卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」
此処に出雲と同様、“大量の銅剣”が埋めてある! 全国歴史ファンの方々、三上山に集合せよ。
徐福達が日本史に与えた影響、その Ⅲ.
<徐福達の次なる行動>へ、 
             ご訪問ありがとう御座います。
         ひきつづきの駄文にお付きあいをお願い致します。  
   記事は(追記)の形で更新をしています^^!。 この記事は、(9/07~9/26)迄です。
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     列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
     いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?

【 前記事、Ⅰ~Ⅱの要旨 】 
徐福そのⅠ: 秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、除福に童男童女3000人を与え、東方彼方の日本列島から“不老長寿”の薬石を持って帰れと命じた(又は、徐福が願い出た)。
除福そのⅡ: 徐福達が日本列島で求めた“不老不死、不老長寿”の薬石にはどんなモあったのであろうか? 情報をお待ちしています^^!。
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<徐福達の次なる行動>
  以下の予定で書き進めていこうと思ってはいますが、確たるモノがあるわけではなく、
  <あなた様の投稿>によって如何様にもかわります。どうぞの御参加を(^-^)♪
<徐福;今までの概略>  (9/07) 
 さて、童男童女を含む3000人の徐福団一行は、対馬海流に流され、海の藻くずと消えながらも、千々に分団されたことが幸いして列島の日本海側に各拠点もできた。各々はお互いを捜しあい連絡をとりあい、とりあえず<出雲>にその本拠地をおいた。出雲を本拠地としたのは筆者の独断であり、むしろ史家は、その足跡の少ないことから徐福は出雲にはいなかったとするのがおおかたの見方のようです。(そうでしたね。Dr.^^?)
 徐福の乗る船は “旗艦” であり、当然、屈強な男達が乗り込んでいる。当時の船が帆船だとしても風まかせとばかりにはいかない。遺跡等にはカイのついている図絵が遺されている。このことから、もっと西の<博多>あたりに徐福は着岸したとも思えるが、筆者が(とりあえず?)それを出雲としたのは、そのすぐれた先進性からである。今から40年ほど前の一点集中型の都市<東京>のようなものかな? 憧れの都・東京へ東京へ「東京ばかりがなんでいいものかぁ~♪」という歌もありました。・・と、ここまでが、今までの記事(Ⅰ~Ⅲ)の概略です。

徐福団の行動、その1
<薬石情報の収集> (9/08)
  その地の首長との融和
千々に漂着したとある一団の場合: 恐ろしき地と思って上陸はしたが、あに図らんや、その地の人々の生活は、後進性のつよい縄文石器の生活を営む人々であった。 水や食料を請えば好意的に提供してくれ、仮ではあるが住家・住地も得た。分断した仲間達とも除々にではあるが連絡もとれた。次になすことは、皇帝の命である『長生不老の薬石』(この言葉はウィキペディアから引用)を 探索することである。 先にも申し上げましたが、この人達は、“その薬を得るためには、その危険なにするものぞ! との覚悟をもった人達である。 とは言え、できれば危うい目は見たくないよね(笑)。 “薬というももの持つ宿命” は、Dr.>が述解して下さったので、ここでは省くが、それは人が飲用、使用してのみ、その効用が確かめられる。それ等の情報は、その地の人に聞いたり観察したりするのが一番手っ取り早い。 例えば、長命の者はいるか。肌つやはどうか。病の多少とその種類は? 言葉の違いはあるが、意外にゼスチャーだけで主意は伝わるものである。首長には、返礼として先進性のつよいお土産もあげた^^。 さて、これからが本格的な探索の開始だ!

< 註 & 訂正 > 始皇帝について少し調べました。 (9/10)
始皇帝は不老不死を求めて、徐福より以前に二人の方士(薬石や施術によって医療行為をする人?)にその仙薬をつくらせようとしたが、もとよりそのような薬はつくれるばずがなく皇帝の怒りを怖れて二人は逃亡してしまった。これを怒った皇帝は見せしめのために460人の学者を穴埋めにしてしまった。さらに、これを諫めた長男を格下げにし北方の警備隊に追いやってしまった。その後、徐福に3000人の童男童女(若者)と百工(色々な職業のひと)と五穀を与え、蓬莱(国)より不老不死の薬と、その仙人を連れて参れと命じたようです。

蓬莱(ほうらい)は、日本のことをいうようで、蓬莱とは、ヨモギが生えるような荒れ果てた地のこと。蓬頭とはヨモギのようなぼさぼさした頭。草莱とは荒れ果てた草地のことをいい、草莱子になると時勢にうとい人のことをいうようですから、当時の人は日本のことを人手の入らない山野で、身だしなみを気にしない白髪長寿の仙人の住む所とでも思ったのでしょうか?(笑)。ということは当時の縄文石器の生活を営んでいた列島の情報は多少なりとも、中国に入っていたことになります。皇帝の晩年には咸陽(かんよう:挟西省にある地方都市名)に隠れ臣下に政(まつりごと)をとらせ、これを遠隔操作した時期もあったようで、これは私の想像ですが始皇帝は、山水画にみる仙人のような生き方を望んでいたのかも知れません。実際に“カスミ”を食べて? 摂取カロリーを少なくすれば老化の速度は遅くなるようです。しかしながら、それを実行されても、その責任は、当方一切持ちませんっ!ので悪しからず(^-^!)
 
<兵馬俑坑・へいばようこう、について> ウィキペディアより引用 2010/9/10
秦の始皇帝は中国史初の皇帝であったが、その強大な力を利用し大きな陵墓を建てた(人形を作り埋葬したのは二代皇帝胡亥という説もある)。これが秦始皇帝陵である。1974年に地元の住民により発見された。また兵馬俑坑は、この陵を取り巻くように配置されており、その規模は2万m2余におよぶ、きわめて大きなもので、3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体ちかくあり、みな東を向いている。

これを見て筆者はジンジンするほどの高鳴りを覚えました。その規模の大きさではなく、最後の語句の 『みな東を向いている』 にです。『みな』ですよっ! 普通に考えれば稜墓の護衛であるから少なくとも四方を向く。そしてあの世にまで戦車や、軍馬はもっていかない。これほどのものを築くには “相応の思想形成” が要る。 東を向くには理由(わけ)がある!。中国の祖先は、その東、BC.2OO1年12月25日朝6時頃(日本時間)の日本の東北地方へ降臨した巨大隕石がなす大地震と巨大津波を必ず経験している。それがない限り兵馬俑は東へは向かない。史実探偵;素人は、それを中国の史家(史書)がどのように遺しているかを是非に知りたい。 結局、Dr.>の徐福についての御記事は捜し出せずじまいで、そのいう『蓬莱国の三神山』が気になります(^^!)。

<列島各地へと蒐集網の拡大、そして支部の設置> (9/11)
 《 除福;日本における伝承 ← Wikipediaより引用≫ 2010/9/8
青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、宮崎県延岡などが有名である。 以上>


筆者は、これ等の地の歴史について無知であり、史学もはっきりとした判定は与えていないようだ。今回の場合、<徐福自身>がそこに立ち寄ったか立ち寄らなかったかは大きな問題ではなく、除福の分隊が、その蒐集活動で、その地の文化に影響を与えるほど、そこに長期に留まったか留まらなかったかに問題がある。この時、決して外してはならない条件がある。それは、そこに珍宝・薬石があり、それは<列島にあって中国にないモノ>でなければならない。 さらに、そこが収集活動の拠点・要所でなければならない。列島の青森から佐賀・鹿児島まで、太平洋側で宮崎県、三重県があり、瀬戸内海に面した和歌山県もあることから、当然、波の穏やかな内海も航行している。内陸部では山梨県がある。山梨県側には富士山があり、その言う“三神山”の一つか? その三神山は火を噴く山だとみている。何故なら中国には火山が少なく(無い?)わずかに朝鮮に接している○○山があるだけだ。

(註)中国の火山: 調べました。
ロシアに国境を接する中国東北部の黒龍江省(こくりゅうこうしょう)北部の<五大連池火山>。面積は64万平方kmで(平方mの間違いでは?)14の形のきれいな火山体と40あまりの形の崩れた火山体からなり、国家の天然保護区。冷泉は治療にもちいられ,ミネラルウォータはフランスに輸出されているという。
 (中国には、何でもあるもんですねえ^^!。 かといって自説が大きく崩れるとは思えない。当時、煙を上げていたかどうかも、一つの目安にはなります。)

彼らが、火を噴く山を目の当たりにするのは驚きであり、そのような山にこそ、その霊薬ありと求めに行ったはずだ。  『火山を探せ!』 その第一は<阿蘇山>。 中国で 「阿」 と発音すると一番目を意味すると見ているから「阿宮」(一宮)等もその考えからでしょうね^^!。 山梨県側(富士吉田市)から?二番目の不二山(富士山)も発見(みつ)けた。 さて三番目は、すでに見ている伯耆(ほうき)大山にするか? 鳥海山にするか? それとも・? ひょっとしたら貴方の近くの火山がその三番目かも知れませんよ(笑)。 この行程を推む(よむ)時、大切なことは日本海沿岸に太いラインが出来上がっていて、そこから枝分かれして内陸部へ入っていったと見ています。( そうでしたよね? Dr.>^^) 瀬戸内からや、鹿児島(桜島)経由日向灘への航行は、第二・第三段のルートでしょうか。

(子供心に思うこと)  (9/12)
わたしは、少年のころ不思議に思ったことがある。何故にその昔の中心が<京都なのか?>今での京都は列島の奥まった盆地にあり、その交通面に関していえば不便とも思える所に位置している。さらに<京都府>は日本海に面した丹波地方から、内陸の<奈良>にまで接している。列島の歴史形成は海に流れ出る川から上流へと展開していったと考えられるのに。概していえば、京都は不便なところにある。(京都の人ゴメンなさい^^!)  今、やっとその答が分かった。その昔の京都の玄関は、<宮津・舞鶴港>であったと!

<徐福分隊、列島北部への航行>  (9/13)
徐福分隊の最北端支部は、青森県の<岩崎・艫作崎・へなし(黄金崎)・十二湖>あたりかなと? わたしは思っています。何故なら地名的に、そこは竜神雨乞い文化が遺っているような気がしてならないからです。筆者独断でここに<列島北部支店>をおくことにしよう^^!。船も古くなったことだし<艫作・へなし>て新造船でもつくろうかと云ったかどうかは筆者の想像なので定かではない^^。北海道の記述は後まわしにして^^!、ここから津軽海峡を通って太平洋へ進出する。途中<仏ヶ浦>の絶壁は圧巻だ。(素人は情報不足から、この仏ヶ浦を記事にはしていませんが、その湾曲部は、その時の巨大隕石で発生した大泥流が削り取った痕だと推(み)ています。) そして<恐山>や<朝比奈岳>の山塊はきっと探索したに違いない。 さて、ここから千島海流にのって南下が始まる。補給基地<八戸>へも支店・支部をおこう。

ここで<子供心>が気になることがあります。 (9/14)
<八戸>という地名の不思議もさることながら、何故? 一戸(いちのへ)~八戸(はちのへ)・九戸(くのへ)なのか? 何故?四戸と十戸は無いのか? 次に気になることは、八戸へ流れ出る馬淵川の上流の、<一戸>から国道4号線にのって<二戸><三戸>・・<五戸><六戸><七戸>と内陸側を北上し、その先の<野辺地・のへじ・陸奥湾>へ行き着く。その先に八戸・九戸を置かないで(笑)、引き返した太平洋側に置き、そこから入り込んで<九戸>と名付けている。・・何故なの? その数字を付す規則性がまったく推(よ)めない。さらに青森県には数字がつく地名が多く隣県にもまたがるが、それ等をざっとあげると、八森、五所川原、三厩、六ヶ所、三沢、百石、三本木原、十和田湖、八甲田山^^。筆者はこれ等をヨソ者(徐福団)が付した後付の地名か!? としたが真偽のほどは解らない。<八戸>の意に興味がある方は、以前の記事(カテゴリー○○)か、拙著の極秘報告書「巨大隕石と大津波」(←クリックOK) の方へどうぞ^^! <八戸>は、今でも世界の大海原へ操りだす大漁港。その礎は、徐福団がつくったと、わたしは、推(み)ています(^-^)。

岩手県・田野畑村の近くにある○○遺跡の不思議> (下の↓記憶違いでした^^!)
(9/16)
土偶(遮光器土偶) 青森県つがる市木造亀ヶ岡(きづくりかめがおか)出土(東京国立博物館)
わたしが、この遮光器土偶を知ったのは<まんがドラえもん>からである^^。まず目に付くのは大きな目玉。遮光器というそうな。なかに横一筋入れていることから遮光としたのかな? まるで、まん丸の大きなゴーグルをつけたよう。身体全体はデフォルメ(抽象化)されてはいるが、おっぱい等はそれと分かるように作られている。身に付けている装具は緻密ともいえるほどに作られている。今から(?およそ2300年前の?)縄文期の人々の生活水準からは考えにくく、宇宙人の飛来かと?したものだった。 今回、泥縄的に^^!調べてみると、この前身にあたる土偶は、それ以前からあったようで、関東、東北、北海道の南部からの出土が多く、なかでも東北が特に多いとのこと。特徴は女性がほとんどである。何かの後に故意に壊されて埋められていることから、禍よけのまじないから厄災除けの地域信仰へ発展したのではないかとの説。女性を表しているのは女性の大役である出産豊穣の無事を願った等の説がある。わたしは、このような場合、今の私達の風習になにが残っているかで判断します。東北の皆さん。その心当たりはありませんか^^?

<今回、わたしは、これに、二つの持論を重ねて> (9/17)
 一つは、その遮光器は、BC.2001年の未明、釜石あたりに落ちた巨大隕石の強烈な光を目の当たりにして、眼底を焼かれた人々がいて、それが歴史の伝承として遮光眼鏡となったのではないかということ。これを導き出したのは、青森県・白神岳、秋田県境・真昼岳、山形県境・面白山、等の地名からです。これ等は巨大隕石と大津波によって、その表土を剥ぎ取られた<岩の手地方>を囲むような位置にあります。(詳しくは、カテゴリー巨大隕石へどうぞ^^♪)
    又々、岩手県で、その時の巨大津波の痕跡見つけました。どうぞお楽しみに!
二つには、徐福(   年出航)の船団がこの地に来訪したと考えるほうが確率的に大きいこと。その土偶が身に付けている装身具は、あまりにリアリティであることから、徐福団の武人が着用していた武具を着せたのではないか。ということ。片方や、等身大8000体の武士俑がつくれる国。それも一人一人の面相は異なっているそうですよ! 此方ぁ(こなた)蓬莱頭(ほうらいあたま・ぼさぼさ頭)の仙人が棲むところ。 これくらいの物質文明(?)の差があれば当時の人達でも、『 宇宙人が来た!=別世界の神々さまが来た!』と思っても無理もありませんね(笑)。

<東北地方の蕨手刀(ワラビ手・とう)について> (9/18)
   岩手県立博物館・トップ頁 →展示室案内→ いわての夜明け(考古分野)→遮光器土偶の図(詳しくは・こちら)を検索し →そのNEXT x 14頁から引用 ↓
蕨手刀(わらびてとう)』という名前からもわかるように柄の部分(手に持つ部分)がわらびの穂先(ほさき)に似ていることから名前がつけられた刀です。
現在のところ中国大陸や朝鮮半島に結びつく直接的な証拠がないため、わが国独自に発生したものとする考えもありますが、まだ断定できていません。全国での出土例は二百数十例、その中で東日本や北海道からの出土が多く、とりわけ岩手では七十数例と群を抜いていることから、蕨手刀が作られた背景やこの地方とのつながりなどが注目されています。

岩手では奈良時代の刀と言われている『蕨手刀』ですが、東北地方には7世紀末から8世紀初めにかけて信州地方から古東山道(ことうさんどう)を経由して伝えられたと考えられています。製品として伝えられた蕨手刀がのちのち砂鉄の豊富なこの地で多く作られるようになった可能性は高く、また北上川中流域に分布する奈良時代の終末期古墳群、とりわけ川原石積(かわはらいしづみ)の石室をもつ古墳(こふん)からの出土が多く、集落からの出土は少ないという点が特徴にあげられます。

出現期の蕨手刀は剣と同じように「突く」機能を優先させたものでしたが、岩手県を中心とした東北地方北部で形態的(けいたいてき)に変化し、「突く」ことから「切る」あるいは「振り下ろす」機能へと変質しています。蕨手刀はその後も「切る」機能を強化され、9世紀後半以降には〔毛抜形(けぬきがた)蕨手刀〕、柄のところに強い反りをもつ〔奥州刀(おうしゅうとう)〕、そして現在の〔日本刀〕へとつながっていったと言われています。
 以上を転載!

素人がこの蕨手刀に興味をもったのは、その持ち手の部分が振り下ろしたり、なぎ払ったときに「すっぽ抜け」ないような工夫が施されていることである。出雲で出土した大量の銅剣や古墳代の副葬剣の形状のおおくが、祭祀や権威付けと思われるのに対し、この形状は、実戦的な<戦いのための形状>をもっている。(^-^!) つまり、相手が動かないとか弱わっちい者であれば、<突くとか切る>に、加えて持ち手を長くして<振り下ろす>機能が備わっていれば充分だ。だが、この蕨手刀の形状は、接戦において相手が大型動物や強者が襲ってきた時、自分の護身のために身をかわしながら<片手で、なぎ払う>機能を持たせている。
 そして、その分布が 『その中で東日本や北海道からの出土が多く、とりわけ岩手では七十数例と群を抜いている・』 のは何故であろうか。

<馬淵川・まべちがわ: の群集(円)墳について> (9/19)
   岩手県立博物館・トップ頁 →上記・・・検索 →NEXT x 18頁から、部分を引用 ↓
岩手県では、7~8世紀にかけて北上川中・上流域、馬淵川(まべちがわ)流域に小型の円墳(えんふん)がまとまって造られました。これを群集墳(ぐんしゅうふん)といいます。7世紀頃の県内は、鉄器などの農工具類の質の向上や量の増加がみられ、社会が転換期を迎えた時で、集落はかなり大規模になり、生産力が増したと思われます。そのため政治的に大きな力をもった支配者層が多く現れ、その人たちも古墳を造るようになったので群集墳が形成されていったと考えられます。

県内にみられる群集墳の多くは、直径10メートル前後で、高さ1メートル程の墳丘(ふんきゅう)をもち、その周囲に堀(周湟=しゅうこう)が巡らされています。 形は土饅頭型(どまんじゅうがた)をした円墳がほとんどですが、中には四角い形をした方墳もみられます。 遺体を埋葬(まいそう)する主体部は、川原石を積み重ねた石室をもつもの、土を舟底形(ふなぞこがた)に掘った土壙(どこう)タイプのもの、底部に小石を敷いたものがあります。 また主体部の輪郭(りんかく)に沿って川原石を並べただけのものなどもあります。

群集墳の副葬品は、土器や、蕨手刀・馬具・冑(かぶと)をはじめとする鉄製品、勾玉(まがたま)などの玉類、か帯金具(かたいかなぐ=位を示すベルト飾り)、和同開珎(わどうかいちん)など様々なものがあります。これらは葬られた人が生前使っていたものが中心になっていますが、中には奈良の都との交流を示すものも含まれています。「蝦夷(えみし)」と呼ばれたこの地方の人々は、都と接触)しながら独自の文化を形成していたと考えられています。
群集墳をはじめとする古墳については、まだまだわからないことがたくさんあります。 研究が進んで、早くなぞが解明されるといいですね。

                                           以上を転載!
(9/20)
わたしは中国人の死生観や埋葬方法についてまったく知らない。 又、一口に中国といってもその広い国土では様々な埋葬方法があるのであろう。これを前提として話を進めるのであるが。 ある時 「孔子廊」を訪れた時のこと。それは数々の建物で構成された広大な一つの街であったとの記憶にしかないが、その散策で例によって^^?子供心の意を引いたものがある。木立・草地のなかに散在する直径約2m高さ1mほどの土饅頭があった。聞けば墓だという。 直感的に<これは、列島古墳の前身だ!>と思った。

と言うのは、筆者がそのような墳墓を見るも聞くのも初めてであった。 日本での埋葬方法は土葬が中心で、それが火葬に変わったのは昭和の代(○○年)からで、長い土葬の歴史を思うと咳払いの時間にも満たない。首長格は別として、時代劇等で知る一般人の土葬は、木製の樽棺であり、4尺ほど掘り下げて棺を納めその上に掘り返した土をかぶせる。必然的に棺の分だけ小高くなる。何年か後に遺体や棺は腐れてその盛り土は落ちてほぼ平らになる。それまでは木製柱か、ちっちゃな小屋(○○屋?名前忘れました^^!)を立てる。財力のある人は土が“落ち着いて”から石塔をすえる。一般が石塔墓を設えることが出来るほどになったのは、ごく近年(明治以降?)かな。このことから列島住人の死生観は、土(大地)に還るが主流であり、天国に召される考えは西洋的な考えからと推察する。(さて、仏教のお浄土はどこなのでしょうか?)

墓の形状は、その考えや財力にもよるが、多くはその地域で“何が”手に入るかによっても決まる。日本のように狭い地域に野や山や川があれば、木でも石(山石や河原石)でも容易に手に入る。そこで石の一つも置いて埋葬の目印にできる。ところが中国では見渡す限りの堆積土の平原。遠い山から石を取りよせ石塔を切るとなると大変だ。(もちろん山間部を除く、その昔の話ですから誤解なきように!) 黄河や、長江の(中流?)下流域では土砂ばかりで、石の一つも見つかりはしない。今でも車窓から注意すれば、畑のなかに、ポッツリとこの土饅頭を見ることができる。愛する人を我が畑に埋葬したいのは無理からぬこと。中国政府ではこのような土葬が増え続け、その場所を確保するのが大変なことから火葬に切り替えたいとのニュースがありましたが、火葬は遺体の損傷との考えがつよい?この国の抵抗やいかに・・・?。(合掌)

<遮光器土偶と、蕨手刀と、土饅頭墳から思うこと> (9/22)
  さて、長々と迂回した話を「八戸市馬淵川あたり」に進行した<除福探検隊>にもどして、 
一口に除福隊と云っても、その性格は様々だ。始皇帝は徐福に<百工・色々な職業の人>を与えている。(それを推理小説風に?、前の方へ忍ばせておきましたが・・? 気づいて頂けましたかぁ~^^) 特に、この部隊には強力な武人がいた。この場合、現地住民との最初の出逢いは大切で何かの不都合があれば殺傷を含む戦いとなる。それはさておき・・、遮光器土偶は、厄災除けの土偶に、この武人の鎧甲(よろいかぶと)を着せたものだとしました。

蕨手刀は、『中国大陸や朝鮮半島に結びつく直接的な証拠がない』 とあったが、完全にそれを否定できない。 又、『岩手では奈良時代の刀と言われている』 とあり、これを切り崩すのは大変だが、『製品として伝えられた蕨手刀がのちのち砂鉄の豊富なこの地で多く作られるようになった可能性は高く』 とあることから、徐福達の武人が最初に持ちこんだ可能性もないことではない。何故このように無理矢理に^^? 徐福に結びつけるかというと。列島で戦いの痕跡(遺骨等の傷つき)があるのは米作りが進んだ弥生期以降であり、縄文晩期より以前の出土は見あたらない(?)こと。(列島の住人は、概しておとなしい^^) さらに、集落を離れた所からの蕨手刀の出土もあやしい。何故なら、徐福達は、Dr.izumo>が指摘されたように、有る意味(秘薬探し)の“秘密結社”であり、現地住民とは生活圏を異にする。

円墳についてだが、列島の他の地で土饅頭形墳の群集は、多くを見かけない?。そして、「遺体を埋葬(まいそう)する主体部は、川原石を積み重ねた石室をもつもの」 とあるが、先に指摘したように広い堆積平原に住む中国の人達にとっては、“角のとれた川原石や、清流は珍しく” その貴重な石で石室や墳墓を飾り、清流にのせて故人を送りたいとの考えが発したのではないか。香川県で初期の墳丘とされるものにも川原石で覆われていたと思われるものがあり、この考えは後々の巨大墳にも引き継がれている。 素人探偵は、出土物の 「時間的(歴史)流れと広がり」を突き崩すことが出来ない。 しかし、以上の3点は列島の文化からみれば異質であり、今は、それをうまく説明できないが、徐福団を外したら 「では、いったい誰が!?」と、なる。まさか、貴方は、『宇宙人が飛来した』 等とは仰らないでしょうね(笑)
 
 あっ!それから言いそびれましたが。<馬淵川>につないだ(?)“馬”も、徐福達が連れてきたのではないでしょうか? 出雲にも馬のつく地名がありました。 北上川流域に古代牛の骨はたくさん埋まっていましたが、 「どこの馬の骨とも分からず(笑)」 の語があるように、その骨が馬ではなく「牛や鹿の骨のほうがいいんでないかい」と思うのが子供心です。この場合の『どこ』は外国のことを指し、列島では野生化した馬はあっても、もともとの<野生>の馬は棲んでいなかったのではないかと、わたしは思っています。

<例外の北海道; 現地人との融和には、ならなかった?!> (9/24)
以前わたしは、北海道<勇払平野><石狩平野><石狩川流域>の地名に興味を持ち、国土地理院の2万5千分の1 地形図と、にらめっこしたことがある。なかで、<夕張山地>の地名が “小さく、数多く、アイヌ語” の地名で区切られていた。このことは、広大な北海道であるから地名も広域的であろうとの先入観をもっていた自分には意外であった。地名が小さく区切られているということは、その昔の人口密度が高かったことにつながる。 中で<神居・カムイ>とか<神室・かむろ>の地名は、信仰の聖地であることはいうまでもない。そして、そこには熊がたくさん生息していたのでは無いだろうか。ご存じのように、アイヌの人達は熊を神聖な生きものとしてあつかう。この聖地へ除福達が足を踏み入れれば、当然争いを生じる。

 徐福達にすれば、そういった神秘的な山にこそ好んで(?)その霊薬を求めて入る。徐福達は、中国を統一した始皇帝の武人をもつ。人が相手なら強力でも、相手が熊ではねえ^^!。さらに、熊と共存するアイヌの人達の戦闘力は侮れないものがある。 以上のような理由かどうかは分からないが、蕨手刀の分布は、渡島半島の一部と、石狩平野からの出土であり山間部には入っていない。蕨手刀の形は、熊の突進から体をかわし、なぎ払うために考案されたのではないだろうか。 北海道の地名で申し添えておきますが、北海道には全国津々浦々と同じ地名や、篠津・十津川等の地名があります。これは、その後に入植した人達が付けた地名かなと思っています。

その2 治験薬の実験 (9/26)は次の記事へ移動します^^。


つづきます^^、・・・♪
(9/08) 1拍手いただきぃ~~~(^-^)♪ Fさん>だよね?ありがと^^♪ それから、近時よく訪問して下さるSTさん>、返礼の訪問をしてもエラーが出てシャットダウンを余儀なくされます。(>,<) ついでに(で、ゴメン)?言っておきますが、足跡も残さず日々欠かさずに訪問して下さるありがたいお方が8名ほど?おられます。 この方々は、素人が記事を続ける上で大きな励みに(深礼)なってはいますが、わたしの記憶にも残らないし歴史にも遺らないので(足)あしからず(笑)。
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