卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」
此処に出雲と同様、“大量の銅剣”が埋めてある! 全国歴史ファンの方々、三上山に集合せよ。
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BC.2001年12月25日の 「巨大津波の痕跡」 その1, & 2,
「 巨大津波の痕跡 」
 表題での記事を (例によってナメクジに錨で?笑) UPしていきますので、 どうぞ 御一緒に考えながら楽しんで頂ければ幸いです。 (尚、記事数も多くなってきましたので(カテゴリー別に)御覧になると読みやすいかも知れません)

 (前文)
このところ 「卑弥呼の埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」を放っぽらかして、「東北地方へ光臨した巨大隕石」についての記事を載せていますが、この巨大隕石=荒神がもたらした慈雨と<その津波が>打ちあげた大量の海の恵みと、生け贄との交換思想が、人身供犠用に稚児(火神子)を隔離し、育てる文化へと発展し、それを止めさせ銅鏡文化へと変革しようとしたのが卑弥呼ですから、今しばらくお付きあい下さい。  ( この記事から御覧になりはじめたお方は、お先に卑弥呼の記事<カテゴリー、この指 と~まれ>の方から、どうぞ・・・・、笑い )




 < 岩手県 閉伊郡 田野畑村の(弧状)列石遺構 >
      Yahoo! 検索 → 田野畑村列石遺構 で検索すると以下を表示します。
            *縄文遺跡
            *列石遺構 80メートルを確認
            *岩手県指定遺跡 館石野1遺跡
 以上を、検索しその概略を転載する予定ですので、お急ぎの方は、お先にどうぞ♪ そして、これ等の遺跡が <なぜに築かれたのか?> その動機等を含めて、思いをいたされるのもよかろうかと思います。

* 縄文遺跡      (遮光器土偶と列石遺構の写真付きです)
村内にはいくつもの遺跡が確認されていて、縄文時代の土器や石器などがたくさん出土しています。 中にはほぼ完全な形で出土した遮光器土偶や人面付石製品など珍しい遺物も発見されています。 村内の舘石野には、早稲田大学の発掘調査により研究が進められている列石遺構があり、また多くの竪穴式住居も併せて発掘されています。 まだ全貌は明らかではありませんが、全国でも最大級の遺構であると考えられています。
環状列石(ストンサークル)とは異なった直線状の列石で、非常に特異な列石であると注目を集めています。 これら配石の目的は、死者の埋葬、祭事や信仰の場であるとされていますが住居跡が近いこともあり、まだまだ解明はこれからです。

* 「 列石遺構 80mを確認 」    広報たのはた 2000年11月号より
  館石野1遺跡で 現地説明会 ( 2000年 10/21 )  
今回の調査では過去に早稲田大学が行った調査(昭和62年~平成5年)で発見されていた列石遺構 (列状に石を並べた遺構) の1つが、東西に約80メートル延長していることが分かりました。 また、お墓と思われる組石遺構 (大きな石を組んだ遺構) や、多くの石器、土器が出土しました。
 村では今後も、発掘調査や、出土遺物の研究などをおこなって、遺跡の全容を調査していくことにしています。


* 岩手県指定遺跡 館石野遺跡


               ~ 平成12・13年の調査を中心に ~
       田野畑村教育委員会                安 達 専 伸

  http://www.geocities.jp/mshomei/pareo/28kai-shiryou/tateisino.htm
(註; 氏の、報告書は専門的で丁寧に書かれていますので、以下素人的に解釈したり、おおきく略したりしている部分がありますので、詳しくはそちらへどうぞ♪)
1. 遺跡の位置と立地
岩手県下閉伊郡田野畑村島越に所在し、三陸鉄道北リアス線、島越駅の南東約1、6km、 (南西約1、6kmの間違いでは?)海岸から直線距離で約2kmの海岸段丘上にある。
           近くに切手遺跡(切牛の間違いか?) 切牛Ⅱ遺跡、真木沢Ⅰ遺跡等がある。
           浜岩泉Ⅱ遺跡からは遮光器土偶が出土している。

2.調査の概要(早大調査)
第1号列石遺構; 現在の等高線(175m)沿いにあり約60m(80mの間違いか?)を確認。
第2号列石遺構; 1号列石の南側にほぼ平行で位置する。
           その構築時に部分的に地面を削平を行っているようにみえる。
           2号列石の南側の被覆土中に相当量の遺物が捨て場に近い様相であった。
第3号列石遺構; 1号2号列石と同様な構造であり、これも削平を伴っている部分があるらし い。
○ 第1号列石の北側は平面
○ 第2号列石と第3号列石のあいだに竪穴住居跡あり
○ これらの列石遺構をおおっているローム層を再確認。 これらのローム層は第1号列石遺構を埋めるように帯状に分布している。
○ 遺物。 遺物は縄文後期前葉を主体として、さかのぼり縄文前期後葉からを出土している。

3.今後の展望
2カ年の調査で、第1~3号の各列石遺構とも、早大調査での予想に近い状況を把握することができたが、それぞれの関係や各列石遺構の詳細な時期については明確にすることができなかった。第1号列石は、さらに延びる可能性が高くその延長を確認する必要がある。また、列石遺構の時期についても明確な答は出ていない。各列石遺構とも、複数時期にまたがって構築された可能性もあるが、現状では、列石遺構を被覆している土層から完形に近い土器 (十勝内式)が複数出土している。その時期より降りる可能性はほぼないものと考えられる。今後は、さらに遺構の切り合い完形等から、時期を絞り込んでいく必要があるものと考えている。
   < 調査図面が掲載されています。>

以上が、田野畑村教育委員会 安達専伸氏がネットで掲載されている報告書の概略です。


さて、この列石遺構が何んで<津波の痕跡>を記したものか思いをいたすことにしまょう。
                              (キーワードに下線を引いてみました)

<田野畑村・島越(しまのこし)の所在>
田野畑村・島越は、宮古市と久慈市のほぼ中間で、太平洋岸沿にある細長い海岸段丘に位置する。 海岸段丘とは、海に面した山裾沿いに付属する細長い丘部の海側が、切り立った断崖状になっているものを云うらしい。 分かりやすくいえば「陸にくっついた海岸棚地」(筆者がかってに命名)かな? その成因については、通常の風雨作用では出来ないことから、地質年代での海面の上下による浸食と、その陸地の隆起をあげているようだが、素人的には、いまいち判然としない。 なぜなら、ここ田野畑村の<鵜の巣断崖>は200mの絶壁をなす。 難しいことは棚に上げて(笑)

この「海岸棚地」を刻み太平洋に流れ出ている幾筋もの沢がすごい。 沢と名付けられてはいるが、その巾3kmほど棚地に食い入る流れの深さは100mを越し「地の割れ目・クレーター」と形容するほうがふさわしい。 ここ島越(しまのこし)の北側の<松前沢>にかかる思惟大橋(昭和59年)は谷底から120mの高さ。 そこから約3km南側で、国道45号線にかかる車道専用の思案坂大橋(平成17年完成)の高さも120m。 傍らにある槙木沢橋(昭和40年)でも谷底からの高さは105mである。

南北を大きな沢に阻まれ、陸の孤島ともいえる<約3キロ平方>の中に、すこし小ぶりではあるが同様な沢が2筋刻まれている。 その一筋の先は、ふたつに枝分かれして一方は<島の沢>他方は<シライケ沢>と名付けられている。 そのふたつの沢に夾まれ東西に長い丘状地の南東側に、本題の<田野畑村・島越の列石遺構>があった。 (国土地理院・電子版)

ここに入るには「辞職峠」と名付けられた峠があって、その昔、やっとの思いで峠越えしたその先に!、高さ120m、巾300m?のクレーター! 「もう駄目だぁ~」といって辞職届けを出した(ガッコの先セ)があったことから付けられたそうですよ。(笑) でも一度そこへ足を踏み入れれば別天地。 太洋をながめる景色は絶景。 海抜約190m~150mの丘状をなし、今では牧草地になっているもよう。 三陸リアス線・島越駅の海岸に降りれば、アワビ、ツブ貝、海草等の海の幸が得られたそうで、その魅力に取りつかれた方が、「田野畑思い出のトポス(場所)」に、それをネットに載せていますから、ぜひ御覧になって下さい。(^-^)

とはいっても、縄文代のこの地は、人が簡単に足を踏み入れられる場所ではない。 例え入ったとしても、わずか3キロ平方の閉鎖された広さでは、年間を通して食料が得られるとは思えず居住区として成立しない。 なのに縄文代の遺構、遺跡がある!? 生活圏で無いところに遺跡がある? そうだ。ここ田野畑村の<島越・しまのこし>は、なにかの “聖地として供用” していたのだ。

 <第1号列石遺構; 現在の等高線(175m)上に設えている>
その長さ80mを確認。 これ等は「死者の埋葬、祭事や信仰の場所」であると考えられている。何を思って縄文の祖先は、この列石遺構を築いたのであろうか。今までの列島の歴史で、それ等をまとめるという発想はあっても、石を長く並べて墓にした例を筆者は知らない。 その写真では細長い石は立てて。 それをつなぐように集めた石を並べている。 石には表情があり表と裏がある。それを海側から眺めて築いたのか陸側から眺めて築いたのかも問題だ。 次に問題となるのは、<その位置と、175mの等高線沿い>にあるということ。 私達が愛する人を葬るとき少しでも高い山の中腹以上を望む。 緩斜面とはいえ「ここから下は低くなりますよ」の、いわば生活圏から下には葬りたくない。 その組石の部分が墓ならばその場所に特別な意味がある。それがその時の被災者の埋葬地でなければいいのだが・・・、

この第1号列石遺構の下方で、それに沿うように第2、第3列石遺構が設えてある。 さらに注目したいのは、これ等の<施設地面に削平部>があることだ。 これ等を津波際の痕跡だとすると、「 高い部分は途切れるので除きたい!」 第2列、第3列は、津波の第2波!、第3波だ!等高線175mは<津波第1波の津波際>を印している。 等高線175mの高さは、この海岸段丘の半分以上?を浸す。 生存した人達の心境はいかに・・? 「 天が怒り、地が怒り、海が怒った!」 海の怒りは怒濤の津波となって押し寄せた。天の怒りは雷鳴と滝の雨となった。 地の怒りは大地を打ち振るわせ火山を誘発しその粉塵は太陽光をさえぎる。 津波はすぐに退くが波打ち際にその痕跡を残す。海の恵みをうち上げて♪ ・・ 巨大隕石は、荒神となって人々の心の中にも降臨した! その津波際を遺したいと思うのは当然の成りゆきだ。
     <津波痕へ杭を打ち 縄を張る>この形が、今に残る列石の姿だ。

 <その時を、想像を含めて再現してみよう>
時はBC2001年12月25日の朝6時頃。 この地の人達がどこに居をかまえていたかを筆者は知らない。 この大事変前の気温を貝塚等の所在から、当時の海水位は今より5~6m上で、平均気温は今より15~16℃をプラスとみていますからさほど寒くはない。 外は未だ暗いまどろみの中でその大事変はおこった。 と!外に真昼の閃光が走った! 直後に身を震わし痛みともしびれともつかぬような衝撃波と轟音! なにが起きたのかが分からない。 早起きで南の空を直視した人は目をやられた。 轟音は耳をつんざき聞こえなくなった人もいた。 恐ろしさで耳をふさぎ目をとじた。  が、地は揺すられ体は大きく飛び跳ねた。 息をつく間もなく175mの巨大津波が押しよせた。 わたしは、これ以上 恐ろしくて想像することすら出来ない。
 信じられないことではあるが、この大事変においても生き残る人がいた。・・


<浜岩泉遺跡から遮光器土偶>が出土している。 この土偶は完成度がたかく当時の衣服や技量では考えられないとして「宇宙人の飛来だ」と、藤子不二夫先生は、ドラえもんのなかで云っておられました。(笑)

この隔絶した地を「決して常人が冒してはならない聖地と定め」、なにかの困り事があった時、大洋を望む<切牛遺跡>で牛を生け贄としてその海に捧げた? メッセンジャー;素人は、祖先からの伝言として 「浜岩泉の浜は、かの地が浜になったと! そして、島越の島は、列石遺構を遺している両脇の沢に海水が入り込み島状になったと」受け取っています。 でないと、海抜180mで平地に近いこの場所に「浜や島の地名」をつけた発想が思いうかばない。 今に残る<鵜飼い漁を神事>とするのは、巨大津波がかの地を「鵜呑み」にした。とも受け取っています。 蛇足ながら長良川の鵜(う)は、ここの断崖で捕まえたものを使っていると聞きましたよ。
筆者は、今現存する <かの地の神社の祭事や> 死者の弔いかたを知りたいとも思う。

 <第2号列石と第3号列石のあいだの竪穴住居について>
 <第2号列石の南側の被覆土中に相当量の遺物が捨て場に近い様相であった>

(註;この遺物と年代等の区分けは専門的用語でなされているので、単に縄文代としています)

竪穴式住居や相当量の遺物についてと、その歴史経過の知識は皆無といっていいほどの歴史音痴ですから、その解明は専門家や興味のあるお方に委ねたい。 さらに、この囲われた地のなかに<浜岩泉><大芦><切牛>の地名があり、それぞれに、お宮さんは御座るのだが、お寺さんは無い。 なぜなの? そのいわれを知りたい。
そして、この論には多くのまちがいを含んでいるとは承知しています。 それを正して欲しい。 しかし、「東北の地の巨大隕石」だけは、いかに無知未解の部分があろうとも、それを謙ることが出来ない。 なぜなら、私には “地名伝言” という祖先からの強力なバックアップがあるからです。できれば。生きているお人の方がいいのですが?(汗~)

( 少年心(こどもごころ)が疑問に思うこと?)
竪穴式住居について、この「竪穴式」がつくと必ずその後に「住居」がつきます。はたして、そのすべてが住居跡なのであろうか? まず第一に掘るのが大変(笑)。そして雨季には穴の側面から水がしみ入らないか? これを防ぐには穴の周りの土を突き固めなければならず、それも大変。 さらに、屋根には出入り口を付けねばならず、大雨の時は、その入り口からの吹き込みや流れ込みはないのか? 冬は暖かくて夏は涼しいと云うが、大事変前の当時の気温は今より15~16℃プラス(前述)その必要があるのか? それとも蚊やネズミの対策? どんぐり等は穴で貯蔵したと云うから食物が腐りにくい? 分からない。々・・・! どなたか教えて!(笑) そして、この地は一度掘り返すと水の浸透力が増すと思っていますが? !(^-^)!

いやいや、一番大切なことが抜けていた。 以前キャンプで三角テントを張りました。 端々は、物も置きにくいし、立つことが出来ない。 掘り下げておけば、この難点は解消する。そして立ち壁をつけるとなると安定が悪く建築材料も多くいる。三角屋根だけなら材料が少なくていい。 飲み水はこの内に湧き水があったというからOK。 やはり、「 住居跡か?」 だとしても、3km四方ではなぁ~・・・。 インフラ整備がととのった今日とはちがって多くの人は住めないと思うが?。 ・・・墓守さんとか太夫さんが住んでいた線も考えられるぞ。 それを通常の住居跡だとすると<列石遺構・津波痕>の論は、多少は弱まるが消えてしまうものではない。 いずれにしても、この住居跡から <生活必要時間> をわりだせばおおよその、ここに住める員数はでてくる。 田野畑村で、これ等の?研究をされた外国の人がおられたとか?  言い添えておきますが、田野畑村の本拠地の村役場は、この外にあります。


< 中学生諸君に!> 今では、外界と隔離された金魚鉢。 アリゾナ州?だったかな。隔離されたガラス家屋に何日間住める? 宇宙船ではウンチ・シッコもリサイクル(笑)

 < 第1号 列石遺構を帯状に覆っている ローム層について>
ローム層とは、火山灰質粘性土の総称。 火山による噴煙が降灰して高台の丘陵地や台地に堆積した赤褐色を呈する地。とある。田野畑の西方約75kmに「岩手山・火山2039m」があるから、これの降灰か? 第1号列石遺構より北側は平地。そこから下はなだらかな斜面。・・・、平地と斜面の境目に1号列石は築かれている? ・・・、わからない! その時間的経過が解らない。 1号列石を覆うように帯状にある。 自然降灰か? それとも人為的に列石を覆ったのか? 自然降灰と人為的とでは、その意味が変わってくる。「帯状に」とあるから人為的なのであろうか? 人為的だとしても何故に覆ったのか? その意味が思い浮かばない。 自然降灰ならば全地域が覆われるはずだか?、 ・・・???、

火山ガラスについて; (火山性ガラス質工業会より)、の抜き書きです)
火山ガラスとは、マグマが急激に冷やされ鉱物として結晶化しなかったものである。
この火山ガラスは、マグマが直接的に固まったものである。
二酸化圭素(SiO2)を多量に含んでいる火山噴出物は火山ガラス質岩と呼ばれています。
白土・シラス・・・、
白っぽい溶岩(流紋岩)新島ガラス(オリーブ色)
黒っぽい溶岩(玄武岩)大島、三宅島、ハワイ


<何を模索しているかというと>
巨大隕石がドンと大地にぶつかる。 この応力は火山や核爆弾の比ではない。その時発生する岩石の形は、大小さまざまであると考えられる。この場合は、その直後に津波が発生しているから、そのミクロ粒子を波打ち際に集めているのではないかと? 私達がなにげなく見ている海岸端をよくみると小石小砂から微少砂まて実によく分別されている。 その海岸端がこの1号列石ではないかと?

<火山灰粘土>と<巨大隕石で発生したであろう津波際粘土>の中に含まれている二酸化ケイ素(SiO2)に、何かの違いはないかと?? 火山ガラス?、今回はじめて知りました。別事になりますが鹿児島の桜島では、この火山ガラスがときおり噴出し、これが人体に悪影響を及ぼすから、その時は警報をならし屋外にマスク無しでは外出しないようにしているそうです。 一時の噴火で1m以上も積もりニュースになったこともあります。 火山灰の色は、黒っぽいか、白っぽいオリーブ色か、それとも灰色? <赤褐色>色は無いぞ! それとも経年変化により赤褐色になったのか? わからない! またまた「棚にあげて置きましょう」(笑)

ローム層は「関東ローム層」が有名だ。 火山灰のようなミクロの粒子が降灰した時の土壌は、そのままだと強い土壌力を持ち、宅地とするには好都合。 しかし上からの降雨には強いが横からの流れには弱く、その多くは切り立った崖状の様相を示している。 端々の宅地購入にはご用心を!
このローム層は、太古の津波が打ち上げた粘土質ではないかと?密やかに思っています。 (^-^)。 さらに経年して岩盤化したのが <この田野畑の海岸段丘> ではないかとも!



 BC.2001年、東北で発生 した「巨大津波の痕跡」、その2,

  ここ田野畑村で(地図及びネット)での調査ではありますが、大きな副産物がありました♪
田野畑村は、ほぼ平坦であったと思われる海岸段丘状の上にあり、海岸部は100mを超す切り立った断崖状をなし、海へ流れ込む沢はクレパス状を呈していると前述しました。
ところが、 この<断崖状をなしている海岸線>を南に延長し、 <リアス式岬のそれぞれの突端>とを線で結ぶと、 きれいな弧を描く! リアス式海岸のもとの地形は田野畑につづく断崖状の地形であった! それを巨大隕石で発生した大津波が、その幾筋もあったクレパスを カッ去って、リアス式にした! その大量の土石はどこへ?


ひきつづき、当ブログをお楽しみ下さい。♪(^-^)♪ 中・高生の地図をかたわらに・・おいて、
「なんですって」 もう少年心(こどもこころ)といっしょに無くしたって、それは残念!(笑)
 

カテゴリー; ゲスト様コーナー 「My粗茶室」 も 御用意してお待ちしています。なにも、ろくなコメントもお出しすることが出来ない(恐縮ぅ)かも知れませんが~(^-^)♪





 ♪お知らせ♪ (9/27) 
6名?のお方様、毎日のご検索ありがとう御座います。 “拙記事”のUPを心待ちにして下さるかと思うと、こんなに嬉しいことはありません。 なにしろ{卑弥呼}をかかげて10年余、無視のされ続けでしたからねえ。 私にとっての各御1名様は一騎当千の重みがあります。とても励みになります。 その時、御一緒に言いましょかぁ。「皆さんはどこ見てたの?」って、 バシッとぉ~♪(笑)
ご期待に添うべく、只今<更新→10月1日>をめざして準備中です。どうぞ楽しみにしていて下さい(^-^)


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     ('11 9/07, 9/12)に、拍手各1が頂けましたが、できればコメントを~~
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