卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」
此処に出雲と同様、“大量の銅剣”が埋めてある! 全国歴史ファンの方々、三上山に集合せよ。
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徐福達が日本史に与えた影響、そのⅣ.
<徐福達の行動:その2、治験薬の実験>
 ご訪問ありがとう御座います。 Dr.>コメントが(10/19)に入りました^^。

     列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
     いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?

  【 前記事、Ⅰ~Ⅲの要旨 】 
徐福そのⅠ: 秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、除福に童男童女3000人を与え、東方彼方の日本列島から“不老長寿”の薬石を持って帰れと命じた(又は、徐福が願い出た)。
徐福そのⅡ: 徐福達が日本列島で求めた“不老不死、不老長寿”の薬石にはどんなモノがあったのであろうか? 情報をお待ちしています^^!。
徐福そのⅢ: 日本海沿岸に太い探索拠点を作った徐福達の、次になすことは、日本列島の “三神山(火山?)”を探して、内陸部や、津軽海峡をぬけ三陸の方にも進出していった。
   ここまでが、今までの記事(Ⅰ~Ⅲ)の概略です。
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その2 治験薬の実験 (9/26)
始皇帝は、徐福達に「不老不死の薬石と、その仙人を連れて帰れ!」と命じた。 その時、中国へ入っていた日本列島の情報は、「はるか彼方、東方の三神山に、水墨画にみるような蓬莱頭(ばさばさあたま)で不老長寿の仙人が棲む神秘の国」というイメージでしかなかった。いわば未知への探検である。中世ヨーロッパの歴史で、東方に「黄金の国ジパングあり」として船団をくり出したことはある。共に未知への出立ではあるが、それとこれとは大きな違いがある。かたや黄金という富を求めてであり、一方の徐福達は、富と権力は、すでに手に入れた始皇帝が欲するその薬石である。又、その構成人員にも違いがある。欧州の方は当然船をあやつる屈強な者たちであろうが、徐福達は“童男童女3000人”という断り書きがついている。中世でさえ海難はつきものの時代。それより○○○年も前の話だ。 何故に、童男童女3000人なのであろうか? それが解せない・・!

 ↓ 前記事のコメント欄から移設しました。
もしかして  shigechanizumo | URL | 2010-09-28-Tue 09:36 [EDIT]
私は、広い中国大陸のことですから、秦の始皇帝は205歳とか、360歳などと称する老人に、しかも若々しい人にあったことがあるのではないかと思うのです。その人達に、何で長生きなのかと聞いたら、あるものを飲用しているとか、たまたま若い頃あるものを口にしたなどと適当なことを言ったのではないでしょうか。
日本にも、「八百比丘尼」の話があります。人魚の肉を食べたから「十代の美しさを保ったまま何百年も生きた。」というものです。
おっしゃるように、10代の童男童女3000人に人魚の肉のみならず、様々なものを食べさせたり服用させ、それを記録しておいてその物とともに中国へ帰る。もしその中で10代の若さを保ったまま60歳を迎えた者がいたら、50年ほどの治験期間でその効能を証明できるわけです。否、40歳でそのようであれば、30年ほどで効用を認めることができるのです。御筆の趣旨に賛成です。


立場が逆に~^^?  史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-28-Tue 22:02 [EDIT]
Dr.> こんばんは♪ コメントありがとう御座います♪
 しばらく、意に反して、コメント欄を閉ざしていました。こめんなさい。お詫びいたします。
205歳とか、360歳と称する老人。日本にも、「八百比丘尼」の話。おもしろそうですね。
・・念のためにこのブログをご覧になっている皆さんに申し添えておきますが、Dr.>が言われている数字や、話は口から出まかせを言っておられるのではありません。氏のブログへ訪問なされば、それがよく分かると思いますよ。只、当ブログへよせているドクターコメントは、Dr.>の外れた部分かな(笑)?。 現代科学・史学が相手にしない“突飛論”を語っているこの素人(私)のほうが常識的なコメントしか思い付かないのがつらい・^^!。
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<童男童女は被験用か?> 
何故、童男童女3000人なのであろうか。わたしは、それを「たとえ、何代かかろうとも必ず持って帰れ!」との始皇帝の強い意志からだとした。だが、それだけであろうか? ドクターとのやりとりで強い疑念がわいてきた。不老不死の薬石は、“それと確かめてこそ、その価値が認められる”人類の歴史で<新薬の開発>には多大の時間と、費用と、多くの実験と経験を重ねてきた。それ(残虐性)と、口にするかしないか、向き合うか向き合わないかは別として、最終的には「人体実験」をしてのみその効能が認められる。  

徐福達は、日本列島にどのような人がどの程度住んでいるのかは、分からずに出航した。一概に「不老不死の薬」と言っても、その対象が五十・六十歳の人か。三十・四十歳の人か、あるいは十九・二十歳の人かによって薬の処方は異なる。徐福が列島で自称120歳の人と、その人が服用していた“養老の水”だ。といって連れ帰ったところで誰も信用しない。さて、困った・・。そこに人が住んで居なかったらどうしよう。 その場合は、中国から人を連れて行って、その薬が<霊薬>で長生きをすることを証明しなければならない。そして、一口に長生きといっても、五十・六十歳の人より、三十・四十歳の人のほうが平均余命は長い。さらに、健常者に薬は要らないと思うが、中国には病気にかかりにくい身体作りの思想「○○←思い出せない」があり、健常者においても常日頃から漢方のサプリメントは行う。あれこれ考えても解らないことだらけだ。「えぇ~い。若い子供を連れて行け! その子達が長生きして帰れば一番の証明になる」というのは、論としてあまりに乱暴すぎますか?(笑)。 始皇帝は、徐福の出航から9年後(?あとで確かめます^^!)に死亡している。
(9/30)
一口に、「不老不死」といっても、漠然として掴みどころがない。とりあえずは<健康で長生き>したい^^。その時、始皇帝が何の持病があったのか、何を患っていたのかによって、徐福の求める薬石は決まってくる。こういった権力者は世継ぎを願うのが常であるが、美女3000人を集めての桃源郷の話もあるようだから、そっちの方は強かったらしい^^。始皇帝は、中国平定、統一のさい縁者子孫でかためる“血統”にするか、“群県制度?”にするかの二者があったようですが、結局は後者のほうを選んだ。 徐福も列島での薬石集めは、これに(本社・支社の関係)習ったと思いますよ。日本では、江戸に幕府をおき・諸侯を統率する代官制度をとり入れた家康が中国の歴史を学んでいたのでしょうか?

<揺れる死生観・その1>  (10/1)
今までに、「死生観」等と○○ばって考えたことはありませんでした。昭和のなかばに「人生50年」という言葉がありました。多くの人が50歳後半でこの世を去っていました。それが今では70・80歳まで生きることはザラ。豊かになったものです。では何時まで人は生きるのでしょう。占い師&人生アドバイザー(?)の<細木和子先生>が言われた『人(私達)に与えられた命は120年。それを如何ように使う(長く生きるか短くいきる)かは、その人の摂生次第。』というような主旨のことばを述べられたことがあります。 私は、今までの現状をみれば、このことばが一番当たっているように思います。『還暦は、その半分の折り返し地点』 ともいわれました。知りうる歴史においても、喜寿、米寿、古稀、等のことばがあるから100歳近くまで生きる人はあったのでしょう。 それが、Dr.>が言われた205歳。360歳にがく然としました。もちろん、それは直ぐに信じられる数字ではありませんが、自然界には≪例外≫という摂理が仕組まれている。と、私は思っています。これを語ると長くなりますので^^!、興味があるお方は、拙著の電子出版極秘報告書「巨大隕石と大津波」の冒頭と末尾の方へどうぞ(笑)。 205歳。360歳。 あったかも知れないと考えるのがこの素人(私)です。話半分としても180歳。まんざら信じられない話ではありません。
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(10/03)<話しは、まったく変わり^^!>
   日々のご訪問。真にありがとう御座います^^。
10/1 に、日本蜜蜂の来蜂を受けました。庭の松の幹に直径20cmぐらいの楕円のスイカ状のもので蜂球というそうです。さっそくネットで調べてもらっての巣箱づくり。どうやら取り込みました♪。日本蜜蜂を花虻とばかりに思っていたほどの ド素人。 今は、そちらの方が興味津々^^>・・・で、 「卑弥呼」の方の思考がうまく働きません。真に勝手なわがままを言いますが、こちらは、しばしのご猶予をお願いいたします。 興味のあるお方はカテゴリー<ゲスト様>【MY粗茶室  】 のほうへ入らして下さい。なにも茶菓子の一つもお出しすることは出来ませんが “中実のない” コメントぐらいなら・・(^-^)♪
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そうかな?  shigechanizumo | URL | 2010-10-04-Mon 10:38 [EDIT]
不老長寿、不老不死、こういったものも人の願望かもしれませんが、もうひとつ似たような願望があります。よみがえりです。秦の始皇帝は死にました。しかし、彼は蘇りという願望を持っていたのではないでしょうか。兵馬俑を作ったのも、死してまた蘇るという意思を持っていたのではないでしょうか。であれば、徐福が帰って来るのは何時でも良いことになります。3000人の童男童女が80歳になって中国に帰ってきたとしても、彼らが蘇りの薬を持って帰ったのなら、始皇帝は蘇ることが出来るのです。

<その手がありましたかぁ^^>  平 素人 | URL | 2010-10-04-Mon 21:37 [EDIT]
Dr.> いつもコメントありがとう御座います♪
  コメント欄の開けたり閉めたりで、ご不自由をおかけしております^^!。

ふ~む。 その手がありましたか。わたしが蘇りで一番に思いだすのはキリストです。何故そのようなことが語り継がれているのかも不思議の一つです。 これは非常に生くさい話しで、真偽のほどは分かりませんが、スターリン?の遺体に人工心臓をとりつけ輸血をはじめ生命維持装置をとりつけ、生体 (?)のまま保存し100年・200年後の医学が進歩したとき、再び甦らせるためとか。双頭の山羊をはじめて造った国。まんざら嘘でもないような現実味があります^^?

生死の判断の線引きをどこにするかは医学でもむつかしい問題ですが、心臓の冠動脈血栓をとる手術で人工心臓に切り替えるとき、「○○さん、大きなショックがありますが心配しないでくださいね」と言われた人の話。「ガーンとかガクンとか形容のできないショックの後、目の前が真っ白になり後は無意識」 これも瞬時ではあるが死からの蘇りと言えなくもありません。

砂漠に棲む両棲類だったかな。乾期になるとカラカラの干物の状態で身を潜めておき、雨季になると即席ラーメンのごとくに生き返る!(テレビで見ました)。始皇帝が甦るには内臓を保持し腐敗を防ぐ防腐剤処理か、食物を断ち即身仏のような状態で待ち受けなければなりませんね。それともDr.ブログ>にあったような、国譲りで、『現世は大和にやるが、あの世は出雲がとる!』 というような精神論になると素人には、まったくわかりません^^!

<揺れる死生観・その2> (10/9) おまたせしました。
それでは、この私くしが180歳まで長生きした時のことを考えてみます。20代のままで・・^^。もし、そのような霊薬があったならばそのような霊薬が大量にあるとは考えられず、もしその薬があったならば人類はとっくにそれを手に入れている。妻をめとり子供が生まれる。まわりのすべてが底上げして長生きするのならばいいが、ひどい場合は、この私だけが長生きする。妻が死に子供達も逆死する。新しい妻をめとり子供をもうける。360歳までも生きたとしたら、
「幾度となくその悲しみ」を繰り返えさなければならない。例え妻子が同じようにその霊薬を処方してもその線引きが広がるだけで、それはあたかも“ローヤルゼリー”で育てられた女王蜂に似ている。私にはこのような長生きは、とうてい耐えられない。このような長生きを<始皇帝>は望んだのであろうか。何はともあれ、始皇帝のその薬への執着は、すさまじく “みせしめ” のために460人もの学者を穴埋めにしている。

<薬の試験は、し烈を極める> (10/10)
*この項目は、素人(私)の無知から発する雑感であり誤りや偏見等が含まれていると、
  ご承知おき下さい。

徐福たちは、列島で始皇帝の命を受けた薬やら、その処方やらを探さなくてはならない。しかしながら、何が何の病気に効くのかが分からない。しかも、それは中国にはないモノて列島の特産品であるという制約がつく。中国にあるものなら大資をだしてまで列島に操りださない。動植物は勿論のこと、土石にいたるまで珍しいと思えるものなら何でも試す。薬石のもつ宿命から、それは人体実験をしてのみ、その効用が確かめられる。薬石とその処方は、人類の長い歴史の積み重ねの上になりたつものであり、如何に徐福がその道に長けているとは言え、それを短期のうちに求めようとすれば、当然何処かで無理が生じる。(ドクターの云われるようなことであれば別だが)皇帝は悠長にそれを待ってはくれない。
(10/12) 
近代の試薬は、二十日鼠、モルモット、ウサギ、ビーグル犬、猿、等の動物実験からはじまる。そして最終的には人へと移してゆく。薬はその性質上「毒にも薬にもなる」というように、用量と処方を守ってのみその効果があらわれる。徐福達の場合は、「見たことがない効きそうだ」という“カン”だけでそれが試される分けであるから、当然生命の危険や副作用の苦痛をともなう。ある意味ではその<限界を探る>のが試薬だと言える。歴史的にみれば、老母を妻を自らを試験体にした異例はあるが、常にその対象は “社会的弱者” であり、特に戦争時においては悲惨をきわめる。 それは、“必要悪”かも知れないが、治験薬の美名のもとに行われるこうした行為に目をそらしてはならない。時代によりその線引きや思想も変わってきているようだが、今、何が許されて何を許してはならないのかの、自己チェック(註:ヘルシンキ条約)を怠ってはならない。特に、徐福隊の場合は、それ等に加えて『不老長寿』という条件がつく。筆者はその被験体用として3000人の童男童女が用意されたとの疑念をぬぐい去ることが出来ない。
 

<徐福達の行動:その3、薬石・珍宝の集荷>

<徐福たちの集めたもの> (10/13)
(以下は筆者の思いつきで挙げたもので、もっと外にもあると思います。それを教えて下さい)
まず第一に挙げたのが温泉水。これは、そのままという分けにはいかないから、鬼の釜?で蒸留して“温泉の花”としました^^。 次に挙げたいのが、糸魚川水系の“翡翠”。列島のヒスイの産地は、糸魚川のみと思っていましたが、ドクターとのやりとりで、質は、やや糸魚川より劣るが出雲の○○島にもあるとのこと。近年に宮崎辺りでも見つかり話題になったことがある。
古墳等から出土するヒスイや玉石類のルーツは、当時の列島人には、固い玉石を研磨・加工する技術が確立していなかったとみられることから、考古学でも色々に云われているようです。中国人は、玉石のなかでも特に翡翠がお好き♪^^?。

(以下は、筆者の考えですが^^!)
玉石を身にまとうことは、他に対して身分とか富の自己アピールであり、古墳代→弥生期以前の列島人は、玉石を身につける風習はなかったとみている。卑弥呼以前のそれまでは、神(荒神さま)の下において平等であり、年功や性差の序列はあっても「身分制度」までには至っていなかったのではないか。魏志倭人伝では、それを見て「人々、序列をつくらず座する」と云っている。それ以前にあった牙の首飾りとか、貝の腕輪とかは、なにかの<困り事や、決め事>が発生したとき<巫女や、太夫さん>が<その神>を我が身や他に呼び寄せるための準備のための用具であり、今の袈裟のような役目をするものとみている。物事を決めるのは人ではなく『因は荒神にあり』とする社会制度であり、その荒神さまのいうことで政(まつりごと)や困り事を解決していた。列島人が玉石を身に付けることはその延長であり、中国の権威着けの身飾り?とは意味が異なる。今でも、そのようなよろず相談の<拝み屋>さんは居ますよ。『 あの先生は、よく当たる^^』 このような集落が、大きいか小さいかは別として列島各地に散在していたのではないかと前述しました。以上、ちょっと脇へそれました^^!。
そして、三つめに挙げたのが、オオサンショウウオ! これは中国にもありましたが、日本のは固有種。産地によって含有分も変わるのでしょうか。朝鮮人参でも天然物と人工物との価格は(質も?)雲泥の差!(←月とスッポン。天地の差より、パクリました。笑) 

(10/14)
近時、先進国が開発途上国から、それ等の<生物資源>を探索蒐集することを○○海賊行為と呼び問題になっています。歴史的(今も?)には、大英帝国(ゴメンこの呼び方には問題有り)の“プラント・ハンター”。 イギリスは元種の保存という面から、このような問題に早くから取り組んでいます。そして、これも近時、話題になっている電子機器に使う“○○メタル”。これ等の稀少類の寡占問題が発生しました。この二つの問題は忘れる程前の『 ゴルゴサーティーン』で、取り上げられていましたよ。(笑い)
あっ! それからもう一つ取り上げたいものに、“マッコウクジラの脂”。 これは、かの<ペリー>が、灯油の需要にこたえるため、遙か西太平洋に、水や食料の補給基地として日本に開国を迫ったいわく付きのもの。日本近海にはそのマッコウクジラがたくさんいたのでしょうか。それを語るに、宮崎県には<油津><鰐塚山地>という変わった地名があり、これを史実探偵は、4010年前の東北に端を発した巨大津波が鯨おも打ち上げたことを遺している地名だと思っています。鯨やサメが打ち上げられた! 当時の人達はビックリしたでしょうねえ^^。そして地名に遺した。 「地名は祖先からのメッセージ!」それを徐福隊にも語ったのでしょうか? なにはともあれ、素人の言うこと(^-^)であるから定かではないが<徐福会社>は、日本列島の各地を探索し、そこから集めた珍品・薬石を列島の<何処かに>集荷する。

<正月に各地分団が寄り合う> (10/15)
中国の人達は(日本人も^^)正月(旧暦)に寄り合う風習がある。ご存じの華僑に代表されるように「世界で中国人が商売していない国はない」と云われる程。その散り々に別れた人達は本国の親族とあいたい願望がある。徐福達にしても、その想いは同じだ。そして忘れてはならないものに『皇帝に薬石を持ち帰る』ことがある。たとえそれが不老不死の薬であろうがなかろうが、とりあえずの珍品・薬石は皇帝のもとへ送り届けなければならない。<徐福>は、前述した出雲(?)に、その本社をおいたとした。そこへ「 各支部、好きな時に持っておいで!」という分にはいかない。その日にちを決めたい。
(10/16)
ここで思いだして頂きたいことがある。<神無月>。列島に散らばった各分団は、その正月に集まろうと決めたが、遠くであればあるほど早く出発しなければならない。今でも全国展開の会社が支社長会議をするとき、その開催時間を一番遠くの鹿児島とか北陸支社が間に合う時間にきめる。通常時間は8時からだが、10時からにしようかとなる。その出立が神無月(10月)。そして12月が復路を急ぐ師走月(12月)^^!。このように決めれば正月前には、皆々が集まることができる。さらにそこから<中国送り隊>を結成して集荷した珍品を送り出せば中国の旧正月(新暦の○月○○日)にはまにあう? 要は、皇帝のおわす中国の旧正月から逆算して前に前へと、さかのぼりその出発日を決めればいい。  
(10/17)
次に大切なことは当時の航海力と運行力である。九州の<佐世保><唐津><博多>から、今、決めたその○ヶ月で秦朝の首都<咸陽市・かんようし>(咸陽は、黄河河口から上流へ約1000km。日本でいうと下関から秋田ぐらい)へ着くかどうかは、素人考えなので責任がもてない^^。 おおよその目やすは、それより○○年後の遣隋使、遣唐使の運行を参考にすればよい。そして、この話は、列島文化の古墳期、神代(かみよ)、卑弥呼(AC175?~248?)をおよそ400年もさかのぼる紀元前3世紀頃の模索であるとご承知おきください。(^-^!) ちなみに何時の頃とは断定できないが佐賀県・唐津市の<神集島><呼子>の地名は、その徐福団が集合し、「 行ってきま~す!」 「 お帰りなさ~い♪」 と呼び合う人達、こども達の言葉(地名)とみるのは素人探偵の思いすぎでしょうか?(笑)。

不思議  しげちゃん | URL | 2010-10-18-Mon 08:51 [EDIT]
不老不死・不老長寿といっても、どの時点からの不老なのか、長寿なのか。青年の若さで不老なのか。秦の始皇帝のように絶大な権力を得てからの長寿なのか。ただ馬齢を重ねつつも185歳でも生きているといったことなのか。どれを採るかによって霊薬の種類も異なるのではと思うのですが・・・。

始皇帝は何を考えていたのか?  平 素人 | URL | 2010-10-18-Mon 10:51 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん>^^!へ、 いつもコメントありがとう御座います^^♪
      コメント欄の開閉でご不自由をおかけしていることをお詫び致します。
そうですね。それによって徐福が列島の<何処で><何を>求めたかにつながり、徐福の立ち寄り場所が推定できます。一説には水銀もあるようですから、その水銀は何処に・・・?
始皇帝の功績とその暴君ぶりは、Dr.>のほうがよく識るところであり、わたしは始皇帝が何を考え、どんな死生観をもち、兵馬俑や不老不死の霊薬を求めさせるに至ったのかをまったく知りません。それを逆に、お伺いしたいくらいです。始皇帝は、それを諫めた長男を追いやり、460人の学者を穴埋めにし、その声は「狼(ろう)の如し」といいますから誰も抗らえません。少なくとも徐福は、自身の考えはどうであれ始皇帝が没する(9年後?まで)皇帝の意(?)に沿うような薬石探しをせざるをえなかったと思います。ご存じのように秦朝は12年後(汗~^^?これも後で調べます)で、滅びています。もとより始皇帝の“不老不死”の考えは無理な話しで多勢が受け入れない部分。その死後は急速にさびれ・・・、「後は野となれ山となれ」・・・、(笑)

“ 業 ”  しげちゃん | URL | 2010-10-19-Tue 08:55 [EDIT]
不老不死と不老長寿とは少しニュアンスが異なるように思います。不老不死は業のようなもので、死を怖れるという心象が込められているように思います。一方、不老長寿は祝福のように思えます。秦の始皇帝が怖れたのは己の業であり、死と共にその権勢が失われた時に、それまでの業の償いが襲いかかって来ると思ったが故に、自らの死を恐れ、不老不死を願っていたのではないでしょうか。

ご明察!!  平 素人 | URL | 2010-10-19-Tue 21:09 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> こんばんわ コメントありがとう御座います^^♪
わたしは、何故8000体もの兵馬俑なのかが解りませんでした。これは、始皇帝が死してから造営されるから2代目が成したのかも知れませんが、遺言に残しておいたとも考えられます。いずれにしてもあの世にまで兵馬を連れて行く発想が分かりませんでした。晩年は身を隠しトンネルで行き来をするほど<暗殺>に対しての用心ぶかさ。現世の戦乱をかいくぐり、あの世にまで兵馬をもってゆく、・・・。 その心の強さと同時に一抹の寂しさを感じます。 “ご明察” ありがとう御座いました。

これで、ますます、徐福は、その呪縛から逃れられなくなってしまいました。(^-^!)


<列島人から見た徐福たち>へ、・・・
   つづきます^^!
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徐福達が日本史に与えた影響、そのⅤ.
<列島人から見た徐福たち>へ、
    ご訪問ありがとう御座います^^。

 この 記事は、(10/19~11/13)追記の形で更新をしています^^!。
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    列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
    いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?

除福そのⅠ~Ⅳ: 秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、徐福に童男童女3000人を与え、
         東方彼方の日本列島から“不老不死、不老長寿”の薬石と仙人を連れて
         帰れと命じた。対馬海流によって分散した徐福たちは、列島各地や、内陸
         部へも果敢に進出していった。 そして、とりあえず蒐集した薬石・珍宝を
         始皇帝のもとへ送り届ける交通網を列島につくりあげた。
   ここまでが、<徐福について>の記事(Ⅰ~Ⅳ)の概略です。
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 <列島人から見た徐福達>

<列島住人が巨大隕石で被災、その概略>  (10/19)
石器生活を営んでいた列島住人は、BC2001年12月25日未明の6時頃。 東北の釜石辺りに衝突した巨大隕石(詳しくは前述の報告書)と、それで発生した巨大地震と巨大津波によって被災した。 奥羽山脈より東側は、衝突による直接的被害と水界峠(250m)越えの巨大津波による被災。 そして、北上川を北上した土石流は<一関>を造り、<盛岡>で盛り上げられ、ほぼ壊滅の状態。 北海道は、勇払平野の表土を削ぎおとし石狩湾へ抜けた巨大津波(推定160m?以上)で、これも壊滅状態。 一方、東北の日本海側は、ハッキリとは推(よ)めていないが想像するほどには被災しなかったし、人口も少なかったのではないか? 北陸地方を襲った巨大津波は、砺波、井波の内陸へ25km。 内陸地震で発生した琵琶湖大津波は、大津、石山寺へ高さ40m級。 山陰では、天橋立を造り、弓ヶ浜(黄泉ヶ浜)を造った大津波の高さは17m?ほどだったかな。 太平洋側は、鹿島灘、波崎、銚子半島で津波の力は方向を変えられ、それより西は相応に、とでも申し上げておきましょうか(笑)。

(10/20)
その大事変前の平均気温は、今より+15-6℃ 高かった。( 前述の報告書; 濃尾平野、瀬戸内の島名と理科年表で推定)それから巨大隕石とその巨大地震によって刺激された火山が舞いあげる粉塵により “隕石の冬”へと向かう。舞い上がった粉塵は大雨を誘い、列島人の心に天井(天の井戸)をつかさどる “共通の荒神”となって入り込んだ。この共通の体験と認識は、人々の≪核≫となり神となり、その被災が大きい地ほど信仰の対象地となり極小集団から小集団、中集団へと展開していった。大事変の後の大雨は口伝され<雨乞い>へと発展する。列島で<津>の付く地名と竜神文化は、この大事変によって到達した津波による地名だと合点している。このような文化が永々と続いていた列島へ除福達はやって来た。

 < 註: 隕石の冬 > 前述したかも知れませ~ん^^!  (10/21)
隕石の冬とは、聞き慣れない言葉であるが、巨大隕石が地球に衝突したとき、その舞い上がる粉塵が太陽光をさえぎり、やがて気温が降下し冬のような状態になることをいう。地球が過去に経験している幾度かの氷河期は、巨大隕石のせいではないかと云われている。対して「核の冬」はよく聞く言葉であるが「隕石の冬」から生まれた考えである。○○年にインドネシアであった○○火山の噴火では地球規模で 1・2℃の降下があったとも云われている。 舞い上がった粉塵は、その高さにもよるが、やがては引力や、雨水によって地表に降下する。たとえれば濁り水がだんだんに沈下し澄んでいくようなものかな^^? 今、盛んに云われている「CO2 による温暖化」の影に隠れてはいるが、大きく見れば今の地球は間氷期(氷河期から氷河期の間)にあり、そのせいで温暖化へ向かっているともいえる。さきのTVで、一方向しか見ないマスコミや私達に、東大教授(ちょっとユーモアのある外人教授^^)は、その返答(それを云うと長くなるから)に困っておられました^^。( そうでしたよね^^? 気象○○さん>←最近よく訪問してくださる^^♪)

<荒神さまが帰来した!>  (10/22)
人々が自然の脅威をうけ、それが列島共通の神となって人々の心に入り込んだ時。 その神は≪核≫となリ、強固な信仰集団へとなって行く。この『 全ての因は、その荒神さまの、お考えにあり!』とする考えは、前述したようにご祈祷によりその荒神を呼び寄せ<物事>をうかがい、まじないによって<病気の治癒>をおこなう文化でもある。“まじない”によって物事をきめる社会は、おおくの迷信を産み、必然的にその進歩がおそくなる。
そこへ、西方から天と地ほどの先進性を持ち、甲冑兵士(かっちゆうへいし)を伴って来た徐福達を 列島住民は、○○年前に西方へ進んでいった巨大津波に乗って行かれた、その荒神さまが帰来したと “勘違い” するのは無理からぬこと。蛇足ながら、その甲冑兵士は、後の毘沙門天や仁王様に変身していると謎解きしました(^-^)。

<秦(はた)の人達>  (10/23)
異様な出で立ちの人達が、その西方からやって来た。そして水を請い食物はないかというから、水を差しだし食物を提供した。お礼に何やらみたことも無いような土産をびっくりする程たくさんくれた。中国の人達にすれば人から物を貰い「はい!ありがとう」ですませ、返礼品がそれより少なければ、その人の下方に下ったことを意味する^^?  この供物に対する意識のズレは後々の “卑弥呼外交”まで続いていると前述しておいた^^。
身振り手振りながら聞けば『何かの探し物をしにやって来たといい、仮住まいをしたい』という。「私達の “端(はた)”でよかったら住みなされ」 ということになった。  わたしは、少年の頃 <秦・しん>を何故<はた>と読むのかが解せなかった。それは 『端(はた)に住む人達』 の意だったのだ。徐福達にすれば長旅の疲れもあり、全くの無人島より、何かにつけて人と接触したほうが好都合。この端に住む形態は後々の世まで続いているように見受けますが(^-^)?

<秦の人達が稲作を始めた>  (10/24)
徐福が列島に来たのはBC219(~?)年頃の石器・縄文の時代。当時の列島住人の多くは、山と平野の境目で、近くに涸れることのない川が流れているところへ住んでいた。そして、そこが少しの高台であれば申し分ない。言うなれば(?)、米は主食とまではいかず、狩猟、漁労、採集、焼畑雑穀等の生活をを営んでいた。そんな時代に秦(以下はたとよみます)の人達がやって来た。彼等は河口付近の川縁(かわべり)へ住みだした。そこは時に、洪水にみまわれ多くを利用していない土地でもあった。徐福達にすれば、稲作での水路が得られ、船で列島の他の地へ移動できることが彼らの必須の条件である。そこでとりあえず水稲作りを始めだした。
(1025)
前文に、「始皇帝は彼等に五穀を与え」という言葉を推理小説風に^^!)忍ばせておいたのですが気付いて頂いてましたかぁ?(笑)
未知への旅立ちであるから食料はとうぜん携えるが、“蓬莱の地”列島では何が作れるのかが分からない。だから、わざわざ五穀を与え、(現在日本では、米、麦、粟、キビ、豆をさすことが多いが時代やその社会での主な穀物をいう) とことわったのだ。麺やマントウをつくる小麦や、米は、彼等の主食と思われるが彼等には<次の地で薬石を探す。本拠地へ集荷物の移送>という決して外せない条件がある。そこで、山地に強い麦よりも水路に近い米作りのほうへ比重がうつる。(陸稲・おかぼ、という手も考えられますがここではあえて水稲にしました。)

<湿田の開拓と営農法> (10/26)
この項、素人考えなので<間違い>は、 正して下さい^^!。当ブログを訪問してくださる2名?の専門家さま!
湿田を造るということは、その地へ長期に滞在することを意味する。稲の作田は一朝一夕には成りはしない。大陸と違い、花崗岩質の砂地の多い列島では、粘土質を溜め、水が地下へと抜けないようにするためには長年(?)を要する。そうかと言っても稲は作るし、探せばその適地はある。 以前TVで東南アジアのとある国で、水をはった作田に苗を放り投げて、その植え付けをしている場面を見たことがある。よく考えた農法だなと思った。子供心にそのほうが楽なのにと思っていたからだ。でも、その考えは間違いであることを後で知った。苗を筋植えにし等間隔の「田の字」植えにするのは、なにも見た目をきれいにするためではない。後の田の草取りや、間隔を同じにすることで、それぞれの苗に均等に陽があたり、同じように根がはり、風通しがよくなり、病害に強い丈夫な稲となる。加えて、米粒の熟しかたも均等に熟れてきて収穫作業がしやすい。植物本来の生理は、時期をずらして(発芽)実がなるようにしくまれている。なぜなら、鳥害や天候の異変等で一斉に全滅するのを避けるためである。(と、素人探偵は思うのですが・・^^)それが一斉に熟れるようになったのは数々の品種改良がなされた結果である?
当時(弥生期か?それ以前)の出土品の石器で、稲穂の一本一本をすごき取ったのであろうと思われるものがある。このことは、当時の列島では、田の字植え以前の農法がなされていたのではないだろうか? 「単位当たりに、本数をたくさん植えれば、たくさんとれるのに?」(笑)
何を隠そう、私・素人もそのように考えていた時期がありました^-^!

<田の字植えは明治になってから> の間違いでした^^!。(10/26・27)
ウエブで調べたら、定規や紐を使っての「田の字植え」は、明治時代になってからでした。しかしながら、中国統一では、20万・30万人?の兵をくり出したというから、その兵糧をまかなうには、それだけの営農法と備蓄法が確率していなくてはならない。対して列島の方は、まだ国と呼べるほどの集団性には至っていない。さらに中国大陸と日本列島には地勢の違いがある。仮に当時の人達の一日の歩行が100kmとしよう。大陸の方は一日中歩いても景色は変わらない? 一方、日本列島のほとんどは、10km、20kmも歩けば、「山あり、川あり、平野あり、加えて海がある」このことは、狭い範囲において、色々な食材が手に入るということでもある。食料の確保をこの両面から考えても列島では水田への比重は小さく、営農法も遅れていたと思える。渡航後の徐福達にすれば、船を持っている以上、海や川から遠く離れるわけにはいかず、おのずと水田への比重がおおきくなる。・・、それを見た列島の住人から見れば<何やら変わった米の作り方だ>!(^-^)♪

弥生時代を云うのに<米作り>がある。遺跡等の発見から、列島の米作りは2500年ほど?前からと思われていたが、2005年に、岡山・朝寝鼻遺跡の6000年前の土壌から稲のプラント・オパールが発見されたことにより、ずいぶんさかのぼることになった。そのルーツ等の論議はともかく、その作農が拡大するきっかけを作って行ったのは、除福達の行動に重なると素人はみていますが? 北陸や東北地方には豪農が多いしね^^)。 この考えは、今の史学には全く(?)ありません?。なにしろ、除福は “伝説上の人物” ですから(^-^)!

<徐福は“百工”を連れて来た!>
この項、筆者の知識不足と思慮不足です。少々?お待ちください。( 汗~!)
Dr.>ブログにあった、何やらの神が何やらの木の苗を列島にもって来た」 というのが気になっています^^!。(船建材のためか?)

<神様になった徐福達>  (10/30)
徐福は、もとは「方士」であった。方士とは・・・? ウィキぺディアから削除されたのでハッキリとはわからないが薬事や、呪い(まじない)、天文方角等、の諸々に長けていて、それ等をもちいて医療行為をする者のようだ。 日本では、それにあたるのが太夫さん(拝み屋さん)だとしたが、中国の漢方のほうがより効果的にはたらく。 彼等に頼めば難病を治してくれるし、数々の命を救ってくれる恩人でもあった。 ・・、その人たちの没後は丁重に弔われ神となった。列島のそれまでの<神>は自然界の全ての因縁を司る神であり、それが人と重なることは決してなかったが、徐福達の来訪をきっかけとして、その後は人が神へと昇華する文化へと移行していったのではないだろうか。 素人探偵は、荒神や観音様の掛け軸の図で、かたわらに童子を描いているものがあり、これが徐福たちが連れてきた童男童女に重なって見えてならない!

<贈り物文化の違い?> (10/31)
中国での贈り物は上から下へ、日本での贈り物(お供え)は、下からお上(神)へすると前述した。蛇足ではあるが中国での贈り物は珍品・珍宝。列島での贈り物は初物を良しとする。この考えは、今でも残っていて、初競りでは法外な値がつく。いつぞやは夕張メロンの2個が45万円♪(今ではもっと上?) 欧州のマスコミがこれに揶揄(やゆ)を加えて報道していたが、彼等だって日本人の目からみれば、年代物の生ハムや○○(思い出せない。トリュフ^^?)には法外な値がつくから、これは文化の違いと受け取っておいたほうがよさそうだ(笑)ちょっと外れましたが、日本人と中国人贈り物にたいする互いの思い違いは「倍返しや祝い負け」として後々の関係にうまく作用してゆく。その中国からの贈り物は銅材(鉄)? 列島からの贈り物は、若者か娘か? (参考)卑弥呼は、魏の皇帝へ真珠等のほかに○○人の奴女(生口・せいこう)を始皇帝に献上していた。

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どうかな?  しげちゃん | URL | 2010-11-01-Mon 09:17 [EDIT]
不老長寿の薬を日本列島に求めてきたのなら、まず、その日本列島で長寿を全うしている老人を探し当てるということもひとつの手ではないでしょうか。
目の前に恐ろしく長寿のような老人がいたとします。185歳くらいでしょうか。不老長寿の薬を探しに来た人達なら、まず何を食べているか、どんな暮らし方をしているかなど、その長寿の秘訣について質問するでしょう。
次に、238歳の人を見つけました。同じような聞き取りをします。どんどんこうやって資料を集め、その資料の共通点を探すのです。徳之島の長老は柿がお好き。隠岐の島の長老も柿がお好き。・・・・、そして、その柿も熟柿が好きだったとします。・・・後はご想像に任せます。でもこれなら中国でも出来ますよね・・・????


そうかな?  しげちゃん | URL | 2010-11-01-Mon 09:30 [EDIT]
老年学という医学の範疇があるそうです。私の知り合いの先生も老年学会の理事をしていらっしゃいます。ある説によると、老化と劣化は違うそうです。ウンチクを聞きましたがよくわかりませんでした。生まれ立てが一番劣化が少なく年が寄るにつれて劣化が進み老化するというのは間違いらしいのです。不老というのは老化しない、すなわち生物としての劣化がないということではないとすれば次の組み合わせが可能です。
老化したが不老。
老化せず不老。
老化して劣化。
劣化せず不老。・・・本当でしょうか。もう少し考えます・・・。


参考  しげちゃん | URL | 2010-11-01-Mon 09:40 [EDIT]
ウィキより。
「老化の原因ははっきりとは解明されていないが、以下のような複数の要因が考えられている。
プログラム説 [編集]
それぞれの細胞には、分裂できる限界がはじめから設定されており、その回数を迎えて分裂ができなくなることにより老化が発生するという説。分裂できる限界数は、種によってまちまちであるが、概ねその種の寿命と比例していることから現在有力な説のひとつである。テロメアは細胞分裂の度に短くなることから、このプログラム説の機構を行う部分であるとされる。
この説における解決法としては現在、テロメラーゼが有力である。がん細胞においては、テロメラーゼが高活性化することにより細胞が「不死化」する]ことから、テロメラーゼの活性をコントロールすることで不老不死の実現が可能なのではないかと考えられている。」


コメントに感謝!  平 素人 | URL | 2010-11-02-Tue 04:38 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> おはよう御座います。 コメントありがとう御座います^^♪
またまた、むつかしい問題と興味深いおはなしを頂きました。・・・思考が混沌として日が変わってしまいました^^!。 Dr.>とのやりとりは、翻意するもの、または自説がより確定化してゆくもの。または好奇心をそそられるもの等、色々な楽しさを覚えます。 このコメントも、より多くの人に見て頂けるように本文へ転載させて頂きますので・・・、どうぞよろしく(^-^)♪

  即、返答できません^^!。・・しばらくのご猶予をいただけませんか^^。

「そうですよねえ」
<卑弥呼以前の列島に、役場の制度が確立していた!>  (11/03)
除服たちが列島での生活基盤ができた後で、真っ先にすることは、皇帝の命のその仙人を探すことでした。わたしは、Dr>が何故に「185歳、238歳」のような具体性のある数字をあげられるうらには、どのような伝承があるのかを知りたいと思っていましたが、それは隠岐の島や、徳之島にあったのですね。しかも<柿>を食べて♪ 「柿のみが赤くなるとお医者があおくなる」と言いますから柿には“何”か身体にいいものが含まれているのでしょうね。しかしながら、185歳、238歳といっても「自称」ですから確かめようがなくて、たとえその仙人を連れて帰っても皇帝は納得してくれない(^^!)。そこで“長生き”した童男童女を連れて帰れば・・・となるのでしょうが・・・。私は、何時のころからと断定出来ませんが、その昔(卑弥呼以前)に。今のような戸籍(歳)を登録しておく制度があった(前述)と思っています。それは3~才の幼児の人身供犠であり、登録しておいたその子達の中から白羽の矢をたて神に捧げるという・・・。一歳の宮参りで登録し七歳がくれば、その“役目”から除かれると。それを今にひきづっている?のが「役場」であり^^、それに関連して、焼き場、札場、厄よけ、厄明け、等であるとも・・(“やく”をPC変換すると、その謎が見えてくるのが面白いですね。) ちなみに岡山県・総社市の<鬼の城・きのじょう>の遺跡から硯(すずり)が出たと聞きますから、その昔の役場だったのでしょうね。・・ちょっと話が反れました(^^)

昨日、文化の日。植物園にいきました。そこで伐採された枝々のなかに親指の先ほどのミニトマトそっくりの柿を見つけました。黒色の柿を見た時も、そうでしたが私(私達)が知らないだけで、世には未だ見ぬ色々な「柿」があるのかも知れませんね^^。

「劣化せず不老」  (11/04)
老化したが不老。老化せず不老。老化して劣化。劣化せず不老。
いろいろにあるのですね。色々に考えてみましたがやっぱり解りませんでした。物事には時間の経過があり、その変化の経過時間は速いときもあれば遅いときもあるように感じています。そのスピードの変化は放物線(円錐曲線)を描いているようにも見えます。素人(私)の見聞きするところでは、人の寿命は120歳まで。又、身長は1m未満でその容姿は幼いとも見えるのに身体的老化は相当にすすんでいる人。又は、60代なのに40代とも見える女の人^^(TVの宣伝で♪)。これ等が常識的な範囲でしょうが、物事は偶然の確率とか奇跡の確率で進化していると思っていますから、その常識的な範囲をこえるところが分からない(汗~)。

「老化の原因」  (11/06)
老化の原因について、今まで深く考えたことはありません^^!。「氏の参考」をはじめとして、付け焼き刃的に色々調べてはみましたが、これも素人の思考範囲をこえています^^。 なかで、主旨を外れるとは思いますがEM菌(有用微生物群)なる言葉に興味をもちました。
【 EM菌は20年近くも前、琉球大学農学部 比嘉照夫教授により開発されました。当初は農業での利用を主体とし、土壌改良、作物の品質向上を目的に研究され、その結果すばらしい成果をあげてきました。】 EM販売ニコマートより
これを分かりやすくとらえれば、牛乳をチーズにする菌と腐敗させる菌との違いのようです。
植物にとっては特に影響があるようで、一昨日のTVですが、それらの選択された有用微生物群を施肥することによってニュージーランドでは羊の牧草として成果をあげているそうです。また東北のりんご園でも土壌を自然の有用微生物群で活性化し、(人工的な)無農薬・無肥料の栽培をしていると紹介されてていました。わたしも数年前にEM菌で処理された堆肥の安売りがあったのでバラやサツキに“大量に”施しましたが、「安いから大量に、良い物なら大量に使ってやれ!」との思いが浅はかだったようで、バラは斑点病が発生するし、サツキは未だに大きくなりません^^!。 今も昔も、徐福達もこのような試行錯誤があったのでしょうね。 きっと?
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 記述をもとへ戻します^^。
<その贈り物には?>  (11/07) 
列島各地にBC2001の大事変後から、永々と積み上げてきた「竜神雨乞い文化」があった。
その荒神信仰の祭祀とは、≪問題の発生から→ (迎え火・呼び水)→ 荒神の呼び寄せ(生け贄を捧げる)→ 解決策のお告げを聞く→ お告げの後の(送り火)→ (祭祀終了後)→ 祭祀用具の破壊、埋葬・散逸→ (次回への保管具を)仮印する!≫だと前述した。(詳しくは本文で)その祭祀用具のなかに、朝鮮半島からとされる風鐸がある。この風鐸が銅鐸の前身だとする論説がある。(筆者は風鐸・ふうたくの詳しくを知らないが、呼び鈴のようなもので?)これに列島の住人が徐福達の携えてきた銅剣、同材料に興味を示し、それまでに使用してきた土器製のものを銅製へと変えていったのではなかろうか? 銅材のもつ神秘性は、「アカ」から、アオ(緑)へ錆びて変わることと、緑青(ろくしょう)の持つ毒性が荒神へ重なると前述した。 列島の住民からすればその銅材を欲しいと思う。 徐福達にすれば行く先々で、その地の首長・太夫に銅材や銅製品を贈ることによって家屋の建設、農作業、の人手。はたまた薬石探しの案内人(シェルパ)を得ることができる。

<日本前史における韓国の影響> (11/09) この項、筆者の全くの想像です^^!
日本前史においては、日本と中国の関係におもきをおいて、韓国は常にその経由地とか仲介役として語られてしかいないと思うが、日本と韓国は対馬海峡を隔てて、晴れの日にはお互いの地が望める関係にある。始皇帝が、<蓬莱>より、(なりふりをかまわないボサボサ頭の人達。又はヨモギの生える荒れ地より、)「不老不死の薬石と仙人を持ち帰れ!」 と命じているからには、その “蓬莱の地 = 日本列島 = 縄文人” という情報は、朝鮮半島を経由して中国へ入っていたとしか思えず、徐福以前にも朝鮮半島から列島への渡来があったのではなかろうか。先の<風鐸>にしろ、もっと韓国(朝鮮半島)と、日本の関わりを知りたいと思う。
Dr.>の言われた、出雲半島西端にある“ドルメン;韓国人墓?”が気になってしかたがない。

うらやましい?  しげちゃん | URL | 2010-11-09-Tue 16:14 [EDIT]
私は、中国大陸やその地続きである朝鮮半島の人達が、日本列島に何かうらやましいと思うようなことがなかったかを考えています。今までの関係は、先進文化が中国や朝鮮半島から流入してきたとして、日本列島は受身のような立場で語られています。しかし、それだけだったのでしょうか。私たちから見れば当たり前のようなことが、中国大陸や朝鮮半島の人から見ればとてもうらやましいと思える何かが日本列島にはあったのではないかという視点を持ってみるのです。殺伐とした黄砂地帯、ゴツゴツとした半島、どこからともなく突然と現れる侵略者、ダラダラと続く同じ風景、あまりおいしくない農産物や魚介、まだまだあることでしょう。・・・それに比べて日本列島の住人は・・・ということに思い当たった中国大陸や朝鮮半島の人が考えたことは・・・。目指せ、日本列島・・・となったことがあったりして・・・。

「同感です。」  平 素人 | URL | 2010-11-10-Wed 08:37 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> いつも、コメントありがとう御座います^^♪
それに付いては(も^^!)、すこし長くなりますので本文のほうへ移させていただきました^^。

わたしも同感です。彼等にとって日本列島は“魅力ある地”であったとみています。地勢の違いから、もう一度考えてみますと、中国大陸では何んでもありですが、広大がゆえに食物にしても資源にしても片よりがあります。中国の人が珍品珍宝をよしとするのはこのためでしょうか?
合わせて日本ではどこでもきれいな水を“あたりまえに”手にすることが出来ますが、大陸では、長江、黄河がつくる広大な堆積土のため清水を得ることが難しいのでしょう。中国は今でもきれいな水を大量に要する染色等の工業用水をつくるのに苦労をしているようです。
朝鮮半島の方ですが、Dr.>が言われた<熊津^^>を探すために観たのですが、その地勢は東の山岳地帯と西の平野部に、おおむね二分されています。(以下は、素人的考えであり後でお叱りを受けるかも知れませんが)こういった所では生活が単調になり、必要物資が欲しい時には、他所へ出かけなければなりません。それが“中央市場”で事足りている内はいいのですが、人々が集団性を持ち欲しい物が大量の建築資材、鉱石、薬石等に発展すると、他の住人の所へいってそれ等を求めるようになります。遠隔地ゆえに車馬が発達し、大挙して押し寄せれば、そこで争いが生じる! 
(11/11)
中国の歴史が争いを抜きにしては語れないのは、この理由でしょうか。反面、万里の長城や<客家・きゃっか=2m厚さの防御土壁で造られた集合住宅>等でみるように、その防御性の強さには驚かされます。一方、朝鮮半島のほうですが、Dr.>が言われるのは“馬賊”のことでしょうか? わたしは馬賊のなにやらを知りませんが、この二つの国の“歴史に”共通していえるのは<青銅器>に戦闘性がありとみています。大型動物にトドメを刺すためや人を殺傷するための実用的な形をしています。それが列島へ渡ってからは祭祀や身分を表すための非戦闘的なものへと変わっているように思います。日本の各地に<朝鮮式山城>と云われているものがありますが、素人は、これを戦国時代に臨時的に使用されたことはあるかも知れないが、本来の目的は、戦闘のための施設ではなくて<雨乞い用>に造られた施設だと(報告書本文で詳細を)謎解きしています。このような事から徐福たちは列島人を 戦いを好まない<和人?><倭国>だとみたのでしょうか^^? 戦うことを常としてきた徐福たちにとっては別天地♪

(11/○○) Dr.>とのやりとりで「生口・せいこう」が気になりだしました^^。ヒョッとして??
生口は、この度はじめて耳にする言葉なのでウィキペディアで(以下を)検索しました。


生口(せいこう)は、弥生時代の日本(当時は倭)における捕虜または奴隷とされている。
107年(後漢永初1)に当時の倭国王帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じている(『後漢書』)。その後、倭王卑弥呼も239年(魏景初2)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人を、243年(魏正始4)に魏少帝へ生口を献じ、その後継者の台与も248年に生口30人を魏へ献じている
                                              (『魏志倭人伝』)。
生口は元来、捕虜を意味する語であるため、捕虜を起源とする奴隷的身分であると考えられている。時代的に献上物が豊富ではなく、そのため生口を送ったと見る向きもある。ただし異論も多く、捕虜と関係ない奴隷とする説や、あえて中国へ献上されていることから、単なる捕虜・奴隷ではなく、何らかの技能を持った者とする説もある。さらに中国への留学生とする説もあった。またこの時代は食人の風習があったので、そのための食材であったという説もある。魏志倭人伝の記述から、弥生時代後期に奴婢という奴隷階層がいたことが判っている。生口が奴婢と全く別の存在なのか、重複するのかは論が分かれている。
 (以上)

生口  しげちゃん | URL | 2010-11-12-Fri 17:22 [EDIT]
生口とは生きた口ですね。この人達を中国に残して遣使たちは倭に帰っています。「中国への留学生とする説もあった。」とされています。生きた口、口から連想するのは言葉です。倭から連れて来られた生口は倭の言葉を話します。中国人は倭の言葉を良く知ってはいません。そこで、生口に中国で生活させて中国語を覚えさせ、**は倭では++と言う、意味するというようなことが出来るようにするのです。倭と中国との意思の疎通はよりスムースになります。当時は辞書や百科事典はありませんから、そのような役割を果たせるようにするために、生口を置いて帰ったのです。何年か、あるいは何十年かの後に倭の使者が中国へ行けば、その生口が登場するか、その後継者が、通訳をするのです。まさに生ける口です。

生口2  しげちゃん | URL | 2010-11-12-Fri 17:38 [EDIT]
「後漢の安帝へ生口160人を献じている(『後漢書』)。その後、倭王卑弥呼も239年(魏景初2)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人」とあります。これでいよいよ生口の役割が分かります。最初にドンと送っているのです。その中の何人か何十人かは先に述べた役割を果たせるようになっていたことでしょう。そのうちの何人かを残し、新しい生口に彼らの役割を伝授させ、習得させるのです。そして何人かは倭へ連れて帰るのです。とすれば、倭では最新の中国語の通訳が得られるのです。中国から倭へ使者が来たら帰ってきていた生口が通訳したり接待したりするのです。つまり、捕虜に用いる生口は、穀つぶしすなわち、生かされて口でただ飯を食うと言う意味での生口であり、奴隷に匹敵する貧困層は当時の中国には掃いて捨てるほどいたのでしょうから、わざわざ送る必要もないのです。倭が送った生口を馬鹿にした見解は見直されるべきです。

「グッドアイディア」  平 素人 | URL | 2010-11-12-Fri 22:52 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん>  こんばんわ コメントありがとう御座います^^♪
「生口=通訳人説」ですか。グッドアイディアです^^。 これも本文へ移させて頂きました^^。
わたし(素人)は、このような諸説紛々としている場合、奇異をてらう(統計上の)端々の5%を除いて、すべてを受け入れるようにしています。なぜなら専門家というのは、その道に長けていて何かの根拠があって、その“言”を発しているからです。ただ専門家というのは、相手の言を受け入れ難いという欠点はありますがね(笑)。

Dr.>が言われるように「奴隷に匹敵する貧困層(や捕虜)は、当時の中国には掃いて捨てるほどいた」でしょうから、珍品珍宝をよしとする中国へ若い男女を贈ることに疑問があったからです。今までの私は、中国の歴史で、天皇家から養女を受け入れたとか、残留孤児を受け入れたとかで、幼い子達をやりとりする場合は、長家が互いの実子をやりとりすることによって、それが戦争抑止力にはたらく。又は、一般層においては広い国土のこと、人手は幾らでも欲しいから労役?として受け入れていた。ぐらいにしか考えていませんでした。 が・・・?

<わたしは、「生口」を次のように考えました>  (11/13)
先に、Dr>とのやりとりで、生口は『ヒョッとして?』と記述したのは、食肉のためか?と、ふと思ったからです。・・・それで、ウィキ>で調べたのですが、一説として 『この時代は食人の風習があった』 を見たときは、筆も止まるほどに愕然としました。
 話しは、まったく変わりますが、私は少年のころ。伝書鳩を飼っている友人が卵に触ってはいけない。親が食べてしまうからとか。生まれたばかりの子猫を人が触ると親ネコが食べてしまうとかを聞いたことがあります。近時にもTVで、野生ライオンが病弱な我が子を食べてしまうとありました。何故?このような行動が仕組まれているのか分かりませんでしたが、女の人から我が愛児を「食べてしまいたいくらい可愛い」との言葉を聞いたことがあることから、これはその形容ではなくて本当に人間にもその感情が潜んでいるのではないかと?素人なりに解釈していました。 未開の時代。食人の風習は、腹を満たすためではなく、 「対象(捕虜等)の持つ生命を我が体内に取り入れるため」 と聞いたこともあります。 富と権力。殺生与奪、までもを手に入れた皇帝のこと。 「・・・は、」ありうる話しかも知れないと。

生口3  しげちゃん | URL | 2010-11-13-Sat 09:22 [EDIT]
「対象(捕虜等)の持つ生命を我が体内に取り入れるため」 ・・・とありました。確かにそのようですが、次のような延長線があります。闘いの中で相手を倒すのですから、ひとつ間違えば自分が生命を落とします。その相手の勇気や闘争心を獲得するためとも言われています。そのことはまた形を変えて、動物や植物を食する際にも用いられています。蛇の生命力、鷹の獰猛さ、狐の狡知さ、葦の成長力などを自分の身体に取り入れたいとして食するのです。今日でも一脈通じる習慣ですね。

生口4  しげちゃん | URL | 2010-11-13-Sat 09:31 [EDIT]
「本当に人間にもその感情が潜んでいるのではないか」とあります。潜んでいても、その一線をどこで乗り越えるのか。アメリカの奴隷は、黒人は人間ではないという形で合理化され、白人に使役されました。同じ人間だと思えば、とても出来ないような仕打ちを平気で出来たのはそのような合理化があったからなのです。翻って、生口を食人のためのものとするには、同じような合理化が必要です。遣使はいろいろな贈答品を貢いでいます。もらったものは捨てようが踏みつけようが後の処理はもらった人の自由です。となれば、贈答品としてもらった人間(生口)は物であり、食べても良いという合理化が働くのです。食用としての人間・・・まさに珍品かもしれません。

生口5  しげちゃん | URL | 2010-11-13-Sat 09:38 [EDIT]
それにしても、160人もの生口を中国へ運ぶとなると、そのための船の段取りが必要になります。その時代では大変なことではないでしょうか。しかし、それでも連れて行ったのです。そこは生口と言えども人間です。もし、鹿や猪を連れて行くとなると、それこそ船内で暴れたりして大変です。今日でも馬や牛が運送中に暴れてトラックが横転したという事故があります。何か珍しい食肉を生きたままで贈答しようと思った時、一番安全に届けられるのは人間だと思ったとするならば、それなりに納得できるのです。

生口6  しげちゃん | URL | 2010-11-13-Sat 14:05 [EDIT]
おいおい、いくらなんでも先に生口は通訳や文化理解のための使いだったとしながら、次には食人用の贈答品だったなどと平気で言えるな・・・とお思いでしょうか。ところが矛盾しないのです。遣隋使・遣唐使としての留学生は、最澄や空海のように、選ばれし人でした。どうして当たり外れなく選ばれたかと言えば、才能や学問的素養を見極める学問所や僧の養成所があったからです。しかし、倭の時代には、そのような選抜に耐えうる学校などはありません。ちょっと利発なものとか、ものになりそうだという程度の基準で160人を選んでいるのです。その、160人をどうぞ通訳、文化伝道者となるように鍛えて下さいとして贈答品として差し出しているのです。もし、その役割を果たせないような無能な者がいたら無駄飯食いをしたのですから、家畜を養っていたと思って、どうぞ食して下さいといって差し出したのです。こうなれば矛盾は無いのです。なにかホラーのようになりましたが、それがその頃の時代だったのです。

思いようで・・・  史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-11-14-Sun 06:42 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん>  おはよう御座います。いつもコメントありがとう御座います^^♪
  <じいさま>が、おられたら、このやりとりも、きっと喜んでくれたでしょうに・・・
人。 思いようで、幾らでも残虐になれるのですね・・・、

<・・・「生口」つづきます。>  (11/14)
生きるということは「命」を口にすること。私達は、動物、植物を問わず多くの命を体内に取り入れることで、この命をつないでいる。ただ、それが許されることか、許されないことかを<人間的良心>によって決めているに過ぎない。このように古代人が考えたかどうかは分かりませんが、“生き先長い”幼子の命を取り入れることで“己・おのれ”が長生きすると! 徐福が訪れた前後期の列島には、荒神に幼子の「命」を差しだす信仰があると謎解きしました。一方、中国のほうでは珍しくて手に入れがたい食物ほど高価に売れる?風潮があった。(今でもかな^^)とはいっても自国の子女を食したとあっては、後々までその社会で生きていくことは出来ない。 この双方の“思い違い”は、うまくからまりあい「生口」の運びとなった。「奴婢」をはじめとする色々な論説ならば、なにも<生>と<口>の字を当てなくても、ほかに、それを表す適当な言葉があったはずだ。しかしながら「160人の生口」となると、この論説はなりたたない。その数が多すぎるからだ。そこで、そのほとんどは専門家さんがおっしゃるように振り分けられてゆく!!
どうか、Dr>とのやりとりで思いついたこの素人の ‘思いつき’ が間違いであって欲しい。そして後々からお叱りを受けますように! (合掌)

<魅力的な列島♪>へもどります。




今までになかった?日本史の見方^^! つづきます(^-^)♪
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