卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」
此処に出雲と同様、“大量の銅剣”が埋めてある! 全国歴史ファンの方々、三上山に集合せよ。
大量の銅剣(&銅鐸)が、ここにも埋めてある! の3.
貴方のお名前を歴史に残しませんか?^^♪
当ブログへのご訪問ありがとう御座います^^。 貴方さまはとても幸運なかたです♪
貴方さまに、少しの発意と“遊び心と”行動力があるならば、日本史にその名を残すことが出来ます。素人探偵が予見したように三上山から 「卑弥呼が埋めさせたとする大量の銅剣」 が出土すれば、きっと史学や、<世間さま>は大騒ぎするに違いありません。<その出土を促す写真は>日本史はおろか世界史をも動かす力を持っています。三上山谷奥の卍印しの境内広場に続く山斜面の写真をブログ等に< 誰よりも早く!>掲載するだけでもいいのです。「 二番では駄目なんですか?」蓮舫大臣(笑い)駄目です! 男なら、歴女なら^^夢をもたなくっちゃ~ね♪ 少なくとも史学や現科学に無視されている事をなす分けですから、二番煎じでは御名を “歴史には” 刻むことは出来ません^^。
                             (2011 Feb. 22) 史実探偵: 平 素人

 記事は、不定期な日々の(追記)で更新しています。前回は(3/13)で、今回は(3/14)です。
 この記事は、これで完了しました。次の記事は<大事変で変形した宮島>を予定しています。
 ここで一旦、筆を休めることに致しましょう。
 次回の記事は、何時になる(鳴る^^)やら分かりません。 あしからず・・・(^-^!)
 すべての記事は、連続・関連モノです。 引きつづきの駄文にお付きあい下されば幸いです。

 此処に “大量の銅剣” が埋めてある!
<全国歴史ファンの方々、貴方に呼びかけます。
        三上山と、(吉備の経山)、集合せよ!>
 の3.
                      (前々記事)2011 Jan. 11 / 1.& 2.~
   カテゴリー “銅剣銅鐸探査のあれこれ!” からのつづきです。←是非ご覧あれ^^。
   野洲市・三上山の大量の銅剣、埋め場所の絞り込みは、記事の1.& 2.です。

<総社市・大量の銅剣の埋め地はどこか??、疑念のはじまり> (2/22記)
この吉備の地にも出雲と同じように大量の銅剣と銅鐸が埋封(筆者の造語)されているとして去る2月1日に岡山県総社市にある鬼の城(きのじょう)へ出かけた。何んでその気になったかというと、大量の銅剣が出土した出雲・神庭西谷の荒神谷で「三宝荒神(さんぽうこうじん)が遺跡の南側に祀られていた」という情報を新しく得たことから、鬼の城の西にあった<山王神社>の名が気になって来だしたことからだった。それ迄のわたしは、鬼の城に興味をもったときからその名は早くに知ってはいたが、地図にも載っていないようなその神社には、そこに在する数軒あまりが迎えた新しいお宮さんであろうと、勝手に解釈して気にもとめていなかった。・・・つづきます

<三宝荒神=山王神社か?> (2/23記)
この度、出雲での<三宝荒神・さんぽう>の名を得たことから、妙にその名が気になりだした。
(*三宝とは、銅剣と銅鐸と銅矛の意か?と謎解きしている^^) 山王神社(やまおう)の山は、
<さん>とも読むことができる。そして宝の字のウかんむりを外した玉の字は、王にも似ている?
総社市での大量の銅剣の埋め地を出雲の仏教山=経山とし、その北側の山裾にある牛の背状の登り口あたりかと?、睨んで幾度か足をはこんではみたがイマイチ、ピンと^^♪くるものがなかった。そこには30人~40人が祈祷するような広場がなかったし、埋めるにしても花崗岩地帯のそのあたりでは、四尺(=死線?約1.2m)も掘り下げるにしては上土が浅いような気がしていた。しかしながら、銅剣200本?あまりを埋めるには、2m×1.5mもあれば充分だと思い込む(^^!) ことにして、その謎解きを終えていた。(前述・カテゴリー吉備地方を参照して下さい。)

<平成23年2月1日、山王神社を探しに出かけました!> (2/24)
ところで<1日>を、なぜ(ついたち)と読むの? PC変換したら、太刀・建ち・達・断ち・立ち・経ち・舘・館・質(タチが悪い^^)・城・田地・裁ち・起ち・発ち>が出てきました。何れも相互には関係ないように思えるが、この度の卑弥呼が埋めさせたとする封印儀式と合わせて考えると、それ等には何かの関係があるような気がしてならない。すなわち、大量の銅鐸や銅剣の封印儀式は、月末と月初め(年末と年始)の境目に行われたのではないだろうか? <つい>から受ける感じは終の棲家とか、衝立のついかな? 合わせると「今までの行いを断ち、新しき行動に移る時 」。 このように解すれば十二月の暮れに行われる比叡山の“お籠もり”や、今の私達の年末の所業にも符合してきます。このように、皆さん(現科学)にとっては、たわいのない子供心のような疑問から謎解きに入っていくのが、Mr.ホームレス(^^!)の特徴です。
 前述にも、祖先が遺した<面白岳とか朝来町>とかの地名伝言から、東北地方へ降臨した巨大隕石のその時を「(BC2001)四千年前の12月25日の朝の6時頃」と割り出したことが 『そんなこと迄もが、解るハズが無い!』と、かえって論の信憑性をかくことになり、皆さん(物証至上主義の現科学)に相手にされない一因のようです。( 涙~ッ!)(参照;カテゴリー巨大隕石)
何は、ともあれその一日に出かけました。

<山王神社へ> (2/25記)
その日の気温は2℃ー12℃。全天薄曇りであるが、午後からは晴れの予想。冬にしては、しのぎやすい?  いつものことながら苦助がでる。クスケというのはこの地方の方言で? 辛がるとかタイギということで、つまりは行きたくない(^^!)ということ。重い腰をあげて<鬼の城・きのじょう>の管理棟へ着いたのが、10:30分頃。 前回の(遭難しかけた?)失敗から、慎重を期して、ここで初めて知り得た地図で<山王神社>の所在を確かめることにした。 念には念を入れて管理員の方にもそれを伺った。 「山王神社に行きたい。お参りしたいのですが、どう行ったらいいのですか?」 ご親切にも外へ出て坂の下方を指さし「あの白く見えるガードレールから10分ほど歩けば(そこへ)着きます。」 短い会話のやりとりのなかで、そのあたりの数軒のすべては、○井さん>だということ。そして、その神社のオモリは、その方達でなされているとのこと。やはりそうかと思いながらも、行かない分けにはいかない。

(2/26記)
樹齢ん年、幹周り3mはあろうかと思われるナラガシワのそばに車を停め(この道筋駐車禁止です^^!)その登り道へいってみると「私道につき立ち入りご遠慮ください」 そこより、100mほどの下方にある御大師様をまつるお堂ほうからまわることにした。ここには「鬼の釜」とよばれ直径2m足らずのおおきな釜がおかれてある。以前の探検で? ご老人との会話を交わしたところでもある。先ずは手を合わせてお賽銭をあげて・・、そのご老人はと? 目をやるが見あたらない。つぎのお家も留守宅のようだ。3軒目でなにやらの作業をされているご老人に会えた。人を捜したのは、山王神社についての情報を仕入れかったからです。「この辺の歴史に興味をもって山王神社(やまおう・じんじゃ)を訪ねたいのですが、どう行けばいいのですか?」 「それは<やまおう>ではなくて<さんおう神社>といいます」(やったぁ~♪ 出雲の三宝・さんぽう>さまに近づいたぁ♪)

(2/27記)
祭神は分からない。以前は久米からの神主さんが来ておられたが、今は粗末になってはと御自分の息子さんが年に一・二度管理なさっているとのこと。 この近くに石碑だけではあるが<北斗神社>もあるとのこと。これは北斗の星信仰につながりこれもいい情報だ?。 さらにこのお宮の所轄とか地域とかを伺うと? 大字は<黒尾>小字は<新山>。新山の地名は以前に御神木を切り出すための新しい山かと謎解きしたことがあったが、新しく入植した意なのかも知れない。 このお宮さんは、どうやらこの地区(数軒)だけのものらしい? (やったぁ~、これもアタックしやすい!) それが市とか県の管轄になると、身分を明かさないからかも知れませんが、文通のお返事は、0ゼロでしたからね。(身分や身元を明かさないと決めているのは、それが出土したときの喧騒から逃れるためと遊び心とイタズラ心からかな(^^?)
  まだまだつづきます^^♪

(2/28)
道がありや無しやの家の脇をぬけて、鬼の城の管理員さんが教えて下さった広い道にでた。ここから直ぐの谷間(たにあい)に、その参道口はある。中くぼみではあるが2m足らずの道幅であったかとも思う。重い腰をあげてこの時期を選んだのは、如何に没しそうな神社・社(やしろ)であっても、信仰心の篤い方が必ずおられて年末の大掃除を必ずしているからね。しかしその後のドングリの葉っぱのじゅうたんで、用心しながらでないと今にも滑りこけそう。2~3m高さの石鳥居をくぐり10分ほど登るとその神社につく。雁木(がんぎ・階段のこと)が、何段あったかの記憶はないが、その中程に1m×70cmほどの溜め井状(水を溜める井戸状の窪地)のものがあった。湧き水であろうか? それとも、口や手を清めるためのものであろうか? 湧き水であれば霊験あらたかな御神水か? 何れにしても階段の途中に溜め井とはけったいな造りである。

(3/01記)
山王神社は、山の中腹斜面を切り取って平らにした、いわばどこにでもあるような一般的な造りの社寺であった。先ずは手を拍ち、お賽銭と御神酒を上げましてと!(深礼)
半円形のその広場の間口は36歩。20歩ほど進むと一段と高くなっている。ここから30歩ほどの奥行きの中央に社殿があり、社殿から階段を数段設えて本殿が鎮座まします。 これもごく一般的な造り? この場合の “一般的” という言葉は重要な意味をもつ、その仕様がたとえ離れた地にあろうと同じ考えの祀り方がなされているからだ。社殿の間口は約3間で、奥行き2間ほど。 本殿は土壇(どだん)盛り土の上で、その建物に彫り物はなく、立派とも粗末とも言えない普通のつくりで、○間(?)四方だったかな?(御神さまぁ~覚えてなくて、ごめんなさ~~ぃぃ^^!)

(3/02) 
ここで、目を引いたのは、本殿の左奥に6m×5mの半円状の溜め井があること。何んの神事に供したのであろうか? 筆者には溜め井そのものが珍しく思える。 人家からわずか10分たらずの所にある社寺で飲み水のための溜め井は必要ないと思えるが? ・・・、 そう言えば、ここから2kmほど離れた岩屋の○○社でも溜め井があった。筆者はこの社寺の境内にある溜め井がどのような神事に使われたのかが、まったく思い浮かばない。何方かご教示を!!

<埋め地を探策する> (3/03記)
野洲のように、社殿の奥側にその広場があればいいのだが、不安と期待とが相まみえる。不動産業界で「お寺の後ろと、お宮の前」という言葉がある。これは、お寺さんの後ろとお宮の前の土地は住宅地としては売りにくいそうだ。これには何かの‘云われ’があってのことであろうが、人気のない寺社の裏山。一人でゴソゴソとやるのは、あまり気持ちのいいものではない。 意を決して?本殿裏の潅木斜面をかき分けて登ってみる。倒木の朽ち木が行く手を阻むが、ある時点を過ぎると、その恐ろしさは感じなくなる?^^!) 斜面の角度は45°度ぐらいか? このような場合、もし自分が埋めるとしたらどこへ埋めるかで模索する。潅木と径20cm~30cmの杉か桧かが植わっていたように思うが考えは錯綜し、決定的な埋め場所が分からない。 上へ上へと登ってみるが、その場所が絞り込めない。小高い頂上ながら、わりに見晴らしはいい。鬼の城山や経山も望めたようにも思うがはっきりとは覚えていない。「ひょっとしたら此処には埋めてないのかも?」自信は揺らいでくる。・・・、今日はこれで下山しよう。

「三宝荒神(さんぽうこうじん)が遺跡の南側に祀られていた」!?
出雲での<三宝荒神と大量の銅剣>が埋められていた場所との関係を是非に知りたい。
三宝荒神さまの造りは、社(やしろ)か? 祠(ほこら)か? それとも石碑か? 祭神は? 
どちら向きで、その辺りの広さと高さは? 大量の銅剣と何メートル離れていたのか?
 
 どなた様か、教えて頂けませんか^^?

<先尖り・剣形の山で、荒神を阻んでいる?> (3/04)
下山の途中の鳥居には文政三○○年五月吉日と刻まれていた。坂を下りながらも経山の方向は常に気にしていたが木立に阻まれてその確認はできていない。参道口のある先ほどの私道へ出た。ここからの正面に、かの経山は見える。この車も通れる新設の私道を左に十数歩歩くと!? 正午のサイレンが鳴り響いた。慌ててバックして参道口に立って経山のほうを眺めると! その山の左手に見えるわずかばかりの総社の町並みは雲間のあいだからこぼれる日差しに輝いていた。「経山が“谷の入り口”で、その荒神、侵入許すまじ!」と阻んでいる!? 経山の頂上は、現在の正午の太陽の位置より西へ、およそ10°度振っている。野洲や出雲、そして出来うれば神戸のほうも、その角度を調べて見たい。何かの共通性が見出せるかも知れない。(この角度にこだわるのは地球の歳差運動をさかのぼればおよその設営年代が分かるかも知れないと考えるからです。)
  出雲仏教山山頂、荒神谷(大量の銅剣の埋め場所)   と、真南のなす角度は 約45度  
  野洲三上山山頂、卍印し (   予測    )     と、真南のなす角度は 約20度
  総社経山山頂  山王神社? (  予測     )   と、真南のなす角度は 約10度
  神戸荒神山山頂 ○○?? (  予測     )    と、真南のなす角度は 約○○度
この角度調査はディスプレイ上の計測であり正確ではありません。今それが分かっているのは出雲のみであり、あとの三カ所は、それとおぼしき所との角度です。数ある山や谷のなかで「ここぞ!」決めて大量の銅剣を埋めるには何かの<約束事>が必ずある!。その解明・出土の最短距離にあるのが野洲だ!

<日本史を変えるチャンスが到来した♪> (3/05)
小野田少尉を見つけ出した青年○○氏になれるのは貴方の発意にかかっている。
それを「貴方は、何故しないのか?」の逆質問には^^? 私の業は探偵であり逮捕権をもつ警察ではありません。それぞれには、得意分野がありますからね^^。
今までの (My Job)には、次のようなものが・・・``!
① Dr.いずも氏からの御依頼で、『出雲大社近くの命主神社の大きな石の下から翡翠の勾玉と銅戈が出土している。銅戈(どうか)は、他にも必ずあるはず、その捜索をお願いしたい。』
「翡翠の大勾玉と銅戈を探せ!」に挑み、出雲半島を“竜”に見立てて、<命主神社>の他に、首っ玉上の <鷺峠・さぎとおげ←未掘>と、日本海側にある <社寺(伊奈西波岐神社or文珠院←未掘>の盤石の下の二カ所を予見しましたが、(カテゴリー出雲地方・参照) これも未だ陽の目を見ていません。それもこれも出土すれば話題騒然となるのは必然! 近場の貴方で冒険心がある貴方がいたら、とうぞこの方へもアタックしてみて下さい!(^-^)
② もし貴方に遊び心があってお金が余っている方であり、御依頼があれば釧路辺りに眠っている油田の探索(電子出版極秘報告書「巨大隕石と大津波」 ←クリックOK!)にも、応じますよ^^。 ただし、素人探偵、開業以来の赤貧状態ですから、そちらの方は相応の成功報酬はいただきます(笑)♪。 
③ 総社市・岩屋に眠っている <大量の銅鐸>の探査へ、つづきます・・・、

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<岩屋に埋められているはずの大量の銅鐸は何処に?> (3/06記)
2月1日・鬼の城の駐車場で用意してきた昼食をとる。まだ時間はあるので、午後からは気になっていた“鬼の差し上げ岩”がある岩屋の建家裏の“溜め井”のほうに出かけてみよう。それと前回の(カテゴリー吉備地方)謎解きで、その社(やしろ)にのぼる石段の脇にある“ナル地状”の竹藪の地下に 「大量の銅鐸あり!」 としていたが、出雲での出土は、ナル地ではなく“斜面状の所”であったことから、岩屋での埋め地に疑念が生じてきたからです。

 鬼の城と岩屋は、総社の街並みから6km~8kmほど離れた山奥で、あたりに店はなく夏期のお子様連れでは飲料水は必携。これは空き缶、空き瓶で遺跡周辺を汚してはならないとの配慮からであろうと思います。鬼の城は、総社市が「ウラ伝説」や「桃太郎伝説」から、近年に観光のスポットとして巨費をかけ遺跡の復元をしたところであり、時間がゆるせば、ほかに、備中総社、備中国分寺の五重塔、コウモリ塚古墳等の施設遺跡等も見ておきたい所であります。特に、国分寺あたりのレンゲ畑やコスモス畑が色づくころには大勢の人が訪れる。そこで古代の様に浸れるのは、見渡せる限りの建物の高さや色形を条例で制限しているからと聞いています。

<岩屋へ>(3/07)
鬼の城の駐車場からさらに進むこと約2km。10台ほど停まるその駐車場に車は一台もない。幾度か訪れているから様子は分かっている。そこに常備されている杖をかりて、20分ほど登ると、御大師様の岩屋寺と、鬼の差し上げ岩を横にした社(やしろの名は不明?)に着く。その2間四方(?)の建物には<毘沙門天>が祀られていた。岩の割れ目からの湧き水かなと思うが、気になっていた“溜め井”に水はない。先の山王神社と同じような位置にある。何に供するのかは分からずじまい。

<ご開帳造りの本殿がない!?>
前々の記事でこの社の登り石段の脇にある竹林の地下に『大量の銅鐸』が埋めてあるとして謎解きを終えていた。しかし、今回の野洲での「社殿の上方斜面に大量の銅剣がありや?」に影響されて、今一度の再考である。その社に手を合わせて思いをいたすと、その社殿は、一棟のみであり後ろにあろうはずの本殿がない? なぜないのか? この前方の広場に何やらの建物があったと見受けられる基礎石様のものがあったが、それが社殿だったのか? それとも山門の建て屋のあとか? その空き地に社殿が建っていたとすると、現在ある建物は本殿になるから本殿仕様となっていなければならないが、本殿特有の “ご開帳・かんぬきを備え密閉した両開ドアーで開け閉めにギィーと音が出るように作っている扉” を設えた造りにはなっていなくて、その建家は、
<格子戸・こうしど>を設え、賽銭箱もおいてある社殿風の建物である。勿論1700年余の時の流れを考えなければならないのは云うまでもない。

<格子戸の不思議?> (3/08)  
格子造りは、向こうとこちらは、見透かすことはできるが、行き来をさえぎる時につかう。それに対して観音開き戸は、封印ご開帳の時につかう戸締まりであると前述しました。話しは変わり、

    こどもの頃の想い出
  かぁ~ごめ~ぇ かごめぇ、 か~ごのなかのとりィは~、 いついつ出ぇやぁる~、
  夜明けのバンに~、 鶴う~と、亀ぇ~が滑うべったぁ~、 後ろの正面、だあぁ~~れ♪


 私達がなにげなく聞いてきた、この童唄は、実に分けの分からん(^^!)内容の唄である。
かぁ~ごめ~ぇ かごめぇ>は、
 しゃがんで目隠しをした“オニ”の周りを取り囲んで回りましょう♪。
か~ごのなかの鶏ィは~>は、
 カゴは竹で組んだ釣り鐘状の組みカゴのことで、昔は、そのなかでニワトリを飼っていた。勿論、今の白色レグホンや名古屋コーチンではない。そのカゴは罪人を運ぶ“唐丸カゴ”にも使用されていた。このカゴで運ばれるのは、断髪白衣で死罪をうける重罪人を意味する。
いついつ出ぇやぁる~、?>
 これが分け分からん! 何時、出そうが出ようが勝ってだと思いますがぁ^^?
夜明けのバンに~> 
 これも分け解らん! バン>とは、晩の暗い時をさすのか? それとも順番の番か?
鶴う~と、亀ぇ~が滑うべったぁ~>
 ここにすすめば、怒り錯綜^^?  なんでここに関係ない鶴と亀が出てこんとならんのだぁ?
  鶴は、その昔神聖視されていた。素人の謎解きでは頭が隕石でクチバシはその尾っぽ。
  亀は、長寿のシンボルとして扱われ大陸の影響?。出雲や富山の四方突出古墳は首の無
  い亀の形ではないか? と謎解きしています。
後ろの正面、だあぁ~~れ♪>
 これも分けわからん? 普通に思えば向こう正面とはいうが、後ろは正面とは呼ばないよね?

このようにこの唄は、後先がつづかず矛盾だらけの、実に分けの解らん唄である。なのに何故淘汰(とうた)されずに遺っているのか? この唄には“何か?”が隠されている。 ごめん! すでに平成の代では、この唄の意味はおろか、この唄を聞いたことさえない人達ばかりでしたぁ~。

<「かごめ唄」を推(よ)み解く!?> (3/10) 
竹組みカゴの目は、社殿の格子目に変化し、その中で末期(まつご=トリ)を迎える重罪人は、銅鐸をあらわしている? 夜明けの一番鶏が鳴くときは、四千年前の大事変の未明を表す。その朝方、家畜達が異常に騒ぎだしたことを、鶴と亀までもが異常行動を起こしたと形容しているのではないだろうか? 今にみる多くの本殿は、何故に土壇の上に設えられているのか? 土壇場(どたんば)とは、その昔、重罪人の腹部を一刀のもとに断罪する刑をおこなう時に造られた土盛りのことを云ったと記憶している。

 一刀両断とはこのことから生まれた? この時、使う刀は試し切りとして大名の新刀が供されたとも聞く。今、考えれば人を切った刀など気持ちが悪くて嫌がられると思われるが、刀とはもともと人切り包丁。罪人の持つ “魔性”を断った強い刀として重用されたのである。これ等を総合的に考えると、神社の格子戸は、何かの「おどろしいもの」を舘家(たちや=唐丸カゴ)で囲い込み、前の部分だけを格子にして内外が見えるようにしたのではないだろうか? まるっきり見えなくしたのでは中に居るか居ないかの確認が出来ないからね(笑い)。そう云えば唐丸カゴの目の高さの部分は開けていましたよ。

 囲い込むのは銅鐸や護摩壇に乗り移る荒神さまである。舘家の外で必要以上に暴れだしては困るから囲っているのだ。社殿より一段高い本殿から神の降臨を願い、その“意”を伺うために、下方の社殿で “法(のり)”を称え護摩火を焚く。それが、今ではだんだん略式化されて建物の外でも “おかげ” が頂けるようになりました。「おこぼれ、ちょうだい!」(^-^) 皆さん! 貴方のお願いを是非にと請うならば、お賽銭(さいせん)ほかに特別料金を献上しても社屋内に上がりましょうね。素人の推理が正しければ、より“濃い?”おかげが受けられると思いますよ^^!。

<この毘沙門天を祀っている社屋の後ろには本殿がない?> (3/11)
まてよ!?この社屋には、もともと本殿がなかったのではないか? この社屋は土壇を盛り上げた上、さらに、脚部が異常に高く(○mに)設計されている。社殿に土壇は設えない。土壇を設えるのは本殿の仕様である。この建て屋は、土壇を設えた本殿と、格子戸を設えた社殿の仕様の両方を具備している。しかも、異常に背が高い。 前回来た時に、この土壇の地下に大量の銅鐸が封印されているのかと考えてみたこともあったが、もしそうであれば掘り出すことは不可能だ!
そして、大量の銅鐸を埋めた上に人が上がる社殿を建てるのはバチあたりだ。 ・・・・?、 もともと本殿がないとすれば、この舘家の上方の<山斜面が>本居・本殿となり、そこに大量の銅鐸が納められて(封印されて)いることになる??。 武神の毘沙門天を祀っているのは、後ろ上方の大量の銅鐸を守護するためではないのか? 異常に高い社屋の前に立てば、その場所と、舘家と、後ろの山斜面の三点は、斜面の一直線上に連なる!!!

<社屋の後ろの山斜面を探索> (3/13記)
この社家の間口は、ほぼ真東に向いている。この舘屋を正面にみて右手に巨大な鬼の差し上げ岩がある。その脇を上がる遊歩道があり、それぞれに命名された巨岩を見ながら頂上まで登ると馬頭観音が祀られている。ここから下って、石切観音や、皇の墓を回る一周コース(岩屋案内図)となっている。この時期、岩屋まで訪れるお人はほとんどいない。それでも二組のハイカーに出会うが二人連れだ^^。わたしのように一人でウロウロする者はなく少々気味がわるい^^!。道をはずれ建物裏の山斜面に「大量の銅鐸が!?」と思って探索してみるが確たるものが得られない。これより少し上方にはなるが? この建屋の真後ろを○mほど上がった所に10メートル平米か20メートル平米ぐらいの均地(なるち)があった!? ナル地というのは、この地方に使われる言葉で<平地>を意味する。<均(なる)、平ル(なる)>という地名も遺っている。「土をなるす」といえば、凸凹をととのえ平らにすることを言う。 ん?、・・・? つづきます^^!

<ナル = 鳴るではないのか!?> (3/14)
これは語学にもとづかない素人考えであると前置きします。縄文・弥生の古代語においては、語彙(ごい)数が少なく、同じ発音でおおくの意味を持っていたのではないかと感じている。前述にあったものをあげると「アオ、ウミ、タチ」。これ等をPC変換すれば、なにかの関連したような言葉が並ぶ。一例をあげると「海、産、膿、宇美、熟、う呑み、宇」がある。ナルについては、このブログのどこかで「何やらを倍の深さに埋めたが、その声未だ“鳴り”やまず!」とあげたことがある。音楽器としても扱われる銅鐸だ。もし、この<ナル地>に、大量の銅鐸が埋められているとすれば、出雲での<山斜面>からの出土とは異なることになり、この一連の謎解きは“出雲と同じ埋め方”でなされているとの『大前提』が揺らいでくる。そして、先の<山王神社>の本殿裏手の<山斜面に!>としたことにも疑問がわいてくる。 その埋め地は<平地か?、斜面か?> それとも、そのナル地も山斜面の内とアバウトに考えるべきか? 困った!!
あちらを取ればこちらが捕れず、こちらを取ればあちらが捕れず、二兎を追う者は一兎をも得ず^^!。とかく謎解きは難しい!
 ここから先は、 “現地調査”あるのみ!!  
<金属探知機と、ツルハシとスコップを持ち込んで!!>なのだがぁ~^-^~(汗~!)

ここで一旦、筆を休めることに致しましょう。

この記事は、これで完了しました。 次の記事は<大事変で変形した宮島>を予定しています。
 次回の記事は、何時になる(鳴る^^)やら分かりません。 あしからず・・・(^-^!)
 
次の記事まで、しばらくお待ちください^^!。
('11/9/29) 何方さまが拍手(1)を下さったのでしょうか? 何方さまか見当がつきません。 
          出来ればコメント(○秘コメントOK^^!)を・・!

どなた様> ('13/11/21)の2拍目&コメント有難う御座います。 (とても嬉しい^^♪)
卑弥呼が埋めた埋めさせたかの大量の銅剣&銅鐸を掘り上げて、現学に風穴を!! とはいえ、四千年前に降臨した荒神さま>が相手です。よほどの胆力を要します。その探索が、もし、お一人ならばお二人以上をお勧めします。私のように一人では辛いものがあります。  散策、絶好の時期♪ どうぞお気をつけて( 次報を楽しみにしてます。)
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