fc2ブログ
此処に 「卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸」 あり!!
卑弥呼は魏から得た100枚の銅鏡に換えて出雲と “同じ決め事”で 持ち寄った銅剣と銅鐸を封印した!
徐福達が日本史に与えた影響のⅦ(まとめ)
<徐福達が日本史に与えた影響Ⅶ>まとめ

No nameさま> <養父>についてのコメントありがとう御座います。('21/10/29記)
  なにしろ、五年ぶりの入信~~!なので気づくのが遅れて申し訳ありません。
そうなのですか。 わたしが調べた全国七ヶ所の<養父・ヤブ>という地名ですが、何時誰がつけたのかのイワレを調べたわけではなく、その名付けの “特異性とその読み” から、この記事のように(私)がかってに 「徐福団が連れたという三千人の童男童女に結び付けた」 だけです。それから二千二百年以上たちました。倉敷市玉島には小字ですが、ほかに <陶スエ、服部ハットリ、金辺、唐船トウセン>のようなそれらしき地名が残っています。<唐船>は出雲市にもあります。倉敷市か総社市かは知りませんがご存知の<秦ハタ>の地名もあります。誰もあいてにして頂けない記事へのコメントありがとうございました(笑い)。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

≪地名の・養父について≫
(まず始めに)
 この記事の作成は、徐福・ジョフク(中国人) の名前すら知らなかった筆者に大きなカルチャーショックを与え、そして、それについても多くのご教示を頂いた<いずものこころshigechan izumo 氏なしでは考え付くことすら出来なかったことに多大な敬意と謝意を表します。その氏とのコメントのやりとりが前述記事のⅠ~Ⅵにありますので楽しんで頂ければ幸いです。又、当ブログのリンクに<いずものこころ>を張ってありますで是非に訪れてみて下さい。すごいお人ですよ^^♪。

<何故に養父ヤブなのか?>
この地名が倉敷市玉島乙島にあるのを知ったとき、少年心に何故か異質なものを感じた。日本語読みでは養父母の「ヨウフ」なのに。それを何故「ヤブ」と読み、何故、地名になっているのかと? ちなみに中国では「ヤフ」と発音する。
 後に、兵庫県の養父市を知り。 さらに、前述の記事「宮島」の地で小さく隠れて、そのヤブの地名があった。この「養父ヤブ」の地名に素人探偵は、一つの疑念を持ち、 ・・・いつか記事にしようと思っていた ・・・、つづく^^!
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 【 前記事、Ⅰ~Ⅴ.Ⅵまでの要約 】
列島の津々浦々から出土している銅鐸は、どのように列島へ流布・拡布したのか(謎Ⅰ)?
 又、「津」の地名は、誰が統一したのか(謎Ⅱ)?←この思いは徐福達なしでは考えられなかった。

  秦の始皇帝(BC246誕生 BC221即位)が、徐福(BC278誕生)に童男童女3000人と
  武人、百工、五穀、等を与え、東方彼方の蓬莱国の三神山(日本列島)から“不老不死、
  不老長寿”の薬石と仙人を連れて帰れと命じた。(又は、徐福が願い出た。)
大船団を組んだ徐福たちは、流れの強い対馬海流によって分断され、海難や漂流にあいながらも日本海沿岸に分散漂着した。このことはお互いに他を捜し合うことになり、後の薬石探査に幸いした。各々は、その漂着地に生活拠点をつくり、そこから内陸部へも果敢に進出していった。
そのなかで、徐福が列島のどの地に着岸したかは判らないが、彼が乗る船は、屈強な船員が乗る旗艦であることからして、最も先の西よりに着岸する。 神話で、「○○から下りた神々が集いて酒を酌み交わした」と、ブログ<いずものこころ>で知った筆者は、それを徐福達が再会を喜びあったとし、その地は、当時の航海力をかんがみ、出雲(出雲市唐船の近くか?)ではないかと思っています。
 各々は情報交換の後、各地に帰り、とりあえず蒐集した薬石・珍宝を中国の正月に間に合うよう始皇帝のもとへ送り届けたい。それには強い対馬海流に流されても大陸や半島に渡りつけるであろう列島の西よりに移動し、そこから出帆するのがいい。その地は九州の唐津(時代が下がると長崎へ移動)ではないだろうか。
 さらに、その探索は瀬戸内沿岸や、徐福伝説の残る、九州・四国・紀伊半島・東海地方。 北は、津軽海峡を太平洋側へと回りこんで三陸側へと進み、列島住人と交易できる宿場(や、市)を形成しながら、年一の神無月に出雲に「八百万の神々が集い」。時を経ながらも海路を主とした交通網を列島に作っていった。当時の出雲の先進性は、今の中央都市の東京のようであり、そこへ本社組織をおき、列島各地の支部組織と連絡をとりあったのではないでしょうか。
  そして、ⅤとⅥでは、列島人と徐福分隊との関わり合いについて考えてみた。
        ここまでが、<徐福について>の記事(Ⅰ~Ⅴ,Ⅵ)の概略です。



 新訪問のお客さまの為に^^!
<↓以下~以上までは、前々の記事からのピックアップです。>
“蓬莱の地 に三神山日本列島 =蓬莱頭の仙人 縄文人” という情報は、朝鮮半島を経由して中国へ入っていたとしか思えず、徐福以前にも朝鮮半島から列島への渡来があったのではなかろうか。

特に、朝鮮半島の東海岸には『津』に関係する地名が多く魚の打ち上げを表す地名がある。
<魚大津・オデジン> 
これは又、直接的でたいへん分かりやすい地名だ。魚が大量に打上げた。しかも大きな魚だ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<方魚津・パンオジン>
ちょっと閃きました^^! (この項 '15/10/19記) BC.2001/12/25. 日本時間で未明の朝6時ごろ、東北地方に巨大隕石が衝突した。(カテゴリー巨大隕石と大津波) それが発した巨大地震や巨大津波の来襲を半島の人達は「東方神起」と唱した。今、私達は自分たちの国のことを「日本・にほん・ニッポン」と云い「ジャパン」とは言わない。「ジャパン」は、外国人が付けた名だ。この<方魚津>の発音は、その「ジャパン」に似ている。<方魚津・パンオジン>とは、その方向から津波によって大量に打ち上げられた魚を言い表す意である。<津ジン、方パン>の国。それが「ジャパン」の始まり ^^! だと、素人探偵は断言できるのですが。 さて、貴方さまは、いかが^^?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
卑弥呼より500年ほど前だったかな。日本では縄文の頃。前記のような歴史的背景から秦の始皇帝(BC221即位)は、「徐福(BC278誕生)」という人に童男童女3000人を与え、東方の彼方へ出向き “不老長寿” の薬石・薬草を持って帰れと命じた。

古代中国の人々は “人を拒むような危険な場所や深山にこそ、その霊薬が秘そんであり!” との考えが強い?と思っています^^) 
これは明らかに私の偏見ですが、中国の人って「その危険を好んで?“薬食”を求める」傾向があるように思います。深山にしか生えないという茸や、絶壁の岩ツバメの巣・くまの肉球・しかり、危険をおかしてまで手に入れた “薬食”ほど高価に売れる。なにもそこまでしなくってもねえ、と私は思うのですが?(^^!)

③ 列島の津々浦々へ散らばった、徐福達・秦(はた)の人は、珍宝薬石を本国へ送るための集荷地として、年1回、十月の<神無月>に出雲へ集まることを申し合わせた。 
④ これに、列島各地の倭人達が徐福分隊と、どのような言葉を交わし、『八百万の神々』となって、海路陸路をふくめて<出雲>へ出向くようなったのか?の謎は解明できませんでしたが、今私達が「神」という神を秦の人達と、とるか銅鐸を求めに出雲に出かけた各地の太夫さん達と、するかは、別として、出雲へ八百万の神々が集まるというのは、史実に基づいた伝承である。(^-^)

童男童女3000人を引き連れて」とはいうけれど、Dr.>の云われるような可能性を考えると、現実的には<童男童女を含む3000人>に修正したほうが良いかも知れませんね。始皇帝は徐福の出立後9年後?(○○歳)で没しています。

列島では、丸太くり抜き舟がやっとの時、中国では、すでに○○人乗りの帆船を有していた。とは言え、3000人のこども達を分乗させた操船力・推力の弱い船団の全てが、ヨーイドンの横一列で出帆するわけでなく、海流の速い対馬海峡を渡って同じ地に着岸できるものではない。それから○○百年?後の遣隋使・遣唐使の時でさえ航運を祈るための特別な男(○○)をしつらえて航行が上手くいけば接待三昧♪、上手くいかなかったら、全ぇん~部、その男が役に立たなかったからだとして^^!その命を断ったという。いかに○○人乗りとはいえ未成熟な帆船。海流に流され分散して列島の日本海沿岸の各地(唐津?、萩?、出雲、石川、富山、あるいは秋田、青森まで?かな^^!)にたどり着いた。

この人達の目的は、その恐ろしき神が棲むという東方から『不老不死』の薬石を皇帝に持って帰ることである。童男童女を伴わせたのは、例え何代かかろうとも 「必ず持って帰れ!」との皇帝の強い意志があり。そこで安穏と定住したとの噂でも立とうものなら、たちまち皇帝の十万二十万の 大軍に討伐されてしまう。始皇帝は万里の長城を築城させるほどの強権の持ち主。その恐ろしさは云うまでもない。(その出帆の9年後? に没した始皇帝ではありましたが「あれほどの物資や人を持たせたのに、何故、徐福は<その妙薬>を持ち帰えらんのだ!」と怒ったそうです^^!。)

<徐福・その後> 
徐福達は、例え何隊に分断しようとも<一段落>がつけば必ず沿岸沿いに西進、或いは東進して仲間達(徐福)を捜し合う。ブログ<いずものこころ>の記事のなかに『大勢の神々が天より下りて酒を酌み交わした』 というくだりがありましたが、素人探偵はこれを徐福達の船団が再開か無事を喜びあった場面だととらえています。そこで「我が着岸地にはこんな“モノ”が有りました」等の連絡・情報の交換が行われ東西に妙薬探しの為に行き来する航路がだんだんに出来あがる。そして徐福が居るべき本拠地も定まってくる。徐福は(?)、一時的に(?)かどうかは分かりませんが、薬石・物資を集める司令地として“出雲”に在住していたのではないでしょうかぁ? (出雲の優位性、先進性は、カテゴリー出雲地方; Dr.>とのやりとりへどうぞ・・)

賢明な徐福のこと。如何にすれば列島の珍宝薬石を集材し、中国に送り届けるための組織をつくりあげることは簡単なことだ。今の会社組織でも本社があり支店がある。創作話として、出雲に本社、支店を丹後、越前、富山、越後、新潟、酒田、牡鹿半島、艫作崎におく。(これ等は、思いつきであげましたが、要は今現在に発展しているところと竜神文化と出雲の神の影響があるところと申し上げておきましょう。何故ならば、この人達が日本海沿岸の発展に寄与したと思っているからです。)次に徐福のなすことは、要職をきめ・部下の配置転換。そして(童男童女の)社員教育。有力情報があれば支部への視察出張もしなければならない。さらには、本社で年一回の<支店長会議>を設ける。忙しい忙しい師走に!(笑)


<しかしDr.izumo氏とのやりとりから >
「童男童女を使わしたのは、例え何代かかろうとも」とか 「童男童女の社員教育」と考えたのは私の間違いであった。それを教えて下さったのが<Dr.の 次のコメントです。

『 私の推理はこうです。
彼らは決して日本列島の人々に文字を教えたり、中国語を教えたりはしなかった。
その理由は、彼らがプロとしてのエージェント教育を受けていたからです。日本列島の人々が漢字をたやすく使えたり、中国語を理解できるようになってそれを話すようになれば、特命を受けて日本列島にやって来た自分たちやその子孫と、区別がつかなくなるのです。
彼らはあくまで秘密結社としての集団性を維持する必要があったのです。いかに多方面に散らばろうとも、漢字を用いて中国語を話す人と出会えば、それはまさしく秘密結社の一員との遭遇であり、同胞との遭遇であると確信できるように、彼らの文字と言葉は彼らだけの間のものとして保持していたのです。』


<童男童女は被験用か?> 
何故、童男童女3000人なのであろうか。わたしは、それを「たとえ、何代かかろうとも必ず持って帰れ!」との始皇帝の強い意志からだとした。だが、それだけであろうか? ドクターとのやりとりで強い疑念がわいてきた。不老不死の薬石は、“それと確かめてこそ、その価値が認められる”人類の歴史で<新薬の開発>には多大の時間と、費用と、多くの実験と経験を重ねてきた。それ(残虐性)と、口にするかしないか、向き合うか向き合わないかは別として、最終的には「人体実験」をしてのみその効能が認められる。 
始皇帝の功績とその暴君ぶりは、Dr.>のほうがよく識るところであり、わたしは始皇帝が何を考え、どんな死生観をもち、兵馬俑や不老不死の霊薬を求めさせるに至ったのかをまったく知りません。それを逆に、お伺いしたいくらいです。始皇帝は、それを諫めた長男を追いやり、460人の学者を穴埋めにし(その中で、「自分たちで、その薬を発明し生き長らえよ」とでも言ったのでしょうか?)、その声は「狼(ろう)の如し」といいますから誰も抗らえません。少なくとも徐福は、自身の考えはどうであれ始皇帝が没する(9年後?まで)皇帝の意(?)に沿うような薬石探しをせざるをえなかったと思います。ご存じのように秦朝は12年後(汗~^^?これも後で調べます)で、滅びています。もとより始皇帝の“不老不死”の考えは無理な話しで多勢が受け入れない部分。その死後は急速にさびれ・・・、「後は野となれ山となれ」・・・、(笑)

<徐福;今までの概略>  
 さて、童男童女を含む3000人の徐福団一行は、対馬海流に流され、海の藻くずと消えながらも、千々に分団されたことが幸いして列島の日本海側に各拠点もできた。各々はお互いを捜しあい連絡をとりあい、とりあえず<出雲>にその本拠地をおいた。出雲を本拠地としたのは筆者の独断であり、むしろ史家は、その足跡の少ないことから徐福は出雲にはいなかったとするのがおおかたの見方のようです。(そうでしたね。Dr.^^?) わたしが izumo氏 のことを<Dr.と呼ぶのは、Dr.ワトソンと、シャーロックホームズをもじって、Dr.Izumo>と、Sher-rock.Homeless(降岩家無人)略して、Mr.ホームレスと名乗るようになりました。(アハハと、・・・泣き笑い^^!)

徐福団3000人のすべてが無事に列島に着岸できたとは思えない。
今から2200年余り前の航海力。最悪の場合を想定して、半分の1500人がそれぞれの地にたどり着いたとしよう(合掌)。1500人にしても大した数である。例え、一船団の30人?(or ○○人?)が着岸しても当地の人達はビックリ仰天する^^。
徐福団は自給自足の生活は覚悟の上ではあるが、難儀のあとの航海疲れもあり。そこに住民がいれば水や食料をくれないかと乞う。勿論抵抗すれば争いとなるが、住民側にすれば、びっくりが先で「何も拒む理由はない」そこで融和らしき関係が出来上がる。徐福団の場合、薬石の探索が主目的であり、中世にみられる植民地化を目的とはしていない。植民地化が行われたのはその地に自分達の欲しいモノがあると分かってから後のことである。そして住地・住家の獲得提供へと進めば、お礼として病人の治癒へと発展する。 列島の人達から見れば「神様がお出でなすった」(^-^!)

始皇帝は、徐福達に「不老不死の薬石と、その仙人を連れて帰れ!」と命じた。 その時、中国へ入っていた日本列島の情報は、「はるか彼方、東方の三神山に、水墨画にみるような蓬莱頭(ばさばさあたま)で不老長寿の仙人が棲む神秘の国」というイメージでしかなかった。いわば未知への探検である。中世ヨーロッパの歴史で、東方に「黄金の国ジパングあり」として船団をくり出したことはある。共に未知への出立ではあるが、それとこれとは大きな違いがある。かたや黄金という富を求めてであり、一方の徐福達は、富と権力は、すでに手に入れた始皇帝が欲するその薬石である。又、その構成人員にも違いがある。欧州の方は当然船をあやつる屈強な者たちであろうが、徐福達は“童男童女3000人”という断り書きがついている。中世でさえ海難はつきものの時代。それより○○○年も前の話だ。 何故に、童男童女3000人なのであろうか? それが解せない・・!

徐福達は、日本列島にどのような人がどの程度住んでいるのかは、分からずに出航した。一概に「不老不死の薬」と言っても、その対象が五十・六十歳の人か。三十・四十歳の人か、あるいは十九・二十歳の人かによって薬の処方は異なる。徐福が列島で自称120歳の人と、その人が服用していた“養老の水”だ。といって連れ帰ったところで誰も信用しない。さて、困った・・。
④ これに、列島各地の倭人達が徐福隊と、どのような言葉を交わし、『八百万の神々』となって海路陸路をふくめて<出雲>へ出向くようなったのか?の謎は解明できませんでしたが、「神」を現地集合の秦の人達と、とるか銅鐸を求めに出かけた各地の太夫さん達と、するかは別として、出雲へ八百万の神々が集まるというのは、史実に基づいた伝承である。(^-^)
(この項 '15/10/19記)→ 当初の「神」は、中国の人達であったが時代が移るにつれて列島神話人も加わった?
⑤ なにはともあれ、出雲は、永々として築きあげた列島本来が持つ<竜神・雨乞い文化>と、大陸文化が絡まり合って、『八百万の神々が集いて神議』をおこなう郡郷・中央都市へと発展していった。

<徐福、没する>
徐福が没したのはBC208年とされる。されると言うのは何処で何時死んだか不確かなようだ。そのことは専門家に委ねるとして、BC208年であれば始皇帝没から2年後で渡航後11年後となる。中国の史家、司馬遷(しばせん)によれば、「平原広沢の王となり戻らなかった」とあるようだが、帰らなかったのではなくて帰れなかったのである。始皇帝から大資を受けて「そのような霊薬はありませんでした」等といって帰ろうものならひどい処遇にあうのは目に見えている。事実、始皇帝の暴君ブリを知っている人達からすれば、「徐福はうまいことやったな」 というかも知れない。徐福にそのような下心があったかどうかは知らないが、徐福は列島に大陸にない美しさと神秘性にひかれ、住民のいう荒神伝承(前述の大事変による巨大地震と大津波)を聞けば、日本列島の何処かに“三神山”はあると信じて探しつづけていたに違いない。なかで静岡県にも徐福伝説があるというが、富士の山を見れば、きっとその形状に心を奪われたであろう。不二の山とは、列島のすべてを知る者ぞのみ付けられる山名であり、この山名は、列島の住民が付けた山名ではない。ちなみに「不」を先につけるのは中国語の特徴でしたよね^^。不知・、不客知・(笑い)

<徐福の没後>
徐福が亡くなったからといって、その配下やナンバー2はいたはずだ。不老不死の薬石探しを止めるわけにはいかない。彼等とて始皇帝の命を受けて渡航しているからだ。しかしながら、そうはいっても徐福が亡くなり、その命を出した始皇帝や秦代(BC221~BC206)さえも滅びてしまえば、その呪縛は?除々に解き放たれてゆく。だが仲間同士が神無月に出雲に寄り合うことは続いていった。9年のあいだに培われた海路はその後に発展したであろう陸路(古代陸路)とともに、中国本土や列島各地との商工路として機能するようになった。
富山の薬売り、近江商人、出雲の特殊鋼、○○の遠洋漁業のもとづえは、徐福達がなしたのだと私は思っている。そして端(はた)=秦(はた)=湊(みなと)の人達として歴史は流れてゆく。富山には今でも立派な内倉を持ったお家が残っている。そして、奈良の大仏殿の造営では秦の人達が財を寄進したというから、その人達はその後にも中国本土や列島各地との交易や工商によって蓄財をなしていったのかも知れない。

上記の“白砂青松”は、徐福達の初期の日本海沿岸行動と重なる。徐福達の目的は不老不死の薬石を探すことにある。それは<東方神起>の神の居場所を探す旅でもある。なぜなら、神=不老不死の考えに基づいているからだ。徐福達は、きっとその美しさと白砂の鳴き音に心を奪われたはずだ。一方、列島の住民達は、その白浜は四千年前の荒神竜が運んできたとの信仰(これは筆者の思いつきです)がある。 ここで双方何んらかのコミニュケーションがあったと思われるが、それが推(よ)めない。この徐福についての記事のなかでもくろんできた(謎Ⅱ)の「津の地名は何時誰が統一したのか?」に、全く関連づけられない!! 

< 註 & 訂正 > 始皇帝について少し調べました。
始皇帝は不老不死を求めて、徐福より以前に二人の方士(薬石や施術によって医療行為をする人?)にその仙薬をつくらせようとしたが、もとよりそのような薬はつくれるばずがなく皇帝の怒りを怖れて二人は逃亡してしまった。これを怒った皇帝は見せしめのために460人の学者を穴埋め→トラウマにしてしまった。さらに、これを諫めた長男を格下げにし北方の警備隊に追いやってしまった。その後、徐福に3000人の童男童女(若者)と 百工(色々な職業のひと)と 五穀を与え、蓬莱(国)より不老不死の薬と、その仙人を連れて参れと命じたようです。

<今回、わたしは、これに、二つの持論を重ねて>
 一つは、その遮光器は、BC.2001年の未明、釜石あたりに落ちた巨大隕石の強烈な光を目の当たりにして、眼底を焼かれた人々がいて、それが歴史の伝承として遮光眼鏡となったのではないかということ。これを導き出したのは、青森県・白神岳、秋田県境・真昼岳、山形県境・面白山、等の地名からです。これ等は巨大隕石と大津波によって、その表土を剥ぎ取られた<岩の手地方>を囲むような位置にあります。(詳しくは、カテゴリー巨大隕石へどうぞ^^♪)
    又々、岩手県で、その時の巨大津波の痕跡見つけました。どうぞお楽しみに!
二つには、徐福(   年出航)の船団がこの地に来訪したと考えるほうが確率的に大きいこと。その土偶が身に付けている装身具は、あまりにリアリティであることから、徐福団の武人が着用していた武具を着せたのではないか。ということ。片方や、等身大8000体の武士俑がつくれる国。それも一人一人の面相が異なっているそうですよ! 此方ぁ(こなた)蓬莱頭(ほうらいあたま・ぼさぼさ頭)の仙人が棲むところ。 これくらいの物質文明(?)の差があれば当時の人達でも、『 宇宙人が来た!=別世界の神々さまが来た!』 と思っても無理もありませんね(笑)。

<徐福の立ち寄り場所>
いずものこころ -Yahoo!ブログ- 古代出雲『徐福伝説』の謎 2005/12/21 より、
  ↓以下を借用します。
徐福の出身は斉(現在の山東省)で、身分は道教の方士。神仙思想(東方の海上にある三神山に、不老長生のための薬を持つ仙人がいるという説)に基づく不老不死を実現するための呪術や祈祷・薬剤の調合に長け、医薬・天文・占術などに通じた学者でした。しかし、徐福は中国には戻りませんでした。
徐福の渡来地として日本のいろいろな土地が挙げられ、伝承が残っているとされています。主なところを挙げると、青森県小泊村、山梨県富士吉田市、東京都八丈町、三重県熊野市、宮崎県延岡市、佐賀県佐賀市、佐賀県諸富町、佐賀県武雄市、広島県宮島町、京都府伊根町、鹿児島県串木野市など、北は青森から南は鹿児島にまで及んでいます。日本には30もの徐福伝説があるとされています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
             ↑以上は、前々の記事からのピックアップです^^!


 徐福達が日本史に与えた影響、(前々の記事の)その概略^^!   (Nov.09,2015)
次は筆者の独自案であり、思いつき感がつよいので、その道に詳しいお人の論評と訂正を求めます^^!。         

〔 徐福達が関係した、そのひとつ々、〕                                                                                        
<中国(の正月)に仕送りするべく、年一に出雲に集合する交通網をつくりあげた。>
日本海沿岸と瀬戸内を幹線にして大陸への出帆地を北九州の唐津港とした。
後には、出雲を“中央都市”として、列島人(荷役人)を交えた陸路に発展していった。
徐福たちが提供するものの最たるものは、列島人が欲しがる銅鐸だったと思われる。
<中国五穀の種の持ち込みと、水稲の稲作に貢献した。>
彼等は永住こそ出来ないものの「たとえ何代かかっても」の言葉が生きている限り、定住しての食物生産は必要であり中国五穀や、野菜果物の種子も持って行きたい。今に列島で中国原産種といわれるものの中には、徐福たちが持ってきた物があるかも知れない。  
<列島の薬石探査と中国の医呪術を施術、加持、試行した。>
方や、8千体の兵馬俑、十万二十万の軍隊を繰り出せる国。 こな方、蓬莱頭(バサバサ頭)の縄文人で小さな埴輪の土器出土の群郡。その圧倒的文明差をもつ徐福たちが求めるものは“不老長寿の薬石”。徐福たちにすれば、新しく見つける薬石の聞き取りやら、その処方を試してみたいが当然なこと。その被験体に列島人がなった。共に長生きが主目的。列島人にすれば病気を治して下さるありがたい神様仏様^^。前述の記事で各地に残る道祖神二体は、その夫婦かとした。
<住家の建材調達や建築、船作りを手伝わせた。>
徐福たちがどのような建材を求めどのような住家を建てたのか。筆者はまったく知らない。その時の縄文弥生の人達の住家は竪穴式住居だ。徐福たちの住居とするところは、船を係留できる港のちかく。今の湊・ミナトの地名はそのなごりかと。それと内陸にあっては“唐人山”にあるように山の頂上ちかく。それに対して列島の人達が住んでいたのは山と海川が交わり、その両方の幸を得ることができる丘状にあった。この二つが共に居住区を同じにして交えることは決してなかった。が、徐福たちにすれば、大陸へ渡る船造りは必須条件であり、その建材を求めることは重要だ。人手もいる。大海へ繰り出したという江州人や、ソマ(木へんに会)の地名やいかだを組んでの川くだりは、そのことに関係しているとにらんでいる。それからブログ<いずものこころ>であった「なにやらの木をなにやらの神さまが(大陸から?)持ち帰った」 とありましたが、それは幾度かの往航の後、あれこれと追加で持って行きたい物の中に、水に強い桧の苗があったのではないでしょうか。
<陶器や織物づくり(にも関係した。>
陶器や織物造りは徐福たちにとっても生活の必需品。ガマのお綿の因幡の白兎の話に始まり雲州木綿や、備中綿の種は、その人たちが持ち込んだのではと思っています。ちなみに、中国やインドは綿花の大産地で、とくにインド綿は良質のものがあり。陶器は、多岐にわたりそうなので、ここではノータッチします^^!。

〔関係しなかったもの〕
<食文化>
外国の人が日本に来た場合、反対に日本人が外国へと住んだ場合、一部の例外を除いて、食文化は中々交わらない。味覚というものがどのようにして覚えられ刷り込まれていくのかは分からないが異国に住む時、集団や、仲間うちだけで生活する場合は、ほとんど食文化は交わらない。ちなみに、欧米人のうちには日本人のことを魚臭いと思っている人達がいるし日本人は欧米人のことをバタ臭い人達と思っている人達がいる^^!。
<宗教及び信仰>
仏教がいつごろより日本人の内に入り込んだのか、筆者はまったく知らない。逆に徐福たちは、日本のことを「東方三神山」四千年前(注;除福からは○千年前)の大事変発祥の地ととらえている。徐福より○百年後の卑弥呼の代になっても魏志倭人伝では、列島の稚児を生け贄とした雨乞い儀式を見聞きしたのであろうと思うが、卑弥呼のことを「鬼道に事へ、能く衆を惑わす」とある。徐福たちは、東方よりの“四千年前”の巨大津波と大地震によって良渚文明を一瞬にして滅ぼした(奥州市・岩淵先生)中国の歴史を伝聞しており、その恐ろしくもある未知の地への薬石探しが目的であり、“列島に既存している四千年前の大事変をもたらした荒神を主体とする信仰”には関係していない。しかし、中国大陸まで伝わった大地震や大津波をもたらした、その恐ろしき神には興味があり、その事変を列島の人達から聞き及んで龍画としてモンタージュした。 竜は中国発ではなくて日本発の逆輸入(史実探偵)なのだ!!中国の為政者のうちには、その龍を討伐すること(龍の舞)によって政治をおさめる考えがあったと筆者はみています。西安8千体の兵馬俑は、東を向いている。さらに、中国にある朱塗りの寺院は、日本の東北の空を飛翔した巨大隕石の朱であり、ミドリ成す唐草模様は、日本発の巨大津波の色だ(としました^^!)。
<教育。 とくに漢字や言葉は教えなかった。>
 特に、この項は素人探偵の思いの及ばなかったことであり、御教示を受けたDr.いずも氏の言を再び掲載します。        
『 私の(shigechan izumo氏)推理はこうです。
彼らは決して日本列島の人々に文字を教えたり、中国語を教えたりはしなかった。その理由は、彼らがプロとしてのエージェント教育を受けていたからです。日本列島の人々が漢字をたやすく使えたり、中国語を理解できるようになってそれを話すようになれば、特命を受けて日本列島にやって来た自分たちやその子孫と、区別がつかなくなるのです。
彼らはあくまで秘密結社としての集団性を維持する必要があったのです。いかに多方面に散らばろうとも、漢字を用いて中国語を話す人と出会えば、それはまさしく秘密結社の一員との遭遇であり、同胞との遭遇であると確信できるように、彼らの文字と言葉は彼らだけの間のものとして保持していたのです。』 又、氏のコメントで 『クラスター爆弾のように列島に散らばった除福たちではあったが 弥生式土器に残された文字は極めて少なく、その上にひとつの土器に一文字くらいのものが稀にやっと見つかっている』 との不思議を言われている。

 ですよねえ~。通訳を含めて “不老長寿の薬石やその探索” に来たとは、列島人にベラベラと喋れない^^!。徐福は、3千人の童男童女。あるいは、童男童女を含む3千人を受けて列島に渡って来た。例え、徐福が列島から自らを120才を越えた。あるいは、それ以上という仙人を中国へ連れて帰ったところで始皇帝(誰も^^?)は、信用しないし出来ない(笑い)。さすが、白髭三千丈をいう気の長い中国。3千人の “童男童女は、長命実証用” として連れて来たのだ。この件は、当記事の本題であるので、・・・つづきは後へ回します^^!。

< 政治。港湾を除いたインフラ整備>
史学の多くは、列島で名ある神々や為政人の中には、政治に携わったとする大陸や半島人を挙げる向きがありますが、筆者は例外を除いて、彼等は政治に加わることはなかったと見ています。圧倒的文明差や病の治癒をしたことにより、現地人からは神様仏様と崇められた徐福たちではあったが、大陸との往航を重ねるうち豪商とは成りえてもても、決して、列島人を統利する長にはならなかった。否、なれなかったのである。「その声、狼ロウの如し」という始皇帝。殺生与奪を欲しいままにし、長命の薬石の作成を命じた方士(薬石や施術によって医療行為をする人?)2名がトンズラしたことを怒り、460名の方士に「お前達でその薬を作って生き永らえよ」といって穴埋めにした始皇帝の恐ろしさは骨の髄まで染入っている。列島の長となり安穏と暮らしているとの噂でも立とうものなら、十万二十万の兵を繰り出されて、たちまちのうちに討伐されてしまう。例え、始皇帝が亡くなり秦朝が滅びたあとでも、大資をうけて出立したてまえ、人々「何を云うやら」分からない。それより何より、徐福のプライドがそれを許さない。徐福はその薬石を探して列島のどこやらで(?)果てている。徐福たちは例え何代かかろうとも、その根底は “サバイバル”であり、そのサバイバルに港湾を除いてのインフラの整備は必要ない。  

<秘密性の 特に高かったものⅰ~ⅲ.> 
 この項は、とくに筆者の独自性が強いので専門家のご批判を望みます^^!。
今、筆者が論じているのは、卑弥呼より○百年も前の徐福(代)以降の話であり、日本では縄文弥生の時代だと、あらかじめお断りしておきます。

秘密 そのⅰ. 銅の鉱材造りと、その加工
このブログのカテゴリー出雲地方で述べたことですが、彼等は、銅の鉱材加工を銅の精錬には公害を伴うため隔離した場所・大社町、島根半島の山中の<別所(←地名)>でしたとしました。しかし、この度の(出雲市)間屋・西神湖の調査で、大社町のほかの神門町にも<別所>の地名があることを知り、この場所が当時の海の中にあったかどうかは分かりませんが、(地名の多い)人家の多い所にあります。これによって少し考えが変わりました。鉱害ではなく機密を保つためではなかったか?と。

なぜ、<別所>との地名をつけたのか? 
この地名が「いつ、どこの、誰が付けた」のかは確定できない。しかし、今までに述べた出雲市に神代から付けたかと思われる特異地名はワンサカとある。その中にあっての<別所>である。この地名は徐福たちが付けたのか。それとも列島人がつけたのか? ここで、特に考えておかなければならないことは、徐福たちは、先のDr.が言われた「秘密結社」である。表立った行動をしては、ならないのだ。彼等は、列島の付名には殆ど関係していない。例えば「秦」の地名だ。中国よみでは「シン」と読む。これを日本語よみでは「はた」と読むことから、筆者は傍らの「端はた」に住む人達だとした。この例に代表されるように、列島では彼等が関係する地名は見かけ難い。人口が多ければ、先住民の地名を使っている。東北地方に数字付きの地名が多いのは、人口が少なく地名が付いていなかったので、番号付けの地名を振ったかとした。
 余談になりますが、(特に中学生諸君に^^!)北海道では、思いの外、小地域で地名が密集している。(国土地理院5万分の1地図)。これは、アイヌの人達が土地自体を神と考える信仰ありか?としました。

<別所>とは、何に対しての別の所か? 何を成すところか?
神のオワす所か?。違う。 それは、神座とか。大社とか。盤座。御座・・・・・神庭^^! 等という。では、異人さんの住む所か? これも、しっくりこない。自分達が外国人であり、地元の人からは、すでに<秦はた>傍、端、で住む所の地名で呼ばれている。 徐福たちは、百工と呼ばれているよろずの職業の人達を引き連れて渡航している。衣服であれば<服部・はっとり>とか<織部・おりべ>。陶器であれば<陶・すえ>のような地名を付けて。これらが、さして機密性をようするとも思えない。住家や造船においては、ことが大きく人手(手伝い)も要すことから、機密性は保てない。
 以上のことを考え合わせると、祈祷のための別場所か?と、銅の鉱材加工場 が残る。列島人においては、すでに雨乞い儀式で荒神を呼び寄せ、それを銅鐸へと乗り移らせるための、お太夫さんの修行として滝行とか徒歩行(かちぎょう)がある。最後に残ったのは“銅の鉱材加工”。

<銅材について考える>
歴史をみると、石器時代→銅器時代→鉄器時代へとつづく。石器においては、打器にはじまり、石刃、矢ジリへと移っている。銅材においては、その融点が鉄より低いことから、鉄より先に発見された。ここで、大切なことは、銅は大陸からの移入であり、列島で発見されたものではない。
大型のイノシシや、鹿を狩るとき、石斧ではトドメを与えることが出来難い。その点で、銅の刃では、心臓まで届く突剣が作れる。大陸の出土品が殺傷用のものが多いのに対して、日本では祭祀用として発達している。このように銅材に対する考えは、大陸人が戦闘の実効用とするのに対して、列島人は神や権威の象徴用として用いているように全く異なる。もちろん銅材は中国においても大量に簡単に手に入るものではなく、鉄に対してさえもその希少性は高い。その銅材を得るための鉱石が出雲半島では、先のDr.Izumo氏>言で、「ゴロゴロと転がっていた」と、言われていた。それを徐福たちが見つけないはずがない。
 ちなみに、鉄器のほうですが、
鉄は、銅の融点に対して、約500℃ほど高いだけであり、その温度をつくり得れば銅の精錬より、はるかに簡単であり、木炭と砂鉄を交互にして皮革のフイゴを使うタタラ製鉄では素人でも体験できるとか^^!。出雲の“安来鋼”は不純物が少なく品質の良いことで有名。
 出雲の優位性は、銅鉱あり、砂鉄あり、おまけに少量ですが石炭の露頭まであると聞いている。それに、火山・三瓶山・大山ありの温泉あり。それから作れる温泉の花。 海は、浅海・宍道湖での魚場ありいの、伯方の塩。おまけのおまけで雲州木綿。それに加えて、出雲の人の融和の良さとくれば小泉八雲でなくても、住みたいと思うよね^^。 長期在住していたかどうかは別にして、この地を「徐福」が逃す理由が見つからない。再度の確認になりますが、今、筆者が論じているのは、日本の八百万(やおよろず)の神様が出雲へ集まるという神代・かみよ以前の話であると申し添えておきます。大きく外れた話をもとにもどして・・・(^^!)

<徐福隊の工人は、“別所で”その鉱石で銅材を精錬した>
   何故、徐福たちの工人は、その精錬を<別所>で成したのか?
 一つに、列島人が銅材で武器にするのを防ぐため。
彼等のうちには、銅材=武器の考えがあり、列島人がそれを知り得て武器をつくりだしては、ちょっとまずい^^!。 当時の銅材は、今でいうウランの精製や核兵器のようなもの。極力秘密にして教えたくない^^。では何故,人里多い出雲市○町に<別所>の地名があるのか。これは、大陸人(や欧米人)と日本人の“防犯意識の根本的な違い”にある。大陸では略奪にそなえて実効的な壁や塀を造るのに対して、薄れたとはいえ(今でも?)日本人のうちには、「境内」の思想が潜在しており、一度そこを境界と定めると 決して侵してはならない考えがはたらいている。
 二つに、商いとしての希少性を保つため。
当時の、列島人の群郡では、雨乞い祈祷の為に○○から→銅鐸を使用する過程にあり、大陸からの銅材製品はとくに魅力的であり、是非に欲しいもの。そして一度手に入れると段々と大きくて立派なものに作り替えたい欲求があった。そして、当時の列島人には、たとえ離れて交流のない群郡であっても“四千年前の巨大津波や大地震を共に経験”しており、それは“荒神様”が行為したとの共通した認識がある。その神を呼び寄せ乗り移させるための銅鐸は是非に欲しかったのである。徐福たちは、それに応えた。交換として、珍宝薬石の探索案内やら、荷役等の協力を頼んだのである。こうして、銅鐸は、列島の各地に拡散していった。この銅材作成の機密性は、奈良の大仏の作成では○秦の豪商の寄進があったと聞くからおそくまで機能していたのかも知れない。

 「銅鐸の出土している所に、徐福隊あり」
徐福自身がその地に出向いたかどうかは別にして、銅鐸は、東海の浜松あたりからも出土している。不二の山・富士山は、列島の全てを知るものぞのみ付けられる山名だ。「不」をフ、プ と発音するのは大陸の発音であり、徐福隊は東海地方へもその探索を広げている。と前述した。

秘密 そのⅱ. 新薬の試用と結婚
徐福たちは、自身も長生き実証の宿命をおっており、新しい薬石を試す時は、新薬として列島人に試用したと思われる。そして、列島人と血を交えることはしなかった。だが、その結束も時代が下がるにつれ、薄れ去り、今では、史学でさえ、その史実を忘れ去り 徐福たちを 「伝説だ」と云っている^^!。


       (長々と駄文を連ねましたが、次からがこの記事の本題です)
秘密 そのⅲ. 長命実証用としての童子たちを<養父・やぶ>に隔離して育てていた!!

<養父の地名を検索する>             (Nov.09,2015~ 記)    
 徐福たちは、長命実証用としての童子たちを<養父・やぶ>に隔離して育てていた。
  次が、今回調べた養父の地名がつく場所の7箇所です。

日本国内のランドマークより
  ①兵庫県養父市養父市場 養父神社-ビル ⑤ 愛知県東海市養父町2丁目16
   兵庫県養父市薮崎字唐木   愛知県東海市養父町義神
   兵庫県養父市別宮   愛知県東海市養父町釈迦御堂
   兵庫県養父市新津
    ④大阪府枚方市養父元町

  ③広島県宮島市宮島町養父     ②岡山県倉敷市玉島乙島養父

  ⑥佐賀県鳥栖市養父町 ⑦徳島県鳴門市大津町木津野字養父の内

<なぜ、その地を[養父・やぶ]というのか?>
何時、誰が付けたのかは知らないが、考えてみれば、ずいぶん不思議な地名である。古今東西“子”の無い夫婦は、たくさんいる。その人達がこどもを欲しがり養子を迎えたとする。その行為があったところに「養父」の地名を付けたのでは、列島のそこら中が「養父」だらけになる^^!。歴史において、中国の大家同士が実子のやりとりをした例があると聞くし、日本の戦国時代で人質的に幼子を迎えて戦争抑止力としたことはある。しかし、そのことで、そこに「養父」の地名は付かない。その行為は、すでに社会的基盤ができあがった後のことであり、すでに「他」の地名が付いているからだ。くどいほどに言いますが、史学では、「地名」を「物証」に比べて一ランクも二ランクにも下に扱う。「地名」というのは、一度その地名を付すと中々変えがたい。もし、この私くしが勝手に地名を変えたならば、[あんたの言う“○○”は、どこよ?」と、なり混乱を生じる。「養父」は、「山、川、野、原」のような一般的地名とは異なり、人がなす行為によって付けられた地名であり、地名としては、かなり特殊な地名である。その地名が今回調べただけでも上記の7箇所あった。しかも、それ等の地の列島人のお互いが社会的、人的交流があったとは思えない。・・今日へとつづく^^!、        

<徐福は3千人の童男童女を連れて列島にやって来た。>
 次は、素人探偵の推理・想像の作り話です^^!。
徐福が童男童女を連れてきたのは、“長命実証用”のためだ。3千人の童男童女か、徐福団3千人の内に含まれる童男童女かは分からない。しかし、それでは話が進まないので、童男童女を含む3千人としよう。その3千人の大船団が、ヨーイドンの横一線で出航しない。隊列を組んで出発する。いかに、文明を誇る秦代の船であっても、推力は弱い。ごく近世まで「潮来一枚下は地獄」といわれた大航海。その内の千~千五百人は、海難にあったかも知れない。3千人の全てが列島に着岸出来たわけではない。そして、強い流れの対馬海流は彼等を分断した。さらに悪いことに、彼等は多くの食料を持たねばならず、実りの秋の米麦の収穫を終えてから出発する。これは台風の時期にかさなる。筆者は、大陸からの進出の度々が阻まれたのは、このことによると見ています。
 事実、徐福隊の第一回目は、その大鯨(=台風)によって阻まれている。“四千年前の”巨大津波と大地震を経験し、神風を発し、その行くてを阻む“東方三神山”の神秘性は、ますます増してゆく。深山のレイシ、熊の手しかり、切り立つ断崖のツバメの巣しかり、神秘性があり、危険を伴うところにこそ、その仙薬ありとするのが中国人の心意気だ^^?。

<徐福船団の編成>これも作り話です。
命カラガラではあるが、その内の1500人(とする)が分断されながらも列島に漂着した。一船の乗員をこれも仮で30人~60人としよう。徐福は、百工を伴ったとあるから、その内には色んな職業の人がいたに違いない。徐福たち方士はもちろんのこと、武人、船乗り、大工、陶工、織部、鍛冶、農工、そして、“長命実証用の童子達”の、面倒をみる婦人達。

<会社組織の作成>
分断した徐福たちは漂着した初期の生活が成るようになればお互いを捜しあう。彼等は徐福の元へ集結し、無事を喜び、情報を交換する徐福は(前述の)出雲の優位性から出雲に本拠地を置くことにした。徐福は、多勢を失いながらも人員を再編成し、出雲を本社とし、列島の各地に薬石探しのための支部をつくった。そして、年一の年末の前に出雲に集まるように指示した。今、私達がお土産を持って年末に大移動するのは、このことに起因しているのかな^^(中学生諸君に、笑い)。これは、後の商港や航路として発展する。徐福のもと各地に配置配属された人材は一様ではない。薬に長けた人(越中富山の薬売り?) 船作りに長けた人(竜神丸を繰り出した江州人?)特に、列島の遠く東北地方へ送り出す人達は、未知の々であるから操船に長けた人達で武人がいい?(八戸の遠洋航海)。()内は筆者が勝手に関連づけました^^!。 先の記事では、東北地方から出土した遮光面土器は、徐福たちのなかの武人の甲冑を列島人が写したものだとしました。他に、蕨手刀(持ち手がワラビの形をした刀)や、○○の土饅頭墓は中国の影響を受けたのではと見ています。
 徐福本人は、といえば出雲に定住出来るものではなく、耳寄りな情報を得れば列島の各地へも出向きたい。このように徐福を“秘密結社の社長”とした会社組織は、列島人と係わり合いながら、熟成しながら、時は流れていったと思われます。中で、出雲から中国山地を越えて瀬戸内(吉備)や、日本海航路を経て、愛発関を越えて琵琶湖(近江)へも進出したのではないでしょうか。

<さて、本題の“長命用の子供たち”を何処に住まわせるか??>
   この子達を何処に住まわせるか。この子達は“大切な、々な、長命被験用”である。
出雲に住まわせたいところだが、出雲にあっては列島人が多く在住し、それとの混在は避けたい。そこで、すこし離れた兵庫県<養父市>に“センター?”を置いた。ここなら日本海列島の中心にあり住環境もよさそうだ。この子達の歳がいくつで、その連れてきた総数が幾人かは分からない。
   ・・・仮に、その歳は七才前後で、これも仮の々で100人にしておこう。
その百人の全部を養父市 一箇所に住まわせる分けにはいかないので、既成のグループを母体として十人、五人と分けていこう。徐福団のなかには、当然若者夫婦もいるし、既婚者もいる。すでにその歳に該当する子もいるし新しく出生する子達もいる。その区別は難しいところだ。なにはともあれ、(そこ以外にもあるかも知れませんが^^!)上記の7箇所に 分けた。とする^^! ところが、5人を過ぎるあたりから、列島人の目には「子沢山だなあ」と奇異にうつる。
<養父>の地名は徐福たちが付けた地名ではない。
何故なら、自分達は養父母ですとは言っても、この地は「養父・ヤブ」ですとは言わないからだ。「養父・ヤブ」の地名は、その人達が住んでいた所を指して列島人がつけた地名だと断言できる。このこと一つとっても、いかに徐福たちが秘密裏に行動していたかを窺い知ることが出来る。
  
<「ヤブ医者」の由来を考察する。>
普通に「ヤブ医者」という言葉は、見通しの悪い籔の先にたとえて、それを揶揄する言葉だと受け取っている。もとはと云えば「ヤブの医者」は、そうではなくて真逆であった。徐福達のなかの方士(医療や呪術によって病気を治す人)は、大陸の圧倒的、先進的な医療を行う人達であり、列島人との関わりのなかで難病も治すし、新薬も試したい。列島人にすれば、ありがたい、々い、神様仏様である。その人達は幾人かの養子を育てていた。先の記事では、『如来様と、その脇に描かれている“童子の仏画”は、徐福の方士女人達を列島人が言い伝えて描き記したものだ!』 と、しました。

<長命実証用の童子達の隔離施設か??>
  広島県宮島市宮島町養父 ,    岡山県倉敷市玉島乙島養父 ,
(残りの4ヶ所は調べていませんが^^!)この二つの場所は、明らかに兵庫県の養父市とは異なる条件の場所にある。倉敷市玉島乙島の養父 ,は、今では陸中にあるがその昔は、海で囲まれた島であった。この二箇所をその “隔離施設” だと考えた理由は、共に本土から見れば、その反対側にあり、列島住民からは、見えない場所にある。何故、徐福たちは、このような場所で童子を育てていたのであろうか? 徐福たちの使命は、長命用の薬石探査が目的であり、良かれと思われる薬石が見つかればそれを子供達に試さなければならない。中には「良薬口に苦し」というように、苦いものもあったに違いない。しかしながら、相手はこども。いやがって泣き叫ぶだろう。薬石の中には長期に服用してこそ、その効果を発するものもある。嫌がるこども達に無理矢理飲ます。
その様子を列島の住民には決して知られてはならない。そして子供達が大きくなり、物心つけば、逃亡を図るものも出てくるかも知れない。さらに、もう一つ加えれば、その島は、江戸時代にあった遠島島流しであってはならないのだ。遠すぎれば、その行き来に大変だ。この三つの条件にあう所で、本土に中継できる港湾が近くにある場所としてこの二つの地を選んでいる。

< 結 び >
<養父・ヤブ>は、徐福たちが “長命実証用” の子供達を育てていた場所だと断言します。
その後、その子たちがどのような運命をたどったかは分からない。このほか<ヤブ>と発音する地名を探せば、きっとたくさん出てくるに違いない。そこが、徐福たちと直接関係あるなしは別として、それ等の地に残る イワレや行事の調査の続きは、その地の歴史をよく識る貴方さまにお願いしたい。

    愛知県東海市養父町
    大阪府枚方市養父元町
    佐賀県鳥栖市養父町
    徳島県鳴門市大津町木津野字養父の内

こどもの頃、何故、その地を「養父ヤブ」と言うのか?と不思議に思ったことは誰にもあるはずだ。何故、何故、を三つ重ね深く追求しなければ、その祖先からの伝言は貴方には伝わらない^^!。

上記の4箇所は、今回調べられませんでしたが、私くしの目的は、地名という祖先からの伝言に気付いて頂き、専門家やその地をよく識る貴方さまへその追求解明へのキッカケを与えることにあります。列島の各地に不老長命の薬石を探すべく散らばった徐福達のなかの“方士達”夫婦や童子達は、その“道祖神”二体として刻まれ、仏画の“如来様”や童子として描かれている。
 又、徐福が伴った兵士達は、列島の<四千年前の厄災や雨乞い文化>と合いまみえ毘沙門天や仁王様のモデルにもなっていると前述してきた。それが卑弥呼を ン百年も遡る、列島の縄文期であることが問題なのだ。 もし、このことを史実として受け入れ難い史学や仏教界の貴方さまがおられたら、その貴方さまにお尋ねしたい。一ヶ所ならともかく、その地名は列島の何ヶ所にもあり、「養父という地名の‘現存’を何んと考えられますか?」と。“ヤブ”と発音するそれ等の地が、市とまでになった<兵庫県の養父市>を中心として“コラボ” され^^♪ この拙い報告書に含まれる誤りを正し、さらなる歴史の解明へと 導いて下されば幸いです。  (~ Dece.01,2015) □     

尚、この「徐福」の記事は、初頭にも述べてありますが、その名前はおろか存在すら知らなかった筆者に、ご教示してくださったブログ<いずものこころ>Shigechan izumo氏、なしでは成しえなかったことであり、氏に敬意と多大の謝意をここに表します。→拙ブログにもリンクを張ってありますので、徐福について詳しく知りたいお方さまには、是非の、ご訪問をお勧めします。
                      史実を探偵する; 平 素人 より、

    関連記事
* (カテゴリー:卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸を見つけたい人この指とまれ!)
     * 徐福達が日本史に与えた影響、 そのⅠ~Ⅵ → 当記事Ⅶは '16/5/28に発表しました^^!)
スポンサーサイト



Copyright © 2005 此処に 「卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸」 あり!!. all rights reserved.