<巨大津波が削った東北のモナドノック(残丘)>
副題: 日本に彗星(小惑星)が衝突していた !
A comet (asteroid) collided in Japan !
Monadnock which a huge tsunami reduced !
Historical fact detective 史実探偵: 平 素人
Welcome to my blog Thank you for a visit ♪
ご訪問ありがとう御座います♪ この記事は、今回の(10/30)の追記で終わりました。
このブログで掲げている記事の全ては、続き関連モノです。この大事変があったからこそ、
荒神の国・卑弥呼へと歴史が繋がっていったと謎解きしています。
お暇な方は^^?、最初の「卑弥呼・・」からどうぞ^^
<コメントについて>のお願い(^-^)
コメント欄は、訳あって閉鎖しています。運がよければ開いてる時があるかも知れません^^?
コメントを置かれるのは意のままで結構ですが、その全てに当方の閲覧やお返事がお約束出来ないことを残念に思います。尚、そのコメントは<評価の歩み>として将来の歴史に残るやも知れませんので、その『著作権』を 当方が無償で使用できる事を“御了解”でのコメントをお願い致します。
このように書くと一歩しり込みするのが日本人のわるい癖^^?。謙譲は日本人にとっては奥ゆかしい美徳ですが、それは外国の人からみれば「持論の自信の無さからくる弱腰」と写っているようです。十人十色。正逆はべつとして自分の思うところはハッキリ言いましょう。でないと事が成った時「実は・・・等」と言うとずるいやりかただと思われてしまいますよ(笑い)。間違っていたら後で正せばいい。 「と、言われてもねえ」と思うのが日本人^^。(ネイチャーの前編集長ジョン・マドックス氏は、日本人は、もっと積極性を(投稿に)持つべきだと仰っています。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
管理人のみ閲覧できます
| | 2011-11-05-Sat 23:08 [EDIT]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
↑
岩淵さま>よりコメントを頂きましたが記事の更新がないとコメントの開示が出来ないようなので、とりあえずここに掲げておきます。
<共に、少年心(こどもごころ)の発信を!!>
平 素人 | URL | 2011-11-06-Sun 09:43
岩淵國人さま> コメントありがとう御座います。うれしいですぅ~(^-^)♪
寸暇も惜しむ先生業のこと。お目には止まらないものと半ばあきらめて居りましたのに、コメントまでが頂けるなんて♪。
改めて 「この度の大震災のことお見舞い申し上げます」 (深礼)
只今は、先生からご教示を頂きました<狐禅寺渓谷>についての記事を思案中ですが、調べれば゛調べるだけ、新しい発見やら知りたいこと、解からないことに行きあたり中々先へは進みません。先生の愛する “東北”を 世界の頭脳が注目し、それが年間○○万人も訪れる別意の世界遺産となれば幸いです。今後とも、よろしくご教示くださいますようお願い申し上げます。
移りゆく四季と、東北人の暖かさが財産です
モナドノック物見山の頂上に立ち、身の丈を二百mも越す水量を思うとき自然の驚異に打ち震えるであろう! 私は、何故?、宮沢賢治がモナドノック残丘を愛したのかが知りたくなりました。
平 素人
あっ、それから「平」の呼称は「ひら」でも「ひいら」でも、いいんです。私自身そのどちらも使用していますから。尚、先生」の呼称は、くすぐったいので「Mr」にして頂けませんか^^!。日本でミスターと呼べるのは長嶋氏>だけですが、わたしのはそんな大それたものではなく以前に「Ms」と書かれたことがあるので男か女の区別をするだけのものです~~!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<種山高原・種山ヶ原> (10/1)
東北地方の北上高地南西方にあり、物見山△871mを含む種山高原の一帯で標高は600m~870m。 東西が約11km南北が20kmほどの平原状の山で、物見山・大森山・立石などを総称して別名「種山高原」とも呼ばれている。そして、この一帯は所々に巨岩が露頭している
“なだらかな丘状”であり、地質学的にはモナドノック・残丘という。 このモナドノックは、晩年の宮沢賢治が関心を寄せたという所でもある。
物見山(種山)の周辺地図
YaHoo!・ゼンリン地図より、 ↓ 著作権に関わったり不都合があれば削除します^^!
(+印を押してスクロール可)
この図の北方向に早池峰山(1120m)、区界峠(くざかいとうげ)740mあり、
この図の南方向に姥石峠(約840m)あり、
↓ 以下へつづきます^^
現学説のいう^^、<モナドノック(残丘)とは> (10/03)
名前の由来は、北米のニューハンプシャー州モナドノック山辺りのなだらかな残丘から。
残丘 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
残丘(ざんきゅう)とは、断層運動や浸食によって、周囲から取り残され孤立した丘のこと。緩やかな準平原の中に存在する。累層が順序良く重なる地帯では、地形輪廻のような浸食を受けても、取り分けて目立った残丘は発生しにくい。逆に、断層運動などの地殻変動で累層が切断されたり折り曲げられたりした地帯では、場所によって浸食の度合いが異なるために残丘が発生しやすい。・・・・・・、 以上
と、云われても“モナドノック”は、聞きなれない言葉なのでイマイチ良くわからない^^!。中学校で習ったのを思い出すと。地形の輪廻で平原に川が出来た幼年期。時とともに川が深くなり谷となりゆく壮年期。山が崩れゆき再び準平原となった老年期。そして、再び最初にもどる地形の循環をくりかえす。・・・の理由で、まわりから取り残されて幼年期のままの準平原のこと^^?
(10/05記)
裏話; 筆者がモナドノックをモナノドックと間違えて検索したことがこの記事を書くきっかけとなりました。 新しい発明や発見は失敗と偶然から生まれる^^? この残丘と早池峰山の成因に疑問を呈している岩手県立大米地教授の報告書がある。
<その全文> ↓ これも著作権に関われば削除します^^!
社団法人 東北地域環境計画研究会 活動状況報告
(第47回)懇話会報告よりの全文
早池峰山の特異な地形とその成因 「岩手県立大学総合政策学部 教授」 米地 文夫
早池峰山の象徴は、まずハヤチネウスユキソウ、蛇紋岩、そして「残丘」といわれてきた。宮沢賢治の詩にも多く取り上げられている。北上高地の準平原に取り残された丘だと言われる。
かつてわれわれの大先輩は、「切峰図面」という地形図の上に風呂敷をかぶせるような方法で浸蝕前の地形を推論し、この山は日本の代表例だとされ、多くの人々もそう思いこんでいた。だが実際の早池峰山は、他の残丘と比べてみても、高すぎる、大きすぎる、長い山稜はおかしい、南側が急斜面過ぎる、谷も大きい…など、地形的な疑問の多すぎることから研究が進んでいる。
早池峰山は、海洋プレートと大陸プレートのぶつかり合いでできているという点で、ヒマラヤに似た構造山脈である。北上高地は、大陸プレートの一つ、いわゆる「北米プレート」のへりにくっついている。日本列島の東側に海溝がある。ここで海洋プレートが大陸プレートに潜り込む。その際のひずみで地震の発生することが知られているが、すんなりと潜り込むわけではなく、実際は複雑で、海洋プレートの上部が削り取られたり、大陸プレートの方から持ち込まれたりする。こうしてたまったものを「付加体」という。北上高地の北部がこれに当たることがわかってきた。これに対する北上高地の南部、これがナゾだ。中国揚子江方面、あるいはオーストラリヤからだとか、いろいろ推測されている。いずれ南の古大陸の断片が、ざっと1億年ほど以前にはるばると流れ着き、両者が衝突し、たたみこむように、のし上がり、潜り込む。この変動によって構造的な山並みができて、早池峰山はかくも高くそびえ立ったものと見られる。つまり、早池峰山はもともと高かったものであり、削り残されて高いものではないということである。
蛇紋岩が硬いから削り残されて残丘になったという説もあるが、普通、残丘(モナノドック)(← モナドノックの誤植か?モナノドックで検索すると当該文が出てきます^^) といわれるものは、種山ヶ原を思い起こしたら分かるように 、早池峰のような堂々たる山容にはならない。 早池峰と薬師との間に大きな溝、構造的な谷がある。二つの塊がぶつかり合う層の切れ目、断層である。早池峰の蛇紋岩と薬師の花崗岩、この層に沿って削られて構造的な谷ができた。小田越である。水が削って谷となり急坂の先が峠となるのが普通なのに、ここは峠と呼ばれない。ここは不思議な「風の谷」なのである。 以上、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「風の谷」 (10/5記)
「風の谷」という言葉は宮崎駿(みやざきはやお)監督のナウシカで一躍有名になりました。この言葉は今後の謎解きにおいて重要なキーワードとなります。流体が狭い谷間や建物の間をかけぬける時、強い流れとなることは私たちの経験しているところです。これを何やらの原理といった?記憶があります。中学生の皆さん!勉強はしっかりしておきましょうね(笑)
「早池峰山はもともと高かったものであり、削り残されて高いものではない」(10/6)
この“削り残されて”という言葉は、「通常ならば、残丘であるから長い年月で“取り残されて”と言うべきところなのに?」と、この言葉は筆者の少年心(こどもごころ)を大いに触発した。“モナドノックは削られた”との同じ思いの方がおられる!?
「小田越」 (10/7)
小田越は、峠状の所なのに「峠」と呼ばないで「越・こえ」と呼ぶ。何故でしょうね。解りません。
そういえば早池峰山・1913mは、「山」と呼ぶのに、谷ひとつ隔てた薬師岳・1644mは、「岳」と呼ぶのも解りません。「岳」といえば中部山岳地帯を思いますが、「岳」は高く険しい山の呼称かと思っていました(汗~)。ちなみに、国土地理院は地図に名前を記すとき、地元の人たちの呼称を最優先するそうです。小田越は、高さが約1240mであり、これより西へは北上川へ流れ、東へは太平洋へ流れ出る分水嶺。国土地理院の地図で観ると東西に流れ出る川は、岩石ゴロゴロの沢状のようだ。前の東日本大震災の津波では上陸する津波より、戻り水のほうが早くて威力があった。(これ◎ネ、後でテストに^^)これは上陸した流れが低いほうに集まり、しかも流れに土石を含み斜面を下り降りることに起因する。四千年前の巨大津波が1240mのこの峠を越えたとは思えないが、判らないことは、棚(峠)に上げておくことに致しましょう^^!。
「蛇紋岩が硬いから削り残されて残丘になったという説」もあるが、 (10/9)
蛇紋岩、分からないので検索していると下記のような文章にでくわした。
岡山理科大学総合情報学部生物地球システム学科
植物生態研究室(波田研)ホームページ<蛇紋岩地帯の植生>より抜粋
蛇紋岩が風化して形成される土壌は明るい赤色となり、土壌粒子間の結合が弱いために土壌中に水分を含むと液状化や地層の流動を起こしやすい。このために蛇紋岩を含む地層がある地域では、大規模な斜面の崩落や地滑りが発生しやすい。 以上
蛇紋岩は風化して水分を含むと液状化や地層の流動を起しやすい。そして、「風の谷」に接して南側にある薬師岳は花崗岩体であり、花崗岩は墓石に使われるほどの硬い石。勿論、花崗岩も年月がたてば風化して軟化はするが、蛇紋岩と花崗岩を比較すると花崗岩のほうが風化軟化には強いように思われる。なのに、蛇紋岩体の早池峰山は東北最高峰(1917m)であり、1645mの薬師岳は総じて低いのはなぜだ。早池峰のほうが低くなってもよさそうに思うが? 現状の早池峰連山の南斜面をみると大小20?をこえる崩落や地滑りがあるのに、対して薬師岳のほうは1ヶ所~~?。・・・、なんか、おかしい??
さて、予備知識は、これくらいにして、その痕跡を<ウエブ>で探しにでかけますか。
種山ヶ原(たねやまがはら)は、北上高地の 南西部で標高600-870メートル、東西11キロメートル、南北20キロメートルに及ぶ平原状の山で高原地帯である。 「このモナドノック・残丘は、四千年前の津波痕だ」と、素人がいうのは簡単だが、それを今の科学に、貴方さまに伝わるように論証していくのが難しい^^!。
学問というものは、何時の世も現科学からはみ出した“非常識”によって、常に更新されつづけている。 「 常識とは多数であり多数でしかない。科学はファッションであり“時流”である。」
ちょっと言葉が過ぎましたかぁ?(笑い) 拙著の電子出版・子供心より、♪(^-^)♪
<北上高地越えの巨大津波の痕跡>
その1 <川が無いのに扇状地>
次の写真は、“川がその土石を運んだ”と学校で習った胆沢扇状地です。“ほんとにそうなのか?”と疑問符をつけてしばらく観察してみて下さい^^。 (10/11up)
YaHoo!・ゼンリン地図より、 ↓ 著作権に関わったり不都合があれば削除します^^!
<上の写真・地図を観て> (10/13記)
この扇状地の北側に沿っているのが胆沢川で、南側に沿うのが衣川。そして、扇子の東側で弧状に流れているのが北上川。胆沢川や、衣川の流れはその端々にあり、その中ほどには流れていない(?)。 さらに衣川の北岸は堤防状に切り立っているのが認められる(?)。 ふつう素人(こども心)が考えれば、大量の土砂は大河・北上川が運び、その扇形は南北に形作られるはずなのに、この扇形は西から東へ向かっている(?)。さらにこの扇形は北へ段々と(6段状に)低くなっている?。 このような地形は地元の人か専門家を含む方しか知りえていない?(私もこの論を展開するまで知りませんでした~~!)。 ・・・、“なんかおかしい・・・?” こういった論をmy記事<川が無いのに扇状地>アーカイブ'08/1月で述べています。
<巨大津波で発生した大泥流> (10/14)
その記事では、巨大隕石で発生した大泥流は、三陸海岸を削り取り、リアス式海岸にし、海抜840mの姥石峠を越え、6段状の波形丘(痕)胆沢平野を形作ったと謎解きした。わずか1、5kmほどの上流域の胆沢川では胆沢扇状地は造られはしない。胆沢平野は、BC2001年の巨大隕石で発生した大津波が北上高地を越えて、その西側へ泥流として運んだものだ。モナドノックは、それに関係すると推んではいたが、この度の米地教授・懇話会の報告文を見るにつけ、巨大津波は、筆者の想像を遥かにこえた<南北20km>の広い範囲(幅)で北上山脈(高地)を越えていた。さらに、早池峰山の北方の<区界峠・740m>の方も乗り越えているかも知れない。ご先祖様がそこを『区界くざかい』だと地名で仰っていますから(笑い)。皆さん(現科学)は、四千年前の縄文石器人の行動力の範囲を見くびっていますが、見渡す限りの岩表地帯や更地。見渡す限りの黒こげ山。見渡す限りの流木。はたまた、盛り丘、等々。それ等の<区界>を探すことは大して難しいことではないと思いますよ。 (但し、6500万年前の南極から発生した超巨大津波の痕跡は別途で考えねばなりません。)
(10/15)
この‘こども心’に、いたく共感して下さった方に、奥州市を拠点とし多数の病院等を営む理事長先生、岩淵國人(くにと)氏が居られます。氏はアーカイブ'08/7月のコメント欄にコメ置きをして下さっています。・・・次はそのコメントです。後々の名誉のために掲げておきましょう^^。
岩淵國人 | URL | 2009-11-19-Thu 16:44 [EDIT]
北上高地越えの巨大津波の可能性大
昨年6月14日に起きた、マグニチュード(=M)7.2の岩手・宮城内陸地震の被害は、Mが同規模の阪神淡路大震災に比べ少なかった。特に、岩手県は宮城県側に比べても少なく、死者も2名(内1名は交通事故)に止まった。被害が少なかった理由は、当奥州市の地盤が阪神淡路や宮城県に比べ、非常に良いことだ。ビルの基礎地盤は、N値50以上を求められるが、大阪付近では地下50m付近にある。当地は地下1mから5mくらいでN値50に達する。そこには厚さ4mから5mほどの土砂礫層がある。津波の北上山地越えの大津波の忘れ形見といえるのではないか。また、貴兄が怪しいといわれた、奥州市黒石には、庭石に適する1個の重さが何百キロ~何トンにもなる石が平地にごろごろしている。これも津波の忘れ形見かもしれない(地元の人は、石のいわれを知らない)。先日胆沢扇状地を軽飛行機(パイパーチェロキー)でみたが、津波によってできたとの貴兄の説は、説得力がある。貴兄の説を、喧伝させていただくとともに、投稿文にも引用させていただきたい。
その論説記事を → http://t.co/iqYjVPs ←捜しました~~!。 (10/16)
氏の紹介して下さった記事は、簡潔簡素なのにしっかりと要点をおさえて下さっています。後読みすると自分でも嫌気がするほど駄文だらだらの当方としては、大いに反省するところです。氏の本懐は、関東大震災を想定しての副都心の誘致候補として奥州市をあげ、その利点の一つとして、岩手県は比較的地盤がしっかりしていて先の( / )内陸地震においてもマグニチュード大のわりに被害が少なかったことを挙げられています。 なぜ地盤がしっかりしているのか? それは拙論でいう巨大津波が地表をはぎとり表土が浅いとすることに共感されたようです。それより何より、氏が少年のときに持った疑問が揺り起こされたのでしょうか? 北上川流域には現在の学問では解しきれない昔話や遺跡・地形地質等、不思議がいっぱいのところであり、それ等を例にあげ、それを当方の「彗星の衝突」に結びつければ解明できるとされています。これほど「他に喧伝する」とまで共感共鳴して下さった方は過去にありません。有り難い事です。勿論、御記事は三月十一日の震災前の話です。・・・・、この度の震災では、医業をいとなむ先生のこと>おおいに失意され。その心労を察するにあまりあります。今度は私が力付ける番! 地元の人しか知り得ていないこと。先生の御記事にヒントとご教示をいただきました。
この<彗星の衝突>に世の学者が気付けば、必ず世界は東北に注目するでしょう。
何故なら、今までの学問には無かった事変の形態であり、しかも日本の東北という狭い地域でその全てが観察・観光できる。 さらに々、驚くべきは<隕石の冬15~16℃の降下>をおこし世界史を変えるほどの大事変なのに、<この直近にいても生存者がいて、それを地名として微細に記録していること!> そのことが素人探偵には一番信じられないのですが・・・^^。 先生の喧伝のご尽力も専門家になればなるほど「素人の戯言」だと相手にして頂けなかったようですね?(笑い)。
(10/17記)
< http://t.co/iqYjVPs >岩淵國人 氏の論文より、当方(の喧伝部分)を除外して抜粋します。(以下の①~⑧迄)
新説⇒彗星・津波・リアス式海岸・胆沢平野、
これらの矛盾を解決する興味深い新説を紹介する。南三陸海岸付近に落ちた分裂した巨大彗星によって発生した高さ250mもの巨大津波が三陸沿岸を削り、リアス式海岸を作った。津波は海抜600mの北上高地を駆け上り表層を削り、岩石や礫を北上盆地に運んできた。
(註) 津波の高さを250mとしていますが、これは<水界峠250m>を、引いてきたものであり、この(津波の高さを)数字で表現するのは、非常に難しい。 津波は、受V字の地に上陸すればその奥での波高はドンと高くなり、狭い地域でもその地形や谷形状によって、その浸水高さは大きく変わってくる。そして、これを標高で表せば(津波は)斜面を登っていく波でもあるから、海岸の波打ち際で見るように足元では数センチの高さでも、二歩三歩と足を踏み入れた場所との差は数十センチにもなってしまう。仮に、姥石峠(840m)を○○m?の高さの水量が越えたとしても、早池峰山南の小田越(海抜1240m)を柄杓(ヒシャク)一杯の水が越えたとしても 「越えたことには変わりが無い^^」表現の難しさがある。 今後のマップづくりに期待します。
① 北上山地の麓(ふもと)である奥州市水沢区黒石地区には発祥原因不明の庭石用やすずり石用の大きな岩石がごろごろしている。これらの岩石は津波が北上山地から運んだ。
>(10/17)コメント;
とても興味深いお話です。どこやらの町にも出所不明の"天然"記念物が^^? 東北には他に雫石、赤石、等々の石にまつわる地名が多数あり、それ等が彗星の被弾によって破壊された岩石が散らばったモノなのか、または彗星の本体が分散したものか、衝突の溶融によるものなのかは専門家の分析を待ちたいところです( がぁ・・・それは何時になるのでしょうか?^^?) それを素人探偵は、白脈(石英脈SiO2)オパールを探せ! ダイヤモンド鉱を探せ! と言っています。ご存知のようにダイヤモンドは、炭素が超極圧で○秒間続くと生成します。植生が受けたそんな条件のところを推察する。または探索する。・・のも楽しいと思いませんか^^。これは専門家でなくても地元を良く知るお方のほうが先んじるかも・・・(笑い)
“河原の探索”は、中学生諸君にもお願いしたい。当ブログは中学生の方の訪問を時おり受けています。さらなる宝探しについては、文芸社電子出版『巨大隕石と大津波』(¥500)へ・・・、販売実績14冊? トホホ・・・で、赤貧の史実探偵より、
② 北上盆地の地下3mほどのところにある厚さ数mの礫層は、津波が運んできた土砂礫が積もった跡(あと)であり貝殻がよく発見される。
>(10/18)コメント;
貝殻の出土は大変興味深いことです。しかし、この謎解きが一番簡単なようで、一番難しい。東北には山間部においても谷あいにおいても石灰(Ca)が多数産出しているようです。最近発見された鍾乳洞のニュースもありました。それが6500万年前のモノか、4000年前のモノか、又は別の津波のものかを判断するには、さらなる調査と思考を必要とします。 しかしながら 『ここは、昔は海だった』との従来の学説をインプットされたお人には、そこが<津波が寄せ集めた波打ち際だ>とするのはちょっと無理かもぉ~? その昔、山からヤギの群れが流されて河口にとどまり化石になりました。反対に大津波が山奥の谷あいに貝を運び化石となりました。後々の人は、それを観て『ここは、昔、山だったとか海だったとか言えるだろうか^^?』 電子出版より
今の世界の学説は、巨大津波がつくる地形には全く気付いていない。その津波を<TUNAMI>の国際語とした海洋国、日本でさえもまったくの無知無関心!? ゴメン又々、言葉が過ぎました。20数年も相手にされないと、ついつい恨み節がぁ"(^-^!)。筆者は、その関心の発起を日本からして欲しいと願っている。 6500万年前の超巨大津波の痕跡を知りたいお人は拙電子出版の方へ、どうぞ^^、それには人知では、とても受け入れ難いような史実が・・・
③ 青森県の三内丸山遺跡が紀元前2000年ころ突然消滅している。三内丸山遺跡は当時の海岸にあり、三陸巨大津波にひとたまりもなく破壊されたのではないか。
>(10/19)コメント;
不勉強でコメント出来ませんが、興味深いことです。 何故なら、その時何処に人が住んでいて、どの範囲で被災したかが分かってくるからです。
④ 亀ヶ岡石器時代遺跡(かめがおかせっきじだいいせき:青森県)を筆頭に遮光器土偶は、北は北海道の室蘭から南は福島まで出土するが北東北3県からの出土が多い。五体満足はまれで、身障者の像を呈することが多い。強烈な閃光があったこと、津波で障害者になったこと等を紀元前2000年から紀元前5世紀ころまで、15世紀もかけて縄文人が記録に残したものではないか。
>(10/20)コメント;
遮光面土器は、始皇帝の意を受けて不老不死の薬を求めてやってきた除福の伴った武人の甲冑と、金属溶接のお面とが合わさったものだと別記事で謎解きしましたが、それがどのように分布しているかは知りませんでした。さらに、祖先は、その恐怖により「一夜にして白髪化した」と、白髪山の地名や伝承で遺しているとしましたが、医事的にそのような事例があるのでしょうか? 巨大隕石で発する応力は、核爆弾(核破壊)の比ではなく、衝突によって重金属化した放射性物質の発生が災いしたのか?とも推んでいますが、それも知りたいところです。白亜紀末の恐竜大絶滅では重金属のイリジウムやオスミウムがその時期の地層に多く含まれることから、その絶滅が巨大隕石説に結び付けられました。
<亀が付く地名の不思議>
又、亀がつく地名で<亀海とか亀川>の地名は聞いたことがありません^^?。通常では亀に山や丘を地名と結びつける発想が思いつかない。(海)亀はその形態から津波にはめっぽう強く、魚類が凹地に残されるのにたいし山や丘部に残る可能性がある。亀ヶ岡石器時代遺跡がそのような場所であったら面白いですね。それに関連する昔話が東北にはきっと残っているはず。この度(3/11)の津波でも聞き集めれば、ひょっとして亀さんや“タコ”さんが山に??、蛸は流されまいとモノにしがみつく習性があるからね^^。
⑤ 遠野に伝わる河童は、頭にミルキークラウンを載せ、陸の人や家畜家等を沼に引きずり込むといわれる。河童の頭は海に落ちた流星で、河童は巨大津波のことではないか。
(10/21)コメント;
まったくの同感です。 ミルキークラウンとは、ミルクにモノを落としたときクラウン状に跳ね上がる水しぶきのことで、このような発想の根源をつきつめてゆくとき、祖先がそのような大事変に遭遇したのではないかと思っています。この化け物伝説は列島の各地にもあるのか、それとも、遠野>始発のモノなのかが興味深いところです。河童伝説は早くからシブキ痕と予想していましたが、それが遠野に遺されていることに驚きをおぼえます。
<遠野>とは、
居住地より遠くにあるところという意味であり、その地名を付した主たる居住地はどこかが興味の対象となる。(その捜索は東北の歴史をよく知る読者に委ねましょうか^^) はたまた、遠野といえばかなり広いところなのに、そこには人が住んでいなかったのか? 住んでいればそこの住人が付名するから<中野>あたりの付名が妥当と思える。それとも、この大事変によって「棲めなくなっていた」のかが問題になってくる。
⑥ 岩手の由来は、三ツ石神社(盛岡)の岩に鬼が手形を残したとする作り話が伝わっているそうだ。しかし岩手の本当の名の由来は、シャベルローダーのなかった縄文時代に北上山地の表土を何メートルも削った津波を岩の手が削ったと解釈し、この地に岩手の名が付いたとする方が自然ではないか。
>(10/22)コメント;
写真探しました。尋常の力では考えられないような位置関係にありますね。その見えない力を鬼というか津波の力というかは表現の違いであって、このようなイワレが東北にはいっぱいあるのでしょうね。 わたしは岩手を岩の手方向と解しましたが、岩の手=鬼の手>のほうが順当かも知れません。
<ヒラメキました!>
ところで、巨人デェダラボッチも東北の話でしたっけ? 山や湖を作ったという<デェダラボッチ>に尋ねれば、その時の列島異変が聞けるかも知れませんね^^。ところが、以前の記事で話のでた「島根の三瓶山、富士箱根、岩手山」等の噴火を現科学は、約3500年前としています。拙論の4000年前との差、500年が埋められない。この差は、今までに万語をついやしてきた素人探偵の論「祖先からのメッセージ」を根底から瓦解させてしまう力を持っている。わたしは、このような時、ご先祖さまの方に軍配をあげることにしています。デェダラボッチさまぁ~~、『その昔』が、何時なのかを教えてくださいませんかぁ~(^^!)
⑦ 北上山地のリアス式海岸は、氷河が山頂から削って沈降したのではなく、津波が山麓から山頂に向かって削ったのではないか。石巻から北上川を逆流した津波は、北上高地を乗り越え北上川を流れ下ってきた津波と岩手県と宮城県の県境である狐禅寺付近で衝突した。土砂礫が堆積し20数Kmもの狐禅寺渓谷を作った。
>(10/23)コメント;
まったくの同意です。氷河が渓谷をつくるのはよく知られていますが、土石を含んだ津波の遡上(そじょう)がつくる地形はそれと大変よく似ていますが、微妙に違うところがあります。斜面から持って降りる岩石が氷河ではその下流で断続的な波形をとるのが多いが、津波では一時的におこるからばら撒き傾向や一箇所にかたまる傾向があると考えています。又、氷河では斜面の急角度と距離を必要とするが、津波ではそれには関係なく、その上り口に土石のあるなしで事をおこしてしまう。さらに、氷河では広範囲に事がおきるのに対し、津波では狭い地域で事がおこる。また、リアス式海岸は、溺れ谷という地盤沈下説もあるが同じ北上高地岩塊なのに魹ケ崎以北の三陸海岸はきれいな弧を描いているのにも疑問を感じる。
「北上高地を乗り越え北上川を流れ下ってきた津波と岩手県と宮城県の県境である弧禅寺付近で衝突した。土砂礫が堆積し20数Kmもの弧禅寺渓谷を作った。」
> 狐禅寺渓谷の新しい情報をご教示頂ました。別途で調べてみます。
⑧ 1908年6月30日に起きたツングースカ大爆発はおうし座流星群同様エンケ彗星の母彗星の一部で、氷の空中爆発のため、流星の破片を見つけられないのだそうだ。が、デビッド・アッシャー(英国の天文学者)が計算したエンケ彗星の母彗星が三陸海岸付近に落下したのであれば、将来広田湾(水深56m)や山田湾(同90m)の海底から、流星の破片が見つかるかもしれない。
と、結んでおられます。
>(10/24)コメント;
次は、素人考えだと前置きして; 太陽を中心として周る惑星には<水金地火木土天海冥>と長くいわれて来ましたが、観測技術の進化により九大惑星以外の発見やら予測により惑星の定義がゆらいできたのは、周知のとおりです。小惑星も太陽をまわる惑星であり、「惑星イコール何々だ」と、いう考えは現状に合わなくなって来ました。筆者は、その考えの延長で、彗星も太陽を周回する惑星の形態であると考えています。又、以前に「彗星は氷と泥の汚れ玉」との発表があって以来「彗星=汚れ玉」の考えが固定化しつつありますが、こども心はそれに組することが出来ません。何故なら太陽に捉えられずにそのスイングバイ(簡単にいえば円盤投げ?)によって彗星軌道に入った天体は汚れ玉だけではなく、岩体のものや金属核を含むもの等、色々にあると考えています。(詳しくは拙電子出版太陽系の誕生で述べています。) それが先生>のおっしゃるエンケ彗星の母彗星だったかどうか私にはわかりませんが、東北に衝突した天体は列島に<津々浦々の地名>を残させたり、前述の島根半島を破砕させたり宮島の山形を変えるほどの衝撃力を生むものでなければなりません。
その衝撃力の子供的な考え方
算数大の苦手な素人は、専門家のように計算が出来ないので、実際の列島の大きさを思い浮かべ、それを氷結した池や水面に例えて、石つぶて(隕石)を投げてみる。その影響の大きさを子供の頃に石投げした情景を思い出しながら・・・・、
『厚くはった池の氷は割れなかった。そのうち誰かが、より大きな石を見つけて投げ込む。どぼんと水しぶきが上がった。子供たちは、急いでその場から逃げた・・・。』 子どもの頃の思い出; 拙電子出版より、 これは、更なる超巨大津波の謎解きへと発展します。(^-^)♪
<海上にも落ちてはいないか?> (10/25)
海上に落ちていれば、魹ケ崎以北の三陸海岸に直接の影響を与えない場所。そして牡鹿半島が影になり阿武隈海岸にも影響を与えていない場所の内で探らなければならない。
それは<北緯38°50′東経142°> 距離にして、気仙沼沖 30km辺りかな?
これ以上の外洋にでると阿武隈の海岸にもなんらかの影響が出てくる。山田湾、広田湾、それに気仙沼も怪しいですよね。なにしろご先祖さまは、そこを<竜舞崎>だといっていますから^^、一箇所だと考えない方がいいかも知れません。以前に、これを探ろうと国土地理院に海底の地形図を頼みましたが、海底地形図は海上保安庁の所管とのことでそこでストップしています(^^!)。その一部の空中爆発も考えられますが、空中爆発と地面を直接たたくのとでは発生する地震波は比較になりません。
〔ツングースカの大爆発〕は、最近のTVでも見ましたがその“爆風・なぎ倒し痕”の先に凹地の池があり、その湖底のコアを採集したら強い力で押し付けられたような土層になっていたが、隕石の実体は発見かっていないそうです。
(10/26) <Monadnock>
次の写真は物見山の頂上付近から、ほぼ南西の一関、平泉方向を眺めた写真です。
検索方法; 種山ケ原-Wikipedia → 外部リンク・種山が原の風景スライド特集(2/22枚)
(佐藤?)淳平氏
↑ クリックで拡大します^^
筆者は、この2枚の写真を発見(みつ)けたとき胸の高まりをおさえることが出来ませんでした。
何故なら、その露岩は北上高地を東から西へ越えた巨大津波の方向を指し示しているように見えたからだ。とくに2枚目の足元にある数個の小さな石の方向性は筆者の思いを確定的にした。しかしながら、このような地形は褶曲地形が折れてその片方が露呈したときに見せる様相でもある。巨大津波がこの高原を越えたか越えないかを確かめるためにはさらに3~4箇所の同様の地形を見つける必要がある。その捜索を地元の方に、好奇心の強い貴方に、そして専門家がして欲しい。何故なら、いかに素人探偵が万語をついやし、ああだこうだと謎解きを重ねても<専門家が>うなづいてくれない限りこの論は成り立たない。 さらに、それ等が見つかっても『それは氷河がつくる痕跡だ!』という科学者や貴方様がいたら、もはや素人は、その方達を説得するだけのエネルギーは持ち合わせていない。
「氷河がつくる痕跡と巨大泥流が駆け上がる痕跡は非常によく似ている」拙電子出版より、
決定的な違いは谷上に貝殻(Ca)を運んでいることかな^^。
<津波の高さを再検証>
ステップ① (10/27)
この謎解きの始まりは、“釜石”を巨大隕石の元体と置いて、その衝撃で発生した大津波の大きさを探ろうと地図を観ていたとき<水界峠・250m>を探し当てた時からだった。当初は250mの高さの津波を信じることが出来なかった。何故なら二十年ほど前、当時の観測では最大波高ほぼ38m迄で、それより高いと水の自重の方が勝り38m以上の波高はないとされていた。このことから海抜38m以上のところに海の貝殻等が出土すると『そこは昔は海だった』と解されていた。名のある津波学者がですよ。それをはるかに超える海抜250mの高さの津波はとても信じられるものではない。なのに、ご先祖さまは「水界隈・みずかいわい?」峠だという。
註: これを「ミズサカイ」と読むと分水嶺のこと。分水嶺なら、それこそ山ほどあるのにねぇ?
峠の付名は○○峠といって固有名詞を付けるのがふつう。それを「ミズサカイ」という一般名を付けているのは何故か? 「サカイ」なら “境の字” をあてていいのに、「界」をわざわざ使うのは何かのイワレがあったのではないでしょうか^^? 私はそのイワレを知りたい。
ステップ②
この謎解きを進めていくにつれ、ナスカの地上絵の中にイルカが破壊されたものや海草が描かれているものがあった(前述記事)。その地上絵は、海抜500m内陸へ60kmのところにある。これを日本発の大津波が打ち上げたものだとすると、エクアドルからナスカ迄、約2000kmを斜面とした片V字湾奥を描き、津波の入り口幅は、およそ600kmの二分の一の300kmとなる。これを津波の波高計算式に当てはめる。その式を忘れましたが中学生の学力でOK^^。 すると、海抜500m内陸60kmへ駆け上がるためにはピラウ沖で18mの波高を要した。各数字は当てになりませんよ^^!。その考え方だけを重視してください。
ステップ③ (10/28)
では、その波高18mを出すには日本発の津波波高はいくらでなければならないのか?
アラスカのアンカレッジあたりからナスカ迄、およそ12000kmを片斜面とした超巨大三角形を描く。入り口幅はオーストラリアだったかな このような逆算を重ねていくと三陸沖で実に1000m以上の波高を要することになった。
ステップ④
次に手がけたのが、1000mの波高を導く巨大隕石痕を探すこと。“釜石塊”以外にもあるのではないか? それは洋上にあるのではないのか? これについては前述で申し上げたとおりで分からずじまい。水深200mに満たない洋上で1000mもの波高がたつものなのかとの疑問も生まれる。現状の“釜石塊”は直径が約20km。 これを団子状に丸めると、おおよその^^おおよそで直径が7km弱^^? わずか7kmΦの石つぶてで1000mの波高がたつものなのか? それを波とは考えないで投石による水シブキと考えたりして・・・^^!、
専門家の教えを是非に願いたい!
ステップ⑤
これ等を探しているうちに行き当たったのが前述の胆沢平野の偏り形状。この“偏斜形状”を作り出すためには姥石峠方向からの(→)の流れが必要となる。その姥石峠は840mの高さのところにあった。 さらに、この度岩淵先生のヒントやらご教示を頂いて、モナドノック・残丘を調べると、その津波は600m~800mの高原を越えていた。
このことは<単純に考えても800-600=200m高さの水量>が越えていたことなる。
<結び; 祖先からのメッセージ> (10/29)
それがいかに史実であろうと、現科学が、貴方さまが、この大事変に “お気付き”になり、首をたてに振ってくれないかぎり大論には育っていかない辛さがある。素人がこのように大口がたたけるのは、ご先祖さまから<地名>という歴史を頂いているからです。その時は何時になるのでしょうか? 出来れば存命中にお願いしたいのですが!?(笑い)。
<おまけ> 駄目押しの^^? 参考資料として次を紹介します。(10/30)
www.city.tome.miyagi.jp/oshirase/kankyo/documents/04_2_3chikeichisitu.pdf
↑ 貼り付け方を知らない~~! お手数をおかけします。
上のURLは、宮城県の東北部にある登米市<平成23年度白書(¥600)の一部のようです。
岩淵先生のご教示で<狐禅寺渓谷>を検索しているうちに行き当たりました。素人には専門語がおおく詳しいことは判りませんが、この中で二つの興味深い図面と写真を見つけました。
図 Ⅱ-3-1 地形概略図 -19頁-
写真 Ⅱ-3-4 曲袋・まげぶくろ(中田町浅水付近)の状態 -30頁-
登米(とめ)市は、北上川を上っ行くと岩手県一関市と接するところにあります。 一関は、祖先から 『北上川を関止めた』 との地名の伝言を受け取っている所でもあります。この白書を精査していくと、
①大洋から西へ北上高地を乗り越え駆け下った巨大津波の土石流と、そこへ留まった濁泥が、
→(○○沼)
②そして、北上川の河口から遡上した巨大津波と、北上高地を駆け下った泥流との合流点が、
プラス西から津波の戻り水→(曲 袋)
③さらに、6500万年前の'人知’では受け入れがたい超巨大津波がみえてくると思いますよ。
→(猊鼻渓)
それ等の解析は、専門家にゆだねることに致しましょうか!(^-^)??
つぎの記事を思案中です・・・(^-^)♪
(10/4) 拍手(1)が頂けました。 感謝です(^-^)。とても励みになります。
(10/9)つづけて拍手(1)が頂けました。拍手は10倍、コメントはその100倍の元気が
頂けるのですが・・・、
(10/28) 拍手(1)と、前記事との(5)連打が頂けました。 v(^-^)v 感謝です。
('13/9/08) 9/01に拍手を下さったお方は、 I.先生>だったのですね。本日コメント欄を
見てやっと解りました。返事が遅くなってごめんなさい。丁度、先生宛に文信を準備中です。詳しくはそちらで^^!
('14/12/30) Dr. I さま>7拍目と、そのコメントありがとう御座います。A博士と6時間にも及ぶディスカスは実り多いものでしたね。本年の3月に先生とお会いできたことは私にとって生涯の記念です。来る年も更なる発展の年になりますように!! ありがとう御座いました。
コメントは、↓ CO-0 クリック^^
副題: 日本に彗星(小惑星)が衝突していた !
A comet (asteroid) collided in Japan !
Monadnock which a huge tsunami reduced !
Historical fact detective 史実探偵: 平 素人
Welcome to my blog Thank you for a visit ♪
ご訪問ありがとう御座います♪ この記事は、今回の(10/30)の追記で終わりました。
このブログで掲げている記事の全ては、続き関連モノです。この大事変があったからこそ、
荒神の国・卑弥呼へと歴史が繋がっていったと謎解きしています。
お暇な方は^^?、最初の「卑弥呼・・」からどうぞ^^
<コメントについて>のお願い(^-^)
コメント欄は、訳あって閉鎖しています。運がよければ開いてる時があるかも知れません^^?
コメントを置かれるのは意のままで結構ですが、その全てに当方の閲覧やお返事がお約束出来ないことを残念に思います。尚、そのコメントは<評価の歩み>として将来の歴史に残るやも知れませんので、その『著作権』を 当方が無償で使用できる事を“御了解”でのコメントをお願い致します。
このように書くと一歩しり込みするのが日本人のわるい癖^^?。謙譲は日本人にとっては奥ゆかしい美徳ですが、それは外国の人からみれば「持論の自信の無さからくる弱腰」と写っているようです。十人十色。正逆はべつとして自分の思うところはハッキリ言いましょう。でないと事が成った時「実は・・・等」と言うとずるいやりかただと思われてしまいますよ(笑い)。間違っていたら後で正せばいい。 「と、言われてもねえ」と思うのが日本人^^。(ネイチャーの前編集長ジョン・マドックス氏は、日本人は、もっと積極性を(投稿に)持つべきだと仰っています。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
管理人のみ閲覧できます
| | 2011-11-05-Sat 23:08 [EDIT]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
↑
岩淵さま>よりコメントを頂きましたが記事の更新がないとコメントの開示が出来ないようなので、とりあえずここに掲げておきます。
<共に、少年心(こどもごころ)の発信を!!>
平 素人 | URL | 2011-11-06-Sun 09:43
岩淵國人さま> コメントありがとう御座います。うれしいですぅ~(^-^)♪
寸暇も惜しむ先生業のこと。お目には止まらないものと半ばあきらめて居りましたのに、コメントまでが頂けるなんて♪。
改めて 「この度の大震災のことお見舞い申し上げます」 (深礼)
只今は、先生からご教示を頂きました<狐禅寺渓谷>についての記事を思案中ですが、調べれば゛調べるだけ、新しい発見やら知りたいこと、解からないことに行きあたり中々先へは進みません。先生の愛する “東北”を 世界の頭脳が注目し、それが年間○○万人も訪れる別意の世界遺産となれば幸いです。今後とも、よろしくご教示くださいますようお願い申し上げます。
移りゆく四季と、東北人の暖かさが財産です
モナドノック物見山の頂上に立ち、身の丈を二百mも越す水量を思うとき自然の驚異に打ち震えるであろう! 私は、何故?、宮沢賢治がモナドノック残丘を愛したのかが知りたくなりました。
平 素人
あっ、それから「平」の呼称は「ひら」でも「ひいら」でも、いいんです。私自身そのどちらも使用していますから。尚、先生」の呼称は、くすぐったいので「Mr」にして頂けませんか^^!。日本でミスターと呼べるのは長嶋氏>だけですが、わたしのはそんな大それたものではなく以前に「Ms」と書かれたことがあるので男か女の区別をするだけのものです~~!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<種山高原・種山ヶ原> (10/1)
東北地方の北上高地南西方にあり、物見山△871mを含む種山高原の一帯で標高は600m~870m。 東西が約11km南北が20kmほどの平原状の山で、物見山・大森山・立石などを総称して別名「種山高原」とも呼ばれている。そして、この一帯は所々に巨岩が露頭している
“なだらかな丘状”であり、地質学的にはモナドノック・残丘という。 このモナドノックは、晩年の宮沢賢治が関心を寄せたという所でもある。
物見山(種山)の周辺地図
YaHoo!・ゼンリン地図より、 ↓ 著作権に関わったり不都合があれば削除します^^!
(+印を押してスクロール可)
この図の北方向に早池峰山(1120m)、区界峠(くざかいとうげ)740mあり、
この図の南方向に姥石峠(約840m)あり、
↓ 以下へつづきます^^
現学説のいう^^、<モナドノック(残丘)とは> (10/03)
名前の由来は、北米のニューハンプシャー州モナドノック山辺りのなだらかな残丘から。
残丘 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
残丘(ざんきゅう)とは、断層運動や浸食によって、周囲から取り残され孤立した丘のこと。緩やかな準平原の中に存在する。累層が順序良く重なる地帯では、地形輪廻のような浸食を受けても、取り分けて目立った残丘は発生しにくい。逆に、断層運動などの地殻変動で累層が切断されたり折り曲げられたりした地帯では、場所によって浸食の度合いが異なるために残丘が発生しやすい。・・・・・・、 以上
と、云われても“モナドノック”は、聞きなれない言葉なのでイマイチ良くわからない^^!。中学校で習ったのを思い出すと。地形の輪廻で平原に川が出来た幼年期。時とともに川が深くなり谷となりゆく壮年期。山が崩れゆき再び準平原となった老年期。そして、再び最初にもどる地形の循環をくりかえす。・・・の理由で、まわりから取り残されて幼年期のままの準平原のこと^^?
(10/05記)
裏話; 筆者がモナドノックをモナノドックと間違えて検索したことがこの記事を書くきっかけとなりました。 新しい発明や発見は失敗と偶然から生まれる^^? この残丘と早池峰山の成因に疑問を呈している岩手県立大米地教授の報告書がある。
<その全文> ↓ これも著作権に関われば削除します^^!
社団法人 東北地域環境計画研究会 活動状況報告
(第47回)懇話会報告よりの全文
早池峰山の特異な地形とその成因 「岩手県立大学総合政策学部 教授」 米地 文夫
早池峰山の象徴は、まずハヤチネウスユキソウ、蛇紋岩、そして「残丘」といわれてきた。宮沢賢治の詩にも多く取り上げられている。北上高地の準平原に取り残された丘だと言われる。
かつてわれわれの大先輩は、「切峰図面」という地形図の上に風呂敷をかぶせるような方法で浸蝕前の地形を推論し、この山は日本の代表例だとされ、多くの人々もそう思いこんでいた。だが実際の早池峰山は、他の残丘と比べてみても、高すぎる、大きすぎる、長い山稜はおかしい、南側が急斜面過ぎる、谷も大きい…など、地形的な疑問の多すぎることから研究が進んでいる。
早池峰山は、海洋プレートと大陸プレートのぶつかり合いでできているという点で、ヒマラヤに似た構造山脈である。北上高地は、大陸プレートの一つ、いわゆる「北米プレート」のへりにくっついている。日本列島の東側に海溝がある。ここで海洋プレートが大陸プレートに潜り込む。その際のひずみで地震の発生することが知られているが、すんなりと潜り込むわけではなく、実際は複雑で、海洋プレートの上部が削り取られたり、大陸プレートの方から持ち込まれたりする。こうしてたまったものを「付加体」という。北上高地の北部がこれに当たることがわかってきた。これに対する北上高地の南部、これがナゾだ。中国揚子江方面、あるいはオーストラリヤからだとか、いろいろ推測されている。いずれ南の古大陸の断片が、ざっと1億年ほど以前にはるばると流れ着き、両者が衝突し、たたみこむように、のし上がり、潜り込む。この変動によって構造的な山並みができて、早池峰山はかくも高くそびえ立ったものと見られる。つまり、早池峰山はもともと高かったものであり、削り残されて高いものではないということである。
蛇紋岩が硬いから削り残されて残丘になったという説もあるが、普通、残丘(モナノドック)(← モナドノックの誤植か?モナノドックで検索すると当該文が出てきます^^) といわれるものは、種山ヶ原を思い起こしたら分かるように 、早池峰のような堂々たる山容にはならない。 早池峰と薬師との間に大きな溝、構造的な谷がある。二つの塊がぶつかり合う層の切れ目、断層である。早池峰の蛇紋岩と薬師の花崗岩、この層に沿って削られて構造的な谷ができた。小田越である。水が削って谷となり急坂の先が峠となるのが普通なのに、ここは峠と呼ばれない。ここは不思議な「風の谷」なのである。 以上、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「風の谷」 (10/5記)
「風の谷」という言葉は宮崎駿(みやざきはやお)監督のナウシカで一躍有名になりました。この言葉は今後の謎解きにおいて重要なキーワードとなります。流体が狭い谷間や建物の間をかけぬける時、強い流れとなることは私たちの経験しているところです。これを何やらの原理といった?記憶があります。中学生の皆さん!勉強はしっかりしておきましょうね(笑)
「早池峰山はもともと高かったものであり、削り残されて高いものではない」(10/6)
この“削り残されて”という言葉は、「通常ならば、残丘であるから長い年月で“取り残されて”と言うべきところなのに?」と、この言葉は筆者の少年心(こどもごころ)を大いに触発した。“モナドノックは削られた”との同じ思いの方がおられる!?
「小田越」 (10/7)
小田越は、峠状の所なのに「峠」と呼ばないで「越・こえ」と呼ぶ。何故でしょうね。解りません。
そういえば早池峰山・1913mは、「山」と呼ぶのに、谷ひとつ隔てた薬師岳・1644mは、「岳」と呼ぶのも解りません。「岳」といえば中部山岳地帯を思いますが、「岳」は高く険しい山の呼称かと思っていました(汗~)。ちなみに、国土地理院は地図に名前を記すとき、地元の人たちの呼称を最優先するそうです。小田越は、高さが約1240mであり、これより西へは北上川へ流れ、東へは太平洋へ流れ出る分水嶺。国土地理院の地図で観ると東西に流れ出る川は、岩石ゴロゴロの沢状のようだ。前の東日本大震災の津波では上陸する津波より、戻り水のほうが早くて威力があった。(これ◎ネ、後でテストに^^)これは上陸した流れが低いほうに集まり、しかも流れに土石を含み斜面を下り降りることに起因する。四千年前の巨大津波が1240mのこの峠を越えたとは思えないが、判らないことは、棚(峠)に上げておくことに致しましょう^^!。
「蛇紋岩が硬いから削り残されて残丘になったという説」もあるが、 (10/9)
蛇紋岩、分からないので検索していると下記のような文章にでくわした。
岡山理科大学総合情報学部生物地球システム学科
植物生態研究室(波田研)ホームページ<蛇紋岩地帯の植生>より抜粋
蛇紋岩が風化して形成される土壌は明るい赤色となり、土壌粒子間の結合が弱いために土壌中に水分を含むと液状化や地層の流動を起こしやすい。このために蛇紋岩を含む地層がある地域では、大規模な斜面の崩落や地滑りが発生しやすい。 以上
蛇紋岩は風化して水分を含むと液状化や地層の流動を起しやすい。そして、「風の谷」に接して南側にある薬師岳は花崗岩体であり、花崗岩は墓石に使われるほどの硬い石。勿論、花崗岩も年月がたてば風化して軟化はするが、蛇紋岩と花崗岩を比較すると花崗岩のほうが風化軟化には強いように思われる。なのに、蛇紋岩体の早池峰山は東北最高峰(1917m)であり、1645mの薬師岳は総じて低いのはなぜだ。早池峰のほうが低くなってもよさそうに思うが? 現状の早池峰連山の南斜面をみると大小20?をこえる崩落や地滑りがあるのに、対して薬師岳のほうは1ヶ所~~?。・・・、なんか、おかしい??
さて、予備知識は、これくらいにして、その痕跡を<ウエブ>で探しにでかけますか。
種山ヶ原(たねやまがはら)は、北上高地の 南西部で標高600-870メートル、東西11キロメートル、南北20キロメートルに及ぶ平原状の山で高原地帯である。 「このモナドノック・残丘は、四千年前の津波痕だ」と、素人がいうのは簡単だが、それを今の科学に、貴方さまに伝わるように論証していくのが難しい^^!。
学問というものは、何時の世も現科学からはみ出した“非常識”によって、常に更新されつづけている。 「 常識とは多数であり多数でしかない。科学はファッションであり“時流”である。」
ちょっと言葉が過ぎましたかぁ?(笑い) 拙著の電子出版・子供心より、♪(^-^)♪
<北上高地越えの巨大津波の痕跡>
その1 <川が無いのに扇状地>
次の写真は、“川がその土石を運んだ”と学校で習った胆沢扇状地です。“ほんとにそうなのか?”と疑問符をつけてしばらく観察してみて下さい^^。 (10/11up)
YaHoo!・ゼンリン地図より、 ↓ 著作権に関わったり不都合があれば削除します^^!
<上の写真・地図を観て> (10/13記)
この扇状地の北側に沿っているのが胆沢川で、南側に沿うのが衣川。そして、扇子の東側で弧状に流れているのが北上川。胆沢川や、衣川の流れはその端々にあり、その中ほどには流れていない(?)。 さらに衣川の北岸は堤防状に切り立っているのが認められる(?)。 ふつう素人(こども心)が考えれば、大量の土砂は大河・北上川が運び、その扇形は南北に形作られるはずなのに、この扇形は西から東へ向かっている(?)。さらにこの扇形は北へ段々と(6段状に)低くなっている?。 このような地形は地元の人か専門家を含む方しか知りえていない?(私もこの論を展開するまで知りませんでした~~!)。 ・・・、“なんかおかしい・・・?” こういった論をmy記事<川が無いのに扇状地>アーカイブ'08/1月で述べています。
<巨大津波で発生した大泥流> (10/14)
その記事では、巨大隕石で発生した大泥流は、三陸海岸を削り取り、リアス式海岸にし、海抜840mの姥石峠を越え、6段状の波形丘(痕)胆沢平野を形作ったと謎解きした。わずか1、5kmほどの上流域の胆沢川では胆沢扇状地は造られはしない。胆沢平野は、BC2001年の巨大隕石で発生した大津波が北上高地を越えて、その西側へ泥流として運んだものだ。モナドノックは、それに関係すると推んではいたが、この度の米地教授・懇話会の報告文を見るにつけ、巨大津波は、筆者の想像を遥かにこえた<南北20km>の広い範囲(幅)で北上山脈(高地)を越えていた。さらに、早池峰山の北方の<区界峠・740m>の方も乗り越えているかも知れない。ご先祖様がそこを『区界くざかい』だと地名で仰っていますから(笑い)。皆さん(現科学)は、四千年前の縄文石器人の行動力の範囲を見くびっていますが、見渡す限りの岩表地帯や更地。見渡す限りの黒こげ山。見渡す限りの流木。はたまた、盛り丘、等々。それ等の<区界>を探すことは大して難しいことではないと思いますよ。 (但し、6500万年前の南極から発生した超巨大津波の痕跡は別途で考えねばなりません。)
(10/15)
この‘こども心’に、いたく共感して下さった方に、奥州市を拠点とし多数の病院等を営む理事長先生、岩淵國人(くにと)氏が居られます。氏はアーカイブ'08/7月のコメント欄にコメ置きをして下さっています。・・・次はそのコメントです。後々の名誉のために掲げておきましょう^^。
岩淵國人 | URL | 2009-11-19-Thu 16:44 [EDIT]
北上高地越えの巨大津波の可能性大
昨年6月14日に起きた、マグニチュード(=M)7.2の岩手・宮城内陸地震の被害は、Mが同規模の阪神淡路大震災に比べ少なかった。特に、岩手県は宮城県側に比べても少なく、死者も2名(内1名は交通事故)に止まった。被害が少なかった理由は、当奥州市の地盤が阪神淡路や宮城県に比べ、非常に良いことだ。ビルの基礎地盤は、N値50以上を求められるが、大阪付近では地下50m付近にある。当地は地下1mから5mくらいでN値50に達する。そこには厚さ4mから5mほどの土砂礫層がある。津波の北上山地越えの大津波の忘れ形見といえるのではないか。また、貴兄が怪しいといわれた、奥州市黒石には、庭石に適する1個の重さが何百キロ~何トンにもなる石が平地にごろごろしている。これも津波の忘れ形見かもしれない(地元の人は、石のいわれを知らない)。先日胆沢扇状地を軽飛行機(パイパーチェロキー)でみたが、津波によってできたとの貴兄の説は、説得力がある。貴兄の説を、喧伝させていただくとともに、投稿文にも引用させていただきたい。
その論説記事を → http://t.co/iqYjVPs ←捜しました~~!。 (10/16)
氏の紹介して下さった記事は、簡潔簡素なのにしっかりと要点をおさえて下さっています。後読みすると自分でも嫌気がするほど駄文だらだらの当方としては、大いに反省するところです。氏の本懐は、関東大震災を想定しての副都心の誘致候補として奥州市をあげ、その利点の一つとして、岩手県は比較的地盤がしっかりしていて先の( / )内陸地震においてもマグニチュード大のわりに被害が少なかったことを挙げられています。 なぜ地盤がしっかりしているのか? それは拙論でいう巨大津波が地表をはぎとり表土が浅いとすることに共感されたようです。それより何より、氏が少年のときに持った疑問が揺り起こされたのでしょうか? 北上川流域には現在の学問では解しきれない昔話や遺跡・地形地質等、不思議がいっぱいのところであり、それ等を例にあげ、それを当方の「彗星の衝突」に結びつければ解明できるとされています。これほど「他に喧伝する」とまで共感共鳴して下さった方は過去にありません。有り難い事です。勿論、御記事は三月十一日の震災前の話です。・・・・、この度の震災では、医業をいとなむ先生のこと>おおいに失意され。その心労を察するにあまりあります。今度は私が力付ける番! 地元の人しか知り得ていないこと。先生の御記事にヒントとご教示をいただきました。
この<彗星の衝突>に世の学者が気付けば、必ず世界は東北に注目するでしょう。
何故なら、今までの学問には無かった事変の形態であり、しかも日本の東北という狭い地域でその全てが観察・観光できる。 さらに々、驚くべきは<隕石の冬15~16℃の降下>をおこし世界史を変えるほどの大事変なのに、<この直近にいても生存者がいて、それを地名として微細に記録していること!> そのことが素人探偵には一番信じられないのですが・・・^^。 先生の喧伝のご尽力も専門家になればなるほど「素人の戯言」だと相手にして頂けなかったようですね?(笑い)。
(10/17記)
< http://t.co/iqYjVPs >岩淵國人 氏の論文より、当方(の喧伝部分)を除外して抜粋します。(以下の①~⑧迄)
新説⇒彗星・津波・リアス式海岸・胆沢平野、
これらの矛盾を解決する興味深い新説を紹介する。南三陸海岸付近に落ちた分裂した巨大彗星によって発生した高さ250mもの巨大津波が三陸沿岸を削り、リアス式海岸を作った。津波は海抜600mの北上高地を駆け上り表層を削り、岩石や礫を北上盆地に運んできた。
(註) 津波の高さを250mとしていますが、これは<水界峠250m>を、引いてきたものであり、この(津波の高さを)数字で表現するのは、非常に難しい。 津波は、受V字の地に上陸すればその奥での波高はドンと高くなり、狭い地域でもその地形や谷形状によって、その浸水高さは大きく変わってくる。そして、これを標高で表せば(津波は)斜面を登っていく波でもあるから、海岸の波打ち際で見るように足元では数センチの高さでも、二歩三歩と足を踏み入れた場所との差は数十センチにもなってしまう。仮に、姥石峠(840m)を○○m?の高さの水量が越えたとしても、早池峰山南の小田越(海抜1240m)を柄杓(ヒシャク)一杯の水が越えたとしても 「越えたことには変わりが無い^^」表現の難しさがある。 今後のマップづくりに期待します。
① 北上山地の麓(ふもと)である奥州市水沢区黒石地区には発祥原因不明の庭石用やすずり石用の大きな岩石がごろごろしている。これらの岩石は津波が北上山地から運んだ。
>(10/17)コメント;
とても興味深いお話です。どこやらの町にも出所不明の"天然"記念物が^^? 東北には他に雫石、赤石、等々の石にまつわる地名が多数あり、それ等が彗星の被弾によって破壊された岩石が散らばったモノなのか、または彗星の本体が分散したものか、衝突の溶融によるものなのかは専門家の分析を待ちたいところです( がぁ・・・それは何時になるのでしょうか?^^?) それを素人探偵は、白脈(石英脈SiO2)オパールを探せ! ダイヤモンド鉱を探せ! と言っています。ご存知のようにダイヤモンドは、炭素が超極圧で○秒間続くと生成します。植生が受けたそんな条件のところを推察する。または探索する。・・のも楽しいと思いませんか^^。これは専門家でなくても地元を良く知るお方のほうが先んじるかも・・・(笑い)
“河原の探索”は、中学生諸君にもお願いしたい。当ブログは中学生の方の訪問を時おり受けています。さらなる宝探しについては、文芸社電子出版『巨大隕石と大津波』(¥500)へ・・・、販売実績14冊? トホホ・・・で、赤貧の史実探偵より、
② 北上盆地の地下3mほどのところにある厚さ数mの礫層は、津波が運んできた土砂礫が積もった跡(あと)であり貝殻がよく発見される。
>(10/18)コメント;
貝殻の出土は大変興味深いことです。しかし、この謎解きが一番簡単なようで、一番難しい。東北には山間部においても谷あいにおいても石灰(Ca)が多数産出しているようです。最近発見された鍾乳洞のニュースもありました。それが6500万年前のモノか、4000年前のモノか、又は別の津波のものかを判断するには、さらなる調査と思考を必要とします。 しかしながら 『ここは、昔は海だった』との従来の学説をインプットされたお人には、そこが<津波が寄せ集めた波打ち際だ>とするのはちょっと無理かもぉ~? その昔、山からヤギの群れが流されて河口にとどまり化石になりました。反対に大津波が山奥の谷あいに貝を運び化石となりました。後々の人は、それを観て『ここは、昔、山だったとか海だったとか言えるだろうか^^?』 電子出版より
今の世界の学説は、巨大津波がつくる地形には全く気付いていない。その津波を<TUNAMI>の国際語とした海洋国、日本でさえもまったくの無知無関心!? ゴメン又々、言葉が過ぎました。20数年も相手にされないと、ついつい恨み節がぁ"(^-^!)。筆者は、その関心の発起を日本からして欲しいと願っている。 6500万年前の超巨大津波の痕跡を知りたいお人は拙電子出版の方へ、どうぞ^^、それには人知では、とても受け入れ難いような史実が・・・
③ 青森県の三内丸山遺跡が紀元前2000年ころ突然消滅している。三内丸山遺跡は当時の海岸にあり、三陸巨大津波にひとたまりもなく破壊されたのではないか。
>(10/19)コメント;
不勉強でコメント出来ませんが、興味深いことです。 何故なら、その時何処に人が住んでいて、どの範囲で被災したかが分かってくるからです。
④ 亀ヶ岡石器時代遺跡(かめがおかせっきじだいいせき:青森県)を筆頭に遮光器土偶は、北は北海道の室蘭から南は福島まで出土するが北東北3県からの出土が多い。五体満足はまれで、身障者の像を呈することが多い。強烈な閃光があったこと、津波で障害者になったこと等を紀元前2000年から紀元前5世紀ころまで、15世紀もかけて縄文人が記録に残したものではないか。
>(10/20)コメント;
遮光面土器は、始皇帝の意を受けて不老不死の薬を求めてやってきた除福の伴った武人の甲冑と、金属溶接のお面とが合わさったものだと別記事で謎解きしましたが、それがどのように分布しているかは知りませんでした。さらに、祖先は、その恐怖により「一夜にして白髪化した」と、白髪山の地名や伝承で遺しているとしましたが、医事的にそのような事例があるのでしょうか? 巨大隕石で発する応力は、核爆弾(核破壊)の比ではなく、衝突によって重金属化した放射性物質の発生が災いしたのか?とも推んでいますが、それも知りたいところです。白亜紀末の恐竜大絶滅では重金属のイリジウムやオスミウムがその時期の地層に多く含まれることから、その絶滅が巨大隕石説に結び付けられました。
<亀が付く地名の不思議>
又、亀がつく地名で<亀海とか亀川>の地名は聞いたことがありません^^?。通常では亀に山や丘を地名と結びつける発想が思いつかない。(海)亀はその形態から津波にはめっぽう強く、魚類が凹地に残されるのにたいし山や丘部に残る可能性がある。亀ヶ岡石器時代遺跡がそのような場所であったら面白いですね。それに関連する昔話が東北にはきっと残っているはず。この度(3/11)の津波でも聞き集めれば、ひょっとして亀さんや“タコ”さんが山に??、蛸は流されまいとモノにしがみつく習性があるからね^^。
⑤ 遠野に伝わる河童は、頭にミルキークラウンを載せ、陸の人や家畜家等を沼に引きずり込むといわれる。河童の頭は海に落ちた流星で、河童は巨大津波のことではないか。
(10/21)コメント;
まったくの同感です。 ミルキークラウンとは、ミルクにモノを落としたときクラウン状に跳ね上がる水しぶきのことで、このような発想の根源をつきつめてゆくとき、祖先がそのような大事変に遭遇したのではないかと思っています。この化け物伝説は列島の各地にもあるのか、それとも、遠野>始発のモノなのかが興味深いところです。河童伝説は早くからシブキ痕と予想していましたが、それが遠野に遺されていることに驚きをおぼえます。
<遠野>とは、
居住地より遠くにあるところという意味であり、その地名を付した主たる居住地はどこかが興味の対象となる。(その捜索は東北の歴史をよく知る読者に委ねましょうか^^) はたまた、遠野といえばかなり広いところなのに、そこには人が住んでいなかったのか? 住んでいればそこの住人が付名するから<中野>あたりの付名が妥当と思える。それとも、この大事変によって「棲めなくなっていた」のかが問題になってくる。
⑥ 岩手の由来は、三ツ石神社(盛岡)の岩に鬼が手形を残したとする作り話が伝わっているそうだ。しかし岩手の本当の名の由来は、シャベルローダーのなかった縄文時代に北上山地の表土を何メートルも削った津波を岩の手が削ったと解釈し、この地に岩手の名が付いたとする方が自然ではないか。
>(10/22)コメント;
写真探しました。尋常の力では考えられないような位置関係にありますね。その見えない力を鬼というか津波の力というかは表現の違いであって、このようなイワレが東北にはいっぱいあるのでしょうね。 わたしは岩手を岩の手方向と解しましたが、岩の手=鬼の手>のほうが順当かも知れません。
<ヒラメキました!>
ところで、巨人デェダラボッチも東北の話でしたっけ? 山や湖を作ったという<デェダラボッチ>に尋ねれば、その時の列島異変が聞けるかも知れませんね^^。ところが、以前の記事で話のでた「島根の三瓶山、富士箱根、岩手山」等の噴火を現科学は、約3500年前としています。拙論の4000年前との差、500年が埋められない。この差は、今までに万語をついやしてきた素人探偵の論「祖先からのメッセージ」を根底から瓦解させてしまう力を持っている。わたしは、このような時、ご先祖さまの方に軍配をあげることにしています。デェダラボッチさまぁ~~、『その昔』が、何時なのかを教えてくださいませんかぁ~(^^!)
⑦ 北上山地のリアス式海岸は、氷河が山頂から削って沈降したのではなく、津波が山麓から山頂に向かって削ったのではないか。石巻から北上川を逆流した津波は、北上高地を乗り越え北上川を流れ下ってきた津波と岩手県と宮城県の県境である狐禅寺付近で衝突した。土砂礫が堆積し20数Kmもの狐禅寺渓谷を作った。
>(10/23)コメント;
まったくの同意です。氷河が渓谷をつくるのはよく知られていますが、土石を含んだ津波の遡上(そじょう)がつくる地形はそれと大変よく似ていますが、微妙に違うところがあります。斜面から持って降りる岩石が氷河ではその下流で断続的な波形をとるのが多いが、津波では一時的におこるからばら撒き傾向や一箇所にかたまる傾向があると考えています。又、氷河では斜面の急角度と距離を必要とするが、津波ではそれには関係なく、その上り口に土石のあるなしで事をおこしてしまう。さらに、氷河では広範囲に事がおきるのに対し、津波では狭い地域で事がおこる。また、リアス式海岸は、溺れ谷という地盤沈下説もあるが同じ北上高地岩塊なのに魹ケ崎以北の三陸海岸はきれいな弧を描いているのにも疑問を感じる。
「北上高地を乗り越え北上川を流れ下ってきた津波と岩手県と宮城県の県境である弧禅寺付近で衝突した。土砂礫が堆積し20数Kmもの弧禅寺渓谷を作った。」
> 狐禅寺渓谷の新しい情報をご教示頂ました。別途で調べてみます。
⑧ 1908年6月30日に起きたツングースカ大爆発はおうし座流星群同様エンケ彗星の母彗星の一部で、氷の空中爆発のため、流星の破片を見つけられないのだそうだ。が、デビッド・アッシャー(英国の天文学者)が計算したエンケ彗星の母彗星が三陸海岸付近に落下したのであれば、将来広田湾(水深56m)や山田湾(同90m)の海底から、流星の破片が見つかるかもしれない。
と、結んでおられます。
>(10/24)コメント;
次は、素人考えだと前置きして; 太陽を中心として周る惑星には<水金地火木土天海冥>と長くいわれて来ましたが、観測技術の進化により九大惑星以外の発見やら予測により惑星の定義がゆらいできたのは、周知のとおりです。小惑星も太陽をまわる惑星であり、「惑星イコール何々だ」と、いう考えは現状に合わなくなって来ました。筆者は、その考えの延長で、彗星も太陽を周回する惑星の形態であると考えています。又、以前に「彗星は氷と泥の汚れ玉」との発表があって以来「彗星=汚れ玉」の考えが固定化しつつありますが、こども心はそれに組することが出来ません。何故なら太陽に捉えられずにそのスイングバイ(簡単にいえば円盤投げ?)によって彗星軌道に入った天体は汚れ玉だけではなく、岩体のものや金属核を含むもの等、色々にあると考えています。(詳しくは拙電子出版太陽系の誕生で述べています。) それが先生>のおっしゃるエンケ彗星の母彗星だったかどうか私にはわかりませんが、東北に衝突した天体は列島に<津々浦々の地名>を残させたり、前述の島根半島を破砕させたり宮島の山形を変えるほどの衝撃力を生むものでなければなりません。
その衝撃力の子供的な考え方
算数大の苦手な素人は、専門家のように計算が出来ないので、実際の列島の大きさを思い浮かべ、それを氷結した池や水面に例えて、石つぶて(隕石)を投げてみる。その影響の大きさを子供の頃に石投げした情景を思い出しながら・・・・、
『厚くはった池の氷は割れなかった。そのうち誰かが、より大きな石を見つけて投げ込む。どぼんと水しぶきが上がった。子供たちは、急いでその場から逃げた・・・。』 子どもの頃の思い出; 拙電子出版より、 これは、更なる超巨大津波の謎解きへと発展します。(^-^)♪
<海上にも落ちてはいないか?> (10/25)
海上に落ちていれば、魹ケ崎以北の三陸海岸に直接の影響を与えない場所。そして牡鹿半島が影になり阿武隈海岸にも影響を与えていない場所の内で探らなければならない。
それは<北緯38°50′東経142°> 距離にして、気仙沼沖 30km辺りかな?
これ以上の外洋にでると阿武隈の海岸にもなんらかの影響が出てくる。山田湾、広田湾、それに気仙沼も怪しいですよね。なにしろご先祖さまは、そこを<竜舞崎>だといっていますから^^、一箇所だと考えない方がいいかも知れません。以前に、これを探ろうと国土地理院に海底の地形図を頼みましたが、海底地形図は海上保安庁の所管とのことでそこでストップしています(^^!)。その一部の空中爆発も考えられますが、空中爆発と地面を直接たたくのとでは発生する地震波は比較になりません。
〔ツングースカの大爆発〕は、最近のTVでも見ましたがその“爆風・なぎ倒し痕”の先に凹地の池があり、その湖底のコアを採集したら強い力で押し付けられたような土層になっていたが、隕石の実体は発見かっていないそうです。
(10/26) <Monadnock>
次の写真は物見山の頂上付近から、ほぼ南西の一関、平泉方向を眺めた写真です。
検索方法; 種山ケ原-Wikipedia → 外部リンク・種山が原の風景スライド特集(2/22枚)
(佐藤?)淳平氏
↑ クリックで拡大します^^
筆者は、この2枚の写真を発見(みつ)けたとき胸の高まりをおさえることが出来ませんでした。
何故なら、その露岩は北上高地を東から西へ越えた巨大津波の方向を指し示しているように見えたからだ。とくに2枚目の足元にある数個の小さな石の方向性は筆者の思いを確定的にした。しかしながら、このような地形は褶曲地形が折れてその片方が露呈したときに見せる様相でもある。巨大津波がこの高原を越えたか越えないかを確かめるためにはさらに3~4箇所の同様の地形を見つける必要がある。その捜索を地元の方に、好奇心の強い貴方に、そして専門家がして欲しい。何故なら、いかに素人探偵が万語をついやし、ああだこうだと謎解きを重ねても<専門家が>うなづいてくれない限りこの論は成り立たない。 さらに、それ等が見つかっても『それは氷河がつくる痕跡だ!』という科学者や貴方様がいたら、もはや素人は、その方達を説得するだけのエネルギーは持ち合わせていない。
「氷河がつくる痕跡と巨大泥流が駆け上がる痕跡は非常によく似ている」拙電子出版より、
決定的な違いは谷上に貝殻(Ca)を運んでいることかな^^。
<津波の高さを再検証>
ステップ① (10/27)
この謎解きの始まりは、“釜石”を巨大隕石の元体と置いて、その衝撃で発生した大津波の大きさを探ろうと地図を観ていたとき<水界峠・250m>を探し当てた時からだった。当初は250mの高さの津波を信じることが出来なかった。何故なら二十年ほど前、当時の観測では最大波高ほぼ38m迄で、それより高いと水の自重の方が勝り38m以上の波高はないとされていた。このことから海抜38m以上のところに海の貝殻等が出土すると『そこは昔は海だった』と解されていた。名のある津波学者がですよ。それをはるかに超える海抜250mの高さの津波はとても信じられるものではない。なのに、ご先祖さまは「水界隈・みずかいわい?」峠だという。
註: これを「ミズサカイ」と読むと分水嶺のこと。分水嶺なら、それこそ山ほどあるのにねぇ?
峠の付名は○○峠といって固有名詞を付けるのがふつう。それを「ミズサカイ」という一般名を付けているのは何故か? 「サカイ」なら “境の字” をあてていいのに、「界」をわざわざ使うのは何かのイワレがあったのではないでしょうか^^? 私はそのイワレを知りたい。
ステップ②
この謎解きを進めていくにつれ、ナスカの地上絵の中にイルカが破壊されたものや海草が描かれているものがあった(前述記事)。その地上絵は、海抜500m内陸へ60kmのところにある。これを日本発の大津波が打ち上げたものだとすると、エクアドルからナスカ迄、約2000kmを斜面とした片V字湾奥を描き、津波の入り口幅は、およそ600kmの二分の一の300kmとなる。これを津波の波高計算式に当てはめる。その式を忘れましたが中学生の学力でOK^^。 すると、海抜500m内陸60kmへ駆け上がるためにはピラウ沖で18mの波高を要した。各数字は当てになりませんよ^^!。その考え方だけを重視してください。
ステップ③ (10/28)
では、その波高18mを出すには日本発の津波波高はいくらでなければならないのか?
アラスカのアンカレッジあたりからナスカ迄、およそ12000kmを片斜面とした超巨大三角形を描く。入り口幅はオーストラリアだったかな このような逆算を重ねていくと三陸沖で実に1000m以上の波高を要することになった。
ステップ④
次に手がけたのが、1000mの波高を導く巨大隕石痕を探すこと。“釜石塊”以外にもあるのではないか? それは洋上にあるのではないのか? これについては前述で申し上げたとおりで分からずじまい。水深200mに満たない洋上で1000mもの波高がたつものなのかとの疑問も生まれる。現状の“釜石塊”は直径が約20km。 これを団子状に丸めると、おおよその^^おおよそで直径が7km弱^^? わずか7kmΦの石つぶてで1000mの波高がたつものなのか? それを波とは考えないで投石による水シブキと考えたりして・・・^^!、
専門家の教えを是非に願いたい!
ステップ⑤
これ等を探しているうちに行き当たったのが前述の胆沢平野の偏り形状。この“偏斜形状”を作り出すためには姥石峠方向からの(→)の流れが必要となる。その姥石峠は840mの高さのところにあった。 さらに、この度岩淵先生のヒントやらご教示を頂いて、モナドノック・残丘を調べると、その津波は600m~800mの高原を越えていた。
このことは<単純に考えても800-600=200m高さの水量>が越えていたことなる。
<結び; 祖先からのメッセージ> (10/29)
それがいかに史実であろうと、現科学が、貴方さまが、この大事変に “お気付き”になり、首をたてに振ってくれないかぎり大論には育っていかない辛さがある。素人がこのように大口がたたけるのは、ご先祖さまから<地名>という歴史を頂いているからです。その時は何時になるのでしょうか? 出来れば存命中にお願いしたいのですが!?(笑い)。
<おまけ> 駄目押しの^^? 参考資料として次を紹介します。(10/30)
www.city.tome.miyagi.jp/oshirase/kankyo/documents/04_2_3chikeichisitu.pdf
↑ 貼り付け方を知らない~~! お手数をおかけします。
上のURLは、宮城県の東北部にある登米市<平成23年度白書(¥600)の一部のようです。
岩淵先生のご教示で<狐禅寺渓谷>を検索しているうちに行き当たりました。素人には専門語がおおく詳しいことは判りませんが、この中で二つの興味深い図面と写真を見つけました。
図 Ⅱ-3-1 地形概略図 -19頁-
写真 Ⅱ-3-4 曲袋・まげぶくろ(中田町浅水付近)の状態 -30頁-
登米(とめ)市は、北上川を上っ行くと岩手県一関市と接するところにあります。 一関は、祖先から 『北上川を関止めた』 との地名の伝言を受け取っている所でもあります。この白書を精査していくと、
①大洋から西へ北上高地を乗り越え駆け下った巨大津波の土石流と、そこへ留まった濁泥が、
→(○○沼)
②そして、北上川の河口から遡上した巨大津波と、北上高地を駆け下った泥流との合流点が、
プラス西から津波の戻り水→(曲 袋)
③さらに、6500万年前の'人知’では受け入れがたい超巨大津波がみえてくると思いますよ。
→(猊鼻渓)
それ等の解析は、専門家にゆだねることに致しましょうか!(^-^)??
つぎの記事を思案中です・・・(^-^)♪
(10/4) 拍手(1)が頂けました。 感謝です(^-^)。とても励みになります。
(10/9)つづけて拍手(1)が頂けました。拍手は10倍、コメントはその100倍の元気が
頂けるのですが・・・、
(10/28) 拍手(1)と、前記事との(5)連打が頂けました。 v(^-^)v 感謝です。
('13/9/08) 9/01に拍手を下さったお方は、 I.先生>だったのですね。本日コメント欄を
見てやっと解りました。返事が遅くなってごめんなさい。丁度、先生宛に文信を準備中です。詳しくはそちらで^^!
('14/12/30) Dr. I さま>7拍目と、そのコメントありがとう御座います。A博士と6時間にも及ぶディスカスは実り多いものでしたね。本年の3月に先生とお会いできたことは私にとって生涯の記念です。来る年も更なる発展の年になりますように!! ありがとう御座いました。
コメントは、↓ CO-0 クリック^^
スポンサーサイト
| ホーム |