「吉備の大量の銅剣の探策」 その続きⅣ
<卑弥呼が埋めた(吉備の)大量の銅剣を捜して!>
(2016/4/20 )
お客さまへ> この記事は追記方式で進めています。
今回(7/05)をもって、一旦この記事を終えます。
書き込みがないにも関わらず、日々訪問して下さる<お方様>
こころよりお礼を申し上げます。
つぎの記事は、「総社市・神明遺跡」を予定しています^^。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さてと、吉備の岩屋に埋めてあるとした大量の銅鐸のほうは一応の目星がついた。
あとは実行を残すのみ。ですが、そこは“立ち入り禁止”の場所なので一時休止して^^!
次は、その銅鐸とセットして埋められている大量の銅剣類の探索に移ります。
<その前に、今迄の(拙ブログの)要点を、今一度整理しておきます。>
新しいお客様のために^^
今からおよそ1700年前、 卑弥呼は、「私達が今まで崇めてきた荒神さまは、主神太陽のお使者であるよ」と唱え、その象徴であるとした魏からの銅鏡100枚を「出雲と総社と神戸と野洲」 の4ケ所に分け与え, それまで各部族が雨乞い等の厄災時に、荒神を呼び寄せ乗り移させるために使用してきた銅鐸は 「岩」の付く地に埋め。そして生け贄を殺めた銅剣(等)は、その西進してきた荒神に容易に取られぬようにと、ふた山越えて、その西方向及び西南方向で、約1里(=約4km)離れた場所にあって、天に抗う△剣山の形をした山の北側と対面した陽光のあたる山の斜面に。
ひと山越えてぇ ふた山こえてぇ 三山のまえでぇ
狸さん、々さん踊ろじゃないかぁ~
卑弥呼は、
『 この銅鐸、二度と その荒神に乗り移せまじ!この銅剣、二度と その荒神に持たせまじ!!』
と持ち寄った銅鐸につづき、その大量の銅剣に大祈祷をして “埋封”(筆者の造語)した。
(注: それまでの一時保管する埋納ではなく、二度と使わないとして封印して埋めること。)
銅剣の埋め地を銅鐸の埋め地より、西及び南西方向としたのは、BC.2001年12月、竜飛崎上空を飛び、東北地方に降臨した巨大隕石が発した巨大津波と巨大地震の西進によるもので、その大事変は、大雨を降らし、津波は魚介と瑞穂を運んできたことから、竜となり、荒神さまとなって人々の心に入り込んだと謎解きした。その後、その時の降雨と交換してもらうために、「私達には、これ以上に大切なものはありません。どうぞ、そのお力で慈雨を下さい」 と稚児の命を差し出すまでになった。その歴史が永々と続いたある年に、全天を覆うほどの大彗星が現れた。その退散祈祷をしたのが卑弥呼であった。この件でカリスマ性を増した卑弥呼は、稚児の生け贄を伴う「銅鐸文化」を止めさせ、「銅鏡文化」、すなわち太陽を主神とした身代わり象徴文化へと変えていった。
( 詳細は当ブログ: カテゴリー「巨大隕石と大津波」 と「・・・、この指とまれ」を参照して下さい^-^! )
卑弥呼が魏から得た銅鏡100枚 =
出雲の銅鐸39個+野洲の銅鐸24個+神戸の銅鐸14個+吉備の予測銅鐸数(23個)
吉備の予測銅剣数は、吉備の予見銅鐸数23(±α個)×9 =207本
※ この9の数は、 私が Dr.>と仰ぐブログ “いずものこころ”での<論説>から、
(出雲岩倉の銅鐸数39個と 出雲荒神谷の銅剣数358本の比率) を引用しました。
以上ような論をたて、色々に探索するも、素人の貧弱な知識と行動力では、中々にその的が絞れていない。一番最初は、「谷奥」の言葉にとらわれ<黒尾・西谷>から入っての探索であったが、現地での探索は思っている以上に広くて悪戦苦闘を強いられた。つぎに<経山>の北側に連なる峠状で筆者が「牛の背」と名付けた辺りを思いついたが、これもシックリとこない。さらに、大量の銅剣が出土した出雲・神庭西谷の荒神谷では、その南側に「三宝荒神(さんぽうこうじん)が祀られていた」という情報を新しく得たことから、鬼ノ城(きのじょう)の西に「三宝」に似た「山王神社」があったことを思い出し、その裏山で倒木バタバタの山斜面を捜索するも、その大量の銅剣を埋めるような場所は見当たらずじまいで今日に至っている。 しかし、この度の岩屋の(前記事)銅鐸探査で新しく^^?仕入れたことがあった。
<その一つ、矢谷>
岩屋での銅鐸の埋め地を絞り込みに出かけた時、駐車場でそこを管理しているお人からの情報で、「今はこの地を離れているが、以前に、この所の谷あいに住んでいたことがあって、そこは新山地区<矢谷>と呼ばれていること。そして、「その名の由来は、○○の命がこの所に向かって矢を放ったことから付いた」と聞いていると、教えて下さった。 まてよ・・・・・?? だったら『その矢はどこから放ったのであろうか? 前の記事「足高神社」で見つけた“矢射り台石(仮称)”。 それと、<経山探索>の時、気になっていた上部が平らの据え石があった。大小2基あった。その時は、その上で何かに向かってお祈りする為の石台かとも思っていたが、足高神社と同様に、その上部で矢を放つ為の台石だったのではないのか? 共に急峻した山の中腹にある。急峻している場所を選んだのは、見通しがよく何にも邪魔されず矢が撃ちやすいからだ。そうだ!その写真を撮りに行こう。
<経山、登山道の中腹にある矢撃ち台石?> (2016/4/24撮影)

さらに、岩屋寺金堂の境内に残っている基礎石は、「今は建物の形はないが、昔、鐘楼があった」とも伺っている。これも前記事の倉敷「足高神社」と船穂町の「高徳寺の鐘楼」の関係に似ている。以前、なにげなく見過ごしてきた小さなことが、推理小説風に段々とからみ繋がってきた。面白くなってきたぞ^^。 このセンで捜して大きくは間違っていない。
(蛇足ながら、my報告書の全記事は、独立形式をとってはありますがその全ては“隕石”に繋がっています^^!)
<その二つ目、新山>
この銅剣探査で、絶対に外せないことがある。その一つに、「ひと山越えて~、ふた山越えて~、み山の前でぇ~」 その大量の銅剣を埋めたとの “伝言 ・マリツキ唄” がある。出雲では、大量の銅鐸が埋めてあった加茂岩倉~大山、大黒山~仏教山の間の二山。神戸では、いわや(桜ヶ丘)~○○山と○○山~荒神山。野洲では、大岩山~○○山と妙光寺山~三上山までの間に二山があった。しかし、この総社市岩屋の捜索では、岩屋と経山との間には「犬墓山」の一山しかない。新山とあるが、その頂きらしいものが見当たらない。しかも岩屋から経山まで(約4km)一里、離すべきところが1km少々しか離れていない。「その進入許すまじ」とした剣山型の経山は絶対外せない。・・こまった。困った。・・、そこでご先祖さまは考えた。4kmのほうは無理だが、その間を「二山(にやま)地区」と名づけて「ふた山」あることにしょう(^^!)。それが訛って→<新山・にいやま>になったか^^? この新山は、以前の筆者が登龍山に上った竜神を竜神木に見立て砂川へと引っ張り出す歴史がつづき大きな神木がなくなってきたから、新しい山から伐りだそうとしてその山名をつけたと謎解きしていたが、それは間違いだったかも知れない。いずれにしても、その昔が卑弥呼の生存する1700年?の前のことだから確かめに行けない^^!。
<その三っつ目、北斗神社>
この北斗・ホクトの名前は岩屋銅剣探索の段階で早くに得ていた。この新山地区で鬼ノ城に行くかたわらに直径1m余りの大きな釜が据えてあった。「鬼の釜」と呼ばれているそうだ。そこで出会ったご老人からの話で、「山王神社を少し上ったところに「北斗神社」が石碑だけだがある」と伺っていた。その時は、卑弥呼の代に去来したと思われる彗星に関係すると推理した「妙見信仰」や「北斗信仰」に繋がっているかと軽くうけながしていた。しかし、この度の「もとの名は、二山(にやま)で、それが新山(にいやま)の字をあてるようになったのではないか?」 と思い込む(^^!)ことにしたことから、 ひょっとして、吉備の大量の銅剣の埋め場所は、その“石碑・北斗神社” あたりではないのか? たとえ岩屋と経山の間が一山であろうと、南であろうと、 「巨岩がある岩屋と剣山形の経山は、絶対外せない“約束事”だ!」 その間はワイルドに考えればいいとの思いが生じてきた。
先の探索では、銅鐸の埋め地である「岩屋」に段々近くになり、離して埋めることの意味がうすくなることや、ふた山離して埋めるべきところ、<犬墓山>の一山 しかないことから意識から外していた。 ・・・そうだ。 これも現地をおとずれ、写真撮影に行ってみよう。
総社市岩屋・経山付近図 ( 図はYahoo!Japan,Zenrin地図に加工を加えています。)

<↓大量の銅剣が埋めてあるとした北斗神社石碑周辺 >
× (2016/5/00撮影の予定)
素人探偵の推理が正ければ、
大量200本余りの銅剣類が“ここで”1700年の眠りについている!! □
あとは、「その場所を探して写真に収めればいい」・・・と、
このように結んでこの記事を終えればいいと思っていましたが???
<一筋縄ではいかなかった!>
筆者としては、かなり近くまで絞ったつもりでいたが、現地調査においては、私有地も多くその承諾をとりながらの捜索になるので、実績や肩書きのない ドが付く素人の説明では 「ここを掘らしてください」 といっても許可が出そうにない。地元の人の協力なくしては、ことがならない。 一度、事をこじらせてしまうと “立ち入り” さえも出来なくなってしまう。
・・・「時を待ちたい」・・・
経山矢撃ち台石より北斗神社方向(天空の茶屋太一や)を望む

まことに、申し訳ありませんが、以下の 『 記事 3頁分は、』 ブログには揚げないこととしますので、よしなに・・・・・・・(^-^!)
('16/7/05)をもって、この記事を一旦おえます。・・・ありがとう御座いました。(深礼)
つぎの記事は、 「総社市・神明遺跡」 を予定しています^^。
どなた様> 2拍手目をありがとう御座います^^。
<卑弥呼が埋めた(吉備の)大量の銅剣を捜して!>
(2016/4/20 )
お客さまへ> この記事は追記方式で進めています。
今回(7/05)をもって、一旦この記事を終えます。
書き込みがないにも関わらず、日々訪問して下さる<お方様>
こころよりお礼を申し上げます。
つぎの記事は、「総社市・神明遺跡」を予定しています^^。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さてと、吉備の岩屋に埋めてあるとした大量の銅鐸のほうは一応の目星がついた。
あとは実行を残すのみ。ですが、そこは“立ち入り禁止”の場所なので一時休止して^^!
次は、その銅鐸とセットして埋められている大量の銅剣類の探索に移ります。
<その前に、今迄の(拙ブログの)要点を、今一度整理しておきます。>
新しいお客様のために^^
今からおよそ1700年前、 卑弥呼は、「私達が今まで崇めてきた荒神さまは、主神太陽のお使者であるよ」と唱え、その象徴であるとした魏からの銅鏡100枚を「出雲と総社と神戸と野洲」 の4ケ所に分け与え, それまで各部族が雨乞い等の厄災時に、荒神を呼び寄せ乗り移させるために使用してきた銅鐸は 「岩」の付く地に埋め。そして生け贄を殺めた銅剣(等)は、その西進してきた荒神に容易に取られぬようにと、ふた山越えて、その西方向及び西南方向で、約1里(=約4km)離れた場所にあって、天に抗う△剣山の形をした山の北側と対面した陽光のあたる山の斜面に。
ひと山越えてぇ ふた山こえてぇ 三山のまえでぇ
狸さん、々さん踊ろじゃないかぁ~
卑弥呼は、
『 この銅鐸、二度と その荒神に乗り移せまじ!この銅剣、二度と その荒神に持たせまじ!!』
と持ち寄った銅鐸につづき、その大量の銅剣に大祈祷をして “埋封”(筆者の造語)した。
(注: それまでの一時保管する埋納ではなく、二度と使わないとして封印して埋めること。)
銅剣の埋め地を銅鐸の埋め地より、西及び南西方向としたのは、BC.2001年12月、竜飛崎上空を飛び、東北地方に降臨した巨大隕石が発した巨大津波と巨大地震の西進によるもので、その大事変は、大雨を降らし、津波は魚介と瑞穂を運んできたことから、竜となり、荒神さまとなって人々の心に入り込んだと謎解きした。その後、その時の降雨と交換してもらうために、「私達には、これ以上に大切なものはありません。どうぞ、そのお力で慈雨を下さい」 と稚児の命を差し出すまでになった。その歴史が永々と続いたある年に、全天を覆うほどの大彗星が現れた。その退散祈祷をしたのが卑弥呼であった。この件でカリスマ性を増した卑弥呼は、稚児の生け贄を伴う「銅鐸文化」を止めさせ、「銅鏡文化」、すなわち太陽を主神とした身代わり象徴文化へと変えていった。
( 詳細は当ブログ: カテゴリー「巨大隕石と大津波」 と「・・・、この指とまれ」を参照して下さい^-^! )
卑弥呼が魏から得た銅鏡100枚 =
出雲の銅鐸39個+野洲の銅鐸24個+神戸の銅鐸14個+吉備の予測銅鐸数(23個)
吉備の予測銅剣数は、吉備の予見銅鐸数23(±α個)×9 =207本
※ この9の数は、 私が Dr.>と仰ぐブログ “いずものこころ”での<論説>から、
(出雲岩倉の銅鐸数39個と 出雲荒神谷の銅剣数358本の比率) を引用しました。
以上ような論をたて、色々に探索するも、素人の貧弱な知識と行動力では、中々にその的が絞れていない。一番最初は、「谷奥」の言葉にとらわれ<黒尾・西谷>から入っての探索であったが、現地での探索は思っている以上に広くて悪戦苦闘を強いられた。つぎに<経山>の北側に連なる峠状で筆者が「牛の背」と名付けた辺りを思いついたが、これもシックリとこない。さらに、大量の銅剣が出土した出雲・神庭西谷の荒神谷では、その南側に「三宝荒神(さんぽうこうじん)が祀られていた」という情報を新しく得たことから、鬼ノ城(きのじょう)の西に「三宝」に似た「山王神社」があったことを思い出し、その裏山で倒木バタバタの山斜面を捜索するも、その大量の銅剣を埋めるような場所は見当たらずじまいで今日に至っている。 しかし、この度の岩屋の(前記事)銅鐸探査で新しく^^?仕入れたことがあった。
<その一つ、矢谷>
岩屋での銅鐸の埋め地を絞り込みに出かけた時、駐車場でそこを管理しているお人からの情報で、「今はこの地を離れているが、以前に、この所の谷あいに住んでいたことがあって、そこは新山地区<矢谷>と呼ばれていること。そして、「その名の由来は、○○の命がこの所に向かって矢を放ったことから付いた」と聞いていると、教えて下さった。 まてよ・・・・・?? だったら『その矢はどこから放ったのであろうか? 前の記事「足高神社」で見つけた“矢射り台石(仮称)”。 それと、<経山探索>の時、気になっていた上部が平らの据え石があった。大小2基あった。その時は、その上で何かに向かってお祈りする為の石台かとも思っていたが、足高神社と同様に、その上部で矢を放つ為の台石だったのではないのか? 共に急峻した山の中腹にある。急峻している場所を選んだのは、見通しがよく何にも邪魔されず矢が撃ちやすいからだ。そうだ!その写真を撮りに行こう。
<経山、登山道の中腹にある矢撃ち台石?> (2016/4/24撮影)

さらに、岩屋寺金堂の境内に残っている基礎石は、「今は建物の形はないが、昔、鐘楼があった」とも伺っている。これも前記事の倉敷「足高神社」と船穂町の「高徳寺の鐘楼」の関係に似ている。以前、なにげなく見過ごしてきた小さなことが、推理小説風に段々とからみ繋がってきた。面白くなってきたぞ^^。 このセンで捜して大きくは間違っていない。
(蛇足ながら、my報告書の全記事は、独立形式をとってはありますがその全ては“隕石”に繋がっています^^!)
<その二つ目、新山>
この銅剣探査で、絶対に外せないことがある。その一つに、「ひと山越えて~、ふた山越えて~、み山の前でぇ~」 その大量の銅剣を埋めたとの “伝言 ・マリツキ唄” がある。出雲では、大量の銅鐸が埋めてあった加茂岩倉~大山、大黒山~仏教山の間の二山。神戸では、いわや(桜ヶ丘)~○○山と○○山~荒神山。野洲では、大岩山~○○山と妙光寺山~三上山までの間に二山があった。しかし、この総社市岩屋の捜索では、岩屋と経山との間には「犬墓山」の一山しかない。新山とあるが、その頂きらしいものが見当たらない。しかも岩屋から経山まで(約4km)一里、離すべきところが1km少々しか離れていない。「その進入許すまじ」とした剣山型の経山は絶対外せない。・・こまった。困った。・・、そこでご先祖さまは考えた。4kmのほうは無理だが、その間を「二山(にやま)地区」と名づけて「ふた山」あることにしょう(^^!)。それが訛って→<新山・にいやま>になったか^^? この新山は、以前の筆者が登龍山に上った竜神を竜神木に見立て砂川へと引っ張り出す歴史がつづき大きな神木がなくなってきたから、新しい山から伐りだそうとしてその山名をつけたと謎解きしていたが、それは間違いだったかも知れない。いずれにしても、その昔が卑弥呼の生存する1700年?の前のことだから確かめに行けない^^!。
<その三っつ目、北斗神社>
この北斗・ホクトの名前は岩屋銅剣探索の段階で早くに得ていた。この新山地区で鬼ノ城に行くかたわらに直径1m余りの大きな釜が据えてあった。「鬼の釜」と呼ばれているそうだ。そこで出会ったご老人からの話で、「山王神社を少し上ったところに「北斗神社」が石碑だけだがある」と伺っていた。その時は、卑弥呼の代に去来したと思われる彗星に関係すると推理した「妙見信仰」や「北斗信仰」に繋がっているかと軽くうけながしていた。しかし、この度の「もとの名は、二山(にやま)で、それが新山(にいやま)の字をあてるようになったのではないか?」 と思い込む(^^!)ことにしたことから、 ひょっとして、吉備の大量の銅剣の埋め場所は、その“石碑・北斗神社” あたりではないのか? たとえ岩屋と経山の間が一山であろうと、南であろうと、 「巨岩がある岩屋と剣山形の経山は、絶対外せない“約束事”だ!」 その間はワイルドに考えればいいとの思いが生じてきた。
先の探索では、銅鐸の埋め地である「岩屋」に段々近くになり、離して埋めることの意味がうすくなることや、ふた山離して埋めるべきところ、<犬墓山>の一山 しかないことから意識から外していた。 ・・・そうだ。 これも現地をおとずれ、写真撮影に行ってみよう。
総社市岩屋・経山付近図 ( 図はYahoo!Japan,Zenrin地図に加工を加えています。)

<↓大量の銅剣が埋めてあるとした北斗神社石碑周辺 >
× (2016/5/00撮影の予定)
素人探偵の推理が正ければ、
大量200本余りの銅剣類が“ここで”1700年の眠りについている!! □
あとは、「その場所を探して写真に収めればいい」・・・と、
このように結んでこの記事を終えればいいと思っていましたが???
<一筋縄ではいかなかった!>
筆者としては、かなり近くまで絞ったつもりでいたが、現地調査においては、私有地も多くその承諾をとりながらの捜索になるので、実績や肩書きのない ドが付く素人の説明では 「ここを掘らしてください」 といっても許可が出そうにない。地元の人の協力なくしては、ことがならない。 一度、事をこじらせてしまうと “立ち入り” さえも出来なくなってしまう。
・・・「時を待ちたい」・・・
経山矢撃ち台石より北斗神社方向(天空の茶屋太一や)を望む

まことに、申し訳ありませんが、以下の 『 記事 3頁分は、』 ブログには揚げないこととしますので、よしなに・・・・・・・(^-^!)
('16/7/05)をもって、この記事を一旦おえます。・・・ありがとう御座いました。(深礼)
つぎの記事は、 「総社市・神明遺跡」 を予定しています^^。
どなた様> 2拍手目をありがとう御座います^^。
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