卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」
此処に出雲と同様、“大量の銅剣”が埋めてある! 全国歴史ファンの方々、三上山に集合せよ。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
徐福達が日本史に与えた影響、そのⅣ.
<徐福達の行動:その2、治験薬の実験>
 ご訪問ありがとう御座います。 Dr.>コメントが(10/19)に入りました^^。

     列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
     いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?

  【 前記事、Ⅰ~Ⅲの要旨 】 
徐福そのⅠ: 秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、除福に童男童女3000人を与え、東方彼方の日本列島から“不老長寿”の薬石を持って帰れと命じた(又は、徐福が願い出た)。
徐福そのⅡ: 徐福達が日本列島で求めた“不老不死、不老長寿”の薬石にはどんなモノがあったのであろうか? 情報をお待ちしています^^!。
徐福そのⅢ: 日本海沿岸に太い探索拠点を作った徐福達の、次になすことは、日本列島の “三神山(火山?)”を探して、内陸部や、津軽海峡をぬけ三陸の方にも進出していった。
   ここまでが、今までの記事(Ⅰ~Ⅲ)の概略です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その2 治験薬の実験 (9/26)
始皇帝は、徐福達に「不老不死の薬石と、その仙人を連れて帰れ!」と命じた。 その時、中国へ入っていた日本列島の情報は、「はるか彼方、東方の三神山に、水墨画にみるような蓬莱頭(ばさばさあたま)で不老長寿の仙人が棲む神秘の国」というイメージでしかなかった。いわば未知への探検である。中世ヨーロッパの歴史で、東方に「黄金の国ジパングあり」として船団をくり出したことはある。共に未知への出立ではあるが、それとこれとは大きな違いがある。かたや黄金という富を求めてであり、一方の徐福達は、富と権力は、すでに手に入れた始皇帝が欲するその薬石である。又、その構成人員にも違いがある。欧州の方は当然船をあやつる屈強な者たちであろうが、徐福達は“童男童女3000人”という断り書きがついている。中世でさえ海難はつきものの時代。それより○○○年も前の話だ。 何故に、童男童女3000人なのであろうか? それが解せない・・!

 ↓ 前記事のコメント欄から移設しました。
もしかして  shigechanizumo | URL | 2010-09-28-Tue 09:36 [EDIT]
私は、広い中国大陸のことですから、秦の始皇帝は205歳とか、360歳などと称する老人に、しかも若々しい人にあったことがあるのではないかと思うのです。その人達に、何で長生きなのかと聞いたら、あるものを飲用しているとか、たまたま若い頃あるものを口にしたなどと適当なことを言ったのではないでしょうか。
日本にも、「八百比丘尼」の話があります。人魚の肉を食べたから「十代の美しさを保ったまま何百年も生きた。」というものです。
おっしゃるように、10代の童男童女3000人に人魚の肉のみならず、様々なものを食べさせたり服用させ、それを記録しておいてその物とともに中国へ帰る。もしその中で10代の若さを保ったまま60歳を迎えた者がいたら、50年ほどの治験期間でその効能を証明できるわけです。否、40歳でそのようであれば、30年ほどで効用を認めることができるのです。御筆の趣旨に賛成です。


立場が逆に~^^?  史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-09-28-Tue 22:02 [EDIT]
Dr.> こんばんは♪ コメントありがとう御座います♪
 しばらく、意に反して、コメント欄を閉ざしていました。こめんなさい。お詫びいたします。
205歳とか、360歳と称する老人。日本にも、「八百比丘尼」の話。おもしろそうですね。
・・念のためにこのブログをご覧になっている皆さんに申し添えておきますが、Dr.>が言われている数字や、話は口から出まかせを言っておられるのではありません。氏のブログへ訪問なされば、それがよく分かると思いますよ。只、当ブログへよせているドクターコメントは、Dr.>の外れた部分かな(笑)?。 現代科学・史学が相手にしない“突飛論”を語っているこの素人(私)のほうが常識的なコメントしか思い付かないのがつらい・^^!。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<童男童女は被験用か?> 
何故、童男童女3000人なのであろうか。わたしは、それを「たとえ、何代かかろうとも必ず持って帰れ!」との始皇帝の強い意志からだとした。だが、それだけであろうか? ドクターとのやりとりで強い疑念がわいてきた。不老不死の薬石は、“それと確かめてこそ、その価値が認められる”人類の歴史で<新薬の開発>には多大の時間と、費用と、多くの実験と経験を重ねてきた。それ(残虐性)と、口にするかしないか、向き合うか向き合わないかは別として、最終的には「人体実験」をしてのみその効能が認められる。  

徐福達は、日本列島にどのような人がどの程度住んでいるのかは、分からずに出航した。一概に「不老不死の薬」と言っても、その対象が五十・六十歳の人か。三十・四十歳の人か、あるいは十九・二十歳の人かによって薬の処方は異なる。徐福が列島で自称120歳の人と、その人が服用していた“養老の水”だ。といって連れ帰ったところで誰も信用しない。さて、困った・・。そこに人が住んで居なかったらどうしよう。 その場合は、中国から人を連れて行って、その薬が<霊薬>で長生きをすることを証明しなければならない。そして、一口に長生きといっても、五十・六十歳の人より、三十・四十歳の人のほうが平均余命は長い。さらに、健常者に薬は要らないと思うが、中国には病気にかかりにくい身体作りの思想「○○←思い出せない」があり、健常者においても常日頃から漢方のサプリメントは行う。あれこれ考えても解らないことだらけだ。「えぇ~い。若い子供を連れて行け! その子達が長生きして帰れば一番の証明になる」というのは、論としてあまりに乱暴すぎますか?(笑)。 始皇帝は、徐福の出航から9年後(?あとで確かめます^^!)に死亡している。
(9/30)
一口に、「不老不死」といっても、漠然として掴みどころがない。とりあえずは<健康で長生き>したい^^。その時、始皇帝が何の持病があったのか、何を患っていたのかによって、徐福の求める薬石は決まってくる。こういった権力者は世継ぎを願うのが常であるが、美女3000人を集めての桃源郷の話もあるようだから、そっちの方は強かったらしい^^。始皇帝は、中国平定、統一のさい縁者子孫でかためる“血統”にするか、“群県制度?”にするかの二者があったようですが、結局は後者のほうを選んだ。 徐福も列島での薬石集めは、これに(本社・支社の関係)習ったと思いますよ。日本では、江戸に幕府をおき・諸侯を統率する代官制度をとり入れた家康が中国の歴史を学んでいたのでしょうか?

<揺れる死生観・その1>  (10/1)
今までに、「死生観」等と○○ばって考えたことはありませんでした。昭和のなかばに「人生50年」という言葉がありました。多くの人が50歳後半でこの世を去っていました。それが今では70・80歳まで生きることはザラ。豊かになったものです。では何時まで人は生きるのでしょう。占い師&人生アドバイザー(?)の<細木和子先生>が言われた『人(私達)に与えられた命は120年。それを如何ように使う(長く生きるか短くいきる)かは、その人の摂生次第。』というような主旨のことばを述べられたことがあります。 私は、今までの現状をみれば、このことばが一番当たっているように思います。『還暦は、その半分の折り返し地点』 ともいわれました。知りうる歴史においても、喜寿、米寿、古稀、等のことばがあるから100歳近くまで生きる人はあったのでしょう。 それが、Dr.>が言われた205歳。360歳にがく然としました。もちろん、それは直ぐに信じられる数字ではありませんが、自然界には≪例外≫という摂理が仕組まれている。と、私は思っています。これを語ると長くなりますので^^!、興味があるお方は、拙著の電子出版極秘報告書「巨大隕石と大津波」の冒頭と末尾の方へどうぞ(笑)。 205歳。360歳。 あったかも知れないと考えるのがこの素人(私)です。話半分としても180歳。まんざら信じられない話ではありません。
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(10/03)<話しは、まったく変わり^^!>
   日々のご訪問。真にありがとう御座います^^。
10/1 に、日本蜜蜂の来蜂を受けました。庭の松の幹に直径20cmぐらいの楕円のスイカ状のもので蜂球というそうです。さっそくネットで調べてもらっての巣箱づくり。どうやら取り込みました♪。日本蜜蜂を花虻とばかりに思っていたほどの ド素人。 今は、そちらの方が興味津々^^>・・・で、 「卑弥呼」の方の思考がうまく働きません。真に勝手なわがままを言いますが、こちらは、しばしのご猶予をお願いいたします。 興味のあるお方はカテゴリー<ゲスト様>【MY粗茶室  】 のほうへ入らして下さい。なにも茶菓子の一つもお出しすることは出来ませんが “中実のない” コメントぐらいなら・・(^-^)♪
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

そうかな?  shigechanizumo | URL | 2010-10-04-Mon 10:38 [EDIT]
不老長寿、不老不死、こういったものも人の願望かもしれませんが、もうひとつ似たような願望があります。よみがえりです。秦の始皇帝は死にました。しかし、彼は蘇りという願望を持っていたのではないでしょうか。兵馬俑を作ったのも、死してまた蘇るという意思を持っていたのではないでしょうか。であれば、徐福が帰って来るのは何時でも良いことになります。3000人の童男童女が80歳になって中国に帰ってきたとしても、彼らが蘇りの薬を持って帰ったのなら、始皇帝は蘇ることが出来るのです。

<その手がありましたかぁ^^>  平 素人 | URL | 2010-10-04-Mon 21:37 [EDIT]
Dr.> いつもコメントありがとう御座います♪
  コメント欄の開けたり閉めたりで、ご不自由をおかけしております^^!。

ふ~む。 その手がありましたか。わたしが蘇りで一番に思いだすのはキリストです。何故そのようなことが語り継がれているのかも不思議の一つです。 これは非常に生くさい話しで、真偽のほどは分かりませんが、スターリン?の遺体に人工心臓をとりつけ輸血をはじめ生命維持装置をとりつけ、生体 (?)のまま保存し100年・200年後の医学が進歩したとき、再び甦らせるためとか。双頭の山羊をはじめて造った国。まんざら嘘でもないような現実味があります^^?

生死の判断の線引きをどこにするかは医学でもむつかしい問題ですが、心臓の冠動脈血栓をとる手術で人工心臓に切り替えるとき、「○○さん、大きなショックがありますが心配しないでくださいね」と言われた人の話。「ガーンとかガクンとか形容のできないショックの後、目の前が真っ白になり後は無意識」 これも瞬時ではあるが死からの蘇りと言えなくもありません。

砂漠に棲む両棲類だったかな。乾期になるとカラカラの干物の状態で身を潜めておき、雨季になると即席ラーメンのごとくに生き返る!(テレビで見ました)。始皇帝が甦るには内臓を保持し腐敗を防ぐ防腐剤処理か、食物を断ち即身仏のような状態で待ち受けなければなりませんね。それともDr.ブログ>にあったような、国譲りで、『現世は大和にやるが、あの世は出雲がとる!』 というような精神論になると素人には、まったくわかりません^^!

<揺れる死生観・その2> (10/9) おまたせしました。
それでは、この私くしが180歳まで長生きした時のことを考えてみます。20代のままで・・^^。もし、そのような霊薬があったならばそのような霊薬が大量にあるとは考えられず、もしその薬があったならば人類はとっくにそれを手に入れている。妻をめとり子供が生まれる。まわりのすべてが底上げして長生きするのならばいいが、ひどい場合は、この私だけが長生きする。妻が死に子供達も逆死する。新しい妻をめとり子供をもうける。360歳までも生きたとしたら、
「幾度となくその悲しみ」を繰り返えさなければならない。例え妻子が同じようにその霊薬を処方してもその線引きが広がるだけで、それはあたかも“ローヤルゼリー”で育てられた女王蜂に似ている。私にはこのような長生きは、とうてい耐えられない。このような長生きを<始皇帝>は望んだのであろうか。何はともあれ、始皇帝のその薬への執着は、すさまじく “みせしめ” のために460人もの学者を穴埋めにしている。

<薬の試験は、し烈を極める> (10/10)
*この項目は、素人(私)の無知から発する雑感であり誤りや偏見等が含まれていると、
  ご承知おき下さい。

徐福たちは、列島で始皇帝の命を受けた薬やら、その処方やらを探さなくてはならない。しかしながら、何が何の病気に効くのかが分からない。しかも、それは中国にはないモノて列島の特産品であるという制約がつく。中国にあるものなら大資をだしてまで列島に操りださない。動植物は勿論のこと、土石にいたるまで珍しいと思えるものなら何でも試す。薬石のもつ宿命から、それは人体実験をしてのみ、その効用が確かめられる。薬石とその処方は、人類の長い歴史の積み重ねの上になりたつものであり、如何に徐福がその道に長けているとは言え、それを短期のうちに求めようとすれば、当然何処かで無理が生じる。(ドクターの云われるようなことであれば別だが)皇帝は悠長にそれを待ってはくれない。
(10/12) 
近代の試薬は、二十日鼠、モルモット、ウサギ、ビーグル犬、猿、等の動物実験からはじまる。そして最終的には人へと移してゆく。薬はその性質上「毒にも薬にもなる」というように、用量と処方を守ってのみその効果があらわれる。徐福達の場合は、「見たことがない効きそうだ」という“カン”だけでそれが試される分けであるから、当然生命の危険や副作用の苦痛をともなう。ある意味ではその<限界を探る>のが試薬だと言える。歴史的にみれば、老母を妻を自らを試験体にした異例はあるが、常にその対象は “社会的弱者” であり、特に戦争時においては悲惨をきわめる。 それは、“必要悪”かも知れないが、治験薬の美名のもとに行われるこうした行為に目をそらしてはならない。時代によりその線引きや思想も変わってきているようだが、今、何が許されて何を許してはならないのかの、自己チェック(註:ヘルシンキ条約)を怠ってはならない。特に、徐福隊の場合は、それ等に加えて『不老長寿』という条件がつく。筆者はその被験体用として3000人の童男童女が用意されたとの疑念をぬぐい去ることが出来ない。
 

<徐福達の行動:その3、薬石・珍宝の集荷>

<徐福たちの集めたもの> (10/13)
(以下は筆者の思いつきで挙げたもので、もっと外にもあると思います。それを教えて下さい)
まず第一に挙げたのが温泉水。これは、そのままという分けにはいかないから、鬼の釜?で蒸留して“温泉の花”としました^^。 次に挙げたいのが、糸魚川水系の“翡翠”。列島のヒスイの産地は、糸魚川のみと思っていましたが、ドクターとのやりとりで、質は、やや糸魚川より劣るが出雲の○○島にもあるとのこと。近年に宮崎辺りでも見つかり話題になったことがある。
古墳等から出土するヒスイや玉石類のルーツは、当時の列島人には、固い玉石を研磨・加工する技術が確立していなかったとみられることから、考古学でも色々に云われているようです。中国人は、玉石のなかでも特に翡翠がお好き♪^^?。

(以下は、筆者の考えですが^^!)
玉石を身にまとうことは、他に対して身分とか富の自己アピールであり、古墳代→弥生期以前の列島人は、玉石を身につける風習はなかったとみている。卑弥呼以前のそれまでは、神(荒神さま)の下において平等であり、年功や性差の序列はあっても「身分制度」までには至っていなかったのではないか。魏志倭人伝では、それを見て「人々、序列をつくらず座する」と云っている。それ以前にあった牙の首飾りとか、貝の腕輪とかは、なにかの<困り事や、決め事>が発生したとき<巫女や、太夫さん>が<その神>を我が身や他に呼び寄せるための準備のための用具であり、今の袈裟のような役目をするものとみている。物事を決めるのは人ではなく『因は荒神にあり』とする社会制度であり、その荒神さまのいうことで政(まつりごと)や困り事を解決していた。列島人が玉石を身に付けることはその延長であり、中国の権威着けの身飾り?とは意味が異なる。今でも、そのようなよろず相談の<拝み屋>さんは居ますよ。『 あの先生は、よく当たる^^』 このような集落が、大きいか小さいかは別として列島各地に散在していたのではないかと前述しました。以上、ちょっと脇へそれました^^!。
そして、三つめに挙げたのが、オオサンショウウオ! これは中国にもありましたが、日本のは固有種。産地によって含有分も変わるのでしょうか。朝鮮人参でも天然物と人工物との価格は(質も?)雲泥の差!(←月とスッポン。天地の差より、パクリました。笑) 

(10/14)
近時、先進国が開発途上国から、それ等の<生物資源>を探索蒐集することを○○海賊行為と呼び問題になっています。歴史的(今も?)には、大英帝国(ゴメンこの呼び方には問題有り)の“プラント・ハンター”。 イギリスは元種の保存という面から、このような問題に早くから取り組んでいます。そして、これも近時、話題になっている電子機器に使う“○○メタル”。これ等の稀少類の寡占問題が発生しました。この二つの問題は忘れる程前の『 ゴルゴサーティーン』で、取り上げられていましたよ。(笑い)
あっ! それからもう一つ取り上げたいものに、“マッコウクジラの脂”。 これは、かの<ペリー>が、灯油の需要にこたえるため、遙か西太平洋に、水や食料の補給基地として日本に開国を迫ったいわく付きのもの。日本近海にはそのマッコウクジラがたくさんいたのでしょうか。それを語るに、宮崎県には<油津><鰐塚山地>という変わった地名があり、これを史実探偵は、4010年前の東北に端を発した巨大津波が鯨おも打ち上げたことを遺している地名だと思っています。鯨やサメが打ち上げられた! 当時の人達はビックリしたでしょうねえ^^。そして地名に遺した。 「地名は祖先からのメッセージ!」それを徐福隊にも語ったのでしょうか? なにはともあれ、素人の言うこと(^-^)であるから定かではないが<徐福会社>は、日本列島の各地を探索し、そこから集めた珍品・薬石を列島の<何処かに>集荷する。

<正月に各地分団が寄り合う> (10/15)
中国の人達は(日本人も^^)正月(旧暦)に寄り合う風習がある。ご存じの華僑に代表されるように「世界で中国人が商売していない国はない」と云われる程。その散り々に別れた人達は本国の親族とあいたい願望がある。徐福達にしても、その想いは同じだ。そして忘れてはならないものに『皇帝に薬石を持ち帰る』ことがある。たとえそれが不老不死の薬であろうがなかろうが、とりあえずの珍品・薬石は皇帝のもとへ送り届けなければならない。<徐福>は、前述した出雲(?)に、その本社をおいたとした。そこへ「 各支部、好きな時に持っておいで!」という分にはいかない。その日にちを決めたい。
(10/16)
ここで思いだして頂きたいことがある。<神無月>。列島に散らばった各分団は、その正月に集まろうと決めたが、遠くであればあるほど早く出発しなければならない。今でも全国展開の会社が支社長会議をするとき、その開催時間を一番遠くの鹿児島とか北陸支社が間に合う時間にきめる。通常時間は8時からだが、10時からにしようかとなる。その出立が神無月(10月)。そして12月が復路を急ぐ師走月(12月)^^!。このように決めれば正月前には、皆々が集まることができる。さらにそこから<中国送り隊>を結成して集荷した珍品を送り出せば中国の旧正月(新暦の○月○○日)にはまにあう? 要は、皇帝のおわす中国の旧正月から逆算して前に前へと、さかのぼりその出発日を決めればいい。  
(10/17)
次に大切なことは当時の航海力と運行力である。九州の<佐世保><唐津><博多>から、今、決めたその○ヶ月で秦朝の首都<咸陽市・かんようし>(咸陽は、黄河河口から上流へ約1000km。日本でいうと下関から秋田ぐらい)へ着くかどうかは、素人考えなので責任がもてない^^。 おおよその目やすは、それより○○年後の遣隋使、遣唐使の運行を参考にすればよい。そして、この話は、列島文化の古墳期、神代(かみよ)、卑弥呼(AC175?~248?)をおよそ400年もさかのぼる紀元前3世紀頃の模索であるとご承知おきください。(^-^!) ちなみに何時の頃とは断定できないが佐賀県・唐津市の<神集島><呼子>の地名は、その徐福団が集合し、「 行ってきま~す!」 「 お帰りなさ~い♪」 と呼び合う人達、こども達の言葉(地名)とみるのは素人探偵の思いすぎでしょうか?(笑)。

不思議  しげちゃん | URL | 2010-10-18-Mon 08:51 [EDIT]
不老不死・不老長寿といっても、どの時点からの不老なのか、長寿なのか。青年の若さで不老なのか。秦の始皇帝のように絶大な権力を得てからの長寿なのか。ただ馬齢を重ねつつも185歳でも生きているといったことなのか。どれを採るかによって霊薬の種類も異なるのではと思うのですが・・・。

始皇帝は何を考えていたのか?  平 素人 | URL | 2010-10-18-Mon 10:51 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん>^^!へ、 いつもコメントありがとう御座います^^♪
      コメント欄の開閉でご不自由をおかけしていることをお詫び致します。
そうですね。それによって徐福が列島の<何処で><何を>求めたかにつながり、徐福の立ち寄り場所が推定できます。一説には水銀もあるようですから、その水銀は何処に・・・?
始皇帝の功績とその暴君ぶりは、Dr.>のほうがよく識るところであり、わたしは始皇帝が何を考え、どんな死生観をもち、兵馬俑や不老不死の霊薬を求めさせるに至ったのかをまったく知りません。それを逆に、お伺いしたいくらいです。始皇帝は、それを諫めた長男を追いやり、460人の学者を穴埋めにし、その声は「狼(ろう)の如し」といいますから誰も抗らえません。少なくとも徐福は、自身の考えはどうであれ始皇帝が没する(9年後?まで)皇帝の意(?)に沿うような薬石探しをせざるをえなかったと思います。ご存じのように秦朝は12年後(汗~^^?これも後で調べます)で、滅びています。もとより始皇帝の“不老不死”の考えは無理な話しで多勢が受け入れない部分。その死後は急速にさびれ・・・、「後は野となれ山となれ」・・・、(笑)

“ 業 ”  しげちゃん | URL | 2010-10-19-Tue 08:55 [EDIT]
不老不死と不老長寿とは少しニュアンスが異なるように思います。不老不死は業のようなもので、死を怖れるという心象が込められているように思います。一方、不老長寿は祝福のように思えます。秦の始皇帝が怖れたのは己の業であり、死と共にその権勢が失われた時に、それまでの業の償いが襲いかかって来ると思ったが故に、自らの死を恐れ、不老不死を願っていたのではないでしょうか。

ご明察!!  平 素人 | URL | 2010-10-19-Tue 21:09 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> こんばんわ コメントありがとう御座います^^♪
わたしは、何故8000体もの兵馬俑なのかが解りませんでした。これは、始皇帝が死してから造営されるから2代目が成したのかも知れませんが、遺言に残しておいたとも考えられます。いずれにしてもあの世にまで兵馬を連れて行く発想が分かりませんでした。晩年は身を隠しトンネルで行き来をするほど<暗殺>に対しての用心ぶかさ。現世の戦乱をかいくぐり、あの世にまで兵馬をもってゆく、・・・。 その心の強さと同時に一抹の寂しさを感じます。 “ご明察” ありがとう御座いました。

これで、ますます、徐福は、その呪縛から逃れられなくなってしまいました。(^-^!)


<列島人から見た徐福たち>へ、・・・
   つづきます^^!
関連記事
スポンサーサイト

COMMENT

 管理者にだけ表示を許可する
そうかな?
shigechanizumo | URL | 2010-10-04-Mon 10:38 [EDIT]
不老長寿、不老不死、こういったものも人の願望かもしれませんが、もうひとつ似たような願望があります。よみがえりです。秦の始皇帝は死にました。しかし、彼は蘇りという願望を持っていたのではないでしょうか。兵馬俑を作ったのも、死してまた蘇るという意思を持っていたのではないでしょうか。であれば、徐福が帰って来るのは何時でも良いことになります。3000人の童男童女が80歳になって中国に帰ってきたとしても、彼らが蘇りの薬を持って帰ったのなら、始皇帝は蘇ることが出来るのです。
その手がありましたかぁ^^
平 素人 | URL | 2010-10-04-Mon 21:37 [EDIT]
Dr.> いつもコメントありがとう御座います♪
  コメント欄の開けたり閉めたりで、ご不自由をおかけしております。
ふ~む。 その手がありましたか。わたしが蘇りで一番に思いだすのはキリストです。何故そのようなことが語り継がれているのかも不思議の一つです。 これは非常に生くさい話しで、真偽のほどは分かりませんが、スターリン?の遺体に人工心臓をとりつけ輸血をはじめ生命維持装置をとりつけ、生体(?)のまま保存し100年・200年後の医学が進歩したとき、再び甦らせるためとか。双頭の山羊をはじめて造った国。まんざら嘘に聞こえないような現実味があります。生死の判断の線引きをどこにするかは医学でもむつかしい問題ですが、心臓の冠動脈血栓をとる手術で人工心臓に切り替えるとき、「○○さん、大きなショックがありますが心配しないでくださいね」と言われた人の話。「ガーンとかガクンとか形容のできないショックの後、目の前が真っ白になり後は無意識」 これも瞬時ではあるが死からの蘇りと言えなくもありません。
砂漠に棲む両棲類だったかな。乾期になるとカラカラの干物の状態で身を潜めておき、雨季になると即席ラーメンのごとくに生き返る!(テレビで見ました)。始皇帝が甦るには内臓を保持し腐敗を防ぐ防腐剤処理か、食物を断ち即身仏のような状態で待ち受けなければなりませんね。それともDr.ブログ>にあったような、国譲りで、『現世は大和にやるが、あの世は出雲がとる!』 というような精神論になると素人は、まったくわかりません^^!
不思議
しげちゃん | URL | 2010-10-18-Mon 08:51 [EDIT]
不老不死・不老長寿といっても、どの時点からの不老なのか、長寿なのか。青年の若さで不老なのか。秦の始皇帝のように絶大な権力を得てからの長寿なのか。ただ馬齢を重ねつつも185歳でも生きているといったことなのか。どれを採るかによって霊薬の種類も異なるのではと思うのですが・・・。
始皇帝は何を考えていたのか?
平 素人 | URL | 2010-10-18-Mon 10:51 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん>^^!へ、 いつもコメントありがとう御座います^^♪
コメント欄の開閉でご不自由をおかけしていることをお詫び致します。わたしも、ほと々困っております^^!。
始皇帝の功績とその暴君ぶりは、Dr.>のほうがよく識るところであり、わたしは、始皇帝が何を考え、どんな死生観をもち、兵馬俑や不老不死の霊薬を求めさせるに至ったのかをまったく知りません。それを逆に、お伺いしたいくらいです。始皇帝は、それを諫めた長男を追いやり、460人の学者を穴埋めにし、その声は「狼(ろう)の如し」といいますから誰も抗らえません。少なくとも除福は、自身の考えはどうであれ始皇帝が没する(9年後?まで)皇帝の意(?)に沿うような薬石探しをせざるをえなかったと思います。ご存じのように秦朝は12年後(汗~^^?これも後で調べます)で、滅びています。もとより始皇帝の“不老不死”の考えは無理な話しで多勢が受け入れない部分。その死後は急速にさびれ・・・、「後は野となれ山となれ」・・・、(笑) 

しげちゃん | URL | 2010-10-19-Tue 08:55 [EDIT]
不老不死と不老長寿とは少しニュアンスが異なるように思います。不老不死は業のようなもので、死を怖れるという心象が込められているように思います。一方、不老長寿は祝福のように思えます。秦の始皇帝が怖れたのは己の業であり、死と共にその権勢が失われた時に、それまでの業の償いが襲いかかって来ると思ったが故に、自らの死を恐れ、不老不死を願っていたのではないでしょうか。
ご明察!!
平 素人 | URL | 2010-10-19-Tue 21:09 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> こんばんわ コメントありがとう御座います^^♪
わたしは、何故8000体もの兵馬俑なのかが解りませんでした。これは、始皇帝が死してから造営されるから2代目が成したのかも知れませんが、遺言に残しておいたとも考えられます。いずれにしてもあの世にまで兵馬を連れて行く発想が分かりませんでした。晩年は身を隠しトンネルで行き来をするほど<暗殺>に対しての用心ぶかさ。現世の戦乱をかいくぐり、あの世にまで兵馬をもってゆく、・・・。 その心の強さと同時に一抹の寂しさを感じます。 “ご明察” ありがとう御座いました。

TRACK BACK
TB*URL
Copyright © 2005 卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」. all rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。