プロローグ: 「秋田県・鹿角市に、巨大な整形ピラミッドが?」
今から(2008-06記)、10年程前だったでしょうか。 久米宏氏がやっておられた<イレブンPM>というテレビ番組のなかで、「 鹿角市に、ピラミッドが!」 あるという学者グループの説がとりあげられた。
「黒又山・クロマンタ」 と呼ばれている高さが約80m程のその山は、自然の山容を利用して “ピラミッド風に整形” された跡があるというのだ。 この山の山頂付近から石器時代の縄文式土器も発見され、今後の解明が期待されるとの内容だったと記憶している。
この番組は、その後の素人探偵の思考をうながす、大きなきっかけを与えてくれた。
≪今、又、≫ YaHoo!ブログ 『信州に移住した人生ー長野県感動ガイドー』 の、
管理者 : 松本管理人 さんが、
記 事 : 長野県にあった世界最大で最古のピラミッド (2008/5/30)
カテゴリー : 皆神山ピラミッド
で、 長野市・松代町・松代に、『巨大なピラミッド』 あり! とした。 (注: 新潟県は松代・まつだい)
<松代地区市制100周年記念事業実行団>の立て看板やらを、写真やコメントを付けて興味深く紹介されている。
その一端をmyブログでも転載させて頂きましょう。
「世界最大で最古の皆神山ピラミッド」
◎皆神山の造山方法はエジプトのピラミッドのように人の労力ではなく初歩的な重力制御技法(部分的干渉波動抑圧)により、当時長野盆地が遊水湖沼(最古のウルム氷期の終末期で東、南信の氷解水よる)となっており、その岸のゴロタ石等堆積土砂石を浮遊させ、空間移動させるというダイナミックな方法でした。(従って現在でも皆神山塊だけが非常に軽く負の重力異常となっております)
◎この皆神山の盛土的山塊が自重により不均衡凝縮 = ねじれ摩擦現象 =
起電 = 電流発生 といったダイナモ機能山塊となり、電磁波が生じ磁力と重力制御(反動)により物体(電磁反発飛翔体)が離着陸するようになったのです。
古文書に出てくる<天の羅魔舟(アマノカガミブネ)>等がこの飛翔体です。
謎の皆神山ピラミッド物語
◎皆神山は、古い古墳時代や弥生時代、更に遡って縄文時代やエジプト、インダス、黄河、シュメール各文明より、ずっと古い今から約2~3万年前の超太古ともいうべき遠い旧石器の時代に造られました。
(人工造山 = ピラミッド、ピラミッドはギリシャの語源の三角形のパンの意)
◎この皆神山を造った人間は、古事記に出てくる須佐之男命(すさのおのみこと)(自然主義的な科学技術者の集団の呼称)で現代科学とは全く異質ではるかに高い知的能力を持った人類でした。 (旧人ネアンデルタール系)
◎では、何のために造ったかというと、墳墓ではなく地球上の各地や、宇宙空間への航空基地として造られたのです。
皆神山のピラミッドの祭神は知力、体力の神
◎超太古の宇宙基地である皆神山の祭神は従って高度の知的能力集団で、みんな宇宙航行や宇宙基地に関する次の四神です。
○熊野出速雄命(くまのいずはやおのみこと)
宇宙船<天の羅魔船>等の航行の技術、管理を引き継いだ最後の集団で、
北信地方の開拓祖神
○少名昆古那神(すくなひこなのかみ)
宇宙船で皆神山航行基地を離着した大国主命(おおくにぬしのみこと)の参謀集団
○泉津事解く男神(よもつことさかおのかみ)
皆神山航行基地をはじめ・・・全宇宙を管理した集団
○速玉男神(はやたまおのかみ)
地球周回軌道の人工衛星<宇宙航行の中継基地>の技術者集団
◎このように皆神山は神々が活躍した基地であり、宇宙船で現われたり、姿を消したりしたので、自然に人たちは神聖な山 = 高天が原(たかまがはら)として、崇め、後世に伝えたものです。 以上、<松代地区市制100周年記念事業実行委員会> の立て看板。
( 注: 誤植があったらご免なさい。)
この山の中腹には横穴をもつ 「岩戸神社」 という神社があり、その横穴がピラミッドの石棺につながっているのではないか・・・ 云々
皆神山の上部がひしゃげてつぶれているのは、この山が人工的に造られた内部の空洞のピラミッドで、空洞がつぶれたためだという説があったり、
UFOの基地になっているとか、とにかく凄い伝説の山なのである。
<その他、写真十数枚>
「山頂付近にある立派な山門と、社殿」
「「境内にある底なし沼の説がある池」
『皆神山に伝わる民話の立て看板』(私のでPCでは解像不能、!汗~)
以上ですが、大変興味深く紹介されているので、是非訪問してみてください。
以上、難しい語句がいっぱいあるので、これを素人的に、勝手に解釈すると、
①皆神山は、氷河が運び積んだ「堆積土石山塊」であり、従って粗にして空隙が多い。
(なのに、これを別人類が造山したとするのかが解りませ~ん。汗~!)
②これが自重により、山頂が押しつぶされてひしゃげた。
③この時帯電し、磁場が生まれた。
④この磁場を宇宙船航行基地の出入り口とした高度の別人類がいた。
それ等と≪交わり?、見ていた?≫現人類が神聖な山として崇め、後の世に伝えた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<長野のミステリーゾーン皆神山の謎> に挑戦!
以下、専門的知識にもとづかない素人的解釈であると、あらかじめお断りしておいて、 間違いや異論があれば、教え正して下されば幸いです。 史実探偵: 平 素人
①について、
一般的に、河川が造る扇状地の堆積状態にくらべて、氷河が造る堆積層は、粗にして空隙が多い。 これは、水流が土石を運ぶと、その表面が軟化し、互いにこすれ合い角がとれ、その隙間をうめようと互いが落ちつきあうのに対し、氷河のほうは、氷が石を把持し岩表をけずりとるようなかたちで下流域へ岩石を運んでいると考えられるから、その片面は滑らかでも、他の面は剥離したままのごつごつした状態であると考えられる。しかも、下流で氷が溶ければ、その向きのまま積み上げられるので、その堆積層は隙間だらけといってよい。火山弾層もこれに似た様相を示す。富士山がその美しい形状を保ち得ているのは、雨水は地表下にしみ入ってしまい、沢から大きな谷へと進みにくい(?)からだ。
②について
自重で押しつぶされて山頂部がひしゃげた。 これは一見「ああ、そうですか」と頷けるような気もするが、素人は、そうは思わない。一時的に山姿が形成されたのならともかく、時間をかけて積み上げたのなら、それなりには落ち着く。 そして、岩石の個々がもつ形力は非常に強い。簡単にはつぶれない!?、 水での軟化を期待したいが、①の状態では、その表面が軟化するまで水は留まってくれない。(註: 中学生諸君のために、水の分子の浸透力は凄く、時間をかければ岩石へも、しみ入っていく。雨が降り続いたあとの墓石をみてごらんなさい。そのしみ入った跡が見られますよ。)
推定で山頂が、(00m)ひしゃげるには、 何か 「別の力?」が作用しなければならない。
③ついては、
特に、難しい語句がならんでいるので、遠い昔に 習った電磁力学を(?)思いだしながら、間違いも含めて考えてみます。
自重によって「ゴロタ石」が下に不規則に動く。 物質・粒子が動くと、ことの大小はあるが電流がうまれ磁場が発生する。 フレミングの右手の法則(それとも左手?)がありました。 高圧線に電圧をかけて電流をながすと周りに磁場が発生し渦巻きながら、それについていく。 電線に絶縁体のツバをつけると電流が流れづらくなるというから面白い。 又、住宅街をはしる高圧鉄塔の下は有害な電磁波が発生したり、不測の事故に備えて、その真下の住宅建設は控えられている。 しかし最近には、この電磁波がダイエットにいいという記事ガありましたから、何がいいのか悪いのか分かりません。 要は程度の問題かな?
さて、この程度の予備知識(笑)で、「皆神山」の場合を考えてみよう。
通常を逸した電磁場が発生するか否かは、それが 「帯電物質であるここと、うごく速さと、量の多少と、押し出される力の大きさ (この場合は重力)」 によって決まる。 だが、いかに巨大な質量をもつ山が上記の条件を満たしていようが、一枚岩であってはならない。接触した小石同士での“摩擦”が生じないかぎり電気は発生しない。雷さまも粒子の摩擦からでした。
「ゴロタ石」は、帯電物質の金属を含むのか? 「ゴロタ」から受ける感じは、ゴロゴロした石。 「タ」は、丸太、此方・こなタ、のことばがあるから(もの)という意味か? その形状と質を知りたい。
「皆神山」
皆神山は、長野市の東北部、松代町・松代にある。 それをYahoo!地図サービスで検索してみよう。 長野県→ (の一覧表) → 長野市 → 一覧 → 松代町松代 → と進み、画像クリックすると、松代町の支所あたりの画面が出てくるから、それを右へスクロールすれば目指す皆神山の画面にいきあたる。 画面の左上にカーソルがあり縮小、拡大は任意にできる。 又、航空写真をクリックすると、住宅と田畑に囲まれた径1、5kmほどの丸い山塊がくっきりと浮かびあがる。 円錐の上部を切り取ったような形をしており、その上部の差し渡し500mほどのなかにゴルフ場や田畑や人家がある。 そして、この一角に、前記の<松本管理人さん>の写真にあるような立派な山門つきの神社が鎮座している。
この山を中心にして、倍率を上げたり下げたり、航空写真に変えたり、地図に変換したりを繰り返してみる。 なにを探っているかというと。 氷河が土石を運んだのならば、その土石を運んだ、より高い山や谷があるかどうかだ。 氷河がその下流に土石堆を積み上げる地形は、世界的にみれば珍しいことではない。ノルウェー、スエーデン、ヒマラヤ山系、その他至る所にある。
この「皆神山」(659mm)を中心にして、馬蹄形で北から時計回り、「尼厳山」781m、「奇妙山」1099m、「堀切山」1157m、少し離れて「保基谷岳」1529m(分水嶺)、「ノロシ山」844m、「象山」△475、8m。 ???、
「皆神山・659m・ゴロタ石」、を積み上げる、氷河を造る高さの山がない!
この東で、約5、5km離れて分水嶺をつくる「保基谷岳」の高さが1529m。
単純比で、 659 : 1529 斜度 300/2000
さらに、この東の志賀高原の 「四阿山・アスヤマ」<2354m> があるにはあるが??
いかに、ウルム期2~3万年前からの人知の及ばないダイナミックな地殻変動があろうとも、わずか径1、5kmの「皆神山」あたりだけの地形の変移は考えにくい。
しかも、複雑な山形ならともかく、『ほぼ、ゴロタ石の?、円形台地』、そして、負の重力異常、(周りより軽いってことかな?)
→ これ等らのことから自然の造形?とは考えにくい → 人造的? → 歴史をふり返ってみても旧人類とは考えにくい? → だから知能の高い別人類 ← 宇宙から?、となった?(笑)
皆さんもご存じのように、このような(別人類とか)宇宙人説をとるものは、(筆者の知り得ているものだけでも)
○イースター島のモアイ像 →誰が?
○ナスカの地上絵 →巨大絵は(宇宙人の目印で、無数の直線は宇宙船の滑走路?)
○インカの山岳都市、 チェチェン・イッツァの巨石文明 →誰が?
○オーストラリア大陸の東西に連なる(鞍部) →高知能をもつ別人類が造成?
○西インド諸島の、バーミューダ魔の三角海域 →宇宙船の出入り口?
日本では、
○沖縄・与那国の海底石段、 出雲・日御碕の海底造刻石段
○富山湾あたりに、ユーホー? 長野盆地でも??
近々に?、こんなんがありましたよ。
○アラスカ上空の日航機(?)に、ユーホー併走後、瞬時に移動!、賛否両論に機長ついに黙る。
○東北地方出土のギョロ目(遮光)土偶は、宇宙人? かぐや姫は、宇宙人?
おお昔には?
○火星の運河は、→頭でっかちに進化した火星人がいて、それが造った!
色々ありますねぇ。 あげればきりがない、今の科学では解けない事案が・・・。
④について、
たとえ、「皆神山」に、ダイナミックな地形の変移や、人知の及ばない 『別人類』 の造形があったとしても、それを現存につながる太古の人が“現認にしろ後認”にしろ、その知り得たことを受け継がなければ歴史としては残らない。 ましてや、それを神聖な山としては扱わない。 この山にしては立派すぎる?ほどの社殿が現存する事実がある。 そして「皆神」の名付けにも注目したい。「皆神」とは、その言葉のとうり、八百万の神。 この考えは神無月に諸国の神々が、「出雲に集合する」と同じ考えだ。 それほどまでの『何が』この山にあったのか!? もう一度この山を訪ねてみよう。
<国土地理院の地図閲覧へ>
今、このシステムは、旧から新へ移行中で、不慣れなせいもあって使いづらい。
国土地理院で検索 → 地図閲覧 → トップ頁、左上の[検索画面]をクリック → 全国20万分の1地勢図・長野 → 左上方に「信濃松代」 注:これは分割線が無いけれど4分割していますから<その右上部分>をクリック → しばらく待つと、 → 画面下方の藤沢川の南に「皆神山」の一部がのぞ゜いていますから → 左ボタンを押したまま上に引っ張りあげると、→ 「皆神山」の全容がでてきます。
(註: 画面中をダブルクイックすると、その場所の緯度・経度がでます。
そして、画面右上の[ー]、[+]をクリックすると任意に縮小と拡大ができる。
<皆神山> ← 国土地理院2万5千分1地形図 : 信濃松代
北緯 36度 33分 14秒
東経 138度 13分 21秒
< 史実探偵 : 平 素人 の 仮想 >
時は、BC2001年12月25日の“未明”の6時頃、三陸地方に因を発した (別紙・電子出版報告書、巨大隕石と大津波で) 巨大地震が、この地に到達する。
1、ゴロタ石の山塊「皆神山」は、大きく上下動をくりかえす。巨大隕石がおこす地震の大きさは、地殻変動によって起きる地震の比ではない。 地下100kmで起きる地震と、同じエネルギーで地表をたたくのとでは、明らかにその揺れは異なる。風呂の水面をたたいた拳と、同じ力で風呂の底でその拳を動かしても、水面の波立ちは、はるかに異なる。 地震によって空隙の多いゴロタ石山塊は、揺すられ沈み込む。 自重の重い中心域ほどその力は強い。
2、では、どれぐらい沈んだのか? 「皆神山・659m」の斜面の2~3箇所からそ斜面に沿って線を立ち上げる。その合わさったところが約800m。もとの山姿がピラミッドのようにはいかないから、話半分として700m。 ゆえに100m~50mの陥没??
3、「ゴロタ石」は、激しく揺すられ、摩擦熱による噴気を発する。どれぐらいの温度が発生したかは分からないが、<実行委員会さん>の云われるような、磁気や電気の「ネジレ」も発生したかも知れない。 ②で浸透水に触れましたが、逆に岩石と岩石の接触面に、その水が留まっていたかも知れない。 この場合は、その温度を下げるほうに働く。
4、びっくりしたでしょうねぇ。ご先祖さまは!
中国・四川の地震では、1mの上下動があったとも聞きますから、寝ては居られません。 恐ろしさにうち震える。 地鳴りはする。 その山の頂上からは、『妙なる光を発した噴気が渦巻く』 これを未確認飛行物体→ 「羅魔舟・アマノカガミブネ」 と云ったのでしょうか?
この「妙なる光」は、後の 「妙高山や、妙見山信仰」 のもとになったのかも知れませんよ。 もちろん、この大事変はこの地にかぎったことではないから、列島の各地に似たような所があると思いますが!?
夜が明けていってみれば、山頂がない! 「 神がこの山に光臨した!」
その後の「隕石の冬がもたらした大雨」と、この荒神竜を連動して考え、稲作の発達と共に、「雨乞い→生け贄文化」へと展開してゆく。
この山は、荒神が光臨した聖なる山だ。 登り口は、北西側にある{池}とお寺のある沢に夾まれた尾根状の徒歩道。 その山裾にある「東荒町」のあたりの海抜が、371mだから、ここから見上げれば、<標高300mのピラミッド?>となる。
「沢」が形成されているのは、北側に一カ所あるが、主には北西だけで、その他の周りは急峻していて登りづらい。 現在、東南部の「平林」「桑根町」の辺りから上る車道があるが、これは車道のために附設された(?)ようで、その昔からあったとは思えない。桑根町のあたりの海抜が456mだから、ここからは<200mの高さ>に見える。これをピラミッドとして見れば「世界最大」となるのであろう。
海抜550m~600mから上は、山の周囲に比べて、その斜度がきわめて緩くなっている。 この「台形状」の形は、今、その謎解きに挑んでいる 「岡山県・総社市の鬼の城山」 や、その他 「朝鮮式山城」 といわれているものが持つ特徴で、筆者は、これを 「竜神」 を呼び寄せる 「雨乞い施設」 の一つだとみている。「鬼の城」 では東西南北に大きな門が復元されていますから、ここにもその形跡があるかも知れませんね。そして 「池」 に流れ入る 「沢の上部」 に、石組みの 「形式水門」 が残っていれば確定的! その調査・探検は、地元のお人に下駄?それとも(ワラジ)を預けることに致しましょう。(笑)
「皆神神社」の境内に“底なし沼”と云われている「池」がある!
一般的にいって、中部山岳地帯は地質年代が新しく、しかも大河の上流部にあるから、岩石から土壌への風化が進んでいない? そして、その細土は下流に流され土壌としてとどまらず、石ゴロゴロの川では、伏流水となりえても表流水にはなりにくい。 このため水稲田を造るには、細土の保持という祖先の並々ならぬ労苦の積み重ねがいる。 草木を踏み込んで、その水が地下へぬけるのを防いだのかな? その土壌は遺産であり宝だ!(中学生諸君のために)
<松本管理人さん>が写しているその池は、ゴロタ石の山塊?なのに水をたたえている。 きっとそのような<保水>がほどこされているはずだ。 このことは、縄文、弥生代の稲作の礎になっている。 この「池」が、先のふもとにある「池」と、なにかのつながりがあればいいのだが・・・、
この山の中腹に横穴がある「岩戸神社」があると聞いた。 「岩戸」とは天照大神に由来する言葉だ。 「桑根井」とは、お蚕さんに関係する地名だ。絹糸の文化は大陸からはいっている。その移入が、近代か、永々たる大昔からかは知らないが、「岩戸」だけをとってみても、大陸文化 →卑弥呼 →(?) →信濃、への文化移行ロードが浮かんでくる。 この横穴の奥に何かの“地質的変異”が認められればいいのだが ・・・、<地質学者・実行委員会諸氏>の参加を是非に希望する。
この西方に「茶臼山・○○m」がある。それが「雨乞い文化の基軸」だから、その山にも何らかの大事変よる変化があったのかも知れない。
これに関連して、「のろし山」! その他「雨乞い」に関係する地名伝言は、多数ある。 ここでは、その調査が主目的ではないので、これもワラジをお預けします。(笑)
そして、さらに加えれば、この「皆神山」には、他の地にはない特異性がある。
新潟地震では、表土の流動化、液状化がわかりました。
神戸地震では、六甲山脈への地震波の跳ね返り現象がわかりました。
このように、巨大地震のもとでは、大地は流体のごとくにふるまう。 のであれば!
「皆神山」は、<志賀高原という船>の船尾あたりになる。 船が波に向かって進む時、その舳先と船尾はとくに揺れが大きくなる。 素人探偵は、これを『地震の船尾効果』とでも名付けておくことにします。 是非に地震学者にも、参加していただきたいと願うばかりです。 (2008 06 15)
だが、 ≪ この項 [最大の謎] が残った!!≫
「皆神山・ゴロタ石」の、積み上げは、 何れによってなされたのか?
① 氷河か?
② 人か?
③ その複合か?
④ それとも、未知なる先人類か? はたまた磁場を移動する宇宙人か?
【 追 記 】 心、躍ること! 「皆神山」の内部を観ることが出来る♪ 6/25記
皆神山が氷河が運んだ山塊で、筆者が言うように、BC2001年の<巨大隕石>に起因した巨大地震で、『へたった山』、ならば、その山の、『内部に何かの地質学的痕跡が』、あるはずだと推(よ)んでいた。
この山の中腹に「岩戸神社」があり、その境内に、横穴があると、<松本支配人さん>のブログで教えられてはいたが、こういった「神」に関する施設?には、<調査のために>一般の人が、簡単には入れるものではないと半ばあきらめていた。
だが<松本管理人さん>の、「松代地震、云々」が、妙に気になり、梅雨の合間のブログ探索で、→「松代地震観測所」 →「松代大本営跡」と検索!
「松代大本営跡」 Wikipedia で、それを発見(みつ)けた♪、
先の終戦際に、「長野県に大本営移転のための巨大地下壕あり」、とは知っていたが、それ以上は知らなかった。
その<気になる>一部を紹介しましょう。
初期の計画(巨大地下壕の)では、象山地下壕に、政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。 皆神山地下壕に、皇居、大本営の施設が予定されていた。 しかし、皆神山の地盤が脆く、舞鶴山地下壕に、皇居、大本営を移転する計画に変更される。 また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。 3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。 (地下壕の進渉度は、75%) □
<!皆神山の地盤が脆い!>
中部山岳地帯は、比較的地質年代が若く<?>地盤か゜固い。だから「松代」を選んだのである。(他にも因があるようです) だが「皇居壕」に予定していた神聖なる山「皆神山」は、意に反して、脆い地盤だったのである。 意に反してということは、周りと異なり、「この山塊だけが脆い!」 ゴロタ石だったのである。
このことは、<松代市制100周年実行委員会さん>が、すでに織り込んでいるとおりである。
だが、筆者の言うように、『地震によって、へたれた山塊』ならば、その岩石の様相には、次のような組織が観られるはずだ。
① ゴロタ石と、ゴロタ石の接触部はその高熱で熔けていること。
② この場合、山の中心部へいけば、いくほど高熱と、高い圧力が予想されるから、ゴロタ石の形状をとどめていないこと。
③ そして<水分が>どこまで浸透していたかは、分からないが、山塊の中心域であれば、それは高温のためにガス化し、溶融岩石内に空泡をつくる。
この時<実行委員会さん>のいわれるように「電磁が発生(→分子破壊)」するほどの力と振動が加わっていれば、水は、酸素と水素に電気分解する。
この場合、火がつくから、「!山頂の木々は燃えあがる!」、ご先祖さまは、びっくりしたでしょうねえ。(笑)
似たような様相は、火山弾に溶岩が流れ込めばできる。この場合は、弾と流れ込み溶岩とは、組成がことなる。 だが、この時(?)には、ゴロタ石自身の周囲が熔けているから、明らかにその区別はつく。
④ これも「全くの素人的、無知識」が言わせる言葉ですが、
溶融した岩石が再冷却するとき「地磁気」を織り込むというが、それが観られないか?
※ 石英、輝石、翡翠等、の内部分離は、ないか?
また、岩石内に空泡があれば、その中に閉じ込められた気体の分析は? 南極の氷や、隕石の中に閉じ込められた気体の分析!等と聞きますからねえ。
この「皆神山」を掘られた人を<父に!叔父に!>持つお人がいるはずだ。その人に聞いてみたい。その苦難とともに、他の象山(大本営予定跡)、舞鶴山(地震観測所)との違いを言い残しては、おられなかったかを?
その巨大な地下壕に、入って調査出来るにこしたことはないが、その時、大量に掘り出した石がどこかにあるはずだ。それを見てもおおよそ見当はつく。 筆者が、この記事のタイトルを、「BC2001年の地震で変形した山々」としている「山々」は、BC2001年の巨大地震で変異をおこしたであろう山が、この「皆神山」に限らないこと。 確信は、もてないが、滋賀県の「綿向山麓・接触変質帯」、奈良県の「山が三つに割れたという・若草山」が怪しいとにらんでいる。
祖先は「その変異した山々」を、地名として、伝説として、昔話として、きっと何かのかたちで遺している。 「その山」が貴方のお住まいの地域にもあるかも知れない。
このブログを<御覧になっている貴方>に、お願いしたい。この大事変の解明の輪をさらに広げて欲しい。20年来、このような広報活動をしていますが、専門、大学、行政、報道の、全てが「相手にしてくれません」 世紀の改革の発端となるのに! で!、去年(‘07・6月)から、ブログ活動を始めてはいるのですが(笑)・・・・?
この「報告書」が、貴方に、世間に、伝わらないのは、その史実がなかったからではなく、素人の論が到らないからだ。 より多くの<貴方様>の参加を希望します。 (2008 6 25)
尚、 コメントを置いてくださる方は、 下のCOー0、のクリックをお願いいたします^^。
どなた様、拍手をありがとう^^。 その1拍が世論をうごかし、ひいては「自然史をも書き換える」と思われた方も、そうでない方も"ぽちっ"と試してみてっ^^? 只今('10 5/23)までで2拍です。
今から(2008-06記)、10年程前だったでしょうか。 久米宏氏がやっておられた<イレブンPM>というテレビ番組のなかで、「 鹿角市に、ピラミッドが!」 あるという学者グループの説がとりあげられた。
「黒又山・クロマンタ」 と呼ばれている高さが約80m程のその山は、自然の山容を利用して “ピラミッド風に整形” された跡があるというのだ。 この山の山頂付近から石器時代の縄文式土器も発見され、今後の解明が期待されるとの内容だったと記憶している。
この番組は、その後の素人探偵の思考をうながす、大きなきっかけを与えてくれた。
≪今、又、≫ YaHoo!ブログ 『信州に移住した人生ー長野県感動ガイドー』 の、
管理者 : 松本管理人 さんが、
記 事 : 長野県にあった世界最大で最古のピラミッド (2008/5/30)
カテゴリー : 皆神山ピラミッド
で、 長野市・松代町・松代に、『巨大なピラミッド』 あり! とした。 (注: 新潟県は松代・まつだい)
<松代地区市制100周年記念事業実行団>の立て看板やらを、写真やコメントを付けて興味深く紹介されている。
その一端をmyブログでも転載させて頂きましょう。
「世界最大で最古の皆神山ピラミッド」
◎皆神山の造山方法はエジプトのピラミッドのように人の労力ではなく初歩的な重力制御技法(部分的干渉波動抑圧)により、当時長野盆地が遊水湖沼(最古のウルム氷期の終末期で東、南信の氷解水よる)となっており、その岸のゴロタ石等堆積土砂石を浮遊させ、空間移動させるというダイナミックな方法でした。(従って現在でも皆神山塊だけが非常に軽く負の重力異常となっております)
◎この皆神山の盛土的山塊が自重により不均衡凝縮 = ねじれ摩擦現象 =
起電 = 電流発生 といったダイナモ機能山塊となり、電磁波が生じ磁力と重力制御(反動)により物体(電磁反発飛翔体)が離着陸するようになったのです。
古文書に出てくる<天の羅魔舟(アマノカガミブネ)>等がこの飛翔体です。
謎の皆神山ピラミッド物語
◎皆神山は、古い古墳時代や弥生時代、更に遡って縄文時代やエジプト、インダス、黄河、シュメール各文明より、ずっと古い今から約2~3万年前の超太古ともいうべき遠い旧石器の時代に造られました。
(人工造山 = ピラミッド、ピラミッドはギリシャの語源の三角形のパンの意)
◎この皆神山を造った人間は、古事記に出てくる須佐之男命(すさのおのみこと)(自然主義的な科学技術者の集団の呼称)で現代科学とは全く異質ではるかに高い知的能力を持った人類でした。 (旧人ネアンデルタール系)
◎では、何のために造ったかというと、墳墓ではなく地球上の各地や、宇宙空間への航空基地として造られたのです。
皆神山のピラミッドの祭神は知力、体力の神
◎超太古の宇宙基地である皆神山の祭神は従って高度の知的能力集団で、みんな宇宙航行や宇宙基地に関する次の四神です。
○熊野出速雄命(くまのいずはやおのみこと)
宇宙船<天の羅魔船>等の航行の技術、管理を引き継いだ最後の集団で、
北信地方の開拓祖神
○少名昆古那神(すくなひこなのかみ)
宇宙船で皆神山航行基地を離着した大国主命(おおくにぬしのみこと)の参謀集団
○泉津事解く男神(よもつことさかおのかみ)
皆神山航行基地をはじめ・・・全宇宙を管理した集団
○速玉男神(はやたまおのかみ)
地球周回軌道の人工衛星<宇宙航行の中継基地>の技術者集団
◎このように皆神山は神々が活躍した基地であり、宇宙船で現われたり、姿を消したりしたので、自然に人たちは神聖な山 = 高天が原(たかまがはら)として、崇め、後世に伝えたものです。 以上、<松代地区市制100周年記念事業実行委員会> の立て看板。
( 注: 誤植があったらご免なさい。)
この山の中腹には横穴をもつ 「岩戸神社」 という神社があり、その横穴がピラミッドの石棺につながっているのではないか・・・ 云々
皆神山の上部がひしゃげてつぶれているのは、この山が人工的に造られた内部の空洞のピラミッドで、空洞がつぶれたためだという説があったり、
UFOの基地になっているとか、とにかく凄い伝説の山なのである。
<その他、写真十数枚>
「山頂付近にある立派な山門と、社殿」
「「境内にある底なし沼の説がある池」
『皆神山に伝わる民話の立て看板』(私のでPCでは解像不能、!汗~)
以上ですが、大変興味深く紹介されているので、是非訪問してみてください。
以上、難しい語句がいっぱいあるので、これを素人的に、勝手に解釈すると、
①皆神山は、氷河が運び積んだ「堆積土石山塊」であり、従って粗にして空隙が多い。
(なのに、これを別人類が造山したとするのかが解りませ~ん。汗~!)
②これが自重により、山頂が押しつぶされてひしゃげた。
③この時帯電し、磁場が生まれた。
④この磁場を宇宙船航行基地の出入り口とした高度の別人類がいた。
それ等と≪交わり?、見ていた?≫現人類が神聖な山として崇め、後の世に伝えた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<長野のミステリーゾーン皆神山の謎> に挑戦!
以下、専門的知識にもとづかない素人的解釈であると、あらかじめお断りしておいて、 間違いや異論があれば、教え正して下されば幸いです。 史実探偵: 平 素人
①について、
一般的に、河川が造る扇状地の堆積状態にくらべて、氷河が造る堆積層は、粗にして空隙が多い。 これは、水流が土石を運ぶと、その表面が軟化し、互いにこすれ合い角がとれ、その隙間をうめようと互いが落ちつきあうのに対し、氷河のほうは、氷が石を把持し岩表をけずりとるようなかたちで下流域へ岩石を運んでいると考えられるから、その片面は滑らかでも、他の面は剥離したままのごつごつした状態であると考えられる。しかも、下流で氷が溶ければ、その向きのまま積み上げられるので、その堆積層は隙間だらけといってよい。火山弾層もこれに似た様相を示す。富士山がその美しい形状を保ち得ているのは、雨水は地表下にしみ入ってしまい、沢から大きな谷へと進みにくい(?)からだ。
②について
自重で押しつぶされて山頂部がひしゃげた。 これは一見「ああ、そうですか」と頷けるような気もするが、素人は、そうは思わない。一時的に山姿が形成されたのならともかく、時間をかけて積み上げたのなら、それなりには落ち着く。 そして、岩石の個々がもつ形力は非常に強い。簡単にはつぶれない!?、 水での軟化を期待したいが、①の状態では、その表面が軟化するまで水は留まってくれない。(註: 中学生諸君のために、水の分子の浸透力は凄く、時間をかければ岩石へも、しみ入っていく。雨が降り続いたあとの墓石をみてごらんなさい。そのしみ入った跡が見られますよ。)
推定で山頂が、(00m)ひしゃげるには、 何か 「別の力?」が作用しなければならない。
③ついては、
特に、難しい語句がならんでいるので、遠い昔に 習った電磁力学を(?)思いだしながら、間違いも含めて考えてみます。
自重によって「ゴロタ石」が下に不規則に動く。 物質・粒子が動くと、ことの大小はあるが電流がうまれ磁場が発生する。 フレミングの右手の法則(それとも左手?)がありました。 高圧線に電圧をかけて電流をながすと周りに磁場が発生し渦巻きながら、それについていく。 電線に絶縁体のツバをつけると電流が流れづらくなるというから面白い。 又、住宅街をはしる高圧鉄塔の下は有害な電磁波が発生したり、不測の事故に備えて、その真下の住宅建設は控えられている。 しかし最近には、この電磁波がダイエットにいいという記事ガありましたから、何がいいのか悪いのか分かりません。 要は程度の問題かな?
さて、この程度の予備知識(笑)で、「皆神山」の場合を考えてみよう。
通常を逸した電磁場が発生するか否かは、それが 「帯電物質であるここと、うごく速さと、量の多少と、押し出される力の大きさ (この場合は重力)」 によって決まる。 だが、いかに巨大な質量をもつ山が上記の条件を満たしていようが、一枚岩であってはならない。接触した小石同士での“摩擦”が生じないかぎり電気は発生しない。雷さまも粒子の摩擦からでした。
「ゴロタ石」は、帯電物質の金属を含むのか? 「ゴロタ」から受ける感じは、ゴロゴロした石。 「タ」は、丸太、此方・こなタ、のことばがあるから(もの)という意味か? その形状と質を知りたい。
「皆神山」
皆神山は、長野市の東北部、松代町・松代にある。 それをYahoo!地図サービスで検索してみよう。 長野県→ (の一覧表) → 長野市 → 一覧 → 松代町松代 → と進み、画像クリックすると、松代町の支所あたりの画面が出てくるから、それを右へスクロールすれば目指す皆神山の画面にいきあたる。 画面の左上にカーソルがあり縮小、拡大は任意にできる。 又、航空写真をクリックすると、住宅と田畑に囲まれた径1、5kmほどの丸い山塊がくっきりと浮かびあがる。 円錐の上部を切り取ったような形をしており、その上部の差し渡し500mほどのなかにゴルフ場や田畑や人家がある。 そして、この一角に、前記の<松本管理人さん>の写真にあるような立派な山門つきの神社が鎮座している。
この山を中心にして、倍率を上げたり下げたり、航空写真に変えたり、地図に変換したりを繰り返してみる。 なにを探っているかというと。 氷河が土石を運んだのならば、その土石を運んだ、より高い山や谷があるかどうかだ。 氷河がその下流に土石堆を積み上げる地形は、世界的にみれば珍しいことではない。ノルウェー、スエーデン、ヒマラヤ山系、その他至る所にある。
この「皆神山」(659mm)を中心にして、馬蹄形で北から時計回り、「尼厳山」781m、「奇妙山」1099m、「堀切山」1157m、少し離れて「保基谷岳」1529m(分水嶺)、「ノロシ山」844m、「象山」△475、8m。 ???、
「皆神山・659m・ゴロタ石」、を積み上げる、氷河を造る高さの山がない!
この東で、約5、5km離れて分水嶺をつくる「保基谷岳」の高さが1529m。
単純比で、 659 : 1529 斜度 300/2000
さらに、この東の志賀高原の 「四阿山・アスヤマ」<2354m> があるにはあるが??
いかに、ウルム期2~3万年前からの人知の及ばないダイナミックな地殻変動があろうとも、わずか径1、5kmの「皆神山」あたりだけの地形の変移は考えにくい。
しかも、複雑な山形ならともかく、『ほぼ、ゴロタ石の?、円形台地』、そして、負の重力異常、(周りより軽いってことかな?)
→ これ等らのことから自然の造形?とは考えにくい → 人造的? → 歴史をふり返ってみても旧人類とは考えにくい? → だから知能の高い別人類 ← 宇宙から?、となった?(笑)
皆さんもご存じのように、このような(別人類とか)宇宙人説をとるものは、(筆者の知り得ているものだけでも)
○イースター島のモアイ像 →誰が?
○ナスカの地上絵 →巨大絵は(宇宙人の目印で、無数の直線は宇宙船の滑走路?)
○インカの山岳都市、 チェチェン・イッツァの巨石文明 →誰が?
○オーストラリア大陸の東西に連なる(鞍部) →高知能をもつ別人類が造成?
○西インド諸島の、バーミューダ魔の三角海域 →宇宙船の出入り口?
日本では、
○沖縄・与那国の海底石段、 出雲・日御碕の海底造刻石段
○富山湾あたりに、ユーホー? 長野盆地でも??
近々に?、こんなんがありましたよ。
○アラスカ上空の日航機(?)に、ユーホー併走後、瞬時に移動!、賛否両論に機長ついに黙る。
○東北地方出土のギョロ目(遮光)土偶は、宇宙人? かぐや姫は、宇宙人?
おお昔には?
○火星の運河は、→頭でっかちに進化した火星人がいて、それが造った!
色々ありますねぇ。 あげればきりがない、今の科学では解けない事案が・・・。
④について、
たとえ、「皆神山」に、ダイナミックな地形の変移や、人知の及ばない 『別人類』 の造形があったとしても、それを現存につながる太古の人が“現認にしろ後認”にしろ、その知り得たことを受け継がなければ歴史としては残らない。 ましてや、それを神聖な山としては扱わない。 この山にしては立派すぎる?ほどの社殿が現存する事実がある。 そして「皆神」の名付けにも注目したい。「皆神」とは、その言葉のとうり、八百万の神。 この考えは神無月に諸国の神々が、「出雲に集合する」と同じ考えだ。 それほどまでの『何が』この山にあったのか!? もう一度この山を訪ねてみよう。
<国土地理院の地図閲覧へ>
今、このシステムは、旧から新へ移行中で、不慣れなせいもあって使いづらい。
国土地理院で検索 → 地図閲覧 → トップ頁、左上の[検索画面]をクリック → 全国20万分の1地勢図・長野 → 左上方に「信濃松代」 注:これは分割線が無いけれど4分割していますから<その右上部分>をクリック → しばらく待つと、 → 画面下方の藤沢川の南に「皆神山」の一部がのぞ゜いていますから → 左ボタンを押したまま上に引っ張りあげると、→ 「皆神山」の全容がでてきます。
(註: 画面中をダブルクイックすると、その場所の緯度・経度がでます。
そして、画面右上の[ー]、[+]をクリックすると任意に縮小と拡大ができる。
<皆神山> ← 国土地理院2万5千分1地形図 : 信濃松代
北緯 36度 33分 14秒
東経 138度 13分 21秒
< 史実探偵 : 平 素人 の 仮想 >
時は、BC2001年12月25日の“未明”の6時頃、三陸地方に因を発した (別紙・電子出版報告書、巨大隕石と大津波で) 巨大地震が、この地に到達する。
1、ゴロタ石の山塊「皆神山」は、大きく上下動をくりかえす。巨大隕石がおこす地震の大きさは、地殻変動によって起きる地震の比ではない。 地下100kmで起きる地震と、同じエネルギーで地表をたたくのとでは、明らかにその揺れは異なる。風呂の水面をたたいた拳と、同じ力で風呂の底でその拳を動かしても、水面の波立ちは、はるかに異なる。 地震によって空隙の多いゴロタ石山塊は、揺すられ沈み込む。 自重の重い中心域ほどその力は強い。
2、では、どれぐらい沈んだのか? 「皆神山・659m」の斜面の2~3箇所からそ斜面に沿って線を立ち上げる。その合わさったところが約800m。もとの山姿がピラミッドのようにはいかないから、話半分として700m。 ゆえに100m~50mの陥没??
3、「ゴロタ石」は、激しく揺すられ、摩擦熱による噴気を発する。どれぐらいの温度が発生したかは分からないが、<実行委員会さん>の云われるような、磁気や電気の「ネジレ」も発生したかも知れない。 ②で浸透水に触れましたが、逆に岩石と岩石の接触面に、その水が留まっていたかも知れない。 この場合は、その温度を下げるほうに働く。
4、びっくりしたでしょうねぇ。ご先祖さまは!
中国・四川の地震では、1mの上下動があったとも聞きますから、寝ては居られません。 恐ろしさにうち震える。 地鳴りはする。 その山の頂上からは、『妙なる光を発した噴気が渦巻く』 これを未確認飛行物体→ 「羅魔舟・アマノカガミブネ」 と云ったのでしょうか?
この「妙なる光」は、後の 「妙高山や、妙見山信仰」 のもとになったのかも知れませんよ。 もちろん、この大事変はこの地にかぎったことではないから、列島の各地に似たような所があると思いますが!?
夜が明けていってみれば、山頂がない! 「 神がこの山に光臨した!」
その後の「隕石の冬がもたらした大雨」と、この荒神竜を連動して考え、稲作の発達と共に、「雨乞い→生け贄文化」へと展開してゆく。
この山は、荒神が光臨した聖なる山だ。 登り口は、北西側にある{池}とお寺のある沢に夾まれた尾根状の徒歩道。 その山裾にある「東荒町」のあたりの海抜が、371mだから、ここから見上げれば、<標高300mのピラミッド?>となる。
「沢」が形成されているのは、北側に一カ所あるが、主には北西だけで、その他の周りは急峻していて登りづらい。 現在、東南部の「平林」「桑根町」の辺りから上る車道があるが、これは車道のために附設された(?)ようで、その昔からあったとは思えない。桑根町のあたりの海抜が456mだから、ここからは<200mの高さ>に見える。これをピラミッドとして見れば「世界最大」となるのであろう。
海抜550m~600mから上は、山の周囲に比べて、その斜度がきわめて緩くなっている。 この「台形状」の形は、今、その謎解きに挑んでいる 「岡山県・総社市の鬼の城山」 や、その他 「朝鮮式山城」 といわれているものが持つ特徴で、筆者は、これを 「竜神」 を呼び寄せる 「雨乞い施設」 の一つだとみている。「鬼の城」 では東西南北に大きな門が復元されていますから、ここにもその形跡があるかも知れませんね。そして 「池」 に流れ入る 「沢の上部」 に、石組みの 「形式水門」 が残っていれば確定的! その調査・探検は、地元のお人に下駄?それとも(ワラジ)を預けることに致しましょう。(笑)
「皆神神社」の境内に“底なし沼”と云われている「池」がある!
一般的にいって、中部山岳地帯は地質年代が新しく、しかも大河の上流部にあるから、岩石から土壌への風化が進んでいない? そして、その細土は下流に流され土壌としてとどまらず、石ゴロゴロの川では、伏流水となりえても表流水にはなりにくい。 このため水稲田を造るには、細土の保持という祖先の並々ならぬ労苦の積み重ねがいる。 草木を踏み込んで、その水が地下へぬけるのを防いだのかな? その土壌は遺産であり宝だ!(中学生諸君のために)
<松本管理人さん>が写しているその池は、ゴロタ石の山塊?なのに水をたたえている。 きっとそのような<保水>がほどこされているはずだ。 このことは、縄文、弥生代の稲作の礎になっている。 この「池」が、先のふもとにある「池」と、なにかのつながりがあればいいのだが・・・、
この山の中腹に横穴がある「岩戸神社」があると聞いた。 「岩戸」とは天照大神に由来する言葉だ。 「桑根井」とは、お蚕さんに関係する地名だ。絹糸の文化は大陸からはいっている。その移入が、近代か、永々たる大昔からかは知らないが、「岩戸」だけをとってみても、大陸文化 →卑弥呼 →(?) →信濃、への文化移行ロードが浮かんでくる。 この横穴の奥に何かの“地質的変異”が認められればいいのだが ・・・、<地質学者・実行委員会諸氏>の参加を是非に希望する。
この西方に「茶臼山・○○m」がある。それが「雨乞い文化の基軸」だから、その山にも何らかの大事変よる変化があったのかも知れない。
これに関連して、「のろし山」! その他「雨乞い」に関係する地名伝言は、多数ある。 ここでは、その調査が主目的ではないので、これもワラジをお預けします。(笑)
そして、さらに加えれば、この「皆神山」には、他の地にはない特異性がある。
新潟地震では、表土の流動化、液状化がわかりました。
神戸地震では、六甲山脈への地震波の跳ね返り現象がわかりました。
このように、巨大地震のもとでは、大地は流体のごとくにふるまう。 のであれば!
「皆神山」は、<志賀高原という船>の船尾あたりになる。 船が波に向かって進む時、その舳先と船尾はとくに揺れが大きくなる。 素人探偵は、これを『地震の船尾効果』とでも名付けておくことにします。 是非に地震学者にも、参加していただきたいと願うばかりです。 (2008 06 15)
だが、 ≪ この項 [最大の謎] が残った!!≫
「皆神山・ゴロタ石」の、積み上げは、 何れによってなされたのか?
① 氷河か?
② 人か?
③ その複合か?
④ それとも、未知なる先人類か? はたまた磁場を移動する宇宙人か?
【 追 記 】 心、躍ること! 「皆神山」の内部を観ることが出来る♪ 6/25記
皆神山が氷河が運んだ山塊で、筆者が言うように、BC2001年の<巨大隕石>に起因した巨大地震で、『へたった山』、ならば、その山の、『内部に何かの地質学的痕跡が』、あるはずだと推(よ)んでいた。
この山の中腹に「岩戸神社」があり、その境内に、横穴があると、<松本支配人さん>のブログで教えられてはいたが、こういった「神」に関する施設?には、<調査のために>一般の人が、簡単には入れるものではないと半ばあきらめていた。
だが<松本管理人さん>の、「松代地震、云々」が、妙に気になり、梅雨の合間のブログ探索で、→「松代地震観測所」 →「松代大本営跡」と検索!
「松代大本営跡」 Wikipedia で、それを発見(みつ)けた♪、
先の終戦際に、「長野県に大本営移転のための巨大地下壕あり」、とは知っていたが、それ以上は知らなかった。
その<気になる>一部を紹介しましょう。
初期の計画(巨大地下壕の)では、象山地下壕に、政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。 皆神山地下壕に、皇居、大本営の施設が予定されていた。 しかし、皆神山の地盤が脆く、舞鶴山地下壕に、皇居、大本営を移転する計画に変更される。 また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。 3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。 (地下壕の進渉度は、75%) □
<!皆神山の地盤が脆い!>
中部山岳地帯は、比較的地質年代が若く<?>地盤か゜固い。だから「松代」を選んだのである。(他にも因があるようです) だが「皇居壕」に予定していた神聖なる山「皆神山」は、意に反して、脆い地盤だったのである。 意に反してということは、周りと異なり、「この山塊だけが脆い!」 ゴロタ石だったのである。
このことは、<松代市制100周年実行委員会さん>が、すでに織り込んでいるとおりである。
だが、筆者の言うように、『地震によって、へたれた山塊』ならば、その岩石の様相には、次のような組織が観られるはずだ。
① ゴロタ石と、ゴロタ石の接触部はその高熱で熔けていること。
② この場合、山の中心部へいけば、いくほど高熱と、高い圧力が予想されるから、ゴロタ石の形状をとどめていないこと。
③ そして<水分が>どこまで浸透していたかは、分からないが、山塊の中心域であれば、それは高温のためにガス化し、溶融岩石内に空泡をつくる。
この時<実行委員会さん>のいわれるように「電磁が発生(→分子破壊)」するほどの力と振動が加わっていれば、水は、酸素と水素に電気分解する。
この場合、火がつくから、「!山頂の木々は燃えあがる!」、ご先祖さまは、びっくりしたでしょうねえ。(笑)
似たような様相は、火山弾に溶岩が流れ込めばできる。この場合は、弾と流れ込み溶岩とは、組成がことなる。 だが、この時(?)には、ゴロタ石自身の周囲が熔けているから、明らかにその区別はつく。
④ これも「全くの素人的、無知識」が言わせる言葉ですが、
溶融した岩石が再冷却するとき「地磁気」を織り込むというが、それが観られないか?
※ 石英、輝石、翡翠等、の内部分離は、ないか?
また、岩石内に空泡があれば、その中に閉じ込められた気体の分析は? 南極の氷や、隕石の中に閉じ込められた気体の分析!等と聞きますからねえ。
この「皆神山」を掘られた人を<父に!叔父に!>持つお人がいるはずだ。その人に聞いてみたい。その苦難とともに、他の象山(大本営予定跡)、舞鶴山(地震観測所)との違いを言い残しては、おられなかったかを?
その巨大な地下壕に、入って調査出来るにこしたことはないが、その時、大量に掘り出した石がどこかにあるはずだ。それを見てもおおよそ見当はつく。 筆者が、この記事のタイトルを、「BC2001年の地震で変形した山々」としている「山々」は、BC2001年の巨大地震で変異をおこしたであろう山が、この「皆神山」に限らないこと。 確信は、もてないが、滋賀県の「綿向山麓・接触変質帯」、奈良県の「山が三つに割れたという・若草山」が怪しいとにらんでいる。
祖先は「その変異した山々」を、地名として、伝説として、昔話として、きっと何かのかたちで遺している。 「その山」が貴方のお住まいの地域にもあるかも知れない。
このブログを<御覧になっている貴方>に、お願いしたい。この大事変の解明の輪をさらに広げて欲しい。20年来、このような広報活動をしていますが、専門、大学、行政、報道の、全てが「相手にしてくれません」 世紀の改革の発端となるのに! で!、去年(‘07・6月)から、ブログ活動を始めてはいるのですが(笑)・・・・?
この「報告書」が、貴方に、世間に、伝わらないのは、その史実がなかったからではなく、素人の論が到らないからだ。 より多くの<貴方様>の参加を希望します。 (2008 6 25)
尚、 コメントを置いてくださる方は、 下のCOー0、のクリックをお願いいたします^^。
どなた様、拍手をありがとう^^。 その1拍が世論をうごかし、ひいては「自然史をも書き換える」と思われた方も、そうでない方も"ぽちっ"と試してみてっ^^? 只今('10 5/23)までで2拍です。
スポンサーサイト
<世界遺産・宮島の地の大事変!>
時は、BC2001年12月25日の朝方、‘三陸地方発’の、巨大地震と大津波が、この地に到達する。 クリックOK^^→ (別紙・電子出版; 極秘報告書「巨大隕石と大津波」)
【 お知らせ 】 「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」の方は、一時休止します^^!。
そちらの方は、カテゴリー「銅剣銅鐸探査のあれこれ!」のクリックをお願い致します。
すべての記事は、連続・関連モノです。引きつづきの駄文にお付きあい下されば幸いです。
記事は、不定期な日々の(追記)で更新しています。前回は(4/02)で、今回は(4/04)です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<この謎解き、そのまえに> (3/17)
毎日新聞 (余録) 2011・2・17 より引用します(以下)
「化け椿」という言い伝えが各地にのこっている。古いツバキの木が美女にばけたり、へらへらと笑い声をを出したり、その下に妖怪の一反木綿が出没したりするという。またツバキの根が光を放って、飛んだというわけの分からない話もある。狐狸(こり)ならぬ木が化けるというのは、ツバキによほど強い霊力があると思われたのであろう。それと共に八百比丘尼(びくに)がツバキを広めたという伝説が各地にある。人魚の肉を食べ800年も生きた八百比丘尼が諸国をまわり、神木であるツバキによる占いをしたというのだ。・・中略・・、ツバキの霊威が信じられた昔は、この木から魔よけのつえや槌が作られたという。・・ (以上)
<椿街道の不思議> (3/18)
わたし素人探偵は、今から四千年ほど前の大事変(前述)の謎解きで、「椿」に強い関心を持っていた。BC2001年の年末、天から下された<大槌=巨大隕石>によって東北の釜石付近をたたかれた日本列島は、各地にその“波紋”を地名として残しているはずだとして、それ等を探ったその一つに<愛発の椿街道>があった。この椿街道は、敦賀湾と北琵琶湖を結ぶ街道で、かつての愛発(あらち=荒地?)の関所があったところで、その昔、日本海沿岸と京の都を結ぶ交通の要所でもあった。筆者は、今その街道に椿の木があるやなしやも知らないし、その名の由来も知らないが、椿を『地名伝言』として遺すこと事態に強い疑問をもっていた。「何故にツバキが?」桜街道とはよく聞くが椿はあまり聞いたことがないからねえ(^^)
≪ 衝撃の痕跡 ≫ (2011 Mar. 19)
東北の釜石付近に因を発した巨大地震波は、中部地方を船体とした巨大な岩塊(ブロック)が船尾(註1)で大きく波打つ! その境目が、丹波高地との間にある“椿街道だ!” 琵琶湖は列島の地溝帯上にある。
(註1) 『巨大地震の船尾現象』とは、 筆者がかかげている現象で^^、日本列島の、高地や、山脈岩塊を巨大地震で流動化したマントルに浮いた巨大船に例え、巨大地震波が船首方向から船尾に向かうとき、後方へ押しつけられる圧で船首が上がり、船尾が大きくバウンドを繰り返えし、後方の岩塊との間で擦れ合い、それによって高熱を発したり溶融岩を噴出したりすること。
この度の東北関東大地震(3/11)で、みると日本列島という巨大タンカーが、太平洋プレートで押しつけられ横揺れを起こしているわけだから、その影響で日本海溝側のバウンドは勿論のことだが、これから先注意しなければならないのは、そのバウンドの境界線の西端にあたるフィリピン海溝北部では、太平洋側からの北圧の解放と両プレートの“擦れ合い”が起きている。これによって富士箱根での微振動や地磁気の異常はもとより、地温もその内あがってくる。(富士山麓でマントルまで?とどくボーリング計画があったが、地下温度を表層温の上昇から逆算できないか?) 今は東北方面の大惨事でそれどころではないが、専門家が富士箱根の火山活動の心配をしているのは、それ故だとみている。富士山が流動形となっているのは“北への接圧と、東西の擦れ”が合わさってより高温になるためかな? そして、フィリピンプレートの北端が細くなっているのは「連れ込み現象」かな^^?
震度5程度の余震が頻発しているのは“固いモノ同士”が擦れ合うからであり、その摩擦熱よってプレート端が溶融化すれば自ずと揺れは少なくなる。だがそのことはストレスが熱へ変換し、列島下部のマントルの流動化と?、その地下温が最高潮に達したことを意味する。上昇マグマは高温化したマントルから生まれる。余震が収まったからといって安心してはならない。念のために、その時間の流れは人間の感覚時間ではなく、地質時間だと申し上げておきます。
<祖先からの伝言(いいつたえ)> (3/20)
この考えを前提にもてば、先の毎日新聞の(余録)にあった「化け椿」の言い伝えの真相がみえてくる。むろん地質年代の前史をさかのぼれば前述の様な変異はいたる所に残っている。それ等ではなくて、筆者が強く言いたいのは、祖先がそれ等の大事変に遭遇し<地名や言い伝え>として残すことが出来るようになった“その昔である”ことに課題がある。
古老から聞いたことに、「椿は庭木に植えるものではない」と聞いたことがある。真っ赤な花の首がポロリと落ち縁起がわるいからだという。そのように聞けば神社や、お寺の多くに見かける椿ではあるが家庭ではあまり見かけない。では「なぜ神社や、お寺には植えてもいいの?」となり、こども心は不思議に思ったものでした。蛇足ながら、椿に白色花は遺伝的に出にくく、それが白花はもとよりピンクや斑入りまであるのは、後の品種改良の技術がすすんでからだと理解している。 ・・・先の「化けツバキ」の言い伝え、にもどります。
<言い伝えに秘められた真実> (3/21)
「古いツバキの木が美女にばけたり」>
椿は、歌謡曲に、「赤い椿がポロリと落ちてぇ~」とか、「あんこ椿は恋の花」とかがあり、若い娘さんに重ね合わせて歌われているようだが??
「 言い伝えや地名は、祖先からのメッセージであり表現の違いである。」 史実探偵: 平 素人
「ツバキの根が光を放って、飛んだというわけの分からない話」> (3/22)
筆者は、この「わけの分からない」に触発(^^)されて、この謎解きに挑んでいます。話を大きく変えて地震の話。 巨大地震が起こる前には何んらかの前症状がある。岩塊と岩塊。プレートとプレートが押し合いへし合いする時。その境界では巨大な圧力が働き分子・原子?までもが破壊されて微小の電子類が地表に放たれていると考えられる。今の観測器や方法ではそれをとらえることが出来ていないだけであり、それ等の微粒子が地震雲として目視できるのは太陽光の弱い時であったり、横方向からの厚みを通して見える条件に居る時であると考えている。この考えをもってすれば先の「ツバキの根が光を放って」の謎解きは難しいものではない。その谷間(たにあい)には、ツバキが自生し、真っ赤に咲いていた。その日の朝方、巨大地震によって擦れ合った岩塊は、火打ち石のごとくに火照りや微光を放ち、ツバキの木は表土とともに根こそぎ吹っ飛ぶほどに揺れたと云っているのではないだろうか。 簡単な実験では洗面器に水をはり縁をつよくたたけば、水滴が飛び上がります。 おっと! “現科学は^^”、身体を1mも、それ以上も放り上げられるような巨大な地震を経験していなかった(笑)。
「へらへらと笑い声をを出したり」> (3/23)
地震の伝わり方には、スピードの速いP波と、すこし遅れて進むS波があり、そのスピードは、おしなべて1000kmを3分半ほどで進む。 「へらへら^^」かどうかは分からないが、岩塊と岩塊とが擦れ合い、地鳴りとなって低周波や高周波数(?)の “気持ち悪い音”が、きっと聞こえたに違いない。
「その下に妖怪の一反木綿が出没した」> (3/24)
これは、ひじょうに興味深い表現である。一反木綿(いったんもめん)とは、長さが約○○mの白い晒し木綿のことをいう。ヤクザの出入りで腹にサラシを巻いたり、妊婦さんが腹帯を巻くのは、実用面だけではなく何かに守られる意味合いをもつ(?)妊娠○ヶ月目だったかな。腹帯にする晒し木綿を持って神社にお参りし安産の祈願をする風習がありました。これも飛んだ話しで恐縮ですが、地質学的に岩石が高温に達し溶融しふたたび冷え固まるとき、中に含まれている白い石英分、等が分離しその境目や表面に集まることがある。それを祖先は<一反木綿>だと称している。筆者のいうことが正しければ、○○川沿いか街道筋かは分からないが、その白い“白色脈、石英脈”はきっとあるはず。その白色脈の生成年代がアイソトープ法でも何んでもいいから、4000年前のものだと専門家が云って下さるといいのだが^^!。これも余談になりますが、時代劇で亭主が七人の敵と戦うために外出するとき、そのおかみさんが 「おまいさん!無事で帰ってくるんだよ」 と云って内と外の境目である“戸口”で火打ち石(石英)の火花を散らすことがありました。
「ツバキによほど強い霊力があると思われたのであろう」> (3/25)
時に低周波や高周波は、人体に悪い影響をおよぼす。もし、その時赤いツバキが咲いたその場所に、この私くしがいれば、その恐ろしさは極限に達しトラウマとなって人格そのものが破壊されるかも知れない。前々の記事で、東北地方での遮光面土偶は、巨大隕石が衝突した時に発する閃光で目をやられたからだとし、<白髪山>の地名は、恐怖のために一夜にして「髪が白んだ」ことを伝えているとしておきました^^!。
時はうつり、この恐ろしさ人々は語り伝えた。 その言い伝えは 「言葉の違いであり、表現の違い」 だと現科学が、貴方が、気付いて下さるのは何時のことになるのでしょうか?
「それと共に八百比丘尼(びくに)がツバキを広めたという伝説が各地にある。‘人魚’の肉を食べ800年も生きた八百比丘尼が諸国をまわり、神木であるツバキによる占いをしたというのだ」>
(3/26)
八百比丘尼の話しは、不老不死の話として、先の「除福伝説」の記事で、Dr.いずも氏>がコメントされた。 この話しは“タブー”として立ち入りたくなかった。しかし、意識すればするほど追いかけてくる。その中で 「人魚の肉を食べ」というのがある。 素人探偵は、あらぬ話しでは無いと思った。何故なら、人類の歴史で戦果としての人食や、(余命の長い)稚児の人食があったという。日本においては、獣の肉を、馬はさくら肉、猪はボタンとか瓜坊、鶏はカシワ、鹿はモミジというように植物の名をつけて食していた。これは、その社会で許されざるものを食すとき、「これは獣ではなくて植物の肉だ!」とすることで、それ等の食を容認したと思われる。 では、八百比丘尼は“人魚”の肉を食べて長生きをしたのであろうか。答はノンである。人魚は今も昔もいない。だが、不老不死の妙薬を求めた除福隊のなかには、列島での稚児を神に差しだす雨乞い儀式に乗じて、人魚だと称し稚児の人食があったのではないか? そして、その不要物は“人魚として”海に流した。
今に残るお盆でのお舟流しやお雛流し。地名では宍道湖に<嫁ヶ島>の名があるのがその名残だとみている。八百比丘尼は、その事によって“霊力を得る”として人々の困り事に対応していた。ツバキ製の打ち出の小槌や杖をもって・・・。どうか、この謎解きが素人の妄想であって欲しいと願うばかりである。 このように考えれば、あれもか? これもか?という昔話が各地に残されているはずだ。それ等を止めさせ代用の人形に変えさせようとしたのが「卑弥呼」ではないでしょうか。
主題の<宮島>へつづきます(^^!)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<祖先からの伝言、宮島編> (3/27)
さて、それでは前述をふまえて、本題の「宮島」に移ることにしよう。 わたしは、前々から「なぜ宮島なのか? 広島圏をつくったエネルギーの中心は何んなのか?」が解らなくて、全国津々浦々の<地名>という祖先からの伝言を訪ねたとき、広島県は、それから外れていた。それが先のツバキの霊力を取り上げた毎日新聞の≪余録≫に触発されて収まっていた子供心が動き出した。四千年前の大事変の時、宮島の地に<何かの異変が?>あったから、信仰の対象として世界遺産までになったのだと! その何かを探ることにしよう。
<海中の大鳥居の不思議> (3/28)
宮島の特異性は海中の大鳥居にある。昨年、この大鳥居を訪ねたことは前述しました。その時、怪訝(けげん)というか、びっくりというか、意に反したことがある。神様がおわす地であるから白砂青松の海であろうと思いきや、砂州上を歩いてそこまで行けたのではあるが、辺りいちめん靴も汚れるようなきめの細かい黒い腐泥状の砂。もう一つは、当然コンクリート製であろうと思っていたところが、それは木製であったこと。この度ウエブで調べると幹回り10mほどの大クスノキで高さは約○○m。近年に下部だけ取り替えたようだ。さらに驚くべきはその工法。海底に埋められているのではなく、基礎に松丸太を寝かせて埋め込み、脚部を六本足にし、鳥居の上部を箱形にし拳大の小石をつめることにより、自重だけでその位置から流れることなく台風や地震にも耐えてきたというのだ。祖先の知恵に感嘆する。潮が増すと海中に浸るのではあろうが、何故にそこまでする“必然性”が生まれたのか?? わたしなら、もっと楽な所に建てますがねえ(^^!)
<大津波の襲来!> (3/30)
四千年前の(註1)巨大隕石<大槌>で発生した大津波は、三陸海岸の表土をかっさらって海岸線をリアス式形状にし、その土石を北上山地の姥石峠・640mを軽々と越えて、運び込み(註2)<胆沢扇状地>や<夏油←地名>をつくったほどの巨大津波だ。
この外洋津波が<宮島>に着くのは朝の8時半頃(?)。それよりおよそ2時間半前に地震波によって発生する津波が東からも宮島を襲っている。対岸の四国に<多度津>の地名があるように幾度も幾度も襲ってくる。外洋の津波は、豊後水道から入ってくる。この地の津波の特徴は、この二つの津波によって「津波の行き止まり」(別紙報告書、シベリアのピート等)をみせていることがある。津波の行き止まり傾向(現象)とは、浮く物や小さくて軽いモノほどその先端に運ばれて、勢いを失ったその湾奥や、波打ち際へ置いて帰ることをいう。さらに津波の持っている性質に、似たようなものを分別して運ぶ“特性(註3)”がある。これ等によって宮島周辺に微細な黒土が運ばれたのだ。大鳥居へ流れ出る白糸川は、その腐泥土を産してはいない。先の東北を襲った津波の先端は、まるで水神がその地の全てを喰らいつくす “黒い舌”のごとくに黒かった!
(註1)カテゴリー巨大隕石:BC2001年の巨大隕石! or アーカイブ:2000/00/00
(註2)カテゴリー巨大津波:川が無いのに(胆沢)扇状地 or アーカイブ:2008/10/01
(註3)電子版、報告書「巨大隕石と大津波」: 同似集合の原理 (筆者提唱)
水流(津波)が、物を運ぶ時、物質は非常に効率よく “似たものは似たもの同士”に分別される。
うん shigechanizumo | URL | 2011-03-30-Wed 09:00 [EDIT]
まさしく出雲の砂鉄選別の「比重選鉱」ですね。
<鉋流しと、たたら製鉄> 平 素人 | URL | 2011-03-31-Thu 04:07 [EDIT]
Dr.Izumo さん> コメントありがとう御座います♪
ご無沙汰をしております。日々の更新は続けているとはいえ手応えがなく惰性でながれております^^!。それもこれもmy文章が拙くて”面白味”がないからだと承知はしているのですが寂しいものがあり、他の方々へのご訪問も含めて、おろそかになっております。 どうぞお許しください。
いずも斐伊川の 「鉋(かんな)流し・たたら製鉄」は有名ですよね。わたしも列島製鉄の発祥は出雲にありと思っています。Dr>の影響ですが(笑)。それが流れて岡山県水系にも・・・、この玉鋼(たまはがね)でつくる日本刀は用途をこえた魅力があります。おりしも、子連れ狼・拝一刀>も帯びたという ‘どうだ貫・熊本’が岡山の美術館で展示されているそうです。
<宮島の鳥居の方向が指し示しているものは?> (4/01)
宮島は、広島湾の南西端に位置し本土から約300m余り離れている。ここへ渡るには○○から船にのって約○○分、1.8kmの航路を利用する。年間○○万人を運ぶ出航の間隔は、ほぼ○○分でたいして待たせはしない。帰り船との行き交う方向に島姿と赤い鳥居がみえてくる。その鳥居の正面から見える宮島の山形になにかの変異はないかと凝視してみるが確認はできない。この鳥居の方向性は、とても大事な要件で、『この鳥居を通して見える島の山並に異変があった』と、ご先祖さまが教えてくれていると思っているからだ。何んでもない方向に鳥居を建てたり向かせたりはしない。そして、その島に<宮の地名>を付したりはしないとも!
<宮島の自然と歴史> (4/02)
島の長さは、約10km余で、幅は約3.5kmのほぼ長方形。全島は花崗岩で、山は急峻し、ほぼ南北と東西の“断層がある”そうだ。島の主峰は<弥山・みせん>で535m。その頂部には巨石群がみられるという。島の南西端には次峰の?<岩船山>がある。この島の特徴は、瀬戸内海の多くの島々がミカン畑等により、その頂部まで開墾されたのに対し、宮島は古来より、入島・入山が制限され、信仰の対象として扱われ原生林も残っている。それが今では観光地化され、ロープウェーもあるようです^^。広島といえば「紅葉饅頭」がすぐ思い浮かびますが宮島の観光名所紅葉谷は、自生のものではなく移植されたものとのこと^^。
(4/04)
さて、それでは宮島の<地名>という祖先からのメッセージを聞きに参りましょうか^^!
興味の湧いたお方は、わたしより先にYahoo!地図や、国土地理院の電子版地図を閲覧されれば、この素人とは、また‘別の意’のメッセージが聞けるかも知れない。 もうすぐ、広島住で我が朋友<釣りじいさま>の命日“四月七日”がきます。あなた>の言葉が聞きたかった!!(合掌)
“巨大地震によって変形した宮島-”へ、つづきます^^♪
ただいま、準備・調査中です^^!
('14/5/05)“変形した宮島”の記事への拍手はどなた様が下さったのでしょうか^^?
この記事は、かなり散文的に書いてありますのでどの部分に拍手が頂けたのかが、
興味があります^^。
時は、BC2001年12月25日の朝方、‘三陸地方発’の、巨大地震と大津波が、この地に到達する。 クリックOK^^→ (別紙・電子出版; 極秘報告書「巨大隕石と大津波」)
【 お知らせ 】 「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」の方は、一時休止します^^!。
そちらの方は、カテゴリー「銅剣銅鐸探査のあれこれ!」のクリックをお願い致します。
すべての記事は、連続・関連モノです。引きつづきの駄文にお付きあい下されば幸いです。
記事は、不定期な日々の(追記)で更新しています。前回は(4/02)で、今回は(4/04)です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<この謎解き、そのまえに> (3/17)
毎日新聞 (余録) 2011・2・17 より引用します(以下)
「化け椿」という言い伝えが各地にのこっている。古いツバキの木が美女にばけたり、へらへらと笑い声をを出したり、その下に妖怪の一反木綿が出没したりするという。またツバキの根が光を放って、飛んだというわけの分からない話もある。狐狸(こり)ならぬ木が化けるというのは、ツバキによほど強い霊力があると思われたのであろう。それと共に八百比丘尼(びくに)がツバキを広めたという伝説が各地にある。人魚の肉を食べ800年も生きた八百比丘尼が諸国をまわり、神木であるツバキによる占いをしたというのだ。・・中略・・、ツバキの霊威が信じられた昔は、この木から魔よけのつえや槌が作られたという。・・ (以上)
<椿街道の不思議> (3/18)
わたし素人探偵は、今から四千年ほど前の大事変(前述)の謎解きで、「椿」に強い関心を持っていた。BC2001年の年末、天から下された<大槌=巨大隕石>によって東北の釜石付近をたたかれた日本列島は、各地にその“波紋”を地名として残しているはずだとして、それ等を探ったその一つに<愛発の椿街道>があった。この椿街道は、敦賀湾と北琵琶湖を結ぶ街道で、かつての愛発(あらち=荒地?)の関所があったところで、その昔、日本海沿岸と京の都を結ぶ交通の要所でもあった。筆者は、今その街道に椿の木があるやなしやも知らないし、その名の由来も知らないが、椿を『地名伝言』として遺すこと事態に強い疑問をもっていた。「何故にツバキが?」桜街道とはよく聞くが椿はあまり聞いたことがないからねえ(^^)
≪ 衝撃の痕跡 ≫ (2011 Mar. 19)
東北の釜石付近に因を発した巨大地震波は、中部地方を船体とした巨大な岩塊(ブロック)が船尾(註1)で大きく波打つ! その境目が、丹波高地との間にある“椿街道だ!” 琵琶湖は列島の地溝帯上にある。
(註1) 『巨大地震の船尾現象』とは、 筆者がかかげている現象で^^、日本列島の、高地や、山脈岩塊を巨大地震で流動化したマントルに浮いた巨大船に例え、巨大地震波が船首方向から船尾に向かうとき、後方へ押しつけられる圧で船首が上がり、船尾が大きくバウンドを繰り返えし、後方の岩塊との間で擦れ合い、それによって高熱を発したり溶融岩を噴出したりすること。
この度の東北関東大地震(3/11)で、みると日本列島という巨大タンカーが、太平洋プレートで押しつけられ横揺れを起こしているわけだから、その影響で日本海溝側のバウンドは勿論のことだが、これから先注意しなければならないのは、そのバウンドの境界線の西端にあたるフィリピン海溝北部では、太平洋側からの北圧の解放と両プレートの“擦れ合い”が起きている。これによって富士箱根での微振動や地磁気の異常はもとより、地温もその内あがってくる。(富士山麓でマントルまで?とどくボーリング計画があったが、地下温度を表層温の上昇から逆算できないか?) 今は東北方面の大惨事でそれどころではないが、専門家が富士箱根の火山活動の心配をしているのは、それ故だとみている。富士山が流動形となっているのは“北への接圧と、東西の擦れ”が合わさってより高温になるためかな? そして、フィリピンプレートの北端が細くなっているのは「連れ込み現象」かな^^?
震度5程度の余震が頻発しているのは“固いモノ同士”が擦れ合うからであり、その摩擦熱よってプレート端が溶融化すれば自ずと揺れは少なくなる。だがそのことはストレスが熱へ変換し、列島下部のマントルの流動化と?、その地下温が最高潮に達したことを意味する。上昇マグマは高温化したマントルから生まれる。余震が収まったからといって安心してはならない。念のために、その時間の流れは人間の感覚時間ではなく、地質時間だと申し上げておきます。
<祖先からの伝言(いいつたえ)> (3/20)
この考えを前提にもてば、先の毎日新聞の(余録)にあった「化け椿」の言い伝えの真相がみえてくる。むろん地質年代の前史をさかのぼれば前述の様な変異はいたる所に残っている。それ等ではなくて、筆者が強く言いたいのは、祖先がそれ等の大事変に遭遇し<地名や言い伝え>として残すことが出来るようになった“その昔である”ことに課題がある。
古老から聞いたことに、「椿は庭木に植えるものではない」と聞いたことがある。真っ赤な花の首がポロリと落ち縁起がわるいからだという。そのように聞けば神社や、お寺の多くに見かける椿ではあるが家庭ではあまり見かけない。では「なぜ神社や、お寺には植えてもいいの?」となり、こども心は不思議に思ったものでした。蛇足ながら、椿に白色花は遺伝的に出にくく、それが白花はもとよりピンクや斑入りまであるのは、後の品種改良の技術がすすんでからだと理解している。 ・・・先の「化けツバキ」の言い伝え、にもどります。
<言い伝えに秘められた真実> (3/21)
「古いツバキの木が美女にばけたり」>
椿は、歌謡曲に、「赤い椿がポロリと落ちてぇ~」とか、「あんこ椿は恋の花」とかがあり、若い娘さんに重ね合わせて歌われているようだが??
「 言い伝えや地名は、祖先からのメッセージであり表現の違いである。」 史実探偵: 平 素人
「ツバキの根が光を放って、飛んだというわけの分からない話」> (3/22)
筆者は、この「わけの分からない」に触発(^^)されて、この謎解きに挑んでいます。話を大きく変えて地震の話。 巨大地震が起こる前には何んらかの前症状がある。岩塊と岩塊。プレートとプレートが押し合いへし合いする時。その境界では巨大な圧力が働き分子・原子?までもが破壊されて微小の電子類が地表に放たれていると考えられる。今の観測器や方法ではそれをとらえることが出来ていないだけであり、それ等の微粒子が地震雲として目視できるのは太陽光の弱い時であったり、横方向からの厚みを通して見える条件に居る時であると考えている。この考えをもってすれば先の「ツバキの根が光を放って」の謎解きは難しいものではない。その谷間(たにあい)には、ツバキが自生し、真っ赤に咲いていた。その日の朝方、巨大地震によって擦れ合った岩塊は、火打ち石のごとくに火照りや微光を放ち、ツバキの木は表土とともに根こそぎ吹っ飛ぶほどに揺れたと云っているのではないだろうか。 簡単な実験では洗面器に水をはり縁をつよくたたけば、水滴が飛び上がります。 おっと! “現科学は^^”、身体を1mも、それ以上も放り上げられるような巨大な地震を経験していなかった(笑)。
「へらへらと笑い声をを出したり」> (3/23)
地震の伝わり方には、スピードの速いP波と、すこし遅れて進むS波があり、そのスピードは、おしなべて1000kmを3分半ほどで進む。 「へらへら^^」かどうかは分からないが、岩塊と岩塊とが擦れ合い、地鳴りとなって低周波や高周波数(?)の “気持ち悪い音”が、きっと聞こえたに違いない。
「その下に妖怪の一反木綿が出没した」> (3/24)
これは、ひじょうに興味深い表現である。一反木綿(いったんもめん)とは、長さが約○○mの白い晒し木綿のことをいう。ヤクザの出入りで腹にサラシを巻いたり、妊婦さんが腹帯を巻くのは、実用面だけではなく何かに守られる意味合いをもつ(?)妊娠○ヶ月目だったかな。腹帯にする晒し木綿を持って神社にお参りし安産の祈願をする風習がありました。これも飛んだ話しで恐縮ですが、地質学的に岩石が高温に達し溶融しふたたび冷え固まるとき、中に含まれている白い石英分、等が分離しその境目や表面に集まることがある。それを祖先は<一反木綿>だと称している。筆者のいうことが正しければ、○○川沿いか街道筋かは分からないが、その白い“白色脈、石英脈”はきっとあるはず。その白色脈の生成年代がアイソトープ法でも何んでもいいから、4000年前のものだと専門家が云って下さるといいのだが^^!。これも余談になりますが、時代劇で亭主が七人の敵と戦うために外出するとき、そのおかみさんが 「おまいさん!無事で帰ってくるんだよ」 と云って内と外の境目である“戸口”で火打ち石(石英)の火花を散らすことがありました。
「ツバキによほど強い霊力があると思われたのであろう」> (3/25)
時に低周波や高周波は、人体に悪い影響をおよぼす。もし、その時赤いツバキが咲いたその場所に、この私くしがいれば、その恐ろしさは極限に達しトラウマとなって人格そのものが破壊されるかも知れない。前々の記事で、東北地方での遮光面土偶は、巨大隕石が衝突した時に発する閃光で目をやられたからだとし、<白髪山>の地名は、恐怖のために一夜にして「髪が白んだ」ことを伝えているとしておきました^^!。
時はうつり、この恐ろしさ人々は語り伝えた。 その言い伝えは 「言葉の違いであり、表現の違い」 だと現科学が、貴方が、気付いて下さるのは何時のことになるのでしょうか?
「それと共に八百比丘尼(びくに)がツバキを広めたという伝説が各地にある。‘人魚’の肉を食べ800年も生きた八百比丘尼が諸国をまわり、神木であるツバキによる占いをしたというのだ」>
(3/26)
八百比丘尼の話しは、不老不死の話として、先の「除福伝説」の記事で、Dr.いずも氏>がコメントされた。 この話しは“タブー”として立ち入りたくなかった。しかし、意識すればするほど追いかけてくる。その中で 「人魚の肉を食べ」というのがある。 素人探偵は、あらぬ話しでは無いと思った。何故なら、人類の歴史で戦果としての人食や、(余命の長い)稚児の人食があったという。日本においては、獣の肉を、馬はさくら肉、猪はボタンとか瓜坊、鶏はカシワ、鹿はモミジというように植物の名をつけて食していた。これは、その社会で許されざるものを食すとき、「これは獣ではなくて植物の肉だ!」とすることで、それ等の食を容認したと思われる。 では、八百比丘尼は“人魚”の肉を食べて長生きをしたのであろうか。答はノンである。人魚は今も昔もいない。だが、不老不死の妙薬を求めた除福隊のなかには、列島での稚児を神に差しだす雨乞い儀式に乗じて、人魚だと称し稚児の人食があったのではないか? そして、その不要物は“人魚として”海に流した。
今に残るお盆でのお舟流しやお雛流し。地名では宍道湖に<嫁ヶ島>の名があるのがその名残だとみている。八百比丘尼は、その事によって“霊力を得る”として人々の困り事に対応していた。ツバキ製の打ち出の小槌や杖をもって・・・。どうか、この謎解きが素人の妄想であって欲しいと願うばかりである。 このように考えれば、あれもか? これもか?という昔話が各地に残されているはずだ。それ等を止めさせ代用の人形に変えさせようとしたのが「卑弥呼」ではないでしょうか。
主題の<宮島>へつづきます(^^!)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<祖先からの伝言、宮島編> (3/27)
さて、それでは前述をふまえて、本題の「宮島」に移ることにしよう。 わたしは、前々から「なぜ宮島なのか? 広島圏をつくったエネルギーの中心は何んなのか?」が解らなくて、全国津々浦々の<地名>という祖先からの伝言を訪ねたとき、広島県は、それから外れていた。それが先のツバキの霊力を取り上げた毎日新聞の≪余録≫に触発されて収まっていた子供心が動き出した。四千年前の大事変の時、宮島の地に<何かの異変が?>あったから、信仰の対象として世界遺産までになったのだと! その何かを探ることにしよう。
<海中の大鳥居の不思議> (3/28)
宮島の特異性は海中の大鳥居にある。昨年、この大鳥居を訪ねたことは前述しました。その時、怪訝(けげん)というか、びっくりというか、意に反したことがある。神様がおわす地であるから白砂青松の海であろうと思いきや、砂州上を歩いてそこまで行けたのではあるが、辺りいちめん靴も汚れるようなきめの細かい黒い腐泥状の砂。もう一つは、当然コンクリート製であろうと思っていたところが、それは木製であったこと。この度ウエブで調べると幹回り10mほどの大クスノキで高さは約○○m。近年に下部だけ取り替えたようだ。さらに驚くべきはその工法。海底に埋められているのではなく、基礎に松丸太を寝かせて埋め込み、脚部を六本足にし、鳥居の上部を箱形にし拳大の小石をつめることにより、自重だけでその位置から流れることなく台風や地震にも耐えてきたというのだ。祖先の知恵に感嘆する。潮が増すと海中に浸るのではあろうが、何故にそこまでする“必然性”が生まれたのか?? わたしなら、もっと楽な所に建てますがねえ(^^!)
<大津波の襲来!> (3/30)
四千年前の(註1)巨大隕石<大槌>で発生した大津波は、三陸海岸の表土をかっさらって海岸線をリアス式形状にし、その土石を北上山地の姥石峠・640mを軽々と越えて、運び込み(註2)<胆沢扇状地>や<夏油←地名>をつくったほどの巨大津波だ。
この外洋津波が<宮島>に着くのは朝の8時半頃(?)。それよりおよそ2時間半前に地震波によって発生する津波が東からも宮島を襲っている。対岸の四国に<多度津>の地名があるように幾度も幾度も襲ってくる。外洋の津波は、豊後水道から入ってくる。この地の津波の特徴は、この二つの津波によって「津波の行き止まり」(別紙報告書、シベリアのピート等)をみせていることがある。津波の行き止まり傾向(現象)とは、浮く物や小さくて軽いモノほどその先端に運ばれて、勢いを失ったその湾奥や、波打ち際へ置いて帰ることをいう。さらに津波の持っている性質に、似たようなものを分別して運ぶ“特性(註3)”がある。これ等によって宮島周辺に微細な黒土が運ばれたのだ。大鳥居へ流れ出る白糸川は、その腐泥土を産してはいない。先の東北を襲った津波の先端は、まるで水神がその地の全てを喰らいつくす “黒い舌”のごとくに黒かった!
(註1)カテゴリー巨大隕石:BC2001年の巨大隕石! or アーカイブ:2000/00/00
(註2)カテゴリー巨大津波:川が無いのに(胆沢)扇状地 or アーカイブ:2008/10/01
(註3)電子版、報告書「巨大隕石と大津波」: 同似集合の原理 (筆者提唱)
水流(津波)が、物を運ぶ時、物質は非常に効率よく “似たものは似たもの同士”に分別される。
うん shigechanizumo | URL | 2011-03-30-Wed 09:00 [EDIT]
まさしく出雲の砂鉄選別の「比重選鉱」ですね。
<鉋流しと、たたら製鉄> 平 素人 | URL | 2011-03-31-Thu 04:07 [EDIT]
Dr.Izumo さん> コメントありがとう御座います♪
ご無沙汰をしております。日々の更新は続けているとはいえ手応えがなく惰性でながれております^^!。それもこれもmy文章が拙くて”面白味”がないからだと承知はしているのですが寂しいものがあり、他の方々へのご訪問も含めて、おろそかになっております。 どうぞお許しください。
いずも斐伊川の 「鉋(かんな)流し・たたら製鉄」は有名ですよね。わたしも列島製鉄の発祥は出雲にありと思っています。Dr>の影響ですが(笑)。それが流れて岡山県水系にも・・・、この玉鋼(たまはがね)でつくる日本刀は用途をこえた魅力があります。おりしも、子連れ狼・拝一刀>も帯びたという ‘どうだ貫・熊本’が岡山の美術館で展示されているそうです。
<宮島の鳥居の方向が指し示しているものは?> (4/01)
宮島は、広島湾の南西端に位置し本土から約300m余り離れている。ここへ渡るには○○から船にのって約○○分、1.8kmの航路を利用する。年間○○万人を運ぶ出航の間隔は、ほぼ○○分でたいして待たせはしない。帰り船との行き交う方向に島姿と赤い鳥居がみえてくる。その鳥居の正面から見える宮島の山形になにかの変異はないかと凝視してみるが確認はできない。この鳥居の方向性は、とても大事な要件で、『この鳥居を通して見える島の山並に異変があった』と、ご先祖さまが教えてくれていると思っているからだ。何んでもない方向に鳥居を建てたり向かせたりはしない。そして、その島に<宮の地名>を付したりはしないとも!
<宮島の自然と歴史> (4/02)
島の長さは、約10km余で、幅は約3.5kmのほぼ長方形。全島は花崗岩で、山は急峻し、ほぼ南北と東西の“断層がある”そうだ。島の主峰は<弥山・みせん>で535m。その頂部には巨石群がみられるという。島の南西端には次峰の?<岩船山>がある。この島の特徴は、瀬戸内海の多くの島々がミカン畑等により、その頂部まで開墾されたのに対し、宮島は古来より、入島・入山が制限され、信仰の対象として扱われ原生林も残っている。それが今では観光地化され、ロープウェーもあるようです^^。広島といえば「紅葉饅頭」がすぐ思い浮かびますが宮島の観光名所紅葉谷は、自生のものではなく移植されたものとのこと^^。
(4/04)
さて、それでは宮島の<地名>という祖先からのメッセージを聞きに参りましょうか^^!
興味の湧いたお方は、わたしより先にYahoo!地図や、国土地理院の電子版地図を閲覧されれば、この素人とは、また‘別の意’のメッセージが聞けるかも知れない。 もうすぐ、広島住で我が朋友<釣りじいさま>の命日“四月七日”がきます。あなた>の言葉が聞きたかった!!(合掌)
“巨大地震によって変形した宮島-”へ、つづきます^^♪
ただいま、準備・調査中です^^!
('14/5/05)“変形した宮島”の記事への拍手はどなた様が下さったのでしょうか^^?
この記事は、かなり散文的に書いてありますのでどの部分に拍手が頂けたのかが、
興味があります^^。
【 お知らせ 】
すべての記事は連続・関連モノです。引きつづきの駄文にお付きあい下されば幸いです。
記事は、不定期な日々の追記で更新しています。前回は(4/27)で、今回は(4/29)です。
最近、<動画ブログ>お三方のご訪問を受けます。ありがとう御座います^^♪。しかしながら、当方は動画が見れる環境になく、返礼のご訪問をするとエラーを生じ、シャットダウンを余儀なくされてますので、よろしく御了承下さい。 決して “無視”を決めこんているわけでは御座いませんので・・・(^-^!)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<宮島の地の大事変!、続き>
時は、BC2001年12月25日の朝方、‘三陸地方発’の、巨大地震と大津波が、広島の地に到達する。 クリックOK^^→ (別紙・電子出版; 極秘報告書「巨大隕石と大津波」)
「地名という祖先からの伝言」
地名はその地に何があったかをいう ‘人文史’ であり祖先からのメッセージである!
史実探偵: 平 素人
<広島に達した大津波を地名より推しはかる> (4/08)
只今(4/8~)、 広島に達した大津波の増位分を問うために広島市周辺の<地名=伝言>を探索します。記事のUPを少々お待ち下さい。今までの拙記事にお付きあいして下さった方なら、その捜索方法は簡単ですよね(笑)。ご一緒にどうぞ! 初めてのお方でも簡単ですよ! 「津波に関係する地名を拾い(?)集めればいい!」 只ただ、煩雑な時間を要しますが・・^-^?
・・ と、思いましたが、今回は少し趣向をかえて、素人がどのような手法で謎解きを進めているのかの‘手の内’を見て頂きたいのと、皆様に共に考えて頂きたい思いから、ぶっつけ本番で謎解きを進めていくことにします。 したがって、(いままでも^^!)史学や語学に外れているのは勿論のこと、拙速になると思いますので、大事な<地名>が抜けていたり、読み違いがあったり、まったくの見当はずれや、無知やら、無関係、再編集等があるとは思いますが、どうぞよろしくお願い致します。
<津波の行き止まり現象の広島湾!> (4/11)
東北発、朝6時の巨大地震波は約4秒で宮島にとどき、広島湾東端<海田>付近の海水は大津波となって、本土と宮島間の<大野瀬戸>に流れ込む。やがて、大阪湾発の津波も波状攻撃でやってくる。さらに、8時30分頃(?)、外洋の津波も鳴門海峡を経由し、合流しながらやってくる。少し遅れて豊後水道から内海に入り込んだ外洋津波は、広島湾方面へ東進する。この三つの津波は合算され “流れの勢い”は、失うが宮島辺りの水位はどんどんと上昇してくる。それを祖先はどのような言葉で遺しているのであろうか。
さっそく、廿日市市(宮島)周辺を Yahoo!地図で、以下を拾ってみました。
(Yahoo!を利用するのはズームのアップダウンと、スクロールが簡単なことから^^)
川津原、 物見東、 前空、 大野浦、 林ヶ原、 下の浜、 早時、 熊の浦、 深江、
物見西、 大野、 対厳山(63m) 大野中央、 更地分れ、 地蔵ヶ鼻、 廿日市、 ・・・、
川津原> (4/12)
先ずは、津>の付く地名から。全国津々浦々の<津>の地名は、‘除福’来訪以後のその昔に、現・摂津市で「摂津ラウンド=円卓会議」がおこなわれ、その大事変を<津>と呼ぶようにしようとの合議がなされたと前々の記事で述べました。『とど(戸々)のツ(津)まり、それにしよう!』とでも決まったのかな(笑)?
物見東、物見西>
東北地方に<物見山>という地名がありました。私達が何かを見て、それを<地名>として定着させるには、よほどのものを見ない限り地名としては定着しない。さらに、東と西が狭い地域で二カ所に付いているのはその“何か?”が動きを持っていることを暗示している。その“何か?”が動かない事象であれば、その一カ所だけに<物見台>とでも名付けておけばよく、西や東の二カ所に分ける必然性は生まれない。渥美半島だったかな?<片神戸>の地名がありました。これも同様な名付け方だと思っています。その“何か”が津波であるとすれば、その時の津波の高さは、この<物見>の位置より低くなる。蛇足ながら渥美半島ではその津波を<竜洋>の地名で表現しています。
林ヶ原> (4/13)
これは、四国の徳島の<地名>を聞いたときに?述解しましたが、<林>という何処にでもあるような事が地名として定着することに疑問を持ったことがあります。 それと歌舞伎興行の始まりを何故、徳島でうつのかの二つを合わせて、「はやし立てる」。 つまり、ゴウゴウと鳴りゆく鳴門海峡の津波にびっくりして、その異様な(かぶく)さまを見て「騒ぎ立てた」のではないかとしました。これは後の阿波踊りに進化し、両手をあげて踊るさまはその津波に見えるともしました^^。
大野浦、大野、大野中央> (4/14)
このように、地名が重複するとき、<大野中央>が「その昔」の生活の拠点だとうかがい知れる。筆者がいう「その昔」とは、今から約4000年前のBC2001年12月25日の朝6時頃を起点とした前後である。従って<下の浜>とは、その大野より下方(?)に位置し、わざわそこに<下>の名をつけるには、そこで海産物を得ていたか、舟の発着地としていたかの特別性がたかくなる。又、廿日市(市)の名が何時に定着したのかは分からないが物々交換の時代に“二十日間”の間隔は長いように思える。その多くは“三日市、・・、八日市”の地名で残っている。その間隔が短いほど消費が早い食品や日用雑貨の交換が主体であったように推察できるから、ここでの交換の主体は “衣とか、道具”に関係したものであろうか。それとも他のモノか? アフリカ等でみるように、その間隔が半年とか、一年になると、より遠くから集まり、その地域の中央的性格が増してくる。狭い地域で自給自足が事足りる列島の地勢での二十日間は、他の<市>に比べて長いから、この<廿日市市>の歴史は要注意だ。もっと広い範囲の地名や、先達にそれを聞きたい。
熊の浦> (4/15)
これが解らない(^^!)。中国山地にツキノワグマが生息していた(いる)のは知られているが、
<熊>に、<浦>の字がくっつくのが分からない。ふつうに熊は山間部に棲み<熊山>とか<熊沢>とかの地名は、よく聞くが、熊が海岸部の<浦>にいるとは聞いたことがない。 ・・・、
それとも熊の形に似ている岩があるのか?? どなた様か、ご教示を・・・!!
深江> (4/16)
これも解らない。<江>が付くと人為的に水に関係する事業がなされたものと認識している。それに<深い>がつくと大工事という意味にもなる。縄文石器の時代に、その時ある河川や港湾の水深を増す術は持ち合わせていないし、その必要もない。話しは変わりますが、原爆ドームを訪れたとき、脇の旧太田川(?)の河床が妙に深いのが気になっていた。そして流れている水も清流とは言い難い。花崗岩質の中国山地から流れ出る河川の多くは、時に濁流を運ぶが基本的には清流で川底は浅くなってくる。今回(3/11)の東日本大震災でも見受けられように、上陸した大津波が海へともどる時、河床をえぐり取って帰ることがある。(祖先はこれを<垂水>と名付けていますが^^)その結果、川底は深くなる。本土と宮島の間でも津波という急流が流れれば、その中央の海底はえぐり取られ深みをます。いずれにしても、この<深江>には多くの謎を含んでいて今後の課題となります。
前空> (4/17)
何んと読むのか、又その意味も分からないが、変わった地名だ。こんな地名に出くわしたことがない。北海道に<空知>という地名があったが、それはアイヌの言葉を和語に変換した地名だ。全天何処へ行こうと帰ろうと、お天道様はついてまわる。それには前も後ろもなく、この私くしが向いたほうが前の空になる^^。しかしながら、この地の人達は、そこを指して<前空>と名付けた。その前の空の方角が<宮島>の方なら宮島の山上に何かの異変を見たことになる。
対厳山(63m)> (4/18)
これも何んと読むのか知らない^^!。 この山の名付けは<宮島=厳島>に、対して付けられた地名だ。厳島を指し示す位置と、形状をしている。岡山県の倉敷市<由加山>と、海を隔てた讃岐の<こんぴらさん>は、対になっていて、その一方だけにお参りするのは片手おちだと、聞いたことがあるから、この<対厳山>も同様なことがあるのかも知れない。今は山上の一部を削って団地化されているようだが、そのような ‘いわれ’のあるお宮さんがそこに有るのか無いのか??
前述の<前空>と、この<対厳>を合わせて考えると、海を隔てた<宮島>の山上に、地名に付けて残すほどの “厳(いつく)しい事=大事変”があったと語っているような気がしてならない。
早時> (4/19)
これは変わった名付けだ。普通に思えば時間という時の流れを地名とする“根拠”が考えられないが、筆者のいう初頭の大事変を思えば、この変わった地名も納得できる。東北発の巨大地震が朝の6時にこの地にとどく。12月の25日の朝6時といえば辺りは真っ暗で、まだ寝ていた時間。それに加えて8時半頃をピークにした大津波も襲来する! 寝ているどころの騒ぎではない。巨大隕石から発生する表層地震波は、深層から発生する地震の比ではなく、今のマグニチュードの数字では表せないほどの巨大地震だ!! 身体は宙に浮き、足元は揺らぎ立っていることも出来ない。<早時>とは、日の出前の暗い時から8時、9時までの早い時を言っている? この大津波の襲来をいう地名が他にもある。兵庫県に<朝来町> 岡山県の<朝寝鼻貝塚>だ。このような、その“大事変の朝”をいう四つ目の地名が、貴方の近くにも潜んでいるかも知れない^^。
もし、これ等の<朝の時間をいう地名>を貴方と私の会話で使っても<その場所>が分からない。日本全国どこへ行っても、朝の6時は朝の6時だからだ! その特定した場所を 『早時』と
名付けても、それが相手に伝わるような ≪何かの≫共通した認識がその場所になければならない。 ・・つづきます^^!
更地分れ> (4/20)
これほど、具体的な言葉で、その時の津波の大きさを残して(記録して)おいてくれると有りがたい。今回(3/11)の東日本大津波で経験したように、津波の力はその表土のすべてを剥ぎとって<更地・さらち>にしてしまう。東海大の調査では、その津波は最大38.9mの高さまで達したという。<更地分かれ>とは、その津波が更地にした所と、しなかった所の分かれ目を云っているのではないのか。同様な地名付けで、鳥取県に<境> 岡山県に<境目> 三重県に<浜垣戸>があった。その他<神戸>ように内と外の境目である<戸>の付いた地名は、数え切れないと謎解きしました^^。
<津波の止まり際> (4/21)
今回(3/11)の東日本大震災では、不明者を合わせると2万人以上の人が亡くなりました。
この自然の脅威を後世に伝えるために、東海大の調べた津波の最も高いと(?)された場所に、鎮魂碑を記しておきたいものです(深礼合掌)。
『 連日のTV津波報道のなかで、一つの疑問がありました。前述したように津波には、筆者提唱の似たようなものを集めようとする「同似集合作用」があります。その中で祖先が<福の字>を付けたり、津市の<嬉野>だと地名に残しているのに、その大量の海産物(主に魚)の打ち上げ映像を見たことがありません。陸前高田市の市職員の方の話だったでしょうか? 3(4?)階建ての屋上で金網につかまりながら、「水没した目の前を大量の魚が通りすぎて行くのを見た」 と云われていました。大多数の魚は引き波にのって海に帰りますが、陸地奥深く入った窪地等には残されることがあります。一度だけ陸内でカモメの群れる映像を見ました。そのなかに、もしも人が居たらとおもうと・・・、百体・二百体と、まとまって海岸に打ち上げられることもありました。日々遺体の捜索にあたっている自衛隊・消防隊・その他の方々は、筆舌や映像にも残せないほどの惨状を目にしているはずです。それを単なる、ご苦労様とか謝辞のことばで発することができず、唯々、心に手を合わせて頭を垂れるのみです。』
地蔵ヶ鼻> (4/22)
宮島へ渡る3本の船着き場のそばに<地蔵ヶ鼻>はある。このお地蔵さんは、その時被災した子供達を弔うものでしょうか? それとも、後々にその大事変を起こした荒神に、「その怒り、鎮(しず)めたまえ」 として幼子を捧げるためのものであるかは定かではない。・・・、(合掌)
まだまだ広い範囲で、多くの<地名>を聞かないと、その大事変の歴史は浮かび上がってきませんが、今回はこれで筆を止めておくことに致しましょう。
<宮島の地にとどいた津波の大きさを探る> (4/23)
さて、それではその時の津波の大きさを具体的な数字(標高)で調べるとしましょうか。
それを調べるのは国土地理院の地図がいい。当時の住地の中心を<大野中央>として、そこから国道2号線沿いに東へ進む。
大野中央(2.9m、3.5m)。 下の浜(40m)上の浜(30m)。ん?、下の浜>は住地より下方かと思ったが上だった(^^!) 異変を見たとした物見西は、高い所で(60m、70m)、物見東団地は(25m)。この辺りの一般的にいえることだが山や丘の頂部を削り、それを均して100軒200軒の巨大団地を形成しているようだから元々の高さは分からない。前の空団地(35m)は、その北の低い所に位置する土井(15m)辺りから南の前の空を眺めれば20mの差であるが、前の空団地は500軒(?)を越えるような巨大団地であるから相当の土量をけずりとって低くしてあるように思える。山陽本線・前空駅あたりは(4.3m)。 つづきます・・
(4/24)
次に、早時鼻の標高は(31.6mm)。だが周りは全て削られているようだ? ちゅーピーパークという新しい地名も見える。深江(10m)。対厳山(63m)。対厳山団地(44m)。宮島口駅の近くの国道2号線(2.9m)。地蔵ヶ鼻(3.5m)。更に国道2号線を東へ。宮島口団地( m)。阿品(四)団地(45m)阿品台団地( m)。阿品>とは変わった地名だ。阿>は、あいうえおの一番始め(?)と述解したから、この台地で“初もの”をお供えしたのかも知れない? この台地を越えて→地御前>へ。これも何んと読むのか分からないが(おんざき?)と読むことがあった。阿>と、御前さま?>の二つの地名は、この場所で<宮島>に向かって何かを乞う儀式があったと推察できる。串戸( m)。下平良(3m)。平良山手。廿日市駅。天神あたりが(20m~30m?)。桜本町、桜尾>。と気になる地名が並んでいるが。 ・・・ん???、
<更地分かれ>の地名がない!! あれは交差点の名前だったのか? 交差点の名前としても小字の地名であろうに? やり過ごしたのか?? この先に<草津>の地名も見えるが?、もう一度、大野へ引き返してみよう。大野中央から西へ行くと、玖波(くば)>とか津田>の地名もあるが今回は、そこまで範囲を広げたくない。
<草津について> (4/25)
草津>の地名で真っ先に思い出すのは、滋賀県の草津。ここは東北発の内陸地震によって矢印形の琵琶湖で集められた大津波が、表土をけずり大草を打ち上げた所だとしました。その他にも、静岡県・舘山寺の近くに大草>。名古屋の千種区>等も同様な地名があります。このように小字まで調べればキリがないのでしょうが、これ等をひっくるめて、古代日本のことを『瑞穂の国』と呼ぶことがあります。この瑞穂の<瑞>は、津波のことを言っていると謎解きしましたが、他にもう一つの意が隠されています。その大事変を12月の25日としましたから、今の列島の季節でいえば“冬”であり、多くの草は枯れて無かったはずなのに『穂』という“実りの秋”を表す地名が付いている?? さらに、滋賀県だったかな?<秋津>の地名がありました。この違いに、さんざん悩んだあげく、BC2001年12月25日の大事変前の地球の平均気温は、今現在より15℃~17℃高く、秋のような気候であり、海水位でいえば今より5m~6m高かったのではないかとの結論に至りました。(別紙報告書で^^) 例外的に、兵庫県の瑞穂>。岡山県の津山>等のように、とうてい津波とは無関係のような内陸部に入ったところにある地名は、稲作や人口の増加とともに人々の信仰の対象が上流の<雨落つる源流>へと移っていったのではないかとしました。
更地・さらち> (4/26)
地図上で、更地分れ>は見当たらなかったが、対厳山>の北側の谷間で、高さ50mほどの所に、更地>の地名がある。その標高は50m。当時の海水位は、現在のそれより約6m高かったとしたから、50mマイナス6mで、この津波が登った先端の最高位置は【44m】の答が出てきた。
すぐそばに、高見>28mと、別府>18mの地名が遺されている。「高見の見物」という言葉があるからその時の平均的な津波の水位は28mから、6mを引いた【22m】ほどかなと推察します。
津波の高さをいう時。狭い地域においても、海からどの程度離れているかは大きな問題ではなく、次のような要件で大きく変わる。遮蔽物や、松林等の抵抗物のあるなし、広い河口のあるなし、津波の進行方向にたいして受けV字の地形の角度とその向き。そして陸地においても遠浅状になっていれは、驚くほど内陸部まで進んでいく。「津波(竜)、川を昇る」というのは、川底が遠浅状になっているためであり、今回の東北の大津波でも<女川>でそれを経験している。
津波は、水を媒体とした力の移行であり、通常の波がおおむね同位置で上下するのに対し、津波は前に前にと進む「押波」の表現のほうがあたっている。一般に「津波の高さ」と同じ言葉でいうが、その「場所別の水深の高さ」と、登って行った「先端部分の標高・高さ」での水深は大きく異なる。標高の高さと、水深の高さを混同してはならない。何か区別できる良い表現方法はないものでしょうか(^-^!)。
福面・約50m> (4/27)
この谷間(たにあい)の奥まったところに、この地名はある。福>の付く地名の全てが、四千年前に打ち上げられた魚達があったところだとは言わないが、福とか富>の付く地名は要注意である。結果的にこの魚達は腐泥となり、後に草木の栄養分となるからだ。新潟県・魚沼>産の“こしひかり”おいしいですよね(笑)。 字学素人ながら、「屋根をふく」という言葉がありますから、<福面>とは、「その一面が魚群で覆われた」と云っているのではないでしょうかぁ?
(この話しに関連して)
北極のツンドラ地方には6500万年前の南極から発した大津波によって打ちよせられた膨大な量の草木や魚群があり、それが今の石炭や石油になったと別紙・電子版極秘報告書「巨大隕石と大津波」で述べています。親潮は北極海からの“栄養分”を運んでいるといいますが、素人の言う異変がないかぎり、空気も凍り付くような極地で、その“栄養分”の元となるような動植物が“大量に発生”したとはどうしても思えないのですが・・・、この話しは、ここで止めておきましょう。あまり大口をたたくと、今の科学はおろか貴方さま>までが離れてゆくから・・^^!
別府> (4/29)
別府とは本府に対しての別府であり、海水が入り更地化した陸地においては、その地形や、その後の雨の過多にもよるが当分(1~2年?)の間は、塩分や表土をさらわれたことにより雑草までもが生えにくくなる。大野あたりに住んでいた縄文石器のご先祖達は、水を被らなかった廿日市駅あたりに本拠を移してして生活を始めた? ・・のかどうかを聞くのはこの谷間(たにあい)に残る寺社さま>や、廿日市駅周辺に多く在す寺社さま>に、そのいわれを聞くのが賢明と思いますが・・・(^-^)?。
津波の恐ろしさは、その表土の植生をかっさらい、しばらくの間は、不毛の地と化し、移住を余儀なくされ、その<地名>までもを押し流してしまう。東日本大震災においても、復興再建とはいえ慣れ親しんだ<小字名>のすべて更地化されることになるのであろうが、・・・寂しいかぎりである。
<宮島の地名にその大事変を聞く>に、つづきます(^-^)♪。
すべての記事は連続・関連モノです。引きつづきの駄文にお付きあい下されば幸いです。
記事は、不定期な日々の追記で更新しています。前回は(4/27)で、今回は(4/29)です。
最近、<動画ブログ>お三方のご訪問を受けます。ありがとう御座います^^♪。しかしながら、当方は動画が見れる環境になく、返礼のご訪問をするとエラーを生じ、シャットダウンを余儀なくされてますので、よろしく御了承下さい。 決して “無視”を決めこんているわけでは御座いませんので・・・(^-^!)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<宮島の地の大事変!、続き>
時は、BC2001年12月25日の朝方、‘三陸地方発’の、巨大地震と大津波が、広島の地に到達する。 クリックOK^^→ (別紙・電子出版; 極秘報告書「巨大隕石と大津波」)
「地名という祖先からの伝言」
地名はその地に何があったかをいう ‘人文史’ であり祖先からのメッセージである!
史実探偵: 平 素人
<広島に達した大津波を地名より推しはかる> (4/08)
只今(4/8~)、 広島に達した大津波の増位分を問うために広島市周辺の<地名=伝言>を探索します。記事のUPを少々お待ち下さい。今までの拙記事にお付きあいして下さった方なら、その捜索方法は簡単ですよね(笑)。ご一緒にどうぞ! 初めてのお方でも簡単ですよ! 「津波に関係する地名を拾い(?)集めればいい!」 只ただ、煩雑な時間を要しますが・・^-^?
・・ と、思いましたが、今回は少し趣向をかえて、素人がどのような手法で謎解きを進めているのかの‘手の内’を見て頂きたいのと、皆様に共に考えて頂きたい思いから、ぶっつけ本番で謎解きを進めていくことにします。 したがって、(いままでも^^!)史学や語学に外れているのは勿論のこと、拙速になると思いますので、大事な<地名>が抜けていたり、読み違いがあったり、まったくの見当はずれや、無知やら、無関係、再編集等があるとは思いますが、どうぞよろしくお願い致します。
<津波の行き止まり現象の広島湾!> (4/11)
東北発、朝6時の巨大地震波は約4秒で宮島にとどき、広島湾東端<海田>付近の海水は大津波となって、本土と宮島間の<大野瀬戸>に流れ込む。やがて、大阪湾発の津波も波状攻撃でやってくる。さらに、8時30分頃(?)、外洋の津波も鳴門海峡を経由し、合流しながらやってくる。少し遅れて豊後水道から内海に入り込んだ外洋津波は、広島湾方面へ東進する。この三つの津波は合算され “流れの勢い”は、失うが宮島辺りの水位はどんどんと上昇してくる。それを祖先はどのような言葉で遺しているのであろうか。
さっそく、廿日市市(宮島)周辺を Yahoo!地図で、以下を拾ってみました。
(Yahoo!を利用するのはズームのアップダウンと、スクロールが簡単なことから^^)
川津原、 物見東、 前空、 大野浦、 林ヶ原、 下の浜、 早時、 熊の浦、 深江、
物見西、 大野、 対厳山(63m) 大野中央、 更地分れ、 地蔵ヶ鼻、 廿日市、 ・・・、
川津原> (4/12)
先ずは、津>の付く地名から。全国津々浦々の<津>の地名は、‘除福’来訪以後のその昔に、現・摂津市で「摂津ラウンド=円卓会議」がおこなわれ、その大事変を<津>と呼ぶようにしようとの合議がなされたと前々の記事で述べました。『とど(戸々)のツ(津)まり、それにしよう!』とでも決まったのかな(笑)?
物見東、物見西>
東北地方に<物見山>という地名がありました。私達が何かを見て、それを<地名>として定着させるには、よほどのものを見ない限り地名としては定着しない。さらに、東と西が狭い地域で二カ所に付いているのはその“何か?”が動きを持っていることを暗示している。その“何か?”が動かない事象であれば、その一カ所だけに<物見台>とでも名付けておけばよく、西や東の二カ所に分ける必然性は生まれない。渥美半島だったかな?<片神戸>の地名がありました。これも同様な名付け方だと思っています。その“何か”が津波であるとすれば、その時の津波の高さは、この<物見>の位置より低くなる。蛇足ながら渥美半島ではその津波を<竜洋>の地名で表現しています。
林ヶ原> (4/13)
これは、四国の徳島の<地名>を聞いたときに?述解しましたが、<林>という何処にでもあるような事が地名として定着することに疑問を持ったことがあります。 それと歌舞伎興行の始まりを何故、徳島でうつのかの二つを合わせて、「はやし立てる」。 つまり、ゴウゴウと鳴りゆく鳴門海峡の津波にびっくりして、その異様な(かぶく)さまを見て「騒ぎ立てた」のではないかとしました。これは後の阿波踊りに進化し、両手をあげて踊るさまはその津波に見えるともしました^^。
大野浦、大野、大野中央> (4/14)
このように、地名が重複するとき、<大野中央>が「その昔」の生活の拠点だとうかがい知れる。筆者がいう「その昔」とは、今から約4000年前のBC2001年12月25日の朝6時頃を起点とした前後である。従って<下の浜>とは、その大野より下方(?)に位置し、わざわそこに<下>の名をつけるには、そこで海産物を得ていたか、舟の発着地としていたかの特別性がたかくなる。又、廿日市(市)の名が何時に定着したのかは分からないが物々交換の時代に“二十日間”の間隔は長いように思える。その多くは“三日市、・・、八日市”の地名で残っている。その間隔が短いほど消費が早い食品や日用雑貨の交換が主体であったように推察できるから、ここでの交換の主体は “衣とか、道具”に関係したものであろうか。それとも他のモノか? アフリカ等でみるように、その間隔が半年とか、一年になると、より遠くから集まり、その地域の中央的性格が増してくる。狭い地域で自給自足が事足りる列島の地勢での二十日間は、他の<市>に比べて長いから、この<廿日市市>の歴史は要注意だ。もっと広い範囲の地名や、先達にそれを聞きたい。
熊の浦> (4/15)
これが解らない(^^!)。中国山地にツキノワグマが生息していた(いる)のは知られているが、
<熊>に、<浦>の字がくっつくのが分からない。ふつうに熊は山間部に棲み<熊山>とか<熊沢>とかの地名は、よく聞くが、熊が海岸部の<浦>にいるとは聞いたことがない。 ・・・、
それとも熊の形に似ている岩があるのか?? どなた様か、ご教示を・・・!!
深江> (4/16)
これも解らない。<江>が付くと人為的に水に関係する事業がなされたものと認識している。それに<深い>がつくと大工事という意味にもなる。縄文石器の時代に、その時ある河川や港湾の水深を増す術は持ち合わせていないし、その必要もない。話しは変わりますが、原爆ドームを訪れたとき、脇の旧太田川(?)の河床が妙に深いのが気になっていた。そして流れている水も清流とは言い難い。花崗岩質の中国山地から流れ出る河川の多くは、時に濁流を運ぶが基本的には清流で川底は浅くなってくる。今回(3/11)の東日本大震災でも見受けられように、上陸した大津波が海へともどる時、河床をえぐり取って帰ることがある。(祖先はこれを<垂水>と名付けていますが^^)その結果、川底は深くなる。本土と宮島の間でも津波という急流が流れれば、その中央の海底はえぐり取られ深みをます。いずれにしても、この<深江>には多くの謎を含んでいて今後の課題となります。
前空> (4/17)
何んと読むのか、又その意味も分からないが、変わった地名だ。こんな地名に出くわしたことがない。北海道に<空知>という地名があったが、それはアイヌの言葉を和語に変換した地名だ。全天何処へ行こうと帰ろうと、お天道様はついてまわる。それには前も後ろもなく、この私くしが向いたほうが前の空になる^^。しかしながら、この地の人達は、そこを指して<前空>と名付けた。その前の空の方角が<宮島>の方なら宮島の山上に何かの異変を見たことになる。
対厳山(63m)> (4/18)
これも何んと読むのか知らない^^!。 この山の名付けは<宮島=厳島>に、対して付けられた地名だ。厳島を指し示す位置と、形状をしている。岡山県の倉敷市<由加山>と、海を隔てた讃岐の<こんぴらさん>は、対になっていて、その一方だけにお参りするのは片手おちだと、聞いたことがあるから、この<対厳山>も同様なことがあるのかも知れない。今は山上の一部を削って団地化されているようだが、そのような ‘いわれ’のあるお宮さんがそこに有るのか無いのか??
前述の<前空>と、この<対厳>を合わせて考えると、海を隔てた<宮島>の山上に、地名に付けて残すほどの “厳(いつく)しい事=大事変”があったと語っているような気がしてならない。
早時> (4/19)
これは変わった名付けだ。普通に思えば時間という時の流れを地名とする“根拠”が考えられないが、筆者のいう初頭の大事変を思えば、この変わった地名も納得できる。東北発の巨大地震が朝の6時にこの地にとどく。12月の25日の朝6時といえば辺りは真っ暗で、まだ寝ていた時間。それに加えて8時半頃をピークにした大津波も襲来する! 寝ているどころの騒ぎではない。巨大隕石から発生する表層地震波は、深層から発生する地震の比ではなく、今のマグニチュードの数字では表せないほどの巨大地震だ!! 身体は宙に浮き、足元は揺らぎ立っていることも出来ない。<早時>とは、日の出前の暗い時から8時、9時までの早い時を言っている? この大津波の襲来をいう地名が他にもある。兵庫県に<朝来町> 岡山県の<朝寝鼻貝塚>だ。このような、その“大事変の朝”をいう四つ目の地名が、貴方の近くにも潜んでいるかも知れない^^。
もし、これ等の<朝の時間をいう地名>を貴方と私の会話で使っても<その場所>が分からない。日本全国どこへ行っても、朝の6時は朝の6時だからだ! その特定した場所を 『早時』と
名付けても、それが相手に伝わるような ≪何かの≫共通した認識がその場所になければならない。 ・・つづきます^^!
更地分れ> (4/20)
これほど、具体的な言葉で、その時の津波の大きさを残して(記録して)おいてくれると有りがたい。今回(3/11)の東日本大津波で経験したように、津波の力はその表土のすべてを剥ぎとって<更地・さらち>にしてしまう。東海大の調査では、その津波は最大38.9mの高さまで達したという。<更地分かれ>とは、その津波が更地にした所と、しなかった所の分かれ目を云っているのではないのか。同様な地名付けで、鳥取県に<境> 岡山県に<境目> 三重県に<浜垣戸>があった。その他<神戸>ように内と外の境目である<戸>の付いた地名は、数え切れないと謎解きしました^^。
<津波の止まり際> (4/21)
今回(3/11)の東日本大震災では、不明者を合わせると2万人以上の人が亡くなりました。
この自然の脅威を後世に伝えるために、東海大の調べた津波の最も高いと(?)された場所に、鎮魂碑を記しておきたいものです(深礼合掌)。
『 連日のTV津波報道のなかで、一つの疑問がありました。前述したように津波には、筆者提唱の似たようなものを集めようとする「同似集合作用」があります。その中で祖先が<福の字>を付けたり、津市の<嬉野>だと地名に残しているのに、その大量の海産物(主に魚)の打ち上げ映像を見たことがありません。陸前高田市の市職員の方の話だったでしょうか? 3(4?)階建ての屋上で金網につかまりながら、「水没した目の前を大量の魚が通りすぎて行くのを見た」 と云われていました。大多数の魚は引き波にのって海に帰りますが、陸地奥深く入った窪地等には残されることがあります。一度だけ陸内でカモメの群れる映像を見ました。そのなかに、もしも人が居たらとおもうと・・・、百体・二百体と、まとまって海岸に打ち上げられることもありました。日々遺体の捜索にあたっている自衛隊・消防隊・その他の方々は、筆舌や映像にも残せないほどの惨状を目にしているはずです。それを単なる、ご苦労様とか謝辞のことばで発することができず、唯々、心に手を合わせて頭を垂れるのみです。』
地蔵ヶ鼻> (4/22)
宮島へ渡る3本の船着き場のそばに<地蔵ヶ鼻>はある。このお地蔵さんは、その時被災した子供達を弔うものでしょうか? それとも、後々にその大事変を起こした荒神に、「その怒り、鎮(しず)めたまえ」 として幼子を捧げるためのものであるかは定かではない。・・・、(合掌)
まだまだ広い範囲で、多くの<地名>を聞かないと、その大事変の歴史は浮かび上がってきませんが、今回はこれで筆を止めておくことに致しましょう。
<宮島の地にとどいた津波の大きさを探る> (4/23)
さて、それではその時の津波の大きさを具体的な数字(標高)で調べるとしましょうか。
それを調べるのは国土地理院の地図がいい。当時の住地の中心を<大野中央>として、そこから国道2号線沿いに東へ進む。
大野中央(2.9m、3.5m)。 下の浜(40m)上の浜(30m)。ん?、下の浜>は住地より下方かと思ったが上だった(^^!) 異変を見たとした物見西は、高い所で(60m、70m)、物見東団地は(25m)。この辺りの一般的にいえることだが山や丘の頂部を削り、それを均して100軒200軒の巨大団地を形成しているようだから元々の高さは分からない。前の空団地(35m)は、その北の低い所に位置する土井(15m)辺りから南の前の空を眺めれば20mの差であるが、前の空団地は500軒(?)を越えるような巨大団地であるから相当の土量をけずりとって低くしてあるように思える。山陽本線・前空駅あたりは(4.3m)。 つづきます・・
(4/24)
次に、早時鼻の標高は(31.6mm)。だが周りは全て削られているようだ? ちゅーピーパークという新しい地名も見える。深江(10m)。対厳山(63m)。対厳山団地(44m)。宮島口駅の近くの国道2号線(2.9m)。地蔵ヶ鼻(3.5m)。更に国道2号線を東へ。宮島口団地( m)。阿品(四)団地(45m)阿品台団地( m)。阿品>とは変わった地名だ。阿>は、あいうえおの一番始め(?)と述解したから、この台地で“初もの”をお供えしたのかも知れない? この台地を越えて→地御前>へ。これも何んと読むのか分からないが(おんざき?)と読むことがあった。阿>と、御前さま?>の二つの地名は、この場所で<宮島>に向かって何かを乞う儀式があったと推察できる。串戸( m)。下平良(3m)。平良山手。廿日市駅。天神あたりが(20m~30m?)。桜本町、桜尾>。と気になる地名が並んでいるが。 ・・・ん???、
<更地分かれ>の地名がない!! あれは交差点の名前だったのか? 交差点の名前としても小字の地名であろうに? やり過ごしたのか?? この先に<草津>の地名も見えるが?、もう一度、大野へ引き返してみよう。大野中央から西へ行くと、玖波(くば)>とか津田>の地名もあるが今回は、そこまで範囲を広げたくない。
<草津について> (4/25)
草津>の地名で真っ先に思い出すのは、滋賀県の草津。ここは東北発の内陸地震によって矢印形の琵琶湖で集められた大津波が、表土をけずり大草を打ち上げた所だとしました。その他にも、静岡県・舘山寺の近くに大草>。名古屋の千種区>等も同様な地名があります。このように小字まで調べればキリがないのでしょうが、これ等をひっくるめて、古代日本のことを『瑞穂の国』と呼ぶことがあります。この瑞穂の<瑞>は、津波のことを言っていると謎解きしましたが、他にもう一つの意が隠されています。その大事変を12月の25日としましたから、今の列島の季節でいえば“冬”であり、多くの草は枯れて無かったはずなのに『穂』という“実りの秋”を表す地名が付いている?? さらに、滋賀県だったかな?<秋津>の地名がありました。この違いに、さんざん悩んだあげく、BC2001年12月25日の大事変前の地球の平均気温は、今現在より15℃~17℃高く、秋のような気候であり、海水位でいえば今より5m~6m高かったのではないかとの結論に至りました。(別紙報告書で^^) 例外的に、兵庫県の瑞穂>。岡山県の津山>等のように、とうてい津波とは無関係のような内陸部に入ったところにある地名は、稲作や人口の増加とともに人々の信仰の対象が上流の<雨落つる源流>へと移っていったのではないかとしました。
更地・さらち> (4/26)
地図上で、更地分れ>は見当たらなかったが、対厳山>の北側の谷間で、高さ50mほどの所に、更地>の地名がある。その標高は50m。当時の海水位は、現在のそれより約6m高かったとしたから、50mマイナス6mで、この津波が登った先端の最高位置は【44m】の答が出てきた。
すぐそばに、高見>28mと、別府>18mの地名が遺されている。「高見の見物」という言葉があるからその時の平均的な津波の水位は28mから、6mを引いた【22m】ほどかなと推察します。
津波の高さをいう時。狭い地域においても、海からどの程度離れているかは大きな問題ではなく、次のような要件で大きく変わる。遮蔽物や、松林等の抵抗物のあるなし、広い河口のあるなし、津波の進行方向にたいして受けV字の地形の角度とその向き。そして陸地においても遠浅状になっていれは、驚くほど内陸部まで進んでいく。「津波(竜)、川を昇る」というのは、川底が遠浅状になっているためであり、今回の東北の大津波でも<女川>でそれを経験している。
津波は、水を媒体とした力の移行であり、通常の波がおおむね同位置で上下するのに対し、津波は前に前にと進む「押波」の表現のほうがあたっている。一般に「津波の高さ」と同じ言葉でいうが、その「場所別の水深の高さ」と、登って行った「先端部分の標高・高さ」での水深は大きく異なる。標高の高さと、水深の高さを混同してはならない。何か区別できる良い表現方法はないものでしょうか(^-^!)。
福面・約50m> (4/27)
この谷間(たにあい)の奥まったところに、この地名はある。福>の付く地名の全てが、四千年前に打ち上げられた魚達があったところだとは言わないが、福とか富>の付く地名は要注意である。結果的にこの魚達は腐泥となり、後に草木の栄養分となるからだ。新潟県・魚沼>産の“こしひかり”おいしいですよね(笑)。 字学素人ながら、「屋根をふく」という言葉がありますから、<福面>とは、「その一面が魚群で覆われた」と云っているのではないでしょうかぁ?
(この話しに関連して)
北極のツンドラ地方には6500万年前の南極から発した大津波によって打ちよせられた膨大な量の草木や魚群があり、それが今の石炭や石油になったと別紙・電子版極秘報告書「巨大隕石と大津波」で述べています。親潮は北極海からの“栄養分”を運んでいるといいますが、素人の言う異変がないかぎり、空気も凍り付くような極地で、その“栄養分”の元となるような動植物が“大量に発生”したとはどうしても思えないのですが・・・、この話しは、ここで止めておきましょう。あまり大口をたたくと、今の科学はおろか貴方さま>までが離れてゆくから・・^^!
別府> (4/29)
別府とは本府に対しての別府であり、海水が入り更地化した陸地においては、その地形や、その後の雨の過多にもよるが当分(1~2年?)の間は、塩分や表土をさらわれたことにより雑草までもが生えにくくなる。大野あたりに住んでいた縄文石器のご先祖達は、水を被らなかった廿日市駅あたりに本拠を移してして生活を始めた? ・・のかどうかを聞くのはこの谷間(たにあい)に残る寺社さま>や、廿日市駅周辺に多く在す寺社さま>に、そのいわれを聞くのが賢明と思いますが・・・(^-^)?。
津波の恐ろしさは、その表土の植生をかっさらい、しばらくの間は、不毛の地と化し、移住を余儀なくされ、その<地名>までもを押し流してしまう。東日本大震災においても、復興再建とはいえ慣れ親しんだ<小字名>のすべて更地化されることになるのであろうが、・・・寂しいかぎりである。
<宮島の地名にその大事変を聞く>に、つづきます(^-^)♪。
【 お知らせ 】 「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」の方は、一時休止します^^!。
そちらの方は、カテゴリー「銅剣銅鐸探査のあれこれ!」のクリックをお願い致します。
すべての記事は、連続・関連モノで、 この記事は(5/19)迄です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<宮島の地名に、その大事変を聞く>
<宮島(厳島)周辺、の地名略図> (4/07)
宮島口駅 北
地蔵鼻 ↑
深江(2.9m) (北端から)
観音崎 聖崎
△対厳山(63m) 杉の浦
前空台 包ヶ浦(自然公園)
《大鳥居≫
紅葉川≪厳島神社≫ (島の東端)
早時鼻 白糸川 入浜
大元川 *潮山原始林
駒ヶ林 & (焼山)
<大野瀬戸> △弥山(みせん535m)
大黒岩 腰細浦
△前峠山(まえだお)
多々良潟
多々良川 →1
△大江山
△三ッ丸子 →2
△先峠山(さきだお)
→4 →3 大砂利
御床浦
→5 樫木浦
△大川山
青海苔浦
△老岩山
△岩船山(466m)
(無名の?谷川) ↓6
須屋浦、△須屋山 養父崎浦
(西端)
長浦 山白浦
革篭崎(こうご)
< 岩 国 > (南端)
長らくお待たせしました^^!。以下も、史学、言語学、地質学等に基づかない素人独自の判断だとご承知おき下さい。そして、大事な地名が抜けていたり、無知ゆえの間違いやら、読み方や ‘いわれ’ も間違っているかも知れませんので、そのつど何方様か教え正して下されば幸いです。 宮島へ渡り、北端の<聖崎>から、時計回りで、祖先からの伝言(地名)を、‘独耳流^^!’で聞いていくことにします。
聖崎> (5/01)
筆者は、この読みを何んと読むのか知らない。ほぼ長方形をした<宮島>には、四つの岬があるはずだ。その四つの岬の一つを選んで、何故<聖・せい>の字をつけているのか? <聖>は、ひじり>とも読む。その昔は「火尻」と呼んでいたのではないか? しかし、聖なる信仰の対象の島に、尻>の字がつくのは、何となくイメージがわるい。そこで漢字が渡来した後の時代に、聖>と書いて、ひじり>と読ますようになったのではないだろうか。火>ついては、この記事の核心部分になるので後に回しましょう^^。
杉の浦> (5/03)
この地名からは、その伝言は聞こえてこない。 今とその昔は気候が違うから一概にはいえないが、杉が海岸端に生えていることは珍しく、何故、この地名になったのかは分からない。 仮に、平地海岸に大杉が生えていたとすると、杉はその樹形から津波にはめっぽう強いと考えられる。直立する大木の下枝は枯れ、津波水流の影響を受けにくい。列島各地の平野部の全てをかっさらった津波跡に、その大木だけが、ぽつねんと残っていれば、「杉は、津波に強い!」と、ご先祖さま達はきっと思うに違いない。今でも平野部のど真ん中に杉の大木に囲まれた神社を見ることがある。その杉に神性を感じ、神木として扱われるようになったのではないだろうか。
包ヶ浦(自然公園)> (5/04)
包み込むような入り浜形状から、この名がついたのであろうか。特別な意は伝わってこない。近年に、海水浴とキャンプができる自然公園として整備されているようだ。写真でみるかぎりは白くきれいな砂浜である。
入浜>
この地名からも、特には伝わってこない。
腰細浦>
なにか意味ありげだが、全く解りません^^!。
大砂利> (5/05)
大砂利とは、変わった地名だ。砂利という一般的なものを地名につけても差別化はできない。地名とは、一種の差別化であり、この差別化を共有することによって特定した場所が相手に伝わる。何処にでもあるようなものを地名にすれば、「あんたのいう砂利>は、何処よ?」と、なって伝えたい場所が(相手に)伝わらない。だから<大>の字をつけて差別化しているのか? 「大きい砂利」だと云われてもねえ^^? 砂利>と言えば、ジャリン子のように一般的には小さいことの代名詞としても使う。そして、大と小では真逆の意であり、これも解らない。それとも、<ジャリ>と読まずに、何かほかの読み方や、意があるのか? 解らないことは置いといて先へ進もう(^^!)
樫木浦> (5/06)
樫の木が生えていたのか。と云うことは、大木の樫の木があったのだろうか。大木になるにはたくさんの幼生木の中からと云うことでもあり?、島のあちこちに樫の木が生えていれば、此処だけに<樫木浦>と名付けても場所の特定が薄れてくる^^?。広島と言えば「紅葉・もみじ」が、思い出されるが、宮島には<紅葉川>や、<潮山原始林>もあり、古代より人手の入らなかった島として、貴重な植生を残しており、広島大学の植物研究所がこの島にある。
青海苔浦>
広島には藻場の海岸が多く「鱚釣りのポイントが少ない」と、じいさま>からは聞いていたが、青海苔>の生える海岸は少なかったのであろうか? 青海苔の生える海は透明度の高い海水か?? 後で調べます・・・^^?
< 蜜蜂・ああ無情!!!> (5/06)
久しぶりに養蜂箱をおいてある山斜面の孟宗竹畑へ行ってみた。・・・
この項 [ My粗茶室・ ]へ移動しました^^。 → カテゴリー、<ゲスト様>
養父崎浦・やぶさきうら> (5/09)
“ようふ”と書いて“やぶ”と読む。この読み方は早くから知っていた。調べてみれば兵庫県に<養父市養父町>があり、岡山県・倉敷市玉島に<養父>の地名が残っている。子供心からすれば「変な地名だなあ?」と思っていた。<藪・ヤブ>なのかと思ったがそうでもないらしい。“養父・ようふ”といえば“養い親”のことである。養い親のようなごく一般的なことが地名として定着するには、何かの理由がある。先の「除福」の記事を読んで下さった方なら、これは大して難しい問題ではない。除福達は、不老不死の霊薬を求め、童男童女3000人を連れて列島にやって来た。この子達を連れてきた目的は列島で求めた試験薬をその子達に施し長生きを実証するためである。3000人を一カ所で育てることは出来ないから各地に分散して面倒をみていたのである。一人や二人の養育ならあまたにあることであるから地名としては残らない。我が子でもない子達を10人以上も育てていれば、倭人からみれば異様にみえる。だから、「あそこは<養父・やぶ>だ。」と呼んで地名として残ったに違いない。Drいずも氏>が指摘されたように、除福達は“秘密結社”の意味合いを持つ。日本史に黒船も比ではないような影響力を持ちながら、自分達の言葉(中国語)で地名を残して居ないのは、決して表舞台に立ってはならないという宿命(前述)を持っていたからである。広島の本土から見れば裏側にあたる宮島の南側の地名は、おおむねが異質で新しい名付けのような気がします。
山白浦> (5/10)
これは難しい。文字通りを受け取ると、以前に謎解きした<白神山>と同様に、山が白んだとの意味であろうが、ここが本土側から見える所ならともかく、此処は、島の裏側にあたり本土側から見えない場所である。その大地震が到達したのは、12月25日の朝の6時頃であるから日の出前の暗い時だ。いったい何処の住人がこの地名>を名付けたのか? 広島の本土ではなく、その西南にあたる<岩国>の住人が付けたのなら分かるような気もしますが?
革篭崎・こうごさき> 南端 (5/11)
分からないので調べました。
Webilio 辞書より、革篭とは?-皮を張ったかご。後世、紙で張ったかご、竹で編んだかご(行李(こうり))をもいう。
どうやら‘かわかご’がなまったらしい。列島では植物質の入れ物は普及していたが革製品の容器はなじみが薄かったと認識している。何故、それが地名。として定着したのかが解らない。これはあくまで想像に近いが、宮島全体を「岩船」に例え、北端の「火尻崎・ひじりさき?」と、この革篭崎を船の舳先として“篭”に何かを入れて何かの神事を行っていたようにも思えるが・・・??
長浦> 長いから長浦^^。
須屋浦、△須屋山>(西端) (5/12)
今では法律により土葬は許されないが、須屋(すや)というのは、昔、樽や木棺で遺体を土葬にした時、遺体や棺(ひつぎ)が腐り落ちるまでは、その上に石塔を切れないので、須屋という木製の小さな家形をした小屋をおいたり、○○?という木柱をたてることがありました。それが何故ここの地名になったのかは、分かりませんが、須屋山>と、須屋浦>の二ヶ所に地名が残っているということは、此処がかなり重要な人物の墓地であったとうかがえます。
御床浦>
お床というのは、何か大切なものを祀ったり、高貴なお方が横たわる場所。どなた様がおいでになったのでしょうか?
多々良潟・多々良川> (5/13)
多々良というのは、鞴(ふいご)のことで、風船状にした獣皮を縮めたり脹らませたりすることで送風する用具のこと。主に製鉄の時、鉄鉱石や砂鉄に炭を混ぜて熱し酸素を大量に送ることによって鉄を溶かし出していた。この方法を“たたら製鉄”ともいう。宮島の全島が花崗岩であり、この島には鉄鉱石がないと思うが? 本土から海を隔てて航行にも不便の島に、何故、製鉄用語の<多々良>の地名が残されているのか? しかも、ご丁寧に、潟>と、川>の二ヶ所に、名をふってある^^! 二ヶ所以上に同じ名>が連なっているということは、そこが、かなり重要な場所という意味でもある。 あとへつづきます。・・・、
大黒岩> (5/14)
此処には、黒い大岩があるのでしょうかぁ? 島全体が花崗岩とありました。私達が墓石として目にする花崗岩は白っぽいものがほとんどで、赤みを帯びたものや、黒色の(黒御影石)は輸入品なのでしょうか?? 次は、ド>のつく素人の言葉として受け取って下さい。御影石とも呼ばれている花崗岩を高圧下のもとで熱していくと、黒色となり、さらに温度が加わると赤みを帯び、さらに高温化すると白色化に進むと睨んでいます。(高温化による組成の変異?^^?) なにを目論んでいるかというと、島全体が大地震で揺すられ破砕し、岩と岩が擦れて摩擦熱を発し黒色化したのではないだろうかと思っています。この論が正しければ、そこは断層帯の端にあり、帯状に黒色化が見られなければなりません。
≪大鳥居≫ (5/15)
これで、この島を一周しました。
この大鳥居>の方向は、島の大事変があった方向を見ているとの予想は大きく外れ、入り江のほぼ中央にあり<厳島神社>を正面に見ていました。 さて、ここから内陸部の地名を訪ねて行くことにしましょう。
紅葉川≪厳島神社≫、 白糸川、 大元川>
大鳥居がある入江には、3本の川が流れ込む。川といっても急峰の弥山(みせん)山麓から流れ出る谷川は急流で常時水を留めているとは思えない。いつぞやに(平成○○年)、台風で集中豪雨があったときは、多くの岩石が神社を壊すほどの土石流となってニュースになったことがありました。これは宮島の岩石が「破砕」されている為ではないかと疑っています。
潮山原始林> (5/16)
この原始林は、宮島が本土に近い島でありながら、信仰の対象の島として入山規制がはたらき人踏が入らず、その特異な植生から国の天然記念物にもなっている。それにしても、海の潮>と、山>の組み合わせは、妙な命名の仕方である。・・そうだ! その時の大津波は、弥山>を目指して、この高さまで登っている! 本土の福面50m-6m>で、津波の登った高さは<44m程>であったから、後で此処の高さも調べてみよう。物見(台)>へ避難した人達は、宮島に潮が登るさまを知り<潮山>と名付け、以来「神」が入山する場所として忌避したのである。
(調べました。<大聖院>辺りで50mでしたから当時の海水位6mを引き44m!)
駒ヶ林> (5/17)
駒>とは馬のことである。縄文石器時代の列島に馬がいたかどうかを筆者は、まったく知らないが、此処での駒>は、騎馬としての馬である。列島での牛馬の存在は騎馬としてではなく、役馬としての存在が大きかったように思っています^^!。馬を騎馬としてあつかうのは広大な大陸移動の必要性から生じた結果からではないでしょうか? 除福(前述)>の伴った騎馬兵が倭人達の目には(神)と写った? それにダブらせて馬に乗った(神)が、林をぬけ弥山>に駆け上がる! そう言えば、厳島神社の脇に奉馬堂>がありました。あの立派な奉馬や、絵馬の奉献がどこから生まれたかを筆者は知らない。
焼山>>( やけたやま、と読む?) (5/18)
この地名は地図には載っていない。ウエブ検索で山歩き大好きと云われる(○○さま)のページで見ました。通称なのかも知れないが、現にそのように呼ばれている事実がある。今に、何処でも起きるような山火事に「あの山は<焼山>だ」と、その度に地名として名付けたならば、古今東西、列島は<焼山>だらけとなる。(笑い) 何かの“特異な事象”を伴い人々の心に深く刻まれた山であったから、その山を焼山>と呼ぶようになったのだ。この度の東北大震災でも、北海道の奥尻島の大震災でも、火事があった! 津波が火事を伴うとは意外な感じもするが、津波の消火は一時的なものであり、火種さえあればその残り火により、津波で寄せ集められた草木は延々と燃えつくす。少し話しが飛びますが、筆者は阿蘇の山焼きや、奈良の若草山の山焼きの歴史も気になっています。
(5/19)
話しの核心に触れますが、宮島の火は、不消火の火として、○○オリンピックの聖火となったり<平和記念公園の火として今でも燃え続けています。(BC.2001)四千年前の大地震で、山と山が擦れて発火したことを歴史が覚えていて、「決して忘れてはならない火として、いまに続いている」のだと、私は断言出来ます。 現科学は ‘すっかり’それを忘れていますがねえ^^。 現科学と祖先の言い伝えのどちらをとるかと聞かれれば、私は迷わず<ご先祖さま>のほうにジャッジを挙げます。 少し言葉が過ぎたかしら・・・?(^-^)?
(註: 今の御霊火堂の火は、弘法大師が修行した時の1200年前のものだそうです。)
素人の拙い論では、現科学はおろかあなた様までもが信じて頂けない。信じて欲しいとは言わない。気付いて欲しい! ^^。
△前峠山(まえだお)と、△先峠山(さきだお)>へ、つづきます^^♪
(5/12)どなた様、拍手(1)をありがとう♪ 久方ぶり、何ヶ月ぶりかの拍手です^^!
(514)おやおや? 存命中は無理と^^! あきらめている記事に、つづいて拍手が頂けました♪
そちらの方は、カテゴリー「銅剣銅鐸探査のあれこれ!」のクリックをお願い致します。
すべての記事は、連続・関連モノで、 この記事は(5/19)迄です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<宮島の地名に、その大事変を聞く>
<宮島(厳島)周辺、の地名略図> (4/07)
宮島口駅 北
地蔵鼻 ↑
深江(2.9m) (北端から)
観音崎 聖崎
△対厳山(63m) 杉の浦
前空台 包ヶ浦(自然公園)
《大鳥居≫
紅葉川≪厳島神社≫ (島の東端)
早時鼻 白糸川 入浜
大元川 *潮山原始林
駒ヶ林 & (焼山)
<大野瀬戸> △弥山(みせん535m)
大黒岩 腰細浦
△前峠山(まえだお)
多々良潟
多々良川 →1
△大江山
△三ッ丸子 →2
△先峠山(さきだお)
→4 →3 大砂利
御床浦
→5 樫木浦
△大川山
青海苔浦
△老岩山
△岩船山(466m)
(無名の?谷川) ↓6
須屋浦、△須屋山 養父崎浦
(西端)
長浦 山白浦
革篭崎(こうご)
< 岩 国 > (南端)
長らくお待たせしました^^!。以下も、史学、言語学、地質学等に基づかない素人独自の判断だとご承知おき下さい。そして、大事な地名が抜けていたり、無知ゆえの間違いやら、読み方や ‘いわれ’ も間違っているかも知れませんので、そのつど何方様か教え正して下されば幸いです。 宮島へ渡り、北端の<聖崎>から、時計回りで、祖先からの伝言(地名)を、‘独耳流^^!’で聞いていくことにします。
聖崎> (5/01)
筆者は、この読みを何んと読むのか知らない。ほぼ長方形をした<宮島>には、四つの岬があるはずだ。その四つの岬の一つを選んで、何故<聖・せい>の字をつけているのか? <聖>は、ひじり>とも読む。その昔は「火尻」と呼んでいたのではないか? しかし、聖なる信仰の対象の島に、尻>の字がつくのは、何となくイメージがわるい。そこで漢字が渡来した後の時代に、聖>と書いて、ひじり>と読ますようになったのではないだろうか。火>ついては、この記事の核心部分になるので後に回しましょう^^。
杉の浦> (5/03)
この地名からは、その伝言は聞こえてこない。 今とその昔は気候が違うから一概にはいえないが、杉が海岸端に生えていることは珍しく、何故、この地名になったのかは分からない。 仮に、平地海岸に大杉が生えていたとすると、杉はその樹形から津波にはめっぽう強いと考えられる。直立する大木の下枝は枯れ、津波水流の影響を受けにくい。列島各地の平野部の全てをかっさらった津波跡に、その大木だけが、ぽつねんと残っていれば、「杉は、津波に強い!」と、ご先祖さま達はきっと思うに違いない。今でも平野部のど真ん中に杉の大木に囲まれた神社を見ることがある。その杉に神性を感じ、神木として扱われるようになったのではないだろうか。
包ヶ浦(自然公園)> (5/04)
包み込むような入り浜形状から、この名がついたのであろうか。特別な意は伝わってこない。近年に、海水浴とキャンプができる自然公園として整備されているようだ。写真でみるかぎりは白くきれいな砂浜である。
入浜>
この地名からも、特には伝わってこない。
腰細浦>
なにか意味ありげだが、全く解りません^^!。
大砂利> (5/05)
大砂利とは、変わった地名だ。砂利という一般的なものを地名につけても差別化はできない。地名とは、一種の差別化であり、この差別化を共有することによって特定した場所が相手に伝わる。何処にでもあるようなものを地名にすれば、「あんたのいう砂利>は、何処よ?」と、なって伝えたい場所が(相手に)伝わらない。だから<大>の字をつけて差別化しているのか? 「大きい砂利」だと云われてもねえ^^? 砂利>と言えば、ジャリン子のように一般的には小さいことの代名詞としても使う。そして、大と小では真逆の意であり、これも解らない。それとも、<ジャリ>と読まずに、何かほかの読み方や、意があるのか? 解らないことは置いといて先へ進もう(^^!)
樫木浦> (5/06)
樫の木が生えていたのか。と云うことは、大木の樫の木があったのだろうか。大木になるにはたくさんの幼生木の中からと云うことでもあり?、島のあちこちに樫の木が生えていれば、此処だけに<樫木浦>と名付けても場所の特定が薄れてくる^^?。広島と言えば「紅葉・もみじ」が、思い出されるが、宮島には<紅葉川>や、<潮山原始林>もあり、古代より人手の入らなかった島として、貴重な植生を残しており、広島大学の植物研究所がこの島にある。
青海苔浦>
広島には藻場の海岸が多く「鱚釣りのポイントが少ない」と、じいさま>からは聞いていたが、青海苔>の生える海岸は少なかったのであろうか? 青海苔の生える海は透明度の高い海水か?? 後で調べます・・・^^?
< 蜜蜂・ああ無情!!!> (5/06)
久しぶりに養蜂箱をおいてある山斜面の孟宗竹畑へ行ってみた。・・・
この項 [ My粗茶室・ ]へ移動しました^^。 → カテゴリー、<ゲスト様>
養父崎浦・やぶさきうら> (5/09)
“ようふ”と書いて“やぶ”と読む。この読み方は早くから知っていた。調べてみれば兵庫県に<養父市養父町>があり、岡山県・倉敷市玉島に<養父>の地名が残っている。子供心からすれば「変な地名だなあ?」と思っていた。<藪・ヤブ>なのかと思ったがそうでもないらしい。“養父・ようふ”といえば“養い親”のことである。養い親のようなごく一般的なことが地名として定着するには、何かの理由がある。先の「除福」の記事を読んで下さった方なら、これは大して難しい問題ではない。除福達は、不老不死の霊薬を求め、童男童女3000人を連れて列島にやって来た。この子達を連れてきた目的は列島で求めた試験薬をその子達に施し長生きを実証するためである。3000人を一カ所で育てることは出来ないから各地に分散して面倒をみていたのである。一人や二人の養育ならあまたにあることであるから地名としては残らない。我が子でもない子達を10人以上も育てていれば、倭人からみれば異様にみえる。だから、「あそこは<養父・やぶ>だ。」と呼んで地名として残ったに違いない。Drいずも氏>が指摘されたように、除福達は“秘密結社”の意味合いを持つ。日本史に黒船も比ではないような影響力を持ちながら、自分達の言葉(中国語)で地名を残して居ないのは、決して表舞台に立ってはならないという宿命(前述)を持っていたからである。広島の本土から見れば裏側にあたる宮島の南側の地名は、おおむねが異質で新しい名付けのような気がします。
山白浦> (5/10)
これは難しい。文字通りを受け取ると、以前に謎解きした<白神山>と同様に、山が白んだとの意味であろうが、ここが本土側から見える所ならともかく、此処は、島の裏側にあたり本土側から見えない場所である。その大地震が到達したのは、12月25日の朝の6時頃であるから日の出前の暗い時だ。いったい何処の住人がこの地名>を名付けたのか? 広島の本土ではなく、その西南にあたる<岩国>の住人が付けたのなら分かるような気もしますが?
革篭崎・こうごさき> 南端 (5/11)
分からないので調べました。
Webilio 辞書より、革篭とは?-皮を張ったかご。後世、紙で張ったかご、竹で編んだかご(行李(こうり))をもいう。
どうやら‘かわかご’がなまったらしい。列島では植物質の入れ物は普及していたが革製品の容器はなじみが薄かったと認識している。何故、それが地名。として定着したのかが解らない。これはあくまで想像に近いが、宮島全体を「岩船」に例え、北端の「火尻崎・ひじりさき?」と、この革篭崎を船の舳先として“篭”に何かを入れて何かの神事を行っていたようにも思えるが・・・??
長浦> 長いから長浦^^。
須屋浦、△須屋山>(西端) (5/12)
今では法律により土葬は許されないが、須屋(すや)というのは、昔、樽や木棺で遺体を土葬にした時、遺体や棺(ひつぎ)が腐り落ちるまでは、その上に石塔を切れないので、須屋という木製の小さな家形をした小屋をおいたり、○○?という木柱をたてることがありました。それが何故ここの地名になったのかは、分かりませんが、須屋山>と、須屋浦>の二ヶ所に地名が残っているということは、此処がかなり重要な人物の墓地であったとうかがえます。
御床浦>
お床というのは、何か大切なものを祀ったり、高貴なお方が横たわる場所。どなた様がおいでになったのでしょうか?
多々良潟・多々良川> (5/13)
多々良というのは、鞴(ふいご)のことで、風船状にした獣皮を縮めたり脹らませたりすることで送風する用具のこと。主に製鉄の時、鉄鉱石や砂鉄に炭を混ぜて熱し酸素を大量に送ることによって鉄を溶かし出していた。この方法を“たたら製鉄”ともいう。宮島の全島が花崗岩であり、この島には鉄鉱石がないと思うが? 本土から海を隔てて航行にも不便の島に、何故、製鉄用語の<多々良>の地名が残されているのか? しかも、ご丁寧に、潟>と、川>の二ヶ所に、名をふってある^^! 二ヶ所以上に同じ名>が連なっているということは、そこが、かなり重要な場所という意味でもある。 あとへつづきます。・・・、
大黒岩> (5/14)
此処には、黒い大岩があるのでしょうかぁ? 島全体が花崗岩とありました。私達が墓石として目にする花崗岩は白っぽいものがほとんどで、赤みを帯びたものや、黒色の(黒御影石)は輸入品なのでしょうか?? 次は、ド>のつく素人の言葉として受け取って下さい。御影石とも呼ばれている花崗岩を高圧下のもとで熱していくと、黒色となり、さらに温度が加わると赤みを帯び、さらに高温化すると白色化に進むと睨んでいます。(高温化による組成の変異?^^?) なにを目論んでいるかというと、島全体が大地震で揺すられ破砕し、岩と岩が擦れて摩擦熱を発し黒色化したのではないだろうかと思っています。この論が正しければ、そこは断層帯の端にあり、帯状に黒色化が見られなければなりません。
≪大鳥居≫ (5/15)
これで、この島を一周しました。
この大鳥居>の方向は、島の大事変があった方向を見ているとの予想は大きく外れ、入り江のほぼ中央にあり<厳島神社>を正面に見ていました。 さて、ここから内陸部の地名を訪ねて行くことにしましょう。
紅葉川≪厳島神社≫、 白糸川、 大元川>
大鳥居がある入江には、3本の川が流れ込む。川といっても急峰の弥山(みせん)山麓から流れ出る谷川は急流で常時水を留めているとは思えない。いつぞやに(平成○○年)、台風で集中豪雨があったときは、多くの岩石が神社を壊すほどの土石流となってニュースになったことがありました。これは宮島の岩石が「破砕」されている為ではないかと疑っています。
潮山原始林> (5/16)
この原始林は、宮島が本土に近い島でありながら、信仰の対象の島として入山規制がはたらき人踏が入らず、その特異な植生から国の天然記念物にもなっている。それにしても、海の潮>と、山>の組み合わせは、妙な命名の仕方である。・・そうだ! その時の大津波は、弥山>を目指して、この高さまで登っている! 本土の福面50m-6m>で、津波の登った高さは<44m程>であったから、後で此処の高さも調べてみよう。物見(台)>へ避難した人達は、宮島に潮が登るさまを知り<潮山>と名付け、以来「神」が入山する場所として忌避したのである。
(調べました。<大聖院>辺りで50mでしたから当時の海水位6mを引き44m!)
駒ヶ林> (5/17)
駒>とは馬のことである。縄文石器時代の列島に馬がいたかどうかを筆者は、まったく知らないが、此処での駒>は、騎馬としての馬である。列島での牛馬の存在は騎馬としてではなく、役馬としての存在が大きかったように思っています^^!。馬を騎馬としてあつかうのは広大な大陸移動の必要性から生じた結果からではないでしょうか? 除福(前述)>の伴った騎馬兵が倭人達の目には(神)と写った? それにダブらせて馬に乗った(神)が、林をぬけ弥山>に駆け上がる! そう言えば、厳島神社の脇に奉馬堂>がありました。あの立派な奉馬や、絵馬の奉献がどこから生まれたかを筆者は知らない。
焼山>>( やけたやま、と読む?) (5/18)
この地名は地図には載っていない。ウエブ検索で山歩き大好きと云われる(○○さま)のページで見ました。通称なのかも知れないが、現にそのように呼ばれている事実がある。今に、何処でも起きるような山火事に「あの山は<焼山>だ」と、その度に地名として名付けたならば、古今東西、列島は<焼山>だらけとなる。(笑い) 何かの“特異な事象”を伴い人々の心に深く刻まれた山であったから、その山を焼山>と呼ぶようになったのだ。この度の東北大震災でも、北海道の奥尻島の大震災でも、火事があった! 津波が火事を伴うとは意外な感じもするが、津波の消火は一時的なものであり、火種さえあればその残り火により、津波で寄せ集められた草木は延々と燃えつくす。少し話しが飛びますが、筆者は阿蘇の山焼きや、奈良の若草山の山焼きの歴史も気になっています。
(5/19)
話しの核心に触れますが、宮島の火は、不消火の火として、
(註: 今の御霊火堂の火は、弘法大師が修行した時の1200年前のものだそうです。)
素人の拙い論では、現科学はおろかあなた様までもが信じて頂けない。信じて欲しいとは言わない。気付いて欲しい! ^^。
△前峠山(まえだお)と、△先峠山(さきだお)>へ、つづきます^^♪
(5/12)どなた様、拍手(1)をありがとう♪ 久方ぶり、何ヶ月ぶりかの拍手です^^!
(514)おやおや? 存命中は無理と^^! あきらめている記事に、つづいて拍手が頂けました♪
*宮島の大断層帯、「弥山断崖下、焼山の 根炭(ネスミ)を探せ!」 2011 5/29記
“ねすみ・根炭”とは、筆者の付名・発案で(^-^)、断続地震による断層帯で岩塊と岩塊が擦れて高温を発し山火事となった時、上部の立木は燃えてなくなるが、根部が酸素不足や、低温炭化作用で“炭”として地中に残ること。
【 お知らせ 】
記事は不定期な日々の(追記)で更新していますが、今回の(5/29)で完了しました。
「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」の方は、一時休止しています^^!。
そちらの方は、カテゴリー「銅剣銅鐸探査のあれこれ!」のクリックをお願い致します。すべての記事は、連続・関連モノです。お時間の許される方は、当初の「卑弥呼・・・」から、お付きあい下されば幸いです。↓クリックOK^^
さらに、本命の(別紙・電子出版; 極秘報告書「巨大隕石と大津波」)もあります。(無料立ち読みコーナーあり^^) ※ リニューアルされていて、クリックしても出てきませんでした。
文芸社の電子出版書籍サイト Boon-GATE:極秘推理報告書「巨大隕石と大津波」(ジャンル:自然科学)で検索すると出てきました^^!
長いあいだの長文・駄文にお付きあい頂きまして、ほんとうにありがとう御座いました。‘ネタ切れ’のため次の更新の予定はありません。しばらく休みますので、ご訪問が出来ないかも知れませんが、再開できるその時まで、どうぞ、皆様ごきげんよう♪(^-^)♪ sanks □ 2011May30
(深礼) 史実探偵: 平 素人
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「地名という祖先からの伝言」
時は、BC2001年12月25日の朝方、‘三陸地方発’ (月別アーカイブ:2008 11月、 東北地方の巨大隕石の痕跡を追う!参照)の、巨大地震と大津波が、広島の地に到達する。
地名はその地に何があったかをいう ‘人文史’ であり祖先からのメッセージである!
前記事“巨大地震によって変形した宮島-” からのつづきです。
<宮島の大断層を探せ!> (5/20)
素人の拙い論では、現科学はおろかあなた様までもが信じて頂けないので、もう一度、宮島の地形を交えて観察してみよう^^。
【 島の長さは、約10km余で、幅は約3.5kmのほぼ長方形。全島は花崗岩で、山は急峻し、ほぼ南北と東西の“断層がある”そうだ。島の主峰は<弥山・みせん>で535m。その頂部には巨石群がみられるという。島の南西端には次峰の<岩船山>がある。】 その断層はどこだ?!
△弥山(みせん535m)> (5/21)
宮島の主峰が535mの弥山(みせん)なのは、分かっている。弥>というのは、阿弥陀仏とあるように一番の意味であろうか。しかしながら、山>と書いてセン>と読むのが分からない。思い付けば、鳥取県に大山(だいせん)。鳥取・兵庫県境の氷ノ山(ひょうのせん)等も、セン>と読む。九州の阿蘇山。四国の石鎚山。富士山等は、高いながらも、さん>と読む。中部地方では○○岳(だけ)という。東北では山なのに○○森>。 高知県だったかな? ○○丸>という山名もある^^。 所変われば品(呼び名)変わる? しかしながら、広島の山のほとんどは、さん>と呼び、セン>と呼ぶのは、この山だけと思うが? 何か特別の意味があるのだろうか? どなた様か御教示を^^!
航空地図等で見ると、下図の →1 →2 →3 に断層帯のようなものが見える。
大黒岩
△前峠山(まえだお)
多々良潟
多々良川 →1
△大江山
△三ッ丸子 →2
△先峠山(さきだお)
→3 大砂利
△前峠山(まえだお)と、△先峠山(さきだお)> (5/22)
前峠山と書いて<まえだお>と読む。一般的には<峠>と書けば<とうげ>と読む。地方によっては、峠のことを<たわ>という所もある。前峠(まえだお)とは、“前倒し”の意味ではないのか? 峠の字が漢字か国字かは知らないが、その字形が面白い。 『 山が上下する!』BC2001年12月25日の朝方。本土の<物見台>に避難した祖先は、そこで『山が崩れ行く』のを見た! だから、この名前がついたのだ。事変後、そこに何があったのかと?島に渡ってみれば、『その先にも山が倒れていた』。
≪ この時を想像を含めて再現すると ≫ (5/23)
時は、四千年ほど前の12月25日の朝6時頃。まだ日の出にはほど遠く寝ている時間。東北で発した巨大地震は、その身体が豆粒のごとくに、はじけ飛ぶほどの衝撃でこの地にとどいた。立っていることはとうてい出来ない。人々何があったかも知れないうちに内海で発した津波でその身体をもっていかれる。津波でもっとも怖いのはその土石流や漂流物が持つ破壊力だ! 平均的な水深は前述の<高見>で22mとした。8時半頃に水位はピークに達する。幸いといえば幸いか。当時の住居はたて穴式のような簡素なものであった。命からがら助かった人達が<物見台>で、目にした<宮島>は、腹の底まで揺するような大音響とともに火の手をあげていた。山塊と山塊が擦れて(大黒岩)火を発した(焼山)のだ。<弥山>は燃えあがった。上昇気流は周囲の空気を引き込む。だからこの風を<多々良・ふいご>と地名に遺したのだ。この巨大地震で崩壊した山々は、列島の他の地にも数多く残っているはずだが、発火を伴う程の変異は何処でもあるとは限らない。
①津波が<潮山>に上がり込み!
②山が<前峠・先峠>と崩れ行き!!
③更に<弥山>焼山が燃えあがる!!!
この三拍子が揃った宮島を、神が上がり込み 『神・居着く島・厳島』 として崇めたのだ!
神が棲むから宮島なのだ。その意味での宮島信仰は、神を呼び寄せる出雲信仰とは少し異なる。 貴方が(現科学)が、もし、その時この地に身を置けば『 何を思い、何んと云う?』 筆者がご先祖さまから聞く大事変は、何万年も前の “地質時代”のことを言っているのではない。少なくとも祖先がそれ等の大事変に遭遇し、<早時>や、前峠山(まえだお)先峠山(さきだお)<・・・>の語彙(ごい)を発し、それを<地名や言い伝え>として残すことが出来るようになった “その昔である”ことは否定できない。
(5/24)
航空地図等で見ると、下図の →4 →5 ↓6 も、断層帯のように見えます?
→4
御床浦 樫木浦
→5
△大川山
青海苔浦
△老王山
(谷川)↓6
養父崎浦
巨大断層は、一時で出来るとは限らず、幾度かに分けて出来ることもあると云う。この時、同時に出来たかどうか? 又、その変異の大小等も分からないが、同時であれば、新しい土層が見えているはずだから △老王山>とは名付けない。老王>の名からすれば、前峠・先峠>に対しての<老>であるように思えるから、前峠・先峠と同じような谷の地形をもって、それより以前のこととして付名したようにも思えるが、この伝言(地名)だけからでは推しきれない。
<巨大地震で水波の様に振る舞う地殻> (5/25)
廿日市辺りの地図をスクロールしていると、<押ヶ峠・おしがだお>に当たりました。筆者はその詳細を知りませんが気になる所です。国の天然記念物?にもなっているようです。(写真では粉砕岩の堆積と?見える)前論を当てはめれば、この<押ヶ峠>の付名も、その時の「地震波が押し寄せた」と表現しているのではないでしょうか。 数ある(活)断層のなかで<付名のもつ意味>は、その時のものか否かの判断を大きく左右する。何故なら、その付名は祖先がその大事変を “実体験”したかしないかを言っているからだ。
<大事変その後> (5/26)
当時の12月25日は、今より平均気温で15・6℃高かった。(別紙電子版報告書) 年末の 気温を0℃、としても15・6℃は、秋の気温。 だから「安芸=秋?の宮島、厳島」というのかどうかは、筆者のこじつけ?駄洒落であるから責任は持てない。(笑) その後に続く、隕石の冬! 火山活動の目覚め! 海溝ストレスの解放! 断続地震の連鎖! はたまた、豪雨で流れ出る(破砕)巨岩流を<大砂利>と云ったかどうかも筆者のつよい思い込みかも知れません^^?
岩船山> と 岩国> (5/27)
それでは、何故、東北を震源とする巨大地震が、約1千kmも離れた宮島に大きく作用したのでしょうか?
カテゴリー出雲地方で、幅約5~6km、長さ約60kmの出雲半島を、Dr.いずも氏>は、<破砕半島だ!>と言われました。これも東北から見ると1千km近く離れている。そして、出雲半島は、東北から物差しをあてれば、東北から南西に向かって直行している。そのことから東北から伝わってきた地震波が“蛇がうねる”ように細長い出雲半島に作用し岩塊を破砕したと結論づけた。さらに、中国山地をマントルに浮く超巨大タンカーと考えた時、出雲半島(や宮島)は、それに沿う脇船に例えることが出来る。巨大船にとっては少しの上下運動でも、軽小の脇船(出雲半島)では大きく浮沈するのではないかとした。
宮島の場合は、島の長さは、約10km余で、幅は約3.5kmのイカダ形をしている。そして、これも東北から南西へ向いている。祖先は、その時の宮島の様を巨大津波の中を泳ぎ行く<岩船>だと表現している。今風の巨大タンカーだ! いつぞやは、その巨大タンカーが長波の巨波を受けて、真っ二つに折れたことがある。波長と船の長さが同調すれば、いかに強固に設計された船であろうと真ん中からへし折れる。そのような長波を想定した設計ではなかったからだ。水面につぶてを落とせば中心から離れるに従って波長は長くなる。その1千km離れた所に「タンカー宮島」があった! 都合の悪いことに?進み行く前方に<岩国>という巨岩塊が立ちふさがり、その行く手を阻止する。いかに強固な地殻地表であろうと巨大な地震波が働けば岩塊は、押し流された流氷のように振る舞う。韓国国土地理院では、この度の東日本大震災で日本列島と朝鮮半島が1・2cmほど近くなったと報告しているし、震源を淡路島とした神戸淡路大震災では、神戸山脈で跳ね返った地震波で長田区がやられた。素人の推論が正しければその痕跡は必ずどこかに潜んでいる。
<結び; 宮島の一反木綿と、根炭を探せ!> (5/28)
一反木綿>とは、
ご先祖さまの形容で、山と山が擦れて岩石が溶融し再結晶するとき白脈(主に石英脈)が出来ることだと謎解きしました。その一反木綿が、ご先祖さまの言い伝えでは「出没する」と云っていましたが、その白脈帯はどこにあるのでしょうか? 後の風雨作用で隠されているかも知れないし、土砂崩れ等でその破片が谷川へ流れ出ているかも知れません。○○様のウエブ写真で焼山から断崖を右にして下方の大鳥居を見ている写真がありました。その断崖には“滑り落ちた痕跡”がはっきり写っていました。この山頂付近にある大断崖は宮島へ渡るフェリー上からも見えます。だから、ご先祖さまは、この島を『宮島』に定めた! との結論に至りました。 山歩きの好きな貴方^^ どうぞ、その断崖の下の “一反木綿”を捜して頂けませんか^^?
根炭・ねすみ>とは、
素人探偵がつけた付名(ネズミ?-笑)です。 連続地震による断層帯で、岩塊と岩塊が擦れて高温を発し山火事となった時、上部の立木は燃えてなくなるが“根部”が酸素不足や、接触部から少し離れた所での低温炭化作用で“炭”として地中に残っていることが考えられます。このことは通常の山火事や、一度っきりで起こる大断層とは根本的に異なります。低温炭化とは、発火温度に達していなくても、それが長時間続けば炭化してしまうことです。 弥山>と、焼山>の断層帯があやしい!!
もし、それが発見かれば、14C(大文字Cの左肩に小さく14と書き、シー14と読む)炭素年代測定法で、その時が四千年前のBC2001年12月だと云って下さると嬉しいのですが? (素人考えで^^ → 岩石の年代測定法にアイソトープ法がありますが、これの正確さは万年単位?? 炭素法の正確さは二千年前まで?? 四千年前は、帯に短しタスキにに長しか・・・^^!)
(おまけ) (5/29)
① 航空地図を観ていると、山口県本土東端の和木町と宮島の須屋浦の端が“ジグソーパズル”のようにくっつくように見えます。これは地質年代で万年単位のことでしょうが、元々はくっついていたのかも知れません。そして、今度の四千年前の大事変では、本土岩国へ近づき押し上げらていることが考えられます。岩国の「国」というの概念は大陸からの新しい概念であり縄文石器の時代にはなかったものと思っています。「何故、岩国なのか?」その付名の‘いわれ’を知りたい。そして、押し上げたとすればどこかに段差が出来ているはず。その海底段差の探索は(大学?)の貴方様に委ねることに致しましょう。・・と言っても、二十余年この方、(大学・専門家)に相手にされた試しがありません。いずれ‘拙論は’今世紀を圧巻する時がきます。その時その人達は、どんな顔をなさり、何んと云わはるのでしょうねえ。 まさか^^ 「物証がない! 信じられなかった」とでも? 又々、恨み節がぁ~~!(笑)。
② 宮島の西端に、高さ43m余の<可部島>という小さな無人島があります。本土にも<可部・かべ>という地名があり、何故<可部>というのか分かりませんが、わたしの予想ではこの島の頂上に、何か“宮島に関係した遺跡”が遺っていると推んでいます。それへの探検・探査はクルージングが出来る(あなた様)に委ねることに致しましょう。ウエブで調べれば、この島には戦時中?と思われるトンネルもあり、その他「七浦巡り」もあるようです^^。そして、宮島に七不思議があるとも聞きますが、その方への挑戦は、ミステリー好きの(あなた様)に委ねることに致しましょう。(^-^!)
これで、この記事を完了しました。長いあいだの長文・駄文にお付きあい頂きましてありがとう御座いました(深礼)。ネタ切れのため^^!、次への更新予定は、今のところありませんが、再開ができるその時まで、どうぞ皆様ごきげんよろしゅう♪(^-^)♪ 再見! 2011 5/29 □
“ねすみ・根炭”とは、筆者の付名・発案で(^-^)、断続地震による断層帯で岩塊と岩塊が擦れて高温を発し山火事となった時、上部の立木は燃えてなくなるが、根部が酸素不足や、低温炭化作用で“炭”として地中に残ること。
【 お知らせ 】
記事は不定期な日々の(追記)で更新していますが、今回の(5/29)で完了しました。
「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」の方は、一時休止しています^^!。
そちらの方は、カテゴリー「銅剣銅鐸探査のあれこれ!」のクリックをお願い致します。すべての記事は、連続・関連モノです。お時間の許される方は、当初の「卑弥呼・・・」から、お付きあい下されば幸いです。
さらに、本命の(別紙・電子出版; 極秘報告書「巨大隕石と大津波」)もあります。(無料立ち読みコーナーあり^^) ※ リニューアルされていて、クリックしても出てきませんでした。
文芸社の電子出版書籍サイト Boon-GATE:極秘推理報告書「巨大隕石と大津波」(ジャンル:自然科学)で検索すると出てきました^^!
長いあいだの長文・駄文にお付きあい頂きまして、ほんとうにありがとう御座いました。‘ネタ切れ’のため次の更新の予定はありません。しばらく休みますので、ご訪問が出来ないかも知れませんが、再開できるその時まで、どうぞ、皆様ごきげんよう♪(^-^)♪ sanks □ 2011May30
(深礼) 史実探偵: 平 素人
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「地名という祖先からの伝言」
時は、BC2001年12月25日の朝方、‘三陸地方発’ (月別アーカイブ:2008 11月、 東北地方の巨大隕石の痕跡を追う!参照)の、巨大地震と大津波が、広島の地に到達する。
地名はその地に何があったかをいう ‘人文史’ であり祖先からのメッセージである!
前記事“巨大地震によって変形した宮島-” からのつづきです。
<宮島の大断層を探せ!> (5/20)
素人の拙い論では、現科学はおろかあなた様までもが信じて頂けないので、もう一度、宮島の地形を交えて観察してみよう^^。
【 島の長さは、約10km余で、幅は約3.5kmのほぼ長方形。全島は花崗岩で、山は急峻し、ほぼ南北と東西の“断層がある”そうだ。島の主峰は<弥山・みせん>で535m。その頂部には巨石群がみられるという。島の南西端には次峰の<岩船山>がある。】 その断層はどこだ?!
△弥山(みせん535m)> (5/21)
宮島の主峰が535mの弥山(みせん)なのは、分かっている。弥>というのは、阿弥陀仏とあるように一番の意味であろうか。しかしながら、山>と書いてセン>と読むのが分からない。思い付けば、鳥取県に大山(だいせん)。鳥取・兵庫県境の氷ノ山(ひょうのせん)等も、セン>と読む。九州の阿蘇山。四国の石鎚山。富士山等は、高いながらも、さん>と読む。中部地方では○○岳(だけ)という。東北では山なのに○○森>。 高知県だったかな? ○○丸>という山名もある^^。 所変われば品(呼び名)変わる? しかしながら、広島の山のほとんどは、さん>と呼び、セン>と呼ぶのは、この山だけと思うが? 何か特別の意味があるのだろうか? どなた様か御教示を^^!
航空地図等で見ると、下図の →1 →2 →3 に断層帯のようなものが見える。
大黒岩
△前峠山(まえだお)
多々良潟
多々良川 →1
△大江山
△三ッ丸子 →2
△先峠山(さきだお)
→3 大砂利
△前峠山(まえだお)と、△先峠山(さきだお)> (5/22)
前峠山と書いて<まえだお>と読む。一般的には<峠>と書けば<とうげ>と読む。地方によっては、峠のことを<たわ>という所もある。前峠(まえだお)とは、“前倒し”の意味ではないのか? 峠の字が漢字か国字かは知らないが、その字形が面白い。 『 山が上下する!』BC2001年12月25日の朝方。本土の<物見台>に避難した祖先は、そこで『山が崩れ行く』のを見た! だから、この名前がついたのだ。事変後、そこに何があったのかと?島に渡ってみれば、『その先にも山が倒れていた』。
≪ この時を想像を含めて再現すると ≫ (5/23)
時は、四千年ほど前の12月25日の朝6時頃。まだ日の出にはほど遠く寝ている時間。東北で発した巨大地震は、その身体が豆粒のごとくに、はじけ飛ぶほどの衝撃でこの地にとどいた。立っていることはとうてい出来ない。人々何があったかも知れないうちに内海で発した津波でその身体をもっていかれる。津波でもっとも怖いのはその土石流や漂流物が持つ破壊力だ! 平均的な水深は前述の<高見>で22mとした。8時半頃に水位はピークに達する。幸いといえば幸いか。当時の住居はたて穴式のような簡素なものであった。命からがら助かった人達が<物見台>で、目にした<宮島>は、腹の底まで揺するような大音響とともに火の手をあげていた。山塊と山塊が擦れて(大黒岩)火を発した(焼山)のだ。<弥山>は燃えあがった。上昇気流は周囲の空気を引き込む。だからこの風を<多々良・ふいご>と地名に遺したのだ。この巨大地震で崩壊した山々は、列島の他の地にも数多く残っているはずだが、発火を伴う程の変異は何処でもあるとは限らない。
①津波が<潮山>に上がり込み!
②山が<前峠・先峠>と崩れ行き!!
③更に<弥山>焼山が燃えあがる!!!
この三拍子が揃った宮島を、神が上がり込み 『神・居着く島・厳島』 として崇めたのだ!
神が棲むから宮島なのだ。その意味での宮島信仰は、神を呼び寄せる出雲信仰とは少し異なる。 貴方が(現科学)が、もし、その時この地に身を置けば『 何を思い、何んと云う?』 筆者がご先祖さまから聞く大事変は、何万年も前の “地質時代”のことを言っているのではない。少なくとも祖先がそれ等の大事変に遭遇し、<早時>や、前峠山(まえだお)先峠山(さきだお)<・・・>の語彙(ごい)を発し、それを<地名や言い伝え>として残すことが出来るようになった “その昔である”ことは否定できない。
(5/24)
航空地図等で見ると、下図の →4 →5 ↓6 も、断層帯のように見えます?
→4
御床浦 樫木浦
→5
△大川山
青海苔浦
△老王山
(谷川)↓6
養父崎浦
巨大断層は、一時で出来るとは限らず、幾度かに分けて出来ることもあると云う。この時、同時に出来たかどうか? 又、その変異の大小等も分からないが、同時であれば、新しい土層が見えているはずだから △老王山>とは名付けない。老王>の名からすれば、前峠・先峠>に対しての<老>であるように思えるから、前峠・先峠と同じような谷の地形をもって、それより以前のこととして付名したようにも思えるが、この伝言(地名)だけからでは推しきれない。
<巨大地震で水波の様に振る舞う地殻> (5/25)
廿日市辺りの地図をスクロールしていると、<押ヶ峠・おしがだお>に当たりました。筆者はその詳細を知りませんが気になる所です。国の天然記念物?にもなっているようです。(写真では粉砕岩の堆積と?見える)前論を当てはめれば、この<押ヶ峠>の付名も、その時の「地震波が押し寄せた」と表現しているのではないでしょうか。 数ある(活)断層のなかで<付名のもつ意味>は、その時のものか否かの判断を大きく左右する。何故なら、その付名は祖先がその大事変を “実体験”したかしないかを言っているからだ。
<大事変その後> (5/26)
当時の12月25日は、今より平均気温で15・6℃高かった。(別紙電子版報告書) 年末の 気温を0℃、としても15・6℃は、秋の気温。 だから「安芸=秋?の宮島、厳島」というのかどうかは、筆者のこじつけ?駄洒落であるから責任は持てない。(笑) その後に続く、隕石の冬! 火山活動の目覚め! 海溝ストレスの解放! 断続地震の連鎖! はたまた、豪雨で流れ出る(破砕)巨岩流を<大砂利>と云ったかどうかも筆者のつよい思い込みかも知れません^^?
岩船山> と 岩国> (5/27)
それでは、何故、東北を震源とする巨大地震が、約1千kmも離れた宮島に大きく作用したのでしょうか?
カテゴリー出雲地方で、幅約5~6km、長さ約60kmの出雲半島を、Dr.いずも氏>は、<破砕半島だ!>と言われました。これも東北から見ると1千km近く離れている。そして、出雲半島は、東北から物差しをあてれば、東北から南西に向かって直行している。そのことから東北から伝わってきた地震波が“蛇がうねる”ように細長い出雲半島に作用し岩塊を破砕したと結論づけた。さらに、中国山地をマントルに浮く超巨大タンカーと考えた時、出雲半島(や宮島)は、それに沿う脇船に例えることが出来る。巨大船にとっては少しの上下運動でも、軽小の脇船(出雲半島)では大きく浮沈するのではないかとした。
宮島の場合は、島の長さは、約10km余で、幅は約3.5kmのイカダ形をしている。そして、これも東北から南西へ向いている。祖先は、その時の宮島の様を巨大津波の中を泳ぎ行く<岩船>だと表現している。今風の巨大タンカーだ! いつぞやは、その巨大タンカーが長波の巨波を受けて、真っ二つに折れたことがある。波長と船の長さが同調すれば、いかに強固に設計された船であろうと真ん中からへし折れる。そのような長波を想定した設計ではなかったからだ。水面につぶてを落とせば中心から離れるに従って波長は長くなる。その1千km離れた所に「タンカー宮島」があった! 都合の悪いことに?進み行く前方に<岩国>という巨岩塊が立ちふさがり、その行く手を阻止する。いかに強固な地殻地表であろうと巨大な地震波が働けば岩塊は、押し流された流氷のように振る舞う。韓国国土地理院では、この度の東日本大震災で日本列島と朝鮮半島が1・2cmほど近くなったと報告しているし、震源を淡路島とした神戸淡路大震災では、神戸山脈で跳ね返った地震波で長田区がやられた。素人の推論が正しければその痕跡は必ずどこかに潜んでいる。
<結び; 宮島の一反木綿と、根炭を探せ!> (5/28)
一反木綿>とは、
ご先祖さまの形容で、山と山が擦れて岩石が溶融し再結晶するとき白脈(主に石英脈)が出来ることだと謎解きしました。その一反木綿が、ご先祖さまの言い伝えでは「出没する」と云っていましたが、その白脈帯はどこにあるのでしょうか? 後の風雨作用で隠されているかも知れないし、土砂崩れ等でその破片が谷川へ流れ出ているかも知れません。○○様のウエブ写真で焼山から断崖を右にして下方の大鳥居を見ている写真がありました。その断崖には“滑り落ちた痕跡”がはっきり写っていました。この山頂付近にある大断崖は宮島へ渡るフェリー上からも見えます。だから、ご先祖さまは、この島を『宮島』に定めた! との結論に至りました。 山歩きの好きな貴方^^ どうぞ、その断崖の下の “一反木綿”を捜して頂けませんか^^?
根炭・ねすみ>とは、
素人探偵がつけた付名(ネズミ?-笑)です。 連続地震による断層帯で、岩塊と岩塊が擦れて高温を発し山火事となった時、上部の立木は燃えてなくなるが“根部”が酸素不足や、接触部から少し離れた所での低温炭化作用で“炭”として地中に残っていることが考えられます。このことは通常の山火事や、一度っきりで起こる大断層とは根本的に異なります。低温炭化とは、発火温度に達していなくても、それが長時間続けば炭化してしまうことです。 弥山>と、焼山>の断層帯があやしい!!
もし、それが発見かれば、14C(大文字Cの左肩に小さく14と書き、シー14と読む)炭素年代測定法で、その時が四千年前のBC2001年12月だと云って下さると嬉しいのですが? (素人考えで^^ → 岩石の年代測定法にアイソトープ法がありますが、これの正確さは万年単位?? 炭素法の正確さは二千年前まで?? 四千年前は、帯に短しタスキにに長しか・・・^^!)
(おまけ) (5/29)
① 航空地図を観ていると、山口県本土東端の和木町と宮島の須屋浦の端が“ジグソーパズル”のようにくっつくように見えます。これは地質年代で万年単位のことでしょうが、元々はくっついていたのかも知れません。そして、今度の四千年前の大事変では、本土岩国へ近づき押し上げらていることが考えられます。岩国の「国」というの概念は大陸からの新しい概念であり縄文石器の時代にはなかったものと思っています。「何故、岩国なのか?」その付名の‘いわれ’を知りたい。そして、押し上げたとすればどこかに段差が出来ているはず。その海底段差の探索は(大学?)の貴方様に委ねることに致しましょう。・・と言っても、二十余年この方、(大学・専門家)に相手にされた試しがありません。いずれ‘拙論は’今世紀を圧巻する時がきます。その時その人達は、どんな顔をなさり、何んと云わはるのでしょうねえ。 まさか^^ 「物証がない! 信じられなかった」とでも? 又々、恨み節がぁ~~!(笑)。
② 宮島の西端に、高さ43m余の<可部島>という小さな無人島があります。本土にも<可部・かべ>という地名があり、何故<可部>というのか分かりませんが、わたしの予想ではこの島の頂上に、何か“宮島に関係した遺跡”が遺っていると推んでいます。それへの探検・探査はクルージングが出来る(あなた様)に委ねることに致しましょう。ウエブで調べれば、この島には戦時中?と思われるトンネルもあり、その他「七浦巡り」もあるようです^^。そして、宮島に七不思議があるとも聞きますが、その方への挑戦は、ミステリー好きの(あなた様)に委ねることに致しましょう。(^-^!)
これで、この記事を完了しました。長いあいだの長文・駄文にお付きあい頂きましてありがとう御座いました(深礼)。ネタ切れのため^^!、次への更新予定は、今のところありませんが、再開ができるその時まで、どうぞ皆様ごきげんよろしゅう♪(^-^)♪ 再見! 2011 5/29 □
| ホーム |