卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」
此処に出雲と同様、“大量の銅剣”が埋めてある! 全国歴史ファンの方々、三上山に集合せよ。
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大量の銅剣が、ここにも埋めてある! の2.
当ブログへのご訪問ありがとう御座います^^。 貴方さまはとても幸運なかたです♪
何故なら、日本史の見方を変え、ひいては<世界史>をも見直す、第一歩を記している拙記事に出会えました。 貴方さまが“その出土”を見てから大騒ぎする史学や<世間さま>と同じであって欲しくないとせつに祈ります。・・ちょっと泣き言がぁ~、入りました。(笑) 「何故、そんなに強気の言が吐けるのか?」って^^? わたしには<地名>という、ご先祖さまからの“史実伝言”があるからね!                              史実探偵: 平 素人

   この記事は(2/19)で完了しました。次ネタ蒐集のため、しばらくお待ち下さい^^!
 すべての記事は、連続・関連モノです。 引きつづきの駄文にお付きあい下されば幸いです。

 此処に “大量の銅剣” が埋めてある!
<全国歴史ファンの方々、貴方に呼びかけます。三上山に集
 合せよ!>
 の2.           (前記事)2011 Jan. 11 ~          
   カテゴリー “銅剣銅鐸探査のあれこれ!” からのつづきです。←是非ご覧あれ^^。
三上山というのは、新幹線京都~米原間で、京都を少しすぎた野洲川東岸にあり、南側の車窓から見え高さは432m。その△形をした美しい山姿から近江富士とも呼ばれています。前述の記事で “大量の銅剣” がこの谷奥に埋めてあるとしましたが、今回は、前回の位置より東に60mほどの所にある、卍印(名前は分かりません)の、境内の広場に続く、妙光寺山(257m)側の南向き斜面で 「目どおりより少し高い所」の、地下4尺!と、変更・訂正します。(前からの続き^^)

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

野洲市の<まだ見ぬ大量の銅剣の埋め場所を訂正します>
  その場所を<北緯35度3分31秒、東経135度2分23秒から → 27秒に訂正します。

卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」を掲げて広報活動を始めたのが10年余り前。以来、専門家・大学・マスコミ・行政等に600通をこえる文書活動をしましたが、実績のない素人の話などとりあってくれません。ならばと、始めたブログ活動も3年あまりになりますが、これも八方ふさがりの状態。 そこで、改めて今までの記事を再考し表記のような訂正をした次第です。「現場100ぺん」といいますからね。そのきっかけをくださったのがDrいずも氏の言で、前述した「仏教山の頂上の尖り」情報でした。それまでは、主に国土地理院の地図で調べていたのですが、今度はYahoo! 地図サービスで、再度その谷奥の卍印の周辺を探索しました。
  以下は、地図上での言及であり現地を訪れたことは一度もありません。(^-^!)

<航空写真と地図上で、それを探索> (2/02)
国道○号線の三上の信号を降りて妙光寺山と三上山に挟まれた谷間の入り口に、航空写真では埋め立てられているように見えるが? 地図では池とみえるものがある。 このような辺ぴな?ところはゴミの埋め立て地となるか廃棄物の処理場となることがあるので要注意。もしそのようになっているのであれば残念なことである。傍らに見えていた鳥居印しの社(やしろ)三上神社があったが、何の神様を祀っていたのであろうか? 気になるところだ。ここから水の流れが有りや無しやの谷間を登る。もちろん車は無理のようだから歩いて登らねばならないと思う。今の時期、雪でも積もっていれば大変だ。 
 (2/03)
500~600mほど登ると、その社寺に着く。地図で見ればその寺社の建物の脇に石段が付いていて境内・広場はその奥にあるようだ??
「 何っ!?石段は、社殿の正面ではなくて、脇に石段がついているのか?」 “それは変だ!” 今の社寺の建て様を見れば、階段を登ると、まず広場があり、そして社殿があり、その後ろに本殿が鎮座まします順番となっている。このことは「神様が私達を見て御座るのか、私達が神様を見ている」のかの主体性・方向性の違いを意味する。回りくどい言い方を排して言えば、この社殿は下方の住家・里(さと)を見ているのではなくて妙光寺山側の方を見ている。 ??・何故に山側を向いた建て方をしているのか・?? 是非にそれを現地で確かめたい!!! どなた様か近場のお人、 又はお暇なお方(笑い)、 はたまた、日本史の土手っ腹に大風穴(♪)を開けたいお方の出現をせつに希望します! (さて、何方が、その一番鑓(一番手柄)をなさるかな^^)

<この境内は、神楽や、歌舞伎、土俵、盆踊りの櫓(やぐら)等の原始形か!?> (2/04)
今、「境内・けいだい」というと狭義には社殿の前の広場をいうようだが、この山側へ向いた広場は、前述の荒神(銅鐸文化)から太陽神(銅鏡文化)へ変わる封印儀式のための広場であり、この広場で 「その神、この剣に、二度と取り憑かせてはならない!」として、護摩を焚き、塩をまき、太刀をかざし、四股を踏み、カネや太鼓を打ち鳴らし、神楽を舞うための広場だ! 古代語において ‘舞い’と、埋(マイ)は、イコールでつながれる? 素人の論が正しければ、四方に笹竹を立てた杭打ちの跡が遺っていなければならない。東西の脇に見える二つの祠(ほこら)は、この広場を挟んで山側の方に配置されているようだが!? その二神は、その「神楽」を舞う‘二武神’ではないのか? 是非にその名前が知りたい。

<その広場の広さを知りたい!> (2/05)
野洲(町)の大岩山では24個の銅鐸が出土している。すべてが出土したかどうかは分からないが、何回かに分けての出土である。銅鐸は、荒神を呼び寄せるためのものであり2体が御座ればば荒神さま同士で喧嘩をしてしまう。(汗゛)その性格からして一村落に一つと考えられる。だから銅鐸1に対して1人のお太夫さんとして、24人。それに、封じ祈祷をおこなう(これは、卑弥呼本人の場合も考えられる?)導師1人と、副導師の2人。それと太鼓太夫1人(太鼓は前述の狸さんの革か^^?)。さらに太刀を持って舞い踊る2武神。 少なくとも、これ等を合わせた30人が立つか座するかの広さが要る。 「少なくとも」といったのは、銅鐸の数が確定出来ないのと、これに群衆が加わればさらなる広さが必要となる。その広さを知りたい。この広さが広ければ広いだけ、その村落を総じた里(さと)や、郡(こおり)の大きさにつながる。

<なぜ鳥居印しではなくて、お寺の卍印しなのか??> (2/06)
地名伝言からすれば妙光寺であり、東西の二つの祠の形は神社仕様である。・・・解らない??
神仏習合なのか? <総社市の岩屋>では「毘沙門天」を祀った神社仕様の建物と、その下方に立派な石垣を築いた「真宗か真言宗」のお寺仕様の建物の併設があったが、お寺だと神社よりは新しくなる。卍印の名前と宗派が何宗か知りたい。その広場を築いているのは石垣か、土塁か?何時頃、築かれたか? この地の(歴史)と由来は? 歴史音痴の素人には、解らないことだらけである。今にも、没しそうな(^^!)この場所が手狭になったからより広い下方へと場所を移したとも考えられる。その場合は、山裾の<御上神社>のいわれも調べねばなるまい。それより先に、この卍印の名前を知りたいのは勿論のことである。
(註)神仏習合とは?、知りませ~ん。あとで調べまぁ~す。(汗~~!)荒神ではなくて、それに仏様が絡んでくると、“この場所には埋めていないのでは無いか?” との一抹の不安がよぎる?

<出雲の大量の銅剣は山の斜面に埋められていたが?> (2/07)
早くからこの卍印しは認めていたが、当初は、『出雲の荒神谷では“何んの変てつもない”急な山斜面に埋められていた』とあったことから、この卍印しから西方へ60mほど行った山斜面に埋められていると予測していたが、今回の “広場の位置の特異性” により、この広場につづく山斜面に埋められていると予測訂正したのであった。
 この広場の上方斜面に大量の銅剣(出土銅鐸数24×9=200余本)が埋められている!
 と予測訂正します。

それは、目通りより上(階段にして13段?)の高さのところで、それより高くなっても低くなってもいけない。高すぎれば念力がとどかないし、目線より低い位置では見下ろす位置になり罰当たりになるからだ。すべては出雲の埋め方に習えばいい!
 
       (大量の銅鐸の出土数)         (大量の銅剣の出土数の予測?)
<出雲> 岩倉         39個       神庭荒神谷・西谷    358本
<吉備> 岩屋 予測数  (23個)     黒尾地区 西谷   目安予測数(200本)
<神戸> 古名;神岡かむか 14個     地獄谷or大月地獄谷?  目安予測数(120本)
<野洲> 大岩山        24個      三上山との谷間    目安予測数(200本)
                      
         <合計> 100個
卑弥呼が銅鐸との交換に使った銅鏡の数( = 魏から得た銅鏡数) ←初頭の記事へどうぞ♪
            (^-^) 100個
  註)銅剣で・目安予測数としているのは、出雲の銅鐸1個に対する銅剣数を(9本)として
    算出した数であり、これは、あくまで目安としての数です。(減る傾向ありか?)

<その後の流れ> 前述記事の繰り返しです。 (2/08)
雨乞いで、稚児を人身供犠用に献上する社会制度への不満は鬱積(うっせき)していたから、卑弥呼の提唱する“象徴物の身代わり文化”へと容易に広まっていったが、なかには長年、銅鐸を使用しての竜神文化が、易々とは変えられない部族もあり、後追い的に、埋めたのが出雲の358本の“隣”に埋めてあった銅鐸○個と銅矛○本であると謎解きした。
そして、卑弥呼の没後は・・、地方によって特有の “気候や、地勢、風習の違い”等もあったり、昔話に残る「除福隊」の食人の風習も尾をひいたりと、一概にはいえないが、いかに卑弥呼さまの云われたようにお日様が主神だとして雨乞いをしても欲しい雨は降るとは限らない。やっぱり竜神さまは生け贄を欲しがっているとして歴史はつづき、池や河川の堤防の竣工式、社寺や橋、五重塔の建造等での生娘の“人柱”の話しが、ごく近年(?江戸時代?)まで残っていたのは、皆さんご存じのとおりです。 しかしながら、銅鐸が銅鏡に変わった歴史は否定できません。その銅鐸は封印されて、今では謎の青銅器と呼ばれ^^!、銅鏡は御神体として今でも使っています。(合掌)

<話しをもどして、その辺りの現状はどうなっているのか?> (2/09)
なにしろ、その大量の銅剣を埋封(まいふう。筆者の造語)したのは、今から1700年余り前のことである。「決して人踏許すまじ!、その荒神起こしてはならない!」としながらも、今ではすっかり忘れ去られた状態だ。(笑)その立木の状態は? 金属探知機が(前記事の銅剣銅鐸の探査あれこれ・参照)入れられるか?どうかを知りたい。大きな立木で覆われていればアウトだ。<世間様>や専門家から “無視される”現状では^^、その大木を伐採してまでの調査は不可能にちかい。 ここぞと思う場所が潅木(かんぼく)であれば都合がいいのだが? その調査は緑が生い茂る時よりも、見通しがきく落葉した今の時期がいちばんいい。何方か現地写真を載せていただけませんか。 ・・といっても雪降る今日、安全には注意して下さいよ!

・・・、と、ここまで思考を進めて、妙に気になることが湧いてきた・・・、
 日々、訪問して下さる11名のお方様、ありがとう♪ (ファンが9名から11名にふえた?)
  コメントを置いて下されば、『八つ目の宇海・うみ』へ漕ぎ出す“クルー” になれるのですが♪
  只今、ドクターと、たろさんと、じいさまと、・・・と、次は貴方の番ですが、さてどうされますう?
   ・と言っても只今コメント欄は閉ざしています。運がよければ・・・^^? つづきます^^

 (2/10)  
この卍印しの山斜面に大量の銅剣が埋められているならば、出雲の荒神谷で、「何んの目印も無い山の斜面」というのが解せなくなる。それに固執して^^!、野洲では先の山斜面を予想したのであった。一番大事な祖先からの伝言を忘れていた。荒神谷と呼ばれるからには、その谷どこかに目印となる荒神が祀られていたはずだ! この謎解きは出雲に習っている。よくよく調べたらウエブでありました^^。出雲に 『三宝荒神』の名が(^-^)♪ 三宝とはなにか? そこに埋められていた “銅鐸と、銅剣と、銅矛” を合わせたのが “三宝”ではないのか?! この推理が正しければ、前記事の岡山県の総社や、神戸市の灘区(?)のほうも再考が必要となる。 祖先はその目印を何かに遺している!!! 目印が無いとしたのは誤りであった。・・・それで総社へ出かけてみました。この話はあとで・・・^^!、

<その場所の所有権者は?公か、個人か?を知りたい!> (2/11)
神戸での銅鐸の出土地跡は個人の所有になっていた。一度、現地を訪れ神戸歴史博物館員さまのご親切を受け、現地図をいただきながらもその場所は分かりませんでした。総社の岩屋付近は県の管理地になっていたし、土砂防止保安林にもなっている。そこが公地の場合、そこに生える草木一本、土砂の一握りの移動たりとも法律・条例にふれる。入会権(いりあいけん)という地元の人のみに許される行為もあるが、これは、たきぎ取りや、キノコ狩り、狩猟(?)等に許されるのであって、『大量の銅剣を掘り当てます』 などといってご覧なさい大叱られだ。そこが、村落、町、市、県、国の所有と、上に上がるほどその探掘は難しくなる。その地が市や県以上の管理地であれば探掘はまずもってアウト! 素人が、今までにおこなった行政や大学・専門家、マスコミ等へ出した拙い文書活動では、98%が「梨の礫」でしたからね^^。加えて神聖なる寺社の境内であるから、そんなことをすれば ‘竜のの逆鱗’ にふれるかも・・・?? おっと、そのことは祟り・たたりという言葉さえも忘れた昨今であることをすっかり忘れていましたぁ~(笑)

<出土した歴史的埋蔵物のゆくえ?> (2/12)
これは、「大量の銅剣銅鐸探査のあれこれ」でも述べていますが、まだお読みになっていない?お方のために再度申し上げましょう。
 出雲での358本の銅剣は、日本の史学は勿論のこと世間をもゆるがす大きな出来事であったことから、早々に国宝となり、今ではその後に建てられた出雲歴史博物館におさまっている。出雲の荒神谷は辺ぴなところではあったが、稲作田も谷奥まではいっていた。しかし、この発見により周辺は公園となり整備されていったと思われる。野洲の場合、近年の工業化により谷の入り口付近にまで大きな工場も出来ている。この卍印の周辺が、その地区や個人の所有地であればしめたものだ。ここで出土する大量の銅剣には多くのプレミアムがつく、一番には卑弥呼が関係しているということ。二番目にはそれが予測出来たということ。三には、銅鐸文化が銅鏡文化へと変わる歴史的維新の解明が出来ること。四には、このことが竜神・荒神へつながり大津波、大地震を起こした四千年前の巨大隕石解明のきっかけになること。さらに、このわたし、Mrホームレスの指南(至難?)がついたこと? 更にさらに、貴方のお力でそれ等のなかで“一番最初に”掘り上げるということ。 こんな美味しい話を お上に易々と差しだすことはない^^!
 (2/13)
観光地として企業化する♪ こういった歴史的埋蔵物は、その地の教育委員へ寄贈という形をとるのが常であるが“第一発見者”の権利を主張する! のも面白いんでないかい?(笑) その時には何をさておいても、はせ参じますよ! その時、私が存命していればね(^-^)♪ ちなみに、出雲の大量の銅剣と銅鐸(国宝)は、地方が(展示)取るか、国(国立博物館)が取る、かのかけひきがあったように覚えていますが? これって「なんだかんだと、きれい事を云っても」結局は‘欲得がらみ’だと子供心には映りますよ・・、(^^)

<この項の結び>  (2/14)
素人探偵の予見したように、そこに大量の銅剣が眠っていれば大変なことになる。その荒神は今の史学や、今あなたが手を合わす神でさえも瓦解してしまう力をもっている。ここに大量の銅剣が埋められていることが驚きではなくて、素人でも<地名>という祖先からのメッセージに耳を傾ければ簡単に解明できることに面白味がある。当時の子供心が岩繋がりの<地名>で簡単にたぐり寄せられたことでも、それに大人達が耳をかたむけてくれないことにも問題が潜む。この広報に十年余りを費やしてきた。如何様に言えば、それが貴方に、現在の史学に伝わるのかが解らない。 たとえ話としては、失礼不適当かも知れないが、中国新聞に戦士の鑑(かがみ)とまで論評された<小野田さん>が当時の鈴木青年によって発見(みつ)けだされた時、世間は何んといった?? 小野田少尉から銃撃をうけるかも知れないのに、そして、『多くの情報を持つ国の関係機関や、それを熱望する戦友でさえも叶わなかったことを成してくれた!』との評価を受けたではないか。 実績のない素人探偵は、その謎解きはできても、その勇気や行動力を持ち合わせていない。たとえその銅剣の一本や二本がツルハシにかかろうが、素人のいう 「四千年前の東北の地に降臨した巨大隕石」 の解明へ進むためには、それくらいの“荒治療”が必要なのかも知れない。 『 日本の史学が世界のリードマンになって貰うためには、・・・』 と思う今日この頃です。(笑い)

<野洲銅鐸博物館> (2/17)
今から7・8年前であっただろうか、野洲の銅鐸博物館を訪れたことがあった。正式には野洲町立歴史民族資料館と(云った)云う。 1998年・平成10年9月13日の竣工で、三上山との山間(やまあい)に挟まれたなだらかな山越え状の場所にあり、琵琶湖に面した側に建っている。常設の展示二つと企画展示一つからなり、大岩山出土の銅鐸や、地域の歴史が展示されていて、市になる前の町政で、よくぞと思われるほどの立派な建物設備であり、銅鐸を冠した博物館では、当時(も今も?)全国一であったと記憶している。近くにたて穴式住居も設え“ゆったり”とした、歴史公園風に仕上げている。 私は何に興味があって、そこを訪れたかというと“大量の”銅鐸の出土場所がどんな所かを知りたかった。総社市岩屋寺のあたりと比定してみたかった。野洲を参考にして総社にも埋められているであろう“大量の銅鐸の埋め場所”を絞り込みたかったからです。
 京都で東海道線、米原行きに乗り換え野洲駅でおりた。タクシーで七分ほどかかると聞いたが私は徒歩でいった。縄文弥生の人達と同じ思いでその景色を感じたかったからです。途中、中山道だったかな? 旧道の風情も残り、「銅鐸の里」やら「微笑み返し」の標語もみて、銅鐸の歴史に興味のあるお人なら、ぜひ訪れてみたいところである。

ご先祖様は、意味があって“意味づけ”をして、その場所を大量の銅剣と銅鐸の封印場所として選定している! 土地の私有化がすすんでいない大昔のこと、「どこでも、好きな所へ埋めておきましょうや♪」 ということにはしていない。 その“約束事”を貴方も探りませんか?(^^)

<野洲の大量の銅鐸出土の跡地は?> (2/19)
  銅剣と銅鐸は関連して埋められている!!
明治14年(1881)遊びに来ていた少年の^^銅鐸○個の発見をきっかけに合計14個が‘現在のJA作業場地内’で発見されたが現在は散逸。 昭和37年小篠原地崎の新幹線の土取り工事現場から計10個が見つかった。 ・・・を参照しました。 
 その一方は館員の方から、この館に隣接する道路脇に立つ石碑跡からの出土ではなく、「今、JAの作業場が建っている敷地内からの出土です」とうかがった。 行ってみると・・・? 自分が思っていた様相とまるで異なる! 出雲であったように人もめったに訪れぬ山間(やまあい)で山の急斜面であろうと、思っていたからです。後で斜面取りの整地が成されているのであろうとは言え、予想に反して、そこは、‘三上山との山間(やまあい)に挟まれた、広くなだらかな山越え状の場所’であり、日当たりもよかったと記憶している。 何かが違う! 総社市の岩屋で受けたモノ寂しい感じはまるっきりない! 館にかえり付近図をみた。縄文弥生の人達が棲んだ場所はたわを越えた三上山の南側であったのであろうか?等と思ったりもしてみる。しかしながら、その住地から一山越えた北側に位置するとしても、そこが恐ろしいとか、モノ寂しいとかの<陰・いん>の感じはまるっきり受けない場所であった。失意消沈! 素人探偵の、強い思いこみや、独りよがりであろうか?? どうぞ教えて下さい! 三上山南側の山腹に刻まれていた魔崖仏さま! その石仏を国土地理院の地図(1万5千分の1/?)で見たと記憶していたが未だに、そこへはお参りしていない。 
 (註)不確かな記憶なので、再度、その地図(1万5千分の1/?)を捜しましたが紛失したようです(^^!)
[この項 ひとまずこれで完了して、貴方さまの御参加を待ちます♪](^-^)
つづきます♪。次ネタ蒐集のためしばらくお待ち下さい^^!、


(Sept.23, 2013)昨日、1拍手を下さったのは、何方さまでしょうか?
   この記事は、「大量に埋められた銅剣、銅鐸」についてのマニアックな記事です。
   まさか<ツルハシとスコップ担いで掘り起こしされるおつもりではないでしょうね^^?
   私としては、まずは金属探知機で探るのをおすすめします^^♪。
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