卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」
此処に出雲と同様、“大量の銅剣”が埋めてある! 全国歴史ファンの方々、三上山に集合せよ。
<倉敷市船穂に銅鏡の入魂遺構ありと予見する!>
 このブログ記事をご覧の歴男歴女の皆様へ、
本年('15)の冬至の朝<船穂町神戸>に 「 集いませんか^^?」
   地を這()う、その旭光を身に浴びれば、何かが変わるかも・・・^^♪
  但し、その日の朝、都合よく旭光を拝めればの話ですよ^^! 
  
ん?、冬至十夜のてもあるぞ(笑い)


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岡山県<倉敷市船穂に銅鏡の入魂遺構ありと予見する!>misstionⅡ

「光陰矢のごとし」と、言うが月日のたつのは早いもので、
銅鏡の入魂施設とした環状木柱列遺跡は、「新たに入手した銅鏡に冬至の旭光を照射し入魂する(包パオ)施設であり、納戸とか納屋(納谷も出てきました)と呼ばれていたのではないか」としたブログ記事を書いて6年が過ぎました。その間、I.>先生を除いて、未だに何方さまからも相手にされていない。(笑い)
   (注:冬至の旭光 =四千年前東北に光臨した巨大隕石が放った閃光 →myブログ&別紙報告書に)
< 御先祖さまの思い>
ほんとは、冬至の前夜からはじめて、次の朝一番に昇る陽射しを取り入れたいところだが、お天道様は、かならずしもその日の東の空を天気にはしてくれない。「折角だが、来年にしましょうや」 ともいかない・んで^-^! 冬至当夜は“冬至十夜”として、12月21日~12月30日のあいだで晴れの旭光が迎えられれば、「それで、ヨシ^^」と考えるのがワイルドな展開^^!  もちろん(太夫)御坊は、冬至当夜からはじめて、その日の朝がくるまで“不眠不休”でお祈りをする。鳴り物の鐘(カネ)や太鼓をうち衆人もそれに唱和する。今日では、それが除夜の鐘をつきお正月を迎えるようになっている。その歴史は連なっている。今、私達が為している行為にその謎解きのカギは潜んでいる。  (以上がこれまでの展開です。) (^-^!)
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<光陰矢のごとし>
さて、この記事の本題に入ります。
('15/05/24)何方さまから拍手をいただいた。何分、拍手もいただけないような長駄文を連ねている素人であるから、拍手を頂けるとうれしい。各々の記事は、知識として書いているのではなくて、こども心と遊び心に絡めて、その時々の不思議の探求としての調査やヒラメキとして書いているものだから、その全ては覚えていない。 何んで^^?拍手が頂けたのかと、その記事を反省も含めて読み返すようにしている。それで^-^!「光陰矢のごとし」の言葉に行き当たった。

<なぜ「光陰矢のごとし」というのか?>
ウエブで調べると、中国の詩人がつかったのが始まり等・・とある。中、和の論争はさておいて、
この私(素人)が考えるのに、時の速さを光に例えるなら、「光日矢のごとし」と言えばよく、陰の字はいらないと思うが? 光と陰は、明と暗をあらわす反対語であり、瞬く間をいう言葉としては、陰はブレーキとなり、その意に反する。漢詩に「花落つることしる多少」の記憶があるが浅学の当方としては、これ以上の深入りはしたくない。と、このような愚からこの記事を始めます。

前記事に銅鏡の入魂施設(!?、とした)3施設がある。 
  岡山県倉敷市の 船穂町神戸コオド遺跡 ← 仮称であり、その存在確認さえありません。
  富山県小矢部市の 桜町遺跡
  石川県金沢市の チカモリ・遺跡 
このなかの、岡山県倉敷市船穂町の高徳寺で、その昔は新島・高量山(にいじまたかくさん)と、呼ばれていた。というのが気になっていた。“新島”は、近代まで浅口と呼ばれていた地域であり、大川である高梁川の河口付近に位置することから、その昔は浅海か、河口のなかにあっての島であろうと容易に想像できた。だが、「高量山・たかくさん」が読めない。<量>の字が推めない。・・・何故「量」の字をつかうのか? 冬至の旭光を、倉敷市○○の向山から迎え、そこに「供物」を供えるのが主目的なら、なにも「量」の字を当てなくてもよい。前の拙記事で「供物を供える為の台」と、したのは間違いではないのか。台としての使用なら○○台とか○○平と付名すればよい。さらに、朝陽を銅鏡に入れ「封印する」考えもズレていたと思う。封印ではなくて “入魂”なのだ。

その<伸びゆく影>が、と前記事に書いてあった。
自分でも、それと書いていながら気付いていない^^!。・ そうだ!!。(光)陰なのだ。影なのだ。現、高徳寺がある谷の入り口に土を盛り、その<延びゆく影の先端>が谷奥の環状木柱列に届くように設えたのだ。その為には、環状木柱列と<定めた場所>へその影()が届くには、土量を高く積まねばならない。だから量なのだ。・・なぁんだぁ~、高くしたから 「高量山・たかくさん^^♪」 ご祖先さまからの伝言は、そのままに受け取ればよかったのだ。今に仏飯を高く盛るのはこのことからきていると、私は断言できる。そして四国香川県の飯野山(讃岐富士)飯山町の地名は同様な文化を引き継いでいることを意味する。でないと、この山を飯になぞらえる発想が思いつかない。仏様でも山盛りご飯は食べにくいぞよと思うのが子ども心。(笑い)

<その入魂儀式を再現する>
その環状木柱列の普段に、屋根や壁があったかどうかは筆者は知らないが、日の出の旭光は、時間がたつにつれて高くなる。この儀式をする時は、他の光をさえぎるために入り口だけを残し、周りを囲う。この建屋の奥に安置した銅鏡に高量山の影が伸びて入り込む時間は長くない。もたもたしていると(^-^!)、せっかく入った太陽神(光神or、荒神)は、その影とともに逃げてゆく。その影が入り込むやイナヤ素早く戸口を閉める。あるいは「幕を下ろす」。このような儀式がキット行われていたはずだ。備中神楽において四方を囲んだ注連縄を二武神が斬るしぐさや、力士のサガリや幕内力士の土俵入りで化粧まわしの上げ下げのしぐさは、そのことに関係していると推察できる。さらに、横綱、土俵入り(←矢を射る)、太刀(たち←断つ)、その他、筆者の知らない相撲の言葉や“シキタリ→仕切り”の解明は貴方さまにお願いしたい^^!。

  <岡山県倉敷市船穂町神戸に環状木柱列遺構あり(あった)と予見する!> 
          (ふなおちょう ・こうど)                (史実探偵: 平 素人 )
船穂町は、縄文の昔は海辺であった。その後の海退やら埋め立てやらで今では陸中にあり、新田の地名もある。ここに西之谷地区がある。そこに灌漑用の池があり、その上に神戸の地名がある。この谷の西に里木貝塚があり人骨も出たそうだ。四千年ほど前の三陸地方に巨大隕石が落下し、大津波がこの地に押し寄せたことは、myブログ等で報告している。この地の祖先は、その津波の波打ち際に<神戸・こおど>の地名を付けた。時は流れて “卑弥呼が関係し” 銅鐸文化から銅鏡文化へと移っていった。 ( この詳しくは、別紙電子出版 「巨大隕石と大津波」や myブログ で述べています。)

<ご先祖さま、嘘つかない^^!>
 銅鏡の入魂施設、環状木柱列(ウッドサークル)設営場所の条件^^!。
銅鏡は製作・入手したそのままで、御神体として使うわけにはいかない。そこで、冬至の旭光(なぜ冬至の旭光なのかは、前々の記事をご参照ください。)を呼び込んで太陽神を入魂する。その施設は、大事な祈祷・儀式であるから 「どこでもいいや」と、いうわけにもいかない。“その昔四千年前の冬至、東北に降臨した巨大隕石が発した東方からの巨大地震や、大津波が入り込み、その旭光が入り込む谷あい、あるいは、平地ではそのように植樹した。この二つの条件が要る。祖先は、その入り口に山を盛り(高量山たかくさん)あるいは、その条件に位置する山影が「光陰矢のごとし」と届く場所に、その入魂施設を設営している。
<船穂町・西之谷>の谷を少し入った所にある池の上(カミ=神)に、表題の環状木柱列は建てられていた。工事等で荒らされていなければ、今でもその柱根や柱穴は残っているはずだ。
この祖先からの伝言 『神戸・こうど』には、1%の欠損もない!。コウド=光道・こうどなのだ!!
そうでなければ、その史学からも忘れ去られ、どこにでもあるようなこの小さな谷あいに、
ご先祖さまが 『神戸や、高量山・たかくさん』という二つの特異な地名を付ける必然性が思い浮かばない。^^!


<モデル地区船穂町>
こういった施設は、住民、人口が増え社会基盤が大きくなるにしたがって、だんだんと大きくなっていったり、増えていくのが世の常だ。小域の岡山県船穂、中域(?)の富山県桜町、広域の石川県チカモリ遺跡へは、同じ文化が広がっている。桜町には<子矢部>の地名も遺されていた。子は大人になる前段階のことで、矢の字は「光陰矢のごとし」^^。今の矢ブサメ等の神事は、このことに始まっていると推測できる。 このような入魂施設は、銅鏡にはじまり、その他を御神体として使用するモノへの入魂も考えられることから、貴方さまがお住みの近くにも、あったかも知れないし、あるかも知れない。しかしながら、逮捕権を持ち合わせていない素人探偵ができるのはここまでで、その探索や発掘は貴方さまや専門家にバトンタッチしましょう。

( おわりに )
これ等の論があなた様に伝わらないのは、その史実が無かったからではなく、わたしの論法が拙いからだ。‘地名’は、その昔 「そこで何があったかを語りかけている祖先からの言葉であり、
記録である」 そして、祖先が私達に残してくれている遺産である!! 

                                    (↑myブログよもやま話Ⅱより)
もし、あなたが、現史学が、その地名の全てを「歴史としては不確定で変わりやすいもの」と受け取っておられるうちは、決して祖先からの声は貴方には伝わらない」 (ゴメン、ちょっと言葉が過ぎました^^!)

<・・と!? このように結んで> この記事の“幕を下ろす”つもりでしたが???
  その確認のために地図を見る。 ヤフー、グーグルアース、国土地理院、等々・・・
  ところが、国土地理院の<電子地図Web>で私の意に反する??ものが見つかりました。
  その高量山は、私の思っていた円形ではなくて南南西から北北東に長い長円形であった。
   次がその電子版を参考にして緯度経度、等を書き込んだものです。
           (地理院の了解とっていないのでよろしく^^!)下手でゴメンナサイ^^!)。

 <新島 高量山 : 高徳寺 周辺地図>
    にいじま たかくさん (人家を略しています)
    北緯34°35′32″, 東経133°42′40″,  標高7m 
広徳寺高量山の2
 
< 高量山は長円形であった!!>
前回の調査では(電子出版・報告書「巨大隕石と大津波」p57 祖先からの伝言パート2,モデル地区船穂町
それが長円地形であったとは意にも留めていなかった。なぜ、長円形にしたのか?円形なら、ともかく長円形では、その方向性が重要な意味をもってくる。ご先祖はその方向性を重視して、わざわざ長円形に築いている。その方向を見ると旧庄屋宅となり、私が環状木柱列の所在と思っていた溜め池の上・の神戸ではなくなってくる。

<いざ、現地調査へ>
高徳寺と呼ばれる、その古刹は真言宗で御本尊は毘沙門天。石垣で○mほど高く築かれた立派な構えである。グーグルアース ・ストリートビューでは、良くぞと思われるぐらい。周囲の細い道まで入っていける映像が楽しめるので是非おすすめしたい^^。さらに、広徳寺をクリックすると、その由来やら歴史の詳細ものっています。

<高徳寺・高量山>は、
現地に立つとかなりの土量である。素人が論じているのは、今から1700年をさかのぼる卑弥呼以降の話である。もとの地形を利用して、その形に盛ったとも考えられるが、円形の方が土量も労力も少なくてすむ。近年かその昔かは知らないが<防ケ砂ぼうがさこ>の地名も残っている。なのに、なぜ長円形にしたのか? 天井川でもある高梁川の堤防上にたち、高徳寺を正面に拝んだその先は、筆者の思っていた溜め池の上ではなくて、旧庄屋宅を向いている。未だ見ぬ環状木柱列の所在は、溜め池の上か?、 それとも図面で12・3°角ずれての旧庄屋宅となるのか??

<この12・3°角のズレは大きい!>
もし、旧庄屋宅がその入魂施設の跡地ならば、対岸の冬至の朝日が昇る山とした倉敷市の向山(公園)からは外れてしまう。それは出来ない。なぜなら、(縄文の?)祖先は、今は陸中にあるが当時は海中にあったであろうと想像できる近くの山に連島とか片島の島名をつけている。ならば、“向山” にも当然、それと同じように、沖島・向島・遠島、等の付名でよいところだが、島名でなくて山の名をつけている。このことは、祖先は、特に変わっているとは思えない山姿のこの山を見て、“冬至の太陽の昇る位置を観測していた” さらに、その背後にみえる金甲山付近の山に貝殻を運んで‘貝殻山’にしている(別紙報告書)。なぜ、この近くで一番高い金甲山(403m)ではなくて、なんの特異性も見当たらない貝殻山(289m)なのか? ちなみに貝殻山は、高量山からの東西線より大見当で(5°角?)南へ振っている。さらに、貝殻山遺跡は、愛知県や千葉県のほうにも、あるそうだから、これ等も類推してみる必要がありそうだ。その入魂施設の跡地は、溜め池の上(34°35'35″N, 133°42'24″E)か? 旧庄屋宅(34°35'36″N, 133°42'29″E)か? 困ったコマった^^!。

「地球の歳差運動」
これは、前々の報告書やブログ記事でも申し上げましたが地軸がコマのように軸をふって回転していて、今の北は、北極星方向にあるが○○年後には○○座方向にズレてくるというもの。
英国のストーンサークルの当初は、巨石を立てて冬至・夏至?の朝陽が中央の生け贄台に差し込むように設計されたが、その構築には時がかかりすぎて、始まりからいえば700年もかかり 「途中止めにしたのではないか」と聞くから、筆者は、時とともにこの歳差運動により陽光がズレて役に立たなくなったら途中止めにしたと謎解きした。(myブログ:英国のストーンヘンジより)
他方、「石川県のチカモリ遺跡の発掘;総数350本」と、聞くからその立柱10本として、その老朽化による建替えは、伊勢の遷宮20年を勘案すると、苦しくもその歴史は700年になる。さらに、その方向性はズレていたとも聞くから陽光にあわせて修正していった^^。(こっから先は天文家に^^!)

<入魂施設の跡地は、池の上か? 旧庄屋宅か?>
堤防川幅600mの高梁川の堤防上( 注: この標高16、6mは場所によっては日の出光をさえぎる.)にたち高徳寺を正面に拝んだその先は、池と思しきところではなくて、旧庄屋宅だった。 その○○氏宅は、庄屋宅の名にふさわしく長屋門や蔵を備えた立派な構えであり、近代建築が進むなか、その保存にかける思いが伝わってくる。邸宅内をお伺いすることは出来ないので、国土地理院のwebや、グーグルアースで、確認すると建物に囲まれた広い中庭があり、植え込みがなされている。 ここか!!?? もう一方の“池の上”は、川底1mほどを渡ったところにあり、橋は無い。竹が立錐の余地もないほどに生えている。前回訪れたときは、おそろしくて近寄ることも出来なかった。それとも、 ここになるのか!!??  (※ グーグルアースの、ストリートビュー映像で可視できます^^ ) 

<神戸入魂施設と、高量山と、向山との位置関係>
  神戸・池の上←  約0、36km  →高量山・高徳寺←  約6、5km   →倉敷市・向山
  標高、約14m                標高7m          向山公園の標高96m
                     →  約24km~25km先  → 金甲山(403m), 貝殻山(289m)

向山は、北西~南東の細長い山で最高が99m、冬至の日の出の位置が分からないので、
仮に、その位置を向山公園の96mとし(算数苦手な筆者ではあるが、)向山から日の出の光が
差込み高量山の影が、神戸・池の上,に届くようにするには、高量山の高さを標高18、3m
にしなければならない。標高7mの高量山では、高さが11、3m足りない。・・・・・、(> <?)

先の報告書等で、『地球謎学ブック』平川氏の話をしたことがあった。私達は水平線のかなたを見るとき60km~100m先を見ていると思っているが、実は、170cmの人が東京湾にたつと5・6km(この数字は不確かな覚えであり、あとで調べます^^!。)先の水平線しか見えていないと言うものであった。このように、地球は丸いのだとも。さらに、帆船が行くとき船体から見えなくなって、帰るときは帆の先から見えてくる話もあった。 これを考えても、 土を盛るのがキツクなってきた!! ・・・、さて、どうしたものか・・・???

そうだ、高徳寺の御本尊は毘沙門天だ。相撲に関係している。国技館では長いノボリが立つ。
足りない分<塔か、ノボリか、錫杖か、剣・槍を>立ててやれ?と、ご先祖さまが言ったかどうかは、その昔のことなので責任が持てない!^-^! これは無理ヤリの語源かも(笑い)
  さらに、高徳寺の下からではあるが両手を合わせた大きな石刻が見える。新造ではあるが、これもキットなにかのイワレがあってのことに違いない。私はかつて尾道の千光寺を訪れたことがあったが、その山上に二つの石を据えて、そのスリットから冬至の朝の光が差し込むとの説明書があったと記憶している。そして、朝な夕なに、朝日を拝み、夕日を拝む古老の話をしたこともある。わたしが両の手を合わすと隙間ができる。さて、貴方さまは、そのスキマから何が見えますか・・・(^^?) えっ!スキマが出来ない? それは残念(><)!

<結び>
入魂の施設が、溜め池の上か? 旧庄屋宅か?は、解明できなかったが、高量山と、土俵を高く盛る(仏飯をたかく盛る)という、これ等の事実は、全くの無関係ではない。素人探偵の拙い報告書に間違いや、貴方さまからの反論はあると思う。その反論が大事なのだ。その反論に正答がでないは、この私くしが至らないからで、その史実がなかったからではない。この謎解きにジャンルはない。その反論を究明し 『より正しい学問となす』 のは、貴方さまや、それぞれの道に長けた専門家の役目だ^^。それには、船穂町神戸に 「 ある。あった。」 と思われる銅鏡(その他も?)の入魂施設の柱痕跡の発掘から始めなければならない。この私くしが、ツルハシ担いでスコップ片手に(^-^!) という分けにはいかない。地方創生をいう昨今、倉敷市船穂、富山県桜町、石川県チカモリが、コラボしてあたればより強い観光資産になりうる^^。ことが成ってからの寄りまくりなら誰もができる^^!

貴方さまや、貴方さまが関係する機関の“参加、発信”を 強く希望します。   □
                   2015 / 6 / 28     Messenger : 平 素人

   さて、貴方さまは、どちらになさいますか^^?
<出土する前を楽しむ? それとも出土してから騒ぐ^^!>
ⅰ そんなことは、初めて聞くし興味もない。卑弥呼がどうだとか、今のわしには関係ねぇ。
                                                (他趣味な人)
ⅱ 何かの遺物が出ているならともかく、地名だけでは(税の使用)動けない。動かない。
                                             (行政&現史学)
ⅲ 著名な史家なら、ともかく、実績のない素人の言うことなど、とても信じられない。(歴男)
ⅳ 目からうろこ」 発掘に関係して、観光資産^^・事業にしたい。(起業・社長)
ⅴ 現地を訪れ、冬至(十夜)のその旭光を身に受けて、ご利益を授かりたい^^。(歴女)
ⅵ 面白い。先が楽しみ、声援(コメント応援^^♪)します。(観客&報道)
     '15/6/28 で、この記事を完了しました。これを関係機関へ送ってみます。^^!

さて々、何人のお方さまが “本年の冬至の朝” に倉敷市船穂に集って下さるでしょうか^^!
   ・・・以上、<出土する前を楽しむ♪>お方さまは、↓をポチッと押してみて・(笑い)



     銅鏡の入魂遺跡                                     
<出雲のウッドサークルを捜せ!> misstion - Ⅲ      ’15/10/10
(はじめに)
このキッカケは、国土地理院の地図で四千年前の津波の地名探索を (myブログ・カテゴリー出雲地方)している時であった。この地に<神戸川>の地名をみた時、つよい興味を覚えた。なぜなら、当時の筆者は、兵庫県の「神戸・こうべ」 以外には、おおきな関心はなかった。すでに<戸>の付く地名は、四千年前に発した“巨大津波の津波際の記念碑”だと謎解きしていたが、兵庫県但馬地方と、遠く離れた出雲の地に同様な地名があることが意外であったからである。「神戸」の読みには、その土地、々によって、「こうべ、かんべ、こうど」等があるようだが、未だに出雲の<神戸川>の読みを筆者は知らない。それは、それでさておいて(^^!)

<同様な地名に同様な文化あり>
移住した人達がふるさとを想い、そこに同様な地名をつけることがあるが、それはそれで全く関係ないとはいえないのである。「神戸」は、通常の発想から生まれる一般名ではない。ましてや地名に「神」という特別な名を付名するには、その地に相当な祖先の思い入れがあったからだと思えてならない。

<銅鏡の入魂遺構(ウッドサークル)としたその共通点>
今一度、前述ブログの三地域と、出雲の④を掲げてみよう。
  岡山県倉敷市の 船穂町神戸(コオド)遺跡 ← 仮称であり、その存在確認さえありません。
  富山県小矢部市の 桜町遺跡
  石川県金沢市の チカモリ・遺跡 
   環状木柱列の、所在      冬至の日の出、指標    谷間から眺めた日の出の場所
① 神戸・こうど(西之谷)     → 高量山・高徳寺 →    向山公園(岡山県・倉敷市)
    岡山県・倉敷市・船穂町                (東西線からの南角度: 約    )
② 桜町・遺跡      → (~約700m)神社名・未調査 →  高岡・カントリークラブ
   富山県・小矢部市                    (東西線からの南角度: 約    )
③ チカモリ・遺跡  → (~約1, 2km)西金沢公民館 → 涌波・日吉神社(石川県・金沢市)
   石川県・金沢市      隣接する神社名は未調査^^!     太陽が丘・北陸大学
                                   (東西線からの南角度: 約    )
④ 出雲市・神戸川流域を捜せ!? 
   “同様な地名に同様な文化あり” 
   ならば、出雲の神戸川流域にも、その施設はあるはずだ!
    ・・・・、 あったぁー!!
     <間谷・アンヤ>    →     <神谷>    →      <朝山町> 
出雲市○○に<神谷>、そして○km離れた東に<朝山町>、この「朝」がつく山名は、これより西に住む人達がつけた山名であり、それより、北や、東や、南に住んでいる人達がつけた地名ではないと、別紙報告書(巨大隕石と大津波)で述解してきた。なぜなら朝日は東から昇るとの単純な理由から(笑い)。そして、これ等の西に、小さく隠れて知井宮町に<間谷・アンヤ>があった。「間谷」とは、暗夜、闇夜の意を含んだ変形ではないのか? そして、「間」の字が表す字姿は、谷あいに射し込む朝光を表しているともとれる。前記事で述解したモデル地域、倉敷市船穂町 の地名3点セット(神戸・高量山・向山 )との言葉や表現の違いは、かなりあるが、その意味するところは同じである。・・・と、・・喜んだのはつかの間 ・・・、

<間谷・あんやは、谷あいにはない!>
ご存知のように、出雲・山陰地方の河川の多くは、南の中国山地から北の日本海側へ流れ込む地形をとっている。冬至の旭光が射し込む東から西へ向かっている谷あいはほとんどない。それとも、出雲IC.の近くに立つ鉄塔・標高26mに立ち、山波をとおして東の朝山(標高188m)方面をながめれば、その山稜から、その日の出を拝むことが出来るのか?? 木立が一本あっても、その陽射しを遮ることはある。現地に立ってはいないのでその様子が見えない。 ・・・万事休す!!!

“Google earth” のプレビューで、‘間谷’付近から、東方の‘朝山’を見るべく走破・探索して見るが朝山の山稜は全く見えない。<間谷 >→<神谷>→<朝山> このラインは間違いなのか? しかし<神戸川>や、前記事で “神戸=光道”とした<神門町・こおどちょう>の地名は現実として存在している。この<間谷>の地名は、衣食住だけの生活から発生する地名ではない。それと推み解けないのは、この私の考えが至らないからであり、祖先の伝言に偽りはないはずだ。

<朝山神社・朝山八幡宮>
ウエブで調べると、その昔には、「全国の神々は出雲大社の神在祭の前、旧暦10月1日から10月10日まで(新暦では、およそ11月の下旬?)この神社に立ち寄ってから出雲大社へ向かわれると伝えられる」 とあり、このことは、銅鏡に冬至の朝日を迎えて大社の方へ向ったことが、のちに常態化したのではないだろうか。<神門>の字をあてているのは、その通り道なのだ。間谷の丘部を外れて、もう少し北から眺めれば朝山の稜線から昇る日の出が拝めるのではないか・・・?

<真幸ヶ丘(まさかがおか)公園>
この 真幸ヶ丘公園の標高は○mで、JR山陰線を挟んで間谷の北側に位置する。
・・、 まてよ??
「間谷」とは、このJR線の谷あいを云うのではないのか! この丘は、南側を除き周りはほぼ平地であり、行政区は知井宮町ではなくて神門町に入るが、この丘からだと “朝山の稜線”が見えるのではないか? <真幸>は、「真っ向」とも読み替えることが出来る?(^^!)。 プレビューで見る東方の山波は、朝山ではないのか? この公園に六角形○階立ての少し大きめのビルがある。何故、六角形にしているのか?普通に考えれば、四角形ビルが通常であり、何故、 六角形にしてあるのか不思議でならない。 これは、全くの推論であるが、その昔、ここに何かの“伝承”があって、六角堂ならぬ東屋風の構築物があったからではないのか?? この考えが当たっていれば、ここに 「環状木柱列・ウッドサークル」 があったことになる。是非にそのイワレ等を聞きたいと思うが残念なことに、今は、広場や、テニスコートを備えた大きな公園に変容?整地されている。

   旭光 地名ライン( 神西湖~高瀬山,の周辺地図 )

















<高瀬山>
朝山のさらに東方○kmに、この<高瀬山304m>の名が見える。山々に囲まれたなかの高瀬山である。普通「高瀬」とは、水に関係する言葉であり、山々のなかに「高瀬」と地名にする必然性が思い浮かばない^^! 筆者が何故、この 高瀬山に注視するかというと、先のブログ記事<船穂>であった<神戸→高量山→向山→貝殻山>ラインの4点目の配置に酷似しているからだ。
つまり、<間谷→神谷→朝山→高瀬山>が意味することは、貝殻山=高瀬山 と同様であり、この推みが正しければ高瀬山には、その山上に“海産物を運んだ遺跡”がなければならない。

<出雲市・「高瀬川と」、倉敷市船穂「高瀬通し」、の共通名の不思議>
前の記事<船穂・ふなお>の地図に、『高瀬通し』という水路を潜ませていた^^。この 高瀬通しは、その昔、商港だった玉島港と高梁川上流の高梁市をつなぐ物流ラインで昭和の初期まで底の平らな高瀬舟に綱をつけ、それを両岸で引っ張り、上流に物資を運んでいたそうだ。ちなみに、高瀬舟の発祥はこの岡山の地からだと知った。この例を取り上げるまでもなく、総社市の吉備津神社の神殿は、出雲大社のほうを向いているとも聞くし、さらには、船穂町里木神社の祭神を父にもつ娘が出雲のスサノウの尊(みこと)へ嫁いだと、その表示板にあったとも記憶している。これ等のことから出雲文化と吉備文化は、相互に交流がありおおきく関わり合ったことがうかがえる。
 出雲平野の高瀬川は、国土地理院5万分の1の地図で見ると東西がつながって一本の川に見える(^^?)。そして、真幸ヶ丘周囲の標高は、先の船穂地区にあった<新島・高量山>あたりの標高5~6mに一致する。それが同じ時期だとは断定できないが考えの内には入れておきたい。
 次は、全くの想像ですが、当時(弥生期のその昔)、現在の標高5~6mまでは海であり、高瀬川の西は日本海へ流れ込み。東へは渡橋町の“境町、辺りを分水嶺”にし、大津町をへて斐伊川に注ぎ、さらには宍道湖へと流れ込む。これは、波高の荒い日本海を避けて、西の日本海と宍道湖をつなぐ(徐福団の)航路としていたのではないか??
  ・・と言うのは、前々のブログ記事、(カテゴリー出雲地方、吉備地方)で申し上げましたが、船穂の「高瀬通し」の上流に、水面高さの高い高梁川へ物資を載せた船を運ぶ時、スエズ運河と同様な方法で樋門の開け閉めが為されていたとあり、それはパナマ運河より、二百数十年も前のことだとその説明板で見たことがある。このように東西へ分かれる二つの川を航路としてつなぐ時、運河の施工が要る。もし、出雲の高瀬川が東西をつなぐ航路として使用されていたのであれば、出雲の高瀬川にも、そのような水門がなければならない。そして○○○あたりにある溜まり池は、その船待ちのなごりかも知れない(^^?)。

<西神湖・さいじんこ>
西神湖<間谷→神谷→朝山→高瀬山>このラインは、ほぼ東西の一直線上に並んでいる。
この地の祖先は、冬至の荒ぶる神=光神(こうじん)様が、東の高瀬山に出でて、→鐘築→朝山→神谷→間谷・真幸ヶ丘→西神湖の地名を意味づけの為に一直線上に置き、それを信仰の対称としていたと推論出来る。その根底には、四千年前、東北地方に巨大隕石が光臨し、列島を揺るがした巨大地震と巨大津波への畏怖が潜んでいる。その時の大閃光をこの地の人達が直接見たわけではないが、その伝承を補助し“列島流布への媒体”となったのが魏の始皇帝から不老長寿の薬石を見つけるべく、3千人の童男童女を受けて列島に分団し、それ等の集荷網をつくった“徐福達”だとした。 出雲神戸川河口に<唐島>。そして、先の船穂地区には少しはずれるが<唐船>の地名が残っている。このように出雲の“間谷”と、船穂の“神戸”は酷似している。出雲の方の名づけは無理矢理感があるので船穂に習ったかも知れない^^。(詳しくは、前々の記事へどうぞ^^!)

( 結 び )
一連(関連4ヶ所)の謎解きをこれで一旦終えますが、筆者の目的は、皆様がこの報告書をキッカケにして、これに気付いて下さることであり、これ等の歴史をよく識る貴方さまが、この報告書に含まれる誤りを正し、より確かな学問へと成して欲しい。知井宮町の智伊神社の神紋には『弓』の字が使われている。“本年(2015)の冬至十夜の朝” 出雲市神門町 “真幸ヶ丘公園の六方郭”に上り、東方の朝山方向から昇る旭光が、その昔と同じように、その光 「矢を射るが如し」と射し込むのかを? 皆さまに是非確かめて欲しいと願っています^^!。
            Oct.10,’15    史実探偵: 平 素人  □
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