吉備の 「大量の銅鐸」 を画策!
かれこれ10年ほど前になるかな。筆者は、吉備の「岩屋」にも 大量の銅鐸があると推理し、
すでに大量の銅鐸が出土している、出雲『岩倉』、滋賀県・野洲町『大岩山』、神戸市・桜ヶ丘『いわや』の←(後日に判明)、地名による『岩』つながりで、 同一文化をもつ岡山県の総社市 『岩屋』にも、必ず大量の銅鐸あり!と、 画策したことがありました。 だが、そんな突飛論など、だれも相手にしてくれない。(当時も、今も? ー笑いー)
<別紙電子出版、極秘報告書「巨大隕石と大津波」の、祖先からのメッセージの章に記載>
↑を クリックして下さると、そちらへ飛びます。( 無料の立ち読みが出来ます。)
県の「埋蔵文化財係」へTelすると、なにかの関連した遺物が出ていればいいが、「あるかないか分からない」話にはのることが出来ない。 そうですよねえ。大切な税金を使うわけだから、そんな眉唾で、賭け事のような話には、だいいち予算として、議会が通らない。
ならば自分で!、 ところがそれが大変!!
( 以下: 素人知識ですから、間違っていたら、何方か教え正してください。 )
まず、埋蔵文化財に対する法律。
例として、個人の所有地のビル工事で何かの遺物が出たとする。その調査は、地主の全額費用において対処する。そして、その調査が終わるまでは、工事はできない。簡単に言えば「自分所有の土地でも、なにかの遺物ありと判明すれば、自分の責任と費用において調査を終えないかぎり、それ以上掘り進めることも出来ないし、その上へ建物をたてる「建築許可」も下りない。一昔前は、それがイヤだから、たとえ何かが出てきても「知らなかった。見なかった。」で、工事を進めたそうですよ。
これも素人判断ですからと前置きして。 マイホームを建てようと土地を購入。その基礎工事で「縄文期か弥生期の土器」が出た! そこで、見なかったと“全員”がすませばいいが、後で噂にでもたつと「施主は知っていた」ことになるから、当然罰則がつく。 そこで「見なかった」ことにしてくれと、施主はその建築業者に依頼する。しかし業者さんは「あとが怖いから」といって、そこで工事はストップ!。 マイホームの土地購入には、くれぐれもご用心!! ( ならば、転売を!、ところが・・!?)
埋蔵文化財の発掘費用は、並の金額ではない! ( これも仮想ですー笑いー)
私の建築予定地から「こんな物」が出ましたと、管轄の教育委員会へ届け出る。
その重要度において、すわ重要だ!となる。 調査検討がはじまる。発掘専門業者に依頼する。そして発掘実行の「トレンチ調査」。このトレンチ調査というのを私はテレビで見ただけなのですが、所定の位置を「豆腐を切ったように」掘り下げていく。勿論、ちっちゃな手スコップと、手帚をもって、「何一つ見逃すまいぞ!」と掘り下げる。その範囲が広ければ人海戦術だ。女の人が日よけ帽をかぶって座り込んでやってましたよね。次なる「欠けららしきもの」がのぞきました。そこからは専門員が行う。出雲の「大量の銅剣発掘」の時は、カメラのレンズを掃除する「パフパフ」と、焼き鳥の櫛を使ってやったそうですよ。
このような発掘作業がおこなわれる分けですから、その人件費は思いやられます。ならば、ボランティアを募り、いい加減に!?、これって許されるかしら?? その多くは、大学がかんでいるようです。運良く自治体がその費用を肩代わりしてくれるとしても、その「調査完結」のお墨付きがでないかぎり、埋め戻しても我が家は建てられない。 せっかくマイホームを建てようと思って買った土地が、駐車場か家庭菜園をする価値しかない。 ご用心、ご用心!
この法律は、日本の埋蔵文化財の発掘において「諸刃の剣」となっている。一つには、税金を投入することなしに、その発掘ができること。逆にいえば、個人・団体が、その費用を負担しなければならないという側面をもっている。さらに、この法律のおかげで日本の「発掘作業」の量と、その水準を高めている。 しかし、その弊害として「考古学=実証主義」におちいりやすく、前年の考古学大阪大会(第○○回)の発表では、実証と、そうでないもの(仮説?)との比率は、「7 : 3、?}であり、ちょうどこれは欧米の逆だという。 これでは、九州大会でいう「攻めの考古学」は期待できない。
筆者が願うのは、実証至上主義は美学だが、それに陥ってはならぬということ。(特に若い人は)色んな議論のうちにそれを高めていけばいい。 大学では、その芽をつみ取る態勢をつくってはならない。 日本で(世界でも)第一級の先生が、「考古学において“その年代”を論じるとき、放射性アイソトープ法か、年輪相対法かの、どちらかの一方に統一して論じるべきだ」 と仰っている。 これを素人が思うのに、「一つしか無いその時」が、今の学問では推定できない!。 ならば、それを想像、空想と云われようが、推理、洞察と云われようが、色々に言ってみるのも楽しいではないか。 そして、地名を祖先からのメッセージとし『人文考古学』 として扱って欲しいと望んでいる。 反論、お叱り、大歓迎です♪ それより無視されることのほうが辛いから、(笑)。
このような経緯があって、「吉備岩屋に眠る大量の銅鐸を!」探しに出かけました。
鬼の城(きのじょう)から、○kmほど北へいくと、駐車場10台たらずの「岩屋」がある。鬼の城が70余台だったから、その規模からも察しがつくように、ここまで足をのばすお人は、よほどの通なのかな? ここに人工に設えたとも、自然の造形ともつかないような○○mほどの巨岩があり、「お宮と、岩屋寺」の二つがある。 この巨岩は「鬼のさし上げ岩」と呼ばれているそうだ。これも「吉備・桃太郎伝説」の材料になっている。 お寺のお題目は、「なむ、だいし、へんじょうこんごう」。 山の中腹ではあるが、お宮の下方にお寺があり、お寺の石垣のほうが立派なことから、その歴史的時間の後先を推しはかることが出来る。
此処に、二カ所だったかな。日本竹(真竹)の竹藪がありました。
古代においての「竹」は、石器とともにその生活用具として思いつくままにあげてみると、「箸、水筒、編みカゴ、箕、弓、矢、竹槍、屋根の骨材、柵」等々、実に多用だ。 又、その竹の皮でワラジづくり。おにぎりや肉の包装。竹の皮には除菌作用もあるそうで、昭和の末頃まで「お肉には竹の皮」が定番。 このような竹が石器・弥生期において身近に栽培されていたであろうとは、容易に推測できる。 地名としても「上竹、下竹」等は各地に残っている。 「竹取物語」もありました。竹藪の中には何かがある?!
ここで、その竹を取り上げたのは、竹の生育に注目した。 木の直根が約1、5mほど地中に入り込むのに対し、竹の根は、ほぼ50cm以上は深く入り込まない。そして他の草木を寄せ付けない。いかに、「二度と掘り上げまいぞ!」として、封印した大量の銅鐸だとはいえ、その上に巨木が生えて根が埋めた銅鐸に入り込んでは困る。竹林で「封」をしておけば、そのおそれは少ない。竹根が縦横にはりめぐるが再度掘り返そうとおもえば、掘り返せないでもない。長年使用したものへの一抹の愛着が残っているのだ。 と、このように推理しました。
その銅鐸について再々度?、論じてみよう。
銅鐸の歴史を一概に「銅鐸=何々だ」と論じることは出来ない。なぜなら四千年前に光臨した荒神さまが時代とともに、その地域性も加味して微妙に変遷しているからだ。貝塚時代の土器の破壊や、抜歯の風習。生け贄。吉備の特殊器。火炎型土器、等。これらの文化の延長として、朝鮮半島からの風鐸の影響をうけ、初めて「青銅器」としての形を成したのであろうと推測しています。銅鐸の使用は、素人的にみて日本だけの特殊文化ではないか?と思っています。
最終期の(卑弥呼代の)銅鐸は、
卑弥呼のような、祀り事をおこなう行者(太夫・おたゆうさん)が各地・各部族にいて、病気の治療から、困り事相談までを行っていた。”物事の禍を”なすのは、すべてその「荒神さま」のせいだと思っていた。 弥生期において、稲作が発達し人口も増えてくる。 時には流行病や、日照りも続く。 そんな時、人々は荒神様が「命」を欲しがっているのだと思う。 私達には、「これ以上に大切な命はありません」 これを煙に変えますから、どうぞ、そのお怒りを鎮め「これ以上、病を流行らせないでください。又は、慈雨を下さい!」と祈る。地域において多少の差異はあろうが迎え火を焚いて、海水を煮詰め、差し水をし、この水気、天に届けと! 衆人こぞりてお祈りする。
これが、現在の祭りや盆踊りの原点であり 『まつる、奉る、祀る、纏り、祭り、政(まつりごと)』の、全ては同根だ!と、謎解きしています。
その「荒神様」を呼び寄せ乗り移す媒体となったのが「銅鐸」だ。
当時の埋葬方法は、土葬である。それが火葬に変わったのは昭和代の中頃かな? 今の私達の多数が受け入れている火葬ではあるが、土葬から火葬へ変わるときには抵抗もあった。 「死んでからまで熱い思いをさせたくないよ~」との。 弔いの仕方は、歴史・民族によっても色々とあるようで、他に、水葬、鳥葬、人肉食葬。これを残虐だと断じてはいけませんよ。 死後の魂が空に舞うようにとか、愛する人を我が身に保持しておきたいとの願望もあるようですから。 最近では、散骨葬や宇宙葬が話題になったり、中国では、土葬の墓地が増え続け火葬への変換を検討のニュースもありました。ちなみに中国全土かどうかは知りませんが、日本のように地下へは埋めず、土をかぶせる円墳葬。これは「卑弥呼の円墳を捜せ」をサイドにしている筆者にとって興味があります。
何はともあれ、土葬がすべての当時において、火葬という埋葬方法は特異な埋葬方法であり、いかに衆生の為だとは云え 「幼子の煙を雨雲に換えて!」と、やる火葬・雨乞いは残虐だ。
つづきます。<あすとろさん>わたしの方こそ、気をもたせて御免なさい(笑)
ある日、ある年、草木は立ち枯れ、飲み水にも事欠くような “干天災害”があった。併せての流行病で多くの人が命をおとす。この事象は、天井におわし雨を降らす「竜神さま」が、その命欲しがっているのだ!。 「私達には、この幼子以上に大切な命を持ち合わせていません」。 「どうぞ、この命、この煙をあなた様にさし上げますから、その雨と交換して下さい」。 村人こぞりて、一心不乱にお祈りする。 その竜神さまを銅鐸に「呼び寄せ、乗りうつして!」。 このような単調なお祈りを繰り返すことにより、精神が高揚し一種の「精神変異」の状態をあらわす人がでてくる。 あらぬ事をしゃべりだす。 青森の「恐山信仰」を思いだしていただければいい。その人の口を借りて「竜神様」がなにかの言葉を発する。 勿論、この人が正気にかえったときには 「何を言ったのかを覚えてはいない」。
先の纏向遺跡で、木製の鍬を「人面様に加工」したものが出土したが、この場合は、太夫・イタコさんが、そのお面をかざし「その言葉」を発する。 分かりやすく言えば、神が乗り移って、『その言葉を発する時』 に、そのお面を使用する。 はじめからかぶっていてはダメなのだ。 お面の両端に括りつける穴がないことや、下部をすこし長くして凹み付けていたのは持ちやすくするためだ。 そのお面には「朱」が残っていたという。 このお面の流れをくむものは、今でも多くありますよ。
ことが終わった「その銅鐸」は、人里離れた鎮静な場所の土中におさめる。 又、使用する時の為に!。 愛知の一宮・稲荷山遺跡では、その半円部を突き立てるように埋めてあったのが興味ぶかい。 一般にはヒレという部分を横にして、次の回まで、大人しく 「寝ていて下さい」 とみるのが普通かな? このような文化・社会制度の延長線上に「卑弥呼」があらわれた。
→卑弥呼についての詳細は「この指止まれ」へもどります。
愛児を衆生のために差し出すという社会制度には不満が溜まる。そのような時に「卑弥呼」があらわれた。卑弥呼は「人身供犠の文化」をやめさせ、「代用・象徴物文化」に変えようと人々に諭した。 今に残る「護摩木」に姓名を書いて燃やすのや、おひな様流しや、灯籠流し、それに「身代わり観音様」等も、卑弥呼の影響かも知れませんね。 蛇足ながら、西洋の「魔女狩り」や、「日本の桃太郎伝説」も、この時期に発生したのかな?と思っています。 それには、その時に 「ニアミスした巨大彗星??」 を証明しなければならないのですが。 ・・・、
<話が長くなりました。もとの「青銅器の探査」に戻しましょう>
その卑弥呼の言をうけて「大量の銅鐸」をもちより、封印させた所が 「出雲・( )・神戸・野洲」 であった。 これ等を文化交流の(伝播・道筋の)考えからも、同様な竜神・雨乞い文化をもち、岩つながりの「岩屋の地名」がついている吉備の地の (空白) が考えられず、岡山県総社市の岩屋にも、必ず大量の銅鐸が埋められていると推理したのであった。
その時、“ここぞ!” と思ったところが、「岩屋宮?」と「岩屋寺」の間にある竹藪。
この竹藪の表下には「大量の銅鐸」が?? 「竹取物語」はそれと教えてくれている! ところが! そこは 「県の管理地」・・・、
県の管理地ということは、その所有権は、国にあるのかな? 銅剣が埋めてあると推定した黒尾地区・西谷は、総社市の管理地であった。いずれにしても「公」が所有している。「公」だと、銅鐸にしても、銅剣にしても、その探査は非常に難しくなる。
(以下も、素人考えですから間違いがあったら教え正してください。)
このあたり一帯は、明治代から土砂流出防止のために、巨費を投じて治山・治水事業をしていた。ということは、立木の伐採や土石の掘り返しはおろか、草花の採集までもが法にふれる。 ただ、昔からの「入会権・いりあいけん」というのがあって松茸やらのキノコ類、山菜、(焚き木取りも?)等の採集は、地もとの人のみに許される。だから「入山禁止」の垂れ札がしてあったのである。私のようなヨソ者は厳密にいえば土石は、おろか小枝一本も持ち帰れない。 ましてや「ここぞと思う所!」を掘り返すことなどとうてい出来ない。
西谷の上流に「かつては田畑だったが」今は、笹竹ぼうぼうの所や、遊歩道の所々に、「私有地」につき入山禁止の表示があったから、私有地もあるにはあるのだろう。では、そこが「私有地」だったらどうなるか?
(これも素人判断だと、あらかじめお断りしておきます。)
私有地のほうがいい♪。 そこが私有地だったら、地主の許可がとれさえすれば、少し(笑)乱暴な気がしないでも無いが、スコップ片手にツルハシかついで出かけることが出来る♪。 運良くそこにあたれば、銅鐸の一個や二個!!、銅剣の一本や二本!!が、 ツルハシにかかるかも知れない。 後で 「とやかく云うお人」が必ず出ようが、そんなことを気にしていたら、「日本史に風穴?<銀きのこさん言>」は、あけられない。 多少の(^^?)いたみは伴う。
その「青銅器の所有権は?」
勿論、地主にある。 もと旧家の分譲地を宅地として買った。 そこから瓶に入った小判が出てきた!ら、どうなるか? もと地主が「何か証明できる書面」でも残っていれば、新地主と折半?。 無ければ、全ぇ~んぶ!新地主のもの♪。 このように「何が」でようが基本的には、その所有権は個人(団体)にある。 だから「埋蔵文化財の調査・発掘費用」も、自分で出しなさいというのかな?
この場合の「青銅器は」ただの青銅器ではない。“卑弥呼が封印させた大量の銅剣と銅鐸”という付加価値がついている。 そして、「それが予測できた」というおまけ迄ついているのだから、その価値は計り知れない。
それが「吉備で銅剣と銅鐸」のみにあらず。「神戸」や「野洲」でも、大量の銅剣が、早いか遅いかの違いこそあれ、必ず出土する!。 筆者がこれほど迄に「確信的」にものを言うのは、『ご先祖さまは“ウソつかない“嘘をいっても益がない』、地名という伝言にウソは無いからである。 これが一カ所でも出土すれば、「どうなるんでしょうかぁ?」 出雲の大量の銅剣・銅鐸は「国宝」になりましたよね。
それが、「いかに個人の所有であろうと」、国としては放っておくことが出来ない。
その青銅器は、『歴史的・民族の宝』ですから。 こうなると、それは、その土地も含めて所有者の、「言い値!」。 遠慮してはいけませんよ。例え何千万と云おうが、億?と付けようが、 後には、それが「日本史」は、おろか「世界史」をも動かすきっかけとなるのですから。(!笑!)
総社市岩屋の大量の「銅鐸」の発掘を業者さんに、口答ではありますが、参考までに「見積もり」して貰いました。 (00年00月、今から10年ほど前かな?)
その費用 『数百万円』、個人がだせる金額ではない。
つづきます・・・、
【 当時の、その探査費用の主な内訳 】
①金属探知器を入れる前に、ここぞと!思うところの立木を伐採!
なぜ伐採しなければならないかは後で申し上げますが、この事だけで、そこが「県の管理地であれば絶望的!。 なぜなら、立木の伐採はおろか草花の採集にいたるまで許可をとらねばならない。 そこが「土砂流出防止林」であれば、伐採不能!!!
②伐採出来たとして。 その撤去整理。
伐採したものをそのままにして置くわけにはいきませんから、山中から持ち出し産業廃棄物?として焼却処分にしなければなりません。
③整地作業
そこに立木の根っこが残れば、探知機での正確なデータが得られないから、それ等の撤去と整地作業。 グランドでのタイムカプセル探査ようにはいかない。
④(当時の)金属探知器での探査作業と、その持ち帰り分析で金属反応があった!
鉄の場合なら磁気反応で簡単にみつかるが、磁気を発しない青銅器となるとより高度なテクと機器を要します。そこで、何かの金属反応ありとなった!
⑤ここから先は、先に申し上げたような専門家の「トレンチ・発掘」作業が始まります。
これ等の作業をこなすのに、出張泊まり込み、作業員の手配等に加えて官公庁への許可申請!! これ等の【総費用が数百万円】ですから無理もありませんね。
げんなり~、脱力ぅ~、(笑) 「そんな事が」この非力な素人に出来る分けがない。
そこで始めたのが「文書での広報活動」、大学、行政、専門家、新聞社。 それに「中学校」。 数百通は出したかな? それらの全て(?)が 梨の礫! 無反応。 中学校を入れたのは将来の歴史を担う人達へ「この伝言」を託したい気持ちからです。
この素人の存命中に「事」が成就しない?! (!汗!)
そこで、「今に見てろよ」と、始めたのが、このブログでの広報ですが?! ・・・・、
とある日の、我がブログ友<六尺三寸さん>とのやりとり。
文字列マニア(旧題ー日本語採集)
記事「時鳥」(分類)動物 2008 1 ○
<六尺三寸さん>
御免なさい勝手に載せました。なにか不都合があれば削除します。ご連絡ください。
拙句(2008年1月3日に、)
「 たがために 血ヘド吐くかや 時鳥(ほととぎす) おぼろなりとも 月さえあらまじ 」
それを受けて<六尺三寸さん>が、ユーモアを交えて!
「 Myブログ ふりさけみれば 閑古鳥 」
これでは、あまりにも自虐的だからと、この句を頂いて、素人が下の句を!
「 Myブログ ふりさけみれば 閑古鳥、 今にみてろと 不如帰(ほととぎす) 」
さらに続けて拙句、
「あそんだれや 時鳥、 あなた(春告鳥)何時でも 勝手に鳴けばぁ その日来るとも 我Byチャ!」
存命中に事がすまない! もうヤケクソ、遊ばにゃ損ソン!(笑) ちなみに「春告鳥」とはウグイスのことで、ホトトギスは、義親であるウグイスの美声をまねて? 「テッペンカケタカ」と教習するそうですよ。 だからウグイスの鳴き声に似ているのかな。 蛇足ながら(あなた)とは、世界中のあなたであり、Byチャ!は、「あられちゃん語」です。 この前、私のヘタな口笛でもうぐいすが呼応してくれました♪。 皆さんもどうぞ試してみてください。
もうそろそろ、その「時鳥」が鳴く時期が近づいてまいりました。 少し「遊び過ぎた」ので、話をもとの「銅鐸の探査」にもどしましょう。
『青銅器 (銅鐸・銅剣)の探査』は、予見して発見かった所が、実は2カ所あった!!
筆者の「銅鐸の発見はすべてが偶然性によるもので」予測して見つかったものはないとしたのは、誤りであった。 銅鐸の発見は、今現在に分かっているもので約○○○個?ある。そのほとんどは偶然性によるもだが、数少ない発見例が、<出雲の荒神谷>と、<静岡県・磐田市>にあった。 以下は、筆者がブログ等で調べた“覚え“によるものと、ご承知おいて誤りがあればコメントにより正して下さることを希望します。
≪其の1≫ 出雲の神庭・西谷・荒神谷遺跡、銅剣358本(と銅矛16銅鐸6個)の場合
ここの場合は、○○年の(農道整備?)の道路工事に先立って『この地域には何か考古学的な埋蔵文化財がある!』と、推んだお人がおられて、その予備調査で「古墳時代の須恵器」が発見されたことから、本格的な調査が始まったようです。
その土器は、『何か?』そして、谷のどの位置にあったのか?
筆者が、それを問題にしているのは、古代において土器の破壊の風習がありました。それらの遺跡から故意に割ったとしか思えないような土器の出土が、あるいは、破壊するための土器をわざわざ造って、埋めた痕跡があるということです。例えば吉備地方で出土する「タブレット」と呼ばれている土器の小片。 今においては四国「屋島」の頂上から素焼き皿を投げる。 死者の食碗を割る。 さらに進んで「建て前」での餅投げ。 地名では、近江の「瓶割山」。 これ等は、荒神様の破壊性を根にもつ文化風習だろうと推んでいます。 出雲の「その発見された土器と、場所」が、大量の銅剣や銅鐸と、どのように関係するか、又は、ないかは解りませんが、大変興味があります。
筆者が興味があるのは、「大量の銅剣の出土」という結果の重大性ではなく、それを「導いた考えや、お人」がいたということです。「横井さん、小野田さん」発見にしてもそうですが、今の世間は、その結果の重大性のみに目をやり、それに至ったプロセスは全然話題にのぼらない。 今では「横井さん」を救出されたお人の名前すら知らない。(苦笑) 当時の筆者は、「よくぞ」とそのお人の推理力と行動力に驚きと賞賛を覚えたものでした。今回の私の「銅剣探査」は、それに比べるべくもありませんが、少なくとも「その推理を進めていく」楽しさはあります。考古学を専門家のみの学問とせず、歴史の多くを知らない素人でも「地名という祖先からの伝言」をたどれば、必ずそれにたどり着くところに、この謎解きのおもしろさがあります。
<出雲の大量の銅剣(と銅鐸6個)が、出土に至るまでの過程を推理・想像>
さて、その「○○代の土器」が発見された。それが次の「トレンチ調査」をしようと決定させるには、その土器がよほどの意味をもつ土器であることと。 それと知り、『次なる、調査の必要性を説いた、お人がいた』ということである。 もとより、この神庭・西谷(かんば・さいたに)は、祟りがあるといわれ、地元の人は畏れ(おそれ)近づかなかった場所であったと聞く。 このことは地元の人しか知り得ないことである。先に申し上げたとおり、トレンチ調査をするには『立木の伐採と、その場所の選定』をしなければならない。 どうせ道路整備するところだからと、あたり一帯の立木をすべて切り倒したのか? それとも、ここら辺が『怪しい』と云って、部分的に伐採したのかを知りたい。
いずれにせよ『その場所』を含めて伐採した。
次に注目するのは、『最初の一発目』のトレンチ調査で、その大量の銅剣に行きあたったということ!!。 それをブログでは、『偶然にとか、たまたま』の言葉で表現しているが、私は、そうは思わない。 「吉備の大量の銅剣」の探索(中)をしていて分かったことであるが、その「縦○m×横○m」の埋め場所」をピンポイントで指さすにしては、その谷はあまりにも広すぎる。そこを指さすには、何かの『見当や、感が』あったはずである。
話は、変わって「釣り人」の話を聞こう。
私達素人は、釣り糸を投げるポイントを海面とか川面とかの言葉で一概に表現するが、魚を釣るには、「水の流れの、浮き沈み、速さ、透明度、深さ、海底・川底の形状、温度・日陰日向、時間・朝昼晩、魚の食事時と遊び時、食餌のあるなし、季節、天気、風・水面の波立ち、雨。 魚種、過去の経験。 等々。 そして、今その群れがどこを回遊しているか?」 その釣り果を得るには、実に様々な要因がからみあう。 それ等をひっくるめて『感』という。
〈マル秘情報?〉 大物釣りをねらう貴方に! →大物(鯉)は用心ぶかい!
私の家の裏に川幅○m程の用水が流れています。 この川に、小一の子と二人で「主・ぬし」と名付けた鯉3匹がたまに来ることがあります。 60cmは、ゆうに超えるかな? 大きいのを先頭にして泳ぎます。 あとの2匹はその後について泳いでいきます。 二人で食パンを投げやるのですが「絶対に食べない」どころか、他の小魚やブルーギルの食いつきの良さを横目に見てササさっと通り過ぎてしまうのです。かといってその餌に興味が無いことはないのです。 ゆっくりと近づいては来るのですから。 ブルーギルにしても最初に興味を示すのは小さいのから。
それでも最初は一度口に入れて、必ず吐き出します。それが食べられると分かると後は乱喰い状態!(笑) 「菓子パンが、油パンが、ビスケットが、スナック麺が、おいしいから。」 といっても食べませんねぇ。 浮いたものも食べないし沈んだものも食べない。 ただし、小魚は沈んだものでも争って食べます。 雨が水面をたたきだすと全ての魚は影も見えなくなりました。 ちなみに、公園の鯉や、飼い鯉なんかは、そんなに強い警戒心はもちあわせておらず、指しゃぶりまでするそうですよ。 蛇足ながら、その「主」を見かけるのは、ある程度、透明度が良くなくて、ゆっくりとした流れと水量がある時です。 主題から、大きくはずれましたぁ~(!汗!)
話を出雲の大量の銅剣の<予見に戻して!>
『最初の一発目』のトレンチで、それを発見した裏には、その『何か?』がある。素人は、その何か?を知りたい。 今、分かっていることは、「地名に西が付き、その谷奥の陽斜面、その下から雁木(がんぎ・階段のこと)で、10段(~13階段?)上がったところ」。
その「何か?」、とは何だろうか?。 (どうぞ、それを御一緒に考えて頂けませんか?)
その「何か?」がわかれば「吉備」での銅剣探査が、ひじょうに楽になる。
①まず最初に、「神庭・西谷 かんば・さいたに」にまつわる「民話、伝説、伝承」はないか?
②そして、筆者が以前に間違えたように、ものを隠すときは、日陰である仏教山の北斜面の方に、隠すのがふつうと思うが、それを何故、「一発目のトレンチで」、その反対側の、南向き斜面にされたのか?
③南向きの陽斜面にしても、そこが一日中、陽があたるわけではない。
対面にある山が影をして、その影は、季節的差異によっても移動する。 これが「推めれば」、それを埋めた季節までもが特定できるし、「吉備」での探査の参考になる。
④さらに、その斜面下に立って、5~6m上を指さし、『ここを掘りましょう!』としたのは何故か!? この形は、今の神社本殿と拝み殿をつなぐ階段として残っていると謎解きしている。
⑤その上に、何が生えていたのか?竹林か?、裏白か?、それとも雑木か?
勿論、1700年前の植生と現在では異なる。 しかし、私達の祖先は、おどろく程それ等を冒すべからざる所として、ごく近代まで手を入れなかった。それが変わったのは、公益の為だとし、新幹線や高速道を建設しだしたころかなと承知している。
⑥その他「多々」あろうと思いますが、「吉備」での探査が手づまり状態の現在。
ぜひとも、読者諸氏の、
そして、出雲で「一発目のトレンチ」で、量の銅剣を掘り当てた“そのお人の感”を聞きたい。
≪其の2≫ 静岡県旧豊岡村(現在の磐田市)、銅鐸3号の場合
「青銅製品の探査機」で検索しました。 <以下はその概要です>
銅鐸・高さ約80cm(敷地3号銅鐸) 磐田市(旧豊岡村) 『西の谷遺跡』出土!
今から、1800年前(弥生時代後期)の青銅製品です。 明治時代に2個の銅鐸(1号、2号)が出土していることから、山の斜面全体について金属探知器などの物理的探査をしたところ、2000年2月に、この銅鐸を発見した。
場所は、家や墓がない谷奥の斜面に埋納していた。 と写真付きであります。
写真・其の1は、発見場所の山斜面から下方を写したもので、はるか下方に家が写っています。そして、<あたり一帯の立木は?、その調査の為に伐採されたのか?とうかがえます>
写真其の2は、銅鐸のヒレという部分を寝かせて埋めてあり、<その深さは、約60cm?> くらいかなと思えます。
www.maibun shizuoka-c,ed.jp/dotaku.html 以上です。
この記事のなかに、3つ4つ気になる言葉があります。
①つ目は、今回の出土1個に加え、合計3個の銅鐸が出ていること。そのうちの2個は明治時代の出土とあります。 (荒神を2体呼び寄せれば喧嘩になるとの自説から)、銅鐸は1ブロックで1個の使用です。 「1ブロック」としたのは、銅鐸を使う“ご祈祷”は、大行事ですから、各集落が合同でやる場合も考えられます。 雨乞いの場合は、「天の井戸」を相手にするわけですから、銅鐸が出たその場所だけで事を考えてはなりません。渥美半島には、「神戸、片神戸、赤羽根、白羽」の地名伝言があります。 そして、この銅鐸3個?が意味する時の流れは?
②つ目は、「西の谷遺跡」という言葉があります。ここでも「出雲・西谷」、吉備では「経山・西谷」とあるように、『西』というワードが付いています。 (まだ話題にあげていませんが神戸にも西谷があります。) この「西」が意味するのは、『その雨を司る竜神が東から西進して来て、西からその慈雨を持ってくる考えに基づいている』 ことにあります。天気は西から変わってくる。 この「西行き」ということは、後の日本人の西方浄土信仰にも大きく関わっています。
このブログを見て、銅鐸・銅剣ハンターになりたくなった!? “あなた”だけに、そっと耳打ちします。誰にも言ってはいけませんよ!(笑) これは「極秘」ですから!『キーワードは、西』。
ここでは、「卑弥呼が」を付けた大量の銅剣・銅鐸に、しぼっていますが、貴方がお住まいの、『岩の字の付く地』にも、未出土の銅鐸があるかも知れませんね。
③つ目は、「山の斜面全体について、金属探知器などの物理的探査」とあるが、その斜面全体を「じゅうたん爆撃」のように調査されたのか? そして「金属探知器など」とあるが、「など」とは、他のどんな方法なのか? それに山を伐採してもその切株は残るがその処置は? 知りたいことは一杯あります。
④つ目に「谷奥の斜面」とあるが、なぜ「その斜面」としたのか? 谷底でもよいのではないか? そして、谷奥とあるが、一口に谷奥といっても実際に現地をあたると、それらしき所は数多くある。 さらに、この谷の「いわれ」は? 近くに「社・やしろ」等があると思うが、そこは何を祀っておられるのか? いずれにしても、これ等に時間とお金をかけてでも、探査をしようと、『つよく提唱したお人』 がいたはずだ。私は、その『お人の』言葉をぜひに聞きたい。
つぎは、「青銅器の探査機について」 です。
その前に、こんなニュースが過去にありました。
「地中に埋まった水道配管を、直角に折れ曲げた番線二本で見付ける!」
これは、とある水道局の職員が見付けだされた方法で、今では樹脂管が全ての水道管ですが、当時は鉄管(時に鉛管も)が使用されていて、その老朽管の取り替え時に誤って破損することがあり、あらかじめ、その埋設場所がわかれば、それを避けて掘り下げることが出来ることから考えだされたようです。
それが8番線か6番線かは分かりませんが、横50cm~60cm、縦30cm~40cm?で、針金を直角に折り曲げて、それを進行方向・平行にかざし、両手で緩く保持し、地中にその鉄管があると「その番線が開く」というのです。 タ゜ウンジングの原理かな? これは、『地球には磁場・磁気流があり、その中で地中の鉄管と番線の磁気が干渉しあっておきる現象かな?』 と推理しています。ためしに筆者もやってみましたがうまくいきませんでした。 熟練が?いるのでしょう。
このように、その埋蔵物が磁気を帯びる鉄ならかんたんに発見かるのですが、青銅製品ではその磁気がつかえず、他の方法(微弱電流?超音波?)を用いねばならず、その分析方法と機器に多くの費用がかかるというのが10年ほど前の結論でした。
今では、当時より性能のいい機器があるようですが、それでも、その探査にあたっては、「検知被体と検知板との距離」を一定に保たないと正確なデータが得られない。せっかく金属探査機・探知機をここぞと思うところに持ち込んでも、そこに立木があったり、切株や石などの凸凹があったのでは、それがあるのやら無いのやらがわからず(!徒労に終わる!)。 そこが個人所有の民有地ならば伐採・整地の可能性もあるが♪、そこが官地公地では絶望的! いままでの記事で、それ等について、くどいくらいに述べている訳がわかって頂けたら幸いです。
しかしながら、「この広報と、その捜索」を止めるわけにはいかない。
次、<金属探知機のレンタル>で検索しました。
<サンモニターの金属探知機> ㈱サンモニター ℡03-3931-0521
□ハンディ型(ファースト トラッカー) USメイド<品名 トラッカー4>
一日当たりのレンタル料 ¥2,100
大きさ 最長 132cm 重さ 約1,2kg
特 徴 全金属 運動場、砂浜、山道
ターゲット迄の検出例 マンホールのふた(70cmφ)ターゲット迄55cm
□ハンディ型(1212ーX)
一日当たりのレンタル料 ¥2,100
大きさ、ターゲット迄の検出例 ほぼ、同上
特 徴 金属種別の判定具備しない分、取り扱いが簡単です。
□ディスカバリー3300
一日当たりのレンタル料 ¥3,150
大きさ 最長 132cm 重量 約3,2kg
金属種別の判定ありで、 1,8リットルのスチール缶で、60cm前後
100cm100cmメッシュ 90cm前後
検知力だけに絞り込めば、初心者でもOK、
□ハンディ型(Gemini-3)
一日当たりのレンタル料 ¥5,250
大きさ 最長 ・・・ 重量 約3,2kg
深く埋まっている大きいものの検知
ドラム缶で、約4m! このクラスでは最も到達深度が深い。
以上、みつくろって検索しました。(笑) 興味のある方は上記へ問い合わせて下さい。
<青銅器遺物(銅鐸)の調査>で検索してみました。
遺跡名 敷地遺跡
場 所 静岡県磐田郡豊岡村 (現・磐田市)
時 代 弥生時代
調査年月 平成12年1月 (2000年)
調査目的 広範囲の調査値の中から、青銅器遺物(銅鐸)の存否を確認
探査方法 電磁法探査
探知機(写真付き) センサー部:2個の車輪付き 分析部:背負い型
<応用地質株式会社> 東京本社ジオテクニカルセンター歴史環境 担当
Eーmail kikaku @ oyo net.co.jp
Tel 048-652-0651(代) Fax 048-652-4031(代)
「2個の車輪付き」ということは被体とセンサー部の距離を一定に保つということかな? 今までの捜索の経緯から、こんな大きな機械の持ち込みは不能。 草刈り機タイプにしても、立木や草木、木の根っこ、石等があると、“有るか無いかの”正確な検知が出来ないのかも知れない。
<素人探偵が思っているほど、簡単ではない?>
この調査には、“静岡大学考古学”がかんでいるようですが、いずれにしても、大がかりな調査があっての「銅鐸発見」に至ったようです。
以上、「立木の伐採」にしても、「金属探査機」の持ち込みにしても、調べれば調べるだけ、その目的から遠ざかっていくような気がします。
つづきます^^!
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かれこれ10年ほど前になるかな。筆者は、吉備の「岩屋」にも 大量の銅鐸があると推理し、
すでに大量の銅鐸が出土している、出雲『岩倉』、滋賀県・野洲町『大岩山』、神戸市・桜ヶ丘『いわや』の←(後日に判明)、地名による『岩』つながりで、 同一文化をもつ岡山県の総社市 『岩屋』にも、必ず大量の銅鐸あり!と、 画策したことがありました。 だが、そんな突飛論など、だれも相手にしてくれない。(当時も、今も? ー笑いー)
<別紙電子出版、極秘報告書「巨大隕石と大津波」の、祖先からのメッセージの章に記載>
↑を クリックして下さると、そちらへ飛びます。( 無料の立ち読みが出来ます。)
県の「埋蔵文化財係」へTelすると、なにかの関連した遺物が出ていればいいが、「あるかないか分からない」話にはのることが出来ない。 そうですよねえ。大切な税金を使うわけだから、そんな眉唾で、賭け事のような話には、だいいち予算として、議会が通らない。
ならば自分で!、 ところがそれが大変!!
( 以下: 素人知識ですから、間違っていたら、何方か教え正してください。 )
まず、埋蔵文化財に対する法律。
例として、個人の所有地のビル工事で何かの遺物が出たとする。その調査は、地主の全額費用において対処する。そして、その調査が終わるまでは、工事はできない。簡単に言えば「自分所有の土地でも、なにかの遺物ありと判明すれば、自分の責任と費用において調査を終えないかぎり、それ以上掘り進めることも出来ないし、その上へ建物をたてる「建築許可」も下りない。一昔前は、それがイヤだから、たとえ何かが出てきても「知らなかった。見なかった。」で、工事を進めたそうですよ。
これも素人判断ですからと前置きして。 マイホームを建てようと土地を購入。その基礎工事で「縄文期か弥生期の土器」が出た! そこで、見なかったと“全員”がすませばいいが、後で噂にでもたつと「施主は知っていた」ことになるから、当然罰則がつく。 そこで「見なかった」ことにしてくれと、施主はその建築業者に依頼する。しかし業者さんは「あとが怖いから」といって、そこで工事はストップ!。 マイホームの土地購入には、くれぐれもご用心!! ( ならば、転売を!、ところが・・!?)
埋蔵文化財の発掘費用は、並の金額ではない! ( これも仮想ですー笑いー)
私の建築予定地から「こんな物」が出ましたと、管轄の教育委員会へ届け出る。
その重要度において、すわ重要だ!となる。 調査検討がはじまる。発掘専門業者に依頼する。そして発掘実行の「トレンチ調査」。このトレンチ調査というのを私はテレビで見ただけなのですが、所定の位置を「豆腐を切ったように」掘り下げていく。勿論、ちっちゃな手スコップと、手帚をもって、「何一つ見逃すまいぞ!」と掘り下げる。その範囲が広ければ人海戦術だ。女の人が日よけ帽をかぶって座り込んでやってましたよね。次なる「欠けららしきもの」がのぞきました。そこからは専門員が行う。出雲の「大量の銅剣発掘」の時は、カメラのレンズを掃除する「パフパフ」と、焼き鳥の櫛を使ってやったそうですよ。
このような発掘作業がおこなわれる分けですから、その人件費は思いやられます。ならば、ボランティアを募り、いい加減に!?、これって許されるかしら?? その多くは、大学がかんでいるようです。運良く自治体がその費用を肩代わりしてくれるとしても、その「調査完結」のお墨付きがでないかぎり、埋め戻しても我が家は建てられない。 せっかくマイホームを建てようと思って買った土地が、駐車場か家庭菜園をする価値しかない。 ご用心、ご用心!
この法律は、日本の埋蔵文化財の発掘において「諸刃の剣」となっている。一つには、税金を投入することなしに、その発掘ができること。逆にいえば、個人・団体が、その費用を負担しなければならないという側面をもっている。さらに、この法律のおかげで日本の「発掘作業」の量と、その水準を高めている。 しかし、その弊害として「考古学=実証主義」におちいりやすく、前年の考古学大阪大会(第○○回)の発表では、実証と、そうでないもの(仮説?)との比率は、「7 : 3、?}であり、ちょうどこれは欧米の逆だという。 これでは、九州大会でいう「攻めの考古学」は期待できない。
筆者が願うのは、実証至上主義は美学だが、それに陥ってはならぬということ。(特に若い人は)色んな議論のうちにそれを高めていけばいい。 大学では、その芽をつみ取る態勢をつくってはならない。 日本で(世界でも)第一級の先生が、「考古学において“その年代”を論じるとき、放射性アイソトープ法か、年輪相対法かの、どちらかの一方に統一して論じるべきだ」 と仰っている。 これを素人が思うのに、「一つしか無いその時」が、今の学問では推定できない!。 ならば、それを想像、空想と云われようが、推理、洞察と云われようが、色々に言ってみるのも楽しいではないか。 そして、地名を祖先からのメッセージとし『人文考古学』 として扱って欲しいと望んでいる。 反論、お叱り、大歓迎です♪ それより無視されることのほうが辛いから、(笑)。
このような経緯があって、「吉備岩屋に眠る大量の銅鐸を!」探しに出かけました。
鬼の城(きのじょう)から、○kmほど北へいくと、駐車場10台たらずの「岩屋」がある。鬼の城が70余台だったから、その規模からも察しがつくように、ここまで足をのばすお人は、よほどの通なのかな? ここに人工に設えたとも、自然の造形ともつかないような○○mほどの巨岩があり、「お宮と、岩屋寺」の二つがある。 この巨岩は「鬼のさし上げ岩」と呼ばれているそうだ。これも「吉備・桃太郎伝説」の材料になっている。 お寺のお題目は、「なむ、だいし、へんじょうこんごう」。 山の中腹ではあるが、お宮の下方にお寺があり、お寺の石垣のほうが立派なことから、その歴史的時間の後先を推しはかることが出来る。
此処に、二カ所だったかな。日本竹(真竹)の竹藪がありました。
古代においての「竹」は、石器とともにその生活用具として思いつくままにあげてみると、「箸、水筒、編みカゴ、箕、弓、矢、竹槍、屋根の骨材、柵」等々、実に多用だ。 又、その竹の皮でワラジづくり。おにぎりや肉の包装。竹の皮には除菌作用もあるそうで、昭和の末頃まで「お肉には竹の皮」が定番。 このような竹が石器・弥生期において身近に栽培されていたであろうとは、容易に推測できる。 地名としても「上竹、下竹」等は各地に残っている。 「竹取物語」もありました。竹藪の中には何かがある?!
ここで、その竹を取り上げたのは、竹の生育に注目した。 木の直根が約1、5mほど地中に入り込むのに対し、竹の根は、ほぼ50cm以上は深く入り込まない。そして他の草木を寄せ付けない。いかに、「二度と掘り上げまいぞ!」として、封印した大量の銅鐸だとはいえ、その上に巨木が生えて根が埋めた銅鐸に入り込んでは困る。竹林で「封」をしておけば、そのおそれは少ない。竹根が縦横にはりめぐるが再度掘り返そうとおもえば、掘り返せないでもない。長年使用したものへの一抹の愛着が残っているのだ。 と、このように推理しました。
その銅鐸について再々度?、論じてみよう。
銅鐸の歴史を一概に「銅鐸=何々だ」と論じることは出来ない。なぜなら四千年前に光臨した荒神さまが時代とともに、その地域性も加味して微妙に変遷しているからだ。貝塚時代の土器の破壊や、抜歯の風習。生け贄。吉備の特殊器。火炎型土器、等。これらの文化の延長として、朝鮮半島からの風鐸の影響をうけ、初めて「青銅器」としての形を成したのであろうと推測しています。銅鐸の使用は、素人的にみて日本だけの特殊文化ではないか?と思っています。
最終期の(卑弥呼代の)銅鐸は、
卑弥呼のような、祀り事をおこなう行者(太夫・おたゆうさん)が各地・各部族にいて、病気の治療から、困り事相談までを行っていた。”物事の禍を”なすのは、すべてその「荒神さま」のせいだと思っていた。 弥生期において、稲作が発達し人口も増えてくる。 時には流行病や、日照りも続く。 そんな時、人々は荒神様が「命」を欲しがっているのだと思う。 私達には、「これ以上に大切な命はありません」 これを煙に変えますから、どうぞ、そのお怒りを鎮め「これ以上、病を流行らせないでください。又は、慈雨を下さい!」と祈る。地域において多少の差異はあろうが迎え火を焚いて、海水を煮詰め、差し水をし、この水気、天に届けと! 衆人こぞりてお祈りする。
これが、現在の祭りや盆踊りの原点であり 『まつる、奉る、祀る、纏り、祭り、政(まつりごと)』の、全ては同根だ!と、謎解きしています。
その「荒神様」を呼び寄せ乗り移す媒体となったのが「銅鐸」だ。
当時の埋葬方法は、土葬である。それが火葬に変わったのは昭和代の中頃かな? 今の私達の多数が受け入れている火葬ではあるが、土葬から火葬へ変わるときには抵抗もあった。 「死んでからまで熱い思いをさせたくないよ~」との。 弔いの仕方は、歴史・民族によっても色々とあるようで、他に、水葬、鳥葬、人肉食葬。これを残虐だと断じてはいけませんよ。 死後の魂が空に舞うようにとか、愛する人を我が身に保持しておきたいとの願望もあるようですから。 最近では、散骨葬や宇宙葬が話題になったり、中国では、土葬の墓地が増え続け火葬への変換を検討のニュースもありました。ちなみに中国全土かどうかは知りませんが、日本のように地下へは埋めず、土をかぶせる円墳葬。これは「卑弥呼の円墳を捜せ」をサイドにしている筆者にとって興味があります。
何はともあれ、土葬がすべての当時において、火葬という埋葬方法は特異な埋葬方法であり、いかに衆生の為だとは云え 「幼子の煙を雨雲に換えて!」と、やる火葬・雨乞いは残虐だ。
つづきます。<あすとろさん>わたしの方こそ、気をもたせて御免なさい(笑)
ある日、ある年、草木は立ち枯れ、飲み水にも事欠くような “干天災害”があった。併せての流行病で多くの人が命をおとす。この事象は、天井におわし雨を降らす「竜神さま」が、その命欲しがっているのだ!。 「私達には、この幼子以上に大切な命を持ち合わせていません」。 「どうぞ、この命、この煙をあなた様にさし上げますから、その雨と交換して下さい」。 村人こぞりて、一心不乱にお祈りする。 その竜神さまを銅鐸に「呼び寄せ、乗りうつして!」。 このような単調なお祈りを繰り返すことにより、精神が高揚し一種の「精神変異」の状態をあらわす人がでてくる。 あらぬ事をしゃべりだす。 青森の「恐山信仰」を思いだしていただければいい。その人の口を借りて「竜神様」がなにかの言葉を発する。 勿論、この人が正気にかえったときには 「何を言ったのかを覚えてはいない」。
先の纏向遺跡で、木製の鍬を「人面様に加工」したものが出土したが、この場合は、太夫・イタコさんが、そのお面をかざし「その言葉」を発する。 分かりやすく言えば、神が乗り移って、『その言葉を発する時』 に、そのお面を使用する。 はじめからかぶっていてはダメなのだ。 お面の両端に括りつける穴がないことや、下部をすこし長くして凹み付けていたのは持ちやすくするためだ。 そのお面には「朱」が残っていたという。 このお面の流れをくむものは、今でも多くありますよ。
ことが終わった「その銅鐸」は、人里離れた鎮静な場所の土中におさめる。 又、使用する時の為に!。 愛知の一宮・稲荷山遺跡では、その半円部を突き立てるように埋めてあったのが興味ぶかい。 一般にはヒレという部分を横にして、次の回まで、大人しく 「寝ていて下さい」 とみるのが普通かな? このような文化・社会制度の延長線上に「卑弥呼」があらわれた。
→卑弥呼についての詳細は「この指止まれ」へもどります。
愛児を衆生のために差し出すという社会制度には不満が溜まる。そのような時に「卑弥呼」があらわれた。卑弥呼は「人身供犠の文化」をやめさせ、「代用・象徴物文化」に変えようと人々に諭した。 今に残る「護摩木」に姓名を書いて燃やすのや、おひな様流しや、灯籠流し、それに「身代わり観音様」等も、卑弥呼の影響かも知れませんね。 蛇足ながら、西洋の「魔女狩り」や、「日本の桃太郎伝説」も、この時期に発生したのかな?と思っています。 それには、その時に 「ニアミスした巨大彗星??」 を証明しなければならないのですが。 ・・・、
<話が長くなりました。もとの「青銅器の探査」に戻しましょう>
その卑弥呼の言をうけて「大量の銅鐸」をもちより、封印させた所が 「出雲・( )・神戸・野洲」 であった。 これ等を文化交流の(伝播・道筋の)考えからも、同様な竜神・雨乞い文化をもち、岩つながりの「岩屋の地名」がついている吉備の地の (空白) が考えられず、岡山県総社市の岩屋にも、必ず大量の銅鐸が埋められていると推理したのであった。
その時、“ここぞ!” と思ったところが、「岩屋宮?」と「岩屋寺」の間にある竹藪。
この竹藪の表下には「大量の銅鐸」が?? 「竹取物語」はそれと教えてくれている! ところが! そこは 「県の管理地」・・・、
県の管理地ということは、その所有権は、国にあるのかな? 銅剣が埋めてあると推定した黒尾地区・西谷は、総社市の管理地であった。いずれにしても「公」が所有している。「公」だと、銅鐸にしても、銅剣にしても、その探査は非常に難しくなる。
(以下も、素人考えですから間違いがあったら教え正してください。)
このあたり一帯は、明治代から土砂流出防止のために、巨費を投じて治山・治水事業をしていた。ということは、立木の伐採や土石の掘り返しはおろか、草花の採集までもが法にふれる。 ただ、昔からの「入会権・いりあいけん」というのがあって松茸やらのキノコ類、山菜、(焚き木取りも?)等の採集は、地もとの人のみに許される。だから「入山禁止」の垂れ札がしてあったのである。私のようなヨソ者は厳密にいえば土石は、おろか小枝一本も持ち帰れない。 ましてや「ここぞと思う所!」を掘り返すことなどとうてい出来ない。
西谷の上流に「かつては田畑だったが」今は、笹竹ぼうぼうの所や、遊歩道の所々に、「私有地」につき入山禁止の表示があったから、私有地もあるにはあるのだろう。では、そこが「私有地」だったらどうなるか?
(これも素人判断だと、あらかじめお断りしておきます。)
私有地のほうがいい♪。 そこが私有地だったら、地主の許可がとれさえすれば、少し(笑)乱暴な気がしないでも無いが、スコップ片手にツルハシかついで出かけることが出来る♪。 運良くそこにあたれば、銅鐸の一個や二個!!、銅剣の一本や二本!!が、 ツルハシにかかるかも知れない。 後で 「とやかく云うお人」が必ず出ようが、そんなことを気にしていたら、「日本史に風穴?<銀きのこさん言>」は、あけられない。 多少の(^^?)いたみは伴う。
その「青銅器の所有権は?」
勿論、地主にある。 もと旧家の分譲地を宅地として買った。 そこから瓶に入った小判が出てきた!ら、どうなるか? もと地主が「何か証明できる書面」でも残っていれば、新地主と折半?。 無ければ、全ぇ~んぶ!新地主のもの♪。 このように「何が」でようが基本的には、その所有権は個人(団体)にある。 だから「埋蔵文化財の調査・発掘費用」も、自分で出しなさいというのかな?
この場合の「青銅器は」ただの青銅器ではない。“卑弥呼が封印させた大量の銅剣と銅鐸”という付加価値がついている。 そして、「それが予測できた」というおまけ迄ついているのだから、その価値は計り知れない。
それが「吉備で銅剣と銅鐸」のみにあらず。「神戸」や「野洲」でも、大量の銅剣が、早いか遅いかの違いこそあれ、必ず出土する!。 筆者がこれほど迄に「確信的」にものを言うのは、『ご先祖さまは“ウソつかない“嘘をいっても益がない』、地名という伝言にウソは無いからである。 これが一カ所でも出土すれば、「どうなるんでしょうかぁ?」 出雲の大量の銅剣・銅鐸は「国宝」になりましたよね。
それが、「いかに個人の所有であろうと」、国としては放っておくことが出来ない。
その青銅器は、『歴史的・民族の宝』ですから。 こうなると、それは、その土地も含めて所有者の、「言い値!」。 遠慮してはいけませんよ。例え何千万と云おうが、億?と付けようが、 後には、それが「日本史」は、おろか「世界史」をも動かすきっかけとなるのですから。(!笑!)
総社市岩屋の大量の「銅鐸」の発掘を業者さんに、口答ではありますが、参考までに「見積もり」して貰いました。 (00年00月、今から10年ほど前かな?)
その費用 『数百万円』、個人がだせる金額ではない。
つづきます・・・、
【 当時の、その探査費用の主な内訳 】
①金属探知器を入れる前に、ここぞと!思うところの立木を伐採!
なぜ伐採しなければならないかは後で申し上げますが、この事だけで、そこが「県の管理地であれば絶望的!。 なぜなら、立木の伐採はおろか草花の採集にいたるまで許可をとらねばならない。 そこが「土砂流出防止林」であれば、伐採不能!!!
②伐採出来たとして。 その撤去整理。
伐採したものをそのままにして置くわけにはいきませんから、山中から持ち出し産業廃棄物?として焼却処分にしなければなりません。
③整地作業
そこに立木の根っこが残れば、探知機での正確なデータが得られないから、それ等の撤去と整地作業。 グランドでのタイムカプセル探査ようにはいかない。
④(当時の)金属探知器での探査作業と、その持ち帰り分析で金属反応があった!
鉄の場合なら磁気反応で簡単にみつかるが、磁気を発しない青銅器となるとより高度なテクと機器を要します。そこで、何かの金属反応ありとなった!
⑤ここから先は、先に申し上げたような専門家の「トレンチ・発掘」作業が始まります。
これ等の作業をこなすのに、出張泊まり込み、作業員の手配等に加えて官公庁への許可申請!! これ等の【総費用が数百万円】ですから無理もありませんね。
げんなり~、脱力ぅ~、(笑) 「そんな事が」この非力な素人に出来る分けがない。
そこで始めたのが「文書での広報活動」、大学、行政、専門家、新聞社。 それに「中学校」。 数百通は出したかな? それらの全て(?)が 梨の礫! 無反応。 中学校を入れたのは将来の歴史を担う人達へ「この伝言」を託したい気持ちからです。
この素人の存命中に「事」が成就しない?! (!汗!)
そこで、「今に見てろよ」と、始めたのが、このブログでの広報ですが?! ・・・・、
とある日の、我がブログ友<六尺三寸さん>とのやりとり。
文字列マニア(旧題ー日本語採集)
記事「時鳥」(分類)動物 2008 1 ○
<六尺三寸さん>
御免なさい勝手に載せました。なにか不都合があれば削除します。ご連絡ください。
拙句(2008年1月3日に、)
「 たがために 血ヘド吐くかや 時鳥(ほととぎす) おぼろなりとも 月さえあらまじ 」
それを受けて<六尺三寸さん>が、ユーモアを交えて!
「 Myブログ ふりさけみれば 閑古鳥 」
これでは、あまりにも自虐的だからと、この句を頂いて、素人が下の句を!
「 Myブログ ふりさけみれば 閑古鳥、 今にみてろと 不如帰(ほととぎす) 」
さらに続けて拙句、
「あそんだれや 時鳥、 あなた(春告鳥)何時でも 勝手に鳴けばぁ その日来るとも 我Byチャ!」
存命中に事がすまない! もうヤケクソ、遊ばにゃ損ソン!(笑) ちなみに「春告鳥」とはウグイスのことで、ホトトギスは、義親であるウグイスの美声をまねて? 「テッペンカケタカ」と教習するそうですよ。 だからウグイスの鳴き声に似ているのかな。 蛇足ながら(あなた)とは、世界中のあなたであり、Byチャ!は、「あられちゃん語」です。 この前、私のヘタな口笛でもうぐいすが呼応してくれました♪。 皆さんもどうぞ試してみてください。
もうそろそろ、その「時鳥」が鳴く時期が近づいてまいりました。 少し「遊び過ぎた」ので、話をもとの「銅鐸の探査」にもどしましょう。
『青銅器 (銅鐸・銅剣)の探査』は、予見して発見かった所が、実は2カ所あった!!
筆者の「銅鐸の発見はすべてが偶然性によるもので」予測して見つかったものはないとしたのは、誤りであった。 銅鐸の発見は、今現在に分かっているもので約○○○個?ある。そのほとんどは偶然性によるもだが、数少ない発見例が、<出雲の荒神谷>と、<静岡県・磐田市>にあった。 以下は、筆者がブログ等で調べた“覚え“によるものと、ご承知おいて誤りがあればコメントにより正して下さることを希望します。
≪其の1≫ 出雲の神庭・西谷・荒神谷遺跡、銅剣358本(と銅矛16銅鐸6個)の場合
ここの場合は、○○年の(農道整備?)の道路工事に先立って『この地域には何か考古学的な埋蔵文化財がある!』と、推んだお人がおられて、その予備調査で「古墳時代の須恵器」が発見されたことから、本格的な調査が始まったようです。
その土器は、『何か?』そして、谷のどの位置にあったのか?
筆者が、それを問題にしているのは、古代において土器の破壊の風習がありました。それらの遺跡から故意に割ったとしか思えないような土器の出土が、あるいは、破壊するための土器をわざわざ造って、埋めた痕跡があるということです。例えば吉備地方で出土する「タブレット」と呼ばれている土器の小片。 今においては四国「屋島」の頂上から素焼き皿を投げる。 死者の食碗を割る。 さらに進んで「建て前」での餅投げ。 地名では、近江の「瓶割山」。 これ等は、荒神様の破壊性を根にもつ文化風習だろうと推んでいます。 出雲の「その発見された土器と、場所」が、大量の銅剣や銅鐸と、どのように関係するか、又は、ないかは解りませんが、大変興味があります。
筆者が興味があるのは、「大量の銅剣の出土」という結果の重大性ではなく、それを「導いた考えや、お人」がいたということです。「横井さん、小野田さん」発見にしてもそうですが、今の世間は、その結果の重大性のみに目をやり、それに至ったプロセスは全然話題にのぼらない。 今では「横井さん」を救出されたお人の名前すら知らない。(苦笑) 当時の筆者は、「よくぞ」とそのお人の推理力と行動力に驚きと賞賛を覚えたものでした。今回の私の「銅剣探査」は、それに比べるべくもありませんが、少なくとも「その推理を進めていく」楽しさはあります。考古学を専門家のみの学問とせず、歴史の多くを知らない素人でも「地名という祖先からの伝言」をたどれば、必ずそれにたどり着くところに、この謎解きのおもしろさがあります。
<出雲の大量の銅剣(と銅鐸6個)が、出土に至るまでの過程を推理・想像>
さて、その「○○代の土器」が発見された。それが次の「トレンチ調査」をしようと決定させるには、その土器がよほどの意味をもつ土器であることと。 それと知り、『次なる、調査の必要性を説いた、お人がいた』ということである。 もとより、この神庭・西谷(かんば・さいたに)は、祟りがあるといわれ、地元の人は畏れ(おそれ)近づかなかった場所であったと聞く。 このことは地元の人しか知り得ないことである。先に申し上げたとおり、トレンチ調査をするには『立木の伐採と、その場所の選定』をしなければならない。 どうせ道路整備するところだからと、あたり一帯の立木をすべて切り倒したのか? それとも、ここら辺が『怪しい』と云って、部分的に伐採したのかを知りたい。
いずれにせよ『その場所』を含めて伐採した。
次に注目するのは、『最初の一発目』のトレンチ調査で、その大量の銅剣に行きあたったということ!!。 それをブログでは、『偶然にとか、たまたま』の言葉で表現しているが、私は、そうは思わない。 「吉備の大量の銅剣」の探索(中)をしていて分かったことであるが、その「縦○m×横○m」の埋め場所」をピンポイントで指さすにしては、その谷はあまりにも広すぎる。そこを指さすには、何かの『見当や、感が』あったはずである。
話は、変わって「釣り人」の話を聞こう。
私達素人は、釣り糸を投げるポイントを海面とか川面とかの言葉で一概に表現するが、魚を釣るには、「水の流れの、浮き沈み、速さ、透明度、深さ、海底・川底の形状、温度・日陰日向、時間・朝昼晩、魚の食事時と遊び時、食餌のあるなし、季節、天気、風・水面の波立ち、雨。 魚種、過去の経験。 等々。 そして、今その群れがどこを回遊しているか?」 その釣り果を得るには、実に様々な要因がからみあう。 それ等をひっくるめて『感』という。
〈マル秘情報?〉 大物釣りをねらう貴方に! →大物(鯉)は用心ぶかい!
私の家の裏に川幅○m程の用水が流れています。 この川に、小一の子と二人で「主・ぬし」と名付けた鯉3匹がたまに来ることがあります。 60cmは、ゆうに超えるかな? 大きいのを先頭にして泳ぎます。 あとの2匹はその後について泳いでいきます。 二人で食パンを投げやるのですが「絶対に食べない」どころか、他の小魚やブルーギルの食いつきの良さを横目に見てササさっと通り過ぎてしまうのです。かといってその餌に興味が無いことはないのです。 ゆっくりと近づいては来るのですから。 ブルーギルにしても最初に興味を示すのは小さいのから。
それでも最初は一度口に入れて、必ず吐き出します。それが食べられると分かると後は乱喰い状態!(笑) 「菓子パンが、油パンが、ビスケットが、スナック麺が、おいしいから。」 といっても食べませんねぇ。 浮いたものも食べないし沈んだものも食べない。 ただし、小魚は沈んだものでも争って食べます。 雨が水面をたたきだすと全ての魚は影も見えなくなりました。 ちなみに、公園の鯉や、飼い鯉なんかは、そんなに強い警戒心はもちあわせておらず、指しゃぶりまでするそうですよ。 蛇足ながら、その「主」を見かけるのは、ある程度、透明度が良くなくて、ゆっくりとした流れと水量がある時です。 主題から、大きくはずれましたぁ~(!汗!)
話を出雲の大量の銅剣の<予見に戻して!>
『最初の一発目』のトレンチで、それを発見した裏には、その『何か?』がある。素人は、その何か?を知りたい。 今、分かっていることは、「地名に西が付き、その谷奥の陽斜面、その下から雁木(がんぎ・階段のこと)で、10段(~13階段?)上がったところ」。
その「何か?」、とは何だろうか?。 (どうぞ、それを御一緒に考えて頂けませんか?)
その「何か?」がわかれば「吉備」での銅剣探査が、ひじょうに楽になる。
①まず最初に、「神庭・西谷 かんば・さいたに」にまつわる「民話、伝説、伝承」はないか?
②そして、筆者が以前に間違えたように、ものを隠すときは、日陰である仏教山の北斜面の方に、隠すのがふつうと思うが、それを何故、「一発目のトレンチで」、その反対側の、南向き斜面にされたのか?
③南向きの陽斜面にしても、そこが一日中、陽があたるわけではない。
対面にある山が影をして、その影は、季節的差異によっても移動する。 これが「推めれば」、それを埋めた季節までもが特定できるし、「吉備」での探査の参考になる。
④さらに、その斜面下に立って、5~6m上を指さし、『ここを掘りましょう!』としたのは何故か!? この形は、今の神社本殿と拝み殿をつなぐ階段として残っていると謎解きしている。
⑤その上に、何が生えていたのか?竹林か?、裏白か?、それとも雑木か?
勿論、1700年前の植生と現在では異なる。 しかし、私達の祖先は、おどろく程それ等を冒すべからざる所として、ごく近代まで手を入れなかった。それが変わったのは、公益の為だとし、新幹線や高速道を建設しだしたころかなと承知している。
⑥その他「多々」あろうと思いますが、「吉備」での探査が手づまり状態の現在。
ぜひとも、読者諸氏の、
そして、出雲で「一発目のトレンチ」で、量の銅剣を掘り当てた“そのお人の感”を聞きたい。
≪其の2≫ 静岡県旧豊岡村(現在の磐田市)、銅鐸3号の場合
「青銅製品の探査機」で検索しました。 <以下はその概要です>
銅鐸・高さ約80cm(敷地3号銅鐸) 磐田市(旧豊岡村) 『西の谷遺跡』出土!
今から、1800年前(弥生時代後期)の青銅製品です。 明治時代に2個の銅鐸(1号、2号)が出土していることから、山の斜面全体について金属探知器などの物理的探査をしたところ、2000年2月に、この銅鐸を発見した。
場所は、家や墓がない谷奥の斜面に埋納していた。 と写真付きであります。
写真・其の1は、発見場所の山斜面から下方を写したもので、はるか下方に家が写っています。そして、<あたり一帯の立木は?、その調査の為に伐採されたのか?とうかがえます>
写真其の2は、銅鐸のヒレという部分を寝かせて埋めてあり、<その深さは、約60cm?> くらいかなと思えます。
www.maibun shizuoka-c,ed.jp/dotaku.html 以上です。
この記事のなかに、3つ4つ気になる言葉があります。
①つ目は、今回の出土1個に加え、合計3個の銅鐸が出ていること。そのうちの2個は明治時代の出土とあります。 (荒神を2体呼び寄せれば喧嘩になるとの自説から)、銅鐸は1ブロックで1個の使用です。 「1ブロック」としたのは、銅鐸を使う“ご祈祷”は、大行事ですから、各集落が合同でやる場合も考えられます。 雨乞いの場合は、「天の井戸」を相手にするわけですから、銅鐸が出たその場所だけで事を考えてはなりません。渥美半島には、「神戸、片神戸、赤羽根、白羽」の地名伝言があります。 そして、この銅鐸3個?が意味する時の流れは?
②つ目は、「西の谷遺跡」という言葉があります。ここでも「出雲・西谷」、吉備では「経山・西谷」とあるように、『西』というワードが付いています。 (まだ話題にあげていませんが神戸にも西谷があります。) この「西」が意味するのは、『その雨を司る竜神が東から西進して来て、西からその慈雨を持ってくる考えに基づいている』 ことにあります。天気は西から変わってくる。 この「西行き」ということは、後の日本人の西方浄土信仰にも大きく関わっています。
このブログを見て、銅鐸・銅剣ハンターになりたくなった!? “あなた”だけに、そっと耳打ちします。誰にも言ってはいけませんよ!(笑) これは「極秘」ですから!『キーワードは、西』。
ここでは、「卑弥呼が」を付けた大量の銅剣・銅鐸に、しぼっていますが、貴方がお住まいの、『岩の字の付く地』にも、未出土の銅鐸があるかも知れませんね。
③つ目は、「山の斜面全体について、金属探知器などの物理的探査」とあるが、その斜面全体を「じゅうたん爆撃」のように調査されたのか? そして「金属探知器など」とあるが、「など」とは、他のどんな方法なのか? それに山を伐採してもその切株は残るがその処置は? 知りたいことは一杯あります。
④つ目に「谷奥の斜面」とあるが、なぜ「その斜面」としたのか? 谷底でもよいのではないか? そして、谷奥とあるが、一口に谷奥といっても実際に現地をあたると、それらしき所は数多くある。 さらに、この谷の「いわれ」は? 近くに「社・やしろ」等があると思うが、そこは何を祀っておられるのか? いずれにしても、これ等に時間とお金をかけてでも、探査をしようと、『つよく提唱したお人』 がいたはずだ。私は、その『お人の』言葉をぜひに聞きたい。
つぎは、「青銅器の探査機について」 です。
その前に、こんなニュースが過去にありました。
「地中に埋まった水道配管を、直角に折れ曲げた番線二本で見付ける!」
これは、とある水道局の職員が見付けだされた方法で、今では樹脂管が全ての水道管ですが、当時は鉄管(時に鉛管も)が使用されていて、その老朽管の取り替え時に誤って破損することがあり、あらかじめ、その埋設場所がわかれば、それを避けて掘り下げることが出来ることから考えだされたようです。
それが8番線か6番線かは分かりませんが、横50cm~60cm、縦30cm~40cm?で、針金を直角に折り曲げて、それを進行方向・平行にかざし、両手で緩く保持し、地中にその鉄管があると「その番線が開く」というのです。 タ゜ウンジングの原理かな? これは、『地球には磁場・磁気流があり、その中で地中の鉄管と番線の磁気が干渉しあっておきる現象かな?』 と推理しています。ためしに筆者もやってみましたがうまくいきませんでした。 熟練が?いるのでしょう。
このように、その埋蔵物が磁気を帯びる鉄ならかんたんに発見かるのですが、青銅製品ではその磁気がつかえず、他の方法(微弱電流?超音波?)を用いねばならず、その分析方法と機器に多くの費用がかかるというのが10年ほど前の結論でした。
今では、当時より性能のいい機器があるようですが、それでも、その探査にあたっては、「検知被体と検知板との距離」を一定に保たないと正確なデータが得られない。せっかく金属探査機・探知機をここぞと思うところに持ち込んでも、そこに立木があったり、切株や石などの凸凹があったのでは、それがあるのやら無いのやらがわからず(!徒労に終わる!)。 そこが個人所有の民有地ならば伐採・整地の可能性もあるが♪、そこが官地公地では絶望的! いままでの記事で、それ等について、くどいくらいに述べている訳がわかって頂けたら幸いです。
しかしながら、「この広報と、その捜索」を止めるわけにはいかない。
次、<金属探知機のレンタル>で検索しました。
<サンモニターの金属探知機> ㈱サンモニター ℡03-3931-0521
□ハンディ型(ファースト トラッカー) USメイド<品名 トラッカー4>
一日当たりのレンタル料 ¥2,100
大きさ 最長 132cm 重さ 約1,2kg
特 徴 全金属 運動場、砂浜、山道
ターゲット迄の検出例 マンホールのふた(70cmφ)ターゲット迄55cm
□ハンディ型(1212ーX)
一日当たりのレンタル料 ¥2,100
大きさ、ターゲット迄の検出例 ほぼ、同上
特 徴 金属種別の判定具備しない分、取り扱いが簡単です。
□ディスカバリー3300
一日当たりのレンタル料 ¥3,150
大きさ 最長 132cm 重量 約3,2kg
金属種別の判定ありで、 1,8リットルのスチール缶で、60cm前後
100cm100cmメッシュ 90cm前後
検知力だけに絞り込めば、初心者でもOK、
□ハンディ型(Gemini-3)
一日当たりのレンタル料 ¥5,250
大きさ 最長 ・・・ 重量 約3,2kg
深く埋まっている大きいものの検知
ドラム缶で、約4m! このクラスでは最も到達深度が深い。
以上、みつくろって検索しました。(笑) 興味のある方は上記へ問い合わせて下さい。
<青銅器遺物(銅鐸)の調査>で検索してみました。
遺跡名 敷地遺跡
場 所 静岡県磐田郡豊岡村 (現・磐田市)
時 代 弥生時代
調査年月 平成12年1月 (2000年)
調査目的 広範囲の調査値の中から、青銅器遺物(銅鐸)の存否を確認
探査方法 電磁法探査
探知機(写真付き) センサー部:2個の車輪付き 分析部:背負い型
<応用地質株式会社> 東京本社ジオテクニカルセンター歴史環境 担当
Eーmail kikaku @ oyo net.co.jp
Tel 048-652-0651(代) Fax 048-652-4031(代)
「2個の車輪付き」ということは被体とセンサー部の距離を一定に保つということかな? 今までの捜索の経緯から、こんな大きな機械の持ち込みは不能。 草刈り機タイプにしても、立木や草木、木の根っこ、石等があると、“有るか無いかの”正確な検知が出来ないのかも知れない。
<素人探偵が思っているほど、簡単ではない?>
この調査には、“静岡大学考古学”がかんでいるようですが、いずれにしても、大がかりな調査があっての「銅鐸発見」に至ったようです。
以上、「立木の伐採」にしても、「金属探査機」の持ち込みにしても、調べれば調べるだけ、その目的から遠ざかっていくような気がします。
つづきます^^!
尚、 コメントを置いてくださる方は、 下の CO-0、のクリックをお願いいたします。
どなた様、拍手をありがとう^^。 只今('10 5/23)までで3拍になりました。
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此処に“大量の銅剣”が埋めてある!
<全国歴史ファンの方々、貴方に呼びかけます。三上山に集
合せよ!> の1. 2011 Jan. 11 ~
カテゴリー“銅剣銅鐸探査のあれこれ!”からのつづきです。←是非ご覧あれ^^。
三上山というのは、新幹線京都~米原間で、京都を少しすぎた野洲川東岸にあり、南側の車窓から見え高さは432m。その△形をした美しい山姿から近江富士とも呼ばれています。前述の記事で “大量の銅剣” がこの谷奥に埋めてあるとしましたが、今回は、前回の位置より東に60mほどの所にある、卍印(名前は分かりません)の、境内の広場に続く、妙光寺山(257m)側の南向き斜面で 「目どおりより少し高い所」の、地下4尺!と、変更・訂正します。
(その埋め場所を特定した根拠と、この度、その埋め場所の移動訂正を・・・^^!)
記事は、不定期な日々の(追記)で更新しています。前回は(1/27)で、今回は(1/29)です。
すべての記事は、連続・関連モノです。 引きつづきの駄文にお付きあい下されば幸いです。
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< 勇気ある暴挙^^?、その前に!>
此処に卑弥呼が埋めさせ、封印した大量の銅剣(推定・200本前後?)が1700年余の眠りに就いている。私には、その行動を共にしてくれる友がいない。正直いってそれを一人で掘り上げるのは恐ろしいし、それを妨げる諸般の事情(前述;カテゴリー“銅剣・銅鐸探査のあれこれ!”) もある。大切な遺産をみだりに壊してはならない。 まずは充分な確認作業をしてからだ。 まだまだ知りたい事は、いっぱいある! このブログをご覧になっている 貴方に呼びかけます。 私と一緒に、或いは、別々おおいに結構なのですが(笑) 現地を訪れて、貴方のブログに発表しませんか?!
コメントをお待ちします(^^)♪ 只今、閉鎖中です(>-<)。
その出土に至るまでの経緯を<コメント>として歴史に残しておきませんか^^?
遅い早いの違いはあっても必ず出土します! 出土して世間が大騒ぎする以前に“コメって”おくのは、素晴らしいことと思いませんか? 例えば「応援します」の一言でも!? この言葉をくださった方は広報活動二十余年間で片手に満たない。トホホホ・・・(^-^!)
尚、真に勝ってながら、そのコメントは当方へ無償提供されたとしてUPさせて頂きます^^。
<その根拠を、再々、々度、掲げます。> (1/13)
『ひと山こえてぇ~、 ふた山こえて、 み山(三上山)の前でぇ~、 た~ぬきさん、狸さん踊ろじゃないかぁ』 この ‘鞠つき’ 童唄には、おそろしいまでの秘密が隠されていた。
(カテゴリー、「銅剣銅鐸の探査あれこれ!」 より引用^^♪)
この童唄は、特に限った地方のことではなく大量の銅鐸を埋めてある場所から、ふた山を越えて、み山目の前に、※大量の銅剣を埋めた! との 『約束事』をいう、祖先からの伝承なのだ!
(註)野洲大岩山で出土した銅鐸数24個×9=三上山銅剣数(予測200余本)の算出方法
(銅鐸と銅剣がセット) 銅鐸1個に対する銅剣数のおおよその目安は !?、(Dr.計算式より^^)
出雲神庭荒神谷の銅剣数358本÷出雲岩倉の銅鐸数39個=9
大量の銅鐸と銅剣の埋め場所は、
以下(青色)のような “相関関係と、共通性” がある。
(大量の銅鐸と銅剣の出土とその推定場所)
<大量の銅鐸> <大量の銅剣>
岩の付く地名→ その西方;約1里・二山越え→ 西、及び荒神の付く地名
<出雲> 岩倉 大黒山・仏教山 神庭荒神谷・西谷(さいたに)
<吉備> 岩屋?(総社市) *山 ・経山 黒尾地区 西谷?(にしたに)
<神戸> 桜ヶ丘(古名;神岡かむか) * (荒神山) 地獄谷 or 大月地獄谷?
<野洲> 大岩山 *山 ・妙光寺山 と、三上山との谷間・(地名?)
人里から程よく離れた山の中腹、 ほぼ西南方で辺ぴな谷奥の南向斜面
(註)(?マーク)は、予想した埋封(まいふう;筆者の造語)場所で、未だ未掘です!
歴史&旅行好き同好会 けい | URL | 2011-01-14-Fri 16:39 [EDIT]
ーrankのお誘いー
歴史、旅行が好きな人との交流を願い、rank作りました。
出来立てですが運営 頑張りますのでぜひ参加お願いします!!
重複してましたら、申し訳ありません。お待ちしてます★+゜
探訪を望む♪ 平 素人 | URL | 2011-01-15-Sat 04:34 [EDIT]
けいさん> コメントありがとう御座います♪
歴史&旅行好き同好会>とは、 願ってもないご趣味のお方のようです。 リンクの方、まことに申し訳ありませんが、当方、未だにリンクの貼り方を得てないPC音痴。今貼ってあるお方は相手方が貼られたものと、・・・・^^? 今後ともよろしくお願いいたします。
<共通した歴史的背景> (1/15)
BC2001年12月25日の朝6時頃、列島を襲った巨大地震があった。冬の朝6時といえば、外は未だ暗く人々は寝覚めの際にある。山をも砕く(前述の:カテゴリー変形した山々、出雲半島、若草山?宮島もか?)巨大地震である。震源地に近い遠いは、あろうが地鳴りとともに身体は50cm~1・2m?は、跳ね上がったと思われる。直後に襲いくる大津波と、やがての大雨の後、気温が下がる隕石の冬へと移行する。
この巨大隕石は人々の心に竜神となって降臨した(前述;巨大地震と大津波)。 とくに、上記の4カ所とは限らないが、上記の4カ所には、その時の津波が打ち上げた大量の海の幸(魚)がある。それを祖先は、出雲地方では<安来>、吉備地方では<浅口>、神戸では<かんど>、近江地方では<野洲>等の津波に関係する地名で遺していると結論づけた(これも前述していますので、そちらをどうぞ^^)。 この被災とともに、干天後の豪雨と、魚介類の恵みとをもたらした大事変は、水神様となり、やがては雨乞い文化へと発展してゆく。その荒神に慈雨を乞い、その慈雨との交換物としての捧げものは、“稚児の生け贄”へとエスカレートしていった。
この永々と続いてきた荒神雨乞い文化を<卑弥呼>は、「天気を司るのは太陽神(銅鏡)であり、今まで思っていた荒神様(彗星→巨大隕石→竜神)は、お日様が使わした従神である」として、それまで荒神を呼び寄せ乗り移つさせる媒体として使用していた<銅鐸>と、生け贄の稚児を殺める為に?使用していた<銅剣>を二度と使わないようにとし、魏から得た銅鏡100枚をそれ等の換わりに与え、前記の4カ所に封印した(させた)が、今までの謎解きの概略です。
<岩の付く地名> (1/17)
なぜ岩の付く地名へ埋めたのであろうか? 筆者は、総社市の岩屋を除いて、それらの地を見分したわけではないが、岩と付いているからには、岩があるのであろう。それは小さな岩であってはならない。一目見て周りを圧するような巨岩や岩肌を見せている地でなくてはならない。では何故、縄文石器・弥生期の人が巨岩を信仰の対象にしたのであろうか? 石器を生活の主道具としている人達にとって、その母岩と思える巨岩への思いは容易に想像できる。 巨岩信仰については世界的にみても色々に云われているが、根源には前述の巨大隕石(前述)があるとみている。
つまり、空から轟音とともに巨大隕石という“イカヅチ”がおろされる。そして“天の御柱”という表現もきく。これ等の素人の論法には稚拙さが残るが、子供心が不思議に思ったきっかけは、大量の銅鐸の埋め地には、野洲の大岩山。出雲の岩倉のように<岩>の地名が付いている。吉備・総社の岩屋の地名は、早くから知っていたが、神戸にも必ず岩の付く地名があるのではないかと調べたら、ありました!「いわや駅」の名が♪ <岩名>の付くところに大量の銅鐸が出土している。 出雲・野洲・神戸! 三つの偶然はあっても。四つ目の(総社)に大量の銅鐸が出土すれば、それは必然となる。・・・で(前述の吉備地方へ)。大量の銅剣の捜索のほうは「いもづる式」に(笑)。 ちなみに、三上山か、妙光寺山?の山頂にしめ縄をはった“盤座”の写真が(○○さんのブログ)にありました^^。・・・これは重石(?)のためかな^^!
<西方、及び、西南方向に!> (1/19)
大量の銅剣の埋め地は、大量の銅鐸の埋め地から、ほぼ西方向で一里離した所に埋めてある。
何故、このような考えに至ったのであろうか?
BC2001年の12月末に近いとき、太陽系に近づく一つの巨塊があった。彗星は、朝夕の空に「妙なる光」を放ち、ついには巨大隕石となって地球軌道と交わった。時はかわり卑弥呼の時にもニアミス(筆者の想像)した彗星があった。人々がその再来かと恐れおののくなか卑弥呼は、その退散封じの祈祷をおこなった。 その<東西の>空に輝く妙なる光は、冬至十夜(とうじとうや)の“不吉な光”として、後の妙見信仰や、千光寺(せんこうじ)の名に変わっていると謎解きした。幕で建物を隠す、幕を引く下ろすは、その名残かと! 数ある山のなかで妙見山等の「妙・たえ」の名をつけた人達の住地は決してその南北であってはならない! (前述の;富山の環状木柱列、英国ストーンヘンジ等) それが後には逆に、ありがたい光、旭光や初日の出へと変わっています!
①その巨大隕石の震源地が東北の三陸であったことから列島各地の住民は<北東、及び、
東>に荒神がおわし、地震や津波にのって西進して来ると思った。
②列島の住民は“除福達”の一行を、その西進した神が帰ってきたと『勘違い』した。
③卑弥呼がそれまでの“稚児の生け贄儀式”をともなう荒神(銅鐸)を封印し、太陽神(銅鏡)に変えることを提唱した。
④それまでにも、銅鐸は雨乞い儀式等の度に埋めたり出したりしてはいたが、卑弥呼が云うのは、それとは意が異なる。 各群落は、取り出した銅鐸を持ち寄り巨岩の岩肌を見せ<岩の地名>がつく山の中腹へ ‘まとめて’埋めた。 その岩で押さえつける意もあるのかな?
⑤生け贄儀式で使用した銅剣の方は、「二度とその荒神に、その剣を持たせてはならない!」とし、地震や津波が来た“逆の方向”である<西、及び、西南>の方向に、その銅鐸から離して埋めた。
<ふた山越えの意> (1/20)
「ひと山こえてぇ~、 ふた山こえて、 み山(三上山)の前でぇ~、」 このふた山こえてに、深い意味はない^^。 ひと山ならだれでも楽に越せる。ふた山ならちょっと難儀であろうとの簡単な発想からである。 「ご先祖さまよう~!」 その相手は、慈雨や流行病はもとより、巨大地震や大津波をも意のままにする荒神さまだぜ。 例え、ひと山増やして、ふた山目にしようが、その神通力をもってすれば “へのカッパ”だと、私は思いますが(笑)?
その荒神さまを、ブログ<文字列マニアさん>は、次のように紹介している。
宇気比(うけひ); 古代日本人は、神の意志をきいて行動した。まず神に自分が問いたいことを問い、その当否をたずね、自分の行動をきめることを、「宇気比」という。占いと思えばよい。
(司馬遼太郎,『翔ぶが如く』)より [ 2008/02/07 20:14 ]
なにはともあれ、ご先祖さまは、<岩の字>の付いた大量の銅鐸の埋め地から、ふた山越えで距離にして約4km・一里(=離?)離れた谷奥へ封印した! もし貴方が“銅鐸・銅剣ハンター”になりたいお方なら、まずは「岩」のつく地名を捜されるがよい。北九州の瀬戸内側には、特に多くの<岩屋>名があり、“竜の食台”なんとか<平・たいら>の地名もありました。(別紙報告書)
< み山の意??> ちょっと脇道へ^^! (1/21)
何故、その山を “三上山”と命名したのであろうか? ふもとの神社の名は<御上神社>だったと思うが。「御」は「み」とも読むことがある。縄文弥生の人が「み」と発音する言葉には何か意味があるのか? PCで「みやま」を変換してみると、「三山、深山、海山、美山、観山、御山」が出てきた。 ご先祖さまよぉ! これ等のすべてを「み」と読ませるには少々の^^無理があると子供心は思うのですが?(笑) これ等には何かの共通性があるのではないか? 先の徐福達は東方に<三神山>を求めてきた。 御神酒(おみき)の神の字は「み」と読む。奈良のシンボル三つに重なる“三笠山=若草山”。 昨年訪れた広島の<宮島>。この島を祖先は何故<宮島>と名付けたのか? 海の中にある大鳥居の背景にある尖った山の形状と、鳥居の周囲の濁砂がますます気になってきた。 神聖であるべきはずの大鳥居や宮閣が鼻もつまみたくなるような濁泥の上に立つのが解せない。 なぜ世界遺産がこんなに泥っちい所にと?、貴方は思いませんでしたか?
<宮島の大鳥居> (1/23)
四千年前の“天変地異”は、山をも(三つに?)割り砕き、その大津波は濁泥となって押し寄せたのではないのか? 今は亡き<じいさま>はこの辺りは藻場が多く鱚釣りには適さないと云っておられた。その昔、夥しい魚貝が打ち上げられカルシウム分が多い富栄養化した海だから牡蠣がおいしいのだ。広島湾は列島地震によって発生した津波と豊後水道から入り込んだ外洋津波に乗って入魂した“神の上陸地”だ!! 海中の大鳥居は「大津波さまいらっしゃいませ!」なのだ。
なにも無い地をご先祖様は、信仰の対象にはしない! 話しが大きくそれましたぁ~(^-^;)
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<△山形状の意味は?> (1/24)
出雲の仏教山、野洲の三上山、神戸市住吉区だったかな荒神山、それと吉備総社市の経山。これ等の山は△山の形状をしている。これに気付いたのは<Dr.いずも氏>からの情報で、神奈備山の頂上が丸いのに対し、この出雲・仏教山の頂上は「尖っている」とあったのがきっかけであった。野洲の三上山の△形状は、周りの山には無い形状をしているから新幹線の車窓から一目見てそれと分かる。岡山県総社の経山も同様に辺りにはない△形状をしている。神戸の荒神山も国土地理院の地図でみると、これも先尖りの形状をしているようだ。
大量の銅鐸の埋め地と、この△山の関係位置は前述したとおりであるが、この△形状には「何の意味」があるのだろうか? 大量の銅鐸と大量の銅剣は「二度と使うまじ!」として“セット”して封印したのである(前述)。説明が少し乱雑にはなりますが、剣山の名や、古墳の埋葬儀式でヤリを立てた痕跡等から推察すれば、天に抗う(あがらう)ためではないだろうか。この場合の「天」とは、妙なる光を放って来襲した<荒神さま>のことだ。せっかく封印した大量の銅剣をその荒神に取り返されてはならない! <その荒神、寄せつけまじ!>として剣状の山形状の地のそばにその銅剣や銅矛を埋めた。 「ご先祖さまよう゛そんなもんでいいのですかぁ?」 わたしなら、いっそのこと熔かしてしまって、その形をなくしてしまいますがねえ^^! ご先祖様曰く『そんなことをしてみい! どこぞの、あらぬところへ‘取り憑いて’しまおうがぁ~』 荒神さまっていたって人間的?!(^-^) 実効主義的な考えをもつ欧米人に対し、日本人は象徴的にものを考える傾向があるようです。
<谷奥、南向斜面の意> (1/27)
出雲・荒神谷から出土した大量の銅剣の埋め場所は、谷奥の辺ぴな所であった。地もとの人によれば余り人が寄りつかないところであったようだ。道路工事の事前調査で須恵器のかけらが見つかったことがきっかけの出土であった。(昭和58年)の当時、銅剣の出土数は、全国合わせても300本(?)程度であったから、出雲で出土した358本は驚異的な数字であり、考古学はもとより、新聞は一面を飾り歴史に興味のない人達までもが大騒ぎした。その後の(平成8年)に、ここから4kmほど東の加茂岩倉で農道の工事中に、これも一カ所の出土数では全国最多の39個の銅鐸(後で国宝に^^)が見つかり、またもや出雲で “宝物が出土した”として大騒ぎ^^!> それとの関係が色々と取りざたされて現在に至っている。
(1/28)
何故、辺ぴな谷奥に埋めたのか。
前述したように、銅剣や銅鐸は、雨乞いのための(○)器である。弥生期に入り水稲への比重がおおきくなるにつれて、人々は水の循環に気を払うようになった。雨水の循環は、天から山地。谷間から河川。河川から海や湖。それが蒸発して、再び天に上るのはいうまでもない。それを司るのが荒神さまであった。そして、その源流に「雨水欲しや!」とお祈りするのが雨乞いである。その源流である谷間は、命出流(いのちいずる)ところでもあり、命産まれ出る女性にも通じる場所でもある。 その荒神に簡単に(^^!)取り返されてはならないと隠す意のあることは勿論だが、その銅剣は、いかに衆生のためとはいえ雨乞いや疫病払いとして生け贄の稚児を殺めたものである。この場合その銅剣が実際に使用されたか象徴的に使用されたかは大きな問題ではなく、そのむごさと恐ろしさが人々に与えた心理的影響は、はかり知れない。「 触らぬ神に、たたりなし!」 その谷に入りその荒神に取り憑かれたり祟りでも受けようものなら大変だ。それ等の大量の銅剣を(銅鐸も)埋めたことは衆知の事実であるのに、ごく近時まで、墓泥棒の被害に遭わなかったのは。その恐ろしさに起因する。 それが今では「祟り・たたり」の言葉さえ風化し、その大量の銅剣を埋めたことさえも、すっかり忘れてしまいました!(笑い)。
(1/29)
では、南向き斜面に埋めたのは何故か?
ふつうに考えれば日陰に隠したほうがよいと思われるが? この大量に埋められた銅剣と銅鐸は、卑弥呼が提唱した「太陽が主神で、今まで思われていた荒神さまは、お日様の使者であり従神であるよ」の考えに基づいて、二度と、その荒神を呼び起こしてはならない!」として埋封(まいふう・筆者の造語)したのである。言い換えて、「<陽光で陰を封じる>考えだ!!
であるならば、前述の剣先にあたる、三上山(出雲・仏教山、総社市・経山、神戸・荒神山)がつくる<冬至十夜の陰影>と、この<埋め地>との関係が重要になってくる。この時期、その山影が如何ように動くのかを是非に知りたい。 但し、今論じているのは卑弥呼の代、1700年ほど前の話しですから、地球の歳差運動(コマの軸ふり運動)を考慮に入れねばなりません。(当てにならない筆者の算数で?<70年に1°角の移動??^^?) このところ、よく訪問して下さる<地球のあたりまえさん^^>どうぞの御教示を♪、といってもコメント欄閉ざしていますが・・・(^^!)
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以上が、(所々に前ぶれ語を忍ばせて^^)推理小説風に?仕立ててきた謎解きの概略です。初めてのお方は“ふりだし”「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」から、どうぞ(^-^)♪
前置きが長くなりましたが、ここからが、表題「三上山に集われよ!」の本番です。(^-^)♪
・・・次の記事<・・・、の2>へ、つづきます^^
<全国歴史ファンの方々、貴方に呼びかけます。三上山に集
合せよ!> の1. 2011 Jan. 11 ~
カテゴリー“銅剣銅鐸探査のあれこれ!”からのつづきです。←是非ご覧あれ^^。
三上山というのは、新幹線京都~米原間で、京都を少しすぎた野洲川東岸にあり、南側の車窓から見え高さは432m。その△形をした美しい山姿から近江富士とも呼ばれています。前述の記事で “大量の銅剣” がこの谷奥に埋めてあるとしましたが、今回は、前回の位置より東に60mほどの所にある、卍印(名前は分かりません)の、境内の広場に続く、妙光寺山(257m)側の南向き斜面で 「目どおりより少し高い所」の、地下4尺!と、変更・訂正します。
(その埋め場所を特定した根拠と、この度、その埋め場所の移動訂正を・・・^^!)
記事は、不定期な日々の(追記)で更新しています。前回は(1/27)で、今回は(1/29)です。
すべての記事は、連続・関連モノです。 引きつづきの駄文にお付きあい下されば幸いです。
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< 勇気ある暴挙^^?、その前に!>
此処に卑弥呼が埋めさせ、封印した大量の銅剣(推定・200本前後?)が1700年余の眠りに就いている。私には、その行動を共にしてくれる友がいない。正直いってそれを一人で掘り上げるのは恐ろしいし、それを妨げる諸般の事情(前述;カテゴリー“銅剣・銅鐸探査のあれこれ!”) もある。大切な遺産をみだりに壊してはならない。 まずは充分な確認作業をしてからだ。 まだまだ知りたい事は、いっぱいある! このブログをご覧になっている 貴方に呼びかけます。 私と一緒に、或いは、別々おおいに結構なのですが(笑) 現地を訪れて、貴方のブログに発表しませんか?!
その出土に至るまでの経緯を
遅い早いの違いはあっても必ず出土します! 出土して世間が大騒ぎする
尚、真に勝ってながら、そのコメントは当方へ無償提供されたとしてUPさせて頂きます^^
<その根拠を、再々、々度、掲げます。> (1/13)
『ひと山こえてぇ~、 ふた山こえて、 み山(三上山)の前でぇ~、 た~ぬきさん、狸さん踊ろじゃないかぁ』 この ‘鞠つき’ 童唄には、おそろしいまでの秘密が隠されていた。
(カテゴリー、「銅剣銅鐸の探査あれこれ!」 より引用^^♪)
この童唄は、特に限った地方のことではなく大量の銅鐸を埋めてある場所から、ふた山を越えて、み山目の前に、※大量の銅剣を埋めた! との 『約束事』をいう、祖先からの伝承なのだ!
(註)野洲大岩山で出土した銅鐸数24個×9=三上山銅剣数(予測200余本)の算出方法
(銅鐸と銅剣がセット) 銅鐸1個に対する銅剣数のおおよその目安は !?、(Dr.計算式より^^)
出雲神庭荒神谷の銅剣数358本÷出雲岩倉の銅鐸数39個=9
大量の銅鐸と銅剣の埋め場所は、
以下(青色)のような “相関関係と、共通性” がある。
(大量の銅鐸と銅剣の出土とその推定場所)
<大量の銅鐸> <大量の銅剣>
岩の付く地名→ その西方;約1里・二山越え→ 西、及び荒神の付く地名
<出雲> 岩倉 大黒山・仏教山 神庭荒神谷・西谷(さいたに)
<吉備> 岩屋?(総社市) *山 ・経山 黒尾地区 西谷?(にしたに)
<神戸> 桜ヶ丘(古名;神岡かむか) * (荒神山) 地獄谷 or 大月地獄谷?
<野洲> 大岩山 *山 ・妙光寺山 と、三上山との谷間・(地名?)
人里から程よく離れた山の中腹、 ほぼ西南方で辺ぴな谷奥の南向斜面
(註)(?マーク)は、予想した埋封(まいふう;筆者の造語)場所で、未だ未掘です!
歴史&旅行好き同好会 けい | URL | 2011-01-14-Fri 16:39 [EDIT]
ーrankのお誘いー
歴史、旅行が好きな人との交流を願い、rank作りました。
出来立てですが運営 頑張りますのでぜひ参加お願いします!!
重複してましたら、申し訳ありません。お待ちしてます★+゜
探訪を望む♪ 平 素人 | URL | 2011-01-15-Sat 04:34 [EDIT]
けいさん> コメントありがとう御座います♪
歴史&旅行好き同好会>とは、 願ってもないご趣味のお方のようです。 リンクの方、まことに申し訳ありませんが、当方、未だにリンクの貼り方を得てないPC音痴。今貼ってあるお方は相手方が貼られたものと、・・・・^^? 今後ともよろしくお願いいたします。
<共通した歴史的背景> (1/15)
BC2001年12月25日の朝6時頃、列島を襲った巨大地震があった。冬の朝6時といえば、外は未だ暗く人々は寝覚めの際にある。山をも砕く(前述の:カテゴリー変形した山々、出雲半島、若草山?宮島もか?)巨大地震である。震源地に近い遠いは、あろうが地鳴りとともに身体は50cm~1・2m?は、跳ね上がったと思われる。直後に襲いくる大津波と、やがての大雨の後、気温が下がる隕石の冬へと移行する。
この巨大隕石は人々の心に竜神となって降臨した(前述;巨大地震と大津波)。 とくに、上記の4カ所とは限らないが、上記の4カ所には、その時の津波が打ち上げた大量の海の幸(魚)がある。それを祖先は、出雲地方では<安来>、吉備地方では<浅口>、神戸では<かんど>、近江地方では<野洲>等の津波に関係する地名で遺していると結論づけた(これも前述していますので、そちらをどうぞ^^)。 この被災とともに、干天後の豪雨と、魚介類の恵みとをもたらした大事変は、水神様となり、やがては雨乞い文化へと発展してゆく。その荒神に慈雨を乞い、その慈雨との交換物としての捧げものは、“稚児の生け贄”へとエスカレートしていった。
この永々と続いてきた荒神雨乞い文化を<卑弥呼>は、「天気を司るのは太陽神(銅鏡)であり、今まで思っていた荒神様(彗星→巨大隕石→竜神)は、お日様が使わした従神である」として、それまで荒神を呼び寄せ乗り移つさせる媒体として使用していた<銅鐸>と、生け贄の稚児を殺める為に?使用していた<銅剣>を二度と使わないようにとし、魏から得た銅鏡100枚をそれ等の換わりに与え、前記の4カ所に封印した(させた)が、今までの謎解きの概略です。
<岩の付く地名> (1/17)
なぜ岩の付く地名へ埋めたのであろうか? 筆者は、総社市の岩屋を除いて、それらの地を見分したわけではないが、岩と付いているからには、岩があるのであろう。それは小さな岩であってはならない。一目見て周りを圧するような巨岩や岩肌を見せている地でなくてはならない。では何故、縄文石器・弥生期の人が巨岩を信仰の対象にしたのであろうか? 石器を生活の主道具としている人達にとって、その母岩と思える巨岩への思いは容易に想像できる。 巨岩信仰については世界的にみても色々に云われているが、根源には前述の巨大隕石(前述)があるとみている。
つまり、空から轟音とともに巨大隕石という“イカヅチ”がおろされる。そして“天の御柱”という表現もきく。これ等の素人の論法には稚拙さが残るが、子供心が不思議に思ったきっかけは、大量の銅鐸の埋め地には、野洲の大岩山。出雲の岩倉のように<岩>の地名が付いている。吉備・総社の岩屋の地名は、早くから知っていたが、神戸にも必ず岩の付く地名があるのではないかと調べたら、ありました!「いわや駅」の名が♪ <岩名>の付くところに大量の銅鐸が出土している。 出雲・野洲・神戸! 三つの偶然はあっても。四つ目の(総社)に大量の銅鐸が出土すれば、それは必然となる。・・・で(前述の吉備地方へ)。大量の銅剣の捜索のほうは「いもづる式」に(笑)。 ちなみに、三上山か、妙光寺山?の山頂にしめ縄をはった“盤座”の写真が(○○さんのブログ)にありました^^。・・・これは重石(?)のためかな^^!
<西方、及び、西南方向に!> (1/19)
大量の銅剣の埋め地は、大量の銅鐸の埋め地から、ほぼ西方向で一里離した所に埋めてある。
何故、このような考えに至ったのであろうか?
BC2001年の12月末に近いとき、太陽系に近づく一つの巨塊があった。彗星は、朝夕の空に「妙なる光」を放ち、ついには巨大隕石となって地球軌道と交わった。時はかわり卑弥呼の時にもニアミス(筆者の想像)した彗星があった。人々がその再来かと恐れおののくなか卑弥呼は、その退散封じの祈祷をおこなった。 その<東西の>空に輝く妙なる光は、冬至十夜(とうじとうや)の“不吉な光”として、後の妙見信仰や、千光寺(せんこうじ)の名に変わっていると謎解きした。幕で建物を隠す、幕を引く下ろすは、その名残かと! 数ある山のなかで妙見山等の「妙・たえ」の名をつけた人達の住地は決してその南北であってはならない! (前述の;富山の環状木柱列、英国ストーンヘンジ等) それが後には逆に、ありがたい光、旭光や初日の出へと変わっています!
①その巨大隕石の震源地が東北の三陸であったことから列島各地の住民は<北東、及び、
東>に荒神がおわし、地震や津波にのって西進して来ると思った。
②列島の住民は“除福達”の一行を、その西進した神が帰ってきたと『勘違い』した。
③卑弥呼がそれまでの“稚児の生け贄儀式”をともなう荒神(銅鐸)を封印し、太陽神(銅鏡)に変えることを提唱した。
④それまでにも、銅鐸は雨乞い儀式等の度に埋めたり出したりしてはいたが、卑弥呼が云うのは、それとは意が異なる。 各群落は、取り出した銅鐸を持ち寄り巨岩の岩肌を見せ<岩の地名>がつく山の中腹へ ‘まとめて’埋めた。 その岩で押さえつける意もあるのかな?
⑤生け贄儀式で使用した銅剣の方は、「二度とその荒神に、その剣を持たせてはならない!」とし、地震や津波が来た“逆の方向”である<西、及び、西南>の方向に、その銅鐸から離して埋めた。
<ふた山越えの意> (1/20)
「ひと山こえてぇ~、 ふた山こえて、 み山(三上山)の前でぇ~、」 このふた山こえてに、深い意味はない^^。 ひと山ならだれでも楽に越せる。ふた山ならちょっと難儀であろうとの簡単な発想からである。 「ご先祖さまよう~!」 その相手は、慈雨や流行病はもとより、巨大地震や大津波をも意のままにする荒神さまだぜ。 例え、ひと山増やして、ふた山目にしようが、その神通力をもってすれば “へのカッパ”だと、私は思いますが(笑)?
その荒神さまを、ブログ<文字列マニアさん>は、次のように紹介している。
宇気比(うけひ); 古代日本人は、神の意志をきいて行動した。まず神に自分が問いたいことを問い、その当否をたずね、自分の行動をきめることを、「宇気比」という。占いと思えばよい。
(司馬遼太郎,『翔ぶが如く』)より [ 2008/02/07 20:14 ]
なにはともあれ、ご先祖さまは、<岩の字>の付いた大量の銅鐸の埋め地から、ふた山越えで距離にして約4km・一里(=離?)離れた谷奥へ封印した! もし貴方が“銅鐸・銅剣ハンター”になりたいお方なら、まずは「岩」のつく地名を捜されるがよい。北九州の瀬戸内側には、特に多くの<岩屋>名があり、“竜の食台”なんとか<平・たいら>の地名もありました。(別紙報告書)
< み山の意??> ちょっと脇道へ^^! (1/21)
何故、その山を “三上山”と命名したのであろうか? ふもとの神社の名は<御上神社>だったと思うが。「御」は「み」とも読むことがある。縄文弥生の人が「み」と発音する言葉には何か意味があるのか? PCで「みやま」を変換してみると、「三山、深山、海山、美山、観山、御山」が出てきた。 ご先祖さまよぉ! これ等のすべてを「み」と読ませるには少々の^^無理があると子供心は思うのですが?(笑) これ等には何かの共通性があるのではないか? 先の徐福達は東方に<三神山>を求めてきた。 御神酒(おみき)の神の字は「み」と読む。奈良のシンボル三つに重なる“三笠山=若草山”。 昨年訪れた広島の<宮島>。この島を祖先は何故<宮島>と名付けたのか? 海の中にある大鳥居の背景にある尖った山の形状と、鳥居の周囲の濁砂がますます気になってきた。 神聖であるべきはずの大鳥居や宮閣が鼻もつまみたくなるような濁泥の上に立つのが解せない。 なぜ世界遺産がこんなに泥っちい所にと?、貴方は思いませんでしたか?
<宮島の大鳥居> (1/23)
四千年前の“天変地異”は、山をも(三つに?)割り砕き、その大津波は濁泥となって押し寄せたのではないのか? 今は亡き<じいさま>はこの辺りは藻場が多く鱚釣りには適さないと云っておられた。その昔、夥しい魚貝が打ち上げられカルシウム分が多い富栄養化した海だから牡蠣がおいしいのだ。広島湾は列島地震によって発生した津波と豊後水道から入り込んだ外洋津波に乗って入魂した“神の上陸地”だ!! 海中の大鳥居は「大津波さまいらっしゃいませ!」なのだ。
なにも無い地をご先祖様は、信仰の対象にはしない! 話しが大きくそれましたぁ~(^-^;)
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<△山形状の意味は?> (1/24)
出雲の仏教山、野洲の三上山、神戸市住吉区だったかな荒神山、それと吉備総社市の経山。これ等の山は△山の形状をしている。これに気付いたのは<Dr.いずも氏>からの情報で、神奈備山の頂上が丸いのに対し、この出雲・仏教山の頂上は「尖っている」とあったのがきっかけであった。野洲の三上山の△形状は、周りの山には無い形状をしているから新幹線の車窓から一目見てそれと分かる。岡山県総社の経山も同様に辺りにはない△形状をしている。神戸の荒神山も国土地理院の地図でみると、これも先尖りの形状をしているようだ。
大量の銅鐸の埋め地と、この△山の関係位置は前述したとおりであるが、この△形状には「何の意味」があるのだろうか? 大量の銅鐸と大量の銅剣は「二度と使うまじ!」として“セット”して封印したのである(前述)。説明が少し乱雑にはなりますが、剣山の名や、古墳の埋葬儀式でヤリを立てた痕跡等から推察すれば、天に抗う(あがらう)ためではないだろうか。この場合の「天」とは、妙なる光を放って来襲した<荒神さま>のことだ。せっかく封印した大量の銅剣をその荒神に取り返されてはならない! <その荒神、寄せつけまじ!>として剣状の山形状の地のそばにその銅剣や銅矛を埋めた。 「ご先祖さまよう゛そんなもんでいいのですかぁ?」 わたしなら、いっそのこと熔かしてしまって、その形をなくしてしまいますがねえ^^! ご先祖様曰く『そんなことをしてみい! どこぞの、あらぬところへ‘取り憑いて’しまおうがぁ~』 荒神さまっていたって人間的?!(^-^) 実効主義的な考えをもつ欧米人に対し、日本人は象徴的にものを考える傾向があるようです。
<谷奥、南向斜面の意> (1/27)
出雲・荒神谷から出土した大量の銅剣の埋め場所は、谷奥の辺ぴな所であった。地もとの人によれば余り人が寄りつかないところであったようだ。道路工事の事前調査で須恵器のかけらが見つかったことがきっかけの出土であった。(昭和58年)の当時、銅剣の出土数は、全国合わせても300本(?)程度であったから、出雲で出土した358本は驚異的な数字であり、考古学はもとより、新聞は一面を飾り歴史に興味のない人達までもが大騒ぎした。その後の(平成8年)に、ここから4kmほど東の加茂岩倉で農道の工事中に、これも一カ所の出土数では全国最多の39個の銅鐸(後で国宝に^^)が見つかり、またもや出雲で “宝物が出土した”として大騒ぎ^^!> それとの関係が色々と取りざたされて現在に至っている。
(1/28)
何故、辺ぴな谷奥に埋めたのか。
前述したように、銅剣や銅鐸は、雨乞いのための(○)器である。弥生期に入り水稲への比重がおおきくなるにつれて、人々は水の循環に気を払うようになった。雨水の循環は、天から山地。谷間から河川。河川から海や湖。それが蒸発して、再び天に上るのはいうまでもない。それを司るのが荒神さまであった。そして、その源流に「雨水欲しや!」とお祈りするのが雨乞いである。その源流である谷間は、命出流(いのちいずる)ところでもあり、命産まれ出る女性にも通じる場所でもある。 その荒神に簡単に(^^!)取り返されてはならないと隠す意のあることは勿論だが、その銅剣は、いかに衆生のためとはいえ雨乞いや疫病払いとして生け贄の稚児を殺めたものである。この場合その銅剣が実際に使用されたか象徴的に使用されたかは大きな問題ではなく、そのむごさと恐ろしさが人々に与えた心理的影響は、はかり知れない。「 触らぬ神に、たたりなし!」 その谷に入りその荒神に取り憑かれたり祟りでも受けようものなら大変だ。それ等の大量の銅剣を(銅鐸も)埋めたことは衆知の事実であるのに、ごく近時まで、墓泥棒の被害に遭わなかったのは。その恐ろしさに起因する。 それが今では「祟り・たたり」の言葉さえ風化し、その大量の銅剣を埋めたことさえも、すっかり忘れてしまいました!(笑い)。
(1/29)
では、南向き斜面に埋めたのは何故か?
ふつうに考えれば日陰に隠したほうがよいと思われるが? この大量に埋められた銅剣と銅鐸は、卑弥呼が提唱した「太陽が主神で、今まで思われていた荒神さまは、お日様の使者であり従神であるよ」の考えに基づいて、二度と、その荒神を呼び起こしてはならない!」として埋封(まいふう・筆者の造語)したのである。言い換えて、「<陽光で陰を封じる>考えだ!!
であるならば、前述の剣先にあたる、三上山(出雲・仏教山、総社市・経山、神戸・荒神山)がつくる<冬至十夜の陰影>と、この<埋め地>との関係が重要になってくる。この時期、その山影が如何ように動くのかを是非に知りたい。 但し、今論じているのは卑弥呼の代、1700年ほど前の話しですから、地球の歳差運動(コマの軸ふり運動)を考慮に入れねばなりません。(当てにならない筆者の算数で?<70年に1°角の移動??^^?) このところ、よく訪問して下さる<地球のあたりまえさん^^>どうぞの御教示を♪、といってもコメント欄閉ざしていますが・・・(^^!)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上が、(所々に前ぶれ語を忍ばせて^^)推理小説風に?仕立ててきた謎解きの概略です。初めてのお方は“ふりだし”「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」から、どうぞ(^-^)♪
前置きが長くなりましたが、ここからが、表題「三上山に集われよ!」の本番です。(^-^)♪
・・・次の記事<・・・、の2>へ、つづきます^^
当ブログへのご訪問ありがとう御座います^^。 貴方さまはとても幸運なかたです♪
何故なら、日本史の見方を変え、ひいては<世界史>をも見直す、第一歩を記している拙記事に出会えました。 貴方さまが“その出土”を見てから大騒ぎする史学や<世間さま>と同じであって欲しくないとせつに祈ります。・・ちょっと泣き言がぁ~、入りました。(笑) 「何故、そんなに強気の言が吐けるのか?」って^^? わたしには<地名>という、ご先祖さまからの“史実伝言”があるからね! 史実探偵: 平 素人
この記事は(2/19)で完了しました。次ネタ蒐集のため、しばらくお待ち下さい^^!
すべての記事は、連続・関連モノです。 引きつづきの駄文にお付きあい下されば幸いです。
此処に “大量の銅剣” が埋めてある!
<全国歴史ファンの方々、貴方に呼びかけます。三上山に集
合せよ!> の2. (前記事)2011 Jan. 11 ~
カテゴリー “銅剣銅鐸探査のあれこれ!” からのつづきです。←是非ご覧あれ^^。
三上山というのは、新幹線京都~米原間で、京都を少しすぎた野洲川東岸にあり、南側の車窓から見え高さは432m。その△形をした美しい山姿から近江富士とも呼ばれています。前述の記事で “大量の銅剣” がこの谷奥に埋めてあるとしましたが、今回は、前回の位置より東に60mほどの所にある、卍印(名前は分かりません)の、境内の広場に続く、妙光寺山(257m)側の南向き斜面で 「目どおりより少し高い所」の、地下4尺!と、変更・訂正します。(前からの続き^^)
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野洲市の<まだ見ぬ大量の銅剣の埋め場所を訂正します>
その場所を<北緯35度3分31秒、東経135度2分23秒から → 27秒に訂正します。
卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」を掲げて広報活動を始めたのが10年余り前。以来、専門家・大学・マスコミ・行政等に600通をこえる文書活動をしましたが、実績のない素人の話などとりあってくれません。ならばと、始めたブログ活動も3年あまりになりますが、これも八方ふさがりの状態。 そこで、改めて今までの記事を再考し表記のような訂正をした次第です。「現場100ぺん」といいますからね。そのきっかけをくださったのがDrいずも氏の言で、前述した「仏教山の頂上の尖り」情報でした。それまでは、主に国土地理院の地図で調べていたのですが、今度はYahoo! 地図サービスで、再度その谷奥の卍印の周辺を探索しました。
以下は、地図上での言及であり現地を訪れたことは一度もありません。(^-^!)
<航空写真と地図上で、それを探索> (2/02)
国道○号線の三上の信号を降りて妙光寺山と三上山に挟まれた谷間の入り口に、航空写真では埋め立てられているように見えるが? 地図では池とみえるものがある。 このような辺ぴな?ところはゴミの埋め立て地となるか廃棄物の処理場となることがあるので要注意。もしそのようになっているのであれば残念なことである。傍らに見えていた鳥居印しの社(やしろ)三上神社があったが、何の神様を祀っていたのであろうか? 気になるところだ。ここから水の流れが有りや無しやの谷間を登る。もちろん車は無理のようだから歩いて登らねばならないと思う。今の時期、雪でも積もっていれば大変だ。
(2/03)
500~600mほど登ると、その社寺に着く。地図で見ればその寺社の建物の脇に石段が付いていて境内・広場はその奥にあるようだ??
「 何っ!?石段は、社殿の正面ではなくて、脇に石段がついているのか?」 “それは変だ!” 今の社寺の建て様を見れば、階段を登ると、まず広場があり、そして社殿があり、その後ろに本殿が鎮座まします順番となっている。このことは「神様が私達を見て御座るのか、私達が神様を見ている」のかの主体性・方向性の違いを意味する。回りくどい言い方を排して言えば、この社殿は下方の住家・里(さと)を見ているのではなくて妙光寺山側の方を見ている。 ??・何故に山側を向いた建て方をしているのか・?? 是非にそれを現地で確かめたい!!! どなた様か近場のお人、 又はお暇なお方(笑い)、 はたまた、日本史の土手っ腹に大風穴(♪)を開けたいお方の出現をせつに希望します! (さて、何方が、その一番鑓(一番手柄)をなさるかな^^)
<この境内は、神楽や、歌舞伎、土俵、盆踊りの櫓(やぐら)等の原始形か!?> (2/04)
今、「境内・けいだい」というと狭義には社殿の前の広場をいうようだが、この山側へ向いた広場は、前述の荒神(銅鐸文化)から太陽神(銅鏡文化)へ変わる封印儀式のための広場であり、この広場で 「その神、この剣に、二度と取り憑かせてはならない!」として、護摩を焚き、塩をまき、太刀をかざし、四股を踏み、カネや太鼓を打ち鳴らし、神楽を舞うための広場だ! 古代語において ‘舞い’と、埋(マイ)は、イコールでつながれる? 素人の論が正しければ、四方に笹竹を立てた杭打ちの跡が遺っていなければならない。東西の脇に見える二つの祠(ほこら)は、この広場を挟んで山側の方に配置されているようだが!? その二神は、その「神楽」を舞う‘二武神’ではないのか? 是非にその名前が知りたい。
<その広場の広さを知りたい!> (2/05)
野洲(町)の大岩山では24個の銅鐸が出土している。すべてが出土したかどうかは分からないが、何回かに分けての出土である。銅鐸は、荒神を呼び寄せるためのものであり2体が御座ればば荒神さま同士で喧嘩をしてしまう。(汗゛)その性格からして一村落に一つと考えられる。だから銅鐸1に対して1人のお太夫さんとして、24人。それに、封じ祈祷をおこなう(これは、卑弥呼本人の場合も考えられる?)導師1人と、副導師の2人。それと太鼓太夫1人(太鼓は前述の狸さんの革か^^?)。さらに太刀を持って舞い踊る2武神。 少なくとも、これ等を合わせた30人が立つか座するかの広さが要る。 「少なくとも」といったのは、銅鐸の数が確定出来ないのと、これに群衆が加わればさらなる広さが必要となる。その広さを知りたい。この広さが広ければ広いだけ、その村落を総じた里(さと)や、郡(こおり)の大きさにつながる。
<なぜ鳥居印しではなくて、お寺の卍印しなのか??> (2/06)
地名伝言からすれば妙光寺であり、東西の二つの祠の形は神社仕様である。・・・解らない??
神仏習合なのか? <総社市の岩屋>では「毘沙門天」を祀った神社仕様の建物と、その下方に立派な石垣を築いた「真宗か真言宗」のお寺仕様の建物の併設があったが、お寺だと神社よりは新しくなる。卍印の名前と宗派が何宗か知りたい。その広場を築いているのは石垣か、土塁か?何時頃、築かれたか? この地の(歴史)と由来は? 歴史音痴の素人には、解らないことだらけである。今にも、没しそうな(^^!)この場所が手狭になったからより広い下方へと場所を移したとも考えられる。その場合は、山裾の<御上神社>のいわれも調べねばなるまい。それより先に、この卍印の名前を知りたいのは勿論のことである。
(註)神仏習合とは?、知りませ~ん。あとで調べまぁ~す。(汗~~!)荒神ではなくて、それに仏様が絡んでくると、“この場所には埋めていないのでは無いか?” との一抹の不安がよぎる?
<出雲の大量の銅剣は山の斜面に埋められていたが?> (2/07)
早くからこの卍印しは認めていたが、当初は、『出雲の荒神谷では“何んの変てつもない”急な山斜面に埋められていた』とあったことから、この卍印しから西方へ60mほど行った山斜面に埋められていると予測していたが、今回の “広場の位置の特異性” により、この広場につづく山斜面に埋められていると予測訂正したのであった。
この広場の上方斜面に大量の銅剣(出土銅鐸数24×9=200余本)が埋められている!
と予測訂正します。
それは、目通りより上(階段にして13段?)の高さのところで、それより高くなっても低くなってもいけない。高すぎれば念力がとどかないし、目線より低い位置では見下ろす位置になり罰当たりになるからだ。すべては出雲の埋め方に習えばいい!
(大量の銅鐸の出土数) (大量の銅剣の出土数の予測?)
<出雲> 岩倉 39個 神庭荒神谷・西谷 358本
<吉備> 岩屋 予測数 (23個) 黒尾地区 西谷 目安予測数(200本)
<神戸> 古名;神岡かむか 14個 地獄谷or大月地獄谷? 目安予測数(120本)
<野洲> 大岩山 24個 三上山との谷間 目安予測数(200本)
<合計> 100個
卑弥呼が銅鐸との交換に使った銅鏡の数( = 魏から得た銅鏡数) ←初頭の記事へどうぞ♪
(^-^) 100個
註)銅剣で・目安予測数としているのは、出雲の銅鐸1個に対する銅剣数を(9本)として
算出した数であり、これは、あくまで目安としての数です。(減る傾向ありか?)
<その後の流れ> 前述記事の繰り返しです。 (2/08)
雨乞いで、稚児を人身供犠用に献上する社会制度への不満は鬱積(うっせき)していたから、卑弥呼の提唱する“象徴物の身代わり文化”へと容易に広まっていったが、なかには長年、銅鐸を使用しての竜神文化が、易々とは変えられない部族もあり、後追い的に、埋めたのが出雲の358本の“隣”に埋めてあった銅鐸○個と銅矛○本であると謎解きした。
そして、卑弥呼の没後は・・、地方によって特有の “気候や、地勢、風習の違い”等もあったり、昔話に残る「除福隊」の食人の風習も尾をひいたりと、一概にはいえないが、いかに卑弥呼さまの云われたようにお日様が主神だとして雨乞いをしても欲しい雨は降るとは限らない。やっぱり竜神さまは生け贄を欲しがっているとして歴史はつづき、池や河川の堤防の竣工式、社寺や橋、五重塔の建造等での生娘の“人柱”の話しが、ごく近年(?江戸時代?)まで残っていたのは、皆さんご存じのとおりです。 しかしながら、銅鐸が銅鏡に変わった歴史は否定できません。その銅鐸は封印されて、今では謎の青銅器と呼ばれ^^!、銅鏡は御神体として今でも使っています。(合掌)
<話しをもどして、その辺りの現状はどうなっているのか?> (2/09)
なにしろ、その大量の銅剣を埋封(まいふう。筆者の造語)したのは、今から1700年余り前のことである。「決して人踏許すまじ!、その荒神起こしてはならない!」としながらも、今ではすっかり忘れ去られた状態だ。(笑)その立木の状態は? 金属探知機が(前記事の銅剣銅鐸の探査あれこれ・参照)入れられるか?どうかを知りたい。大きな立木で覆われていればアウトだ。<世間様>や専門家から “無視される”現状では^^、その大木を伐採してまでの調査は不可能にちかい。 ここぞと思う場所が潅木(かんぼく)であれば都合がいいのだが? その調査は緑が生い茂る時よりも、見通しがきく落葉した今の時期がいちばんいい。何方か現地写真を載せていただけませんか。 ・・といっても雪降る今日、安全には注意して下さいよ!
・・・、と、ここまで思考を進めて、妙に気になることが湧いてきた・・・、
日々、訪問して下さる11名のお方様、ありがとう♪ (ファンが9名から11名にふえた?)
コメントを置いて下されば、『八つ目の宇海・うみ』へ漕ぎ出す“クルー” になれるのですが♪
只今、ドクターと、たろさんと、じいさまと、・・・と、次は貴方の番ですが、さてどうされますう?
・と言っても只今コメント欄は閉ざしています。運がよければ・・・^^? つづきます^^
(2/10)
この卍印しの山斜面に大量の銅剣が埋められているならば、出雲の荒神谷で、「何んの目印も無い山の斜面」というのが解せなくなる。それに固執して^^!、野洲では先の山斜面を予想したのであった。一番大事な祖先からの伝言を忘れていた。荒神谷と呼ばれるからには、その谷どこかに目印となる荒神が祀られていたはずだ! この謎解きは出雲に習っている。よくよく調べたらウエブでありました^^。出雲に 『三宝荒神』の名が(^-^)♪ 三宝とはなにか? そこに埋められていた “銅鐸と、銅剣と、銅矛” を合わせたのが “三宝”ではないのか?! この推理が正しければ、前記事の岡山県の総社や、神戸市の灘区(?)のほうも再考が必要となる。 祖先はその目印を何かに遺している!!! 目印が無いとしたのは誤りであった。・・・それで総社へ出かけてみました。この話はあとで・・・^^!、
<その場所の所有権者は?公か、個人か?を知りたい!> (2/11)
神戸での銅鐸の出土地跡は個人の所有になっていた。一度、現地を訪れ神戸歴史博物館員さまのご親切を受け、現地図をいただきながらもその場所は分かりませんでした。総社の岩屋付近は県の管理地になっていたし、土砂防止保安林にもなっている。そこが公地の場合、そこに生える草木一本、土砂の一握りの移動たりとも法律・条例にふれる。入会権(いりあいけん)という地元の人のみに許される行為もあるが、これは、たきぎ取りや、キノコ狩り、狩猟(?)等に許されるのであって、『大量の銅剣を掘り当てます』 などといってご覧なさい大叱られだ。そこが、村落、町、市、県、国の所有と、上に上がるほどその探掘は難しくなる。その地が市や県以上の管理地であれば探掘はまずもってアウト! 素人が、今までにおこなった行政や大学・専門家、マスコミ等へ出した拙い文書活動では、98%が「梨の礫」でしたからね^^。加えて神聖なる寺社の境内であるから、そんなことをすれば ‘竜のの逆鱗’ にふれるかも・・・?? おっと、そのことは祟り・たたりという言葉さえも忘れた昨今であることをすっかり忘れていましたぁ~(笑)
<出土した歴史的埋蔵物のゆくえ?> (2/12)
これは、「大量の銅剣銅鐸探査のあれこれ」でも述べていますが、まだお読みになっていない?お方のために再度申し上げましょう。
出雲での358本の銅剣は、日本の史学は勿論のこと世間をもゆるがす大きな出来事であったことから、早々に国宝となり、今ではその後に建てられた出雲歴史博物館におさまっている。出雲の荒神谷は辺ぴなところではあったが、稲作田も谷奥まではいっていた。しかし、この発見により周辺は公園となり整備されていったと思われる。野洲の場合、近年の工業化により谷の入り口付近にまで大きな工場も出来ている。この卍印の周辺が、その地区や個人の所有地であればしめたものだ。ここで出土する大量の銅剣には多くのプレミアムがつく、一番には卑弥呼が関係しているということ。二番目にはそれが予測出来たということ。三には、銅鐸文化が銅鏡文化へと変わる歴史的維新の解明が出来ること。四には、このことが竜神・荒神へつながり大津波、大地震を起こした四千年前の巨大隕石解明のきっかけになること。さらに、このわたし、Mrホームレスの指南(至難?)がついたこと? 更にさらに、貴方のお力でそれ等のなかで“一番最初に”掘り上げるということ。 こんな美味しい話を お上に易々と差しだすことはない^^!
(2/13)
観光地として企業化する♪ こういった歴史的埋蔵物は、その地の教育委員へ寄贈という形をとるのが常であるが“第一発見者”の権利を主張する! のも面白いんでないかい?(笑) その時には何をさておいても、はせ参じますよ! その時、私が存命していればね(^-^)♪ ちなみに、出雲の大量の銅剣と銅鐸(国宝)は、地方が(展示)取るか、国(国立博物館)が取る、かのかけひきがあったように覚えていますが? これって「なんだかんだと、きれい事を云っても」結局は‘欲得がらみ’だと子供心には映りますよ・・、(^^)
<この項の結び> (2/14)
素人探偵の予見したように、そこに大量の銅剣が眠っていれば大変なことになる。その荒神は今の史学や、今あなたが手を合わす神でさえも瓦解してしまう力をもっている。ここに大量の銅剣が埋められていることが驚きではなくて、素人でも<地名>という祖先からのメッセージに耳を傾ければ簡単に解明できることに面白味がある。当時の子供心が岩繋がりの<地名>で簡単にたぐり寄せられたことでも、それに大人達が耳をかたむけてくれないことにも問題が潜む。この広報に十年余りを費やしてきた。如何様に言えば、それが貴方に、現在の史学に伝わるのかが解らない。 たとえ話としては、失礼不適当かも知れないが、中国新聞に戦士の鑑(かがみ)とまで論評された<小野田さん>が当時の鈴木青年によって発見(みつ)けだされた時、世間は何んといった?? 小野田少尉から銃撃をうけるかも知れないのに、そして、『多くの情報を持つ国の関係機関や、それを熱望する戦友でさえも叶わなかったことを成してくれた!』との評価を受けたではないか。 実績のない素人探偵は、その謎解きはできても、その勇気や行動力を持ち合わせていない。たとえその銅剣の一本や二本がツルハシにかかろうが、素人のいう 「四千年前の東北の地に降臨した巨大隕石」 の解明へ進むためには、それくらいの“荒治療”が必要なのかも知れない。 『 日本の史学が世界のリードマンになって貰うためには、・・・』 と思う今日この頃です。(笑い)
<野洲銅鐸博物館> (2/17)
今から7・8年前であっただろうか、野洲の銅鐸博物館を訪れたことがあった。正式には野洲町立歴史民族資料館と(云った)云う。 1998年・平成10年9月13日の竣工で、三上山との山間(やまあい)に挟まれたなだらかな山越え状の場所にあり、琵琶湖に面した側に建っている。常設の展示二つと企画展示一つからなり、大岩山出土の銅鐸や、地域の歴史が展示されていて、市になる前の町政で、よくぞと思われるほどの立派な建物設備であり、銅鐸を冠した博物館では、当時(も今も?)全国一であったと記憶している。近くにたて穴式住居も設え“ゆったり”とした、歴史公園風に仕上げている。 私は何に興味があって、そこを訪れたかというと“大量の”銅鐸の出土場所がどんな所かを知りたかった。総社市岩屋寺のあたりと比定してみたかった。野洲を参考にして総社にも埋められているであろう“大量の銅鐸の埋め場所”を絞り込みたかったからです。
京都で東海道線、米原行きに乗り換え野洲駅でおりた。タクシーで七分ほどかかると聞いたが私は徒歩でいった。縄文弥生の人達と同じ思いでその景色を感じたかったからです。途中、中山道だったかな? 旧道の風情も残り、「銅鐸の里」やら「微笑み返し」の標語もみて、銅鐸の歴史に興味のあるお人なら、ぜひ訪れてみたいところである。
ご先祖様は、意味があって“意味づけ”をして、その場所を大量の銅剣と銅鐸の封印場所として選定している! 土地の私有化がすすんでいない大昔のこと、「どこでも、好きな所へ埋めておきましょうや♪」 ということにはしていない。 その“約束事”を貴方も探りませんか?(^^)
<野洲の大量の銅鐸出土の跡地は?> (2/19)
銅剣と銅鐸は関連して埋められている!!
明治14年(1881)遊びに来ていた少年の^^銅鐸○個の発見をきっかけに合計14個が‘現在のJA作業場地内’で発見されたが現在は散逸。 昭和37年小篠原地崎の新幹線の土取り工事現場から計10個が見つかった。 ・・・を参照しました。
その一方は館員の方から、この館に隣接する道路脇に立つ石碑跡からの出土ではなく、「今、JAの作業場が建っている敷地内からの出土です」とうかがった。 行ってみると・・・? 自分が思っていた様相とまるで異なる! 出雲であったように人もめったに訪れぬ山間(やまあい)で山の急斜面であろうと、思っていたからです。後で斜面取りの整地が成されているのであろうとは言え、予想に反して、そこは、‘三上山との山間(やまあい)に挟まれた、広くなだらかな山越え状の場所’であり、日当たりもよかったと記憶している。 何かが違う! 総社市の岩屋で受けたモノ寂しい感じはまるっきりない! 館にかえり付近図をみた。縄文弥生の人達が棲んだ場所はたわを越えた三上山の南側であったのであろうか?等と思ったりもしてみる。しかしながら、その住地から一山越えた北側に位置するとしても、そこが恐ろしいとか、モノ寂しいとかの<陰・いん>の感じはまるっきり受けない場所であった。失意消沈! 素人探偵の、強い思いこみや、独りよがりであろうか?? どうぞ教えて下さい! 三上山南側の山腹に刻まれていた魔崖仏さま! その石仏を国土地理院の地図(※1万5千分の1/?)で見たと記憶していたが未だに、そこへはお参りしていない。
(註)不確かな記憶なので、再度、その地図(※1万5千分の1/?)を捜しましたが紛失したようです(^^!)
[この項 ひとまずこれで完了して、貴方さまの御参加を待ちます♪](^-^)
つづきます♪。次ネタ蒐集のためしばらくお待ち下さい^^!、
(Sept.23, 2013)昨日、1拍手を下さったのは、何方さまでしょうか?
この記事は、「大量に埋められた銅剣、銅鐸」についてのマニアックな記事です。
まさか<ツルハシとスコップ担いで掘り起こしされるおつもりではないでしょうね^^?
私としては、まずは金属探知機で探るのをおすすめします^^♪。
何故なら、日本史の見方を変え、ひいては<世界史>をも見直す、第一歩を記している拙記事に出会えました。 貴方さまが“その出土”を見てから大騒ぎする史学や<世間さま>と同じであって欲しくないとせつに祈ります。・・ちょっと泣き言がぁ~、入りました。(笑) 「何故、そんなに強気の言が吐けるのか?」って^^? わたしには<地名>という、ご先祖さまからの“史実伝言”があるからね! 史実探偵: 平 素人
この記事は(2/19)で完了しました。次ネタ蒐集のため、しばらくお待ち下さい^^!
すべての記事は、連続・関連モノです。 引きつづきの駄文にお付きあい下されば幸いです。
此処に “大量の銅剣” が埋めてある!
<全国歴史ファンの方々、貴方に呼びかけます。三上山に集
合せよ!> の2. (前記事)2011 Jan. 11 ~
カテゴリー “銅剣銅鐸探査のあれこれ!” からのつづきです。←是非ご覧あれ^^。
三上山というのは、新幹線京都~米原間で、京都を少しすぎた野洲川東岸にあり、南側の車窓から見え高さは432m。その△形をした美しい山姿から近江富士とも呼ばれています。前述の記事で “大量の銅剣” がこの谷奥に埋めてあるとしましたが、今回は、前回の位置より東に60mほどの所にある、卍印(名前は分かりません)の、境内の広場に続く、妙光寺山(257m)側の南向き斜面で 「目どおりより少し高い所」の、地下4尺!と、変更・訂正します。(前からの続き^^)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
野洲市の<まだ見ぬ大量の銅剣の埋め場所を訂正します>
その場所を<北緯35度3分31秒、東経135度2分23秒から → 27秒に訂正します。
卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」を掲げて広報活動を始めたのが10年余り前。以来、専門家・大学・マスコミ・行政等に600通をこえる文書活動をしましたが、実績のない素人の話などとりあってくれません。ならばと、始めたブログ活動も3年あまりになりますが、これも八方ふさがりの状態。 そこで、改めて今までの記事を再考し表記のような訂正をした次第です。「現場100ぺん」といいますからね。そのきっかけをくださったのがDrいずも氏の言で、前述した「仏教山の頂上の尖り」情報でした。それまでは、主に国土地理院の地図で調べていたのですが、今度はYahoo! 地図サービスで、再度その谷奥の卍印の周辺を探索しました。
以下は、地図上での言及であり現地を訪れたことは一度もありません。(^-^!)
<航空写真と地図上で、それを探索> (2/02)
国道○号線の三上の信号を降りて妙光寺山と三上山に挟まれた谷間の入り口に、航空写真では埋め立てられているように見えるが? 地図では池とみえるものがある。 このような辺ぴな?ところはゴミの埋め立て地となるか廃棄物の処理場となることがあるので要注意。もしそのようになっているのであれば残念なことである。傍らに見えていた鳥居印しの社(やしろ)三上神社があったが、何の神様を祀っていたのであろうか? 気になるところだ。ここから水の流れが有りや無しやの谷間を登る。もちろん車は無理のようだから歩いて登らねばならないと思う。今の時期、雪でも積もっていれば大変だ。
(2/03)
500~600mほど登ると、その社寺に着く。地図で見ればその寺社の建物の脇に石段が付いていて境内・広場はその奥にあるようだ??
「 何っ!?石段は、社殿の正面ではなくて、脇に石段がついているのか?」 “それは変だ!” 今の社寺の建て様を見れば、階段を登ると、まず広場があり、そして社殿があり、その後ろに本殿が鎮座まします順番となっている。このことは「神様が私達を見て御座るのか、私達が神様を見ている」のかの主体性・方向性の違いを意味する。回りくどい言い方を排して言えば、この社殿は下方の住家・里(さと)を見ているのではなくて妙光寺山側の方を見ている。 ??・何故に山側を向いた建て方をしているのか・?? 是非にそれを現地で確かめたい!!! どなた様か近場のお人、 又はお暇なお方(笑い)、 はたまた、日本史の土手っ腹に大風穴(♪)を開けたいお方の出現をせつに希望します! (さて、何方が、その一番鑓(一番手柄)をなさるかな^^)
<この境内は、神楽や、歌舞伎、土俵、盆踊りの櫓(やぐら)等の原始形か!?> (2/04)
今、「境内・けいだい」というと狭義には社殿の前の広場をいうようだが、この山側へ向いた広場は、前述の荒神(銅鐸文化)から太陽神(銅鏡文化)へ変わる封印儀式のための広場であり、この広場で 「その神、この剣に、二度と取り憑かせてはならない!」として、護摩を焚き、塩をまき、太刀をかざし、四股を踏み、カネや太鼓を打ち鳴らし、神楽を舞うための広場だ! 古代語において ‘舞い’と、埋(マイ)は、イコールでつながれる? 素人の論が正しければ、四方に笹竹を立てた杭打ちの跡が遺っていなければならない。東西の脇に見える二つの祠(ほこら)は、この広場を挟んで山側の方に配置されているようだが!? その二神は、その「神楽」を舞う‘二武神’ではないのか? 是非にその名前が知りたい。
<その広場の広さを知りたい!> (2/05)
野洲(町)の大岩山では24個の銅鐸が出土している。すべてが出土したかどうかは分からないが、何回かに分けての出土である。銅鐸は、荒神を呼び寄せるためのものであり2体が御座ればば荒神さま同士で喧嘩をしてしまう。(汗゛)その性格からして一村落に一つと考えられる。だから銅鐸1に対して1人のお太夫さんとして、24人。それに、封じ祈祷をおこなう(これは、卑弥呼本人の場合も考えられる?)導師1人と、副導師の2人。それと太鼓太夫1人(太鼓は前述の狸さんの革か^^?)。さらに太刀を持って舞い踊る2武神。 少なくとも、これ等を合わせた30人が立つか座するかの広さが要る。 「少なくとも」といったのは、銅鐸の数が確定出来ないのと、これに群衆が加わればさらなる広さが必要となる。その広さを知りたい。この広さが広ければ広いだけ、その村落を総じた里(さと)や、郡(こおり)の大きさにつながる。
<なぜ鳥居印しではなくて、お寺の卍印しなのか??> (2/06)
地名伝言からすれば妙光寺であり、東西の二つの祠の形は神社仕様である。・・・解らない??
神仏習合なのか? <総社市の岩屋>では「毘沙門天」を祀った神社仕様の建物と、その下方に立派な石垣を築いた「真宗か真言宗」のお寺仕様の建物の併設があったが、お寺だと神社よりは新しくなる。卍印の名前と宗派が何宗か知りたい。その広場を築いているのは石垣か、土塁か?何時頃、築かれたか? この地の(歴史)と由来は? 歴史音痴の素人には、解らないことだらけである。今にも、没しそうな(^^!)この場所が手狭になったからより広い下方へと場所を移したとも考えられる。その場合は、山裾の<御上神社>のいわれも調べねばなるまい。それより先に、この卍印の名前を知りたいのは勿論のことである。
(註)神仏習合とは?、知りませ~ん。あとで調べまぁ~す。(汗~~!)荒神ではなくて、それに仏様が絡んでくると、“この場所には埋めていないのでは無いか?” との一抹の不安がよぎる?
<出雲の大量の銅剣は山の斜面に埋められていたが?> (2/07)
早くからこの卍印しは認めていたが、当初は、『出雲の荒神谷では“何んの変てつもない”急な山斜面に埋められていた』とあったことから、この卍印しから西方へ60mほど行った山斜面に埋められていると予測していたが、今回の “広場の位置の特異性” により、この広場につづく山斜面に埋められていると予測訂正したのであった。
この広場の上方斜面に大量の銅剣(出土銅鐸数24×9=200余本)が埋められている!
と予測訂正します。
それは、目通りより上(階段にして13段?)の高さのところで、それより高くなっても低くなってもいけない。高すぎれば念力がとどかないし、目線より低い位置では見下ろす位置になり罰当たりになるからだ。すべては出雲の埋め方に習えばいい!
(大量の銅鐸の出土数) (大量の銅剣の出土数の予測?)
<出雲> 岩倉 39個 神庭荒神谷・西谷 358本
<吉備> 岩屋 予測数 (23個) 黒尾地区 西谷 目安予測数(200本)
<神戸> 古名;神岡かむか 14個 地獄谷or大月地獄谷? 目安予測数(120本)
<野洲> 大岩山 24個 三上山との谷間 目安予測数(200本)
<合計> 100個
卑弥呼が銅鐸との交換に使った銅鏡の数( = 魏から得た銅鏡数) ←初頭の記事へどうぞ♪
(^-^) 100個
註)銅剣で・目安予測数としているのは、出雲の銅鐸1個に対する銅剣数を(9本)として
算出した数であり、これは、あくまで目安としての数です。(減る傾向ありか?)
<その後の流れ> 前述記事の繰り返しです。 (2/08)
雨乞いで、稚児を人身供犠用に献上する社会制度への不満は鬱積(うっせき)していたから、卑弥呼の提唱する“象徴物の身代わり文化”へと容易に広まっていったが、なかには長年、銅鐸を使用しての竜神文化が、易々とは変えられない部族もあり、後追い的に、埋めたのが出雲の358本の“隣”に埋めてあった銅鐸○個と銅矛○本であると謎解きした。
そして、卑弥呼の没後は・・、地方によって特有の “気候や、地勢、風習の違い”等もあったり、昔話に残る「除福隊」の食人の風習も尾をひいたりと、一概にはいえないが、いかに卑弥呼さまの云われたようにお日様が主神だとして雨乞いをしても欲しい雨は降るとは限らない。やっぱり竜神さまは生け贄を欲しがっているとして歴史はつづき、池や河川の堤防の竣工式、社寺や橋、五重塔の建造等での生娘の“人柱”の話しが、ごく近年(?江戸時代?)まで残っていたのは、皆さんご存じのとおりです。 しかしながら、銅鐸が銅鏡に変わった歴史は否定できません。その銅鐸は封印されて、今では謎の青銅器と呼ばれ^^!、銅鏡は御神体として今でも使っています。(合掌)
<話しをもどして、その辺りの現状はどうなっているのか?> (2/09)
なにしろ、その大量の銅剣を埋封(まいふう。筆者の造語)したのは、今から1700年余り前のことである。「決して人踏許すまじ!、その荒神起こしてはならない!」としながらも、今ではすっかり忘れ去られた状態だ。(笑)その立木の状態は? 金属探知機が(前記事の銅剣銅鐸の探査あれこれ・参照)入れられるか?どうかを知りたい。大きな立木で覆われていればアウトだ。<世間様>や専門家から “無視される”現状では^^、その大木を伐採してまでの調査は不可能にちかい。 ここぞと思う場所が潅木(かんぼく)であれば都合がいいのだが? その調査は緑が生い茂る時よりも、見通しがきく落葉した今の時期がいちばんいい。何方か現地写真を載せていただけませんか。 ・・といっても雪降る今日、安全には注意して下さいよ!
・・・、と、ここまで思考を進めて、妙に気になることが湧いてきた・・・、
日々、訪問して下さる11名のお方様、ありがとう♪ (ファンが9名から11名にふえた?)
コメントを置いて下されば、『八つ目の宇海・うみ』へ漕ぎ出す“クルー” になれるのですが♪
只今、ドクターと、たろさんと、じいさまと、・・・と、次は貴方の番ですが、さてどうされますう?
・と言っても只今コメント欄は閉ざしています。運がよければ・・・^^? つづきます^^
(2/10)
この卍印しの山斜面に大量の銅剣が埋められているならば、出雲の荒神谷で、「何んの目印も無い山の斜面」というのが解せなくなる。それに固執して^^!、野洲では先の山斜面を予想したのであった。一番大事な祖先からの伝言を忘れていた。荒神谷と呼ばれるからには、その谷どこかに目印となる荒神が祀られていたはずだ! この謎解きは出雲に習っている。よくよく調べたらウエブでありました^^。出雲に 『三宝荒神』の名が(^-^)♪ 三宝とはなにか? そこに埋められていた “銅鐸と、銅剣と、銅矛” を合わせたのが “三宝”ではないのか?! この推理が正しければ、前記事の岡山県の総社や、神戸市の灘区(?)のほうも再考が必要となる。 祖先はその目印を何かに遺している!!! 目印が無いとしたのは誤りであった。・・・それで総社へ出かけてみました。この話はあとで・・・^^!、
<その場所の所有権者は?公か、個人か?を知りたい!> (2/11)
神戸での銅鐸の出土地跡は個人の所有になっていた。一度、現地を訪れ神戸歴史博物館員さまのご親切を受け、現地図をいただきながらもその場所は分かりませんでした。総社の岩屋付近は県の管理地になっていたし、土砂防止保安林にもなっている。そこが公地の場合、そこに生える草木一本、土砂の一握りの移動たりとも法律・条例にふれる。入会権(いりあいけん)という地元の人のみに許される行為もあるが、これは、たきぎ取りや、キノコ狩り、狩猟(?)等に許されるのであって、『大量の銅剣を掘り当てます』 などといってご覧なさい大叱られだ。そこが、村落、町、市、県、国の所有と、上に上がるほどその探掘は難しくなる。その地が市や県以上の管理地であれば探掘はまずもってアウト! 素人が、今までにおこなった行政や大学・専門家、マスコミ等へ出した拙い文書活動では、98%が「梨の礫」でしたからね^^。加えて神聖なる寺社の境内であるから、そんなことをすれば ‘竜のの逆鱗’ にふれるかも・・・?? おっと、そのことは祟り・たたりという言葉さえも忘れた昨今であることをすっかり忘れていましたぁ~(笑)
<出土した歴史的埋蔵物のゆくえ?> (2/12)
これは、「大量の銅剣銅鐸探査のあれこれ」でも述べていますが、まだお読みになっていない?お方のために再度申し上げましょう。
出雲での358本の銅剣は、日本の史学は勿論のこと世間をもゆるがす大きな出来事であったことから、早々に国宝となり、今ではその後に建てられた出雲歴史博物館におさまっている。出雲の荒神谷は辺ぴなところではあったが、稲作田も谷奥まではいっていた。しかし、この発見により周辺は公園となり整備されていったと思われる。野洲の場合、近年の工業化により谷の入り口付近にまで大きな工場も出来ている。この卍印の周辺が、その地区や個人の所有地であればしめたものだ。ここで出土する大量の銅剣には多くのプレミアムがつく、一番には卑弥呼が関係しているということ。二番目にはそれが予測出来たということ。三には、銅鐸文化が銅鏡文化へと変わる歴史的維新の解明が出来ること。四には、このことが竜神・荒神へつながり大津波、大地震を起こした四千年前の巨大隕石解明のきっかけになること。さらに、このわたし、Mrホームレスの指南(至難?)がついたこと? 更にさらに、貴方のお力でそれ等のなかで“一番最初に”掘り上げるということ。 こんな美味しい話を お上に易々と差しだすことはない^^!
(2/13)
観光地として企業化する♪ こういった歴史的埋蔵物は、その地の教育委員へ寄贈という形をとるのが常であるが“第一発見者”の権利を主張する! のも面白いんでないかい?(笑) その時には何をさておいても、はせ参じますよ! その時、私が存命していればね(^-^)♪ ちなみに、出雲の大量の銅剣と銅鐸(国宝)は、地方が(展示)取るか、国(国立博物館)が取る、かのかけひきがあったように覚えていますが? これって「なんだかんだと、きれい事を云っても」結局は‘欲得がらみ’だと子供心には映りますよ・・、(^^)
<この項の結び> (2/14)
素人探偵の予見したように、そこに大量の銅剣が眠っていれば大変なことになる。その荒神は今の史学や、今あなたが手を合わす神でさえも瓦解してしまう力をもっている。ここに大量の銅剣が埋められていることが驚きではなくて、素人でも<地名>という祖先からのメッセージに耳を傾ければ簡単に解明できることに面白味がある。当時の子供心が岩繋がりの<地名>で簡単にたぐり寄せられたことでも、それに大人達が耳をかたむけてくれないことにも問題が潜む。この広報に十年余りを費やしてきた。如何様に言えば、それが貴方に、現在の史学に伝わるのかが解らない。 たとえ話としては、失礼不適当かも知れないが、中国新聞に戦士の鑑(かがみ)とまで論評された<小野田さん>が当時の鈴木青年によって発見(みつ)けだされた時、世間は何んといった?? 小野田少尉から銃撃をうけるかも知れないのに、そして、『多くの情報を持つ国の関係機関や、それを熱望する戦友でさえも叶わなかったことを成してくれた!』との評価を受けたではないか。 実績のない素人探偵は、その謎解きはできても、その勇気や行動力を持ち合わせていない。たとえその銅剣の一本や二本がツルハシにかかろうが、素人のいう 「四千年前の東北の地に降臨した巨大隕石」 の解明へ進むためには、それくらいの“荒治療”が必要なのかも知れない。 『 日本の史学が世界のリードマンになって貰うためには、・・・』 と思う今日この頃です。(笑い)
<野洲銅鐸博物館> (2/17)
今から7・8年前であっただろうか、野洲の銅鐸博物館を訪れたことがあった。正式には野洲町立歴史民族資料館と(云った)云う。 1998年・平成10年9月13日の竣工で、三上山との山間(やまあい)に挟まれたなだらかな山越え状の場所にあり、琵琶湖に面した側に建っている。常設の展示二つと企画展示一つからなり、大岩山出土の銅鐸や、地域の歴史が展示されていて、市になる前の町政で、よくぞと思われるほどの立派な建物設備であり、銅鐸を冠した博物館では、当時(も今も?)全国一であったと記憶している。近くにたて穴式住居も設え“ゆったり”とした、歴史公園風に仕上げている。 私は何に興味があって、そこを訪れたかというと“大量の”銅鐸の出土場所がどんな所かを知りたかった。総社市岩屋寺のあたりと比定してみたかった。野洲を参考にして総社にも埋められているであろう“大量の銅鐸の埋め場所”を絞り込みたかったからです。
京都で東海道線、米原行きに乗り換え野洲駅でおりた。タクシーで七分ほどかかると聞いたが私は徒歩でいった。縄文弥生の人達と同じ思いでその景色を感じたかったからです。途中、中山道だったかな? 旧道の風情も残り、「銅鐸の里」やら「微笑み返し」の標語もみて、銅鐸の歴史に興味のあるお人なら、ぜひ訪れてみたいところである。
ご先祖様は、意味があって“意味づけ”をして、その場所を大量の銅剣と銅鐸の封印場所として選定している! 土地の私有化がすすんでいない大昔のこと、「どこでも、好きな所へ埋めておきましょうや♪」 ということにはしていない。 その“約束事”を貴方も探りませんか?(^^)
<野洲の大量の銅鐸出土の跡地は?> (2/19)
銅剣と銅鐸は関連して埋められている!!
明治14年(1881)遊びに来ていた少年の^^銅鐸○個の発見をきっかけに合計14個が‘現在のJA作業場地内’で発見されたが現在は散逸。 昭和37年小篠原地崎の新幹線の土取り工事現場から計10個が見つかった。 ・・・を参照しました。
その一方は館員の方から、この館に隣接する道路脇に立つ石碑跡からの出土ではなく、「今、JAの作業場が建っている敷地内からの出土です」とうかがった。 行ってみると・・・? 自分が思っていた様相とまるで異なる! 出雲であったように人もめったに訪れぬ山間(やまあい)で山の急斜面であろうと、思っていたからです。後で斜面取りの整地が成されているのであろうとは言え、予想に反して、そこは、‘三上山との山間(やまあい)に挟まれた、広くなだらかな山越え状の場所’であり、日当たりもよかったと記憶している。 何かが違う! 総社市の岩屋で受けたモノ寂しい感じはまるっきりない! 館にかえり付近図をみた。縄文弥生の人達が棲んだ場所はたわを越えた三上山の南側であったのであろうか?等と思ったりもしてみる。しかしながら、その住地から一山越えた北側に位置するとしても、そこが恐ろしいとか、モノ寂しいとかの<陰・いん>の感じはまるっきり受けない場所であった。失意消沈! 素人探偵の、強い思いこみや、独りよがりであろうか?? どうぞ教えて下さい! 三上山南側の山腹に刻まれていた魔崖仏さま! その石仏を国土地理院の地図(※1万5千分の1/?)で見たと記憶していたが未だに、そこへはお参りしていない。
(註)不確かな記憶なので、再度、その地図(※1万5千分の1/?)を捜しましたが紛失したようです(^^!)
[この項 ひとまずこれで完了して、貴方さまの御参加を待ちます♪](^-^)
つづきます♪。次ネタ蒐集のためしばらくお待ち下さい^^!、
(Sept.23, 2013)昨日、1拍手を下さったのは、何方さまでしょうか?
この記事は、「大量に埋められた銅剣、銅鐸」についてのマニアックな記事です。
まさか<ツルハシとスコップ担いで掘り起こしされるおつもりではないでしょうね^^?
私としては、まずは金属探知機で探るのをおすすめします^^♪。
貴方のお名前を歴史に残しませんか?^^♪
当ブログへのご訪問ありがとう御座います^^。 貴方さまはとても幸運なかたです♪
貴方さまに、少しの発意と“遊び心と”行動力があるならば、日本史にその名を残すことが出来ます。素人探偵が予見したように三上山から 「卑弥呼が埋めさせたとする大量の銅剣」 が出土すれば、きっと史学や、<世間さま>は大騒ぎするに違いありません。<その出土を促す写真は>日本史はおろか世界史をも動かす力を持っています。三上山谷奥の卍印しの境内広場に続く山斜面の写真をブログ等に< 誰よりも早く!>掲載するだけでもいいのです。「 二番では駄目なんですか?」蓮舫大臣(笑い)駄目です! 男なら、歴女なら^^夢をもたなくっちゃ~ね♪ 少なくとも史学や現科学に無視されている事をなす分けですから、二番煎じでは御名を “歴史には” 刻むことは出来ません^^。
(2011 Feb. 22) 史実探偵: 平 素人
記事は、不定期な日々の(追記)で更新しています。前回は(3/13)で、今回は(3/14)です。
この記事は、これで完了しました。次の記事は<大事変で変形した宮島>を予定しています。
ここで一旦、筆を休めることに致しましょう。
次回の記事は、何時になる(鳴る^^)やら分かりません。 あしからず・・・(^-^!)
すべての記事は、連続・関連モノです。 引きつづきの駄文にお付きあい下されば幸いです。
此処に “大量の銅剣” が埋めてある!
<全国歴史ファンの方々、貴方に呼びかけます。
三上山と、(吉備の経山に )、集合せよ!> の3.
(前々記事)2011 Jan. 11 / 1.& 2.~
カテゴリー “銅剣銅鐸探査のあれこれ!” からのつづきです。←是非ご覧あれ^^。
野洲市・三上山の大量の銅剣、埋め場所の絞り込みは、記事の1.& 2.です。
<総社市・大量の銅剣の埋め地はどこか??、疑念のはじまり> (2/22記)
この吉備の地にも出雲と同じように大量の銅剣と銅鐸が埋封(筆者の造語)されているとして去る2月1日に岡山県総社市にある鬼の城(きのじょう)へ出かけた。何んでその気になったかというと、大量の銅剣が出土した出雲・神庭西谷の荒神谷で「三宝荒神(さんぽうこうじん)が遺跡の南側に祀られていた」という情報を新しく得たことから、鬼の城の西にあった<山王神社>の名が気になって来だしたことからだった。それ迄のわたしは、鬼の城に興味をもったときからその名は早くに知ってはいたが、地図にも載っていないようなその神社には、そこに在する数軒あまりが迎えた新しいお宮さんであろうと、勝手に解釈して気にもとめていなかった。・・・つづきます
<三宝荒神=山王神社か?> (2/23記)
この度、出雲での<三宝荒神・さんぽう>の名を得たことから、妙にその名が気になりだした。
(*三宝とは、銅剣と銅鐸と銅矛の意か?と謎解きしている^^) 山王神社(やまおう)の山は、
<さん>とも読むことができる。そして宝の字のウかんむりを外した玉の字は、王にも似ている?
総社市での大量の銅剣の埋め地を出雲の仏教山=経山とし、その北側の山裾にある牛の背状の登り口あたりかと?、睨んで幾度か足をはこんではみたがイマイチ、ピンと^^♪くるものがなかった。そこには30人~40人が祈祷するような広場がなかったし、埋めるにしても花崗岩地帯のそのあたりでは、四尺(=死線?約1.2m)も掘り下げるにしては上土が浅いような気がしていた。しかしながら、銅剣200本?あまりを埋めるには、2m×1.5mもあれば充分だと思い込む(^^!) ことにして、その謎解きを終えていた。(前述・カテゴリー吉備地方を参照して下さい。)
<平成23年2月1日、山王神社を探しに出かけました!> (2/24)
ところで<1日>を、なぜ(ついたち)と読むの? PC変換したら、太刀・建ち・達・断ち・立ち・経ち・舘・館・質(タチが悪い^^)・城・田地・裁ち・起ち・発ち>が出てきました。何れも相互には関係ないように思えるが、この度の卑弥呼が埋めさせたとする封印儀式と合わせて考えると、それ等には何かの関係があるような気がしてならない。すなわち、大量の銅鐸や銅剣の封印儀式は、月末と月初め(年末と年始)の境目に行われたのではないだろうか? <つい>から受ける感じは終の棲家とか、衝立のついかな? 合わせると「今までの行いを断ち、新しき行動に移る時 」。 このように解すれば十二月の暮れに行われる比叡山の“お籠もり”や、今の私達の年末の所業にも符合してきます。このように、皆さん(現科学)にとっては、たわいのない子供心のような疑問から謎解きに入っていくのが、Mr.ホームレス(^^!)の特徴です。
前述にも、祖先が遺した<面白岳とか朝来町>とかの地名伝言から、東北地方へ降臨した巨大隕石のその時を「(BC2001)四千年前の12月25日の朝の6時頃」と割り出したことが 『そんなこと迄もが、解るハズが無い!』と、かえって論の信憑性をかくことになり、皆さん(物証至上主義の現科学)に相手にされない一因のようです。( 涙~ッ!)(参照;カテゴリー巨大隕石)
何は、ともあれその一日に出かけました。
<山王神社へ> (2/25記)
その日の気温は2℃ー12℃。全天薄曇りであるが、午後からは晴れの予想。冬にしては、しのぎやすい? いつものことながら苦助がでる。クスケというのはこの地方の方言で? 辛がるとかタイギということで、つまりは行きたくない(^^!)ということ。重い腰をあげて<鬼の城・きのじょう>の管理棟へ着いたのが、10:30分頃。 前回の(遭難しかけた?)失敗から、慎重を期して、ここで初めて知り得た地図で<山王神社>の所在を確かめることにした。 念には念を入れて管理員の方にもそれを伺った。 「山王神社に行きたい。お参りしたいのですが、どう行ったらいいのですか?」 ご親切にも外へ出て坂の下方を指さし「あの白く見えるガードレールから10分ほど歩けば(そこへ)着きます。」 短い会話のやりとりのなかで、そのあたりの数軒のすべては、○井さん>だということ。そして、その神社のオモリは、その方達でなされているとのこと。やはりそうかと思いながらも、行かない分けにはいかない。
(2/26記)
樹齢ん年、幹周り3mはあろうかと思われるナラガシワのそばに車を停め(この道筋駐車禁止です^^!)その登り道へいってみると「私道につき立ち入りご遠慮ください」 そこより、100mほどの下方にある御大師様をまつるお堂ほうからまわることにした。ここには「鬼の釜」とよばれ直径2m足らずのおおきな釜がおかれてある。以前の探検で? ご老人との会話を交わしたところでもある。先ずは手を合わせてお賽銭をあげて・・、そのご老人はと? 目をやるが見あたらない。つぎのお家も留守宅のようだ。3軒目でなにやらの作業をされているご老人に会えた。人を捜したのは、山王神社についての情報を仕入れかったからです。「この辺の歴史に興味をもって山王神社(やまおう・じんじゃ)を訪ねたいのですが、どう行けばいいのですか?」 「それは<やまおう>ではなくて<さんおう神社>といいます」(やったぁ~♪ 出雲の三宝・さんぽう>さまに近づいたぁ♪)
(2/27記)
祭神は分からない。以前は久米からの神主さんが来ておられたが、今は粗末になってはと御自分の息子さんが年に一・二度管理なさっているとのこと。 この近くに石碑だけではあるが<北斗神社>もあるとのこと。これは北斗の星信仰につながりこれもいい情報だ?。 さらにこのお宮の所轄とか地域とかを伺うと? 大字は<黒尾>小字は<新山>。新山の地名は以前に御神木を切り出すための新しい山かと謎解きしたことがあったが、新しく入植した意なのかも知れない。 このお宮さんは、どうやらこの地区(数軒)だけのものらしい? (やったぁ~、これもアタックしやすい!) それが市とか県の管轄になると、身分を明かさないからかも知れませんが、文通のお返事は、0ゼロでしたからね。(身分や身元を明かさないと決めているのは、それが出土したときの喧騒から逃れるためと遊び心とイタズラ心からかな(^^?)
まだまだつづきます^^♪
(2/28)
道がありや無しやの家の脇をぬけて、鬼の城の管理員さんが教えて下さった広い道にでた。ここから直ぐの谷間(たにあい)に、その参道口はある。中くぼみではあるが2m足らずの道幅であったかとも思う。重い腰をあげてこの時期を選んだのは、如何に没しそうな神社・社(やしろ)であっても、信仰心の篤い方が必ずおられて年末の大掃除を必ずしているからね。しかしその後のドングリの葉っぱのじゅうたんで、用心しながらでないと今にも滑りこけそう。2~3m高さの石鳥居をくぐり10分ほど登るとその神社につく。雁木(がんぎ・階段のこと)が、何段あったかの記憶はないが、その中程に1m×70cmほどの溜め井状(水を溜める井戸状の窪地)のものがあった。湧き水であろうか? それとも、口や手を清めるためのものであろうか? 湧き水であれば霊験あらたかな御神水か? 何れにしても階段の途中に溜め井とはけったいな造りである。
(3/01記)
山王神社は、山の中腹斜面を切り取って平らにした、いわばどこにでもあるような一般的な造りの社寺であった。先ずは手を拍ち、お賽銭と御神酒を上げましてと!(深礼)
半円形のその広場の間口は36歩。20歩ほど進むと一段と高くなっている。ここから30歩ほどの奥行きの中央に社殿があり、社殿から階段を数段設えて本殿が鎮座まします。 これもごく一般的な造り? この場合の “一般的” という言葉は重要な意味をもつ、その仕様がたとえ離れた地にあろうと同じ考えの祀り方がなされているからだ。社殿の間口は約3間で、奥行き2間ほど。 本殿は土壇(どだん)盛り土の上で、その建物に彫り物はなく、立派とも粗末とも言えない普通のつくりで、○間(?)四方だったかな?(御神さまぁ~覚えてなくて、ごめんなさ~~ぃぃ^^!)
(3/02)
ここで、目を引いたのは、本殿の左奥に6m×5mの半円状の溜め井があること。何んの神事に供したのであろうか? 筆者には溜め井そのものが珍しく思える。 人家からわずか10分たらずの所にある社寺で飲み水のための溜め井は必要ないと思えるが? ・・・、 そう言えば、ここから2kmほど離れた岩屋の○○社でも溜め井があった。筆者はこの社寺の境内にある溜め井がどのような神事に使われたのかが、まったく思い浮かばない。何方かご教示を!!
<埋め地を探策する> (3/03記)
野洲のように、社殿の奥側にその広場があればいいのだが、不安と期待とが相まみえる。不動産業界で「お寺の後ろと、お宮の前」という言葉がある。これは、お寺さんの後ろとお宮の前の土地は住宅地としては売りにくいそうだ。これには何かの‘云われ’があってのことであろうが、人気のない寺社の裏山。一人でゴソゴソとやるのは、あまり気持ちのいいものではない。 意を決して?本殿裏の潅木斜面をかき分けて登ってみる。倒木の朽ち木が行く手を阻むが、ある時点を過ぎると、その恐ろしさは感じなくなる?^^!) 斜面の角度は45°度ぐらいか? このような場合、もし自分が埋めるとしたらどこへ埋めるかで模索する。潅木と径20cm~30cmの杉か桧かが植わっていたように思うが考えは錯綜し、決定的な埋め場所が分からない。 上へ上へと登ってみるが、その場所が絞り込めない。小高い頂上ながら、わりに見晴らしはいい。鬼の城山や経山も望めたようにも思うがはっきりとは覚えていない。「ひょっとしたら此処には埋めてないのかも?」自信は揺らいでくる。・・・、今日はこれで下山しよう。
「三宝荒神(さんぽうこうじん)が遺跡の南側に祀られていた」!?
出雲での<三宝荒神と大量の銅剣>が埋められていた場所との関係を是非に知りたい。
三宝荒神さまの造りは、社(やしろ)か? 祠(ほこら)か? それとも石碑か? 祭神は?
どちら向きで、その辺りの広さと高さは? 大量の銅剣と何メートル離れていたのか?
どなた様か、教えて頂けませんか^^?
<先尖り・剣形の山で、荒神を阻んでいる?> (3/04)
下山の途中の鳥居には文政三○○年五月吉日と刻まれていた。坂を下りながらも経山の方向は常に気にしていたが木立に阻まれてその確認はできていない。参道口のある先ほどの私道へ出た。ここからの正面に、かの経山は見える。この車も通れる新設の私道を左に十数歩歩くと!? 正午のサイレンが鳴り響いた。慌ててバックして参道口に立って経山のほうを眺めると! その山の左手に見えるわずかばかりの総社の町並みは雲間のあいだからこぼれる日差しに輝いていた。「経山が“谷の入り口”で、その荒神、侵入許すまじ!」と阻んでいる!? 経山の頂上は、現在の正午の太陽の位置より西へ、およそ10°度振っている。野洲や出雲、そして出来うれば神戸のほうも、その角度を調べて見たい。何かの共通性が見出せるかも知れない。(この角度にこだわるのは地球の歳差運動をさかのぼればおよその設営年代が分かるかも知れないと考えるからです。)
出雲仏教山山頂、荒神谷(大量の銅剣の埋め場所) と、真南のなす角度は 約45度
野洲三上山山頂、卍印し ( 予測 ) と、真南のなす角度は 約20度
総社経山山頂 山王神社? ( 予測 ) と、真南のなす角度は 約10度
神戸荒神山山頂 ○○?? ( 予測 ) と、真南のなす角度は 約○○度
この角度調査はディスプレイ上の計測であり正確ではありません。今それが分かっているのは出雲のみであり、あとの三カ所は、それとおぼしき所との角度です。数ある山や谷のなかで「ここぞ!」決めて大量の銅剣を埋めるには何かの<約束事>が必ずある!。その解明・出土の最短距離にあるのが野洲だ!
<日本史を変えるチャンスが到来した♪> (3/05)
小野田少尉を見つけ出した青年○○氏になれるのは貴方の発意にかかっている。
それを「貴方は、何故しないのか?」の逆質問には^^? 私の業は探偵であり逮捕権をもつ警察ではありません。それぞれには、得意分野がありますからね^^。
今までの (My Job)には、次のようなものが・・・``!
① Dr.いずも氏からの御依頼で、『出雲大社近くの命主神社の大きな石の下から翡翠の勾玉と銅戈が出土している。銅戈(どうか)は、他にも必ずあるはず、その捜索をお願いしたい。』
「翡翠の大勾玉と銅戈を探せ!」に挑み、出雲半島を“竜”に見立てて、<命主神社>の他に、首っ玉上の <鷺峠・さぎとおげ←未掘>と、日本海側にある <社寺(伊奈西波岐神社or文珠院←未掘>の盤石の下の二カ所を予見しましたが、(カテゴリー出雲地方・参照) これも未だ陽の目を見ていません。それもこれも出土すれば話題騒然となるのは必然! 近場の貴方で冒険心がある貴方がいたら、とうぞこの方へもアタックしてみて下さい!(^-^)
② もし貴方に遊び心があってお金が余っている方であり、御依頼があれば釧路辺りに眠っている油田の探索(電子出版極秘報告書「巨大隕石と大津波」 ←クリックOK!)にも、応じますよ^^。 ただし、素人探偵、開業以来の赤貧状態ですから、そちらの方は相応の成功報酬はいただきます(笑)♪。
③ 総社市・岩屋に眠っている <大量の銅鐸>の探査へ、つづきます・・・、
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<岩屋に埋められているはずの大量の銅鐸は何処に?> (3/06記)
2月1日・鬼の城の駐車場で用意してきた昼食をとる。まだ時間はあるので、午後からは気になっていた“鬼の差し上げ岩”がある岩屋の建家裏の“溜め井”のほうに出かけてみよう。それと前回の(カテゴリー吉備地方)謎解きで、その社(やしろ)にのぼる石段の脇にある“ナル地状”の竹藪の地下に 「大量の銅鐸あり!」 としていたが、出雲での出土は、ナル地ではなく“斜面状の所”であったことから、岩屋での埋め地に疑念が生じてきたからです。
鬼の城と岩屋は、総社の街並みから6km~8kmほど離れた山奥で、あたりに店はなく夏期のお子様連れでは飲料水は必携。これは空き缶、空き瓶で遺跡周辺を汚してはならないとの配慮からであろうと思います。鬼の城は、総社市が「ウラ伝説」や「桃太郎伝説」から、近年に観光のスポットとして巨費をかけ遺跡の復元をしたところであり、時間がゆるせば、ほかに、備中総社、備中国分寺の五重塔、コウモリ塚古墳等の施設遺跡等も見ておきたい所であります。特に、国分寺あたりのレンゲ畑やコスモス畑が色づくころには大勢の人が訪れる。そこで古代の様に浸れるのは、見渡せる限りの建物の高さや色形を条例で制限しているからと聞いています。
<岩屋へ>(3/07)
鬼の城の駐車場からさらに進むこと約2km。10台ほど停まるその駐車場に車は一台もない。幾度か訪れているから様子は分かっている。そこに常備されている杖をかりて、20分ほど登ると、御大師様の岩屋寺と、鬼の差し上げ岩を横にした社(やしろの名は不明?)に着く。その2間四方(?)の建物には<毘沙門天>が祀られていた。岩の割れ目からの湧き水かなと思うが、気になっていた“溜め井”に水はない。先の山王神社と同じような位置にある。何に供するのかは分からずじまい。
<ご開帳造りの本殿がない!?>
前々の記事でこの社の登り石段の脇にある竹林の地下に『大量の銅鐸』が埋めてあるとして謎解きを終えていた。しかし、今回の野洲での「社殿の上方斜面に大量の銅剣がありや?」に影響されて、今一度の再考である。その社に手を合わせて思いをいたすと、その社殿は、一棟のみであり後ろにあろうはずの本殿がない? なぜないのか? この前方の広場に何やらの建物があったと見受けられる基礎石様のものがあったが、それが社殿だったのか? それとも山門の建て屋のあとか? その空き地に社殿が建っていたとすると、現在ある建物は本殿になるから本殿仕様となっていなければならないが、本殿特有の “ご開帳・かんぬきを備え密閉した両開ドアーで開け閉めにギィーと音が出るように作っている扉” を設えた造りにはなっていなくて、その建家は、
<格子戸・こうしど>を設え、賽銭箱もおいてある社殿風の建物である。勿論1700年余の時の流れを考えなければならないのは云うまでもない。
<格子戸の不思議?> (3/08)
格子造りは、向こうとこちらは、見透かすことはできるが、行き来をさえぎる時につかう。それに対して観音開き戸は、封印ご開帳の時につかう戸締まりであると前述しました。話しは変わり、
こどもの頃の想い出
かぁ~ごめ~ぇ かごめぇ、 か~ごのなかのとりィは~、 いついつ出ぇやぁる~、
夜明けのバンに~、 鶴う~と、亀ぇ~が滑うべったぁ~、 後ろの正面、だあぁ~~れ♪
私達がなにげなく聞いてきた、この童唄は、実に分けの分からん(^^!)内容の唄である。
かぁ~ごめ~ぇ かごめぇ>は、
しゃがんで目隠しをした“オニ”の周りを取り囲んで回りましょう♪。
か~ごのなかの鶏ィは~>は、
カゴは竹で組んだ釣り鐘状の組みカゴのことで、昔は、そのなかでニワトリを飼っていた。勿論、今の白色レグホンや名古屋コーチンではない。そのカゴは罪人を運ぶ“唐丸カゴ”にも使用されていた。このカゴで運ばれるのは、断髪白衣で死罪をうける重罪人を意味する。
いついつ出ぇやぁる~、?>
これが分け分からん! 何時、出そうが出ようが勝ってだと思いますがぁ^^?
夜明けのバンに~>
これも分け解らん! バン>とは、晩の暗い時をさすのか? それとも順番の番か?
鶴う~と、亀ぇ~が滑うべったぁ~>
ここにすすめば、怒り錯綜^^? なんでここに関係ない鶴と亀が出てこんとならんのだぁ?
鶴は、その昔神聖視されていた。素人の謎解きでは頭が隕石でクチバシはその尾っぽ。
亀は、長寿のシンボルとして扱われ大陸の影響?。出雲や富山の四方突出古墳は首の無
い亀の形ではないか? と謎解きしています。
後ろの正面、だあぁ~~れ♪>
これも分けわからん? 普通に思えば向こう正面とはいうが、後ろは正面とは呼ばないよね?
このようにこの唄は、後先がつづかず矛盾だらけの、実に分けの解らん唄である。なのに何故淘汰(とうた)されずに遺っているのか? この唄には“何か?”が隠されている。 ごめん! すでに平成の代では、この唄の意味はおろか、この唄を聞いたことさえない人達ばかりでしたぁ~。
<「かごめ唄」を推(よ)み解く!?> (3/10)
竹組みカゴの目は、社殿の格子目に変化し、その中で末期(まつご=トリ)を迎える重罪人は、銅鐸をあらわしている? 夜明けの一番鶏が鳴くときは、四千年前の大事変の未明を表す。その朝方、家畜達が異常に騒ぎだしたことを、鶴と亀までもが異常行動を起こしたと形容しているのではないだろうか? 今にみる多くの本殿は、何故に土壇の上に設えられているのか? 土壇場(どたんば)とは、その昔、重罪人の腹部を一刀のもとに断罪する刑をおこなう時に造られた土盛りのことを云ったと記憶している。
一刀両断とはこのことから生まれた? この時、使う刀は試し切りとして大名の新刀が供されたとも聞く。今、考えれば人を切った刀など気持ちが悪くて嫌がられると思われるが、刀とはもともと人切り包丁。罪人の持つ “魔性”を断った強い刀として重用されたのである。これ等を総合的に考えると、神社の格子戸は、何かの「おどろしいもの」を舘家(たちや=唐丸カゴ)で囲い込み、前の部分だけを格子にして内外が見えるようにしたのではないだろうか? まるっきり見えなくしたのでは中に居るか居ないかの確認が出来ないからね(笑い)。そう云えば唐丸カゴの目の高さの部分は開けていましたよ。
囲い込むのは銅鐸や護摩壇に乗り移る荒神さまである。舘家の外で必要以上に暴れだしては困るから囲っているのだ。社殿より一段高い本殿から神の降臨を願い、その“意”を伺うために、下方の社殿で “法(のり)”を称え護摩火を焚く。それが、今ではだんだん略式化されて建物の外でも “おかげ” が頂けるようになりました。「おこぼれ、ちょうだい!」(^-^) 皆さん! 貴方のお願いを是非にと請うならば、お賽銭(さいせん)ほかに特別料金を献上しても社屋内に上がりましょうね。素人の推理が正しければ、より“濃い?”おかげが受けられると思いますよ^^!。
<この毘沙門天を祀っている社屋の後ろには本殿がない?> (3/11)
まてよ!?この社屋には、もともと本殿がなかったのではないか? この社屋は土壇を盛り上げた上、さらに、脚部が異常に高く(○mに)設計されている。社殿に土壇は設えない。土壇を設えるのは本殿の仕様である。この建て屋は、土壇を設えた本殿と、格子戸を設えた社殿の仕様の両方を具備している。しかも、異常に背が高い。 前回来た時に、この土壇の地下に大量の銅鐸が封印されているのかと考えてみたこともあったが、もしそうであれば掘り出すことは不可能だ!
そして、大量の銅鐸を埋めた上に人が上がる社殿を建てるのはバチあたりだ。 ・・・・?、 もともと本殿がないとすれば、この舘家の上方の<山斜面が>本居・本殿となり、そこに大量の銅鐸が納められて(封印されて)いることになる??。 武神の毘沙門天を祀っているのは、後ろ上方の大量の銅鐸を守護するためではないのか? 異常に高い社屋の前に立てば、その場所と、舘家と、後ろの山斜面の三点は、斜面の一直線上に連なる!!!
<社屋の後ろの山斜面を探索> (3/13記)
この社家の間口は、ほぼ真東に向いている。この舘屋を正面にみて右手に巨大な鬼の差し上げ岩がある。その脇を上がる遊歩道があり、それぞれに命名された巨岩を見ながら頂上まで登ると馬頭観音が祀られている。ここから下って、石切観音や、皇の墓を回る一周コース(岩屋案内図)となっている。この時期、岩屋まで訪れるお人はほとんどいない。それでも二組のハイカーに出会うが二人連れだ^^。わたしのように一人でウロウロする者はなく少々気味がわるい^^!。道をはずれ建物裏の山斜面に「大量の銅鐸が!?」と思って探索してみるが確たるものが得られない。これより少し上方にはなるが? この建屋の真後ろを○mほど上がった所に10メートル平米か20メートル平米ぐらいの均地(なるち)があった!? ナル地というのは、この地方に使われる言葉で<平地>を意味する。<均(なる)、平ル(なる)>という地名も遺っている。「土をなるす」といえば、凸凹をととのえ平らにすることを言う。 ん?、・・・? つづきます^^!
<ナル = 鳴るではないのか!?> (3/14)
これは語学にもとづかない素人考えであると前置きします。縄文・弥生の古代語においては、語彙(ごい)数が少なく、同じ発音でおおくの意味を持っていたのではないかと感じている。前述にあったものをあげると「アオ、ウミ、タチ」。これ等をPC変換すれば、なにかの関連したような言葉が並ぶ。一例をあげると「海、産、膿、宇美、熟、う呑み、宇」がある。ナルについては、このブログのどこかで「何やらを倍の深さに埋めたが、その声未だ“鳴り”やまず!」とあげたことがある。音楽器としても扱われる銅鐸だ。もし、この<ナル地>に、大量の銅鐸が埋められているとすれば、出雲での<山斜面>からの出土とは異なることになり、この一連の謎解きは“出雲と同じ埋め方”でなされているとの『大前提』が揺らいでくる。そして、先の<山王神社>の本殿裏手の<山斜面に!>としたことにも疑問がわいてくる。 その埋め地は<平地か?、斜面か?> それとも、そのナル地も山斜面の内とアバウトに考えるべきか? 困った!!
あちらを取ればこちらが捕れず、こちらを取ればあちらが捕れず、二兎を追う者は一兎をも得ず^^!。とかく謎解きは難しい!
ここから先は、 “現地調査”あるのみ!!
<金属探知機と、ツルハシとスコップを持ち込んで!!>なのだがぁ~^-^~(汗~!)
ここで一旦、筆を休めることに致しましょう。
この記事は、これで完了しました。 次の記事は<大事変で変形した宮島>を予定しています。
次回の記事は、何時になる(鳴る^^)やら分かりません。 あしからず・・・(^-^!)
次の記事まで、しばらくお待ちください^^!。
('11/9/29) 何方さまが拍手(1)を下さったのでしょうか? 何方さまか見当がつきません。
出来ればコメント(○秘コメントOK^^!)を・・!
どなた様> ('13/11/21)の2拍目&コメント有難う御座います。 (とても嬉しい^^♪)
卑弥呼が埋めた埋めさせたかの大量の銅剣&銅鐸を掘り上げて、現学に風穴を!! とはいえ、四千年前に降臨した荒神さま>が相手です。よほどの胆力を要します。その探索が、もし、お一人ならばお二人以上をお勧めします。私のように一人では辛いものがあります。 散策、絶好の時期♪ どうぞお気をつけて( 次報を楽しみにしてます。)
当ブログへのご訪問ありがとう御座います^^。 貴方さまはとても幸運なかたです♪
貴方さまに、少しの発意と“遊び心と”行動力があるならば、日本史にその名を残すことが出来ます。素人探偵が予見したように三上山から 「卑弥呼が埋めさせたとする大量の銅剣」 が出土すれば、きっと史学や、<世間さま>は大騒ぎするに違いありません。<その出土を促す写真は>日本史はおろか世界史をも動かす力を持っています。三上山谷奥の卍印しの境内広場に続く山斜面の写真をブログ等に< 誰よりも早く!>掲載するだけでもいいのです。「 二番では駄目なんですか?」蓮舫大臣(笑い)駄目です! 男なら、歴女なら^^夢をもたなくっちゃ~ね♪ 少なくとも史学や現科学に無視されている事をなす分けですから、二番煎じでは御名を “歴史には” 刻むことは出来ません^^。
(2011 Feb. 22) 史実探偵: 平 素人
記事は、不定期な日々の(追記)で更新しています。前回は(3/13)で、今回は(3/14)です。
この記事は、これで完了しました。次の記事は<大事変で変形した宮島>を予定しています。
ここで一旦、筆を休めることに致しましょう。
次回の記事は、何時になる(鳴る^^)やら分かりません。 あしからず・・・(^-^!)
すべての記事は、連続・関連モノです。 引きつづきの駄文にお付きあい下されば幸いです。
此処に “大量の銅剣” が埋めてある!
<全国歴史ファンの方々、貴方に呼びかけます。
三上山と、(吉備の経山に )、集合せよ!> の3.
(前々記事)2011 Jan. 11 / 1.& 2.~
カテゴリー “銅剣銅鐸探査のあれこれ!” からのつづきです。←是非ご覧あれ^^。
野洲市・三上山の大量の銅剣、埋め場所の絞り込みは、記事の1.& 2.です。
<総社市・大量の銅剣の埋め地はどこか??、疑念のはじまり> (2/22記)
この吉備の地にも出雲と同じように大量の銅剣と銅鐸が埋封(筆者の造語)されているとして去る2月1日に岡山県総社市にある鬼の城(きのじょう)へ出かけた。何んでその気になったかというと、大量の銅剣が出土した出雲・神庭西谷の荒神谷で「三宝荒神(さんぽうこうじん)が遺跡の南側に祀られていた」という情報を新しく得たことから、鬼の城の西にあった<山王神社>の名が気になって来だしたことからだった。それ迄のわたしは、鬼の城に興味をもったときからその名は早くに知ってはいたが、地図にも載っていないようなその神社には、そこに在する数軒あまりが迎えた新しいお宮さんであろうと、勝手に解釈して気にもとめていなかった。・・・つづきます
<三宝荒神=山王神社か?> (2/23記)
この度、出雲での<三宝荒神・さんぽう>の名を得たことから、妙にその名が気になりだした。
(*三宝とは、銅剣と銅鐸と銅矛の意か?と謎解きしている^^) 山王神社(やまおう)の山は、
<さん>とも読むことができる。そして宝の字のウかんむりを外した玉の字は、王にも似ている?
総社市での大量の銅剣の埋め地を出雲の仏教山=経山とし、その北側の山裾にある牛の背状の登り口あたりかと?、睨んで幾度か足をはこんではみたがイマイチ、ピンと^^♪くるものがなかった。そこには30人~40人が祈祷するような広場がなかったし、埋めるにしても花崗岩地帯のそのあたりでは、四尺(=死線?約1.2m)も掘り下げるにしては上土が浅いような気がしていた。しかしながら、銅剣200本?あまりを埋めるには、2m×1.5mもあれば充分だと思い込む(^^!) ことにして、その謎解きを終えていた。(前述・カテゴリー吉備地方を参照して下さい。)
<平成23年2月1日、山王神社を探しに出かけました!> (2/24)
ところで<1日>を、なぜ(ついたち)と読むの? PC変換したら、太刀・建ち・達・断ち・立ち・経ち・舘・館・質(タチが悪い^^)・城・田地・裁ち・起ち・発ち>が出てきました。何れも相互には関係ないように思えるが、この度の卑弥呼が埋めさせたとする封印儀式と合わせて考えると、それ等には何かの関係があるような気がしてならない。すなわち、大量の銅鐸や銅剣の封印儀式は、月末と月初め(年末と年始)の境目に行われたのではないだろうか? <つい>から受ける感じは終の棲家とか、衝立のついかな? 合わせると「今までの行いを断ち、新しき行動に移る時 」。 このように解すれば十二月の暮れに行われる比叡山の“お籠もり”や、今の私達の年末の所業にも符合してきます。このように、皆さん(現科学)にとっては、たわいのない子供心のような疑問から謎解きに入っていくのが、Mr.ホームレス(^^!)の特徴です。
前述にも、祖先が遺した<面白岳とか朝来町>とかの地名伝言から、東北地方へ降臨した巨大隕石のその時を「(BC2001)四千年前の12月25日の朝の6時頃」と割り出したことが 『そんなこと迄もが、解るハズが無い!』と、かえって論の信憑性をかくことになり、皆さん(物証至上主義の現科学)に相手にされない一因のようです。( 涙~ッ!)(参照;カテゴリー巨大隕石)
何は、ともあれその一日に出かけました。
<山王神社へ> (2/25記)
その日の気温は2℃ー12℃。全天薄曇りであるが、午後からは晴れの予想。冬にしては、しのぎやすい? いつものことながら苦助がでる。クスケというのはこの地方の方言で? 辛がるとかタイギということで、つまりは行きたくない(^^!)ということ。重い腰をあげて<鬼の城・きのじょう>の管理棟へ着いたのが、10:30分頃。 前回の(遭難しかけた?)失敗から、慎重を期して、ここで初めて知り得た地図で<山王神社>の所在を確かめることにした。 念には念を入れて管理員の方にもそれを伺った。 「山王神社に行きたい。お参りしたいのですが、どう行ったらいいのですか?」 ご親切にも外へ出て坂の下方を指さし「あの白く見えるガードレールから10分ほど歩けば(そこへ)着きます。」 短い会話のやりとりのなかで、そのあたりの数軒のすべては、○井さん>だということ。そして、その神社のオモリは、その方達でなされているとのこと。やはりそうかと思いながらも、行かない分けにはいかない。
(2/26記)
樹齢ん年、幹周り3mはあろうかと思われるナラガシワのそばに車を停め(この道筋駐車禁止です^^!)その登り道へいってみると「私道につき立ち入りご遠慮ください」 そこより、100mほどの下方にある御大師様をまつるお堂ほうからまわることにした。ここには「鬼の釜」とよばれ直径2m足らずのおおきな釜がおかれてある。以前の探検で? ご老人との会話を交わしたところでもある。先ずは手を合わせてお賽銭をあげて・・、そのご老人はと? 目をやるが見あたらない。つぎのお家も留守宅のようだ。3軒目でなにやらの作業をされているご老人に会えた。人を捜したのは、山王神社についての情報を仕入れかったからです。「この辺の歴史に興味をもって山王神社(やまおう・じんじゃ)を訪ねたいのですが、どう行けばいいのですか?」 「それは<やまおう>ではなくて<さんおう神社>といいます」(やったぁ~♪ 出雲の三宝・さんぽう>さまに近づいたぁ♪)
(2/27記)
祭神は分からない。以前は久米からの神主さんが来ておられたが、今は粗末になってはと御自分の息子さんが年に一・二度管理なさっているとのこと。 この近くに石碑だけではあるが<北斗神社>もあるとのこと。これは北斗の星信仰につながりこれもいい情報だ?。 さらにこのお宮の所轄とか地域とかを伺うと? 大字は<黒尾>小字は<新山>。新山の地名は以前に御神木を切り出すための新しい山かと謎解きしたことがあったが、新しく入植した意なのかも知れない。 このお宮さんは、どうやらこの地区(数軒)だけのものらしい? (やったぁ~、これもアタックしやすい!) それが市とか県の管轄になると、身分を明かさないからかも知れませんが、文通のお返事は、0ゼロでしたからね。(身分や身元を明かさないと決めているのは、それが出土したときの喧騒から逃れるためと遊び心とイタズラ心からかな(^^?)
まだまだつづきます^^♪
(2/28)
道がありや無しやの家の脇をぬけて、鬼の城の管理員さんが教えて下さった広い道にでた。ここから直ぐの谷間(たにあい)に、その参道口はある。中くぼみではあるが2m足らずの道幅であったかとも思う。重い腰をあげてこの時期を選んだのは、如何に没しそうな神社・社(やしろ)であっても、信仰心の篤い方が必ずおられて年末の大掃除を必ずしているからね。しかしその後のドングリの葉っぱのじゅうたんで、用心しながらでないと今にも滑りこけそう。2~3m高さの石鳥居をくぐり10分ほど登るとその神社につく。雁木(がんぎ・階段のこと)が、何段あったかの記憶はないが、その中程に1m×70cmほどの溜め井状(水を溜める井戸状の窪地)のものがあった。湧き水であろうか? それとも、口や手を清めるためのものであろうか? 湧き水であれば霊験あらたかな御神水か? 何れにしても階段の途中に溜め井とはけったいな造りである。
(3/01記)
山王神社は、山の中腹斜面を切り取って平らにした、いわばどこにでもあるような一般的な造りの社寺であった。先ずは手を拍ち、お賽銭と御神酒を上げましてと!(深礼)
半円形のその広場の間口は36歩。20歩ほど進むと一段と高くなっている。ここから30歩ほどの奥行きの中央に社殿があり、社殿から階段を数段設えて本殿が鎮座まします。 これもごく一般的な造り? この場合の “一般的” という言葉は重要な意味をもつ、その仕様がたとえ離れた地にあろうと同じ考えの祀り方がなされているからだ。社殿の間口は約3間で、奥行き2間ほど。 本殿は土壇(どだん)盛り土の上で、その建物に彫り物はなく、立派とも粗末とも言えない普通のつくりで、○間(?)四方だったかな?(御神さまぁ~覚えてなくて、ごめんなさ~~ぃぃ^^!)
(3/02)
ここで、目を引いたのは、本殿の左奥に6m×5mの半円状の溜め井があること。何んの神事に供したのであろうか? 筆者には溜め井そのものが珍しく思える。 人家からわずか10分たらずの所にある社寺で飲み水のための溜め井は必要ないと思えるが? ・・・、 そう言えば、ここから2kmほど離れた岩屋の○○社でも溜め井があった。筆者はこの社寺の境内にある溜め井がどのような神事に使われたのかが、まったく思い浮かばない。何方かご教示を!!
<埋め地を探策する> (3/03記)
野洲のように、社殿の奥側にその広場があればいいのだが、不安と期待とが相まみえる。不動産業界で「お寺の後ろと、お宮の前」という言葉がある。これは、お寺さんの後ろとお宮の前の土地は住宅地としては売りにくいそうだ。これには何かの‘云われ’があってのことであろうが、人気のない寺社の裏山。一人でゴソゴソとやるのは、あまり気持ちのいいものではない。 意を決して?本殿裏の潅木斜面をかき分けて登ってみる。倒木の朽ち木が行く手を阻むが、ある時点を過ぎると、その恐ろしさは感じなくなる?^^!) 斜面の角度は45°度ぐらいか? このような場合、もし自分が埋めるとしたらどこへ埋めるかで模索する。潅木と径20cm~30cmの杉か桧かが植わっていたように思うが考えは錯綜し、決定的な埋め場所が分からない。 上へ上へと登ってみるが、その場所が絞り込めない。小高い頂上ながら、わりに見晴らしはいい。鬼の城山や経山も望めたようにも思うがはっきりとは覚えていない。「ひょっとしたら此処には埋めてないのかも?」自信は揺らいでくる。・・・、今日はこれで下山しよう。
「三宝荒神(さんぽうこうじん)が遺跡の南側に祀られていた」!?
出雲での<三宝荒神と大量の銅剣>が埋められていた場所との関係を是非に知りたい。
三宝荒神さまの造りは、社(やしろ)か? 祠(ほこら)か? それとも石碑か? 祭神は?
どちら向きで、その辺りの広さと高さは? 大量の銅剣と何メートル離れていたのか?
どなた様か、教えて頂けませんか^^?
<先尖り・剣形の山で、荒神を阻んでいる?> (3/04)
下山の途中の鳥居には文政三○○年五月吉日と刻まれていた。坂を下りながらも経山の方向は常に気にしていたが木立に阻まれてその確認はできていない。参道口のある先ほどの私道へ出た。ここからの正面に、かの経山は見える。この車も通れる新設の私道を左に十数歩歩くと!? 正午のサイレンが鳴り響いた。慌ててバックして参道口に立って経山のほうを眺めると! その山の左手に見えるわずかばかりの総社の町並みは雲間のあいだからこぼれる日差しに輝いていた。「経山が“谷の入り口”で、その荒神、侵入許すまじ!」と阻んでいる!? 経山の頂上は、現在の正午の太陽の位置より西へ、およそ10°度振っている。野洲や出雲、そして出来うれば神戸のほうも、その角度を調べて見たい。何かの共通性が見出せるかも知れない。(この角度にこだわるのは地球の歳差運動をさかのぼればおよその設営年代が分かるかも知れないと考えるからです。)
出雲仏教山山頂、荒神谷(大量の銅剣の埋め場所) と、真南のなす角度は 約45度
野洲三上山山頂、卍印し ( 予測 ) と、真南のなす角度は 約20度
総社経山山頂 山王神社? ( 予測 ) と、真南のなす角度は 約10度
神戸荒神山山頂 ○○?? ( 予測 ) と、真南のなす角度は 約○○度
この角度調査はディスプレイ上の計測であり正確ではありません。今それが分かっているのは出雲のみであり、あとの三カ所は、それとおぼしき所との角度です。数ある山や谷のなかで「ここぞ!」決めて大量の銅剣を埋めるには何かの<約束事>が必ずある!。その解明・出土の最短距離にあるのが野洲だ!
<日本史を変えるチャンスが到来した♪> (3/05)
小野田少尉を見つけ出した青年○○氏になれるのは貴方の発意にかかっている。
それを「貴方は、何故しないのか?」の逆質問には^^? 私の業は探偵であり逮捕権をもつ警察ではありません。それぞれには、得意分野がありますからね^^。
今までの (My Job)には、次のようなものが・・・``!
① Dr.いずも氏からの御依頼で、『出雲大社近くの命主神社の大きな石の下から翡翠の勾玉と銅戈が出土している。銅戈(どうか)は、他にも必ずあるはず、その捜索をお願いしたい。』
「翡翠の大勾玉と銅戈を探せ!」に挑み、出雲半島を“竜”に見立てて、<命主神社>の他に、首っ玉上の <鷺峠・さぎとおげ←未掘>と、日本海側にある <社寺(伊奈西波岐神社or文珠院←未掘>の盤石の下の二カ所を予見しましたが、(カテゴリー出雲地方・参照) これも未だ陽の目を見ていません。それもこれも出土すれば話題騒然となるのは必然! 近場の貴方で冒険心がある貴方がいたら、とうぞこの方へもアタックしてみて下さい!(^-^)
② もし貴方に遊び心があってお金が余っている方であり、御依頼があれば釧路辺りに眠っている油田の探索(電子出版極秘報告書「巨大隕石と大津波」 ←クリックOK!)にも、応じますよ^^。 ただし、素人探偵、開業以来の赤貧状態ですから、そちらの方は相応の成功報酬はいただきます(笑)♪。
③ 総社市・岩屋に眠っている <大量の銅鐸>の探査へ、つづきます・・・、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<岩屋に埋められているはずの大量の銅鐸は何処に?> (3/06記)
2月1日・鬼の城の駐車場で用意してきた昼食をとる。まだ時間はあるので、午後からは気になっていた“鬼の差し上げ岩”がある岩屋の建家裏の“溜め井”のほうに出かけてみよう。それと前回の(カテゴリー吉備地方)謎解きで、その社(やしろ)にのぼる石段の脇にある“ナル地状”の竹藪の地下に 「大量の銅鐸あり!」 としていたが、出雲での出土は、ナル地ではなく“斜面状の所”であったことから、岩屋での埋め地に疑念が生じてきたからです。
鬼の城と岩屋は、総社の街並みから6km~8kmほど離れた山奥で、あたりに店はなく夏期のお子様連れでは飲料水は必携。これは空き缶、空き瓶で遺跡周辺を汚してはならないとの配慮からであろうと思います。鬼の城は、総社市が「ウラ伝説」や「桃太郎伝説」から、近年に観光のスポットとして巨費をかけ遺跡の復元をしたところであり、時間がゆるせば、ほかに、備中総社、備中国分寺の五重塔、コウモリ塚古墳等の施設遺跡等も見ておきたい所であります。特に、国分寺あたりのレンゲ畑やコスモス畑が色づくころには大勢の人が訪れる。そこで古代の様に浸れるのは、見渡せる限りの建物の高さや色形を条例で制限しているからと聞いています。
<岩屋へ>(3/07)
鬼の城の駐車場からさらに進むこと約2km。10台ほど停まるその駐車場に車は一台もない。幾度か訪れているから様子は分かっている。そこに常備されている杖をかりて、20分ほど登ると、御大師様の岩屋寺と、鬼の差し上げ岩を横にした社(やしろの名は不明?)に着く。その2間四方(?)の建物には<毘沙門天>が祀られていた。岩の割れ目からの湧き水かなと思うが、気になっていた“溜め井”に水はない。先の山王神社と同じような位置にある。何に供するのかは分からずじまい。
<ご開帳造りの本殿がない!?>
前々の記事でこの社の登り石段の脇にある竹林の地下に『大量の銅鐸』が埋めてあるとして謎解きを終えていた。しかし、今回の野洲での「社殿の上方斜面に大量の銅剣がありや?」に影響されて、今一度の再考である。その社に手を合わせて思いをいたすと、その社殿は、一棟のみであり後ろにあろうはずの本殿がない? なぜないのか? この前方の広場に何やらの建物があったと見受けられる基礎石様のものがあったが、それが社殿だったのか? それとも山門の建て屋のあとか? その空き地に社殿が建っていたとすると、現在ある建物は本殿になるから本殿仕様となっていなければならないが、本殿特有の “ご開帳・かんぬきを備え密閉した両開ドアーで開け閉めにギィーと音が出るように作っている扉” を設えた造りにはなっていなくて、その建家は、
<格子戸・こうしど>を設え、賽銭箱もおいてある社殿風の建物である。勿論1700年余の時の流れを考えなければならないのは云うまでもない。
<格子戸の不思議?> (3/08)
格子造りは、向こうとこちらは、見透かすことはできるが、行き来をさえぎる時につかう。それに対して観音開き戸は、封印ご開帳の時につかう戸締まりであると前述しました。話しは変わり、
こどもの頃の想い出
かぁ~ごめ~ぇ かごめぇ、 か~ごのなかのとりィは~、 いついつ出ぇやぁる~、
夜明けのバンに~、 鶴う~と、亀ぇ~が滑うべったぁ~、 後ろの正面、だあぁ~~れ♪
私達がなにげなく聞いてきた、この童唄は、実に分けの分からん(^^!)内容の唄である。
かぁ~ごめ~ぇ かごめぇ>は、
しゃがんで目隠しをした“オニ”の周りを取り囲んで回りましょう♪。
か~ごのなかの鶏ィは~>は、
カゴは竹で組んだ釣り鐘状の組みカゴのことで、昔は、そのなかでニワトリを飼っていた。勿論、今の白色レグホンや名古屋コーチンではない。そのカゴは罪人を運ぶ“唐丸カゴ”にも使用されていた。このカゴで運ばれるのは、断髪白衣で死罪をうける重罪人を意味する。
いついつ出ぇやぁる~、?>
これが分け分からん! 何時、出そうが出ようが勝ってだと思いますがぁ^^?
夜明けのバンに~>
これも分け解らん! バン>とは、晩の暗い時をさすのか? それとも順番の番か?
鶴う~と、亀ぇ~が滑うべったぁ~>
ここにすすめば、怒り錯綜^^? なんでここに関係ない鶴と亀が出てこんとならんのだぁ?
鶴は、その昔神聖視されていた。素人の謎解きでは頭が隕石でクチバシはその尾っぽ。
亀は、長寿のシンボルとして扱われ大陸の影響?。出雲や富山の四方突出古墳は首の無
い亀の形ではないか? と謎解きしています。
後ろの正面、だあぁ~~れ♪>
これも分けわからん? 普通に思えば向こう正面とはいうが、後ろは正面とは呼ばないよね?
このようにこの唄は、後先がつづかず矛盾だらけの、実に分けの解らん唄である。なのに何故淘汰(とうた)されずに遺っているのか? この唄には“何か?”が隠されている。 ごめん! すでに平成の代では、この唄の意味はおろか、この唄を聞いたことさえない人達ばかりでしたぁ~。
<「かごめ唄」を推(よ)み解く!?> (3/10)
竹組みカゴの目は、社殿の格子目に変化し、その中で末期(まつご=トリ)を迎える重罪人は、銅鐸をあらわしている? 夜明けの一番鶏が鳴くときは、四千年前の大事変の未明を表す。その朝方、家畜達が異常に騒ぎだしたことを、鶴と亀までもが異常行動を起こしたと形容しているのではないだろうか? 今にみる多くの本殿は、何故に土壇の上に設えられているのか? 土壇場(どたんば)とは、その昔、重罪人の腹部を一刀のもとに断罪する刑をおこなう時に造られた土盛りのことを云ったと記憶している。
一刀両断とはこのことから生まれた? この時、使う刀は試し切りとして大名の新刀が供されたとも聞く。今、考えれば人を切った刀など気持ちが悪くて嫌がられると思われるが、刀とはもともと人切り包丁。罪人の持つ “魔性”を断った強い刀として重用されたのである。これ等を総合的に考えると、神社の格子戸は、何かの「おどろしいもの」を舘家(たちや=唐丸カゴ)で囲い込み、前の部分だけを格子にして内外が見えるようにしたのではないだろうか? まるっきり見えなくしたのでは中に居るか居ないかの確認が出来ないからね(笑い)。そう云えば唐丸カゴの目の高さの部分は開けていましたよ。
囲い込むのは銅鐸や護摩壇に乗り移る荒神さまである。舘家の外で必要以上に暴れだしては困るから囲っているのだ。社殿より一段高い本殿から神の降臨を願い、その“意”を伺うために、下方の社殿で “法(のり)”を称え護摩火を焚く。それが、今ではだんだん略式化されて建物の外でも “おかげ” が頂けるようになりました。「おこぼれ、ちょうだい!」(^-^) 皆さん! 貴方のお願いを是非にと請うならば、お賽銭(さいせん)ほかに特別料金を献上しても社屋内に上がりましょうね。素人の推理が正しければ、より“濃い?”おかげが受けられると思いますよ^^!。
<この毘沙門天を祀っている社屋の後ろには本殿がない?> (3/11)
まてよ!?この社屋には、もともと本殿がなかったのではないか? この社屋は土壇を盛り上げた上、さらに、脚部が異常に高く(○mに)設計されている。社殿に土壇は設えない。土壇を設えるのは本殿の仕様である。この建て屋は、土壇を設えた本殿と、格子戸を設えた社殿の仕様の両方を具備している。しかも、異常に背が高い。 前回来た時に、この土壇の地下に大量の銅鐸が封印されているのかと考えてみたこともあったが、もしそうであれば掘り出すことは不可能だ!
そして、大量の銅鐸を埋めた上に人が上がる社殿を建てるのはバチあたりだ。 ・・・・?、 もともと本殿がないとすれば、この舘家の上方の<山斜面が>本居・本殿となり、そこに大量の銅鐸が納められて(封印されて)いることになる??。 武神の毘沙門天を祀っているのは、後ろ上方の大量の銅鐸を守護するためではないのか? 異常に高い社屋の前に立てば、その場所と、舘家と、後ろの山斜面の三点は、斜面の一直線上に連なる!!!
<社屋の後ろの山斜面を探索> (3/13記)
この社家の間口は、ほぼ真東に向いている。この舘屋を正面にみて右手に巨大な鬼の差し上げ岩がある。その脇を上がる遊歩道があり、それぞれに命名された巨岩を見ながら頂上まで登ると馬頭観音が祀られている。ここから下って、石切観音や、皇の墓を回る一周コース(岩屋案内図)となっている。この時期、岩屋まで訪れるお人はほとんどいない。それでも二組のハイカーに出会うが二人連れだ^^。わたしのように一人でウロウロする者はなく少々気味がわるい^^!。道をはずれ建物裏の山斜面に「大量の銅鐸が!?」と思って探索してみるが確たるものが得られない。これより少し上方にはなるが? この建屋の真後ろを○mほど上がった所に10メートル平米か20メートル平米ぐらいの均地(なるち)があった!? ナル地というのは、この地方に使われる言葉で<平地>を意味する。<均(なる)、平ル(なる)>という地名も遺っている。「土をなるす」といえば、凸凹をととのえ平らにすることを言う。 ん?、・・・? つづきます^^!
<ナル = 鳴るではないのか!?> (3/14)
これは語学にもとづかない素人考えであると前置きします。縄文・弥生の古代語においては、語彙(ごい)数が少なく、同じ発音でおおくの意味を持っていたのではないかと感じている。前述にあったものをあげると「アオ、ウミ、タチ」。これ等をPC変換すれば、なにかの関連したような言葉が並ぶ。一例をあげると「海、産、膿、宇美、熟、う呑み、宇」がある。ナルについては、このブログのどこかで「何やらを倍の深さに埋めたが、その声未だ“鳴り”やまず!」とあげたことがある。音楽器としても扱われる銅鐸だ。もし、この<ナル地>に、大量の銅鐸が埋められているとすれば、出雲での<山斜面>からの出土とは異なることになり、この一連の謎解きは“出雲と同じ埋め方”でなされているとの『大前提』が揺らいでくる。そして、先の<山王神社>の本殿裏手の<山斜面に!>としたことにも疑問がわいてくる。 その埋め地は<平地か?、斜面か?> それとも、そのナル地も山斜面の内とアバウトに考えるべきか? 困った!!
あちらを取ればこちらが捕れず、こちらを取ればあちらが捕れず、二兎を追う者は一兎をも得ず^^!。とかく謎解きは難しい!
ここから先は、 “現地調査”あるのみ!!
<金属探知機と、ツルハシとスコップを持ち込んで!!>なのだがぁ~^-^~(汗~!)
ここで一旦、筆を休めることに致しましょう。
この記事は、これで完了しました。 次の記事は<大事変で変形した宮島>を予定しています。
次回の記事は、何時になる(鳴る^^)やら分かりません。 あしからず・・・(^-^!)
次の記事まで、しばらくお待ちください^^!。
('11/9/29) 何方さまが拍手(1)を下さったのでしょうか? 何方さまか見当がつきません。
出来ればコメント(○秘コメントOK^^!)を・・!
どなた様> ('13/11/21)の2拍目&コメント有難う御座います。 (とても嬉しい^^♪)
卑弥呼が埋めた埋めさせたかの大量の銅剣&銅鐸を掘り上げて、現学に風穴を!! とはいえ、四千年前に降臨した荒神さま>が相手です。よほどの胆力を要します。その探索が、もし、お一人ならばお二人以上をお勧めします。私のように一人では辛いものがあります。 散策、絶好の時期♪ どうぞお気をつけて( 次報を楽しみにしてます。)
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