。 早くじっちゃんばっちゃんになって、あの世から子孫を見守ってやりたいというものです。姥捨て山でも、「早く置いて行け」と息子に言うのです。
感謝2 しげちゃん | URL | 2010-12-03-Fri 09:38 [EDIT]
先日恐ろしい文章を読みました。アイヌの死生観です。アイヌの人は、成人が死んでもあまり悲しまないそうです。亡くなった成人は、次には胎児となって生まれ変わるからだそうです。そこで、子供が死ぬと大変だそうです。祖先を殺してしまったということになるからです。いわんや、妊婦が死ぬともっと大変だそうです。せっかく生まれ変わりのために胎児を宿ったのに、その胎児たる祖先はこの世に出てこられないからです。そこで、妊婦が死ぬと、いったん妊婦として埋葬し、翌日に胎児を取り出して、改めて手厚く胎児を埋葬するそうです。土偶のお腹に筋があるのは、その胎児を切り出した後だというのです。よく見ると、土偶は妊婦であり、確かに張り出したお腹に筋があるものが多いのです。生まれ変わりという思想がある限り、不老不死の思想は必要なかったのです。
<コメントに感謝> 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-12-05-Sun 06:27 [EDIT]
コメントありがとう御座います♪ 昨々日は、雷を伴う時期はずれの低気圧が吹き荒れました。わがコメント欄にも歓迎すべからずの荒らしがふきコメントが遅れたことお詫び申し上げます。
「土偶は妊婦であり、確かに張り出したお腹に筋があるものが多い」 には、そのような祖先の想いが潜んでいたのですね。 知りませんでした。わたし(素人)が、何気なく見過ごしている埋蔵物の一片に秘められた祖先の思いと歴史に興味を覚えます。
<徐福の立ち寄り場所> (12/06)
いずものこころ -Yahoo!ブログ- 古代出雲『徐福伝説』の謎 2005/12/21 より借用
徐福の出身は斉(現在の山東省)で、身分は道教の方士。神仙思想(東方の海上にある三神山に、不老長生のための薬を持つ仙人がいるという説)に基づく不老不死を実現するための呪術や祈祷・薬剤の調合に長け、医薬・天文・占術などに通じた学者でした。しかし、徐福は中国には戻りませんでした。
徐福の渡来地として日本のいろいろな土地が挙げられ、伝承が残っているとされています。主なところを挙げると、青森県小泊村、山梨県富士吉田市、東京都八丈町、三重県熊野市、宮崎県延岡市、佐賀県佐賀市、佐賀県諸富町、佐賀県武雄市、広島県宮島町、京都府伊根町、鹿児島県串木野市など、北は青森から南は鹿児島にまで及んでいます。日本には30もの徐福伝説があるとされています。
ウエブ 古代史の扉 『徐福伝説』 (2010/12/01 のGMTに取得)
wwwasukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm
これ等のことは、よくぞ!♪ と思われるほどにあり、これも是非に一見をお勧めします。
<日本列島の神秘性は、なぜ生まれたのか?> (12/07)
欧州では「ジパング」、 中国では「神仙思想」、 韓国では「東方神起」-(グルーフ・名)-
その考えに基づいて、徐福が東方探索に出たのがBC219年。二度、試みたようですが、一度目は大鯨?に阻まれ失敗。大鯨とは台風のことではないかとのこと。ご存じのように後々の歴史で、徐福以外にも中国大陸から日本を配下にしょうと二度ほど列島に大船団をくり出しているが、何れも神風(台風)によって失敗している。これ等のことを神秘的偶然性ととらえる向きもありますが、中国で秋の収穫を済ませて、その兵糧を持ち何日もかけて行進、航海すれば台風の時期に重なるのは必然。筆者がいう『BC2001年の東方から襲来した巨大地震と巨大津波』の被災を歴史が覚えていて(この表現はDr.から^^)、度重なる大軍が海のもくずと消えれば、より列島の神秘性は増していく。中国の人達は、そういった危険を伴う深山や未知の場所にこそ霊薬ありとする国民性が(?)あると独断しました(^-^)。
大鯨=東方の海に潜む巨大エネルギー(=津波)、 大なまず=地下エネルギー、 東方神起=列島からの大事変、 竜=巨大隕石 (BC2001/12/25 日本時間AM6:00頃、地球を半周した小天体が東北地方に降臨!) 『これ等は、表現の違いであり、言葉の違いである』 それに貴方が、現科学が、世界が、気付かない限り本当の歴史は見えてこない。
それを「津波や地下エネルギー」と呼んだら科学で「大鯨や大なまず」と“例え”たら伝説かぁ~?
「それが科学なら、ちゃんちゃら可笑しい!」 ・・と、ご先祖さまがぁ~^^ 史実探偵:平 素人
<列島の中心地に発展した出雲!> (12/08)
それ等の中で出雲が列島の中心地に発展していった!? ここで、わたし(素人)が問題としたいのは、徐福がいかに卓抜した知見の持ち主だとはいえ全てに秀でているわけではない。前述したように、徐福は部長課長のいる<会社組織>を立ちあげたと思われること。そしてその<百工>にはそれぞれの得意分野があり、その滞在、立ち寄り期間の長短も問題だ。それに地域的特性も加わってくる。船造りはもとより、衣食住、陶磁器の陶土の調達から調味料の調達にいたるまで、あらゆる品々が考えられる。更にさらに銅剣(鉄材)の鋼材の調達。これらには自ずと産地適地がある。なかで一番大切なのが食料の調達。移動のためのお弁当は必ずいる。その時の稲作の可能産地を今の気温と品種で考えてはならない。人類は、今から4000年ほど前に大きな隕石の冬(別紙)を経験している。その気温の降下が何度であったか分からないが、北海道に除福の痕跡がうすいのは、このような食料事情が加わわっていたのかも知れない。
人口・人的資源も加えて、それらの全てが備わっているのが出雲地方だ(Dr.の言^^)。その中でも特に、掘削の必要のない砂鉄と露出鉱石があるのは大きな強みとなる。 徐福は出雲に必ず滞在していた。 ここでは、徐福本人が長期滞在していたかの有無は大きな問題とはならない。 薬石についての有力な情報があれば徐福は、それに応じてあちこちに飛ぶからだ。 前記のような資材と資源があれば、その基盤づくり(インフラ整備)をして、後は配下に任せればいい。だから出雲が中央都市として八百万の神々が集まるようになったのだ。その後には中国本国への出荷検品のために本拠を北九州へ移したかも知れませんが・・・。
<徐福、没する> (12/09)
徐福が没したのはBC208年とされる。されると言うのは何処で何時死んだか不確かなようだ。そのことは専門家に委ねるとして、BC208年であれば始皇帝没から2年後で渡航後11年後となる。中国の史家、司馬遷(しばせん)によれば、「平原広沢の王となり戻らなかった」とあるようだが、帰らなかったのではなくて帰れなかったのである。始皇帝から大資を受けて「そのような霊薬はありませんでした」等といって帰ろうものならひどい処遇にあうのは目に見えている。事実、始皇帝の暴君ブリを知っている人達からすれば、「徐福はうまいことやったな」 というかも知れない。徐福にそのような下心があったかどうかは知らないが、徐福は列島に大陸にない美しさと神秘性にひかれ、住民のいう荒神伝承(前述の大事変による巨大地震と大津波)を聞けば、日本列島の何処かに“三神山”はあると信じて探しつづけていたに違いない。なかで静岡県にも徐福伝説があるというが、富士の山を見れば、きっとその形状に心を奪われたであろう。不二の山とは、列島のすべてを知る者ぞのみ付けられる山名であり、この山名は、列島の住民が付けた山名ではない。ちなみに「不」を先につけるのは中国語の特徴でしたよね^^。不知・、不客知・(笑い)
<徐福の没後> (12/13)
徐福が亡くなったからといって、その配下やナンバー2はいたはずだ。不老不死の薬石探しを止めるわけにはいかない。彼等とて始皇帝の命を受けて渡航しているからだ。しかしながら、そうはいっても徐福が亡くなり、その命を出した始皇帝や秦代(BC221~BC206)さえも滅びてしまえば、その呪縛は?除々に解き放たれてゆく。だが仲間同士が神無月に出雲に寄り合うことは続いていった。9年のあいだに培われた海路はその後に発展したであろう陸路(古代陸路)とともに、中国本土や列島各地との商工路として機能するようになった。
富山の薬売り、近江商人、出雲の特殊鋼、○○の遠洋漁業のもとづえは、徐福達がなしたのだと私は思っている。そして端(はた)=秦(はた)=湊(みなと)の人達として歴史は流れてゆく。富山には今でも立派な内倉を持ったお家が残っている。そして、奈良の大仏殿の造営では秦の人達が財を寄進したというから、その人達はその後にも中国本土や列島各地との交易や工商によって蓄財をなしていったのかも知れない。
<ふ~~む!?>
徐福達の行動を調べることによって、
列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?
の<二つの謎>をしのばせて来たが、これに列島の倭人がどのように関わっていったのかが、全く推(よ)めない。 ・・・、
(謎Ⅰ) 列島の銅鐸はどのようにして拡布したのか? (12/14)
ウエブで調べていると次のような記事にあたった♪ (何方のかは後で調べます^^!)
→ homepage2.nifty.com/LUCKY-DRAGON/kodai-3-1jikitaku.htm
〔 補 足 ・・ その三 〕 【 銅鐸と磁器鐸 】
<新発見、古代中国、越の国の時代の磁器鐸>
2006年3月7日付の朝日新聞に、中国で日本の銅鐸とそっくりな磁器製の鐸が発見されたという注目すべきニュースが紹介されました。 しかもそれが紀元前470年頃の、越の国の貴族の墓から見つかったということです。 記事の内容は、以下のようなものです。
『 中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸(たく)が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。ーー 略 ーー。
鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12~18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江(揚子江)下流域の呉(?~紀元前473)と越(?~紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。ーー以下、略 ーー 』
( 以上、文化総合 文化欄より ) <※写真付き>
それにしても、2006年の今頃になって、このようなものが出土するとは・・・^^、
<素人の想像> (12/15)
銅鐸は謎の青銅器と呼ばれているもので、未だにその発生地や製造地はもとより、その使用目的さえも定かではない。出土の状態で中に<舌・ぜつ>と呼ばれている風鈴の振り金状のものがあったことから楽器として使用されていたのではないかの一説がある。’99年に大阪府茨木市東奈良遺跡で出土した銅鐸は、上部が“握り手”のようになっていて、その模様や形が簡素なことから、当時は「最古の銅鐸か?」とニュースになったことがある。無錫市の磁器鐸は上部に数センチの小さな“つり手“が付いている。いずれも鐸の形としては、初期的なものと思われる。 無錫市の位置は、上海のほぼ西方100km余で太湖の北岸に面し水運の発達した都市であり、日本列島との位置関係は九州の南端あたりとほぼ同緯度。上海から東の鹿児島までは約800km。
当時の船で季節風に乗ったとしても九州の東側に回るのはきつい? おおきく譲っても長崎あたりか? 素人の薄識(^^!)での解明はとても無理だ。これも無理!あれも無理。だが結果の現実をみれば、中国からの‘流布’は間違いなさそうだ。列島の銅鐸の<形>は、この磁器鐸の影響を受けていると言わざるを得ない。・・・これは一時置いといて・・・^^!
(12/16・17)
徐福達の3000人を海難等もあわせ見積もり、仮に1500人とした。その船を60人乗り(Dr.ブログから拝借・写真もありますヨ^^)とすると25隻の機動力となる。とは云っても童男童女を抱えているし列島の津々浦々を探索するには人手不足だ。現地人を調達したい。そして海陸を問わず薬石の探索を行うには現地の案内人の協力を得たほうが効率がよい。その交換に倭人が欲しがる銅製品を! さらに時は流れて銅鉱石、銅製品を生産、制作、再鋳造する当時の先進都市・出雲へ出向く。今の言葉でいえば、その購入(物々交換)。そして、より立派なものに買い換え(交換)をするためにと、陸路が発達してゆく。この下支えをしたのが徐福達が作った海路や陸路であったのではなかろうか? 銅鐸の制作年代や制作地を、その含有する鉛や○○の同位元素。そして、その含有量が鉱石産地よって異なることを利用して、それを推定する方法があったが、鉱石からの新鋳造であれば単産地であるが、列島各地から持ち寄った“古品”をつぶしての再鋳造であれば、この方法は使えなくなる。
ちなみに銅鐸は、個人の持ち物ではなくて村や郡(こおり)、あるいは祈祷所共有の財産であり、今の御神輿や、釣り鐘のようなものであったと以前に申し上げておきました^^。
<鐸> しげちゃん | URL | 2010-12-17-Fri 09:07 [EDIT]
鐸とは「さなぎ」。さなぎは変態を繰り返す。さなぎとは・・・『成虫になるための準備期間であることから転じて、成長を遂げようとする人を比喩的に指して使う場合もある。』・・・とか。成る程、鐸を鳴らして、早く稔りの秋になれと祈ったか?
<成る程、なるほど、> 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-12-18-Sat 06:00 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> コメントありがとう御座います♪
「鐸」とは、そのような意味だったのですね。まったく知りませんでした。それが大陸(中国)や半島(挑戦)から、日本に流布し、さらに拡布(この言葉はDr.ブログから♪)していったのでしょうか。本来の意は<さなぎ>ですか。 さなぎ(人)が、脱皮(死)して蝶(神仏)に変身してゆく。知れば知るほど奥が深くなってゆきます。(謝々)
<行・ぎょう、修行について> (12/19~20)
何故、修行に、「行・ぎょう」という字を当てるのか?
「行」の読みは‘ぎょう’とか‘おこなう’‘いく’である。‘ぎょう’と読めば仏教用語のようで、「諸行無常」と言えば諸々の行い(おこない)をいう。‘おこなう’と読めば諸々の行為。‘いく’と言えば移動すること。それが今では、仏教的な意味合いは薄れて移動する意のほうがつよい。 もともと「行」の字は‘おこない’のことをあらわしていたのか? だったら、移動する行為の「行く・いく」は、諸々の行為のほんの一部分でしかなく、「行く・いく」という‘あたりまえ’の行為に対しては、何かほかの<当て字>をしたほうがいい(!?)のにと、子供心には不思議でならなかった。
「行く= 歩くこと」であり、歩くことは、あたりまえの行為であり「修行」でも何でもない。千日回峰行のように歩くことに何かが加わるから“行・ぎょう”になると思うが? 「難行苦行」。 この当て字もおかしい? 素人的に考えれば「難為・なんい、苦為・くい」の当て字のほうがいいのにと思う。
それなのに、何故?ご先祖さま達は、「行く」という言葉にこだわったのか? 「行く」ということは「逝く」につながり、死して御浄土に出かける考えか? だが“死する”ことはあたりまえであり、これも“修行”にはならない。常人が出来ないことをするから「修行」なのだと思うが?
私は、この『行くという言葉』の発祥は、この度の徐福の記事にからめて、列島各地から当時(卑弥呼以前の歴史)の先進・中央都市へと発展した出雲へ、銅鐸の購入(何かとの物々交換)や、古くなったから新しいものをとか、隣の郡郷より立派なものを(^^!)とかの欲求から、歩行で遠く出雲まで出かけた太夫さん達にとっては大変な「修行」であったと思いたい。途中何日、何ヶ月もかかれば食料や水の調達が難しいからね(笑)。ちなみに、四国のお遍路さんは途中のおせったいを受けますが、命を賭しておこなう千日回峰は、食物をとらず水だけでしたよね!
< 結 論 > 結局薬局^^! <銅鐸の拡布の謎Ⅰ>で、いちばん肝心な ≪列島の各々の郡・こおりが、銅鐸という共通用具を使用するに至ったか?≫ については、解らずじまいでした(汗~)。
どなた様か、いいお知恵を~~~(^-^)。
(謎Ⅱ) 「津」の地名は、何時誰が統一したのか?
Dr.>コメント入りました。
tu(津) しげちゃん | URL | 2010-12-20-Mon 09:39 [EDIT]
神功皇后の三韓征伐の際に、神功皇后が半島に行く前に、半島の沿岸部を大波が襲い、それに畏怖した各首長たちが、なすすべもなく降伏をしたとあります。東の島国の神威は、津波で表現されていたのではないでしょうか。逆らうと、大波が東から到来する・・・。ご指摘のように徐福の最初の航海は鯨に阻まれて失敗します。鯨ではなく巨大に盛り上がる大波、つまり津波に阻まれたのではないでしょうか。蒙古襲来のときは荒れ狂う神風によって侵攻は挫折しています。すなわち、東の海上からは、変な思い付きをすると天変地異がもたらされると考えていたのではないでしょうか。徐福の一行が3000人などという構成になったのもそのリスクを考えての事だったのではないでしょうか。
Dr.しげちゃんさん> コメントありがとう御座います♪ (12/21)
私も、そのように考えます^^。ずいぶん前の話しになりますが、チリで発生した巨大地震による大津波が約1日をかけて、東北の三陸地帯にとどき多くの人命を失ったことがあります。日本列島は、火山国・地震国であります。その度に、巨大な受けV字形をしている中国の杭州湾や東朝鮮湾では甚大な被害を受けていたと思われる。だから兵馬俑の全ては東を向き、韓国では東方神起の言葉が生まれたのではないでしょうか?
魔海 しげちゃん | URL | 2010-12-21-Tue 16:30 [EDIT]
私は、今では消え去った伝説が中国にはあったのではないかと思っています。それは、東方の海は、聖なる海という側面と、魔の海という二面性を持っているというものです。徐福の山東半島あたりでは、海流というものが非常に弱いと思われます。しかし、日本列島の両面には、黒潮が流れています。日本海側には対馬海流となっています。もし、この海流に捕まってしまったらどこに行くのかもわからなくなってしまいます。太平洋側の黒潮本流も同じです。自分たちをどこへ運んでしまうのか予測もつかない海、すなわち魔海と受け取られていたのではないでしょうか。また、黄海では鯨やイルカを見るのは稀です。また、日本海のトドやアシカを見るのも稀でしょう。日本の人達がトラやラクダを見たときに感じる不思議な生き物が、魔の海にいると考えていたのではないでしょうか。それは中国の沿岸部を離れれば離れるほど恐怖感に代わっていくのです。中国の人達は、竜に見られるように奇怪な動物を想像し作り上げるのが得意です。さて、日本列島沿岸にはどのような奇怪な海の動物がいるのか、想像をたくましくし、さらに己の想像の中で作り上げた海の動物に畏怖したのではないでしょうか。
<消え去った伝説> 平 素人 | URL | 2010-12-22-Wed 03:11 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> コメントありがとう御座います♪
“消え去った中国の伝説”とてもいい表現ですね。わたしは、少年(中学生)のころ、何故に『中国四千年の歴史』というのか解せませんでした。この国の歴史をいうとき、それは、6千年、あるいは8千年以上をさかのぼってもいいのにと思うからでした。それが「何故四千年?なのか」 今から4千年ほど前に、正確に言えば<BC2001年の12月末>ですが、その歴史を消し去るほどの大事変(巨大隕石)が日本の龍飛崎上空を経由し釜石辺りに“分散衝突”しました。<竜は、巨大隕石ではないのか?>と思ったのが少年の頃です。この度徐福の記事を書くにあたり、それが確信にかわりました。<龍画は、中国人が倭人伝承の巨大隕石を描いたモンタージュ画>だと! さらに、それが日本へリターンした。巨大隕石に関しては、このブログの、カテゴリー「巨大隕石」で触れています。
末筆になりましたが、度々のコメントありがとう御座います。 コナンドイルは、Dr.ワトソン>を登場させることによって、その面白さを出しています。中国は、その四千年前の大地震と大津波による被災を文字にして遺してはいないでしょうか? 今後ともよろしくお願いいたします。(深礼)
<謎Ⅱの解明へ> (12/24~)
先の「卑弥呼・その後、と、徐福について」の記事で<津>に関する地名を拾った。
中国 天津(テンシン) ・・・、
朝鮮 羅津(ラジン) 清津(チョンジン) 魚大津(オデジン) 無水端(ムスダン)
永興湾(ヨンフン) 注文津(チュムジン)
( 註; 無水と永興は、日本の興津・おきつと同義で、逆V字地形や直下型地震の場合、
海底が盛り上がり潮がひことがあり、津波の出立地名だと謎解きした。)
日本では、
太平洋側から、宮城県(志津川)千葉県(天津小湊、木更津、富津)静岡県(沼津、興津、焼津)愛知県(御津)三重県(津)滋賀県(大津)和歌山県(泉大津)兵庫県(御津)岡山県(下津井) 香川県(津田、宇田津、多度津)山口県(今津川、大津島)福岡県(豊津)大分県(津久見、米水津)宮崎県(美々津川、油津)鹿児島県(坊津)長崎県(布津、時津)佐賀県(唐津)
日本海側の北から、北海道(茂津多岬)青森県(津軽)新潟県(新津、佐渡島両津)石川県(津幡、片山津)福井県(金津)京都府(宮津)鳥取県(日吉津)島根県(温泉津、江津、高津川)
<摂津市の不思議>
この外に少し内陸ではあるが大阪府に<摂津市>がある。筆者は摂津市の名の由来を知らないが、以前の謎解きで摂津の“摂”は、「摂政・せっしょう」の言葉があることから津の“おお元締め”ではないかとしたことがある。上記の津の地名のなかで摂津市の「摂」は際だって新しい感じがする。そして、何故、この内陸に<津の地名>が付いたのであろうかと、国土地理院の地形図で調べてみた。予想のとおり、摂津市役所・三島一丁目の隣にある<中央水みらいセンター>辺りが、海抜5m~△6、6 m。この高さは、今は陸中にある瀬戸内の貝塚や、濃尾平野での「陸中の島名」を捜したときの高さでもある。4010年前の昔、この辺りは海であった!!
(12/26)
この「市名」を決めるとき、「三島」の案もあったが、すでに静岡県に三島市の名があったことから、旧国名の「摂津国」からとったとのこと。「三島」の名は、古事記などにも見えることから相当古い地名と思われるとのこと。ここは、その昔海に囲まれた島であった。中央水みらいセンターの北に流通センター・宮島二丁目がある。さらに辺りを見回すと<神崎川><豊中><木津>の地名も見える。このような地名は、今から4010年前の津波が打ち上げた海産物や、草木に基づくものだとすでに謎解きしている。この≪宮島≫は、その昔、津波が打ち上げた“聖地”であった! 今は、無惨にもその跡形もないように“整地^^!”されているようだが!?
(12/27)
この歴史的背景のある<三島・宮島>で何があり、<摂津>の地名をつけたのであろうか?
次の言葉を調べてみた。
摂政(せっしょう)とは、 君主制を取る国家において、君主が幼少、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことができないとき、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 (wikipedia、より引用)
摂社とは、 神社の社格の一つ。古くは所摂社とも。本社の境内外にわたってあり,多くは本社の祭神の妃神・御子神・荒魂(あらみたま),また地主神など縁故の深い神をまつる。それ以下を末社(まっしゃ)という。 (百科マイペディアから引用)
この二つの言葉と、今までの謎解きを合わせて<摂津>の地名の意を考えると
① BC2001年12月末、東北に巨大隕石が衝突し、列島の各地を巨大地震と大津波が襲った! その後その被災の大きいことや魚介の打ち上げががあった所ほど、竜神・荒神の信仰地へと発展していった。その一つが、ここ浪速・なにわの地<三島・宮島>だ。
② 時は流れて、BC200年頃。その一つでもある出雲地方へ、除福船団が波速い対馬海流に流されて、先進の技術を持って渡来してきた。出雲は、大陸との地の利もよく、露出鉱・温泉・薬草(うこん?)等もあり、列島の人達が欲しがる銅製品(銅鐸・銅剣等)の製作・加工・販売(物々交換)の地として発展していった。
③ 列島の津々浦々へ散らばった、徐福達・秦(はた)の人は、珍宝薬石を本国へ送るための集荷地として、年1回、十月の<神無月>に出雲へ集まることを申し合わせた。
③これに、列島各地の倭人達が徐福隊と、どのような言葉を交わし、『八百万の神々』となって、海路陸路をふくめて<出雲>へ出向くようなったのか?の謎は解明できませんでしたが、「神」を現地集合の秦の人達と、とるか銅鐸を求めに出かけた各地の太夫さん達と、するかは、別として、出雲へ八百万の神々が集まるというのは、史実に基づいた伝承である。(^-^)
④ なにはともあれ、出雲は、永々として築きあげた列島本来が持つ<竜神・雨乞い文化>と、大陸文化が絡まり合って、『八百万の神々が集いて神議』をおこなう郡郷・中央都市へと発展していった。
⑤ 更に、時は流れて『国譲り』となる。筆者は、国譲りの何んたるやを全く知らない。○○の神様の漢字が読めないながらも、国譲りを出雲から大和への “ 政教分離?”とみた。
弥生代の初期。徐福達によって水稲の新しい営農法が各地に取り入れられた事により、広大な洪積平野での生産量は飛躍的にたかまり人口も多くなる。道普請、川普請も必要となり、今までの荒神様に伺う“祀り事”だけでは対応しきれなくなり、寄進から租税へと、政(まつりごと)の要素が入ってくる。<大和>が大阪。京都。奈良。或いは伊勢・濃尾になるのかは知らないが、米を主食とする限り出雲に対抗した勢力となるのは時間の問題^^?
そこで出雲から大和へ国譲りも済み。その<会議場>となったのが<摂津市>ではなかろうか。今でも○○条約。○○議定書というのは、土地名を付してその取り決めを行う。<摂津市>は、出雲と大和の中間点にあり列島の皆々が集まるには都合がいい。此処へ、その神議の場をを移し、列島各地でバラバラに呼ばれていた津波地名(例えば、東北の戸・へ。出雲、伊勢の垣戸・かいと。神戸・こうど・かんど・かんべ←いずれも地名から推む)を、中国の津波をいう『津・しん』の字から、津波をかぞえる第一波、第二波の『一つ、二つ』をあて、それを共通地名にしようとの合意がなされたのではないだろうか。でないと何故「シンや、ジンの」読みを「ツ」にしたのか? その発想が思い浮かばない。この摂津市の近くにある箸墓古墳が(卑弥呼?)に、どのように絡んでくるかは今後の課題となる・・・。 (卑弥呼その後、付言Ⅱへつづく)
<結び> 日本が今世紀を変える発信地になりませんか?!
この「報告書」の一葉、々は、素人探偵の稚拙な論説であり誤りも含まれてはいますが、全ての記事が絡まり合った時、それは世紀を変えうる力となる。今の史学が、貴方が「徐福」を伝説といわず、そして東北地方へ降臨した巨大隕石を竜の化身だと認めない限りこの謎解きは先へは進まない。その隕石の<赤>を基調とする鳥居や建物は、日本発のものであり、大陸やシルクロードを通して遠くヨーロッパへも渡った唐草模様やアスベスク模様は、日本発の 「緑なす大津波」 だと思いたい。 だから、欧州人が、その震源地・神秘の国ジパングへ操り出したのだとも!
それには、貴方のご参加が是非に必要となる。 出来れば、私の存命中にお願いしたいのですが・・・?(-笑い-) そのBC2001年の12月末(欧州時24日・日本時間25日)にナスカや欧州の上空を経由し、地球を半周した巨大隕石がおこす大事変を中国や朝鮮・韓国の祖先も必ず伝承として<津・シン>として遺しているはずだ。学問に国境はない。まずは史学から、それ等を討究して欲しいと強く願っている。(徐福・・のⅦ,方魚津・パンオジンへつづく)
「徐福」長いお付きあいありがとう御座いました。 「 完 」
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去る年、ご奇特な方がいらっしゃいまして^^!、お一人の方がこれを買って下さいました。(謝々、お申し出下さればプレミアム付きのコメントを^^)。 もし貴方が大国の責任者なら、この報告書から、ん十億、ん百億の価値を見い出すでしようし、もし貴方が中学生なら、¥500 で大きな夢が買えるのにねえ(笑)。さて、貴方さまは、ブレイクしてからになさる? それとも・・・^^?
「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」が出土するのは、まだまだ先のことになりそうです。 その出土が何時になるやらは分かりませんが、その時には、ご訪問して下さった貴方さまと共に喜び合いましょうね v(^-^)。
卑弥呼に興味のないお方は、【 MY粗茶室 】 を用意してお待ちしております。
MY粗茶室&、では、<卑弥呼>だけでなく色んなことを食っちゃべっていますの
で・・・、興味のあるお方は、左欄下のカテゴリー<ゲスト様>の方へ、どうぞ(^-^)♪
又は、アーカイブ 2009/10月から・・・、(お手数ですが“貼り方”を知らない^^!)
<初めて、ご訪問の方に>
ご訪問ありがとう御座います。このブログで掲載している記事のすべては関連モノです。その後シリーズでは、その要旨や言葉足らずのところを書き足しています。 興味が湧いた方は “ふりだし”から、どうぞ(但し、お暇な方に限ります^^)。 お勧めは、カテゴリー別で入って下さると読みやすいかも知れません。 尚、コメントは、後々(の世^^!)まで残るものであり、本になるやも知れませんので、真に勝手ではありますが、その時には当方が、そのコメントを無償で使用出来ることを 御了解されたものとして扱います。 なぜこのようなことを申し上げているかというと 「 先で、この『広報』を妨げる要因は一切取りのぞいておきたいからです」。御一緒に、そのコメントを歴史に刻みませんか?(^-^)♪
(敬白) 史実探偵: 平 素人
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<徐福達が日本史に与えた影響、そのⅥ.(完)>
【 前記事、Ⅰ~Ⅴまでの要旨 】
列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
どのように流布・拡布したのか? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?
秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、徐福に童男童女3000人を与え、
東方彼方の日本列島から“不老不死、不老長寿”の薬石と仙人を連れて
帰れと命じた。対馬海流によって分散・漂着させられた徐福たちは、列島
各地や、内陸部へも果敢に進出していった。 そして、とりあえず蒐集した
薬石・珍宝を始皇帝のもとへ送り届ける交通網を列島につくりあげた。
そして、Ⅴでは、列島人と徐福達との関わり合いについて考えてみた。
ここまでが、<徐福について>の記事(Ⅰ~Ⅴ)の概略です。
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<朝鮮・中国、から見た魅力的な日本列島♪> (11/16)
近年に‘脱北者’が、日本へ漂着した時のこと。「なぜ貴方は上陸して、すぐに隠れなかったのですか?」 「緑の景色がきれいだったから・」と、云ったそうです。今ここで論じているのは紀元前・後の境目あたりですが、私達は、近代の一時期その緑を失った時があるとはいえ、自分達の国土の美しさに気付くべきです。今でこそ「狭い日本」といいますが、幾十里も歩かなければ山や海へたどり着くことが出来ない大陸。確かに大陸には奇勝絶景があるようですが、それ等へ歩いて行くには遠く離れすぎている。広大なゆえの単調な植生。決して澄むことのない黄河等。それに比べて列島では数里も歩けば、山、河、海へと思いのまま♪ (大陸では今でも死ぬまで海を観たこともない人がいるそうですよ。)このことは、色々な食材が多くを歩かずに手に入れることが出来るということであり、しかも列島には幾筋にも清流が流れ、白砂青松の海岸。加えて四季によっても、景色や食材が変わるのである。このことは縄文石器を営む列島人には、狭い地域での自給自足が可能であり、他人のテリトリーを侵す必然性が生まれない。ゆえに列島人はきわめて平和的(^-^)。戦いの痕跡が遺物に見られるのは卑弥呼より少し前だったかな? 大陸とは異なり、海の幸が得られ、四季ごとに変わりゆく景色、気象の変化、雲の形までもが異なり? 「花鳥風月」のうつろう “時間” を楽しめる国は、そう多くはないと思いますよ。出雲に帰化された<小泉八雲さん>は、そのような日本が気に入ったのでしょうね。出雲の夕日と、それに手をあわす人々に惹かれて! 日本のよさは “観光資源” は、「外国人に聞け」ってかぁ?( 大笑だぁ^^)
列島は、「細長い国土と変化に富んだ地形。そして移りゆく四季が財産です」そういう私は、朋友釣りじいさん>をなくしてから、それを楽しむ心のゆとりをなくしてしまいました。短い秋が過ぎ去ろうとしているのに! せいぜい<日本蜜蜂さん>のお世話にいそしむとしましょうか。 衣・食・住・が物余りして、今や車や宝石でさえも興味がうすれてきた日本。これからどのように動くのでしょうか。
<魅力的な、日本列島 の2.> (11/21)
徐福達から見た列島は、海・山・川・野、の色々な食材を多くを歩かずに<狭い>範囲で得ることが出来る。しかも、建材にする石や草木までもが何処でも簡単に手に入る。そして、住人は戦いを好まず平和的♪ さらに出雲では “砂鉄や銅鉱” の露出岩(Dr.>の言;島根半島で今でもゴロゴロ)があった! 砂鉄とかゴロゴロ状態の鉱石は、採掘の労力なしで、それに熱を加えるだけで「鋼」が得られるということである。さらに、更に、出雲の神の酒造り^^♪ そして温泉もあるしね(笑)。蛇足ながら、ガマのお綿(出雲木綿?)もあるよ^^! 徐福達にとっては、まるで桃源郷♪しかし、それでは困るのである。
徐福達は列島に永住しに来たのではない。 始皇帝の命である“不老不死の薬石”を求めにきたのである。もし定住でもしょうものなら・・・?、その声狼(ロウ)の如し、その薬石をと命じた方士2名にトンズラされ、それに立腹し、方士達400余名を「自分達でその法を考え生き長らえよ!」と、“穴埋め?”にした皇帝の恐ろしさは骨の髄までしみ入っている。
<東方神起!、日本列島の神秘を探せ!> (11/22)
この項は徐福達が<東方神起>列島の地勢になにを感じ、なにを神秘的に思ったかは、全く分からないので、‘素人の勝って^^’ で、このブログで以前に出てきたものを取り上げてみたい。 まず火山と温泉。それに、日ノ御碕の西端の玄武岩、(出雲)○○市の鳴き砂、鳥取の砂丘、弓ヶ浜、丹後の玄武洞の柱状節理、天橋立、北へ行って青森の仏ヶ浦、恐山、三陸海岸の絶壁かな? そのほか全く知りませぇ~~ん^^!。これ等の多くは4010年前の東北に落ちた巨大隕石に関係するとみているが、今回は「鳴き砂の浜」について取り上げたい。
「鳴り砂・但しなきずなと読む^^!」を学問的に取り上げると難しいようなので、素人流でいうと奇麗な石英の砂浜を踏めば鳴る」とでもしておきましょうか(笑)。以前この鳴き砂を持つ自治体が縁組を?して、その学問的価値とそれを観光資源にしようとする動きがあった。全国で100~200カ所あるようだが、
その主なものを< Wikipedia >で調べると。
* 小清水海岸(北海道斜里郡小清水町) * 青谷浜(鳥取県鳥取市)
* イタンキ浜(北海道室蘭市) * 井手ヶ浜(鳥取県鳥取市)
* 猿ヶ森砂丘(青森県下北郡東通村) * 石脇海岸(鳥取県東伯郡湯梨浜町)
* 大須賀海岸(種差海岸)(青森県八戸市) * 波根海岸(島根県大田市)
* 浪板海岸(岩手県上閉伊郡大槌町)* 琴ヶ浜(島根県大田市仁摩町馬路)-日本の音風景100選
* 小久保海岸(岩手県上閉伊郡大槌町) * 犬ヶ浜(島根県大田市温泉津)
* 九九鳴浜(宮城県気仙沼市) * 清ヶ浜(山口県阿武郡阿武町)
* 十八鳴浜(宮城県気仙沼市) * 小原浜(山口県萩市)
* 夏浜(宮城県牡鹿郡女川町) * 室津海岸(山口県下関市)
* 小屋取浜(宮城県牡鹿郡女川町) * 姉子の浜(福岡県糸島市)
* 鳥の海(宮城県亘理郡亘理町) * 奈多海岸(福岡県福岡市)
* 豊間海岸(福島県いわき市) * 恋の浦(福岡県福津市)
* 角海浜(新潟県新潟市) - 現在は鳴らない * 勝浦浜(福岡県福津市)
* 千代浜(石川県輪島市門前町) * 白石浜(福岡県福津市)
* 琴ヶ浜(石川県輪島市門前町) * ぎぎが浜(長崎県松浦市)
* 琴引浜(京都府京丹後市 -日本の音風景100選 * 月ヶ浜(沖縄県八重山郡竹富町(西表島))
子供(中学生)のころ、鳥取の砂丘が何故できたのか?を不思議に思ったことがある。それまでの私は砂の成因は河川の流れによってのみ出来るのであって、決して海の底の岩石は砂にならないし、水流のない風化作用だけではその砂粒は出来はしない。その砂浜を作るにはその高さ以上の水流が要ると! 上記の砂浜が4010年前の<釜石辺り>で発生した巨大地震に揺すられた≪巨大津波沿岸流≫によるものかどうかを精査するのは今後の課題だが、なかに背後地に石英の母岩を持たない所がある。『その石英粒はいったい何処から運ばれたのでしょうね?(笑) 別談になりますが、サハラ砂漠も津波成因なのですよ! (NHKが調べたらサハラの砂は南からだって!) 今、専門家は、まったく相手にしてくれないが、何れ世界が素人の極秘報告書「巨大隕石と大津波」を認めざるを得ない時がくるのにねえ(大笑だぁ^-^) (電子出版 ↑クリックOK、部分的ですが無料立ち読み有り。 ご購入は ¥500。 ただし11,000Kbの大作?ですから、お暇な方で“史実を知りたい方”にかぎります^^。)
拙い素人の論で、頭の固い地質学を切り崩すのは、頭の古い考古学に気付いて貰うより更に、々に、難しい。(ゴメン又、言葉が過ぎました。20余年もやってると、ついつい恨み節がぁ~^^!)
何故、そんなに強気の言が吐けるのかって? 私には、その白砂にまつわる御先祖さまからの『伝説やら民話』がありますからね。その砂浜の傍らの社(やしろ)に手をあわせれば、貴方にも<その砂浜は神様が“一朝”にして創った>との声が聞こえるかも知れませんよ。(^-^)♪
<とは、言っても!?> (11/23)
上記の“白砂青松”は、徐福達の初期の日本海沿岸行動と重なる。徐福達の目的は不老不死の薬石を探すことにある。それは<東方神起>の神の居場所を探す旅でもある。なぜなら、神=不老不死の考えに基づいているからだ。徐福達は、きっとその美しさと鳴き音に心を奪われたはずだ。一方、列島の住民達は、その白浜は四千年前の荒神竜が運んできたとの信仰(これは筆者の思いつきです)がある。 ここで双方何んらかのコミニュケーションがあったと思われるが、それが推(よ)めない。この徐福についての記事のなかでもくろんできた(謎Ⅱ)の「津の地名は何時誰が統一したのか?」に、全く関連づけられない!! まあいい!?無理に答を出そうとすれば無理が生じる(笑)。 徐福達と津名の統一は何んらかの関連があるとは思われるのだが、それが全く推(よ)めない。 どなた様か、どうぞの御教示を(^-^)! 素人探偵は、その鳴き砂の浜にまつわる『伝説やら民話』の実際が知りたい。 蛇足ながら、能登の荒神太鼓(御陣乗太鼓)、秋田のナマハゲ、それに太平洋側へ離れてはいますが“三保の羽衣伝説” これ等も徐福達の一行が関係しているのではないかと疑っています。 なにしろここで取り上げている話しは、卑弥呼より400年?も前のBC200年頃の話しですからね。
<列島文化の強い独自性> (11/25)
前述のようにあげると、大陸や半島の先進文明で列島の文化が、かき消された感を受ける
が・・・?? Dr.>が、先に、ご教示して下さった下記のコメントが気になっています。
≪ 不思議 ≫ shigechanizumo | URL | 2010-07-30-Fri 16:41 [EDIT]
3000人もの童男童女とされています。 ここで不思議なことがあります。
彼らは文字を使っていたのか。彼らの話し言葉は何だったのか。もちろん当時の漢字と中国語を使っています。 多くの技術者や、童男童女が日本列島に着いた。 そして散らばった。 漢字や中国語が何らかの痕跡を残さないはずはありません。しかし、その痕跡がない。弥生式土器に残された文字は極めて少なく、その上にひとつの土器に一文字くらいのものが稀にやっと見つかっているのです。 私たちは、縄文語だなんだと日本語の起源を探ろうとしていますが、ドッと3,000人もの中国語を話す人が一度に来たのなら、それはクラスターともいえるのですから、どこかの地域あるいは広がりに中国語の痕跡が残らなければなりません。 ところがこれもその痕跡がない。 では、ただ残らなかっただけなのか。そんな馬鹿なことはありません。
私の推理はこうです。
彼らは決して日本列島の人々に文字を教えたり、中国語を教えたりはしなかった。その理由は、彼らがプロとしてのエージェント教育を受けていたからです。日本列島の人々が漢字をたやすく使えたり、中国語を理解できるようになってそれを話すようになれば、特命を受けて日本列島にやって来た自分たちやその子孫と、区別がつかなくなるのです。 彼らはあくまで秘密結社としての集団性を維持する必要があったのです。いかに多方面に散らばろうとも、漢字を用いて中国語を話す人と出会えば、それはまさしく秘密結社の一員との遭遇であり、同胞との遭遇であると確信できるように、彼らの文字と言葉は彼らだけの間のものとして保持していたのです。 徐福の一団恐るべし、と言うべきでしょう。
Dr.>のコメントは徐福達の行動をするどく突いている! これを受けて・・・、つづきます
<企業秘密> (11/27)
徐福達の求める“不老不死”の薬石を現代風にいうと、企業秘密の薬石である。いかに他国の住人であれ、それについてべらべらとしゃべる分けにはいかない。徐福達は列島人との生活場所に一線を引いている。列島人は、徐福達を<秦・しん>の人と呼ばずに、端・はた(=秦)に住む人と呼んでいるのは、主住地に対しての端の意であり、その生活圏のリードマンは、列島人であったということである。徐福達は、列島人のことを戦争のない平和の人達という意味で<倭・わ>の人達と呼ぶようになったと(仮に^^?)謎解きしました(笑)。列島人にすれば、徐福達は、永々と続けてきた雨乞いを主体とする“荒神文化の延長線上”に現れた神(上・かみ(上紙^^?)、天上人・てんじょうびと→殿上人)ではあるが、四千年前(BC.2001)の大事変という実体験の伝承から生まれた<信仰心-前述>は簡単に変わるものではない。徐福達にすれば一カ所に永住できず、そこで統理するわけにはいかないし、もし、そんなことが中国の本土に知れたらぁ~~!?
<始皇帝の没後> (12/03)
始皇帝は徐福達が出帆したわずか9年後のBC210年に49歳で?亡くなっている。その後、秦国の二代目は数年(?)しか続いていない。もとより、不老不死の薬石などあろうはずもなく、徐福達にすれば、“始皇帝の命“というタガは無くなったが、9年の間に幾度かは、日本列島で求めた薬石、珍宝を中国本土へ送っているはずだ。徐福達3000人の中には危うい考えの武人もいて、東北地方では“なまはげ”となって “余命長い” 幼児も皇帝へ送りました。各地に残る「神隠し」という拐(かどわ)かしが、その幼児達でなかったことを願っています。はたまた、正月のその獅子舞が 「泣ぐ子はいねがぁ゛喰てまうどぉ」 それが今では、獅子にカブられることにより、そこで一端、命を断ち、その後の余命が長くなることを意味するようになりました。なにはともあれ、このようにして出来上がった海路や、中継地、集荷地は後々の日本列島の発展へと関与・寄与していく。
その詳細は、Drブログ>いずものこころ、 古代出雲 『発想の転換 徐福伝説』 2005/12/21 ~ 12/27迄へ、どうぞ!♪ (スミマセン^^!、貼り方を知らない。 暦の上にある矢印から検索したほうがいいかも^^) 尚、この素人の「除福について」の記事は、氏の御記事に出会い
‘ペリー来航’もその比ではないほどのカルチャーショックを受けたことから発したものであり、記事の内容は、その二番煎じ、三番煎じであることを申し添えておきます。
感謝 しげちゃん | URL | 2010-12-03-Fri 09:36 [EDIT]
私は、日本には不老不死の思想は受け容れられなかったと思うのです。徐福が列島に到着した時代に、日本列島に祖霊信仰があったのかどうか分かりません。しかし、日本列島は祖霊信仰の国柄です。 早くじっちゃんばっちゃんになって、あの世から子孫を見守ってやりたいというものです。姥捨て山でも、「早く置いて行け」と息子に言うのです。
感謝2 しげちゃん | URL | 2010-12-03-Fri 09:38 [EDIT]
先日恐ろしい文章を読みました。アイヌの死生観です。アイヌの人は、成人が死んでもあまり悲しまないそうです。亡くなった成人は、次には胎児となって生まれ変わるからだそうです。そこで、子供が死ぬと大変だそうです。祖先を殺してしまったということになるからです。いわんや、妊婦が死ぬともっと大変だそうです。せっかく生まれ変わりのために胎児を宿ったのに、その胎児たる祖先はこの世に出てこられないからです。そこで、妊婦が死ぬと、いったん妊婦として埋葬し、翌日に胎児を取り出して、改めて手厚く胎児を埋葬するそうです。土偶のお腹に筋があるのは、その胎児を切り出した後だというのです。よく見ると、土偶は妊婦であり、確かに張り出したお腹に筋があるものが多いのです。生まれ変わりという思想がある限り、不老不死の思想は必要なかったのです。
<コメントに感謝> 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-12-05-Sun 06:27 [EDIT]
コメントありがとう御座います♪ 昨々日は、雷を伴う時期はずれの低気圧が吹き荒れました。わがコメント欄にも歓迎すべからずの荒らしがふきコメントが遅れたことお詫び申し上げます。
「土偶は妊婦であり、確かに張り出したお腹に筋があるものが多い」 には、そのような祖先の想いが潜んでいたのですね。 知りませんでした。わたし(素人)が、何気なく見過ごしている埋蔵物の一片に秘められた祖先の思いと歴史に興味を覚えます。
<徐福の立ち寄り場所> (12/06)
いずものこころ -Yahoo!ブログ- 古代出雲『徐福伝説』の謎 2005/12/21 より借用
徐福の出身は斉(現在の山東省)で、身分は道教の方士。神仙思想(東方の海上にある三神山に、不老長生のための薬を持つ仙人がいるという説)に基づく不老不死を実現するための呪術や祈祷・薬剤の調合に長け、医薬・天文・占術などに通じた学者でした。しかし、徐福は中国には戻りませんでした。
徐福の渡来地として日本のいろいろな土地が挙げられ、伝承が残っているとされています。主なところを挙げると、青森県小泊村、山梨県富士吉田市、東京都八丈町、三重県熊野市、宮崎県延岡市、佐賀県佐賀市、佐賀県諸富町、佐賀県武雄市、広島県宮島町、京都府伊根町、鹿児島県串木野市など、北は青森から南は鹿児島にまで及んでいます。日本には30もの徐福伝説があるとされています。
ウエブ 古代史の扉 『徐福伝説』 (2010/12/01 のGMTに取得)
wwwasukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm
これ等のことは、よくぞ!♪ と思われるほどにあり、これも是非に一見をお勧めします。
<日本列島の神秘性は、なぜ生まれたのか?> (12/07)
欧州では「ジパング」、 中国では「神仙思想」、 韓国では「東方神起」-(グルーフ・名)-
その考えに基づいて、徐福が東方探索に出たのがBC219年。二度、試みたようですが、一度目は大鯨?に阻まれ失敗。大鯨とは台風のことではないかとのこと。ご存じのように後々の歴史で、徐福以外にも中国大陸から日本を配下にしょうと二度ほど列島に大船団をくり出しているが、何れも神風(台風)によって失敗している。これ等のことを神秘的偶然性ととらえる向きもありますが、中国で秋の収穫を済ませて、その兵糧を持ち何日もかけて行進、航海すれば台風の時期に重なるのは必然。筆者がいう『BC2001年の東方から襲来した巨大地震と巨大津波』の被災を歴史が覚えていて(この表現はDr.から^^)、度重なる大軍が海のもくずと消えれば、より列島の神秘性は増していく。中国の人達は、そういった危険を伴う深山や未知の場所にこそ霊薬ありとする国民性が(?)あると独断しました(^-^)。
大鯨=東方の海に潜む巨大エネルギー(=津波)、 大なまず=地下エネルギー、 東方神起=列島からの大事変、 竜=巨大隕石 (BC2001/12/25 日本時間AM6:00頃、地球を半周した小天体が東北地方に降臨!) 『これ等は、表現の違いであり、言葉の違いである』 それに貴方が、現科学が、世界が、気付かない限り本当の歴史は見えてこない。
それを「津波や地下エネルギー」と呼んだら科学で「大鯨や大なまず」と“例え”たら伝説かぁ~?
「それが科学なら、ちゃんちゃら可笑しい!」 ・・と、ご先祖さまがぁ~^^ 史実探偵:平 素人
<列島の中心地に発展した出雲!> (12/08)
それ等の中で出雲が列島の中心地に発展していった!? ここで、わたし(素人)が問題としたいのは、徐福がいかに卓抜した知見の持ち主だとはいえ全てに秀でているわけではない。前述したように、徐福は部長課長のいる<会社組織>を立ちあげたと思われること。そしてその<百工>にはそれぞれの得意分野があり、その滞在、立ち寄り期間の長短も問題だ。それに地域的特性も加わってくる。船造りはもとより、衣食住、陶磁器の陶土の調達から調味料の調達にいたるまで、あらゆる品々が考えられる。更にさらに銅剣(鉄材)の鋼材の調達。これらには自ずと産地適地がある。なかで一番大切なのが食料の調達。移動のためのお弁当は必ずいる。その時の稲作の可能産地を今の気温と品種で考えてはならない。人類は、今から4000年ほど前に大きな隕石の冬(別紙)を経験している。その気温の降下が何度であったか分からないが、北海道に除福の痕跡がうすいのは、このような食料事情が加わわっていたのかも知れない。
人口・人的資源も加えて、それらの全てが備わっているのが出雲地方だ(Dr.の言^^)。その中でも特に、掘削の必要のない砂鉄と露出鉱石があるのは大きな強みとなる。 徐福は出雲に必ず滞在していた。 ここでは、徐福本人が長期滞在していたかの有無は大きな問題とはならない。 薬石についての有力な情報があれば徐福は、それに応じてあちこちに飛ぶからだ。 前記のような資材と資源があれば、その基盤づくり(インフラ整備)をして、後は配下に任せればいい。だから出雲が中央都市として八百万の神々が集まるようになったのだ。その後には中国本国への出荷検品のために本拠を北九州へ移したかも知れませんが・・・。
<徐福、没する> (12/09)
徐福が没したのはBC208年とされる。されると言うのは何処で何時死んだか不確かなようだ。そのことは専門家に委ねるとして、BC208年であれば始皇帝没から2年後で渡航後11年後となる。中国の史家、司馬遷(しばせん)によれば、「平原広沢の王となり戻らなかった」とあるようだが、帰らなかったのではなくて帰れなかったのである。始皇帝から大資を受けて「そのような霊薬はありませんでした」等といって帰ろうものならひどい処遇にあうのは目に見えている。事実、始皇帝の暴君ブリを知っている人達からすれば、「徐福はうまいことやったな」 というかも知れない。徐福にそのような下心があったかどうかは知らないが、徐福は列島に大陸にない美しさと神秘性にひかれ、住民のいう荒神伝承(前述の大事変による巨大地震と大津波)を聞けば、日本列島の何処かに“三神山”はあると信じて探しつづけていたに違いない。なかで静岡県にも徐福伝説があるというが、富士の山を見れば、きっとその形状に心を奪われたであろう。不二の山とは、列島のすべてを知る者ぞのみ付けられる山名であり、この山名は、列島の住民が付けた山名ではない。ちなみに「不」を先につけるのは中国語の特徴でしたよね^^。不知・、不客知・(笑い)
<徐福の没後> (12/13)
徐福が亡くなったからといって、その配下やナンバー2はいたはずだ。不老不死の薬石探しを止めるわけにはいかない。彼等とて始皇帝の命を受けて渡航しているからだ。しかしながら、そうはいっても徐福が亡くなり、その命を出した始皇帝や秦代(BC221~BC206)さえも滅びてしまえば、その呪縛は?除々に解き放たれてゆく。だが仲間同士が神無月に出雲に寄り合うことは続いていった。9年のあいだに培われた海路はその後に発展したであろう陸路(古代陸路)とともに、中国本土や列島各地との商工路として機能するようになった。
富山の薬売り、近江商人、出雲の特殊鋼、○○の遠洋漁業のもとづえは、徐福達がなしたのだと私は思っている。そして端(はた)=秦(はた)=湊(みなと)の人達として歴史は流れてゆく。富山には今でも立派な内倉を持ったお家が残っている。そして、奈良の大仏殿の造営では秦の人達が財を寄進したというから、その人達はその後にも中国本土や列島各地との交易や工商によって蓄財をなしていったのかも知れない。
<ふ~~む!?>
徐福達の行動を調べることによって、
列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?
の<二つの謎>をしのばせて来たが、これに列島の倭人がどのように関わっていったのかが、全く推(よ)めない。 ・・・、
(謎Ⅰ) 列島の銅鐸はどのようにして拡布したのか? (12/14)
ウエブで調べていると次のような記事にあたった♪ (何方のかは後で調べます^^!)
→ homepage2.nifty.com/LUCKY-DRAGON/kodai-3-1jikitaku.htm
〔 補 足 ・・ その三 〕 【 銅鐸と磁器鐸 】
<新発見、古代中国、越の国の時代の磁器鐸>
2006年3月7日付の朝日新聞に、中国で日本の銅鐸とそっくりな磁器製の鐸が発見されたという注目すべきニュースが紹介されました。 しかもそれが紀元前470年頃の、越の国の貴族の墓から見つかったということです。 記事の内容は、以下のようなものです。
『 中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸(たく)が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。ーー 略 ーー。
鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12~18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江(揚子江)下流域の呉(?~紀元前473)と越(?~紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。ーー以下、略 ーー 』
( 以上、文化総合 文化欄より ) <※写真付き>
それにしても、2006年の今頃になって、このようなものが出土するとは・・・^^、
<素人の想像> (12/15)
銅鐸は謎の青銅器と呼ばれているもので、未だにその発生地や製造地はもとより、その使用目的さえも定かではない。出土の状態で中に<舌・ぜつ>と呼ばれている風鈴の振り金状のものがあったことから楽器として使用されていたのではないかの一説がある。’99年に大阪府茨木市東奈良遺跡で出土した銅鐸は、上部が“握り手”のようになっていて、その模様や形が簡素なことから、当時は「最古の銅鐸か?」とニュースになったことがある。無錫市の磁器鐸は上部に数センチの小さな“つり手“が付いている。いずれも鐸の形としては、初期的なものと思われる。 無錫市の位置は、上海のほぼ西方100km余で太湖の北岸に面し水運の発達した都市であり、日本列島との位置関係は九州の南端あたりとほぼ同緯度。上海から東の鹿児島までは約800km。
当時の船で季節風に乗ったとしても九州の東側に回るのはきつい? おおきく譲っても長崎あたりか? 素人の薄識(^^!)での解明はとても無理だ。これも無理!あれも無理。だが結果の現実をみれば、中国からの‘流布’は間違いなさそうだ。列島の銅鐸の<形>は、この磁器鐸の影響を受けていると言わざるを得ない。・・・これは一時置いといて・・・^^!
(12/16・17)
徐福達の3000人を海難等もあわせ見積もり、仮に1500人とした。その船を60人乗り(Dr.ブログから拝借・写真もありますヨ^^)とすると25隻の機動力となる。とは云っても童男童女を抱えているし列島の津々浦々を探索するには人手不足だ。現地人を調達したい。そして海陸を問わず薬石の探索を行うには現地の案内人の協力を得たほうが効率がよい。その交換に倭人が欲しがる銅製品を! さらに時は流れて銅鉱石、銅製品を生産、制作、再鋳造する当時の先進都市・出雲へ出向く。今の言葉でいえば、その購入(物々交換)。そして、より立派なものに買い換え(交換)をするためにと、陸路が発達してゆく。この下支えをしたのが徐福達が作った海路や陸路であったのではなかろうか? 銅鐸の制作年代や制作地を、その含有する鉛や○○の同位元素。そして、その含有量が鉱石産地よって異なることを利用して、それを推定する方法があったが、鉱石からの新鋳造であれば単産地であるが、列島各地から持ち寄った“古品”をつぶしての再鋳造であれば、この方法は使えなくなる。
ちなみに銅鐸は、個人の持ち物ではなくて村や郡(こおり)、あるいは祈祷所共有の財産であり、今の御神輿や、釣り鐘のようなものであったと以前に申し上げておきました^^。
<鐸> しげちゃん | URL | 2010-12-17-Fri 09:07 [EDIT]
鐸とは「さなぎ」。さなぎは変態を繰り返す。さなぎとは・・・『成虫になるための準備期間であることから転じて、成長を遂げようとする人を比喩的に指して使う場合もある。』・・・とか。成る程、鐸を鳴らして、早く稔りの秋になれと祈ったか?
<成る程、なるほど、> 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-12-18-Sat 06:00 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> コメントありがとう御座います♪
「鐸」とは、そのような意味だったのですね。まったく知りませんでした。それが大陸(中国)や半島(挑戦)から、日本に流布し、さらに拡布(この言葉はDr.ブログから♪)していったのでしょうか。本来の意は<さなぎ>ですか。 さなぎ(人)が、脱皮(死)して蝶(神仏)に変身してゆく。知れば知るほど奥が深くなってゆきます。(謝々)
<行・ぎょう、修行について> (12/19~20)
何故、修行に、「行・ぎょう」という字を当てるのか?
「行」の読みは‘ぎょう’とか‘おこなう’‘いく’である。‘ぎょう’と読めば仏教用語のようで、「諸行無常」と言えば諸々の行い(おこない)をいう。‘おこなう’と読めば諸々の行為。‘いく’と言えば移動すること。それが今では、仏教的な意味合いは薄れて移動する意のほうがつよい。 もともと「行」の字は‘おこない’のことをあらわしていたのか? だったら、移動する行為の「行く・いく」は、諸々の行為のほんの一部分でしかなく、「行く・いく」という‘あたりまえ’の行為に対しては、何かほかの<当て字>をしたほうがいい(!?)のにと、子供心には不思議でならなかった。
「行く= 歩くこと」であり、歩くことは、あたりまえの行為であり「修行」でも何でもない。千日回峰行のように歩くことに何かが加わるから“行・ぎょう”になると思うが? 「難行苦行」。 この当て字もおかしい? 素人的に考えれば「難為・なんい、苦為・くい」の当て字のほうがいいのにと思う。
それなのに、何故?ご先祖さま達は、「行く」という言葉にこだわったのか? 「行く」ということは「逝く」につながり、死して御浄土に出かける考えか? だが“死する”ことはあたりまえであり、これも“修行”にはならない。常人が出来ないことをするから「修行」なのだと思うが?
私は、この『行くという言葉』の発祥は、この度の徐福の記事にからめて、列島各地から当時(卑弥呼以前の歴史)の先進・中央都市へと発展した出雲へ、銅鐸の購入(何かとの物々交換)や、古くなったから新しいものをとか、隣の郡郷より立派なものを(^^!)とかの欲求から、歩行で遠く出雲まで出かけた太夫さん達にとっては大変な「修行」であったと思いたい。途中何日、何ヶ月もかかれば食料や水の調達が難しいからね(笑)。ちなみに、四国のお遍路さんは途中のおせったいを受けますが、命を賭しておこなう千日回峰は、食物をとらず水だけでしたよね!
< 結 論 > 結局薬局^^! <銅鐸の拡布の謎Ⅰ>で、いちばん肝心な ≪列島の各々の郡・こおりが、銅鐸という共通用具を使用するに至ったか?≫ については、解らずじまいでした(汗~)。
どなた様か、いいお知恵を~~~(^-^)。
(謎Ⅱ) 「津」の地名は、何時誰が統一したのか?
Dr.>コメント入りました。
tu(津) しげちゃん | URL | 2010-12-20-Mon 09:39 [EDIT]
神功皇后の三韓征伐の際に、神功皇后が半島に行く前に、半島の沿岸部を大波が襲い、それに畏怖した各首長たちが、なすすべもなく降伏をしたとあります。東の島国の神威は、津波で表現されていたのではないでしょうか。逆らうと、大波が東から到来する・・・。ご指摘のように徐福の最初の航海は鯨に阻まれて失敗します。鯨ではなく巨大に盛り上がる大波、つまり津波に阻まれたのではないでしょうか。蒙古襲来のときは荒れ狂う神風によって侵攻は挫折しています。すなわち、東の海上からは、変な思い付きをすると天変地異がもたらされると考えていたのではないでしょうか。徐福の一行が3000人などという構成になったのもそのリスクを考えての事だったのではないでしょうか。
Dr.しげちゃんさん> コメントありがとう御座います♪ (12/21)
私も、そのように考えます^^。ずいぶん前の話しになりますが、チリで発生した巨大地震による大津波が約1日をかけて、東北の三陸地帯にとどき多くの人命を失ったことがあります。日本列島は、火山国・地震国であります。その度に、巨大な受けV字形をしている中国の杭州湾や東朝鮮湾では甚大な被害を受けていたと思われる。だから兵馬俑の全ては東を向き、韓国では東方神起の言葉が生まれたのではないでしょうか?
魔海 しげちゃん | URL | 2010-12-21-Tue 16:30 [EDIT]
私は、今では消え去った伝説が中国にはあったのではないかと思っています。それは、東方の海は、聖なる海という側面と、魔の海という二面性を持っているというものです。徐福の山東半島あたりでは、海流というものが非常に弱いと思われます。しかし、日本列島の両面には、黒潮が流れています。日本海側には対馬海流となっています。もし、この海流に捕まってしまったらどこに行くのかもわからなくなってしまいます。太平洋側の黒潮本流も同じです。自分たちをどこへ運んでしまうのか予測もつかない海、すなわち魔海と受け取られていたのではないでしょうか。また、黄海では鯨やイルカを見るのは稀です。また、日本海のトドやアシカを見るのも稀でしょう。日本の人達がトラやラクダを見たときに感じる不思議な生き物が、魔の海にいると考えていたのではないでしょうか。それは中国の沿岸部を離れれば離れるほど恐怖感に代わっていくのです。中国の人達は、竜に見られるように奇怪な動物を想像し作り上げるのが得意です。さて、日本列島沿岸にはどのような奇怪な海の動物がいるのか、想像をたくましくし、さらに己の想像の中で作り上げた海の動物に畏怖したのではないでしょうか。
<消え去った伝説> 平 素人 | URL | 2010-12-22-Wed 03:11 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> コメントありがとう御座います♪
“消え去った中国の伝説”とてもいい表現ですね。わたしは、少年(中学生)のころ、何故に『中国四千年の歴史』というのか解せませんでした。この国の歴史をいうとき、それは、6千年、あるいは8千年以上をさかのぼってもいいのにと思うからでした。それが「何故四千年?なのか」 今から4千年ほど前に、正確に言えば<BC2001年の12月末>ですが、その歴史を消し去るほどの大事変(巨大隕石)が日本の龍飛崎上空を経由し釜石辺りに“分散衝突”しました。<竜は、巨大隕石ではないのか?>と思ったのが少年の頃です。この度徐福の記事を書くにあたり、それが確信にかわりました。<龍画は、中国人が倭人伝承の巨大隕石を描いたモンタージュ画>だと! さらに、それが日本へリターンした。巨大隕石に関しては、このブログの、カテゴリー「巨大隕石」で触れています。
末筆になりましたが、度々のコメントありがとう御座います。 コナンドイルは、Dr.ワトソン>を登場させることによって、その面白さを出しています。中国は、その四千年前の大地震と大津波による被災を文字にして遺してはいないでしょうか? 今後ともよろしくお願いいたします。(深礼)
<謎Ⅱの解明へ> (12/24~)
先の「卑弥呼・その後、と、徐福について」の記事で<津>に関する地名を拾った。
中国 天津(テンシン) ・・・、
朝鮮 羅津(ラジン) 清津(チョンジン) 魚大津(オデジン) 無水端(ムスダン)
永興湾(ヨンフン) 注文津(チュムジン)
( 註; 無水と永興は、日本の興津・おきつと同義で、逆V字地形や直下型地震の場合、
海底が盛り上がり潮がひことがあり、津波の出立地名だと謎解きした。)
日本では、
太平洋側から、宮城県(志津川)千葉県(天津小湊、木更津、富津)静岡県(沼津、興津、焼津)愛知県(御津)三重県(津)滋賀県(大津)和歌山県(泉大津)兵庫県(御津)岡山県(下津井) 香川県(津田、宇田津、多度津)山口県(今津川、大津島)福岡県(豊津)大分県(津久見、米水津)宮崎県(美々津川、油津)鹿児島県(坊津)長崎県(布津、時津)佐賀県(唐津)
日本海側の北から、北海道(茂津多岬)青森県(津軽)新潟県(新津、佐渡島両津)石川県(津幡、片山津)福井県(金津)京都府(宮津)鳥取県(日吉津)島根県(温泉津、江津、高津川)
<摂津市の不思議>
この外に少し内陸ではあるが大阪府に<摂津市>がある。筆者は摂津市の名の由来を知らないが、以前の謎解きで摂津の“摂”は、「摂政・せっしょう」の言葉があることから津の“おお元締め”ではないかとしたことがある。上記の津の地名のなかで摂津市の「摂」は際だって新しい感じがする。そして、何故、この内陸に<津の地名>が付いたのであろうかと、国土地理院の地形図で調べてみた。予想のとおり、摂津市役所・三島一丁目の隣にある<中央水みらいセンター>辺りが、海抜5m~△6、6 m。この高さは、今は陸中にある瀬戸内の貝塚や、濃尾平野での「陸中の島名」を捜したときの高さでもある。4010年前の昔、この辺りは海であった!!
(12/26)
この「市名」を決めるとき、「三島」の案もあったが、すでに静岡県に三島市の名があったことから、旧国名の「摂津国」からとったとのこと。「三島」の名は、古事記などにも見えることから相当古い地名と思われるとのこと。ここは、その昔海に囲まれた島であった。中央水みらいセンターの北に流通センター・宮島二丁目がある。さらに辺りを見回すと<神崎川><豊中><木津>の地名も見える。このような地名は、今から4010年前の津波が打ち上げた海産物や、草木に基づくものだとすでに謎解きしている。この≪宮島≫は、その昔、津波が打ち上げた“聖地”であった! 今は、無惨にもその跡形もないように“整地^^!”されているようだが!?
(12/27)
この歴史的背景のある<三島・宮島>で何があり、<摂津>の地名をつけたのであろうか?
次の言葉を調べてみた。
摂政(せっしょう)とは、 君主制を取る国家において、君主が幼少、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことができないとき、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 (wikipedia、より引用)
摂社とは、 神社の社格の一つ。古くは所摂社とも。本社の境内外にわたってあり,多くは本社の祭神の妃神・御子神・荒魂(あらみたま),また地主神など縁故の深い神をまつる。それ以下を末社(まっしゃ)という。 (百科マイペディアから引用)
この二つの言葉と、今までの謎解きを合わせて<摂津>の地名の意を考えると
① BC2001年12月末、東北に巨大隕石が衝突し、列島の各地を巨大地震と大津波が襲った! その後その被災の大きいことや魚介の打ち上げががあった所ほど、竜神・荒神の信仰地へと発展していった。その一つが、ここ浪速・なにわの地<三島・宮島>だ。
② 時は流れて、BC200年頃。その一つでもある出雲地方へ、除福船団が波速い対馬海流に流されて、先進の技術を持って渡来してきた。出雲は、大陸との地の利もよく、露出鉱・温泉・薬草(うこん?)等もあり、列島の人達が欲しがる銅製品(銅鐸・銅剣等)の製作・加工・販売(物々交換)の地として発展していった。
③ 列島の津々浦々へ散らばった、徐福達・秦(はた)の人は、珍宝薬石を本国へ送るための集荷地として、年1回、十月の<神無月>に出雲へ集まることを申し合わせた。
③これに、列島各地の倭人達が徐福隊と、どのような言葉を交わし、『八百万の神々』となって、海路陸路をふくめて<出雲>へ出向くようなったのか?の謎は解明できませんでしたが、「神」を現地集合の秦の人達と、とるか銅鐸を求めに出かけた各地の太夫さん達と、するかは、別として、出雲へ八百万の神々が集まるというのは、史実に基づいた伝承である。(^-^)
④ なにはともあれ、出雲は、永々として築きあげた列島本来が持つ<竜神・雨乞い文化>と、大陸文化が絡まり合って、『八百万の神々が集いて神議』をおこなう郡郷・中央都市へと発展していった。
⑤ 更に、時は流れて『国譲り』となる。筆者は、国譲りの何んたるやを全く知らない。○○の神様の漢字が読めないながらも、国譲りを出雲から大和への “ 政教分離?”とみた。
弥生代の初期。徐福達によって水稲の新しい営農法が各地に取り入れられた事により、広大な洪積平野での生産量は飛躍的にたかまり人口も多くなる。道普請、川普請も必要となり、今までの荒神様に伺う“祀り事”だけでは対応しきれなくなり、寄進から租税へと、政(まつりごと)の要素が入ってくる。<大和>が大阪。京都。奈良。或いは伊勢・濃尾になるのかは知らないが、米を主食とする限り出雲に対抗した勢力となるのは時間の問題^^?
そこで出雲から大和へ国譲りも済み。その<会議場>となったのが<摂津市>ではなかろうか。今でも○○条約。○○議定書というのは、土地名を付してその取り決めを行う。<摂津市>は、出雲と大和の中間点にあり列島の皆々が集まるには都合がいい。此処へ、その神議の場をを移し、列島各地でバラバラに呼ばれていた津波地名(例えば、東北の戸・へ。出雲、伊勢の垣戸・かいと。神戸・こうど・かんど・かんべ←いずれも地名から推む)を、中国の津波をいう『津・しん』の字から、津波をかぞえる第一波、第二波の『一つ、二つ』をあて、それを共通地名にしようとの合意がなされたのではないだろうか。でないと何故「シンや、ジンの」読みを「ツ」にしたのか? その発想が思い浮かばない。この摂津市の近くにある箸墓古墳が(卑弥呼?)に、どのように絡んでくるかは今後の課題となる・・・。 (卑弥呼その後、付言Ⅱへつづく)
<結び> 日本が今世紀を変える発信地になりませんか?!
この「報告書」の一葉、々は、素人探偵の稚拙な論説であり誤りも含まれてはいますが、全ての記事が絡まり合った時、それは世紀を変えうる力となる。今の史学が、貴方が「徐福」を伝説といわず、そして東北地方へ降臨した巨大隕石を竜の化身だと認めない限りこの謎解きは先へは進まない。その隕石の<赤>を基調とする鳥居や建物は、日本発のものであり、大陸やシルクロードを通して遠くヨーロッパへも渡った唐草模様やアスベスク模様は、日本発の 「緑なす大津波」 だと思いたい。 だから、欧州人が、その震源地・神秘の国ジパングへ操り出したのだとも!
それには、貴方のご参加が是非に必要となる。 出来れば、私の存命中にお願いしたいのですが・・・?(-笑い-) そのBC2001年の12月末(欧州時24日・日本時間25日)にナスカや欧州の上空を経由し、地球を半周した巨大隕石がおこす大事変を中国や朝鮮・韓国の祖先も必ず伝承として<津・シン>として遺しているはずだ。学問に国境はない。まずは史学から、それ等を討究して欲しいと強く願っている。(徐福・・のⅦ,方魚津・パンオジンへつづく)
「徐福」長いお付きあいありがとう御座いました。 「 完 」
<徐福達が日本史に与えた影響のⅦ>まとめ
No nameさま> <養父>についてのコメントありがとう御座います。('21/10/29記)
なにしろ、五年ぶりの入信~~!なので気づくのが遅れて申し訳ありません。
そうなのですか。 わたしが調べた全国七ヶ所の<養父・ヤブ>という地名ですが、何時誰がつけたのかのイワレを調べたわけではなく、その名付けの “特異性とその読み” から、この記事のように(私)がかってに 「徐福団が連れたという三千人の童男童女に結び付けた」 だけです。それから二千二百年以上たちました。倉敷市玉島には小字ですが、ほかに <陶スエ、服部ハットリ、金辺、唐船トウセン>のようなそれらしき地名が残っています。<唐船>は出雲市にもあります。倉敷市か総社市かは知りませんがご存知の<秦ハタ>の地名もあります。誰もあいてにして頂けない記事へのコメントありがとうございました(笑い)。
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≪地名の・養父について≫
(まず始めに)
この記事の作成は、徐福・ジョフク(中国人) の名前すら知らなかった筆者に大きなカルチャーショックを与え、そして、それについても多くのご教示を頂いた<いずものこころshigechan izumo 氏なしでは考え付くことすら出来なかったことに多大な敬意と謝意を表します。その氏とのコメントのやりとりが前述記事のⅠ~Ⅵにありますので楽しんで頂ければ幸いです。又、当ブログのリンクに<いずものこころ>を張ってありますで是非に訪れてみて下さい。すごいお人ですよ^^♪。
<何故に養父ヤブなのか?>
この地名が倉敷市玉島乙島にあるのを知ったとき、少年心に何故か異質なものを感じた。日本語読みでは養父母の「ヨウフ」なのに。それを何故「ヤブ」と読み、何故、地名になっているのかと? ちなみに中国では「ヤフ」と発音する。
後に、兵庫県の養父市を知り。 さらに、前述の記事「宮島」の地で小さく隠れて、そのヤブの地名があった。この「養父ヤブ」の地名に素人探偵は、一つの疑念を持ち、 ・・・いつか記事にしようと思っていた ・・・、つづく^^!
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【 前記事、Ⅰ~Ⅴ.Ⅵまでの要約 】
列島の津々浦々から出土している銅鐸は、どのように列島へ流布・拡布したのか(謎Ⅰ)?
又、「津」の地名は、誰が統一したのか(謎Ⅱ)?←この思いは徐福達なしでは考えられなかった。
秦の始皇帝(BC246誕生 BC221即位)が、徐福(BC278誕生)に童男童女3000人と
武人、百工、五穀、等を与え、東方彼方の蓬莱国の三神山(日本列島)から“不老不死、
不老長寿”の薬石と仙人を連れて帰れと命じた。(又は、徐福が願い出た。)
大船団を組んだ徐福たちは、流れの強い対馬海流によって分断され、海難や漂流にあいながらも日本海沿岸に分散漂着した。このことはお互いに他を捜し合うことになり、後の薬石探査に幸いした。各々は、その漂着地に生活拠点をつくり、そこから内陸部へも果敢に進出していった。
そのなかで、徐福が列島のどの地に着岸したかは判らないが、彼が乗る船は、屈強な船員が乗る旗艦であることからして、最も先の西よりに着岸する。 神話で、「○○から下りた神々が集いて酒を酌み交わした」と、ブログ<いずものこころ>で知った筆者は、それを徐福達が再会を喜びあったとし、その地は、当時の航海力をかんがみ、出雲(出雲市唐船の近くか?)ではないかと思っています。
各々は情報交換の後、各地に帰り、とりあえず蒐集した薬石・珍宝を中国の正月に間に合うよう始皇帝のもとへ送り届けたい。それには強い対馬海流に流されても大陸や半島に渡りつけるであろう列島の西よりに移動し、そこから出帆するのがいい。その地は九州の唐津(時代が下がると長崎へ移動)ではないだろうか。
さらに、その探索は瀬戸内沿岸や、徐福伝説の残る、九州・四国・紀伊半島・東海地方。 北は、津軽海峡を太平洋側へと回りこんで三陸側へと進み、列島住人と交易できる宿場(や、市)を形成しながら、年一の神無月に出雲に「八百万の神々が集い」。時を経ながらも海路を主とした交通網を列島に作っていった。当時の出雲の先進性は、今の中央都市の東京のようであり、そこへ本社組織をおき、列島各地の支部組織と連絡をとりあったのではないでしょうか。
そして、ⅤとⅥでは、列島人と徐福分隊との関わり合いについて考えてみた。
ここまでが、<徐福について>の記事(Ⅰ~Ⅴ,Ⅵ)の概略です。
新訪問のお客さまの為に^^!
<↓以下~以上までは、前々の記事からのピックアップです。>
“蓬莱の地 に三神山日本列島 =蓬莱頭の仙人 縄文人” という情報は、朝鮮半島を経由して中国へ入っていたとしか思えず、徐福以前にも朝鮮半島から列島への渡来があったのではなかろうか。
特に、朝鮮半島の東海岸には『津』に関係する地名が多く魚の打ち上げを表す地名がある。
<魚大津・オデジン>
これは又、直接的でたいへん分かりやすい地名だ。魚が大量に打上げた。しかも大きな魚だ。
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<方魚津・パンオジン>
ちょっと閃きました^^! (この項 '15/10/19記) BC.2001/12/25. 日本時間で未明の朝6時ごろ、東北地方に巨大隕石が衝突した。(カテゴリー巨大隕石と大津波) それが発した巨大地震や巨大津波の来襲を半島の人達は「東方神起」と唱した。今、私達は自分たちの国のことを「日本・にほん・ニッポン」と云い「ジャパン」とは言わない。「ジャパン」は、外国人が付けた名だ。この<方魚津>の発音は、その「ジャパン」に似ている。<方魚津・パンオジン>とは、その方向から津波によって大量に打ち上げられた魚を言い表す意である。<津ジン、方パン>の国。それが「ジャパン」の始まり ^^! だと、素人探偵は断言できるのですが。 さて、貴方さまは、いかが^^?
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卑弥呼より500年ほど前だったかな。日本では縄文の頃。前記のような歴史的背景から秦の始皇帝(BC221即位)は、「徐福(BC278誕生)」という人に童男童女3000人を与え、東方の彼方へ出向き “不老長寿” の薬石・薬草を持って帰れと命じた。
古代中国の人々は “人を拒むような危険な場所や深山にこそ、その霊薬が秘そんであり!” との考えが強い?と思っています^^)
これは明らかに私の偏見ですが、中国の人って「その危険を好んで?“薬食”を求める」傾向があるように思います。深山にしか生えないという茸や、絶壁の岩ツバメの巣・くまの肉球・しかり、危険をおかしてまで手に入れた “薬食”ほど高価に売れる。なにもそこまでしなくってもねえ、と私は思うのですが?(^^!)
③ 列島の津々浦々へ散らばった、徐福達・秦(はた)の人は、珍宝薬石を本国へ送るための集荷地として、年1回、十月の<神無月>に出雲へ集まることを申し合わせた。
④ これに、列島各地の倭人達が徐福分隊と、どのような言葉を交わし、『八百万の神々』となって、海路陸路をふくめて<出雲>へ出向くようなったのか?の謎は解明できませんでしたが、今私達が「神」という神を秦の人達と、とるか銅鐸を求めに出雲に出かけた各地の太夫さん達と、するかは、別として、出雲へ八百万の神々が集まるというのは、史実に基づいた伝承である。(^-^)
童男童女3000人を引き連れて」とはいうけれど、Dr.>の云われるような可能性を考えると、現実的には<童男童女を含む3000人>に修正したほうが良いかも知れませんね。始皇帝は徐福の出立後9年後?(○○歳)で没しています。
列島では、丸太くり抜き舟がやっとの時、中国では、すでに○○人乗りの帆船を有していた。とは言え、3000人のこども達を分乗させた操船力・推力の弱い船団の全てが、ヨーイドンの横一列で出帆するわけでなく、海流の速い対馬海峡を渡って同じ地に着岸できるものではない。それから○○百年?後の遣隋使・遣唐使の時でさえ航運を祈るための特別な男(○○)をしつらえて航行が上手くいけば接待三昧♪、上手くいかなかったら、全ぇん~部、その男が役に立たなかったからだとして^^!その命を断ったという。いかに○○人乗りとはいえ未成熟な帆船。海流に流され分散して列島の日本海沿岸の各地(唐津?、萩?、出雲、石川、富山、あるいは秋田、青森まで?かな^^!)にたどり着いた。
この人達の目的は、その恐ろしき神が棲むという東方から『不老不死』の薬石を皇帝に持って帰ることである。童男童女を伴わせたのは、例え何代かかろうとも 「必ず持って帰れ!」との皇帝の強い意志があり。そこで安穏と定住したとの噂でも立とうものなら、たちまち皇帝の十万二十万の 大軍に討伐されてしまう。始皇帝は万里の長城を築城させるほどの強権の持ち主。その恐ろしさは云うまでもない。(その出帆の9年後? に没した始皇帝ではありましたが「あれほどの物資や人を持たせたのに、何故、徐福は<その妙薬>を持ち帰えらんのだ!」と怒ったそうです^^!。)
<徐福・その後>
徐福達は、例え何隊に分断しようとも<一段落>がつけば必ず沿岸沿いに西進、或いは東進して仲間達(徐福)を捜し合う。ブログ<いずものこころ>の記事のなかに『大勢の神々が天より下りて酒を酌み交わした』 というくだりがありましたが、素人探偵はこれを徐福達の船団が再開か無事を喜びあった場面だととらえています。そこで「我が着岸地にはこんな“モノ”が有りました」等の連絡・情報の交換が行われ東西に妙薬探しの為に行き来する航路がだんだんに出来あがる。そして徐福が居るべき本拠地も定まってくる。徐福は(?)、一時的に(?)かどうかは分かりませんが、薬石・物資を集める司令地として“出雲”に在住していたのではないでしょうかぁ? (出雲の優位性、先進性は、カテゴリー出雲地方; Dr.>とのやりとりへどうぞ・・)
賢明な徐福のこと。如何にすれば列島の珍宝薬石を集材し、中国に送り届けるための組織をつくりあげることは簡単なことだ。今の会社組織でも本社があり支店がある。創作話として、出雲に本社、支店を丹後、越前、富山、越後、新潟、酒田、牡鹿半島、艫作崎におく。(これ等は、思いつきであげましたが、要は今現在に発展しているところと竜神文化と出雲の神の影響があるところと申し上げておきましょう。何故ならば、この人達が日本海沿岸の発展に寄与したと思っているからです。)次に徐福のなすことは、要職をきめ・部下の配置転換。そして(童男童女の)社員教育。有力情報があれば支部への視察出張もしなければならない。さらには、本社で年一回の<支店長会議>を設ける。忙しい忙しい師走に!(笑)
<しかしDr.izumo氏とのやりとりから >
「童男童女を使わしたのは、例え何代かかろうとも」とか 「童男童女の社員教育」と考えたのは私の間違いであった。それを教えて下さったのが<Dr.の 次のコメントです。
『 私の推理はこうです。
彼らは決して日本列島の人々に文字を教えたり、中国語を教えたりはしなかった。
その理由は、彼らがプロとしてのエージェント教育を受けていたからです。日本列島の人々が漢字をたやすく使えたり、中国語を理解できるようになってそれを話すようになれば、特命を受けて日本列島にやって来た自分たちやその子孫と、区別がつかなくなるのです。
彼らはあくまで秘密結社としての集団性を維持する必要があったのです。いかに多方面に散らばろうとも、漢字を用いて中国語を話す人と出会えば、それはまさしく秘密結社の一員との遭遇であり、同胞との遭遇であると確信できるように、彼らの文字と言葉は彼らだけの間のものとして保持していたのです。』
<童男童女は被験用か?>
何故、童男童女3000人なのであろうか。わたしは、それを「たとえ、何代かかろうとも必ず持って帰れ!」との始皇帝の強い意志からだとした。だが、それだけであろうか? ドクターとのやりとりで強い疑念がわいてきた。不老不死の薬石は、“それと確かめてこそ、その価値が認められる”人類の歴史で<新薬の開発>には多大の時間と、費用と、多くの実験と経験を重ねてきた。それ(残虐性)と、口にするかしないか、向き合うか向き合わないかは別として、最終的には「人体実験」をしてのみその効能が認められる。
始皇帝の功績とその暴君ぶりは、Dr.>のほうがよく識るところであり、わたしは始皇帝が何を考え、どんな死生観をもち、兵馬俑や不老不死の霊薬を求めさせるに至ったのかをまったく知りません。それを逆に、お伺いしたいくらいです。始皇帝は、それを諫めた長男を追いやり、460人の学者を穴埋めにし(その中で、「自分たちで、その薬を発明し生き長らえよ」とでも言ったのでしょうか?)、その声は「狼(ろう)の如し」といいますから誰も抗らえません。少なくとも徐福は、自身の考えはどうであれ始皇帝が没する(9年後?まで)皇帝の意(?)に沿うような薬石探しをせざるをえなかったと思います。ご存じのように秦朝は12年後(汗~^^?これも後で調べます)で、滅びています。もとより始皇帝の“不老不死”の考えは無理な話しで多勢が受け入れない部分。その死後は急速にさびれ・・・、「後は野となれ山となれ」・・・、(笑)
<徐福;今までの概略>
さて、童男童女を含む3000人の徐福団一行は、対馬海流に流され、海の藻くずと消えながらも、千々に分団されたことが幸いして列島の日本海側に各拠点もできた。各々はお互いを捜しあい連絡をとりあい、とりあえず<出雲>にその本拠地をおいた。出雲を本拠地としたのは筆者の独断であり、むしろ史家は、その足跡の少ないことから徐福は出雲にはいなかったとするのがおおかたの見方のようです。(そうでしたね。Dr.^^?) わたしが izumo氏 のことを<Dr.と呼ぶのは、Dr.ワトソンと、シャーロックホームズをもじって、Dr.Izumo>と、Sher-rock.Homeless(降岩家無人)略して、Mr.ホームレスと名乗るようになりました。(アハハと、・・・泣き笑い^^!)
徐福団3000人のすべてが無事に列島に着岸できたとは思えない。
今から2200年余り前の航海力。最悪の場合を想定して、半分の1500人がそれぞれの地にたどり着いたとしよう(合掌)。1500人にしても大した数である。例え、一船団の30人?(or ○○人?)が着岸しても当地の人達はビックリ仰天する^^。
徐福団は自給自足の生活は覚悟の上ではあるが、難儀のあとの航海疲れもあり。そこに住民がいれば水や食料をくれないかと乞う。勿論抵抗すれば争いとなるが、住民側にすれば、びっくりが先で「何も拒む理由はない」そこで融和らしき関係が出来上がる。徐福団の場合、薬石の探索が主目的であり、中世にみられる植民地化を目的とはしていない。植民地化が行われたのはその地に自分達の欲しいモノがあると分かってから後のことである。そして住地・住家の獲得提供へと進めば、お礼として病人の治癒へと発展する。 列島の人達から見れば「神様がお出でなすった」(^-^!)
始皇帝は、徐福達に「不老不死の薬石と、その仙人を連れて帰れ!」と命じた。 その時、中国へ入っていた日本列島の情報は、「はるか彼方、東方の三神山に、水墨画にみるような蓬莱頭(ばさばさあたま)で不老長寿の仙人が棲む神秘の国」というイメージでしかなかった。いわば未知への探検である。中世ヨーロッパの歴史で、東方に「黄金の国ジパングあり」として船団をくり出したことはある。共に未知への出立ではあるが、それとこれとは大きな違いがある。かたや黄金という富を求めてであり、一方の徐福達は、富と権力は、すでに手に入れた始皇帝が欲するその薬石である。又、その構成人員にも違いがある。欧州の方は当然船をあやつる屈強な者たちであろうが、徐福達は“童男童女3000人”という断り書きがついている。中世でさえ海難はつきものの時代。それより○○○年も前の話だ。 何故に、童男童女3000人なのであろうか? それが解せない・・!
徐福達は、日本列島にどのような人がどの程度住んでいるのかは、分からずに出航した。一概に「不老不死の薬」と言っても、その対象が五十・六十歳の人か。三十・四十歳の人か、あるいは十九・二十歳の人かによって薬の処方は異なる。徐福が列島で自称120歳の人と、その人が服用していた“養老の水”だ。といって連れ帰ったところで誰も信用しない。さて、困った・・。
④ これに、列島各地の倭人達が徐福隊と、どのような言葉を交わし、『八百万の神々』となって海路陸路をふくめて<出雲>へ出向くようなったのか?の謎は解明できませんでしたが、「神」を現地集合の秦の人達と、とるか銅鐸を求めに出かけた各地の太夫さん達と、するかは別として、出雲へ八百万の神々が集まるというのは、史実に基づいた伝承である。(^-^)
(この項 '15/10/19記)→ 当初の「神」は、中国の人達であったが時代が移るにつれて列島神話人も加わった?
⑤ なにはともあれ、出雲は、永々として築きあげた列島本来が持つ<竜神・雨乞い文化>と、大陸文化が絡まり合って、『八百万の神々が集いて神議』をおこなう郡郷・中央都市へと発展していった。
<徐福、没する>
徐福が没したのはBC208年とされる。されると言うのは何処で何時死んだか不確かなようだ。そのことは専門家に委ねるとして、BC208年であれば始皇帝没から2年後で渡航後11年後となる。中国の史家、司馬遷(しばせん)によれば、「平原広沢の王となり戻らなかった」とあるようだが、帰らなかったのではなくて帰れなかったのである。始皇帝から大資を受けて「そのような霊薬はありませんでした」等といって帰ろうものならひどい処遇にあうのは目に見えている。事実、始皇帝の暴君ブリを知っている人達からすれば、「徐福はうまいことやったな」 というかも知れない。徐福にそのような下心があったかどうかは知らないが、徐福は列島に大陸にない美しさと神秘性にひかれ、住民のいう荒神伝承(前述の大事変による巨大地震と大津波)を聞けば、日本列島の何処かに“三神山”はあると信じて探しつづけていたに違いない。なかで静岡県にも徐福伝説があるというが、富士の山を見れば、きっとその形状に心を奪われたであろう。不二の山とは、列島のすべてを知る者ぞのみ付けられる山名であり、この山名は、列島の住民が付けた山名ではない。ちなみに「不」を先につけるのは中国語の特徴でしたよね^^。不知・、不客知・(笑い)
<徐福の没後>
徐福が亡くなったからといって、その配下やナンバー2はいたはずだ。不老不死の薬石探しを止めるわけにはいかない。彼等とて始皇帝の命を受けて渡航しているからだ。しかしながら、そうはいっても徐福が亡くなり、その命を出した始皇帝や秦代(BC221~BC206)さえも滅びてしまえば、その呪縛は?除々に解き放たれてゆく。だが仲間同士が神無月に出雲に寄り合うことは続いていった。9年のあいだに培われた海路はその後に発展したであろう陸路(古代陸路)とともに、中国本土や列島各地との商工路として機能するようになった。
富山の薬売り、近江商人、出雲の特殊鋼、○○の遠洋漁業のもとづえは、徐福達がなしたのだと私は思っている。そして端(はた)=秦(はた)=湊(みなと)の人達として歴史は流れてゆく。富山には今でも立派な内倉を持ったお家が残っている。そして、奈良の大仏殿の造営では秦の人達が財を寄進したというから、その人達はその後にも中国本土や列島各地との交易や工商によって蓄財をなしていったのかも知れない。
上記の“白砂青松”は、徐福達の初期の日本海沿岸行動と重なる。徐福達の目的は不老不死の薬石を探すことにある。それは<東方神起>の神の居場所を探す旅でもある。なぜなら、神=不老不死の考えに基づいているからだ。徐福達は、きっとその美しさと白砂の鳴き音に心を奪われたはずだ。一方、列島の住民達は、その白浜は四千年前の荒神竜が運んできたとの信仰(これは筆者の思いつきです)がある。 ここで双方何んらかのコミニュケーションがあったと思われるが、それが推(よ)めない。この徐福についての記事のなかでもくろんできた(謎Ⅱ)の「津の地名は何時誰が統一したのか?」に、全く関連づけられない!!
< 註 & 訂正 > 始皇帝について少し調べました。
始皇帝は不老不死を求めて、徐福より以前に二人の方士(薬石や施術によって医療行為をする人?)にその仙薬をつくらせようとしたが、もとよりそのような薬はつくれるばずがなく皇帝の怒りを怖れて二人は逃亡してしまった。これを怒った皇帝は見せしめのために460人の学者を穴埋め→トラウマにしてしまった。さらに、これを諫めた長男を格下げにし北方の警備隊に追いやってしまった。その後、徐福に3000人の童男童女(若者)と 百工(色々な職業のひと)と 五穀を与え、蓬莱(国)より不老不死の薬と、その仙人を連れて参れと命じたようです。
<今回、わたしは、これに、二つの持論を重ねて>
一つは、その遮光器は、BC.2001年の未明、釜石あたりに落ちた巨大隕石の強烈な光を目の当たりにして、眼底を焼かれた人々がいて、それが歴史の伝承として遮光眼鏡となったのではないかということ。これを導き出したのは、青森県・白神岳、秋田県境・真昼岳、山形県境・面白山、等の地名からです。これ等は巨大隕石と大津波によって、その表土を剥ぎ取られた<岩の手地方>を囲むような位置にあります。(詳しくは、カテゴリー巨大隕石へどうぞ^^♪)
又々、岩手県で、その時の巨大津波の痕跡見つけました。どうぞお楽しみに!
二つには、徐福( 年出航)の船団がこの地に来訪したと考えるほうが確率的に大きいこと。その土偶が身に付けている装身具は、あまりにリアリティであることから、徐福団の武人が着用していた武具を着せたのではないか。ということ。片方や、等身大8000体の武士俑がつくれる国。それも一人一人の面相が異なっているそうですよ! 此方ぁ(こなた)蓬莱頭(ほうらいあたま・ぼさぼさ頭)の仙人が棲むところ。 これくらいの物質文明(?)の差があれば当時の人達でも、『 宇宙人が来た!=別世界の神々さまが来た!』 と思っても無理もありませんね(笑)。
<徐福の立ち寄り場所>
いずものこころ -Yahoo!ブログ- 古代出雲『徐福伝説』の謎 2005/12/21 より、
↓以下を借用します。
徐福の出身は斉(現在の山東省)で、身分は道教の方士。神仙思想(東方の海上にある三神山に、不老長生のための薬を持つ仙人がいるという説)に基づく不老不死を実現するための呪術や祈祷・薬剤の調合に長け、医薬・天文・占術などに通じた学者でした。しかし、徐福は中国には戻りませんでした。
徐福の渡来地として日本のいろいろな土地が挙げられ、伝承が残っているとされています。主なところを挙げると、青森県小泊村、山梨県富士吉田市、東京都八丈町、三重県熊野市、宮崎県延岡市、佐賀県佐賀市、佐賀県諸富町、佐賀県武雄市、広島県宮島町、京都府伊根町、鹿児島県串木野市など、北は青森から南は鹿児島にまで及んでいます。日本には30もの徐福伝説があるとされています。
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↑以上は、前々の記事からのピックアップです^^!
徐福達が日本史に与えた影響、(前々の記事の)その概略^^! (Nov.09,2015)
次は筆者の独自案であり、思いつき感がつよいので、その道に詳しいお人の論評と訂正を求めます^^!。
〔 徐福達が関係した、そのひとつ々、〕
<中国(の正月)に仕送りするべく、年一に出雲に集合する交通網をつくりあげた。>
日本海沿岸と瀬戸内を幹線にして大陸への出帆地を北九州の唐津港とした。
後には、出雲を“中央都市”として、列島人(荷役人)を交えた陸路に発展していった。
徐福たちが提供するものの最たるものは、列島人が欲しがる銅鐸だったと思われる。
<中国五穀の種の持ち込みと、水稲の稲作に貢献した。>
彼等は永住こそ出来ないものの「たとえ何代かかっても」の言葉が生きている限り、定住しての食物生産は必要であり中国五穀や、野菜果物の種子も持って行きたい。今に列島で中国原産種といわれるものの中には、徐福たちが持ってきた物があるかも知れない。
<列島の薬石探査と中国の医呪術を施術、加持、試行した。>
方や、8千体の兵馬俑、十万二十万の軍隊を繰り出せる国。 こな方、蓬莱頭(バサバサ頭)の縄文人で小さな埴輪の土器出土の群郡。その圧倒的文明差をもつ徐福たちが求めるものは“不老長寿の薬石”。徐福たちにすれば、新しく見つける薬石の聞き取りやら、その処方を試してみたいが当然なこと。その被験体に列島人がなった。共に長生きが主目的。列島人にすれば病気を治して下さるありがたい神様仏様^^。前述の記事で各地に残る道祖神二体は、その夫婦かとした。
<住家の建材調達や建築、船作りを手伝わせた。>
徐福たちがどのような建材を求めどのような住家を建てたのか。筆者はまったく知らない。その時の縄文弥生の人達の住家は竪穴式住居だ。徐福たちの住居とするところは、船を係留できる港のちかく。今の湊・ミナトの地名はそのなごりかと。それと内陸にあっては“唐人山”にあるように山の頂上ちかく。それに対して列島の人達が住んでいたのは山と海川が交わり、その両方の幸を得ることができる丘状にあった。この二つが共に居住区を同じにして交えることは決してなかった。が、徐福たちにすれば、大陸へ渡る船造りは必須条件であり、その建材を求めることは重要だ。人手もいる。大海へ繰り出したという江州人や、ソマ(木へんに会)の地名やいかだを組んでの川くだりは、そのことに関係しているとにらんでいる。それからブログ<いずものこころ>であった「なにやらの木をなにやらの神さまが(大陸から?)持ち帰った」 とありましたが、それは幾度かの往航の後、あれこれと追加で持って行きたい物の中に、水に強い桧の苗があったのではないでしょうか。
<陶器や織物づくり(にも関係した。>
陶器や織物造りは徐福たちにとっても生活の必需品。ガマのお綿の因幡の白兎の話に始まり雲州木綿や、備中綿の種は、その人たちが持ち込んだのではと思っています。ちなみに、中国やインドは綿花の大産地で、とくにインド綿は良質のものがあり。陶器は、多岐にわたりそうなので、ここではノータッチします^^!。
〔関係しなかったもの〕
<食文化>
外国の人が日本に来た場合、反対に日本人が外国へと住んだ場合、一部の例外を除いて、食文化は中々交わらない。味覚というものがどのようにして覚えられ刷り込まれていくのかは分からないが異国に住む時、集団や、仲間うちだけで生活する場合は、ほとんど食文化は交わらない。ちなみに、欧米人のうちには日本人のことを魚臭いと思っている人達がいるし日本人は欧米人のことをバタ臭い人達と思っている人達がいる^^!。
<宗教及び信仰>
仏教がいつごろより日本人の内に入り込んだのか、筆者はまったく知らない。逆に徐福たちは、日本のことを「東方三神山」四千年前(注;除福からは○千年前)の大事変発祥の地ととらえている。徐福より○百年後の卑弥呼の代になっても魏志倭人伝では、列島の稚児を生け贄とした雨乞い儀式を見聞きしたのであろうと思うが、卑弥呼のことを「鬼道に事へ、能く衆を惑わす」とある。徐福たちは、東方よりの“四千年前”の巨大津波と大地震によって良渚文明を一瞬にして滅ぼした(奥州市・岩淵先生)中国の歴史を伝聞しており、その恐ろしくもある未知の地への薬石探しが目的であり、“列島に既存している四千年前の大事変をもたらした荒神を主体とする信仰”には関係していない。しかし、中国大陸まで伝わった大地震や大津波をもたらした、その恐ろしき神には興味があり、その事変を列島の人達から聞き及んで龍画としてモンタージュした。 竜は中国発ではなくて日本発の逆輸入(史実探偵)なのだ!!中国の為政者のうちには、その龍を討伐すること(龍の舞)によって政治をおさめる考えがあったと筆者はみています。西安8千体の兵馬俑は、東を向いている。さらに、中国にある朱塗りの寺院は、日本の東北の空を飛翔した巨大隕石の朱であり、ミドリ成す唐草模様は、日本発の巨大津波の色だ(としました^^!)。
<教育。 とくに漢字や言葉は教えなかった。>
特に、この項は素人探偵の思いの及ばなかったことであり、御教示を受けたDr.いずも氏の言を再び掲載します。
『 私の(shigechan izumo氏)推理はこうです。
彼らは決して日本列島の人々に文字を教えたり、中国語を教えたりはしなかった。その理由は、彼らがプロとしてのエージェント教育を受けていたからです。日本列島の人々が漢字をたやすく使えたり、中国語を理解できるようになってそれを話すようになれば、特命を受けて日本列島にやって来た自分たちやその子孫と、区別がつかなくなるのです。
彼らはあくまで秘密結社としての集団性を維持する必要があったのです。いかに多方面に散らばろうとも、漢字を用いて中国語を話す人と出会えば、それはまさしく秘密結社の一員との遭遇であり、同胞との遭遇であると確信できるように、彼らの文字と言葉は彼らだけの間のものとして保持していたのです。』 又、氏のコメントで 『クラスター爆弾のように列島に散らばった除福たちではあったが 弥生式土器に残された文字は極めて少なく、その上にひとつの土器に一文字くらいのものが稀にやっと見つかっている』 との不思議を言われている。
ですよねえ~。通訳を含めて “不老長寿の薬石やその探索” に来たとは、列島人にベラベラと喋れない^^!。徐福は、3千人の童男童女。あるいは、童男童女を含む3千人を受けて列島に渡って来た。例え、徐福が列島から自らを120才を越えた。あるいは、それ以上という仙人を中国へ連れて帰ったところで始皇帝(誰も^^?)は、信用しないし出来ない(笑い)。さすが、白髭三千丈をいう気の長い中国。3千人の “童男童女は、長命実証用” として連れて来たのだ。この件は、当記事の本題であるので、・・・つづきは後へ回します^^!。
< 政治。港湾を除いたインフラ整備>
史学の多くは、列島で名ある神々や為政人の中には、政治に携わったとする大陸や半島人を挙げる向きがありますが、筆者は例外を除いて、彼等は政治に加わることはなかったと見ています。圧倒的文明差や病の治癒をしたことにより、現地人からは神様仏様と崇められた徐福たちではあったが、大陸との往航を重ねるうち豪商とは成りえてもても、決して、列島人を統利する長にはならなかった。否、なれなかったのである。「その声、狼ロウの如し」という始皇帝。殺生与奪を欲しいままにし、長命の薬石の作成を命じた方士(薬石や施術によって医療行為をする人?)2名がトンズラしたことを怒り、460名の方士に「お前達でその薬を作って生き永らえよ」といって穴埋めにした始皇帝の恐ろしさは骨の髄まで染入っている。列島の長となり安穏と暮らしているとの噂でも立とうものなら、十万二十万の兵を繰り出されて、たちまちのうちに討伐されてしまう。例え、始皇帝が亡くなり秦朝が滅びたあとでも、大資をうけて出立したてまえ、人々「何を云うやら」分からない。それより何より、徐福のプライドがそれを許さない。徐福はその薬石を探して列島のどこやらで(?)果てている。徐福たちは例え何代かかろうとも、その根底は “サバイバル”であり、そのサバイバルに港湾を除いてのインフラの整備は必要ない。
<秘密性の 特に高かったものⅰ~ⅲ.>
この項は、とくに筆者の独自性が強いので専門家のご批判を望みます^^!。
今、筆者が論じているのは、卑弥呼より○百年も前の徐福(代)以降の話であり、日本では縄文弥生の時代だと、あらかじめお断りしておきます。
秘密 そのⅰ. 銅の鉱材造りと、その加工
このブログのカテゴリー出雲地方で述べたことですが、彼等は、銅の鉱材加工を銅の精錬には公害を伴うため隔離した場所・大社町、島根半島の山中の<別所(←地名)>でしたとしました。しかし、この度の(出雲市)間屋・西神湖の調査で、大社町のほかの神門町にも<別所>の地名があることを知り、この場所が当時の海の中にあったかどうかは分かりませんが、(地名の多い)人家の多い所にあります。これによって少し考えが変わりました。鉱害ではなく機密を保つためではなかったか?と。
なぜ、<別所>との地名をつけたのか?
この地名が「いつ、どこの、誰が付けた」のかは確定できない。しかし、今までに述べた出雲市に神代から付けたかと思われる特異地名はワンサカとある。その中にあっての<別所>である。この地名は徐福たちが付けたのか。それとも列島人がつけたのか? ここで、特に考えておかなければならないことは、徐福たちは、先のDr.が言われた「秘密結社」である。表立った行動をしては、ならないのだ。彼等は、列島の付名には殆ど関係していない。例えば「秦」の地名だ。中国よみでは「シン」と読む。これを日本語よみでは「はた」と読むことから、筆者は傍らの「端はた」に住む人達だとした。この例に代表されるように、列島では彼等が関係する地名は見かけ難い。人口が多ければ、先住民の地名を使っている。東北地方に数字付きの地名が多いのは、人口が少なく地名が付いていなかったので、番号付けの地名を振ったかとした。
余談になりますが、(特に中学生諸君に^^!)北海道では、思いの外、小地域で地名が密集している。(国土地理院5万分の1地図)。これは、アイヌの人達が土地自体を神と考える信仰ありか?としました。
<別所>とは、何に対しての別の所か? 何を成すところか?
神のオワす所か?。違う。 それは、神座とか。大社とか。盤座。御座・・・・・神庭^^! 等という。では、異人さんの住む所か? これも、しっくりこない。自分達が外国人であり、地元の人からは、すでに<秦はた>傍、端、で住む所の地名で呼ばれている。 徐福たちは、百工と呼ばれているよろずの職業の人達を引き連れて渡航している。衣服であれば<服部・はっとり>とか<織部・おりべ>。陶器であれば<陶・すえ>のような地名を付けて。これらが、さして機密性をようするとも思えない。住家や造船においては、ことが大きく人手(手伝い)も要すことから、機密性は保てない。
以上のことを考え合わせると、祈祷のための別場所か?と、銅の鉱材加工場 が残る。列島人においては、すでに雨乞い儀式で荒神を呼び寄せ、それを銅鐸へと乗り移らせるための、お太夫さんの修行として滝行とか徒歩行(かちぎょう)がある。最後に残ったのは“銅の鉱材加工”。
<銅材について考える>
歴史をみると、石器時代→銅器時代→鉄器時代へとつづく。石器においては、打器にはじまり、石刃、矢ジリへと移っている。銅材においては、その融点が鉄より低いことから、鉄より先に発見された。ここで、大切なことは、銅は大陸からの移入であり、列島で発見されたものではない。
大型のイノシシや、鹿を狩るとき、石斧ではトドメを与えることが出来難い。その点で、銅の刃では、心臓まで届く突剣が作れる。大陸の出土品が殺傷用のものが多いのに対して、日本では祭祀用として発達している。このように銅材に対する考えは、大陸人が戦闘の実効用とするのに対して、列島人は神や権威の象徴用として用いているように全く異なる。もちろん銅材は中国においても大量に簡単に手に入るものではなく、鉄に対してさえもその希少性は高い。その銅材を得るための鉱石が出雲半島では、先のDr.Izumo氏>言で、「ゴロゴロと転がっていた」と、言われていた。それを徐福たちが見つけないはずがない。
ちなみに、鉄器のほうですが、
鉄は、銅の融点に対して、約500℃ほど高いだけであり、その温度をつくり得れば銅の精錬より、はるかに簡単であり、木炭と砂鉄を交互にして皮革のフイゴを使うタタラ製鉄では素人でも体験できるとか^^!。出雲の“安来鋼”は不純物が少なく品質の良いことで有名。
出雲の優位性は、銅鉱あり、砂鉄あり、おまけに少量ですが石炭の露頭まであると聞いている。それに、火山・三瓶山・大山ありの温泉あり。それから作れる温泉の花。 海は、浅海・宍道湖での魚場ありいの、伯方の塩。おまけのおまけで雲州木綿。それに加えて、出雲の人の融和の良さとくれば小泉八雲でなくても、住みたいと思うよね^^。 長期在住していたかどうかは別にして、この地を「徐福」が逃す理由が見つからない。再度の確認になりますが、今、筆者が論じているのは、日本の八百万(やおよろず)の神様が出雲へ集まるという神代・かみよ以前の話であると申し添えておきます。大きく外れた話をもとにもどして・・・(^^!)
<徐福隊の工人は、“別所で”その鉱石で銅材を精錬した>
何故、徐福たちの工人は、その精錬を<別所>で成したのか?
一つに、列島人が銅材で武器にするのを防ぐため。
彼等のうちには、銅材=武器の考えがあり、列島人がそれを知り得て武器をつくりだしては、ちょっとまずい^^!。 当時の銅材は、今でいうウランの精製や核兵器のようなもの。極力秘密にして教えたくない^^。では何故,人里多い出雲市○町に<別所>の地名があるのか。これは、大陸人(や欧米人)と日本人の“防犯意識の根本的な違い”にある。大陸では略奪にそなえて実効的な壁や塀を造るのに対して、薄れたとはいえ(今でも?)日本人のうちには、「境内」の思想が潜在しており、一度そこを境界と定めると 決して侵してはならない考えがはたらいている。
二つに、商いとしての希少性を保つため。
当時の、列島人の群郡では、雨乞い祈祷の為に○○から→銅鐸を使用する過程にあり、大陸からの銅材製品はとくに魅力的であり、是非に欲しいもの。そして一度手に入れると段々と大きくて立派なものに作り替えたい欲求があった。そして、当時の列島人には、たとえ離れて交流のない群郡であっても“四千年前の巨大津波や大地震を共に経験”しており、それは“荒神様”が行為したとの共通した認識がある。その神を呼び寄せ乗り移させるための銅鐸は是非に欲しかったのである。徐福たちは、それに応えた。交換として、珍宝薬石の探索案内やら、荷役等の協力を頼んだのである。こうして、銅鐸は、列島の各地に拡散していった。この銅材作成の機密性は、奈良の大仏の作成では○秦の豪商の寄進があったと聞くからおそくまで機能していたのかも知れない。
「銅鐸の出土している所に、徐福隊あり」
徐福自身がその地に出向いたかどうかは別にして、銅鐸は、東海の浜松あたりからも出土している。不二の山・富士山は、列島の全てを知るものぞのみ付けられる山名だ。「不」をフ、プ と発音するのは大陸の発音であり、徐福隊は東海地方へもその探索を広げている。と前述した。
秘密 そのⅱ. 新薬の試用と結婚
徐福たちは、自身も長生き実証の宿命をおっており、新しい薬石を試す時は、新薬として列島人に試用したと思われる。そして、列島人と血を交えることはしなかった。だが、その結束も時代が下がるにつれ、薄れ去り、今では、史学でさえ、その史実を忘れ去り 徐福たちを 「伝説だ」と云っている^^!。
(長々と駄文を連ねましたが、次からがこの記事の本題です)
秘密 そのⅲ. 長命実証用としての童子たちを<養父・やぶ>に隔離して育てていた!!
<養父の地名を検索する> (Nov.09,2015~ 記)
徐福たちは、長命実証用としての童子たちを<養父・やぶ>に隔離して育てていた。
次が、今回調べた養父の地名がつく場所の7箇所です。
日本国内のランドマークより
①兵庫県養父市養父市場 養父神社-ビル ⑤ 愛知県東海市養父町2丁目16
兵庫県養父市薮崎字唐木 愛知県東海市養父町義神
兵庫県養父市別宮 愛知県東海市養父町釈迦御堂
兵庫県養父市新津
④大阪府枚方市養父元町
③広島県宮島市宮島町養父 ②岡山県倉敷市玉島乙島養父
⑥佐賀県鳥栖市養父町 ⑦徳島県鳴門市大津町木津野字養父の内
<なぜ、その地を[養父・やぶ]というのか?>
何時、誰が付けたのかは知らないが、考えてみれば、ずいぶん不思議な地名である。古今東西“子”の無い夫婦は、たくさんいる。その人達がこどもを欲しがり養子を迎えたとする。その行為があったところに「養父」の地名を付けたのでは、列島のそこら中が「養父」だらけになる^^!。歴史において、中国の大家同士が実子のやりとりをした例があると聞くし、日本の戦国時代で人質的に幼子を迎えて戦争抑止力としたことはある。しかし、そのことで、そこに「養父」の地名は付かない。その行為は、すでに社会的基盤ができあがった後のことであり、すでに「他」の地名が付いているからだ。くどいほどに言いますが、史学では、「地名」を「物証」に比べて一ランクも二ランクにも下に扱う。「地名」というのは、一度その地名を付すと中々変えがたい。もし、この私くしが勝手に地名を変えたならば、[あんたの言う“○○”は、どこよ?」と、なり混乱を生じる。「養父」は、「山、川、野、原」のような一般的地名とは異なり、人がなす行為によって付けられた地名であり、地名としては、かなり特殊な地名である。その地名が今回調べただけでも上記の7箇所あった。しかも、それ等の地の列島人のお互いが社会的、人的交流があったとは思えない。・・今日へとつづく^^!、
<徐福は3千人の童男童女を連れて列島にやって来た。>
次は、素人探偵の推理・想像の作り話です^^!。
徐福が童男童女を連れてきたのは、“長命実証用”のためだ。3千人の童男童女か、徐福団3千人の内に含まれる童男童女かは分からない。しかし、それでは話が進まないので、童男童女を含む3千人としよう。その3千人の大船団が、ヨーイドンの横一線で出航しない。隊列を組んで出発する。いかに、文明を誇る秦代の船であっても、推力は弱い。ごく近世まで「潮来一枚下は地獄」といわれた大航海。その内の千~千五百人は、海難にあったかも知れない。3千人の全てが列島に着岸出来たわけではない。そして、強い流れの対馬海流は彼等を分断した。さらに悪いことに、彼等は多くの食料を持たねばならず、実りの秋の米麦の収穫を終えてから出発する。これは台風の時期にかさなる。筆者は、大陸からの進出の度々が阻まれたのは、このことによると見ています。
事実、徐福隊の第一回目は、その大鯨(=台風)によって阻まれている。“四千年前の”巨大津波と大地震を経験し、神風を発し、その行くてを阻む“東方三神山”の神秘性は、ますます増してゆく。深山のレイシ、熊の手しかり、切り立つ断崖のツバメの巣しかり、神秘性があり、危険を伴うところにこそ、その仙薬ありとするのが中国人の心意気だ^^?。
<徐福船団の編成>これも作り話です。
命カラガラではあるが、その内の1500人(とする)が分断されながらも列島に漂着した。一船の乗員をこれも仮で30人~60人としよう。徐福は、百工を伴ったとあるから、その内には色んな職業の人がいたに違いない。徐福たち方士はもちろんのこと、武人、船乗り、大工、陶工、織部、鍛冶、農工、そして、“長命実証用の童子達”の、面倒をみる婦人達。
<会社組織の作成>
分断した徐福たちは漂着した初期の生活が成るようになればお互いを捜しあう。彼等は徐福の元へ集結し、無事を喜び、情報を交換する徐福は(前述の)出雲の優位性から出雲に本拠地を置くことにした。徐福は、多勢を失いながらも人員を再編成し、出雲を本社とし、列島の各地に薬石探しのための支部をつくった。そして、年一の年末の前に出雲に集まるように指示した。今、私達がお土産を持って年末に大移動するのは、このことに起因しているのかな^^(中学生諸君に、笑い)。これは、後の商港や航路として発展する。徐福のもと各地に配置配属された人材は一様ではない。薬に長けた人(越中富山の薬売り?) 船作りに長けた人(竜神丸を繰り出した江州人?)特に、列島の遠く東北地方へ送り出す人達は、未知の々であるから操船に長けた人達で武人がいい?(八戸の遠洋航海)。()内は筆者が勝手に関連づけました^^!。 先の記事では、東北地方から出土した遮光面土器は、徐福たちのなかの武人の甲冑を列島人が写したものだとしました。他に、蕨手刀(持ち手がワラビの形をした刀)や、○○の土饅頭墓は中国の影響を受けたのではと見ています。
徐福本人は、といえば出雲に定住出来るものではなく、耳寄りな情報を得れば列島の各地へも出向きたい。このように徐福を“秘密結社の社長”とした会社組織は、列島人と係わり合いながら、熟成しながら、時は流れていったと思われます。中で、出雲から中国山地を越えて瀬戸内(吉備)や、日本海航路を経て、愛発関を越えて琵琶湖(近江)へも進出したのではないでしょうか。
<さて、本題の“長命用の子供たち”を何処に住まわせるか??>
この子達を何処に住まわせるか。この子達は“大切な、々な、長命被験用”である。
出雲に住まわせたいところだが、出雲にあっては列島人が多く在住し、それとの混在は避けたい。そこで、すこし離れた兵庫県<養父市>に“センター?”を置いた。ここなら日本海列島の中心にあり住環境もよさそうだ。この子達の歳がいくつで、その連れてきた総数が幾人かは分からない。
・・・仮に、その歳は七才前後で、これも仮の々で100人にしておこう。
その百人の全部を養父市 一箇所に住まわせる分けにはいかないので、既成のグループを母体として十人、五人と分けていこう。徐福団のなかには、当然若者夫婦もいるし、既婚者もいる。すでにその歳に該当する子もいるし新しく出生する子達もいる。その区別は難しいところだ。なにはともあれ、(そこ以外にもあるかも知れませんが^^!)上記の7箇所に 分けた。とする^^! ところが、5人を過ぎるあたりから、列島人の目には「子沢山だなあ」と奇異にうつる。
<養父>の地名は徐福たちが付けた地名ではない。
何故なら、自分達は養父母ですとは言っても、この地は「養父・ヤブ」ですとは言わないからだ。「養父・ヤブ」の地名は、その人達が住んでいた所を指して列島人がつけた地名だと断言できる。このこと一つとっても、いかに徐福たちが秘密裏に行動していたかを窺い知ることが出来る。
<「ヤブ医者」の由来を考察する。>
普通に「ヤブ医者」という言葉は、見通しの悪い籔の先にたとえて、それを揶揄する言葉だと受け取っている。もとはと云えば「ヤブの医者」は、そうではなくて真逆であった。徐福達のなかの方士(医療や呪術によって病気を治す人)は、大陸の圧倒的、先進的な医療を行う人達であり、列島人との関わりのなかで難病も治すし、新薬も試したい。列島人にすれば、ありがたい、々い、神様仏様である。その人達は幾人かの養子を育てていた。先の記事では、『如来様と、その脇に描かれている“童子の仏画”は、徐福の方士女人達を列島人が言い伝えて描き記したものだ!』 と、しました。
<長命実証用の童子達の隔離施設か??>
広島県宮島市宮島町養父 , 岡山県倉敷市玉島乙島養父 ,
(残りの4ヶ所は調べていませんが^^!)この二つの場所は、明らかに兵庫県の養父市とは異なる条件の場所にある。倉敷市玉島乙島の養父 ,は、今では陸中にあるがその昔は、海で囲まれた島であった。この二箇所をその “隔離施設” だと考えた理由は、共に本土から見れば、その反対側にあり、列島住民からは、見えない場所にある。何故、徐福たちは、このような場所で童子を育てていたのであろうか? 徐福たちの使命は、長命用の薬石探査が目的であり、良かれと思われる薬石が見つかればそれを子供達に試さなければならない。中には「良薬口に苦し」というように、苦いものもあったに違いない。しかしながら、相手はこども。いやがって泣き叫ぶだろう。薬石の中には長期に服用してこそ、その効果を発するものもある。嫌がるこども達に無理矢理飲ます。
その様子を列島の住民には決して知られてはならない。そして子供達が大きくなり、物心つけば、逃亡を図るものも出てくるかも知れない。さらに、もう一つ加えれば、その島は、江戸時代にあった遠島島流しであってはならないのだ。遠すぎれば、その行き来に大変だ。この三つの条件にあう所で、本土に中継できる港湾が近くにある場所としてこの二つの地を選んでいる。
< 結 び >
<養父・ヤブ>は、徐福たちが “長命実証用” の子供達を育てていた場所だと断言します。
その後、その子たちがどのような運命をたどったかは分からない。このほか<ヤブ>と発音する地名を探せば、きっとたくさん出てくるに違いない。そこが、徐福たちと直接関係あるなしは別として、それ等の地に残る イワレや行事の調査の続きは、その地の歴史をよく識る貴方さまにお願いしたい。
愛知県東海市養父町
大阪府枚方市養父元町
佐賀県鳥栖市養父町
徳島県鳴門市大津町木津野字養父の内
こどもの頃、何故、その地を「養父ヤブ」と言うのか?と不思議に思ったことは誰にもあるはずだ。何故、何故、を三つ重ね深く追求しなければ、その祖先からの伝言は貴方には伝わらない^^!。
上記の4箇所は、今回調べられませんでしたが、私くしの目的は、地名という祖先からの伝言に気付いて頂き、専門家やその地をよく識る貴方さまへその追求解明へのキッカケを与えることにあります。列島の各地に不老長命の薬石を探すべく散らばった徐福達のなかの“方士達”夫婦や童子達は、その“道祖神”二体として刻まれ、仏画の“如来様”や童子として描かれている。
又、徐福が伴った兵士達は、列島の<四千年前の厄災や雨乞い文化>と合いまみえ毘沙門天や仁王様のモデルにもなっていると前述してきた。それが卑弥呼を ン百年も遡る、列島の縄文期であることが問題なのだ。 もし、このことを史実として受け入れ難い史学や仏教界の貴方さまがおられたら、その貴方さまにお尋ねしたい。一ヶ所ならともかく、その地名は列島の何ヶ所にもあり、「養父という地名の‘現存’を何んと考えられますか?」と。“ヤブ”と発音するそれ等の地が、市とまでになった<兵庫県の養父市>を中心として“コラボ” され^^♪ この拙い報告書に含まれる誤りを正し、さらなる歴史の解明へと 導いて下されば幸いです。 (~ Dece.01,2015) □
尚、この「徐福」の記事は、初頭にも述べてありますが、その名前はおろか存在すら知らなかった筆者に、ご教示してくださったブログ<いずものこころ>Shigechan izumo氏、なしでは成しえなかったことであり、氏に敬意と多大の謝意をここに表します。→拙ブログにもリンクを張ってありますので、徐福について詳しく知りたいお方さまには、是非の、ご訪問をお勧めします。
史実を探偵する; 平 素人 より、
関連記事
* (カテゴリー:卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸を見つけたい人この指とまれ!)
* 徐福達が日本史に与えた影響、 そのⅠ~Ⅵ → 当記事Ⅶは '16/5/28に発表しました^^!)
No nameさま> <養父>についてのコメントありがとう御座います。('21/10/29記)
なにしろ、五年ぶりの入信~~!なので気づくのが遅れて申し訳ありません。
そうなのですか。 わたしが調べた全国七ヶ所の<養父・ヤブ>という地名ですが、何時誰がつけたのかのイワレを調べたわけではなく、その名付けの “特異性とその読み” から、この記事のように(私)がかってに 「徐福団が連れたという三千人の童男童女に結び付けた」 だけです。それから二千二百年以上たちました。倉敷市玉島には小字ですが、ほかに <陶スエ、服部ハットリ、金辺、唐船トウセン>のようなそれらしき地名が残っています。<唐船>は出雲市にもあります。倉敷市か総社市かは知りませんがご存知の<秦ハタ>の地名もあります。誰もあいてにして頂けない記事へのコメントありがとうございました(笑い)。
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≪地名の・養父について≫
(まず始めに)
この記事の作成は、徐福・ジョフク(中国人) の名前すら知らなかった筆者に大きなカルチャーショックを与え、そして、それについても多くのご教示を頂いた<いずものこころshigechan izumo 氏なしでは考え付くことすら出来なかったことに多大な敬意と謝意を表します。その氏とのコメントのやりとりが前述記事のⅠ~Ⅵにありますので楽しんで頂ければ幸いです。又、当ブログのリンクに<いずものこころ>を張ってありますで是非に訪れてみて下さい。すごいお人ですよ^^♪。
<何故に養父ヤブなのか?>
この地名が倉敷市玉島乙島にあるのを知ったとき、少年心に何故か異質なものを感じた。日本語読みでは養父母の「ヨウフ」なのに。それを何故「ヤブ」と読み、何故、地名になっているのかと? ちなみに中国では「ヤフ」と発音する。
後に、兵庫県の養父市を知り。 さらに、前述の記事「宮島」の地で小さく隠れて、そのヤブの地名があった。この「養父ヤブ」の地名に素人探偵は、一つの疑念を持ち、 ・・・いつか記事にしようと思っていた ・・・、つづく^^!
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【 前記事、Ⅰ~Ⅴ.Ⅵまでの要約 】
列島の津々浦々から出土している銅鐸は、どのように列島へ流布・拡布したのか(謎Ⅰ)?
又、「津」の地名は、誰が統一したのか(謎Ⅱ)?←この思いは徐福達なしでは考えられなかった。
秦の始皇帝(BC246誕生 BC221即位)が、徐福(BC278誕生)に童男童女3000人と
武人、百工、五穀、等を与え、東方彼方の蓬莱国の三神山(日本列島)から“不老不死、
不老長寿”の薬石と仙人を連れて帰れと命じた。(又は、徐福が願い出た。)
大船団を組んだ徐福たちは、流れの強い対馬海流によって分断され、海難や漂流にあいながらも日本海沿岸に分散漂着した。このことはお互いに他を捜し合うことになり、後の薬石探査に幸いした。各々は、その漂着地に生活拠点をつくり、そこから内陸部へも果敢に進出していった。
そのなかで、徐福が列島のどの地に着岸したかは判らないが、彼が乗る船は、屈強な船員が乗る旗艦であることからして、最も先の西よりに着岸する。 神話で、「○○から下りた神々が集いて酒を酌み交わした」と、ブログ<いずものこころ>で知った筆者は、それを徐福達が再会を喜びあったとし、その地は、当時の航海力をかんがみ、出雲(出雲市唐船の近くか?)ではないかと思っています。
各々は情報交換の後、各地に帰り、とりあえず蒐集した薬石・珍宝を中国の正月に間に合うよう始皇帝のもとへ送り届けたい。それには強い対馬海流に流されても大陸や半島に渡りつけるであろう列島の西よりに移動し、そこから出帆するのがいい。その地は九州の唐津(時代が下がると長崎へ移動)ではないだろうか。
さらに、その探索は瀬戸内沿岸や、徐福伝説の残る、九州・四国・紀伊半島・東海地方。 北は、津軽海峡を太平洋側へと回りこんで三陸側へと進み、列島住人と交易できる宿場(や、市)を形成しながら、年一の神無月に出雲に「八百万の神々が集い」。時を経ながらも海路を主とした交通網を列島に作っていった。当時の出雲の先進性は、今の中央都市の東京のようであり、そこへ本社組織をおき、列島各地の支部組織と連絡をとりあったのではないでしょうか。
そして、ⅤとⅥでは、列島人と徐福分隊との関わり合いについて考えてみた。
ここまでが、<徐福について>の記事(Ⅰ~Ⅴ,Ⅵ)の概略です。
新訪問のお客さまの為に^^!
<↓以下~以上までは、前々の記事からのピックアップです。>
“蓬莱の地 に三神山日本列島 =蓬莱頭の仙人 縄文人” という情報は、朝鮮半島を経由して中国へ入っていたとしか思えず、徐福以前にも朝鮮半島から列島への渡来があったのではなかろうか。
特に、朝鮮半島の東海岸には『津』に関係する地名が多く魚の打ち上げを表す地名がある。
<魚大津・オデジン>
これは又、直接的でたいへん分かりやすい地名だ。魚が大量に打上げた。しかも大きな魚だ。
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<方魚津・パンオジン>
ちょっと閃きました^^! (この項 '15/10/19記) BC.2001/12/25. 日本時間で未明の朝6時ごろ、東北地方に巨大隕石が衝突した。(カテゴリー巨大隕石と大津波) それが発した巨大地震や巨大津波の来襲を半島の人達は「東方神起」と唱した。今、私達は自分たちの国のことを「日本・にほん・ニッポン」と云い「ジャパン」とは言わない。「ジャパン」は、外国人が付けた名だ。この<方魚津>の発音は、その「ジャパン」に似ている。<方魚津・パンオジン>とは、その方向から津波によって大量に打ち上げられた魚を言い表す意である。<津ジン、方パン>の国。それが「ジャパン」の始まり ^^! だと、素人探偵は断言できるのですが。 さて、貴方さまは、いかが^^?
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卑弥呼より500年ほど前だったかな。日本では縄文の頃。前記のような歴史的背景から秦の始皇帝(BC221即位)は、「徐福(BC278誕生)」という人に童男童女3000人を与え、東方の彼方へ出向き “不老長寿” の薬石・薬草を持って帰れと命じた。
古代中国の人々は “人を拒むような危険な場所や深山にこそ、その霊薬が秘そんであり!” との考えが強い?と思っています^^)
これは明らかに私の偏見ですが、中国の人って「その危険を好んで?“薬食”を求める」傾向があるように思います。深山にしか生えないという茸や、絶壁の岩ツバメの巣・くまの肉球・しかり、危険をおかしてまで手に入れた “薬食”ほど高価に売れる。なにもそこまでしなくってもねえ、と私は思うのですが?(^^!)
③ 列島の津々浦々へ散らばった、徐福達・秦(はた)の人は、珍宝薬石を本国へ送るための集荷地として、年1回、十月の<神無月>に出雲へ集まることを申し合わせた。
④ これに、列島各地の倭人達が徐福分隊と、どのような言葉を交わし、『八百万の神々』となって、海路陸路をふくめて<出雲>へ出向くようなったのか?の謎は解明できませんでしたが、今私達が「神」という神を秦の人達と、とるか銅鐸を求めに出雲に出かけた各地の太夫さん達と、するかは、別として、出雲へ八百万の神々が集まるというのは、史実に基づいた伝承である。(^-^)
童男童女3000人を引き連れて」とはいうけれど、Dr.>の云われるような可能性を考えると、現実的には<童男童女を含む3000人>に修正したほうが良いかも知れませんね。始皇帝は徐福の出立後9年後?(○○歳)で没しています。
列島では、丸太くり抜き舟がやっとの時、中国では、すでに○○人乗りの帆船を有していた。とは言え、3000人のこども達を分乗させた操船力・推力の弱い船団の全てが、ヨーイドンの横一列で出帆するわけでなく、海流の速い対馬海峡を渡って同じ地に着岸できるものではない。それから○○百年?後の遣隋使・遣唐使の時でさえ航運を祈るための特別な男(○○)をしつらえて航行が上手くいけば接待三昧♪、上手くいかなかったら、全ぇん~部、その男が役に立たなかったからだとして^^!その命を断ったという。いかに○○人乗りとはいえ未成熟な帆船。海流に流され分散して列島の日本海沿岸の各地(唐津?、萩?、出雲、石川、富山、あるいは秋田、青森まで?かな^^!)にたどり着いた。
この人達の目的は、その恐ろしき神が棲むという東方から『不老不死』の薬石を皇帝に持って帰ることである。童男童女を伴わせたのは、例え何代かかろうとも 「必ず持って帰れ!」との皇帝の強い意志があり。そこで安穏と定住したとの噂でも立とうものなら、たちまち皇帝の十万二十万の 大軍に討伐されてしまう。始皇帝は万里の長城を築城させるほどの強権の持ち主。その恐ろしさは云うまでもない。(その出帆の9年後? に没した始皇帝ではありましたが「あれほどの物資や人を持たせたのに、何故、徐福は<その妙薬>を持ち帰えらんのだ!」と怒ったそうです^^!。)
<徐福・その後>
徐福達は、例え何隊に分断しようとも<一段落>がつけば必ず沿岸沿いに西進、或いは東進して仲間達(徐福)を捜し合う。ブログ<いずものこころ>の記事のなかに『大勢の神々が天より下りて酒を酌み交わした』 というくだりがありましたが、素人探偵はこれを徐福達の船団が再開か無事を喜びあった場面だととらえています。そこで「我が着岸地にはこんな“モノ”が有りました」等の連絡・情報の交換が行われ東西に妙薬探しの為に行き来する航路がだんだんに出来あがる。そして徐福が居るべき本拠地も定まってくる。徐福は(?)、一時的に(?)かどうかは分かりませんが、薬石・物資を集める司令地として“出雲”に在住していたのではないでしょうかぁ? (出雲の優位性、先進性は、カテゴリー出雲地方; Dr.>とのやりとりへどうぞ・・)
賢明な徐福のこと。如何にすれば列島の珍宝薬石を集材し、中国に送り届けるための組織をつくりあげることは簡単なことだ。今の会社組織でも本社があり支店がある。創作話として、出雲に本社、支店を丹後、越前、富山、越後、新潟、酒田、牡鹿半島、艫作崎におく。(これ等は、思いつきであげましたが、要は今現在に発展しているところと竜神文化と出雲の神の影響があるところと申し上げておきましょう。何故ならば、この人達が日本海沿岸の発展に寄与したと思っているからです。)次に徐福のなすことは、要職をきめ・部下の配置転換。そして(童男童女の)社員教育。有力情報があれば支部への視察出張もしなければならない。さらには、本社で年一回の<支店長会議>を設ける。忙しい忙しい師走に!(笑)
<しかしDr.izumo氏とのやりとりから >
「童男童女を使わしたのは、例え何代かかろうとも」とか 「童男童女の社員教育」と考えたのは私の間違いであった。それを教えて下さったのが<Dr.の 次のコメントです。
『 私の推理はこうです。
彼らは決して日本列島の人々に文字を教えたり、中国語を教えたりはしなかった。
その理由は、彼らがプロとしてのエージェント教育を受けていたからです。日本列島の人々が漢字をたやすく使えたり、中国語を理解できるようになってそれを話すようになれば、特命を受けて日本列島にやって来た自分たちやその子孫と、区別がつかなくなるのです。
彼らはあくまで秘密結社としての集団性を維持する必要があったのです。いかに多方面に散らばろうとも、漢字を用いて中国語を話す人と出会えば、それはまさしく秘密結社の一員との遭遇であり、同胞との遭遇であると確信できるように、彼らの文字と言葉は彼らだけの間のものとして保持していたのです。』
<童男童女は被験用か?>
何故、童男童女3000人なのであろうか。わたしは、それを「たとえ、何代かかろうとも必ず持って帰れ!」との始皇帝の強い意志からだとした。だが、それだけであろうか? ドクターとのやりとりで強い疑念がわいてきた。不老不死の薬石は、“それと確かめてこそ、その価値が認められる”人類の歴史で<新薬の開発>には多大の時間と、費用と、多くの実験と経験を重ねてきた。それ(残虐性)と、口にするかしないか、向き合うか向き合わないかは別として、最終的には「人体実験」をしてのみその効能が認められる。
始皇帝の功績とその暴君ぶりは、Dr.>のほうがよく識るところであり、わたしは始皇帝が何を考え、どんな死生観をもち、兵馬俑や不老不死の霊薬を求めさせるに至ったのかをまったく知りません。それを逆に、お伺いしたいくらいです。始皇帝は、それを諫めた長男を追いやり、460人の学者を穴埋めにし(その中で、「自分たちで、その薬を発明し生き長らえよ」とでも言ったのでしょうか?)、その声は「狼(ろう)の如し」といいますから誰も抗らえません。少なくとも徐福は、自身の考えはどうであれ始皇帝が没する(9年後?まで)皇帝の意(?)に沿うような薬石探しをせざるをえなかったと思います。ご存じのように秦朝は12年後(汗~^^?これも後で調べます)で、滅びています。もとより始皇帝の“不老不死”の考えは無理な話しで多勢が受け入れない部分。その死後は急速にさびれ・・・、「後は野となれ山となれ」・・・、(笑)
<徐福;今までの概略>
さて、童男童女を含む3000人の徐福団一行は、対馬海流に流され、海の藻くずと消えながらも、千々に分団されたことが幸いして列島の日本海側に各拠点もできた。各々はお互いを捜しあい連絡をとりあい、とりあえず<出雲>にその本拠地をおいた。出雲を本拠地としたのは筆者の独断であり、むしろ史家は、その足跡の少ないことから徐福は出雲にはいなかったとするのがおおかたの見方のようです。(そうでしたね。Dr.^^?) わたしが izumo氏 のことを<Dr.と呼ぶのは、Dr.ワトソンと、シャーロックホームズをもじって、Dr.Izumo>と、Sher-rock.Homeless(降岩家無人)略して、Mr.ホームレスと名乗るようになりました。(アハハと、・・・泣き笑い^^!)
徐福団3000人のすべてが無事に列島に着岸できたとは思えない。
今から2200年余り前の航海力。最悪の場合を想定して、半分の1500人がそれぞれの地にたどり着いたとしよう(合掌)。1500人にしても大した数である。例え、一船団の30人?(or ○○人?)が着岸しても当地の人達はビックリ仰天する^^。
徐福団は自給自足の生活は覚悟の上ではあるが、難儀のあとの航海疲れもあり。そこに住民がいれば水や食料をくれないかと乞う。勿論抵抗すれば争いとなるが、住民側にすれば、びっくりが先で「何も拒む理由はない」そこで融和らしき関係が出来上がる。徐福団の場合、薬石の探索が主目的であり、中世にみられる植民地化を目的とはしていない。植民地化が行われたのはその地に自分達の欲しいモノがあると分かってから後のことである。そして住地・住家の獲得提供へと進めば、お礼として病人の治癒へと発展する。 列島の人達から見れば「神様がお出でなすった」(^-^!)
始皇帝は、徐福達に「不老不死の薬石と、その仙人を連れて帰れ!」と命じた。 その時、中国へ入っていた日本列島の情報は、「はるか彼方、東方の三神山に、水墨画にみるような蓬莱頭(ばさばさあたま)で不老長寿の仙人が棲む神秘の国」というイメージでしかなかった。いわば未知への探検である。中世ヨーロッパの歴史で、東方に「黄金の国ジパングあり」として船団をくり出したことはある。共に未知への出立ではあるが、それとこれとは大きな違いがある。かたや黄金という富を求めてであり、一方の徐福達は、富と権力は、すでに手に入れた始皇帝が欲するその薬石である。又、その構成人員にも違いがある。欧州の方は当然船をあやつる屈強な者たちであろうが、徐福達は“童男童女3000人”という断り書きがついている。中世でさえ海難はつきものの時代。それより○○○年も前の話だ。 何故に、童男童女3000人なのであろうか? それが解せない・・!
徐福達は、日本列島にどのような人がどの程度住んでいるのかは、分からずに出航した。一概に「不老不死の薬」と言っても、その対象が五十・六十歳の人か。三十・四十歳の人か、あるいは十九・二十歳の人かによって薬の処方は異なる。徐福が列島で自称120歳の人と、その人が服用していた“養老の水”だ。といって連れ帰ったところで誰も信用しない。さて、困った・・。
④ これに、列島各地の倭人達が徐福隊と、どのような言葉を交わし、『八百万の神々』となって海路陸路をふくめて<出雲>へ出向くようなったのか?の謎は解明できませんでしたが、「神」を現地集合の秦の人達と、とるか銅鐸を求めに出かけた各地の太夫さん達と、するかは別として、出雲へ八百万の神々が集まるというのは、史実に基づいた伝承である。(^-^)
(この項 '15/10/19記)→ 当初の「神」は、中国の人達であったが時代が移るにつれて列島神話人も加わった?
⑤ なにはともあれ、出雲は、永々として築きあげた列島本来が持つ<竜神・雨乞い文化>と、大陸文化が絡まり合って、『八百万の神々が集いて神議』をおこなう郡郷・中央都市へと発展していった。
<徐福、没する>
徐福が没したのはBC208年とされる。されると言うのは何処で何時死んだか不確かなようだ。そのことは専門家に委ねるとして、BC208年であれば始皇帝没から2年後で渡航後11年後となる。中国の史家、司馬遷(しばせん)によれば、「平原広沢の王となり戻らなかった」とあるようだが、帰らなかったのではなくて帰れなかったのである。始皇帝から大資を受けて「そのような霊薬はありませんでした」等といって帰ろうものならひどい処遇にあうのは目に見えている。事実、始皇帝の暴君ブリを知っている人達からすれば、「徐福はうまいことやったな」 というかも知れない。徐福にそのような下心があったかどうかは知らないが、徐福は列島に大陸にない美しさと神秘性にひかれ、住民のいう荒神伝承(前述の大事変による巨大地震と大津波)を聞けば、日本列島の何処かに“三神山”はあると信じて探しつづけていたに違いない。なかで静岡県にも徐福伝説があるというが、富士の山を見れば、きっとその形状に心を奪われたであろう。不二の山とは、列島のすべてを知る者ぞのみ付けられる山名であり、この山名は、列島の住民が付けた山名ではない。ちなみに「不」を先につけるのは中国語の特徴でしたよね^^。不知・、不客知・(笑い)
<徐福の没後>
徐福が亡くなったからといって、その配下やナンバー2はいたはずだ。不老不死の薬石探しを止めるわけにはいかない。彼等とて始皇帝の命を受けて渡航しているからだ。しかしながら、そうはいっても徐福が亡くなり、その命を出した始皇帝や秦代(BC221~BC206)さえも滅びてしまえば、その呪縛は?除々に解き放たれてゆく。だが仲間同士が神無月に出雲に寄り合うことは続いていった。9年のあいだに培われた海路はその後に発展したであろう陸路(古代陸路)とともに、中国本土や列島各地との商工路として機能するようになった。
富山の薬売り、近江商人、出雲の特殊鋼、○○の遠洋漁業のもとづえは、徐福達がなしたのだと私は思っている。そして端(はた)=秦(はた)=湊(みなと)の人達として歴史は流れてゆく。富山には今でも立派な内倉を持ったお家が残っている。そして、奈良の大仏殿の造営では秦の人達が財を寄進したというから、その人達はその後にも中国本土や列島各地との交易や工商によって蓄財をなしていったのかも知れない。
上記の“白砂青松”は、徐福達の初期の日本海沿岸行動と重なる。徐福達の目的は不老不死の薬石を探すことにある。それは<東方神起>の神の居場所を探す旅でもある。なぜなら、神=不老不死の考えに基づいているからだ。徐福達は、きっとその美しさと白砂の鳴き音に心を奪われたはずだ。一方、列島の住民達は、その白浜は四千年前の荒神竜が運んできたとの信仰(これは筆者の思いつきです)がある。 ここで双方何んらかのコミニュケーションがあったと思われるが、それが推(よ)めない。この徐福についての記事のなかでもくろんできた(謎Ⅱ)の「津の地名は何時誰が統一したのか?」に、全く関連づけられない!!
< 註 & 訂正 > 始皇帝について少し調べました。
始皇帝は不老不死を求めて、徐福より以前に二人の方士(薬石や施術によって医療行為をする人?)にその仙薬をつくらせようとしたが、もとよりそのような薬はつくれるばずがなく皇帝の怒りを怖れて二人は逃亡してしまった。これを怒った皇帝は見せしめのために460人の学者を穴埋め→トラウマにしてしまった。さらに、これを諫めた長男を格下げにし北方の警備隊に追いやってしまった。その後、徐福に3000人の童男童女(若者)と 百工(色々な職業のひと)と 五穀を与え、蓬莱(国)より不老不死の薬と、その仙人を連れて参れと命じたようです。
<今回、わたしは、これに、二つの持論を重ねて>
一つは、その遮光器は、BC.2001年の未明、釜石あたりに落ちた巨大隕石の強烈な光を目の当たりにして、眼底を焼かれた人々がいて、それが歴史の伝承として遮光眼鏡となったのではないかということ。これを導き出したのは、青森県・白神岳、秋田県境・真昼岳、山形県境・面白山、等の地名からです。これ等は巨大隕石と大津波によって、その表土を剥ぎ取られた<岩の手地方>を囲むような位置にあります。(詳しくは、カテゴリー巨大隕石へどうぞ^^♪)
又々、岩手県で、その時の巨大津波の痕跡見つけました。どうぞお楽しみに!
二つには、徐福( 年出航)の船団がこの地に来訪したと考えるほうが確率的に大きいこと。その土偶が身に付けている装身具は、あまりにリアリティであることから、徐福団の武人が着用していた武具を着せたのではないか。ということ。片方や、等身大8000体の武士俑がつくれる国。それも一人一人の面相が異なっているそうですよ! 此方ぁ(こなた)蓬莱頭(ほうらいあたま・ぼさぼさ頭)の仙人が棲むところ。 これくらいの物質文明(?)の差があれば当時の人達でも、『 宇宙人が来た!=別世界の神々さまが来た!』 と思っても無理もありませんね(笑)。
<徐福の立ち寄り場所>
いずものこころ -Yahoo!ブログ- 古代出雲『徐福伝説』の謎 2005/12/21 より、
↓以下を借用します。
徐福の出身は斉(現在の山東省)で、身分は道教の方士。神仙思想(東方の海上にある三神山に、不老長生のための薬を持つ仙人がいるという説)に基づく不老不死を実現するための呪術や祈祷・薬剤の調合に長け、医薬・天文・占術などに通じた学者でした。しかし、徐福は中国には戻りませんでした。
徐福の渡来地として日本のいろいろな土地が挙げられ、伝承が残っているとされています。主なところを挙げると、青森県小泊村、山梨県富士吉田市、東京都八丈町、三重県熊野市、宮崎県延岡市、佐賀県佐賀市、佐賀県諸富町、佐賀県武雄市、広島県宮島町、京都府伊根町、鹿児島県串木野市など、北は青森から南は鹿児島にまで及んでいます。日本には30もの徐福伝説があるとされています。
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↑以上は、前々の記事からのピックアップです^^!
徐福達が日本史に与えた影響、(前々の記事の)その概略^^! (Nov.09,2015)
次は筆者の独自案であり、思いつき感がつよいので、その道に詳しいお人の論評と訂正を求めます^^!。
〔 徐福達が関係した、そのひとつ々、〕
<中国(の正月)に仕送りするべく、年一に出雲に集合する交通網をつくりあげた。>
日本海沿岸と瀬戸内を幹線にして大陸への出帆地を北九州の唐津港とした。
後には、出雲を“中央都市”として、列島人(荷役人)を交えた陸路に発展していった。
徐福たちが提供するものの最たるものは、列島人が欲しがる銅鐸だったと思われる。
<中国五穀の種の持ち込みと、水稲の稲作に貢献した。>
彼等は永住こそ出来ないものの「たとえ何代かかっても」の言葉が生きている限り、定住しての食物生産は必要であり中国五穀や、野菜果物の種子も持って行きたい。今に列島で中国原産種といわれるものの中には、徐福たちが持ってきた物があるかも知れない。
<列島の薬石探査と中国の医呪術を施術、加持、試行した。>
方や、8千体の兵馬俑、十万二十万の軍隊を繰り出せる国。 こな方、蓬莱頭(バサバサ頭)の縄文人で小さな埴輪の土器出土の群郡。その圧倒的文明差をもつ徐福たちが求めるものは“不老長寿の薬石”。徐福たちにすれば、新しく見つける薬石の聞き取りやら、その処方を試してみたいが当然なこと。その被験体に列島人がなった。共に長生きが主目的。列島人にすれば病気を治して下さるありがたい神様仏様^^。前述の記事で各地に残る道祖神二体は、その夫婦かとした。
<住家の建材調達や建築、船作りを手伝わせた。>
徐福たちがどのような建材を求めどのような住家を建てたのか。筆者はまったく知らない。その時の縄文弥生の人達の住家は竪穴式住居だ。徐福たちの住居とするところは、船を係留できる港のちかく。今の湊・ミナトの地名はそのなごりかと。それと内陸にあっては“唐人山”にあるように山の頂上ちかく。それに対して列島の人達が住んでいたのは山と海川が交わり、その両方の幸を得ることができる丘状にあった。この二つが共に居住区を同じにして交えることは決してなかった。が、徐福たちにすれば、大陸へ渡る船造りは必須条件であり、その建材を求めることは重要だ。人手もいる。大海へ繰り出したという江州人や、ソマ(木へんに会)の地名やいかだを組んでの川くだりは、そのことに関係しているとにらんでいる。それからブログ<いずものこころ>であった「なにやらの木をなにやらの神さまが(大陸から?)持ち帰った」 とありましたが、それは幾度かの往航の後、あれこれと追加で持って行きたい物の中に、水に強い桧の苗があったのではないでしょうか。
<陶器や織物づくり(にも関係した。>
陶器や織物造りは徐福たちにとっても生活の必需品。ガマのお綿の因幡の白兎の話に始まり雲州木綿や、備中綿の種は、その人たちが持ち込んだのではと思っています。ちなみに、中国やインドは綿花の大産地で、とくにインド綿は良質のものがあり。陶器は、多岐にわたりそうなので、ここではノータッチします^^!。
〔関係しなかったもの〕
<食文化>
外国の人が日本に来た場合、反対に日本人が外国へと住んだ場合、一部の例外を除いて、食文化は中々交わらない。味覚というものがどのようにして覚えられ刷り込まれていくのかは分からないが異国に住む時、集団や、仲間うちだけで生活する場合は、ほとんど食文化は交わらない。ちなみに、欧米人のうちには日本人のことを魚臭いと思っている人達がいるし日本人は欧米人のことをバタ臭い人達と思っている人達がいる^^!。
<宗教及び信仰>
仏教がいつごろより日本人の内に入り込んだのか、筆者はまったく知らない。逆に徐福たちは、日本のことを「東方三神山」四千年前(注;除福からは○千年前)の大事変発祥の地ととらえている。徐福より○百年後の卑弥呼の代になっても魏志倭人伝では、列島の稚児を生け贄とした雨乞い儀式を見聞きしたのであろうと思うが、卑弥呼のことを「鬼道に事へ、能く衆を惑わす」とある。徐福たちは、東方よりの“四千年前”の巨大津波と大地震によって良渚文明を一瞬にして滅ぼした(奥州市・岩淵先生)中国の歴史を伝聞しており、その恐ろしくもある未知の地への薬石探しが目的であり、“列島に既存している四千年前の大事変をもたらした荒神を主体とする信仰”には関係していない。しかし、中国大陸まで伝わった大地震や大津波をもたらした、その恐ろしき神には興味があり、その事変を列島の人達から聞き及んで龍画としてモンタージュした。 竜は中国発ではなくて日本発の逆輸入(史実探偵)なのだ!!中国の為政者のうちには、その龍を討伐すること(龍の舞)によって政治をおさめる考えがあったと筆者はみています。西安8千体の兵馬俑は、東を向いている。さらに、中国にある朱塗りの寺院は、日本の東北の空を飛翔した巨大隕石の朱であり、ミドリ成す唐草模様は、日本発の巨大津波の色だ(としました^^!)。
<教育。 とくに漢字や言葉は教えなかった。>
特に、この項は素人探偵の思いの及ばなかったことであり、御教示を受けたDr.いずも氏の言を再び掲載します。
『 私の(shigechan izumo氏)推理はこうです。
彼らは決して日本列島の人々に文字を教えたり、中国語を教えたりはしなかった。その理由は、彼らがプロとしてのエージェント教育を受けていたからです。日本列島の人々が漢字をたやすく使えたり、中国語を理解できるようになってそれを話すようになれば、特命を受けて日本列島にやって来た自分たちやその子孫と、区別がつかなくなるのです。
彼らはあくまで秘密結社としての集団性を維持する必要があったのです。いかに多方面に散らばろうとも、漢字を用いて中国語を話す人と出会えば、それはまさしく秘密結社の一員との遭遇であり、同胞との遭遇であると確信できるように、彼らの文字と言葉は彼らだけの間のものとして保持していたのです。』 又、氏のコメントで 『クラスター爆弾のように列島に散らばった除福たちではあったが 弥生式土器に残された文字は極めて少なく、その上にひとつの土器に一文字くらいのものが稀にやっと見つかっている』 との不思議を言われている。
ですよねえ~。通訳を含めて “不老長寿の薬石やその探索” に来たとは、列島人にベラベラと喋れない^^!。徐福は、3千人の童男童女。あるいは、童男童女を含む3千人を受けて列島に渡って来た。例え、徐福が列島から自らを120才を越えた。あるいは、それ以上という仙人を中国へ連れて帰ったところで始皇帝(誰も^^?)は、信用しないし出来ない(笑い)。さすが、白髭三千丈をいう気の長い中国。3千人の “童男童女は、長命実証用” として連れて来たのだ。この件は、当記事の本題であるので、・・・つづきは後へ回します^^!。
< 政治。港湾を除いたインフラ整備>
史学の多くは、列島で名ある神々や為政人の中には、政治に携わったとする大陸や半島人を挙げる向きがありますが、筆者は例外を除いて、彼等は政治に加わることはなかったと見ています。圧倒的文明差や病の治癒をしたことにより、現地人からは神様仏様と崇められた徐福たちではあったが、大陸との往航を重ねるうち豪商とは成りえてもても、決して、列島人を統利する長にはならなかった。否、なれなかったのである。「その声、狼ロウの如し」という始皇帝。殺生与奪を欲しいままにし、長命の薬石の作成を命じた方士(薬石や施術によって医療行為をする人?)2名がトンズラしたことを怒り、460名の方士に「お前達でその薬を作って生き永らえよ」といって穴埋めにした始皇帝の恐ろしさは骨の髄まで染入っている。列島の長となり安穏と暮らしているとの噂でも立とうものなら、十万二十万の兵を繰り出されて、たちまちのうちに討伐されてしまう。例え、始皇帝が亡くなり秦朝が滅びたあとでも、大資をうけて出立したてまえ、人々「何を云うやら」分からない。それより何より、徐福のプライドがそれを許さない。徐福はその薬石を探して列島のどこやらで(?)果てている。徐福たちは例え何代かかろうとも、その根底は “サバイバル”であり、そのサバイバルに港湾を除いてのインフラの整備は必要ない。
<秘密性の 特に高かったものⅰ~ⅲ.>
この項は、とくに筆者の独自性が強いので専門家のご批判を望みます^^!。
今、筆者が論じているのは、卑弥呼より○百年も前の徐福(代)以降の話であり、日本では縄文弥生の時代だと、あらかじめお断りしておきます。
秘密 そのⅰ. 銅の鉱材造りと、その加工
このブログのカテゴリー出雲地方で述べたことですが、彼等は、銅の鉱材加工を銅の精錬には公害を伴うため隔離した場所・大社町、島根半島の山中の<別所(←地名)>でしたとしました。しかし、この度の(出雲市)間屋・西神湖の調査で、大社町のほかの神門町にも<別所>の地名があることを知り、この場所が当時の海の中にあったかどうかは分かりませんが、(地名の多い)人家の多い所にあります。これによって少し考えが変わりました。鉱害ではなく機密を保つためではなかったか?と。
なぜ、<別所>との地名をつけたのか?
この地名が「いつ、どこの、誰が付けた」のかは確定できない。しかし、今までに述べた出雲市に神代から付けたかと思われる特異地名はワンサカとある。その中にあっての<別所>である。この地名は徐福たちが付けたのか。それとも列島人がつけたのか? ここで、特に考えておかなければならないことは、徐福たちは、先のDr.が言われた「秘密結社」である。表立った行動をしては、ならないのだ。彼等は、列島の付名には殆ど関係していない。例えば「秦」の地名だ。中国よみでは「シン」と読む。これを日本語よみでは「はた」と読むことから、筆者は傍らの「端はた」に住む人達だとした。この例に代表されるように、列島では彼等が関係する地名は見かけ難い。人口が多ければ、先住民の地名を使っている。東北地方に数字付きの地名が多いのは、人口が少なく地名が付いていなかったので、番号付けの地名を振ったかとした。
余談になりますが、(特に中学生諸君に^^!)北海道では、思いの外、小地域で地名が密集している。(国土地理院5万分の1地図)。これは、アイヌの人達が土地自体を神と考える信仰ありか?としました。
<別所>とは、何に対しての別の所か? 何を成すところか?
神のオワす所か?。違う。 それは、神座とか。大社とか。盤座。御座・・・・・神庭^^! 等という。では、異人さんの住む所か? これも、しっくりこない。自分達が外国人であり、地元の人からは、すでに<秦はた>傍、端、で住む所の地名で呼ばれている。 徐福たちは、百工と呼ばれているよろずの職業の人達を引き連れて渡航している。衣服であれば<服部・はっとり>とか<織部・おりべ>。陶器であれば<陶・すえ>のような地名を付けて。これらが、さして機密性をようするとも思えない。住家や造船においては、ことが大きく人手(手伝い)も要すことから、機密性は保てない。
以上のことを考え合わせると、祈祷のための別場所か?と、銅の鉱材加工場 が残る。列島人においては、すでに雨乞い儀式で荒神を呼び寄せ、それを銅鐸へと乗り移らせるための、お太夫さんの修行として滝行とか徒歩行(かちぎょう)がある。最後に残ったのは“銅の鉱材加工”。
<銅材について考える>
歴史をみると、石器時代→銅器時代→鉄器時代へとつづく。石器においては、打器にはじまり、石刃、矢ジリへと移っている。銅材においては、その融点が鉄より低いことから、鉄より先に発見された。ここで、大切なことは、銅は大陸からの移入であり、列島で発見されたものではない。
大型のイノシシや、鹿を狩るとき、石斧ではトドメを与えることが出来難い。その点で、銅の刃では、心臓まで届く突剣が作れる。大陸の出土品が殺傷用のものが多いのに対して、日本では祭祀用として発達している。このように銅材に対する考えは、大陸人が戦闘の実効用とするのに対して、列島人は神や権威の象徴用として用いているように全く異なる。もちろん銅材は中国においても大量に簡単に手に入るものではなく、鉄に対してさえもその希少性は高い。その銅材を得るための鉱石が出雲半島では、先のDr.Izumo氏>言で、「ゴロゴロと転がっていた」と、言われていた。それを徐福たちが見つけないはずがない。
ちなみに、鉄器のほうですが、
鉄は、銅の融点に対して、約500℃ほど高いだけであり、その温度をつくり得れば銅の精錬より、はるかに簡単であり、木炭と砂鉄を交互にして皮革のフイゴを使うタタラ製鉄では素人でも体験できるとか^^!。出雲の“安来鋼”は不純物が少なく品質の良いことで有名。
出雲の優位性は、銅鉱あり、砂鉄あり、おまけに少量ですが石炭の露頭まであると聞いている。それに、火山・三瓶山・大山ありの温泉あり。それから作れる温泉の花。 海は、浅海・宍道湖での魚場ありいの、
<徐福隊の工人は、“別所で”その鉱石で銅材を精錬した>
何故、徐福たちの工人は、その精錬を<別所>で成したのか?
一つに、列島人が銅材で武器にするのを防ぐため。
彼等のうちには、銅材=武器の考えがあり、列島人がそれを知り得て武器をつくりだしては、ちょっとまずい^^!。 当時の銅材は、今でいうウランの精製や核兵器のようなもの。極力秘密にして教えたくない^^。では何故,人里多い出雲市○町に<別所>の地名があるのか。これは、大陸人(や欧米人)と日本人の“防犯意識の根本的な違い”にある。大陸では略奪にそなえて実効的な壁や塀を造るのに対して、薄れたとはいえ(今でも?)日本人のうちには、「境内」の思想が潜在しており、一度そこを境界と定めると 決して侵してはならない考えがはたらいている。
二つに、商いとしての希少性を保つため。
当時の、列島人の群郡では、雨乞い祈祷の為に○○から→銅鐸を使用する過程にあり、大陸からの銅材製品はとくに魅力的であり、是非に欲しいもの。そして一度手に入れると段々と大きくて立派なものに作り替えたい欲求があった。そして、当時の列島人には、たとえ離れて交流のない群郡であっても“四千年前の巨大津波や大地震を共に経験”しており、それは“荒神様”が行為したとの共通した認識がある。その神を呼び寄せ乗り移させるための銅鐸は是非に欲しかったのである。徐福たちは、それに応えた。交換として、珍宝薬石の探索案内やら、荷役等の協力を頼んだのである。こうして、銅鐸は、列島の各地に拡散していった。この銅材作成の機密性は、奈良の大仏の作成では○秦の豪商の寄進があったと聞くからおそくまで機能していたのかも知れない。
「銅鐸の出土している所に、徐福隊あり」
徐福自身がその地に出向いたかどうかは別にして、銅鐸は、東海の浜松あたりからも出土している。不二の山・富士山は、列島の全てを知るものぞのみ付けられる山名だ。「不」をフ、プ と発音するのは大陸の発音であり、徐福隊は東海地方へもその探索を広げている。と前述した。
秘密 そのⅱ. 新薬の試用と結婚
徐福たちは、自身も長生き実証の宿命をおっており、新しい薬石を試す時は、新薬として列島人に試用したと思われる。そして、列島人と血を交えることはしなかった。だが、その結束も時代が下がるにつれ、薄れ去り、今では、史学でさえ、その史実を忘れ去り 徐福たちを 「伝説だ」と云っている^^!。
(長々と駄文を連ねましたが、次からがこの記事の本題です)
秘密 そのⅲ. 長命実証用としての童子たちを<養父・やぶ>に隔離して育てていた!!
<養父の地名を検索する> (Nov.09,2015~ 記)
徐福たちは、長命実証用としての童子たちを<養父・やぶ>に隔離して育てていた。
次が、今回調べた養父の地名がつく場所の7箇所です。
日本国内のランドマークより
①兵庫県養父市養父市場 養父神社-ビル ⑤ 愛知県東海市養父町2丁目16
兵庫県養父市薮崎字唐木 愛知県東海市養父町義神
兵庫県養父市別宮 愛知県東海市養父町釈迦御堂
兵庫県養父市新津
④大阪府枚方市養父元町
③広島県宮島市宮島町養父 ②岡山県倉敷市玉島乙島養父
⑥佐賀県鳥栖市養父町 ⑦徳島県鳴門市大津町木津野字養父の内
<なぜ、その地を[養父・やぶ]というのか?>
何時、誰が付けたのかは知らないが、考えてみれば、ずいぶん不思議な地名である。古今東西“子”の無い夫婦は、たくさんいる。その人達がこどもを欲しがり養子を迎えたとする。その行為があったところに「養父」の地名を付けたのでは、列島のそこら中が「養父」だらけになる^^!。歴史において、中国の大家同士が実子のやりとりをした例があると聞くし、日本の戦国時代で人質的に幼子を迎えて戦争抑止力としたことはある。しかし、そのことで、そこに「養父」の地名は付かない。その行為は、すでに社会的基盤ができあがった後のことであり、すでに「他」の地名が付いているからだ。くどいほどに言いますが、史学では、「地名」を「物証」に比べて一ランクも二ランクにも下に扱う。「地名」というのは、一度その地名を付すと中々変えがたい。もし、この私くしが勝手に地名を変えたならば、[あんたの言う“○○”は、どこよ?」と、なり混乱を生じる。「養父」は、「山、川、野、原」のような一般的地名とは異なり、人がなす行為によって付けられた地名であり、地名としては、かなり特殊な地名である。その地名が今回調べただけでも上記の7箇所あった。しかも、それ等の地の列島人のお互いが社会的、人的交流があったとは思えない。・・今日へとつづく^^!、
<徐福は3千人の童男童女を連れて列島にやって来た。>
次は、素人探偵の推理・想像の作り話です^^!。
徐福が童男童女を連れてきたのは、“長命実証用”のためだ。3千人の童男童女か、徐福団3千人の内に含まれる童男童女かは分からない。しかし、それでは話が進まないので、童男童女を含む3千人としよう。その3千人の大船団が、ヨーイドンの横一線で出航しない。隊列を組んで出発する。いかに、文明を誇る秦代の船であっても、推力は弱い。ごく近世まで「潮来一枚下は地獄」といわれた大航海。その内の千~千五百人は、海難にあったかも知れない。3千人の全てが列島に着岸出来たわけではない。そして、強い流れの対馬海流は彼等を分断した。さらに悪いことに、彼等は多くの食料を持たねばならず、実りの秋の米麦の収穫を終えてから出発する。これは台風の時期にかさなる。筆者は、大陸からの進出の度々が阻まれたのは、このことによると見ています。
事実、徐福隊の第一回目は、その大鯨(=台風)によって阻まれている。“四千年前の”巨大津波と大地震を経験し、神風を発し、その行くてを阻む“東方三神山”の神秘性は、ますます増してゆく。深山のレイシ、熊の手しかり、切り立つ断崖のツバメの巣しかり、神秘性があり、危険を伴うところにこそ、その仙薬ありとするのが中国人の心意気だ^^?。
<徐福船団の編成>これも作り話です。
命カラガラではあるが、その内の1500人(とする)が分断されながらも列島に漂着した。一船の乗員をこれも仮で30人~60人としよう。徐福は、百工を伴ったとあるから、その内には色んな職業の人がいたに違いない。徐福たち方士はもちろんのこと、武人、船乗り、大工、陶工、織部、鍛冶、農工、そして、“長命実証用の童子達”の、面倒をみる婦人達。
<会社組織の作成>
分断した徐福たちは漂着した初期の生活が成るようになればお互いを捜しあう。彼等は徐福の元へ集結し、無事を喜び、情報を交換する徐福は(前述の)出雲の優位性から出雲に本拠地を置くことにした。徐福は、多勢を失いながらも人員を再編成し、出雲を本社とし、列島の各地に薬石探しのための支部をつくった。そして、年一の年末の前に出雲に集まるように指示した。今、私達がお土産を持って年末に大移動するのは、このことに起因しているのかな^^(中学生諸君に、笑い)。これは、後の商港や航路として発展する。徐福のもと各地に配置配属された人材は一様ではない。薬に長けた人(越中富山の薬売り?) 船作りに長けた人(竜神丸を繰り出した江州人?)特に、列島の遠く東北地方へ送り出す人達は、未知の々であるから操船に長けた人達で武人がいい?(八戸の遠洋航海)。()内は筆者が勝手に関連づけました^^!。 先の記事では、東北地方から出土した遮光面土器は、徐福たちのなかの武人の甲冑を列島人が写したものだとしました。他に、蕨手刀(持ち手がワラビの形をした刀)や、○○の土饅頭墓は中国の影響を受けたのではと見ています。
徐福本人は、といえば出雲に定住出来るものではなく、耳寄りな情報を得れば列島の各地へも出向きたい。このように徐福を“秘密結社の社長”とした会社組織は、列島人と係わり合いながら、熟成しながら、時は流れていったと思われます。中で、出雲から中国山地を越えて瀬戸内(吉備)や、日本海航路を経て、愛発関を越えて琵琶湖(近江)へも進出したのではないでしょうか。
<さて、本題の“長命用の子供たち”を何処に住まわせるか??>
この子達を何処に住まわせるか。この子達は“大切な、々な、長命被験用”である。
出雲に住まわせたいところだが、出雲にあっては列島人が多く在住し、それとの混在は避けたい。そこで、すこし離れた兵庫県<養父市>に“センター?”を置いた。ここなら日本海列島の中心にあり住環境もよさそうだ。この子達の歳がいくつで、その連れてきた総数が幾人かは分からない。
・・・仮に、その歳は七才前後で、これも仮の々で100人にしておこう。
その百人の全部を養父市 一箇所に住まわせる分けにはいかないので、既成のグループを母体として十人、五人と分けていこう。徐福団のなかには、当然若者夫婦もいるし、既婚者もいる。すでにその歳に該当する子もいるし新しく出生する子達もいる。その区別は難しいところだ。なにはともあれ、(そこ以外にもあるかも知れませんが^^!)上記の7箇所に 分けた。とする^^! ところが、5人を過ぎるあたりから、列島人の目には「子沢山だなあ」と奇異にうつる。
<養父>の地名は徐福たちが付けた地名ではない。
何故なら、自分達は養父母ですとは言っても、この地は「養父・ヤブ」ですとは言わないからだ。「養父・ヤブ」の地名は、その人達が住んでいた所を指して列島人がつけた地名だと断言できる。このこと一つとっても、いかに徐福たちが秘密裏に行動していたかを窺い知ることが出来る。
<「ヤブ医者」の由来を考察する。>
普通に「ヤブ医者」という言葉は、見通しの悪い籔の先にたとえて、それを揶揄する言葉だと受け取っている。もとはと云えば「ヤブの医者」は、そうではなくて真逆であった。徐福達のなかの方士(医療や呪術によって病気を治す人)は、大陸の圧倒的、先進的な医療を行う人達であり、列島人との関わりのなかで難病も治すし、新薬も試したい。列島人にすれば、ありがたい、々い、神様仏様である。その人達は幾人かの養子を育てていた。先の記事では、『如来様と、その脇に描かれている“童子の仏画”は、徐福の方士女人達を列島人が言い伝えて描き記したものだ!』 と、しました。
<長命実証用の童子達の隔離施設か??>
広島県宮島市宮島町養父 , 岡山県倉敷市玉島乙島養父 ,
(残りの4ヶ所は調べていませんが^^!)この二つの場所は、明らかに兵庫県の養父市とは異なる条件の場所にある。倉敷市玉島乙島の養父 ,は、今では陸中にあるがその昔は、海で囲まれた島であった。この二箇所をその “隔離施設” だと考えた理由は、共に本土から見れば、その反対側にあり、列島住民からは、見えない場所にある。何故、徐福たちは、このような場所で童子を育てていたのであろうか? 徐福たちの使命は、長命用の薬石探査が目的であり、良かれと思われる薬石が見つかればそれを子供達に試さなければならない。中には「良薬口に苦し」というように、苦いものもあったに違いない。しかしながら、相手はこども。いやがって泣き叫ぶだろう。薬石の中には長期に服用してこそ、その効果を発するものもある。嫌がるこども達に無理矢理飲ます。
その様子を列島の住民には決して知られてはならない。そして子供達が大きくなり、物心つけば、逃亡を図るものも出てくるかも知れない。さらに、もう一つ加えれば、その島は、江戸時代にあった遠島島流しであってはならないのだ。遠すぎれば、その行き来に大変だ。この三つの条件にあう所で、本土に中継できる港湾が近くにある場所としてこの二つの地を選んでいる。
< 結 び >
<養父・ヤブ>は、徐福たちが “長命実証用” の子供達を育てていた場所だと断言します。
その後、その子たちがどのような運命をたどったかは分からない。このほか<ヤブ>と発音する地名を探せば、きっとたくさん出てくるに違いない。そこが、徐福たちと直接関係あるなしは別として、それ等の地に残る イワレや行事の調査の続きは、その地の歴史をよく識る貴方さまにお願いしたい。
愛知県東海市養父町
大阪府枚方市養父元町
佐賀県鳥栖市養父町
徳島県鳴門市大津町木津野字養父の内
こどもの頃、何故、その地を「養父ヤブ」と言うのか?と不思議に思ったことは誰にもあるはずだ。何故、何故、を三つ重ね深く追求しなければ、その祖先からの伝言は貴方には伝わらない^^!。
上記の4箇所は、今回調べられませんでしたが、私くしの目的は、地名という祖先からの伝言に気付いて頂き、専門家やその地をよく識る貴方さまへその追求解明へのキッカケを与えることにあります。列島の各地に不老長命の薬石を探すべく散らばった徐福達のなかの“方士達”夫婦や童子達は、その“道祖神”二体として刻まれ、仏画の“如来様”や童子として描かれている。
又、徐福が伴った兵士達は、列島の<四千年前の厄災や雨乞い文化>と合いまみえ毘沙門天や仁王様のモデルにもなっていると前述してきた。それが卑弥呼を ン百年も遡る、列島の縄文期であることが問題なのだ。 もし、このことを史実として受け入れ難い史学や仏教界の貴方さまがおられたら、その貴方さまにお尋ねしたい。一ヶ所ならともかく、その地名は列島の何ヶ所にもあり、「養父という地名の‘現存’を何んと考えられますか?」と。“ヤブ”と発音するそれ等の地が、市とまでになった<兵庫県の養父市>を中心として“コラボ” され^^♪ この拙い報告書に含まれる誤りを正し、さらなる歴史の解明へと 導いて下されば幸いです。 (~ Dece.01,2015) □
尚、この「徐福」の記事は、初頭にも述べてありますが、その名前はおろか存在すら知らなかった筆者に、ご教示してくださったブログ<いずものこころ>Shigechan izumo氏、なしでは成しえなかったことであり、氏に敬意と多大の謝意をここに表します。→拙ブログにもリンクを張ってありますので、徐福について詳しく知りたいお方さまには、是非の、ご訪問をお勧めします。
史実を探偵する; 平 素人 より、
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* 徐福達が日本史に与えた影響、 そのⅠ~Ⅵ → 当記事Ⅶは '16/5/28に発表しました^^!)
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