卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」
此処に出雲と同様、“大量の銅剣”が埋めてある! 全国歴史ファンの方々、三上山に集合せよ。
出雲の巨大竜を縛り付けている銅戈(どうか)&勾玉を捜せ!のⅢ
出雲の巨大竜を縛り付けている銅戈(どうか)&勾玉を捜せ!のⅢ
  乞うご参加!コメントは本になるやも知れませんので著作権等、掲載の御承諾のうえで^^!
                                               (2017/4/ 09)
    (4/29)に追記しました。

まず、最初にお断りしておきますが私は歴史のことを殆んど知らない。それがあろうことか四千年まえの青森県竜飛崎を経由し釜石あたりに降臨した巨大隕石が、祖先の心に竜紳として入り込んだことを知り(詳しくは当ブログの最初から)、以来、地名という祖先からのメッセージをたぐり史実探偵を名乗っています。表題は、そのⅠとⅡの続きです。

こども心と、遊び心に始まった “大捜索”は、Dr.いずも氏の、次の一信>から始まった!

いずも氏は、ブログ 『いずものこころ』 を開設され 私の歴史の知識の三分の二以上を占める大先生でもあり、尊敬をこめて Dr.>と御呼びしています。そのご教示を仰ぎながら四千年前の竜神にからめ地名という祖先からの伝言をもとにして推理探索してきましたが中途半端なところで終わっていました。今一度そのⅠ&Ⅱの考えを反すうしたり改めたりしながら深めていきたいと思います。Dr.とやり取りの詳細が、Ⅰ&Ⅱにありますので、どうぞそちらでお楽しみ下さい。氏は、プレビューにその大勾玉を貼っておられます^^。 拙ブログの管理者の上にリンクしています。

お願い  shigechanizumo | URL | 2008-09-16-Tue 16:40 [EDIT]
「平成20年2月29日長野県埋蔵文化財センターは、中野市の柳沢遺跡で先月中旬に「銅戈」(どう か)2本が出土したのに続いて、新たに「銅鐸」(どうたく)の破片2点と「銅戈」5本が出土したとして(9月)1日、発掘調査現場で記者会見し、発表した。」
 この記事について、平さんの率直なコメントが頂けるとうれしいです。


 shigechanizumo | URL | 2008-09-18(木)-午前 9:53 [EDIT]
先に、「出雲でも銅戈の発見が心待ちです。」としましたが、正確には、出雲大社の東側の命主神社の大岩の下から、このblogの上の写真にあるヒスイの勾玉(重要文化財)と一緒に、かなり質の良い銅戈が出土しています。しかし、上田正昭先生などに言わせれば、出雲には銅矛・銅剣と同じように大量の銅戈が埋もれているはずだということですが、まだ大量銅戈は見つかっていないのです。平さん、是非発見を・・・お願いします。

< これを受けて、・・・^^>
卑弥呼は、それまでの稚児の生贄を伴った銅鐸・雨乞い文化を 「降雨を司るのは、竜荒神ではなくて太陽神だ!」として、魏から得た100枚の銅鏡を太陽の象徴だとし、それを分け与えて、それまで使用してきた「荒神を呼び寄せるため銅鐸と稚児を殺めた銅剣」を人里離れた「岩」の付く場所や谷あいに「二度と使わないとして」封印し、埋めた埋めさせた。銅鐸と銅剣を二山越えに離して埋めたのは誤って銅鐸に呼び寄せられた荒神にその銅剣を持たせない為である。時もおり、彗星のニアミスや皆既日食とかさなり、雨乞いのため(七・五・三歳の)愛児を生贄として差し出す社会制度に不満がうっせきしていた人々は、卑弥呼の提唱する銅鏡太陽神文化へと容易に変わってゆく・・。その100枚の銅鏡を分け与えて大量の銅鐸と銅剣の埋めた場所は “出雲と、吉備と、神戸と、野洲” だった。(この詳しくは、カテゴリー「この指とまれ」へどうぞ)

 しかし、四千年前(BC.2001年)に東北に降臨した巨大隕石が発した巨大地震と大津波に乗って波打った長さ約60km幅5km出雲半島・巨大竜が、又暴れだしては困る。こいつを何とかして,“大人しく”させておかないとならない。そこで考えだされたのが、ガリバーと小人のように大の字に寝かせて、縛り付けておくことになった。実際にそのように(大注連に)したか、形式的にしたかどうかは分からないが、その時使用した荒縄は出雲大社の西にある奉納神社で保管したかと推理した。この歴史の覚醒は(この言葉はDr.いずも氏のものです^^)、今の大社の大注連縄(しめなわ)となっている。
 そして、縄だけでは心許ないから当時の最新鋭で大陸からの武器である銅戈を“大の字”の要所に打ち付けることにした。これは、後には五寸釘でワラ人形を打ち付ける呪術へと移行した。五寸の長さにしたのは四寸。つまり、奴は強大だ。並みのやり方で、又起き出しては困る。死(し)寸を超えるほどの強力なものでないといけないからだ。このように、今私たちが成している行為や聞き伝えに、その謎解きのカギは潜んでいる。
   (これ等の詳しくは、カテゴリー「出雲地方」へどうぞ)

島根半島の“大の字”の要所に『〆(シメ)縄で縛り付けよう』となった。それが下記の図です。

  ⅰ 島根半島・出雲竜の概略図 (銅戈を捜せの・Ⅰ&Ⅱより)
      【出雲竜の頭部】                     【足部】         【尾部】   
       <卍?宮?>   猪の目                                  
 (口部)宇龍  ↑ 竜山                      (島根町)?             
日御碕    鵜峠  ←_______約60km______枕木山___ → 地蔵崎
   八雲山  ↑ 弥山                             ムラクモノ剣?
  <出雲大社>                         <松江>?
          ↑(首部)
      <命主社>勾玉&銅戈の出土(寛文5年 1665)
    原山遺跡   菱根池  出雲井神社
   <富>家・墓地  (蛇池)   (賽の神)
     下照姫    赤牛    道案内       出雲山(小高い赤土の山)

ⅱ Dr.いずも氏の付言 ⑦ に、(2008-11-14-Fri10:44)  
⑦蛇足ですが、「出雲井神社」の宮司さんは、以前は「富」家という位の高い社家が受け持っていました。その富家の後継の人によると、出雲井神社の神は、出雲大社の裏手3kmの山中にある鵜峠(うど)銅山の坑道に封じ込められて、大岩で出口をふさがれて憤死したのだと言っていらっしゃいます。富といえば「トミ」=「蛇」なのです。社紋は亀甲紋の中に、何と交差した大根なのです。何を意味するのでしょうか・・・。出雲の熊野大社の神紋は亀甲の中に「大」とあります。大社の「大」と思っていますが、ひょっとして大根の「大」なのかもしてません。とあります。

竜と銅・第八弾   shigechanizumo | URL | 2009-01-23-Fri 10:02
・・・、出雲竜の話では、出雲竜は真ん中の止め釘と、四方の止め釘とでつなぎ止められているのです。そして出雲竜は島根半島なのです。この類似は、国引き神話の発生は、その根源に出雲竜が島根半島としてつなぎ止められたという、始原の記憶に基づくものなのではないでしょうか。

<これ等をもとに>思考錯誤をかさねてきた。
   ↓記事 出雲竜を縛り付けている銅戈を捜せ!のⅡより、
<大の字の一文字部> 出雲竜の首っ玉の三ヶ所は、
   1.命主社の大岩の下   銅戈(どうか)と、ヒスイの勾玉!→寛文5年(1665)に発掘!
   2.鵜峠に大岩の有無?     銅戈とヒスイの勾玉   →  未発見・未発掘です♪
   3.鷺浦町の ?神社(大岩?) 銅戈とヒスイの勾玉   →  未発見・未発掘です♪
<大の字のハライ部> 出雲竜・後足部の二ヶ所!
   4.日本海側の大岩下   Drは柄とも神社?島根? 銅戈と、鉄球!? → 未定です♪
   5.松江市側の大岩下   城辺りと思われるが??  銅戈と、鉄球!? → 未定です♪
    と、推定していました。 キーワードは、『大岩の下』です。  □
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<その銅戈とヒスイの大勾玉は大岩の下に埋められている>
        ここからが、今回の記事で、例によって追記形式ではじめます^^!。

その1.<命主社の大岩の下>で、
  その情報をいま少し集めてみよう。
寛文5年(1665)に、出雲大社の石垣を造営するために、大社から東に歩いて10分足らずのところにある命主社(いのちぬしのやしろ)の本殿の裏の大岩を割り砕いていたところ、その下から銅戈(どうか)とヒスイの大勾玉が出土した。現在それは出雲大社の宝物殿に収められていて、そのレプリカは、出雲古代史博物館に展示されているそうです。
<命主社について>
     「Mac遊びの昼食」の <たねち様>よりの、承諾を頂いて再度掲載しています。
場所は、古代出雲歴史博物館の北側 (大社町字森で、出雲大社東500m)
     民家の間にあって目立たないので行き過ぎかけてしまいました。
祭神は、神産巣日神(かみむすびの神)。造化三神の一柱で、小さいですが、その名に恥じない立派な大社造りの社です。


出雲観光協会公式ホームページ https://www.izumo-kankou.gr.jp/254 命主社より、
  出雲大社の摂社  
正式な名称は「神魂伊能知奴志神社(かみむすびいのちぬしのかみのやしろ)」で天地開闢(世界のはじまり)の造化三神の一柱、神皇産霊神(かみむすびのかみ)が祀られています。
巨岩の前に建てられていることから、古代の磐座(いわくら。神の御座所。自然の巨石をさす場合が多い)が神社に発展した例として貴重な神社です。
寛文5年(1665)の出雲大社御造営にあたり、命主社の裏の大石を石材として切り出したところ、下から銅戈(どうか)と硬玉製勾玉(こうぎょくせいまがたま)が発見されました。
※銅戈 = クリス杉、長さ33.7ミリ、幅10.3ミリ。茎(まがご)が短くて身に対し斜めに関(まち)がついている。
※勾玉 = 長さ3.6ミリ、厚さ9.9ミリ、半透明濃緑色の硬玉。穿孔が大きく孔は一方から穿たれたもの。( 注: ミリはセンチの間違いか^^?)


<以下の表記を考える>
命主社は裏の巨岩の前に建てられている
命主社の裏の大石を石材として切り出した
古代の磐座(いわくら。神の御座所。自然の巨石をさす場合が多い) ・・・等、とある。

筆者は当地を訪れたことがありません。
巨岩か、大石か、磐座かの三つの言葉には、微妙な意味の違いがある。巨岩だといえば山の基岩の意を含むし、大岩だといえば、せいぜい10m程度か。そして磐座だといえば、2~3m程度の大きさで(?)、当時の人が動かせない大きさではではない。知りうる仏閣では,しめ縄をめぐらしていた。筆者は、当初「銅戈を釘のごとくに打ち付ける役目の意」の盤座の大きさだと思っていたが、巨岩の表記があることから、どうやらそれが実態のようだ。巨岩か?盤座か?の大きさで、その埋め方は大きく変わってくる。巨岩だと、その側面に沿わして埋める。盤座だと銅戈とその勾玉を埋めてその上に盤座を載せて押さえつけておきたい。もっとも、後には四国の石鎚山やら、瀬戸内海の大槌島へとその信仰の対称は大きくなっている。

「巨岩」であるならば石垣造営のために相当量切り出していると思われるから、その銅戈と勾玉がどこに、どの深さで埋めてあったか推定しづらくなるが、概ねは社(やしろ)の真後ろであろうか。いずれにしても、「 どのような状態で出土したか?」 それを正確に知りたい。この埋め方は、他のヶ所の埋め方にも通じるからだ。・・・記録に残っているといいのですが・・・。

<その埋めた深さについて考えてみよう>
以前の謎解きで銅鐸や、銅剣の埋めた深さを四尺だとしたことがある。これは「四」は「死」につうじ、当時の男子の平均身長を五尺として、その肩先の高さが四尺で、それ以上深く掘ると顔に土がかかり掘りづらくなるからだとした。土葬などは概ねこの深さに掘る。この比較的浅いといえる深さにも関わらず、それ等が盗掘に合わなかったのは墓泥棒も恐れるほどの“タタリ”があると信じられていたからだ。実際、先の <たねち様>の言では、「民家の間にあって目立たないので行き過ぎかけてしまいました」とある。このようにその参道が細いのは、そこが近寄ってはならないほどの恐ろしき場所であったからだ。それが今では? とほほのホ・・・、グーグルアースで参拝できます^^!。

 しかし、ここで難しい問題が生じて来た。この命主社の前方にある根上がりの大楠木だ。樹齢およそ○千年。幹周り、およそ○m。根上がり、およそ2m。根上がりとは。樹木の生えていた表土が流れてだんだんと根の部分が表われてくることをいう。盆栽などは、その趣をだすために植え替えのたびに根の部分を持ち上げて植える。このように、「根上がり」とは、年月をかけて除々に表土が流れ去るか、取られるかがないかぎり見えてこない。樹木の直根は種類にもよるが1.5m~2m。幼木で、短期にその深さの根が空気中に晒されれば樹木はかれてしまう。そして、銅戈や勾玉が、筆者がいう四尺の深さに埋められていたならば、その深さは浅くなってくる。さらに、どこやらで「何やらを倍の深さに埋めたが、未だその声鳴りやまず」との文面をみたが、この深さだと金属探知機もきかない。いずれにしても、この大楠木の根上がりになった年月は解明されなければならない。

<銅戈について>
詳しくは、先様に譲りますが、筆者は銅戈というものを知りませんでした。
写真に載せられるといいのですが、銅矛の進化形のようで、矛の根の方に関(まち)という両刃の鎌状のものが付いていて、戦闘時に、突いたり、相手の首を掻きとるための恐ろしい兵具のようです。当時の最先端の兵具だったのでしょう。この首を掻きとることからと勾玉・首飾りで、祖先はその埋め場所を「竜の首部だとした」と推察しました。

一方の<勾玉について>
この勾玉があることからも、「竜の首だ」と導きだしました。(勾玉と銅戈のセットは出雲だけ?)
さらに勾玉を竜の「首飾り」だとすれば、その一ヶ所だけとは考えられないことから、鵜峠と、日本海側の社寺にも、同様に埋められているはずだとしたところで終わっていました。
長さ3.6ミリ、厚さ9.9ミリ、の大きさはセンチの勘違いと思われますが、とても立派なものである。古来より中国でのヒスイはとても珍重され、半透明で雲のかかる空と見えるものがもっとも上質だと聞いたことがある。それはただ単にその石の美しさだけではなく。この石に神秘性を感じたのでしょうか。この石に髪の毛を巻きつけてライターの火をあてても燃えないことから、ミゾオチへあたる首飾りにするとか、腕輪にしておくと病熱を奪ってくれるそうだ。そして、この石は硬石ともいわれるように、とても硬く(○度)細工がしずらい。その硬い石で「穿孔が大きく」あけられていることは、その技術の高さをあらわす。命主社から出土した銅戈と、その勾玉は、最高品質のもので最新兵器が使われている。この思いは、祖先がいかに島根半島・巨大竜を強大に思っていたかに通じる。当時の列島にそれ等を製作する技術はなく。大陸からの輸入か大陸人の技術によるものと思える。当時でも舶来品は別格だったのでしょうね(笑い)。

<四千年前の島根半島・出雲竜が受けた大事変の概略>
①この詳しくは、このカテゴリーで述べていますが、東北からの巨大津波と大地震は中海の入り口へ土砂・弓ヶ浜を積み上げシャットアウトした。(津波高さ約20m以上?の片V字湾奥津波: 筆者提唱 )
②その大地震と大津波は、当時海のなかに浮かんでいた島根半島を蛇のようにくねらせ、破砕半島にした。(Dr.いずも氏言、今はありませんが子牛ほどの銅鉱石がゴロゴロしていた。)
  *地震波は、列島に沿う島のような小さい山塊により大きく作用する。 (これも筆者提唱 )
  例:島根半島(カテゴリー出雲地方)、宮島(アーカイブ00/00)、小豆島等、信仰の対象!
③日御碕の灯台下の玄武岩柱ありは(Dr.いずも氏言)。 蛇の尾っぽのごとく、激しく上下して、列島に沿う日本海グリーンタフラインを刺激してマグマが噴出した。(地震の船尾効果:島根半島をマントルに浮いた船に例えて、地震進行方向の末尾では、地震力は次へ伝わるものがないことからその端で大きく上下すること。←筆者提唱(日御碕の海底階段遺跡アクア工房岡本哲夫氏)
 *列島・巨船は、太平洋プレートによって、たえず日本海側へ押し付けられており日本海側でもその圧縮力と圧縮熱は蓄積される。(筆者論 )このことから、岩石に比べて比熱の小さい金属鉱石は温まり易く熔け易いので上昇しやすい。例;石見銀山、佐渡の金鉱、
④松江市の茶臼山あたりは、津波が縮流となって、顕著な流紋痕を残している。縮流とは流れが狭められて、その破壊力が増すこと。例:長野県の寝覚ノ床のように、
⑤其の他、三瓶山の噴火の誘発はこの時の地震で、三瓶山の埋没林は、この時の日本海沿岸津波でなった。彗星衝突による『縄文超々巨大津波』 文芸社(奥州市・岩淵國人先生)
  ちなみに、筆者は鳥取の砂丘もこの時に出来たかと疑っています^^!。
⑥BC2001年、北陸・三陸地方巨大隕石→隕石の冬10℃~15・6℃の降下。5m~6mの海退。(これも筆者独自論です→拙ブログ: カテゴリー巨大隕石と大津波)

かの昔の人達は、以上のような大事変を経験し、その歴史を伝承してきたが、江戸の初期。寛文5年(1665)今から350年ほど前には、その恐ろしさをすっかり忘れ、バチ当たりにも命主神社の巨石を砕き採るとは!! かく言う、今日の史学からも、常識外扱いされてます!^-^!

その2.<日本海側の大岩の下>で、
大文字の一文字部分の止め部にあたる日本海には、卍と御宮の二つがあり、どちらか決めかねていた。この度、ネットで調べると文殊院と伊奈西波岐神社であった。さらにグーグルアースでその神社を子細に訪問(?)してみれば、その鳥居の前に台座の上に何やら大きな石が据えてある。本殿は大社造りとある。ひるがえって命主社も大社造りであった。この裏手に大石はあるのか?
色々ネット上を調べてはみたが分からない。さらに、鳥居の前方に立ち(グーグルアース・ストリートビューで^^!)その後方をみたが雲がかかってよく見えない。何をに見当を付けているかというと、その後方に前々の謎解きで、この地に<竜山>の地名があったからだ。島根半島を竜の全身としたならば、住家の大半がある出雲平野から見える<鼻高山>か<弥山みせん>に、私ならその一番大事な、「竜」の山名を付ける。なのに、何のへんてつもない?人家から遠くのこの山に「竜の名」を冠したのがよく解からなかった。さらに詳しく調べると、鳥居から見てその真後ろに竜山はあった。文殊院から見ればその頂はよく見えるのかも知れない。その銅戈と勾玉を埋めた場所は、本堂の裏に大岩があれば、そこであろう。無ければ竜山の麓になる。この竜山に付いては後ほどに^^!

その3.<鵜峠(うど)に大岩はあるのか?> それを捜せ!
鵜峠の地名は大の字の一文字を書いて、左右のハライ部の起点にある。蛇足ながら神主や行者さまが「払えたまえ」とやるところでもある。奈良の大文字焼きはその後の歴史の流れかと。そして鵜(う))は、鵜呑みにつうじ四千年前の列島に生じた巨大津波が上陸し、全てを “ウ飲み”にし、海に持ち帰ったことから、「ウ」の付く地名は要注意と前々の謎解きでしている。
 この峠をストリートビューで何度も行き来してみるが、それらしき大岩が見当たらない。峠の辻には、峠茶屋や峠を記す石碑がよくあるものだがそれもないようだ。わずかに建物の印があり、この度よく調べると、「出雲動物管理センター」であった。この道沿いには人家や畑も見えないようだ。概してさびしいところである。この私の見当違いであったのか?。もし、この素人探偵の推理が当たっていれば、祖先は必ずその痕跡か、言い伝えを遺しているはずだ。さらに、この辺りの山をストリートビューやら、グーグルアースのアップダウンを繰り返してみると・・!? この峠のすぐそばにある小高い山から伊奈西波岐神社方面を見ると鷺浦の湾が見えた!!

  ならば、反対側の大社方面も見えるはずだ! 推みは間違っていなかった。大社への直線参道が正面に見える。真南より少しずれているのは、地軸の傾きからくるズレかも知れない。千年もの永きに渡れば真北はズレてくる。国土地理院ではある年月で緯度経度を修正する。逆算すれば、その直線参道が何時引いたかが判ってくる。 
卑弥呼は、この峠山に立ち日没から深夜まで封印の大祈祷をおこなった。人数は、少なく見積もって20~30人。向きは日没の西方向だ。その人数の立てる場所を探せ!
35°24′54.79″N,  132°40′53.26″E, h345m。 その上に盤座が据えてあるか?? 
 この小高い山の名が分からないので仮に「竜の咽首」とでも呼んでおきましょうか^-^!。

    <咽首(仮称^^!)から鷺浦の湾を眺める>Google earth 350m高さよりの写真
            のど首より鷺浦方面
  <咽首(仮称^^!)から出雲大社方面を眺める>Google earth 350m高さよりの写真
            のど首より大社方面



つづきます^^!
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