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此処に 「卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸」 あり!!
卑弥呼は魏から得た100枚の銅鏡に換えて出雲と “同じ決め事”で 持ち寄った銅剣と銅鐸を封印した!
(田野畑村)BC.2001年12月25日の 「巨大津波の痕跡」 その1, & 2,
「 巨大津波の痕跡 」
 表題での記事を (例によってナメクジに錨で?笑) UPしていきますので、 どうぞ 御一緒に考えながら楽しんで頂ければ幸いです。 (尚、記事数も多くなってきましたので(カテゴリー別に)御覧になると読みやすいかも知れません)

 (前文)
このところ 「卑弥呼の埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」を放っぽらかして、「東北地方へ光臨した巨大隕石」についての記事を載せていますが、この巨大隕石=荒神がもたらした慈雨と<その津波が>打ちあげた大量の海の恵みと、生け贄との交換思想が、人身供犠用に稚児(火神子)を隔離し、育てる文化へと発展し、それを止めさせ銅鏡文化へと変革しようとしたのが卑弥呼ですから、今しばらくお付きあい下さい。  ( この記事から御覧になりはじめたお方は、お先に卑弥呼の記事<カテゴリー、この指 と~まれ>の方から、どうぞ・・・・、笑い )




 < 岩手県 閉伊郡 田野畑村の(弧状)列石遺構 >
      Yahoo! 検索 → 田野畑村列石遺構 で検索すると以下を表示します。
            *縄文遺跡
            *列石遺構 80メートルを確認
            *岩手県指定遺跡 館石野1遺跡
 以上を、検索しその概略を転載する予定ですので、お急ぎの方は、お先にどうぞ♪ そして、これ等の遺跡が <なぜに築かれたのか?> その動機等を含めて、思いをいたされるのもよかろうかと思います。 ・・・ <列石遺構は津波際の被災記録碑だった!!>

* 縄文遺跡      (遮光器土偶と列石遺構の写真付きです)
村内にはいくつもの遺跡が確認されていて、縄文時代の土器や石器などがたくさん出土しています。 中にはほぼ完全な形で出土した遮光器土偶や人面付石製品など珍しい遺物も発見されています。 村内の舘石野には、早稲田大学の発掘調査により研究が進められている列石遺構があり、また多くの竪穴式住居も併せて発掘されています。 まだ全貌は明らかではありませんが、全国でも最大級の遺構であると考えられています。
環状列石(ストンサークル)とは異なった直線状の列石で、非常に特異な列石であると注目を集めています。 これら配石の目的は、死者の埋葬、祭事や信仰の場であるとされていますが住居跡が近いこともあり、まだまだ解明はこれからです。

* 「 列石遺構 80mを確認 」    広報たのはた 2000年11月号より
  館石野1遺跡で 現地説明会 ( 2000年 10/21 )  
今回の調査では過去に早稲田大学が行った調査(昭和62年~平成5年)で発見されていた列石遺構 (列状に石を並べた遺構) の1つが、東西に約80メートル延長していることが分かりました。 また、お墓と思われる組石遺構 (大きな石を組んだ遺構) や、多くの石器、土器が出土しました。
 村では今後も、発掘調査や、出土遺物の研究などをおこなって、遺跡の全容を調査していくことにしています。


* 岩手県指定遺跡 館石野遺跡


               ~ 平成12・13年の調査を中心に ~
       田野畑村教育委員会                安 達 専 伸

  http://www.geocities.jp/mshomei/pareo/28kai-shiryou/tateisino.htm
(註; 氏の、報告書は専門的で丁寧に書かれていますので、以下素人的に解釈したり、おおきく略したりしている部分がありますので、詳しくはそちらへどうぞ♪)
1. 遺跡の位置と立地
岩手県下閉伊郡田野畑村島越に所在し、三陸鉄道北リアス線、島越駅の南東約1、6km、 (南西約1、6kmの間違いでは?)海岸から直線距離で約2kmの海岸段丘上にある。
          近くに切手遺跡(切牛の間違いか?) 切牛Ⅱ遺跡、真木沢Ⅰ遺跡等がある。
          浜岩泉Ⅱ遺跡からは遮光器土偶が出土している。

2.調査の概要(早大調査)
第1号列石遺構; 現在の等高線(175m)沿いにあり約60m(80mの間違いか?)を確認。
第2号列石遺構; 1号列石の南側にほぼ平行で位置する。
           その構築時に部分的に地面を削平を行っているようにみえる。
           2号列石の南側の被覆土中に相当量の遺物が捨て場に近い様相であった。
第3号列石遺構;1号2号列石と同様な構造であり、これも削平を伴っている部分があるらしい。
○ 第1号列石の北側は平面
○ 第2号列石と第3号列石のあいだに竪穴住居跡あり
○ これらの列石遺構をおおっているローム層を再確認。 これらのローム層は第1号列石遺構を埋めるように帯状に分布している。
○ 遺物。 遺物は縄文後期前葉を主体として、さかのぼり縄文前期後葉からを出土している。

3.今後の展望
2カ年の調査で、第1~3号の各列石遺構とも、早大調査での予想に近い状況を把握することができたが、それぞれの関係や各列石遺構の詳細な時期については明確にすることができなかった。第1号列石は、さらに延びる可能性が高くその延長を確認する必要がある。また、列石遺構の時期についても明確な答は出ていない。各列石遺構とも、複数時期にまたがって構築された可能性もあるが、現状では、列石遺構を被覆している土層から完形に近い土器 (十勝内式)が複数出土している。その時期より降りる可能性はほぼないものと考えられる。今後は、さらに遺構の切り合い完形等から、時期を絞り込んでいく必要があるものと考えている。
   < 調査図面が掲載されています。>

以上が、田野畑村教育委員会 安達専伸氏がネットで掲載されている報告書の概略です。


 さて、この列石遺構が何んで<津波の痕跡>を記したものか思いをいたすことにしまょう。
                              (キーワードに下線を引いてみました)

<田野畑村・島越(しまのこし)の所在>
田野畑村・島越は、宮古市と久慈市のほぼ中間で、太平洋岸沿にある細長い海岸段丘に位置する。 海岸段丘とは、海に面した山裾沿いに付属する細長い丘部の海側が、切り立った断崖状になっているものを云うらしい。 分かりやすくいえば「陸にくっついた海岸棚地」(筆者がかってに命名)かな? その成因については、通常の風雨作用では出来ないことから、地質年代での海面の上下による浸食と、その陸地の隆起をあげているようだが、素人的には、いまいち判然としない。 なぜなら、ここ田野畑村の<鵜の巣断崖>は200mの絶壁をなす。 難しいことは棚に上げて(笑)

この「海岸棚地」を刻み太平洋に流れ出ている幾筋もの沢がすごい。 沢と名付けられてはいるが、その巾3kmほど棚地に食い入る流れの深さは100mを越し「地の割れ目・クレーター」と形容するほうがふさわしい。 ここ島越(しまのこし)の北側の<松前沢>にかかる思惟大橋(昭和59年)は谷底から120mの高さ。 そこから約3km南側で、国道45号線にかかる車道専用の思案坂大橋(平成17年完成)の高さも120m。 傍らにある槙木沢橋(昭和40年)でも谷底からの高さは105mである。

南北を大きな沢に阻まれ、陸の孤島ともいえる<約3キロ平方>の中に、すこし小ぶりではあるが同様な沢が2筋刻まれている。 その一筋の先は、ふたつに枝分かれして一方は<島の沢>他方は<シライケ沢>と名付けられている。 そのふたつの沢に夾まれ東西に長い丘状地の南東側に、本題の<田野畑村・島越の列石遺構>があった。 (国土地理院・電子版)

ここに入るには「辞職峠」と名付けられた峠があって、その昔、やっとの思いで峠越えしたその先に!、高さ120m、巾300m?のクレーター! 「もう駄目だぁ~」といって辞職届けを出した(ガッコの先セ)があったことから付けられたそうですよ。(笑) でも一度そこへ足を踏み入れれば別天地。 太洋をながめる景色は絶景。 海抜約190m~150mの丘状をなし、今では牧草地になっているもよう。 三陸リアス線・島越駅の海岸に降りれば、アワビ、ツブ貝、海草等の海の幸が得られたそうで、その魅力に取りつかれた方が、「田野畑思い出のトポス(場所)」に、それをネットに載せていますから、ぜひ御覧になって下さい。(^-^)

とはいっても、縄文代のこの地は、人が簡単に足を踏み入れられる場所ではない。 例え入ったとしても、わずか3キロ平方の閉鎖された広さでは、年間を通して食料が得られるとは思えず居住区として成立しない。 なのに縄文代の遺構、遺跡がある!? 生活圏で無いところに遺跡がある? そうだ。ここ田野畑村の<島越・しまのこし>は、なにかの “聖地として供用” していたのだ。

 <第1号列石遺構; 現在の等高線(175m)上に設えている>
その長さ80mを確認。 これ等は「死者の埋葬、祭事や信仰の場所」であると考えられている。何を思って縄文の祖先は、この列石遺構を築いたのであろうか。今までの列島の歴史で、それ等をまとめるという発想はあっても、石を長く並べて墓にした例を筆者は知らない。 その写真では細長い石は立てて。 それをつなぐように集めた石を並べている。 石には表情があり表と裏がある。それを海側から眺めて築いたのか陸側から眺めて築いたのかも問題だ。 次に問題となるのは、<その位置と、175mの等高線沿い>にあるということ。 私達が愛する人を葬るとき少しでも高い山の中腹以上を望む。 緩斜面とはいえ「ここから下は低くなりますよ」の、いわば生活圏から下には葬りたくない。 その組石の部分が墓ならばその場所に特別な意味がある。それがその時の被災者の埋葬地でなければいいのだが・・・、

この第1号列石遺構の下方で、それに沿うように第2、第3列石遺構が設えてある。 さらに注目したいのは、これ等の<施設地面に削平部>があることだ。 これ等を津波際の痕跡だとすると、「 高い部分は途切れるので除きたい!」 第2列、第3列は、津波の第2波!、第3波だ!等高線175mは<津波第1波の津波際>を印している。 等高線175mの高さは、この海岸段丘の半分以上?を浸す。 生存した人達の心境はいかに・・? 「 天が怒り、地が怒り、海が怒った!」 海の怒りは怒濤の津波となって押し寄せた。天の怒りは雷鳴と滝の雨となった。 地の怒りは大地を打ち振るわせ火山を誘発しその粉塵は太陽光をさえぎる。 津波はすぐに退くが波打ち際にその痕跡を残す。海の恵みをうち上げて♪ ・・ 巨大隕石は、荒神となって人々の心の中にも降臨した! 残存した祖先が、その津波際を遺したいと思うのは当然の成りゆきだ。
     <津波痕へ杭を打ち 縄を張る>この形が、今に残る列石の姿だ。

 <その時を、想像を含めて再現してみよう>
時はBC2001年12月25日の朝6時頃。 この地の人達がどこに居をかまえていたかを筆者は知らない。 この大事変前の気温を貝塚等の所在から、当時の海水位は今より5~6m上で、平均気温は今より15~16℃をプラスとみていますからさほど寒くはない。 外は未だ暗いまどろみの中でその大事変はおこった。 と!外に真昼の閃光が走った! 直後に身を震わし痛みともしびれともつかぬような衝撃波と轟音! なにが起きたのかが分からない。 早起きで南の空を直視した人は目をやられた。 轟音は耳をつんざき聞こえなくなった人もいた。 恐ろしさで耳をふさぎ目をとじた。  が、地は揺すられ体は大きく飛び跳ねた。 息をつく間もなく175mの巨大津波が押しよせた。 わたしは、これ以上 恐ろしくて想像することすら出来ない。
 信じられないことではあるが、この大事変においても生き残る人がいた。・・


<浜岩泉遺跡から遮光器土偶>が出土している。 この土偶は完成度がたかく当時の衣服や技量では考えられないとして「宇宙人の飛来だ」と、藤子不二夫先生は、ドラえもんのなかで云っておられました。(笑)

この隔絶した地を「決して常人が冒してはならない聖地と定め」、なにかの困り事があった時、大洋を望む<切牛遺跡>で牛を生け贄としてその海に捧げた? メッセンジャー;素人は、祖先からの伝言として 「浜岩泉の浜は、かの地が浜になったと! そして、島越の島は、列石遺構を遺している両脇の沢に海水が入り込み島状になったと」受け取っています。 でないと、海抜180mで平地に近いこの場所に「浜や島の地名」をつけた発想が思いうかばない。 今に残る<鵜飼い漁を神事>とするのは、巨大津波がかの地を「鵜呑み」にした。とも受け取っています。 蛇足ながら長良川の鵜(う)は、ここの断崖で捕まえたものを使っていると聞きましたよ。
筆者は、今現存する <かの地の神社の祭事や> 死者の弔いかたを知りたいとも思う。

 <第2号列石と第3号列石のあいだの竪穴住居について>
 <第2号列石の南側の被覆土中に相当量の遺物が捨て場に近い様相であった>

(註;この遺物と年代等の区分けは専門的用語でなされているので、単に縄文代としています)

竪穴式住居や相当量の遺物についてと、その歴史経過の知識は皆無といっていいほどの歴史音痴ですから、その解明は専門家や興味のあるお方に委ねたい。 さらに、この囲われた地のなかに<浜岩泉><大芦><切牛>の地名があり、それぞれに、お宮さんは御座るのだが、お寺さんは無い。 なぜなの? そのいわれを知りたい。
そして、この論には多くのまちがいを含んでいるとは承知しています。 それを正して欲しい。 しかし、「東北の地の巨大隕石」だけは、いかに無知未解の部分があろうとも、それを謙ることが出来ない。 なぜなら、私には “地名伝言” という祖先からの強力なバックアップがあるからです。できれば。生きているお人の方がいいのですが?(汗~)

( 少年心(こどもごころ)が疑問に思うこと?)
竪穴式住居について、この「竪穴式」がつくと必ずその後に「住居」がつきます。はたして、そのすべてが住居跡なのであろうか? まず第一に掘るのが大変(笑)。そして雨季には穴の側面から水がしみ入らないか? これを防ぐには穴の周りの土を突き固めなければならず、それも大変。 さらに、屋根には出入り口を付けねばならず、大雨の時は、その入り口からの吹き込みや流れ込みはないのか? 冬は暖かくて夏は涼しいと云うが、大事変前の当時の気温は今より15~16℃プラス(前述)その必要があるのか? それとも蚊やネズミの対策? どんぐり等は穴で貯蔵したと云うから食物が腐りにくい? 分からない。々・・・! どなたか教えて!(笑) そして、この地は一度掘り返すと水の浸透力が増すと思っていますが? !(^-^)!

いやいや、一番大切なことが抜けていた。 以前キャンプで三角テントを張りました。 テント内の端々は、物も置きにくいし、立つことが出来ない。 掘り下げておけば、この難点は解消する。そして立ち壁をつけるとなると安定が悪く建築材料も多くいる。三角屋根だけなら材料が少なくていい。 飲み水はこの内に湧き水があったというからOK。 やはり、「 住居跡か?」 だとしても、3km四方ではなぁ~・・・。 インフラ整備がととのった今日とはちがって多くの人は住めないと思うが?。 ・・・墓守さんとか太夫さんが住んでいた線も考えられるぞ。 それを通常の住居跡だとすると<列石遺構・津波痕>の論は、多少は弱まるが消えてしまうものではない。 いずれにしても、この住居跡から <生活必要時間> をわりだせばおおよその、ここに住める員数はでてくる。 田野畑村で、これ等の?研究をされた外国の人がおられたとか?  言い添えておきますが、田野畑村の本拠地の村役場は、この外にあります。


< 中学生諸君に!> 今では、外界と隔離された金魚鉢。 アリゾナ州?だったかな。隔離されたガラス家屋に何日間住める? 宇宙船ではウンチ・シッコもリサイクル(笑)

 < 第1号 列石遺構を帯状に覆っている ローム層について>
ローム層とは、火山灰質粘性土の総称。 火山による噴煙が降灰して高台の丘陵地や台地に堆積した赤褐色を呈する地。とある。田野畑の西方約75kmに「岩手山・火山2039m」があるから、これの降灰か? 第1号列石遺構より北側は平地。そこから下はなだらかな斜面。・・・、平地と斜面の境目に1号列石は築かれている? ・・・、わからない! その時間的経過が解らない。 1号列石を覆うように帯状にある。 自然降灰か? それとも人為的に列石を覆ったのか? 自然降灰と人為的とでは、その意味が変わってくる。「帯状に」とあるから人為的なのであろうか? 人為的だとしても何故に覆ったのか? その意味が思い浮かばない。 自然降灰ならば全地域が覆われるはずだか? この帯状のローム層は、その時の巨大津波が運んだ濁泥波打ち際痕だ!? ・・・???、

火山ガラスについて; (火山性ガラス質工業会より)、の抜き書きです)
火山ガラスとは、マグマが急激に冷やされ鉱物として結晶化しなかったものである。
この火山ガラスは、マグマが直接的に固まったものである。
二酸化圭素(SiO2)を多量に含んでいる火山噴出物は火山ガラス質岩と呼ばれています。
白土・シラス・・・、
白っぽい溶岩(流紋岩)新島ガラス(オリーブ色)
黒っぽい溶岩(玄武岩)大島、三宅島、ハワイ


<何を模索しているかというと>
巨大隕石がドンと大地にぶつかる。 この応力は火山や核爆弾の比ではない。その時発生する岩石の形は、大小さまざまであると考えられる。この場合は、その直後に津波が発生しているから、そのミクロ粒子を波打ち際に集めているのではないかと? 私達がなにげなく見ている海岸端をよくみると小石小砂から微少砂まて実によく分別されている。 その海岸端がこの1号列石ではないかと?

<火山灰粘土>と<巨大隕石で発生したであろう津波際粘土>の中に含まれている二酸化ケイ素(SiO2)に、何かの違いはないかと?? 火山ガラス?、今回はじめて知りました。別事になりますが鹿児島の桜島では、この火山ガラスがときおり噴出し、これが人体に悪影響を及ぼすから、その時は警報をならし屋外にマスク無しでは外出しないようにしているそうです。 一時の噴火で1m以上も積もりニュースになったこともあります。 火山灰の色は、黒っぽいか、白っぽいオリーブ色か、それとも灰色? <赤褐色>色は無いぞ! それとも経年変化により赤褐色になったのか? わからない! またまた「棚にあげて置きましょう」(笑)

ローム層は「関東ローム層」が有名だ。 火山灰のようなミクロの粒子が降灰した時の土壌は、そのままだと強い土壌力を持ち、宅地とするには好都合。 しかし上からの降雨には強いが横からの流れには弱く、その多くは切り立った崖状の様相を示している。 端々の宅地購入にはご用心を!
このローム層は、太古の津波が打ち上げた粘土質ではないかと?密やかに思っています。 (^-^)。 さらに経年して岩盤化したのが <この田野畑の海岸段丘> ではないかとも!



 BC.2001年、東北で発生 した「巨大津波の痕跡」、その2,

  ここ田野畑村で(地図及びネット)での調査ではありますが、大きな副産物がありました♪
田野畑村は、ほぼ平坦であったと思われる海岸段丘状の上にあり、海岸部は100mを超す切り立った断崖状をなし、海へ流れ込む沢はクレパス状を呈していると前述しました。
ところが、 この<断崖状をなしている海岸線>を南に延長し、 <リアス式岬のそれぞれの突端>とを線で結ぶと、 きれいな弧を描く! リアス式海岸のもとの地形は田野畑につづく断崖状の地形であった! それを巨大隕石で発生した大津波が、その幾筋もあったクレパスを カッ去って、リアス式にした! その大量の土石はどこへ?


ひきつづき、当ブログをお楽しみ下さい。♪(^-^)♪ 中・高生の地図をかたわらに・・おいて、
「なんですって」 もう少年心(こどもこころ)といっしょに無くしたって、それは残念!(笑)
 

カテゴリー; ゲスト様コーナー 「My粗茶室」 も 御用意してお待ちしています。なにも、ろくなコメントもお出しすることが出来ない(恐縮ぅ)かも知れませんが~(^-^)♪





 ♪お知らせ♪ (9/27) 
6名?のお方様、毎日のご検索ありがとう御座います。 “拙記事”のUPを心待ちにして下さるかと思うと、こんなに嬉しいことはありません。 なにしろ{卑弥呼}をかかげて10年余、無視のされ続けでしたからねえ。 私にとっての各御1名様は一騎当千の重みがあります。とても励みになります。 その時、御一緒に言いましょかぁ。「皆さんはどこ見てたの?」って、 バシッとぉ~♪(笑)
ご期待に添うべく、只今<更新→10月1日>をめざして準備中です。どうぞ楽しみにしていて下さい(^-^)


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どなた様、拍手をありがとう御座います。只今('10 5/23)までで3拍になりました。
     ('11 9/07, 9/12)に、拍手各1が頂けましたが、できればコメントを~~
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BC.2001年12月25日の「巨大津波の痕跡」 その3,
 川が無いのに?扇状地! <胆沢扇状地・いざわ>
 胆沢扇状地
  
前の記事・田野畑村の海岸段丘に残されている列石遺構(175mの等高線沿い)は、祖先が記したその大津波の波打ち際だとしました。 そして、三陸リアス式海岸は、その時の巨大津波がカッ去らった津波痕だとしました。 これを念頭に入れて、次の記事に入って下さると ありがたい。 なにしろ過去の世界史に学問としては残されていない、信じられないほどの大津波ですからね。
「川が無いとは、なんですか! 胆沢川という立派な川があるではないか」と、反論される方が当然おられますよね。 私も今の今まで、おぼろ気ながらも学校で<扇状地形>の典型的な事例としてならった記憶がありますから。(゛-゛!)

<次、胆沢平野物語、「胆沢平野土地改良区」さまの、ネットでの記事を 勝手に(^^!)
  載せますので、詳しく知りたい方は、写真や図もありより解りやすいので、そちらの方を
  〒023-0881 岩手県奥州市水沢区字北田140-1, Tel 0197-24-0171
  御覧になって推理を進めて下さい>


 【胆沢平野の特色】
概要
胆沢扇状地は、北は金ケ崎町南辺の丘陵、南は奥州市衣川区を境とする丘陵地に挟まれ、東は北上川に縁取られた扇形をしています。扇の半径は約20km、中心角は約35度で扇状頂部の標高が約250m、扇端部では30m~40mです。扇状地の面積は15,000ヘクタールで我が国でも最大級の広さです。

地形
今からおよそ50万年前から北に傾く地殻変動があり、隆起や沈下をくり返しながら胆沢川は、しだいに北の方向へと流路を変えていきました。その過程で複数の河岸段丘を形成しながら胆沢扇状地ができあがり、これに北上川の氾濫原を加えたものが現在の胆沢平野です。胆沢扇状地は6つの段丘からなっており、それぞれの段丘は東方向へなだらかに下がっていて東西の高低差は約200mあります。

地質
胆沢扇状地内の段丘は、胆沢川の河床面が北へ移りながら河道を刻んでいき、残ったのが段丘谷と段丘面で、いわば旧河床の名残です。沖積平たん地は腐植質に富む暗褐色の土壌が多く表土は約20cm、下層は1~1、5mまでグライ層、部分的に泥炭の表れているところもあります。地下水位は平均すると3~4mです。
(註: グライ層とは、土壌中の過剰水分のため空気が欠乏し還元状態になっている土層のことで、還元された鉄のために青灰色を呈している)



 謎解きに入るまえに、♪お願い♪
この謎解きのきっかけを下さったのが<聖和大学(仙台)の胆沢平野の調査と、それにまつわる伝説とをからめた報告書>でしたが、私PC素人は、2度とその画面を出すことが出来ない(^^!)。 どなたか<その検索語>を教えて頂ければ幸いです。


 扇状地とは、急峻な山あいから土砂を運んできた川が扇形平地部で一気に開け、そこに土砂が堆積してできた地形で、その構成土砂は粗粒であることが多いようだ。 この胆沢扇状地に類して、形は完全な扇形とはいえないが、富山県に庄川扇状地がある。 これ等と比べて何が同じで、何が違うのか?  尚、数字のおおざっぱな所はご容赦下さい。(゛-゛!)

①           扇頂から上流の長さ   扇頂から下流(河口)までの長さ  高低差
  胆沢扇状地    <約 1、5 km>          約 20 km          約1500m
  庄川扇状地     約 70 km            約 20 km           約1600m
  黒部川扇状地   約 55km            約 15km          約2800m
  信濃川(小千谷)  約 200km           約 80km          約2600m
  天竜川(天竜市)  約 130km           約 25km          約1900m

 上記の表で大きく違うところは、胆沢川の扇頂から上流までの長さで、扇頂の石淵ダム~焼石岳(1548m)の距離は、<わずか1、5km>しかない。 近年の黒部川第4ダムを造るまでは、その流れを制御できなかった黒部川扇状地でさえ、20kmあたりに換算すると、その上流長は73km。 暴れ天竜と称された天竜川でも104km。 日本一長い信濃川は50kmを要している。 平均的な、庄川扇状地で20kmの下流域をつくる上流域の長さは70kmである。(計算まちがってたらごめんなさ~い。^^!) むろん思いついたところだけの ピックアップなので、もっと多くのデータを要するが、この <1、5km>対<70km> は、大きくは間違っていない。
 わずか<1、5km>の上流域では、長さ20km面の扇状地は出来はしない。

②地形への疑問?
 今から50万年前には大規模な地殻変動があったもよう。それを簡単な言葉で一概には言えないが、胆沢扇状地の20km△の狭い地域の北側の部分だけ都合よく傾いたとは思えない。 百歩ゆずって、そうだとしても胆沢扇状地△の全面を覆う土石量を考えねばならず、一時にそれだけ大量の土石を運ぶメカニズムが考えられない。 そして50万年のうちに段々と北へ傾いていって、6段の地形を造ったとする胆沢川が、その扇形全面の北側部分を下流へ押し流したものならば、その下流域の北上川の氾濫原に土砂の堆積があるはずだが、それが見あたらない?

③扇形地の南側の山沿いに流れている<衣川>と共同で造った?
 ところが6段ある一番南側で一番高い段丘は、その最上部<宮坂>の標高が236m。そして、その細長くて高い連なりの最下端で北上川へ突きあたる辺りの<上徳沢地区>の標高が79m。その下の<野田>辺りに37mの△点37mが見えるから、その差は約40m。 流れをさかのぼり<天田>辺りの標高が119m。 その近くの<石生>から見上げる段丘上の標高は約200mで、その差は80mもある。 これを形容すると、巾500m~約700mの谷底を流れる衣川の水は、自然の造形とは思えないような堤防状段丘にはばまれ、一滴だに胆沢扇状地へは流れていない。 そして、その狭いともいえる谷底を流れる衣川は、異様と思えるほどにクネクネと蛇行している。 蛇足ながら(^^!)、栗駒山(1627m)に降った雨水が衣川上流の増沢ダムへ流れ込むのはわずかであり、その殆どは、山一つ隔てた南側の盤井川へ流れ出ている。

④胆沢扇状地の南端<一の台?>と、北端<金ヶ崎>で描く、「八の字段丘」の不思議?
歌手の「井沢八郎」さんは、この地に由来するのかな?(^^) 通常の風雨作用で造る扇状地形では、決してこのような八の字形の段丘地形は、造りはしない。そこで何があったのか!?

土石を含む巨大津波が、高い山に突きあたった時、行く手をはばまれた大津波が、その山裾に沿って帯状に、その土石を残すことがあります。 新幹線で、新大阪から京都までの北側の車窓から、それを見ることが出来ます♪ これを造ったのは、今論じている津波ではなく “別の巨大津波”です。 (2008 10 06 記)(^-^)

⑤近辺で、ほかにも「扇状地」はないのか?
 それは、Yahoo地図検索で、胆沢扇状地のすぐ北にあった。 <鍋割>から→真東の<和田尻・岩の目>のあたりまでの長さ約13km。 北端に<夏油川・げとうかわ>、南端に千貫石溜池から流れ出る<宿内川>に挟まれ、中心角およそ80度の扇状地! その北に付随した小さな扇状地も見える。

さらに、この北で、Yahoo地図をズームアップ、ダウンを繰りかえしたり、航空地図に変えたりしていると? 扇状地の形はしていないが、<八方山(717m)・尻平川>から、東南東の→<北上>向けて長さ約12km、幅10kmにわたる流れの痕跡が見えてきた。


???、この三つの『流れの痕跡』から、“巨大隕石の落下地”が割りだせる!?
 とりあえず、この三つの流れの痕跡を<胆沢痕跡・夏油痕跡・尻平痕跡>と名付けておこう。
<尻平痕跡>は、東南東を指している。
<夏油痕跡>は、真東を指している。
<胆沢痕跡>は、東を指しているようではあるが??
これらの延長線の先に『釜石』があるのは、すでに「拙著の電子出版・巨大隕石と大津波」で織りこみ済み。 その他に新しい2カ所を発見しましたが、今回は津波が主なので、それは<カテゴリー・巨大隕石>へ譲ることにしましょう (^-^)。 どうぞお楽しみに♪


⑥水界峠250m(宮城県)より、高い巨大津波が?
 扇状地の地形は、扇状地の頂部から同心円を描いて低くなっていくのが普通である。ところが胆沢では頂部を起点とした扇を北へ傾けたような6段の階段状になっている。それは、地形が傾き川の流れが段々に北へ移っていき現在の位置に留まったとするのが従来の考えであった。 だが、素人の考えでは、広域ならともかく、わずか20km△の狭い地域での傾きが考えられない。 今までの謎解きの延長からすれば、当然の巨大津波が発生している。 しかし、北上高地は越えていないだろうと思っていた。 今までに聞いている祖先の伝言では<水界峠・250m>が一番高かったからだ。 しかし巨大津波は、北上高地をゆうに越えていた。

⑦前記、三つの<津波の痕跡>の方向性
 その方向性は、北上高地を越えて襲来した津波の方向を指さしている。<胆沢の痕跡>の北側が低くて南側に高いのは、北上高地を越えた土石流が、その真東からではなくて、その扇状地の中心線より北の方向から襲来したからだ。 そして、6段の段丘は、その波状痕だ
それは、今私達が見ている海岸の砂浜や川辺で証明できます。 と言っても、これでは誰も信用してくれない(゙-゙!) 信用して欲しいとは言わない。それに気付いて欲しいと願っています。

⑧その侵入の痕跡を見つけた??
 その土石流は中心線より北の方向から侵入している。土石を含んだ巨大津波は、表土をえぐりながらやって来る。国土地理院電子版「供養塚」の<於呂閉胆沢川神社>辺りの等高線で、津波が表土をえぐりながら進む方向の逆U字形。 津波が引き返し、その土石が流れ出るU字形が重なり合うところがある。<若柳中学校のちょっと南かな>北緯39度7分26秒、東経141度2分12秒、の辺りにその記念碑でも建てますか?(笑) Yahoo航空地図で、この辺りをズームアップ・ダウンを繰り返して見ていると、ぼんやりと、その侵入痕が白く浮き上がってくると思いますが?

⑨土石を含んだ津波が山に、ぶち当たると!
 その土石を運んだ巨大津波は、胆沢扇状地南側の<檜能山927m、国見山788m、大森山352m>に、ぶち当たり、そこに土石堆を残した。そして、山へ駆け上がった水流は「落ち水」となってかえってくる! 他の地では、それ等を「垂水」の地名で遺していることがあります。 しかし自身が運んだ土石に邪魔され逃げ場を失った大量の津波は、跳ね返りがつくった溝間に沿って、自身が積み上げた土石堆を深くえぐりながら下流へと殺到する。衣をはぎとるように? 以前の記事で述べましたよね。 堆積土は「横流れ」に弱いって。
さらに川がつくる地形で、広大な釧路や有明で、ウネウネと曲がっているのは当然でも、狭い谷間の衣川では異常だ。 これは、山側の残った土石が後に流れ落ちて水流を曲げたせいだと思っています。

素人探偵の言うことが眉唾(^^!)だとお思いなら、その山の斜面を調べてみて下さい。 きっと山肌を晒している所がありますから。 その高さが、その時の津波の高さです。 このように強い言葉でいえるのは、ご先祖さまの「地名伝言」というバックアップがあってのことです。(^-^) 「ハイ!、ご先祖さま、嘘つかない」 できれば生きているお方の方が・・・、(笑) さらに、「海成物・塩分及び微生物の遺骸」 がありや、なしやも!
 

 「 謝々!」 どなたさまが拍手を? 大体の見当はついていますが、(笑) 
本日(拍手を集計)してみました♪ 総数26拍 ー 分けも分からず(^^!)自分で押した4拍 = (22拍手)                               (2008 10 07)
この22拍の数字は、皆様の一日の数にも満たない数でしょうが、わたし素人にとっては(勲章)よりも重い数字です。 ありがとう御座いました。 駄文ではありますが今後ともの応援よろしくお願いいたします。 おりしも、日本人3人の(ノーベル賞)の発表がありました。 外国ではよくあることでも、日本での共同研究の受賞は初めて。 日本では一教授の下での風習がつよく、互いに干渉しないのが良しとされ? お互いに切磋をして研究することへのなじみがうすい。 その評価発表も必ず代表者1名の名前しかしない。 お互いに友を讃えて拍手する光景を見たことがありません。 ・・・・・、(^-^!)
   「満たされた時の酒池よりも、渇いたときの一杯の水(拍手)」 史実探偵: 平 素人


⑩逆流の、バックストリーム痕
 津波には、前述のような“帰り水”がある。それを筆者はバックストリームと名付けています。檜能山を始めとする扇状地の南側へ降った雨の多くは石淵ダムや、南の磐井川へ流れ、衣川へは流れ込まない。 なのに、川幅?500m~700mの谷を形成している。(元々の地形かも知れないが、それは北岸の段丘下部の地相が堆積層か否かですぐに判別できる) 大河の下流域ならともかく、わずか20km余りの長さで、しかもその片側の分水嶺域をもたない衣川の谷間を、通常の風雨作用で出来たとするには大きな無理がある。 衣川の谷間は、「バックストリーム痕だ!」 その下流に目を向けてみよう。 衣川の谷間を造った水量は、北上川対岸の<平泉町>の山塊によじ登る。 祖先は、そこに竜と坂の字を連ねた<竜坂>の地名を遺している。 その坂には「竜」の名を冠する必然性が、きっと “地形” として刻まれている。 筆者は、その竜が運んだ弓状地の土質を知りたい。 北上川の氾濫原とは別の何かが隠されているはずだ。

⑪地質についての疑問?
胆沢扇状地の、「沖積平たん地は腐植質に富む暗褐色の土壌が多く表土は約20cm、下層は1m~1、5mまでグライ層、部分的に泥炭の表れているところもあります」とあった。 この「沖積平たん地」が、北上川の氾濫原と、同一なのかが分かりませんが <同一> として話を進めましょう。

(グライ層とは、土壌中の過剰水分のため空気が欠乏し還元状態になっている土層のことで、還元された鉄のために青灰色を呈している)でした。 ちなみにグライとはグレイ色のことで、長期にわたる稲田の底の微細土が酸欠をおこし青灰色になったものを云うそうで、一般的な稲田の下層にできます。 これは粗粒の河川原や扇状地において、下部への水抜けを防ぐためのお皿の役目もします。 それ等の土は、祖先の永々たる労苦の成果であり、一朝一夕のもとに成ったのではありません。(特に中学生のために、^^!)

<胆沢扇状地・沖積平たん地へ話をもどし>
過去に筆者が田地の構造改善等で見た青灰層等の深さは、50cm~1mぐらい迄で、1m~1、5mのグライの層は厚すぎる? (どなたか詳しい方教えてください。汗!)そして、腐植質に富む暗褐色の腐植質表土の約20cm、を加えると最深部は1、7mにもなる。 これを田地とするために<人為的>成したとする必然性が思い浮かばない。 稲田では深耕といっても、せいぜい50cm?もあればよい。それ以上深いと足が抜けない。 (どなたか詳しい方教えてください。^^!) 深さ1、7mの土壌は、人為的に土壌改良したのか、それとも津波の戻り水が成したのかを、!?

  水流(津波)が物を運ぶとき、物質は非常に効率よく <似たものは似たもの同士に>分別される。  平 素人

  その概略を想像も含めて再現してみよう。
巨大隕石が<釜石 辺り?>にぶち当たる! 大小の岩石弾が吹き飛ぶ。 巨大津波が発生する。 それ等は土石流となって草木はおろか表土までも削りながら進行する。 胆沢扇状地の段丘6段を津波痕?だとすると、北上高地越えの津波は<6波?>となる。 この場合の津波は、地震で発生する上下動の波というより、石飛礫(いしつぶて)を投げた水面のように、跳ね上がり、飛び散ると表現したほうが良いかも知れない。 第一波は、隕石と大地をうがった巨石弾を含む。第二波以降は、順次細粒となって運ばれる。 これが否かを調べるには “南端段丘の最上部分” を調べればよい。 中には溶岩にくるまった「さざれ石」もあるかも知れない。 「さざれ石」調べて下さいね。筆者は知らなかった。
(^-^)

 だが、ここで <やっかいな問題> が発生する。
<焼石岳>や<栗駒山>が、刺激されて火山弾や火山灰をまき散らした?かも知れないからだ。 前述?しましたよね。火山と巨大隕石が残す症状の見分け方は難しいって(^^!) もし、それ等が混合していたら、さらなる論戦に発展する。

 <泥炭について考える>
「泥炭・褐炭・無煙炭」等と、語呂のよさを学校のときに習いました。^^! 筆者は、その泥炭を見たことがない。泥と植物炭とが混ざった物? <津波が運んだ植物が石炭になったの論>については、拙著「巨大隕石と大津波」で述べているが、頁数を要するので、ここでは、そのイメージだけに留めたい。

石炭は太古の植物が地中深くに埋もり、地熱によりじっくりと炭化したものだ。浅ければ地熱の発生もなく、朽ち果ててしまうので石炭にはならない。 この状態を人工的にしたのが「炭焼き」かな? 酸素を断ってじっくりと焼き上げる。 石炭の質についての主な要因は、植物が埋もるときの泥質の多少と、地熱の発生よって異なる。 その<泥炭>が胆沢にある。しかも表土近くに? (日本の泥炭の産地としては釧路があるが、こちらは、ちょっと棚にあげといて) (^-^)♪

胆沢の<泥炭>が石炭紀に成ったのかどうかを筆者は知らない。石炭紀だとすると話は非常にややこしくなる。 だが今までに積み上げた論拠によっても、胆沢の泥炭は成り立つ。 すなわち山越えの巨大津波が立木を集め泥とともに、それ等を埋める。 そして、近くで発生した衝突熱が地を伝わり<地表浅く>にあってもそれ等は炭化する。 さらに、この大事変が起こした空気熱によって炭化する。そして、燃え上がり津波によってかき消されたもの。 さらに、その時発生したスス等のことについて迄は、素人の考えも及ばない。 さらに付け加えて、津波は<アブク>迄も、寄せ集めるからね。(笑)

⑫胆沢の扇状地が <津波跡だと実証出来る> 決定的な痕跡!
 ここで筆を止めておきましょう。 皆さんお先に捜して下さっていいですよ。♪(^-^)♪


 話をかえて、 山梨県の甲府盆地にある <勝沼町の扇状地> を観てみよう。
      中学生地図のなかほど(生活の舞台)に載っています。
勝沼町は、笛吹市のなかにある甲州市の「飛び地」です。 このような飛び地は、それを手放せない歴史的背景か、それとも平成の大合併で?、なったのでしょうかぁ? 

ここは、他の要因に左右されない扇状地で、典型的な扇状地。 その構式図(扇状地の断面図)も載ってある。 その詳細を観るには、国土地理院の電子版のほうがいい。

* 勝沼町扇状地は、富士川上流の笛吹川へ流れ込む京戸川が造った扇状地。
* 二本木山(1078m)と、無名?の山(1412m)の二つの山と、遠沢山(1358m)がつくる谷間から流れ出て、源流から扇の頂部までの距離は、約3km。
* 扇頂から扇の端部、<中尾><小城>までの距離も約3kmだから、扇長さ20km換算にすると、扇形を造る上流長は、約30km。 (前述分の平均は約70kmでした)
* 扇形を造った<京戸川>は、今では扇状地の南端を流れている。
* 水無し川があり、地下水位は深いらしい。^^!)
*扇をふちどった八の字形段丘の有無、あとで調べてみます。^^!)
* 扇部の勾配は、扇頂部の標高が550m。 扇端部の<中尾・346m><小城・313m>
その差は、237m。 扇形の等高線は、扇頂部を同心円にし、その間隔は、扇端部へ段々と広くなり、低くなり、きれいな勾配を描き端部に段差はない。

ところが<胆沢扇状地>では、扇端部に段差がある !
 その扇端部の段差は、国道4号線沿いにあり、南から、
    下小路・標高90m  向田・標高27、8m(まえさわ駅あたり)   段差・約62m
    折居町・標高70m  川尻・標高37m(おりい駅あたり)     段差・約33m
    大 檀 ・標高68m  向田・標高39m                段差・約29m

この河岸段差?とも思える段差は、普通の地図では見え難く、地元の人とか興味のある人にしか確認しえない。 河岸段丘は、さほど珍しい地形ではない。 北上川が造ったのか? 他の北上川流域を調べねばなるまいが、「60mの段差」は異常と思える。 平均で30m~40mの段差かな。 それは奥州市街に入ると確認できないが、航空地図で見ると扇形の約半分から南側で確認出来る。 その形は、扇の端部のような弧を描き、とても北上川が浸食した河岸段丘の形には見えない。 それが、筆者の言う<津波の戻り水痕>か?、それとも、北上川が造った河岸段丘>か? を見分ける方法がある。  河岸段丘なら<堆積層>の様相があるし、津波の戻り水痕なら、一時的なものであるから、堆積状態はなくて<細粒だけの地層>となる。 

  それが津波痕だと、「実験するまでもなく、実証出来る!」
豪雨のあとの、貴方のお家の庭先で、または学校のグランドで、その地形を見かけることが出来ますよ。(^-^)♪  分かりやすく言えば「勝沼の扇端は平べったい」「胆沢の扇の端は盛り上がっている」。今、あなたがテーブルの上にこぼした?お水の端のように!♪
その盛り上がりが、前述の<尻平痕跡>では確認出来ませんでしたが<夏油痕跡>では、約20mの段差が確認出来ました。
  そして、地下水位が、他の扇状地に比べて、平均3m~4mと浅いのは、固くなった旧雪の上につもった弱い新雪に似ていると推理しています。

 
その巨大津波が運んだ土石流をご先祖さまは、
<石巻><仙台><一関><盛岡><一戸~九戸>の土石流に関係する地名で遺しています。 これ等の地名は、他の地方に類をみない地名であり、祖先がいうその地名伝言に耳を傾け、何故それ等の地名をつけたのかの必然性を問いつめれば、きっとその大事変は浮かび上がってくる。 確かに素人が言う「一つ、々つ」は、論拠に乏しいし、あたっていないかも知れない。 これで専門家が頷いて下さるとは思っていない。 だが問題は「津波に関する地名」の多さ (拙著の電子出版、極秘報告書「巨大隕石と大津波」)である。 それ等については又の機会に致すことにしましょう。(^-^)    ↑お暇な方、クリックして下さればそちらへ飛びます♪ (んーベル賞 2つ半と、豪語する大論ですよ ♪?)


 余談  「藤里の 珪化木の不思議」

<藤里の珪化木 >              ( 岩手県観光ポータルサイト・岩手の旅より)
その所在地 ; 岩手県 奥州市 江刺区 藤里 字 石名田
         愛宕山自然公園内、愛宕神社の近くにある。
セコイヤメスギの珪化木、1200万年前のもので稲瀬火山層という安山岩の礫が混ざった砂質凝灰岩の中から吹き出している。その部分だけで、直径1、3m、高さ4mあり、県内では、根反(ねぞり)の珪化木に次ぐ大きさである。


藤里の珪化木は、先の胆沢の扇状地で、北上川を挟んだ対岸の<江刺区>にあります。 珪化木を世界的にみれば、それ自体は特に珍しいものではありません。北米大陸や中国大陸にはゴロゴロ転がっているところがあるそうですから。 主に珪化木は巨木が多いようです。 

 世界三大巨木は、カリフォルニアのセコイヤ、マダガスカルの竜神木、オーストラリアのユーカリかな? セコイヤはスギ科の巨木。 竜神木はこれが木かぁ?サボテンでねえのか?と思わせるような異様な巨木。 ユーカリは30年もたてば大人一抱え以上にもなる巨木。 それ等、太古の木が地中や湖底海底に埋もり、石化から石炭まで、さまざまな形として現在に残る。 上高地では水没湖。新潟では海底林。いつぞやは海底木が地震で揺すられ浮き出て漁網にかかった。 外国ではカナダの湖底木。中国の鉄幹木(?)は固くて木目が美しいことから細工物に。 ちょっと横道にそれました。^^! いずれにしても埋もるということが大事。 空気中や地表近くにあったのでは風化してしまい形として残らない。

こういった本文には直接関係ないような文や言葉を「さらなる謎解きのために」、ところどころ<推理小説風>に忍ばせてきましたので読み返してそれも楽しんで下さればと思います♪。 ・・・というのは口実で筆者の気分転換(爆ぅ~!) 手塚治虫先生の「ひょうたんツギ」のようなものかな?!

 さて藤里の珪化木ですが、筆者は、それを知りませんでした。トタン小屋で囲まれた(写真)も二度とPCで呼び出すことが出来ない^^! おなじ岩手県にある<根反の珪化木>は、学校地図にものっています。 この二つの写真を見た時、ふるえがくるほどの驚きを感じました。 根反・ねぞりの珪化木も藤里の珪化木も共に “直立” した姿を見せていたからです。 寝姿ゴロゴロと思いこんでいた筆者にはとても意外でした。根反の珪化木は直径1、6m?高さ数m?(あとで調べます^^!) 藤里のほうは、それより小ぶりだが、上下は岩?で埋没し中間だけをのぞかせています。 ネットで調べると<埋没林>は、全国で40カ所もあり 、「直立」がさして珍しいことではないことも分かりました。

そのなかの、ひとつ <島根県太田市三瓶火山の埋没林> を取り上げてみましょう。 結論からさきに言えば、100%火山要因の三瓶火山埋没林と<巨大隕石・大津波>が原因の藤里の珪化木とを比較してその違いをさぐるためです。

                <三瓶山火山埋没林>
所 在        島根県 太田市 三瓶町 多根 (小豆原川)
発見の経緯  1982年の圃場・ほ場整備で発見かり、その学術的重要性に気付かれた
       松井整司氏と三瓶自然館で、他にないかと1994年にボーリングやトレンチ
       (発掘)調査をおこなったが見つからず、展示構想のもと県がおこなった大規
       模な発掘調査で1998年の11月にその最初の一本を現したとあります。
埋没林  三瓶火山の噴火活動によって埋没し、直径1、5m以上、長さ10m以上。
       その大半は、スギが主で立木として21本。 ほかに、トチノキとケヤキの巨木
       が発見されている。 10mほどの間隔で生えていたと推定されている。
流木群  火山泥流によって運ばれた巨木の流木群も発見されている。
年代    14C年代(Cの左肩に小さく14と書く炭素14年代測定法)で、3500年前
       ~3700年 前の縄文代の後期と判明。 
埋没層  狭い谷の下から、火山泥流堆積物・火砕流堆積物・河川成堆積物と重なって
       いる。       (図と写真あり)
谷の基盤岩は花崗岩であり、その上を覆っている古土に生えていた。その根元に葉っぱや虫の化石があった。その他、詳しいことが書いてありますから、是非そちらへ飛んでみて下さい♪

 その一部で、とくに筆者が気になった部分を原文のままで掲載します。
『泥流の後に火砕流が林を覆いました。この堆積物には炭化した木片が多量に含まれていますが巨木を炭化したり発火させるほどの温度ではなかったようで、立木は表皮の表面が若干炭化しているだけです』

  以上、無許可で掲載していますので、さし障りや間違いがあれば消します。(゙-゙!)


 < 三瓶山火山埋没林と、藤里の珪化木を比較 >
        三瓶山火山埋没林         藤里の珪化木           備考

①年代    3500~3700年前       1千200万年前
        (14炭素 年代測定法)
②成因    火山性埋没林             ???
                          (巨大隕石?+大津波?)
③埋没層   泥流・火砕流・河川性物       稲瀬層 
                           (角礫を含む火山弾・凝灰岩)
④現・本数   21本以上               1本だけ?
        (スギが主体・21本はスギ)    (セコイヤメスギ)
⑤生えてる場所  谷間                 谷間?
        (およそ10m間隔)         (        )
⑥流木群      有り                 ???
                              亜炭層有り
⑦成分の状態  木質残?一部炭化                     根反珪化木一部炭化


 < 以上を、対比考査 >
 ①に、この<年代>の問題をもってきたのは一番確定的で、一番切り崩しがたいからです。幾度となくこの問題が素人探偵の前にたちふさがる。 「放射性元素の崩壊による減少率は正確に時刻をきざむ!」 これは動かしがたい事実だ。 その度にいろいろに(ヘタな^^:)考えを述べてきたが、その一つに。 任意の物質(N)が変化(崩壊)するとき、その物質が未来永劫、同じ温度で、同じ圧力で、同じ環境のもとにあるならば、その考えは正しい。 しかし、現実は刻々と変わっていて、そのようなことはありえない。 山瓶山埋没林では3500年~3700年で、そこには200年の開きがある。( 千年杉?) 藤里の珪化木にしても4千年前の樹木に、1千200万年前の濁泥が入り込んで石化していれば、「それは1千200万年前だった」とは言い切れない。 このように一見科学的と思える「年代の決定」のなかにも、大きな不安定要素が含まれている。

    『 百年前の祖先も、二百年前の祖先も、今の科学を最高だといってきた!』
科学とは、時流であり、ファッションである。 「科学」という言葉のもつ魔力にまどわされてはならない。 科学とは学問であり、その学を問い続けるのが私達の役目だ。
  08 10 25
 (特に、中学生諸君のために!^^;)
だから「勉強せんでもええ」というのは勉強してきた人がいう言葉であり、それで勉強しないのは、ただの「無知」。 あんた達は「勉強せんでもええ」と言えるほど勉強しとりゃ~せん。(筆者の経験から^^;) これって学校でつかえるかも~~(^-^)

 ②の埋没林の成因は、三瓶山は100%火山。 藤里のほうの結論は先に預けて。^^!

 ③の、その埋没層についての比較
三瓶山の埋没林は、下から、泥流堆積層↑火砕流堆積層↑河川性堆積層の順。
藤里の珪化木は、稲瀬火山層と呼ばれる、角礫を含む火山弾・凝灰岩のなかに埋没している。
このように説明されると「ああそうか」で、すましてしまいそうだ。それを言及する前に<三陸の海岸段丘>をカッさらい、北上山地をのり越えて、<胆沢扇状地>を造った“巨大隕石の衝突”と、それによって発生した “巨大な津波が運んだ土石流” に思いをいたすことにしょう。
巨大な塊が地殻をたたく! その表面は空気の擦過熱により軟化もしているが、衝突の応力は火山の比ではない。微細は原子核の破壊から、巨岩の粉砕まで、あらゆる破壊が起こる。その巨大な塊を「拙電子版・報告書」では、釜石鉱山・白水温泉を含む直径約20kmの馬蹄形の地域だとした。

海水は跳ね上がり、地殻は幾度もバウンドする。その巨大津波は北上山地を越えた。「北上山脈」といわず、「北上高地」というのはなぜだ。この地方には、<・・山>ではなく、<・・森>という特異性の山名がある。 巨大な土石流は山の頂までも削りとり、それを平原状にした。 貞任山高原、外山高原、区界高原、平庭高原、等がこれにあたる。
又、この地方の地質を調査した「宮沢賢治」が好んでつかったという<モナノドック→訂正モナドノック=残丘→岩石などの固い部分がとり残されて孤立した丘>があり、物見山をはじめ、貞任山、早池峰山、薬師岳、姫神山、平庭岳等は、その時の巨大津波から頭をのぞけて、その浸食をまぬかれたものだと推理している。

筆者は<種山高原・物見山モナドノック>の巨石に刻まれた≪方向性≫は、四千年前の巨大津波が刻んだものだと断言できる。  
*中学生の方へ、この<方向性>赤線ね!あとでテスト(氷河期の痕跡)に出ますョ。(笑)

      【 巨石は飛び散り! 大津波は、それ等を押し流した 】
この場合の津波は、水位があがったというより、駆け上がったと表現するほうがあたっている。物見山(○○m)と、室根山(○○m)のあいだに、姥石峠640m・がある。(国道○号線・種山トンネル内は630m)津波は、この高さを +αで越えている。 (いいぞ、いいぞ♪、ナスカの地上絵があった高さ500m丘へは筆者の苦手概算で津波源高さは1000mを要した!)

江刺市の地質図より、
 これは<地質センター>発行のものに、江刺市が分かりやすいように重ね合わせているが、それでも専門語句が多く並び、素人的には判りづらい。 おまけにPC画面では字も小さい。  
・・んで間違いがあっても責任はもてません。ゴメンナサーイ(^^!)

このほぼ中央で、北上高地の中央線沿って、<人首・ひとかべ花崗岩帯>が南北に走っている。 花崗岩は、御影石とも呼ばれ墓石にもなっている。 この石は地中深くゆっくりと固まったとされている石で、火成岩の安山岩とともに、ごく一般的に陸地をなしている岩石。 先の<姥石峠>は、この花崗岩帯のうえにある。 ここが巨大津波がその表土をはぎ取った中央線だ!

*人首・ひとかべ川、上流沿いの古生層に、<ウミユリ、サンゴ、フズリナの化石>
 ウミユリは深海に生息、サンゴは中位、フズリナは浅瀬に生息、それが何故混在するのか?
*真滝層とか、金沢層の夾亜炭層に、<樹木、葦、シダ、珪藻、等の化石>
 樹木は陸地、葦は湿地、シダは○○、珪藻は深海200m以上に生える藻。
これ等を津波で運ばれたとしない限り、だれが考えても深海のなかに樹木は生えないし、珪藻類は陸に生息しないよね(笑)

*稲瀬火山層に含まれる玉崎介層に、<貝化石と、植物化石>この層も海生物と陸生物の混 在?

 このように、常識(こども心)では考えられない、ことが『東北の地』でおきている。

 <地質について>
*角礫岩と角のとれた石の堆積について、
*火砕岩
*陸中の塩基性岩
*SiO2・nH2O・メタル化合物 
*石榴石(ざくろいし)
* 
*蛇紋岩
*石灰岩 →その時の大津波がうちあげた!?
*等々、素人(探偵)の知識と文章力では、とても無理!汗~! あとは、♪あなたと専門家に(警察に)おまかせ~♪)
これ等に興味のあるお方は<岩手県立博物館か、江刺の地学>の方へどうぞ♪

 ④と⑤ 島根県・山瓶山の埋没林のスギは21本でした。 で!、藤里の珪化木は1本だけかぁ? 必ず他にもあるよね。 「谷間で10m間隔?、水流の弱まった山影に!」  遊び心のある方どうぞ♪ でも実際に発見けるとなると色々な諸問題が! 島根県○○センターの松井さんに聞いたほうがはやいかも知れないですよ(笑)。

 ⑥と⑦ 三瓶火山性の流木の化石があった。その表皮の一部は炭化しているものもあるという。東北の場合の流木は、北上高地の尾根(人首花崗岩帯)の東側に沿って、トラしまのように <石炭となって分布している> 浅い所で炭化しているのは“地熱・余熱”、それとも放射熱のせいかな? ドドドッと~越えて北上川流域にも泥炭が! 普通に考えれば地表近くでの木材は、朽ちるのが先で炭化はしないよね。 だが例外もありますよ。南極大陸には石炭の露頭があり(さらなる謎解きにつづきます。)
この「トラしま模様」は中国の炭田でもみられます。もっともこれは<別の大事変>ですがね。

 ーおわりにー
そこには微小惑星の衝突による岩石の粉砕と溶融、高熱の発生、それを瞬時に消し止めて運ぶ巨大津波の発生、それらを土中へ揺すり込んでしまう巨大地震の発生。さらに、駆け下った流れと宮城平野から北上川をさか上がった巨大津波の合流点(曲げ袋)。それに刺激された火山。その他「なにが起きてもおかしくない」ことが東北の地でおきている。
その地質年代にしても、遠く宇宙から来た星が衝突し、溶けあい、砕け散り、津波によって混ぜ合わされたものの年代を特定するのは難しい思いますが?。 そして、深海の生物が、浅瀬の生物が、魚が(かま)その余熱で、うす(干す)→<かまいし>に、そして鯨までもが?<  >に打ち上げられたと、ご先祖さまは<地名として>遺しておられますが・・??

おつきあい頂いてありがとう御座います。月が変わりました。東北の「巨大隕石」へ、つづきます♪

遅々駄文のうえに、編集にも時間がかかります。 あとで読み返して「何書いてんだか」 自分で意味がわからない。(汗~!)  こども心には自信があるのですが、文章はドヘタ。 どうぞのお許しを(^-^!) ♪ いただきい~♪拍手数( )拍ふえました。 さあて、がんばるぞ~、
只今17拍(11/02) どなた様!拍手をありがとう♪ でもね、おいそぎでない方は、コメントを下さると嬉しいな。 これは、今までの世界史になかった<惑星衝突学>を切り開き・実証する大論の始まりですからね。 3名のお方様、確定♪ あとの○名様は?どなたかな? 「それを史実として遺して」おくには、やはり <コメント>として残しておかれる方が・・・?!(笑) そして私の「父・母さんは、爺・婆ちゃん」は、あの大論のはじまりに<交信>した。 と「孫・子」の代が豪語する?♪ ためにもね。(^-^)  08, 11/3.
応援する!でOK♪ 私は○○さんのブログでは、コメント欄をみるのも楽しみにしていますョ♪





この頁の左欄カテゴリー「巨大地震で変形した山々」へつづきます^^!
どなた様、拍手をありがとう^^。  只今('10 5/23)までで18拍になりました。
BC.2001年12月25日の「巨大津波の痕跡」 その4,
<巨大津波が削った東北のモナドノック(残丘)>
      副題: 日本に彗星(小惑星)が衝突していた !
          A comet (asteroid) collided in Japan !
       Monadnock which a huge tsunami reduced !
                     Historical fact detective 史実探偵: 平 素人

  Welcome to my blog  Thank you for a visit ♪
 ご訪問ありがとう御座います♪ この記事は、今回の(10/30)の追記で終わりました。

このブログで掲げている記事の全ては、続き関連モノです。この大事変があったからこそ、
       荒神の国・卑弥呼へと歴史が繋がっていったと謎解きしています。
           お暇な方は^^?、最初の「卑弥呼・・」からどうぞ^^


  <コメントについて>のお願い(^-^)
コメント欄は、訳あって閉鎖しています。運がよければ開いてる時があるかも知れません^^?
 コメントを置かれるのは意のままで結構ですが、その全てに当方の閲覧やお返事がお約束出来ないことを残念に思います。尚、そのコメントは<評価の歩み>として将来の歴史に残るやも知れませんので、その『著作権』を 当方が無償で使用できる事を“御了解”でのコメントをお願い致します。
 このように書くと一歩しり込みするのが日本人のわるい癖^^?。謙譲は日本人にとっては奥ゆかしい美徳ですが、それは外国の人からみれば「持論の自信の無さからくる弱腰」と写っているようです。十人十色。正逆はべつとして自分の思うところはハッキリ言いましょう。でないと事が成った時「実は・・・等」と言うとずるいやりかただと思われてしまいますよ(笑い)。間違っていたら後で正せばいい。 「と、言われてもねえ」と思うのが日本人^^。(ネイチャーの前編集長ジョン・マドックス氏は、日本人は、もっと積極性を(投稿に)持つべきだと仰っています。)
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管理人のみ閲覧できます
| | 2011-11-05-Sat 23:08 [EDIT]
このコメントは管理人のみ閲覧できます

        ↑ 
岩淵さま>よりコメントを頂きましたが記事の更新がないとコメントの開示が出来ないようなので、とりあえずここに掲げておきます。

<共に、少年心(こどもごころ)の発信を!!>
    平 素人 | URL | 2011-11-06-Sun 09:43
岩淵國人さま> コメントありがとう御座います。うれしいですぅ~(^-^)♪
寸暇も惜しむ先生業のこと。お目には止まらないものと半ばあきらめて居りましたのに、コメントまでが頂けるなんて♪。
 改めて 「この度の大震災のことお見舞い申し上げます」 (深礼)
只今は、先生からご教示を頂きました<狐禅寺渓谷>についての記事を思案中ですが、調べれば゛調べるだけ、新しい発見やら知りたいこと、解からないことに行きあたり中々先へは進みません。先生の愛する “東北”を 世界の頭脳が注目し、それが年間○○万人も訪れる別意の世界遺産となれば幸いです。今後とも、よろしくご教示くださいますようお願い申し上げます。
 移りゆく四季と、東北人の暖かさが財産です
モナドノック物見山の頂上に立ち、身の丈を二百mも越す水量を思うとき自然の驚異に打ち震えるであろう! 私は、何故?、宮沢賢治がモナドノック残丘を愛したのかが知りたくなりました。
                                                平 素人

 あっ、それから「平」の呼称は「ひら」でも「ひいら」でも、いいんです。私自身そのどちらも使用していますから。尚、先生」の呼称は、くすぐったいので「Mr」にして頂けませんか^^!。日本でミスターと呼べるのは長嶋氏>だけですが、わたしのはそんな大それたものではなく以前に「Ms」と書かれたことがあるので男か女の区別をするだけのものです~~!
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<種山高原・種山ヶ原> (10/1)
東北地方の北上高地南西方にあり、物見山△871mを含む種山高原の一帯で標高は600m~870m。 東西が約11km南北が20kmほどの平原状の山で、物見山・大森山・立石などを総称して別名「種山高原」とも呼ばれている。そして、この一帯は所々に巨岩が露頭している
“なだらかな丘状”であり、地質学的にはモナドノック・残丘という。 このモナドノックは、晩年の宮沢賢治が関心を寄せたという所でもある。

  物見山(種山)の周辺地図
YaHoo!・ゼンリン地図より、 ↓ 著作権に関わったり不都合があれば削除します^^!
         (+印を押してスクロール可)
   この図の北方向に早池峰山(1120m)、区界峠(くざかいとうげ)740mあり、

   この図の南方向に姥石峠(約840m)あり、

    ↓ 以下へつづきます^^
現学説のいう^^、<モナドノック(残丘)とは> (10/03)
 名前の由来は、北米のニューハンプシャー州モナドノック山辺りのなだらかな残丘から。
残丘 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
  残丘(ざんきゅう)とは、断層運動や浸食によって、周囲から取り残され孤立した丘のこと。緩やかな準平原の中に存在する。累層が順序良く重なる地帯では、地形輪廻のような浸食を受けても、取り分けて目立った残丘は発生しにくい。逆に、断層運動などの地殻変動で累層が切断されたり折り曲げられたりした地帯では、場所によって浸食の度合いが異なるために残丘が発生しやすい。・・・・・・、 以上
と、云われても“モナドノック”は、聞きなれない言葉なのでイマイチ良くわからない^^!。中学校で習ったのを思い出すと。地形の輪廻で平原に川が出来た幼年期。時とともに川が深くなり谷となりゆく壮年期。山が崩れゆき再び準平原となった老年期。そして、再び最初にもどる地形の循環をくりかえす。・・・の理由で、まわりから取り残されて幼年期のままの準平原のこと^^?
 (10/05記)
裏話; 筆者がモナドノックをモナノドックと間違えて検索したことがこの記事を書くきっかけとなりました。 新しい発明や発見は失敗と偶然から生まれる^^? この残丘と早池峰山の成因に疑問を呈している岩手県立大米地教授の報告書がある。
  
<その全文> ↓ これも著作権に関われば削除します^^!
社団法人 東北地域環境計画研究会 活動状況報告 
       (第47回)懇話会報告よりの全文
早池峰山の特異な地形とその成因   「岩手県立大学総合政策学部 教授」 米地 文夫
 早池峰山の象徴は、まずハヤチネウスユキソウ、蛇紋岩、そして「残丘」といわれてきた。宮沢賢治の詩にも多く取り上げられている。北上高地の準平原に取り残された丘だと言われる。

 かつてわれわれの大先輩は、「切峰図面」という地形図の上に風呂敷をかぶせるような方法で浸蝕前の地形を推論し、この山は日本の代表例だとされ、多くの人々もそう思いこんでいた。だが実際の早池峰山は、他の残丘と比べてみても、高すぎる、大きすぎる、長い山稜はおかしい、南側が急斜面過ぎる、谷も大きい…など、地形的な疑問の多すぎることから研究が進んでいる。

 早池峰山は、海洋プレートと大陸プレートのぶつかり合いでできているという点で、ヒマラヤに似た構造山脈である。北上高地は、大陸プレートの一つ、いわゆる「北米プレート」のへりにくっついている。日本列島の東側に海溝がある。ここで海洋プレートが大陸プレートに潜り込む。その際のひずみで地震の発生することが知られているが、すんなりと潜り込むわけではなく、実際は複雑で、海洋プレートの上部が削り取られたり、大陸プレートの方から持ち込まれたりする。こうしてたまったものを「付加体」という。北上高地の北部がこれに当たることがわかってきた。これに対する北上高地の南部、これがナゾだ。中国揚子江方面、あるいはオーストラリヤからだとか、いろいろ推測されている。いずれ南の古大陸の断片が、ざっと1億年ほど以前にはるばると流れ着き、両者が衝突し、たたみこむように、のし上がり、潜り込む。この変動によって構造的な山並みができて、早池峰山はかくも高くそびえ立ったものと見られる。つまり、早池峰山はもともと高かったものであり、削り残されて高いものではないということである。

 蛇紋岩が硬いから削り残されて残丘になったという説もあるが、普通、残丘(モナノドック)
(← モナドノックの誤植か?モナノドックで検索すると当該文が出てきます^^) といわれるものは、種山ヶ原を思い起こしたら分かるように 、早池峰のような堂々たる山容にはならない。 早池峰と薬師との間に大きな溝、構造的な谷がある。二つの塊がぶつかり合う層の切れ目、断層である。早池峰の蛇紋岩と薬師の花崗岩、この層に沿って削られて構造的な谷ができた。小田越である。水が削って谷となり急坂の先が峠となるのが普通なのに、ここは峠と呼ばれない。ここは不思議な「風の谷」なのである。 以上、
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「風の谷」 (10/5記)
「風の谷」という言葉は宮崎駿(みやざきはやお)監督のナウシカで一躍有名になりました。この言葉は今後の謎解きにおいて重要なキーワードとなります。流体が狭い谷間や建物の間をかけぬける時、強い流れとなることは私たちの経験しているところです。これを何やらの原理といった?記憶があります。中学生の皆さん!勉強はしっかりしておきましょうね(笑)

「早池峰山はもともと高かったものであり、削り残されて高いものではない」(10/6)
この“削り残されて”という言葉は、「通常ならば、残丘であるから長い年月で“取り残されて”と言うべきところなのに?」と、この言葉は筆者の少年心(こどもごころ)を大いに触発した。“モナドノックは削られた”との同じ思いの方がおられる!?

「小田越」 (10/7)
小田越は、峠状の所なのに「峠」と呼ばないで「越・こえ」と呼ぶ。何故でしょうね。解りません。
そういえば早池峰山・1913mは、「山」と呼ぶのに、谷ひとつ隔てた薬師岳・1644mは、「岳」と呼ぶのも解りません。「岳」といえば中部山岳地帯を思いますが、「岳」は高く険しい山の呼称かと思っていました(汗~)。ちなみに、国土地理院は地図に名前を記すとき、地元の人たちの呼称を最優先するそうです。小田越は、高さが約1240mであり、これより西へは北上川へ流れ、東へは太平洋へ流れ出る分水嶺。国土地理院の地図で観ると東西に流れ出る川は、岩石ゴロゴロの沢状のようだ。前の東日本大震災の津波では上陸する津波より、戻り水のほうが早くて威力があった。(これ◎ネ、後でテストに^^)これは上陸した流れが低いほうに集まり、しかも流れに土石を含み斜面を下り降りることに起因する。四千年前の巨大津波が1240mのこの峠を越えたとは思えないが、判らないことは、棚(峠)に上げておくことに致しましょう^^!。

「蛇紋岩が硬いから削り残されて残丘になったという説」もあるが、 (10/9)
  蛇紋岩、分からないので検索していると下記のような文章にでくわした。
岡山理科大学総合情報学部生物地球システム学科
植物生態研究室(波田研)ホームページ<蛇紋岩地帯の植生>より抜粋
蛇紋岩が風化して形成される土壌は明るい赤色となり、土壌粒子間の結合が弱いために土壌中に水分を含むと液状化や地層の流動を起こしやすい。このために蛇紋岩を含む地層がある地域では、大規模な斜面の崩落や地滑りが発生しやすい。
 以上

 蛇紋岩は風化して水分を含むと液状化や地層の流動を起しやすい。そして、「風の谷」に接して南側にある薬師岳は花崗岩体であり、花崗岩は墓石に使われるほどの硬い石。勿論、花崗岩も年月がたてば風化して軟化はするが、蛇紋岩と花崗岩を比較すると花崗岩のほうが風化軟化には強いように思われる。なのに、蛇紋岩体の早池峰山は東北最高峰(1917m)であり、1645mの薬師岳は総じて低いのはなぜだ。早池峰のほうが低くなってもよさそうに思うが? 現状の早池峰連山の南斜面をみると大小20?をこえる崩落や地滑りがあるのに、対して薬師岳のほうは1ヶ所~~?。・・・、なんか、おかしい?? 

さて、予備知識は、これくらいにして、その痕跡を<ウエブ>で探しにでかけますか。
種山ヶ原(たねやまがはら)は、北上高地の 南西部で標高600-870メートル、東西11キロメートル、南北20キロメートルに及ぶ平原状の山で高原地帯である。 「このモナドノック・残丘は、四千年前の津波痕だ」と、素人がいうのは簡単だが、それを今の科学に、貴方さまに伝わるように論証していくのが難しい^^!。

 学問というものは、何時の世も現科学からはみ出した“非常識”によって、常に更新されつづけている。 「 常識とは多数であり多数でしかない。科学はファッションであり“時流”である。」
 ちょっと言葉が過ぎましたかぁ?(笑い) 拙著の電子出版・子供心より、♪(^-^)♪ 

<北上高地越えの巨大津波の痕跡>
 その1 <川が無いのに扇状地>
次の写真は、“川がその土石を運んだ”と学校で習った胆沢扇状地です。“ほんとにそうなのか?”と疑問符をつけてしばらく観察してみて下さい^^。 (10/11up)
 YaHoo!・ゼンリン地図より、 ↓ 著作権に関わったり不都合があれば削除します^^!

<上の写真・地図を観て> (10/13記)
この扇状地の北側に沿っているのが胆沢川で、南側に沿うのが衣川。そして、扇子の東側で弧状に流れているのが北上川。胆沢川や、衣川の流れはその端々にあり、その中ほどには流れていない(?)。 さらに衣川の北岸は堤防状に切り立っているのが認められる(?)。 ふつう素人(こども心)が考えれば、大量の土砂は大河・北上川が運び、その扇形は南北に形作られるはずなのに、この扇形は西から東へ向かっている(?)。さらにこの扇形は北へ段々と(6段状に)低くなっている?。 このような地形は地元の人か専門家を含む方しか知りえていない?(私もこの論を展開するまで知りませんでした~~!)。 ・・・、“なんかおかしい・・・?” こういった論をmy記事<川が無いのに扇状地>アーカイブ'08/1月で述べています。

<巨大津波で発生した大泥流> (10/14)
その記事では、巨大隕石で発生した大泥流は、三陸海岸を削り取り、リアス式海岸にし、海抜840mの姥石峠を越え、6段状の波形丘(痕)胆沢平野を形作ったと謎解きした。わずか1、5kmほどの上流域の胆沢川では胆沢扇状地は造られはしない。胆沢平野は、BC2001年の巨大隕石で発生した大津波が北上高地を越えて、その西側へ泥流として運んだものだ。モナドノックは、それに関係すると推んではいたが、この度の米地教授・懇話会の報告文を見るにつけ、巨大津波は、筆者の想像を遥かにこえた<南北20km>の広い範囲(幅)で北上山脈(高地)を越えていた。さらに、早池峰山の北方の<区界峠・740m>の方も乗り越えているかも知れない。ご先祖様がそこを『区界くざかい』だと地名で仰っていますから(笑い)。皆さん(現科学)は、四千年前の縄文石器人の行動力の範囲を見くびっていますが、見渡す限りの岩表地帯や更地。見渡す限りの黒こげ山。見渡す限りの流木。はたまた、盛り丘、等々。それ等の<区界>を探すことは大して難しいことではないと思いますよ。 (但し、6500万年前の南極から発生した超巨大津波の痕跡は別途で考えねばなりません。)

 (10/15)
この‘こども心’に、いたく共感して下さった方に、奥州市を拠点とし多数の病院等を営む理事長先生、岩淵國人(くにと)氏が居られます。氏はアーカイブ'08/7月のコメント欄にコメ置きをして下さっています。・・・次はそのコメントです。後々の名誉のために掲げておきましょう^^。

岩淵國人 | URL | 2009-11-19-Thu 16:44 [EDIT]
  北上高地越えの巨大津波の可能性大
昨年6月14日に起きた、マグニチュード(=M)7.2の岩手・宮城内陸地震の被害は、Mが同規模の阪神淡路大震災に比べ少なかった。特に、岩手県は宮城県側に比べても少なく、死者も2名(内1名は交通事故)に止まった。被害が少なかった理由は、当奥州市の地盤が阪神淡路や宮城県に比べ、非常に良いことだ。ビルの基礎地盤は、N値50以上を求められるが、大阪付近では地下50m付近にある。当地は地下1mから5mくらいでN値50に達する。そこには厚さ4mから5mほどの土砂礫層がある。津波の北上山地越えの大津波の忘れ形見といえるのではないか。また、貴兄が怪しいといわれた、奥州市黒石には、庭石に適する1個の重さが何百キロ~何トンにもなる石が平地にごろごろしている。これも津波の忘れ形見かもしれない(地元の人は、石のいわれを知らない)。先日胆沢扇状地を軽飛行機(パイパーチェロキー)でみたが、津波によってできたとの貴兄の説は、説得力がある。貴兄の説を、喧伝させていただくとともに、投稿文にも引用させていただきたい。


その論説記事を → http://t.co/iqYjVPs  ←捜しました~~!。 (10/16)
 氏の紹介して下さった記事は、簡潔簡素なのにしっかりと要点をおさえて下さっています。後読みすると自分でも嫌気がするほど駄文だらだらの当方としては、大いに反省するところです。氏の本懐は、関東大震災を想定しての副都心の誘致候補として奥州市をあげ、その利点の一つとして、岩手県は比較的地盤がしっかりしていて先の( / )内陸地震においてもマグニチュード大のわりに被害が少なかったことを挙げられています。 なぜ地盤がしっかりしているのか? それは拙論でいう巨大津波が地表をはぎとり表土が浅いとすることに共感されたようです。それより何より、氏が少年のときに持った疑問が揺り起こされたのでしょうか? 北上川流域には現在の学問では解しきれない昔話や遺跡・地形地質等、不思議がいっぱいのところであり、それ等を例にあげ、それを当方の「彗星の衝突」に結びつければ解明できるとされています。これほど「他に喧伝する」とまで共感共鳴して下さった方は過去にありません。有り難い事です。勿論、御記事は三月十一日の震災前の話です。・・・・、この度の震災では、医業をいとなむ先生のこと>おおいに失意され。その心労を察するにあまりあります。今度は私が力付ける番! 地元の人しか知り得ていないこと。先生の御記事にヒントとご教示をいただきました。

この<彗星の衝突>に世の学者が気付けば、必ず世界は東北に注目するでしょう。
何故なら、今までの学問には無かった事変の形態であり、しかも日本の東北という狭い地域でその全てが観察・観光できる。 さらに々、驚くべきは<隕石の冬15~16℃の降下>をおこし世界史を変えるほどの大事変なのに、<この直近にいても生存者がいて、それを地名として微細に記録していること!> そのことが素人探偵には一番信じられないのですが・・・^^。 先生の喧伝のご尽力も専門家になればなるほど「素人の戯言」だと相手にして頂けなかったようですね?(笑い)。

 (10/17記)
http://t.co/iqYjVPs >岩淵國人 氏の論文より、当方(の喧伝部分)を除外して抜粋します。(以下の①~⑧迄)
新説⇒彗星・津波・リアス式海岸・胆沢平野、
これらの矛盾を解決する興味深い新説を紹介する。南三陸海岸付近に落ちた分裂した巨大彗星によって発生した高さ250mもの巨大津波が三陸沿岸を削り、リアス式海岸を作った。津波は海抜600mの北上高地を駆け上り表層を削り、岩石や礫を北上盆地に運んできた。

(註) 津波の高さを250mとしていますが、これは<水界峠250m>を、引いてきたものであり、この(津波の高さを)数字で表現するのは、非常に難しい。 津波は、受V字の地に上陸すればその奥での波高はドンと高くなり、狭い地域でもその地形や谷形状によって、その浸水高さは大きく変わってくる。そして、これを標高で表せば(津波は)斜面を登っていく波でもあるから、海岸の波打ち際で見るように足元では数センチの高さでも、二歩三歩と足を踏み入れた場所との差は数十センチにもなってしまう。仮に、姥石峠(840m)を○○m?の高さの水量が越えたとしても、早池峰山南の小田越(海抜1240m)を柄杓(ヒシャク)一杯の水が越えたとしても 「越えたことには変わりが無い^^」表現の難しさがある。 今後のマップづくりに期待します。

① 北上山地の麓(ふもと)である奥州市水沢区黒石地区には発祥原因不明の庭石用やすずり石用の大きな岩石がごろごろしている。これらの岩石は津波が北上山地から運んだ。
>(10/17)コメント;
とても興味深いお話です。どこやらの町にも出所不明の"天然"記念物が^^? 東北には他に雫石、赤石、等々の石にまつわる地名が多数あり、それ等が彗星の被弾によって破壊された岩石が散らばったモノなのか、または彗星の本体が分散したものか、衝突の溶融によるものなのかは専門家の分析を待ちたいところです( がぁ・・・それは何時になるのでしょうか?^^?) それを素人探偵は、白脈(石英脈SiO2)オパールを探せ! ダイヤモンド鉱を探せ! と言っています。ご存知のようにダイヤモンドは、炭素が超極圧で○秒間続くと生成します。植生が受けたそんな条件のところを推察する。または探索する。・・のも楽しいと思いませんか^^。これは専門家でなくても地元を良く知るお方のほうが先んじるかも・・・(笑い)
“河原の探索”は、中学生諸君にもお願いしたい。当ブログは中学生の方の訪問を時おり受けています。さらなる宝探しについては、文芸社電子出版『巨大隕石と大津波』(¥500)へ・・・、販売実績14冊? トホホ・・・で、赤貧の史実探偵より、

② 北上盆地の地下3mほどのところにある厚さ数mの礫層は、津波が運んできた土砂礫が積もった跡(あと)であり貝殻がよく発見される。
>(10/18)コメント;
貝殻の出土は大変興味深いことです。しかし、この謎解きが一番簡単なようで、一番難しい。東北には山間部においても谷あいにおいても石灰(Ca)が多数産出しているようです。最近発見された鍾乳洞のニュースもありました。それが6500万年前のモノか、4000年前のモノか、又は別の津波のものかを判断するには、さらなる調査と思考を必要とします。 しかしながら 『ここは、昔は海だった』との従来の学説をインプットされたお人には、そこが<津波が寄せ集めた波打ち際だ>とするのはちょっと無理かもぉ~? その昔、山からヤギの群れが流されて河口にとどまり化石になりました。反対に大津波が山奥の谷あいに貝を運び化石となりました。後々の人は、それを観て『ここは、昔、山だったとか海だったとか言えるだろうか^^?』 電子出版より

今の世界の学説は、巨大津波がつくる地形には全く気付いていない。その津波を<TUNAMI>の国際語とした海洋国、日本でさえもまったくの無知無関心!? ゴメン又々、言葉が過ぎました。20数年も相手にされないと、ついつい恨み節がぁ"(^-^!)。筆者は、その関心の発起を日本からして欲しいと願っている。 6500万年前の超巨大津波の痕跡を知りたいお人は拙電子出版の方へ、どうぞ^^、それには人知では、とても受け入れ難いような史実が・・・

③ 青森県の三内丸山遺跡が紀元前2000年ころ突然消滅している。三内丸山遺跡は当時の海岸にあり、三陸巨大津波にひとたまりもなく破壊されたのではないか。
>(10/19)コメント;
不勉強でコメント出来ませんが、興味深いことです。 何故なら、その時何処に人が住んでいて、どの範囲で被災したかが分かってくるからです。

④ 亀ヶ岡石器時代遺跡(かめがおかせっきじだいいせき:青森県)を筆頭に遮光器土偶は、北は北海道の室蘭から南は福島まで出土するが北東北3県からの出土が多い。五体満足はまれで、身障者の像を呈することが多い。強烈な閃光があったこと、津波で障害者になったこと等を紀元前2000年から紀元前5世紀ころまで、15世紀もかけて縄文人が記録に残したものではないか。
>(10/20)コメント; 
遮光面土器は、始皇帝の意を受けて不老不死の薬を求めてやってきた除福の伴った武人の甲冑と、金属溶接のお面とが合わさったものだと別記事で謎解きしましたが、それがどのように分布しているかは知りませんでした。さらに、祖先は、その恐怖により「一夜にして白髪化した」と、白髪山の地名や伝承で遺しているとしましたが、医事的にそのような事例があるのでしょうか? 巨大隕石で発する応力は、核爆弾(核破壊)の比ではなく、衝突によって重金属化した放射性物質の発生が災いしたのか?とも推んでいますが、それも知りたいところです。白亜紀末の恐竜大絶滅では重金属のイリジウムやオスミウムがその時期の地層に多く含まれることから、その絶滅が巨大隕石説に結び付けられました。
<亀が付く地名の不思議>
又、亀がつく地名で<亀海とか亀川>の地名は聞いたことがありません^^?。通常では亀に山や丘を地名と結びつける発想が思いつかない。(海)亀はその形態から津波にはめっぽう強く、魚類が凹地に残されるのにたいし山や丘部に残る可能性がある。亀ヶ岡石器時代遺跡がそのような場所であったら面白いですね。それに関連する昔話が東北にはきっと残っているはず。この度(3/11)の津波でも聞き集めれば、ひょっとして亀さんや“タコ”さんが山に??、蛸は流されまいとモノにしがみつく習性があるからね^^。

⑤ 遠野に伝わる河童は、頭にミルキークラウンを載せ、陸の人や家畜家等を沼に引きずり込むといわれる。河童の頭は海に落ちた流星で、河童は巨大津波のことではないか。
(10/21)コメント; 
まったくの同感です。 ミルキークラウンとは、ミルクにモノを落としたときクラウン状に跳ね上がる水しぶきのことで、このような発想の根源をつきつめてゆくとき、祖先がそのような大事変に遭遇したのではないかと思っています。この化け物伝説は列島の各地にもあるのか、それとも、遠野>始発のモノなのかが興味深いところです。河童伝説は早くからシブキ痕と予想していましたが、それが遠野に遺されていることに驚きをおぼえます。
<遠野>とは、
居住地より遠くにあるところという意味であり、その地名を付した主たる居住地はどこかが興味の対象となる。(その捜索は東北の歴史をよく知る読者に委ねましょうか^^) はたまた、遠野といえばかなり広いところなのに、そこには人が住んでいなかったのか? 住んでいればそこの住人が付名するから<中野>あたりの付名が妥当と思える。それとも、この大事変によって「棲めなくなっていた」のかが問題になってくる。

⑥ 岩手の由来は、三ツ石神社(盛岡)の岩に鬼が手形を残したとする作り話が伝わっているそうだ。しかし岩手の本当の名の由来は、シャベルローダーのなかった縄文時代に北上山地の表土を何メートルも削った津波を岩の手が削ったと解釈し、この地に岩手の名が付いたとする方が自然ではないか。
>(10/22)コメント; 
写真探しました。尋常の力では考えられないような位置関係にありますね。その見えない力を鬼というか津波の力というかは表現の違いであって、このようなイワレが東北にはいっぱいあるのでしょうね。 わたしは岩手を岩の手方向と解しましたが、岩の手=鬼の手>のほうが順当かも知れません。
<ヒラメキました!>
ところで、巨人デェダラボッチも東北の話でしたっけ? 山や湖を作ったという<デェダラボッチ>に尋ねれば、その時の列島異変が聞けるかも知れませんね^^。ところが、以前の記事で話のでた「島根の三瓶山、富士箱根、岩手山」等の噴火を現科学は、約3500年前としています。拙論の4000年前との差、500年が埋められない。この差は、今までに万語をついやしてきた素人探偵の論「祖先からのメッセージ」を根底から瓦解させてしまう力を持っている。わたしは、このような時、ご先祖さまの方に軍配をあげることにしています。デェダラボッチさまぁ~~、『その昔』が、何時なのかを教えてくださいませんかぁ~(^^!)

⑦ 北上山地のリアス式海岸は、氷河が山頂から削って沈降したのではなく、津波が山麓から山頂に向かって削ったのではないか。石巻から北上川を逆流した津波は、北上高地を乗り越え北上川を流れ下ってきた津波と岩手県と宮城県の県境である狐禅寺付近で衝突した。土砂礫が堆積し20数Kmもの狐禅寺渓谷を作った。
>(10/23)コメント; 
まったくの同意です。氷河が渓谷をつくるのはよく知られていますが、土石を含んだ津波の遡上(そじょう)がつくる地形はそれと大変よく似ていますが、微妙に違うところがあります。斜面から持って降りる岩石が氷河ではその下流で断続的な波形をとるのが多いが、津波では一時的におこるからばら撒き傾向や一箇所にかたまる傾向があると考えています。又、氷河では斜面の急角度と距離を必要とするが、津波ではそれには関係なく、その上り口に土石のあるなしで事をおこしてしまう。さらに、氷河では広範囲に事がおきるのに対し、津波では狭い地域で事がおこる。また、リアス式海岸は、溺れ谷という地盤沈下説もあるが同じ北上高地岩塊なのに魹ケ崎以北の三陸海岸はきれいな弧を描いているのにも疑問を感じる。

「北上高地を乗り越え北上川を流れ下ってきた津波と岩手県と宮城県の県境である弧禅寺付近で衝突した。土砂礫が堆積し20数Kmもの弧禅寺渓谷を作った。」 
> 狐禅寺渓谷の新しい情報をご教示頂ました。別途で調べてみます。

⑧ 1908年6月30日に起きたツングースカ大爆発はおうし座流星群同様エンケ彗星の母彗星の一部で、氷の空中爆発のため、流星の破片を見つけられないのだそうだ。が、デビッド・アッシャー(英国の天文学者)が計算したエンケ彗星の母彗星が三陸海岸付近に落下したのであれば、将来広田湾(水深56m)や山田湾(同90m)の海底から、流星の破片が見つかるかもしれない。
 と、結んでおられます。

>(10/24)コメント; 
次は、素人考えだと前置きして; 太陽を中心として周る惑星には<水金地火木土天海冥>と長くいわれて来ましたが、観測技術の進化により九大惑星以外の発見やら予測により惑星の定義がゆらいできたのは、周知のとおりです。小惑星も太陽をまわる惑星であり、「惑星イコール何々だ」と、いう考えは現状に合わなくなって来ました。筆者は、その考えの延長で、彗星も太陽を周回する惑星の形態であると考えています。又、以前に「彗星は氷と泥の汚れ玉」との発表があって以来「彗星=汚れ玉」の考えが固定化しつつありますが、こども心はそれに組することが出来ません。何故なら太陽に捉えられずにそのスイングバイ(簡単にいえば円盤投げ?)によって彗星軌道に入った天体は汚れ玉だけではなく、岩体のものや金属核を含むもの等、色々にあると考えています。(詳しくは拙電子出版太陽系の誕生で述べています。) それが先生>のおっしゃるエンケ彗星の母彗星だったかどうか私にはわかりませんが、東北に衝突した天体は列島に<津々浦々の地名>を残させたり、前述の島根半島を破砕させたり宮島の山形を変えるほどの衝撃力を生むものでなければなりません。

  その衝撃力の子供的な考え方
算数大の苦手な素人は、専門家のように計算が出来ないので、実際の列島の大きさを思い浮かべ、それを氷結した池や水面に例えて、石つぶて(隕石)を投げてみる。その影響の大きさを子供の頃に石投げした情景を思い出しながら・・・・、
『厚くはった池の氷は割れなかった。そのうち誰かが、より大きな石を見つけて投げ込む。どぼんと水しぶきが上がった。子供たちは、急いでその場から逃げた・・・。』 子どもの頃の思い出; 拙電子出版より、 これは、更なる超巨大津波の謎解きへと発展します。(^-^)♪

<海上にも落ちてはいないか?> (10/25)
海上に落ちていれば、魹ケ崎以北の三陸海岸に直接の影響を与えない場所。そして牡鹿半島が影になり阿武隈海岸にも影響を与えていない場所の内で探らなければならない。
 それは<北緯38°50′東経142°> 距離にして、気仙沼沖 30km辺りかな?
これ以上の外洋にでると阿武隈の海岸にもなんらかの影響が出てくる。山田湾、広田湾、それに気仙沼も怪しいですよね。なにしろご先祖さまは、そこを<竜舞崎>だといっていますから^^、一箇所だと考えない方がいいかも知れません。以前に、これを探ろうと国土地理院に海底の地形図を頼みましたが、海底地形図は海上保安庁の所管とのことでそこでストップしています(^^!)。その一部の空中爆発も考えられますが、空中爆発と地面を直接たたくのとでは発生する地震波は比較になりません。
〔ツングースカの大爆発〕は、最近のTVでも見ましたがその“爆風・なぎ倒し痕”の先に凹地の池があり、その湖底のコアを採集したら強い力で押し付けられたような土層になっていたが、隕石の実体は発見かっていないそうです。

(10/26) <Monadnock>
次の写真は物見山の頂上付近から、ほぼ南西の一関、平泉方向を眺めた写真です。
 検索方法; 種山ケ原-Wikipedia → 外部リンク・種山が原の風景スライド特集(2/22枚)
 (佐藤?)淳平氏



     ↑ クリックで拡大します^^
筆者は、この2枚の写真を発見(みつ)けたとき胸の高まりをおさえることが出来ませんでした。

何故なら、その露岩は北上高地を東から西へ越えた巨大津波の方向を指し示しているように見えたからだ。とくに2枚目の足元にある数個の小さな石の方向性は筆者の思いを確定的にした。しかしながら、このような地形は褶曲地形が折れてその片方が露呈したときに見せる様相でもある。巨大津波がこの高原を越えたか越えないかを確かめるためにはさらに3~4箇所の同様の地形を見つける必要がある。その捜索を地元の方に、好奇心の強い貴方に、そして専門家がして欲しい。何故なら、いかに素人探偵が万語をついやし、ああだこうだと謎解きを重ねても<専門家が>うなづいてくれない限りこの論は成り立たない。 さらに、それ等が見つかっても『それは氷河がつくる痕跡だ!』という科学者や貴方様がいたら、もはや素人は、その方達を説得するだけのエネルギーは持ち合わせていない。 
 「氷河がつくる痕跡と巨大泥流が駆け上がる痕跡は非常によく似ている」拙電子出版より、
 決定的な違いは谷上に貝殻(Ca)を運んでいることかな^^。

<津波の高さを再検証>
ステップ① (10/27)
この謎解きの始まりは、“釜石”を巨大隕石の元体と置いて、その衝撃で発生した大津波の大きさを探ろうと地図を観ていたとき<水界峠・250m>を探し当てた時からだった。当初は250mの高さの津波を信じることが出来なかった。何故なら二十年ほど前、当時の観測では最大波高ほぼ38m迄で、それより高いと水の自重の方が勝り38m以上の波高はないとされていた。このことから海抜38m以上のところに海の貝殻等が出土すると『そこは昔は海だった』と解されていた。名のある津波学者がですよ。それをはるかに超える海抜250mの高さの津波はとても信じられるものではない。なのに、ご先祖さまは「水界隈・みずかいわい?」峠だという。

註: これを「ミズサカイ」と読むと分水嶺のこと。分水嶺なら、それこそ山ほどあるのにねぇ?
峠の付名は○○峠といって固有名詞を付けるのがふつう。それを「ミズサカイ」という一般名を付けているのは何故か? 「サカイ」なら “境の字” をあてていいのに、「界」をわざわざ使うのは何かのイワレがあったのではないでしょうか^^? 私はそのイワレを知りたい。


ステップ②
この謎解きを進めていくにつれ、ナスカの地上絵の中にイルカが破壊されたものや海草が描かれているものがあった(前述記事)。その地上絵は、海抜500m内陸へ60kmのところにある。これを日本発の大津波が打ち上げたものだとすると、エクアドルからナスカ迄、約2000kmを斜面とした片V字湾奥を描き、津波の入り口幅は、およそ600kmの二分の一の300kmとなる。これを津波の波高計算式に当てはめる。その式を忘れましたが中学生の学力でOK^^。 すると、海抜500m内陸60kmへ駆け上がるためにはピラウ沖で18mの波高を要した。各数字は当てになりませんよ^^!。その考え方だけを重視してください。

ステップ③ (10/28)
では、その波高18mを出すには日本発の津波波高はいくらでなければならないのか?
アラスカのアンカレッジあたりからナスカ迄、およそ12000kmを片斜面とした超巨大三角形を描く。入り口幅はオーストラリアだったかな このような逆算を重ねていくと三陸沖で実に1000m以上の波高を要することになった。

ステップ④
次に手がけたのが、1000mの波高を導く巨大隕石痕を探すこと。“釜石塊”以外にもあるのではないか? それは洋上にあるのではないのか? これについては前述で申し上げたとおりで分からずじまい。水深200mに満たない洋上で1000mもの波高がたつものなのかとの疑問も生まれる。現状の“釜石塊”は直径が約20km。 これを団子状に丸めると、おおよその^^おおよそで直径が7km弱^^? わずか7kmΦの石つぶてで1000mの波高がたつものなのか? それを波とは考えないで投石による水シブキと考えたりして・・・^^!、 
 専門家の教えを是非に願いたい!

ステップ⑤
これ等を探しているうちに行き当たったのが前述の胆沢平野の偏り形状。この“偏斜形状”を作り出すためには姥石峠方向からの(→)の流れが必要となる。その姥石峠は840mの高さのところにあった。 さらに、この度岩淵先生のヒントやらご教示を頂いて、モナドノック・残丘を調べると、その津波は600m~800mの高原を越えていた。
 このことは<単純に考えても800-600=200m高さの水量>が越えていたことなる。

<結び; 祖先からのメッセージ>  (10/29)
それがいかに史実であろうと、現科学が、貴方さまが、この大事変に “お気付き”になり、首をたてに振ってくれないかぎり大論には育っていかない辛さがある。素人がこのように大口がたたけるのは、ご先祖さまから<地名>という歴史を頂いているからです。その時は何時になるのでしょうか? 出来れば存命中にお願いしたいのですが!?(笑い)。 

<おまけ> 駄目押しの^^? 参考資料として次を紹介します。(10/30)
www.city.tome.miyagi.jp/oshirase/kankyo/documents/04_2_3chikeichisitu.pdf
 ↑ 貼り付け方を知らない~~! お手数をおかけします。

上のURLは、宮城県の東北部にある登米市<平成23年度白書(¥600)の一部のようです。
岩淵先生のご教示で<狐禅寺渓谷>を検索しているうちに行き当たりました。素人には専門語がおおく詳しいことは判りませんが、この中で二つの興味深い図面と写真を見つけました。
  図  Ⅱ-3-1 地形概略図                -19頁-
  写真 Ⅱ-3-4 曲袋・まげぶくろ(中田町浅水付近)の状態 -30頁-

登米(とめ)市は、北上川を上っ行くと岩手県一関市と接するところにあります。 一関は、祖先から 『北上川を関止めた』 との地名の伝言を受け取っている所でもあります。この白書を精査していくと、
①大洋から西へ北上高地を乗り越え駆け下った巨大津波の土石流と、そこへ留まった濁泥が、
                                               →(○○沼)
②そして、北上川の河口から遡上した巨大津波と、北上高地を駆け下った泥流との合流点が、
                              プラス西から津波の戻り水→(曲 袋)
③さらに、6500万年前の'人知’では受け入れがたい超巨大津波がみえてくると思いますよ。
                                               →(猊鼻渓)
 それ等の解析は、専門家にゆだねることに致しましょうか!(^-^)??


 つぎの記事を思案中です・・・(^-^)♪


(10/4) 拍手(1)が頂けました。 感謝です(^-^)。とても励みになります。
(10/9)つづけて拍手(1)が頂けました。拍手は10倍、コメントはその100倍の元気が
      頂けるのですが・・・、

(10/28) 拍手(1)と、前記事との(5)連打が頂けました。 v(^-^)v 感謝です。
('13/9/08) 9/01に拍手を下さったお方は、 I.先生>だったのですね。本日コメント欄を
見てやっと解りました。返事が遅くなってごめんなさい。丁度、先生宛に文信を準備中です。詳しくはそちらで^^!


('14/12/30) Dr. I さま>7拍目と、そのコメントありがとう御座います。A博士と6時間にも及ぶディスカスは実り多いものでしたね。本年の3月に先生とお会いできたことは私にとって生涯の記念です。来る年も更なる発展の年になりますように!! ありがとう御座いました。
 
                   コメントは、↓ CO-0 クリック^^
四千年前の「巨大津波の痕跡」 その5.
<東北・巨大津波の合流点>
 ご訪問ありがとう御座います♪
このブログで掲げている記事の全ては、続き関連モノです。この大事変があったからこそ、
       神の国・卑弥呼へと歴史が繋がっていったと謎解きしています。
         お暇な方は^^?、当初の記事 「卑弥呼・・」からどうぞ^^


当ブログは追記の形式で、今回の('11/11/27)で完了しました。
 この記事は前出の・岩淵國人先生(奥州市)の論説;合流、を頂きこの記事を掲げました。
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<巨大津波の、(1次的2次的・・・)合流点!>
     まずその前に “その大異変を” ご先祖さまから、 再々々度(^^)聞いてみよう。

『 東北地方 ・ 祖先からの地名伝言 』     (↓ 拙電子出版より転載 )
その昔、(BC.2001年・日本時間12月25日 未明の朝6時頃)
竜が飛んだと、“龍飛崎” 全天覆った“奥羽”の羽 “大槌・釜石”に降臨した。
“松前”のそちらに飛んだと“白神岬”、白光見たと“白神岳” 、真昼のようだと
“真昼岳”、私も見たよと“面白山”あな恐ろしや恐ろしや木々も白んだ“白髪山”
 「しろひげやま」と読みます。立ち枯れて幹だけが白く残ったんでしょうかぁ?
巨大な津波が生誕した。
“水界峠・250m”のすぐそばに、津波で沈んだ“志津の川”、金の扇か
“金華山”舞い踊ったか“竜舞崎”、巨大津波を“歌津”とは酔狂人がいたもんだ。
“岩の手”を敲いて育った大津波、暴れん坊の大津波“牡鹿半島”を蹴散らかし、
花嫁さがして大津波、“志津川”越えて“津山”を越えて、後押しされて“追波川”
鹿の背越えて“渡の波”へ、巨石渦巻く“石巻”“仙台”越えて“津の田んぼ”
“次郎太郎山”が通せんボッ。  二俣かけたか大津波、津波は川を北上する。
“北上川”を北上する。 “志波姫”様を横目にし、“江刺”恋しや“花巻”恋し、 
妬きもち焼いて“焼石岳”、黒く焼いたる“黒森山”、 それを眺めて“国見山”
どうなるものかと“物見山871m”“遠野”で眺める“物見山917m”
袖を振られた大津波、 “盛岡”の先 “姫神山”へ、  土を盛っての贈り物、
シワぶきひとつ“紫波”の波、行かせてなるかと“区界峠”、節操ないと“八幡平”
想いかなわじ“七時雨山”、ここから先は下り坂、力落として“一戸”へ、
“二戸・三戸”四歩と歩めず。 気を取り直して“五戸・六戸”、 “七戸”の先、
あの“恐山”、 力尽きたる大津波、 ふる里、目指して“八戸・九戸”
津のない十(とお・ツなし)で、お終いじゃあ!

    青字は地名伝言です。“紫波(しわ)の波”を赤字にしておきました???

<津波は、川を北上する、北上川を北上する!> (11/12)
石巻から上陸した膨大な水量・推定高さ400m??(←変わる可能性あり)以上は、一関をものともせず江刺・花巻を駆け抜け、その削った表土を盛岡へと盛り上げた。尚も、それだけに止まらず、岩手県と青森県境にある七時雨山・十三本木峠(457m)に駆け上がった。十三本木峠とは十三本の大木が残ったのかも知れない。今に十三の数字、階段を何故不吉数とするのであろうか? ちょっと脇へそれました^^!) この分水嶺を峠として青森県側へ馬淵川を駆け下る。その津波は、一戸、二戸、三戸、(四戸は無い)、五戸、六戸、七戸まで届いている。これは私が言っているのではない! ご先祖さまがそのように仰っているのだ。奇しくも先に謎解きした肝沢平野の6段丘を1波~6波としたことに符合する。

<石巻側から北上した津波の水位はいくらか?>
北上高地を太平洋側から乗り越えた津波を標高・高さで400m~800mとした。それでは、石巻から奥羽山脈と北上高地の間を駆け上った津波の高さはいくらであろうか?

<北上川の流れの不思議> (11/13)
ここに中学校の社会科地図がある。この地図を見ていると怪訝なことがある。奥羽山脈と北上高地の間を流れている北上川であるが、その流れは北上高地側へ片より、へばりついているように見える。先のモナドノック・地形の輪廻の考えを持ち出すと、1500m級の奥羽山脈と1000mに満たない北上高地との比率を考えねばなるまいが、もう少し西よりに流れていてもよさそうに思うが? 
この地形を思うとき、私は二つの要因を考えている。その一つは、四千年前の巨大津波が造る地形。 もう一つは、6500万年前、猊鼻渓に高さ100mを超える海洋性の石灰類を運び込んだ超巨大津波(別紙)ですが、この方の言及は伏せておきましょう。今でさえ相手にして貰えないのに、これを言うと益々相手にしてもらえないから。(笑い)

<津波の揺れ戻し> (11/14)
津波が比較的広い谷奥に入り込んだ時、その斜面を右へ左へ揺れ戻すことがある。それを今回の3/11大震災で経験した。奥羽山脈と北上高地との谷あいに入り込んだ四千年前の巨大津波はどのような行動をとったのであろうか。それを教えてもらうために、ご先祖さまからの<地名>という伝言を聞きにまいりましょうか。

<奥羽山脈側の山裾に津波の高さを聞く!> (11/15)
  中学校社会科地図より、以下は、資料に元づかない拙速思いつきであり、間違っていたり、大事な地名が抜けていたらゴメンなさい。
 まずは<鳴瀬川>上流より、この「鳴る」がつく地名は「天が鳴り、地が鳴り、津波が鳴った」その大事変かと思います。後の“雨乞い鳴滝信仰”へ進むと謎解きしています。
<富谷>(海抜○○メートル)←海抜○mは後で調べて入れます^^!。
 この記事の当初からお付き合いして下さっている方は、すでにお判りかと思いますが「富」とか「福」がつく地名は大事変で打ち上げられた海の幸をいうものかと謎解きしています。三重県の津市には<嬉野♪>がありました。
ちょっと南下して<蔵王>別名→(屏風岳)が気になりました。 
この屏風岳は、荒神さまが発したその爆風や「不吉な閃光を止めた」として付名したのではないだろうか。それは悪しきをそこで絶ち止める「屏風岩信仰」となり、さらに後々では「新しき御来光を迎える」として、前述の(環状の立木遺跡)から「千光寺信仰」へと各地に広がっていったと推察できる。今私達が深くを考えず当たり前のように?使用している垂れ幕や、お葬式幕、祝い事幕、、金屏風、等は、このことから発していると断言できる! これを外すと、こども心には、その意味が解からない。太古の昔から未来永劫まで朝日は昇り夕日は沈んでいる。それを「元日」で区切るその意味が解からない(笑)。
江合川上流の<岩出山・いわでやま>(海抜○○メートル) 
津波が谷間を駆け上り、その山肌をたたき削り巨岩を表すことがあります。先の記事(別紙^^?)では滋賀県の石山寺がありました。元々あったものなら「出る」の字は使いませんからね。筆者の推理が正しければ、此処には石山信仰としての巨岩と“イワレ”があります?。
<一迫・いちはざま> (海抜○○メートル) 
巨大津波の第一波跡(最大波)かと思われる。 「ハザマ」をPC変換するとそれらしい語句が並びます^^。

<その時の津波の高さ、浸水地を推し量る> (11/16)
 前記の高さを国土地理院の地図で調べます。→ 暫定的津波高さ
富谷・とみや>      只今、標高を調べ中^^!ですが・・汗~~~!
岩出山・いわでやま>   只今、調べ中^^!ですが・・・
一迫・いちはざま>    只今、調べ中^^!ですが時間がかかりそうなので、一旦休止^^!、
 他に、 (11/17)
<志波姫・しわひめ> 姫は火女・ヒメの変化か
<築館・つきだて>    築地 着き土手の訛ったものか 
<高清水・たかしみず> 津波に火事は異質ですが、その時の煤煙、「煤・スス水」か
<古川> 大津波以前の川 か? そして大郷・おおさとは縄文石器代の主たる居住地か? 
さらに、<仙台>の台はこの時のものかの確定は出来ないが津波が運んだ土砂台なのでしょうか。等々の津波に関係すると思われる地名がありますがはっきりとは推みきれません。

<次に、この辺りの航空図を掲げます> ヤフーサービスより、(11/18)
BC2001年12月25日の大津波進入・上陸の痕跡!!   著作権等の侵害があれば削除します(^^!)

< これから先は、>
 ↑ 上の写真が“大津波の侵入痕”、 に見えた人だけつぎへ進んでください^^?
 正(流)、逆(流)、逆の発想
どっち(現科学)が正常で、どっちが思い込みか分かったもんじゃあない。 ←ちょっと過激的^^?      想像・妄想> 奇人・変人扱いされるのはもうイヤだぁ~~~♪(笑い)♪

       ↓

 
       ↓






  MОMさんブログ>の手法をパクらさせて頂きました^^!。
もっとも、当史実探偵の論説の97.5%は“他人様”のパクリです。今使用しているこの語句が、この一文字までもが、この私くしが考えだしたものではない! ( 別紙報告書より、)
 次回のUPをお楽しみに^^!

<大津波の引き波の痕跡を見つけた> (11/19)  
  ↓ ヤフーサービスより、 著作権等の侵害があれば削除します(^^!)

この写真は、一迫、岩出、築館>辺りの航空写真ですが、同方向に幾筋もの川筋がならんでいます。この地形が形造られたのは津波によって打ち上げられた軟弱な堆積土が、その引き戻しによって多数の川筋を刻んだものだと断言・断定できます。 ええ、私は、これを実験証明できますよ♪  ・・・と思いましたがそれは実験するまでもなく、こどもの頃にあそんだ泥田や、砂場、川辺、河口、海辺での“引潮地形”を思い出せば難なきこと(^-^)♪ そんな簡単なこと(実験)では納得できないとするのが現科学^^!??

 (12/13)追記
 この航空写真を地図変換すると<座散乱木遺跡><塚原遺跡>の名が気になります。
 その時の津波が打ち上げ“寄せ集めた木々”なのでしょうか? 検索しても出て来ません。

<岩出山のその露出岩はどこにあるのでしょうか?> (11/21)
  きっとそこには“お宮か、お寺”があるはずだが、それが見つからない。・・・・、
その露岩の標高が知りたい。
それが分からないのでとりあえずこの近くに名生法山△277mがあるので、その津波の高さを(仮に250m)としておきましょう。 この高さから大量の水が一気に北上川へと駆け下る。さらに2波3波、・・数波が“揺れ戻し”北上川の流れを東の山際へと押しやる。北上川流域には旧河川跡とされるところが多数ある。その多くは、この時の津波がその流れを変えたのではないだろうか。さらに、この時、出来た波状段丘を 「海岸段丘だとか、ここは昔は海だった」 とかというお人(現科学)がいたら、もう(私)素人は、(貴方を)相手にしない。 ゴメン々、又々恨み節がぁ・・^^!
(20数年前、今もかな?(笑い)、とある大学の先生に「専門家は相手にしないでしょう」と言われたから^^! PC広報活動にも閉塞感があり、その筋へ文書活動を始めたのですが未だにお返事は返って来ません。無視されるのが一番つらい。実績皆無の素人が、いかに世紀を変える(気付き)謎解きをしようとも世間は相手にしてくれない。『どうしたら、この史実が貴方に、現科学者に伝わるのか』その謎が二十余年、未だに解けない。中学生のみなさん実績はしっかり積んでおきましょうね。世間はそんなに甘くない!! こんどは泣き言がぁ!^^!)

< 巨大津波の “合流痕跡” を見つけた!> (11/22)
 .種山モナドノックを越えた水流(水量高さ400m>)
 .石巻湾から上陸し、北上した巨大津波(水量高さ○○○m)  
 .岩出山からの揺れ戻し水流(仮、水量高さ250m) 
 .北上川からの戻り水(水量高さ○○m) ・・・等の、合流痕を見つけた!!!

  ↓ ヤフーサービスより、 著作権等の侵害があれば削除します(^^!)
 [ 東北巨大津波が造った、合流痕と渦巻き痕 ]




[曲袋(まげぶくろ)の蛇行地形] ←↓ 前述の<登米>白書より引用、←旧建設省か?
www.city.tome.miyagi.jp/oshirase/kankyo/documents/04_2_3chikeichisitu.pdf
延長249km北上川の流路の中で、最大の峡谷が岩手・宮城県境の弧禅寺峡谷であるとすれば、曲袋は最も大きく蛇行した場所である。中田町大船渡の錦桜橋付近から南流する流れは、同町新小路付近から東和町石倉に向けて大きく蛇行し、北上する流れとなる。石倉付近から再度蛇行し同町米谷地区に至る。川幅約200mの北上川が、東西25km、南北25kmの平野をS字状に屈曲する。その屈曲の最小半径は1kmに満たず、曲袋付近の土地の幅250m程度でしかなく、河川が一旦側方浸食を強めれば瞬く間に米谷大橋付近でショートカットされそうである。・・・以下この地形の成因について言及されています。
   その添付写真→ 写真Ⅱ-3-4. 曲袋(中田町浅水付近)の状態   - 31 -頁
 この報告書は、以下の謎解きの大きなヒントになりました。

<この北上川S字カーブはどのようにして出来たのであろうか?> (11/23)
普通に考えれば、平地に於いて、このようなヘヤーピン状のカーブなど、大河北上川の流れからすれば、白書でいわれるように 『 瞬く間にショートカット 』 されるし、通常の年月で造られた流れとするには無理がある。 だが前記の、、、、の流れを想定すれば、しごく簡単。<.種山モナドノックからの流れ>が南進する。それに負けじと<.石巻湾からの流れ>が北進する。さらに<.岩出山からの流れ>が、<>と<>の合流を東の山側へと押し付ける。・・・て゜、S字カーブは形造られた。 この論を決定づける駄目押し地形がある。

<S字流の西南側方に出来た渦巻き地形> (11/25)
このSカーブの側方に○○から○○を中心に直径2kmほどの左巻き・6の字形の渦巻きが見える。(蛇足ながら北半球では左巻きに渦巻く^^) さらに、これに続いて直径ほぼ2kmと、直径ほぼ1、5kmの渦巻きも見える。この渦巻きに見えるのは田園地帯のなかに立ち並んだ人家ではあるが、通常の平地では、このようなグルグル巻きやト音記号状に住家集落の形成はなしてはいかない。(東北には今風の円形団地はあるようですが^^) 
何故か? 答えは簡単♪ そこが津波の運んだ土砂で渦巻き状に高かったからである。水稲を作る場合、水を引くのは低い場所へ、住家は北上川の氾濫を避けて少しでも高い土地へ建てたいものだ。後世で農地を区画整理したが住家地帯までは整理が出来なかった^^。 

『 祖先からの伝言をお伝えします 』 (11/26)
ここはその津波の後、<浅水>で、<黒沼>で、<中田町>であったと、祖先は地名で(記録して)仰っています。
「浅水」とは、後々に津波の水が引き、その渦巻きが造った “お皿状の自然堤防”(約70cm~20cm高さか?) のうちに溜まった残水のことであり、
「黒沼」とは、津波先端の行き止まりに運ばれた微細土(赤沼もあり)であったり、渦巻き地形が残す清水域や微細土のことです。(このことは更なる大きな謎解き→別紙報告書へとつづきます。)そのほか、北上川流域に見える他の多くの沼地もその時できたものかも知れない。
 私は、それより何より、ここに必ず遺されているであろう、祖先からの伝言の続き(イワレ)を聞きたい。 『その<曲袋>に入っているモノ、いた物は何ですか?』 と・・・^^!)。 素人探偵の解析はここまでで、あとは警察(専門家)に、その裏づけをとって頂くことにしましょうかぁ??  わたしは、この地を訪れたことがありません。
 この地形が確かめられれば、この街並みは、大きな“世界的観光遺産”となり得る♪。 ただし、 貴方さまが世界中の学者が、首を縦にふってからの話ですよ^^♪。 ・・・ ・・・
                                       メッセンジャー (平 素人)

( お ま け )  (11/27)
えっ? 何か忘れていませんかって・・・、
 そうそう、すっかり忘れていました^^!。・・<紫波・しわ>の地名を赤字にしておいたこと。

この<大事変の日時>
日本時間BC2001年12月25日の朝 “6時頃” としていました。
東北の地名を聞くなかに、この紫波町の名がありました。 だがこの<紫波しわの紫色の意味>が推み解けなかった。なぜなら、他の地の地名伝言では<白波・しわ、白羽・しわ>等があり、津波の波頭・なみがしらは 「白いもの」と決めてかかっていた。この度(3/11)の大震災での津波の波頭には「黒い」ものがあった。さらに東北の陸中に<黄海>の地名もあることも分かった。陸前高田市の職員の方だったかな 津波で水没した三階の屋上で鉄柵につかまりながら、目の前を大量の魚が通りすぎていくのを見た」といわれていた。 そうだ♪  未明の巨大津波を “間近に、或いは水没して”みれば<暗い紫色>に見えるのだ。

その時を<明石時間>で朝の6時頃としたが、天文学者なら、地球の歳差運動や回転微差等で割り出し、さらに正確にその時間を絞り込める。 さらに々、その朝は列島のほとんどの地域が快晴だったに違いない。なぜなら、北海道の白神岳から○○の面白山や屏風岳まで曇り空ならその閃光は届きはしない。さらに、想像を加えれば、長い日照り続きで一滴の水も欲しい干天が続いていたに違いない。 だから、この「彗星衝突」で生じた滝のような大雨が、竜となり水神となり、その思いが雨乞いや “卑弥呼の歴史”へ続いていったのではなかろうか。このように、たった一つの地名(一事)からでも、その大事変(万事)は見得てくる。 この大事変を言う地名は、あなたの地にも残っている。こどもの頃、何故にその地名ついたのかを不思議に思ったことが誰しもあるはずだ。
「一事は万事を語り、万事は一事によって成る」
  地名は大事変を語り、   大事変は一地名によって成る。
そのこども心を思い出し、深く追求しないかぎり、祖先からの伝言は、貴方には現科学には伝わらない。素人探偵の役目は、そのきっかけをつくることであり、これを捕らえて学問となすのは警察(学者)や検察(大学や研究機関)の役目だ。私はその手錠(専門的知識)を持ち合わせていない。この事変の解明にジャンルは無い!。わたしは何んでもブッチャケて語り合える(多くの)Dr.ワトソン>を捜している。・・・、・・・、・・・^^!。大陸移動説を唱えたウェゲナーは、それが今に認められるまでに百年?を要している。 私の場合はこの広報を始めて二十余年しか経っていない。・・・が、ちょっと物忘れが多くなり、ボケも入ってきたから出来れば存命中にお願いしたいのですがぁ・・・(笑い)
                            史実探偵 平 素人    ( '11/11/27 ) □

 これで、この記事を完了しました。次の準備にかかります。次はもっとBigなことが・・^^♪


訃報: 追悼:
http://www.tankonews.jp/modules/bulletin1/index.php?page=article&storyid=429 ('21/5/30:565ヒット)
    敬愛する岩淵先生のほうが先に('21/5/17)逝かれました・・
「彗星衝突による 縄文超々巨大津波」-文芸社 奥州市:岩淵國人 
四千年程前、 イースター島上空から(現地時間の13時頃)侵入し地球を半周し赤飛した巨大塊が東北地方に(BC2001/12/25/am6:00頃)降臨した。これで発生した北上山地を越えた6波の大泥流津波は、6段丘の胆沢平野をつくり、仙台湾から北上川を北上した津波と合流しS字形の“曲げ袋”をつくり、さらに大泥流は仙台や一ノ関・盛岡を造るほどのものでした。衝突で巻き上げた粉塵は、北半球で一・二年のうちに隕石の冬(筆者推定年気温12~15℃?の降下、先生は3~4℃だったかな^^?) を伴い生態系をも変えました。この大事変は人心にも入り込み列島の津の地名のみならず 『神となり、竜となり』 世界史にも、その痕跡を刻んでいる!!

 前学にない大論を唱えるひとは、世界に"五万と"いますが「この大事変を認め合える」のは世界で岩淵先生と私のたった二人 <双友:only 2> でした。むつかしい論はなくてもいい。気付けば良いだけだ! もとよりの極大論、存命中に成るとは思っていない。記録は保っている。
    「まっててね。二人で俯瞰(ふかん)しましょうね・・・」
    http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-date-200810.html




  つづきます^^♪
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