史実探偵; 平 素人(ヒイラ モト)より、お願い
この“世界史を変える”myブログへ、ようこそ・・ それは、貴方の参加より始まる。
、 「卑弥呼が埋めさせた“大量の銅剣”を発見けたい人、この指止まれ!」は、
(このページの左欄の月別アーカイブ2007年06月をクリックして下さると入れます^^)
、 「その、よもやま Ⅰ 」 の記事の方から、お先にどうぞ・・・ (深礼)
これから、そのつづきの、「よもやま Ⅱ」 ⑪~⑳を書き込んでいます。 どうぞ、楽しんで下さい。
⑪卑弥呼は、銅鐸文化を銅鏡の文化に、なぜ変えさせようと思ったのか?
一口でいえば、中国の人をして“鬼道”だと言わしめ、幼児の生け贄にまで発展した「銅鐸荒神文化」を 象徴物「銅鏡太陽神文化」に、変えたかったからだ。言い添えて、慈雨との交換に、生け贄を要求する荒神・箒星は、太陽の従神・使者であり、 雨を降らせるか降らせないかを決めるのは、主神の太陽だとしたからである。 その象徴が鏡だ!! 煙を雨雲に換えたい考えは自然発生する。その鏡と太陽を曇らせればいい。 この時から、生け贄雨乞い文化は、象徴物代用文化へと大きく踏み出し、銅鐸を使用しての雨乞いは、急速に衰退した。
⑫しかし中には、卑弥呼の考えに従わぬ者もいて、卑弥呼は大いに悲しんだ。
この時都合よく? 天文学者は、北九州で皆既日食があったと計算している。だが、ニアミスをした箒星のほうについての科学的検証を出すことは、不可能に近い。 しかし、祖先は、その箒星を‘山名’として記録している。阿星山とか、伯耆大山とか、鶏尾とかに類する地名を拾い出せばいい。さらに広げて、中国や韓国へもお願いしたいところだ。その前に、日本の考古学・地名学・天文学者が協力しあって事にあたって欲しい。(笑い) そうすれば、より確定的になる。 この事変は、一つの学問だけで解明できるものではない。考古学を限定的、画一的に考えないで、そこには、歴史という時間と、面という地域性と、私のような変わり者という例外が、同時進行している現実を認めて欲しい。 中には、卑弥呼のいうことが、直に受け入れられなくて、銅鐸文化から、銅鏡文化への移行が、後や先になったりもする。 (荒神谷遺跡で銅剣類が2カ所にあった内の一方は“後追い”で埋められたものと推察している。)
⑬卑弥呼の “生い立ち” について、
ここは何処の細道じゃー、天神さまの細道じゃー、 ちょっと通してくだしゃんせー、 御用のない者、通しゃせぬー、 この子の七つのお祝いにー、 お札を納めに参りますー、 行きはよいよい、帰りは恐いー、 恐いながらも通りゃんせー通りゃんせ~、
当時は、この謡のような社会制度があった。 再度の述解になるが、主には雨乞いのための制度で、人里離れた山奥に 「境内」をさだめ、白羽の矢をたてた三歳~七歳までの女児を 「神子」と呼び “人身供儀用”として隔離し大切に育てていた。筆にするのもためらうが、一般の子と区別するために、その耳を削ぎ、長髪を肩で切り、おかっぱ頭にして、それを隠した。 祖先は、それを耳削ぎ(みそぎ)とか、耳納(みのう)とかの言葉や地名で残している。←(註:これは、筆者の独自解釈です) しかし、いかに大切に育てようがその子がなつくはずがない。 そこで、その施術・荒神と、養育係・修厳者とにその役割を分けた。 最初は、夫婦二人から始まったこの形は、だんだんと強固に制度化していった。そして、この人達は、山奥でもあることから、里人に米の提供(租税の始まり)を受けた。今でもこの形は、お寺や神社に残っている。
そして、人口が増えてくるに従って雨乞いの回数も増えてくることから、女児が足りなくなり男児に変わる地域もでてくる。 いくら衆生(しゅじょう)のためとは云え、我が子恋しさに取り返しにいく親や、為政者も出てくる。これに類似する昔話や民話は数多く語られている。それを防ぐために荒神は、門神・仁王様に変わり、番犬は、狛犬に変わっている。 又、たとへ運良く、その子を取り戻したとしても、短髪では“(神=)髪を切ってはならない”とする長髪社会の中で隠し通すことは難しい。 社会がそれを許さないのだ!! このような社会背景のなかで、卑弥呼は出てきた。卑弥呼は、もとはと云えば前述の神子のうちの一人であったが、予知予見能力や、治癒能力が、特にすぐれていた事から、その厄難をのがれていた。
日本各地にある「塚」のつく地名は、その難を受けた子達を弔った蹟だ。
このように、その時、その社会で正しいと思えることでも、あとで振り返ってみると誤りがあると、今の私達も知らねばならない。
⑭ 「境内」について、 ( 註:この項も、筆者の独自解釈です。)
この境内という言葉は、この謎解きで(大量の銅剣と銅鐸の埋め場所を推定するのに)もっとも重要なキーワードとなる。普通、境内といえば、お寺や、お宮の境内で、人が決して冒してはならない神聖な場所。 この考えの発生を説明するには、多くの言葉を要するが(詳しくは、別紙報告書本文で)この考えのおおもとは、四千年前の三陸地方へ降臨した巨大隕石がおこした大津波に起因する。 祖先は、その津波際に「神の戸・こうど」の地名を付けた。 「戸」は、そこで止めるの意があり、境目・境界の意味も含んでいる。 家の戸は、内と外の境目。戸張おちる夕暮れ時は、昼と夜の境目。 時代劇で死人を戸板に乗せるのは、生と死の境目。
日本人には、この境界という意識が潜在して植え付けられている。帝の前のすだれは、権現化した帝と一般人とのしきり。 さらに、襖や障子の一枚、腰ひも一本でも、それは、決して侵してはならない境界であり、この“考え”は、外国人には、とうてい理解できない。
⑮当時の人達は、その「境内」を “人里離れた場所” に作った。
人里離れたと云っても、集落の本拠から、関係ないほど遠い所であってはならない。それは、近すぎては親近感がわくし、遠すぎては行き帰りがたいへんだ。報告書の本文では、そこは、往復の所要時間がほぼ半日の所だとした。 卑弥呼は、その境内で育てられた。「早朝」の「戸口」に、「白羽の矢」を立てられて・・・! 早朝は、津波の到達した時間を表し、戸口は、津波の波打ち際を、そして白羽の矢は、津波の白波(シワの波)を表す。 これを教えてくれたのは、渥美半島の祖先で、そこには‘片神戸’や‘白波’‘赤羽根’の地名がある。 (*ちょっと閃きました。‘渥美、熱海’の地名は、伊豆方面の海底火山の発生があったと云っているのかも知れない。
ーシワ・志波・紫波、の言葉ありー これは、地震の到達時間と津波到達の時間差による。)
⑯卑弥呼は、その境内で、修厳者に育てられた。
この「修厳者」という言葉を選ぶのは難しい。 他に、行者、祈祷師、太夫、占い師、潮来、口寄せ、憑依、権現、等も当たっているように思える。 この人達は、「四千年前の荒神」を相手に、これを呼び寄せ慈雨を願うお祈りをするのであるから並みの体力ではもたない。 行をする。 滝にうたれる。 不眠不休をする。火渡りをする。 報告書の本文で、これ等の修行の発生は、熊野信仰で‘伊勢’から‘古座’までの、熊野参道に色濃く残っているとした。 それを特筆できるのは、「行や、滝」での“センター的”な修験地が、三重県多気郡、大台町?にある。 そこには、8つの滝(不動滝、七つ釜滝、光滝、予八郎滝、堂倉滝、三滝、巴滝)が密集している。 そして、行・ギョウを積んだと思われる、くねくね道をどこかで? 見たのですが、只今その場所を思い出し中です。( 無責任でゴメン!なさい。 ー笑いー )
⑰出雲の大量の「銅剣」の埋め方について、
もう少し、詳細に、その考察を重ねてみよう。出雲で358本もの銅剣類が、道路工事中の偶然から発見された。(その詳細は、ネットで調べてみると)←註;偶然は間違い。事前調査で土器破片がみつかり予測トレンチ一発目で掘り当てた! そのお人に極意を伺いたいのですが?
、何の、へんてつもない谷間 (これは、すでに織りこみ済み。)
、その、いちばん奥の辺り (これは、慈雨が出流する源流を表す。)
、その谷間の、急な(45°?)南斜面の中腹 (筆者は、これを隠地の、北斜面の裾の、平ら な部分と推んでいたから、X 間違いであった!!)
、地表から、4尺下! (これは、その表土が取り去られた状態であるから正確には分からないが、筆者がこだわっている項目だから、少し言及を重ねてみよう。この銅剣は、二度と使用しないと“封印”したのである。この考えは、土葬にも通じ、その墓穴を掘るときには、幾らでも掘ればいいと云うものではない。肩の高さまで掘り進むと、顔に土がかかって堀づらい。当時の人達の男子の平均身長を5尺とみて、その肩の高さの「4尺」を割りだしたのである。 この4と云うのは、四=死、にも通じ忌み嫌われる数字でである。 このネット関係で「何やらを8尺下に封印したが、その声、未だ鳴りやまず」というのがあったが、これも一理ある。 それは人間ではない。その倍の4尺X2、の8尺にしたろか、という考えもなりたつ。 しかし、8尺下だと金属探知器がきかないから、筆者は、4尺下であって欲しいと願うばかりである。 ー笑いー
⑱その、銅剣358本中の344本の根元(茎・なかご)に、X印の刻印がしてあった。
これは、謎解きという程の難しい問題ではない。すでに述解したように、封印のX印である。地方によって、バツとか、ペケとかの“しるし”である。要するに「その商品は不良品」で使用不能と云うしるしである。 祖先は、これ等の銅剣を二度と使用(合掌・深礼)しないと、決めたのだから、このX印を付けて当然だ。 貴方は、厄除け神社にお参りしたことがありますか? 私はある。 その時、行者さまは「インを結び、クジを切る」。 インは、袖や衣の中で結び門外不出だ。クジは、垂れた頭の上でX印を行う! この所作に謎解きの原点があることに気付いてほしい。 残り14本の無印は、なぜか? これは無使用(合掌・深礼)剣だ!! この“数”を、あーそうかで済まさないで欲しい。その数は、準備剣(合掌・深礼)だとも考えられ、その地方の部族数にも通じる。 このように、想像や洞察を重ねていくことに、 この謎解きの楽しみがある。
今、私達の云うその「科学」は、ファッション(時流)であり、ファッションに過ぎない。
百年前も、二百年前の“祖先”も、今の科学を最高だと云ってきた。
⑲ ‘地名’は、 「祖先からのメッセージ」 である!
これが、本報告書の主題とするところで、もっとも貴方に伝えたいことでもある。 地名は、考古学でいう「物証」ではないが、‘地名’は、その昔 「そこで何があったかを語りかけている祖先からの言葉であり、記録である」 そして、祖先が私達に残してくれている遺産である!! 物証至上主義におちいらず、祖先の言葉に耳を傾ければ、より多くの歴史がみえてくる。 こんなにも簡単なことが、貴方に!、考古学に!、そして、今の社会に伝わらない。どうしたら、それが貴方に伝わるのかが解らない。 まずは 『野洲や、神戸にも、埋めてある大量の銅剣を予測して発見ける!』 それには、どうしても世論を盛り上げるための貴方の参加が要る!!、 再度いう! 「 大量の銅剣や銅鐸を “予測して” 発見けたい人、この指とまれ!」
⑳ ・・ 「神戸に埋めてある」大量の銅剣を 発見け出せ !!
このブログを見て下さった、幸運な“あなた”だけに、チョコット教えてあげましょか? ー笑いー そのキーワードは、‘イワヤ、西、一里、荒神、谷奥’です。 (2007 8 21)
まず国土地理院で検索して下さい。 そしてホームページの地図閲覧か、サービストップページをクリックして下さい。 次に検索画面か、ウオッちずをクリックすると全国画面が出てきますから、その「京都及び大阪」をクリックして下さい。すると20万分の1の地勢図が出てきます。その画面下方に「西宮」があります。これには区切り線は入ってはいませんが四分割されていますので、その左側上部あたりをクリックすると、目的の「大月地獄谷」が出てきます。 ここは住吉川の上流でもあり、少し南に「荒神山・・・m」が見えます。 もし、この地図の西宮「南西」の神戸製鋼が出てきたら、少し上へ移動すると西宮「北西」の画面が出てきます。(国土地理院から; 地図上をスクロールしないで下さい! クリックするとそこの北緯・東経が出てきます)
神戸の大量の銅剣の埋め場所をズバリ予測!!
この「大月地獄谷」の入り口あたりに小さい砂防ダムのようなものが見えます。道はないようです。その砂防ダムを渡ったところの“南向斜面”
第一候補地 北緯34度44分39秒 東経135度15分15秒 をあげておきましょう。
現地に立たないと分かりませんが、この第一候補地は険しくて埋めづらいようなので、もう一カ所をあげておきます。この谷を東へ渡りますが、墓地の北側の櫛状地形の中央あたり、
第二候補地 北緯34度44分58秒 東経135度15分28秒
要は、そこが源流の南向斜面(陽で陰を封じる考えに基づく?) 斜面が急だと埋めづらいし、緩いとその上を人が歩く! さらに、その斜面を眺めて、その下で行者集団が拝む場所があること。そんな場所を捜せばいいのです。 すべては、出雲に習えばいい!
そこに埋められている銅剣の本数?を予測!
桜ヶ丘の銅鐸数14 X その対応数9 = 126本+α
その深さは? 地表下4尺の所で1700年余の眠りに就いている!!!
さて、あなたはどうされますぅ?
史実探偵; 平 素人 より、 (2007 9 19)
(余 談)
<大量の銅剣の封印の儀式>
出雲の「大量の銅剣の埋め場所」は、急な南斜面ということであった。 筆者は、斜面ではさぞ埋めにくかろうと、平面を考えていたが、その考えは間違いであった。 そして、封印石としての亀甲状の巨石を考えていたが、これもピントがずれているように思う。これは雨乞いではない! 祖先は、二度とそれ等を使用しないと“封印”したのである。その荒神の使用した剣は、「人里離れ源流と定められた谷奥にあり、そこで行者集団が祈祷できる広さを持ち、その目通り・目の高さより上の遠からじの南向き斜面の、地下四尺の所で!」、1700年余の眠りに就いている。 すべては出雲に習えばいい!
<雨乞い儀式>
出雲に「四つの神奈備山かんなび山が(いずものこころshigechanizumoブログで)あるのを知った。この中央に宍道湖がある。大和にも四つのかんなび山があるそうで、その中央には猿沢池があるだろうと予測している。四つのかんなび山は、笹竹を立てる山であり、「四方の風をナビかせ、八方の雨雲を呼び寄せ、中央の水瓶」に慈雨を願うためのものである。この雨乞いの笹竹は、今の新築時の地鎮祭、神楽、奉納相撲、護摩壇等に、その形式を残している。それ等に、貴方が、専門家が“気付いて”欲しいと、今は願うばかりである。 口 (2007 09 20)
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どなた様、拍手をありがとう^^。 その1拍の積み重ねが世論をうごかし、ひいては「歴史を塗り替える」と思われた方も、そうでない方も"ぽちっ"と押してみてっ?(←F○さんのパクリです^^!)只今('10 5/23)までで4拍になりました。
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、 「その、よもやま Ⅰ 」 の記事の方から、お先にどうぞ・・・ (深礼)
これから、そのつづきの、「よもやま Ⅱ」 ⑪~⑳を書き込んでいます。 どうぞ、楽しんで下さい。
⑪卑弥呼は、銅鐸文化を銅鏡の文化に、なぜ変えさせようと思ったのか?
一口でいえば、中国の人をして“鬼道”だと言わしめ、幼児の生け贄にまで発展した「銅鐸荒神文化」を 象徴物「銅鏡太陽神文化」に、変えたかったからだ。言い添えて、慈雨との交換に、生け贄を要求する荒神・箒星は、太陽の従神・使者であり、 雨を降らせるか降らせないかを決めるのは、主神の太陽だとしたからである。 その象徴が鏡だ!! 煙を雨雲に換えたい考えは自然発生する。その鏡と太陽を曇らせればいい。 この時から、生け贄雨乞い文化は、象徴物代用文化へと大きく踏み出し、銅鐸を使用しての雨乞いは、急速に衰退した。
⑫しかし中には、卑弥呼の考えに従わぬ者もいて、卑弥呼は大いに悲しんだ。
この時都合よく? 天文学者は、北九州で皆既日食があったと計算している。だが、ニアミスをした箒星のほうについての科学的検証を出すことは、不可能に近い。 しかし、祖先は、その箒星を‘山名’として記録している。阿星山とか、伯耆大山とか、鶏尾とかに類する地名を拾い出せばいい。さらに広げて、中国や韓国へもお願いしたいところだ。その前に、日本の考古学・地名学・天文学者が協力しあって事にあたって欲しい。(笑い) そうすれば、より確定的になる。 この事変は、一つの学問だけで解明できるものではない。考古学を限定的、画一的に考えないで、そこには、歴史という時間と、面という地域性と、私のような変わり者という例外が、同時進行している現実を認めて欲しい。 中には、卑弥呼のいうことが、直に受け入れられなくて、銅鐸文化から、銅鏡文化への移行が、後や先になったりもする。 (荒神谷遺跡で銅剣類が2カ所にあった内の一方は“後追い”で埋められたものと推察している。)
⑬卑弥呼の “生い立ち” について、
ここは何処の細道じゃー、天神さまの細道じゃー、 ちょっと通してくだしゃんせー、 御用のない者、通しゃせぬー、 この子の七つのお祝いにー、 お札を納めに参りますー、 行きはよいよい、帰りは恐いー、 恐いながらも通りゃんせー通りゃんせ~、
当時は、この謡のような社会制度があった。 再度の述解になるが、主には雨乞いのための制度で、人里離れた山奥に 「境内」をさだめ、白羽の矢をたてた三歳~七歳までの女児を 「神子」と呼び “人身供儀用”として隔離し大切に育てていた。筆にするのもためらうが、一般の子と区別するために、その耳を削ぎ、長髪を肩で切り、おかっぱ頭にして、それを隠した。 祖先は、それを耳削ぎ(みそぎ)とか、耳納(みのう)とかの言葉や地名で残している。←(註:これは、筆者の独自解釈です) しかし、いかに大切に育てようがその子がなつくはずがない。 そこで、その施術・荒神と、養育係・修厳者とにその役割を分けた。 最初は、夫婦二人から始まったこの形は、だんだんと強固に制度化していった。そして、この人達は、山奥でもあることから、里人に米の提供(租税の始まり)を受けた。今でもこの形は、お寺や神社に残っている。
そして、人口が増えてくるに従って雨乞いの回数も増えてくることから、女児が足りなくなり男児に変わる地域もでてくる。 いくら衆生(しゅじょう)のためとは云え、我が子恋しさに取り返しにいく親や、為政者も出てくる。これに類似する昔話や民話は数多く語られている。それを防ぐために荒神は、門神・仁王様に変わり、番犬は、狛犬に変わっている。 又、たとへ運良く、その子を取り戻したとしても、短髪では“(神=)髪を切ってはならない”とする長髪社会の中で隠し通すことは難しい。 社会がそれを許さないのだ!! このような社会背景のなかで、卑弥呼は出てきた。卑弥呼は、もとはと云えば前述の神子のうちの一人であったが、予知予見能力や、治癒能力が、特にすぐれていた事から、その厄難をのがれていた。
日本各地にある「塚」のつく地名は、その難を受けた子達を弔った蹟だ。
このように、その時、その社会で正しいと思えることでも、あとで振り返ってみると誤りがあると、今の私達も知らねばならない。
⑭ 「境内」について、 ( 註:この項も、筆者の独自解釈です。)
この境内という言葉は、この謎解きで(大量の銅剣と銅鐸の埋め場所を推定するのに)もっとも重要なキーワードとなる。普通、境内といえば、お寺や、お宮の境内で、人が決して冒してはならない神聖な場所。 この考えの発生を説明するには、多くの言葉を要するが(詳しくは、別紙報告書本文で)この考えのおおもとは、四千年前の三陸地方へ降臨した巨大隕石がおこした大津波に起因する。 祖先は、その津波際に「神の戸・こうど」の地名を付けた。 「戸」は、そこで止めるの意があり、境目・境界の意味も含んでいる。 家の戸は、内と外の境目。戸張おちる夕暮れ時は、昼と夜の境目。 時代劇で死人を戸板に乗せるのは、生と死の境目。
日本人には、この境界という意識が潜在して植え付けられている。帝の前のすだれは、権現化した帝と一般人とのしきり。 さらに、襖や障子の一枚、腰ひも一本でも、それは、決して侵してはならない境界であり、この“考え”は、外国人には、とうてい理解できない。
⑮当時の人達は、その「境内」を “人里離れた場所” に作った。
人里離れたと云っても、集落の本拠から、関係ないほど遠い所であってはならない。それは、近すぎては親近感がわくし、遠すぎては行き帰りがたいへんだ。報告書の本文では、そこは、往復の所要時間がほぼ半日の所だとした。 卑弥呼は、その境内で育てられた。「早朝」の「戸口」に、「白羽の矢」を立てられて・・・! 早朝は、津波の到達した時間を表し、戸口は、津波の波打ち際を、そして白羽の矢は、津波の白波(シワの波)を表す。 これを教えてくれたのは、渥美半島の祖先で、そこには‘片神戸’や‘白波’‘赤羽根’の地名がある。 (*ちょっと閃きました。‘渥美、熱海’の地名は、伊豆方面の海底火山の発生があったと云っているのかも知れない。
ーシワ・志波・紫波、の言葉ありー これは、地震の到達時間と津波到達の時間差による。)
⑯卑弥呼は、その境内で、修厳者に育てられた。
この「修厳者」という言葉を選ぶのは難しい。 他に、行者、祈祷師、太夫、占い師、潮来、口寄せ、憑依、権現、等も当たっているように思える。 この人達は、「四千年前の荒神」を相手に、これを呼び寄せ慈雨を願うお祈りをするのであるから並みの体力ではもたない。 行をする。 滝にうたれる。 不眠不休をする。火渡りをする。 報告書の本文で、これ等の修行の発生は、熊野信仰で‘伊勢’から‘古座’までの、熊野参道に色濃く残っているとした。 それを特筆できるのは、「行や、滝」での“センター的”な修験地が、三重県多気郡、大台町?にある。 そこには、8つの滝(不動滝、七つ釜滝、光滝、予八郎滝、堂倉滝、三滝、巴滝)が密集している。 そして、行・ギョウを積んだと思われる、くねくね道をどこかで? 見たのですが、只今その場所を思い出し中です。( 無責任でゴメン!なさい。 ー笑いー )
⑰出雲の大量の「銅剣」の埋め方について、
もう少し、詳細に、その考察を重ねてみよう。出雲で358本もの銅剣類が、道路工事中の偶然から発見された。(その詳細は、ネットで調べてみると)←註;偶然は間違い。事前調査で土器破片がみつかり予測トレンチ一発目で掘り当てた! そのお人に極意を伺いたいのですが?
、何の、へんてつもない谷間 (これは、すでに織りこみ済み。)
、その、いちばん奥の辺り (これは、慈雨が出流する源流を表す。)
、その谷間の、急な(45°?)南斜面の中腹 (筆者は、これを隠地の、北斜面の裾の、平ら な部分と推んでいたから、X 間違いであった!!)
、地表から、4尺下! (これは、その表土が取り去られた状態であるから正確には分からないが、筆者がこだわっている項目だから、少し言及を重ねてみよう。この銅剣は、二度と使用しないと“封印”したのである。この考えは、土葬にも通じ、その墓穴を掘るときには、幾らでも掘ればいいと云うものではない。肩の高さまで掘り進むと、顔に土がかかって堀づらい。当時の人達の男子の平均身長を5尺とみて、その肩の高さの「4尺」を割りだしたのである。 この4と云うのは、四=死、にも通じ忌み嫌われる数字でである。 このネット関係で「何やらを8尺下に封印したが、その声、未だ鳴りやまず」というのがあったが、これも一理ある。 それは人間ではない。その倍の4尺X2、の8尺にしたろか、という考えもなりたつ。 しかし、8尺下だと金属探知器がきかないから、筆者は、4尺下であって欲しいと願うばかりである。 ー笑いー
⑱その、銅剣358本中の344本の根元(茎・なかご)に、X印の刻印がしてあった。
これは、謎解きという程の難しい問題ではない。すでに述解したように、封印のX印である。地方によって、バツとか、ペケとかの“しるし”である。要するに「その商品は不良品」で使用不能と云うしるしである。 祖先は、これ等の銅剣を二度と使用(合掌・深礼)しないと、決めたのだから、このX印を付けて当然だ。 貴方は、厄除け神社にお参りしたことがありますか? 私はある。 その時、行者さまは「インを結び、クジを切る」。 インは、袖や衣の中で結び門外不出だ。クジは、垂れた頭の上でX印を行う! この所作に謎解きの原点があることに気付いてほしい。 残り14本の無印は、なぜか? これは無使用(合掌・深礼)剣だ!! この“数”を、あーそうかで済まさないで欲しい。その数は、準備剣(合掌・深礼)だとも考えられ、その地方の部族数にも通じる。 このように、想像や洞察を重ねていくことに、 この謎解きの楽しみがある。
今、私達の云うその「科学」は、ファッション(時流)であり、ファッションに過ぎない。
百年前も、二百年前の“祖先”も、今の科学を最高だと云ってきた。
⑲ ‘地名’は、 「祖先からのメッセージ」 である!
これが、本報告書の主題とするところで、もっとも貴方に伝えたいことでもある。 地名は、考古学でいう「物証」ではないが、‘地名’は、その昔 「そこで何があったかを語りかけている祖先からの言葉であり、記録である」 そして、祖先が私達に残してくれている遺産である!! 物証至上主義におちいらず、祖先の言葉に耳を傾ければ、より多くの歴史がみえてくる。 こんなにも簡単なことが、貴方に!、考古学に!、そして、今の社会に伝わらない。どうしたら、それが貴方に伝わるのかが解らない。 まずは 『野洲や、神戸にも、埋めてある大量の銅剣を予測して発見ける!』 それには、どうしても世論を盛り上げるための貴方の参加が要る!!、 再度いう! 「 大量の銅剣や銅鐸を “予測して” 発見けたい人、この指とまれ!」
⑳ ・・ 「神戸に埋めてある」大量の銅剣を 発見け出せ !!
このブログを見て下さった、幸運な“あなた”だけに、チョコット教えてあげましょか? ー笑いー そのキーワードは、‘イワヤ、西、一里、荒神、谷奥’です。 (2007 8 21)
まず国土地理院で検索して下さい。 そしてホームページの地図閲覧か、サービストップページをクリックして下さい。 次に検索画面か、ウオッちずをクリックすると全国画面が出てきますから、その「京都及び大阪」をクリックして下さい。すると20万分の1の地勢図が出てきます。その画面下方に「西宮」があります。これには区切り線は入ってはいませんが四分割されていますので、その左側上部あたりをクリックすると、目的の「大月地獄谷」が出てきます。 ここは住吉川の上流でもあり、少し南に「荒神山・・・m」が見えます。 もし、この地図の西宮「南西」の神戸製鋼が出てきたら、少し上へ移動すると西宮「北西」の画面が出てきます。(国土地理院から; 地図上をスクロールしないで下さい! クリックするとそこの北緯・東経が出てきます)
神戸の大量の銅剣の埋め場所をズバリ予測!!
この「大月地獄谷」の入り口あたりに小さい砂防ダムのようなものが見えます。道はないようです。その砂防ダムを渡ったところの“南向斜面”
第一候補地 北緯34度44分39秒 東経135度15分15秒 をあげておきましょう。
現地に立たないと分かりませんが、この第一候補地は険しくて埋めづらいようなので、もう一カ所をあげておきます。この谷を東へ渡りますが、墓地の北側の櫛状地形の中央あたり、
第二候補地 北緯34度44分58秒 東経135度15分28秒
要は、そこが源流の南向斜面(陽で陰を封じる考えに基づく?) 斜面が急だと埋めづらいし、緩いとその上を人が歩く! さらに、その斜面を眺めて、その下で行者集団が拝む場所があること。そんな場所を捜せばいいのです。 すべては、出雲に習えばいい!
そこに埋められている銅剣の本数?を予測!
桜ヶ丘の銅鐸数14 X その対応数9 = 126本+α
その深さは? 地表下4尺の所で1700年余の眠りに就いている!!!
さて、あなたはどうされますぅ?
史実探偵; 平 素人 より、 (2007 9 19)
(余 談)
<大量の銅剣の封印の儀式>
出雲の「大量の銅剣の埋め場所」は、急な南斜面ということであった。 筆者は、斜面ではさぞ埋めにくかろうと、平面を考えていたが、その考えは間違いであった。 そして、封印石としての亀甲状の巨石を考えていたが、これもピントがずれているように思う。これは雨乞いではない! 祖先は、二度とそれ等を使用しないと“封印”したのである。その荒神の使用した剣は、「人里離れ源流と定められた谷奥にあり、そこで行者集団が祈祷できる広さを持ち、その目通り・目の高さより上の遠からじの南向き斜面の、地下四尺の所で!」、1700年余の眠りに就いている。 すべては出雲に習えばいい!
<雨乞い儀式>
出雲に「四つの神奈備山かんなび山が(いずものこころshigechanizumoブログで)あるのを知った。この中央に宍道湖がある。大和にも四つのかんなび山があるそうで、その中央には猿沢池があるだろうと予測している。四つのかんなび山は、笹竹を立てる山であり、「四方の風をナビかせ、八方の雨雲を呼び寄せ、中央の水瓶」に慈雨を願うためのものである。この雨乞いの笹竹は、今の新築時の地鎮祭、神楽、奉納相撲、護摩壇等に、その形式を残している。それ等に、貴方が、専門家が“気付いて”欲しいと、今は願うばかりである。 口 (2007 09 20)
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