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此処に 「卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸」 あり!!
卑弥呼は魏から得た100枚の銅鏡に換えて出雲と “同じ決め事”で 持ち寄った銅剣と銅鐸を封印した!
卑弥呼の謎解き その後と付言、そのⅠ.
<卑弥呼の謎解き その後と付言、そのⅠ.>
     【再開しました】 またまたお付きあい願います^^。 ('10/7/11)

5月1日をもって「記事」の更新をしないとお知らせしたにもかかわらず8~9名の方が訪問して下さっているようです。頭が下がります。「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」が出土するのは、まだまだ先のことになりそうです。その時が、何時になるやらは分かりませんが、その時には、共に喜び合いましょうね(^-^)。中断していたネットのほうも環境が整いまして、どうやら記事のUPが出来そうです。その後に得た 【情報やら訂正やら】 を載せていきたいと思っています。引きつづきの駄文にお付きあい下されば幸いです。
         追記しました^^!。 前回は(7/28・29)で 今回は(7/30)です。

<初めて、ご訪問の方に>
ご訪問ありがとう御座います。このブログで掲載している記事のすべては関連モノですが量も多くなったので、その言葉足らずのところや要旨をとりまとめたいと思います。興味が湧いた方は、 “ふりだし”から、どうぞ(但し、お暇な方に限ります^^)。お勧めは、カテゴリー別で入って下さると読みやすいかも知れません。 尚、コメント欄も結構おもしろいかも~(^-^)♪

【 今までの要旨と、付言 】 
 昭和59年出雲で、道路工事の予備調査(一発目のトレンチ調査で)から大量358本の銅剣が、平成8年に別の道路工事中の偶然から39個の銅鐸が出土した。それまでには滋賀県の野洲で24個の銅鐸。神戸の桜ヶ丘で14個の銅鐸が出土していた。それ等も道路工事の新設とか土砂の採集中とかの偶然性によるもので、いずれも人里離れた辺ぴなところであった。それまでにも銅鐸や銅剣が数個ないし1個の出土はあったが、このように、一つの場所で大量の青銅器が発見されたのは今のところ上記の3カ所であり、これ等が何故(大量に)埋められたに付いては、専門家の説も分かれ(一時的な)埋納とか、奉納とか、蒐集とか、隠したとか、祭祀が変わり不使用になった等の説があり、多くが認める定説はない。

 しかしながら、それ等の(3カ所+1カ所・吉備←筆者予測)4カ所については、驚くべき“共通性”があることが分かった。(私が)それを何故、卑弥呼に結びつけたかに付いては、銅鐸を使用した祭祀(?)は、今現在行われていないが、銅鏡の方は今でも何処やらの神社の御神体として使用(^^?)されている。 言い換えれば「銅鐸文化」から「銅鏡文化」への変遷・移行があったはずで、卑弥呼は(239年)「魏」に贈り物をし、その返礼として大量100枚の銅鏡を得ている。この時に列島の銅鏡の総数が一時的に増大している。この場合の 『一時(いちどき)に、大量に』という言葉の意味はとても重要であり、その変換点に卑弥呼がいる。

 元はと云えばヒミコは、人里離れた境内で雨乞いや厄災除け時のため、三歳~七歳までの稚児(多くは女児)を神子として召し上げ“人身供儀用”として育てられていた内の1人であったが、その予言やら治癒力が秀でていることからその厄を逃れていた。おりしも朝夕の空に輝いた1点の帚星が全天にわたることを予言し、その昔列島を襲ったBC2001年の大事変(その詳細は別記事)の再来かと人々が恐れるなか、火巫女はその退散の祈祷(=かぐや姫伝説?)を行った。結果的にこの彗星はニアミスに終わり、日巫女の知名度は列島に知れ渡った。

今の物証至上主義の史学(の大勢7割?)と、素人探偵との違いは、それ等の昔話を単なる寓話ととるか、<史実を潜ませた>祖先からの創作話とするかの違いにあります(笑)。

 この一件でカリスマ性を増した卑弥呼は、それまでに思われていた雨水(天井戸)や厄災を司る神、荒神・彗星は『太陽の従神であり、雨の降る無しを決めるのは主神・太陽であるよ』と諭し、生け贄を伴うまでにエスカレートした銅鐸祭祀を止めさせて、その代わりに銅鏡を与え太陽を象徴とした銅鏡祭祀に変えようとしたのだ。もとより早朝の戸口に白羽の矢が立てられればイヤでも愛児を差しださねばならない社会制度に人々の不満がくすぶっていたから、卑弥呼の提唱する太陽が主神で、その供物に身代わり文化(今に残る御雛流しとか人名を護摩木に記す)へと容易に変わって行く。

 卑弥呼が埋めさせたか、あるいはその影響を受けての事かは断定できないが、生け贄を欲しがる荒神(水神・竜神)を呼び寄せ乗り移す媒体として使用していた銅鐸と、「この煙どうぞ雨雲に換えて下さい」と願い稚児や娘を殺めた銅剣を、「その神二度と起こしてはならない! その剣、二度と使用してはならない」と、人々それ等を持ち寄り、卑弥呼さまに“封印”してもらったのだ。これに気付きさえすれば、雨乞い竜神文化が発達しその地名を残す、かの地の “未掘の大量の銅剣と銅鐸は”容易に予測して発見できる。判らないことがあれば、その両方が出土している“出雲”の子細に習えばいい(^-^)♪。

<これが貴方に伝わらないのは、その史実がなかったからではなく私の論が拙いからだ>
 実績のない素人が、いくら「大量の銅剣や銅鐸がここに埋めてあります!」と5万語の拙論を連ねようが<世間様>は、専門家の追認がないかぎり動ごいてはくれない。さりとて、現実にはドのつく素人が他人様の(公地や社寺地?)をスコップ片手に勝手に掘り上げるには事が難しすぎるし(第一その了解すら得られない^^!)。 素人は一事案だけを追う探偵であり、全ての法律に(知識)長けた検察官(専門家)ではない。(掘り上げる)逮捕権を持ち合わせてはいないのだ。世論か湧きあがり、マスコミや行政・専門家が動いて 『その封印』 が解かれる日は、何時になるのでしょうか^^? それには、是非とも<貴方の>参加が要る! 始まりからを加えれば、これ等に20余年を費やしました。あと何年かかるのでしょうか? どうぞ、それが私くしの存命中でありますように!(笑) 専門は問わない。 貴方様のご参加を切に願っています。
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<銅鐸について> (7/15)
銅鐸は「謎の青銅器」と呼ばれているもので、何故、この“日常的”ではない青銅器が存在したかについては、専門家におまかせして。 筆者の知るところでは朝鮮半島の「風鐸」に影響を受けた等の論がある。 しかし、大陸での出土は聞かないから列島独自のものであるようだ。 何かの祭祀のために使用されていたとするのが皆の一致するところである。「何かの祭祀」とは、厄災からの忌諱(きい・逃れること)を神に願ったと思われるが、ここで問題にするのは、それを願う『神』である。 神と一言でいうが、今では神様も細分化して「貴方のいう神様と、わたしの信じる神様はちがう^^?」。 弥生・縄文期での神様とはいったいどんな神様であろうか? 銅鐸という特異で「共通」した青銅器を使用していることから考えられることは、各々が違う神様であってはならない。それは共通した神なのだ! その銅鐸が全国津々浦々から出土している。ということは、各々の交流があったということか?

銅鐸は、筆者の覚える所だけでも、(破片も含めて)南から、北九州・出雲・瀬戸内・近畿・近江・(北陸?)・東海・等から出土している。 丸太くりぬき舟が当時の交通手段 だと考えられている弥生・縄文時代からの出土である。ちなみに、岩舟石棺等の考えが出現するのは「卑弥呼・以後」にはじまる「古墳代」からである。・・おかしい??

<津のつく地名> (7/17)
次に注目して頂きたいのは津々浦々の 『津』 という地名の多さである。 津というのは、港に入った波という意で津波のことを言うに言を待たないが、南は鹿児島から北は北海道まで「津」という共通した言葉で地名がつけられている。ちなみに、それ等を中学地図で拾ってみると、
太平洋側から、宮城県(志津川)千葉県(天津小湊、木更津、富津)静岡県(沼津、興津、焼津)愛知県(御津)三重県(津)滋賀県(大津)和歌山県(泉大津)兵庫県(御津)岡山県(下津井) 香川県(津田、宇田津、多度津)山口県(今津川、大津島)福岡県(豊津)大分県(津久見、米水津)宮崎県(美々津川、油津)鹿児島県(坊津)長崎県(布津、時津)佐賀県(唐津)
 日本海側の北から、北海道(茂津多岬)青森県(津軽)新潟県(新津、佐渡島両津)石川県(津幡、片山津)福井県(金津)京都府(宮津)鳥取県(日吉津)島根県(温泉津、江津、高津川) ざっと拾っただけでも、海洋に面している県のほとんどに「津」の地名がある。これ等の詳細な分析は、“祖先からの伝言”として、極秘報告書「巨大隕石と大津波」で挑戦しています。それはともかくとして、

<「津」という共通地名が、何時どのようにして付けられたのか?> (7/20)
 筆者は、これ等の地名が何時に付けられたのか知らない。「日本は、地震国・海洋国だから「津」の地名がついていても不思議はないでしょ!」と言われれば実も蓋もないが、子供心(わたし)が疑問に思うのは、
 1.津波は多くの場合地震によって発生し、その大きさは震源と津波を受ける位置関係と地形によって大きく変わる。例えば、津波は震源に対して遠浅で受けV字の湾奥であれば最大となるが、それが逆V字であれば“行き潮(筆者の仮称)”の揺れ戻し程度でさほど大きくはならない。しかし、この論で言えば列島の片側のみの名付けで良さそうに思うが、現実には「津」の地名は列島の周囲(360°)に付いている?

 2.「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」というが、子供心に何故“つ”の一文字なの?と思ったものでした。ふつう言葉の伝言手段としては、○津とか津○のように二文字以上を使うほうが簡単に相手に伝わると思うが? しかし現実には「津」の一文字であり「津」の地名は北海道を除く列島の沿岸のすべてに付いており、裏をかえせば「津」の一文字でも列島沿岸の住民のすべてが「つ」の一文字を発しても判る共通の認識があったことになる。地名は<二人以上がその地へ住んだ時>から、お互いの会話で必要となる。 それが「何故」列島のすべてに・・・?
  (7/22)
 3.私達は、地名というものは流動的で変移するものと受け取っているが、筆者は、そうは思わない。例え国土地理院であろうと、いちど地元の人達が使用している地名を「このようにしなさい」とは勝手に付け変えるわけにはいかない。皆が承認し一度定着した地名は(例外はあるが)簡単に変えられるものではない。「あなたの言う、その山・川は何処よ?」と混乱するからだ。北海道のようにアイヌ語に由来しているものでも出来うるかぎりその意味を加えた表音字を使用していると聞く。 その統一と変更は、十分に社会制度が確立して後にできることである。二人住めば地名を付けるその昔の(縄文・弥生)からたまにしか来襲しない津波という特異現象を「津」の共通語で知り得て、しかも経年的に付名したとするには無理がある。しかし、現実には列島の周囲360°に「津」の地名が遺されている。 どなた様か明解なお答えを・・・^^? (徐福達が日本史へ与えた影響Ⅵ(完)摂津市の不思議へつづく)

  以上。銅鐸にしろ、津の地名にしろ、その文化(考え)を列島に伝え得るだけの、
時間と、交通量(交易)と、合議が要る! 筆者が問題にしているのは、その時が列島の「丸太くり抜き舟」の出土しかない?弥生前期・縄文期であることが問題なのだ!

<コメント欄より転載>
津と浦  shigechanizumo | URL | 2010-07-23-Fri 15:18 [EDIT]
私が良く分からないのは、津と浦の違いです。島根半島の各港を見ても、○津、△津、◎津と続いて、□浦などとなっています。小伊津、塩津、釜浦などの並びです。津々浦々というのと関係するのでしょうか。

<コメントに感謝!> (7/24)
史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-07-24-Sat 00:46 [EDIT]
Dr.> こんばんわ^^♪  コメントありがとう御座います。
日々の記事にご多忙のDr.>が、コメントを下さるなんてまさかの思いが致します。その件に関しては、思い」が固まっているわけではありませんが、と前置きして・・・、


≪津≫ 古代人が「つ」と言葉にした場合は「一つ二つ」の「つ」であろうと考えています。ご存じのように津波は幾波にもおよび第一波が当地の最大波であるとは限りません。一つ目二つ目→<多度津>になったかと推察しています。小伊津>は辺りの地名を見ないと分かりませんが、古代人が<小>と付名した場合、大人になる前段階の<小人>であり、その場所が手狭になったから似たような広い場所へ移っていったと考えています。例えば<小国神社→秋葉神社、古座→お伊勢さん>のように? 塩津>の場合は盆地状の所に海水が入り込み海水のみが干上がって濃い塩分が残るわけですから、その塩は荒神様からの賜り物ですよね。→塩と神の結びつきへ。
師>の云われる「地名の並び」については着目したことが無かったので良くは分かりませんが、津の付名の多くはその地形によると判断しています。津の付いた列島の地名を拾うとその時の津波の大きさが克明に(拙報告書:祖先からの伝言)分かってきます。それより何より4010年前のその時の津波の状態を(例:豊津、福山、嬉野、等々→津波が運んだ海産物が山をなせば誰だって嬉しいよね^^)地名として記録に遺した祖先か列島沿岸のすべてに居住していたことに驚きを覚えます。この考えは今の史学には全くありませんからね(笑)。

『浦々を考えます』 古代人が「う」と発音した場合は、次の二とおりを考えています。 一つには<隕石=竜の飛翔音と、地震の地鳴り、津波の潮鳴り>が発する音で『うなり音』。→後の<うたい>へ。 二つには、津波によって当該地へ押し寄せた“大量の海水と魚介類”を、古代の人達は荒神様が海水と共に『鵜呑み』にした物を吐き出した?と思った。→後の<鵜飼い神事>へ。 あるいは “ウワバミ” のように丸飲みする? <ら>は、おめえ等わし等の“ら” かな?  
Dr.>はお酒好き?暑いおりがらのビールはほどほどになさいませ。どうぞ御身お大切に^^! 暑中お見舞い申し上げます。 次はご教示下さった「徐福」へ入る予定です。  ←このやりとり記事にUPしていいですかぁ~?、といってももう入れちゃいました^^!。

「ウラ」じゃあ踊り♪等、「ウラ」と朝鮮半島との結びつきは、Dr.>のほうが、お詳しいので・^^
 おっと、「津と浦の違い」忘れてました。津>の付く地名は、そこへ大量の海産物を打ちあげ残していった所! 浦>の場合は、大量の海水(魚介類も含む)は打ち上げたが、その地の勾配がきつく何も残さず。むしろ表土とともにそこの植生までも奪い去った所かな? これは素人の思いつきですから後で確認してみます^^。そして『残す・残さず』の、裏(うら)表(おもて)の関係かも知れません。古代人は<海>=生み・産み・膿みのように? ひとつの言葉に意を重ねる場合がありますよね。いずれにしても、これ等は、師>のお得意分野ですから、素人探偵の追求はここまでに・・・^^!)

<東方神起>(7/25)
話は変わり、朝鮮半島や中国大陸には「東方神起」という言葉がある。この場合の神は、紀元前2001年12月25日未明の6時頃、日本の東北地方に降臨した巨大隕石によって発生した巨大地震と巨大津波(前記事で記述)がもたらした厄災の神を云い、それを討伐すれば國を治めることが出来るという。その時の津波は、朝鮮半島V字湾奥の<後で調べます^^!>、大陸では渤海湾奥の<天津>、巨大V字湾奥の黄海湾奥、そして、杭州V字湾奥にまで届いている。今でも杭州湾奥では大潮の時、大洋からの波が津波となり、それを「車馬が押し寄せる様」と形容し観光名所にもなっている。その時の被災のほどは知らないが桁外れ(湾奥で20~30mか??)の被災であったと想像するに難くはない。今回の韓国艦船の沈没に端を発した黄海での 「原子力空母を含む米韓(空前の?)大規模演習」 に中国が強く(猛?)反対をしたのは、このような歴史的背景(自説)がある。中国の指導者にとってそれを許すことは到底出来ないのだ。やむなく日本海での演習になるようです。古代中国にとって“東方彼方”は何やら未知の強大な神がいる場所である。
( 中国の史書にその時の被災が必ず残されていると断言できます。わたしはそれを知りたい。)

       地震波による津波の到達時間  海伝達による津波の到達時間 
    <杭州>      am4時過ぎ          am7時半頃?(何れも現地時間)
    <黄海>      am4時過ぎ          am8時半頃?
    <天津>      am4時過ぎ          am9時半頃?
  以上は素人計算ですから全く当てになりませんよ!(滝汗)! どなた様かお確かめを!
 要は、<その記述が>BC2001年12月25日寒い冬の朝方であればバッチシね(^-^!)
 ゴメン!忘れてました。「寒い冬」ではなくてその時の地球平均気温は今より15-6℃上?
 ですから、今の気候でいえば<秋の採り入れ時>かな? 日本のご先祖さまは、その時の
 津波が<瑞穂や、大草や、千種、草津>を打ち上げたと地名に遺していましたから。
 海水位は、今より5~6m上。( 陸中の島名より推定 ) 当然、四千年まえの中国では稲作
 があり、“収穫前?”の大稲作田が全滅ですから困窮したでしょうねえ!?
<西方浄土>
一方、同じ神でも日本では、被災もあったが、その時の“隕石の冬”がもたらした雨は「慈雨」であり、その津波で打ち上げた魚介類は、荒神さまからの贈り物(恵み)である。その荒神さまは大陸の方へ地震となり白波の津波となって西進したのを記憶している。列島の住民は 『荒神さまは西方へ向かわれた』 と思っている。このように同じ事象によって発した神ではあるがその思いと方向は全く異なる。

 わたしの言う 『その史実』 がなければ “東方神起” の言葉は生まれない。「起」という言葉がそれを語っている。そうでなければ何もその神が東方に限ったことではなく「東西南北」好きなところからお出でなさるがいいと思うのが子供心です(笑)。


<卑弥呼の謎解き その後と付言、そのⅡ.>

  (2018/1/23)
次の記事は<出雲竜を縛り付けている銅戈&勾玉を捜せのⅢ→掘り上げろ!>より移設しました。
その8. <では、その出雲竜を縛り付けている銅戈、勾玉&(銅鏡?)は誰が埋めたのか?>
 次の話は、推理とは言い難く、想像といった方がいいと思いますが・・・、とお断りして・・・ ・・・、
筆者は、その銅鏡(出雲・鷺峠大文字の)が出土するまでは、それが卑弥呼だと断定したくありませんが、おそらく卑弥呼だと? 卑弥呼は、竜神雨乞い文化が永々と続いていた瀬戸内の「里木」という所で生まれた。(ヒミコは一般名で櫛稲田姫?)後に卑弥呼と呼ばれるようになったこの子は、里木神社の祭神を父に持ち、やがて娘となり、出雲の男神に嫁いでいった。その仲人・媒体役をしたのが、高梁川の河口に住んでいた秦(はた総社)の人たちだ。この人たちは不老長寿の薬石を求め列島を探索した徐福のながれを持ち出雲とも陸路で通じていた。卑弥呼は幼少時から予知・予見能力が特にすぐれ、当地の長で大陸人とも交わりのある父の影響をうけて大陸文化の知識ももっていた。それが、当時の中央都市・八百万の神が集まるという出雲にも伝わり嫁として請われたわけだ。

卑弥呼は、常々幼児を慈雨と交換する「雨乞い文化」に疑問をもっていた。時もおり、暁の空に現れた荒神・彗星を太陽のお使者だとし、それが全天に広がると予見し、その退散祈祷をおこなったことは、頭書ブログで述解している。この話しが、列島を股にかけ大陸との交易をおこなっている秦の人たちの手助けしている列島人(後の大夫?)を通じて全国的に広まった。もとより、幼児を生贄とした雨乞い・社会制度に、嫌気がさしていた人々は、卑弥呼の言う太陽主神説に容易に従う。 しかも、卑弥呼さまは、それまで使っていた銅鐸を太陽光を放つ銅鏡と交換して下さるという。この交換は出雲を始まりとし、その卑弥呼の出所の「里」でもある吉備地方へとなった。その吉備地方総社・岩屋に封印されている大量の銅鐸と、その周辺に埋められている銅剣は未だ発見されていない。

さらに、卑弥呼は東進し、神戸でも銅鐸を銅鏡に換える封印祈祷をおこなったと前述している。
<姫路の地名は>、卑弥呼が輿・こしに乗って千人(多人数の意)の従者を連れての大旅行に由来していると謎解きした。途中の人たちは、その卑弥呼さまのお輿を、「決して目にしてはならぬと地にひれ伏した」 なぜなら、不用意にそれを見てしまうと己の目が見えなくなってしまうと信じられていたからだ。この件は四千年前の東北に光臨した巨大隕石が放った閃光によって眼底がヤケドしたことに由来すると謎解きしている。それを魏志倭人伝では「虫のように草むらに隠れる」と称している。これは、後の大名行列での土下座へとなった。さらに、卑弥呼は野洲にもおもむき、ここでも銅鏡を与え大量の銅鐸と銅剣を封印した。しかしながら、神戸と野洲では大量の銅鐸は発見されているが、大量の銅剣のほうは未だ出土していない。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
      さて、<ここからは、本邦初公開の素人探偵の大想像です(笑い)>
卑弥呼は、野洲からの帰路についた。・・・が、長の旅の疲れがドットでて箸墓でその命を終えた。弟子たちはその遺体を出雲まで、せめて出生地の吉備の里へと持ち帰りたいと思うのが心情だ。しかし、それは出来ない相談だ。そこで、この地に墓を築こうとなったのが箸墓古墳だ。当時は土葬が一般的であったが、卑弥呼さまは特別な人だから、火葬にしよう」となったのかも知れない。その分骨を帰路の吉備の総社でなしたのであろうか。吉備地方で古墳群・古墳期が発達したのは、その影響があったかとも思われる。

その後の歴史は、素人のまったく識らぬところであり、ましてや、邪馬台国論争には立ち入れるものではないが、卑弥呼が魏から受けた100枚の銅鏡のほかに長剣や金印がある。長剣はともかく金鑑は卑弥呼個人のものであり、他の人には用をなさないものである。当時に、それを押印する紙が一般的に出回っていたとは思えないし、旅先にまで、その金印は持ち歩かない。卑弥呼はその印鑑を出雲に残したままあの世に旅立った。その金印は、その分骨や遺品とともに埋めちゃえ (^-^!)となるのが、無理のない展開。 その円墳は出雲にある!! ・・・どうぞ、その探求を!!
 最後に<卑弥呼の出所、誕生地>であるが、
先に、卑弥呼の生地として岡山県の吉備地方をあげておいた。筆者は「吉備地方」をどこからどこまでを言うのかは知らない。倉敷市船穂町に里木貝塚を前にみる所に「里木神社」がある。詳しくは覚えていないが、このところの立て看板に、この神社の祭神を父に持つ娘(櫛稲田姫)が出雲の何やらの神に嫁いだと記されている。船穂町は、海抜5m~6mのところにあり、今では倉敷市に合併されている人口一万?に満たない小さな町である。その昔は海辺であったことから、道路施設前の「前田遺跡」の調査では、製塩に関係する土器が出たそうだ。この船穂地区を昨年の10月に絶版となった、拙「巨大隕石と大津波」電子出版で “竜神雨乞い文化のモデル地区”だと提唱した。その理由は、わずか10km平方のところに竜神雨乞い文化に関係するすべての地名が具備されていたからである。
 <后王>という地名の不思議
この船穂町北谷に<后王>という地名がある。皇后様の「后」であろうか。聞く範囲ではその読み方さえ知らない。とくに歴史的に取沙汰されることもないような、この小さな集落に「后」の字は大仰(おおぎょう)である。天皇さまの地名は各地で聞いたことがあるが、男社会のその昔からだとすると、女名のこの地名は大層すぎる。その谷あいに小さなため池があり、それにに付随して小さな祠はあるが、それとてどこにでも見かけるようなもので特筆すべきとは感じない。その地名が “淘汰されずに残っている” 事態に大きな違和感を感じる。それが、今の今まで残されているのは何かの訳がある。もし、ここが出雲へ嫁いだ卑弥呼の出所で、里木神社の祭神を父とし、卑弥呼の母御に由来するものであれば話しは面白くなってくる。ちなみに、この「后王」の地名は、国土地理院発行の船穂町の詳細地図で見つけたもので、その地に住んでおられる人さえ聞いたことがないような地名であった。(以上、素人の本邦初発表でした。-笑-) □

 つづきます^^!
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COMMENT

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itaroh | URL | 2010-07-13-Tue 20:18 [EDIT]
良かったです。旧知の友というか、うれしいことです。
又々、始めました^^!
平 素人 | URL | 2010-07-13-Tue 21:05 [EDIT]
1 tarohさん> こんばんわ♪ さっそくのコメントありがとう御座います^^。
只今、編集に苦戦中です。作文が下手であとで読み返してみての「駄文・長文」。 自分でもなに書こうとしてんだか分かんない時があります。 1 tarohさん>のように短文形式にも書ける人がうらやまし~い^-^!)。 ネタ不足ではありますが又々始まりました。今後ともよろしくお願いいたします。

shigechanizumo | URL | 2010-07-14-Wed 16:11 [EDIT]
お元気でしたか。期待してます。
こんばんは
fuse | URL | 2010-07-14-Wed 22:31 [EDIT]
再開ですね!
訪問歴があったのですが
このところバタバタしてまして
来るのが遅れました。
また、楽しみにしています。
再開しました
平 素人 | URL | 2010-07-15-Thu 03:55 [EDIT]
Dr.izumo さま> コメントありがとう御座います(^-^)♪
ご無沙汰してます^^!。PC.活動再開しました。次のターゲット(興味)は“卑弥呼の円墳”? 
今後とものご教示を賜りますよう、よろしくお願いいたします(^-^)。
ゴソゴソと ・・・(^^!)
平 素人 | URL | 2010-07-15-Thu 04:23 [EDIT]
FUSE さま> コメントありがとう御座います(^-^)♪
 ええ・ご訪問はしたけれど・・・、魅入ってしまってノーコメで・・・^^!
相変わらずお忙しいご様子^^! この時期はとくにお体お大切に!
津と浦
shigechanizumo | URL | 2010-07-23-Fri 15:18 [EDIT]
私が良く分からないのは、津と浦の違いです。島根半島の各港を見ても、○津、△津、◎津と続いて、□浦などとなっています。小伊津、塩津、釜浦などの並びです。津々浦々というのと関係するのでしょうか。
コメントに感謝!
史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-07-24-Sat 00:46 [EDIT]
Dr.> こんばんわ^^♪  コメントありがとう御座います。
日々の記事にご多忙のDr.>が、コメントを下さるなんてまさかの思いが致します。その件に関しては、思い」が固まっているわけではありませんがと前置きして、
≪津≫ 古代人が「つ」と言葉にした場合は「一つ二つ」の「つ」であろうと考えています。ご存じのように津波は幾波にもおよび第一波が当地の最大波であるとは限りません。一つ目二つ目→<多度津>になったかと推理しています。小伊津>は辺りの地名を見ないと分かりませんが、古代人が<小>と付名した場合、大人になる前段階の<小人>であり、その場所が手狭になったから似たような広い場所へ移っていったと考えています。例えば<小国神社>のように? 塩津>の場合は盆地状の所に海水が入り込み海水のみが干上がって濃い塩分が残るわけですから、その塩は神様からの賜り物ですよね。→塩と神の結びつきへ。
『浦々を考えます』 古代人が「う」と発音した場合は二とおりを考えています。 一つには<隕石=竜の飛翔音と地震の地鳴り、津波の潮鳴り>が発する音で『うなり音』。→後の<うたい>へ。 二つには、津波によって当該地へ押し寄せた“大量の海水と魚介類”を、古代の人達は、荒神様が海水と共に<鵜呑み>にした物を吐き出した?と思った。→後の<鵜飼い神事>へと。 あるいは“ウワバミ”のように丸飲みする? <ら>は、おめえ等わし等の“ら”かな?  Dr.>はお酒好き?暑いおりがらのビールはほどほどになさいませ。どうぞ御身お大切に^^! 次はご教示下さった「除福」へ入る予定です。 ←このやりとり記事にUPしていいですかぁ~?、といってもう入れちゃいました^^!。
童男童女
shigechanizumo | URL | 2010-07-28-Wed 16:14 [EDIT]
新しいシリーズのご健筆をお祈りします。と、言いつつ困って頂きたいことを書きます。

なぜ童男童女を連れて行ったのか、足手まといなのに・・・とあります。

私は、徐福さんと握手をした夢を見ました。そして、その時徐福さんは、「この童男と童女、あなたにあげるあるね。」と言ったように思います。

「何でこの童男童女を私にくれるのか。」と聞いたところ、徐福さんは、「あなたのいい様に育てれば良いあるよ。」と言いました。

その間、じっと私を見ていた童男童女の目が忘れられません。

なぜ徐福さんはそのようなことを異国の私に言ったのか、考えざるを得ませんでした。

私が出した結論は、日本列島の乗っ盗りのために童男童女を連れて来たのだということでした。

童男童女の心の深層には、どのように育てられようとも、幾年が経とうとも、同胞が再び訪れたならば、あるいは機が熟したら日本で増殖した子孫とともに永劫楽土を作るのだということが刷り込まれていたのです。

徐福さん一代では、どのように頑張ろうとも限界があります。その後を託すために、いかにも貢ぎ物のように日本列島の男に童男童女を与えて育てさせるのです。

いつかはその童男童女あるいはその子孫に、育ての親を捨てさせて、徐福さんが頭の中に描いていた理想郷を作るというスィッチが入るのです。

そうです、徐福さんが童男童女を伴った理由は、その童男童女をトロイの木馬ならぬ、恐ろしい貢ぎ物とするためだったのです。

真夏の夜の夢夢でした。

迷わず書き進められますように・・・。


お暑う御座います
史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-07-28-Wed 19:19 [EDIT]
Dr.> コメントありがとう御座います♪
楽しく興味ぶかく読まさせて頂きました・・・^^。深淵な“ヨミ”をすれば本当にそうなのかも知れません。古代中国では大家同士で、実の我が子をやりとりする風習がありましたよね(師のブログ中だったかな?)これが戦争抑止力に働くのか、お互いが親戚として末永くお付きあいしましょうねに働くのか、はたまた相手国を乗っ取る結果になるのかは解りませんが。その童達からすれば悲しいものを感じます。歴史をみれば列島からも娘達を相手国へ差しだしたとも聞きます。<おカミへ○○を差しだす>その○○が童や娘であるのは悲しいことです。楽しいコメントを(きついコメントも含めて^^! 翻意や正答に繋がりますので)お待ちしています(^-^)♪
不思議
shigechanizumo | URL | 2010-07-30-Fri 16:41 [EDIT]
3000人もの童男童女とされています。

ここで不思議なことがあります。

彼らは文字を使っていたのか。

彼らの話し言葉は何だったのか。

もちろん当時の漢字と中国語を使っています。

多くの技術者や、童男童女が日本列島に着いた。そして散らばった。

漢字や中国語が何らかの痕跡を残さないはずはありません。しかし、その痕跡がない。弥生式土器に残された文字は極めて少なく、その上にひとつの土器に一文字くらいのものが稀にやっと見つかっているのです。

私たちは、縄文語だなんだと日本語の起源を探ろうとしていますが、ドッと3,000人もの中国語を話す人が一度に来たのなら、それはクラスターともいえるのですから、どこかの地域あるいは広がりに中国語の痕跡が残らなければなりません。

ところがこれもその痕跡がない。

では、ただ残らなかっただけなのか。そんな馬鹿なことはありません。

私の推理はこうです。

彼らは決して日本列島の人々に文字を教えたり、中国語を教えたりはしなかった。

その理由は、彼らがプロとしてのエージェント教育を受けていたからです。日本列島の人々が漢字をたやすく使えたり、中国語を理解できるようになってそれを話すようになれば、特命を受けて日本列島にやって来た自分たちやその子孫と、区別がつかなくなるのです。

彼らはあくまで秘密結社としての集団性を維持する必要があったのです。いかに多方面に散らばろうとも、漢字を用いて中国語を話す人と出会えば、それはまさしく秘密結社の一員との遭遇であり、同胞との遭遇であると確信できるように、彼らの文字と言葉は彼らだけの間のものとして保持していたのです。

徐福の一団恐るべし、と言うべきでしょう。
自分も似たようなことを^^!
史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-07-30-Fri 20:10 [EDIT]
Dr.> コメントありがとう御座います(^-^)♪
さすが、Dr.>わたしの弱いところを突いてこられました。ありがとうございます^^。 “徐福団”が銅鐸の流布や津々浦々の言葉の統一に関与している?と踏んではいるのですが、Dr.の云われるように各々の関連性がまったくみえないのです。中国では天津(てんしん)日本では津(つ)。そして、中国では秦(しん)を日本では秦(はた)と読みます。はた」は自分達の村落の近くに住む<端(はた)の人>なのでしょうか? このように仏教がはいるまで、(否、入ってもかな?)物質文明はべつとして、言語・精神文明は全く交えていません。かといって徐福団の関与を否定すると・・・《では、いったい誰がどのようにして銅鐸を流布したか??》・・・こまった!困った!  (コメントを勝手に記事へUPさせていただいてます。もし差し障りがあれば・・・、)
記事のほうは、(わたしのように容量が少なくて^^!)仮想メモリがなくなりこの記事の書き込みが出来なくなりました。月が変わるまでしばらくお待ちのほどを・・・^^!)
なつかしき思い出
平 素人 | URL | 2010-07-31-Sat 06:41 [EDIT]
アガタ・リョウさま> おはようございます。コメントも下さっていたのですね(^-^)♪
今のわたしは、じいさま>の死というトラウマから抜け出せず、積極的な訪問活動ができなくて 「ひきこもり傾向」 にあります。じいさま>が私に残した遺言は 『PC活動のうでをあげろ・にゃは』 でしたが、未だにへたくそで・・・、
氏>の<方言を使ったご記事>は、温かみがあってとくにすきです。おー町? に7ヶ月ほどいたことがあり、その時、親交をふかめた人を思い出しながら・・・

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