<東北・巨大津波の合流点>
ご訪問ありがとう御座います♪
このブログで掲げている記事の全ては、続き関連モノです。この大事変があったからこそ、
神の国・卑弥呼へと歴史が繋がっていったと謎解きしています。
お暇な方は^^?、当初の記事 「卑弥呼・・」からどうぞ^^
当ブログは追記の形式で、今回の('11/11/27)で完了しました。
この記事は前出の・岩淵國人先生(奥州市)の論説;合流、を頂きこの記事を掲げました。
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<巨大津波の、(1次的2次的・・・)合流点!>
まずその前に “その大異変を” ご先祖さまから、 再々々度(^^)聞いてみよう。
『 東北地方 ・ 祖先からの地名伝言 』 (↓ 拙電子出版より転載 )
その昔、(BC.2001年・日本時間12月25日 未明の朝6時頃)
竜が飛んだと、“龍飛崎” 全天覆った“奥羽”の羽 “大槌・釜石”に降臨した。
“松前”のそちらに飛んだと“白神岬”、白光見たと“白神岳” 、真昼のようだと
“真昼岳”、私も見たよと“面白山”あな恐ろしや恐ろしや木々も白んだ“白髪山”
「しろひげやま」と読みます。立ち枯れて幹だけが白く残ったんでしょうかぁ?
巨大な津波が生誕した。
“水界峠・250m”のすぐそばに、津波で沈んだ“志津の川”、金の扇か
“金華山”舞い踊ったか“竜舞崎”、巨大津波を“歌津”とは酔狂人がいたもんだ。
“岩の手”を敲いて育った大津波、暴れん坊の大津波“牡鹿半島”を蹴散らかし、
花嫁さがして大津波、“志津川”越えて“津山”を越えて、後押しされて“追波川”
鹿の背越えて“渡の波”へ、巨石渦巻く“石巻”、“仙台”越えて“津の田んぼ”、
“次郎太郎山”が通せんボッ。 二俣かけたか大津波、津波は川を北上する。
“北上川”を北上する。 “志波姫”様を横目にし、“江刺”恋しや“花巻”恋し、
妬きもち焼いて“焼石岳”、黒く焼いたる“黒森山”、 それを眺めて“国見山”、
どうなるものかと“物見山871m”、“遠野”で眺める“物見山917m”、
袖を振られた大津波、 “盛岡”の先 “姫神山”へ、 土を盛っての贈り物、
シワぶきひとつ“紫波”の波、行かせてなるかと“区界峠”、節操ないと“八幡平”、
想いかなわじ“七時雨山”、ここから先は下り坂、力落として“一戸”へ、
“二戸・三戸”四歩と歩めず。 気を取り直して“五戸・六戸”、 “七戸”の先、
あの“恐山”、 力尽きたる大津波、 ふる里、目指して“八戸・九戸”
津のない十(とお・ツなし)で、お終いじゃあ!
青字は地名伝言です。“紫波(しわ)の波”を赤字にしておきました???
<津波は、川を北上する、北上川を北上する!> (11/12)
石巻から上陸した膨大な水量・推定高さ400m??(←変わる可能性あり)以上は、一関をものともせず江刺・花巻を駆け抜け、その削った表土を盛岡へと盛り上げた。尚も、それだけに止まらず、岩手県と青森県境にある七時雨山・十三本木峠(457m)に駆け上がった。十三本木峠とは十三本の大木が残ったのかも知れない。今に十三の数字、階段を何故不吉数とするのであろうか? ちょっと脇へそれました^^!) この分水嶺を峠として青森県側へ馬淵川を駆け下る。その津波は、一戸、二戸、三戸、(四戸は無い)、五戸、六戸、七戸まで届いている。これは私が言っているのではない! ご先祖さまがそのように仰っているのだ。奇しくも先に謎解きした肝沢平野の6段丘を1波~6波としたことに符合する。
<石巻側から北上した津波の水位はいくらか?>
北上高地を太平洋側から乗り越えた津波を標高・高さで400m~800mとした。それでは、石巻から奥羽山脈と北上高地の間を駆け上った津波の高さはいくらであろうか?
<北上川の流れの不思議> (11/13)
ここに中学校の社会科地図がある。この地図を見ていると怪訝なことがある。奥羽山脈と北上高地の間を流れている北上川であるが、その流れは北上高地側へ片より、へばりついているように見える。先のモナドノック・地形の輪廻の考えを持ち出すと、1500m級の奥羽山脈と1000mに満たない北上高地との比率を考えねばなるまいが、もう少し西よりに流れていてもよさそうに思うが?
この地形を思うとき、私は二つの要因を考えている。その一つは、四千年前の巨大津波が造る地形。 もう一つは、6500万年前、猊鼻渓に高さ100mを超える海洋性の石灰類を運び込んだ超巨大津波(別紙)ですが、この方の言及は伏せておきましょう。今でさえ相手にして貰えないのに、これを言うと益々相手にしてもらえないから。(笑い)
<津波の揺れ戻し> (11/14)
津波が比較的広い谷奥に入り込んだ時、その斜面を右へ左へ揺れ戻すことがある。それを今回の3/11大震災で経験した。奥羽山脈と北上高地との谷あいに入り込んだ四千年前の巨大津波はどのような行動をとったのであろうか。それを教えてもらうために、ご先祖さまからの<地名>という伝言を聞きにまいりましょうか。
<奥羽山脈側の山裾に津波の高さを聞く!> (11/15)
中学校社会科地図より、以下は、資料に元づかない拙速思いつきであり、間違っていたり、大事な地名が抜けていたらゴメンなさい。
まずは<鳴瀬川>上流より、この「鳴る」がつく地名は「天が鳴り、地が鳴り、津波が鳴った」その大事変かと思います。後の“雨乞い鳴滝信仰”へ進むと謎解きしています。
<富谷>(海抜○○メートル)←海抜○mは後で調べて入れます^^!。
この記事の当初からお付き合いして下さっている方は、すでにお判りかと思いますが「富」とか「福」がつく地名は大事変で打ち上げられた海の幸をいうものかと謎解きしています。三重県の津市には<嬉野♪>がありました。
ちょっと南下して<蔵王>別名→(屏風岳)が気になりました。
この屏風岳は、荒神さまが発したその爆風や「不吉な閃光を止めた」として付名したのではないだろうか。それは悪しきをそこで絶ち止める「屏風岩信仰」となり、さらに後々では「新しき御来光を迎える」として、前述の(環状の立木遺跡)から「千光寺信仰」へと各地に広がっていったと推察できる。今私達が深くを考えず当たり前のように?使用している垂れ幕や、お葬式幕、祝い事幕、、金屏風、等は、このことから発していると断言できる! これを外すと、こども心には、その意味が解からない。太古の昔から未来永劫まで朝日は昇り夕日は沈んでいる。それを「元日」で区切るその意味が解からない(笑)。
江合川上流の<岩出山・いわでやま>(海抜○○メートル)
津波が谷間を駆け上り、その山肌をたたき削り巨岩を表すことがあります。先の記事(別紙^^?)では滋賀県の石山寺がありました。元々あったものなら「出る」の字は使いませんからね。筆者の推理が正しければ、此処には石山信仰としての巨岩と“イワレ”があります?。
<一迫・いちはざま> (海抜○○メートル)
巨大津波の第一波跡(最大波)かと思われる。 「ハザマ」をPC変換するとそれらしい語句が並びます^^。
<その時の津波の高さ、浸水地を推し量る> (11/16)
前記の高さを国土地理院の地図で調べます。→ 暫定的津波高さ
富谷・とみや> 只今、標高を調べ中^^!ですが・・汗~~~!
岩出山・いわでやま> 只今、調べ中^^!ですが・・・
一迫・いちはざま> 只今、調べ中^^!ですが時間がかかりそうなので、一旦休止^^!、
他に、 (11/17)
<志波姫・しわひめ> 姫は火女・ヒメの変化か
<築館・つきだて> 築地 着き土手の訛ったものか
<高清水・たかしみず> 津波に火事は異質ですが、その時の煤煙、「煤・スス水」か
<古川> 大津波以前の川 か? そして大郷・おおさとは縄文石器代の主たる居住地か?
さらに、<仙台>の台はこの時のものかの確定は出来ないが津波が運んだ土砂台なのでしょうか。等々の津波に関係すると思われる地名がありますがはっきりとは推みきれません。
<次に、この辺りの航空図を掲げます> ヤフーサービスより、(11/18)
BC2001年12月25日の大津波進入・上陸の痕跡!! 著作権等の侵害があれば削除します(^^!)
< これから先は、>
↑ 上の写真が“大津波の侵入痕”、 に見えた人だけつぎへ進んでください^^?
正(流)、逆(流)、逆の発想
どっち(現科学)が正常で、どっちが思い込みか分かったもんじゃあない。 ←ちょっと過激的^^? 想像・妄想> 奇人・変人扱いされるのはもうイヤだぁ~~~♪(笑い)♪
↓
↓
MОMさんブログ>の手法をパクらさせて頂きました^^!。
もっとも、当史実探偵の論説の97.5%は“他人様”のパクリです。今使用しているこの語句が、この一文字までもが、この私くしが考えだしたものではない! ( 別紙報告書より、)
次回のUPをお楽しみに^^!
<大津波の引き波の痕跡を見つけた> (11/19)
↓ ヤフーサービスより、 著作権等の侵害があれば削除します(^^!)
この写真は、一迫、岩出、築館>辺りの航空写真ですが、同方向に幾筋もの川筋がならんでいます。この地形が形造られたのは津波によって打ち上げられた軟弱な堆積土が、その引き戻しによって多数の川筋を刻んだものだと断言・断定できます。 ええ、私は、これを実験証明できますよ♪ ・・・と思いましたがそれは実験するまでもなく、こどもの頃にあそんだ泥田や、砂場、川辺、河口、海辺での“引潮地形”を思い出せば難なきこと(^-^)♪ そんな簡単なこと(実験)では納得できないとするのが現科学^^!??
(12/13)追記
この航空写真を地図変換すると<座散乱木遺跡><塚原遺跡>の名が気になります。
その時の津波が打ち上げ“寄せ集めた木々”なのでしょうか? 検索しても出て来ません。
<岩出山のその露出岩はどこにあるのでしょうか?> (11/21)
きっとそこには“お宮か、お寺”があるはずだが、それが見つからない。・・・・、
その露岩の標高が知りたい。
それが分からないのでとりあえずこの近くに名生法山△277mがあるので、その津波の高さを(仮に250m)としておきましょう。 この高さから大量の水が一気に北上川へと駆け下る。さらに2波3波、・・数波が“揺れ戻し”北上川の流れを東の山際へと押しやる。北上川流域には旧河川跡とされるところが多数ある。その多くは、この時の津波がその流れを変えたのではないだろうか。さらに、この時、出来た波状段丘を 「海岸段丘だとか、ここは昔は海だった」 とかというお人(現科学)がいたら、もう(私)素人は、(貴方を)相手にしない。 ゴメン々、又々恨み節がぁ・・^^!
(20数年前、今もかな?(笑い)、とある大学の先生に「専門家は相手にしないでしょう」と言われたから^^! PC広報活動にも閉塞感があり、その筋へ文書活動を始めたのですが未だにお返事は返って来ません。無視されるのが一番つらい。実績皆無の素人が、いかに世紀を変える(気付き)謎解きをしようとも世間は相手にしてくれない。『どうしたら、この史実が貴方に、現科学者に伝わるのか』その謎が二十余年、未だに解けない。中学生のみなさん実績はしっかり積んでおきましょうね。世間はそんなに甘くない!! こんどは泣き言がぁ!^^!)
< 巨大津波の “合流痕跡” を見つけた!> (11/22)
.種山モナドノックを越えた水流(水量高さ400m>)
.石巻湾から上陸し、北上した巨大津波(水量高さ○○○m)
.岩出山からの揺れ戻し水流(仮、水量高さ250m)
.北上川からの戻り水(水量高さ○○m) ・・・等の、合流痕を見つけた!!!
↓ ヤフーサービスより、 著作権等の侵害があれば削除します(^^!)
[ 東北巨大津波が造った、合流痕と渦巻き痕 ]
[曲袋(まげぶくろ)の蛇行地形] ←↓ 前述の<登米>白書より引用、←旧建設省か?
www.city.tome.miyagi.jp/oshirase/kankyo/documents/04_2_3chikeichisitu.pdf
延長249km北上川の流路の中で、最大の峡谷が岩手・宮城県境の弧禅寺峡谷であるとすれば、曲袋は最も大きく蛇行した場所である。中田町大船渡の錦桜橋付近から南流する流れは、同町新小路付近から東和町石倉に向けて大きく蛇行し、北上する流れとなる。石倉付近から再度蛇行し同町米谷地区に至る。川幅約200mの北上川が、東西25km、南北25kmの平野をS字状に屈曲する。その屈曲の最小半径は1kmに満たず、曲袋付近の土地の幅250m程度でしかなく、河川が一旦側方浸食を強めれば瞬く間に米谷大橋付近でショートカットされそうである。・・・以下この地形の成因について言及されています。
その添付写真→ 写真Ⅱ-3-4. 曲袋(中田町浅水付近)の状態 - 31 -頁
この報告書は、以下の謎解きの大きなヒントになりました。
<この北上川S字カーブはどのようにして出来たのであろうか?> (11/23)
普通に考えれば、平地に於いて、このようなヘヤーピン状のカーブなど、大河北上川の流れからすれば、白書でいわれるように 『 瞬く間にショートカット 』 されるし、通常の年月で造られた流れとするには無理がある。 だが前記の、、、、の流れを想定すれば、しごく簡単。<.種山モナドノックからの流れ>が南進する。それに負けじと<.石巻湾からの流れ>が北進する。さらに<.岩出山からの流れ>が、<>と<>の合流を東の山側へと押し付ける。・・・て゜、S字カーブは形造られた。 この論を決定づける駄目押し地形がある。
<S字流の西南側方に出来た渦巻き地形> (11/25)
このSカーブの側方に○○から○○を中心に直径2kmほどの左巻き・6の字形の渦巻きが見える。(蛇足ながら北半球では左巻きに渦巻く^^) さらに、これに続いて直径ほぼ2kmと、直径ほぼ1、5kmの渦巻きも見える。この渦巻きに見えるのは田園地帯のなかに立ち並んだ人家ではあるが、通常の平地では、このようなグルグル巻きやト音記号状に住家集落の形成はなしてはいかない。(東北には今風の円形団地はあるようですが^^)
何故か? 答えは簡単♪ そこが津波の運んだ土砂で渦巻き状に高かったからである。水稲を作る場合、水を引くのは低い場所へ、住家は北上川の氾濫を避けて少しでも高い土地へ建てたいものだ。後世で農地を区画整理したが住家地帯までは整理が出来なかった^^。
『 祖先からの伝言をお伝えします 』 (11/26)
ここはその津波の後、<浅水>で、<黒沼>で、<中田町>であったと、祖先は地名で(記録して)仰っています。
「浅水」とは、後々に津波の水が引き、その渦巻きが造った “お皿状の自然堤防”(約70cm~20cm高さか?) のうちに溜まった残水のことであり、
「黒沼」とは、津波先端の行き止まりに運ばれた微細土(赤沼もあり)であったり、渦巻き地形が残す清水域や微細土のことです。(このことは更なる大きな謎解き→別紙報告書へとつづきます。)そのほか、北上川流域に見える他の多くの沼地もその時できたものかも知れない。
私は、それより何より、ここに必ず遺されているであろう、祖先からの伝言の続き(イワレ)を聞きたい。 『その<曲袋>に入っているモノ、いた物は何ですか?』 と・・・^^!)。 素人探偵の解析はここまでで、あとは警察(専門家)に、その裏づけをとって頂くことにしましょうかぁ?? わたしは、この地を訪れたことがありません。
この地形が確かめられれば、この街並みは、大きな“世界的観光遺産”となり得る♪。 ただし、 貴方さまが世界中の学者が、首を縦にふってからの話ですよ^^♪。 ・・・ ・・・
メッセンジャー (平 素人)
( お ま け ) (11/27)
えっ? 何か忘れていませんかって・・・、
そうそう、すっかり忘れていました^^!。・・<紫波・しわ>の地名を赤字にしておいたこと。
この<大事変の日時>を
日本時間BC2001年12月25日の朝 “6時頃” としていました。
東北の地名を聞くなかに、この紫波町の名がありました。 だがこの<紫波しわの紫色の意味>が推み解けなかった。なぜなら、他の地の地名伝言では<白波・しわ、白羽・しわ>等があり、津波の波頭・なみがしらは 「白いもの」と決めてかかっていた。この度(3/11)の大震災での津波の波頭には「黒い」ものがあった。さらに東北の陸中に<黄海>の地名もあることも分かった。陸前高田市の職員の方だったかな 津波で水没した三階の屋上で鉄柵につかまりながら、目の前を大量の魚が通りすぎていくのを見た」といわれていた。 そうだ♪ 未明の巨大津波を “間近に、或いは水没して”みれば<暗い紫色>に見えるのだ。
その時を<明石時間>で朝の6時頃としたが、天文学者なら、地球の歳差運動や回転微差等で割り出し、さらに正確にその時間を絞り込める。 さらに々、その朝は列島のほとんどの地域が快晴だったに違いない。なぜなら、北海道の白神岳から○○の面白山や屏風岳まで曇り空ならその閃光は届きはしない。さらに、想像を加えれば、長い日照り続きで一滴の水も欲しい干天が続いていたに違いない。 だから、この「彗星衝突」で生じた滝のような大雨が、竜となり水神となり、その思いが雨乞いや “卑弥呼の歴史”へ続いていったのではなかろうか。このように、たった一つの地名(一事)からでも、その大事変(万事)は見得てくる。 この大事変を言う地名は、あなたの地にも残っている。こどもの頃、何故にその地名ついたのかを不思議に思ったことが誰しもあるはずだ。
「一事は万事を語り、万事は一事によって成る」
地名は大事変を語り、 大事変は一地名によって成る。
そのこども心を思い出し、深く追求しないかぎり、祖先からの伝言は、貴方には現科学には伝わらない。素人探偵の役目は、そのきっかけをつくることであり、これを捕らえて学問となすのは警察(学者)や検察(大学や研究機関)の役目だ。私はその手錠(専門的知識)を持ち合わせていない。この事変の解明にジャンルは無い!。わたしは何んでもブッチャケて語り合える(多くの)Dr.ワトソン>を捜している。・・・、・・・、・・・^^!。大陸移動説を唱えたウェゲナーは、それが今に認められるまでに百年?を要している。 私の場合はこの広報を始めて二十余年しか経っていない。・・・が、ちょっと物忘れが多くなり、ボケも入ってきたから出来れば存命中にお願いしたいのですがぁ・・・(笑い)
史実探偵 平 素人 ( '11/11/27 ) □
これで、この記事を完了しました。次の準備にかかります。次はもっとBigなことが・・^^♪
訃報: 追悼:
http://www.tankonews.jp/modules/bulletin1/index.php?page=article&storyid=429 ('21/5/30:565ヒット)
敬愛する岩淵先生のほうが先に('21/5/17)逝かれました・・
「彗星衝突による 縄文超々巨大津波」-文芸社 奥州市:岩淵國人
四千年程前、 イースター島上空から(現地時間の13時頃)侵入し地球を半周し赤飛した巨大塊が東北地方に(BC2001/12/25/am6:00頃)降臨した。これで発生した北上山地を越えた6波の大泥流津波は、6段丘の胆沢平野をつくり、仙台湾から北上川を北上した津波と合流しS字形の“曲げ袋”をつくり、さらに大泥流は仙台や一ノ関・盛岡を造るほどのものでした。衝突で巻き上げた粉塵は、北半球で一・二年のうちに隕石の冬(筆者推定年気温12~15℃?の降下、先生は3~4℃だったかな^^?) を伴い生態系をも変えました。この大事変は人心にも入り込み列島の津の地名のみならず 『神となり、竜となり』 世界史にも、その痕跡を刻んでいる!!
前学にない大論を唱えるひとは、世界に"五万と"いますが「この大事変を認め合える」のは世界で岩淵先生と私のたった二人 <双友:only 2> でした。むつかしい論はなくてもいい。気付けば良いだけだ! もとよりの極大論、存命中に成るとは思っていない。記録は保っている。
「まっててね。二人で俯瞰(ふかん)しましょうね・・・」
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-date-200810.html
つづきます^^♪
ご訪問ありがとう御座います♪
このブログで掲げている記事の全ては、続き関連モノです。この大事変があったからこそ、
神の国・卑弥呼へと歴史が繋がっていったと謎解きしています。
お暇な方は^^?、当初の記事 「卑弥呼・・」からどうぞ^^
当ブログは追記の形式で、今回の('11/11/27)で完了しました。
この記事は前出の・岩淵國人先生(奥州市)の論説;合流、を頂きこの記事を掲げました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<巨大津波の、(1次的2次的・・・)合流点!>
まずその前に “その大異変を” ご先祖さまから、 再々々度(^^)聞いてみよう。
『 東北地方 ・ 祖先からの地名伝言 』 (↓ 拙電子出版より転載 )
その昔、(BC.2001年・日本時間12月25日 未明の朝6時頃)
竜が飛んだと、“龍飛崎” 全天覆った“奥羽”の羽 “大槌・釜石”に降臨した。
“松前”のそちらに飛んだと“白神岬”、白光見たと“白神岳” 、真昼のようだと
“真昼岳”、私も見たよと“面白山”あな恐ろしや恐ろしや木々も白んだ“白髪山”
「しろひげやま」と読みます。立ち枯れて幹だけが白く残ったんでしょうかぁ?
巨大な津波が生誕した。
“水界峠・250m”のすぐそばに、津波で沈んだ“志津の川”、金の扇か
“金華山”舞い踊ったか“竜舞崎”、巨大津波を“歌津”とは酔狂人がいたもんだ。
“岩の手”を敲いて育った大津波、暴れん坊の大津波“牡鹿半島”を蹴散らかし、
花嫁さがして大津波、“志津川”越えて“津山”を越えて、後押しされて“追波川”
鹿の背越えて“渡の波”へ、巨石渦巻く“石巻”、“仙台”越えて“津の田んぼ”、
“次郎太郎山”が通せんボッ。 二俣かけたか大津波、津波は川を北上する。
“北上川”を北上する。 “志波姫”様を横目にし、“江刺”恋しや“花巻”恋し、
妬きもち焼いて“焼石岳”、黒く焼いたる“黒森山”、 それを眺めて“国見山”、
どうなるものかと“物見山871m”、“遠野”で眺める“物見山917m”、
袖を振られた大津波、 “盛岡”の先 “姫神山”へ、 土を盛っての贈り物、
シワぶきひとつ“紫波”の波、行かせてなるかと“区界峠”、節操ないと“八幡平”、
想いかなわじ“七時雨山”、ここから先は下り坂、力落として“一戸”へ、
“二戸・三戸”四歩と歩めず。 気を取り直して“五戸・六戸”、 “七戸”の先、
あの“恐山”、 力尽きたる大津波、 ふる里、目指して“八戸・九戸”
津のない十(とお・ツなし)で、お終いじゃあ!
青字は地名伝言です。“紫波(しわ)の波”を赤字にしておきました???
<津波は、川を北上する、北上川を北上する!> (11/12)
石巻から上陸した膨大な水量・推定高さ400m??(←変わる可能性あり)以上は、一関をものともせず江刺・花巻を駆け抜け、その削った表土を盛岡へと盛り上げた。尚も、それだけに止まらず、岩手県と青森県境にある七時雨山・十三本木峠(457m)に駆け上がった。十三本木峠とは十三本の大木が残ったのかも知れない。今に十三の数字、階段を何故不吉数とするのであろうか? ちょっと脇へそれました^^!) この分水嶺を峠として青森県側へ馬淵川を駆け下る。その津波は、一戸、二戸、三戸、(四戸は無い)、五戸、六戸、七戸まで届いている。これは私が言っているのではない! ご先祖さまがそのように仰っているのだ。奇しくも先に謎解きした肝沢平野の6段丘を1波~6波としたことに符合する。
<石巻側から北上した津波の水位はいくらか?>
北上高地を太平洋側から乗り越えた津波を標高・高さで400m~800mとした。それでは、石巻から奥羽山脈と北上高地の間を駆け上った津波の高さはいくらであろうか?
<北上川の流れの不思議> (11/13)
ここに中学校の社会科地図がある。この地図を見ていると怪訝なことがある。奥羽山脈と北上高地の間を流れている北上川であるが、その流れは北上高地側へ片より、へばりついているように見える。先のモナドノック・地形の輪廻の考えを持ち出すと、1500m級の奥羽山脈と1000mに満たない北上高地との比率を考えねばなるまいが、もう少し西よりに流れていてもよさそうに思うが?
この地形を思うとき、私は二つの要因を考えている。その一つは、四千年前の巨大津波が造る地形。 もう一つは、6500万年前、猊鼻渓に高さ100mを超える海洋性の石灰類を運び込んだ超巨大津波(別紙)ですが、この方の言及は伏せておきましょう。今でさえ相手にして貰えないのに、これを言うと益々相手にしてもらえないから。(笑い)
<津波の揺れ戻し> (11/14)
津波が比較的広い谷奥に入り込んだ時、その斜面を右へ左へ揺れ戻すことがある。それを今回の3/11大震災で経験した。奥羽山脈と北上高地との谷あいに入り込んだ四千年前の巨大津波はどのような行動をとったのであろうか。それを教えてもらうために、ご先祖さまからの<地名>という伝言を聞きにまいりましょうか。
<奥羽山脈側の山裾に津波の高さを聞く!> (11/15)
中学校社会科地図より、以下は、資料に元づかない拙速思いつきであり、間違っていたり、大事な地名が抜けていたらゴメンなさい。
まずは<鳴瀬川>上流より、この「鳴る」がつく地名は「天が鳴り、地が鳴り、津波が鳴った」その大事変かと思います。後の“雨乞い鳴滝信仰”へ進むと謎解きしています。
<富谷>(海抜○○メートル)←海抜○mは後で調べて入れます^^!。
この記事の当初からお付き合いして下さっている方は、すでにお判りかと思いますが「富」とか「福」がつく地名は大事変で打ち上げられた海の幸をいうものかと謎解きしています。三重県の津市には<嬉野♪>がありました。
ちょっと南下して<蔵王>別名→(屏風岳)が気になりました。
この屏風岳は、荒神さまが発したその爆風や「不吉な閃光を止めた」として付名したのではないだろうか。それは悪しきをそこで絶ち止める「屏風岩信仰」となり、さらに後々では「新しき御来光を迎える」として、前述の(
江合川上流の<岩出山・いわでやま>(海抜○○メートル)
津波が谷間を駆け上り、その山肌をたたき削り巨岩を表すことがあります。先の記事(別紙^^?)では滋賀県の石山寺がありました。元々あったものなら「出る」の字は使いませんからね。筆者の推理が正しければ、此処には石山信仰としての巨岩と“イワレ”があります?。
<一迫・いちはざま> (海抜○○メートル)
巨大津波の第一波跡(最大波)かと思われる。 「ハザマ」をPC変換するとそれらしい語句が並びます^^。
<その時の津波の高さ、浸水地を推し量る> (11/16)
前記の高さを国土地理院の地図で調べます。→ 暫定的津波高さ
富谷・とみや> 只今、標高を調べ中^^!ですが・・汗~~~!
岩出山・いわでやま> 只今、調べ中^^!ですが・・・
一迫・いちはざま> 只今、調べ中^^!ですが時間がかかりそうなので、一旦休止^^!、
他に、 (11/17)
<志波姫・しわひめ> 姫は火女・ヒメの変化か
<築館・つきだて> 築地 着き土手の訛ったものか
<高清水・たかしみず> 津波に火事は異質ですが、その時の煤煙、「煤・スス水」か
<古川> 大津波以前の川 か? そして大郷・おおさとは縄文石器代の主たる居住地か?
さらに、<仙台>の台はこの時のものかの確定は出来ないが津波が運んだ土砂台なのでしょうか。等々の津波に関係すると思われる地名がありますがはっきりとは推みきれません。
<次に、この辺りの航空図を掲げます> ヤフーサービスより、(11/18)
BC2001年12月25日の大津波進入・上陸の痕跡!! 著作権等の侵害があれば削除します(^^!)
< これから先は、>
↑ 上の写真が“大津波の侵入痕”、 に見えた人だけつぎへ進んでください^^?
正(流)、逆(流)、逆の発想
どっち(現科学)が正常で、どっちが思い込みか分かったもんじゃあない。 ←ちょっと過激的^^? 想像・妄想> 奇人・変人扱いされるのはもうイヤだぁ~~~♪(笑い)♪
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MОMさんブログ>の手法をパクらさせて頂きました^^!。
もっとも、当史実探偵の論説の97.5%は“他人様”のパクリです。今使用しているこの語句が、この一文字までもが、この私くしが考えだしたものではない! ( 別紙報告書より、)
次回のUPをお楽しみに^^!
<大津波の引き波の痕跡を見つけた> (11/19)
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この写真は、一迫、岩出、築館>辺りの航空写真ですが、同方向に幾筋もの川筋がならんでいます。この地形が形造られたのは津波によって打ち上げられた軟弱な堆積土が、その引き戻しによって多数の川筋を刻んだものだと断言・断定できます。 ええ、私は、これを実験証明できますよ♪ ・・・と思いましたがそれは実験するまでもなく、こどもの頃にあそんだ泥田や、砂場、川辺、河口、海辺での“引潮地形”を思い出せば難なきこと(^-^)♪ そんな簡単なこと(実験)では納得できないとするのが現科学^^!??
(12/13)追記
この航空写真を地図変換すると<座散乱木遺跡><塚原遺跡>の名が気になります。
その時の津波が打ち上げ“寄せ集めた木々”なのでしょうか? 検索しても出て来ません。
<岩出山のその露出岩はどこにあるのでしょうか?> (11/21)
きっとそこには“お宮か、お寺”があるはずだが、それが見つからない。・・・・、
その露岩の標高が知りたい。
それが分からないのでとりあえずこの近くに名生法山△277mがあるので、その津波の高さを(仮に250m)としておきましょう。 この高さから大量の水が一気に北上川へと駆け下る。さらに2波3波、・・数波が“揺れ戻し”北上川の流れを東の山際へと押しやる。北上川流域には旧河川跡とされるところが多数ある。その多くは、この時の津波がその流れを変えたのではないだろうか。さらに、この時、出来た波状段丘を 「海岸段丘だとか、ここは昔は海だった」 とかというお人(現科学)がいたら、もう(私)素人は、(貴方を)相手にしない。 ゴメン々、又々恨み節がぁ・・^^!
(20数年前、今もかな?(笑い)、とある大学の先生に「専門家は相手にしないでしょう」と言われたから^^! PC広報活動にも閉塞感があり、その筋へ文書活動を始めたのですが未だにお返事は返って来ません。無視されるのが一番つらい。実績皆無の素人が、いかに世紀を変える(気付き)謎解きをしようとも世間は相手にしてくれない。『どうしたら、この史実が貴方に、現科学者に伝わるのか』その謎が二十余年、未だに解けない。中学生のみなさん実績はしっかり積んでおきましょうね。世間はそんなに甘くない!! こんどは泣き言がぁ!^^!)
< 巨大津波の “合流痕跡” を見つけた!> (11/22)
.種山モナドノックを越えた水流(水量高さ400m>)
.石巻湾から上陸し、北上した巨大津波(水量高さ○○○m)
.岩出山からの揺れ戻し水流(仮、水量高さ250m)
.北上川からの戻り水(水量高さ○○m) ・・・等の、合流痕を見つけた!!!
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[ 東北巨大津波が造った、合流痕と渦巻き痕 ]
[曲袋(まげぶくろ)の蛇行地形] ←↓ 前述の<登米>白書より引用、←旧建設省か?
www.city.tome.miyagi.jp/oshirase/kankyo/documents/04_2_3chikeichisitu.pdf
延長249km北上川の流路の中で、最大の峡谷が岩手・宮城県境の弧禅寺峡谷であるとすれば、曲袋は最も大きく蛇行した場所である。中田町大船渡の錦桜橋付近から南流する流れは、同町新小路付近から東和町石倉に向けて大きく蛇行し、北上する流れとなる。石倉付近から再度蛇行し同町米谷地区に至る。川幅約200mの北上川が、東西25km、南北25kmの平野をS字状に屈曲する。その屈曲の最小半径は1kmに満たず、曲袋付近の土地の幅250m程度でしかなく、河川が一旦側方浸食を強めれば瞬く間に米谷大橋付近でショートカットされそうである。・・・以下この地形の成因について言及されています。
その添付写真→ 写真Ⅱ-3-4. 曲袋(中田町浅水付近)の状態 - 31 -頁
この報告書は、以下の謎解きの大きなヒントになりました。
<この北上川S字カーブはどのようにして出来たのであろうか?> (11/23)
普通に考えれば、平地に於いて、このようなヘヤーピン状のカーブなど、大河北上川の流れからすれば、白書でいわれるように 『 瞬く間にショートカット 』 されるし、通常の年月で造られた流れとするには無理がある。 だが前記の、、、、の流れを想定すれば、しごく簡単。<.種山モナドノックからの流れ>が南進する。それに負けじと<.石巻湾からの流れ>が北進する。さらに<.岩出山からの流れ>が、<>と<>の合流を東の山側へと押し付ける。・・・て゜、S字カーブは形造られた。 この論を決定づける駄目押し地形がある。
<S字流の西南側方に出来た渦巻き地形> (11/25)
このSカーブの側方に○○から○○を中心に直径2kmほどの左巻き・6の字形の渦巻きが見える。(蛇足ながら北半球では左巻きに渦巻く^^) さらに、これに続いて直径ほぼ2kmと、直径ほぼ1、5kmの渦巻きも見える。この渦巻きに見えるのは田園地帯のなかに立ち並んだ人家ではあるが、通常の平地では、このようなグルグル巻きやト音記号状に住家集落の形成はなしてはいかない。(東北には今風の円形団地はあるようですが^^)
何故か? 答えは簡単♪ そこが津波の運んだ土砂で渦巻き状に高かったからである。水稲を作る場合、水を引くのは低い場所へ、住家は北上川の氾濫を避けて少しでも高い土地へ建てたいものだ。後世で農地を区画整理したが住家地帯までは整理が出来なかった^^。
『 祖先からの伝言をお伝えします 』 (11/26)
ここはその津波の後、<浅水>で、<黒沼>で、<中田町>であったと、祖先は地名で(記録して)仰っています。
「浅水」とは、後々に津波の水が引き、その渦巻きが造った “お皿状の自然堤防”(約70cm~20cm高さか?) のうちに溜まった残水のことであり、
「黒沼」とは、津波先端の行き止まりに運ばれた微細土(赤沼もあり)であったり、渦巻き地形が残す清水域や微細土のことです。(このことは更なる大きな謎解き→別紙報告書へとつづきます。)そのほか、北上川流域に見える他の多くの沼地もその時できたものかも知れない。
私は、それより何より、ここに必ず遺されているであろう、祖先からの伝言の続き(イワレ)を聞きたい。 『その<曲袋>に入っているモノ、いた物は何ですか?』 と・・・^^!)。 素人探偵の解析はここまでで、あとは警察(専門家)に、その裏づけをとって頂くことにしましょうかぁ?? わたしは、この地を訪れたことがありません。
この地形が確かめられれば、この街並みは、大きな“世界的観光遺産”となり得る♪。 ただし、 貴方さまが世界中の学者が、首を縦にふってからの話ですよ^^♪。 ・・・ ・・・
メッセンジャー (平 素人)
( お ま け ) (11/27)
えっ? 何か忘れていませんかって・・・、
そうそう、すっかり忘れていました^^!。・・<紫波・しわ>の地名を赤字にしておいたこと。
この<大事変の日時>を
日本時間BC2001年12月25日の朝 “6時頃” としていました。
東北の地名を聞くなかに、この紫波町の名がありました。 だがこの<紫波しわの紫色の意味>が推み解けなかった。なぜなら、他の地の地名伝言では<白波・しわ、白羽・しわ>等があり、津波の波頭・なみがしらは 「白いもの」と決めてかかっていた。この度(3/11)の大震災での津波の波頭には「黒い」ものがあった。さらに東北の陸中に<黄海>の地名もあることも分かった。陸前高田市の職員の方だったかな 津波で水没した三階の屋上で鉄柵につかまりながら、目の前を大量の魚が通りすぎていくのを見た」といわれていた。 そうだ♪ 未明の巨大津波を “間近に、或いは水没して”みれば<暗い紫色>に見えるのだ。
その時を<明石時間>で朝の6時頃としたが、天文学者なら、地球の歳差運動や回転微差等で割り出し、さらに正確にその時間を絞り込める。 さらに々、その朝は列島のほとんどの地域が快晴だったに違いない。なぜなら、北海道の白神岳から○○の面白山や屏風岳まで曇り空ならその閃光は届きはしない。さらに、想像を加えれば、長い日照り続きで一滴の水も欲しい干天が続いていたに違いない。 だから、この「彗星衝突」で生じた滝のような大雨が、竜となり水神となり、その思いが雨乞いや “卑弥呼の歴史”へ続いていったのではなかろうか。このように、たった一つの地名(一事)からでも、その大事変(万事)は見得てくる。 この大事変を言う地名は、あなたの地にも残っている。こどもの頃、何故にその地名ついたのかを不思議に思ったことが誰しもあるはずだ。
「一事は万事を語り、万事は一事によって成る」
地名は大事変を語り、 大事変は一地名によって成る。
そのこども心を思い出し、深く追求しないかぎり、祖先からの伝言は、貴方には現科学には伝わらない。素人探偵の役目は、そのきっかけをつくることであり、これを捕らえて学問となすのは警察(学者)や検察(大学や研究機関)の役目だ。私はその手錠(専門的知識)を持ち合わせていない。この事変の解明にジャンルは無い!。わたしは何んでもブッチャケて語り合える(多くの)Dr.ワトソン>を捜している。・・・、・・・、・・・^^!。大陸移動説を唱えたウェゲナーは、それが今に認められるまでに百年?を要している。 私の場合はこの広報を始めて二十余年しか経っていない。・・・が、ちょっと物忘れが多くなり、ボケも入ってきたから出来れば存命中にお願いしたいのですがぁ・・・(笑い)
史実探偵 平 素人 ( '11/11/27 ) □
これで、この記事を完了しました。次の準備にかかります。次はもっとBigなことが・・^^♪
訃報: 追悼:
http://www.tankonews.jp/modules/bulletin1/index.php?page=article&storyid=429 ('21/5/30:565ヒット)
敬愛する岩淵先生のほうが先に('21/5/17)逝かれました・・
「彗星衝突による 縄文超々巨大津波」-文芸社 奥州市:岩淵國人
四千年程前、 イースター島上空から(現地時間の13時頃)侵入し地球を半周し赤飛した巨大塊が東北地方に(BC2001/12/25/am6:00頃)降臨した。これで発生した北上山地を越えた6波の大泥流津波は、6段丘の胆沢平野をつくり、仙台湾から北上川を北上した津波と合流しS字形の“曲げ袋”をつくり、さらに大泥流は仙台や一ノ関・盛岡を造るほどのものでした。衝突で巻き上げた粉塵は、北半球で一・二年のうちに隕石の冬(筆者推定年気温12~15℃?の降下、先生は3~4℃だったかな^^?) を伴い生態系をも変えました。この大事変は人心にも入り込み列島の津の地名のみならず 『神となり、竜となり』 世界史にも、その痕跡を刻んでいる!!
前学にない大論を唱えるひとは、世界に"五万と"いますが「この大事変を認め合える」のは世界で岩淵先生と私のたった二人 <双友:only 2> でした。むつかしい論はなくてもいい。気付けば良いだけだ! もとよりの極大論、存命中に成るとは思っていない。記録は保っている。
「まっててね。二人で俯瞰(ふかん)しましょうね・・・」
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-date-200810.html
つづきます^^♪
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