只今、次ネタの準備・思考中です。(^-^!)
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(無料立ち読みあり)→ 極秘報告書「巨大隕石と大津波」 ←電子出版です。
去る年、ご奇特な方がいらっしゃいまして^^!、お一人の方がこれを買って下さいました。(謝々、お申し出下さればプレミアム付きのコメントを^^)。 もし貴方が大国の責任者なら、この報告書から、ん十億、ん百億の価値を見い出すでしようし、もし貴方が中学生なら、¥500 で大きな夢が買えるのにねえ(笑)。さて、貴方さまは、ブレイクしてからになさる? それとも・・・^^?
「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」が出土するのは、まだまだ先のことになりそうです。 その出土が何時になるやらは分かりませんが、その時には、ご訪問して下さった貴方さまと共に喜び合いましょうね v(^-^)。
卑弥呼に興味のないお方は、【 MY粗茶室 】 を用意してお待ちしております。
MY粗茶室&、では、<卑弥呼>だけでなく色んなことを食っちゃべっていますの
で・・・、興味のあるお方は、左欄下のカテゴリー<ゲスト様>の方へ、どうぞ(^-^)♪
又は、アーカイブ 2009/10月から・・・、(お手数ですが“貼り方”を知らない^^!)
<初めて、ご訪問の方に>
ご訪問ありがとう御座います。このブログで掲載している記事のすべては関連モノです。その後シリーズでは、その要旨や言葉足らずのところを書き足しています。 興味が湧いた方は “ふりだし”から、どうぞ(但し、お暇な方に限ります^^)。 お勧めは、カテゴリー別で入って下さると読みやすいかも知れません。 尚、コメントは、後々(の世^^!)まで残るものであり、本になるやも知れませんので、真に勝手ではありますが、その時には当方が、そのコメントを無償で使用出来ることを 御了解されたものとして扱います。 なぜこのようなことを申し上げているかというと 「 先で、この『広報』を妨げる要因は一切取りのぞいておきたいからです」。御一緒に、そのコメントを歴史に刻みませんか?(^-^)♪
(敬白) 史実探偵: 平 素人
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<徐福達が日本史に与えた影響、そのⅥ.(完)>
【 前記事、Ⅰ~Ⅴまでの要旨 】
列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
どのように流布・拡布したのか? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?
秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、徐福に童男童女3000人を与え、
東方彼方の日本列島から“不老不死、不老長寿”の薬石と仙人を連れて
帰れと命じた。対馬海流によって分散・漂着させられた徐福たちは、列島
各地や、内陸部へも果敢に進出していった。 そして、とりあえず蒐集した
薬石・珍宝を始皇帝のもとへ送り届ける交通網を列島につくりあげた。
そして、Ⅴでは、列島人と徐福達との関わり合いについて考えてみた。
ここまでが、<徐福について>の記事(Ⅰ~Ⅴ)の概略です。
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<朝鮮・中国、から見た魅力的な日本列島♪> (11/16)
近年に‘脱北者’が、日本へ漂着した時のこと。「なぜ貴方は上陸して、すぐに隠れなかったのですか?」 「緑の景色がきれいだったから・」と、云ったそうです。今ここで論じているのは紀元前・後の境目あたりですが、私達は、近代の一時期その緑を失った時があるとはいえ、自分達の国土の美しさに気付くべきです。今でこそ「狭い日本」といいますが、幾十里も歩かなければ山や海へたどり着くことが出来ない大陸。確かに大陸には奇勝絶景があるようですが、それ等へ歩いて行くには遠く離れすぎている。広大なゆえの単調な植生。決して澄むことのない黄河等。それに比べて列島では数里も歩けば、山、河、海へと思いのまま♪ (大陸では今でも死ぬまで海を観たこともない人がいるそうですよ。)このことは、色々な食材が多くを歩かずに手に入れることが出来るということであり、しかも列島には幾筋にも清流が流れ、白砂青松の海岸。加えて四季によっても、景色や食材が変わるのである。このことは縄文石器を営む列島人には、狭い地域での自給自足が可能であり、他人のテリトリーを侵す必然性が生まれない。ゆえに列島人はきわめて平和的(^-^)。戦いの痕跡が遺物に見られるのは卑弥呼より少し前だったかな? 大陸とは異なり、海の幸が得られ、四季ごとに変わりゆく景色、気象の変化、雲の形までもが異なり? 「花鳥風月」のうつろう “時間” を楽しめる国は、そう多くはないと思いますよ。出雲に帰化された<小泉八雲さん>は、そのような日本が気に入ったのでしょうね。出雲の夕日と、それに手をあわす人々に惹かれて! 日本のよさは “観光資源” は、「外国人に聞け」ってかぁ?( 大笑だぁ^^)
列島は、「細長い国土と変化に富んだ地形。そして移りゆく四季が財産です」そういう私は、朋友釣りじいさん>をなくしてから、それを楽しむ心のゆとりをなくしてしまいました。短い秋が過ぎ去ろうとしているのに! せいぜい<日本蜜蜂さん>のお世話にいそしむとしましょうか。 衣・食・住・が物余りして、今や車や宝石でさえも興味がうすれてきた日本。これからどのように動くのでしょうか。
<魅力的な、日本列島 の2.> (11/21)
徐福達から見た列島は、海・山・川・野、の色々な食材を多くを歩かずに<狭い>範囲で得ることが出来る。しかも、建材にする石や草木までもが何処でも簡単に手に入る。そして、住人は戦いを好まず平和的♪ さらに出雲では “砂鉄や銅鉱” の露出岩(Dr.>の言;島根半島で今でもゴロゴロ)があった! 砂鉄とかゴロゴロ状態の鉱石は、採掘の労力なしで、それに熱を加えるだけで「鋼」が得られるということである。さらに、更に、出雲の神の酒造り^^♪ そして温泉もあるしね(笑)。蛇足ながら、ガマのお綿(出雲木綿?)もあるよ^^! 徐福達にとっては、まるで桃源郷♪しかし、それでは困るのである。
徐福達は列島に永住しに来たのではない。 始皇帝の命である“不老不死の薬石”を求めにきたのである。もし定住でもしょうものなら・・・?、その声狼(ロウ)の如し、その薬石をと命じた方士2名にトンズラされ、それに立腹し、方士達400余名を「自分達でその法を考え生き長らえよ!」と、“穴埋め?”にした皇帝の恐ろしさは骨の髄までしみ入っている。
<東方神起!、日本列島の神秘を探せ!> (11/22)
この項は徐福達が<東方神起>列島の地勢になにを感じ、なにを神秘的に思ったかは、全く分からないので、‘素人の勝って^^’ で、このブログで以前に出てきたものを取り上げてみたい。 まず火山と温泉。それに、日ノ御碕の西端の玄武岩、(出雲)○○市の鳴き砂、鳥取の砂丘、弓ヶ浜、丹後の玄武洞の柱状節理、天橋立、北へ行って青森の仏ヶ浦、恐山、三陸海岸の絶壁かな? そのほか全く知りませぇ~~ん^^!。これ等の多くは4010年前の東北に落ちた巨大隕石に関係するとみているが、今回は「鳴き砂の浜」について取り上げたい。
「鳴り砂・但しなきずなと読む^^!」を学問的に取り上げると難しいようなので、素人流でいうと奇麗な石英の砂浜を踏めば鳴る」とでもしておきましょうか(笑)。以前この鳴き砂を持つ自治体が縁組を?して、その学問的価値とそれを観光資源にしようとする動きがあった。全国で100~200カ所あるようだが、
その主なものを< Wikipedia >で調べると。
* 小清水海岸(北海道斜里郡小清水町) * 青谷浜(鳥取県鳥取市)
* イタンキ浜(北海道室蘭市) * 井手ヶ浜(鳥取県鳥取市)
* 猿ヶ森砂丘(青森県下北郡東通村) * 石脇海岸(鳥取県東伯郡湯梨浜町)
* 大須賀海岸(種差海岸)(青森県八戸市) * 波根海岸(島根県大田市)
* 浪板海岸(岩手県上閉伊郡大槌町)* 琴ヶ浜(島根県大田市仁摩町馬路)-日本の音風景100選
* 小久保海岸(岩手県上閉伊郡大槌町) * 犬ヶ浜(島根県大田市温泉津)
* 九九鳴浜(宮城県気仙沼市) * 清ヶ浜(山口県阿武郡阿武町)
* 十八鳴浜(宮城県気仙沼市) * 小原浜(山口県萩市)
* 夏浜(宮城県牡鹿郡女川町) * 室津海岸(山口県下関市)
* 小屋取浜(宮城県牡鹿郡女川町) * 姉子の浜(福岡県糸島市)
* 鳥の海(宮城県亘理郡亘理町) * 奈多海岸(福岡県福岡市)
* 豊間海岸(福島県いわき市) * 恋の浦(福岡県福津市)
* 角海浜(新潟県新潟市) - 現在は鳴らない * 勝浦浜(福岡県福津市)
* 千代浜(石川県輪島市門前町) * 白石浜(福岡県福津市)
* 琴ヶ浜(石川県輪島市門前町) * ぎぎが浜(長崎県松浦市)
* 琴引浜(京都府京丹後市 -日本の音風景100選 * 月ヶ浜(沖縄県八重山郡竹富町(西表島))
子供(中学生)のころ、鳥取の砂丘が何故できたのか?を不思議に思ったことがある。それまでの私は砂の成因は河川の流れによってのみ出来るのであって、決して海の底の岩石は砂にならないし、水流のない風化作用だけではその砂粒は出来はしない。その砂浜を作るにはその高さ以上の水流が要ると! 上記の砂浜が4010年前の<釜石辺り>で発生した巨大地震に揺すられた≪巨大津波沿岸流≫によるものかどうかを精査するのは今後の課題だが、なかに背後地に石英の母岩を持たない所がある。『その石英粒はいったい何処から運ばれたのでしょうね?(笑) 別談になりますが、サハラ砂漠も津波成因なのですよ! (NHKが調べたらサハラの砂は南からだって!) 今、専門家は、まったく相手にしてくれないが、何れ世界が素人の極秘報告書「巨大隕石と大津波」を認めざるを得ない時がくるのにねえ(大笑だぁ^-^) (電子出版 ↑クリックOK、部分的ですが無料立ち読み有り。 ご購入は ¥500。 ただし11,000Kbの大作?ですから、お暇な方で“史実を知りたい方”にかぎります^^。)
拙い素人の論で、頭の固い地質学を切り崩すのは、頭の古い考古学に気付いて貰うより更に、々に、難しい。(ゴメン又、言葉が過ぎました。20余年もやってると、ついつい恨み節がぁ~^^!)
何故、そんなに強気の言が吐けるのかって? 私には、その白砂にまつわる御先祖さまからの『伝説やら民話』がありますからね。その砂浜の傍らの社(やしろ)に手をあわせれば、貴方にも<その砂浜は神様が“一朝”にして創った>との声が聞こえるかも知れませんよ。(^-^)♪
<とは、言っても!?> (11/23)
上記の“白砂青松”は、徐福達の初期の日本海沿岸行動と重なる。徐福達の目的は不老不死の薬石を探すことにある。それは<東方神起>の神の居場所を探す旅でもある。なぜなら、神=不老不死の考えに基づいているからだ。徐福達は、きっとその美しさと鳴き音に心を奪われたはずだ。一方、列島の住民達は、その白浜は四千年前の荒神竜が運んできたとの信仰(これは筆者の思いつきです)がある。 ここで双方何んらかのコミニュケーションがあったと思われるが、それが推(よ)めない。この徐福についての記事のなかでもくろんできた(謎Ⅱ)の「津の地名は何時誰が統一したのか?」に、全く関連づけられない!! まあいい!?無理に答を出そうとすれば無理が生じる(笑)。 徐福達と津名の統一は何んらかの関連があるとは思われるのだが、それが全く推(よ)めない。 どなた様か、どうぞの御教示を(^-^)! 素人探偵は、その鳴き砂の浜にまつわる『伝説やら民話』の実際が知りたい。 蛇足ながら、能登の荒神太鼓(御陣乗太鼓)、秋田のナマハゲ、それに太平洋側へ離れてはいますが“三保の羽衣伝説” これ等も徐福達の一行が関係しているのではないかと疑っています。 なにしろここで取り上げている話しは、卑弥呼より400年?も前のBC200年頃の話しですからね。
<列島文化の強い独自性> (11/25)
前述のようにあげると、大陸や半島の先進文明で列島の文化が、かき消された感を受ける
が・・・?? Dr.>が、先に、ご教示して下さった下記のコメントが気になっています。
≪ 不思議 ≫ shigechanizumo | URL | 2010-07-30-Fri 16:41 [EDIT]
3000人もの童男童女とされています。 ここで不思議なことがあります。
彼らは文字を使っていたのか。彼らの話し言葉は何だったのか。もちろん当時の漢字と中国語を使っています。 多くの技術者や、童男童女が日本列島に着いた。 そして散らばった。 漢字や中国語が何らかの痕跡を残さないはずはありません。しかし、その痕跡がない。弥生式土器に残された文字は極めて少なく、その上にひとつの土器に一文字くらいのものが稀にやっと見つかっているのです。 私たちは、縄文語だなんだと日本語の起源を探ろうとしていますが、ドッと3,000人もの中国語を話す人が一度に来たのなら、それはクラスターともいえるのですから、どこかの地域あるいは広がりに中国語の痕跡が残らなければなりません。 ところがこれもその痕跡がない。 では、ただ残らなかっただけなのか。そんな馬鹿なことはありません。
私の推理はこうです。
彼らは決して日本列島の人々に文字を教えたり、中国語を教えたりはしなかった。その理由は、彼らがプロとしてのエージェント教育を受けていたからです。日本列島の人々が漢字をたやすく使えたり、中国語を理解できるようになってそれを話すようになれば、特命を受けて日本列島にやって来た自分たちやその子孫と、区別がつかなくなるのです。 彼らはあくまで秘密結社としての集団性を維持する必要があったのです。いかに多方面に散らばろうとも、漢字を用いて中国語を話す人と出会えば、それはまさしく秘密結社の一員との遭遇であり、同胞との遭遇であると確信できるように、彼らの文字と言葉は彼らだけの間のものとして保持していたのです。 徐福の一団恐るべし、と言うべきでしょう。
Dr.>のコメントは徐福達の行動をするどく突いている! これを受けて・・・、つづきます
<企業秘密> (11/27)
徐福達の求める“不老不死”の薬石を現代風にいうと、企業秘密の薬石である。いかに他国の住人であれ、それについてべらべらとしゃべる分けにはいかない。徐福達は列島人との生活場所に一線を引いている。列島人は、徐福達を<秦・しん>の人と呼ばずに、端・はた(=秦)に住む人と呼んでいるのは、主住地に対しての端の意であり、その生活圏のリードマンは、列島人であったということである。徐福達は、列島人のことを戦争のない平和の人達という意味で<倭・わ>の人達と呼ぶようになったと(仮に^^?)謎解きしました(笑)。列島人にすれば、徐福達は、永々と続けてきた雨乞いを主体とする“荒神文化の延長線上”に現れた神(上・かみ(上紙^^?)、天上人・てんじょうびと→殿上人)ではあるが、四千年前(BC.2001)の大事変という実体験の伝承から生まれた<信仰心-前述>は簡単に変わるものではない。徐福達にすれば一カ所に永住できず、そこで統理するわけにはいかないし、もし、そんなことが中国の本土に知れたらぁ~~!?
<始皇帝の没後> (12/03)
始皇帝は徐福達が出帆したわずか9年後のBC210年に49歳で?亡くなっている。その後、秦国の二代目は数年(?)しか続いていない。もとより、不老不死の薬石などあろうはずもなく、徐福達にすれば、“始皇帝の命“というタガは無くなったが、9年の間に幾度かは、日本列島で求めた薬石、珍宝を中国本土へ送っているはずだ。徐福達3000人の中には危うい考えの武人もいて、東北地方では“なまはげ”となって “余命長い” 幼児も皇帝へ送りました。各地に残る「神隠し」という拐(かどわ)かしが、その幼児達でなかったことを願っています。はたまた、正月のその獅子舞が 「泣ぐ子はいねがぁ゛喰てまうどぉ」 それが今では、獅子にカブられることにより、そこで一端、命を断ち、その後の余命が長くなることを意味するようになりました。なにはともあれ、このようにして出来上がった海路や、中継地、集荷地は後々の日本列島の発展へと関与・寄与していく。
その詳細は、Drブログ>いずものこころ、 古代出雲 『発想の転換 徐福伝説』 2005/12/21 ~ 12/27迄へ、どうぞ!♪ (スミマセン^^!、貼り方を知らない。 暦の上にある矢印から検索したほうがいいかも^^) 尚、この素人の「除福について」の記事は、氏の御記事に出会い
‘ペリー来航’もその比ではないほどのカルチャーショックを受けたことから発したものであり、記事の内容は、その二番煎じ、三番煎じであることを申し添えておきます。
感謝 しげちゃん | URL | 2010-12-03-Fri 09:36 [EDIT]
私は、日本には不老不死の思想は受け容れられなかったと思うのです。徐福が列島に到着した時代に、日本列島に祖霊信仰があったのかどうか分かりません。しかし、日本列島は祖霊信仰の国柄です。 早くじっちゃんばっちゃんになって、あの世から子孫を見守ってやりたいというものです。姥捨て山でも、「早く置いて行け」と息子に言うのです。
感謝2 しげちゃん | URL | 2010-12-03-Fri 09:38 [EDIT]
先日恐ろしい文章を読みました。アイヌの死生観です。アイヌの人は、成人が死んでもあまり悲しまないそうです。亡くなった成人は、次には胎児となって生まれ変わるからだそうです。そこで、子供が死ぬと大変だそうです。祖先を殺してしまったということになるからです。いわんや、妊婦が死ぬともっと大変だそうです。せっかく生まれ変わりのために胎児を宿ったのに、その胎児たる祖先はこの世に出てこられないからです。そこで、妊婦が死ぬと、いったん妊婦として埋葬し、翌日に胎児を取り出して、改めて手厚く胎児を埋葬するそうです。土偶のお腹に筋があるのは、その胎児を切り出した後だというのです。よく見ると、土偶は妊婦であり、確かに張り出したお腹に筋があるものが多いのです。生まれ変わりという思想がある限り、不老不死の思想は必要なかったのです。
<コメントに感謝> 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-12-05-Sun 06:27 [EDIT]
コメントありがとう御座います♪ 昨々日は、雷を伴う時期はずれの低気圧が吹き荒れました。わがコメント欄にも歓迎すべからずの荒らしがふきコメントが遅れたことお詫び申し上げます。
「土偶は妊婦であり、確かに張り出したお腹に筋があるものが多い」 には、そのような祖先の想いが潜んでいたのですね。 知りませんでした。わたし(素人)が、何気なく見過ごしている埋蔵物の一片に秘められた祖先の思いと歴史に興味を覚えます。
<徐福の立ち寄り場所> (12/06)
いずものこころ -Yahoo!ブログ- 古代出雲『徐福伝説』の謎 2005/12/21 より借用
徐福の出身は斉(現在の山東省)で、身分は道教の方士。神仙思想(東方の海上にある三神山に、不老長生のための薬を持つ仙人がいるという説)に基づく不老不死を実現するための呪術や祈祷・薬剤の調合に長け、医薬・天文・占術などに通じた学者でした。しかし、徐福は中国には戻りませんでした。
徐福の渡来地として日本のいろいろな土地が挙げられ、伝承が残っているとされています。主なところを挙げると、青森県小泊村、山梨県富士吉田市、東京都八丈町、三重県熊野市、宮崎県延岡市、佐賀県佐賀市、佐賀県諸富町、佐賀県武雄市、広島県宮島町、京都府伊根町、鹿児島県串木野市など、北は青森から南は鹿児島にまで及んでいます。日本には30もの徐福伝説があるとされています。
ウエブ 古代史の扉 『徐福伝説』 (2010/12/01 のGMTに取得)
wwwasukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm
これ等のことは、よくぞ!♪ と思われるほどにあり、これも是非に一見をお勧めします。
<日本列島の神秘性は、なぜ生まれたのか?> (12/07)
欧州では「ジパング」、 中国では「神仙思想」、 韓国では「東方神起」-(グルーフ・名)-
その考えに基づいて、徐福が東方探索に出たのがBC219年。二度、試みたようですが、一度目は大鯨?に阻まれ失敗。大鯨とは台風のことではないかとのこと。ご存じのように後々の歴史で、徐福以外にも中国大陸から日本を配下にしょうと二度ほど列島に大船団をくり出しているが、何れも神風(台風)によって失敗している。これ等のことを神秘的偶然性ととらえる向きもありますが、中国で秋の収穫を済ませて、その兵糧を持ち何日もかけて行進、航海すれば台風の時期に重なるのは必然。筆者がいう『BC2001年の東方から襲来した巨大地震と巨大津波』の被災を歴史が覚えていて(この表現はDr.から^^)、度重なる大軍が海のもくずと消えれば、より列島の神秘性は増していく。中国の人達は、そういった危険を伴う深山や未知の場所にこそ霊薬ありとする国民性が(?)あると独断しました(^-^)。
大鯨=東方の海に潜む巨大エネルギー(=津波)、 大なまず=地下エネルギー、 東方神起=列島からの大事変、 竜=巨大隕石 (BC2001/12/25 日本時間AM6:00頃、地球を半周した小天体が東北地方に降臨!) 『これ等は、表現の違いであり、言葉の違いである』 それに貴方が、現科学が、世界が、気付かない限り本当の歴史は見えてこない。
それを「津波や地下エネルギー」と呼んだら科学で「大鯨や大なまず」と“例え”たら伝説かぁ~?
「それが科学なら、ちゃんちゃら可笑しい!」 ・・と、ご先祖さまがぁ~^^ 史実探偵:平 素人
<列島の中心地に発展した出雲!> (12/08)
それ等の中で出雲が列島の中心地に発展していった!? ここで、わたし(素人)が問題としたいのは、徐福がいかに卓抜した知見の持ち主だとはいえ全てに秀でているわけではない。前述したように、徐福は部長課長のいる<会社組織>を立ちあげたと思われること。そしてその<百工>にはそれぞれの得意分野があり、その滞在、立ち寄り期間の長短も問題だ。それに地域的特性も加わってくる。船造りはもとより、衣食住、陶磁器の陶土の調達から調味料の調達にいたるまで、あらゆる品々が考えられる。更にさらに銅剣(鉄材)の鋼材の調達。これらには自ずと産地適地がある。なかで一番大切なのが食料の調達。移動のためのお弁当は必ずいる。その時の稲作の可能産地を今の気温と品種で考えてはならない。人類は、今から4000年ほど前に大きな隕石の冬(別紙)を経験している。その気温の降下が何度であったか分からないが、北海道に除福の痕跡がうすいのは、このような食料事情が加わわっていたのかも知れない。
人口・人的資源も加えて、それらの全てが備わっているのが出雲地方だ(Dr.の言^^)。その中でも特に、掘削の必要のない砂鉄と露出鉱石があるのは大きな強みとなる。 徐福は出雲に必ず滞在していた。 ここでは、徐福本人が長期滞在していたかの有無は大きな問題とはならない。 薬石についての有力な情報があれば徐福は、それに応じてあちこちに飛ぶからだ。 前記のような資材と資源があれば、その基盤づくり(インフラ整備)をして、後は配下に任せればいい。だから出雲が中央都市として八百万の神々が集まるようになったのだ。その後には中国本国への出荷検品のために本拠を北九州へ移したかも知れませんが・・・。
<徐福、没する> (12/09)
徐福が没したのはBC208年とされる。されると言うのは何処で何時死んだか不確かなようだ。そのことは専門家に委ねるとして、BC208年であれば始皇帝没から2年後で渡航後11年後となる。中国の史家、司馬遷(しばせん)によれば、「平原広沢の王となり戻らなかった」とあるようだが、帰らなかったのではなくて帰れなかったのである。始皇帝から大資を受けて「そのような霊薬はありませんでした」等といって帰ろうものならひどい処遇にあうのは目に見えている。事実、始皇帝の暴君ブリを知っている人達からすれば、「徐福はうまいことやったな」 というかも知れない。徐福にそのような下心があったかどうかは知らないが、徐福は列島に大陸にない美しさと神秘性にひかれ、住民のいう荒神伝承(前述の大事変による巨大地震と大津波)を聞けば、日本列島の何処かに“三神山”はあると信じて探しつづけていたに違いない。なかで静岡県にも徐福伝説があるというが、富士の山を見れば、きっとその形状に心を奪われたであろう。不二の山とは、列島のすべてを知る者ぞのみ付けられる山名であり、この山名は、列島の住民が付けた山名ではない。ちなみに「不」を先につけるのは中国語の特徴でしたよね^^。不知・、不客知・(笑い)
<徐福の没後> (12/13)
徐福が亡くなったからといって、その配下やナンバー2はいたはずだ。不老不死の薬石探しを止めるわけにはいかない。彼等とて始皇帝の命を受けて渡航しているからだ。しかしながら、そうはいっても徐福が亡くなり、その命を出した始皇帝や秦代(BC221~BC206)さえも滅びてしまえば、その呪縛は?除々に解き放たれてゆく。だが仲間同士が神無月に出雲に寄り合うことは続いていった。9年のあいだに培われた海路はその後に発展したであろう陸路(古代陸路)とともに、中国本土や列島各地との商工路として機能するようになった。
富山の薬売り、近江商人、出雲の特殊鋼、○○の遠洋漁業のもとづえは、徐福達がなしたのだと私は思っている。そして端(はた)=秦(はた)=湊(みなと)の人達として歴史は流れてゆく。富山には今でも立派な内倉を持ったお家が残っている。そして、奈良の大仏殿の造営では秦の人達が財を寄進したというから、その人達はその後にも中国本土や列島各地との交易や工商によって蓄財をなしていったのかも知れない。
<ふ~~む!?>
徐福達の行動を調べることによって、
列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?
の<二つの謎>をしのばせて来たが、これに列島の倭人がどのように関わっていったのかが、全く推(よ)めない。 ・・・、
(謎Ⅰ) 列島の銅鐸はどのようにして拡布したのか? (12/14)
ウエブで調べていると次のような記事にあたった♪ (何方のかは後で調べます^^!)
→ homepage2.nifty.com/LUCKY-DRAGON/kodai-3-1jikitaku.htm
〔 補 足 ・・ その三 〕 【 銅鐸と磁器鐸 】
<新発見、古代中国、越の国の時代の磁器鐸>
2006年3月7日付の朝日新聞に、中国で日本の銅鐸とそっくりな磁器製の鐸が発見されたという注目すべきニュースが紹介されました。 しかもそれが紀元前470年頃の、越の国の貴族の墓から見つかったということです。 記事の内容は、以下のようなものです。
『 中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸(たく)が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。ーー 略 ーー。
鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12~18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江(揚子江)下流域の呉(?~紀元前473)と越(?~紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。ーー以下、略 ーー 』
( 以上、文化総合 文化欄より ) <※写真付き>
それにしても、2006年の今頃になって、このようなものが出土するとは・・・^^、
<素人の想像> (12/15)
銅鐸は謎の青銅器と呼ばれているもので、未だにその発生地や製造地はもとより、その使用目的さえも定かではない。出土の状態で中に<舌・ぜつ>と呼ばれている風鈴の振り金状のものがあったことから楽器として使用されていたのではないかの一説がある。’99年に大阪府茨木市東奈良遺跡で出土した銅鐸は、上部が“握り手”のようになっていて、その模様や形が簡素なことから、当時は「最古の銅鐸か?」とニュースになったことがある。無錫市の磁器鐸は上部に数センチの小さな“つり手“が付いている。いずれも鐸の形としては、初期的なものと思われる。 無錫市の位置は、上海のほぼ西方100km余で太湖の北岸に面し水運の発達した都市であり、日本列島との位置関係は九州の南端あたりとほぼ同緯度。上海から東の鹿児島までは約800km。
当時の船で季節風に乗ったとしても九州の東側に回るのはきつい? おおきく譲っても長崎あたりか? 素人の薄識(^^!)での解明はとても無理だ。これも無理!あれも無理。だが結果の現実をみれば、中国からの‘流布’は間違いなさそうだ。列島の銅鐸の<形>は、この磁器鐸の影響を受けていると言わざるを得ない。・・・これは一時置いといて・・・^^!
(12/16・17)
徐福達の3000人を海難等もあわせ見積もり、仮に1500人とした。その船を60人乗り(Dr.ブログから拝借・写真もありますヨ^^)とすると25隻の機動力となる。とは云っても童男童女を抱えているし列島の津々浦々を探索するには人手不足だ。現地人を調達したい。そして海陸を問わず薬石の探索を行うには現地の案内人の協力を得たほうが効率がよい。その交換に倭人が欲しがる銅製品を! さらに時は流れて銅鉱石、銅製品を生産、制作、再鋳造する当時の先進都市・出雲へ出向く。今の言葉でいえば、その購入(物々交換)。そして、より立派なものに買い換え(交換)をするためにと、陸路が発達してゆく。この下支えをしたのが徐福達が作った海路や陸路であったのではなかろうか? 銅鐸の制作年代や制作地を、その含有する鉛や○○の同位元素。そして、その含有量が鉱石産地よって異なることを利用して、それを推定する方法があったが、鉱石からの新鋳造であれば単産地であるが、列島各地から持ち寄った“古品”をつぶしての再鋳造であれば、この方法は使えなくなる。
ちなみに銅鐸は、個人の持ち物ではなくて村や郡(こおり)、あるいは祈祷所共有の財産であり、今の御神輿や、釣り鐘のようなものであったと以前に申し上げておきました^^。
<鐸> しげちゃん | URL | 2010-12-17-Fri 09:07 [EDIT]
鐸とは「さなぎ」。さなぎは変態を繰り返す。さなぎとは・・・『成虫になるための準備期間であることから転じて、成長を遂げようとする人を比喩的に指して使う場合もある。』・・・とか。成る程、鐸を鳴らして、早く稔りの秋になれと祈ったか?
<成る程、なるほど、> 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-12-18-Sat 06:00 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> コメントありがとう御座います♪
「鐸」とは、そのような意味だったのですね。まったく知りませんでした。それが大陸(中国)や半島(挑戦)から、日本に流布し、さらに拡布(この言葉はDr.ブログから♪)していったのでしょうか。本来の意は<さなぎ>ですか。 さなぎ(人)が、脱皮(死)して蝶(神仏)に変身してゆく。知れば知るほど奥が深くなってゆきます。(謝々)
<行・ぎょう、修行について> (12/19~20)
何故、修行に、「行・ぎょう」という字を当てるのか?
「行」の読みは‘ぎょう’とか‘おこなう’‘いく’である。‘ぎょう’と読めば仏教用語のようで、「諸行無常」と言えば諸々の行い(おこない)をいう。‘おこなう’と読めば諸々の行為。‘いく’と言えば移動すること。それが今では、仏教的な意味合いは薄れて移動する意のほうがつよい。 もともと「行」の字は‘おこない’のことをあらわしていたのか? だったら、移動する行為の「行く・いく」は、諸々の行為のほんの一部分でしかなく、「行く・いく」という‘あたりまえ’の行為に対しては、何かほかの<当て字>をしたほうがいい(!?)のにと、子供心には不思議でならなかった。
「行く= 歩くこと」であり、歩くことは、あたりまえの行為であり「修行」でも何でもない。千日回峰行のように歩くことに何かが加わるから“行・ぎょう”になると思うが? 「難行苦行」。 この当て字もおかしい? 素人的に考えれば「難為・なんい、苦為・くい」の当て字のほうがいいのにと思う。
それなのに、何故?ご先祖さま達は、「行く」という言葉にこだわったのか? 「行く」ということは「逝く」につながり、死して御浄土に出かける考えか? だが“死する”ことはあたりまえであり、これも“修行”にはならない。常人が出来ないことをするから「修行」なのだと思うが?
私は、この『行くという言葉』の発祥は、この度の徐福の記事にからめて、列島各地から当時(卑弥呼以前の歴史)の先進・中央都市へと発展した出雲へ、銅鐸の購入(何かとの物々交換)や、古くなったから新しいものをとか、隣の郡郷より立派なものを(^^!)とかの欲求から、歩行で遠く出雲まで出かけた太夫さん達にとっては大変な「修行」であったと思いたい。途中何日、何ヶ月もかかれば食料や水の調達が難しいからね(笑)。ちなみに、四国のお遍路さんは途中のおせったいを受けますが、命を賭しておこなう千日回峰は、食物をとらず水だけでしたよね!
< 結 論 > 結局薬局^^! <銅鐸の拡布の謎Ⅰ>で、いちばん肝心な ≪列島の各々の郡・こおりが、銅鐸という共通用具を使用するに至ったか?≫ については、解らずじまいでした(汗~)。
どなた様か、いいお知恵を~~~(^-^)。
(謎Ⅱ) 「津」の地名は、何時誰が統一したのか?
Dr.>コメント入りました。
tu(津) しげちゃん | URL | 2010-12-20-Mon 09:39 [EDIT]
神功皇后の三韓征伐の際に、神功皇后が半島に行く前に、半島の沿岸部を大波が襲い、それに畏怖した各首長たちが、なすすべもなく降伏をしたとあります。東の島国の神威は、津波で表現されていたのではないでしょうか。逆らうと、大波が東から到来する・・・。ご指摘のように徐福の最初の航海は鯨に阻まれて失敗します。鯨ではなく巨大に盛り上がる大波、つまり津波に阻まれたのではないでしょうか。蒙古襲来のときは荒れ狂う神風によって侵攻は挫折しています。すなわち、東の海上からは、変な思い付きをすると天変地異がもたらされると考えていたのではないでしょうか。徐福の一行が3000人などという構成になったのもそのリスクを考えての事だったのではないでしょうか。
Dr.しげちゃんさん> コメントありがとう御座います♪ (12/21)
私も、そのように考えます^^。ずいぶん前の話しになりますが、チリで発生した巨大地震による大津波が約1日をかけて、東北の三陸地帯にとどき多くの人命を失ったことがあります。日本列島は、火山国・地震国であります。その度に、巨大な受けV字形をしている中国の杭州湾や東朝鮮湾では甚大な被害を受けていたと思われる。だから兵馬俑の全ては東を向き、韓国では東方神起の言葉が生まれたのではないでしょうか?
魔海 しげちゃん | URL | 2010-12-21-Tue 16:30 [EDIT]
私は、今では消え去った伝説が中国にはあったのではないかと思っています。それは、東方の海は、聖なる海という側面と、魔の海という二面性を持っているというものです。徐福の山東半島あたりでは、海流というものが非常に弱いと思われます。しかし、日本列島の両面には、黒潮が流れています。日本海側には対馬海流となっています。もし、この海流に捕まってしまったらどこに行くのかもわからなくなってしまいます。太平洋側の黒潮本流も同じです。自分たちをどこへ運んでしまうのか予測もつかない海、すなわち魔海と受け取られていたのではないでしょうか。また、黄海では鯨やイルカを見るのは稀です。また、日本海のトドやアシカを見るのも稀でしょう。日本の人達がトラやラクダを見たときに感じる不思議な生き物が、魔の海にいると考えていたのではないでしょうか。それは中国の沿岸部を離れれば離れるほど恐怖感に代わっていくのです。中国の人達は、竜に見られるように奇怪な動物を想像し作り上げるのが得意です。さて、日本列島沿岸にはどのような奇怪な海の動物がいるのか、想像をたくましくし、さらに己の想像の中で作り上げた海の動物に畏怖したのではないでしょうか。
<消え去った伝説> 平 素人 | URL | 2010-12-22-Wed 03:11 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> コメントありがとう御座います♪
“消え去った中国の伝説”とてもいい表現ですね。わたしは、少年(中学生)のころ、何故に『中国四千年の歴史』というのか解せませんでした。この国の歴史をいうとき、それは、6千年、あるいは8千年以上をさかのぼってもいいのにと思うからでした。それが「何故四千年?なのか」 今から4千年ほど前に、正確に言えば<BC2001年の12月末>ですが、その歴史を消し去るほどの大事変(巨大隕石)が日本の龍飛崎上空を経由し釜石辺りに“分散衝突”しました。<竜は、巨大隕石ではないのか?>と思ったのが少年の頃です。この度徐福の記事を書くにあたり、それが確信にかわりました。<龍画は、中国人が倭人伝承の巨大隕石を描いたモンタージュ画>だと! さらに、それが日本へリターンした。巨大隕石に関しては、このブログの、カテゴリー「巨大隕石」で触れています。
末筆になりましたが、度々のコメントありがとう御座います。 コナンドイルは、Dr.ワトソン>を登場させることによって、その面白さを出しています。中国は、その四千年前の大地震と大津波による被災を文字にして遺してはいないでしょうか? 今後ともよろしくお願いいたします。(深礼)
<謎Ⅱの解明へ> (12/24~)
先の「卑弥呼・その後、と、徐福について」の記事で<津>に関する地名を拾った。
中国 天津(テンシン) ・・・、
朝鮮 羅津(ラジン) 清津(チョンジン) 魚大津(オデジン) 無水端(ムスダン)
永興湾(ヨンフン) 注文津(チュムジン)
( 註; 無水と永興は、日本の興津・おきつと同義で、逆V字地形や直下型地震の場合、
海底が盛り上がり潮がひことがあり、津波の出立地名だと謎解きした。)
日本では、
太平洋側から、宮城県(志津川)千葉県(天津小湊、木更津、富津)静岡県(沼津、興津、焼津)愛知県(御津)三重県(津)滋賀県(大津)和歌山県(泉大津)兵庫県(御津)岡山県(下津井) 香川県(津田、宇田津、多度津)山口県(今津川、大津島)福岡県(豊津)大分県(津久見、米水津)宮崎県(美々津川、油津)鹿児島県(坊津)長崎県(布津、時津)佐賀県(唐津)
日本海側の北から、北海道(茂津多岬)青森県(津軽)新潟県(新津、佐渡島両津)石川県(津幡、片山津)福井県(金津)京都府(宮津)鳥取県(日吉津)島根県(温泉津、江津、高津川)
<摂津市の不思議>
この外に少し内陸ではあるが大阪府に<摂津市>がある。筆者は摂津市の名の由来を知らないが、以前の謎解きで摂津の“摂”は、「摂政・せっしょう」の言葉があることから津の“おお元締め”ではないかとしたことがある。上記の津の地名のなかで摂津市の「摂」は際だって新しい感じがする。そして、何故、この内陸に<津の地名>が付いたのであろうかと、国土地理院の地形図で調べてみた。予想のとおり、摂津市役所・三島一丁目の隣にある<中央水みらいセンター>辺りが、海抜5m~△6、6 m。この高さは、今は陸中にある瀬戸内の貝塚や、濃尾平野での「陸中の島名」を捜したときの高さでもある。4010年前の昔、この辺りは海であった!!
(12/26)
この「市名」を決めるとき、「三島」の案もあったが、すでに静岡県に三島市の名があったことから、旧国名の「摂津国」からとったとのこと。「三島」の名は、古事記などにも見えることから相当古い地名と思われるとのこと。ここは、その昔海に囲まれた島であった。中央水みらいセンターの北に流通センター・宮島二丁目がある。さらに辺りを見回すと<神崎川><豊中><木津>の地名も見える。このような地名は、今から4010年前の津波が打ち上げた海産物や、草木に基づくものだとすでに謎解きしている。この≪宮島≫は、その昔、津波が打ち上げた“聖地”であった! 今は、無惨にもその跡形もないように“整地^^!”されているようだが!?
(12/27)
この歴史的背景のある<三島・宮島>で何があり、<摂津>の地名をつけたのであろうか?
次の言葉を調べてみた。
摂政(せっしょう)とは、 君主制を取る国家において、君主が幼少、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことができないとき、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 (wikipedia、より引用)
摂社とは、 神社の社格の一つ。古くは所摂社とも。本社の境内外にわたってあり,多くは本社の祭神の妃神・御子神・荒魂(あらみたま),また地主神など縁故の深い神をまつる。それ以下を末社(まっしゃ)という。 (百科マイペディアから引用)
この二つの言葉と、今までの謎解きを合わせて<摂津>の地名の意を考えると
① BC2001年12月末、東北に巨大隕石が衝突し、列島の各地を巨大地震と大津波が襲った! その後その被災の大きいことや魚介の打ち上げががあった所ほど、竜神・荒神の信仰地へと発展していった。その一つが、ここ浪速・なにわの地<三島・宮島>だ。
② 時は流れて、BC200年頃。その一つでもある出雲地方へ、除福船団が波速い対馬海流に流されて、先進の技術を持って渡来してきた。出雲は、大陸との地の利もよく、露出鉱・温泉・薬草(うこん?)等もあり、列島の人達が欲しがる銅製品(銅鐸・銅剣等)の製作・加工・販売(物々交換)の地として発展していった。
③ 列島の津々浦々へ散らばった、徐福達・秦(はた)の人は、珍宝薬石を本国へ送るための集荷地として、年1回、十月の<神無月>に出雲へ集まることを申し合わせた。
③これに、列島各地の倭人達が徐福隊と、どのような言葉を交わし、『八百万の神々』となって、海路陸路をふくめて<出雲>へ出向くようなったのか?の謎は解明できませんでしたが、「神」を現地集合の秦の人達と、とるか銅鐸を求めに出かけた各地の太夫さん達と、するかは、別として、出雲へ八百万の神々が集まるというのは、史実に基づいた伝承である。(^-^)
④ なにはともあれ、出雲は、永々として築きあげた列島本来が持つ<竜神・雨乞い文化>と、大陸文化が絡まり合って、『八百万の神々が集いて神議』をおこなう郡郷・中央都市へと発展していった。
⑤ 更に、時は流れて『国譲り』となる。筆者は、国譲りの何んたるやを全く知らない。○○の神様の漢字が読めないながらも、国譲りを出雲から大和への “ 政教分離?”とみた。
弥生代の初期。徐福達によって水稲の新しい営農法が各地に取り入れられた事により、広大な洪積平野での生産量は飛躍的にたかまり人口も多くなる。道普請、川普請も必要となり、今までの荒神様に伺う“祀り事”だけでは対応しきれなくなり、寄進から租税へと、政(まつりごと)の要素が入ってくる。<大和>が大阪。京都。奈良。或いは伊勢・濃尾になるのかは知らないが、米を主食とする限り出雲に対抗した勢力となるのは時間の問題^^?
そこで出雲から大和へ国譲りも済み。その<会議場>となったのが<摂津市>ではなかろうか。今でも○○条約。○○議定書というのは、土地名を付してその取り決めを行う。<摂津市>は、出雲と大和の中間点にあり列島の皆々が集まるには都合がいい。此処へ、その神議の場をを移し、列島各地でバラバラに呼ばれていた津波地名(例えば、東北の戸・へ。出雲、伊勢の垣戸・かいと。神戸・こうど・かんど・かんべ←いずれも地名から推む)を、中国の津波をいう『津・しん』の字から、津波をかぞえる第一波、第二波の『一つ、二つ』をあて、それを共通地名にしようとの合意がなされたのではないだろうか。でないと何故「シンや、ジンの」読みを「ツ」にしたのか? その発想が思い浮かばない。この摂津市の近くにある箸墓古墳が(卑弥呼?)に、どのように絡んでくるかは今後の課題となる・・・。 (卑弥呼その後、付言Ⅱへつづく)
<結び> 日本が今世紀を変える発信地になりませんか?!
この「報告書」の一葉、々は、素人探偵の稚拙な論説であり誤りも含まれてはいますが、全ての記事が絡まり合った時、それは世紀を変えうる力となる。今の史学が、貴方が「徐福」を伝説といわず、そして東北地方へ降臨した巨大隕石を竜の化身だと認めない限りこの謎解きは先へは進まない。その隕石の<赤>を基調とする鳥居や建物は、日本発のものであり、大陸やシルクロードを通して遠くヨーロッパへも渡った唐草模様やアスベスク模様は、日本発の 「緑なす大津波」 だと思いたい。 だから、欧州人が、その震源地・神秘の国ジパングへ操り出したのだとも!
それには、貴方のご参加が是非に必要となる。 出来れば、私の存命中にお願いしたいのですが・・・?(-笑い-) そのBC2001年の12月末(欧州時24日・日本時間25日)にナスカや欧州の上空を経由し、地球を半周した巨大隕石がおこす大事変を中国や朝鮮・韓国の祖先も必ず伝承として<津・シン>として遺しているはずだ。学問に国境はない。まずは史学から、それ等を討究して欲しいと強く願っている。(徐福・・のⅦ,方魚津・パンオジンへつづく)
「徐福」長いお付きあいありがとう御座いました。 「 完 」
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去る年、ご奇特な方がいらっしゃいまして^^!、お一人の方がこれを買って下さいました。(謝々、お申し出下さればプレミアム付きのコメントを^^)。 もし貴方が大国の責任者なら、この報告書から、ん十億、ん百億の価値を見い出すでしようし、もし貴方が中学生なら、¥500 で大きな夢が買えるのにねえ(笑)。さて、貴方さまは、ブレイクしてからになさる? それとも・・・^^?
「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」が出土するのは、まだまだ先のことになりそうです。 その出土が何時になるやらは分かりませんが、その時には、ご訪問して下さった貴方さまと共に喜び合いましょうね v(^-^)。
卑弥呼に興味のないお方は、【 MY粗茶室 】 を用意してお待ちしております。
MY粗茶室&、では、<卑弥呼>だけでなく色んなことを食っちゃべっていますの
で・・・、興味のあるお方は、左欄下のカテゴリー<ゲスト様>の方へ、どうぞ(^-^)♪
又は、アーカイブ 2009/10月から・・・、(お手数ですが“貼り方”を知らない^^!)
<初めて、ご訪問の方に>
ご訪問ありがとう御座います。このブログで掲載している記事のすべては関連モノです。その後シリーズでは、その要旨や言葉足らずのところを書き足しています。 興味が湧いた方は “ふりだし”から、どうぞ(但し、お暇な方に限ります^^)。 お勧めは、カテゴリー別で入って下さると読みやすいかも知れません。 尚、コメントは、後々(の世^^!)まで残るものであり、本になるやも知れませんので、真に勝手ではありますが、その時には当方が、そのコメントを無償で使用出来ることを 御了解されたものとして扱います。 なぜこのようなことを申し上げているかというと 「 先で、この『広報』を妨げる要因は一切取りのぞいておきたいからです」。御一緒に、そのコメントを歴史に刻みませんか?(^-^)♪
(敬白) 史実探偵: 平 素人
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<徐福達が日本史に与えた影響、そのⅥ.(完)>
【 前記事、Ⅰ~Ⅴまでの要旨 】
列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
どのように流布・拡布したのか? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?
秦の始皇帝(BC.246年に即位)が、徐福に童男童女3000人を与え、
東方彼方の日本列島から“不老不死、不老長寿”の薬石と仙人を連れて
帰れと命じた。対馬海流によって分散・漂着させられた徐福たちは、列島
各地や、内陸部へも果敢に進出していった。 そして、とりあえず蒐集した
薬石・珍宝を始皇帝のもとへ送り届ける交通網を列島につくりあげた。
そして、Ⅴでは、列島人と徐福達との関わり合いについて考えてみた。
ここまでが、<徐福について>の記事(Ⅰ~Ⅴ)の概略です。
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<朝鮮・中国、から見た魅力的な日本列島♪> (11/16)
近年に‘脱北者’が、日本へ漂着した時のこと。「なぜ貴方は上陸して、すぐに隠れなかったのですか?」 「緑の景色がきれいだったから・」と、云ったそうです。今ここで論じているのは紀元前・後の境目あたりですが、私達は、近代の一時期その緑を失った時があるとはいえ、自分達の国土の美しさに気付くべきです。今でこそ「狭い日本」といいますが、幾十里も歩かなければ山や海へたどり着くことが出来ない大陸。確かに大陸には奇勝絶景があるようですが、それ等へ歩いて行くには遠く離れすぎている。広大なゆえの単調な植生。決して澄むことのない黄河等。それに比べて列島では数里も歩けば、山、河、海へと思いのまま♪ (大陸では今でも死ぬまで海を観たこともない人がいるそうですよ。)このことは、色々な食材が多くを歩かずに手に入れることが出来るということであり、しかも列島には幾筋にも清流が流れ、白砂青松の海岸。加えて四季によっても、景色や食材が変わるのである。このことは縄文石器を営む列島人には、狭い地域での自給自足が可能であり、他人のテリトリーを侵す必然性が生まれない。ゆえに列島人はきわめて平和的(^-^)。戦いの痕跡が遺物に見られるのは卑弥呼より少し前だったかな? 大陸とは異なり、海の幸が得られ、四季ごとに変わりゆく景色、気象の変化、雲の形までもが異なり? 「花鳥風月」のうつろう “時間” を楽しめる国は、そう多くはないと思いますよ。出雲に帰化された<小泉八雲さん>は、そのような日本が気に入ったのでしょうね。出雲の夕日と、それに手をあわす人々に惹かれて! 日本のよさは “観光資源” は、「外国人に聞け」ってかぁ?( 大笑だぁ^^)
列島は、「細長い国土と変化に富んだ地形。そして移りゆく四季が財産です」そういう私は、朋友釣りじいさん>をなくしてから、それを楽しむ心のゆとりをなくしてしまいました。短い秋が過ぎ去ろうとしているのに! せいぜい<日本蜜蜂さん>のお世話にいそしむとしましょうか。 衣・食・住・が物余りして、今や車や宝石でさえも興味がうすれてきた日本。これからどのように動くのでしょうか。
<魅力的な、日本列島 の2.> (11/21)
徐福達から見た列島は、海・山・川・野、の色々な食材を多くを歩かずに<狭い>範囲で得ることが出来る。しかも、建材にする石や草木までもが何処でも簡単に手に入る。そして、住人は戦いを好まず平和的♪ さらに出雲では “砂鉄や銅鉱” の露出岩(Dr.>の言;島根半島で今でもゴロゴロ)があった! 砂鉄とかゴロゴロ状態の鉱石は、採掘の労力なしで、それに熱を加えるだけで「鋼」が得られるということである。さらに、更に、出雲の神の酒造り^^♪ そして温泉もあるしね(笑)。蛇足ながら、ガマのお綿(出雲木綿?)もあるよ^^! 徐福達にとっては、まるで桃源郷♪しかし、それでは困るのである。
徐福達は列島に永住しに来たのではない。 始皇帝の命である“不老不死の薬石”を求めにきたのである。もし定住でもしょうものなら・・・?、その声狼(ロウ)の如し、その薬石をと命じた方士2名にトンズラされ、それに立腹し、方士達400余名を「自分達でその法を考え生き長らえよ!」と、“穴埋め?”にした皇帝の恐ろしさは骨の髄までしみ入っている。
<東方神起!、日本列島の神秘を探せ!> (11/22)
この項は徐福達が<東方神起>列島の地勢になにを感じ、なにを神秘的に思ったかは、全く分からないので、‘素人の勝って^^’ で、このブログで以前に出てきたものを取り上げてみたい。 まず火山と温泉。それに、日ノ御碕の西端の玄武岩、(出雲)○○市の鳴き砂、鳥取の砂丘、弓ヶ浜、丹後の玄武洞の柱状節理、天橋立、北へ行って青森の仏ヶ浦、恐山、三陸海岸の絶壁かな? そのほか全く知りませぇ~~ん^^!。これ等の多くは4010年前の東北に落ちた巨大隕石に関係するとみているが、今回は「鳴き砂の浜」について取り上げたい。
「鳴り砂・但しなきずなと読む^^!」を学問的に取り上げると難しいようなので、素人流でいうと奇麗な石英の砂浜を踏めば鳴る」とでもしておきましょうか(笑)。以前この鳴き砂を持つ自治体が縁組を?して、その学問的価値とそれを観光資源にしようとする動きがあった。全国で100~200カ所あるようだが、
その主なものを< Wikipedia >で調べると。
* 小清水海岸(北海道斜里郡小清水町) * 青谷浜(鳥取県鳥取市)
* イタンキ浜(北海道室蘭市) * 井手ヶ浜(鳥取県鳥取市)
* 猿ヶ森砂丘(青森県下北郡東通村) * 石脇海岸(鳥取県東伯郡湯梨浜町)
* 大須賀海岸(種差海岸)(青森県八戸市) * 波根海岸(島根県大田市)
* 浪板海岸(岩手県上閉伊郡大槌町)* 琴ヶ浜(島根県大田市仁摩町馬路)-日本の音風景100選
* 小久保海岸(岩手県上閉伊郡大槌町) * 犬ヶ浜(島根県大田市温泉津)
* 九九鳴浜(宮城県気仙沼市) * 清ヶ浜(山口県阿武郡阿武町)
* 十八鳴浜(宮城県気仙沼市) * 小原浜(山口県萩市)
* 夏浜(宮城県牡鹿郡女川町) * 室津海岸(山口県下関市)
* 小屋取浜(宮城県牡鹿郡女川町) * 姉子の浜(福岡県糸島市)
* 鳥の海(宮城県亘理郡亘理町) * 奈多海岸(福岡県福岡市)
* 豊間海岸(福島県いわき市) * 恋の浦(福岡県福津市)
* 角海浜(新潟県新潟市) - 現在は鳴らない * 勝浦浜(福岡県福津市)
* 千代浜(石川県輪島市門前町) * 白石浜(福岡県福津市)
* 琴ヶ浜(石川県輪島市門前町) * ぎぎが浜(長崎県松浦市)
* 琴引浜(京都府京丹後市 -日本の音風景100選 * 月ヶ浜(沖縄県八重山郡竹富町(西表島))
子供(中学生)のころ、鳥取の砂丘が何故できたのか?を不思議に思ったことがある。それまでの私は砂の成因は河川の流れによってのみ出来るのであって、決して海の底の岩石は砂にならないし、水流のない風化作用だけではその砂粒は出来はしない。その砂浜を作るにはその高さ以上の水流が要ると! 上記の砂浜が4010年前の<釜石辺り>で発生した巨大地震に揺すられた≪巨大津波沿岸流≫によるものかどうかを精査するのは今後の課題だが、なかに背後地に石英の母岩を持たない所がある。『その石英粒はいったい何処から運ばれたのでしょうね?(笑) 別談になりますが、サハラ砂漠も津波成因なのですよ! (NHKが調べたらサハラの砂は南からだって!) 今、専門家は、まったく相手にしてくれないが、何れ世界が素人の極秘報告書「巨大隕石と大津波」を認めざるを得ない時がくるのにねえ(大笑だぁ^-^) (電子出版 ↑クリックOK、部分的ですが無料立ち読み有り。 ご購入は ¥500。 ただし11,000Kbの大作?ですから、お暇な方で“史実を知りたい方”にかぎります^^。)
拙い素人の論で、頭の固い地質学を切り崩すのは、頭の古い考古学に気付いて貰うより更に、々に、難しい。(ゴメン又、言葉が過ぎました。20余年もやってると、ついつい恨み節がぁ~^^!)
何故、そんなに強気の言が吐けるのかって? 私には、その白砂にまつわる御先祖さまからの『伝説やら民話』がありますからね。その砂浜の傍らの社(やしろ)に手をあわせれば、貴方にも<その砂浜は神様が“一朝”にして創った>との声が聞こえるかも知れませんよ。(^-^)♪
<とは、言っても!?> (11/23)
上記の“白砂青松”は、徐福達の初期の日本海沿岸行動と重なる。徐福達の目的は不老不死の薬石を探すことにある。それは<東方神起>の神の居場所を探す旅でもある。なぜなら、神=不老不死の考えに基づいているからだ。徐福達は、きっとその美しさと鳴き音に心を奪われたはずだ。一方、列島の住民達は、その白浜は四千年前の荒神竜が運んできたとの信仰(これは筆者の思いつきです)がある。 ここで双方何んらかのコミニュケーションがあったと思われるが、それが推(よ)めない。この徐福についての記事のなかでもくろんできた(謎Ⅱ)の「津の地名は何時誰が統一したのか?」に、全く関連づけられない!! まあいい!?無理に答を出そうとすれば無理が生じる(笑)。 徐福達と津名の統一は何んらかの関連があるとは思われるのだが、それが全く推(よ)めない。 どなた様か、どうぞの御教示を(^-^)! 素人探偵は、その鳴き砂の浜にまつわる『伝説やら民話』の実際が知りたい。 蛇足ながら、能登の荒神太鼓(御陣乗太鼓)、秋田のナマハゲ、それに太平洋側へ離れてはいますが“三保の羽衣伝説” これ等も徐福達の一行が関係しているのではないかと疑っています。 なにしろここで取り上げている話しは、卑弥呼より400年?も前のBC200年頃の話しですからね。
<列島文化の強い独自性> (11/25)
前述のようにあげると、大陸や半島の先進文明で列島の文化が、かき消された感を受ける
が・・・?? Dr.>が、先に、ご教示して下さった下記のコメントが気になっています。
≪ 不思議 ≫ shigechanizumo | URL | 2010-07-30-Fri 16:41 [EDIT]
3000人もの童男童女とされています。 ここで不思議なことがあります。
彼らは文字を使っていたのか。彼らの話し言葉は何だったのか。もちろん当時の漢字と中国語を使っています。 多くの技術者や、童男童女が日本列島に着いた。 そして散らばった。 漢字や中国語が何らかの痕跡を残さないはずはありません。しかし、その痕跡がない。弥生式土器に残された文字は極めて少なく、その上にひとつの土器に一文字くらいのものが稀にやっと見つかっているのです。 私たちは、縄文語だなんだと日本語の起源を探ろうとしていますが、ドッと3,000人もの中国語を話す人が一度に来たのなら、それはクラスターともいえるのですから、どこかの地域あるいは広がりに中国語の痕跡が残らなければなりません。 ところがこれもその痕跡がない。 では、ただ残らなかっただけなのか。そんな馬鹿なことはありません。
私の推理はこうです。
彼らは決して日本列島の人々に文字を教えたり、中国語を教えたりはしなかった。その理由は、彼らがプロとしてのエージェント教育を受けていたからです。日本列島の人々が漢字をたやすく使えたり、中国語を理解できるようになってそれを話すようになれば、特命を受けて日本列島にやって来た自分たちやその子孫と、区別がつかなくなるのです。 彼らはあくまで秘密結社としての集団性を維持する必要があったのです。いかに多方面に散らばろうとも、漢字を用いて中国語を話す人と出会えば、それはまさしく秘密結社の一員との遭遇であり、同胞との遭遇であると確信できるように、彼らの文字と言葉は彼らだけの間のものとして保持していたのです。 徐福の一団恐るべし、と言うべきでしょう。
Dr.>のコメントは徐福達の行動をするどく突いている! これを受けて・・・、つづきます
<企業秘密> (11/27)
徐福達の求める“不老不死”の薬石を現代風にいうと、企業秘密の薬石である。いかに他国の住人であれ、それについてべらべらとしゃべる分けにはいかない。徐福達は列島人との生活場所に一線を引いている。列島人は、徐福達を<秦・しん>の人と呼ばずに、端・はた(=秦)に住む人と呼んでいるのは、主住地に対しての端の意であり、その生活圏のリードマンは、列島人であったということである。徐福達は、列島人のことを戦争のない平和の人達という意味で<倭・わ>の人達と呼ぶようになったと(仮に^^?)謎解きしました(笑)。列島人にすれば、徐福達は、永々と続けてきた雨乞いを主体とする“荒神文化の延長線上”に現れた神(上・かみ(上紙^^?)、天上人・てんじょうびと→殿上人)ではあるが、四千年前(BC.2001)の大事変という実体験の伝承から生まれた<信仰心-前述>は簡単に変わるものではない。徐福達にすれば一カ所に永住できず、そこで統理するわけにはいかないし、もし、そんなことが中国の本土に知れたらぁ~~!?
<始皇帝の没後> (12/03)
始皇帝は徐福達が出帆したわずか9年後のBC210年に49歳で?亡くなっている。その後、秦国の二代目は数年(?)しか続いていない。もとより、不老不死の薬石などあろうはずもなく、徐福達にすれば、“始皇帝の命“というタガは無くなったが、9年の間に幾度かは、日本列島で求めた薬石、珍宝を中国本土へ送っているはずだ。徐福達3000人の中には危うい考えの武人もいて、東北地方では“なまはげ”となって “余命長い” 幼児も皇帝へ送りました。各地に残る「神隠し」という拐(かどわ)かしが、その幼児達でなかったことを願っています。はたまた、正月のその獅子舞が 「泣ぐ子はいねがぁ゛喰てまうどぉ」 それが今では、獅子にカブられることにより、そこで一端、命を断ち、その後の余命が長くなることを意味するようになりました。なにはともあれ、このようにして出来上がった海路や、中継地、集荷地は後々の日本列島の発展へと関与・寄与していく。
その詳細は、Drブログ>いずものこころ、 古代出雲 『発想の転換 徐福伝説』 2005/12/21 ~ 12/27迄へ、どうぞ!♪ (スミマセン^^!、貼り方を知らない。 暦の上にある矢印から検索したほうがいいかも^^) 尚、この素人の「除福について」の記事は、氏の御記事に出会い
‘ペリー来航’もその比ではないほどのカルチャーショックを受けたことから発したものであり、記事の内容は、その二番煎じ、三番煎じであることを申し添えておきます。
感謝 しげちゃん | URL | 2010-12-03-Fri 09:36 [EDIT]
私は、日本には不老不死の思想は受け容れられなかったと思うのです。徐福が列島に到着した時代に、日本列島に祖霊信仰があったのかどうか分かりません。しかし、日本列島は祖霊信仰の国柄です。 早くじっちゃんばっちゃんになって、あの世から子孫を見守ってやりたいというものです。姥捨て山でも、「早く置いて行け」と息子に言うのです。
感謝2 しげちゃん | URL | 2010-12-03-Fri 09:38 [EDIT]
先日恐ろしい文章を読みました。アイヌの死生観です。アイヌの人は、成人が死んでもあまり悲しまないそうです。亡くなった成人は、次には胎児となって生まれ変わるからだそうです。そこで、子供が死ぬと大変だそうです。祖先を殺してしまったということになるからです。いわんや、妊婦が死ぬともっと大変だそうです。せっかく生まれ変わりのために胎児を宿ったのに、その胎児たる祖先はこの世に出てこられないからです。そこで、妊婦が死ぬと、いったん妊婦として埋葬し、翌日に胎児を取り出して、改めて手厚く胎児を埋葬するそうです。土偶のお腹に筋があるのは、その胎児を切り出した後だというのです。よく見ると、土偶は妊婦であり、確かに張り出したお腹に筋があるものが多いのです。生まれ変わりという思想がある限り、不老不死の思想は必要なかったのです。
<コメントに感謝> 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-12-05-Sun 06:27 [EDIT]
コメントありがとう御座います♪ 昨々日は、雷を伴う時期はずれの低気圧が吹き荒れました。わがコメント欄にも歓迎すべからずの荒らしがふきコメントが遅れたことお詫び申し上げます。
「土偶は妊婦であり、確かに張り出したお腹に筋があるものが多い」 には、そのような祖先の想いが潜んでいたのですね。 知りませんでした。わたし(素人)が、何気なく見過ごしている埋蔵物の一片に秘められた祖先の思いと歴史に興味を覚えます。
<徐福の立ち寄り場所> (12/06)
いずものこころ -Yahoo!ブログ- 古代出雲『徐福伝説』の謎 2005/12/21 より借用
徐福の出身は斉(現在の山東省)で、身分は道教の方士。神仙思想(東方の海上にある三神山に、不老長生のための薬を持つ仙人がいるという説)に基づく不老不死を実現するための呪術や祈祷・薬剤の調合に長け、医薬・天文・占術などに通じた学者でした。しかし、徐福は中国には戻りませんでした。
徐福の渡来地として日本のいろいろな土地が挙げられ、伝承が残っているとされています。主なところを挙げると、青森県小泊村、山梨県富士吉田市、東京都八丈町、三重県熊野市、宮崎県延岡市、佐賀県佐賀市、佐賀県諸富町、佐賀県武雄市、広島県宮島町、京都府伊根町、鹿児島県串木野市など、北は青森から南は鹿児島にまで及んでいます。日本には30もの徐福伝説があるとされています。
ウエブ 古代史の扉 『徐福伝説』 (2010/12/01 のGMTに取得)
wwwasukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm
これ等のことは、よくぞ!♪ と思われるほどにあり、これも是非に一見をお勧めします。
<日本列島の神秘性は、なぜ生まれたのか?> (12/07)
欧州では「ジパング」、 中国では「神仙思想」、 韓国では「東方神起」-(グルーフ・名)-
その考えに基づいて、徐福が東方探索に出たのがBC219年。二度、試みたようですが、一度目は大鯨?に阻まれ失敗。大鯨とは台風のことではないかとのこと。ご存じのように後々の歴史で、徐福以外にも中国大陸から日本を配下にしょうと二度ほど列島に大船団をくり出しているが、何れも神風(台風)によって失敗している。これ等のことを神秘的偶然性ととらえる向きもありますが、中国で秋の収穫を済ませて、その兵糧を持ち何日もかけて行進、航海すれば台風の時期に重なるのは必然。筆者がいう『BC2001年の東方から襲来した巨大地震と巨大津波』の被災を歴史が覚えていて(この表現はDr.から^^)、度重なる大軍が海のもくずと消えれば、より列島の神秘性は増していく。中国の人達は、そういった危険を伴う深山や未知の場所にこそ霊薬ありとする国民性が(?)あると独断しました(^-^)。
大鯨=東方の海に潜む巨大エネルギー(=津波)、 大なまず=地下エネルギー、 東方神起=列島からの大事変、 竜=巨大隕石 (BC2001/12/25 日本時間AM6:00頃、地球を半周した小天体が東北地方に降臨!) 『これ等は、表現の違いであり、言葉の違いである』 それに貴方が、現科学が、世界が、気付かない限り本当の歴史は見えてこない。
それを「津波や地下エネルギー」と呼んだら科学で「大鯨や大なまず」と“例え”たら伝説かぁ~?
「それが科学なら、ちゃんちゃら可笑しい!」 ・・と、ご先祖さまがぁ~^^ 史実探偵:平 素人
<列島の中心地に発展した出雲!> (12/08)
それ等の中で出雲が列島の中心地に発展していった!? ここで、わたし(素人)が問題としたいのは、徐福がいかに卓抜した知見の持ち主だとはいえ全てに秀でているわけではない。前述したように、徐福は部長課長のいる<会社組織>を立ちあげたと思われること。そしてその<百工>にはそれぞれの得意分野があり、その滞在、立ち寄り期間の長短も問題だ。それに地域的特性も加わってくる。船造りはもとより、衣食住、陶磁器の陶土の調達から調味料の調達にいたるまで、あらゆる品々が考えられる。更にさらに銅剣(鉄材)の鋼材の調達。これらには自ずと産地適地がある。なかで一番大切なのが食料の調達。移動のためのお弁当は必ずいる。その時の稲作の可能産地を今の気温と品種で考えてはならない。人類は、今から4000年ほど前に大きな隕石の冬(別紙)を経験している。その気温の降下が何度であったか分からないが、北海道に除福の痕跡がうすいのは、このような食料事情が加わわっていたのかも知れない。
人口・人的資源も加えて、それらの全てが備わっているのが出雲地方だ(Dr.の言^^)。その中でも特に、掘削の必要のない砂鉄と露出鉱石があるのは大きな強みとなる。 徐福は出雲に必ず滞在していた。 ここでは、徐福本人が長期滞在していたかの有無は大きな問題とはならない。 薬石についての有力な情報があれば徐福は、それに応じてあちこちに飛ぶからだ。 前記のような資材と資源があれば、その基盤づくり(インフラ整備)をして、後は配下に任せればいい。だから出雲が中央都市として八百万の神々が集まるようになったのだ。その後には中国本国への出荷検品のために本拠を北九州へ移したかも知れませんが・・・。
<徐福、没する> (12/09)
徐福が没したのはBC208年とされる。されると言うのは何処で何時死んだか不確かなようだ。そのことは専門家に委ねるとして、BC208年であれば始皇帝没から2年後で渡航後11年後となる。中国の史家、司馬遷(しばせん)によれば、「平原広沢の王となり戻らなかった」とあるようだが、帰らなかったのではなくて帰れなかったのである。始皇帝から大資を受けて「そのような霊薬はありませんでした」等といって帰ろうものならひどい処遇にあうのは目に見えている。事実、始皇帝の暴君ブリを知っている人達からすれば、「徐福はうまいことやったな」 というかも知れない。徐福にそのような下心があったかどうかは知らないが、徐福は列島に大陸にない美しさと神秘性にひかれ、住民のいう荒神伝承(前述の大事変による巨大地震と大津波)を聞けば、日本列島の何処かに“三神山”はあると信じて探しつづけていたに違いない。なかで静岡県にも徐福伝説があるというが、富士の山を見れば、きっとその形状に心を奪われたであろう。不二の山とは、列島のすべてを知る者ぞのみ付けられる山名であり、この山名は、列島の住民が付けた山名ではない。ちなみに「不」を先につけるのは中国語の特徴でしたよね^^。不知・、不客知・(笑い)
<徐福の没後> (12/13)
徐福が亡くなったからといって、その配下やナンバー2はいたはずだ。不老不死の薬石探しを止めるわけにはいかない。彼等とて始皇帝の命を受けて渡航しているからだ。しかしながら、そうはいっても徐福が亡くなり、その命を出した始皇帝や秦代(BC221~BC206)さえも滅びてしまえば、その呪縛は?除々に解き放たれてゆく。だが仲間同士が神無月に出雲に寄り合うことは続いていった。9年のあいだに培われた海路はその後に発展したであろう陸路(古代陸路)とともに、中国本土や列島各地との商工路として機能するようになった。
富山の薬売り、近江商人、出雲の特殊鋼、○○の遠洋漁業のもとづえは、徐福達がなしたのだと私は思っている。そして端(はた)=秦(はた)=湊(みなと)の人達として歴史は流れてゆく。富山には今でも立派な内倉を持ったお家が残っている。そして、奈良の大仏殿の造営では秦の人達が財を寄進したというから、その人達はその後にも中国本土や列島各地との交易や工商によって蓄財をなしていったのかも知れない。
<ふ~~む!?>
徐福達の行動を調べることによって、
列島の津々浦々から出土している銅鐸は、
いつ誰が流布したのか(謎Ⅰ)? 又、「津」の地名は誰が統一したのか(謎Ⅱ)?
の<二つの謎>をしのばせて来たが、これに列島の倭人がどのように関わっていったのかが、全く推(よ)めない。 ・・・、
(謎Ⅰ) 列島の銅鐸はどのようにして拡布したのか? (12/14)
ウエブで調べていると次のような記事にあたった♪ (何方のかは後で調べます^^!)
→ homepage2.nifty.com/LUCKY-DRAGON/kodai-3-1jikitaku.htm
〔 補 足 ・・ その三 〕 【 銅鐸と磁器鐸 】
<新発見、古代中国、越の国の時代の磁器鐸>
2006年3月7日付の朝日新聞に、中国で日本の銅鐸とそっくりな磁器製の鐸が発見されたという注目すべきニュースが紹介されました。 しかもそれが紀元前470年頃の、越の国の貴族の墓から見つかったということです。 記事の内容は、以下のようなものです。
『 中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸(たく)が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。ーー 略 ーー。
鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12~18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江(揚子江)下流域の呉(?~紀元前473)と越(?~紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。ーー以下、略 ーー 』
( 以上、文化総合 文化欄より ) <※写真付き>
それにしても、2006年の今頃になって、このようなものが出土するとは・・・^^、
<素人の想像> (12/15)
銅鐸は謎の青銅器と呼ばれているもので、未だにその発生地や製造地はもとより、その使用目的さえも定かではない。出土の状態で中に<舌・ぜつ>と呼ばれている風鈴の振り金状のものがあったことから楽器として使用されていたのではないかの一説がある。’99年に大阪府茨木市東奈良遺跡で出土した銅鐸は、上部が“握り手”のようになっていて、その模様や形が簡素なことから、当時は「最古の銅鐸か?」とニュースになったことがある。無錫市の磁器鐸は上部に数センチの小さな“つり手“が付いている。いずれも鐸の形としては、初期的なものと思われる。 無錫市の位置は、上海のほぼ西方100km余で太湖の北岸に面し水運の発達した都市であり、日本列島との位置関係は九州の南端あたりとほぼ同緯度。上海から東の鹿児島までは約800km。
当時の船で季節風に乗ったとしても九州の東側に回るのはきつい? おおきく譲っても長崎あたりか? 素人の薄識(^^!)での解明はとても無理だ。これも無理!あれも無理。だが結果の現実をみれば、中国からの‘流布’は間違いなさそうだ。列島の銅鐸の<形>は、この磁器鐸の影響を受けていると言わざるを得ない。・・・これは一時置いといて・・・^^!
(12/16・17)
徐福達の3000人を海難等もあわせ見積もり、仮に1500人とした。その船を60人乗り(Dr.ブログから拝借・写真もありますヨ^^)とすると25隻の機動力となる。とは云っても童男童女を抱えているし列島の津々浦々を探索するには人手不足だ。現地人を調達したい。そして海陸を問わず薬石の探索を行うには現地の案内人の協力を得たほうが効率がよい。その交換に倭人が欲しがる銅製品を! さらに時は流れて銅鉱石、銅製品を生産、制作、再鋳造する当時の先進都市・出雲へ出向く。今の言葉でいえば、その購入(物々交換)。そして、より立派なものに買い換え(交換)をするためにと、陸路が発達してゆく。この下支えをしたのが徐福達が作った海路や陸路であったのではなかろうか? 銅鐸の制作年代や制作地を、その含有する鉛や○○の同位元素。そして、その含有量が鉱石産地よって異なることを利用して、それを推定する方法があったが、鉱石からの新鋳造であれば単産地であるが、列島各地から持ち寄った“古品”をつぶしての再鋳造であれば、この方法は使えなくなる。
ちなみに銅鐸は、個人の持ち物ではなくて村や郡(こおり)、あるいは祈祷所共有の財産であり、今の御神輿や、釣り鐘のようなものであったと以前に申し上げておきました^^。
<鐸> しげちゃん | URL | 2010-12-17-Fri 09:07 [EDIT]
鐸とは「さなぎ」。さなぎは変態を繰り返す。さなぎとは・・・『成虫になるための準備期間であることから転じて、成長を遂げようとする人を比喩的に指して使う場合もある。』・・・とか。成る程、鐸を鳴らして、早く稔りの秋になれと祈ったか?
<成る程、なるほど、> 史実探偵: 平 素人 | URL | 2010-12-18-Sat 06:00 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> コメントありがとう御座います♪
「鐸」とは、そのような意味だったのですね。まったく知りませんでした。それが大陸(中国)や半島(挑戦)から、日本に流布し、さらに拡布(この言葉はDr.ブログから♪)していったのでしょうか。本来の意は<さなぎ>ですか。 さなぎ(人)が、脱皮(死)して蝶(神仏)に変身してゆく。知れば知るほど奥が深くなってゆきます。(謝々)
<行・ぎょう、修行について> (12/19~20)
何故、修行に、「行・ぎょう」という字を当てるのか?
「行」の読みは‘ぎょう’とか‘おこなう’‘いく’である。‘ぎょう’と読めば仏教用語のようで、「諸行無常」と言えば諸々の行い(おこない)をいう。‘おこなう’と読めば諸々の行為。‘いく’と言えば移動すること。それが今では、仏教的な意味合いは薄れて移動する意のほうがつよい。 もともと「行」の字は‘おこない’のことをあらわしていたのか? だったら、移動する行為の「行く・いく」は、諸々の行為のほんの一部分でしかなく、「行く・いく」という‘あたりまえ’の行為に対しては、何かほかの<当て字>をしたほうがいい(!?)のにと、子供心には不思議でならなかった。
「行く= 歩くこと」であり、歩くことは、あたりまえの行為であり「修行」でも何でもない。千日回峰行のように歩くことに何かが加わるから“行・ぎょう”になると思うが? 「難行苦行」。 この当て字もおかしい? 素人的に考えれば「難為・なんい、苦為・くい」の当て字のほうがいいのにと思う。
それなのに、何故?ご先祖さま達は、「行く」という言葉にこだわったのか? 「行く」ということは「逝く」につながり、死して御浄土に出かける考えか? だが“死する”ことはあたりまえであり、これも“修行”にはならない。常人が出来ないことをするから「修行」なのだと思うが?
私は、この『行くという言葉』の発祥は、この度の徐福の記事にからめて、列島各地から当時(卑弥呼以前の歴史)の先進・中央都市へと発展した出雲へ、銅鐸の購入(何かとの物々交換)や、古くなったから新しいものをとか、隣の郡郷より立派なものを(^^!)とかの欲求から、歩行で遠く出雲まで出かけた太夫さん達にとっては大変な「修行」であったと思いたい。途中何日、何ヶ月もかかれば食料や水の調達が難しいからね(笑)。ちなみに、四国のお遍路さんは途中のおせったいを受けますが、命を賭しておこなう千日回峰は、食物をとらず水だけでしたよね!
< 結 論 > 結局薬局^^! <銅鐸の拡布の謎Ⅰ>で、いちばん肝心な ≪列島の各々の郡・こおりが、銅鐸という共通用具を使用するに至ったか?≫ については、解らずじまいでした(汗~)。
どなた様か、いいお知恵を~~~(^-^)。
(謎Ⅱ) 「津」の地名は、何時誰が統一したのか?
Dr.>コメント入りました。
tu(津) しげちゃん | URL | 2010-12-20-Mon 09:39 [EDIT]
神功皇后の三韓征伐の際に、神功皇后が半島に行く前に、半島の沿岸部を大波が襲い、それに畏怖した各首長たちが、なすすべもなく降伏をしたとあります。東の島国の神威は、津波で表現されていたのではないでしょうか。逆らうと、大波が東から到来する・・・。ご指摘のように徐福の最初の航海は鯨に阻まれて失敗します。鯨ではなく巨大に盛り上がる大波、つまり津波に阻まれたのではないでしょうか。蒙古襲来のときは荒れ狂う神風によって侵攻は挫折しています。すなわち、東の海上からは、変な思い付きをすると天変地異がもたらされると考えていたのではないでしょうか。徐福の一行が3000人などという構成になったのもそのリスクを考えての事だったのではないでしょうか。
Dr.しげちゃんさん> コメントありがとう御座います♪ (12/21)
私も、そのように考えます^^。ずいぶん前の話しになりますが、チリで発生した巨大地震による大津波が約1日をかけて、東北の三陸地帯にとどき多くの人命を失ったことがあります。日本列島は、火山国・地震国であります。その度に、巨大な受けV字形をしている中国の杭州湾や東朝鮮湾では甚大な被害を受けていたと思われる。だから兵馬俑の全ては東を向き、韓国では東方神起の言葉が生まれたのではないでしょうか?
魔海 しげちゃん | URL | 2010-12-21-Tue 16:30 [EDIT]
私は、今では消え去った伝説が中国にはあったのではないかと思っています。それは、東方の海は、聖なる海という側面と、魔の海という二面性を持っているというものです。徐福の山東半島あたりでは、海流というものが非常に弱いと思われます。しかし、日本列島の両面には、黒潮が流れています。日本海側には対馬海流となっています。もし、この海流に捕まってしまったらどこに行くのかもわからなくなってしまいます。太平洋側の黒潮本流も同じです。自分たちをどこへ運んでしまうのか予測もつかない海、すなわち魔海と受け取られていたのではないでしょうか。また、黄海では鯨やイルカを見るのは稀です。また、日本海のトドやアシカを見るのも稀でしょう。日本の人達がトラやラクダを見たときに感じる不思議な生き物が、魔の海にいると考えていたのではないでしょうか。それは中国の沿岸部を離れれば離れるほど恐怖感に代わっていくのです。中国の人達は、竜に見られるように奇怪な動物を想像し作り上げるのが得意です。さて、日本列島沿岸にはどのような奇怪な海の動物がいるのか、想像をたくましくし、さらに己の想像の中で作り上げた海の動物に畏怖したのではないでしょうか。
<消え去った伝説> 平 素人 | URL | 2010-12-22-Wed 03:11 [EDIT]
Dr.しげちゃんさん> コメントありがとう御座います♪
“消え去った中国の伝説”とてもいい表現ですね。わたしは、少年(中学生)のころ、何故に『中国四千年の歴史』というのか解せませんでした。この国の歴史をいうとき、それは、6千年、あるいは8千年以上をさかのぼってもいいのにと思うからでした。それが「何故四千年?なのか」 今から4千年ほど前に、正確に言えば<BC2001年の12月末>ですが、その歴史を消し去るほどの大事変(巨大隕石)が日本の龍飛崎上空を経由し釜石辺りに“分散衝突”しました。<竜は、巨大隕石ではないのか?>と思ったのが少年の頃です。この度徐福の記事を書くにあたり、それが確信にかわりました。<龍画は、中国人が倭人伝承の巨大隕石を描いたモンタージュ画>だと! さらに、それが日本へリターンした。巨大隕石に関しては、このブログの、カテゴリー「巨大隕石」で触れています。
末筆になりましたが、度々のコメントありがとう御座います。 コナンドイルは、Dr.ワトソン>を登場させることによって、その面白さを出しています。中国は、その四千年前の大地震と大津波による被災を文字にして遺してはいないでしょうか? 今後ともよろしくお願いいたします。(深礼)
<謎Ⅱの解明へ> (12/24~)
先の「卑弥呼・その後、と、徐福について」の記事で<津>に関する地名を拾った。
中国 天津(テンシン) ・・・、
朝鮮 羅津(ラジン) 清津(チョンジン) 魚大津(オデジン) 無水端(ムスダン)
永興湾(ヨンフン) 注文津(チュムジン)
( 註; 無水と永興は、日本の興津・おきつと同義で、逆V字地形や直下型地震の場合、
海底が盛り上がり潮がひことがあり、津波の出立地名だと謎解きした。)
日本では、
太平洋側から、宮城県(志津川)千葉県(天津小湊、木更津、富津)静岡県(沼津、興津、焼津)愛知県(御津)三重県(津)滋賀県(大津)和歌山県(泉大津)兵庫県(御津)岡山県(下津井) 香川県(津田、宇田津、多度津)山口県(今津川、大津島)福岡県(豊津)大分県(津久見、米水津)宮崎県(美々津川、油津)鹿児島県(坊津)長崎県(布津、時津)佐賀県(唐津)
日本海側の北から、北海道(茂津多岬)青森県(津軽)新潟県(新津、佐渡島両津)石川県(津幡、片山津)福井県(金津)京都府(宮津)鳥取県(日吉津)島根県(温泉津、江津、高津川)
<摂津市の不思議>
この外に少し内陸ではあるが大阪府に<摂津市>がある。筆者は摂津市の名の由来を知らないが、以前の謎解きで摂津の“摂”は、「摂政・せっしょう」の言葉があることから津の“おお元締め”ではないかとしたことがある。上記の津の地名のなかで摂津市の「摂」は際だって新しい感じがする。そして、何故、この内陸に<津の地名>が付いたのであろうかと、国土地理院の地形図で調べてみた。予想のとおり、摂津市役所・三島一丁目の隣にある<中央水みらいセンター>辺りが、海抜5m~△6、6 m。この高さは、今は陸中にある瀬戸内の貝塚や、濃尾平野での「陸中の島名」を捜したときの高さでもある。4010年前の昔、この辺りは海であった!!
(12/26)
この「市名」を決めるとき、「三島」の案もあったが、すでに静岡県に三島市の名があったことから、旧国名の「摂津国」からとったとのこと。「三島」の名は、古事記などにも見えることから相当古い地名と思われるとのこと。ここは、その昔海に囲まれた島であった。中央水みらいセンターの北に流通センター・宮島二丁目がある。さらに辺りを見回すと<神崎川><豊中><木津>の地名も見える。このような地名は、今から4010年前の津波が打ち上げた海産物や、草木に基づくものだとすでに謎解きしている。この≪宮島≫は、その昔、津波が打ち上げた“聖地”であった! 今は、無惨にもその跡形もないように“整地^^!”されているようだが!?
(12/27)
この歴史的背景のある<三島・宮島>で何があり、<摂津>の地名をつけたのであろうか?
次の言葉を調べてみた。
摂政(せっしょう)とは、 君主制を取る国家において、君主が幼少、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことができないとき、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 (wikipedia、より引用)
摂社とは、 神社の社格の一つ。古くは所摂社とも。本社の境内外にわたってあり,多くは本社の祭神の妃神・御子神・荒魂(あらみたま),また地主神など縁故の深い神をまつる。それ以下を末社(まっしゃ)という。 (百科マイペディアから引用)
この二つの言葉と、今までの謎解きを合わせて<摂津>の地名の意を考えると
① BC2001年12月末、東北に巨大隕石が衝突し、列島の各地を巨大地震と大津波が襲った! その後その被災の大きいことや魚介の打ち上げががあった所ほど、竜神・荒神の信仰地へと発展していった。その一つが、ここ浪速・なにわの地<三島・宮島>だ。
② 時は流れて、BC200年頃。その一つでもある出雲地方へ、除福船団が波速い対馬海流に流されて、先進の技術を持って渡来してきた。出雲は、大陸との地の利もよく、露出鉱・温泉・薬草(うこん?)等もあり、列島の人達が欲しがる銅製品(銅鐸・銅剣等)の製作・加工・販売(物々交換)の地として発展していった。
③ 列島の津々浦々へ散らばった、徐福達・秦(はた)の人は、珍宝薬石を本国へ送るための集荷地として、年1回、十月の<神無月>に出雲へ集まることを申し合わせた。
③これに、列島各地の倭人達が徐福隊と、どのような言葉を交わし、『八百万の神々』となって、海路陸路をふくめて<出雲>へ出向くようなったのか?の謎は解明できませんでしたが、「神」を現地集合の秦の人達と、とるか銅鐸を求めに出かけた各地の太夫さん達と、するかは、別として、出雲へ八百万の神々が集まるというのは、史実に基づいた伝承である。(^-^)
④ なにはともあれ、出雲は、永々として築きあげた列島本来が持つ<竜神・雨乞い文化>と、大陸文化が絡まり合って、『八百万の神々が集いて神議』をおこなう郡郷・中央都市へと発展していった。
⑤ 更に、時は流れて『国譲り』となる。筆者は、国譲りの何んたるやを全く知らない。○○の神様の漢字が読めないながらも、国譲りを出雲から大和への “ 政教分離?”とみた。
弥生代の初期。徐福達によって水稲の新しい営農法が各地に取り入れられた事により、広大な洪積平野での生産量は飛躍的にたかまり人口も多くなる。道普請、川普請も必要となり、今までの荒神様に伺う“祀り事”だけでは対応しきれなくなり、寄進から租税へと、政(まつりごと)の要素が入ってくる。<大和>が大阪。京都。奈良。或いは伊勢・濃尾になるのかは知らないが、米を主食とする限り出雲に対抗した勢力となるのは時間の問題^^?
そこで出雲から大和へ国譲りも済み。その<会議場>となったのが<摂津市>ではなかろうか。今でも○○条約。○○議定書というのは、土地名を付してその取り決めを行う。<摂津市>は、出雲と大和の中間点にあり列島の皆々が集まるには都合がいい。此処へ、その神議の場をを移し、列島各地でバラバラに呼ばれていた津波地名(例えば、東北の戸・へ。出雲、伊勢の垣戸・かいと。神戸・こうど・かんど・かんべ←いずれも地名から推む)を、中国の津波をいう『津・しん』の字から、津波をかぞえる第一波、第二波の『一つ、二つ』をあて、それを共通地名にしようとの合意がなされたのではないだろうか。でないと何故「シンや、ジンの」読みを「ツ」にしたのか? その発想が思い浮かばない。この摂津市の近くにある箸墓古墳が(卑弥呼?)に、どのように絡んでくるかは今後の課題となる・・・。 (卑弥呼その後、付言Ⅱへつづく)
<結び> 日本が今世紀を変える発信地になりませんか?!
この「報告書」の一葉、々は、素人探偵の稚拙な論説であり誤りも含まれてはいますが、全ての記事が絡まり合った時、それは世紀を変えうる力となる。今の史学が、貴方が「徐福」を伝説といわず、そして東北地方へ降臨した巨大隕石を竜の化身だと認めない限りこの謎解きは先へは進まない。その隕石の<赤>を基調とする鳥居や建物は、日本発のものであり、大陸やシルクロードを通して遠くヨーロッパへも渡った唐草模様やアスベスク模様は、日本発の 「緑なす大津波」 だと思いたい。 だから、欧州人が、その震源地・神秘の国ジパングへ操り出したのだとも!
それには、貴方のご参加が是非に必要となる。 出来れば、私の存命中にお願いしたいのですが・・・?(-笑い-) そのBC2001年の12月末(欧州時24日・日本時間25日)にナスカや欧州の上空を経由し、地球を半周した巨大隕石がおこす大事変を中国や朝鮮・韓国の祖先も必ず伝承として<津・シン>として遺しているはずだ。学問に国境はない。まずは史学から、それ等を討究して欲しいと強く願っている。(徐福・・のⅦ,方魚津・パンオジンへつづく)
「徐福」長いお付きあいありがとう御座いました。 「 完 」
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COMMENT
私は、日本には不老不死の思想は受け容れられなかったと思うのです。徐福が列島に到着した時代に、日本列島に祖霊信仰があったのかどうか分かりません。しかし、日本列島は祖霊信仰の国柄です。
早くじっちゃんばっちゃんになって、あの世から子孫を見守ってやりたいというものです。姥捨て山でも、「早く置いて行け」と息子に言うのです。
早くじっちゃんばっちゃんになって、あの世から子孫を見守ってやりたいというものです。姥捨て山でも、「早く置いて行け」と息子に言うのです。
先日恐ろしい文章を読みました。アイヌの死生観です。アイヌの人は、成人が死んでもあまり悲しまないそうです。亡くなった成人は、次には胎児となって生まれ変わるからだそうです。そこで、子供が死ぬと大変だそうです。祖先を殺してしまったということになるからです。いわんや、妊婦が死ぬともっと大変だそうです。せっかく生まれ変わりのために胎児を宿ったのに、その胎児たる祖先はこの世に出てこられないからです。そこで、妊婦が死ぬと、いったん妊婦として埋葬し、翌日に胎児を取り出して、改めて手厚く胎児を埋葬するそうです。土偶のお腹に筋があるのは、その胎児を切り出した後だというのです。よく見ると、土偶は妊婦であり、確かに張り出したお腹に筋があるものが多いのです。
生まれ変わりという思想がある限り、不老不死の思想は必要なかったのです。
生まれ変わりという思想がある限り、不老不死の思想は必要なかったのです。
コメントありがとう御座います♪
昨々日は、雷を伴う時期はずれの低気圧が吹き荒れました。わがコメント欄にも歓迎すべからすの荒らしがふきコメントが遅れましたことお詫び申し上げます。
昨々日は、雷を伴う時期はずれの低気圧が吹き荒れました。わがコメント欄にも歓迎すべからすの荒らしがふきコメントが遅れましたことお詫び申し上げます。
鐸とは「さなぎ」。さなぎは変態を繰り返す。さなぎとは・・・『成虫になるための準備期間であることから転じて、成長を遂げようとする人を比喩的に指して使う場合もある。』・・・とか。成る程、鐸を鳴らして、早く稔りの秋になれと祈ったか?
Dr.しげちゃんさん> コメントありがとう御座います♪
「鐸」とは、そのような意味だったのですね。まったく知りませんでした。それが大陸(中国)や半島(挑戦)から、日本に流布し、さらに拡布(この言葉はDr.ブログから♪)していったのでしょうか。本来の意は<さなぎ>ですか。さなぎ(人)が、脱皮(死)して蝶に変身してゆく・・。知れば知るほど奥が深くなってゆきます・・・。(謝々)
「鐸」とは、そのような意味だったのですね。まったく知りませんでした。それが大陸(中国)や半島(挑戦)から、日本に流布し、さらに拡布(この言葉はDr.ブログから♪)していったのでしょうか。本来の意は<さなぎ>ですか。さなぎ(人)が、脱皮(死)して蝶に変身してゆく・・。知れば知るほど奥が深くなってゆきます・・・。(謝々)
神功皇后の三韓征伐の際に、神功皇后が半島に行く前に、半島の沿岸部を大波が襲い、それに畏怖した各首長たちが、なすすべもなく降伏をしたとあります。東の島国の神威は、津波で表現されていたのではないでしょうか。逆らうと、大波が東から到来する・・・。ご指摘のように徐福の最初の航海は鯨に阻まれて失敗します。鯨ではなく巨大に盛り上がる大波、つまり津波に阻まれたのではないでしょうか。蒙古襲来のときは荒れ狂う神風によって侵攻は挫折しています。すなわち、東の海上からは、変な思い付きをすると天変地異がもたらされると考えていたのではないでしょうか。徐福の一行が3000人などという構成になったのもそのリスクを考えての事だったのではないでしょうか。
私は、今では消え去った伝説が中国にはあったのではないかと思っています。それは、東方の海は、聖なる海という側面と、魔の海という二面性を持っているというものです。徐福の山東半島あたりでは、海流というものが非常に弱いと思われます。しかし、日本列島の両面には、黒潮が流れています。日本海側には対馬海流となっています。もし、この海流に捕まってしまったらどこに行くのかもわからなくなってしまいます。太平洋側の黒潮本流も同じです。自分たちをどこへ運んでしまうのか予測もつかない海、すなわち魔海と受け取られていたのではないでしょうか。また、黄海では鯨やイルカを見るのは稀です。また、日本海のトドやアシカを見るのも稀でしょう。日本の人達がトラやラクダを見たときに感じる不思議な生き物が、魔の海にいると考えていたのではないでしょうか。それは中国の沿岸部を離れれば離れるほど恐怖感に代わっていくのです。中国の人達は、竜に見られるように奇怪な動物を想像し作り上げるのが得意です。さて、日本列島沿岸にはどのような奇怪な海の動物がいるのか、想像をたくましくし、さらに己の想像の中で作り上げた海の動物に畏怖したのではないでしょうか。
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