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此処に 「卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸」 あり!!
卑弥呼は魏から得た100枚の銅鏡に換えて出雲と “同じ決め事”で 持ち寄った銅剣と銅鐸を封印した!
BC.2001年の “巨大地震によって変形した宮島 - ⅱ”
  【 お知らせ 】 
  すべての記事は連続・関連モノです。引きつづきの駄文にお付きあい下されば幸いです。
  記事は、不定期な日々の追記で更新しています。前回は(4/27)で、今回は(4/29)です。

 最近、<動画ブログ>お三方のご訪問を受けます。ありがとう御座います^^♪。しかしながら、当方は動画が見れる環境になく、返礼のご訪問をするとエラーを生じ、シャットダウンを余儀なくされてますので、よろしく御了承下さい。 決して “無視”を決めこんているわけでは御座いませんので・・・(^-^!) 
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<宮島の地の大事変!、続き>
時は、BC2001年12月25日の朝方、‘三陸地方発’の、巨大地震と大津波が、広島の地に到達する。     クリックOK^^→ (別紙・電子出版; 極秘報告書「巨大隕石と大津波」) 
「地名という祖先からの伝言」
  地名はその地に何があったかをいう ‘人文史’ であり祖先からのメッセージである!
                                         史実探偵: 平 素人

<広島に達した大津波を地名より推しはかる> (4/08)
只今(4/8~)、 広島に達した大津波の増位分を問うために広島市周辺の<地名=伝言>を探索します。記事のUPを少々お待ち下さい。今までの拙記事にお付きあいして下さった方なら、その捜索方法は簡単ですよね(笑)。ご一緒にどうぞ! 初めてのお方でも簡単ですよ! 「津波に関係する地名を拾い(?)集めればいい!」 只ただ、煩雑な時間を要しますが・・^-^?
 
 ・・ と、思いましたが、今回は少し趣向をかえて、素人がどのような手法で謎解きを進めているのかの‘手の内’を見て頂きたいのと、皆様に共に考えて頂きたい思いから、ぶっつけ本番で謎解きを進めていくことにします。 したがって、(いままでも^^!)史学や語学に外れているのは勿論のこと、拙速になると思いますので、大事な<地名>が抜けていたり、読み違いがあったり、まったくの見当はずれや、無知やら、無関係、再編集等があるとは思いますが、どうぞよろしくお願い致します。

<津波の行き止まり現象の広島湾!> (4/11)
東北発、朝6時の巨大地震波は約4秒で宮島にとどき、広島湾東端<海田>付近の海水は大津波となって、本土と宮島間の<大野瀬戸>に流れ込む。やがて、大阪湾発の津波も波状攻撃でやってくる。さらに、8時30分頃(?)、外洋の津波も鳴門海峡を経由し、合流しながらやってくる。少し遅れて豊後水道から内海に入り込んだ外洋津波は、広島湾方面へ東進する。この三つの津波は合算され “流れの勢い”は、失うが宮島辺りの水位はどんどんと上昇してくる。それを祖先はどのような言葉で遺しているのであろうか。
 さっそく、廿日市市(宮島)周辺を Yahoo!地図で、以下を拾ってみました。
  (Yahoo!を利用するのはズームのアップダウンと、スクロールが簡単なことから^^)
川津原、 物見東、 前空、 大野浦、 林ヶ原、 下の浜、 早時、 熊の浦、 深江、
物見西、 大野、  対厳山(63m) 大野中央、 更地分れ、 地蔵ヶ鼻、 廿日市、 ・・・、


川津原> (4/12) 
先ずは、津>の付く地名から。全国津々浦々の<津>の地名は、‘除福’来訪以後のその昔に、現・摂津市で「摂津ラウンド=円卓会議」がおこなわれ、その大事変を<津>と呼ぶようにしようとの合議がなされたと前々の記事で述べました。『とど(戸々)のツ(津)まり、それにしよう!』とでも決まったのかな(笑)?

物見東、物見西>
東北地方に<物見山>という地名がありました。私達が何かを見て、それを<地名>として定着させるには、よほどのものを見ない限り地名としては定着しない。さらに、東と西が狭い地域で二カ所に付いているのはその“何か?”が動きを持っていることを暗示している。その“何か?”が動かない事象であれば、その一カ所だけに<物見台>とでも名付けておけばよく、西や東の二カ所に分ける必然性は生まれない。渥美半島だったかな?<片神戸>の地名がありました。これも同様な名付け方だと思っています。その“何か”が津波であるとすれば、その時の津波の高さは、この<物見>の位置より低くなる。蛇足ながら渥美半島ではその津波を<竜洋>の地名で表現しています。

林ヶ原> (4/13)
これは、四国の徳島の<地名>を聞いたときに?述解しましたが、<林>という何処にでもあるような事が地名として定着することに疑問を持ったことがあります。 それと歌舞伎興行の始まりを何故、徳島でうつのかの二つを合わせて、「はやし立てる」。 つまり、ゴウゴウと鳴りゆく鳴門海峡の津波にびっくりして、その異様な(かぶく)さまを見て「騒ぎ立てた」のではないかとしました。これは後の阿波踊りに進化し、両手をあげて踊るさまはその津波に見えるともしました^^。

大野浦、大野、大野中央> (4/14)
このように、地名が重複するとき、<大野中央>が「その昔」の生活の拠点だとうかがい知れる。筆者がいう「その昔」とは、今から約4000年前のBC2001年12月25日の朝6時頃を起点とした前後である。従って<下の浜>とは、その大野より下方(?)に位置し、わざわそこに<下>の名をつけるには、そこで海産物を得ていたか、舟の発着地としていたかの特別性がたかくなる。又、廿日市(市)の名が何時に定着したのかは分からないが物々交換の時代に“二十日間”の間隔は長いように思える。その多くは“三日市、・・、八日市”の地名で残っている。その間隔が短いほど消費が早い食品や日用雑貨の交換が主体であったように推察できるから、ここでの交換の主体は “衣とか、道具”に関係したものであろうか。それとも他のモノか? アフリカ等でみるように、その間隔が半年とか、一年になると、より遠くから集まり、その地域の中央的性格が増してくる。狭い地域で自給自足が事足りる列島の地勢での二十日間は、他の<市>に比べて長いから、この<廿日市市>の歴史は要注意だ。もっと広い範囲の地名や、先達にそれを聞きたい。 

熊の浦> (4/15)
これが解らない(^^!)。中国山地にツキノワグマが生息していた(いる)のは知られているが、
<熊>に、<浦>の字がくっつくのが分からない。ふつうに熊は山間部に棲み<熊山>とか<熊沢>とかの地名は、よく聞くが、熊が海岸部の<浦>にいるとは聞いたことがない。 ・・・、
それとも熊の形に似ている岩があるのか?? どなた様か、ご教示を・・・!!

深江> (4/16)
これも解らない。<江>が付くと人為的に水に関係する事業がなされたものと認識している。それに<深い>がつくと大工事という意味にもなる。縄文石器の時代に、その時ある河川や港湾の水深を増す術は持ち合わせていないし、その必要もない。話しは変わりますが、原爆ドームを訪れたとき、脇の旧太田川(?)の河床が妙に深いのが気になっていた。そして流れている水も清流とは言い難い。花崗岩質の中国山地から流れ出る河川の多くは、時に濁流を運ぶが基本的には清流で川底は浅くなってくる。今回(3/11)の東日本大震災でも見受けられように、上陸した大津波が海へともどる時、河床をえぐり取って帰ることがある。(祖先はこれを<垂水>と名付けていますが^^)その結果、川底は深くなる。本土と宮島の間でも津波という急流が流れれば、その中央の海底はえぐり取られ深みをます。いずれにしても、この<深江>には多くの謎を含んでいて今後の課題となります。

前空> (4/17) 
何んと読むのか、又その意味も分からないが、変わった地名だ。こんな地名に出くわしたことがない。北海道に<空知>という地名があったが、それはアイヌの言葉を和語に変換した地名だ。全天何処へ行こうと帰ろうと、お天道様はついてまわる。それには前も後ろもなく、この私くしが向いたほうが前の空になる^^。しかしながら、この地の人達は、そこを指して<前空>と名付けた。その前の空の方角が<宮島>の方なら宮島の山上に何かの異変を見たことになる。

対厳山(63m)> (4/18)
これも何んと読むのか知らない^^!。 この山の名付けは<宮島=厳島>に、対して付けられた地名だ。厳島を指し示す位置と、形状をしている。岡山県の倉敷市<由加山>と、海を隔てた讃岐の<こんぴらさん>は、対になっていて、その一方だけにお参りするのは片手おちだと、聞いたことがあるから、この<対厳山>も同様なことがあるのかも知れない。今は山上の一部を削って団地化されているようだが、そのような ‘いわれ’のあるお宮さんがそこに有るのか無いのか??
前述の<前空>と、この<対厳>を合わせて考えると、海を隔てた<宮島>の山上に、地名に付けて残すほどの “厳(いつく)しい事=大事変”があったと語っているような気がしてならない。

早時> (4/19)
これは変わった名付けだ。普通に思えば時間という時の流れを地名とする“根拠”が考えられないが、筆者のいう初頭の大事変を思えば、この変わった地名も納得できる。東北発の巨大地震が朝の6時にこの地にとどく。12月の25日の朝6時といえば辺りは真っ暗で、まだ寝ていた時間。それに加えて8時半頃をピークにした大津波も襲来する! 寝ているどころの騒ぎではない。巨大隕石から発生する表層地震波は、深層から発生する地震の比ではなく、今のマグニチュードの数字では表せないほどの巨大地震だ!! 身体は宙に浮き、足元は揺らぎ立っていることも出来ない。<早時>とは、日の出前の暗い時から8時、9時までの早い時を言っている? この大津波の襲来をいう地名が他にもある。兵庫県に<朝来町> 岡山県の<朝寝鼻貝塚>だ。このような、その“大事変の朝”をいう四つ目の地名が、貴方の近くにも潜んでいるかも知れない^^。

もし、これ等の<朝の時間をいう地名>を貴方と私の会話で使っても<その場所>が分からない。日本全国どこへ行っても、朝の6時は朝の6時だからだ! その特定した場所を 『早時』と
名付けても、それが相手に伝わるような ≪何かの≫共通した認識がその場所になければならない。
・・つづきます^^!

更地分れ> (4/20)
これほど、具体的な言葉で、その時の津波の大きさを残して(記録して)おいてくれると有りがたい。今回(3/11)の東日本大津波で経験したように、津波の力はその表土のすべてを剥ぎとって<更地・さらち>にしてしまう。東海大の調査では、その津波は最大38.9mの高さまで達したという。<更地分かれ>とは、その津波が更地にした所と、しなかった所の分かれ目を云っているのではないのか。同様な地名付けで、鳥取県に<境> 岡山県に<境目> 三重県に<浜垣戸>があった。その他<神戸>ように内と外の境目である<戸>の付いた地名は、数え切れないと謎解きしました^^。

<津波の止まり際> (4/21)
今回(3/11)の東日本大震災では、不明者を合わせると2万人以上の人が亡くなりました。
この自然の脅威を後世に伝えるために、東海大の調べた津波の最も高いと(?)された場所に、鎮魂碑を記しておきたいものです(深礼合掌)。


『 連日のTV津波報道のなかで、一つの疑問がありました。前述したように津波には、筆者提唱の似たようなものを集めようとする「同似集合作用」があります。その中で祖先が<福の字>を付けたり、津市の<嬉野>だと地名に残しているのに、その大量の海産物(主に魚)の打ち上げ映像を見たことがありません。陸前高田市の市職員の方の話だったでしょうか? 3(4?)階建ての屋上で金網につかまりながら、「水没した目の前を大量の魚が通りすぎて行くのを見た」 と云われていました。大多数の魚は引き波にのって海に帰りますが、陸地奥深く入った窪地等には残されることがあります。一度だけ陸内でカモメの群れる映像を見ました。そのなかに、もしも人が居たらとおもうと・・・、百体・二百体と、まとまって海岸に打ち上げられることもありました。日々遺体の捜索にあたっている自衛隊・消防隊・その他の方々は、筆舌や映像にも残せないほどの惨状を目にしているはずです。それを単なる、ご苦労様とか謝辞のことばで発することができず、唯々、心に手を合わせて頭を垂れるのみです。』

地蔵ヶ鼻> (4/22)
宮島へ渡る3本の船着き場のそばに<地蔵ヶ鼻>はある。このお地蔵さんは、その時被災した子供達を弔うものでしょうか? それとも、後々にその大事変を起こした荒神に、「その怒り、鎮(しず)めたまえ」 として幼子を捧げるためのものであるかは定かではない。・・・、(合掌)
まだまだ広い範囲で、多くの<地名>を聞かないと、その大事変の歴史は浮かび上がってきませんが、今回はこれで筆を止めておくことに致しましょう。

<宮島の地にとどいた津波の大きさを探る> (4/23)
さて、それではその時の津波の大きさを具体的な数字(標高)で調べるとしましょうか。
それを調べるのは国土地理院の地図がいい。当時の住地の中心を<大野中央>として、そこから国道2号線沿いに東へ進む。
大野中央(2.9m、3.5m)。 下の浜(40m)上の浜(30m)。ん?、下の浜>は住地より下方かと思ったが上だった(^^!) 異変を見たとした物見西は、高い所で(60m、70m)、物見東団地は(25m)。この辺りの一般的にいえることだが山や丘の頂部を削り、それを均して100軒200軒の巨大団地を形成しているようだから元々の高さは分からない。前の空団地(35m)は、その北の低い所に位置する土井(15m)辺りから南の前の空を眺めれば20mの差であるが、前の空団地は500軒(?)を越えるような巨大団地であるから相当の土量をけずりとって低くしてあるように思える。山陽本線・前空駅あたりは(4.3m)。  つづきます・・
 (4/24)
次に、早時鼻の標高は(31.6mm)。だが周りは全て削られているようだ? ちゅーピーパークという新しい地名も見える。深江(10m)。対厳山(63m)。対厳山団地(44m)。宮島口駅の近くの国道2号線(2.9m)。地蔵ヶ鼻(3.5m)。更に国道2号線を東へ。宮島口団地(  m)。阿品(四)団地(45m)阿品台団地(  m)。阿品>とは変わった地名だ。阿>は、あいうえおの一番始め(?)と述解したから、この台地で“初もの”をお供えしたのかも知れない? この台地を越えて→地御前>へ。これも何んと読むのか分からないが(おんざき?)と読むことがあった。阿>と、御前さま?>の二つの地名は、この場所で<宮島>に向かって何かを乞う儀式があったと推察できる。串戸(  m)。下平良(3m)。平良山手。廿日市駅。天神あたりが(20m~30m?)。桜本町、桜尾>。と気になる地名が並んでいるが。 ・・・ん???、
<更地分かれ>の地名がない!! あれは交差点の名前だったのか? 交差点の名前としても小字の地名であろうに? やり過ごしたのか?? この先に<草津>の地名も見えるが?、もう一度、大野へ引き返してみよう。大野中央から西へ行くと、玖波(くば)>とか津田>の地名もあるが今回は、そこまで範囲を広げたくない。 

<草津について> (4/25)
草津>の地名で真っ先に思い出すのは、滋賀県の草津。ここは東北発の内陸地震によって矢印形の琵琶湖で集められた大津波が、表土をけずり大草を打ち上げた所だとしました。その他にも、静岡県・舘山寺の近くに大草>。名古屋の千種区>等も同様な地名があります。このように小字まで調べればキリがないのでしょうが、これ等をひっくるめて、古代日本のことを『瑞穂の国』と呼ぶことがあります。この瑞穂の<瑞>は、津波のことを言っていると謎解きしましたが、他にもう一つの意が隠されています。その大事変を12月の25日としましたから、今の列島の季節でいえば“冬”であり、多くの草は枯れて無かったはずなのに『穂』という“実りの秋”を表す地名が付いている?? さらに、滋賀県だったかな?<秋津>の地名がありました。この違いに、さんざん悩んだあげく、BC2001年12月25日の大事変前の地球の平均気温は、今現在より15℃~17℃高く、秋のような気候であり、海水位でいえば今より5m~6m高かったのではないかとの結論に至りました。(別紙報告書で^^) 例外的に、兵庫県の瑞穂>。岡山県の津山>等のように、とうてい津波とは無関係のような内陸部に入ったところにある地名は、稲作や人口の増加とともに人々の信仰の対象が上流の<雨落つる源流>へと移っていったのではないかとしました。

更地・さらち> (4/26)
地図上で、更地分れ>は見当たらなかったが、対厳山>の北側の谷間で、高さ50mほどの所に、更地>の地名がある。その標高は50m。当時の海水位は、現在のそれより約6m高かったとしたから、50mマイナス6mで、この津波が登った先端の最高位置は【44m】の答が出てきた。
すぐそばに、高見>28mと、別府>18mの地名が遺されている。「高見の見物」という言葉があるからその時の平均的な津波の水位は28mから、6mを引いた【22m】ほどかなと推察します。
津波の高さをいう時。狭い地域においても、海からどの程度離れているかは大きな問題ではなく、次のような要件で大きく変わる。遮蔽物や、松林等の抵抗物のあるなし、広い河口のあるなし、津波の進行方向にたいして受けV字の地形の角度とその向き。そして陸地においても遠浅状になっていれは、驚くほど内陸部まで進んでいく。「津波(竜)、川を昇る」というのは、川底が遠浅状になっているためであり、今回の東北の大津波でも<女川>でそれを経験している。

 津波は、水を媒体とした力の移行であり、通常の波がおおむね同位置で上下するのに対し、津波は前に前にと進む「押波」の表現のほうがあたっている。一般に「津波の高さ」と同じ言葉でいうが、その「場所別の水深の高さ」と、登って行った「先端部分の標高・高さ」での水深は大きく異なる。標高の高さと、水深の高さを混同してはならない。何か区別できる良い表現方法はないものでしょうか(^-^!)。

福面・約50m> (4/27)
この谷間(たにあい)の奥まったところに、この地名はある。福>の付く地名の全てが、四千年前に打ち上げられた魚達があったところだとは言わないが、福とか富>の付く地名は要注意である。結果的にこの魚達は腐泥となり、後に草木の栄養分となるからだ。新潟県・魚沼>産の“こしひかり”おいしいですよね(笑)。 字学素人ながら、「屋根をふく」という言葉がありますから、<福面>とは、「その一面が魚群で覆われた」と云っているのではないでしょうかぁ?
 (この話しに関連して)
北極のツンドラ地方には6500万年前の南極から発した大津波によって打ちよせられた膨大な量の草木や魚群があり、それが今の石炭や石油になったと別紙・電子版極秘報告書「巨大隕石と大津波」で述べています。親潮は北極海からの“栄養分”を運んでいるといいますが、素人の言う異変がないかぎり、空気も凍り付くような極地で、その“栄養分”の元となるような動植物が“大量に発生”したとはどうしても思えないのですが・・・、この話しは、ここで止めておきましょう。あまり大口をたたくと、今の科学はおろか貴方さま>までが離れてゆくから・・^^!

別府> (4/29)
別府とは本府に対しての別府であり、海水が入り更地化した陸地においては、その地形や、その後の雨の過多にもよるが当分(1~2年?)の間は、塩分や表土をさらわれたことにより雑草までもが生えにくくなる。大野あたりに住んでいた縄文石器のご先祖達は、水を被らなかった廿日市駅あたりに本拠を移してして生活を始めた? ・・のかどうかを聞くのはこの谷間(たにあい)に残る寺社さま>や、廿日市駅周辺に多く在す寺社さま>に、そのいわれを聞くのが賢明と思いますが・・・(^-^)?。
 津波の恐ろしさは、その表土の植生をかっさらい、しばらくの間は、不毛の地と化し、移住を余儀なくされ、その<地名>までもを押し流してしまう。東日本大震災においても、復興再建とはいえ慣れ親しんだ<小字名>のすべて更地化されることになるのであろうが、・・・寂しいかぎりである。



<宮島の地名にその大事変を聞く>に、つづきます(^-^)♪。
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