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<宮島の地名に、その大事変を聞く>
<宮島(厳島)周辺、の地名略図> (4/07)
宮島口駅 北
地蔵鼻 ↑
深江(2.9m) (北端から)
観音崎 聖崎
△対厳山(63m) 杉の浦
前空台 包ヶ浦(自然公園)
《大鳥居≫
紅葉川≪厳島神社≫ (島の東端)
早時鼻 白糸川 入浜
大元川 *潮山原始林
駒ヶ林 & (焼山)
<大野瀬戸> △弥山(みせん535m)
大黒岩 腰細浦
△前峠山(まえだお)
多々良潟
多々良川 →1
△大江山
△三ッ丸子 →2
△先峠山(さきだお)
→4 →3 大砂利
御床浦
→5 樫木浦
△大川山
青海苔浦
△老岩山
△岩船山(466m)
(無名の?谷川) ↓6
須屋浦、△須屋山 養父崎浦
(西端)
長浦 山白浦
革篭崎(こうご)
< 岩 国 > (南端)
長らくお待たせしました^^!。以下も、史学、言語学、地質学等に基づかない素人独自の判断だとご承知おき下さい。そして、大事な地名が抜けていたり、無知ゆえの間違いやら、読み方や ‘いわれ’ も間違っているかも知れませんので、そのつど何方様か教え正して下されば幸いです。 宮島へ渡り、北端の<聖崎>から、時計回りで、祖先からの伝言(地名)を、‘独耳流^^!’で聞いていくことにします。
聖崎> (5/01)
筆者は、この読みを何んと読むのか知らない。ほぼ長方形をした<宮島>には、四つの岬があるはずだ。その四つの岬の一つを選んで、何故<聖・せい>の字をつけているのか? <聖>は、ひじり>とも読む。その昔は「火尻」と呼んでいたのではないか? しかし、聖なる信仰の対象の島に、尻>の字がつくのは、何となくイメージがわるい。そこで漢字が渡来した後の時代に、聖>と書いて、ひじり>と読ますようになったのではないだろうか。火>ついては、この記事の核心部分になるので後に回しましょう^^。
杉の浦> (5/03)
この地名からは、その伝言は聞こえてこない。 今とその昔は気候が違うから一概にはいえないが、杉が海岸端に生えていることは珍しく、何故、この地名になったのかは分からない。 仮に、平地海岸に大杉が生えていたとすると、杉はその樹形から津波にはめっぽう強いと考えられる。直立する大木の下枝は枯れ、津波水流の影響を受けにくい。列島各地の平野部の全てをかっさらった津波跡に、その大木だけが、ぽつねんと残っていれば、「杉は、津波に強い!」と、ご先祖さま達はきっと思うに違いない。今でも平野部のど真ん中に杉の大木に囲まれた神社を見ることがある。その杉に神性を感じ、神木として扱われるようになったのではないだろうか。
包ヶ浦(自然公園)> (5/04)
包み込むような入り浜形状から、この名がついたのであろうか。特別な意は伝わってこない。近年に、海水浴とキャンプができる自然公園として整備されているようだ。写真でみるかぎりは白くきれいな砂浜である。
入浜>
この地名からも、特には伝わってこない。
腰細浦>
なにか意味ありげだが、全く解りません^^!。
大砂利> (5/05)
大砂利とは、変わった地名だ。砂利という一般的なものを地名につけても差別化はできない。地名とは、一種の差別化であり、この差別化を共有することによって特定した場所が相手に伝わる。何処にでもあるようなものを地名にすれば、「あんたのいう砂利>は、何処よ?」と、なって伝えたい場所が(相手に)伝わらない。だから<大>の字をつけて差別化しているのか? 「大きい砂利」だと云われてもねえ^^? 砂利>と言えば、ジャリン子のように一般的には小さいことの代名詞としても使う。そして、大と小では真逆の意であり、これも解らない。それとも、<ジャリ>と読まずに、何かほかの読み方や、意があるのか? 解らないことは置いといて先へ進もう(^^!)
樫木浦> (5/06)
樫の木が生えていたのか。と云うことは、大木の樫の木があったのだろうか。大木になるにはたくさんの幼生木の中からと云うことでもあり?、島のあちこちに樫の木が生えていれば、此処だけに<樫木浦>と名付けても場所の特定が薄れてくる^^?。広島と言えば「紅葉・もみじ」が、思い出されるが、宮島には<紅葉川>や、<潮山原始林>もあり、古代より人手の入らなかった島として、貴重な植生を残しており、広島大学の植物研究所がこの島にある。
青海苔浦>
広島には藻場の海岸が多く「鱚釣りのポイントが少ない」と、じいさま>からは聞いていたが、青海苔>の生える海岸は少なかったのであろうか? 青海苔の生える海は透明度の高い海水か?? 後で調べます・・・^^?
< 蜜蜂・ああ無情!!!> (5/06)
久しぶりに養蜂箱をおいてある山斜面の孟宗竹畑へ行ってみた。・・・
この項 [ My粗茶室・ ]へ移動しました^^。 → カテゴリー、<ゲスト様>
養父崎浦・やぶさきうら> (5/09)
“ようふ”と書いて“やぶ”と読む。この読み方は早くから知っていた。調べてみれば兵庫県に<養父市養父町>があり、岡山県・倉敷市玉島に<養父>の地名が残っている。子供心からすれば「変な地名だなあ?」と思っていた。<藪・ヤブ>なのかと思ったがそうでもないらしい。“養父・ようふ”といえば“養い親”のことである。養い親のようなごく一般的なことが地名として定着するには、何かの理由がある。先の「除福」の記事を読んで下さった方なら、これは大して難しい問題ではない。除福達は、不老不死の霊薬を求め、童男童女3000人を連れて列島にやって来た。この子達を連れてきた目的は列島で求めた試験薬をその子達に施し長生きを実証するためである。3000人を一カ所で育てることは出来ないから各地に分散して面倒をみていたのである。一人や二人の養育ならあまたにあることであるから地名としては残らない。我が子でもない子達を10人以上も育てていれば、倭人からみれば異様にみえる。だから、「あそこは<養父・やぶ>だ。」と呼んで地名として残ったに違いない。Drいずも氏>が指摘されたように、除福達は“秘密結社”の意味合いを持つ。日本史に黒船も比ではないような影響力を持ちながら、自分達の言葉(中国語)で地名を残して居ないのは、決して表舞台に立ってはならないという宿命(前述)を持っていたからである。広島の本土から見れば裏側にあたる宮島の南側の地名は、おおむねが異質で新しい名付けのような気がします。
山白浦> (5/10)
これは難しい。文字通りを受け取ると、以前に謎解きした<白神山>と同様に、山が白んだとの意味であろうが、ここが本土側から見える所ならともかく、此処は、島の裏側にあたり本土側から見えない場所である。その大地震が到達したのは、12月25日の朝の6時頃であるから日の出前の暗い時だ。いったい何処の住人がこの地名>を名付けたのか? 広島の本土ではなく、その西南にあたる<岩国>の住人が付けたのなら分かるような気もしますが?
革篭崎・こうごさき> 南端 (5/11)
分からないので調べました。
Webilio 辞書より、革篭とは?-皮を張ったかご。後世、紙で張ったかご、竹で編んだかご(行李(こうり))をもいう。
どうやら‘かわかご’がなまったらしい。列島では植物質の入れ物は普及していたが革製品の容器はなじみが薄かったと認識している。何故、それが地名。として定着したのかが解らない。これはあくまで想像に近いが、宮島全体を「岩船」に例え、北端の「火尻崎・ひじりさき?」と、この革篭崎を船の舳先として“篭”に何かを入れて何かの神事を行っていたようにも思えるが・・・??
長浦> 長いから長浦^^。
須屋浦、△須屋山>(西端) (5/12)
今では法律により土葬は許されないが、須屋(すや)というのは、昔、樽や木棺で遺体を土葬にした時、遺体や棺(ひつぎ)が腐り落ちるまでは、その上に石塔を切れないので、須屋という木製の小さな家形をした小屋をおいたり、○○?という木柱をたてることがありました。それが何故ここの地名になったのかは、分かりませんが、須屋山>と、須屋浦>の二ヶ所に地名が残っているということは、此処がかなり重要な人物の墓地であったとうかがえます。
御床浦>
お床というのは、何か大切なものを祀ったり、高貴なお方が横たわる場所。どなた様がおいでになったのでしょうか?
多々良潟・多々良川> (5/13)
多々良というのは、鞴(ふいご)のことで、風船状にした獣皮を縮めたり脹らませたりすることで送風する用具のこと。主に製鉄の時、鉄鉱石や砂鉄に炭を混ぜて熱し酸素を大量に送ることによって鉄を溶かし出していた。この方法を“たたら製鉄”ともいう。宮島の全島が花崗岩であり、この島には鉄鉱石がないと思うが? 本土から海を隔てて航行にも不便の島に、何故、製鉄用語の<多々良>の地名が残されているのか? しかも、ご丁寧に、潟>と、川>の二ヶ所に、名をふってある^^! 二ヶ所以上に同じ名>が連なっているということは、そこが、かなり重要な場所という意味でもある。 あとへつづきます。・・・、
大黒岩> (5/14)
此処には、黒い大岩があるのでしょうかぁ? 島全体が花崗岩とありました。私達が墓石として目にする花崗岩は白っぽいものがほとんどで、赤みを帯びたものや、黒色の(黒御影石)は輸入品なのでしょうか?? 次は、ド>のつく素人の言葉として受け取って下さい。御影石とも呼ばれている花崗岩を高圧下のもとで熱していくと、黒色となり、さらに温度が加わると赤みを帯び、さらに高温化すると白色化に進むと睨んでいます。(高温化による組成の変異?^^?) なにを目論んでいるかというと、島全体が大地震で揺すられ破砕し、岩と岩が擦れて摩擦熱を発し黒色化したのではないだろうかと思っています。この論が正しければ、そこは断層帯の端にあり、帯状に黒色化が見られなければなりません。
≪大鳥居≫ (5/15)
これで、この島を一周しました。
この大鳥居>の方向は、島の大事変があった方向を見ているとの予想は大きく外れ、入り江のほぼ中央にあり<厳島神社>を正面に見ていました。 さて、ここから内陸部の地名を訪ねて行くことにしましょう。
紅葉川≪厳島神社≫、 白糸川、 大元川>
大鳥居がある入江には、3本の川が流れ込む。川といっても急峰の弥山(みせん)山麓から流れ出る谷川は急流で常時水を留めているとは思えない。いつぞやに(平成○○年)、台風で集中豪雨があったときは、多くの岩石が神社を壊すほどの土石流となってニュースになったことがありました。これは宮島の岩石が「破砕」されている為ではないかと疑っています。
潮山原始林> (5/16)
この原始林は、宮島が本土に近い島でありながら、信仰の対象の島として入山規制がはたらき人踏が入らず、その特異な植生から国の天然記念物にもなっている。それにしても、海の潮>と、山>の組み合わせは、妙な命名の仕方である。・・そうだ! その時の大津波は、弥山>を目指して、この高さまで登っている! 本土の福面50m-6m>で、津波の登った高さは<44m程>であったから、後で此処の高さも調べてみよう。物見(台)>へ避難した人達は、宮島に潮が登るさまを知り<潮山>と名付け、以来「神」が入山する場所として忌避したのである。
(調べました。<大聖院>辺りで50mでしたから当時の海水位6mを引き44m!)
駒ヶ林> (5/17)
駒>とは馬のことである。縄文石器時代の列島に馬がいたかどうかを筆者は、まったく知らないが、此処での駒>は、騎馬としての馬である。列島での牛馬の存在は騎馬としてではなく、役馬としての存在が大きかったように思っています^^!。馬を騎馬としてあつかうのは広大な大陸移動の必要性から生じた結果からではないでしょうか? 除福(前述)>の伴った騎馬兵が倭人達の目には(神)と写った? それにダブらせて馬に乗った(神)が、林をぬけ弥山>に駆け上がる! そう言えば、厳島神社の脇に奉馬堂>がありました。あの立派な奉馬や、絵馬の奉献がどこから生まれたかを筆者は知らない。
焼山>>( やけたやま、と読む?) (5/18)
この地名は地図には載っていない。ウエブ検索で山歩き大好きと云われる(○○さま)のページで見ました。通称なのかも知れないが、現にそのように呼ばれている事実がある。今に、何処でも起きるような山火事に「あの山は<焼山>だ」と、その度に地名として名付けたならば、古今東西、列島は<焼山>だらけとなる。(笑い) 何かの“特異な事象”を伴い人々の心に深く刻まれた山であったから、その山を焼山>と呼ぶようになったのだ。この度の東北大震災でも、北海道の奥尻島の大震災でも、火事があった! 津波が火事を伴うとは意外な感じもするが、津波の消火は一時的なものであり、火種さえあればその残り火により、津波で寄せ集められた草木は延々と燃えつくす。少し話しが飛びますが、筆者は阿蘇の山焼きや、奈良の若草山の山焼きの歴史も気になっています。
(5/19)
話しの核心に触れますが、宮島の火は、不消火の火として、○○オリンピックの聖火となったり<平和記念公園の火として今でも燃え続けています。(BC.2001)四千年前の大地震で、山と山が擦れて発火したことを歴史が覚えていて、「決して忘れてはならない火として、いまに続いている」のだと、私は断言出来ます。 現科学は ‘すっかり’それを忘れていますがねえ^^。 現科学と祖先の言い伝えのどちらをとるかと聞かれれば、私は迷わず<ご先祖さま>のほうにジャッジを挙げます。 少し言葉が過ぎたかしら・・・?(^-^)?
(註: 今の御霊火堂の火は、弘法大師が修行した時の1200年前のものだそうです。)
素人の拙い論では、現科学はおろかあなた様までもが信じて頂けない。信じて欲しいとは言わない。気付いて欲しい! ^^。
△前峠山(まえだお)と、△先峠山(さきだお)>へ、つづきます^^♪
(5/12)どなた様、拍手(1)をありがとう♪ 久方ぶり、何ヶ月ぶりかの拍手です^^!
(514)おやおや? 存命中は無理と^^! あきらめている記事に、つづいて拍手が頂けました♪
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<宮島の地名に、その大事変を聞く>
<宮島(厳島)周辺、の地名略図> (4/07)
宮島口駅 北
地蔵鼻 ↑
深江(2.9m) (北端から)
観音崎 聖崎
△対厳山(63m) 杉の浦
前空台 包ヶ浦(自然公園)
《大鳥居≫
紅葉川≪厳島神社≫ (島の東端)
早時鼻 白糸川 入浜
大元川 *潮山原始林
駒ヶ林 & (焼山)
<大野瀬戸> △弥山(みせん535m)
大黒岩 腰細浦
△前峠山(まえだお)
多々良潟
多々良川 →1
△大江山
△三ッ丸子 →2
△先峠山(さきだお)
→4 →3 大砂利
御床浦
→5 樫木浦
△大川山
青海苔浦
△老岩山
△岩船山(466m)
(無名の?谷川) ↓6
須屋浦、△須屋山 養父崎浦
(西端)
長浦 山白浦
革篭崎(こうご)
< 岩 国 > (南端)
長らくお待たせしました^^!。以下も、史学、言語学、地質学等に基づかない素人独自の判断だとご承知おき下さい。そして、大事な地名が抜けていたり、無知ゆえの間違いやら、読み方や ‘いわれ’ も間違っているかも知れませんので、そのつど何方様か教え正して下されば幸いです。 宮島へ渡り、北端の<聖崎>から、時計回りで、祖先からの伝言(地名)を、‘独耳流^^!’で聞いていくことにします。
聖崎> (5/01)
筆者は、この読みを何んと読むのか知らない。ほぼ長方形をした<宮島>には、四つの岬があるはずだ。その四つの岬の一つを選んで、何故<聖・せい>の字をつけているのか? <聖>は、ひじり>とも読む。その昔は「火尻」と呼んでいたのではないか? しかし、聖なる信仰の対象の島に、尻>の字がつくのは、何となくイメージがわるい。そこで漢字が渡来した後の時代に、聖>と書いて、ひじり>と読ますようになったのではないだろうか。火>ついては、この記事の核心部分になるので後に回しましょう^^。
杉の浦> (5/03)
この地名からは、その伝言は聞こえてこない。 今とその昔は気候が違うから一概にはいえないが、杉が海岸端に生えていることは珍しく、何故、この地名になったのかは分からない。 仮に、平地海岸に大杉が生えていたとすると、杉はその樹形から津波にはめっぽう強いと考えられる。直立する大木の下枝は枯れ、津波水流の影響を受けにくい。列島各地の平野部の全てをかっさらった津波跡に、その大木だけが、ぽつねんと残っていれば、「杉は、津波に強い!」と、ご先祖さま達はきっと思うに違いない。今でも平野部のど真ん中に杉の大木に囲まれた神社を見ることがある。その杉に神性を感じ、神木として扱われるようになったのではないだろうか。
包ヶ浦(自然公園)> (5/04)
包み込むような入り浜形状から、この名がついたのであろうか。特別な意は伝わってこない。近年に、海水浴とキャンプができる自然公園として整備されているようだ。写真でみるかぎりは白くきれいな砂浜である。
入浜>
この地名からも、特には伝わってこない。
腰細浦>
なにか意味ありげだが、全く解りません^^!。
大砂利> (5/05)
大砂利とは、変わった地名だ。砂利という一般的なものを地名につけても差別化はできない。地名とは、一種の差別化であり、この差別化を共有することによって特定した場所が相手に伝わる。何処にでもあるようなものを地名にすれば、「あんたのいう砂利>は、何処よ?」と、なって伝えたい場所が(相手に)伝わらない。だから<大>の字をつけて差別化しているのか? 「大きい砂利」だと云われてもねえ^^? 砂利>と言えば、ジャリン子のように一般的には小さいことの代名詞としても使う。そして、大と小では真逆の意であり、これも解らない。それとも、<ジャリ>と読まずに、何かほかの読み方や、意があるのか? 解らないことは置いといて先へ進もう(^^!)
樫木浦> (5/06)
樫の木が生えていたのか。と云うことは、大木の樫の木があったのだろうか。大木になるにはたくさんの幼生木の中からと云うことでもあり?、島のあちこちに樫の木が生えていれば、此処だけに<樫木浦>と名付けても場所の特定が薄れてくる^^?。広島と言えば「紅葉・もみじ」が、思い出されるが、宮島には<紅葉川>や、<潮山原始林>もあり、古代より人手の入らなかった島として、貴重な植生を残しており、広島大学の植物研究所がこの島にある。
青海苔浦>
広島には藻場の海岸が多く「鱚釣りのポイントが少ない」と、じいさま>からは聞いていたが、青海苔>の生える海岸は少なかったのであろうか? 青海苔の生える海は透明度の高い海水か?? 後で調べます・・・^^?
< 蜜蜂・ああ無情!!!> (5/06)
久しぶりに養蜂箱をおいてある山斜面の孟宗竹畑へ行ってみた。・・・
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養父崎浦・やぶさきうら> (5/09)
“ようふ”と書いて“やぶ”と読む。この読み方は早くから知っていた。調べてみれば兵庫県に<養父市養父町>があり、岡山県・倉敷市玉島に<養父>の地名が残っている。子供心からすれば「変な地名だなあ?」と思っていた。<藪・ヤブ>なのかと思ったがそうでもないらしい。“養父・ようふ”といえば“養い親”のことである。養い親のようなごく一般的なことが地名として定着するには、何かの理由がある。先の「除福」の記事を読んで下さった方なら、これは大して難しい問題ではない。除福達は、不老不死の霊薬を求め、童男童女3000人を連れて列島にやって来た。この子達を連れてきた目的は列島で求めた試験薬をその子達に施し長生きを実証するためである。3000人を一カ所で育てることは出来ないから各地に分散して面倒をみていたのである。一人や二人の養育ならあまたにあることであるから地名としては残らない。我が子でもない子達を10人以上も育てていれば、倭人からみれば異様にみえる。だから、「あそこは<養父・やぶ>だ。」と呼んで地名として残ったに違いない。Drいずも氏>が指摘されたように、除福達は“秘密結社”の意味合いを持つ。日本史に黒船も比ではないような影響力を持ちながら、自分達の言葉(中国語)で地名を残して居ないのは、決して表舞台に立ってはならないという宿命(前述)を持っていたからである。広島の本土から見れば裏側にあたる宮島の南側の地名は、おおむねが異質で新しい名付けのような気がします。
山白浦> (5/10)
これは難しい。文字通りを受け取ると、以前に謎解きした<白神山>と同様に、山が白んだとの意味であろうが、ここが本土側から見える所ならともかく、此処は、島の裏側にあたり本土側から見えない場所である。その大地震が到達したのは、12月25日の朝の6時頃であるから日の出前の暗い時だ。いったい何処の住人がこの地名>を名付けたのか? 広島の本土ではなく、その西南にあたる<岩国>の住人が付けたのなら分かるような気もしますが?
革篭崎・こうごさき> 南端 (5/11)
分からないので調べました。
Webilio 辞書より、革篭とは?-皮を張ったかご。後世、紙で張ったかご、竹で編んだかご(行李(こうり))をもいう。
どうやら‘かわかご’がなまったらしい。列島では植物質の入れ物は普及していたが革製品の容器はなじみが薄かったと認識している。何故、それが地名。として定着したのかが解らない。これはあくまで想像に近いが、宮島全体を「岩船」に例え、北端の「火尻崎・ひじりさき?」と、この革篭崎を船の舳先として“篭”に何かを入れて何かの神事を行っていたようにも思えるが・・・??
長浦> 長いから長浦^^。
須屋浦、△須屋山>(西端) (5/12)
今では法律により土葬は許されないが、須屋(すや)というのは、昔、樽や木棺で遺体を土葬にした時、遺体や棺(ひつぎ)が腐り落ちるまでは、その上に石塔を切れないので、須屋という木製の小さな家形をした小屋をおいたり、○○?という木柱をたてることがありました。それが何故ここの地名になったのかは、分かりませんが、須屋山>と、須屋浦>の二ヶ所に地名が残っているということは、此処がかなり重要な人物の墓地であったとうかがえます。
御床浦>
お床というのは、何か大切なものを祀ったり、高貴なお方が横たわる場所。どなた様がおいでになったのでしょうか?
多々良潟・多々良川> (5/13)
多々良というのは、鞴(ふいご)のことで、風船状にした獣皮を縮めたり脹らませたりすることで送風する用具のこと。主に製鉄の時、鉄鉱石や砂鉄に炭を混ぜて熱し酸素を大量に送ることによって鉄を溶かし出していた。この方法を“たたら製鉄”ともいう。宮島の全島が花崗岩であり、この島には鉄鉱石がないと思うが? 本土から海を隔てて航行にも不便の島に、何故、製鉄用語の<多々良>の地名が残されているのか? しかも、ご丁寧に、潟>と、川>の二ヶ所に、名をふってある^^! 二ヶ所以上に同じ名>が連なっているということは、そこが、かなり重要な場所という意味でもある。 あとへつづきます。・・・、
大黒岩> (5/14)
此処には、黒い大岩があるのでしょうかぁ? 島全体が花崗岩とありました。私達が墓石として目にする花崗岩は白っぽいものがほとんどで、赤みを帯びたものや、黒色の(黒御影石)は輸入品なのでしょうか?? 次は、ド>のつく素人の言葉として受け取って下さい。御影石とも呼ばれている花崗岩を高圧下のもとで熱していくと、黒色となり、さらに温度が加わると赤みを帯び、さらに高温化すると白色化に進むと睨んでいます。(高温化による組成の変異?^^?) なにを目論んでいるかというと、島全体が大地震で揺すられ破砕し、岩と岩が擦れて摩擦熱を発し黒色化したのではないだろうかと思っています。この論が正しければ、そこは断層帯の端にあり、帯状に黒色化が見られなければなりません。
≪大鳥居≫ (5/15)
これで、この島を一周しました。
この大鳥居>の方向は、島の大事変があった方向を見ているとの予想は大きく外れ、入り江のほぼ中央にあり<厳島神社>を正面に見ていました。 さて、ここから内陸部の地名を訪ねて行くことにしましょう。
紅葉川≪厳島神社≫、 白糸川、 大元川>
大鳥居がある入江には、3本の川が流れ込む。川といっても急峰の弥山(みせん)山麓から流れ出る谷川は急流で常時水を留めているとは思えない。いつぞやに(平成○○年)、台風で集中豪雨があったときは、多くの岩石が神社を壊すほどの土石流となってニュースになったことがありました。これは宮島の岩石が「破砕」されている為ではないかと疑っています。
潮山原始林> (5/16)
この原始林は、宮島が本土に近い島でありながら、信仰の対象の島として入山規制がはたらき人踏が入らず、その特異な植生から国の天然記念物にもなっている。それにしても、海の潮>と、山>の組み合わせは、妙な命名の仕方である。・・そうだ! その時の大津波は、弥山>を目指して、この高さまで登っている! 本土の福面50m-6m>で、津波の登った高さは<44m程>であったから、後で此処の高さも調べてみよう。物見(台)>へ避難した人達は、宮島に潮が登るさまを知り<潮山>と名付け、以来「神」が入山する場所として忌避したのである。
(調べました。<大聖院>辺りで50mでしたから当時の海水位6mを引き44m!)
駒ヶ林> (5/17)
駒>とは馬のことである。縄文石器時代の列島に馬がいたかどうかを筆者は、まったく知らないが、此処での駒>は、騎馬としての馬である。列島での牛馬の存在は騎馬としてではなく、役馬としての存在が大きかったように思っています^^!。馬を騎馬としてあつかうのは広大な大陸移動の必要性から生じた結果からではないでしょうか? 除福(前述)>の伴った騎馬兵が倭人達の目には(神)と写った? それにダブらせて馬に乗った(神)が、林をぬけ弥山>に駆け上がる! そう言えば、厳島神社の脇に奉馬堂>がありました。あの立派な奉馬や、絵馬の奉献がどこから生まれたかを筆者は知らない。
焼山>>( やけたやま、と読む?) (5/18)
この地名は地図には載っていない。ウエブ検索で山歩き大好きと云われる(○○さま)のページで見ました。通称なのかも知れないが、現にそのように呼ばれている事実がある。今に、何処でも起きるような山火事に「あの山は<焼山>だ」と、その度に地名として名付けたならば、古今東西、列島は<焼山>だらけとなる。(笑い) 何かの“特異な事象”を伴い人々の心に深く刻まれた山であったから、その山を焼山>と呼ぶようになったのだ。この度の東北大震災でも、北海道の奥尻島の大震災でも、火事があった! 津波が火事を伴うとは意外な感じもするが、津波の消火は一時的なものであり、火種さえあればその残り火により、津波で寄せ集められた草木は延々と燃えつくす。少し話しが飛びますが、筆者は阿蘇の山焼きや、奈良の若草山の山焼きの歴史も気になっています。
(5/19)
話しの核心に触れますが、宮島の火は、不消火の火として、
(註: 今の御霊火堂の火は、弘法大師が修行した時の1200年前のものだそうです。)
素人の拙い論では、現科学はおろかあなた様までもが信じて頂けない。信じて欲しいとは言わない。気付いて欲しい! ^^。
△前峠山(まえだお)と、△先峠山(さきだお)>へ、つづきます^^♪
(5/12)どなた様、拍手(1)をありがとう♪ 久方ぶり、何ヶ月ぶりかの拍手です^^!
(514)おやおや? 存命中は無理と^^! あきらめている記事に、つづいて拍手が頂けました♪
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