卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」
此処に出雲と同様、“大量の銅剣”が埋めてある! 全国歴史ファンの方々、三上山に集合せよ。
「吉備の大量の銅剣の探策」 その続きⅢ
 <卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣を捜して!>

 その前に、今迄のいきさつを、今一度整理しておきます。
出雲と、神戸と、滋賀県の野洲町(現・野洲市)で、大量の銅鐸がヒレという部分を寝かせて埋めてあった。 その出雲で大量の銅剣類が出土している。 この大量の銅鐸と大量の銅剣との関係は、『不離不急(ブログいずものこころから借用)の関係』にあり、大量の銅鐸と大量の銅剣は、多少の後先はあるが、セット(一対)として同時に埋められた。
出雲・(  )・神戸・野洲で、大量の銅鐸を寝かせて埋めるという “共通の文化”があれば、神戸や野洲でも、必ず大量の銅剣が埋められていると推理した。
その埋め場所は、出雲の(荒神谷・西谷)に習い、大量の銅鐸の埋め場所から、『西に』約一里離れた谷奥にあり、そこで「1700余年の眠りに就いている」と、結論づけた。

次に「吉備地方」だが、ここには巨大な古墳群があり、出雲、(  )、神戸、野洲に大量の銅鐸が出土するという同一事象があれば、文化伝達の経路やその交流面から吉備地方が(空白地)とは、考えられず、出雲(岩倉)、神戸(いわや)、野洲町(大岩山)のように、大量の銅鐸の出土地は(岩という共通した祖先からの地名伝言)があり、総社市にも(岩屋)という地名伝言があることから、この地にも「大量の銅鐸あり」と謎解きしたのであったが、諸般の事情もあり、今は、その活動を休止している。

一方、「大量の銅剣」のほうであるが、
出雲地方と、吉備地方には、出雲(仏教山・西谷さいたに)、吉備(経山・西谷にしたに)と、酷似した地名があり、その他にも出雲と吉備には数多くの共通した地名や文化があることから『総社・黒尾地区・西谷』の谷奥にも、「卑弥呼が封印させたか、したかは」解らないが、必ず大量の銅剣か埋められているとし、只今それを捜索している。 しかしながら、ピンポイントでそこを指さすのは、素人が思っていたほど楽ではなく悪戦苦闘の真っ最中です。(!汗&笑!)
 
このブログをご覧になった皆さんも、素人探偵の失敗談を参考にされ「神戸や野洲」の、そして「吉備」の、卑弥呼が封印したか、させたかの“大量の銅剣”を掘り上げませんか!?

さて次は、今までの「探査」についてもふり返ってみよう。 自分で書いた記事ながら、時間をおいて読み返してみると、意味不明の部分があったり<あすとろさん御免なさいー笑>、再発見があったりもする。 前記事の末尾に、2つの問題点をあげておいた。

1つは、 一口に「谷奥の南斜面」といっても、 実際に現地を踏むと、わずか数mの「その埋め地」を特定するにしては、 かなりの難儀をともなうほどに広いこと。

2つ目は、「黒尾地区、西谷」から入山し「堂管池」まで、途中2つ?の巾30m級堰堤を夾んだ “未踏破の空白地帯” があるにせよ、その渓流沿いに登って見ると谷は急峻し、登れば上るだけ、かつてハゲ山の時代があったせいかも知れないが、表土がない!。その大量の銅剣を埋めるような表土がない。 そして、【決定的な問題点】は、“堂管池~大量の銅鐸を埋めてあると推理した「岩屋」まで”の距離が、一山越えの【1km】のところ迄に、迫っていたのである。

これでは、出雲であった、ふた山越え、「西約1里」 だという「地名伝言」の意に反する。
 童 歌  <一山こえて~、 ふた山こえて~、 三山のまえで~、 たーぬきさん狸さん、 踊ろじゃないかぁ>   ・・・、熟考 ・・・。

  黒尾地区西谷、から入山!→ 経山→ 新山→ 犬墓山→ (実僧坊山)→ 登龍山!

これ等の「山」は、すべて谷の東側に位置する。 同じような高さの山が谷の西側にもあるのに、それ等に「山名」がふってない。 実際には山名があるのかも知れないが、その重要性が、つまり、生活圏としての重要性がうすいから、山名をふっていないのである。 (尚、実僧坊山は、あとで地図を確認すると抜けていました。)

これ等の山名を分析してみよう。 (以下、地名学に基づかない独自解釈だと断っておきます)
「黒尾」は、何かの尾っぽ。黒とは何か?、この黒は、隕石の冬→天の岩戸→暗闇の黒かな?と、漠然とした考えを持っています。  「経山」は、お経を上げる仏教名。  「新山」は、何かに対して新しいこと。これは、その山が新しいのではなく、何かの生活行為に対して新しいこと。  「犬墓山」の「犬」は、人里離れた境内に人身供儀用の稚児を隔離し、それを取り返しにくる親からの“番犬”で、今では神社の狛犬に変化していると謎解きしました。「墓」は、「塚」より後の考えか?  「実僧坊山」の、僧坊は、僧侶や、坊主さんのことかな?、「実」は、解らない?  「登龍山」は、文字通り「龍が登る」。「龍」は、「竜」に対して新しい言葉で、中国からの影響が考えられる。 

これ等の「山名」から受ける感じは、仏経がらみの名付けがされている。 かといって、それが“仏教の移入”以後に付けられた山名だとしても、それ以前の永々と続いてきた”雨乞いの歴史”を否定できるものではなく、 そこには、『仏教と雨乞い文化の混合』 という変遷があっての名付けだと解釈しています。

「黒尾。登龍山」 ・・・、 「黒尾 → 登龍山」! そうだぁっ! 黒尾~登龍山までの一連の山の連なりを「龍」に見たてている。 以前にも「登龍山」を、何故「竜王山」と名付けないのかと不思議に思ったことがあった。 滋賀県の近江八幡に「竜王」の地名がある。これ等の源流をたどれば「雨乞い山」や「御在所山・・・(スミマセン汗!、この部分確認とります)」 があった。 そして、その火口は「お釜」と呼ばれ神聖視されている。 “竜の口先にお釜がある” この考えは、「茶臼山の考え」にも通じることから、吉備の「登龍山」の口先にも、それらしき「池名」がないか? と捜したことがあったが、それらしき地名が見あたらなかったので、謎解きは中断していた。

だが今回は、それとは異なるが、その「龍に、尾っぽ」があった。 尾っぽで思いだすのは、スサノウの尊だったかな。「八岐大蛇・やまたのおろち」を退治したら、その尾から「剣・つるぎ」がでてきた。 その剣が三種の神器のうちの「雨の叢雲(むらくも)の剣」で、のちに「草薙(くさなぎ)の剣」と呼ばれている。 ふつう腹の中から出るとはいうが、尾から出るとは言わない。これは、ヒントになる!!。 
「一山こえて、ふた山こえて、三山の前で、・・・!」 岩屋から、一山・二山越えた三山目が、『経山』となる。

 (2008 5 03 土曜日に!)
④ 総社市(経山・西谷)の、「大量の銅剣探策」にいって参りました。

(AM 10:30分 ) 「西谷」入口の駐車場に到着。
かなり遅い到着である。 この日の気温は、26℃で快晴だが気が重い。 前回の遭難しかけた(笑)記憶をひきずっている。 ブログを始めて約1年、つい1週間前まで1日のmyブログへのアクセスが3~4人!  ところが前日5月2日の<訪問者数32人!> 連休中は増えるとは聞いていたが、私にとっては嬉しいのをとおり越して、とまどいを覚える人数! この32人に背中を押されて来るには来たが身体が重い。 確たる決心がないままに来た。 ①30m級堰堤間の“未踏破部”か!? ②それとも、“経山の、尾っぽの谷間”!? のどちらへ行こか?

決心が付かないまま、辺りをうろうろ。 経山に夾まれた、その谷の入り口は? 分からない。 谷の反対側にゴルフの練習場がある。そこから経山の谷を見ればその入口が分かるかも?。薫風かおる五月の候というが、その若葉が見通しをさえぎり、かえって見づらい。 立て看板には、『樹木の伐採、草木の採取、土石の掘削等は県知事の許可がいる』 と書いてある。 草木が生い茂る①の堰堤方面はよして、さらに、②の未踏の経山谷間もよして(ズルッ!笑)、初回に行きかけた経山方面(往復?7、2kmの遊歩道)へ行くか!! 「高い所から眺めればいい」 なにも急ぐ必要はない。このように書くと、よほどの深山か?と思われるお人があるかも知れないが、そうではなくて、祖先は人里離れた深山というより『人里に、“ほどよく離れた所” をその場所に選んだ』。と申し添えておきます。


AM 11:30分丁度、「経山城・遊歩道コースへ向けて」駐車場を出発!
ここで、約1時間もぐずぐずしていた。 今日は連休の初日で「鬼の城」方面は、大勢の人でにぎわうのであろう。 トランシーバーを持ったガードマンがでていた。 しかし、この駐車場には「ランクル」が1台停めてあるきりでまわりに人影はない。 前回に来たところではあるがトカゲがチョロついてもびくつく。(苦笑)、 重い足どりを運びながらも、11:50分に鉄塔の所へ着いた。 ここには、立て看板に眺望(B)とふってある眺めの良いところだ。

と!、熊ん蜂のお出迎え!。 10匹ほどが低空で飛んでいる。 黒い体に黄色い胸、体長は2cmほどある。かなり大型の蜂だ。 鼻先近くまで威嚇するように近づいてくる。 刺さないとは分かっていても、その羽音は気持ちのいいものではない。 こんな時は姿勢を低くして動かないほうがいいと聞いている。 でも、虫の頂点にいるスズメ蜂や(カブトムシ?)、アシナガバチは、その巣のそばを通っただけでも襲ってくることがあるから注意して下さいよ! 特に黒色の着衣は危険! 目や頭部の黒もねらってくる。 威嚇もしてくる。 黄色と黒の縞模様は最強の色だ。 どうやら、一時のパニックは過ぎたようだ。
  座り込んでお茶を飲んだ。 ついでに食事でもとるか。
観ると、互いに2mほどのテリトリーを持っていて、近づくものは、ちっちゃな虫でもアゲハチョウでも追いかけまわす。 あとで調べると、 <ホバリング>といって、近づくメスを待っているそうで、近づくもの全てを(鳥でも)追跡し、メスか否かを確認する習性があるそうです。 わたしもメスかどうかを確認されたのかな?(笑)

12:25分 食事終了
熊ん蜂さんの飛行を見ながら、ウグイスの声を聞きながらの食事を終えると、なにやら元気がでてきた。 ウグイスもこの頃になると、「ほ~ほけきょ、ケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョッ!」と、谷渡りも冴えてきた。 経山城の頂上へ登ってその下の谷を眺めても、一度は谷底を踏破しなければならない。それも二度手間だ。 空元気かも知れないが、ここから直接に谷底へ降りてやれ! その斜度はゆうに75°を超す。 立木がいっぱい生えているからジグザグに下りれば降りられないことはない。 まさかの時の目印にシダ草の3枚を手折り谷に向けて置き、数mを下りた。・・・、でもなあ~、近時のニュースで「60才をこえる男女2人が、雪渓200~300mを滑落死」、それとこれは比べるべくもないが用心にこしたことはない。 止めたァ~!!

経山城址をめざして、「遊歩道を」、出~発ぁつ!
左は山手、右は急峻した谷。 前回は、その中腹の遊歩道を途中で引き返した。 谷を夾んで対面に経山(000m)が見える。 キツツキは、「コ、コ、コ、コ、コォッ!」 谷底には藤の花も咲いている。 眺めはいい。 だが前回(0月0日)より明らかに異なることがある。 前回の落葉樹も今回は、その緑をすべてつけているが・・・!?、 谷川ぞいの路肩のいたるところが、見るも無惨に崩れている。 猪が掘り返したのである。 ミミズか虫でも探したのであろうか? もはや修復困難でチョンと跳んで渡らねばならない所がある。 前回はこのようなことはなかった。 

12:50分
牛の背状の所に着いた。
指標があり、右の尾根状を登っていくと「経山城」へ。 直進の坂道を下ると「鬼の城・ウォーキングセンター」方面へとある。 ・・・ん? 坂の下から車の音がする。 車道が近い! 次回に来る時の為にその下へ降りてみよう。 そこへは5分ほどで下りられた。車道の上方をみると「新山地区の」民家がみえ、ガードマンが立っている。 トランシーバーを持っているのは、道路の幅員が狭く、車のすれ違いができなくて渋滞するのを防ぐためだ。
この道路脇に「二十二番の石仏」が御座った。

指標までの登りには、10分ほどかかり、13時12分>登りはじめ。
この時間を付しているのは、 ①私も、そこへ行って見ようかと?(笑)思われた御仁の参考の為にと、 ②素人探偵の足跡を後々に残しておく為です。 そして、「総社、神戸、野洲」をとわず出来るだけ多くの人が参加して欲しいと願っている為です。

 さて、「経山城址」へ上がっていくか!
山の北側から尾根づたいに遊歩道が整備されている。 右は、経山の北側の谷。左手の谷の向こうの山頂に「鬼の城」の楼閣が見える。 斜度は45°ぐらいだったかな。 たいしてきついとは思わない。 潅木の道をほどなく行くと、山頂の城址に着く。 40cm~80cm大の石、15・6個が黒・黄のトラロープに囲われ立ち入り禁止とある。 「経山城は、守護大名の大内氏が天文年間に築いたといわれる山城です。・・云々」の立て看板がある。 それと云われなければ見過ごしてしまう。 
山頂は、多少の起伏はあるがほぼ平らで長楕円方向の長さが200m?ほどかな。 まばらではあるが桧の植林がしてある。 桧は神代の時代に大陸からもたらされた?と、何かで見たような気がする。 その根方は、例によって猪がやりたい放題に掘り返している。 「鬼の城」のにぎわいをよそに、こちらでは人っ子一人出会わない。 国土地理院の三角点があり高さ433m。 眺望よく、北東に「鬼の城」 南東に岡山方面、南西に総社市街が一望できる。 その向こうに高梁川も見える。 霞がかかっていなければ瀬戸の海が望める位置にある。 韓国機が岡山空港へ着陸体勢にはいっている。 その昔には「何が」その大陸から移入されたのであろうか。

 だが、肝心の「北側の谷」は、まったく望めない。 潅木の緑が邪魔をしてまったく見えない! 期待外れであった。 長居は無用。下りよう。 14:00分丁度。
坂道なかほどであろうか? 道の右手に1m大小の石が5つ6つ。・下りかけたが引き返した。 どうも気になる。尾根上の自然石としては形状が? 人為的に並べたような気がする。 尾根に沿ってほぼ一列。 別紙「報告書」の鬼の城の謎解きで、古代人が石を築く時、その方向性をとても重視しているとしたことがある。 案の定! その石をまたいでみると谷側に、さほど大きいとは言えないが、平らな部分を上にして10個あまりが築かれていた。 なんの為にかは解らないが、その方向は「鬼の城」を見ているよう気がする。

14;20分 「牛の背状」の指標の所へ下りた。
下りに20分ほどかかっている。 先ほどは、ここから車道の方へ真下におりたが、山の中腹沿いにある古道のほうがしっかりしている。新山地区のご老人は、今の車道は新しく出来た道であり、旧道は「こちらだ」といって田んぼの脇の道を指さしてござった。
このような古道は注意が必要だ。 熊野古道しかり、屋島山道も。 そういえば出雲でも「銅鐸の加茂岩倉~銅剣の荒神谷」までの”隠れ山道?”があったと聞いている。 「いってみよう!」と行きかけたが枯れ木がたおれ、その道をふさいでいる。 すぐ断念する! 「もう冒険はイヤだ。こり懲りだぁ!」 (笑)

<失意のうちに>!?
ああ、今回は、何の収穫もないままに。 次回への何の見通しもないままに帰らねばならない。 意気消沈・・、 「三山の前で、た~ぬきさん狸さん!踊ろじゃないかぁ」は、素人探偵の思い過ごしであったか。 それでも、次回訪問の手がかりだけは付けておきたい。 「ここが源流かぁ~?、次回は此処から下ってみるかぁ、」

 ん? 「源流?、牛の背?」、→ ここは、<その谷奥ではないのか!?>
(尚、牛の背とは、この谷間の“峠状の所”であり、経山城址へ行く指標がたっている所であり、そこへ筆者がかってにつけた「場所名」です)

この「指標」からわずか西へ下ったところに、流れをまたぐ巾1、5m、長さ2mほどの木製橋がある。何やら「気になる。妙に気になる」 ここだけの20mほどが?、完全にとは言いずらいが、「木が生えていなくて <空が見える空間> のような気がする。 言い換えて「陽光が差し込む場所?」 このような、「たたづまい」は、今日の神社・仏閣で、よく見かける。 鬱蒼(うっそう)とした木立に囲まれた神社の一角だけに陽光が差し込む!! 勿論1700年前と今では、その植生は異なるが、  ・・・、怪しい??

参考までに、『この、牛の背・経山城址登り口指標』へ来るまでの方法を記しておきます。
①黒尾地区から、西谷へと入り「数台の駐車場」へ車を停めて、経山遊歩道(往復?7、2km)を来る。 片道・参考所用時間○○時間○○分
②「鬼の城・駐車場70数台」へ車を停めて「新山地区の鬼の釜」を眺めて、そこから100m?ほど下り<二十二番の石仏様>経山登り口から、10分も上ればそこへ着く。
③岩屋~実僧坊山~犬墓山~新山~(隠れ山道)→「牛の背」 コース!
岩屋から新山(鬼の城ビジターセンター)までは遊歩道(片道所要時間○○時間)が整備されています。から、ビジターセンターを上がった所から「牛の背」までが隠れ山道となります。 

 ・・・? 何っ! 「隠れ山道?」
筆者は、前々から、このビジターセンターから岩屋へ行く車道の途中で、山側の側面に「雁木・階段状」の “石が二つ三つ突き出している” が気になっていた。 これは、その云う旧道・隠れ山道ではないのか? 今後の調査がまたれます。
以上の③とおりがありますが、おすすめとしては②かな? 一番楽だから(笑)  
だけど、<それでは「祖先の意」と> 銅鐸を埋めた(?)岩屋~大量の銅剣を封印してある(?)経山・西谷までの難儀は、あなたに伝わらないと思いますよ。

銅剣を銅鐸から離して埋めたのは、荒神さまでも簡単に取りに行けない場所と定め。 ひょっとして、銅鐸へ乗り移るかも知れない荒神さまからでも、山に隠れて見えない場所として、そこを選んであるのですから。 (笑)

しかし、この「牛の背」を、その大量の銅剣の埋め地と決めるには、疑問もある!
<第1に> 此処がその「谷奥」といえるかどうか?
谷奥という言葉からうける感じは、U字形の谷間の突きあたりとか、V字形谷間の突きあたりをイメージする。 だが実際にこの「西谷」を訪ねると、そのような地形がいくつもある。「西谷」の谷奥は1つだろうとたかをくくっていた筆者には大誤算であった。 そのうちのどれかが特定できない。そして、谷奥といっても登れば上るだけ山頂に近くなり、その地形は、山に囲まれた谷奥のイメージから遠ざかるばかりである。 そして、この「牛の背」は、山に夾まれた峠状の所であり、いわばH型の地形であり、その向こうには、荒神を呼び寄せる場だとした鬼の城がすぐ近くに見え、その荒神から「見えにくい場所へ隠す」という本来の意味が薄れてしまう。

<第2に> メイン道路の車道から近い。
車道ということは、総社市街から鬼の城までのメイン道路ということであり、「そこに隠すとか、足を踏み入れ難い場所」とするには無理が生じてくる。勿論、車道は現在に整備された道路ではあるが、旧道の谷間を上っていく道に大体は沿って造ってある。この車道脇に何番・何番の石仏が並んで御座る。 この石仏22番から徒歩で10分も上ればそこへ着く。

<第3に> その「封印儀式」をする広場がない??  (※5/25現在・未調査です)
この広場の“ひろさ”については、素人探偵がつよくこだわっている項目ですから、myブログの「吉備」にも卑弥呼の大量の銅剣と銅鐸が埋めてある!で、予測した式を転載します。

卑弥呼の銅鏡100枚=出雲の銅鐸39個+野洲の銅鐸24個+神戸の銅鐸14個+吉備の予測銅鐸数(23個)
出雲の銅鐸数39:出雲の銅剣数358本=吉備の予測銅鐸数23:吉備の予測銅剣数(×個)
                                吉備の予測銅剣数 ×個=207本


この封印の儀式は、荒神をのり移す媒体だとした銅鐸のほうが主で、稚児を殺めたとした銅剣の封印儀式のほうが後で、決して先にはならない。 卑弥呼が封印したかさせたかは別として、各地・各部族の「太夫(たゆう)さん」が自分たちの使用していた銅鐸をもちよって、<合同で>封印儀式をおこなうわけだから、当然、銅鐸の個数ぶんだけの人数は集まる。 人任せにして「それじゃぁ~頼みますらぁ」というわけにはいかない。(笑) さらに、この儀式に卑弥呼が?加われば、最低でも二人の弟子がつく。 さらにさらに、各地から集まる太夫さんが一人で「畏れ多い」銅鐸を持ち運ぶとは考えられないから、当然「副」がつく。 このように考えると、その人数はだんだんと脹れあがる。

この人数が、『立つか座るか』の場所がいる。
少し、話が飛ぶかも知れないが、日本での「序列」についての考えかたに立ち入ってみよう。 魏志倭人伝に「人々、序列をもって座らず」というのがある。 階級社会が発達した中国と異なり、日本では「悪しきことや、慈雨や恵みを司る」のは、全て「荒神様」のお力によるとの考えが根付いていた。 序列の考えに変わってきたのは卑弥呼以後かな? 私達が外国のみやげ話しをするときにも奇異に映ったことのみを語り、あたりまえと思うことは話さないのである。 序列社会の考え方は、中国からのものである。 あなたのお家の「床間→上座→中の間→下の間→土間」は、この考えに基づいてそれぞれに「段差」がついている。歩きにくいのにねえ。

日本での「序列の考え方」は、それぞれに立場のちがいはあっても「神の下においては、皆平等」との考え方がつよい。 これは、『同一行動は、同じ高さのフロアーで』に通じる。魏志倭人伝に「序列をもって座らず」とあるのは、中国人の目でみて、それが奇異に映ったから記したのである。 それまでの日本人の序列についての考え方は「前後はあっても高低はなかった」と素人探偵はみている。

 少し、余談になりますが、 < その時刻は?> 
東北に因を発した「大津波」にのって、未明に竜神はやってくる。(別紙・報告書で)これに準じて儀式はとりおこなわれる。
 <未明の時刻からはじまり、その陰を封じる力を持つ太陽神がいずる時>
   言い換えて「陰と陽の境目」がこの儀式のクライマックスだ!
この答えを導いた種明かしをしましょう。
 どこだか思い出せませんが、松明(たいまつ)片手に、闇夜の行進!ってのがありました。 このように、今私達が行っている諸行から、謎解きをこころみれば、その時間までもが判明してくる。 それに、あなたが、専門家が、“気付いて欲しい”と、今は願うばかりです。

 さて、それた話を、もとに戻しましょう。
< 吉備の銅鐸の予測埋め数を23にしました。>
銅鐸“1つ”につき、お太夫さんと副の2人。それに「卑弥呼関係」の人数が下でも3人。 この総計49人が、多少の斜度はあったとしても、その斜面の下で「立って拝む」広さがなくてはならない。「座って?」という考えもあるが。屋内ならともかく野外となると、少しイヤだな(笑) 「立って」の次にくるのは「踊る」が考えられる。 これに関連しては、神楽、奉納相撲で四股を踏む、盆踊り、踊る宗教、それに、六方を踏む歌舞伎等も、この流れからきていると推察している。 この「踊る」と弥生期の「呪術」を結びつける考え方が、今の考古学にあるようです。

  【最小人数に見積もって、その49人が立って封印の儀式ができる平地(なるち)】

果たして、経山北側の「牛の背」の辺りに、そのナル地はあるのか? 引き返してみた。 だが緑が生い茂り見とおしが悪いうえに潅木が邪魔をする。 おまけに谷間の源流部であり湿気ていて足下が悪い。 止めたァ~、次回にしよう。(笑)
このような湿地には、カエルをねらった蛇がいる。鬼の城の遊歩道では、湿地のいたるところに「まむし注意」の札がたれていた。用心にこしたことはない。 帰ろう。 しばらく山の中腹についている遊歩道を進む。例の猪が掘り返した道だ。 ん? これは新しいぞ! 来しなにはなかった! まだ黒く湿気ている。 右は急斜面。左は急峻した谷。猪突猛進というが逃げ場がない。脇目もふらず一気に鉄塔まで! その足どりの速かったこと。(笑) そこからも、ひたすらに黙々と山を下る。

15時10分 「経山への指標」 着。
 もう安心だァ。 此処よりしばらく下ると、2・3の踏み石でまたぐ清流がある。 そこで顔を洗ったときの気持ちよかったこと。 ここからは、トロトロと、と!? 道になにやら、ひも状のものが半分? 杖でチョンチョン! 「・蛇だぁ!」 退散してくれた。 “銭形紋・三角頭”を特徴とするマムシだが、幼体はアオダイショウに似ていると云うから、最後まで、皆さんもご注意を!!
15時25分 < 駐車場へ帰着!!>
  で!? 朝から停まっている 「ランド・クルーザー」の主は、いったい何処へ?
                                            (この項、完了^^)
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 次の記事(ページ)は、BC.2001年の “巨大地震によって変形した山々”です。
記事のすべては関連モノですが、記事数も多くなって参りましたので、カテゴリー別に御覧になると読みやすいかも知れません。(^-^!)



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