川が無いのに?扇状地! <胆沢扇状地・いざわ>

前の記事・田野畑村の海岸段丘に残されている列石遺構(175mの等高線沿い)は、祖先が記したその大津波の波打ち際だとしました。 そして、三陸リアス式海岸は、その時の巨大津波がカッ去らった津波痕だとしました。 これを念頭に入れて、次の記事に入って下さると ありがたい。 なにしろ過去の世界史に学問としては残されていない、信じられないほどの大津波ですからね。
「川が無いとは、なんですか! 胆沢川という立派な川があるではないか」と、反論される方が当然おられますよね。 私も今の今まで、おぼろ気ながらも学校で<扇状地形>の典型的な事例としてならった記憶がありますから。(゛-゛!)
<次、胆沢平野物語、「胆沢平野土地改良区」さまの、ネットでの記事を 勝手に(^^!)
載せますので、詳しく知りたい方は、写真や図もありより解りやすいので、そちらの方を
〒023-0881 岩手県奥州市水沢区字北田140-1, Tel 0197-24-0171
御覧になって推理を進めて下さい>
【胆沢平野の特色】
概要
胆沢扇状地は、北は金ケ崎町南辺の丘陵、南は奥州市衣川区を境とする丘陵地に挟まれ、東は北上川に縁取られた扇形をしています。扇の半径は約20km、中心角は約35度で扇状頂部の標高が約250m、扇端部では30m~40mです。扇状地の面積は15,000ヘクタールで我が国でも最大級の広さです。
地形
今からおよそ50万年前から北に傾く地殻変動があり、隆起や沈下をくり返しながら胆沢川は、しだいに北の方向へと流路を変えていきました。その過程で複数の河岸段丘を形成しながら胆沢扇状地ができあがり、これに北上川の氾濫原を加えたものが現在の胆沢平野です。胆沢扇状地は6つの段丘からなっており、それぞれの段丘は東方向へなだらかに下がっていて東西の高低差は約200mあります。
地質
胆沢扇状地内の段丘は、胆沢川の河床面が北へ移りながら河道を刻んでいき、残ったのが段丘谷と段丘面で、いわば旧河床の名残です。沖積平たん地は腐植質に富む暗褐色の土壌が多く表土は約20cm、下層は1~1、5mまでグライ層、部分的に泥炭の表れているところもあります。地下水位は平均すると3~4mです。
(註: グライ層とは、土壌中の過剰水分のため空気が欠乏し還元状態になっている土層のことで、還元された鉄のために青灰色を呈している)
謎解きに入るまえに、♪お願い♪
この謎解きのきっかけを下さったのが<聖和大学(仙台)の胆沢平野の調査と、それにまつわる伝説とをからめた報告書>でしたが、私PC素人は、2度とその画面を出すことが出来ない(^^!)。 どなたか<その検索語>を教えて頂ければ幸いです。
扇状地とは、急峻な山あいから土砂を運んできた川が扇形平地部で一気に開け、そこに土砂が堆積してできた地形で、その構成土砂は粗粒であることが多いようだ。 この胆沢扇状地に類して、形は完全な扇形とはいえないが、富山県に庄川扇状地がある。 これ等と比べて何が同じで、何が違うのか? 尚、数字のおおざっぱな所はご容赦下さい。(゛-゛!)
① 扇頂から上流の長さ 扇頂から下流(河口)までの長さ 高低差
胆沢扇状地 <約 1、5 km> 約 20 km 約1500m
庄川扇状地 約 70 km 約 20 km 約1600m
黒部川扇状地 約 55km 約 15km 約2800m
信濃川(小千谷) 約 200km 約 80km 約2600m
天竜川(天竜市) 約 130km 約 25km 約1900m
上記の表で大きく違うところは、胆沢川の扇頂から上流までの長さで、扇頂の石淵ダム~焼石岳(1548m)の距離は、<わずか1、5km>しかない。 近年の黒部川第4ダムを造るまでは、その流れを制御できなかった黒部川扇状地でさえ、20kmあたりに換算すると、その上流長は73km。 暴れ天竜と称された天竜川でも104km。 日本一長い信濃川は50kmを要している。 平均的な、庄川扇状地で20kmの下流域をつくる上流域の長さは70kmである。(計算まちがってたらごめんなさ~い。^^!) むろん思いついたところだけの ピックアップなので、もっと多くのデータを要するが、この <1、5km>対<70km> は、大きくは間違っていない。
わずか<1、5km>の上流域では、長さ20km面の扇状地は出来はしない。
②地形への疑問?
今から50万年前には大規模な地殻変動があったもよう。それを簡単な言葉で一概には言えないが、胆沢扇状地の20km△の狭い地域の北側の部分だけ都合よく傾いたとは思えない。 百歩ゆずって、そうだとしても胆沢扇状地△の全面を覆う土石量を考えねばならず、一時にそれだけ大量の土石を運ぶメカニズムが考えられない。 そして50万年のうちに段々と北へ傾いていって、6段の地形を造ったとする胆沢川が、その扇形全面の北側部分を下流へ押し流したものならば、その下流域の北上川の氾濫原に土砂の堆積があるはずだが、それが見あたらない?
③扇形地の南側の山沿いに流れている<衣川>と共同で造った?
ところが6段ある一番南側で一番高い段丘は、その最上部<宮坂>の標高が236m。そして、その細長くて高い連なりの最下端で北上川へ突きあたる辺りの<上徳沢地区>の標高が79m。その下の<野田>辺りに37mの△点37mが見えるから、その差は約40m。 流れをさかのぼり<天田>辺りの標高が119m。 その近くの<石生>から見上げる段丘上の標高は約200mで、その差は80mもある。 これを形容すると、巾500m~約700mの谷底を流れる衣川の水は、自然の造形とは思えないような堤防状段丘にはばまれ、一滴だに胆沢扇状地へは流れていない。 そして、その狭いともいえる谷底を流れる衣川は、異様と思えるほどにクネクネと蛇行している。 蛇足ながら(^^!)、栗駒山(1627m)に降った雨水が衣川上流の増沢ダムへ流れ込むのはわずかであり、その殆どは、山一つ隔てた南側の盤井川へ流れ出ている。
④胆沢扇状地の南端<一の台?>と、北端<金ヶ崎>で描く、「八の字段丘」の不思議?
歌手の「井沢八郎」さんは、この地に由来するのかな?(^^) 通常の風雨作用で造る扇状地形では、決してこのような八の字形の段丘地形は、造りはしない。そこで何があったのか!?
土石を含む巨大津波が、高い山に突きあたった時、行く手をはばまれた大津波が、その山裾に沿って帯状に、その土石を残すことがあります。 新幹線で、新大阪から京都までの北側の車窓から、それを見ることが出来ます♪ これを造ったのは、今論じている津波ではなく “別の巨大津波”です。 (2008 10 06 記)(^-^)
⑤近辺で、ほかにも「扇状地」はないのか?
それは、Yahoo地図検索で、胆沢扇状地のすぐ北にあった。 <鍋割>から→真東の<和田尻・岩の目>のあたりまでの長さ約13km。 北端に<夏油川・げとうかわ>、南端に千貫石溜池から流れ出る<宿内川>に挟まれ、中心角およそ80度の扇状地! その北に付随した小さな扇状地も見える。
さらに、この北で、Yahoo地図をズームアップ、ダウンを繰りかえしたり、航空地図に変えたりしていると? 扇状地の形はしていないが、<八方山(717m)・尻平川>から、東南東の→<北上>向けて長さ約12km、幅10kmにわたる流れの痕跡が見えてきた。
???、この三つの『流れの痕跡』から、“巨大隕石の落下地”が割りだせる!?
とりあえず、この三つの流れの痕跡を<胆沢痕跡・夏油痕跡・尻平痕跡>と名付けておこう。
<尻平痕跡>は、東南東を指している。
<夏油痕跡>は、真東を指している。
<胆沢痕跡>は、東を指しているようではあるが??
これらの延長線の先に『釜石』があるのは、すでに「拙著の電子出版・巨大隕石と大津波」で織りこみ済み。 その他に新しい2カ所を発見しましたが、今回は津波が主なので、それは<カテゴリー・巨大隕石>へ譲ることにしましょう (^-^)。 どうぞお楽しみに♪
⑥水界峠250m(宮城県)より、高い巨大津波が?
扇状地の地形は、扇状地の頂部から同心円を描いて低くなっていくのが普通である。ところが胆沢では頂部を起点とした扇を北へ傾けたような6段の階段状になっている。それは、地形が傾き川の流れが段々に北へ移っていき現在の位置に留まったとするのが従来の考えであった。 だが、素人の考えでは、広域ならともかく、わずか20km△の狭い地域での傾きが考えられない。 今までの謎解きの延長からすれば、当然の巨大津波が発生している。 しかし、北上高地は越えていないだろうと思っていた。 今までに聞いている祖先の伝言では<水界峠・250m>が一番高かったからだ。 しかし巨大津波は、北上高地をゆうに越えていた。
⑦前記、三つの<津波の痕跡>の方向性
その方向性は、北上高地を越えて襲来した津波の方向を指さしている。<胆沢の痕跡>の北側が低くて南側に高いのは、北上高地を越えた土石流が、その真東からではなくて、その扇状地の中心線より北の方向から襲来したからだ。 そして、6段の段丘は、その波状痕だ!
それは、今私達が見ている海岸の砂浜や川辺で証明できます。 と言っても、これでは誰も信用してくれない(゙-゙!) 信用して欲しいとは言わない。それに気付いて欲しいと願っています。
⑧その侵入の痕跡を見つけた??
その土石流は中心線より北の方向から侵入している。土石を含んだ巨大津波は、表土をえぐりながらやって来る。国土地理院電子版「供養塚」の<於呂閉胆沢川神社>辺りの等高線で、津波が表土をえぐりながら進む方向の逆U字形。 津波が引き返し、その土石が流れ出るU字形が重なり合うところがある。<若柳中学校のちょっと南かな>北緯39度7分26秒、東経141度2分12秒、の辺りにその記念碑でも建てますか?(笑) Yahoo航空地図で、この辺りをズームアップ・ダウンを繰り返して見ていると、ぼんやりと、その侵入痕が白く浮き上がってくると思いますが?
⑨土石を含んだ津波が山に、ぶち当たると!
その土石を運んだ巨大津波は、胆沢扇状地南側の<檜能山927m、国見山788m、大森山352m>に、ぶち当たり、そこに土石堆を残した。そして、山へ駆け上がった水流は「落ち水」となってかえってくる! 他の地では、それ等を「垂水」の地名で遺していることがあります。 しかし自身が運んだ土石に邪魔され逃げ場を失った大量の津波は、跳ね返りがつくった溝間に沿って、自身が積み上げた土石堆を深くえぐりながら下流へと殺到する。衣をはぎとるように? 以前の記事で述べましたよね。 堆積土は「横流れ」に弱いって。
さらに川がつくる地形で、広大な釧路や有明で、ウネウネと曲がっているのは当然でも、狭い谷間の衣川では異常だ。 これは、山側の残った土石が後に流れ落ちて水流を曲げたせいだと思っています。
素人探偵の言うことが眉唾(^^!)だとお思いなら、その山の斜面を調べてみて下さい。 きっと山肌を晒している所がありますから。 その高さが、その時の津波の高さです。 このように強い言葉でいえるのは、ご先祖さまの「地名伝言」というバックアップがあってのことです。(^-^) 「ハイ!、ご先祖さま、嘘つかない」 できれば生きているお方の方が・・・、(笑) さらに、「海成物・塩分及び微生物の遺骸」 がありや、なしやも!
「 謝々!」 どなたさまが拍手を? 大体の見当はついていますが、(笑)
本日(拍手を集計)してみました♪ 総数26拍 ー 分けも分からず(^^!)自分で押した4拍 = (22拍手) (2008 10 07)
この22拍の数字は、皆様の一日の数にも満たない数でしょうが、わたし素人にとっては(勲章)よりも重い数字です。 ありがとう御座いました。 駄文ではありますが今後ともの応援よろしくお願いいたします。 おりしも、日本人3人の(ノーベル賞)の発表がありました。 外国ではよくあることでも、日本での共同研究の受賞は初めて。 日本では一教授の下での風習がつよく、互いに干渉しないのが良しとされ? お互いに切磋をして研究することへのなじみがうすい。 その評価発表も必ず代表者1名の名前しかしない。 お互いに友を讃えて拍手する光景を見たことがありません。 ・・・・・、(^-^!)
「満たされた時の酒池よりも、渇いたときの一杯の水(拍手)」 史実探偵: 平 素人
⑩逆流の、バックストリーム痕!
津波には、前述のような“帰り水”がある。それを筆者はバックストリームと名付けています。檜能山を始めとする扇状地の南側へ降った雨の多くは石淵ダムや、南の磐井川へ流れ、衣川へは流れ込まない。 なのに、川幅?500m~700mの谷を形成している。(元々の地形かも知れないが、それは北岸の段丘下部の地相が堆積層か否かですぐに判別できる) 大河の下流域ならともかく、わずか20km余りの長さで、しかもその片側の分水嶺域をもたない衣川の谷間を、通常の風雨作用で出来たとするには大きな無理がある。 衣川の谷間は、「バックストリーム痕だ!」 その下流に目を向けてみよう。 衣川の谷間を造った水量は、北上川対岸の<平泉町>の山塊によじ登る。 祖先は、そこに竜と坂の字を連ねた<竜坂>の地名を遺している。 その坂には「竜」の名を冠する必然性が、きっと “地形” として刻まれている。 筆者は、その竜が運んだ弓状地の土質を知りたい。 北上川の氾濫原とは別の何かが隠されているはずだ。
⑪地質についての疑問?
胆沢扇状地の、「沖積平たん地は腐植質に富む暗褐色の土壌が多く表土は約20cm、下層は1m~1、5mまでグライ層、部分的に泥炭の表れているところもあります」とあった。 この「沖積平たん地」が、北上川の氾濫原と、同一なのかが分かりませんが <同一> として話を進めましょう。
(グライ層とは、土壌中の過剰水分のため空気が欠乏し還元状態になっている土層のことで、還元された鉄のために青灰色を呈している)でした。 ちなみにグライとはグレイ色のことで、長期にわたる稲田の底の微細土が酸欠をおこし青灰色になったものを云うそうで、一般的な稲田の下層にできます。 これは粗粒の河川原や扇状地において、下部への水抜けを防ぐためのお皿の役目もします。 それ等の土は、祖先の永々たる労苦の成果であり、一朝一夕のもとに成ったのではありません。(特に中学生のために、^^!)
<胆沢扇状地・沖積平たん地へ話をもどし>
過去に筆者が田地の構造改善等で見た青灰層等の深さは、50cm~1mぐらい迄で、1m~1、5mのグライの層は厚すぎる? (どなたか詳しい方教えてください。汗!)そして、腐植質に富む暗褐色の腐植質表土の約20cm、を加えると最深部は1、7mにもなる。 これを田地とするために<人為的>成したとする必然性が思い浮かばない。 稲田では深耕といっても、せいぜい50cm?もあればよい。それ以上深いと足が抜けない。 (どなたか詳しい方教えてください。^^!) 深さ1、7mの土壌は、人為的に土壌改良したのか、それとも津波の戻り水が成したのかを、!?
水流(津波)が物を運ぶとき、物質は非常に効率よく <似たものは似たもの同士に>分別される。 平 素人
その概略を想像も含めて再現してみよう。
巨大隕石が<釜石 辺り?>にぶち当たる! 大小の岩石弾が吹き飛ぶ。 巨大津波が発生する。 それ等は土石流となって草木はおろか表土までも削りながら進行する。 胆沢扇状地の段丘6段を津波痕?だとすると、北上高地越えの津波は<6波?>となる。 この場合の津波は、地震で発生する上下動の波というより、石飛礫(いしつぶて)を投げた水面のように、跳ね上がり、飛び散ると表現したほうが良いかも知れない。 第一波は、隕石と大地をうがった巨石弾を含む。第二波以降は、順次細粒となって運ばれる。 これが否かを調べるには “南端段丘の最上部分” を調べればよい。 中には溶岩にくるまった「さざれ石」もあるかも知れない。 「さざれ石」調べて下さいね。筆者は知らなかった。(^-^)
だが、ここで <やっかいな問題> が発生する。
<焼石岳>や<栗駒山>が、刺激されて火山弾や火山灰をまき散らした?かも知れないからだ。 前述?しましたよね。火山と巨大隕石が残す症状の見分け方は難しいって(^^!) もし、それ等が混合していたら、さらなる論戦に発展する。
<泥炭について考える>
「泥炭・褐炭・無煙炭」等と、語呂のよさを学校のときに習いました。^^! 筆者は、その泥炭を見たことがない。泥と植物炭とが混ざった物? <津波が運んだ植物が石炭になったの論>については、拙著「巨大隕石と大津波」で述べているが、頁数を要するので、ここでは、そのイメージだけに留めたい。
石炭は太古の植物が地中深くに埋もり、地熱によりじっくりと炭化したものだ。浅ければ地熱の発生もなく、朽ち果ててしまうので石炭にはならない。 この状態を人工的にしたのが「炭焼き」かな? 酸素を断ってじっくりと焼き上げる。 石炭の質についての主な要因は、植物が埋もるときの泥質の多少と、地熱の発生よって異なる。 その<泥炭>が胆沢にある。しかも表土近くに? (日本の泥炭の産地としては釧路があるが、こちらは、ちょっと棚にあげといて) (^-^)♪
胆沢の<泥炭>が石炭紀に成ったのかどうかを筆者は知らない。石炭紀だとすると話は非常にややこしくなる。 だが今までに積み上げた論拠によっても、胆沢の泥炭は成り立つ。 すなわち山越えの巨大津波が立木を集め泥とともに、それ等を埋める。 そして、近くで発生した衝突熱が地を伝わり<地表浅く>にあってもそれ等は炭化する。 さらに、この大事変が起こした空気熱によって炭化する。そして、燃え上がり津波によってかき消されたもの。 さらに、その時発生したスス等のことについて迄は、素人の考えも及ばない。 さらに付け加えて、津波は<アブク>迄も、寄せ集めるからね。(笑)
⑫胆沢の扇状地が <津波跡だと実証出来る> 決定的な痕跡!
ここで筆を止めておきましょう。 皆さんお先に捜して下さっていいですよ。♪(^-^)♪
話をかえて、 山梨県の甲府盆地にある <勝沼町の扇状地> を観てみよう。
中学生地図のなかほど(生活の舞台)に載っています。
勝沼町は、笛吹市のなかにある甲州市の「飛び地」です。 このような飛び地は、それを手放せない歴史的背景か、それとも平成の大合併で?、なったのでしょうかぁ?
ここは、他の要因に左右されない扇状地で、典型的な扇状地。 その構式図(扇状地の断面図)も載ってある。 その詳細を観るには、国土地理院の電子版のほうがいい。
* 勝沼町扇状地は、富士川上流の笛吹川へ流れ込む京戸川が造った扇状地。
* 二本木山(1078m)と、無名?の山(1412m)の二つの山と、遠沢山(1358m)がつくる谷間から流れ出て、源流から扇の頂部までの距離は、約3km。
* 扇頂から扇の端部、<中尾><小城>までの距離も約3kmだから、扇長さ20km換算にすると、扇形を造る上流長は、約30km。 (前述分の平均は約70kmでした)
* 扇形を造った<京戸川>は、今では扇状地の南端を流れている。
* 水無し川があり、地下水位は深いらしい。^^!)
*扇をふちどった八の字形段丘の有無、あとで調べてみます。^^!)
* 扇部の勾配は、扇頂部の標高が550m。 扇端部の<中尾・346m><小城・313m>
その差は、237m。 扇形の等高線は、扇頂部を同心円にし、その間隔は、扇端部へ段々と広くなり、低くなり、きれいな勾配を描き端部に段差はない。
ところが<胆沢扇状地>では、扇端部に段差がある !
その扇端部の段差は、国道4号線沿いにあり、南から、
下小路・標高90m 向田・標高27、8m(まえさわ駅あたり) 段差・約62m
折居町・標高70m 川尻・標高37m(おりい駅あたり) 段差・約33m
大 檀 ・標高68m 向田・標高39m 段差・約29m
この河岸段差?とも思える段差は、普通の地図では見え難く、地元の人とか興味のある人にしか確認しえない。 河岸段丘は、さほど珍しい地形ではない。 北上川が造ったのか? 他の北上川流域を調べねばなるまいが、「60mの段差」は異常と思える。 平均で30m~40mの段差かな。 それは奥州市街に入ると確認できないが、航空地図で見ると扇形の約半分から南側で確認出来る。 その形は、扇の端部のような弧を描き、とても北上川が浸食した河岸段丘の形には見えない。 それが、筆者の言う<津波の戻り水痕>か?、それとも、北上川が造った河岸段丘>か? を見分ける方法がある。 河岸段丘なら<堆積層>の様相があるし、津波の戻り水痕なら、一時的なものであるから、堆積状態はなくて<細粒だけの地層>となる。
それが津波痕だと、「実験するまでもなく、実証出来る!」
豪雨のあとの、貴方のお家の庭先で、または学校のグランドで、その地形を見かけることが出来ますよ。(^-^)♪ 分かりやすく言えば「勝沼の扇端は平べったい」「胆沢の扇の端は盛り上がっている」。今、あなたがテーブルの上にこぼした?お水の端のように!♪
その盛り上がりが、前述の<尻平痕跡>では確認出来ませんでしたが<夏油痕跡>では、約20mの段差が確認出来ました。
そして、地下水位が、他の扇状地に比べて、平均3m~4mと浅いのは、固くなった旧雪の上につもった弱い新雪に似ていると推理しています。
その巨大津波が運んだ土石流をご先祖さまは、
<石巻><仙台><一関><盛岡><一戸~九戸>の土石流に関係する地名で遺しています。 これ等の地名は、他の地方に類をみない地名であり、祖先がいうその地名伝言に耳を傾け、何故それ等の地名をつけたのかの必然性を問いつめれば、きっとその大事変は浮かび上がってくる。 確かに素人が言う「一つ、々つ」は、論拠に乏しいし、あたっていないかも知れない。 これで専門家が頷いて下さるとは思っていない。 だが問題は「津波に関する地名」の多さ (拙著の電子出版、極秘報告書「巨大隕石と大津波」)である。 それ等については又の機会に致すことにしましょう。(^-^) ↑お暇な方、クリックして下さればそちらへ飛びます♪ (んーベル賞 2つ半と、豪語する大論ですよ ♪?)
余談 「藤里の 珪化木の不思議」
<藤里の珪化木 > ( 岩手県観光ポータルサイト・岩手の旅より)
その所在地 ; 岩手県 奥州市 江刺区 藤里 字 石名田
愛宕山自然公園内、愛宕神社の近くにある。
セコイヤメスギの珪化木、1200万年前のもので稲瀬火山層という安山岩の礫が混ざった砂質凝灰岩の中から吹き出している。その部分だけで、直径1、3m、高さ4mあり、県内では、根反(ねぞり)の珪化木に次ぐ大きさである。
藤里の珪化木は、先の胆沢の扇状地で、北上川を挟んだ対岸の<江刺区>にあります。 珪化木を世界的にみれば、それ自体は特に珍しいものではありません。北米大陸や中国大陸にはゴロゴロ転がっているところがあるそうですから。 主に珪化木は巨木が多いようです。
世界三大巨木は、カリフォルニアのセコイヤ、マダガスカルの竜神木、オーストラリアのユーカリかな? セコイヤはスギ科の巨木。 竜神木はこれが木かぁ?サボテンでねえのか?と思わせるような異様な巨木。 ユーカリは30年もたてば大人一抱え以上にもなる巨木。 それ等、太古の木が地中や湖底海底に埋もり、石化から石炭まで、さまざまな形として現在に残る。 上高地では水没湖。新潟では海底林。いつぞやは海底木が地震で揺すられ浮き出て漁網にかかった。 外国ではカナダの湖底木。中国の鉄幹木(?)は固くて木目が美しいことから細工物に。 ちょっと横道にそれました。^^! いずれにしても埋もるということが大事。 空気中や地表近くにあったのでは風化してしまい形として残らない。
こういった本文には直接関係ないような文や言葉を「さらなる謎解きのために」、ところどころ<推理小説風>に忍ばせてきましたので読み返してそれも楽しんで下さればと思います♪。 ・・・というのは口実で筆者の気分転換(爆ぅ~!) 手塚治虫先生の「ひょうたんツギ」のようなものかな?!
さて藤里の珪化木ですが、筆者は、それを知りませんでした。トタン小屋で囲まれた(写真)も二度とPCで呼び出すことが出来ない^^! おなじ岩手県にある<根反の珪化木>は、学校地図にものっています。 この二つの写真を見た時、ふるえがくるほどの驚きを感じました。 根反・ねぞりの珪化木も藤里の珪化木も共に “直立” した姿を見せていたからです。 寝姿ゴロゴロと思いこんでいた筆者にはとても意外でした。根反の珪化木は直径1、6m?高さ数m?(あとで調べます^^!) 藤里のほうは、それより小ぶりだが、上下は岩?で埋没し中間だけをのぞかせています。 ネットで調べると<埋没林>は、全国で40カ所もあり 、「直立」がさして珍しいことではないことも分かりました。
そのなかの、ひとつ <島根県太田市三瓶火山の埋没林> を取り上げてみましょう。 結論からさきに言えば、100%火山要因の三瓶火山埋没林と<巨大隕石・大津波>が原因の藤里の珪化木とを比較してその違いをさぐるためです。
<三瓶山火山埋没林>
所 在 島根県 太田市 三瓶町 多根 (小豆原川)
発見の経緯 1982年の圃場・ほ場整備で発見かり、その学術的重要性に気付かれた
松井整司氏と三瓶自然館で、他にないかと1994年にボーリングやトレンチ
(発掘)調査をおこなったが見つからず、展示構想のもと県がおこなった大規
模な発掘調査で1998年の11月にその最初の一本を現したとあります。
埋没林 三瓶火山の噴火活動によって埋没し、直径1、5m以上、長さ10m以上。
その大半は、スギが主で立木として21本。 ほかに、トチノキとケヤキの巨木
が発見されている。 10mほどの間隔で生えていたと推定されている。
流木群 火山泥流によって運ばれた巨木の流木群も発見されている。
年代 14C年代(Cの左肩に小さく14と書く炭素14年代測定法)で、3500年前
~3700年 前の縄文代の後期と判明。
埋没層 狭い谷の下から、火山泥流堆積物・火砕流堆積物・河川成堆積物と重なって
いる。 (図と写真あり)
谷の基盤岩は花崗岩であり、その上を覆っている古土に生えていた。その根元に葉っぱや虫の化石があった。その他、詳しいことが書いてありますから、是非そちらへ飛んでみて下さい♪
その一部で、とくに筆者が気になった部分を原文のままで掲載します。
『泥流の後に火砕流が林を覆いました。この堆積物には炭化した木片が多量に含まれていますが巨木を炭化したり発火させるほどの温度ではなかったようで、立木は表皮の表面が若干炭化しているだけです』
以上、無許可で掲載していますので、さし障りや間違いがあれば消します。(゙-゙!)
< 三瓶山火山埋没林と、藤里の珪化木を比較 >
三瓶山火山埋没林 藤里の珪化木 備考
①年代 3500~3700年前 1千200万年前
(14炭素 年代測定法)
②成因 火山性埋没林 ???
(巨大隕石?+大津波?)
③埋没層 泥流・火砕流・河川性物 稲瀬層
(角礫を含む火山弾・凝灰岩)
④現・本数 21本以上 1本だけ?
(スギが主体・21本はスギ) (セコイヤメスギ)
⑤生えてる場所 谷間 谷間?
(およそ10m間隔) ( )
⑥流木群 有り ???
亜炭層有り
⑦成分の状態 木質残?一部炭化 根反珪化木一部炭化
< 以上を、対比考査 >
①に、この<年代>の問題をもってきたのは一番確定的で、一番切り崩しがたいからです。幾度となくこの問題が素人探偵の前にたちふさがる。 「放射性元素の崩壊による減少率は正確に時刻をきざむ!」 これは動かしがたい事実だ。 その度にいろいろに(ヘタな^^:)考えを述べてきたが、その一つに。 任意の物質(N)が変化(崩壊)するとき、その物質が未来永劫、同じ温度で、同じ圧力で、同じ環境のもとにあるならば、その考えは正しい。 しかし、現実は刻々と変わっていて、そのようなことはありえない。 山瓶山埋没林では3500年~3700年で、そこには200年の開きがある。( 千年杉?) 藤里の珪化木にしても4千年前の樹木に、1千200万年前の濁泥が入り込んで石化していれば、「それは1千200万年前だった」とは言い切れない。 このように一見科学的と思える「年代の決定」のなかにも、大きな不安定要素が含まれている。
『 百年前の祖先も、二百年前の祖先も、今の科学を最高だといってきた!』
科学とは、時流であり、ファッションである。 「科学」という言葉のもつ魔力にまどわされてはならない。 科学とは学問であり、その学を問い続けるのが私達の役目だ。 08 10 25
(特に、中学生諸君のために!^^;)
だから「勉強せんでもええ」というのは勉強してきた人がいう言葉であり、それで勉強しないのは、ただの「無知」。 あんた達は「勉強せんでもええ」と言えるほど勉強しとりゃ~せん。(筆者の経験から^^;) これって学校でつかえるかも~~(^-^)
②の埋没林の成因は、三瓶山は100%火山。 藤里のほうの結論は先に預けて。^^!
③の、その埋没層についての比較
三瓶山の埋没林は、下から、泥流堆積層↑火砕流堆積層↑河川性堆積層の順。
藤里の珪化木は、稲瀬火山層と呼ばれる、角礫を含む火山弾・凝灰岩のなかに埋没している。
このように説明されると「ああそうか」で、すましてしまいそうだ。それを言及する前に<三陸の海岸段丘>をカッさらい、北上山地をのり越えて、<胆沢扇状地>を造った“巨大隕石の衝突”と、それによって発生した “巨大な津波が運んだ土石流” に思いをいたすことにしょう。
巨大な塊が地殻をたたく! その表面は空気の擦過熱により軟化もしているが、衝突の応力は火山の比ではない。微細は原子核の破壊から、巨岩の粉砕まで、あらゆる破壊が起こる。その巨大な塊を「拙電子版・報告書」では、釜石鉱山・白水温泉を含む直径約20kmの馬蹄形の地域だとした。
海水は跳ね上がり、地殻は幾度もバウンドする。その巨大津波は北上山地を越えた。「北上山脈」といわず、「北上高地」というのはなぜだ。この地方には、<・・山>ではなく、<・・森>という特異性の山名がある。 巨大な土石流は山の頂までも削りとり、それを平原状にした。 貞任山高原、外山高原、区界高原、平庭高原、等がこれにあたる。
又、この地方の地質を調査した「宮沢賢治」が好んでつかったという<モナノドック→訂正モナドノック=残丘→岩石などの固い部分がとり残されて孤立した丘>があり、物見山をはじめ、貞任山、早池峰山、薬師岳、姫神山、平庭岳等は、その時の巨大津波から頭をのぞけて、その浸食をまぬかれたものだと推理している。
筆者は<種山高原・物見山モナドノック>の巨石に刻まれた≪方向性≫は、四千年前の巨大津波が刻んだものだと断言できる。
*中学生の方へ、この<方向性>赤線ね!あとでテスト(氷河期の痕跡)に出ますョ。(笑)
【 巨石は飛び散り! 大津波は、それ等を押し流した 】
この場合の津波は、水位があがったというより、駆け上がったと表現するほうがあたっている。物見山(○○m)と、室根山(○○m)のあいだに、姥石峠640m・がある。(国道○号線・種山トンネル内は630m)津波は、この高さを +αで越えている。 (いいぞ、いいぞ♪、ナスカの地上絵があった高さ500m丘へは筆者の苦手概算で津波源高さは1000mを要した!)
江刺市の地質図より、
これは<地質センター>発行のものに、江刺市が分かりやすいように重ね合わせているが、それでも専門語句が多く並び、素人的には判りづらい。 おまけにPC画面では字も小さい。
・・んで間違いがあっても責任はもてません。ゴメンナサーイ(^^!)
このほぼ中央で、北上高地の中央線沿って、<人首・ひとかべ花崗岩帯>が南北に走っている。 花崗岩は、御影石とも呼ばれ墓石にもなっている。 この石は地中深くゆっくりと固まったとされている石で、火成岩の安山岩とともに、ごく一般的に陸地をなしている岩石。 先の<姥石峠>は、この花崗岩帯のうえにある。 ここが巨大津波がその表土をはぎ取った中央線だ!
*人首・ひとかべ川、上流沿いの古生層に、<ウミユリ、サンゴ、フズリナの化石>
ウミユリは深海に生息、サンゴは中位、フズリナは浅瀬に生息、それが何故混在するのか?
*真滝層とか、金沢層の夾亜炭層に、<樹木、葦、シダ、珪藻、等の化石>
樹木は陸地、葦は湿地、シダは○○、珪藻は深海200m以上に生える藻。
これ等を津波で運ばれたとしない限り、だれが考えても深海のなかに樹木は生えないし、珪藻類は陸に生息しないよね(笑)
*稲瀬火山層に含まれる玉崎介層に、<貝化石と、植物化石>この層も海生物と陸生物の混 在?
このように、常識(こども心)では考えられない、ことが『東北の地』でおきている。
<地質について>
*角礫岩と角のとれた石の堆積について、
*火砕岩
*陸中の塩基性岩
*SiO2・nH2O・メタル化合物
*石榴石(ざくろいし)
*
*蛇紋岩
*石灰岩 →その時の大津波がうちあげた!?
*等々、素人(探偵)の知識と文章力では、とても無理!汗~! あとは、♪あなたと専門家に(警察に)おまかせ~♪)
これ等に興味のあるお方は<岩手県立博物館か、江刺の地学>の方へどうぞ♪
④と⑤ 島根県・山瓶山の埋没林のスギは21本でした。 で!、藤里の珪化木は1本だけかぁ? 必ず他にもあるよね。 「谷間で10m間隔?、水流の弱まった山影に!」 遊び心のある方どうぞ♪ でも実際に発見けるとなると色々な諸問題が! 島根県○○センターの松井さんに聞いたほうがはやいかも知れないですよ(笑)。
⑥と⑦ 三瓶火山性の流木の化石があった。その表皮の一部は炭化しているものもあるという。東北の場合の流木は、北上高地の尾根(人首花崗岩帯)の東側に沿って、トラしまのように <石炭となって分布している> 浅い所で炭化しているのは“地熱・余熱”、それとも放射熱のせいかな? ドドドッと~越えて北上川流域にも泥炭が! 普通に考えれば地表近くでの木材は、朽ちるのが先で炭化はしないよね。 だが例外もありますよ。南極大陸には石炭の露頭があり(さらなる謎解きにつづきます。)
この「トラしま模様」は中国の炭田でもみられます。もっともこれは<別の大事変>ですがね。
ーおわりにー
そこには微小惑星の衝突による岩石の粉砕と溶融、高熱の発生、それを瞬時に消し止めて運ぶ巨大津波の発生、それらを土中へ揺すり込んでしまう巨大地震の発生。さらに、駆け下った流れと宮城平野から北上川をさか上がった巨大津波の合流点(曲げ袋)。それに刺激された火山。その他「なにが起きてもおかしくない」ことが東北の地でおきている。
その地質年代にしても、遠く宇宙から来た星が衝突し、溶けあい、砕け散り、津波によって混ぜ合わされたものの年代を特定するのは難しい思いますが?。 そして、深海の生物が、浅瀬の生物が、魚が(かま)その余熱で、うす(干す)→<かまいし>に、そして鯨までもが?< >に打ち上げられたと、ご先祖さまは<地名として>遺しておられますが・・??
おつきあい頂いてありがとう御座います。月が変わりました。東北の「巨大隕石」へ、つづきます♪
遅々駄文のうえに、編集にも時間がかかります。 あとで読み返して「何書いてんだか」 自分で意味がわからない。(汗~!) こども心には自信があるのですが、文章はドヘタ。 どうぞのお許しを(^-^!) ♪ いただきい~♪拍手数( )拍ふえました。 さあて、がんばるぞ~、
只今17拍(11/02) どなた様!拍手をありがとう♪ でもね、おいそぎでない方は、コメントを下さると嬉しいな。 これは、今までの世界史になかった<惑星衝突学>を切り開き・実証する大論の始まりですからね。 3名のお方様、確定♪ あとの○名様は?どなたかな? 「それを史実として遺して」おくには、やはり <コメント>として残しておかれる方が・・・?!(笑) そして私の「父・母さんは、爺・婆ちゃん」は、あの大論のはじまりに<交信>した。 と「孫・子」の代が豪語する?♪ ためにもね。(^-^) 08, 11/3.
応援する!でOK♪ 私は○○さんのブログでは、コメント欄をみるのも楽しみにしていますョ♪
この頁の左欄カテゴリー「巨大地震で変形した山々」へつづきます^^!
どなた様、拍手をありがとう^^。 只今('10 5/23)までで18拍になりました。

前の記事・田野畑村の海岸段丘に残されている列石遺構(175mの等高線沿い)は、祖先が記したその大津波の波打ち際だとしました。 そして、三陸リアス式海岸は、その時の巨大津波がカッ去らった津波痕だとしました。 これを念頭に入れて、次の記事に入って下さると ありがたい。 なにしろ過去の世界史に学問としては残されていない、信じられないほどの大津波ですからね。
「川が無いとは、なんですか! 胆沢川という立派な川があるではないか」と、反論される方が当然おられますよね。 私も今の今まで、おぼろ気ながらも学校で<扇状地形>の典型的な事例としてならった記憶がありますから。(゛-゛!)
<次、胆沢平野物語、「胆沢平野土地改良区」さまの、ネットでの記事を 勝手に(^^!)
載せますので、詳しく知りたい方は、写真や図もありより解りやすいので、そちらの方を
〒023-0881 岩手県奥州市水沢区字北田140-1, Tel 0197-24-0171
御覧になって推理を進めて下さい>
【胆沢平野の特色】
概要
胆沢扇状地は、北は金ケ崎町南辺の丘陵、南は奥州市衣川区を境とする丘陵地に挟まれ、東は北上川に縁取られた扇形をしています。扇の半径は約20km、中心角は約35度で扇状頂部の標高が約250m、扇端部では30m~40mです。扇状地の面積は15,000ヘクタールで我が国でも最大級の広さです。
地形
今からおよそ50万年前から北に傾く地殻変動があり、隆起や沈下をくり返しながら胆沢川は、しだいに北の方向へと流路を変えていきました。その過程で複数の河岸段丘を形成しながら胆沢扇状地ができあがり、これに北上川の氾濫原を加えたものが現在の胆沢平野です。胆沢扇状地は6つの段丘からなっており、それぞれの段丘は東方向へなだらかに下がっていて東西の高低差は約200mあります。
地質
胆沢扇状地内の段丘は、胆沢川の河床面が北へ移りながら河道を刻んでいき、残ったのが段丘谷と段丘面で、いわば旧河床の名残です。沖積平たん地は腐植質に富む暗褐色の土壌が多く表土は約20cm、下層は1~1、5mまでグライ層、部分的に泥炭の表れているところもあります。地下水位は平均すると3~4mです。
(註: グライ層とは、土壌中の過剰水分のため空気が欠乏し還元状態になっている土層のことで、還元された鉄のために青灰色を呈している)
謎解きに入るまえに、♪お願い♪
この謎解きのきっかけを下さったのが<聖和大学(仙台)の胆沢平野の調査と、それにまつわる伝説とをからめた報告書>でしたが、私PC素人は、2度とその画面を出すことが出来ない(^^!)。 どなたか<その検索語>を教えて頂ければ幸いです。
扇状地とは、急峻な山あいから土砂を運んできた川が扇形平地部で一気に開け、そこに土砂が堆積してできた地形で、その構成土砂は粗粒であることが多いようだ。 この胆沢扇状地に類して、形は完全な扇形とはいえないが、富山県に庄川扇状地がある。 これ等と比べて何が同じで、何が違うのか? 尚、数字のおおざっぱな所はご容赦下さい。(゛-゛!)
① 扇頂から上流の長さ 扇頂から下流(河口)までの長さ 高低差
胆沢扇状地 <約 1、5 km> 約 20 km 約1500m
庄川扇状地 約 70 km 約 20 km 約1600m
黒部川扇状地 約 55km 約 15km 約2800m
信濃川(小千谷) 約 200km 約 80km 約2600m
天竜川(天竜市) 約 130km 約 25km 約1900m
上記の表で大きく違うところは、胆沢川の扇頂から上流までの長さで、扇頂の石淵ダム~焼石岳(1548m)の距離は、<わずか1、5km>しかない。 近年の黒部川第4ダムを造るまでは、その流れを制御できなかった黒部川扇状地でさえ、20kmあたりに換算すると、その上流長は73km。 暴れ天竜と称された天竜川でも104km。 日本一長い信濃川は50kmを要している。 平均的な、庄川扇状地で20kmの下流域をつくる上流域の長さは70kmである。(計算まちがってたらごめんなさ~い。^^!) むろん思いついたところだけの ピックアップなので、もっと多くのデータを要するが、この <1、5km>対<70km> は、大きくは間違っていない。
わずか<1、5km>の上流域では、長さ20km面の扇状地は出来はしない。
②地形への疑問?
今から50万年前には大規模な地殻変動があったもよう。それを簡単な言葉で一概には言えないが、胆沢扇状地の20km△の狭い地域の北側の部分だけ都合よく傾いたとは思えない。 百歩ゆずって、そうだとしても胆沢扇状地△の全面を覆う土石量を考えねばならず、一時にそれだけ大量の土石を運ぶメカニズムが考えられない。 そして50万年のうちに段々と北へ傾いていって、6段の地形を造ったとする胆沢川が、その扇形全面の北側部分を下流へ押し流したものならば、その下流域の北上川の氾濫原に土砂の堆積があるはずだが、それが見あたらない?
③扇形地の南側の山沿いに流れている<衣川>と共同で造った?
ところが6段ある一番南側で一番高い段丘は、その最上部<宮坂>の標高が236m。そして、その細長くて高い連なりの最下端で北上川へ突きあたる辺りの<上徳沢地区>の標高が79m。その下の<野田>辺りに37mの△点37mが見えるから、その差は約40m。 流れをさかのぼり<天田>辺りの標高が119m。 その近くの<石生>から見上げる段丘上の標高は約200mで、その差は80mもある。 これを形容すると、巾500m~約700mの谷底を流れる衣川の水は、自然の造形とは思えないような堤防状段丘にはばまれ、一滴だに胆沢扇状地へは流れていない。 そして、その狭いともいえる谷底を流れる衣川は、異様と思えるほどにクネクネと蛇行している。 蛇足ながら(^^!)、栗駒山(1627m)に降った雨水が衣川上流の増沢ダムへ流れ込むのはわずかであり、その殆どは、山一つ隔てた南側の盤井川へ流れ出ている。
④胆沢扇状地の南端<一の台?>と、北端<金ヶ崎>で描く、「八の字段丘」の不思議?
歌手の「井沢八郎」さんは、この地に由来するのかな?(^^) 通常の風雨作用で造る扇状地形では、決してこのような八の字形の段丘地形は、造りはしない。そこで何があったのか!?
土石を含む巨大津波が、高い山に突きあたった時、行く手をはばまれた大津波が、その山裾に沿って帯状に、その土石を残すことがあります。 新幹線で、新大阪から京都までの北側の車窓から、それを見ることが出来ます♪ これを造ったのは、今論じている津波ではなく “別の巨大津波”です。 (2008 10 06 記)(^-^)
⑤近辺で、ほかにも「扇状地」はないのか?
それは、Yahoo地図検索で、胆沢扇状地のすぐ北にあった。 <鍋割>から→真東の<和田尻・岩の目>のあたりまでの長さ約13km。 北端に<夏油川・げとうかわ>、南端に千貫石溜池から流れ出る<宿内川>に挟まれ、中心角およそ80度の扇状地! その北に付随した小さな扇状地も見える。
さらに、この北で、Yahoo地図をズームアップ、ダウンを繰りかえしたり、航空地図に変えたりしていると? 扇状地の形はしていないが、<八方山(717m)・尻平川>から、東南東の→<北上>向けて長さ約12km、幅10kmにわたる流れの痕跡が見えてきた。
???、この三つの『流れの痕跡』から、“巨大隕石の落下地”が割りだせる!?
とりあえず、この三つの流れの痕跡を<胆沢痕跡・夏油痕跡・尻平痕跡>と名付けておこう。
<尻平痕跡>は、東南東を指している。
<夏油痕跡>は、真東を指している。
<胆沢痕跡>は、東を指しているようではあるが??
これらの延長線の先に『釜石』があるのは、すでに「拙著の電子出版・巨大隕石と大津波」で織りこみ済み。 その他に新しい2カ所を発見しましたが、今回は津波が主なので、それは<カテゴリー・巨大隕石>へ譲ることにしましょう (^-^)。 どうぞお楽しみに♪
⑥水界峠250m(宮城県)より、高い巨大津波が?
扇状地の地形は、扇状地の頂部から同心円を描いて低くなっていくのが普通である。ところが胆沢では頂部を起点とした扇を北へ傾けたような6段の階段状になっている。それは、地形が傾き川の流れが段々に北へ移っていき現在の位置に留まったとするのが従来の考えであった。 だが、素人の考えでは、広域ならともかく、わずか20km△の狭い地域での傾きが考えられない。 今までの謎解きの延長からすれば、当然の巨大津波が発生している。 しかし、北上高地は越えていないだろうと思っていた。 今までに聞いている祖先の伝言では<水界峠・250m>が一番高かったからだ。 しかし巨大津波は、北上高地をゆうに越えていた。
⑦前記、三つの<津波の痕跡>の方向性
その方向性は、北上高地を越えて襲来した津波の方向を指さしている。<胆沢の痕跡>の北側が低くて南側に高いのは、北上高地を越えた土石流が、その真東からではなくて、その扇状地の中心線より北の方向から襲来したからだ。 そして、6段の段丘は、その波状痕だ!
それは、今私達が見ている海岸の砂浜や川辺で証明できます。 と言っても、これでは誰も信用してくれない(゙-゙!) 信用して欲しいとは言わない。それに気付いて欲しいと願っています。
⑧その侵入の痕跡を見つけた??
その土石流は中心線より北の方向から侵入している。土石を含んだ巨大津波は、表土をえぐりながらやって来る。国土地理院電子版「供養塚」の<於呂閉胆沢川神社>辺りの等高線で、津波が表土をえぐりながら進む方向の逆U字形。 津波が引き返し、その土石が流れ出るU字形が重なり合うところがある。<若柳中学校のちょっと南かな>北緯39度7分26秒、東経141度2分12秒、の辺りにその記念碑でも建てますか?(笑) Yahoo航空地図で、この辺りをズームアップ・ダウンを繰り返して見ていると、ぼんやりと、その侵入痕が白く浮き上がってくると思いますが?
⑨土石を含んだ津波が山に、ぶち当たると!
その土石を運んだ巨大津波は、胆沢扇状地南側の<檜能山927m、国見山788m、大森山352m>に、ぶち当たり、そこに土石堆を残した。そして、山へ駆け上がった水流は「落ち水」となってかえってくる! 他の地では、それ等を「垂水」の地名で遺していることがあります。 しかし自身が運んだ土石に邪魔され逃げ場を失った大量の津波は、跳ね返りがつくった溝間に沿って、自身が積み上げた土石堆を深くえぐりながら下流へと殺到する。衣をはぎとるように? 以前の記事で述べましたよね。 堆積土は「横流れ」に弱いって。
さらに川がつくる地形で、広大な釧路や有明で、ウネウネと曲がっているのは当然でも、狭い谷間の衣川では異常だ。 これは、山側の残った土石が後に流れ落ちて水流を曲げたせいだと思っています。
素人探偵の言うことが眉唾(^^!)だとお思いなら、その山の斜面を調べてみて下さい。 きっと山肌を晒している所がありますから。 その高さが、その時の津波の高さです。 このように強い言葉でいえるのは、ご先祖さまの「地名伝言」というバックアップがあってのことです。(^-^) 「ハイ!、ご先祖さま、嘘つかない」 できれば生きているお方の方が・・・、(笑) さらに、「海成物・塩分及び微生物の遺骸」 がありや、なしやも!
「 謝々!」 どなたさまが拍手を? 大体の見当はついていますが、(笑)
本日(拍手を集計)してみました♪ 総数26拍 ー 分けも分からず(^^!)自分で押した4拍 = (22拍手) (2008 10 07)
この22拍の数字は、皆様の一日の数にも満たない数でしょうが、わたし素人にとっては(勲章)よりも重い数字です。 ありがとう御座いました。 駄文ではありますが今後ともの応援よろしくお願いいたします。 おりしも、日本人3人の(ノーベル賞)の発表がありました。 外国ではよくあることでも、日本での共同研究の受賞は初めて。 日本では一教授の下での風習がつよく、互いに干渉しないのが良しとされ? お互いに切磋をして研究することへのなじみがうすい。 その評価発表も必ず代表者1名の名前しかしない。 お互いに友を讃えて拍手する光景を見たことがありません。 ・・・・・、(^-^!)
「満たされた時の酒池よりも、渇いたときの一杯の水(拍手)」 史実探偵: 平 素人
⑩逆流の、バックストリーム痕!
津波には、前述のような“帰り水”がある。それを筆者はバックストリームと名付けています。檜能山を始めとする扇状地の南側へ降った雨の多くは石淵ダムや、南の磐井川へ流れ、衣川へは流れ込まない。 なのに、川幅?500m~700mの谷を形成している。(元々の地形かも知れないが、それは北岸の段丘下部の地相が堆積層か否かですぐに判別できる) 大河の下流域ならともかく、わずか20km余りの長さで、しかもその片側の分水嶺域をもたない衣川の谷間を、通常の風雨作用で出来たとするには大きな無理がある。 衣川の谷間は、「バックストリーム痕だ!」 その下流に目を向けてみよう。 衣川の谷間を造った水量は、北上川対岸の<平泉町>の山塊によじ登る。 祖先は、そこに竜と坂の字を連ねた<竜坂>の地名を遺している。 その坂には「竜」の名を冠する必然性が、きっと “地形” として刻まれている。 筆者は、その竜が運んだ弓状地の土質を知りたい。 北上川の氾濫原とは別の何かが隠されているはずだ。
⑪地質についての疑問?
胆沢扇状地の、「沖積平たん地は腐植質に富む暗褐色の土壌が多く表土は約20cm、下層は1m~1、5mまでグライ層、部分的に泥炭の表れているところもあります」とあった。 この「沖積平たん地」が、北上川の氾濫原と、同一なのかが分かりませんが <同一> として話を進めましょう。
(グライ層とは、土壌中の過剰水分のため空気が欠乏し還元状態になっている土層のことで、還元された鉄のために青灰色を呈している)でした。 ちなみにグライとはグレイ色のことで、長期にわたる稲田の底の微細土が酸欠をおこし青灰色になったものを云うそうで、一般的な稲田の下層にできます。 これは粗粒の河川原や扇状地において、下部への水抜けを防ぐためのお皿の役目もします。 それ等の土は、祖先の永々たる労苦の成果であり、一朝一夕のもとに成ったのではありません。(特に中学生のために、^^!)
<胆沢扇状地・沖積平たん地へ話をもどし>
過去に筆者が田地の構造改善等で見た青灰層等の深さは、50cm~1mぐらい迄で、1m~1、5mのグライの層は厚すぎる? (どなたか詳しい方教えてください。汗!)そして、腐植質に富む暗褐色の腐植質表土の約20cm、を加えると最深部は1、7mにもなる。 これを田地とするために<人為的>成したとする必然性が思い浮かばない。 稲田では深耕といっても、せいぜい50cm?もあればよい。それ以上深いと足が抜けない。 (どなたか詳しい方教えてください。^^!) 深さ1、7mの土壌は、人為的に土壌改良したのか、それとも津波の戻り水が成したのかを、!?
水流(津波)が物を運ぶとき、物質は非常に効率よく <似たものは似たもの同士に>分別される。 平 素人
その概略を想像も含めて再現してみよう。
巨大隕石が<釜石 辺り?>にぶち当たる! 大小の岩石弾が吹き飛ぶ。 巨大津波が発生する。 それ等は土石流となって草木はおろか表土までも削りながら進行する。 胆沢扇状地の段丘6段を津波痕?だとすると、北上高地越えの津波は<6波?>となる。 この場合の津波は、地震で発生する上下動の波というより、石飛礫(いしつぶて)を投げた水面のように、跳ね上がり、飛び散ると表現したほうが良いかも知れない。 第一波は、隕石と大地をうがった巨石弾を含む。第二波以降は、順次細粒となって運ばれる。 これが否かを調べるには “南端段丘の最上部分” を調べればよい。 中には溶岩にくるまった「さざれ石」もあるかも知れない。 「さざれ石」調べて下さいね。筆者は知らなかった。(^-^)
だが、ここで <やっかいな問題> が発生する。
<焼石岳>や<栗駒山>が、刺激されて火山弾や火山灰をまき散らした?かも知れないからだ。 前述?しましたよね。火山と巨大隕石が残す症状の見分け方は難しいって(^^!) もし、それ等が混合していたら、さらなる論戦に発展する。
<泥炭について考える>
「泥炭・褐炭・無煙炭」等と、語呂のよさを学校のときに習いました。^^! 筆者は、その泥炭を見たことがない。泥と植物炭とが混ざった物? <津波が運んだ植物が石炭になったの論>については、拙著「巨大隕石と大津波」で述べているが、頁数を要するので、ここでは、そのイメージだけに留めたい。
石炭は太古の植物が地中深くに埋もり、地熱によりじっくりと炭化したものだ。浅ければ地熱の発生もなく、朽ち果ててしまうので石炭にはならない。 この状態を人工的にしたのが「炭焼き」かな? 酸素を断ってじっくりと焼き上げる。 石炭の質についての主な要因は、植物が埋もるときの泥質の多少と、地熱の発生よって異なる。 その<泥炭>が胆沢にある。しかも表土近くに? (日本の泥炭の産地としては釧路があるが、こちらは、ちょっと棚にあげといて) (^-^)♪
胆沢の<泥炭>が石炭紀に成ったのかどうかを筆者は知らない。石炭紀だとすると話は非常にややこしくなる。 だが今までに積み上げた論拠によっても、胆沢の泥炭は成り立つ。 すなわち山越えの巨大津波が立木を集め泥とともに、それ等を埋める。 そして、近くで発生した衝突熱が地を伝わり<地表浅く>にあってもそれ等は炭化する。 さらに、この大事変が起こした空気熱によって炭化する。そして、燃え上がり津波によってかき消されたもの。 さらに、その時発生したスス等のことについて迄は、素人の考えも及ばない。 さらに付け加えて、津波は<アブク>迄も、寄せ集めるからね。(笑)
⑫胆沢の扇状地が <津波跡だと実証出来る> 決定的な痕跡!
ここで筆を止めておきましょう。 皆さんお先に捜して下さっていいですよ。♪(^-^)♪
話をかえて、 山梨県の甲府盆地にある <勝沼町の扇状地> を観てみよう。
中学生地図のなかほど(生活の舞台)に載っています。
勝沼町は、笛吹市のなかにある甲州市の「飛び地」です。 このような飛び地は、それを手放せない歴史的背景か、それとも平成の大合併で?、なったのでしょうかぁ?
ここは、他の要因に左右されない扇状地で、典型的な扇状地。 その構式図(扇状地の断面図)も載ってある。 その詳細を観るには、国土地理院の電子版のほうがいい。
* 勝沼町扇状地は、富士川上流の笛吹川へ流れ込む京戸川が造った扇状地。
* 二本木山(1078m)と、無名?の山(1412m)の二つの山と、遠沢山(1358m)がつくる谷間から流れ出て、源流から扇の頂部までの距離は、約3km。
* 扇頂から扇の端部、<中尾><小城>までの距離も約3kmだから、扇長さ20km換算にすると、扇形を造る上流長は、約30km。 (前述分の平均は約70kmでした)
* 扇形を造った<京戸川>は、今では扇状地の南端を流れている。
* 水無し川があり、地下水位は深いらしい。^^!)
*扇をふちどった八の字形段丘の有無、あとで調べてみます。^^!)
* 扇部の勾配は、扇頂部の標高が550m。 扇端部の<中尾・346m><小城・313m>
その差は、237m。 扇形の等高線は、扇頂部を同心円にし、その間隔は、扇端部へ段々と広くなり、低くなり、きれいな勾配を描き端部に段差はない。
ところが<胆沢扇状地>では、扇端部に段差がある !
その扇端部の段差は、国道4号線沿いにあり、南から、
下小路・標高90m 向田・標高27、8m(まえさわ駅あたり) 段差・約62m
折居町・標高70m 川尻・標高37m(おりい駅あたり) 段差・約33m
大 檀 ・標高68m 向田・標高39m 段差・約29m
この河岸段差?とも思える段差は、普通の地図では見え難く、地元の人とか興味のある人にしか確認しえない。 河岸段丘は、さほど珍しい地形ではない。 北上川が造ったのか? 他の北上川流域を調べねばなるまいが、「60mの段差」は異常と思える。 平均で30m~40mの段差かな。 それは奥州市街に入ると確認できないが、航空地図で見ると扇形の約半分から南側で確認出来る。 その形は、扇の端部のような弧を描き、とても北上川が浸食した河岸段丘の形には見えない。 それが、筆者の言う<津波の戻り水痕>か?、それとも、北上川が造った河岸段丘>か? を見分ける方法がある。 河岸段丘なら<堆積層>の様相があるし、津波の戻り水痕なら、一時的なものであるから、堆積状態はなくて<細粒だけの地層>となる。
それが津波痕だと、「実験するまでもなく、実証出来る!」
豪雨のあとの、貴方のお家の庭先で、または学校のグランドで、その地形を見かけることが出来ますよ。(^-^)♪ 分かりやすく言えば「勝沼の扇端は平べったい」「胆沢の扇の端は盛り上がっている」。今、あなたがテーブルの上にこぼした?お水の端のように!♪
その盛り上がりが、前述の<尻平痕跡>では確認出来ませんでしたが<夏油痕跡>では、約20mの段差が確認出来ました。
そして、地下水位が、他の扇状地に比べて、平均3m~4mと浅いのは、固くなった旧雪の上につもった弱い新雪に似ていると推理しています。
その巨大津波が運んだ土石流をご先祖さまは、
<石巻><仙台><一関><盛岡><一戸~九戸>の土石流に関係する地名で遺しています。 これ等の地名は、他の地方に類をみない地名であり、祖先がいうその地名伝言に耳を傾け、何故それ等の地名をつけたのかの必然性を問いつめれば、きっとその大事変は浮かび上がってくる。 確かに素人が言う「一つ、々つ」は、論拠に乏しいし、あたっていないかも知れない。 これで専門家が頷いて下さるとは思っていない。 だが問題は「津波に関する地名」の多さ (拙著の電子出版、極秘報告書「巨大隕石と大津波」)である。 それ等については又の機会に致すことにしましょう。(^-^) ↑お暇な方、クリックして下さればそちらへ飛びます♪ (んーベル賞 2つ半と、豪語する大論ですよ ♪?)
余談 「藤里の 珪化木の不思議」
<藤里の珪化木 > ( 岩手県観光ポータルサイト・岩手の旅より)
その所在地 ; 岩手県 奥州市 江刺区 藤里 字 石名田
愛宕山自然公園内、愛宕神社の近くにある。
セコイヤメスギの珪化木、1200万年前のもので稲瀬火山層という安山岩の礫が混ざった砂質凝灰岩の中から吹き出している。その部分だけで、直径1、3m、高さ4mあり、県内では、根反(ねぞり)の珪化木に次ぐ大きさである。
藤里の珪化木は、先の胆沢の扇状地で、北上川を挟んだ対岸の<江刺区>にあります。 珪化木を世界的にみれば、それ自体は特に珍しいものではありません。北米大陸や中国大陸にはゴロゴロ転がっているところがあるそうですから。 主に珪化木は巨木が多いようです。
世界三大巨木は、カリフォルニアのセコイヤ、マダガスカルの竜神木、オーストラリアのユーカリかな? セコイヤはスギ科の巨木。 竜神木はこれが木かぁ?サボテンでねえのか?と思わせるような異様な巨木。 ユーカリは30年もたてば大人一抱え以上にもなる巨木。 それ等、太古の木が地中や湖底海底に埋もり、石化から石炭まで、さまざまな形として現在に残る。 上高地では水没湖。新潟では海底林。いつぞやは海底木が地震で揺すられ浮き出て漁網にかかった。 外国ではカナダの湖底木。中国の鉄幹木(?)は固くて木目が美しいことから細工物に。 ちょっと横道にそれました。^^! いずれにしても埋もるということが大事。 空気中や地表近くにあったのでは風化してしまい形として残らない。
こういった本文には直接関係ないような文や言葉を「さらなる謎解きのために」、ところどころ<推理小説風>に忍ばせてきましたので読み返してそれも楽しんで下さればと思います♪。 ・・・というのは口実で筆者の気分転換(爆ぅ~!) 手塚治虫先生の「ひょうたんツギ」のようなものかな?!
さて藤里の珪化木ですが、筆者は、それを知りませんでした。トタン小屋で囲まれた(写真)も二度とPCで呼び出すことが出来ない^^! おなじ岩手県にある<根反の珪化木>は、学校地図にものっています。 この二つの写真を見た時、ふるえがくるほどの驚きを感じました。 根反・ねぞりの珪化木も藤里の珪化木も共に “直立” した姿を見せていたからです。 寝姿ゴロゴロと思いこんでいた筆者にはとても意外でした。根反の珪化木は直径1、6m?高さ数m?(あとで調べます^^!) 藤里のほうは、それより小ぶりだが、上下は岩?で埋没し中間だけをのぞかせています。 ネットで調べると<埋没林>は、全国で40カ所もあり 、「直立」がさして珍しいことではないことも分かりました。
そのなかの、ひとつ <島根県太田市三瓶火山の埋没林> を取り上げてみましょう。 結論からさきに言えば、100%火山要因の三瓶火山埋没林と<巨大隕石・大津波>が原因の藤里の珪化木とを比較してその違いをさぐるためです。
<三瓶山火山埋没林>
所 在 島根県 太田市 三瓶町 多根 (小豆原川)
発見の経緯 1982年の圃場・ほ場整備で発見かり、その学術的重要性に気付かれた
松井整司氏と三瓶自然館で、他にないかと1994年にボーリングやトレンチ
(発掘)調査をおこなったが見つからず、展示構想のもと県がおこなった大規
模な発掘調査で1998年の11月にその最初の一本を現したとあります。
埋没林 三瓶火山の噴火活動によって埋没し、直径1、5m以上、長さ10m以上。
その大半は、スギが主で立木として21本。 ほかに、トチノキとケヤキの巨木
が発見されている。 10mほどの間隔で生えていたと推定されている。
流木群 火山泥流によって運ばれた巨木の流木群も発見されている。
年代 14C年代(Cの左肩に小さく14と書く炭素14年代測定法)で、3500年前
~3700年 前の縄文代の後期と判明。
埋没層 狭い谷の下から、火山泥流堆積物・火砕流堆積物・河川成堆積物と重なって
いる。 (図と写真あり)
谷の基盤岩は花崗岩であり、その上を覆っている古土に生えていた。その根元に葉っぱや虫の化石があった。その他、詳しいことが書いてありますから、是非そちらへ飛んでみて下さい♪
その一部で、とくに筆者が気になった部分を原文のままで掲載します。
『泥流の後に火砕流が林を覆いました。この堆積物には炭化した木片が多量に含まれていますが巨木を炭化したり発火させるほどの温度ではなかったようで、立木は表皮の表面が若干炭化しているだけです』
以上、無許可で掲載していますので、さし障りや間違いがあれば消します。(゙-゙!)
< 三瓶山火山埋没林と、藤里の珪化木を比較 >
三瓶山火山埋没林 藤里の珪化木 備考
①年代 3500~3700年前 1千200万年前
(14炭素 年代測定法)
②成因 火山性埋没林 ???
(巨大隕石?+大津波?)
③埋没層 泥流・火砕流・河川性物 稲瀬層
(角礫を含む火山弾・凝灰岩)
④現・本数 21本以上 1本だけ?
(スギが主体・21本はスギ) (セコイヤメスギ)
⑤生えてる場所 谷間 谷間?
(およそ10m間隔) ( )
⑥流木群 有り ???
亜炭層有り
⑦成分の状態 木質残?一部炭化 根反珪化木一部炭化
< 以上を、対比考査 >
①に、この<年代>の問題をもってきたのは一番確定的で、一番切り崩しがたいからです。幾度となくこの問題が素人探偵の前にたちふさがる。 「放射性元素の崩壊による減少率は正確に時刻をきざむ!」 これは動かしがたい事実だ。 その度にいろいろに(ヘタな^^:)考えを述べてきたが、その一つに。 任意の物質(N)が変化(崩壊)するとき、その物質が未来永劫、同じ温度で、同じ圧力で、同じ環境のもとにあるならば、その考えは正しい。 しかし、現実は刻々と変わっていて、そのようなことはありえない。 山瓶山埋没林では3500年~3700年で、そこには200年の開きがある。( 千年杉?) 藤里の珪化木にしても4千年前の樹木に、1千200万年前の濁泥が入り込んで石化していれば、「それは1千200万年前だった」とは言い切れない。 このように一見科学的と思える「年代の決定」のなかにも、大きな不安定要素が含まれている。
『 百年前の祖先も、二百年前の祖先も、今の科学を最高だといってきた!』
科学とは、時流であり、ファッションである。 「科学」という言葉のもつ魔力にまどわされてはならない。 科学とは学問であり、その学を問い続けるのが私達の役目だ。 08 10 25
(特に、中学生諸君のために!^^;)
だから「勉強せんでもええ」というのは勉強してきた人がいう言葉であり、それで勉強しないのは、ただの「無知」。 あんた達は「勉強せんでもええ」と言えるほど勉強しとりゃ~せん。(筆者の経験から^^;) これって学校でつかえるかも~~(^-^)
②の埋没林の成因は、三瓶山は100%火山。 藤里のほうの結論は先に預けて。^^!
③の、その埋没層についての比較
三瓶山の埋没林は、下から、泥流堆積層↑火砕流堆積層↑河川性堆積層の順。
藤里の珪化木は、稲瀬火山層と呼ばれる、角礫を含む火山弾・凝灰岩のなかに埋没している。
このように説明されると「ああそうか」で、すましてしまいそうだ。それを言及する前に<三陸の海岸段丘>をカッさらい、北上山地をのり越えて、<胆沢扇状地>を造った“巨大隕石の衝突”と、それによって発生した “巨大な津波が運んだ土石流” に思いをいたすことにしょう。
巨大な塊が地殻をたたく! その表面は空気の擦過熱により軟化もしているが、衝突の応力は火山の比ではない。微細は原子核の破壊から、巨岩の粉砕まで、あらゆる破壊が起こる。その巨大な塊を「拙電子版・報告書」では、釜石鉱山・白水温泉を含む直径約20kmの馬蹄形の地域だとした。
海水は跳ね上がり、地殻は幾度もバウンドする。その巨大津波は北上山地を越えた。「北上山脈」といわず、「北上高地」というのはなぜだ。この地方には、<・・山>ではなく、<・・森>という特異性の山名がある。 巨大な土石流は山の頂までも削りとり、それを平原状にした。 貞任山高原、外山高原、区界高原、平庭高原、等がこれにあたる。
又、この地方の地質を調査した「宮沢賢治」が好んでつかったという<モナノドック→訂正モナドノック=残丘→岩石などの固い部分がとり残されて孤立した丘>があり、物見山をはじめ、貞任山、早池峰山、薬師岳、姫神山、平庭岳等は、その時の巨大津波から頭をのぞけて、その浸食をまぬかれたものだと推理している。
筆者は<種山高原・物見山モナドノック>の巨石に刻まれた≪方向性≫は、四千年前の巨大津波が刻んだものだと断言できる。
*中学生の方へ、この<方向性>赤線ね!あとでテスト(氷河期の痕跡)に出ますョ。(笑)
【 巨石は飛び散り! 大津波は、それ等を押し流した 】
この場合の津波は、水位があがったというより、駆け上がったと表現するほうがあたっている。物見山(○○m)と、室根山(○○m)のあいだに、姥石峠640m・がある。(国道○号線・種山トンネル内は630m)津波は、この高さを +αで越えている。 (いいぞ、いいぞ♪、ナスカの地上絵があった高さ500m丘へは筆者の苦手概算で津波源高さは1000mを要した!)
江刺市の地質図より、
これは<地質センター>発行のものに、江刺市が分かりやすいように重ね合わせているが、それでも専門語句が多く並び、素人的には判りづらい。 おまけにPC画面では字も小さい。
・・んで間違いがあっても責任はもてません。ゴメンナサーイ(^^!)
このほぼ中央で、北上高地の中央線沿って、<人首・ひとかべ花崗岩帯>が南北に走っている。 花崗岩は、御影石とも呼ばれ墓石にもなっている。 この石は地中深くゆっくりと固まったとされている石で、火成岩の安山岩とともに、ごく一般的に陸地をなしている岩石。 先の<姥石峠>は、この花崗岩帯のうえにある。 ここが巨大津波がその表土をはぎ取った中央線だ!
*人首・ひとかべ川、上流沿いの古生層に、<ウミユリ、サンゴ、フズリナの化石>
ウミユリは深海に生息、サンゴは中位、フズリナは浅瀬に生息、それが何故混在するのか?
*真滝層とか、金沢層の夾亜炭層に、<樹木、葦、シダ、珪藻、等の化石>
樹木は陸地、葦は湿地、シダは○○、珪藻は深海200m以上に生える藻。
これ等を津波で運ばれたとしない限り、だれが考えても深海のなかに樹木は生えないし、珪藻類は陸に生息しないよね(笑)
*稲瀬火山層に含まれる玉崎介層に、<貝化石と、植物化石>この層も海生物と陸生物の混 在?
このように、常識(こども心)では考えられない、ことが『東北の地』でおきている。
<地質について>
*角礫岩と角のとれた石の堆積について、
*火砕岩
*陸中の塩基性岩
*SiO2・nH2O・メタル化合物
*石榴石(ざくろいし)
*
*蛇紋岩
*石灰岩 →その時の大津波がうちあげた!?
*等々、素人(探偵)の知識と文章力では、とても無理!汗~! あとは、♪あなたと専門家に(警察に)おまかせ~♪)
これ等に興味のあるお方は<岩手県立博物館か、江刺の地学>の方へどうぞ♪
④と⑤ 島根県・山瓶山の埋没林のスギは21本でした。 で!、藤里の珪化木は1本だけかぁ? 必ず他にもあるよね。 「谷間で10m間隔?、水流の弱まった山影に!」 遊び心のある方どうぞ♪ でも実際に発見けるとなると色々な諸問題が! 島根県○○センターの松井さんに聞いたほうがはやいかも知れないですよ(笑)。
⑥と⑦ 三瓶火山性の流木の化石があった。その表皮の一部は炭化しているものもあるという。東北の場合の流木は、北上高地の尾根(人首花崗岩帯)の東側に沿って、トラしまのように <石炭となって分布している> 浅い所で炭化しているのは“地熱・余熱”、それとも放射熱のせいかな? ドドドッと~越えて北上川流域にも泥炭が! 普通に考えれば地表近くでの木材は、朽ちるのが先で炭化はしないよね。 だが例外もありますよ。南極大陸には石炭の露頭があり(さらなる謎解きにつづきます。)
この「トラしま模様」は中国の炭田でもみられます。もっともこれは<別の大事変>ですがね。
ーおわりにー
そこには微小惑星の衝突による岩石の粉砕と溶融、高熱の発生、それを瞬時に消し止めて運ぶ巨大津波の発生、それらを土中へ揺すり込んでしまう巨大地震の発生。さらに、駆け下った流れと宮城平野から北上川をさか上がった巨大津波の合流点(曲げ袋)。それに刺激された火山。その他「なにが起きてもおかしくない」ことが東北の地でおきている。
その地質年代にしても、遠く宇宙から来た星が衝突し、溶けあい、砕け散り、津波によって混ぜ合わされたものの年代を特定するのは難しい思いますが?。 そして、深海の生物が、浅瀬の生物が、魚が(かま)その余熱で、うす(干す)→<かまいし>に、そして鯨までもが?< >に打ち上げられたと、ご先祖さまは<地名として>遺しておられますが・・??
おつきあい頂いてありがとう御座います。月が変わりました。東北の「巨大隕石」へ、つづきます♪
遅々駄文のうえに、編集にも時間がかかります。 あとで読み返して「何書いてんだか」 自分で意味がわからない。(汗~!) こども心には自信があるのですが、文章はドヘタ。 どうぞのお許しを(^-^!) ♪ いただきい~♪拍手数( )拍ふえました。 さあて、がんばるぞ~、
只今17拍(11/02) どなた様!拍手をありがとう♪ でもね、おいそぎでない方は、コメントを下さると嬉しいな。 これは、今までの世界史になかった<惑星衝突学>を切り開き・実証する大論の始まりですからね。 3名のお方様、確定♪ あとの○名様は?どなたかな? 「それを史実として遺して」おくには、やはり <コメント>として残しておかれる方が・・・?!(笑) そして私の「父・母さんは、爺・婆ちゃん」は、あの大論のはじまりに<交信>した。 と「孫・子」の代が豪語する?♪ ためにもね。(^-^) 08, 11/3.
応援する!でOK♪ 私は○○さんのブログでは、コメント欄をみるのも楽しみにしていますョ♪
この頁の左欄カテゴリー「巨大地震で変形した山々」へつづきます^^!
どなた様、拍手をありがとう^^。 只今('10 5/23)までで18拍になりました。
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