卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」
此処に出雲と同様、“大量の銅剣”が埋めてある! 全国歴史ファンの方々、三上山に集合せよ。
「吉備」にも、卑弥呼の大量の銅剣と銅鐸が埋めてある!
「吉備・地方」という言葉を一概には限定出来ませんが、古代では、おおむね岡山県南の総社市にある、吉備津神社や、吉備の古墳群・国分寺・吉備ノ真備の生誕地あたりを中心にして栄えた地方をいうようです。 いきなりで申し訳ありませんが、当地にも雨乞い文化を伝える地名がのこっており、『必ず大量の銅剣と銅鐸が埋めて“封印“してある』、との推論に至りました。そのまえに今一度、謎解きの概略を取りまとめておきしょう。

 出雲と、野洲と、神戸で大量の銅鐸がヒレという部分を寝かせて埋めてあった。
その出雲で358本もの銅剣が出土している。 「共通の文化があれば共通の事象あり!」、 であるならば、出雲と同じように、野洲や神戸でも大量の銅剣が埋められている。では、それが何故、卑弥呼に結びつくのか?、銅鐸文化から、銅鏡文化への変換・変遷は何人も否定できず、その 「変換点」 に、魏からの銅鏡100枚があり、卑弥呼がいる!

 <出雲の、大量の銅剣の出土地から、野洲と、神戸のその埋め地を類推!>
 出雲では、   斐川町・荒神谷、谷奥の南向き斜面から、       出土した。
 野洲町では、 三上山と妙光寺山に挟まれた谷奥を5・600m登った所(卍印)!を予測、
 神戸では、  灘区・住吉川上流で大月地獄谷の谷奥、南向き斜面墓地辺り?を予測!!
 総社市では、         どこに・・、埋めてあるのか         ???、

 野洲と神戸の大量の銅剣の埋め地を、どのようにして割り出したか?といいますと。
出雲の大量の銅鐸の出土地゜「加茂岩倉」から大山282mと、大黒山315mの、ふた山越えた所に大量の銅剣が埋めてあった「荒神谷」があります。直線距離で約4km(一里)あります。

 キーワードは 「大量の銅鐸の埋め地より、一里(=離)ほど西へ行った所の荒神谷」 だった。

野洲の場合、大量の銅鐸が埋めてあった「大岩山」から妙光寺山・三上山の谷奥へはぐるっと西の方へ回って約一里?かな?、と思っています。 谷の名前は調べていませんが、この谷の入り口に池があり「なにやらの神様?」を祀ってありますから、おそらくそれが荒神関係なのでしょう。
神戸は、手元に地図がないので詳細には言えませんが、大量の銅鐸が埋めてあった「桜ヶ丘」「いわや」から、その西方の「地獄」の谷名を見つけました。地獄谷は、「大月地獄谷」と、ただの「地獄谷」があるようですが、距離や規模、源流のあるなしから「大月地獄谷」のほうをえらびました。ここ迄が今までの主な概略です。

これを念頭に、本題の「吉備の地にも大量の銅剣はあるのか?」へ、謎解きの舞台を移すことに致しましょう。 
 「砂川?、の不思議」
総社市に「経山」から出流し、「足守川」へ流れ込む支流に「砂川」という名の付いた川があります。 足守川は、秀吉がこの川をせき止めて高松城を孤立させ兵糧攻めしている最中に、本能寺の乱があったといえば、ああそうかと思い出されるとおもいます。 (岡山市)足守は、秀吉の正室「ねね」の実家、木下家があるところでも知られています。近時のニュースで、この木下家で故意に割られた?硯箱がでてきて話題になりました。

 さて、その「砂川」ですが、 つづく・・、
川幅は、広い狭いはありますが平均して20mほどでしょうか?、 この川の川底は、その名のとおり草や砂をさらしていて、常時に水が流れてはいません。 枝分かれしたこの川の上に砂川公園があり、さらにのぼっていくとため池がありますから水稲の潅漑用水なのでしょう。 ここまでは、別にめずらしくもなく、なんら取り上げることはありません。 しかし、この川の両岸の堤防は、そばにある二階建ての民家の屋根よりも高く積み上げられており、その土量は大変なものです。分水嶺域をみても、せいぜい3・400m高さの山が三つ四つで洪水用の為とも言えず。ちょろちょろ水が流れればいい川の堤防造りに、なぜこんなに不必要で多大な労力をかけたのでしょうか不思議でなりません??

『総社市の砂川に行ってきました』♪ ‘07、12,16(日曜日)に!、
 目的は、①砂川の調査と、②大量の銅剣が封印されている場所を特定しに!
その日は肌寒いながらも、わりとよい天気で、ぽっかり雲がふわふわの感じで、目指す「経山キョウヤマ○○m・鬼の城キノジョウ○○m」が、遠くからでもはっきり見えます。 この二つの山は、吉備高原の南端にあり総社市街の北側に位置します。今までの謎解きの経緯(報告書本文)から、銅鐸の埋め場所は「岩」つながりの「岩屋」だとし、銅剣の方は、その南西の経山にめぼしを付けていました。 この日の主目的は、②の大量の銅剣の埋め場所捜しですが、なかなかその一歩を踏み出すことができませんでした。その一番おおきな原因は、出雲で荒神谷・神戸で地獄谷というように「墓泥棒も恐れる」ほどの場所だったからです。祟りという言葉すら風化した今日とはいえ、1700年余り「それと知り得た者は」、決して足を踏み入れたことのない場所です。 正直言って恐ろしい! その一歩が踏み出せない!

 その「一歩」を踏み出すきっかけと、勇気をくださったのは、□□○○所さんです。
「大量の銅鐸の埋め場所を予測する」から10年経過。 「卑弥呼が封印させた大量の銅剣」のブログでの広報をはじめて6カ月。 その広報の投稿は削除され!、次回はアクセス不能!。
悪いことにその広報文に添えて、「10年来の広報に、大学・行政・新聞社のすべてが、梨の礫!、無視されます。“そんな良識より”、それを掘り上げるにあたっての最大の難関は、文化財保護法と、その調査費用は全額地主負担ですね?」 とやったのがわるい。 良識がなかった。反省します。 しかしながら「これが」オブラートに包まれていない、この報告書への真の評価だと知りました。 なにしろ、1700年の歴史が相手だ!!
□□○○所さん、噴気をありがとう。 実績のない素人がゴタクを並べるより、先ずは実績!
 つづきをお楽しみに、

 そこへは、総社市を通る国道180号線から北へ「鬼の城・岩屋」の案内標識を見てすすみます。市街地からは○○km程、いわゆる「人里離れた」ところでしょうか。砂川公園の管理事務所があり、そこで確認のために「経山へ行く道順」を聞きました。砂川公園にはキャンプ地や、天然の流れを利用したジェットスライダーがあり、夏には家族連れでにぎわいます。 そこの上にY字路があり、右へ行けば鬼の城・岩屋へ。今日は左の経山方面をとります。○kmほど上った所かな。そこに車20台程の駐車場があります。「鬼の城」のにぎにぎしさと比べ閑散。 それでも車2台が停まっていました。 さらに右手の谷間を○○mほど上がると車5・6台の駐車場。その脇に公園風の砂防ダム(石積み長さ61m)が見えます。 一帯は明治末から大正時代、はげ山で降雨による洪水や土砂災害が度々あり、治山のために巨費を投じたようなことが書かれています。

一帯は総社市の管理地で、「黒尾地区・西谷、くろお・にしたに」とあります。西谷によみがなをふったのは、出雲の荒神谷遺跡の命名時に、正式な地区名の「神庭・西谷、かんば・さいたに」するべきだ。等の案があったようです。何故、「西」を「サイ」と読ませるのにこだわったのでしょうか? 連想できる言葉に「賽の河原」があります。 概していえば、管理事務所の小父さんが(私を)不審者と(笑)思ってか、見回りにくるほどの寂しいところです。
別事になりますが「神庭・かんば」は、備中地区・高梁川水系にもあり、「出雲・仏教山、総社市経山」のように、出雲と吉備の地には、その共通名がたくさんありますから捜してみて下さい。

 「腹がへっては戦ができぬ」用意した弁当をとって、
ここからは谷間の流れに沿った徒歩道を上がります。10分ほど上がったでしょうか? 道しるべがあり「この先、直進は遊歩道ではありません。経山城址へは、右方向の斜面を登って下さい」、一瞬、迷いましたが、「経山に登って、その西の谷間を眺めれば“大量の銅剣”が埋めてある所がわかるかも知れない!」、と思ったのが間違いのもと! 徒歩道として、丸太の整備がところどころに為されてはいますが、山歩きに不慣れな筆者にはキツイ! ところどころにシダ草が裏を返して手折られている。これは山歩きの修験者が迷い道をふせぐために為したのか? 心配になってくる。 それでも小一時間は登ったであろうか。送電線の鉄塔に着いた。 眺めを楽しんで、対面に目指す経山がある。

もう少しだ。急な坂を5分も上がると、今度は山の中腹に沿って歩く道。これをまっすぐに行くと「鬼の城」方面にいくのは見当がついている。 途中、山手には整備のための古い石積みがある。写真に納めた。出雲でも賀茂岩倉と荒神谷を結ぶ山中道があるというから、その道かな? と思いながらも30分! 相変わらず裏白が手折られている。目指す経山は谷を隔てた向こう側に見える。 もう止めた!(笑) その銅剣が埋めてある「西谷」から遠くなるばかりだ。引き返そっ!、さっきの鉄塔のとろで休憩していると、と!なにやら下方で人の気配!、ビックリしたぁ~、マウンテンバイシクルを押して人が登ってくる。聞けば秋山さんだと云う。「鬼の城は未だ遠いですか」と、その屈強な若者にたずねられたが「貴方なら行ける」とけしかけた。 大笑い・・怖さがふっとんだ。 途中帰り道、それらしき?斜面を2カ所ほど写真に撮りましたが??、
                                          つづく・・・、
再び、①の、砂川調査
砂川へは、この「西谷」から流れ出る渓流と、経山・鬼の城を谷間とした主流があるようです。 この堤防を下ることにしましょう。道は細いがじゅうぶん通れる。途中、この堤防でただ一つの小店「辻屋・つじや」があります。この辺りの堤防の高さは二階建て民家二つ分ぐらいあり一番高いようです。この堤防が東西の“往き来”を分断するわけですから、その昔から唯一私用地として許されたのかな? ここに橋が架かってあります。その規模は、幅○m、長さ18m、橋下約4m。 水は流れていません。 河原で丸いハンドルを見かけましたから、今では水路管を地中に埋めてあるのでしょう。 さらに、堤防から外れたりはしますが下っていきます。川幅はあまり変わりませんが、堤防はだんだんと低くなっているようです。 総延長3~4kmで「足守川」に合流します。 この合流点に『高塚』がありました。 すでに、「塚」のつく地名は“人身供儀”で火葬にした遺骨を納めたところだと謎解きしています。この不必要とも思われる高さの堤防は、雨乞い儀式の為に特別にしつらえた堤防だと推理します。

その反論へと・・・、つづく・・、
反論・その1、 砂川の「高い」堤防は洪水対策?
 明治末から大正代にかけて、あたり一帯はハゲ山でたびたび洪水を繰り返していた。
今、私達が日本の山の緑を保ち得ているのは、祖先の勤勉さと営々たる治山・治水のおかげと云える。昭和の代に入っても、今に比べると家庭での石炭石油の使用は僅かであり、炊事・風呂焚き・暖房のほとんどを山の木々に頼っていた。加えて戦後の食料不足のため開墾を広げたものだから、あたり一帯はハゲ山だらけであった。
反論その2、 その構築時期は、近代にはいってか?
 ふつう河川堤防の多くは断続的に追加して築かれるのが常で、機械力のない当時(弥生代)の人力だけでは考えられない。
<反論の反論>
 この砂川の「高い」堤防がいつ構築されたのか筆者は知らないが、弥生代になされたのではないかと考えています。当時、この一帯がはげ山であったとは考えにくく、したがって洪水対策の必要性が少ない。そして、この近くに大きな「作山古墳」があり、砂川の「高い」堤防を築く社会的能力は、じゅうぶんにあった。さらに、この砂川は川の出流域にあり洪水の為に、これほど「高く」築く必然性が考えられない。では洪水対策でないとしたら「何の為に、このような高い堤防」を築いたのか?

「砂川」の高い堤防は雨乞い儀式のために設えた?
この砂川の源流部に「新山」があります。 新しい山?? 皆さん!この名付けを不思議に思いませんか? 昭和新山ではあるまいし、山に新しいや古い山があるとは思えないが? 新しいとは、古いに対してつかう言葉であり、何に対して新しいのか? 話はすこし飛びますが近江の「蛇砂川」の上流に「竜王山・雨乞岳・御在所山」や、「木へんに、会うと書いて、ソマ」の地名がありました。「ソマ」とは、木を切り出すとか、転じて木を切り出す人にも使われるとありました。これ等のことから、雨乞い行事で、その源流から神木を選び、竜に見立てて「枝を落とし、先を切り、舟形に仕上げて」琵琶湖に操りだす「まつりごと」があったと(別紙報告書で)推理しました。新幹線の車窓から、近江八幡市に流れているこの蛇砂川の堤防も、必要以上に「高い」のではないかと?思って見ますが確認は出来ていません。

 吉備の地にも「登龍山」があります。 この登龍山に対して「新山」だと思います。登龍山から竜神木を切り出していたが適当な木がなくなったので新しい山に替えた? 「新」の字を分解すると「立木を切る」になるから、これもあながち見当はずれではないと思っています。 「出雲の砂川」に川の点線印は見えませんが区画整理の干拓地のなかにあって、その街道だけが規則的にくねくねと曲がっていることに注意を払うべきでしょう。
今でもそれに類似する奇祭が各地に残っていますよ。 何処だったか思い出せませんが巨木に乗って山の斜面を一気に下る。 そして、伊勢の方だったかな、川の中で子供達がお御輿に綱をつけてひっぱる。このような「まつりごと」が、吉備の「砂川」にもあったのでしょうね。


 さぁ~て、本論の、吉備の『大量の銅剣の埋め場所捜し』 に、でかけましょうか。
先だって(12/16)、それらしき山の斜面を写真に納めたと言いましたよね。 ・・たが?、どうも腑に落ちない。すっきりしない。その斜面は谷間の「東向き」斜面だったから! 国土地理院の地形図で確かめて、もう一度、現地にでかけましょうか。その「南向き斜面」を捜しに!!

 
  【 吉備・総社市、大量の銅剣の埋め場所を予測する! 】 
総社市・岩谷から二山越えの「黒尾地区・西谷」の谷奥
                           <北緯34度43分9秒 東経133度44分47秒>
そこの南向き斜面        陽光で、荒神の「陰」を封じ込める考え
              斜面下に立って、5mほど上がった所かな?(出雲に準ずる)
埋めてある深さ         地表下、四尺? (四=死の考え、土葬等も、ほぼこの深さ)
その埋めてある本数を予測!   
卑弥呼の銅鏡100枚=出雲の銅鐸39個+野洲の銅鐸24個+神戸の銅鐸14個+吉備の予測銅鐸数(23個)
出雲の銅鐸数39:出雲の銅剣数358本=吉備の予測銅鐸数23:吉備の予測銅剣数(x個)
                                   吉備の予測銅剣数 x個 = 207本
封印の仕方は?   出雲に準ずるが、横木を横たわせ両端に×状(ペケ・バツ)の杭打ち、
             中央に「五幣」を立てる穴!!!   (神社本殿の屋根上から類推)
      銅鏡を置く台座(銅鐸から銅鏡への新旧交代と、銅鏡で銅剣や銅鐸を封印する意)
その谷奥で、 『その剣、その荒神に、二度と持たせてはならない!』、と言って卑弥呼が“封印させた”大量の銅剣が1700年余りの眠りに就いている。
  卑弥呼本人が封印した? 或いは、その縁故者か? はた又、そのお弟子さんか?
(牛車・角隠し・姫路とか姫街道の地名あり。 
→後の大名行列・稚児行列・嫁入り行列・御輿・山車・等に変化移行か?)  
                               口 ( ・・・ ~ 2008.01.11)


 (余談そのⅠ) 共通・類似文化の 「共通類似地名」について、
前に、出雲と吉備の地には、類似共通地名がたくさんあると言いましたよね。その「大量の銅剣に関係する類似地名の1つ「仏教山」について言及してみましょう。

  出雲・「仏教山」→ 吉備・「経山」→ 神戸・「坊主山」→ 野洲・「妙光寺山」
これ等の山は、大量の銅剣が埋めてあった出雲。及び大量の銅剣が埋めてあると類推する他の地の、谷間をつくる一方の山名です。 出雲の仏教山は、もちろん仏教に関係する地名。
そして「吉備のお経やま。神戸の坊主やま。野洲の妙光寺やま」も、このように筆記するとすべて仏教に関係してきます。野洲の妙光寺山の「妙」は、仏教用語のようです。荒神(竜神)文化へ仏教がどのように絡んできたかは今後の課題ですが、出雲の「仏教山」は、出雲に4つある “神奈備山”の1つで、一説に天を支えるための山だそうです。 これ等の山名が卑弥呼の昔から付いていたとは思えませんから、何か山の名前を変えるほどの強力な社会制度の変換や意識改革があったのでしょう。

神戸で面白い山名・地名を見つけました。「油コブシ・625m」。油コブシとは一体なにを意味するのでしょうか?、この山の南に先の坊主山・376m。南西に天望山・482m。北に六甲山・815mがありますから、雨乞い儀式で、「こぼした油」に火でも付けて慈雨の有無でも占ったのでしょうか? そして「西山谷」があります。出雲でも「西谷・サイタニ」。吉備でも「西谷」がありました。 さらに「黒五谷」。この黒・五谷のなかの1つに、大量の銅剣が埋めてあると予測している「大月地獄谷」があります。「黒」というのは何か陰をイメージします。 吉備でもありましたよね「黒尾地区・西谷」。それが何故『西でなければならないのか』についてのヒントは、次の記事の「出雲・弓ヶ浜の成因」で述べています。 すこし脇へ逸れましたが、このように地名だけからでも『大量の銅剣の埋め地』を推理することが出来ます。
                                      つづきます・・、

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「吉備の大量の銅剣と銅鐸の探索」 その続き Ⅰ
 『 論より実行!』

(2008 1 28 日曜日に!)
① 「卑弥呼が封印させた」、総社市(経山・西谷)の大量の銅剣の探査にいって参りました。
     『 リースの金属探知器を入れる前に、その場所を特定しておきたい 』
出雲での大量の銅剣の埋め場所は、“何の印もない”南向き斜面だというが、それは違う! それを「隠した論」にしても封印したにしても、祖先は、何かの「決まり・目印・覚えがあって」埋めている。それをブログ調査だけでは図りかねる部分もあるが、要は『自分だったら、どこへ埋めるか』それを捜しに行けばいい。
9月~11月末までは、松茸山で入山禁止の紙札が垂れています。沢づたいに遊歩道を上ります。「経山城址へ」の指標のところまで来ました。今度は、その右手の方をとらないで「遊歩道ではありません」の直進方向をとりました。以外に広く拡張工事もなされているようです。左手に砂防ダムをみて15分ほど歩くと、さらに小さい砂防ダムに突きあたりました。直進の沢づたいは道がなくちょっと難儀そうなので。ダムを渡り、ここから先は人ひとりがやっとの道幅で急な坂道。中国電力の支線№6・7の指標がありましたから地下に埋めてあるのかな? しかし、いくら登れども「その谷間」から遠ざかるような気がする。その道から外れて、かん木(カンボク)をかき分けて! 『その谷奥』を眺める。すり鉢状になっている? ここだ!、ここに間違いない!?   
  帰ってもう一度ネット地図で確かめた。そこは「西・北・東」を山で囲まれた谷奥であった。


(2008 2 11 月曜日に!)
② 総社市(経山・西谷)の大量の銅剣の探査」にいって参りました。
 その谷奥を目指しての沢、上り! その日の気温は8℃。 渓流釣りの経験者ならこんなチョロチョロ水の流れなど序の口だろうが、運動靴履きの素人にはちょっときつい。隠地には残雪あり、シダ類やかん木が行くてに立ちふさがる。 沢水の飛び石づたいで足を滑らせ水の中! えぇい!「濡れてままよ」とジャブジャブと、 と!今度はシダが両側から流れに覆いかぶさり通せんぼ! いや~な感じ。 しばしたたずみ腰をかがめて「そのトンネル」をぬけると! 目の前に5m余りの段状の滝! 行こか戻ろか意を決し、この滝廻れとよじ登り。“裏白”かき分け踏み倒し、片足ストンと崖の下! 冷や汗もんだよ、戻ろうか? 否ぃやと進めば「裏白に隠れたクレーター」 まるで私を阻むよう!! もう駄目だぁ~、完全にギブアップ!

・・・「何ッ!、裏白だとぅ?」 裏白は正月飾りや、神棚やお仏壇にお供えする餅の下にも敷いて使いますよねえ。・・・? その日は、「沢で拾った小石をその裏白の上に載せ」 手を合わせ、用意したワンカップ酒を清流に流し引きあげました。

なぜ、正月飾りに裏白なんだろう? 裏白を使う必然性はどこから発生したのか? 裏白を使うのは、「わたしの心の裏は、まっ白で悪心がありません」等と、聞いたことがあるが、はたしてそうなのか。 そのいわれや、地域性は? 教えて下さい「あなたの地域は正月飾りに裏白を使いますか?」 それが分かれば「卑弥呼の文化圏が浮かび上がって来るかも知れない。以前 筆者は、その裏白を探しに山歩きしたことがある。 立木に空白の部分が見え陽光があたっている。行ってみれば手を広げたようなシダであり、末広がりの裏白は、なかなか見つからない。 ・・・・?、 「シダ類が群生すれば、立木が生えないのか?」 大量の銅剣を埋めるにしても、その上に立木が生えたのでは、埋め場所が分からなくなってしまうからイヤだな。私なら後からでも分かるような「覚えや、目印」が欲しいところだ。 谷底から見上げた所になにやら大きな石が見えていたのが気になる。そして滝上に巨石が横たわっていたのも気になる。


正月飾りについて考える (以下は、筆者の独自論であることを予めお断りしておきます)
 正月飾りがなぜ飾られるようになったのかは知らない。一種の魔よけかな? 外国でもクリスマス飾りに柊(ひいらぎ)なんか使っています。 日本でも地方によっては、葉にトゲのある柊や、汚臭のある「とべら」が使われると知りました。 昆布は喜んぶ。 ホンダワラは何故でしょう? 私が思うのにホンダワラは食べられるとは聞きませんから、多分塩分の保存として貯蔵してたのかな? 似たものに笹竹を使う製塩法がありますから。 橙(ダイダイ)は代々続きますように。 あれって黄色に熟れても千切らずにおくと緑色にもどるんですよね。何年越しに千切るの?(笑)  他に、干し魚の鰯を×印に結わえたりもしました。干し柿なんかもありました。 地方によって違いはあるようですが、これ等がなぜ正月飾りに使用されるようになったのか?、 ?を二つ重ねると答えにつまる。 三つ重ねると訳が分からない。

神様になぜ海産物の干物をあげますのか?
他にスルメなんかもありました。なにも干物ではなくて採れとれのピチピチのほうがお喜びになると思いますが? お供えしている間に腐るから? だったら早くにお下げして頂けばいい。ー笑いー(それでは神様が食べる間がないぞよと怒るから? 神様って人間的??) めでたいとの語呂合わせの鯛なんかは生で使用します。 この神様へのお供え物については、地域によって色々にあるのでしょう。あなたの地方は何をお供えしますか? そしてその「いわれ」は? 何れにしても、そこには少年心(こどもごころ)が素直にうなずけない何かが隠されている。

 神様にはなぜ「塩」がつきものなのか?  塩について思い付くままに、
  土俵に塩をまく。
  地鎮祭で盛り塩をする。
  開店前の戸口に盛り塩をする。
  立飯(たちは)に、「お清め塩」が添えてある。
  「護摩炊き」で、コップで伏せた塩を「焼塩」にする。
  うちの隣のおじさんはー、お祭り騒ぎが大好きでー、ねじりハチマキ、そろいの浴衣ー、
    御神輿かついで、ワッシヨイワッシヨイ!「景気をつーけろ!塩まいておくれ」
これ等にも何かが隠されている。 なぜなの?何故なの?を三つ重ねるとそれが分からない。


(2008 3 2 日曜日に!)
③ 総社市(経山・西谷)の大量の銅剣探査にいって参りました。
どうぞ、お楽しみに!
今日の予想最高気温12℃。すこし暖かかそうだ。このごろの天気は午前中は晴れていても午後からはくもることが多いので、すこし早めの出立。 例の5・6台の駐車場に車をとめて、20分ぐらい歩けば中国電力支線№6・7のところの砂防ダムにつきます。いつものことですが私の心に因があるのか、何かの進入阻止の力が働くのかは分かりませんが、気だるさが身体を襲う。完全には恐怖感がぬぐい去られていないのかも知れません。用意した塩をかたわらの石の上につまみ上げ柏手をふたつ打ちました。

AM10時30分。 わたしが勝手に名付けた高さ10mたらずの“段状の大滝“をめざして! 沢水ぞいに「谷の東向き斜面」を上ります。途中、明治代かな?ところどころに土砂流出防止のための石積みがみえます。斜面もきつい。 かん木やシダ類は生えてはいますが表土の多くは流出しています。今日は渓流ジャブジャブはいやなので、前回わたしを阻んだクレーターの上方を迂回して段状大滝の上に行こうと思いました。
以前ナイアガラ瀑布の映像をみたのですが、滝の上って、その流れ落ちる荘厳さに反し拍子ぬけするほど、水深も浅く単調で 「平ら」 になっているんですよね? そこに大量の銅剣が???、

裏白かき分け、朽ち木を除けて、かん木に掴まりながら上へ上へと登っていきます。一歩一歩慎重に! 下方に小さいながらも滝つぼが見え、滝の上部の石ふたつも見えます。 前回、わたしを阻んだクレーターも1mほどの深さのところで渡りきりました。 さらに進むと!?、またクレーター。 段状大滝からは遠ざかるばかり。 今日はもう帰ろう。 そう簡単にことがすすむ分けがない。・・・、大滝を眺めながら用意したドリンクを飲んだ。・・・、しかし、もう一度おなじことをするのもイヤだしぃ~。とにかく降りよう。 その途中に前来たときに休んだ岩場がある。 そこの小さなドングリの木へは、前回白旗がわりにした白いハンカチが結わえてあります。なにしろ1700年の歴史が相手だ。なみの胆力ではもたない。

 いっぷく付けて~、その滝を眺める。
そうだ。今度はその滝の右手から挑戦してやれ。滝つぼといってもその水深は膝下ぐらいだ。 飛び石づたいに渡り、滝のわきに覆い被さった裏白をつかんで登ればのぼれる。 そしてここからは裏白を掴みながらも滑り降りればいい。途中、この地方で柏餅をつつむ丸い葉っぱの「ラガタ」とかいう赤い実のなる「つる・トゲ」に刺されながらも、とにかく降りた。 

 そして、飛び石づたいに!、1m余りの大きさの石にのる!?  と?、グラリと水の中!! あは~又濡れた。 わたしもそうだが日本人って「水濡れに弱い?」洋画なんか見てるとあちらの人達は、靴をはいたままでもジャブジャブと水濡れをいとわない。イルカショーやウオータースライダーでは、むしろそれを楽しむ。 私が思うのに、それは水に対する重要度の違いだとみています。 日本では車で1時間も走れば川か海に行きあたる。むこうでは1時間はおろか2時間走っても水に行きあたらないことがある。それを思えば、ありがたいことだ。(ー笑いー)

さて・・・、
「段状大滝」の右方から、靴を脱いで裏白につかまりながら、滑らないように! エイヤと滝の上へあがった。 わりと平らになっている。数メートルさきに高さ2mたらずの矩形岩の中央から水が流れ落ちている。 その上には、かん木やらトゲつるが覆いかぶさりその先は見えない。下から眺めて滝口をふさぐようなかたちで横たわっていた巨石ふたつは、長さ3mと2m余りかな? あたりを見回しても「大量の銅剣」を埋めるような場所がない。

ここで、再度出雲の場合をふり返ってみよう。国土地理院の電子版地図をみても、今ではその近くまで田んぼが入っている。 この荒神谷・西谷(さいたに)・神庭(かんば)西谷は、地元の人がいうように「祟り」がある恐ろしい場所であった。この「恐ろしい」という心が人心に芽生えると、それがだんだんと増幅して “心体”にわざわいを成すのだ。 思えば 「荒神をもはばむ」 恐ろしいところだ。 高所恐怖症などは、10分間その恐怖に耐得ればクリヤーできるという。
 その大量の銅剣の埋め場所は、
①太陽光で、陰の荒神を封じる谷奥の{南向き斜面」
②その斜面下に行者・太夫の集団が立ち封印儀式ができる「広さ」があること。
③「目の高さより上」。荒神谷の写真でみると、下から5~6mの所かな?
④その表土下四尺のところ。

この「段状大滝」の上部には、その条件にあう所がない !? ならば下方か? いいや、すでに述べたように、その斜面は急峻していて表土もなく埋められるような場所はなかった。 この谷は、はげ山の時期があって明治、大正、昭和の時代に治山治水の工事がなされたとあったから、表土は流出してしまったのか? この谷を探査して学んだことがある。 意外に樹木というものはその表土がなくても、岩の割れ目に根をおろして育つものだと。 何れにしても、それを埋める表土がなくてはなんともならない。かつて、この岡山県南の一帯は赤松がいっぱい生えていて松茸など珍しいとは言わなかった。 ましてや1700年前の昔と今とでは、その植生は異なる。解らない・・・、??

この数m先、上流の矩形岩・2m滝の上か?、木が覆いかぶさってイヤな感じ。 引き返そうか・・。 それも大変だしなあ~。 「 引くのも大変、進むも大変、ならば行くか!」 意を決めて!、トゲつるが袖やズボンに引っかかる。 「さも、この先進入許さじ!」 と言わんばかり、 もう怖さなど微塵も残っていない。 だが怪我をしては大変だ。自力では帰れない。慎重に。 ・・・と!?、又だあ~~、 今度は10mはあったかな。滑り台状の滝! 中ほどに窪地があり水を跳ね上げている。 この滝も、その脇をどうにかクリヤー。 小休止(軍隊用語?) 上にあがって見下ろすと、先ほどの窪地は流れ石で削られたのであろう湯舟のようになっている。 

さらに、木立・かん木をかき分けて!、・・・・・??、そこで、信じられないことを目にしました。 このつづき、お楽しみに(笑い)

かん木・木立の先に、『巨大な、?堰堤が!』 少なくともその時の私の目にはそう映った。 これだけ難儀をしてきたのに、「人工の」石積み堰堤がある。驚いてはいられない。急いでそれをはいあがった。堰堤というのは先にも申しましたが、土砂流出防止の目的で谷間にダム状に築いた石積みです。上がってみると!かなり広い平地があった。木立にかくれてその先はよく見通せないが、50mは優に超し100mはあるかも知れない。このほぼ中央に2m幅の、あきらかに人工と思われる清流がながれている。その先は??見えない。 あたりを見れば刃物で削いだ小枝もあり、その切り口も新しい。 なぁ~んだ!そう言えばこの山を越えた「鬼の城・きのじょう」あたりに数軒の農家があった。人家は近い。

この平地の「南斜面」を探索!、解らない。その根から数本に乱立した山桜が2本。その下部の幹周り3m。山桜は古代において農事呪縛の木だとか。猪もいるのかな?、土が掘り返されている。堅くはなさそうだ。狸の溜め糞ではないと思うがビワの種大のふんもコロコロところがっている。尺(さし)代わりにも使う杖は離さず持っている。
巨大に見えた堰堤の歩数は50歩だったから30mほどかな?、その高さは4・5m?ってとこ。時計をみると13時ちょうど。駐車場をでてから約3時間。思うほどの時間はたっていない。腹も空いてきたし、さあ~てどっちへ帰ろうか。  つづく・・・、

今立っている場所は、堰堤の東側?で、谷の「北向き斜面」にあたるとこ。足もとをみれば!?、・・・・?、 明らかに人が手折ったとみられる小枝がある。 猟か、正月飾りにに使う裏白採集かは判らないが近時に人が入っている。その切り口の鮮度からして秋の松茸狩りではない。よく見ればシダ草に隠れながらも獣道のようにもみえる? 数歩進むと刃物で削いだ切り口のシダ草があった!

 「助かったぁ~、人道がある!」 谷の西側に固執した自分が悪かった。谷の東側に今は無きがごとくの人道が付いている。立木、かん木、シダ草の少し先に目をやると、人が通れる空間が見える。足下はしっかりしていて長年のあいだ道として使用した跡がある。石なども踏みやすくしている。苦労して登ってきた渓流やら滝がわずかな下方に見える。なにかのテレビで、深山は「渓流を上る方が上りやすい」というのが頭にあった。しかし、いかに急峻しているとはいえ横移動なら人は渡れる。この西向き斜面にはクレーターはなかった。

木立を歩けば枯れ枝や倒木がじゃまをするが、明らかに人が通っている。削いだ小枝やそれ等を始末したあとがある。私もそれに習って枯れ枝等を道方向におきかえる。再度訪問するためだ。注意しなければならないのは、「降りるときは道と確認できても、ふり返って登る方向をみるとまったく道に見えないところがある」 そんなとこは、よく記憶にとどめておく。そんなことをしながら下りると! やっと、たどり着いたあ。 あの盛り塩をしたをした№6・7支線堰堤へ。 今度こそ本当に助かったと思った。 13時20分! “一礼二拍” をしてその場を後にする。

自分的には、3時間もかけて大冒険したつもりでも、その下りわずか「20分」に苦笑する。 誰か地元の古老にでも聞いて入ればよかった。 なにしろ20年来の孤立無援、突飛なことを他人に話すのもいやだし意固地にもなっている。 途中散弾銃の薬きょうが道のほとりに5つ6つころがっていた。

これからが、この話の佳境本番ですよ。(笑)  遭難しかけた?! お楽しみに、


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「吉備の大量の銅剣と銅鐸の探索」 その続き Ⅱ
 大量の銅剣を捜して!

 遅い昼食を車中でとる。濡れた靴を乾かしながら。天気は薄い雲はかかっているものの快晴にちかい。さてと、時計をみると14時前。まだ早い気もするが帰ろうか。 ここからすこし下ると「鬼の城へ行くY字路」 がある。そこでトイレ休憩をとる。このY字路が災難へのはじまりだとは露ほども思わなかった。このまま帰るには時間が早いしもったいない。 ちょっと鬼の城の方へよってみるか。何かの情報が得られるかも知れない。次回はそちらから入山する予定だ。

「鬼の城・きのじょう」 というのは高さ397mのすり鉢状の山で、その頂部の約30ヘクタールは、平ら状に近く朝鮮式山城ではないかといわれている。東西南北に山門を持ち今では巨費を投じてその復元がなされている。筆者は復元する前の状態も見ているが、そこにわずかな石組みを残すほかは、そんな施設の跡があろうなどとは想像もつかないような山林であった。考古学の綿密なる調査に感じ入る。 総社市の郊外で人里離れた山中ではあるが、70余台が停められる駐車場も整備され休日ともなれば多くの人でにぎわう。 地図上でほぼ平坦とはいえ、その一周を歩けば結構な山坂があり、ビジターセンターにも飲料水の自販機はおいていないので、特に夏場は要注意。 熱中症はシャレにならないとのこと。

そのビジターセンターは、鬼城山と新山(にいやま)に挟まれた峠の辻にある。これをさらに進むと巨岩がある「岩屋」へといく。鬼城山への登山は、その西門がある一方のみであとの三方向は全て急峻している。 ビジターセンターには鬼城山の全山模型をはじめ版築土塁の標本。版築土塁というのは、輪切りにした丸太の重しに4本の柄をつけて、それを二人で「お父ちゃんの為ならエーンヤコラ!お母ちゃんの為ならエーンヤコラ!」のかけ声で、土をつき固めて城郭の囲い、池の土手、川の堤防等をつくったそうですよ。そうした工法でつくった「囲い」が約○kmにわたって巡らされた跡。その他の類似山城についての説明等もあり、その趣味がない人でもおすすめだ。 別棟の展示館に私の欲しい 『新山と西谷』が載っている地図があり、それを持っていた封筒をやぶいて描き写した。

南から「経山372m」「新山405m」「犬墓山443m」「登龍山461m」となっている。 その西斜面に午前中に登った「西谷」の沢がある。その渓流の源に水滴形の「堂管池・どうかんいけ」があった。さらに「山王神社」の印もある。この神社は国土地理院電子版の地図にも載っていない。さあて帰るとするか。

そこを出て新山の方を見ると、なにやら大きな案内板が目につく。それには鬼の城から「新山→犬墓山→岩屋→鬼の城」へ帰る遊歩道コースが描かれており、その道筋に四国巡礼に類似した石仏が御座し何番とかをふっている。こういった何番札所とかいうおしえは「真宗や真言宗」によくある特徴だ。その時は、この案内板を見たことが後になって役にたとうなどとは思いもしなかった。14時15分頃。

ここを300mほど下ると数軒の新山集落がある。そこには1、5mほどの大釜がすえてあり「鬼の釜」と名付けられている。これも見ておこうと車を停めて。すると家のほうからバイクをおして80歳がらみのご老人がおいでた。これ幸い。この辺の地理を、とくに朝方の堰堤までの道順を聞いておきたい。 「まあ、御大師堂へかけなされ」 「そこへは、あの家の脇を上がれば「たわ」があるからそれを左手にとればいい」と教えて下さった。「たわ」というのはこの地方でいう峠状のところだ。この時 14時30分。

ふだんは時計も携帯電話も持ち歩かない。この日、時計を持って出たのは、この日の行程を書き残すためだ。 日没までには約3、5時間ある。 次回「その堰堤」へ行く方向づけだけでもしておきたい。次に来れるのはいつやら分からない。30・40分で行って、30・40分で帰れば日没までには充分まにあう。 「今日はおそいから、又、日を改めて出かけなさい」と。ご老人の止めるのを聞かず、「ちょっと、ですから」と言って、そのご老人と別れた。

この「ちょっと」の言葉には、午前中の緊張感は微塵も残っていなかった。それでも杖がわりの小枝をひろう。 山道ながら幅1mは充分こす。農道として使用されていたのであろう。 聞いたとうりの「たわ」についた。これより上に登れば「山王神社」かな? そこを左手に下る。驚いたことに窪溜まりにわずかではあるが雪が残っている。平地で積雪があったのは記憶にないほどの以前であった。 この日の最低気温は5℃、平地より3℃は低いのかな? 倒木あり道崩れありの細道を進むと逆Y字のところへ出た。 かつて、そこに作田があったとは想像もつかないような、背丈をこす笹竹が一面にびっしりと生えている。それでも朝方の堰堤方向へいくのであろうか道筋だけは刈り込んでいる。 これから季節が進み新しい笹が生えてくると大変だ。今のうちに目鼻をつけておきたい。さらに進むと?、どうも逆Y字の右手に進むようなので、笹に隠れた畝をわたって進行方向左手の山斜面を下る。 朝方の堰堤をめざして! 

しばらく行くと、雑木が生えてはいるが、かなりの平地があった。猪が掘り返したのであろうか、あっちこっちにその跡がある。それも新しい。 先ほどのご老人から「猟期は2月末まで」と聞いていた。「小学校の校庭に猪、児童を追いかける」のニュースがあったのを思い出す。少し大きな杖にかえようか。 その堰堤があった。 が??、 朝方の堰堤に似てはいるが?、どうも様子がちがう。桜の木がない。2m幅の清流もない。「めざす朝方の堰堤は」この下方だ。今日はここできりあげよう。次回にすればいい。

 谷の左手・東向き斜面にそって帰るのは、銅剣の埋め地を探査するためだ。 いいかげんに進んで右へわたればいい。 地もとの人が目印のために付けたのであろうか?10m程おきの小枝に赤いビニールテープがまいてある。それを捜しながら進んだ! だんだんと険しくなる。 ない! 見失った! 赤い印を? 引き返すか? まあいいや。下へおりて谷を渡り、来た方にかえろう。 のどが乾いてきた。ほんの「ちょっと」だと思って飲料水は用意してこなかった。まさかの時のために用水の水をふくんでみた。「飲める」。  背丈をゆうにこす笹竹をかき分けて反対の山斜面にでた。これを少し上へ登る。 と?、 なにやらの岩場がありビール瓶の空20本ほどが転がっている。かつての宴会の跡であろう。 その中に缶ビールの空き缶がないから、ずいぶんの昔ではあろうが人跡のあとには間違いない。少し安堵する。 だがこんな所をとおった覚えがない。

山で道を失ったとき、一番こわいのは、方向感覚を失ってぐるぐる廻りをしてその時間を失うことだ。都会で迷っても同じところへ返ってしまう。後ろ向きと前向きでは、その景色はまったく異なる。同じような場所で同じような間違いをくりかえす。 昔の人は、それを「狐につつまれた」という。完全にその状態に入っていた。皆さんはどうかと思うが、筆者は、かつて電車を乗り換えて、西行きの電車が東行きに進んでいると幾度も錯覚したことがある。

今の自分が、「どの位置」にいるのかが分からない。「遭難」の二文字が頭をよぎる。とにかく「今、自分がどこにいるのか」を確かめねばならない。がむしゃらに上へ、上へと登った。中腹まで登りふり返ってみると。 初回に秋山青年と出会ったときの「経山」にかかる高圧の鉄塔・送電線が、はるか下方に見えた。Y字谷の中央にいる! 「登龍山」を背にして、谷をひとつ西よりに間違えていた。 日はまだ高い。 が、渓流下りはとても無理。時計をみたがその時間を覚えていない。

谷をひとつ渡らねばならぬが、「もと来た新山へ返ろう」。 山の中腹を東へ?、思案している時間はない。 が!、シダ草が行く手をはばむ。 明るいうちに下山出来ない。 まさかの時のために 「総社・経山へ行く」 と書きおきしてきた。 家族はその場所がどこにあるのかは知らない。帰宅が10時を過ぎると騒ぎだす。 自力で帰る自信はあったが、家族が騒ぎだして周りに迷惑をかけるのがイヤなのだ。新山へは無理だ。 この山を東へ越えれば必ず「鬼の城~岩屋」への車道にでる。不安はあるがそちらへ進もう。地図で、その斜面は急峻していたと覚えてはいるが。

 後は時間との戦いだ。 夢中で上へ上へと登った。のどは渇くがふしぎと汗はかかない。あい変わらず猪の掘りかえした痕がある。アクシデントでその時間をロスしてはならない。 落葉樹林ではあるが太陽が沈むと山中は急速に暗くなる。どうにか尾根にたどりついてその下を見ると? 木立を透かして、なにやら水面?がみえる。 やったあ!、たすかったあ! 「堂管池」だあ。 対面の斜面を登れば 『案内板でみた遊歩道』 がある。乳緑色の池面が神聖にみえた。
その池は、近くで見ると意外に澄んでいる。片手でその水をすくって戴いた。その手は赤く傷だらけであった。ほんの「ちょっと」のつもりで、軍手もはめていなかった。

その斜面を登ると、明らかにそれと分かる遊歩道があり、「犬墓山」へ着いた。
 この 「犬墓山や、鬼の城、吉備津彦神社」 等をもって、岡山での桃太郎伝説にしているのかな。 ここに、高さ1、5mぐらいの石を墓状に立てていた。そしてその前に幅20cmくらいの石を横たえて祭壇状にしている。 この形式はどこでもあり、めずらしくもない。 が、この墓の後ろに、それより少しこぶりで頂部が平らな石が据えてある。 山の尾根地に巨石二つを人為的?に立てた状態。 ふつうそんな関係位置に石はおかないよね? 墓石と見立てた時その前に供物は置く。明らかにその一つはそのように設えている。その二つの石が元々どこにあったのかは分からないが、似たような石が二つあったのでは意識が集中できず、その一つは邪魔になる。取りのぞいて動かせないほどの大きさではない。「 生け贄の供物用の石台だ!」 とすると、墓石の後方に、「さらなる大きなもの」がおわすことになる。 関心ある人にルミノールテストをお願いする。 私は、その上面をこわくてよく観ることも出来ませんでしたが。

ここから『鬼の城センター』へ、 その道筋に、
 <十七番・十一面観音さま>  この時、17時前。
日没までには、1時間以上を残している。 『 助かりました。ありがとう御座いました。』
二拍一礼をして、センターの駐車場へ降りたときには、管理人さんの車であろうか、その1台がポツンと停まるのみでした。 市街にかえってショッピングで「何か甘い飲み物」でもと、車から降りたときには、足がガクガクしていた。そして家路についた時には、もう薄暮がせまっていた。

 後からおもえば、その地理を知ってござるお人には大したことでも無かったかも知れないが、筆者にとっては大冒険であった。この記事をご覧になって、私も 「大量の銅剣を!」 と思い立ったお人には、「くれぐれも、慎重に(笑)」 特に「神戸の方は」斜面もきつく危険をともなう。決してお一人では行かないほうがいい。「野洲の方が」おすすめかも知れない。但しその雪が溶けていればの話ですが。

※この「一連の行動」には、ふたつの大きな問題が含まれている。 そのひとつは、「国土地理院・2万5千分の1、地形図」を過小に見ていたこと。 その昔には「祟りがある」と恐れられた出雲・荒神谷なのに、今の観光地化された地図を思い描いていて、それを軽んじていた。 じっさいに現地を探索してみると、かなり広い。 もう一つのほうは “次回” をお楽しみに! (H20.3月27日記)


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「吉備の大量の銅剣の探策」 その続きⅢ
 <卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣を捜して!>

 その前に、今迄のいきさつを、今一度整理しておきます。
出雲と、神戸と、滋賀県の野洲町(現・野洲市)で、大量の銅鐸がヒレという部分を寝かせて埋めてあった。 その出雲で大量の銅剣類が出土している。 この大量の銅鐸と大量の銅剣との関係は、『不離不急(ブログいずものこころから借用)の関係』にあり、大量の銅鐸と大量の銅剣は、多少の後先はあるが、セット(一対)として同時に埋められた。
出雲・(  )・神戸・野洲で、大量の銅鐸を寝かせて埋めるという “共通の文化”があれば、神戸や野洲でも、必ず大量の銅剣が埋められていると推理した。
その埋め場所は、出雲の(荒神谷・西谷)に習い、大量の銅鐸の埋め場所から、『西に』約一里離れた谷奥にあり、そこで「1700余年の眠りに就いている」と、結論づけた。

次に「吉備地方」だが、ここには巨大な古墳群があり、出雲、(  )、神戸、野洲に大量の銅鐸が出土するという同一事象があれば、文化伝達の経路やその交流面から吉備地方が(空白地)とは、考えられず、出雲(岩倉)、神戸(いわや)、野洲町(大岩山)のように、大量の銅鐸の出土地は(岩という共通した祖先からの地名伝言)があり、総社市にも(岩屋)という地名伝言があることから、この地にも「大量の銅鐸あり」と謎解きしたのであったが、諸般の事情もあり、今は、その活動を休止している。

一方、「大量の銅剣」のほうであるが、
出雲地方と、吉備地方には、出雲(仏教山・西谷さいたに)、吉備(経山・西谷にしたに)と、酷似した地名があり、その他にも出雲と吉備には数多くの共通した地名や文化があることから『総社・黒尾地区・西谷』の谷奥にも、「卑弥呼が封印させたか、したかは」解らないが、必ず大量の銅剣か埋められているとし、只今それを捜索している。 しかしながら、ピンポイントでそこを指さすのは、素人が思っていたほど楽ではなく悪戦苦闘の真っ最中です。(!汗&笑!)
 
このブログをご覧になった皆さんも、素人探偵の失敗談を参考にされ「神戸や野洲」の、そして「吉備」の、卑弥呼が封印したか、させたかの“大量の銅剣”を掘り上げませんか!?

さて次は、今までの「探査」についてもふり返ってみよう。 自分で書いた記事ながら、時間をおいて読み返してみると、意味不明の部分があったり<あすとろさん御免なさいー笑>、再発見があったりもする。 前記事の末尾に、2つの問題点をあげておいた。

1つは、 一口に「谷奥の南斜面」といっても、 実際に現地を踏むと、わずか数mの「その埋め地」を特定するにしては、 かなりの難儀をともなうほどに広いこと。

2つ目は、「黒尾地区、西谷」から入山し「堂管池」まで、途中2つ?の巾30m級堰堤を夾んだ “未踏破の空白地帯” があるにせよ、その渓流沿いに登って見ると谷は急峻し、登れば上るだけ、かつてハゲ山の時代があったせいかも知れないが、表土がない!。その大量の銅剣を埋めるような表土がない。 そして、【決定的な問題点】は、“堂管池~大量の銅鐸を埋めてあると推理した「岩屋」まで”の距離が、一山越えの【1km】のところ迄に、迫っていたのである。

これでは、出雲であった、ふた山越え、「西約1里」 だという「地名伝言」の意に反する。
 童 歌  <一山こえて~、 ふた山こえて~、 三山のまえで~、 たーぬきさん狸さん、 踊ろじゃないかぁ>   ・・・、熟考 ・・・。

  黒尾地区西谷、から入山!→ 経山→ 新山→ 犬墓山→ (実僧坊山)→ 登龍山!

これ等の「山」は、すべて谷の東側に位置する。 同じような高さの山が谷の西側にもあるのに、それ等に「山名」がふってない。 実際には山名があるのかも知れないが、その重要性が、つまり、生活圏としての重要性がうすいから、山名をふっていないのである。 (尚、実僧坊山は、あとで地図を確認すると抜けていました。)

これ等の山名を分析してみよう。 (以下、地名学に基づかない独自解釈だと断っておきます)
「黒尾」は、何かの尾っぽ。黒とは何か?、この黒は、隕石の冬→天の岩戸→暗闇の黒かな?と、漠然とした考えを持っています。  「経山」は、お経を上げる仏教名。  「新山」は、何かに対して新しいこと。これは、その山が新しいのではなく、何かの生活行為に対して新しいこと。  「犬墓山」の「犬」は、人里離れた境内に人身供儀用の稚児を隔離し、それを取り返しにくる親からの“番犬”で、今では神社の狛犬に変化していると謎解きしました。「墓」は、「塚」より後の考えか?  「実僧坊山」の、僧坊は、僧侶や、坊主さんのことかな?、「実」は、解らない?  「登龍山」は、文字通り「龍が登る」。「龍」は、「竜」に対して新しい言葉で、中国からの影響が考えられる。 

これ等の「山名」から受ける感じは、仏経がらみの名付けがされている。 かといって、それが“仏教の移入”以後に付けられた山名だとしても、それ以前の永々と続いてきた”雨乞いの歴史”を否定できるものではなく、 そこには、『仏教と雨乞い文化の混合』 という変遷があっての名付けだと解釈しています。

「黒尾。登龍山」 ・・・、 「黒尾 → 登龍山」! そうだぁっ! 黒尾~登龍山までの一連の山の連なりを「龍」に見たてている。 以前にも「登龍山」を、何故「竜王山」と名付けないのかと不思議に思ったことがあった。 滋賀県の近江八幡に「竜王」の地名がある。これ等の源流をたどれば「雨乞い山」や「御在所山・・・(スミマセン汗!、この部分確認とります)」 があった。 そして、その火口は「お釜」と呼ばれ神聖視されている。 “竜の口先にお釜がある” この考えは、「茶臼山の考え」にも通じることから、吉備の「登龍山」の口先にも、それらしき「池名」がないか? と捜したことがあったが、それらしき地名が見あたらなかったので、謎解きは中断していた。

だが今回は、それとは異なるが、その「龍に、尾っぽ」があった。 尾っぽで思いだすのは、スサノウの尊だったかな。「八岐大蛇・やまたのおろち」を退治したら、その尾から「剣・つるぎ」がでてきた。 その剣が三種の神器のうちの「雨の叢雲(むらくも)の剣」で、のちに「草薙(くさなぎ)の剣」と呼ばれている。 ふつう腹の中から出るとはいうが、尾から出るとは言わない。これは、ヒントになる!!。 
「一山こえて、ふた山こえて、三山の前で、・・・!」 岩屋から、一山・二山越えた三山目が、『経山』となる。

 (2008 5 03 土曜日に!)
④ 総社市(経山・西谷)の、「大量の銅剣探策」にいって参りました。

(AM 10:30分 ) 「西谷」入口の駐車場に到着。
かなり遅い到着である。 この日の気温は、26℃で快晴だが気が重い。 前回の遭難しかけた(笑)記憶をひきずっている。 ブログを始めて約1年、つい1週間前まで1日のmyブログへのアクセスが3~4人!  ところが前日5月2日の<訪問者数32人!> 連休中は増えるとは聞いていたが、私にとっては嬉しいのをとおり越して、とまどいを覚える人数! この32人に背中を押されて来るには来たが身体が重い。 確たる決心がないままに来た。 ①30m級堰堤間の“未踏破部”か!? ②それとも、“経山の、尾っぽの谷間”!? のどちらへ行こか?

決心が付かないまま、辺りをうろうろ。 経山に夾まれた、その谷の入り口は? 分からない。 谷の反対側にゴルフの練習場がある。そこから経山の谷を見ればその入口が分かるかも?。薫風かおる五月の候というが、その若葉が見通しをさえぎり、かえって見づらい。 立て看板には、『樹木の伐採、草木の採取、土石の掘削等は県知事の許可がいる』 と書いてある。 草木が生い茂る①の堰堤方面はよして、さらに、②の未踏の経山谷間もよして(ズルッ!笑)、初回に行きかけた経山方面(往復?7、2kmの遊歩道)へ行くか!! 「高い所から眺めればいい」 なにも急ぐ必要はない。このように書くと、よほどの深山か?と思われるお人があるかも知れないが、そうではなくて、祖先は人里離れた深山というより『人里に、“ほどよく離れた所” をその場所に選んだ』。と申し添えておきます。


AM 11:30分丁度、「経山城・遊歩道コースへ向けて」駐車場を出発!
ここで、約1時間もぐずぐずしていた。 今日は連休の初日で「鬼の城」方面は、大勢の人でにぎわうのであろう。 トランシーバーを持ったガードマンがでていた。 しかし、この駐車場には「ランクル」が1台停めてあるきりでまわりに人影はない。 前回に来たところではあるがトカゲがチョロついてもびくつく。(苦笑)、 重い足どりを運びながらも、11:50分に鉄塔の所へ着いた。 ここには、立て看板に眺望(B)とふってある眺めの良いところだ。

と!、熊ん蜂のお出迎え!。 10匹ほどが低空で飛んでいる。 黒い体に黄色い胸、体長は2cmほどある。かなり大型の蜂だ。 鼻先近くまで威嚇するように近づいてくる。 刺さないとは分かっていても、その羽音は気持ちのいいものではない。 こんな時は姿勢を低くして動かないほうがいいと聞いている。 でも、虫の頂点にいるスズメ蜂や(カブトムシ?)、アシナガバチは、その巣のそばを通っただけでも襲ってくることがあるから注意して下さいよ! 特に黒色の着衣は危険! 目や頭部の黒もねらってくる。 威嚇もしてくる。 黄色と黒の縞模様は最強の色だ。 どうやら、一時のパニックは過ぎたようだ。
  座り込んでお茶を飲んだ。 ついでに食事でもとるか。
観ると、互いに2mほどのテリトリーを持っていて、近づくものは、ちっちゃな虫でもアゲハチョウでも追いかけまわす。 あとで調べると、 <ホバリング>といって、近づくメスを待っているそうで、近づくもの全てを(鳥でも)追跡し、メスか否かを確認する習性があるそうです。 わたしもメスかどうかを確認されたのかな?(笑)

12:25分 食事終了
熊ん蜂さんの飛行を見ながら、ウグイスの声を聞きながらの食事を終えると、なにやら元気がでてきた。 ウグイスもこの頃になると、「ほ~ほけきょ、ケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョッ!」と、谷渡りも冴えてきた。 経山城の頂上へ登ってその下の谷を眺めても、一度は谷底を踏破しなければならない。それも二度手間だ。 空元気かも知れないが、ここから直接に谷底へ降りてやれ! その斜度はゆうに75°を超す。 立木がいっぱい生えているからジグザグに下りれば降りられないことはない。 まさかの時の目印にシダ草の3枚を手折り谷に向けて置き、数mを下りた。・・・、でもなあ~、近時のニュースで「60才をこえる男女2人が、雪渓200~300mを滑落死」、それとこれは比べるべくもないが用心にこしたことはない。 止めたァ~!!

経山城址をめざして、「遊歩道を」、出~発ぁつ!
左は山手、右は急峻した谷。 前回は、その中腹の遊歩道を途中で引き返した。 谷を夾んで対面に経山(000m)が見える。 キツツキは、「コ、コ、コ、コ、コォッ!」 谷底には藤の花も咲いている。 眺めはいい。 だが前回(0月0日)より明らかに異なることがある。 前回の落葉樹も今回は、その緑をすべてつけているが・・・!?、 谷川ぞいの路肩のいたるところが、見るも無惨に崩れている。 猪が掘り返したのである。 ミミズか虫でも探したのであろうか? もはや修復困難でチョンと跳んで渡らねばならない所がある。 前回はこのようなことはなかった。 

12:50分
牛の背状の所に着いた。
指標があり、右の尾根状を登っていくと「経山城」へ。 直進の坂道を下ると「鬼の城・ウォーキングセンター」方面へとある。 ・・・ん? 坂の下から車の音がする。 車道が近い! 次回に来る時の為にその下へ降りてみよう。 そこへは5分ほどで下りられた。車道の上方をみると「新山地区の」民家がみえ、ガードマンが立っている。 トランシーバーを持っているのは、道路の幅員が狭く、車のすれ違いができなくて渋滞するのを防ぐためだ。
この道路脇に「二十二番の石仏」が御座った。

指標までの登りには、10分ほどかかり、13時12分>登りはじめ。
この時間を付しているのは、 ①私も、そこへ行って見ようかと?(笑)思われた御仁の参考の為にと、 ②素人探偵の足跡を後々に残しておく為です。 そして、「総社、神戸、野洲」をとわず出来るだけ多くの人が参加して欲しいと願っている為です。

 さて、「経山城址」へ上がっていくか!
山の北側から尾根づたいに遊歩道が整備されている。 右は、経山の北側の谷。左手の谷の向こうの山頂に「鬼の城」の楼閣が見える。 斜度は45°ぐらいだったかな。 たいしてきついとは思わない。 潅木の道をほどなく行くと、山頂の城址に着く。 40cm~80cm大の石、15・6個が黒・黄のトラロープに囲われ立ち入り禁止とある。 「経山城は、守護大名の大内氏が天文年間に築いたといわれる山城です。・・云々」の立て看板がある。 それと云われなければ見過ごしてしまう。 
山頂は、多少の起伏はあるがほぼ平らで長楕円方向の長さが200m?ほどかな。 まばらではあるが桧の植林がしてある。 桧は神代の時代に大陸からもたらされた?と、何かで見たような気がする。 その根方は、例によって猪がやりたい放題に掘り返している。 「鬼の城」のにぎわいをよそに、こちらでは人っ子一人出会わない。 国土地理院の三角点があり高さ433m。 眺望よく、北東に「鬼の城」 南東に岡山方面、南西に総社市街が一望できる。 その向こうに高梁川も見える。 霞がかかっていなければ瀬戸の海が望める位置にある。 韓国機が岡山空港へ着陸体勢にはいっている。 その昔には「何が」その大陸から移入されたのであろうか。

 だが、肝心の「北側の谷」は、まったく望めない。 潅木の緑が邪魔をしてまったく見えない! 期待外れであった。 長居は無用。下りよう。 14:00分丁度。
坂道なかほどであろうか? 道の右手に1m大小の石が5つ6つ。・下りかけたが引き返した。 どうも気になる。尾根上の自然石としては形状が? 人為的に並べたような気がする。 尾根に沿ってほぼ一列。 別紙「報告書」の鬼の城の謎解きで、古代人が石を築く時、その方向性をとても重視しているとしたことがある。 案の定! その石をまたいでみると谷側に、さほど大きいとは言えないが、平らな部分を上にして10個あまりが築かれていた。 なんの為にかは解らないが、その方向は「鬼の城」を見ているよう気がする。

14;20分 「牛の背状」の指標の所へ下りた。
下りに20分ほどかかっている。 先ほどは、ここから車道の方へ真下におりたが、山の中腹沿いにある古道のほうがしっかりしている。新山地区のご老人は、今の車道は新しく出来た道であり、旧道は「こちらだ」といって田んぼの脇の道を指さしてござった。
このような古道は注意が必要だ。 熊野古道しかり、屋島山道も。 そういえば出雲でも「銅鐸の加茂岩倉~銅剣の荒神谷」までの”隠れ山道?”があったと聞いている。 「いってみよう!」と行きかけたが枯れ木がたおれ、その道をふさいでいる。 すぐ断念する! 「もう冒険はイヤだ。こり懲りだぁ!」 (笑)

<失意のうちに>!?
ああ、今回は、何の収穫もないままに。 次回への何の見通しもないままに帰らねばならない。 意気消沈・・、 「三山の前で、た~ぬきさん狸さん!踊ろじゃないかぁ」は、素人探偵の思い過ごしであったか。 それでも、次回訪問の手がかりだけは付けておきたい。 「ここが源流かぁ~?、次回は此処から下ってみるかぁ、」

 ん? 「源流?、牛の背?」、→ ここは、<その谷奥ではないのか!?>
(尚、牛の背とは、この谷間の“峠状の所”であり、経山城址へ行く指標がたっている所であり、そこへ筆者がかってにつけた「場所名」です)

この「指標」からわずか西へ下ったところに、流れをまたぐ巾1、5m、長さ2mほどの木製橋がある。何やら「気になる。妙に気になる」 ここだけの20mほどが?、完全にとは言いずらいが、「木が生えていなくて <空が見える空間> のような気がする。 言い換えて「陽光が差し込む場所?」 このような、「たたづまい」は、今日の神社・仏閣で、よく見かける。 鬱蒼(うっそう)とした木立に囲まれた神社の一角だけに陽光が差し込む!! 勿論1700年前と今では、その植生は異なるが、  ・・・、怪しい??

参考までに、『この、牛の背・経山城址登り口指標』へ来るまでの方法を記しておきます。
①黒尾地区から、西谷へと入り「数台の駐車場」へ車を停めて、経山遊歩道(往復?7、2km)を来る。 片道・参考所用時間○○時間○○分
②「鬼の城・駐車場70数台」へ車を停めて「新山地区の鬼の釜」を眺めて、そこから100m?ほど下り<二十二番の石仏様>経山登り口から、10分も上ればそこへ着く。
③岩屋~実僧坊山~犬墓山~新山~(隠れ山道)→「牛の背」 コース!
岩屋から新山(鬼の城ビジターセンター)までは遊歩道(片道所要時間○○時間)が整備されています。から、ビジターセンターを上がった所から「牛の背」までが隠れ山道となります。 

 ・・・? 何っ! 「隠れ山道?」
筆者は、前々から、このビジターセンターから岩屋へ行く車道の途中で、山側の側面に「雁木・階段状」の “石が二つ三つ突き出している” が気になっていた。 これは、その云う旧道・隠れ山道ではないのか? 今後の調査がまたれます。
以上の③とおりがありますが、おすすめとしては②かな? 一番楽だから(笑)  
だけど、<それでは「祖先の意」と> 銅鐸を埋めた(?)岩屋~大量の銅剣を封印してある(?)経山・西谷までの難儀は、あなたに伝わらないと思いますよ。

銅剣を銅鐸から離して埋めたのは、荒神さまでも簡単に取りに行けない場所と定め。 ひょっとして、銅鐸へ乗り移るかも知れない荒神さまからでも、山に隠れて見えない場所として、そこを選んであるのですから。 (笑)

しかし、この「牛の背」を、その大量の銅剣の埋め地と決めるには、疑問もある!
<第1に> 此処がその「谷奥」といえるかどうか?
谷奥という言葉からうける感じは、U字形の谷間の突きあたりとか、V字形谷間の突きあたりをイメージする。 だが実際にこの「西谷」を訪ねると、そのような地形がいくつもある。「西谷」の谷奥は1つだろうとたかをくくっていた筆者には大誤算であった。 そのうちのどれかが特定できない。そして、谷奥といっても登れば上るだけ山頂に近くなり、その地形は、山に囲まれた谷奥のイメージから遠ざかるばかりである。 そして、この「牛の背」は、山に夾まれた峠状の所であり、いわばH型の地形であり、その向こうには、荒神を呼び寄せる場だとした鬼の城がすぐ近くに見え、その荒神から「見えにくい場所へ隠す」という本来の意味が薄れてしまう。

<第2に> メイン道路の車道から近い。
車道ということは、総社市街から鬼の城までのメイン道路ということであり、「そこに隠すとか、足を踏み入れ難い場所」とするには無理が生じてくる。勿論、車道は現在に整備された道路ではあるが、旧道の谷間を上っていく道に大体は沿って造ってある。この車道脇に何番・何番の石仏が並んで御座る。 この石仏22番から徒歩で10分も上ればそこへ着く。

<第3に> その「封印儀式」をする広場がない??  (※5/25現在・未調査です)
この広場の“ひろさ”については、素人探偵がつよくこだわっている項目ですから、myブログの「吉備」にも卑弥呼の大量の銅剣と銅鐸が埋めてある!で、予測した式を転載します。

卑弥呼の銅鏡100枚=出雲の銅鐸39個+野洲の銅鐸24個+神戸の銅鐸14個+吉備の予測銅鐸数(23個)
出雲の銅鐸数39:出雲の銅剣数358本=吉備の予測銅鐸数23:吉備の予測銅剣数(×個)
                                吉備の予測銅剣数 ×個=207本


この封印の儀式は、荒神をのり移す媒体だとした銅鐸のほうが主で、稚児を殺めたとした銅剣の封印儀式のほうが後で、決して先にはならない。 卑弥呼が封印したかさせたかは別として、各地・各部族の「太夫(たゆう)さん」が自分たちの使用していた銅鐸をもちよって、<合同で>封印儀式をおこなうわけだから、当然、銅鐸の個数ぶんだけの人数は集まる。 人任せにして「それじゃぁ~頼みますらぁ」というわけにはいかない。(笑) さらに、この儀式に卑弥呼が?加われば、最低でも二人の弟子がつく。 さらにさらに、各地から集まる太夫さんが一人で「畏れ多い」銅鐸を持ち運ぶとは考えられないから、当然「副」がつく。 このように考えると、その人数はだんだんと脹れあがる。

この人数が、『立つか座るか』の場所がいる。
少し、話が飛ぶかも知れないが、日本での「序列」についての考えかたに立ち入ってみよう。 魏志倭人伝に「人々、序列をもって座らず」というのがある。 階級社会が発達した中国と異なり、日本では「悪しきことや、慈雨や恵みを司る」のは、全て「荒神様」のお力によるとの考えが根付いていた。 序列の考えに変わってきたのは卑弥呼以後かな? 私達が外国のみやげ話しをするときにも奇異に映ったことのみを語り、あたりまえと思うことは話さないのである。 序列社会の考え方は、中国からのものである。 あなたのお家の「床間→上座→中の間→下の間→土間」は、この考えに基づいてそれぞれに「段差」がついている。歩きにくいのにねえ。

日本での「序列の考え方」は、それぞれに立場のちがいはあっても「神の下においては、皆平等」との考え方がつよい。 これは、『同一行動は、同じ高さのフロアーで』に通じる。魏志倭人伝に「序列をもって座らず」とあるのは、中国人の目でみて、それが奇異に映ったから記したのである。 それまでの日本人の序列についての考え方は「前後はあっても高低はなかった」と素人探偵はみている。

 少し、余談になりますが、 < その時刻は?> 
東北に因を発した「大津波」にのって、未明に竜神はやってくる。(別紙・報告書で)これに準じて儀式はとりおこなわれる。
 <未明の時刻からはじまり、その陰を封じる力を持つ太陽神がいずる時>
   言い換えて「陰と陽の境目」がこの儀式のクライマックスだ!
この答えを導いた種明かしをしましょう。
 どこだか思い出せませんが、松明(たいまつ)片手に、闇夜の行進!ってのがありました。 このように、今私達が行っている諸行から、謎解きをこころみれば、その時間までもが判明してくる。 それに、あなたが、専門家が、“気付いて欲しい”と、今は願うばかりです。

 さて、それた話を、もとに戻しましょう。
< 吉備の銅鐸の予測埋め数を23にしました。>
銅鐸“1つ”につき、お太夫さんと副の2人。それに「卑弥呼関係」の人数が下でも3人。 この総計49人が、多少の斜度はあったとしても、その斜面の下で「立って拝む」広さがなくてはならない。「座って?」という考えもあるが。屋内ならともかく野外となると、少しイヤだな(笑) 「立って」の次にくるのは「踊る」が考えられる。 これに関連しては、神楽、奉納相撲で四股を踏む、盆踊り、踊る宗教、それに、六方を踏む歌舞伎等も、この流れからきていると推察している。 この「踊る」と弥生期の「呪術」を結びつける考え方が、今の考古学にあるようです。

  【最小人数に見積もって、その49人が立って封印の儀式ができる平地(なるち)】

果たして、経山北側の「牛の背」の辺りに、そのナル地はあるのか? 引き返してみた。 だが緑が生い茂り見とおしが悪いうえに潅木が邪魔をする。 おまけに谷間の源流部であり湿気ていて足下が悪い。 止めたァ~、次回にしよう。(笑)
このような湿地には、カエルをねらった蛇がいる。鬼の城の遊歩道では、湿地のいたるところに「まむし注意」の札がたれていた。用心にこしたことはない。 帰ろう。 しばらく山の中腹についている遊歩道を進む。例の猪が掘り返した道だ。 ん? これは新しいぞ! 来しなにはなかった! まだ黒く湿気ている。 右は急斜面。左は急峻した谷。猪突猛進というが逃げ場がない。脇目もふらず一気に鉄塔まで! その足どりの速かったこと。(笑) そこからも、ひたすらに黙々と山を下る。

15時10分 「経山への指標」 着。
 もう安心だァ。 此処よりしばらく下ると、2・3の踏み石でまたぐ清流がある。 そこで顔を洗ったときの気持ちよかったこと。 ここからは、トロトロと、と!? 道になにやら、ひも状のものが半分? 杖でチョンチョン! 「・蛇だぁ!」 退散してくれた。 “銭形紋・三角頭”を特徴とするマムシだが、幼体はアオダイショウに似ていると云うから、最後まで、皆さんもご注意を!!
15時25分 < 駐車場へ帰着!!>
  で!? 朝から停まっている 「ランド・クルーザー」の主は、いったい何処へ?
                                            (この項、完了^^)
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 次の記事(ページ)は、BC.2001年の “巨大地震によって変形した山々”です。
記事のすべては関連モノですが、記事数も多くなって参りましたので、カテゴリー別に御覧になると読みやすいかも知れません。(^-^!)



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どなた様、拍手をありがとう^^。 只今('10 5/23)までで2拍になりました。
< 岩屋 に埋められている大量の銅鐸、現地画策,その 2 >
     (岡山県総社市の)
< 岩屋に埋められている大量の銅鐸、現地画策,その 2

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         「お知らせ」
月別アーカイブ2016/11月<徐福達が日本史に与えた影響のⅦ>の記事を挿入しました。
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  < 卑弥呼が埋めた(か埋めさせた)大量の銅剣と銅鐸を見つけたい人この指とまれ!>
表題を掲げて、十数年の広報活動を続けてきましたが、未だ、何方さまからも取り合って貰えていない。もう、私には貴家や世間さまがこのビッグゲームに参加して下さるまで、お待ちできる頭脳寿命は残っていない^^!。
      この先は “ ツルハシかついでスコップ片手に”の暴挙にうつります。
さて、あなた様は、「出土してから騒ぐ、それとも出土するまでを楽しむ」 のどちらになさいますかぁ~^^?(笑い)

      今までの概略・(卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸よりの抜粋)
<なぜ、“大量の”銅剣や銅鐸が埋められたのであろうか?> ← はじめて訪問して下さるお客様に^^、
銅鐸は、大量にまとめて埋められた以前にも、必要時以外は個々に(土中保管説)埋められていた。話は、これを大きくさかのぼり、「BC.2001年の12月25日、未だ暗い朝の6時頃、地球を半周した彗星が、龍飛崎の上空を通過し、三陸地方に巨大隕石となって光臨した!」 ←この詳細は、myブログのカテゴリー「巨大隕石」へ、どうぞ^^!
祖先はその赤く輝いた巨塊をその風切り音から“竜”と命名した。この巨大隕石は、隕石の冬による慈雨と、津波による魚介類や瑞穂という恵みを打ち上げ、そして犠牲を強要する荒神となって“人々の心の中”に入り込んだ。神の発生は大集団社会へと展開する核となる。その過程で雨水の必要性もだんだんと増してきて“雨乞い”が始まる。願う相手は、その慈雨をもたらした八大竜王だ。 この荒神様は、慈雨との交換に赤い血を欲しがる。生け贄の歴史は、最初の小動物からエスカレートして、 ついには 「私達には、これ以上に大切なものは有りません。 この幼子を煙に変えますから、どうぞ、この海水を、この幼子の煙を雨雲に換えて下さい」 と迄になる。 “その天竜水神を呼び寄せ、荒神を乗り移す媒体となったのが銅鐸だ!”  それ等の “雨乞い生贄文化” が永々と続いていた3世紀の初頭に、言い伝えの箒星が現れた。 朝夕の空にあるその星は日々に大きさを増していった!
  又来るあの大事変が!!   人々が恐れおののくなかで、ヒミコは云った。 
     「やがて、あの星は全天を覆うだろう。 私がその難を逃れるお祈りをしてあげる」 と、 
        結果的に、この彗星はニアミスに終わり、人々は大きく安堵した。
 
火巫女は説いた。「真は、お日様が主神で荒神彗星は、そのお使者であるよ。 その証しに、その星は、朝夕のお日様の方から来たでしょ。悲しい習慣りは、止めにしましょう」 元は、と云えばヒミコは、一般の子と区別するために、その削がれた耳を、おカッパ頭で隠し、人里離れた境内で “人身供儀用” として、大切にそだてられていた三歳~七歳までの幼子のうちの1人であったが、その口寄せが 「よく当たる」 ことから、その厄を逃れていた。この一件でカリスマ性を増した卑弥呼は、銅鐸を中国・魏から取りよせた銅鏡に替えさせた。初めて見る銅鏡に修厳者達は驚愕した。並みの驚愕ではない。太陽の光を反射するその鏡は直視することが出来ない。 目を閉じて地に‘ヒレ伏’した。日巫女さまの云うことに間違いはない! 早朝の戸口に白羽の矢を立てられれば、否でも愛児を差し出さねばならない社会制度。 雨乞いや厄災時には“その命”神が召すのだと! 稚児たちを殺めた。 一度使った刃は二度と使いたくない。出雲の大量の銅剣は、犠牲者の数だ。 このような「衆生雨乞いのための社会制度」に、不満がくすぶっていたから、卑弥呼の提唱する“銅鏡象徴文化”へと、容易に変わっていく。 しかも、ヒミコさまは、その銅鏡を下さると云う。 荒神・銅鐸文化が発達し、卑弥呼(銅鏡)文化へと変わった所には、 「その神二度と起こしてはならない! その剣二度と持たしてはならない!」、と
不使用にした銅鐸と銅剣が持ち寄られ、それぞれが 別離させて“封印”されている。 その「雨乞いは」、村人こぞりて行う大行事であり、その埋め場所は “衆知の事実”なのに、その銅鐸や銅剣が、ごく近時まで盗掘の被害に遭わなかったのは、墓泥棒も恐れるほどの “祟り”があったからだ。しかし、銅鏡にかえても欲しい雨は降るとばかりは限らない。「やっぱり荒神様は、生娘を欲しがっているのだなぁ~」と歴史は続いていく。 
以上が解れば、「主題の、大量の銅剣捜しは」簡単だ! 出雲では、すでに、その両方が出土しているから、
これに習えばいい。←この詳細は、myブログのカテゴリー「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」へどうぞ^^!
魏からの銅鏡数100個=出雲銅鐸数39個+<吉備銅鐸数23±α個>+神戸銅鐸数14個+野洲銅鐸数24個
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 2016 / 2 / 04(木)        
 この日の気温は10°C前後で晴天。総社市鬼ノ城(きのじょう)へ着いたのは午後の1時頃、平日のせいか、60~70台停められる駐車場には、10台ほどしか停まっていない。観光の時期を外れるとここまで足をのばす人は、歴史に興味のある人か健康志向のハイカーしかこないようだ。ここから車で10分ほど走ると目的の岩屋へ着く。それでも、10台ほど停められる駐車場には2台の車が停めてあった。目的は(自説)卑弥呼が関係したとする大量の銅鐸(予測数23個)が埋められていると推察している岩屋(宮?)の裏山で、その銅鐸が埋められているとした場所をピンポイントで写真を収めておきたいとの思いからだった。というのは去る1月23日、岡山県立図書館で、著名なお二方の吉備の歴史についての講演を受けたことに影響された。

 以下、その講演の概要
<吉備の弥生文化と青銅器>
 日時 平成28年1月23日(土)  午後1時~4時
 場所 岡山県立図書館多目的ホール(岡山市北区丸の内2-6-30)
 主催 岡山県古代吉備文化財センター
     ■  弥生時代の瀬戸内地域の交流と吉備地域
         田崎 博之  愛媛大学文化財調査室長・教授 
     ■  吉備の銅鐸  (仮題)
         難波 洋三  奈良文化財研究所埋蔵文化財研究センター長

<御講演で “銅鐸”についての所感>
銅鐸は四千年前、東北地方に降臨した巨大隕石(奥州市、岩淵國人先生「縄文超々巨大津波」文芸社)=荒神=竜神=水神を呼び寄せ乗り移す媒体だと、すでに謎解きしていたが、具体的にどんな使われかたをしていたかいまいち解けていなかった。
①流水紋は、その時の津波紋だとすぐに分かったが、綾杉紋は初めて聞く言葉である。御講演を聴きながら思いついたのが地震波ではないかと? 三角紋は巨大隕石が飛ぶ時の光り輝く隕石光だとすでに謎解きしている。銅鐸文化の根幹には、四千年前の大事変(myブログで)の巨大地震と大津波(宮島辺のご先祖は、朝南から朝来たと云い津波高約16・7m?myブログ)が大きく作用している。
②銅鐸のすそ部の柄、四区紋から六区紋について、
四区は区画四方かと思った。つまり、東西南北の四方の気から神を呼び寄せ銅鐸に乗り移って貰うためのもの。それに天と地が加わり六方の考えへと移行した。シコで変換すると四股、四戸が出てくる。「シコを踏む」とか「六方を踏む」とかの言葉もある。さらに東西南北を分けて八方(郭)へと移っていく。そして、八方に天地を加えて十方へと移行した。十方暮れ等の言葉もあります。
③銅鐸上方の粗雑に開けられている穴(他の精巧さに比べて)について、
難波先生は、「銅鐸は湯沸かし器でその穴は燃した時の煙穴」だと云った人がいた。とユーモアを交えて仰ったが、ふと、そのセンもあるかもと思った。というのはこの時期、吉備津さまで鳴る釜の神事があると聞いている。その神事がいかにされているのか知らないが、銅鐸でいうと、荒神様を呼び寄せて荒神が宿った時になにかの変異がなければならない。私は、新築時に悪しきを払うご祈祷をして貰ったことがある。湯釜の上の蒸篭(せいろ)でもち米を蒸す。その時、共鳴共振現象が起きて「ブオツー」と鳴る。鳴る時ばかりはないそうだ。銅鐸を吊るしてその下で火を燃す。すると、舌が揺れて銅鐸をたたく? 円形にしたのではたたき辛いから楕円形にか^^? 神事を終え熱く憑いた銅鐸荒神を冷ます時、素手では熱くて持てないので、その粗雑な穴に棒かなにかを突っ込んで水に漬ける。この事は、結果として埋めてあった銅鐸の錆付きや土を落とす事となり、銅鐸の長持ちにつながる。いずれにしても吉備津さまの「鳴る釜の神事」の子細を知りたいと思う。
④銅材料について、
銅鐸の銅材料から、年代、産地を割り出す方法があるとは、新聞か何かで見たことがある。
詳しいことは、素人には分からないが、段々と立派なものにしたいのが世の常^^! さらに、より裕福な郡(こおり)ほど、大きなものへと造り替えていった。この場合、現在使っているものに材料を足して新型大型へと造り変えたことも考えられる。特に、吉備地方は破壊文化(田崎先生)があることも知った。 さて、銅製材や銅鐸の拡布だが、私は『徐福達を外しては語れない-myブログ』と思っています。彼等は、その製法や製品、はたまた薬事治療を持って、人足や列島各地の珍宝薬石を集材し、中国の旧正月に合わせて中国へ送り届ける交通網を作り上げた。陸路は出雲から備後へと、そして出雲・千屋を経由して備中へと。さらに、敦賀湾から愛発関を通り琵琶湖へと。海路は田崎先生に勉強させて頂きました。TVで村上水軍を先祖にもつ秦(性)の人がいました。
⑤銅製品のお金的価値(難波先生)について、
興味ある考え方ですね。それが判れば食料生産量等から その群落が持つ人口数等も推察出来そう。昔の人がいうに「一畝一俵、一株一茶椀、一穂八十八粒、大人一食1、5合」 と教わりました。                                      以上、思いつきまで、□

< 公園デビュー(予告 )出来なかったのは、全て自分のせい >この講演(1/23岡山県立図書館) の最後に、「時間のつごうで、お一人だけご質問をお受けします」と頂いたのに挙手が出来なかった自分の不甲斐なさを思うと悔やんでも悔やみきれない。120名の歴史家の方達のまえで、( 新米ママが我が拙論を連れて) 公園デビュー出来たのにと思うと残念でならない。願ってもこない千載一遇の好機を逸してしまった。 これで又、広報の振り出にもどってしまった。 ・・・・・、 今となっては、それ(大量の銅鐸や銅剣)を 自分で掘り上げるしかない! ! 

<こんなこともあっての岩屋寺の探索である。二度探索した>
  岩屋寺観音院
    ○○時代のその昔には、東の比叡山と並び称されるほどにぎわっていたとか。
  岩屋寺観音院

  鬼の差し上げ岩
  岩屋鬼の差上げ岩

岩屋という地名は、この人手とも自然風化ともつかない姿形をした巨岩に由来する。そして「鬼の差し上げ岩」と呼ばれるのは、鬼が差し上げたとする(右手の)痕が巨岩の下方についていると伺った。それをネットで知った若者連れが下にマットを敷き寝転んでその霊気をもらう パワースポットとなっているとか^^!。 近年に下部が崩落し、危険なことから、現在は、縄を張りめぐらし立ち入り禁止となっている。

  鬼の差し上げ岩と、同じ敷地内にある岩屋寺金堂
      岩屋寺金堂
この先の記述(3頁分)は、地区のご迷惑や 歴史破壊に繋がるから^^!
( '16, 2/15 現で! ) ブログには揚げない〔極秘〕未公開 とします。この先は、先様でお考え下さい。長駄文にお付き合い頂きまして、ありがとう御座いました^^。 
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<記事が中途半端 になって真に申し訳ありませんが>
このあたり一帯は、鬼ノ城の観光地化に伴い、心無いハイカー(私自身^^!)もあるのでしょうか^^! 「私有地・地主さまの協力のもとに成り立っている」 との立て看板がありコースを外れての立ち入りが禁止されています。

<卑弥呼が埋封した大量の銅剣や銅鐸の埋め地を 「ここぞと推定しても>
立て看板には、『樹木の伐採、草木の採取、土石の掘削等は県知事の許可がいる』 と書いてある。埋蔵文化財は貴重な国民の共有財産です。文化財保護法では,周知の埋蔵文化財包蔵地、またはこれに隣接する土地において土木工事などの開発事業を行う場合には,都道府県・政令指定都市等の教育委員会に事前の届出等を,また新たに遺跡を発見した場合にも届出等を行うよう求めている。その発掘費用(今から18年前の見積もり数百万円!アーカイブ2008/4月へどうぞ^^)は原則的には地主持ち。素人が勝ってに掘り出しても専門家のお墨付きがなければ意味がない^^!。

さらに、土砂災害防止法では、土砂災害のおそれのある地で『上記』のような作業をする場合、あらかじめ規定の届出をせず、又は虚偽の届出をした者は科料が科せられる。宅地又は垣、柵等で囲まれた他人の占有する土地に立ち入ろうとする場合においては、その立ち入ろうとする者は、立入りの際、あらかじめ、その旨を当該土地の占有者に告げなければならない。等の規定もある。実績のない素人が 「ここに、卑弥呼が埋めた大量の銅剣や銅鐸があります」と言っても、だれ一人(専門家が)相手にしてくれない現在、その申請書がとおるとは思えない。

このように、二重三重四重の幾多の困難が待ち構えている。金属探知機をかつげばいいのだが。それでは意味が半減する。素人探偵がたどり着いたように、 「地名と、地勢と、その歴史的背景」 を探れば、ピンポイントでその埋封地(筆者の造語)を特定できることに意味がある。
   ドがつく素人が、スコップ片手にツルハシかついで掘る前に、先様の“お許し”が要る。
     たがために、血反吐吐くかや、時鳥(ホトトギス)、おぼろなりとも、月さえあらまじ
       ( カテゴリー<ゲスト様>粗茶室より
闇夜のホトトギス。 その口内は、血反吐を吐いたような赤い色をしている。温暖化のせいでしょうか? その不如帰(ホトトギス)の声も年々少なくなり、今年は当地で一度も聞いたことがありません。 

史実探偵: 平 素人
(5/29記) 5/26に、ご訪問のお客さま> 3拍手をありがとう御座います。気付くのが遅れました。コメントを下されば助かります。コメント欄は、最下段のC0をクリックして頂けると表示されます^^!
「吉備の大量の銅剣の探索」 その続きⅣ
 「吉備の大量の銅剣の探策」 その続きⅣ
<卑弥呼が埋めた(吉備の)大量の銅剣を捜して!>
                                       (2016/4/20 )
   お客さまへ> この記事は追記方式で進めています。
            今回(7/05)をもって、一旦この記事を終えます。
   書き込みがないにも関わらず、日々訪問して下さる<お方様>
     こころよりお礼を申し上げます。
    つぎの記事は、「総社市・神明遺跡」を予定しています^^。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 さてと、吉備の岩屋に埋めてあるとした大量の銅鐸のほうは一応の目星がついた。
 あとは実行を残すのみ。ですが、そこは“立ち入り禁止”の場所なので一時休止して^^! 
 次は、その銅鐸とセットして埋められている大量の銅剣類の探索に移ります。


<その前に、今迄の(拙ブログの)要点を、今一度整理しておきます。>
新しいお客様のために^^

今からおよそ1700年前、 卑弥呼は、「私達が今まで崇めてきた荒神さまは、主神太陽のお使者であるよ」と唱え、その象徴であるとした魏からの銅鏡100枚を「出雲と総社と神戸と野洲」 の4ケ所に分け与え, それまで各部族が雨乞い等の厄災時に、荒神を呼び寄せ乗り移させるために使用してきた銅鐸は 「岩」の付く地に埋め。そして生け贄を殺めた銅剣(等)は、その西進してきた荒神に容易に取られぬようにと、ふた山越えて、その西方向及び西南方向で、約1里(=約4km)離れた場所にあって、天に抗う△剣山の形をした山の北側と対面した陽光のあたる山の斜面に。
     
       ひと山越えてぇ  ふた山こえてぇ  三山のまえでぇ  
        狸さん、々さん踊ろじゃないかぁ~

 卑弥呼は、
『 この銅鐸、二度と その荒神に乗り移せまじ!この銅剣、二度と その荒神に持たせまじ!!』
と持ち寄った銅鐸につづき、その大量の銅剣に大祈祷をして “埋封”(筆者の造語)した。
(注: それまでの一時保管する埋納ではなく、二度と使わないとして封印して埋めること。)

 銅剣の埋め地を銅鐸の埋め地より、西及び南西方向としたのは、BC.2001年12月、竜飛崎上空を飛び、東北地方に降臨した巨大隕石が発した巨大津波と巨大地震の西進によるもので、その大事変は、大雨を降らし、津波は魚介と瑞穂を運んできたことから、竜となり、荒神さまとなって人々の心に入り込んだと謎解きした。その後、その時の降雨と交換してもらうために、「私達には、これ以上に大切なものはありません。どうぞ、そのお力で慈雨を下さい」 と稚児の命を差し出すまでになった。その歴史が永々と続いたある年に、全天を覆うほどの大彗星が現れた。その退散祈祷をしたのが卑弥呼であった。この件でカリスマ性を増した卑弥呼は、稚児の生け贄を伴う「銅鐸文化」を止めさせ、「銅鏡文化」、すなわち太陽を主神とした身代わり象徴文化へと変えていった。
  ( 詳細は当ブログ: カテゴリー「巨大隕石と大津波」 と「・・・、この指とまれ」を参照して下さい^-^!
       

卑弥呼が魏から得た銅鏡100枚 =
    出雲の銅鐸39個+野洲の銅鐸24個+神戸の銅鐸14個+吉備の予測銅鐸数(23個)

    吉備の予測銅剣数は、吉備の予見銅鐸数23(±α個)×9 =207本

※ この9の数は、 私が Dr.>と仰ぐブログ “いずものこころ”での<論説>から、
      (出雲岩倉の銅鐸数39個と 出雲荒神谷の銅剣数358本の比率) を引用しました。


以上ような論をたて、色々に探索するも、素人の貧弱な知識と行動力では、中々にその的が絞れていない。一番最初は、「谷奥」の言葉にとらわれ<黒尾・西谷>から入っての探索であったが、現地での探索は思っている以上に広くて悪戦苦闘を強いられた。つぎに<経山>の北側に連なる峠状で筆者が「牛の背」と名付けた辺りを思いついたが、これもシックリとこない。さらに、大量の銅剣が出土した出雲・神庭西谷の荒神谷では、その南側に「三宝荒神(さんぽうこうじん)が祀られていた」という情報を新しく得たことから、鬼ノ城(きのじょう)の西に「三宝」に似た「山王神社」があったことを思い出し、その裏山で倒木バタバタの山斜面を捜索するも、その大量の銅剣を埋めるような場所は見当たらずじまいで今日に至っている。 しかし、この度の岩屋の(前記事)銅鐸探査で新しく^^?仕入れたことがあった。

<その一つ、矢谷>
岩屋での銅鐸の埋め地を絞り込みに出かけた時、駐車場でそこを管理しているお人からの情報で、「今はこの地を離れているが、以前に、この所の谷あいに住んでいたことがあって、そこは新山地区<矢谷>と呼ばれていること。そして、「その名の由来は、○○の命がこの所に向かって矢を放ったことから付いた」と聞いていると、教えて下さった。 まてよ・・・・・?? だったら『その矢はどこから放ったのであろうか? 前の記事「足高神社」で見つけた“矢射り台石(仮称)”。 それと、<経山探索>の時、気になっていた上部が平らの据え石があった。大小2基あった。その時は、その上で何かに向かってお祈りする為の石台かとも思っていたが、足高神社と同様に、その上部で矢を放つ為の台石だったのではないのか? 共に急峻した山の中腹にある。急峻している場所を選んだのは、見通しがよく何にも邪魔されず矢が撃ちやすいからだ。そうだ!その写真を撮りに行こう。
<経山、登山道の中腹にある矢撃ち台石?> (2016/4/24撮影)
  経山・矢撃ち台

さらに、岩屋寺金堂の境内に残っている基礎石は、「今は建物の形はないが、昔、鐘楼があった」とも伺っている。これも前記事の倉敷「足高神社」と船穂町の「高徳寺の鐘楼」の関係に似ている。以前、なにげなく見過ごしてきた小さなことが、推理小説風に段々とからみ繋がってきた。面白くなってきたぞ^^。 このセンで捜して大きくは間違っていない。
(蛇足ながら、my報告書の全記事は、独立形式をとってはありますがその全ては“隕石”に繋がっています^^!)

<その二つ目、新山>
この銅剣探査で、絶対に外せないことがある。その一つに、「ひと山越えて~、ふた山越えて~、み山の前でぇ~」 その大量の銅剣を埋めたとの “伝言 ・マリツキ唄” がある。出雲では、大量の銅鐸が埋めてあった加茂岩倉~大山、大黒山~仏教山の間の二山。神戸では、いわや(桜ヶ丘)~○○山と○○山~荒神山。野洲では、大岩山~○○山と妙光寺山~三上山までの間に二山があった。しかし、この総社市岩屋の捜索では、岩屋と経山との間には「犬墓山」の一山しかない。新山とあるが、その頂きらしいものが見当たらない。しかも岩屋から経山まで(約4km)一里、離すべきところが1km少々しか離れていない。「その進入許すまじ」とした剣山型の経山は絶対外せない。・・こまった。困った。・・、そこでご先祖さまは考えた。4kmのほうは無理だが、その間を「二山(にやま)地区」と名づけて「ふた山」あることにしょう(^^!)。それが訛って→<新山・にいやま>になったか^^? この新山は、以前の筆者が登龍山に上った竜神を竜神木に見立て砂川へと引っ張り出す歴史がつづき大きな神木がなくなってきたから、新しい山から伐りだそうとしてその山名をつけたと謎解きしていたが、それは間違いだったかも知れない。いずれにしても、その昔が卑弥呼の生存する1700年?の前のことだから確かめに行けない^^!。

<その三っつ目、北斗神社>
この北斗・ホクトの名前は岩屋銅剣探索の段階で早くに得ていた。この新山地区で鬼ノ城に行くかたわらに直径1m余りの大きな釜が据えてあった。「鬼の釜」と呼ばれているそうだ。そこで出会ったご老人からの話で、「山王神社を少し上ったところに「北斗神社」が石碑だけだがある」と伺っていた。その時は、卑弥呼の代に去来したと思われる彗星に関係すると推理した「妙見信仰」や「北斗信仰」に繋がっているかと軽くうけながしていた。しかし、この度の「もとの名は、二山(にやま)で、それが新山(にいやま)の字をあてるようになったのではないか?」 と思い込む(^^!)ことにしたことから、 ひょっとして、吉備の大量の銅剣の埋め場所は、その“石碑・北斗神社” あたりではないのか? たとえ岩屋と経山の間が一山であろうと、南であろうと、 「巨岩がある岩屋と剣山形の経山は、絶対外せない“約束事”だ!」 その間はワイルドに考えればいいとの思いが生じてきた。
 先の探索では、銅鐸の埋め地である「岩屋」に段々近くになり、離して埋めることの意味がうすくなることや、ふた山離して埋めるべきところ、<犬墓山>の一山 しかないことから意識から外していた。 ・・・そうだ。 これも現地をおとずれ、写真撮影に行ってみよう。

総社市岩屋・経山付近図    ( 図はYahoo!Japan,Zenrin地図に加工を加えています。)
   岩屋・経山付近図-2

         <↓大量の銅剣が埋めてあるとした北斗神社石碑周辺 >

             × (2016/5/00撮影の予定)





    素人探偵の推理が正ければ、
大量200本余りの銅剣類が“ここで”1700年の眠りについている!! □

      あとは、「その場所を探して写真に収めればいい」・・・と、 
      このように結んでこの記事を終えればいいと思っていましたが???

<一筋縄ではいかなかった!>
 筆者としては、かなり近くまで絞ったつもりでいたが、現地調査においては、私有地も多くその承諾をとりながらの捜索になるので、実績や肩書きのない ドが付く素人の説明では 「ここを掘らしてください」 といっても許可が出そうにない。地元の人の協力なくしては、ことがならない。 一度、事をこじらせてしまうと “立ち入り” さえも出来なくなってしまう。 
   ・・・「時を待ちたい」・・・

     経山矢撃ち台石より北斗神社方向(天空の茶屋太一や)を望む
   経山矢撃ち台石より北斗神社方向
   

    
 まことに、申し訳ありませんが、以下の 『 記事 3頁分は、』 ブログには揚げないこととしますので、よしなに・・・・・・・(^-^!)

('16/7/05)をもって、この記事を一旦おえます。・・・ありがとう御座いました。(深礼)
       つぎの記事は、 「総社市・神明遺跡」 を予定しています^^。
       どなた様> 2拍手目をありがとう御座います^^。
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