卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」
此処に出雲と同様、“大量の銅剣”が埋めてある! 全国歴史ファンの方々、三上山に集合せよ。
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徐福達が日本史に与えた影響、そのⅠ.
前記事<卑弥呼の謎解き<その後Ⅰ>のつづきです。 ご訪問ありがとう御座います。 またまたお付きあい願います^^。  (8/01~8/13)

【 前記事の要旨 】 
Ⅰ、列島の津々浦々から出土している (謎Ⅰ)銅鐸は、いつ誰が流布したのか?
   そして、(謎Ⅱ) 「津」の地名は誰が統一したのか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<徐福について> (7/27) 
話は変わり、卑弥呼より400年ほど前だったかな。日本では縄文の頃。前記のような歴史的背景から秦の始皇帝(BC221即位)は、「徐福(BC278誕生)」という人に童男童女3000人を与え、東方の彼方へ出向き “不老長寿” の薬石・薬草を持って帰れと命じた。(又は、徐福が願い出た。) いわゆる 「徐福伝説」 と云われているものである。 私は、この史実(?)をブログ<いずものこころ>で知ったとき、「ペリーの黒船来航」も比ではない程のカルチャーショックを受けました。(詳しくは、そちらの方へどうぞ^^)
特に気を引いたのは「3000人もの童男童女」です。西洋にも東方探検の歴史はある。しかし、それは未知なる地への探検であり、当然屈強な男達を連れて行きたい。危険を伴う船出に女性子供は足手まといだ。 「潮来一枚下は地獄」といわれた時代。なぜ童男童女なのかが解せない。米大陸の“レディファースト”の考えが生まれたのは大西洋を渡る時、非力な女性の数を少数に制限しなければならなかったからだ。

<コメント欄より転載> またまた転載させて頂きました~^^
 童男童女  shigechanizumo | URL | 2010-07-28-Wed 16:14 [EDIT]
新しいシリーズのご健筆をお祈りします。と、言いつつ困って頂きたいことを書きます。
なぜ童男童女を連れて行ったのか、足手まといなのに・・・とあります。
私は、徐福さんと握手をした夢を見ました。そして、その時徐福さんは、「この童男と童女、あなたにあげるあるね。」と言ったように思います。
「何でこの童男童女を私にくれるのか。」と聞いたところ、徐福さんは、「あなたのいい様に育てれば良いあるよ。」と言いました。
その間、じっと私を見ていた童男童女の目が忘れられません。
なぜ徐福さんはそのようなことを異国の私に言ったのか、考えざるを得ませんでした。
私が出した結論は、日本列島の乗っ盗りのために童男童女を連れて来たのだということでした。
童男童女の心の深層には、どのように育てられようとも、幾年が経とうとも、同胞が再び訪れたならば、あるいは機が熟したら日本で増殖した子孫とともに永劫楽土を作るのだということが刷り込まれていたのです。
徐福さん一代では、どのように頑張ろうとも限界があります。その後を託すために、いかにも貢ぎ物のように日本列島の男に童男童女を与えて育てさせるのです。
いつかはその童男童女あるいはその子孫に、育ての親を捨てさせて、徐福さんが頭の中に描いていた理想郷を作るというスィッチが入るのです。
そうです、徐福さんが童男童女を伴った理由は、その童男童女をトロイの木馬ならぬ、恐ろしい貢ぎ物とするためだったのです。
真夏の夜の夢夢でした。迷わず書き進められますように・・・。


 お暑う御座います。 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-07-28-Wed 19:19 [EDIT]
Dr.> コメントありがとう御座います♪
楽しく興味ぶかく読まさせて頂きました・・・^^。深淵な“ヨミ”をすれば本当にそうなのかも知れません。(米国は、第二次世界大戦で敗戦国である日本の学校給食に脱脂粉乳というタオル(援助)を投げ入れました。それが今では牛乳を飲みパンを食す文化にどっぷり浸かりました^^!)古代中国では大家同士で、実の我が子をやりとりする風習がありましたよね(師のブログ中だったかな?)これが戦争抑止力に働くのか、お互いが親戚として末永くお付きあいしましょうねに働くのか、はたまた相手国を乗っ取る結果になるのかは解りませんが。その童達からすれば悲しいものを感じます。歴史をみれば列島からも娘達を相手国へ差しだしたとも聞きます。<おカミへ○○を差しだす>その○○が童や娘であるのは悲しいことです。楽しいコメントや(きついコメントも含めて^^! 翻意や正答に繋がりますので)お待ちしています(^-^)♪

<それが、何故、童男童女なのか?> (7/28)
列島では、丸太くり抜き舟がやっとの時、中国では、すでに○○人乗りの帆船を有していた。とは言え、3000人のこども達を分乗させた操船力・推力の弱い船団の全てが、ヨーイドンの横一列で出帆するわけでなく、海流の速い対馬海峡を渡って同じ地に着岸できるものではない。それから○○百年?後の遣隋使・遣唐使の時でさえ航運を祈るための特別な男(○○)をしつらえて航行が上手くいけば接待三昧♪、上手くいかなかったら、全ぇん~部、その男が役に立たなかったからだとして^^!その命を断ったという。いかに○○人乗りとはいえ未成熟な帆船。海流に流され分散して列島の日本海沿岸の各地(唐津?、萩?、出雲、石川、富山、あるいは秋田、青森まで?かな^^!)にたどり着いた。
この人達の目的は、その恐ろしき神が棲むという東方から『不老不死』の薬石を皇帝に持って帰ることである。童男童女を使わしたのは例え何代かかろうとも「必ず持って帰れ!」との皇帝の強い意志があり。そこで安穏と定住したとの噂でも立とうものなら、たちまち皇帝の軍に討伐されてしまう。始皇帝は万里の長城を築城させるほどの強権の持ち主。その恐ろしさは云うまでもない。(その出帆の9年後?に没した始皇帝ではありましたが「あれほどの物資や人を持たせたのに、何故、徐福は<その妙薬>を持ち帰えらんのだ!」と怒ったそうです^^!。)

<徐福・その後>  (7/29)
徐福達は、例え何隊に分断しようとも<一段落>がつけば必ず沿岸沿いに西進、或いは東進して仲間達(徐福)を捜し合う。ブログ<いずものこころ>の記事のなかに『大勢の神々が天より下りて酒を酌み交わした』というくだりがありましたが、素人探偵はこれを徐福達の船団が再開か無事を喜びあった場面だととらえています。そこで「我が着岸地にはこんな“モノ”が有りました」等の連絡・情報の交換が行われ東西に妙薬探しの為に行き来する航路がだんだんに出来あがる。そして徐福が居るべき本拠地も定まってくる。除福は(?)、一時的に(?)かどうかは分かりませんが、薬石・物資を集める司令地として“出雲”に在住していたのではないでしょうかぁ? (出雲の優位性、先進性は、カテゴリー出雲地方; Dr.>とのやりとりへどうぞ・・)

賢明な徐福のこと。如何にすれば列島の珍宝薬石を集材し、中国に送り届けるための組織をつくりあげることは簡単なことだ。今の会社組織でも本社があり支店がある。創作話として、出雲に本社、支店を丹後、越前、富山、越後、新潟、酒田、牡鹿半島、艫作崎におく。(これ等は、思いつきであげましたが、要は今現在に発展しているところと竜神文化と出雲の神の影響があるところと申し上げておきましょう。何故ならば、この人達が日本海沿岸の発展に寄与したと思っているからです。)次に徐福のなすことは、要職・部下の配置転換。そして(童男童女の)社員教育。有力情報があれば支部への視察出張もしなければならない。さらには、本社で年一回の<支店長会議>を設ける。忙しい忙しい師走に!(笑)
これから先は、Dr.>や、皆さんのほうがお詳しいから、そち等へバトンタッチ^^!

<皆様へ>  わたしが、shigechanizumo氏>のことをDr.>とお呼びしているのは、素人探偵の歴史的知識の80%以上は氏のブログから得ており、遊び心と尊敬から、Dr.ワトソンと、シャーロックホームズをもじって、Dr.Izumo>と、Sher-rock.Homeless(降岩家無人)略して、Mr.ホームレスと名乗るようになりました。(アハハと、・・・泣き笑い^^!)

<中国へ仕送りする航路の準備> (7/30)
それぞれの分団もその地での仮生活が営めるようになれば、早々に集めた物資を本国へ送らねばならない。傷んできた船も修理したい。途中、水やら食料を補給するための沿岸中継港もいる。帰りの航路で対馬海流を横切るには出来るだけ西から出港した方がよい。それの当初は長崎辺りかも知れないし、対岸への着岸は朝鮮半島の東方に流されたかも知れない。<唐津>からの出港は、その名からして船の推力が増してから後のことかも知れない。このようにして三角形の航路ができあがる。九州<博多>で気になる情報を得ている。○○川の西と東で祭りの形式が異なる・・・?

<前記事の、コメント欄より転載>
不思議  shigechanizumo | URL | 2010-07-30-Fri 16:41 [EDIT]
3000人もの童男童女とされています。
ここで不思議なことがあります。
彼らは文字を使っていたのか。
彼らの話し言葉は何だったのか。
もちろん当時の漢字と中国語を使っています。
多くの技術者や、童男童女が日本列島に着いた。そして散らばった。
漢字や中国語が何らかの痕跡を残さないはずはありません。しかし、その痕跡がない。弥生式土器に残された文字は極めて少なく、その上にひとつの土器に一文字くらいのものが稀にやっと見つかっているのです。
私たちは、縄文語だなんだと日本語の起源を探ろうとしていますが、ドッと3,000人もの中国語を話す人が一度に来たのなら、それはクラスターともいえるのですから、どこかの地域あるいは広がりに中国語の痕跡が残らなければなりません。
ところがこれもその痕跡がない。
では、ただ残らなかっただけなのか。そんな馬鹿なことはありません。
私の推理はこうです。
彼らは決して日本列島の人々に文字を教えたり、中国語を教えたりはしなかった。
その理由は、彼らがプロとしてのエージェント教育を受けていたからです。日本列島の人々が漢字をたやすく使えたり、中国語を理解できるようになってそれを話すようになれば、特命を受けて日本列島にやって来た自分たちやその子孫と、区別がつかなくなるのです。
彼らはあくまで秘密結社としての集団性を維持する必要があったのです。いかに多方面に散らばろうとも、漢字を用いて中国語を話す人と出会えば、それはまさしく秘密結社の一員との遭遇であり、同胞との遭遇であると確信できるように、彼らの文字と言葉は彼らだけの間のものとして保持していたのです。
徐福の一団恐るべし、と言うべきでしょう。


自分も似たようなことを^^!  史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-07-30-Fri 20:10
Dr.> コメントありがとう御座います(^-^)♪
さすが、Dr.>わたしの弱いところを突いてこられました。ありがとうございます^^。 “徐福団”が銅鐸の流布や津々浦々の言葉の統一に関与している?と踏んではいるのですが、Dr.の云われるように各々の関連性がまったくみえないのです。中国では天津(てんしん)日本では津(つ)。そして、中国では秦(しん)を日本では秦(はた)と読みます。はた」は自分達の村落の近くに住む<端(はた)の人>なのでしょうか? このように仏教がはいるまで、(否、入ってもかな?)物質文明はべつとして、言語・精神文明は全く交えていません。かといって徐福団の関与を否定すると・・・《では、いったい誰がどのようにして銅鐸を流布したか??》・・・こまった!困った!  (コメントを勝手に記事へUPさせていただいてます。もし差し障りがあれば・・・、)

<“徐福”薬石探索隊が、日本史に与えた影響とその役割 ?> (8/01)
童男童女3000人を引き連れた“徐福薬石探索隊”
            (以下、Dr.に習って徐福団と呼ぶことに致しましょう)
その「童男童女」とは? そして、その航海・探索隊の構成は? (以下、リアルタイムで考えていきますので間違いを含め多いに迷走ありと思われます。Dr.を始め皆様のコメントが頂け、正しい方向へ討究できることを期待します。 どうぞの御参加を! 尚、このブログ記事は、将来(没後^^?)に、本になるやも知れませんので、そのコメントを当方が無償で使用できることを御了解のうえでの投稿をお願い致します。-深礼-)

童男童女とは何歳ぐらいの者をいうのか。
中国で云う童男童女とは何歳ぐらいの者をいうのでしょうか? 筆者はこれについてまったく知らない。青年以上の者なら「童男童女」とことわりはしない。(ちなみに、中国語の火車=自動車、汽車=列車、お手紙=トイレットペーパー、^^!)日本の場合にしても「男女7歳にして席を同じゅうするべからず」とあり、今の感覚でそれを云うのは差し控えねばならないが、考えようがないので仮に15歳以下としよう。下は長旅にも耐えなければならないので10歳以上とする。では3000人のすべてがその年齢の者達とするには無理がある。話半分として1500人にしよう。青年以上が1500人。その青年以上の振り分けが問題だ。

当然のことながら、前準備として、その選考選抜。教育等が行われる。第一には船を操る者。次には薬事に長けたる者。これは少数でよい。珍しいものを持ち寄らせ長たる者が検分すればよいからだ。第三番目には人が居住するやらしないやらも分からない未知なる恐ろしきところへ出向くわけであるから軍人はしっかりと確保しておきたい。次に考えたいことは帰れるやら帰れないかも知れない長の旅路。衣食住もそこそここなす者も連れていきたい。

古代中国の分業がいかに進んでいるかは知らないが、日本の場合には<服部、金辺、陶>のような専業を表す地名が残っている。(つい今し方の^^?江戸期や明治においてもそれぞれの技術は門外不出であった)それらの兼業ができる者が欲しい。婦人もいくばくかは連れて行きたい。これ等3000人もの人の構成を考えるには、相当の準備と熟慮を要するが、一番重きを割きたいのは軍人と船乗り。1500人の半分以上は是非とも欲しい。これは水兵として兼務できる。 何故、筆者がこのように細々とその割り振りを試みているかと云うと、その時の列島では(こん棒片手に?毛皮の腰巻き??-笑-)の縄文石器の時代。それに対して3000人を未知なる地へ送り出すことができる圧倒的優位の文明を持つこの人達が、その後の日本史へ与える影響は決して少なくないと考えるからです。

疑問  shigechanizumo | URL | 2010-08-02-Mon 13:48 [EDIT]
例えば、1500人の童男童女。とはいっても、童男と童女の割合が分かりません。
同数だったのか。
童男1に対して童女10だったのか。
あるいははたまた童男10に対して童女1だったのか。
極端な話、童男1に対して童女100だったのか。またその逆なのか。
探検の足手まといになるはずの童男童女を伴ったのですから、その割合に何か秘密があるようにも・・・。

ひょっとして  shigechanizumo | URL | 2010-08-02-Mon 14:55 [EDIT]
童男10人、童女1490人だったとしましょう。一番単純に考えれば、何年か後に徐福の集団構成はどのように成るのでしょうか。種馬10頭、牝馬1490頭の壮絶な種付けやいかに・・・。

あれっ  shigechanizumo | URL | 2010-08-02-Mon 15:50 [EDIT]
男1490人、女10人とすると、同じく1500人でも、夫婦としては10組がいるようなものです。
ところが、男10人、女1490人とすれば1490組の夫婦がいるようなものでは・・・???
ひとりの女が4人子供を生むとすれば、前者では、一世代で40人の増加であるのに対し、後者では5960人の増加となります。


童男童女を含む3000人か?  平 素人 | URL | 2010-08-02-Mon 23:17 [EDIT]
Dr.~ッ> ハハハッ たのしいコメントありがとうございます^^♪
童男童女3000人を引き連れて」とはいうけれど、Dr.>の云われるような可能性を考えると、現実的には<童男童女を含む3000人>に修正したほうが良いかも知れませんね。始皇帝は徐福の出立後9年後?(○○歳)で没しています。徐福に膨大なる物資と人を与えたということは、よほどその “不老不死の霊薬”が欲しかったのでしょうねえ。そして何故に<東方>を選んだかにも注目しなければなりません。東方には 「未知なる恐ろしき神」 がおわすところであり、だからこそ、そこに霊薬がありと考えたのではないでしょうか? 3000人の構成は全くわかりませんが、この二つを強く念頭において、もし自分が(皇帝・徐福)だったらどのような陣容にするかを考えるのも楽しいでしょうね(^-^)?

徐福団3000人のすべてが無事に列島に着岸できたとは思えない。 (8/04)
今から2200年余り前の航海力。最悪の場合を想定して、半分の1500人がそれぞれの地にたどり着いたとしよう(合掌)。1500人にしても大した数である。例え一船団の30人?が着岸しても当地の人達はビックリ仰天する^^。
徐福団は自給自足の生活は覚悟の上ではあるが、難儀のあとの航海疲れもあり。そこに住民がいれば水や食料をくれないかと乞う。勿論抵抗すれば争いとなるが、住民側にすれば、びっくりが先で「何も拒む理由はない」そこで融和らしき関係が出来上がる。徐福団の場合、薬石の探索が主目的であり、中世にみられる植民地化を目的とはしていない。植民地化が行われたのはその地に自分達の欲しいモノがあると分かってから後のことである。そして住地・住家の獲得提供へと進めば、お礼として病人の治癒へと発展する。 列島の人達から見れば「神様がお出でなすった」(^-^!)

<中国という国に思うこと> (8/5)  (中学生諸君のために^^)
中国に、「白髪三千丈」をいう漢詩があります。「丈」は長さの単位で10尺(1尺は約30cm)。憂えていたら白髪が三千丈にもなった^^!。ちょっと?おおげさな形容のようですがあり得ない話ですよね。日本にも「嘘の三八・さんぱち」という言葉があり、3と8がつけば嘘っぽい数字のことをいいます。このようなことから「童男童女3000人」は、あてにならない数字だとする人もいます。しかしながら、万里の長城や、西安の兵馬俑(○○体)をみれば、中国の場合。まんざらその数字が嘘でもないような気がします。

 そして、中国は“医食同源”国。特に医薬において驚異的な?話を聞かされます。何万元もするような茶葉、熊の肉球、コウモリの糞から得た未消化の蚊の目玉、或いは、深山にしか生えないというレイシ茸、絶壁に住む岩ツバメの巣。勿論このようなものが一般に食されるわけではなく富と権力を得た人が蒐集するのでしょう。しかしながら、その蒐集にはすざましい迄の意気込みを感じます。 対して、日本では 「初物を食べると三日長生きをする」(笑)(この“初物”の言葉に、素人探偵は歴史的な深い意味があると思っています。それは又の機会に、^^!)

 さらに、中国に「童子撫髭」という絵があります。これは、長く伸びた老人のあごひげを童子が不思議そうに撫でて、それを老人は嬉しそうに楽しんでいる場面の絵柄です。これは、特に誰それの絵という分けではなく、中国の人達が好む(習作?)題材のようです。長寿を重んじ、老人を大切にする國。日本でもこの夏休み中に孫と爺婆が行動を楽しむ場面が見られたらいいですね。


深海魚  shigechanizumo | URL | 2010-08-06-Fri 15:27 [EDIT]
私は、徐福さんが発見しようと思ったのは、深海魚エキスだったのではないかと思います。
中国は大陸棚のおかげで近くに深海がありません。しかし、時たま変な深海魚が流れ着いていたことでしょう。
ではどこへ行けばそうした深海魚は採れるのか。東の深海、すなわち日本海溝、マリアナ海溝辺りの深海に目をつけたとか・・・。


深海サメの軟骨?  平 素人 | URL | 2010-08-06-Fri 22:25 [EDIT]
Dr.> こんばんわ 暑いですねぇ^^!。コメントありがとう御座います♪
“深海魚のエキス” それはそれは興味深いはなしですね。あとの記事に揚げさせて頂くことにしましょう。人類が追い求めたくすりで、<精力剤・かぜの薬・薄毛の薬>があります。 これを発見発明すれば大金持ちになれると云われてきました。精力剤はバイアグラ。風邪の薬はイタチごっこ。薄毛の薬は兆しうすし^^!  でも、その”深海魚のエキス”が何に効くのかは分かりませんので、Dr.>が保証してくださいよ(笑)。  
  
<徐福のとある一団の場合を仮想>  (8/08)
徐福団のなかのとある一団について仮想をしてみよう。これは、それぞれの船団の構成員と着岸地の状況によって異なってくるのは当然であるが、目的が同一なのでおおむねは似たような経過をたどる。その一船団を30人としよう。これも仮想です。割り振りは軍人の男達が20人。残りの10人は婦人とこども達。場所は、佐渡島を経由して<新潟・富山>としよう。この北陸地方を選んだのは、ブログ<いずものこころ>の一ファンの方で<秦・はた>に関係する名字の方がおられたからです。

まず漂着の後になすことは、そこに住民のありや無しやを確かめる。「東方神起」の列島である。自分達に危害が加わるようであれば戦わねばならない。だが意外や意外「狩猟、焼畑を?営む石器時代の人達」であった。(今でも、東北?中部?の方だったかな。伝統の焼畑をまもり続けている村落をTVが紹介していました。)航海疲れもあり食物や水を乞う。勿論、抵抗すれば争いとなるが、女子供を有する軍団。出来れば戦いは避けたい。一方住民側にすれば、見たこともない異様な人達が大船でやって来た。びっくりが先で戦う気などおこりようがない。

ペリー提督が4隻の軍艦を連ね、その砲筒を江戸城に向けて開国をせまったというが、実際に戦えば多勢に無勢。砲弾がつきれば退却をせざるを得ない。そのようにならなかったのは、圧倒的巨船(○○○トン)を見せつけることによって、相手が戦意を失ったからだ。ちなみに、大陸や半島の銅剣が殺傷用なのに対して、日本側の銅器の多くは祭祀用として出土している。遺骨に殺傷の痕跡がでるのは弥生期以降と聞きます。

<コメント欄より転載しました。>
怖れ  shigechanizumo | URL | 2010-08-09-Mon 09:09 [EDIT]
怖れとはひとつの想像力なのでしょうから、その想像力を働かせる範囲を越えたものを見たときには、人々は違った反応をするでしょうね。
むしろ好奇心が湧いてきたりするでしょうね。
そうなれば融和は簡単ですね。


対立  shigechanizumo | URL | 2010-08-09-Mon 09:13 [EDIT]
対立というのも同じようなことで、相手を推し量れるから対立関係が成り立つのでしょうね。もしそれが推し量れないほど圧倒的なさであったなら、ひれ伏すか、逃げ出すか、その反対なら慈愛を持つとか、庇護的な立場を採ることになるのでしょうね。

暑さで思考が支離滅裂!  平 素人 | URL | 2010-08-09-Mon 21:28 [EDIT]
Dr.> コメントありがとう御座います(^-^)♪ 
この暑さで、一度筆をおくと、思考の連なりがとぎれてしまい、さて何処まで進んでいたのだっけとか、なにを書こうとしたのだっけとかが思い出せず、考えが支離滅裂になってしまいます。 このコメントも記事本文へ転載させていただきますね^^!。


<Dr.コメント; 怖れと対立へのお返事>  <8/09>
怖れについて; 徐福の一行が列島に対して抱いていた「怖れ」とは。今から4000年程前。東北地方の釜石あたりへ降臨した巨大隕石(?20kmφ?)に伴う地震と津波。通常の地震が地下100km~10km深さに対して、巨大隕石が起こす地震は表層地震であり、力の伝導はより動きやすい方(弱い方)へより大きく働きます。素人は例え話しとして「風呂場の湯漕の底の方で拳を動かすのと、同じ力で水面を叩くのとでは、力は同じでもその水面の波高は大きく異なる」としています。その時出雲にとどいた地震は幅約5km、長さ60km、帯状の島根半島の岩石を粉砕したと謎解き(カテゴリー出雲地方)しましたよね。そして、帯端(日ノ御碕)は大きく跳ね上がり、リバウンドして玄武岩を噴出した(地震の舳先・船尾効果←筆者提唱)ともしました。この地震が半島や大陸へどのように伝わったかは分かりませんが、朝鮮半島へ伝わった津波はその地名を調べていますので後ほど・・・^^、
Dr.>の言葉で、歴史という言葉に人格をもたせて 『歴史が記憶する』 があります。わたしは、この言葉をとても気に入っています。徐福が東方へ出かけたのが、その大事変から約1800年程後ですから、未だ歴史はそれを<怖れ>として覚えていたのでしょうか?(それとも想像かな)それが4010年経った今では史学・科学でさえ、欠片もない程にすっかり忘れてしまった。(笑)わずかに、その名残として<荒神さま、竜神さま、水神さま>が生きていらっしゃる。

<徐福一行と、現地住民との対立と融和>  (8/10)
徐福のとある一団30人は( それを甲組と名付けます。)恐ろしき地と思いこんで着岸したが、思いのほかそこの住民から水やら食料の提供も受けた。(中学生諸君へ、ここでちよっと子供心が閃きました。何故、神様に“お水”をあげますの? 水は 「湯水のごとく」 と云うようにふんだんにある。神様がその水を貰ってもちっとも嬉しくない。水はいらないから御神酒のほうをくれ^^! って神様が云うかなぁ?(笑) このように今の私達が何気なくしている所業にも謎解きの鍵は潜んでいます。)ちょっと脇へそれましたが、仮設の住家も住民達の近くに決まった。列島の住民が山と平地の境目の小高い丘(焼畑)をテリトリーとしていた(??)のに対し、甲組の人達の食料は米作りに適した平地の湿地帯を選んだ?のも幸いした。 列島の住民はその人達を『秦=端・はたの人』と呼んだ。列島の米作りの始まりは6千年前(米に含まれるプラントオパールより岡山大学)ともいわれるが、その栽培技術は大きく異なっていたと思われる。このように住家地帯を棲み分けることと、その先進性を取り入れることでたいしたトラブルもなく徐々に融和へと進んでゆく。

その裏付けとして、北陸地方に秦の名字あり? Dr.>も、西出雲と東出雲の(或いは出雲市内でも??)風習が微妙に異なると云われていましたよね。筆者がそれと確信したのは<九州博多>で川の西と東では祭りごとが異なると聞いた時からです。 読者諸氏の地域でもこのような心当たりがあれば、史実として確定的! 

対立について;
では、甲組~甲乙丙丁組のすべてが融和へと進んだか? Dr.>が「対立」の言葉を払拭しきれていないように、筆者も列島の一部地域では対立もあったのではと想像しています。それはもう少し記事を進めてからにしましょう。

<徐福達が列島で求めたモノは?>
一口に「不老不死の薬」といっても・・・皆さんもごいっしょに^^←乞コメント)


不老不死の薬  shigechanizumo | URL | 2010-08-11-Wed 09:24 [EDIT]
不老不死といっても、それは単なる願望から来たものだとは思われないのです。やはり、何らかの実例に近い事例があったのではないでしょうか。
150歳の老人が元気に酒を飲んで笑っているとか、180歳の老婆の肌が、若い娘のようにツヤツヤだったとか。
そうした事例を見て、これには何かの原因があるはずだと考え、不老不死の薬があるに違いないと思ったのではないでしょうか。
そうでないとしても、例えば夢・錯乱の中でそのような光景を見たために、不老不死を実在の現象として確信したとかということがあったのだと思います。
それにしても、今日身の回りを見渡しても、元気の出る薬とか疲労回復の薬といったものがありますので、一見それの延長のような形で不老不死の薬が存在すると思ったのでしょうか。
私は、そうではなくて全く別物として存在するのが不老不死の薬だったのではないかと思うのです。どういうことなのか。以下続きます。


感謝  shigechanizumo | URL | 2010-08-11-Wed 09:35 [EDIT]
私は今回いろいろと考えさせてもらえるこのblogに感謝しています。
というのも、長寿と不老不死とは同じなのかということについて考えさせられたのです。
そして、やはり長寿と不老不死とは全く別の概念なのではないかと思ったからです。長寿を願うものは人みな同じです。そしてその延長に安らかな満ち足りた死があるというものです。
しかし、不老不死とは老いず、死せずなのです。秦の始皇帝は長寿を願ったのでしょうか。あるいは、老いず、死せず、を願ったのでしょうか。それによって徐福が探しに行った薬も異なるように思うのです。


頭に暑気がぁ~  平 素人 | URL | 2010-08-12-Thu 04:42 [EDIT]
     (謝々) ↑、皆さん>URL Dr.ブログへヒットしますよ♪
Dr.> こんばんわ?から、いくら考えてもコメントがまとまらず朝になってしまいました^^!。
コメントありがとう御座います♪ 師がコメントを下さることにより素人の拙い記事でもより多くの人か面白く読んで頂けるものと感謝いたしております。私の「不老不死、長寿、(健康)、霊薬、妙薬、(薬石)」の言葉は、師のブログで得たものであり、始皇帝のことを全く知らず、それを軽薄に使ってしまいました。私は師のブログをみてショックを受けたことがあります。「國譲り」の件で「現世(現世界?)は大和に譲るが、霊界(あの世)は出雲がとる」。こども心が思うに「あの世を貰ってもねえ・・・笑」 古代人には”あの世”^への概念がかくも強くあったのかと・・・! (それともお布施・寄進のシステムの保持・・・?) 「不老不死」とは、現状に安息を感じているものであり、あの世の安息ではない?? これは中国人と日本人の考え方の違いか・・??
 ・・・前頭葉がぁ~~~コメントにならずごめんなさい。・・・・


ヒント  shigechanizumo | URL | 2010-08-12-Thu 09:22 [EDIT]
いいことをおっしゃいますね~。秦の始皇帝が考えた不老不死とは、「死して後生きる」ということだったのかもしれません。「死して後生きる」ということの証明は、兵馬俑(へいばよう)に表現されているのではないでしょうか。
秦の始皇帝は死んでいます。しかし、その死とは現世での死だったのです。
兵馬俑は地下にありました。明らかに黄泉の国です。秦の始皇帝が望んだ不老不死とは、現世での死と、あの世での死とをにらんだものです。現世では死しても、あの世ではなお生き続ける。これこそ不老不死であると・・・。
そして、秦の始皇帝が求めた不老不死の薬とは、あの世で生きながらえることができる薬だったのではないでしょうか。
徐福は、秦の始皇帝にその薬を届けたのではないでしょうか。秦の始皇帝は、その薬を飲んで現世での死に臨んだのです。
そして現世での死後にその薬が効き始め、あの世での不老不死を得たのです。
そのことを予期していたからこそ、地下すなわちあの世に兵馬俑を作らせておいたのです。
結語。徐福は薬を得て、再び秦に戻った。不老不死の薬を得た秦の始皇帝は、その薬を飲んであの世に旅立った。秦の始皇帝はあの世で行き続けている。その事実は知られてはならない。徐福は殺されたのですが、そのことを秘するために秦には戻らなかったとされたのです。


深読みに拍手!  平 素人 | URL | 2010-08-13-Fri 06:38 [EDIT]
 Dr.> (ヒント)コメントありがとう御座います。(^-^)♪
『「死して後生きる」ということの証明は、兵馬俑(へいばよう)に表現されているのではないでしょうか。』  ・・・深読みですねえ・・・。そこまでは考えが及びませんでした。兵馬俑が何故造られたかは謎の一つですよね。それはじゅうぶん過ぎるほどあり得る話です。徐福については中国においても重きをおいて取り上げられて居ない?ようですから、Dr.>が、その<始皇帝=徐福=兵馬俑>の関係を、明らかにされれば面白いことになりそうですね♪(^-^)♪
 URLの件、ありがとう御座いました。 そのURLを徐福の御記事に連結して下さると、これに興味を持たれた他の人達もそちらへ・・^^!、確か、わたしもコメントをおいてありますよね^^。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 仮想メモリが少なくなり文字の変換スピードがおそくなりました。今しばらくのお待ちを・・・^^!
 コメント欄はOKです^^

つづきます。(^-^)♪
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徐福達が日本史に与えた影響、そのⅡ.
<徐福達が日本列島で求めた薬石は?>
ご訪問ありがとう御座います。
       ひきつづきの駄文にお付きあいをお願い致します。  
                                   
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【 前記事の要旨 】 
     列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
     いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?

徐福そのⅠ:秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、徐福に童男童女3000人を与え、東方彼方の日本列島から“不老長寿”の薬石を持って帰れと命じた(又は、除福が願い出た)。

<徐福達が日本列島で求めた薬石は?>
 中国の国土は広い! 秦の始皇帝の富と権力をもってすれば、手に入らぬもの等無いように思われるが。その何んでも有りいの中国が、「何故?」東方彼方の日本列島に薬石を求めたのか? それは列島に(東方神起)恐ろしき神が棲むと思われたからだ。「薬石のためなら、恐ろしき神、何するものぞ!?」それが中国人の心意気だ^^。
  その中国に無くて、日本列島にしか無いと思われるモノは?(素人探偵の独断と偏見から^^!)

その①、 温泉の素  (8/16)
もし間違っていたら御免なさい。中国に活火山は(あっても極少?)あるのだろうか? 中国に無尽蔵にある地下の石炭に野火が付いたカカ山、火炎山は(孫悟空の・笑)あったと想像できるが・・。日本の当時に(今から○○年前)、火を噴いていたかどうかは知らないが、南から桜島、阿蘇山、三瓶山(出雲)?、大山?、焼山、鳥海山、寒風山(男鹿半島)、岩木山、等々がある。徐福達は「やはり列島恐るべし!火を噴く山がある!」と驚いたに違いない。それぞれの温泉の効能は調べるまでもないが、猿でも知っている(笑)。しかし、その湯を(皇帝に)送る分けにはいかない。すでに製塩法は知っている。湯を煮詰めて温泉の素をつくる。日本には、今でこそ温泉水や鉱泉を飲むことは少ないが、その昔には薬として飲んでいたと思われる。それが徐福の後や先かは知りませんが、今でも貴方のお参りしている社寺の脇にはその鉱泉が湧き出ているかも知れませんね。
その②、 オオサンショウウオ  (8/17)
以前の記事でとりあげました。富と権力を得た者が“世継ぎ”を願うのが世の常。これは世界最大の両棲類で日本固有種。大きさは50~70cmで、1mになるものもいる。‘イモリの黒焼き’も、この大きさには叶わない。渓流にしか棲まずその生命力から“ハンザキ”とも呼ばれた。これを見せれば皇帝はきっと喜ぶ。と思っていましたが、今回ウエブで調べると中国の東部(貴州)にも「中国オオサンショウウオ」と呼ばれているものがいた。(汗~)中国って國はなんでもありだね。しかし、絶滅危惧種であり稀少高価であることは間違いない。中国で人工飼育に成功したとか。表皮はゼラチン状、身はカエルに似て淡泊。スープでも食すとあり。日本でも人工飼育に成功したと聞いたことがありますよ。
その③、 カブトガニ
これも絶滅危惧種だが、その昔には精力剤にもなったと云う。今では岡山県の笠岡市周辺にしか棲まず天然記念物。だが、このカブトガニは、中国の南部地方にもいるからねえ^^。

  その他、皆様からの有力情報をお待ちしています(笑)。

④、 Dr.>情報の「深海魚のエキス」。 ・・・これに入る前に・・・、
<朝鮮半島に到達した巨大津波>  (8/18)
これは前々の記事で(後で調べます)としておきました。調べました^^。
 BC.2001年12月25日の未明、日本の東北地方に端を発した巨大津波は、現地時間(時差なし)の朝8時過ぎに彼の地に上陸した。それを朝鮮半島の祖先は、次のような言葉(地名)で、遺し(記録)ている。
 北から<羅津・ラジン>
網羅の網は魚をとる網。羅は鳥をとる羅(あみ)。それに津をつけて<羅津>。津波が鳥を捕まえたのか?? 以前、カテゴリー(出雲地方)で西出雲には鳥のつく地名が多いのを不思議に思ったことがあります。津波は二波三波と襲ってくる。第一波で打ち上げた魚をついばんでいる鳥の群れが、次の波で被災したかと? しましたが真偽のほどは解らない。もしそれがホントなら、ぐっすい(方言^^!)鳥がいたもんだ(笑)。

 <清津・チョンジン> 北緯42°辺り (8/19)
これもカテゴリー(出雲地方)で謎解きしました。通常、風で発生する波が水位の上下動であるのに対して、津波で発生する波は、進行方向へ押し寄される波となる。片V字沿岸津波(前述・筆者提唱)では沿岸の土石を削り取りながら進むがV字湾奥では双方の波が押し寄せるためその場にあった水の抵抗を受け水位は高くなるが土石を含まないので清水域となる。それを祖先は<清津>と云っている。だが、最大の謎は清津がそのV字湾奥ではなくて片V字の沿岸にあることだ。これは弓状列島の地殻地震(地震の力は陸地の方が海より速く伝わる)によって発生した津波の集合場所が?北側へ押し寄せられた?せいかも知れない。それとも・・・??

 <魚大津・オデジン> (8/20)
これは又、直接的でたいへん分かりやすい地名だ。魚が大量に打ち上げた。しかも大きな魚だ。この12月のこの時期どんな魚が打ち上げられたのであろうか? これは全く当てにならない素人の数字であるが、その津波の影響を受けた魚が水深20mより上を泳いでいる魚達としよう。これだと外洋を遊泳しているマグロもひっかかる。日本の縄文遺跡でマグロの骨の出土があったというが。水深20mより深いところの外洋を回遊しているマグロを丸太くり貫き船の縄文の人が漁獲出来るとは思えない。マグロは泳ぎを止めることが出来ない魚である。速く泳ぐときは時速150kmを超えるという。いかに半島の船とはいえそのスピードには追いつけない。縄文時代の人達の漁法では無理がある魚である。日本のどこの遺跡からの出土したのか知らないが、その時の津波によってその大魚が打ち上げられたのではなかろうか? 日本海にもマグロは回遊する。それ等のなかに小魚を追うマグロが混ざっていても不思議ではない。

 次は、Dr.>の云われた深海魚であるが、私素人の考えですが、この時の津波は表層にちかく大陸棚200mまでの影響は及ばなかったのでは無いかと思います。しかしながら、それを完全には否定できない。地殻を大きく揺する巨大地震は時に磁気異常を伴う。これによって深海に棲む魚達が浮き上がらないでもない。大王イカ、竜宮の使い、サメ、そして鯨までもがその犠牲になったとしても不思議ではない。素人の論法が正しければ朝鮮半島のご先祖さまは、必ずそれ等を言い伝えとか風習とかで遺している。<魚大津>とは、わたし素人探偵が言っている言葉ではない。その言葉を発したご先祖にその理由(ワケ)を聞くのが一番てっとり早い。何故<魚大津>と、その地名を付けたのですかって?(笑)。

 <無水端・ムスダン> 北緯41°辺り (8/21)
先のインドネシア・スマトラ島沖地震(2004~2010年)の時、大津波が上陸する前に “引き潮現象”があり、残された魚を取りにいった人が犠牲になったことがある。<無水・ムス>とは、その引き潮(筆者造語=行き潮)のことを云っているのではないだろうか。<端・ダン>は“岬”のことか?? もし、そこが岬であっても筆者の思いが正しければ、その一方の海岸は遠浅になっていなければならない。筆者はその沿岸地形を知りたいと思う。

 <永興湾・ヨンフン> 巨大V字湾奥 (8/22)
永興湾は巨大なV字湾奥をしている。日本の東北地方にコンパスの針をおくとちょうど“受けV字”の位置にあり、当然、筆者は<永興>に巨大津波が襲っているものと見当をつけていた。だが祖先は、そこではなくて<清津>が津波の集合点だと云っている? ・・・、困った?。「永興」とは・・・? この謎解きの鍵は「興る」にあるような気がする。 日本では似たような地名で、愛知県の<興津・こうづ>。静岡県に<興津・おきつ>があり、そこが陸生津波( 筆者の造語で: 海洋からの津波ではなく、先に届いた地震によって発生する津波) の出立地だといっていた。 <永興>の地名の意が分からない・・。 静岡県の<清水>も気になって来だした・・・、ちょっと無理があるが朝鮮半島の祖先は、ここから津波が発生し、<永>は永続の“永”で、『この地より永続して(続けて)津波が興きて(発生して)いった』と云っているのではないだろうか? なにはともあれ素人の思いよりご先祖さまの地名・伝言のほうが優先するからね^^!) 

<注文津・チュムンジン> 北緯38°線の韓国側辺り (8/23)
さらに、その南にある韓国の<チュムンジン>では、『その津波を<注文・ちゅうもん?>します』と云っている!^^? 日本人がお天道様に慈雨をお願いするのと同じ感覚だろうか? 見たこともないような大魚を打ち上げて下さる津波なら、『その津波、注文します』と云ってみたいよね(笑)。筆者の考えが正しければ<注文津>には、その願いが叶う信仰の対象になるような(ありがたい)社寺が必ず遺されている。 南北分断の時に韓国側が 「聖地“注文津”だけは北にやれない!」と云ったかどうかは、筆者の“想像”であるから定かではない^^!。

<この項の結び> (8/24)
ということは韓国にとっての東方神起の神は恐ろしくも有りがたい神様となる。中学生のころに何故、朝鮮の国名なのかと不思議に思ったことがある。 今、やっとその謎がとけた。 その日の『朝方に』 大挙して 『生鮮魚が打ち上げられた』のだ。 だから 『朝鮮國』と名付けたのである。もし、これを確証のない素人の戯れ言だと云われる貴方(専門家)がいたら、わたしは言いたい 『祖先の付けた地名という伝言に反論する余地は微塵もない!』 と。
中国では津のことをシンと発音する。朝鮮ではジンと似たような発音するのに、日本ではツと発音し、そこにはDr.>が指摘されたように日本海で言語のルートは遮断され、そこには何んの関連性も見出せない。当初にあげた謎Ⅱ「列島の津・ツと云う言葉の伝播と統一は、どのようにしてなされたのか?」その謎は深まるばかりである。
謎Ⅰの(銅鐸の伝播)にしろ、謎Ⅱの(津という言葉の統一)にしろ、誰かが何とかしない限り、その伝播と統一はあり得ない。徐福団がその媒体をしたと踏んではいるのだが、その謎解きの糸口すら見えてこない。 トホホ・・・

shigechanizumo | URL | 2010-08-24-Tue 09:25 [EDIT]
朝はどこからやって来るのでしょう。もちろん東方です。鮮はあざやかです。鮮やかな朝が東方からやってくる。その東方とはどこでしょう。出雲です。出雲から鮮やかな朝がやってくる。その朝は、海上から昇る朝日が象徴します。海上とはどこでしょう。出雲の海です。出雲から昇る鮮やかな朝日を伴った朝。そこで朝鮮と出雲は結ばれているのです。慶州の迎日湾はまさしくそのことを地名としたのです。
ところで、朝鮮には「熊津」があります。ぜひこの地名の謎解きを・・・。


史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-08-24-Tue 21:05 [EDIT]
Dr.>  こんばんわ コメントありがとう御座います♪
連日猛暑日が続いております。・・熱い論議なら大歓迎^^。「微塵だにとか世界史に残るとか」ちょっと?(笑)過激な言葉をつかってみました。コメントを記事の本文へ移設させて頂きました^^!

Dr.>の鮮やかな論法に感化されました。100%?翻意致しましょう^^!。確かに朝鮮半島の最東端に<慶州><迎日湾>の地名がありました。この二つの地名は、その位置を考えあわせると旭日を尊ぶ考えからの名付けがなされています。これが≪朝鮮≫の国名に影響していることは多いに考えられます。只、それを下支えするものとしての津波の打ち上げ(恩恵)を否定するわけにはいきません。特に、朝鮮半島の東海岸には<津>に関係する地名が多く<魚大津>の外に、魚の打ち上げを表す<方魚津・パンオジン>。津波の上陸を表す?<洪原・ホンウォン>。上陸した津波の引き潮を表す<退潮・テジョ>等がありました。詳細地図で小字名まで調べるともっとたくさん出てくると思います。日本にもそれに似たような地名があります。朝の襲来を表す、岡山県に<朝寝鼻遺跡>、兵庫県<朝来町>。海産物が打ち上げた、三重県<嬉野>他の地で<福原>等。津波の戻り水を表す<垂水・篠津・下津>このように拾い上げるとキリがありません。 いずれにしても<日・中・韓>のさらなる探求を望むところです。
<熊津>見あたりませんでした^^!。
似たような地名に<元山・ウォンサン>の西60kmほどの山岳地に<熊たむ・ウンダム>たむの字は譚のごんべんをさんずいに変えたもの>がありました。<たむ>は、日本読みで(タン・ふち)で、意味は、水を深くたたえた所でした。<熊津>がどこにあるのかは分かりませんが、ご指摘のように津波は到底及ばないような山の中に<津>のつく地名が、日本にもあります。岡山県<津山市>。岐阜県に<中津川市>。これ等を素人探偵は、何事も例外はつきもの。<津山>は山波。<中津川>は、三河地方の中心の川で、人々の生活圏が拡大するにしたがって、雨乞い信仰の対象が上流の<源流部>へ移っていったかと?推理しましたが、ちょっと弱い論法でしょうか(^^?)

コメント欄より移設しました。難しい字の一部が変換不能のようです^^!。
shigechanizumo | URL | 2010-08-26-Thu 14:55 [EDIT]
「熊津(ゆうしん、웅진、ウンジン)は、古代朝鮮の百済の古都であり、万葉仮名では久麻那利(くまなり、こむなり)、百済語では古莫那羅(コムナル、곰나 루)と表記・呼称される。熊川(錦江)の畔の都市であり、現在の忠清南道公州市にあたる。」とあります。

<熊津> 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-08-30-Mon 05:32 [EDIT]
Dr.> おはようございます。26~29日までお休みしました。コメントありがとう御座います♪
 又々、むつかしい問題を戴きました(汗!)。人と獣との付き合いのなかで子供心が不思議に思うことがあります。牛神様、絵馬、猪と武神、竜虎、十二支、等々の絵(掛け軸)はよく見かけるのですが、狼と熊の絵は、あまり見たことがありません。地名が地名(伝言)として、いつ頃に定着したかは確定出来ませんが、石器・縄文期においても、列島に熊や狼は人々の命を脅かす存在としてあったと思われます。熊で思い出されるのがアイヌ(ほかを知りませんので差別呼称だったらお許しを)の人達の熊信仰があります。列島の「熊のつく地名」は熊山とか熊野古道しか知りません。それが朝鮮半島にもあることに興味をそそられます。 熊と津は全く異質なもの! 半島の<熊津>・・渡来・・<出雲>・・<國譲り>・・<天孫続→=大和??>・・思いは色々に・・・。・・<熊津>の場所捜しは図書館へ行かねばならぬので・・・(^^!)

 ところで、Dr.> 話は全く変わりますが。いつぞや「出雲大社の御神体は隕石か?」の話がでましたよね。私は、その御神体の形と大きさは“猪の形”をしているのではないかと思っています。確か、乱暴者のスサノウの命が赤むげの猪(=空を赤く飛んだ隕石)を投げ入れた話から・・。Dr.>は、「出雲のシゲちゃん」と呼ばれるほどのお方。決して衆目にさらしてはならぬ御神体ですが、Dr.>なら宮司さんから、その形を聞けるのでは^^?
 <熊津>についてのコメントは保留にさせて下さい。このようにフッと>思い付くことがあるものですから^^!

  shigechanizumo | URL | 2010-08-31-Tue 09:33 [EDIT]
「私は、その御神体の形と大きさは“猪の形”をしているのではないかと思っています。」・・・オッ、鋭いですね。オオクニヌシは二度死んでいます。その一度目が、八十神が、猪が落ちてくるから捕まえろと言って、真っ赤に焼いた大石を転がり落として、それを猪と思ったオオクニヌシが抱きかかえたために死んでしまいます。大やけどをしたオオクニヌシに、ウムカイヒメとキサカイヒメがハマグリの汁と赤貝の粉を混ぜた薬を塗って蘇生させるという話があります。神話とはいえ、どこからこのような話が発想できるのか不思議です。出雲大社の御神体が猪ではないかとは、この話と関係があるのかもしれません。物としての御神体はオオクニヌシの命を奪った猪の形をした大石、霊としての御神体はオオクニヌシそのものではないでしょうか。そして霊薬は、神秘的な深海の何とか貝のエキスだったりして・・・。


Dr.の<出雲大社御神体・隕石説>が現実味を! (9/01)
              史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-01-Wed 00:28 [EDIT]
Dr.>  こんばんわ コメントありがとう御座います♪ 
  連日猛暑日が続いております。残暑お見舞い申し上げます。

「ハマグリの汁と赤貝の粉を混ぜた薬」は、意味深な話しですね^^!。 当時は一夫多妻制なのですね? きっと2女神の献身的な看病のおかげでスサノウは蘇生したのでしょうね? 空を飛んだ赤色といい、猪形石といい、重量石といい、Dr.>の云われた「出雲大社の御神体 =隕石・放射能?説」が、出雲に落下した<隕石>として、ますます現実味を帯びてきました。
 ご存じのように、出雲で屋根を突き破って落下した隕石の小片でも相当な衝撃! その隕石(御神体)が空気抵抗を受けて推定で200kg以上も焼け残るには、大気圏突入前の大きさは如何ほどだったのでしょうか? 専門家の考えを聞かねばなりませんが、優に数倍は?超えるでしょうね? 祖先が聞いたであろうその衝撃音は想像するにも余りがあります。又、それが小惑星なら心材に近いほど重い傾向があるとにらんでいます。60年?に一度とかいう出雲大社の御神体移設は、もうすんだのでしょうか? これも想像ですが、御神体(隕石)の、もとは帚星の軌道をとっていたのではないでしょうか? それがある時、地球の引力に捕まって(笑)。 ハレー彗星の周期、伊勢神宮の遷宮の周期、そのおおもとの考えは<60年周期の?彗星=出雲小惑星 → 隕石=出雲大社御神体>であるような気がしてなりません。
 この件は、もとはと云えば、Dr.>が言い出されたこと。 さらなる追求(ガイガーカウンター片手に、その一欠片を!)が出来たらいいですね^^!( ばちあたり~ 汗~!)

<皆さんへ> 出雲大社御神体=隕石説の、Dr.>とのやりとりは、当ブログのカテゴリー「出雲地方」でしています。興味のあるお方は、そちらへどうぞ! その<落下池?>にまで言及してますから^^。<2姫神=隕石の落下痕池>としたら、隕石は二つに分裂か? だとしたら、“円形状の深い池”は二カ所でなければならない。 (その一カ所は、すでにDr.>が^^)
さらに、“ハマグリの汁”は、落下痕池に溜まった水で、“赤貝の粉”は、その時の粉塵と推むことが出来ます。そうであるならば、その池の水は聖水として扱われ、その池の底には溶融跡があり、周囲には飛び散った酸化珪素の粉塵(微視的にも)が今でも残って?いなければなりません。そう言えば、どこやらの社寺で、何やらの男神(=隕石)を、何やらの女神(=落下痕池)が癒したという話しもありましたね。段々面白くなって来たぞ~^^。でも、これはDr.>が言い出されたこと。その責任はDr.>がとってね。わたしは、<徐福>のほうが忙しいので(笑)。

ドクターからのヒント『あの世で生きながらえる薬』  (8/31)
 前記事のコメント欄より、その一部を引用。
前略・・、そして、秦の始皇帝が求めた不老不死の薬とは、あの世で生きながらえることができる薬だったのではないでしょうか。 徐福は、秦の始皇帝にその薬を届けたのではないでしょうか。秦の始皇帝は、その薬を飲んで現世での死に臨んだのです。・・・後略
 西安の兵馬俑が発掘された時。その桁外れの規模(等身大の焼き物○○体)から、世界に大きな衝撃が走りました。その始皇帝の死生観に徐福が大きく関わっていたと考えるのは興味深いことです。『生きて死する!、死して生きる!』即身仏の考えもその一つでしょうか。だけど、始皇帝や当時の死生観にまで踏み込むと大変なことになりそうなので、ここでは現実的な薬石のみに絞って取り上げることに致しましょう。
 先ず思いつくのがケシ坊主からとれる“阿片”。アヘンは、英国が輸出入のバランスをとるために中国にその輸入をせまり、アヘン戦争にまで発展したしろもの。それは強い中毒性があり廃人までにおいこまれ生きながら地獄を味わうことになる。例えそのような麻薬の類を手にいれても、それは一時の快楽であり、皇帝や側近がその使用をゆるさない。そして皇帝には常に暗殺の危険があり “毒味役” が付いていたと思われる。つぎに考えられるのが“トリカブト”。これを長期にとりこめば確実に死にいたるが「不老不死」の考えからはほど遠い。(笑) くすりというものは、その取り扱いを誤れば「毒にも薬にもなる」。不老不死・不老長寿の薬石探しはなかなか難しい。そして、トリカブトは中国が原産地でした^^!)

リアリティ shigechanizumo | URL | 2010-08-31-Tue 09:43 [EDIT]
「等身大の焼き物○○体」・・・これまた鋭いですね。兵馬俑から発掘された焼き物の兵や馬などと、日本の古墳にある埴輪との違いは何か。そのリアリティさだと思います。埴輪にリアリティは感じられません。オモチャのようです。一方、兵馬俑の兵や馬は、まさしく生きている人間や馬を彷彿させます。そこから、古墳の埋葬者には生の復活ということは感じられませんが、兵馬俑からは秦の始皇帝の生の復活という執念のようなものが感じられるのです。

Dr.>  西安の兵馬俑は「どっち向き?」に、なっているかご存じありませんか・? ウエブで調べても分かりませんでした。 東方? 西方? それとも・・? これが分かると始皇帝の求めた楽土はどこにが・・??

実験  shigechanizumo | URL | 2010-09-03-Fri 17:26 [EDIT]
「暗殺の危険があり “毒味役” が付いていた」とありました。逆はなかったのでしょうか。不老不死の妙薬と称するものを持ってきた者がいるとします。誰が最初に飲むのでしょうか。死んでしまいました。その妙薬が、そ、それを飲むことによって死んでしまった人にとって、不老不死の薬でないことは証明できたといえるでしょう。また次のそのような者が現れました。いよいよ怖くて手が出せません。しかし持ってきた者は、これこそが不老不死の薬だと言い張ります。誰が飲むのでしょうか。誰かが飲みました。なんともありませんでしたが、本当にそれを飲むことによって不老不死の身体になったのか、誰も証明できません。老衰で死ぬのが真近な老人に不老不死の薬を飲ませました。元気になりました。しかし、それで不老不死の身体になったと証明できるのでしょうか。この難問に挑戦する人はいませんか。問題:「不老不死の妙薬だと証明することは可能か」!

ある自信  shigechanizumo | URL | 2010-09-03-Fri 17:40 [EDIT]
徐福伝説を根底から覆すある前提があります。
徐福は中国を出発するにあたって、ある物が不老不死の妙薬なるものであることを証明できるということを知っていて出発したのか、あるいは、そのような証明はできないということを知っていて出発したのか。
問題1.もし、持ち帰ったある物が不老不死の妙薬であると証明できる手立てがあるという前提で出発したのであれば、・・・・。
問題2.もし、持ち帰った物が不老不死の妙薬であることなど証明できないという前提で出発したのであれば・・・。
「・・・」にどのような文章が入ることになるのか答えなさい。


<恐ろしい考え?>  史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-04-Sat 06:23 [EDIT]
Dr.> おはようございます。 コメントありがとう御座います♪  
  Dr.>コメントによって記事が面白くなると、じいさま>は云っておられました・・・^^。
問題を二つ戴きました。それについては“おそろしいこと”を考え付いていますので、しばらくのお待ちを^^!)
私は、「不老不死」の言葉は願望であり、「不老長寿」は健康で長生きぐらいにとらえています。私は、始皇帝について、かれが何を望んでいたのか? 権力の座の維持か、世継ぎが欲しいのか、自分の血筋(こども)の拡大か、はた又、彼独自の死生観にによるものか。 そして、その時の健康(持病)状態は?等について全く知りません。 そして何故それ等の薬石を求めたのが東方(兵馬俑の向きは東方ではないのか!、日本は西方浄土なのに!)なのか。 さらに、皇帝が除福に命じたのか。除福が願い出たのか。あるいは双方の合意か。これ等の条件が変わることによって微妙に除福団の編成と行動は異なってくるのではないかとみています。コメントのお返事になっていないかと思いますが記事を進めながら考えます。・・・^^!

問題1:問題2  shigechanizumo | URL | 2010-09-04-Sat 15:27 [EDIT]
問題1.もし、持ち帰ったある物が不老不死の妙薬であると証明できる手立てがあるという前提で出発したのであれば、・・・・徐福は持ち帰った物が不老不死の妙薬でないと証明されてしまえば死罪になるので、本当にそのようなものを見つけるまで中国に戻れない。本当にそのようなものを見つけたのであれば、それを持ち帰れば大変な地位を与えられるので当然中国へ帰ったはずではないでしょうか。帰らなかったのは、そのような物が見つからなかったからです。
問題2.もし、持ち帰った物が不老不死の妙薬であることなど証明できないという前提で出発したのであれば・・・どんなものを持ち帰ったとしても不老不死の妙薬であるか否かは証明できないのだから、褒賞ももらえずくたびれ損になる可能性があります。そこで、往路復路のための資材や金品を勝手に使ってしまい、中国には帰らないと決めて出発したのではないでしょうか。
その他様々な解答があると思いますので、期待しています。

それにしても、もし当時の中国で「これは不老不死の妙薬である」との証明が出来る手立てがなかったとしたら、なぜ秦の始皇帝はそのようなものを見つけてくるといった徐福の言葉を信じたのでしょうか。徐福は、「こういった条件を満たす薬であるならばそれは不老不死の妙薬である」といったような証明方法を呈示して、秦 の始皇帝の納得を得たのではないでしょうか。


何故、童男童女か?  史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-05-Sun 06:57 [EDIT]
Dr.> おはようございます。 いつもコメントありがとう御座います♪
 これも、直接のお答えではなく、考えもまとまっている分けではありませんが、そのお答えの一つは「何故童男童女か?」にあるような気がしています。 何故「東方彼方に?」については、古代中国にとって、東方は神秘なるところ。「神秘なる所には神秘なる薬が・・・?」と考えたのではないでしょうか。 (これは、私の偏見かと思いますが。古代中国の人々は “人を拒むような危険な場所や深山にこそ、その霊薬が秘そんであり!” との考えが強い?と思っています^^) 古代中国の人々が東方を如何に考えていたかについては、Dr.ブログ>へかえって調べなおさなければなりません(^^!)

<列島にあって中国にないモノ> (9/06)
ひきつづき薬石についての情報をお待ちしています。何故なら、それが列島のどの地方にあるか(徐福が立ち寄った場所か?)によって、それが日本史の解明へと繋がるからです。

護衛隊  shigechanizumo | URL | 2010-09-06-Mon 15:09 [EDIT]
私は、薬石のある場所にはその薬石を護る護衛隊のような動物や障害物があったのではないかと思っています。例えば前にも投稿しましたが、池の底にその薬石があるとすれば、その池には毒蛇がウヨウヨといて水底まで行くことができないとか、洞穴の中にあるとすれば、その洞穴の中には火山性の毒ガスが充満しているとか、あるいははたまた海底にあるとすれば、その薬石に手を伸ばそうものなら巨大なウツボが手を噛みちぎるとかといった具合です。
そうした薬石の効能以前に、そうした薬石に近づくことが出来ないといったファクターも、切歯扼腕、徐福を悩ませたのではないでしょうか。
とすれば、薬石以前に、そうした護衛隊や守護神のような動物がいるところ、あるいは不思議な現象ゆえにその場所に近づけないといったところに薬石があると目論んでみてはどうでしょうか。
ちなみに私は、そこを素通りすると必ず道に迷って方角を失うという場所を出雲で見つけました。しばらく内緒です。


物か術か  shigechanizumo | URL | 2010-09-06-Mon 16:14 [EDIT]
不老不死の妙薬といっても三つの分類が出来ると思います。
ひとつは、その物自体が珍品で、しかも不老不死という効能を自ずと内包しているというものです。
もうひとつは、ありふれた物なのだけれど、その物に対してある術を仕掛ける、あるいはある加工を施すと、不老不死の薬石となるというものです。
さらにもうひとつは、珍品であるけれどもそれだけでは十分な効能を持たず、その珍品に対してしてある術を仕掛ける、あるいはある加工を施すと、不老不死の薬石となるというものです。
徐福が東方に求めたものは、術ではなく物であったことは間違いありません。ありふれた物にある術を施すことなら中国で出来ることだからです。
では、それ自体が効能を持つ珍品を探しにいったのでしょうか、あるいは、珍品ではあるがさらにある術や加工を施すことによって効能を発揮するというものだったのでしょうか。
先に指摘したように、術や加工をを施すということは中国で出来ることですから、徐福としては東方へ赴いて、中国にない珍品ならそうした物を何から何まで持って帰ればよいわけです。
従って、徐福が探しにいったのはそれ自体で不老不死の効能のある薬石だったと思うのです。


<現代の科学で説明できないこと> 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-06-Mon 16:45 [EDIT]
Dr.>   コメントありがとう御座います♪
 Dr.>も、似たようなお考えをお持ちなのですね。科学者からみれば一笑にふされるようなことでも、現代の科学では説明しきれない不思議なことってありますよね。霊薬を守る「護衛隊」ですかぁ^^)。 これは明らかに私の偏見ですが、中国の人って「その危険を好んで?“薬食”を求める」傾向があるように思います。深山にしか生えないという茸や、絶壁の岩ツバメの巣・くまの肉球・しかり、危険をおかしてまで手に入れた “薬食”ほど高価に売れる。なにもそこまでしなくってもねえ、と私は思うのですが?(^^!)
「そこを素通りすると必ず道に迷って方角を失う」 そんな場所があるのですか。出雲恐るべし! ですねえ・・・、(そう云われれば、御ブログで、そこを素通りすると別の場所へ案内する神様がぁ^^) 

史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-06-Mon 18:03 [EDIT]
Dr.>  かえってみたら、次のコメントが入ってましたぁ~(^^)
ふうむぅ~~、“不老長寿の薬石” 色々に深読みできるのですねえ。 私のほうは、もう一度、御ブログの 『徐福の記事』へかえって勉強しなおします^^。 さて、・・その記事を捜しだすのが大変だぁ~~~


  つづきます^^♪ 
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 「えっ?」じいさまの場合は「その一言」だけじゃあ済まないでしょ! と、やりとりしたのが想い出されます。私にはあの世があるのやら無いのやらは分かりませんが、どうぞ<この行方>を見定めてくださいね・・・。
 残念ですがこの記事の“仮想メモリ”がなくなってしまいました。
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