吉備の 「大量の銅鐸」 を画策!
かれこれ10年ほど前になるかな。筆者は、吉備の「岩屋」にも 大量の銅鐸があると推理し、
すでに大量の銅鐸が出土している、出雲『岩倉』、滋賀県・野洲町『大岩山』、神戸市・桜ヶ丘『いわや』の←(後日に判明)、地名による『岩』つながりで、 同一文化をもつ岡山県の総社市 『岩屋』にも、必ず大量の銅鐸あり!と、 画策したことがありました。 だが、そんな突飛論など、だれも相手にしてくれない。(当時も、今も? ー笑いー)
<別紙電子出版、極秘報告書「巨大隕石と大津波」の、祖先からのメッセージの章に記載>
↑を クリックして下さると、そちらへ飛びます。( 無料の立ち読みが出来ます。)
県の「埋蔵文化財係」へTelすると、なにかの関連した遺物が出ていればいいが、「あるかないか分からない」話にはのることが出来ない。 そうですよねえ。大切な税金を使うわけだから、そんな眉唾で、賭け事のような話には、だいいち予算として、議会が通らない。
ならば自分で!、 ところがそれが大変!!
( 以下: 素人知識ですから、間違っていたら、何方か教え正してください。 )
まず、埋蔵文化財に対する法律。
例として、個人の所有地のビル工事で何かの遺物が出たとする。その調査は、地主の全額費用において対処する。そして、その調査が終わるまでは、工事はできない。簡単に言えば「自分所有の土地でも、なにかの遺物ありと判明すれば、自分の責任と費用において調査を終えないかぎり、それ以上掘り進めることも出来ないし、その上へ建物をたてる「建築許可」も下りない。一昔前は、それがイヤだから、たとえ何かが出てきても「知らなかった。見なかった。」で、工事を進めたそうですよ。
これも素人判断ですからと前置きして。 マイホームを建てようと土地を購入。その基礎工事で「縄文期か弥生期の土器」が出た! そこで、見なかったと“全員”がすませばいいが、後で噂にでもたつと「施主は知っていた」ことになるから、当然罰則がつく。 そこで「見なかった」ことにしてくれと、施主はその建築業者に依頼する。しかし業者さんは「あとが怖いから」といって、そこで工事はストップ!。 マイホームの土地購入には、くれぐれもご用心!! ( ならば、転売を!、ところが・・!?)
埋蔵文化財の発掘費用は、並の金額ではない! ( これも仮想ですー笑いー)
私の建築予定地から「こんな物」が出ましたと、管轄の教育委員会へ届け出る。
その重要度において、すわ重要だ!となる。 調査検討がはじまる。発掘専門業者に依頼する。そして発掘実行の「トレンチ調査」。このトレンチ調査というのを私はテレビで見ただけなのですが、所定の位置を「豆腐を切ったように」掘り下げていく。勿論、ちっちゃな手スコップと、手帚をもって、「何一つ見逃すまいぞ!」と掘り下げる。その範囲が広ければ人海戦術だ。女の人が日よけ帽をかぶって座り込んでやってましたよね。次なる「欠けららしきもの」がのぞきました。そこからは専門員が行う。出雲の「大量の銅剣発掘」の時は、カメラのレンズを掃除する「パフパフ」と、焼き鳥の櫛を使ってやったそうですよ。
このような発掘作業がおこなわれる分けですから、その人件費は思いやられます。ならば、ボランティアを募り、いい加減に!?、これって許されるかしら?? その多くは、大学がかんでいるようです。運良く自治体がその費用を肩代わりしてくれるとしても、その「調査完結」のお墨付きがでないかぎり、埋め戻しても我が家は建てられない。 せっかくマイホームを建てようと思って買った土地が、駐車場か家庭菜園をする価値しかない。 ご用心、ご用心!
この法律は、日本の埋蔵文化財の発掘において「諸刃の剣」となっている。一つには、税金を投入することなしに、その発掘ができること。逆にいえば、個人・団体が、その費用を負担しなければならないという側面をもっている。さらに、この法律のおかげで日本の「発掘作業」の量と、その水準を高めている。 しかし、その弊害として「考古学=実証主義」におちいりやすく、前年の考古学大阪大会(第○○回)の発表では、実証と、そうでないもの(仮説?)との比率は、「7 : 3、?}であり、ちょうどこれは欧米の逆だという。 これでは、九州大会でいう「攻めの考古学」は期待できない。
筆者が願うのは、実証至上主義は美学だが、それに陥ってはならぬということ。(特に若い人は)色んな議論のうちにそれを高めていけばいい。 大学では、その芽をつみ取る態勢をつくってはならない。 日本で(世界でも)第一級の先生が、「考古学において“その年代”を論じるとき、放射性アイソトープ法か、年輪相対法かの、どちらかの一方に統一して論じるべきだ」 と仰っている。 これを素人が思うのに、「一つしか無いその時」が、今の学問では推定できない!。 ならば、それを想像、空想と云われようが、推理、洞察と云われようが、色々に言ってみるのも楽しいではないか。 そして、地名を祖先からのメッセージとし『人文考古学』 として扱って欲しいと望んでいる。 反論、お叱り、大歓迎です♪ それより無視されることのほうが辛いから、(笑)。
このような経緯があって、「吉備岩屋に眠る大量の銅鐸を!」探しに出かけました。
鬼の城(きのじょう)から、○kmほど北へいくと、駐車場10台たらずの「岩屋」がある。鬼の城が70余台だったから、その規模からも察しがつくように、ここまで足をのばすお人は、よほどの通なのかな? ここに人工に設えたとも、自然の造形ともつかないような○○mほどの巨岩があり、「お宮と、岩屋寺」の二つがある。 この巨岩は「鬼のさし上げ岩」と呼ばれているそうだ。これも「吉備・桃太郎伝説」の材料になっている。 お寺のお題目は、「なむ、だいし、へんじょうこんごう」。 山の中腹ではあるが、お宮の下方にお寺があり、お寺の石垣のほうが立派なことから、その歴史的時間の後先を推しはかることが出来る。
此処に、二カ所だったかな。日本竹(真竹)の竹藪がありました。
古代においての「竹」は、石器とともにその生活用具として思いつくままにあげてみると、「箸、水筒、編みカゴ、箕、弓、矢、竹槍、屋根の骨材、柵」等々、実に多用だ。 又、その竹の皮でワラジづくり。おにぎりや肉の包装。竹の皮には除菌作用もあるそうで、昭和の末頃まで「お肉には竹の皮」が定番。 このような竹が石器・弥生期において身近に栽培されていたであろうとは、容易に推測できる。 地名としても「上竹、下竹」等は各地に残っている。 「竹取物語」もありました。竹藪の中には何かがある?!
ここで、その竹を取り上げたのは、竹の生育に注目した。 木の直根が約1、5mほど地中に入り込むのに対し、竹の根は、ほぼ50cm以上は深く入り込まない。そして他の草木を寄せ付けない。いかに、「二度と掘り上げまいぞ!」として、封印した大量の銅鐸だとはいえ、その上に巨木が生えて根が埋めた銅鐸に入り込んでは困る。竹林で「封」をしておけば、そのおそれは少ない。竹根が縦横にはりめぐるが再度掘り返そうとおもえば、掘り返せないでもない。長年使用したものへの一抹の愛着が残っているのだ。 と、このように推理しました。
その銅鐸について再々度?、論じてみよう。
銅鐸の歴史を一概に「銅鐸=何々だ」と論じることは出来ない。なぜなら四千年前に光臨した荒神さまが時代とともに、その地域性も加味して微妙に変遷しているからだ。貝塚時代の土器の破壊や、抜歯の風習。生け贄。吉備の特殊器。火炎型土器、等。これらの文化の延長として、朝鮮半島からの風鐸の影響をうけ、初めて「青銅器」としての形を成したのであろうと推測しています。銅鐸の使用は、素人的にみて日本だけの特殊文化ではないか?と思っています。
最終期の(卑弥呼代の)銅鐸は、
卑弥呼のような、祀り事をおこなう行者(太夫・おたゆうさん)が各地・各部族にいて、病気の治療から、困り事相談までを行っていた。”物事の禍を”なすのは、すべてその「荒神さま」のせいだと思っていた。 弥生期において、稲作が発達し人口も増えてくる。 時には流行病や、日照りも続く。 そんな時、人々は荒神様が「命」を欲しがっているのだと思う。 私達には、「これ以上に大切な命はありません」 これを煙に変えますから、どうぞ、そのお怒りを鎮め「これ以上、病を流行らせないでください。又は、慈雨を下さい!」と祈る。地域において多少の差異はあろうが迎え火を焚いて、海水を煮詰め、差し水をし、この水気、天に届けと! 衆人こぞりてお祈りする。
これが、現在の祭りや盆踊りの原点であり 『まつる、奉る、祀る、纏り、祭り、政(まつりごと)』の、全ては同根だ!と、謎解きしています。
その「荒神様」を呼び寄せ乗り移す媒体となったのが「銅鐸」だ。
当時の埋葬方法は、土葬である。それが火葬に変わったのは昭和代の中頃かな? 今の私達の多数が受け入れている火葬ではあるが、土葬から火葬へ変わるときには抵抗もあった。 「死んでからまで熱い思いをさせたくないよ~」との。 弔いの仕方は、歴史・民族によっても色々とあるようで、他に、水葬、鳥葬、人肉食葬。これを残虐だと断じてはいけませんよ。 死後の魂が空に舞うようにとか、愛する人を我が身に保持しておきたいとの願望もあるようですから。 最近では、散骨葬や宇宙葬が話題になったり、中国では、土葬の墓地が増え続け火葬への変換を検討のニュースもありました。ちなみに中国全土かどうかは知りませんが、日本のように地下へは埋めず、土をかぶせる円墳葬。これは「卑弥呼の円墳を捜せ」をサイドにしている筆者にとって興味があります。
何はともあれ、土葬がすべての当時において、火葬という埋葬方法は特異な埋葬方法であり、いかに衆生の為だとは云え 「幼子の煙を雨雲に換えて!」と、やる火葬・雨乞いは残虐だ。
つづきます。<あすとろさん>わたしの方こそ、気をもたせて御免なさい(笑)
ある日、ある年、草木は立ち枯れ、飲み水にも事欠くような “干天災害”があった。併せての流行病で多くの人が命をおとす。この事象は、天井におわし雨を降らす「竜神さま」が、その命欲しがっているのだ!。 「私達には、この幼子以上に大切な命を持ち合わせていません」。 「どうぞ、この命、この煙をあなた様にさし上げますから、その雨と交換して下さい」。 村人こぞりて、一心不乱にお祈りする。 その竜神さまを銅鐸に「呼び寄せ、乗りうつして!」。 このような単調なお祈りを繰り返すことにより、精神が高揚し一種の「精神変異」の状態をあらわす人がでてくる。 あらぬ事をしゃべりだす。 青森の「恐山信仰」を思いだしていただければいい。その人の口を借りて「竜神様」がなにかの言葉を発する。 勿論、この人が正気にかえったときには 「何を言ったのかを覚えてはいない」。
先の纏向遺跡で、木製の鍬を「人面様に加工」したものが出土したが、この場合は、太夫・イタコさんが、そのお面をかざし「その言葉」を発する。 分かりやすく言えば、神が乗り移って、『その言葉を発する時』 に、そのお面を使用する。 はじめからかぶっていてはダメなのだ。 お面の両端に括りつける穴がないことや、下部をすこし長くして凹み付けていたのは持ちやすくするためだ。 そのお面には「朱」が残っていたという。 このお面の流れをくむものは、今でも多くありますよ。
ことが終わった「その銅鐸」は、人里離れた鎮静な場所の土中におさめる。 又、使用する時の為に!。 愛知の一宮・稲荷山遺跡では、その半円部を突き立てるように埋めてあったのが興味ぶかい。 一般にはヒレという部分を横にして、次の回まで、大人しく 「寝ていて下さい」 とみるのが普通かな? このような文化・社会制度の延長線上に「卑弥呼」があらわれた。
→卑弥呼についての詳細は「この指止まれ」へもどります。
愛児を衆生のために差し出すという社会制度には不満が溜まる。そのような時に「卑弥呼」があらわれた。卑弥呼は「人身供犠の文化」をやめさせ、「代用・象徴物文化」に変えようと人々に諭した。 今に残る「護摩木」に姓名を書いて燃やすのや、おひな様流しや、灯籠流し、それに「身代わり観音様」等も、卑弥呼の影響かも知れませんね。 蛇足ながら、西洋の「魔女狩り」や、「日本の桃太郎伝説」も、この時期に発生したのかな?と思っています。 それには、その時に 「ニアミスした巨大彗星??」 を証明しなければならないのですが。 ・・・、
<話が長くなりました。もとの「青銅器の探査」に戻しましょう>
その卑弥呼の言をうけて「大量の銅鐸」をもちより、封印させた所が 「出雲・( )・神戸・野洲」 であった。 これ等を文化交流の(伝播・道筋の)考えからも、同様な竜神・雨乞い文化をもち、岩つながりの「岩屋の地名」がついている吉備の地の (空白) が考えられず、岡山県総社市の岩屋にも、必ず大量の銅鐸が埋められていると推理したのであった。
その時、“ここぞ!” と思ったところが、「岩屋宮?」と「岩屋寺」の間にある竹藪。
この竹藪の表下には「大量の銅鐸」が?? 「竹取物語」はそれと教えてくれている! ところが! そこは 「県の管理地」・・・、
県の管理地ということは、その所有権は、国にあるのかな? 銅剣が埋めてあると推定した黒尾地区・西谷は、総社市の管理地であった。いずれにしても「公」が所有している。「公」だと、銅鐸にしても、銅剣にしても、その探査は非常に難しくなる。
(以下も、素人考えですから間違いがあったら教え正してください。)
このあたり一帯は、明治代から土砂流出防止のために、巨費を投じて治山・治水事業をしていた。ということは、立木の伐採や土石の掘り返しはおろか、草花の採集までもが法にふれる。 ただ、昔からの「入会権・いりあいけん」というのがあって松茸やらのキノコ類、山菜、(焚き木取りも?)等の採集は、地もとの人のみに許される。だから「入山禁止」の垂れ札がしてあったのである。私のようなヨソ者は厳密にいえば土石は、おろか小枝一本も持ち帰れない。 ましてや「ここぞと思う所!」を掘り返すことなどとうてい出来ない。
西谷の上流に「かつては田畑だったが」今は、笹竹ぼうぼうの所や、遊歩道の所々に、「私有地」につき入山禁止の表示があったから、私有地もあるにはあるのだろう。では、そこが「私有地」だったらどうなるか?
(これも素人判断だと、あらかじめお断りしておきます。)
私有地のほうがいい♪。 そこが私有地だったら、地主の許可がとれさえすれば、少し(笑)乱暴な気がしないでも無いが、スコップ片手にツルハシかついで出かけることが出来る♪。 運良くそこにあたれば、銅鐸の一個や二個!!、銅剣の一本や二本!!が、 ツルハシにかかるかも知れない。 後で 「とやかく云うお人」が必ず出ようが、そんなことを気にしていたら、「日本史に風穴?<銀きのこさん言>」は、あけられない。 多少の(^^?)いたみは伴う。
その「青銅器の所有権は?」
勿論、地主にある。 もと旧家の分譲地を宅地として買った。 そこから瓶に入った小判が出てきた!ら、どうなるか? もと地主が「何か証明できる書面」でも残っていれば、新地主と折半?。 無ければ、全ぇ~んぶ!新地主のもの♪。 このように「何が」でようが基本的には、その所有権は個人(団体)にある。 だから「埋蔵文化財の調査・発掘費用」も、自分で出しなさいというのかな?
この場合の「青銅器は」ただの青銅器ではない。“卑弥呼が封印させた大量の銅剣と銅鐸”という付加価値がついている。 そして、「それが予測できた」というおまけ迄ついているのだから、その価値は計り知れない。
それが「吉備で銅剣と銅鐸」のみにあらず。「神戸」や「野洲」でも、大量の銅剣が、早いか遅いかの違いこそあれ、必ず出土する!。 筆者がこれほど迄に「確信的」にものを言うのは、『ご先祖さまは“ウソつかない“嘘をいっても益がない』、地名という伝言にウソは無いからである。 これが一カ所でも出土すれば、「どうなるんでしょうかぁ?」 出雲の大量の銅剣・銅鐸は「国宝」になりましたよね。
それが、「いかに個人の所有であろうと」、国としては放っておくことが出来ない。
その青銅器は、『歴史的・民族の宝』ですから。 こうなると、それは、その土地も含めて所有者の、「言い値!」。 遠慮してはいけませんよ。例え何千万と云おうが、億?と付けようが、 後には、それが「日本史」は、おろか「世界史」をも動かすきっかけとなるのですから。(!笑!)
総社市岩屋の大量の「銅鐸」の発掘を業者さんに、口答ではありますが、参考までに「見積もり」して貰いました。 (00年00月、今から10年ほど前かな?)
その費用 『数百万円』、個人がだせる金額ではない。
つづきます・・・、
【 当時の、その探査費用の主な内訳 】
①金属探知器を入れる前に、ここぞと!思うところの立木を伐採!
なぜ伐採しなければならないかは後で申し上げますが、この事だけで、そこが「県の管理地であれば絶望的!。 なぜなら、立木の伐採はおろか草花の採集にいたるまで許可をとらねばならない。 そこが「土砂流出防止林」であれば、伐採不能!!!
②伐採出来たとして。 その撤去整理。
伐採したものをそのままにして置くわけにはいきませんから、山中から持ち出し産業廃棄物?として焼却処分にしなければなりません。
③整地作業
そこに立木の根っこが残れば、探知機での正確なデータが得られないから、それ等の撤去と整地作業。 グランドでのタイムカプセル探査ようにはいかない。
④(当時の)金属探知器での探査作業と、その持ち帰り分析で金属反応があった!
鉄の場合なら磁気反応で簡単にみつかるが、磁気を発しない青銅器となるとより高度なテクと機器を要します。そこで、何かの金属反応ありとなった!
⑤ここから先は、先に申し上げたような専門家の「トレンチ・発掘」作業が始まります。
これ等の作業をこなすのに、出張泊まり込み、作業員の手配等に加えて官公庁への許可申請!! これ等の【総費用が数百万円】ですから無理もありませんね。
げんなり~、脱力ぅ~、(笑) 「そんな事が」この非力な素人に出来る分けがない。
そこで始めたのが「文書での広報活動」、大学、行政、専門家、新聞社。 それに「中学校」。 数百通は出したかな? それらの全て(?)が 梨の礫! 無反応。 中学校を入れたのは将来の歴史を担う人達へ「この伝言」を託したい気持ちからです。
この素人の存命中に「事」が成就しない?! (!汗!)
そこで、「今に見てろよ」と、始めたのが、このブログでの広報ですが?! ・・・・、
とある日の、我がブログ友<六尺三寸さん>とのやりとり。
文字列マニア(旧題ー日本語採集)
記事「時鳥」(分類)動物 2008 1 ○
<六尺三寸さん>
御免なさい勝手に載せました。なにか不都合があれば削除します。ご連絡ください。
拙句(2008年1月3日に、)
「 たがために 血ヘド吐くかや 時鳥(ほととぎす) おぼろなりとも 月さえあらまじ 」
それを受けて<六尺三寸さん>が、ユーモアを交えて!
「 Myブログ ふりさけみれば 閑古鳥 」
これでは、あまりにも自虐的だからと、この句を頂いて、素人が下の句を!
「 Myブログ ふりさけみれば 閑古鳥、 今にみてろと 不如帰(ほととぎす) 」
さらに続けて拙句、
「あそんだれや 時鳥、 あなた(春告鳥)何時でも 勝手に鳴けばぁ その日来るとも 我Byチャ!」
存命中に事がすまない! もうヤケクソ、遊ばにゃ損ソン!(笑) ちなみに「春告鳥」とはウグイスのことで、ホトトギスは、義親であるウグイスの美声をまねて? 「テッペンカケタカ」と教習するそうですよ。 だからウグイスの鳴き声に似ているのかな。 蛇足ながら(あなた)とは、世界中のあなたであり、Byチャ!は、「あられちゃん語」です。 この前、私のヘタな口笛でもうぐいすが呼応してくれました♪。 皆さんもどうぞ試してみてください。
もうそろそろ、その「時鳥」が鳴く時期が近づいてまいりました。 少し「遊び過ぎた」ので、話をもとの「銅鐸の探査」にもどしましょう。
『青銅器 (銅鐸・銅剣)の探査』は、予見して発見かった所が、実は2カ所あった!!
筆者の「銅鐸の発見はすべてが偶然性によるもので」予測して見つかったものはないとしたのは、誤りであった。 銅鐸の発見は、今現在に分かっているもので約○○○個?ある。そのほとんどは偶然性によるもだが、数少ない発見例が、<出雲の荒神谷>と、<静岡県・磐田市>にあった。 以下は、筆者がブログ等で調べた“覚え“によるものと、ご承知おいて誤りがあればコメントにより正して下さることを希望します。
≪其の1≫ 出雲の神庭・西谷・荒神谷遺跡、銅剣358本(と銅矛16銅鐸6個)の場合
ここの場合は、○○年の(農道整備?)の道路工事に先立って『この地域には何か考古学的な埋蔵文化財がある!』と、推んだお人がおられて、その予備調査で「古墳時代の須恵器」が発見されたことから、本格的な調査が始まったようです。
その土器は、『何か?』そして、谷のどの位置にあったのか?
筆者が、それを問題にしているのは、古代において土器の破壊の風習がありました。それらの遺跡から故意に割ったとしか思えないような土器の出土が、あるいは、破壊するための土器をわざわざ造って、埋めた痕跡があるということです。例えば吉備地方で出土する「タブレット」と呼ばれている土器の小片。 今においては四国「屋島」の頂上から素焼き皿を投げる。 死者の食碗を割る。 さらに進んで「建て前」での餅投げ。 地名では、近江の「瓶割山」。 これ等は、荒神様の破壊性を根にもつ文化風習だろうと推んでいます。 出雲の「その発見された土器と、場所」が、大量の銅剣や銅鐸と、どのように関係するか、又は、ないかは解りませんが、大変興味があります。
筆者が興味があるのは、「大量の銅剣の出土」という結果の重大性ではなく、それを「導いた考えや、お人」がいたということです。「横井さん、小野田さん」発見にしてもそうですが、今の世間は、その結果の重大性のみに目をやり、それに至ったプロセスは全然話題にのぼらない。 今では「横井さん」を救出されたお人の名前すら知らない。(苦笑) 当時の筆者は、「よくぞ」とそのお人の推理力と行動力に驚きと賞賛を覚えたものでした。今回の私の「銅剣探査」は、それに比べるべくもありませんが、少なくとも「その推理を進めていく」楽しさはあります。考古学を専門家のみの学問とせず、歴史の多くを知らない素人でも「地名という祖先からの伝言」をたどれば、必ずそれにたどり着くところに、この謎解きのおもしろさがあります。
<出雲の大量の銅剣(と銅鐸6個)が、出土に至るまでの過程を推理・想像>
さて、その「○○代の土器」が発見された。それが次の「トレンチ調査」をしようと決定させるには、その土器がよほどの意味をもつ土器であることと。 それと知り、『次なる、調査の必要性を説いた、お人がいた』ということである。 もとより、この神庭・西谷(かんば・さいたに)は、祟りがあるといわれ、地元の人は畏れ(おそれ)近づかなかった場所であったと聞く。 このことは地元の人しか知り得ないことである。先に申し上げたとおり、トレンチ調査をするには『立木の伐採と、その場所の選定』をしなければならない。 どうせ道路整備するところだからと、あたり一帯の立木をすべて切り倒したのか? それとも、ここら辺が『怪しい』と云って、部分的に伐採したのかを知りたい。
いずれにせよ『その場所』を含めて伐採した。
次に注目するのは、『最初の一発目』のトレンチ調査で、その大量の銅剣に行きあたったということ!!。 それをブログでは、『偶然にとか、たまたま』の言葉で表現しているが、私は、そうは思わない。 「吉備の大量の銅剣」の探索(中)をしていて分かったことであるが、その「縦○m×横○m」の埋め場所」をピンポイントで指さすにしては、その谷はあまりにも広すぎる。そこを指さすには、何かの『見当や、感が』あったはずである。
話は、変わって「釣り人」の話を聞こう。
私達素人は、釣り糸を投げるポイントを海面とか川面とかの言葉で一概に表現するが、魚を釣るには、「水の流れの、浮き沈み、速さ、透明度、深さ、海底・川底の形状、温度・日陰日向、時間・朝昼晩、魚の食事時と遊び時、食餌のあるなし、季節、天気、風・水面の波立ち、雨。 魚種、過去の経験。 等々。 そして、今その群れがどこを回遊しているか?」 その釣り果を得るには、実に様々な要因がからみあう。 それ等をひっくるめて『感』という。
〈マル秘情報?〉 大物釣りをねらう貴方に! →大物(鯉)は用心ぶかい!
私の家の裏に川幅○m程の用水が流れています。 この川に、小一の子と二人で「主・ぬし」と名付けた鯉3匹がたまに来ることがあります。 60cmは、ゆうに超えるかな? 大きいのを先頭にして泳ぎます。 あとの2匹はその後について泳いでいきます。 二人で食パンを投げやるのですが「絶対に食べない」どころか、他の小魚やブルーギルの食いつきの良さを横目に見てササさっと通り過ぎてしまうのです。かといってその餌に興味が無いことはないのです。 ゆっくりと近づいては来るのですから。 ブルーギルにしても最初に興味を示すのは小さいのから。
それでも最初は一度口に入れて、必ず吐き出します。それが食べられると分かると後は乱喰い状態!(笑) 「菓子パンが、油パンが、ビスケットが、スナック麺が、おいしいから。」 といっても食べませんねぇ。 浮いたものも食べないし沈んだものも食べない。 ただし、小魚は沈んだものでも争って食べます。 雨が水面をたたきだすと全ての魚は影も見えなくなりました。 ちなみに、公園の鯉や、飼い鯉なんかは、そんなに強い警戒心はもちあわせておらず、指しゃぶりまでするそうですよ。 蛇足ながら、その「主」を見かけるのは、ある程度、透明度が良くなくて、ゆっくりとした流れと水量がある時です。 主題から、大きくはずれましたぁ~(!汗!)
話を出雲の大量の銅剣の<予見に戻して!>
『最初の一発目』のトレンチで、それを発見した裏には、その『何か?』がある。素人は、その何か?を知りたい。 今、分かっていることは、「地名に西が付き、その谷奥の陽斜面、その下から雁木(がんぎ・階段のこと)で、10段(~13階段?)上がったところ」。
その「何か?」、とは何だろうか?。 (どうぞ、それを御一緒に考えて頂けませんか?)
その「何か?」がわかれば「吉備」での銅剣探査が、ひじょうに楽になる。
①まず最初に、「神庭・西谷 かんば・さいたに」にまつわる「民話、伝説、伝承」はないか?
②そして、筆者が以前に間違えたように、ものを隠すときは、日陰である仏教山の北斜面の方に、隠すのがふつうと思うが、それを何故、「一発目のトレンチで」、その反対側の、南向き斜面にされたのか?
③南向きの陽斜面にしても、そこが一日中、陽があたるわけではない。
対面にある山が影をして、その影は、季節的差異によっても移動する。 これが「推めれば」、それを埋めた季節までもが特定できるし、「吉備」での探査の参考になる。
④さらに、その斜面下に立って、5~6m上を指さし、『ここを掘りましょう!』としたのは何故か!? この形は、今の神社本殿と拝み殿をつなぐ階段として残っていると謎解きしている。
⑤その上に、何が生えていたのか?竹林か?、裏白か?、それとも雑木か?
勿論、1700年前の植生と現在では異なる。 しかし、私達の祖先は、おどろく程それ等を冒すべからざる所として、ごく近代まで手を入れなかった。それが変わったのは、公益の為だとし、新幹線や高速道を建設しだしたころかなと承知している。
⑥その他「多々」あろうと思いますが、「吉備」での探査が手づまり状態の現在。
ぜひとも、読者諸氏の、
そして、出雲で「一発目のトレンチ」で、量の銅剣を掘り当てた“そのお人の感”を聞きたい。
≪其の2≫ 静岡県旧豊岡村(現在の磐田市)、銅鐸3号の場合
「青銅製品の探査機」で検索しました。 <以下はその概要です>
銅鐸・高さ約80cm(敷地3号銅鐸) 磐田市(旧豊岡村) 『西の谷遺跡』出土!
今から、1800年前(弥生時代後期)の青銅製品です。 明治時代に2個の銅鐸(1号、2号)が出土していることから、山の斜面全体について金属探知器などの物理的探査をしたところ、2000年2月に、この銅鐸を発見した。
場所は、家や墓がない谷奥の斜面に埋納していた。 と写真付きであります。
写真・其の1は、発見場所の山斜面から下方を写したもので、はるか下方に家が写っています。そして、<あたり一帯の立木は?、その調査の為に伐採されたのか?とうかがえます>
写真其の2は、銅鐸のヒレという部分を寝かせて埋めてあり、<その深さは、約60cm?> くらいかなと思えます。
www.maibun shizuoka-c,ed.jp/dotaku.html 以上です。
この記事のなかに、3つ4つ気になる言葉があります。
①つ目は、今回の出土1個に加え、合計3個の銅鐸が出ていること。そのうちの2個は明治時代の出土とあります。 (荒神を2体呼び寄せれば喧嘩になるとの自説から)、銅鐸は1ブロックで1個の使用です。 「1ブロック」としたのは、銅鐸を使う“ご祈祷”は、大行事ですから、各集落が合同でやる場合も考えられます。 雨乞いの場合は、「天の井戸」を相手にするわけですから、銅鐸が出たその場所だけで事を考えてはなりません。渥美半島には、「神戸、片神戸、赤羽根、白羽」の地名伝言があります。 そして、この銅鐸3個?が意味する時の流れは?
②つ目は、「西の谷遺跡」という言葉があります。ここでも「出雲・西谷」、吉備では「経山・西谷」とあるように、『西』というワードが付いています。 (まだ話題にあげていませんが神戸にも西谷があります。) この「西」が意味するのは、『その雨を司る竜神が東から西進して来て、西からその慈雨を持ってくる考えに基づいている』 ことにあります。天気は西から変わってくる。 この「西行き」ということは、後の日本人の西方浄土信仰にも大きく関わっています。
このブログを見て、銅鐸・銅剣ハンターになりたくなった!? “あなた”だけに、そっと耳打ちします。誰にも言ってはいけませんよ!(笑) これは「極秘」ですから!『キーワードは、西』。
ここでは、「卑弥呼が」を付けた大量の銅剣・銅鐸に、しぼっていますが、貴方がお住まいの、『岩の字の付く地』にも、未出土の銅鐸があるかも知れませんね。
③つ目は、「山の斜面全体について、金属探知器などの物理的探査」とあるが、その斜面全体を「じゅうたん爆撃」のように調査されたのか? そして「金属探知器など」とあるが、「など」とは、他のどんな方法なのか? それに山を伐採してもその切株は残るがその処置は? 知りたいことは一杯あります。
④つ目に「谷奥の斜面」とあるが、なぜ「その斜面」としたのか? 谷底でもよいのではないか? そして、谷奥とあるが、一口に谷奥といっても実際に現地をあたると、それらしき所は数多くある。 さらに、この谷の「いわれ」は? 近くに「社・やしろ」等があると思うが、そこは何を祀っておられるのか? いずれにしても、これ等に時間とお金をかけてでも、探査をしようと、『つよく提唱したお人』 がいたはずだ。私は、その『お人の』言葉をぜひに聞きたい。
つぎは、「青銅器の探査機について」 です。
その前に、こんなニュースが過去にありました。
「地中に埋まった水道配管を、直角に折れ曲げた番線二本で見付ける!」
これは、とある水道局の職員が見付けだされた方法で、今では樹脂管が全ての水道管ですが、当時は鉄管(時に鉛管も)が使用されていて、その老朽管の取り替え時に誤って破損することがあり、あらかじめ、その埋設場所がわかれば、それを避けて掘り下げることが出来ることから考えだされたようです。
それが8番線か6番線かは分かりませんが、横50cm~60cm、縦30cm~40cm?で、針金を直角に折り曲げて、それを進行方向・平行にかざし、両手で緩く保持し、地中にその鉄管があると「その番線が開く」というのです。 タ゜ウンジングの原理かな? これは、『地球には磁場・磁気流があり、その中で地中の鉄管と番線の磁気が干渉しあっておきる現象かな?』 と推理しています。ためしに筆者もやってみましたがうまくいきませんでした。 熟練が?いるのでしょう。
このように、その埋蔵物が磁気を帯びる鉄ならかんたんに発見かるのですが、青銅製品ではその磁気がつかえず、他の方法(微弱電流?超音波?)を用いねばならず、その分析方法と機器に多くの費用がかかるというのが10年ほど前の結論でした。
今では、当時より性能のいい機器があるようですが、それでも、その探査にあたっては、「検知被体と検知板との距離」を一定に保たないと正確なデータが得られない。せっかく金属探査機・探知機をここぞと思うところに持ち込んでも、そこに立木があったり、切株や石などの凸凹があったのでは、それがあるのやら無いのやらがわからず(!徒労に終わる!)。 そこが個人所有の民有地ならば伐採・整地の可能性もあるが♪、そこが官地公地では絶望的! いままでの記事で、それ等について、くどいくらいに述べている訳がわかって頂けたら幸いです。
しかしながら、「この広報と、その捜索」を止めるわけにはいかない。
次、<金属探知機のレンタル>で検索しました。
<サンモニターの金属探知機> ㈱サンモニター ℡03-3931-0521
□ハンディ型(ファースト トラッカー) USメイド<品名 トラッカー4>
一日当たりのレンタル料 ¥2,100
大きさ 最長 132cm 重さ 約1,2kg
特 徴 全金属 運動場、砂浜、山道
ターゲット迄の検出例 マンホールのふた(70cmφ)ターゲット迄55cm
□ハンディ型(1212ーX)
一日当たりのレンタル料 ¥2,100
大きさ、ターゲット迄の検出例 ほぼ、同上
特 徴 金属種別の判定具備しない分、取り扱いが簡単です。
□ディスカバリー3300
一日当たりのレンタル料 ¥3,150
大きさ 最長 132cm 重量 約3,2kg
金属種別の判定ありで、 1,8リットルのスチール缶で、60cm前後
100cm100cmメッシュ 90cm前後
検知力だけに絞り込めば、初心者でもOK、
□ハンディ型(Gemini-3)
一日当たりのレンタル料 ¥5,250
大きさ 最長 ・・・ 重量 約3,2kg
深く埋まっている大きいものの検知
ドラム缶で、約4m! このクラスでは最も到達深度が深い。
以上、みつくろって検索しました。(笑) 興味のある方は上記へ問い合わせて下さい。
<青銅器遺物(銅鐸)の調査>で検索してみました。
遺跡名 敷地遺跡
場 所 静岡県磐田郡豊岡村 (現・磐田市)
時 代 弥生時代
調査年月 平成12年1月 (2000年)
調査目的 広範囲の調査値の中から、青銅器遺物(銅鐸)の存否を確認
探査方法 電磁法探査
探知機(写真付き) センサー部:2個の車輪付き 分析部:背負い型
<応用地質株式会社> 東京本社ジオテクニカルセンター歴史環境 担当
Eーmail kikaku @ oyo net.co.jp
Tel 048-652-0651(代) Fax 048-652-4031(代)
「2個の車輪付き」ということは被体とセンサー部の距離を一定に保つということかな? 今までの捜索の経緯から、こんな大きな機械の持ち込みは不能。 草刈り機タイプにしても、立木や草木、木の根っこ、石等があると、“有るか無いかの”正確な検知が出来ないのかも知れない。
<素人探偵が思っているほど、簡単ではない?>
この調査には、“静岡大学考古学”がかんでいるようですが、いずれにしても、大がかりな調査があっての「銅鐸発見」に至ったようです。
以上、「立木の伐採」にしても、「金属探査機」の持ち込みにしても、調べれば調べるだけ、その目的から遠ざかっていくような気がします。
つづきます^^!
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かれこれ10年ほど前になるかな。筆者は、吉備の「岩屋」にも 大量の銅鐸があると推理し、
すでに大量の銅鐸が出土している、出雲『岩倉』、滋賀県・野洲町『大岩山』、神戸市・桜ヶ丘『いわや』の←(後日に判明)、地名による『岩』つながりで、 同一文化をもつ岡山県の総社市 『岩屋』にも、必ず大量の銅鐸あり!と、 画策したことがありました。 だが、そんな突飛論など、だれも相手にしてくれない。(当時も、今も? ー笑いー)
<別紙電子出版、極秘報告書「巨大隕石と大津波」の、祖先からのメッセージの章に記載>
↑を クリックして下さると、そちらへ飛びます。( 無料の立ち読みが出来ます。)
県の「埋蔵文化財係」へTelすると、なにかの関連した遺物が出ていればいいが、「あるかないか分からない」話にはのることが出来ない。 そうですよねえ。大切な税金を使うわけだから、そんな眉唾で、賭け事のような話には、だいいち予算として、議会が通らない。
ならば自分で!、 ところがそれが大変!!
( 以下: 素人知識ですから、間違っていたら、何方か教え正してください。 )
まず、埋蔵文化財に対する法律。
例として、個人の所有地のビル工事で何かの遺物が出たとする。その調査は、地主の全額費用において対処する。そして、その調査が終わるまでは、工事はできない。簡単に言えば「自分所有の土地でも、なにかの遺物ありと判明すれば、自分の責任と費用において調査を終えないかぎり、それ以上掘り進めることも出来ないし、その上へ建物をたてる「建築許可」も下りない。一昔前は、それがイヤだから、たとえ何かが出てきても「知らなかった。見なかった。」で、工事を進めたそうですよ。
これも素人判断ですからと前置きして。 マイホームを建てようと土地を購入。その基礎工事で「縄文期か弥生期の土器」が出た! そこで、見なかったと“全員”がすませばいいが、後で噂にでもたつと「施主は知っていた」ことになるから、当然罰則がつく。 そこで「見なかった」ことにしてくれと、施主はその建築業者に依頼する。しかし業者さんは「あとが怖いから」といって、そこで工事はストップ!。 マイホームの土地購入には、くれぐれもご用心!! ( ならば、転売を!、ところが・・!?)
埋蔵文化財の発掘費用は、並の金額ではない! ( これも仮想ですー笑いー)
私の建築予定地から「こんな物」が出ましたと、管轄の教育委員会へ届け出る。
その重要度において、すわ重要だ!となる。 調査検討がはじまる。発掘専門業者に依頼する。そして発掘実行の「トレンチ調査」。このトレンチ調査というのを私はテレビで見ただけなのですが、所定の位置を「豆腐を切ったように」掘り下げていく。勿論、ちっちゃな手スコップと、手帚をもって、「何一つ見逃すまいぞ!」と掘り下げる。その範囲が広ければ人海戦術だ。女の人が日よけ帽をかぶって座り込んでやってましたよね。次なる「欠けららしきもの」がのぞきました。そこからは専門員が行う。出雲の「大量の銅剣発掘」の時は、カメラのレンズを掃除する「パフパフ」と、焼き鳥の櫛を使ってやったそうですよ。
このような発掘作業がおこなわれる分けですから、その人件費は思いやられます。ならば、ボランティアを募り、いい加減に!?、これって許されるかしら?? その多くは、大学がかんでいるようです。運良く自治体がその費用を肩代わりしてくれるとしても、その「調査完結」のお墨付きがでないかぎり、埋め戻しても我が家は建てられない。 せっかくマイホームを建てようと思って買った土地が、駐車場か家庭菜園をする価値しかない。 ご用心、ご用心!
この法律は、日本の埋蔵文化財の発掘において「諸刃の剣」となっている。一つには、税金を投入することなしに、その発掘ができること。逆にいえば、個人・団体が、その費用を負担しなければならないという側面をもっている。さらに、この法律のおかげで日本の「発掘作業」の量と、その水準を高めている。 しかし、その弊害として「考古学=実証主義」におちいりやすく、前年の考古学大阪大会(第○○回)の発表では、実証と、そうでないもの(仮説?)との比率は、「7 : 3、?}であり、ちょうどこれは欧米の逆だという。 これでは、九州大会でいう「攻めの考古学」は期待できない。
筆者が願うのは、実証至上主義は美学だが、それに陥ってはならぬということ。(特に若い人は)色んな議論のうちにそれを高めていけばいい。 大学では、その芽をつみ取る態勢をつくってはならない。 日本で(世界でも)第一級の先生が、「考古学において“その年代”を論じるとき、放射性アイソトープ法か、年輪相対法かの、どちらかの一方に統一して論じるべきだ」 と仰っている。 これを素人が思うのに、「一つしか無いその時」が、今の学問では推定できない!。 ならば、それを想像、空想と云われようが、推理、洞察と云われようが、色々に言ってみるのも楽しいではないか。 そして、地名を祖先からのメッセージとし『人文考古学』 として扱って欲しいと望んでいる。 反論、お叱り、大歓迎です♪ それより無視されることのほうが辛いから、(笑)。
このような経緯があって、「吉備岩屋に眠る大量の銅鐸を!」探しに出かけました。
鬼の城(きのじょう)から、○kmほど北へいくと、駐車場10台たらずの「岩屋」がある。鬼の城が70余台だったから、その規模からも察しがつくように、ここまで足をのばすお人は、よほどの通なのかな? ここに人工に設えたとも、自然の造形ともつかないような○○mほどの巨岩があり、「お宮と、岩屋寺」の二つがある。 この巨岩は「鬼のさし上げ岩」と呼ばれているそうだ。これも「吉備・桃太郎伝説」の材料になっている。 お寺のお題目は、「なむ、だいし、へんじょうこんごう」。 山の中腹ではあるが、お宮の下方にお寺があり、お寺の石垣のほうが立派なことから、その歴史的時間の後先を推しはかることが出来る。
此処に、二カ所だったかな。日本竹(真竹)の竹藪がありました。
古代においての「竹」は、石器とともにその生活用具として思いつくままにあげてみると、「箸、水筒、編みカゴ、箕、弓、矢、竹槍、屋根の骨材、柵」等々、実に多用だ。 又、その竹の皮でワラジづくり。おにぎりや肉の包装。竹の皮には除菌作用もあるそうで、昭和の末頃まで「お肉には竹の皮」が定番。 このような竹が石器・弥生期において身近に栽培されていたであろうとは、容易に推測できる。 地名としても「上竹、下竹」等は各地に残っている。 「竹取物語」もありました。竹藪の中には何かがある?!
ここで、その竹を取り上げたのは、竹の生育に注目した。 木の直根が約1、5mほど地中に入り込むのに対し、竹の根は、ほぼ50cm以上は深く入り込まない。そして他の草木を寄せ付けない。いかに、「二度と掘り上げまいぞ!」として、封印した大量の銅鐸だとはいえ、その上に巨木が生えて根が埋めた銅鐸に入り込んでは困る。竹林で「封」をしておけば、そのおそれは少ない。竹根が縦横にはりめぐるが再度掘り返そうとおもえば、掘り返せないでもない。長年使用したものへの一抹の愛着が残っているのだ。 と、このように推理しました。
その銅鐸について再々度?、論じてみよう。
銅鐸の歴史を一概に「銅鐸=何々だ」と論じることは出来ない。なぜなら四千年前に光臨した荒神さまが時代とともに、その地域性も加味して微妙に変遷しているからだ。貝塚時代の土器の破壊や、抜歯の風習。生け贄。吉備の特殊器。火炎型土器、等。これらの文化の延長として、朝鮮半島からの風鐸の影響をうけ、初めて「青銅器」としての形を成したのであろうと推測しています。銅鐸の使用は、素人的にみて日本だけの特殊文化ではないか?と思っています。
最終期の(卑弥呼代の)銅鐸は、
卑弥呼のような、祀り事をおこなう行者(太夫・おたゆうさん)が各地・各部族にいて、病気の治療から、困り事相談までを行っていた。”物事の禍を”なすのは、すべてその「荒神さま」のせいだと思っていた。 弥生期において、稲作が発達し人口も増えてくる。 時には流行病や、日照りも続く。 そんな時、人々は荒神様が「命」を欲しがっているのだと思う。 私達には、「これ以上に大切な命はありません」 これを煙に変えますから、どうぞ、そのお怒りを鎮め「これ以上、病を流行らせないでください。又は、慈雨を下さい!」と祈る。地域において多少の差異はあろうが迎え火を焚いて、海水を煮詰め、差し水をし、この水気、天に届けと! 衆人こぞりてお祈りする。
これが、現在の祭りや盆踊りの原点であり 『まつる、奉る、祀る、纏り、祭り、政(まつりごと)』の、全ては同根だ!と、謎解きしています。
その「荒神様」を呼び寄せ乗り移す媒体となったのが「銅鐸」だ。
当時の埋葬方法は、土葬である。それが火葬に変わったのは昭和代の中頃かな? 今の私達の多数が受け入れている火葬ではあるが、土葬から火葬へ変わるときには抵抗もあった。 「死んでからまで熱い思いをさせたくないよ~」との。 弔いの仕方は、歴史・民族によっても色々とあるようで、他に、水葬、鳥葬、人肉食葬。これを残虐だと断じてはいけませんよ。 死後の魂が空に舞うようにとか、愛する人を我が身に保持しておきたいとの願望もあるようですから。 最近では、散骨葬や宇宙葬が話題になったり、中国では、土葬の墓地が増え続け火葬への変換を検討のニュースもありました。ちなみに中国全土かどうかは知りませんが、日本のように地下へは埋めず、土をかぶせる円墳葬。これは「卑弥呼の円墳を捜せ」をサイドにしている筆者にとって興味があります。
何はともあれ、土葬がすべての当時において、火葬という埋葬方法は特異な埋葬方法であり、いかに衆生の為だとは云え 「幼子の煙を雨雲に換えて!」と、やる火葬・雨乞いは残虐だ。
つづきます。<あすとろさん>わたしの方こそ、気をもたせて御免なさい(笑)
ある日、ある年、草木は立ち枯れ、飲み水にも事欠くような “干天災害”があった。併せての流行病で多くの人が命をおとす。この事象は、天井におわし雨を降らす「竜神さま」が、その命欲しがっているのだ!。 「私達には、この幼子以上に大切な命を持ち合わせていません」。 「どうぞ、この命、この煙をあなた様にさし上げますから、その雨と交換して下さい」。 村人こぞりて、一心不乱にお祈りする。 その竜神さまを銅鐸に「呼び寄せ、乗りうつして!」。 このような単調なお祈りを繰り返すことにより、精神が高揚し一種の「精神変異」の状態をあらわす人がでてくる。 あらぬ事をしゃべりだす。 青森の「恐山信仰」を思いだしていただければいい。その人の口を借りて「竜神様」がなにかの言葉を発する。 勿論、この人が正気にかえったときには 「何を言ったのかを覚えてはいない」。
先の纏向遺跡で、木製の鍬を「人面様に加工」したものが出土したが、この場合は、太夫・イタコさんが、そのお面をかざし「その言葉」を発する。 分かりやすく言えば、神が乗り移って、『その言葉を発する時』 に、そのお面を使用する。 はじめからかぶっていてはダメなのだ。 お面の両端に括りつける穴がないことや、下部をすこし長くして凹み付けていたのは持ちやすくするためだ。 そのお面には「朱」が残っていたという。 このお面の流れをくむものは、今でも多くありますよ。
ことが終わった「その銅鐸」は、人里離れた鎮静な場所の土中におさめる。 又、使用する時の為に!。 愛知の一宮・稲荷山遺跡では、その半円部を突き立てるように埋めてあったのが興味ぶかい。 一般にはヒレという部分を横にして、次の回まで、大人しく 「寝ていて下さい」 とみるのが普通かな? このような文化・社会制度の延長線上に「卑弥呼」があらわれた。
→卑弥呼についての詳細は「この指止まれ」へもどります。
愛児を衆生のために差し出すという社会制度には不満が溜まる。そのような時に「卑弥呼」があらわれた。卑弥呼は「人身供犠の文化」をやめさせ、「代用・象徴物文化」に変えようと人々に諭した。 今に残る「護摩木」に姓名を書いて燃やすのや、おひな様流しや、灯籠流し、それに「身代わり観音様」等も、卑弥呼の影響かも知れませんね。 蛇足ながら、西洋の「魔女狩り」や、「日本の桃太郎伝説」も、この時期に発生したのかな?と思っています。 それには、その時に 「ニアミスした巨大彗星??」 を証明しなければならないのですが。 ・・・、
<話が長くなりました。もとの「青銅器の探査」に戻しましょう>
その卑弥呼の言をうけて「大量の銅鐸」をもちより、封印させた所が 「出雲・( )・神戸・野洲」 であった。 これ等を文化交流の(伝播・道筋の)考えからも、同様な竜神・雨乞い文化をもち、岩つながりの「岩屋の地名」がついている吉備の地の (空白) が考えられず、岡山県総社市の岩屋にも、必ず大量の銅鐸が埋められていると推理したのであった。
その時、“ここぞ!” と思ったところが、「岩屋宮?」と「岩屋寺」の間にある竹藪。
この竹藪の表下には「大量の銅鐸」が?? 「竹取物語」はそれと教えてくれている! ところが! そこは 「県の管理地」・・・、
県の管理地ということは、その所有権は、国にあるのかな? 銅剣が埋めてあると推定した黒尾地区・西谷は、総社市の管理地であった。いずれにしても「公」が所有している。「公」だと、銅鐸にしても、銅剣にしても、その探査は非常に難しくなる。
(以下も、素人考えですから間違いがあったら教え正してください。)
このあたり一帯は、明治代から土砂流出防止のために、巨費を投じて治山・治水事業をしていた。ということは、立木の伐採や土石の掘り返しはおろか、草花の採集までもが法にふれる。 ただ、昔からの「入会権・いりあいけん」というのがあって松茸やらのキノコ類、山菜、(焚き木取りも?)等の採集は、地もとの人のみに許される。だから「入山禁止」の垂れ札がしてあったのである。私のようなヨソ者は厳密にいえば土石は、おろか小枝一本も持ち帰れない。 ましてや「ここぞと思う所!」を掘り返すことなどとうてい出来ない。
西谷の上流に「かつては田畑だったが」今は、笹竹ぼうぼうの所や、遊歩道の所々に、「私有地」につき入山禁止の表示があったから、私有地もあるにはあるのだろう。では、そこが「私有地」だったらどうなるか?
(これも素人判断だと、あらかじめお断りしておきます。)
私有地のほうがいい♪。 そこが私有地だったら、地主の許可がとれさえすれば、少し(笑)乱暴な気がしないでも無いが、スコップ片手にツルハシかついで出かけることが出来る♪。 運良くそこにあたれば、銅鐸の一個や二個!!、銅剣の一本や二本!!が、 ツルハシにかかるかも知れない。 後で 「とやかく云うお人」が必ず出ようが、そんなことを気にしていたら、「日本史に風穴?<銀きのこさん言>」は、あけられない。 多少の(^^?)いたみは伴う。
その「青銅器の所有権は?」
勿論、地主にある。 もと旧家の分譲地を宅地として買った。 そこから瓶に入った小判が出てきた!ら、どうなるか? もと地主が「何か証明できる書面」でも残っていれば、新地主と折半?。 無ければ、全ぇ~んぶ!新地主のもの♪。 このように「何が」でようが基本的には、その所有権は個人(団体)にある。 だから「埋蔵文化財の調査・発掘費用」も、自分で出しなさいというのかな?
この場合の「青銅器は」ただの青銅器ではない。“卑弥呼が封印させた大量の銅剣と銅鐸”という付加価値がついている。 そして、「それが予測できた」というおまけ迄ついているのだから、その価値は計り知れない。
それが「吉備で銅剣と銅鐸」のみにあらず。「神戸」や「野洲」でも、大量の銅剣が、早いか遅いかの違いこそあれ、必ず出土する!。 筆者がこれほど迄に「確信的」にものを言うのは、『ご先祖さまは“ウソつかない“嘘をいっても益がない』、地名という伝言にウソは無いからである。 これが一カ所でも出土すれば、「どうなるんでしょうかぁ?」 出雲の大量の銅剣・銅鐸は「国宝」になりましたよね。
それが、「いかに個人の所有であろうと」、国としては放っておくことが出来ない。
その青銅器は、『歴史的・民族の宝』ですから。 こうなると、それは、その土地も含めて所有者の、「言い値!」。 遠慮してはいけませんよ。例え何千万と云おうが、億?と付けようが、 後には、それが「日本史」は、おろか「世界史」をも動かすきっかけとなるのですから。(!笑!)
総社市岩屋の大量の「銅鐸」の発掘を業者さんに、口答ではありますが、参考までに「見積もり」して貰いました。 (00年00月、今から10年ほど前かな?)
その費用 『数百万円』、個人がだせる金額ではない。
つづきます・・・、
【 当時の、その探査費用の主な内訳 】
①金属探知器を入れる前に、ここぞと!思うところの立木を伐採!
なぜ伐採しなければならないかは後で申し上げますが、この事だけで、そこが「県の管理地であれば絶望的!。 なぜなら、立木の伐採はおろか草花の採集にいたるまで許可をとらねばならない。 そこが「土砂流出防止林」であれば、伐採不能!!!
②伐採出来たとして。 その撤去整理。
伐採したものをそのままにして置くわけにはいきませんから、山中から持ち出し産業廃棄物?として焼却処分にしなければなりません。
③整地作業
そこに立木の根っこが残れば、探知機での正確なデータが得られないから、それ等の撤去と整地作業。 グランドでのタイムカプセル探査ようにはいかない。
④(当時の)金属探知器での探査作業と、その持ち帰り分析で金属反応があった!
鉄の場合なら磁気反応で簡単にみつかるが、磁気を発しない青銅器となるとより高度なテクと機器を要します。そこで、何かの金属反応ありとなった!
⑤ここから先は、先に申し上げたような専門家の「トレンチ・発掘」作業が始まります。
これ等の作業をこなすのに、出張泊まり込み、作業員の手配等に加えて官公庁への許可申請!! これ等の【総費用が数百万円】ですから無理もありませんね。
げんなり~、脱力ぅ~、(笑) 「そんな事が」この非力な素人に出来る分けがない。
そこで始めたのが「文書での広報活動」、大学、行政、専門家、新聞社。 それに「中学校」。 数百通は出したかな? それらの全て(?)が 梨の礫! 無反応。 中学校を入れたのは将来の歴史を担う人達へ「この伝言」を託したい気持ちからです。
この素人の存命中に「事」が成就しない?! (!汗!)
そこで、「今に見てろよ」と、始めたのが、このブログでの広報ですが?! ・・・・、
とある日の、我がブログ友<六尺三寸さん>とのやりとり。
文字列マニア(旧題ー日本語採集)
記事「時鳥」(分類)動物 2008 1 ○
<六尺三寸さん>
御免なさい勝手に載せました。なにか不都合があれば削除します。ご連絡ください。
拙句(2008年1月3日に、)
「 たがために 血ヘド吐くかや 時鳥(ほととぎす) おぼろなりとも 月さえあらまじ 」
それを受けて<六尺三寸さん>が、ユーモアを交えて!
「 Myブログ ふりさけみれば 閑古鳥 」
これでは、あまりにも自虐的だからと、この句を頂いて、素人が下の句を!
「 Myブログ ふりさけみれば 閑古鳥、 今にみてろと 不如帰(ほととぎす) 」
さらに続けて拙句、
「あそんだれや 時鳥、 あなた(春告鳥)何時でも 勝手に鳴けばぁ その日来るとも 我Byチャ!」
存命中に事がすまない! もうヤケクソ、遊ばにゃ損ソン!(笑) ちなみに「春告鳥」とはウグイスのことで、ホトトギスは、義親であるウグイスの美声をまねて? 「テッペンカケタカ」と教習するそうですよ。 だからウグイスの鳴き声に似ているのかな。 蛇足ながら(あなた)とは、世界中のあなたであり、Byチャ!は、「あられちゃん語」です。 この前、私のヘタな口笛でもうぐいすが呼応してくれました♪。 皆さんもどうぞ試してみてください。
もうそろそろ、その「時鳥」が鳴く時期が近づいてまいりました。 少し「遊び過ぎた」ので、話をもとの「銅鐸の探査」にもどしましょう。
『青銅器 (銅鐸・銅剣)の探査』は、予見して発見かった所が、実は2カ所あった!!
筆者の「銅鐸の発見はすべてが偶然性によるもので」予測して見つかったものはないとしたのは、誤りであった。 銅鐸の発見は、今現在に分かっているもので約○○○個?ある。そのほとんどは偶然性によるもだが、数少ない発見例が、<出雲の荒神谷>と、<静岡県・磐田市>にあった。 以下は、筆者がブログ等で調べた“覚え“によるものと、ご承知おいて誤りがあればコメントにより正して下さることを希望します。
≪其の1≫ 出雲の神庭・西谷・荒神谷遺跡、銅剣358本(と銅矛16銅鐸6個)の場合
ここの場合は、○○年の(農道整備?)の道路工事に先立って『この地域には何か考古学的な埋蔵文化財がある!』と、推んだお人がおられて、その予備調査で「古墳時代の須恵器」が発見されたことから、本格的な調査が始まったようです。
その土器は、『何か?』そして、谷のどの位置にあったのか?
筆者が、それを問題にしているのは、古代において土器の破壊の風習がありました。それらの遺跡から故意に割ったとしか思えないような土器の出土が、あるいは、破壊するための土器をわざわざ造って、埋めた痕跡があるということです。例えば吉備地方で出土する「タブレット」と呼ばれている土器の小片。 今においては四国「屋島」の頂上から素焼き皿を投げる。 死者の食碗を割る。 さらに進んで「建て前」での餅投げ。 地名では、近江の「瓶割山」。 これ等は、荒神様の破壊性を根にもつ文化風習だろうと推んでいます。 出雲の「その発見された土器と、場所」が、大量の銅剣や銅鐸と、どのように関係するか、又は、ないかは解りませんが、大変興味があります。
筆者が興味があるのは、「大量の銅剣の出土」という結果の重大性ではなく、それを「導いた考えや、お人」がいたということです。「横井さん、小野田さん」発見にしてもそうですが、今の世間は、その結果の重大性のみに目をやり、それに至ったプロセスは全然話題にのぼらない。 今では「横井さん」を救出されたお人の名前すら知らない。(苦笑) 当時の筆者は、「よくぞ」とそのお人の推理力と行動力に驚きと賞賛を覚えたものでした。今回の私の「銅剣探査」は、それに比べるべくもありませんが、少なくとも「その推理を進めていく」楽しさはあります。考古学を専門家のみの学問とせず、歴史の多くを知らない素人でも「地名という祖先からの伝言」をたどれば、必ずそれにたどり着くところに、この謎解きのおもしろさがあります。
<出雲の大量の銅剣(と銅鐸6個)が、出土に至るまでの過程を推理・想像>
さて、その「○○代の土器」が発見された。それが次の「トレンチ調査」をしようと決定させるには、その土器がよほどの意味をもつ土器であることと。 それと知り、『次なる、調査の必要性を説いた、お人がいた』ということである。 もとより、この神庭・西谷(かんば・さいたに)は、祟りがあるといわれ、地元の人は畏れ(おそれ)近づかなかった場所であったと聞く。 このことは地元の人しか知り得ないことである。先に申し上げたとおり、トレンチ調査をするには『立木の伐採と、その場所の選定』をしなければならない。 どうせ道路整備するところだからと、あたり一帯の立木をすべて切り倒したのか? それとも、ここら辺が『怪しい』と云って、部分的に伐採したのかを知りたい。
いずれにせよ『その場所』を含めて伐採した。
次に注目するのは、『最初の一発目』のトレンチ調査で、その大量の銅剣に行きあたったということ!!。 それをブログでは、『偶然にとか、たまたま』の言葉で表現しているが、私は、そうは思わない。 「吉備の大量の銅剣」の探索(中)をしていて分かったことであるが、その「縦○m×横○m」の埋め場所」をピンポイントで指さすにしては、その谷はあまりにも広すぎる。そこを指さすには、何かの『見当や、感が』あったはずである。
話は、変わって「釣り人」の話を聞こう。
私達素人は、釣り糸を投げるポイントを海面とか川面とかの言葉で一概に表現するが、魚を釣るには、「水の流れの、浮き沈み、速さ、透明度、深さ、海底・川底の形状、温度・日陰日向、時間・朝昼晩、魚の食事時と遊び時、食餌のあるなし、季節、天気、風・水面の波立ち、雨。 魚種、過去の経験。 等々。 そして、今その群れがどこを回遊しているか?」 その釣り果を得るには、実に様々な要因がからみあう。 それ等をひっくるめて『感』という。
〈マル秘情報?〉 大物釣りをねらう貴方に! →大物(鯉)は用心ぶかい!
私の家の裏に川幅○m程の用水が流れています。 この川に、小一の子と二人で「主・ぬし」と名付けた鯉3匹がたまに来ることがあります。 60cmは、ゆうに超えるかな? 大きいのを先頭にして泳ぎます。 あとの2匹はその後について泳いでいきます。 二人で食パンを投げやるのですが「絶対に食べない」どころか、他の小魚やブルーギルの食いつきの良さを横目に見てササさっと通り過ぎてしまうのです。かといってその餌に興味が無いことはないのです。 ゆっくりと近づいては来るのですから。 ブルーギルにしても最初に興味を示すのは小さいのから。
それでも最初は一度口に入れて、必ず吐き出します。それが食べられると分かると後は乱喰い状態!(笑) 「菓子パンが、油パンが、ビスケットが、スナック麺が、おいしいから。」 といっても食べませんねぇ。 浮いたものも食べないし沈んだものも食べない。 ただし、小魚は沈んだものでも争って食べます。 雨が水面をたたきだすと全ての魚は影も見えなくなりました。 ちなみに、公園の鯉や、飼い鯉なんかは、そんなに強い警戒心はもちあわせておらず、指しゃぶりまでするそうですよ。 蛇足ながら、その「主」を見かけるのは、ある程度、透明度が良くなくて、ゆっくりとした流れと水量がある時です。 主題から、大きくはずれましたぁ~(!汗!)
話を出雲の大量の銅剣の<予見に戻して!>
『最初の一発目』のトレンチで、それを発見した裏には、その『何か?』がある。素人は、その何か?を知りたい。 今、分かっていることは、「地名に西が付き、その谷奥の陽斜面、その下から雁木(がんぎ・階段のこと)で、10段(~13階段?)上がったところ」。
その「何か?」、とは何だろうか?。 (どうぞ、それを御一緒に考えて頂けませんか?)
その「何か?」がわかれば「吉備」での銅剣探査が、ひじょうに楽になる。
①まず最初に、「神庭・西谷 かんば・さいたに」にまつわる「民話、伝説、伝承」はないか?
②そして、筆者が以前に間違えたように、ものを隠すときは、日陰である仏教山の北斜面の方に、隠すのがふつうと思うが、それを何故、「一発目のトレンチで」、その反対側の、南向き斜面にされたのか?
③南向きの陽斜面にしても、そこが一日中、陽があたるわけではない。
対面にある山が影をして、その影は、季節的差異によっても移動する。 これが「推めれば」、それを埋めた季節までもが特定できるし、「吉備」での探査の参考になる。
④さらに、その斜面下に立って、5~6m上を指さし、『ここを掘りましょう!』としたのは何故か!? この形は、今の神社本殿と拝み殿をつなぐ階段として残っていると謎解きしている。
⑤その上に、何が生えていたのか?竹林か?、裏白か?、それとも雑木か?
勿論、1700年前の植生と現在では異なる。 しかし、私達の祖先は、おどろく程それ等を冒すべからざる所として、ごく近代まで手を入れなかった。それが変わったのは、公益の為だとし、新幹線や高速道を建設しだしたころかなと承知している。
⑥その他「多々」あろうと思いますが、「吉備」での探査が手づまり状態の現在。
ぜひとも、読者諸氏の、
そして、出雲で「一発目のトレンチ」で、量の銅剣を掘り当てた“そのお人の感”を聞きたい。
≪其の2≫ 静岡県旧豊岡村(現在の磐田市)、銅鐸3号の場合
「青銅製品の探査機」で検索しました。 <以下はその概要です>
銅鐸・高さ約80cm(敷地3号銅鐸) 磐田市(旧豊岡村) 『西の谷遺跡』出土!
今から、1800年前(弥生時代後期)の青銅製品です。 明治時代に2個の銅鐸(1号、2号)が出土していることから、山の斜面全体について金属探知器などの物理的探査をしたところ、2000年2月に、この銅鐸を発見した。
場所は、家や墓がない谷奥の斜面に埋納していた。 と写真付きであります。
写真・其の1は、発見場所の山斜面から下方を写したもので、はるか下方に家が写っています。そして、<あたり一帯の立木は?、その調査の為に伐採されたのか?とうかがえます>
写真其の2は、銅鐸のヒレという部分を寝かせて埋めてあり、<その深さは、約60cm?> くらいかなと思えます。
www.maibun shizuoka-c,ed.jp/dotaku.html 以上です。
この記事のなかに、3つ4つ気になる言葉があります。
①つ目は、今回の出土1個に加え、合計3個の銅鐸が出ていること。そのうちの2個は明治時代の出土とあります。 (荒神を2体呼び寄せれば喧嘩になるとの自説から)、銅鐸は1ブロックで1個の使用です。 「1ブロック」としたのは、銅鐸を使う“ご祈祷”は、大行事ですから、各集落が合同でやる場合も考えられます。 雨乞いの場合は、「天の井戸」を相手にするわけですから、銅鐸が出たその場所だけで事を考えてはなりません。渥美半島には、「神戸、片神戸、赤羽根、白羽」の地名伝言があります。 そして、この銅鐸3個?が意味する時の流れは?
②つ目は、「西の谷遺跡」という言葉があります。ここでも「出雲・西谷」、吉備では「経山・西谷」とあるように、『西』というワードが付いています。 (まだ話題にあげていませんが神戸にも西谷があります。) この「西」が意味するのは、『その雨を司る竜神が東から西進して来て、西からその慈雨を持ってくる考えに基づいている』 ことにあります。天気は西から変わってくる。 この「西行き」ということは、後の日本人の西方浄土信仰にも大きく関わっています。
このブログを見て、銅鐸・銅剣ハンターになりたくなった!? “あなた”だけに、そっと耳打ちします。誰にも言ってはいけませんよ!(笑) これは「極秘」ですから!『キーワードは、西』。
ここでは、「卑弥呼が」を付けた大量の銅剣・銅鐸に、しぼっていますが、貴方がお住まいの、『岩の字の付く地』にも、未出土の銅鐸があるかも知れませんね。
③つ目は、「山の斜面全体について、金属探知器などの物理的探査」とあるが、その斜面全体を「じゅうたん爆撃」のように調査されたのか? そして「金属探知器など」とあるが、「など」とは、他のどんな方法なのか? それに山を伐採してもその切株は残るがその処置は? 知りたいことは一杯あります。
④つ目に「谷奥の斜面」とあるが、なぜ「その斜面」としたのか? 谷底でもよいのではないか? そして、谷奥とあるが、一口に谷奥といっても実際に現地をあたると、それらしき所は数多くある。 さらに、この谷の「いわれ」は? 近くに「社・やしろ」等があると思うが、そこは何を祀っておられるのか? いずれにしても、これ等に時間とお金をかけてでも、探査をしようと、『つよく提唱したお人』 がいたはずだ。私は、その『お人の』言葉をぜひに聞きたい。
つぎは、「青銅器の探査機について」 です。
その前に、こんなニュースが過去にありました。
「地中に埋まった水道配管を、直角に折れ曲げた番線二本で見付ける!」
これは、とある水道局の職員が見付けだされた方法で、今では樹脂管が全ての水道管ですが、当時は鉄管(時に鉛管も)が使用されていて、その老朽管の取り替え時に誤って破損することがあり、あらかじめ、その埋設場所がわかれば、それを避けて掘り下げることが出来ることから考えだされたようです。
それが8番線か6番線かは分かりませんが、横50cm~60cm、縦30cm~40cm?で、針金を直角に折り曲げて、それを進行方向・平行にかざし、両手で緩く保持し、地中にその鉄管があると「その番線が開く」というのです。 タ゜ウンジングの原理かな? これは、『地球には磁場・磁気流があり、その中で地中の鉄管と番線の磁気が干渉しあっておきる現象かな?』 と推理しています。ためしに筆者もやってみましたがうまくいきませんでした。 熟練が?いるのでしょう。
このように、その埋蔵物が磁気を帯びる鉄ならかんたんに発見かるのですが、青銅製品ではその磁気がつかえず、他の方法(微弱電流?超音波?)を用いねばならず、その分析方法と機器に多くの費用がかかるというのが10年ほど前の結論でした。
今では、当時より性能のいい機器があるようですが、それでも、その探査にあたっては、「検知被体と検知板との距離」を一定に保たないと正確なデータが得られない。せっかく金属探査機・探知機をここぞと思うところに持ち込んでも、そこに立木があったり、切株や石などの凸凹があったのでは、それがあるのやら無いのやらがわからず(!徒労に終わる!)。 そこが個人所有の民有地ならば伐採・整地の可能性もあるが♪、そこが官地公地では絶望的! いままでの記事で、それ等について、くどいくらいに述べている訳がわかって頂けたら幸いです。
しかしながら、「この広報と、その捜索」を止めるわけにはいかない。
次、<金属探知機のレンタル>で検索しました。
<サンモニターの金属探知機> ㈱サンモニター ℡03-3931-0521
□ハンディ型(ファースト トラッカー) USメイド<品名 トラッカー4>
一日当たりのレンタル料 ¥2,100
大きさ 最長 132cm 重さ 約1,2kg
特 徴 全金属 運動場、砂浜、山道
ターゲット迄の検出例 マンホールのふた(70cmφ)ターゲット迄55cm
□ハンディ型(1212ーX)
一日当たりのレンタル料 ¥2,100
大きさ、ターゲット迄の検出例 ほぼ、同上
特 徴 金属種別の判定具備しない分、取り扱いが簡単です。
□ディスカバリー3300
一日当たりのレンタル料 ¥3,150
大きさ 最長 132cm 重量 約3,2kg
金属種別の判定ありで、 1,8リットルのスチール缶で、60cm前後
100cm100cmメッシュ 90cm前後
検知力だけに絞り込めば、初心者でもOK、
□ハンディ型(Gemini-3)
一日当たりのレンタル料 ¥5,250
大きさ 最長 ・・・ 重量 約3,2kg
深く埋まっている大きいものの検知
ドラム缶で、約4m! このクラスでは最も到達深度が深い。
以上、みつくろって検索しました。(笑) 興味のある方は上記へ問い合わせて下さい。
<青銅器遺物(銅鐸)の調査>で検索してみました。
遺跡名 敷地遺跡
場 所 静岡県磐田郡豊岡村 (現・磐田市)
時 代 弥生時代
調査年月 平成12年1月 (2000年)
調査目的 広範囲の調査値の中から、青銅器遺物(銅鐸)の存否を確認
探査方法 電磁法探査
探知機(写真付き) センサー部:2個の車輪付き 分析部:背負い型
<応用地質株式会社> 東京本社ジオテクニカルセンター歴史環境 担当
Eーmail kikaku @ oyo net.co.jp
Tel 048-652-0651(代) Fax 048-652-4031(代)
「2個の車輪付き」ということは被体とセンサー部の距離を一定に保つということかな? 今までの捜索の経緯から、こんな大きな機械の持ち込みは不能。 草刈り機タイプにしても、立木や草木、木の根っこ、石等があると、“有るか無いかの”正確な検知が出来ないのかも知れない。
<素人探偵が思っているほど、簡単ではない?>
この調査には、“静岡大学考古学”がかんでいるようですが、いずれにしても、大がかりな調査があっての「銅鐸発見」に至ったようです。
以上、「立木の伐採」にしても、「金属探査機」の持ち込みにしても、調べれば調べるだけ、その目的から遠ざかっていくような気がします。
つづきます^^!
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