卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」
此処に出雲と同様、“大量の銅剣”が埋めてある! 全国歴史ファンの方々、三上山に集合せよ。
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「大量の銅剣と銅鐸」は、卑弥呼が埋めさせた! の、よもやま話 Ⅰ
去る日の土曜日に意を決して、とある大学の考古学研究会の例会に行きました。 と申しますのは、表題のような活動を20年来続けていますが、「我啼けど、未だに、闇夜の時鳥(ホトトギス)」、何とか、この状態を脱したいと!思い、考古学専門家の皆さんに、この卑弥呼の埋めさせた 「野洲と、神戸の大量の銅剣の掘り起こし」 を直接に、お願いしたいと思ったからです。
例会終了後の5分間では、ありましたが用意した10部のブログ資料のうちの、8部を渡すことが出来ました。 いざ行かん、その云う、七つの大海原へ! その8部の資料は、世界史を変える為の第一歩を 記したものです。 プレミアが付くように? しておきました。(笑い)

ホトトギスは、その姿をあまり人には見せません。人々寝静まり未だ明けやらぬ闇夜に、その澄んだ声を聞かせます。その鳴いた口内は、血を吐くような赤い色をしていると聞きます。そして、このことはあまり好きではありませんが、‘春告鳥ウグイス’に託卵をする習性があるそうですから子育ては苦手なのでしょう。 筆者は、この‘時鳥ホトトギス’に重なり合うものを感じます。
その春は、必ずめぐり来る! この報告書が貴方に伝わらないのは、その史実がなかったからではなく、素人の論がいたらないからだ。 専門は問わない。 より多くの貴方の参加を是非に希望します。   史実探偵: 平 素人(ヒラ モト)より、

以下、何故?「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」の考えに至ったのかの、よもやまをつづっていきますので、どうぞ楽しみにして下さい。 ①~⑳迄、


 ①大量の銅鐸の出土が「出雲と、野洲と、神戸」であった。一方、大量の銅剣の出土は、出雲だけであるが、共通の文化をもつ「野洲と神戸」でも、大量の銅剣類が、必ず埋められている。 その出土は、時間の問題で、世論の盛り上がりと考古学の動きにかかっている。 (それか、スポンサーの出現に?) この件の謎解きは簡単だ! あなたが、それに気付けばいい。
 では何故、 その大量に埋められた、銅鐸と銅剣類が、卑弥呼と結びつくのですか?  

 ②卑弥呼については、魏志倭人伝に記載があり、その邪馬台国にいたっては、中国から邪馬台国までの行程の仔細まで記されているのに、 その所在地においては、 諸説紛々、百花繚乱、我田引水、的で?、 薄識の素人に立ち入る余地はない。 ので(笑い)、 別の角度から当時の青銅器に、スポットを当てて考察してみたい。
 当時の日本の青銅器には、銅剣(矛)、銅鐸、銅鏡がある。
銅剣は、切ったり、突いたり、殺めたりするものから、強さ権威の象徴へと変化。
銅鐸は、衣食住に関係するもので無いことから、謎の青銅器とも呼ばれるもので、別紙の報告書で、雨乞い儀式のなかでの打音楽器とか、慈雨をもたらす荒神そのものとか、色々に挑んではきたが、最終的には 「慈雨をもたらす竜神を呼び寄せ乗り移す媒体」 になったと結論付けた。 今においては、そのなごりとして「呼び水・送り火」の言葉が残っています。

 ③銅鏡は、顔を映すものか?? 中国のそれは知らないが、日本では、そうではなかったはずだ! 今の鏡は、顔や身姿を映すものから、商品のバックや建材の一部として使用され、そこには、神聖さのかけらも残っていない。 それでも、昭和の後期頃までは、“鏡は女の命”なる言葉が残っており、嫁入り道具の必需品であった。うちの母などは、正月にシメ飾りを掛けていた。 もっともっと歴史をさかのぼれば、その神聖さは、より増していくのだろう。このように鏡に対する考え方は、今と昔では随分と違う。 銅鏡は、今でも御神体として、決して“人目に晒してはならぬ”と、今でも、どこやらの神社の奥深くにおさまっている。
 この項に、3つの重要なキーワードを忍ばせて置きました。 まだまだつづくヨ!

 ④青銅器について
この謎解きは、中学生をも対象としているので、少しそれに立ち入ってみたい。歴史的には、銅器の発見が先で、鉄器が後にくる。これは、それぞれが持つ融点の違いで、銅の融点は1084、5℃で、鉄は1535℃。この融点が低いということは、人類が早くに、それを手に入れるということである。今捨てた、たばこの温度が700度、と云うように、野焼きで得られる温度は、せいぜい700-800℃である。 これより高い温度を得るには、燃料の選定と大量の酸素の供給、登り窯等の蓄熱、が必要となる。 人類の歴史は 「高温を得ること」とも云え、核爆発の臨界温度や、大気圏突入時の高温に耐えるだけの宇宙ロケットの表材のように、いかに高温を発生させても、それを制御できなかったり、受け皿が熔けたり破壊したのでは何にもならない。ちょっと脇へそれました。
 
 ⑤魏から、卑弥呼への数多くの贈り物のなかに (Yahoo!魏志倭人伝 参照) 金印は別として、特に目を引くものがある。 五尺刀が2口と、 銅鏡の100枚である。
何故 銅剣が、1振りでなくて2振りなのか? 何故 100個もの銅鏡なのか?? 
 卑弥呼は、女である。 その女の卑弥呼が、100枚もの銅鏡を並べて、身の丈もあるような大刀の二本を腰にぶら下げて、己の姿形を眺めている場面が想像出来ない。(笑い)  
 この “数”には意味がある。

 ⑥魏の天子は、「遠くの国から、私への贈り物をようしてくれた。 汝(卑弥呼)を、倭の国の国王と認め、その金印を贈る。 そして、返礼として、汝の “好物”を 使いの者に託したから受け取ってくれ」と、云っている。  ( 註:要旨概略 )

 その贈り物の、数量についての考察をするまえに、日本人と中国人の儀礼的な贈り物にたいする考え方の違いに言及しておきたい。日本のお中元とか、お歳暮とかは、目下のものが目上のものに 「色々とお世話になり、ありがとう御座いました。今後ともよろしく」 との意味合いをもつ。 中国ではこの逆で、その徳と富を表すためだと思うが、目上のものが目下のものへ贈り物をする。 ある公司(会社)に、トラックいちだんの西瓜が届いた。別の公司からの贈り物だという。また、訪問した時の食事のパンがとても美味しいと褒めると、バックいっぱいのパンをもたす。 宴会料理のあり余る程の多さは云うまでもない。 ちなみに、欧州でも、目上のものが目下のものに贈り物をすると聞く。 米国では、スモール・プレゼントの言葉があるように、お互いが負担にならないような(対等の立場?)愛用の小物をプレゼントする。 このように贈り物に対する考え方は、国によって、こもごもで、それ等をふまえての謎解きに入りたい。

 ⑦まず五尺の大刀が、なぜ2本なのか!!
五尺もの銅製の大刀を腰にぶら下げる分けにはいかないから、これは、飾り物でありそれを有する者の権威とか地位を“象徴”するものだとすぐ分かる。 だがまてよ! これを有する者は、その最高位であるから1本でいい。 2本あったら困る。 中国の皇帝が贈り物をする相手を困らすようなことはしない。衆知が認める卑弥呼と同等な者が、もう一人いたのである。 魏志倭人伝に、卑弥呼は、「鬼道に事へ、能く衆を惑わす」 そして、「男弟あり、佐けて国を治む」 とあるから、通常は、弟が国を治めていて、何か“困り事”があったら、その都度、卑弥呼がご祈祷を行って神やご先祖からの“付託を聞き”それぞれを決める社会制度が整っていたのである。 だから、もう1本は、その弟の為に贈ったのである。このように、中国での贈り物は、個人から個人へ、上から下へと、おすそ分けしてゆく“権威の文化”であり、日本では、何かとの交換の“交換文化”が発達している。さらに、何故五尺の大刀なのか、この長さのことは中国側にも聞かねばなるまいが、それを帯びる者は、四(死)尺を超える神の代行者として、つまり、日本の文化が「祈祷決定文化」から、「権威為政者文化」へと変わりゆく発端・過程にあったのではなかろうか。

 ⑧その“社会制度”とは、どんなものか?
魏志倭人伝では、前記のように、卑弥呼は 「鬼道を行い、衆人を惑わす」 とある。非常にキツイ表現である。 これは、異国言語の表記の違いではない。 中国の使者の目には、卑弥呼が行っている祈祷が、鬼道だと映ったのである。それは、(前述の)、BC.2001年の12月、東北地方に降臨した竜神(水神)に、「幼子の生け贄を捧げ」 衆が生きうる為という、雨乞い儀式を見聞きしたからだ。 当時は、今のような病院があるわけではない。村落に一人は、拝み屋さんがいて、この人が病気の治療から、困りごと迄の、よろず相談を受けていた。 その制度・社会の上部にあったのが卑弥呼だ。 困ったときの神頼み! その形は、今でも残っている。 貴方(現科学)と、私(素人)の違いは、それ等を神話だ、伝説だ、昔話だと、とるか、 それ等を 祖先からのメッセージだと、受け取るかの違いにある。

 ⑨次は、なぜ「100個」もの銅鏡を卑弥呼に贈ったのか?
中国と日本での贈り物にたいする考え方は、根本的に違う。それでも、贈り手は、その数をいくつにしょうかと考えたはずだ。 倭の国には、100余国と聞くからそれ等に分け与えるために100個と決めたと考えるのも一理はある。 いかに中国でも銅鏡は、非常に高価ものである。有り余るほど与えられるものではない。日本に銅鏡が何時に、幾つ入ったのかの後先は知らないが、この時、大量の銅鏡が日本に入ったのは事実である。(もっとも、魏志倭人伝を考えたあげく、それは、当てにならない‘作り話’だとする考古学者もいる。だから考古学が面白い。)

 ⑩日本国内へ、“銅鏡が”大量移入し、『一時的に』 その総数・絶対数が、増大した!!
     ここが、この時が、「銅鐸文化」から「銅鏡文化」へ変わる歴史の節目だ!

中国の皇帝は、卑弥呼の“好物”を贈るとある。 皇帝は「卑弥呼の好物は、欲しいものは、何か?」と、日本からの使者に問うたはずだ。 鏡が珍しいだけなら、自分(卑弥呼の)だけのためなら「100個も!の鏡」は、いらない。又、当時の諸国・諸部族のすう勢は、永々と続いてきた「銅鐸文化」であり、より立派な銅鐸へと造り替えたい願望があった。 ならば、なにも鏡ではなくて、「銅材料」でもよかったはずだ。 それを、あえて鏡にしたのは 「卑弥呼の強い意志」 がある。 それまでの、「生け贄文化」を止めさせたい、卑弥呼の強い意志がはたらいている。 口  よもやま話のⅡ~⑳へつづきます^^。
 
 それを知りたいお方は、
myブログ 「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」を発見けたい人この指とまれ!」の、 「ホーム」の方から、お先に、どうぞ!
 もっと知りたいお方は、
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さらに知りたいお方は、 今、私達が行っている 諸々の所業( 神社・仏閣・お祭り )の方へ、どうぞ!! -笑い-

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どなた様拍手をありがとう♪ 只今(‘10 5/21)3拍になりました。(^-^)
2012/9/18
どなた様>累計7拍手をありがとう御座います。なぜこの記事に拍手が頂けたのか分かりませんが。自分ながら駄作多い記事のなかでお勧めの一つです。なにぶん知識が乏しい上に表記の拙さも手伝って、未だにこの思いが皆さん(現史学)に届きません。今後ともよろしくお願いいたします。できればコメントを^^
2017/8/8
どなた様>累計9拍手目をありがとう御座います。何カ月ぶりの拍手です^^!。
今後ともよろしくお願いいたします。できればご参加を!
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