卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」
此処に出雲と同様、“大量の銅剣”が埋めてある! 全国歴史ファンの方々、三上山に集合せよ。
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「出雲の弓ヶ浜」の成因は、四千年前の大津波か?
   (下記の、以下~以上迄は、ブログ「いずものこころ」に投稿したものを集約したものです)
村の古老ばなし、
その昔のこと、出雲の大神様は、全国・八百万の神々様に、「神議」を行うから、毎年の十月に集合せよ」との通達をだされた。なにせぇ、おお神様のいうことだからと、全国津々浦々の神様たちは、全てが出雲に出向いた。ところぅが、この席に四国のこんぴら様だけは、いかなんだ。大変立腹した大神様は、なぜこなんだと問い糾した。いうことにゃ~、「忙しゅうて、忙しゅうて、行けませんでした」。 「そんなら、お前の暇な時ゃ~、いつなら、わしが行ってみるけぇ」と言われた。「十月の九日~十一日頃なら暇ですけぇ、来てみてつかあせぇ」と言われ、行ってみれば!?、その日は祭りでドンドンいうとったそうな。これを見て大神様は 『暇な時さえこの賑わい、他の日はもっと忙しいのであろう』 と納得され、以来この神議に、四国の琴平様だけは行かんでもええということになって、十月のことを他の国では、神様が出払っていない“神無月”というのに四国のこんぴら様だけは、「この月を神在月というんだ」と。 むかし、こっぽり!

議題「何故出雲に、八百万の神々様に集合をかける程の力を持った大神様が出現したか?」
それ程の力を持つ大神様(の考え)が、誕生(発生)したのは、全国でも類をみない「この地の成因」に特異性がある。それを推み解くまえに、日本海の成因は、弓状列島の形の謎をもって、太平洋側(安山岩を有しない)へ、引っ張られて、一気に成されたという説がありました。

 疑問その1> 弓ヶ浜はホントに海流によって成ったのか?
ここに国土地理院の50,000分の1の地形図「松江」「今市」「大社」があります。それ等を精査しながら想いをいたすことにしましょう。
 境線・ゆみがはま駅の近くに米子工業高等専門学校があります。その海抜が18、7m。そして、その近くの中村に16mが見えますから、おそらく弓ヶ浜の海抜高さは、こんなものなのでしょう。「礫層をつくるには、必ず、その高さの水流が要る!」 それとも後から隆起したのか?

 疑問その2> 出雲平野は、ホントに斐伊川・神戸川の分水嶺域を他の河川と比べてみて、それが広いとは言えず、その流出土砂のすべてで 出雲平野を形づくったとはおもえないが?(註: 神戸川上流の山瓶山で3,600年前に大噴火あり)

 「出雲が全国でも、類まれなる地形をしているとは、なんぞや?」
<弓ヶ浜の真の成因>
 BC2001年、12月25日の朝6時頃、三陸地方に端を発した巨大地震は、列島を震撼させ巨大津波をひきおこした。日本海側へ発生した片V字沿岸津波(筆者独自論)は、土石流を発生させながら、新潟・富山湾、若狭・宮津湾をへて、朝8時頃、出雲へたどり着く。ところが松江を湾奥としたV字湾の海水は、地震でゆるんだ山陰沿岸から運ばれた土石流を、その入り口で阻止した。それが今の弓ヶ浜だ! だがその津波の水量と勢いは支えきれるものではなく、鉄砲水となって「宍道」を(当時は、今より海水位が5~6m高かった?)突きぬけた。津波は2波3波とやってくる。

出雲平野の大半の土砂は、この津波よって運ばれたものだ?。
かの地で発生した地震は約4秒足らずで出雲に到達する。揺れに揺れた、その朝に大津波がやってきた。 「島根半島・巨大竜、長さ60㎞幅5㎞が海を泳いだ!」 祖先は、この驚異を伝説として「地名」として遺している。これを信じられないお人は、茶臼山や床几山へいって“その急流の痕を”さがし、その朝日山のほうへ登って弓ヶ浜を眺めれば、その大津波の跡が確認できるかも知れない。弓ヶ浜は、美しい珍しいだけではないこのような “祖先の思い” がつまっている。

弓ヶ浜の海抜約19mを造成した大津波は、それによって退路を断たれた!
 <宍道湖へぬけたその津波の大きさを概略計算してみよう>
津波の理論上の波高hは、水深dの4乗根と入り口幅wの2乗根に反比例する。当時の水深を今の水深20mに、5mをプラス(陸中の貝塚より推定)して25m。津波の入り口幅wを15km。そこの波高は弓ヶ浜の海抜高さの19m。 湾奥の幅を幾らにするかが問題だが、仮に1kmとすると湾湾奥の松江あたりが最大の「約69m」となる。(計算間違っていたらご免なさい。実際には周囲への溢水等があるので、これより多少低いかな?) 

さて、具材は揃ったから、「祖先からの地名という伝言」をこれにからめて料理を致すことにしましょう。

国土地理院の50,000分の1の地形図「松江・今市・大社」より
安来市に流れ込む川は「飯梨川と、吉田川・伯太川」 等がみえます。 これ等のつくる扇状地の広さは、握り拳大です。(おおざっぱでゴメンナサイ・笑・)これは覚えておいてください。安来は「八洲岐」と云っていた時もあったそうです。これ等の河川がはたして八洲をつくる程の流量があるのか? 疑ってみるのも面白いと思います。なぜなら、祖先は津波の戻り水をいうのに「垂水・篠津・下津」等の地名をつけることがあるからです。

次は、「豊島・荒島」へ、 荒島は、その時の津波で表土を洗い流されたのかも知れません。 当時の海岸線は、「飯生町」の学校辺りの海抜が6、9mですから、この辺りかな?。
 「津波は川を上る」といいますから「石原」辺りが、その時に運ばれた土砂であろうかなと推んでいます。なぜなら、祖先は石が原をなせるほどにあると云っているからです。(これは、その小石のサイズと「量を」他の河川の状態と比べてみればわかります。通常の河川活動では、経年的に洪水を繰り返すわけですから、大きなサイズやら、ちいさなサイズの石が混ざりあっています。これに比して津波というのは、一時に、大量に、異種を分別し“同サイズ”のものを集めます。これは、さらなる大きな謎解きに発展しますからよく覚えておいてくださいネ、ごめん小学校で習ってました。(笑)

次に、「出雲郷(アダカエ)」を通って中津に入りましょう。ここにある茶臼山・171mが湾奥になりますから、ここが最大波高の69m!!、この山の東南に、お宮のマークがあります。そこに、この津波が造った露出岩壁があるはずですから、その辺りが実際の波高かな?。 そういえば琵琶湖内陸津波では、そこに「石山寺」の名がありました。

古い言葉で「打つ・たたく」を意味する「チヨウス」という語があり、これに「茶臼」の字があてられたのが「茶臼山」なのである。 (PART PARTⅢ あの地・あの街の地名の由来)より、
 そういわれればば、「チョウ打する。チョウ々発しと剣を交える」なんてのもありますよね。鼓や太鼓等の神聖化もこれからきているのかも知れません。

この「茶臼山」の名は、全国300ヶ所?ぐらいあり、全国最多数の山名だそうですが、世俗性を含んでいるか?どうかは定かではありませんが、国土地理院では、およそ200ヶ所の?「円山」を一番目にあげているそうですから面白いですね。頂上が丸い「円山」の山容は神奈備山にも通じると云います。この「円山」「茶臼山」に加えて「雨乞山」の山名は、雨乞いに関係する山名ですから、列島での分布図を作れば、当時の文化の繋がりや広がり、そして気候までもが推し量れると思いますよ。すこし時代は下がりますが「大塔山・笠置山・玉置山・瓶割山」等も、雨乞いの「儀式」に関係する地名だと思っています。

 なにしろ、雨乞いというのは見渡すかぎりの「天の井戸」を相手に、そのお願いをするのですから、その場所だけで雨乞いをしても意味はうすく、今私達が考えているものより、もっと広域的に雨乞い施設を考えないといけません。これが「緩い連帯感」 となり、弥生期以前は戦争(痕跡)が少なかった原因だとみています。 

次に進みましょう。
「上竹矢・東光台・東津田町・“切剥山”・床几山・嫁ヶ島」。これ等は急流が狭い所を流れたときにつくる地形になっていることを確認してください。特に「切剥山」は、その時の祖先が付けた山名ですから、今でもそのようになっているんでしょうか?、さらに「塩楯島」の塩は、潮・海水のことで、楯でその大流を止めようとして、その頂部は“丸っこく”なっている筈です。でも抗しきれるものではなく、その下流に「松島・中島・剣先川」に、洲を形成しています。「朝酌川」がこれだけの土砂を運ぶ川だとは思えないが? それにしても、晩酌とは聞くが朝から「お酌」とは。出雲の人はお酒好きかな?(笑) 他の地のご先祖様は、その大津波が朝方に到来したと、兵庫では「朝来町」。岡山では「朝寝鼻貝塚」と云っていますよ。 筆者には、その大津波がないとしたら「朝来るとか、朝の寝鼻」の地名を付ける必然性が思い浮かばない。

その津のついた地名が、「比津・川津・東津田・西津田」 等です。 
先のインドネシア地震の恐ろしさは、皆さんの知るところですが、「片V字沿岸津波(筆者独自論)」の恐ろしさは、受V字湾奥津波と異なり、その中に土石を含むことによって 「その表土までを削りとる」 ことにあります。そして、津波は「似たものは、似たものどうし集める」性質があります。出雲の「佐草町・大草町」は、その草類が津波によって集められたのでしょうね。これに類する地名で、「瑞穂・千種・草津」、それに、「木津・木更津」等があります。 出雲の津波が木までをうがしたかどうか分かりませんが、「松江」をはじめ「浜乃木・上乃木」等の地名が気になります。

さぁて、一番大切なことは、その時、津に関係する地名を付けた人が「いた」と言うことです。
 その人的被災をいう地名を発見けました!!
「忌部川」に、「下忌部・西忌部・東忌部」。 このように方向性が3つ以上連なると、そこに歴史という時の流れがあったと推むことができます。
「忌む」とは、人が死んだ時につかう言葉。 ここに「千本」という地名があります。縄文の人が「千や、万の数」をつかうときは、多数?を意味し、人の死を葬る数に「一柱」がありますから、
           ここに夥しい人が打ち上げられた!! (合掌)

もう一度ズームアウトして上空から、この松江の地形図を眺めて見ましょう。
松江を中心にして、Xの字形になっているのが確認できます。津波の通り道の一番狭いところが茶臼山あたりでしょうか。今度はズームインして宍道湖に目をやりましょう。嫁ヶ島の南から600mくらいの所の海底に水深5mの凹地があります。これはその時の津波の渦巻きによって出来た地形ですから、あきらかにその土質は、まわりのものと異なり、津波以前のものが掬えると思います。 そして「嫁ヶ島」の名から推察できることは、竜神様に娘を嫁がせる神事があったこと。今ではそれが「お雛流し、灯籠流し、お船流し」等に変化しています。

ここ迄が「いずものこころ」に、投稿したものへ集約・加筆したものです。引き続き書きたしていきますので、楽しんでください。

津波とともに宍道湖を“西進”して行きましょう。途中大切な地名伝言が抜けていたらごめんなさい(笑)。両岸に流れ込む川のつくる扇状地は指先ほどの広さです。「碇下・いかりじも」海抜0、5mから上陸します。碇とは船をつなぐ錨?、この南「瑞穂・1、4m」があります。そして、「島灘・前島・北島・灘西・中の島」の地名を付けた頃は海。「中州・2、4mや砂川」は津波後の地名かも知れません。海の中に川や中洲の名前は付けませんからね。「蔵島・北島・福富」、このあたりは少し時代が下がった名付けかな? 「大島・岩野原東・岩野原前」、このあたりは、津波が運んだ“石の原っぱ?”か、そばの「名島」あたりの海抜が8、6m~9、5mです。

「富中・とびなか」、・・・?、鳶中???、ご先祖さまヨゥー「富をトビ」と読むには少々無理がありませんか?(笑)。あたりに「鳥屋・鳥井」の地名が見えます。この島根半島の西部山塊には、やたら鳥の名の付く地名が目に付きます。「鳶が巣山・鵜峠・鷲浦・鷹取山・鷲峠・鶴島」 これは見過ごせない何かがあります。 先の中出雲で“木の付く地名”気になると言いましたよねえ。私達がそこに地名を付ける時、何に関心があるかによって変わります。 回りくどさを除外して言うと、中出雲は草木農耕文化、西出雲は鳥獣狩猟文化の違いがあるのでは?と思っています。 要は、他の地と、その分布数の比較が問題です。出雲には古来の「牛神」文化より、「馬」の地名が多く残されているのでこれも対比してみると面白いかも知れない。 ちょっと脇へ逸れました。

さて、「斐伊川」を渡って「大津町・おおつまち」に入りましょう。
この大津は、滋賀県の大津ではありませんよね。ついでながら申し上げますが、このように全国的にみて同じような地名(伝言)がつく場合、そこには、その考え方の関連や伝達があったのではないかと疑ってみる必要があります。 「津」の名前を思い出すままにあげますと、「九州の豊津・中津。 四国の多度津。 岡山の吉備津。 津の名ではありませんが兵庫の神戸。 和歌山の和泉。 富山では、井波・砺波。 そして、先にあげた大津・草津。 さらに、伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ。 東北では、一戸~九戸。」 “戸と津”とは同じ意だと教えてくれたのが、出雲の「神戸川」です。 筆者が考えているのは、“卑弥呼以前に、それ等をつなぐ交通がすでにあった”点にあります。 “その媒体”については後ほどに致しましょう^^。 これ等は、その文化発祥の地であることを確認してください。

「大津町(おおつまち)」の海抜が、5、1m。「中野町」に6,3mが見えますから、ここから西へは下り坂になっているのでしようか? 対岸の標高が8、6mでしたから「斐伊川」は、天井川になっているのがわかります。 ここで本論の“出雲平野の成因”に入りましょう。 天井川であれば川上からの土石を一番多く集めている所と言えます。もう一度ズームアウトして、出雲平野全体を眺めてみましょう。その広さは握り拳5個分(笑)くらい。 低い所で、「江田町」3、0m。「北荒木」3、3m。 江田町の「江」というのは人為的ということでしょうから、出雲平野の多くは人為的な埋め立て地である!!。 これで納得できないのが少年心(こどもごころ)!。そうであるならば、「出雲風土記」にあるという “一帯は、石ゴロゴロの荒れ地” であった!と云うのが解せない。 河川の“下流域を形成”するのは「砂」であり、決して「石ゴロゴロ」の荒れ地ではない。

「ご先祖様は、嘘つかない」 嘘の地名を付けても得がない。 たとえ私達がそこに「緑が丘とか希望ヶ丘団地」と名付けようが、それはそれで歴史に遺る。 今、私達が「科学」だと豪語しているのは、『人知であり時流』である。 決して、その云う科学が 『自然の摂理』 の総てを云っているのではない。  口

<まとめ> ??、
話が佳境の出雲大社に近くなってきましたので、ここで今迄のおさらいしておきましょう。
議題「何故出雲に、八百万の神々様に集合をかける程の力を持った大神様の考えが発生したか?」
  仮定≪この地の成因に、全国でも類をみない特異性がある≫
疑問その1> 弓ヶ浜はホントに海流によって成ったのか? 津波成因ではないのか?
疑問その2> 出雲平野を形成する土砂は、全て斐伊川と神戸川が運んだのか? 津波の土石流ではないのか?


疑問その1は、 弓ヶ浜の海抜が約19mであるところから、この高さを越える海流の存在は、考えられず。又あったとしとても湾の奥から積み上げられるはずで、このような形を造るには、土石流を含んだ大津波があったと推定。
疑問その2は、 出雲平野の標高調査(?)から、その約8・9mの分水嶺が斐伊川沿いにあり、これより東へは約10kmのなだらかな斜面。 道路の直進性とそれに隣接する人家からそのほとんどは干拓によるものと判明。

 蛇足ながら、 「千家あたりから、富村・正興・社・若宮・砂川・分市大沢までの街道は、くねくねと故意に(?)蛇行させていて、その名付けも古く、“竜神・木・舟”で、対岸の嫁ヶ島方面へ関係する神事が(※若宮と嫁ヶ島で、竜神への嫁取り儀式・人身供儀か? )あったと思われるので要注意!(拙・電子出版の『巨大隕石と大津波』の、近江“蛇砂川”を参照) この故意に(?)蛇行させた道路・川が吉備の最上稲荷にもありますよ。

斐伊川から西へは、約6kmほどで南北に長さ約2km海抜約40mの浜山公園に突き当たる。この北の「北荒木」あたりの海抜が3、3mで出雲大社の前にでる。地図上ではあるが、 まずはお参りして御利益を!!、この出雲大社が御座す山塊が、西進した竜の頭部だ!。『竜が、この大津波に乗って泳いだ!』 出雲に“大神さま”が出現した。 全国どこを見渡しても出雲ほどの規模をもつ巨大竜はいない。 紀伊半島にも二見浦から入進し、和歌山の「日ノ御埼」に抜けた、山波を泳ぐ巨大竜が居るにはいるが、これは“出雲竜”になぞらえた後追い文化だ!。 

 BC2001年12月25日、未だ暗い朝の6時頃、東北の三陸地方に降臨した巨大隕石は、火山の噴火を誘い大雨という慈雨をもって、“八雲たつという隕石の冬”を誘発する。 この大事変は、人心に“荒神という神を誕生”させ、それ迄の交換文化を主流とした小集団が、雨乞いという広域性をもった大集団へと展開する 『核』 となる。

 この報告書は、中学生をも対象としているので、この集団社会の「核」について、もう少し素人なりに考えてみます。 私達が、今、集団社会の核としているのは、大きく分けて自由民主主義、共産主義、神のしもべ主義?それに宗教。 又はそれ等の複合等があるように思います。これ等の考えは、人間が大集団社会を形成する為の要件だと考えています。 それ等のすべてを削ぎおとし「富の分配」ということについて考えてみましょう。 この場合の「富」とは、唯単に物質のみに限らず精神的な富も含みます。つまり、有形無形のものすべてを含ませて「益」という言葉を使うことにしましょう。 集団社会は、この「益を得る与える」で成り立っています。

始源太古の昔からの集団性について考えてみると。 妻が居て私が居る。子供達が生まれる。その子達が結婚し分家をする。近親結婚は遺伝的に成り立たないから、他家から嫁をむかえたり婿をむかえたりする。これで他家との縁戚関係ができる。このようにしてその集団は大きくなっていくが、端々では、その「縁」が薄れて程度以上には大きくならない。「程度」というのは、その地域がもつ生産性で、例えれば、海は魚。山は獣。野原は野菜。それと水。 石器時代の生活は、それ等の交換文化でじゅうぶん成り立つ。 戦争によってそれ等を拡大していったとの考えもあるが、私は、そうは思わない。事足りていれば争いは発生しない。日本列島のようにそれ等が狭い地域で得られていれば、せいぜいそれは小集団どまりで、小集団同士がくっつきあう大集団には発展しにくい。 それが大集団へと発展するには「精神的な核」がいる!
『人々の共有する神(核)が、人間という個人に重なった時』 その集団性は、強力に増していく。 神という概念は、自然から受けた驚異によって発生する。 人が興している宗教のもつ集団性は、そのあとに続く。

四千年前の巨大隕石は、巨大地震が誘発した火山の粉塵によって大雨慈雨を人々に与え、大津波によって、津々浦々に夥しい魚介類と海産物を打ち上げた。 その恐怖とともに!!
これによって列島の人々に、地域によって被災の差こそあれ、荒神という『共通』した認識が生まれる。 その荒神は、天空より至りて地を揺すり海を揺すり、「大雨と、海の幸と、瑞穂」 という飴と、それが起こした被災という鞭をもってやって来た。言い換えると「災いと幸を為すのは、その荒神さま」 だと!。 魏志倭人伝に「人々席次をつくらず座する」というのがありますが、序列をつくって座る中国と違い、それまでの日本においては、その神の下においては平等の考えがあったのでしょうね。 列島の集団性を語るときには、この「同一の驚異」を外すことはできません。ちよっと話が長くなりました。(笑い) 出雲のほうに話を戻しましょう。

「神西湖」命名の不思議?
出雲大社の“南”に位置し、日本海に面したところに、差し渡し約1km余りの「神西湖」があります。これをその言葉どおりに受け取ると「神様の西に位置する湖」となります。大社の南にあって何故「西」なのか? これはこの湖の命名のほうが先で大社の設営がその後になったと考えます。ここが西ですから「その神様は」ここより東におわすことになります。では、その「東は何処に?」これより東に行くと・・・、「松江」→「境港」?、前述の弓ヶ浜でもとりあげましたが、日本人には、この「境目」という言葉におおきなこだわりがあるようです。
思い出せば「神戸・こうど、境内」がありました。弓ヶ浜が「その境」ですから、その神様はさらにこの東にある?ことになります。四千年前の大津波に乗って、≪その東から荒神さまが「西進」してきた!!≫ その突きあたりがこの「神西湖」なのでしょうね。見ればこの近くに、なにやら意味ありげな「蛇池」「蓮池」なる地名がみえます。

 蛇足ながら(笑い)出雲と吉備の地の文化交流にご興味がある方に!
総社市・吉備津神社に松並木の参道があります。この松並木が不思議なことに、街道180号線に沿ってではなくて、それに直行するかたちに植えられています。素人は、この松並木は出雲の弓ヶ浜を模したものであると推んでいます。そして、此処に『境目』なる地名がひっそりと隠れています。 さらに「吉備津さまは出雲の方角を見て御座る」という、お人もありました。

 出雲大社は「出雲半島・巨大竜」の頭部に設営されている!
出雲半島は「巨大竜か?」 次は、何故これに「?」をつけたかについてを考えて見ましょう。
出雲半島は巨大竜か?、いいえ!「竜ではありません」 厳密にいうと竜ではないのです。正しくは人間が、修厳者が、その雨欲しいと四千年前の荒神を竜として呼び寄せ、お招きしたとき、その山塊は「竜」に変身するのです。 昔の人はそれを「宿る」と形容しています。宿ると「御座る」は、ちがいますよねえ。宿は宿ですから何時までもそこへ泊まることは出来ません。 そういえばこんな和歌を詠んだお人がいましたよ。「八大竜王さま、私は慈雨が欲しいとお願いしましたが、大洪水を伴うほどの豪雨は、お願いしてない」って(人間ってかって?、笑い)荒神様は手におえないって! そのときは、都合よく台風でも襲来したのでしょうか?

では、どちらへ向いてお願いしたのでしょうか? まさかお尻を向けてお願いするわけにはいきませんから、それは東です。いいえ西かもしれません。なぜならご先祖様は、中海・宍道湖を東から西へ抜けた四千年前の大津波を見ていますから。未だ暗い12月末の朝の6時頃、大地震でたたき起こされて、その大津波が出雲に到達したのが朝の8時頃」ですよ。いずれにしても「東や西へ向いて」お願いしたのでしょうね。 南や北でないことだけは確かです。
「神官は、頭上のすすを お祓いし」、って川柳がありました。こども心には、そのすす払い?が四千年前の“白い波頭”の大津波に見えてなりません。 皆さんも一度、神社・ご先祖様に頭をたれて『現代科学という、そのスス』をお祓いして貰えば? ゴメン言葉がすぎました^^!。

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どなた様、拍手をありがとう御座います^^。 只今('10 5/23)までで5拍になりました。
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   記事; 「出雲の弓ヶ浜の成因は四千年前の大津波か?」← アーカイブ('07/12/7)
この記事を読み返して見ました。あとで読み返してみると、知識ではなく調査をもって描いているので自分ながらの駄文、長文にうんざりする部分もあります^^!。(10/14~17,19,24,27)に拍手ですが、「何故、拍手を頂けたのでしょうか^^?」 主に、出雲関係の記事のように思います。 特に、弓ヶ浜の成因の記事は、国土地理院地図の地名をたどっての記事ですから、出雲の地に詳しい方でないと拍手は頂けないと思うのですが??  どんな、お方様が?>
何故に、(笑い)拍手を下さったのか興味が湧きます。
私が歴史の師と仰ぐ<Sigechan Izumo>氏から「出雲大社の石垣造営時に発見かった銅かと勾玉は、もっと他にもあるのでは?」との依頼を受けていましたが、おかげさまでヒラメキました。その考えをいずれ記事に載せますので楽しみにして下さい^^! ~拍手合計12拍^^

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