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此処に 「卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸」 あり!!
卑弥呼は魏から得た100枚の銅鏡に換えて出雲と “同じ決め事”で 持ち寄った銅剣と銅鐸を封印した!
銅鏡の入魂遺跡?!
【 お 知 ら せ 】 
 次の記事の予定はいまのところありません(^^!。 
富山へ届いた4千年前の大津波!、出雲でもウッドサークルがあるのでは??、下北半島に残る巨大津波痕!等。 興味は、色々ありますがイマイチ燃え上がるものがありません。それとも北海道の油田でも発見けたろか♪などと思いおる今日この頃です^^!。


 新しい記事のUPがないのにも関わりませず、多数(13名♪)の方がご訪問して下さり、頭がさがる思いが致します(深礼)。 早く次の記事をと思ってはいるのですが、いまいちピントがしぼれず、そのご期待におこたえ出来ないことを心苦しく思います。 その間、拙・電子出版極秘報告書「巨大隕石と大津波」でも見て、お待ちして頂けると助かります。
↑クリックOKです。(^^)♪ 買って下さるともっと助かります(^^!)。 赤貧の史実探偵より、

追伸; 『第○章宝捜し』で油田の発見つけ方等を記してありますから、遊び心とお金に余裕のある方は、どうぞ♪ ただし、当面500円の投資と、容量が1万Kbを超えますので、ダウンロードに相当の時間がかかるから御就寝(おやすみ)前がいいとか?! ( わたしは買ったことがありません。( 汗~(^^!)!) ・・・で私は、皆様のブログへご訪問したり、情報を集めたりして、しばしの休息を楽しみます。♪(^-^)♪  (7/6)記



   ・・・、再開しました^^↓

             < 銅鏡の入魂遺跡?!>

富山県小矢部市の 桜町遺跡に<環状木柱列遺跡>があります。 それを知ったのは、前の記事同様に、ブログ ≪今宵もGacktコスでお散歩~♪≫の<隊長Mさま>のご記事です。

       今宵もGacktコスでお散歩~♪ 5月は祭りが多いです
        http://fatale.blog24.fc2.com/blog-entry-255.html

    ↓その一部を引用させて頂きました。
   目が冴えちゃったので、次に向かったのは隣の市に在る、桜町遺跡です
   友人が発掘作業に参加してたので、覗いて見たくなったのですが、果たして…
   何しろ、8000年前~2300年前の縄文時代の遺跡と言われても、???
   これ、高床式建物の柱材なのかな?(滝汗) ↓

            sakurazuka-2.jpg 
 (←環状木柱列の写真) 
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
<環状木柱列>
 *柱穴や、一部地下だけの残存で、上部は考証による復元!  
その朝日に照らされた木柱列のお写真を見たとき、直感的に “イギリスのストーンヘンジ“ に似てると思いました。 そして、その “朝の光は” ナスカの地上絵を現地で寝泊まりして調査したという(独?英?)の女史が見た<冬至の日の出>に重なる一本の直線を連想しました。 (拙記事 の「BC.2001年の巨大隕石」-(07/02) をご参照ください。→で飛んで見たら・・、南半球の夏至で、しかも朝日ではなくて日没の太陽でした。ゴメンナサイ^^!)

この遺跡は、“冬至の朝日”を取り入れる施設だ! だが、「 何のために朝日を取り入れるのか・・・?」 「・・・・銅鏡に、冬至の朝日を取り入れる!」 ・・・これに間違いない。 新しくに手に入れた銅鏡に冬至の朝陽(あさひ)を取り込むことによって<御神体化する銅鏡の入魂施設だ!!

筆者の直感をもとに、この写真の柱の本数を数えてみると? 四方八方の「8本であろう」との予測に反し、その数は10本であった! ・・・、思惑が違う・・・、自信が揺らぐがこのような時、史実探偵素人が座右の銘にしてきた言葉がある。 『 ご先祖様は嘘つかない!』 現存している史実に、理があわないからといって、その現実を否定することは出来ない。この私くしや今の史学に間違いがあるのだ。この私くしの考えが至らないのだと。

以下<その裏付け>をとることに致しましょう♪(^-^)♪

<方位より>
 ( ・・・ウェブで調べました。 間違いがあったらお許し、お正し下さい。^^!)
四方とは、東西南北。 八方とは、それを4分割して、北東・南東・北西・南西の四隅を加えての8方。 ちなみに、日本建築では、北を<前>だというそうですよ。わたしなら南に向いたほうが気持ちがいいから<南を前>にするのにねえ(笑) これにも何か隠れていそうだ。

五方とは、四方に自分の立つ中央を加えたもの。

六方とは、東西南北の4方に、「天と地」を加えた6方。

思案六方、十方はブタ! ←これは花札用語です(^^!)
花札賭博で数が6になったとき、次札を引いてより強い8(カブ)に近い数字にするかどうかを迷うこと。それが10になると流れて引き分け。(中学生諸君に汗しました)
「十方」という言葉がある?? そういえば歌舞伎で「じっぽうを踏む」ということがある。 ドリフの加藤(カトちゃん)さんが五右衛門姿でやってましたね(片足で舞台をドンドンと打ち鳴らす所作^^)。お相撲さんが“シコを踏む”というのもあるから、前記事での謎解き<島根半島・出雲竜>では、竜の四股に“銅か”を埋め込み、2武神がシコを踏み押さえつけてあるのでしょうね。ちょっと脇にそれました。^^!

八方で思いだすのは、法隆寺の八角円堂(夢殿)が有名! なぜ八角形にしているのか? そして入り口の方角は? その意味が知りたい。 中国のとある寺院では、八角円堂に似た十角の??高層円堂があったが、あれは何だったのか? 厨子か?(厨子とは本来ご本尊を安置するためのもの)、 中国思想と、列島思想との関連は・・・? 難しいことになりそうだ(^^!)

「十方暮・じっぽうぐれ」 ←ありました♪
(十方闇とも書く) 十方暮の「十方」とは天地と八方のことで、暮の本来は「闇」である。すなわち、四方八方が閉ざされたという意味であるが、「途方に暮れる」の語呂合わせであるとの説もある。またその期間が10日間であるから「十」の字を宛てたとも言われる。
  以上、Wikipedia より抜粋

この「環状木柱列」は、十方を闇にして、つまり十方を暗くしてその入り口から冬至の朝の光を取り入れるように設えている。十本の柱の数は、「八方プラス天と地」の十方を象徴しているのだ。 入り口の二本の柱には補強杭が添わしてあり、他の柱より少し高くしてその上部に横木を設えている。この≪戸口・とぐち≫ふうの復元がなかったならば「高床式建物の柱」と見間違えてしまうところであった。専門家の復元力に敬服し、感謝を申し上げたい。 この<戸口>の持つ意味合いについては、「神戸(こうど)とか、夜と昼の境界、闇と光の境目、現世と黄泉(よみ)の国との境界、そして四千年の津波が押しよせた境界」等だと前述しています。

<冬至の朝陽・アサヒを銅鏡に取り入れる>
さて、十方を象徴する10本の柱は立てたし、それを覆い隠す闇をつくり、陰と陽の境目である戸口も付けた。その手に入れた銅鏡が他の依頼か、自分のとこかは知らないが、そのままで「御神体」として使用する分けにはいかない。 いよいよ “冬至の日の出” の光を銅鏡に取り入れ御神体化する「入魂式」が始まる。前夜からその『包・パオ→封(部屋?)←これは仮称です』(祖先は必ずその施設に名を付けていると思いますよ♪)の中に銅鏡を安置しご祈祷をして日の出を待つ。・・だがぁ? 残念!その朝は曇り、日の出が見えない。せっかく待っていたのに「次年度にしましょうや」(汗!~笑)ではかなわない。 そこで考え出されたのが『冬至十夜・とうじとうや』。12月21日~12月30日までの間なら、「いいことにしましょうや^^!」。

<年の暮れ時から、ご祈祷して、旭光を待つ!>
イヨォ(伊与)~、待ってましたぁ~! これ等の所業の根源に気付くのは明日のあなたかも知れないし、はるか先のあなたかも知れない。^^! この考えは?、比叡山・弘法大師・真言宗に色濃く残しています??。 それは専門家に譲りましょう。(^^)♪

<その環状木柱列を設営する場所には決まりがある!>
どこでもいいやという分にはいかない。
筆者は、とある<神戸・こうど>とついた地名の谷間に出かけたことがある。神戸に類する地名の由来が解せなかったからである。 何故、そこが<神さまの戸>なのか? その地名をつけた祖先の発想が思い浮かばない。 冬至の薄暗い朝に車を走らせ、その小さな谷間の上方から下っていった。 ・・・、神戸・こうど=光道・こうどう・・・?ではないのか?の思いがあった。 その小さく湧いた疑念を確かめたかったからだ。 予想はみごとに的中した。
 日の出の光が地を這(は)い、谷の奥まで一直線に射し込んで、この身を包んだ!
その谷を見下ろす場所に「宝満寺」。谷の入り口の小高い場所に「高徳寺」。その時の身震いは今でもおぼえている。 小高く(新島・高量山・にいじまたかくさん)している?のは、そこへ何かのお供えものをするためだ。 その谷がある地区名は<西の谷>。 ちなみに、その谷は、“四千年前の津波”が上陸した場所だと、別紙報告書『祖先からの伝言』で述べています。


<上記と“桜町遺跡”との共通性を探っていきましょう> Yahoo!& 国土地理院・地図で、

 【 桜町・環状木柱列・周辺図 】
                                 (北)
                 → 子撫川 →  →     ↑
        \                               ↑
    △104,5m\                             ↑
            \(桜町西交差点)                  ↑
    ==========国道8号==                    ↑
      ○環状木柱列\       \○○神社            ↑
   ○○神社        \       ======国道8号===   ↑  →高岡C.C.△
            △約80 m\          卍大乗寺        ↑
                  *\JOMONパーク
 城山△185m            \                         → 御坊山△
     愛宕神社            \国道
                        \74号
            ◎小矢部市街地           註: ○○神社名は不明です。

長い間、お待たせしました^^!。
追記がないにも関わりませず多数の(18名^^)、ご訪問に感謝いたします。(^-^)♪
6/18

桜町・環状木柱列のピンポイントでの所在位置の確認に手間どりました。それにこだわったのは、この10本の掘っ立て柱は前述のように、『その谷あいで、冬至の朝陽(あさひ)をとりいれる場所に設営されている!』と推んだからです。調べるとこの“円状の10本の掘っ立て柱”は、桜町遺跡に限ったものではないようで、他にもあるようです。その中のひとつ、(石川県)チカモリ遺跡を取りあげて類推することに致します。

   環状柱列の、所在   生け贄(?)等の供物場所   谷間から眺めた日の出の方向
① 神戸・こうど(西之谷)     → 高徳寺 →       向山公園(岡山県・倉敷市)
    岡山県・倉敷市・船穂町                   (東西線からの角度: 約   )
  *遺跡の確認はありません^^!                    
② 桜町・遺跡      → (~約700m)神社名・未調査 →  高岡・カントリークラブ
  富山県・小矢部市                         (東西線からの角度: 約   )
③ チカモリ・遺跡  → (~約1, 2km)西金沢公民館 → 涌波・日吉神社(石川県・金沢市)
  石川県・金沢市      隣接する神社名は未調査^^!     太陽が丘・北陸大学
                                      (東西線からの角度: 約   )

①の「神戸・こうど」のつく地名は西之谷の奥まった所にある。谷の入り口一帯が<西之谷>という人家のある地区名。ここに小さな池がある。その堤防に立って東の日の出の方向を見れば平地に小高く石垣を積んだ上に「高徳寺」があり、その先の「向山・公園」辺りから太陽が昇るのであろう。向こう山とは、たいへん分かり易い地名をつけたものだ。(笑)

②の桜町・環状木柱列(標高○○m)は、先の図示で△104,5mと△約80mの谷あいにある。 そこから700m程離れて神社(標高○○m)の印しがあるが、地図でその名は確認できない。700mと、離れているのは、その14km程先にある「高岡・C.C.」とかぶらせない為であろう。その時の“日の出”とカブってしまったのでは意味がないからね。 桜町の由来は調べてはないが、<桜木>は、古くには農事呪縛の木であったと前述しておきました。 この谷の南側の△約80mが気になる。ヤフーの航空地図で見ると、周りの桧か?杉?の植林に対して、約150mの円形の植生の違いがあるように思える。その丘上で何かの祈祷集会があり周りに石組み等が遺ってはいないだろうか?と思うのは素人の思い過ごしかも知れない。一時期「城山」として使用されてたようですから、それで壊されてなければの話です。

③のチカモリ遺跡から、それと見当をつけた神社は、東方1.2km程先の「西金沢町公民館」に隣接しており、これもその名は確認できない。さらにその先○○kmに「太陽が丘・北陸大学キャンパス」があるから、おそらく、その辺りから日の出が拝めるのであろう。このように環状木柱列が、谷ではなくて平地にあり、しかもその距離間が長いのは、日の出にカブらない為でもあるが、人口も増えその集団が大きくなったことを意味する。 「太陽が丘」は、もちろん近年につけたのであろうが、それを希望が丘とつけたり、緑が丘とつけたりしてもかまわないのに、それをあえて太陽が丘と名付けたのは、金沢の人達にとってのその辺りは(医王山939mか?)、太陽が昇る場所であるからである。“チカモリ”の由来は知りませんが、おそらく木柱列の周りに森をU字形にして<谷状に作った>のだと思いますよ。「近森」とは、人里近くにその場所を「鎮守の森」と定めたわけですから、きっと、この近くにその居住区があったに違いない。

以上、極小地帯と中・広域の三例をあげましたが、このような文化(考え)は、めずらしいことではなく、他にもあると思います。「ほら♪あなたのお住みになっている町にもね」。ちょっと考えれば、銅鏡が中国から入った初期ならいざしらず、それを自分達で造るようになれば、<その入魂式( ・・銅鐸もか??)>がなければ“ありがたみ”が涌かない。 あっ!それから、「ご先祖さまは、その “環状木柱列” という難しい名前でなくて、何かの名前を付けている」と申し上げましたが、それは 『納戸・なんど』 とか、 『納屋・なや』 と呼んでいたのではないでしょうか? 今では、それさえも死語に近くなってきましたが、こども心には、田の字造りの北西にあり寝所薄暗い納戸部屋が恐ろしくもあり、何で<戸>の字がつくのかな?と思ったりしたものでした。 それが正倉院や夢殿へと変わってゆく?歴史は、専門家に委ねましょう。(^^!)♪

<チカモリ遺跡・環状木柱列について>
   所在: 石川県金沢市新保本町5丁目33

                    ①             北
              ⑩            ②      ↑
            
          ⑨                   ③
                                     北から番号を振りました
                    *
          ⑧                 ④ /     
                                 ④と⑤は入り口か?
             ⑦            ⑤           (/印は、S状の板)
                    ⑥     /      
          ←     直径約6m     →  当時の冬至の朝の光が射し込む方向?

以下; 石川県埋蔵文化財センターより、概略を引用しました。
遺跡の発掘;総数350本のうち約250本が栗の木を半分に割り断面をカマボコ状に加工していた。
(栗の木は堅くて重く石斧で加工しにくい。昔は鉄道線路の枕木に使用されていた。)
直径約50cmを超える巨大な柱根は約40本であり、中には直径85cmに達するものもあり、根本にひっぱる為の藤つるが固く巻き付けられているものもあった。
カマボコ状の弧の部分は奇麗に加工され
(枝や凸凹をなくして?)その部分を環状の内側にして掘っ立てられていた。 又、割れを防ぐためであろうか、その芯が取りのぞかれていた。
図にある⑤と⑥番目の柱には板状に削ぎおとしたものを添わして出入り口状にしていた。
環状柱列の直径は約6mであり、環の中心をずらしながら(幾重にも円が)重なりあっていた(円環のどの部分を起点にしてずらしていったかを知りたい)。 これは伊勢の遷宮
(20年で本殿をやりかえる。出雲大社では60年・よき年よき日だったかな?)のような事かと思われる。

<往時、どのような構造物だったかの意見は分かれている>
一つは、ヨーロッパなどで見られるストンサークルのような大柱を円形に配して神の宿る域を示したもの。 いま一つは、屋根や床、壁などを備えた「祭の館」ともいえるものだとの説がある。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<素人の見解♪>
上記のように、専門家の意見が分かれた時、素人のやり方は、「まあまあ、どちらも、そう仰らないで^^!」 といって、双方の意見をとりあげます。 何故かというと専門家というのは、思いつきを語る素人と違い多くの知識のうえに立っての言であるからです。 只、専門家のわるいくせは、このように意見が分かれた時、他の意見を認めないことかな?。(汗~!) ・んで、素人探偵が導きだした折衷案は、『屋根があって壁がない東屋(あずまや)風^^』

<環状木柱列の不思議?>
以下、思いつくままにあげて、思いつくままに試考?していきますので、あたっていないかも知れません。 皆さんのどうぞのご意見をお聞かせ願えれば幸いです。

① 何故、真円で線対称にしているのか? 
  真円は太陽神からくるものか? だとすると、入り口?から奥を見て左右対称形にしているのは何故か・・? 話は少し変わりますが、今でも朝日・夕日に手を合わすご老人がいることを話したこと(別紙・報告書)がありました。 さすれば、10本の柱は両手の指か? 入り口両脇の柱に添わしてある板状のものは、親指の爪にも見えなくはない。 「爪」に、ついては、「指を詰める」とか<爪崎>等の地名もあり、竜(竜神舟)の爪を削いでおとなしくして頂いて、その禍(わざわい)を小さくするように願ったと謎解きした。
② 何故、出入り口? が東南?に振っているのか?
  これは、素人には「荷が重すぎる」 冬至の朝の太陽光を取り入れるまでは、謎解きしてきたが、それにしても南へ振りすぎていたり、富山の桜町遺跡や、他の地の出入り口がどの方向にあるのかが確認できていない。それと、ストーンヘンジ等にあったように<夏至の日没>が気になる。 (是非に天文学の御参加を願っています。)
③ 何故、栗材を使用しているのか?
  これは、まったくの根拠のない当てずっぽうですが^^!、栗の実のトゲトゲが太陽に見えなくでもない。そして、屋根があっても無くっても、掘っ立て柱にすれば、松や杉ではその境目が直ぐに腐ってしまう。その点でも栗材は丈夫だ?
④ 何故、大木を半割りにしているのか?
  そして、その割り面を外側にしているのか? 丸太のままでも良さそうに思うがその意味がわからない。(荒)神威力の半減か? 夢殿は円柱だったと思うが?
⑤ 何故、同じ場所に設えているのか?
  これは、用材の腐りや、<4千年前>の彗星が荒神に変身したことに基づくのではないだろうか。(ハレー彗星の周期は76年)彗星が現れたら新しくやりかえる? 最初は細い用材から段々に太い用材へとかわっていく。 8本の円環もあるのは、最初は八方の考えであったが後に十方の考えへと変化した? 蛇足ながら、遺跡の保存という無理からぬ事情があるにせよ、他の場所へ復元したのでは、この施設の意味を失う! 祖先は四千年前の津波が押しよせた<冬至の朝日が射し込む谷>の入り口に、この施設を設えている。 どの谷でも、どの場所でもいいや」と云うわけにはいかない理由がここにある。
⑥ では、前のものを掘り上げて、同じ穴を使用してもいいように思うが?
 そこは、それ、誰でも? 神様でも?(笑)新しいものには新しい穴がいいからね。この場合、10本の内のどの柱を起点にして新設しているかが重要な意味をもつ。
⑦ その他  この施設が何時に始まりどのように変遷していったかについては、今後の課題としましょう。^^!  

<仮想メモリがなくなりました。簡単に結びます>
この施設で笹竹を燃やしその倒れる方向によって次年度を占うというのがあった。 時代の流れとともに微妙に変わる “多目的ホール” と考えるほうが楽だと思いますよ。(笑い) いずれにしても、今の私達が神仏にたいして何をなしているかが謎解きの鍵になる。

“冬至の朝の光” を取り入れるために、入り口を残し暗幕を張る! 今でもお葬式や事始めのお祝いのときには幕を張りますよね。地球には 『歳差運動』 があり、約70年に1度角(?)、日の出の方向がずれていく。 筆者は、3世紀初頭の卑弥呼の代(約1700年前)の <冬至と、夏至の、日の出の方向>を知りたい。 その<伸びゆく影>がこれ等の環状木柱列の入り口に重なって欲しいと願っています。(今年の冬至が楽しみだ♪)
 そして、その願いを新しく来る年の <初日の出> に拝むことに致しましょう。(^-^)♪



 次の記事の予定はいまのところありません。 風の向くまま気の向くままかな? ・・・^^!、
                                            ・・・つづく・・

どなた様、拍手をありがとう♪ 只今までで('10 5/21)3拍になりました。(^-^)
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