卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」
此処に出雲と同様、“大量の銅剣”が埋めてある! 全国歴史ファンの方々、三上山に集合せよ。
「吉備」にも、卑弥呼の大量の銅剣と銅鐸が埋めてある!
「吉備・地方」という言葉を一概には限定出来ませんが、古代では、おおむね岡山県南の総社市にある、吉備津神社や、吉備の古墳群・国分寺・吉備ノ真備の生誕地あたりを中心にして栄えた地方をいうようです。 いきなりで申し訳ありませんが、当地にも雨乞い文化を伝える地名がのこっており、『必ず大量の銅剣と銅鐸が埋めて“封印“してある』、との推論に至りました。そのまえに今一度、謎解きの概略を取りまとめておきしょう。

 出雲と、野洲と、神戸で大量の銅鐸がヒレという部分を寝かせて埋めてあった。
その出雲で358本もの銅剣が出土している。 「共通の文化があれば共通の事象あり!」、 であるならば、出雲と同じように、野洲や神戸でも大量の銅剣が埋められている。では、それが何故、卑弥呼に結びつくのか?、銅鐸文化から、銅鏡文化への変換・変遷は何人も否定できず、その 「変換点」 に、魏からの銅鏡100枚があり、卑弥呼がいる!

 <出雲の、大量の銅剣の出土地から、野洲と、神戸のその埋め地を類推!>
 出雲では、   斐川町・荒神谷、谷奥の南向き斜面から、       出土した。
 野洲町では、 三上山と妙光寺山に挟まれた谷奥を5・600m登った所(卍印)!を予測、
 神戸では、  灘区・住吉川上流で大月地獄谷の谷奥、南向き斜面墓地辺り?を予測!!
 総社市では、         どこに・・、埋めてあるのか         ???、

 野洲と神戸の大量の銅剣の埋め地を、どのようにして割り出したか?といいますと。
出雲の大量の銅鐸の出土地゜「加茂岩倉」から大山282mと、大黒山315mの、ふた山越えた所に大量の銅剣が埋めてあった「荒神谷」があります。直線距離で約4km(一里)あります。

 キーワードは 「大量の銅鐸の埋め地より、一里(=離)ほど西へ行った所の荒神谷」 だった。

野洲の場合、大量の銅鐸が埋めてあった「大岩山」から妙光寺山・三上山の谷奥へはぐるっと西の方へ回って約一里?かな?、と思っています。 谷の名前は調べていませんが、この谷の入り口に池があり「なにやらの神様?」を祀ってありますから、おそらくそれが荒神関係なのでしょう。
神戸は、手元に地図がないので詳細には言えませんが、大量の銅鐸が埋めてあった「桜ヶ丘」「いわや」から、その西方の「地獄」の谷名を見つけました。地獄谷は、「大月地獄谷」と、ただの「地獄谷」があるようですが、距離や規模、源流のあるなしから「大月地獄谷」のほうをえらびました。ここ迄が今までの主な概略です。

これを念頭に、本題の「吉備の地にも大量の銅剣はあるのか?」へ、謎解きの舞台を移すことに致しましょう。 
 「砂川?、の不思議」
総社市に「経山」から出流し、「足守川」へ流れ込む支流に「砂川」という名の付いた川があります。 足守川は、秀吉がこの川をせき止めて高松城を孤立させ兵糧攻めしている最中に、本能寺の乱があったといえば、ああそうかと思い出されるとおもいます。 (岡山市)足守は、秀吉の正室「ねね」の実家、木下家があるところでも知られています。近時のニュースで、この木下家で故意に割られた?硯箱がでてきて話題になりました。

 さて、その「砂川」ですが、 つづく・・、
川幅は、広い狭いはありますが平均して20mほどでしょうか?、 この川の川底は、その名のとおり草や砂をさらしていて、常時に水が流れてはいません。 枝分かれしたこの川の上に砂川公園があり、さらにのぼっていくとため池がありますから水稲の潅漑用水なのでしょう。 ここまでは、別にめずらしくもなく、なんら取り上げることはありません。 しかし、この川の両岸の堤防は、そばにある二階建ての民家の屋根よりも高く積み上げられており、その土量は大変なものです。分水嶺域をみても、せいぜい3・400m高さの山が三つ四つで洪水用の為とも言えず。ちょろちょろ水が流れればいい川の堤防造りに、なぜこんなに不必要で多大な労力をかけたのでしょうか不思議でなりません??

『総社市の砂川に行ってきました』♪ ‘07、12,16(日曜日)に!、
 目的は、①砂川の調査と、②大量の銅剣が封印されている場所を特定しに!
その日は肌寒いながらも、わりとよい天気で、ぽっかり雲がふわふわの感じで、目指す「経山キョウヤマ○○m・鬼の城キノジョウ○○m」が、遠くからでもはっきり見えます。 この二つの山は、吉備高原の南端にあり総社市街の北側に位置します。今までの謎解きの経緯(報告書本文)から、銅鐸の埋め場所は「岩」つながりの「岩屋」だとし、銅剣の方は、その南西の経山にめぼしを付けていました。 この日の主目的は、②の大量の銅剣の埋め場所捜しですが、なかなかその一歩を踏み出すことができませんでした。その一番おおきな原因は、出雲で荒神谷・神戸で地獄谷というように「墓泥棒も恐れる」ほどの場所だったからです。祟りという言葉すら風化した今日とはいえ、1700年余り「それと知り得た者は」、決して足を踏み入れたことのない場所です。 正直言って恐ろしい! その一歩が踏み出せない!

 その「一歩」を踏み出すきっかけと、勇気をくださったのは、□□○○所さんです。
「大量の銅鐸の埋め場所を予測する」から10年経過。 「卑弥呼が封印させた大量の銅剣」のブログでの広報をはじめて6カ月。 その広報の投稿は削除され!、次回はアクセス不能!。
悪いことにその広報文に添えて、「10年来の広報に、大学・行政・新聞社のすべてが、梨の礫!、無視されます。“そんな良識より”、それを掘り上げるにあたっての最大の難関は、文化財保護法と、その調査費用は全額地主負担ですね?」 とやったのがわるい。 良識がなかった。反省します。 しかしながら「これが」オブラートに包まれていない、この報告書への真の評価だと知りました。 なにしろ、1700年の歴史が相手だ!!
□□○○所さん、噴気をありがとう。 実績のない素人がゴタクを並べるより、先ずは実績!
 つづきをお楽しみに、

 そこへは、総社市を通る国道180号線から北へ「鬼の城・岩屋」の案内標識を見てすすみます。市街地からは○○km程、いわゆる「人里離れた」ところでしょうか。砂川公園の管理事務所があり、そこで確認のために「経山へ行く道順」を聞きました。砂川公園にはキャンプ地や、天然の流れを利用したジェットスライダーがあり、夏には家族連れでにぎわいます。 そこの上にY字路があり、右へ行けば鬼の城・岩屋へ。今日は左の経山方面をとります。○kmほど上った所かな。そこに車20台程の駐車場があります。「鬼の城」のにぎにぎしさと比べ閑散。 それでも車2台が停まっていました。 さらに右手の谷間を○○mほど上がると車5・6台の駐車場。その脇に公園風の砂防ダム(石積み長さ61m)が見えます。 一帯は明治末から大正時代、はげ山で降雨による洪水や土砂災害が度々あり、治山のために巨費を投じたようなことが書かれています。

一帯は総社市の管理地で、「黒尾地区・西谷、くろお・にしたに」とあります。西谷によみがなをふったのは、出雲の荒神谷遺跡の命名時に、正式な地区名の「神庭・西谷、かんば・さいたに」するべきだ。等の案があったようです。何故、「西」を「サイ」と読ませるのにこだわったのでしょうか? 連想できる言葉に「賽の河原」があります。 概していえば、管理事務所の小父さんが(私を)不審者と(笑)思ってか、見回りにくるほどの寂しいところです。
別事になりますが「神庭・かんば」は、備中地区・高梁川水系にもあり、「出雲・仏教山、総社市経山」のように、出雲と吉備の地には、その共通名がたくさんありますから捜してみて下さい。

 「腹がへっては戦ができぬ」用意した弁当をとって、
ここからは谷間の流れに沿った徒歩道を上がります。10分ほど上がったでしょうか? 道しるべがあり「この先、直進は遊歩道ではありません。経山城址へは、右方向の斜面を登って下さい」、一瞬、迷いましたが、「経山に登って、その西の谷間を眺めれば“大量の銅剣”が埋めてある所がわかるかも知れない!」、と思ったのが間違いのもと! 徒歩道として、丸太の整備がところどころに為されてはいますが、山歩きに不慣れな筆者にはキツイ! ところどころにシダ草が裏を返して手折られている。これは山歩きの修験者が迷い道をふせぐために為したのか? 心配になってくる。 それでも小一時間は登ったであろうか。送電線の鉄塔に着いた。 眺めを楽しんで、対面に目指す経山がある。

もう少しだ。急な坂を5分も上がると、今度は山の中腹に沿って歩く道。これをまっすぐに行くと「鬼の城」方面にいくのは見当がついている。 途中、山手には整備のための古い石積みがある。写真に納めた。出雲でも賀茂岩倉と荒神谷を結ぶ山中道があるというから、その道かな? と思いながらも30分! 相変わらず裏白が手折られている。目指す経山は谷を隔てた向こう側に見える。 もう止めた!(笑) その銅剣が埋めてある「西谷」から遠くなるばかりだ。引き返そっ!、さっきの鉄塔のとろで休憩していると、と!なにやら下方で人の気配!、ビックリしたぁ~、マウンテンバイシクルを押して人が登ってくる。聞けば秋山さんだと云う。「鬼の城は未だ遠いですか」と、その屈強な若者にたずねられたが「貴方なら行ける」とけしかけた。 大笑い・・怖さがふっとんだ。 途中帰り道、それらしき?斜面を2カ所ほど写真に撮りましたが??、
                                          つづく・・・、
再び、①の、砂川調査
砂川へは、この「西谷」から流れ出る渓流と、経山・鬼の城を谷間とした主流があるようです。 この堤防を下ることにしましょう。道は細いがじゅうぶん通れる。途中、この堤防でただ一つの小店「辻屋・つじや」があります。この辺りの堤防の高さは二階建て民家二つ分ぐらいあり一番高いようです。この堤防が東西の“往き来”を分断するわけですから、その昔から唯一私用地として許されたのかな? ここに橋が架かってあります。その規模は、幅○m、長さ18m、橋下約4m。 水は流れていません。 河原で丸いハンドルを見かけましたから、今では水路管を地中に埋めてあるのでしょう。 さらに、堤防から外れたりはしますが下っていきます。川幅はあまり変わりませんが、堤防はだんだんと低くなっているようです。 総延長3~4kmで「足守川」に合流します。 この合流点に『高塚』がありました。 すでに、「塚」のつく地名は“人身供儀”で火葬にした遺骨を納めたところだと謎解きしています。この不必要とも思われる高さの堤防は、雨乞い儀式の為に特別にしつらえた堤防だと推理します。

その反論へと・・・、つづく・・、
反論・その1、 砂川の「高い」堤防は洪水対策?
 明治末から大正代にかけて、あたり一帯はハゲ山でたびたび洪水を繰り返していた。
今、私達が日本の山の緑を保ち得ているのは、祖先の勤勉さと営々たる治山・治水のおかげと云える。昭和の代に入っても、今に比べると家庭での石炭石油の使用は僅かであり、炊事・風呂焚き・暖房のほとんどを山の木々に頼っていた。加えて戦後の食料不足のため開墾を広げたものだから、あたり一帯はハゲ山だらけであった。
反論その2、 その構築時期は、近代にはいってか?
 ふつう河川堤防の多くは断続的に追加して築かれるのが常で、機械力のない当時(弥生代)の人力だけでは考えられない。
<反論の反論>
 この砂川の「高い」堤防がいつ構築されたのか筆者は知らないが、弥生代になされたのではないかと考えています。当時、この一帯がはげ山であったとは考えにくく、したがって洪水対策の必要性が少ない。そして、この近くに大きな「作山古墳」があり、砂川の「高い」堤防を築く社会的能力は、じゅうぶんにあった。さらに、この砂川は川の出流域にあり洪水の為に、これほど「高く」築く必然性が考えられない。では洪水対策でないとしたら「何の為に、このような高い堤防」を築いたのか?

「砂川」の高い堤防は雨乞い儀式のために設えた?
この砂川の源流部に「新山」があります。 新しい山?? 皆さん!この名付けを不思議に思いませんか? 昭和新山ではあるまいし、山に新しいや古い山があるとは思えないが? 新しいとは、古いに対してつかう言葉であり、何に対して新しいのか? 話はすこし飛びますが近江の「蛇砂川」の上流に「竜王山・雨乞岳・御在所山」や、「木へんに、会うと書いて、ソマ」の地名がありました。「ソマ」とは、木を切り出すとか、転じて木を切り出す人にも使われるとありました。これ等のことから、雨乞い行事で、その源流から神木を選び、竜に見立てて「枝を落とし、先を切り、舟形に仕上げて」琵琶湖に操りだす「まつりごと」があったと(別紙報告書で)推理しました。新幹線の車窓から、近江八幡市に流れているこの蛇砂川の堤防も、必要以上に「高い」のではないかと?思って見ますが確認は出来ていません。

 吉備の地にも「登龍山」があります。 この登龍山に対して「新山」だと思います。登龍山から竜神木を切り出していたが適当な木がなくなったので新しい山に替えた? 「新」の字を分解すると「立木を切る」になるから、これもあながち見当はずれではないと思っています。 「出雲の砂川」に川の点線印は見えませんが区画整理の干拓地のなかにあって、その街道だけが規則的にくねくねと曲がっていることに注意を払うべきでしょう。
今でもそれに類似する奇祭が各地に残っていますよ。 何処だったか思い出せませんが巨木に乗って山の斜面を一気に下る。 そして、伊勢の方だったかな、川の中で子供達がお御輿に綱をつけてひっぱる。このような「まつりごと」が、吉備の「砂川」にもあったのでしょうね。


 さぁ~て、本論の、吉備の『大量の銅剣の埋め場所捜し』 に、でかけましょうか。
先だって(12/16)、それらしき山の斜面を写真に納めたと言いましたよね。 ・・たが?、どうも腑に落ちない。すっきりしない。その斜面は谷間の「東向き」斜面だったから! 国土地理院の地形図で確かめて、もう一度、現地にでかけましょうか。その「南向き斜面」を捜しに!!

 
  【 吉備・総社市、大量の銅剣の埋め場所を予測する! 】 
総社市・岩谷から二山越えの「黒尾地区・西谷」の谷奥
                           <北緯34度43分9秒 東経133度44分47秒>
そこの南向き斜面        陽光で、荒神の「陰」を封じ込める考え
              斜面下に立って、5mほど上がった所かな?(出雲に準ずる)
埋めてある深さ         地表下、四尺? (四=死の考え、土葬等も、ほぼこの深さ)
その埋めてある本数を予測!   
卑弥呼の銅鏡100枚=出雲の銅鐸39個+野洲の銅鐸24個+神戸の銅鐸14個+吉備の予測銅鐸数(23個)
出雲の銅鐸数39:出雲の銅剣数358本=吉備の予測銅鐸数23:吉備の予測銅剣数(x個)
                                   吉備の予測銅剣数 x個 = 207本
封印の仕方は?   出雲に準ずるが、横木を横たわせ両端に×状(ペケ・バツ)の杭打ち、
             中央に「五幣」を立てる穴!!!   (神社本殿の屋根上から類推)
      銅鏡を置く台座(銅鐸から銅鏡への新旧交代と、銅鏡で銅剣や銅鐸を封印する意)
その谷奥で、 『その剣、その荒神に、二度と持たせてはならない!』、と言って卑弥呼が“封印させた”大量の銅剣が1700年余りの眠りに就いている。
  卑弥呼本人が封印した? 或いは、その縁故者か? はた又、そのお弟子さんか?
(牛車・角隠し・姫路とか姫街道の地名あり。 
→後の大名行列・稚児行列・嫁入り行列・御輿・山車・等に変化移行か?)  
                               口 ( ・・・ ~ 2008.01.11)


 (余談そのⅠ) 共通・類似文化の 「共通類似地名」について、
前に、出雲と吉備の地には、類似共通地名がたくさんあると言いましたよね。その「大量の銅剣に関係する類似地名の1つ「仏教山」について言及してみましょう。

  出雲・「仏教山」→ 吉備・「経山」→ 神戸・「坊主山」→ 野洲・「妙光寺山」
これ等の山は、大量の銅剣が埋めてあった出雲。及び大量の銅剣が埋めてあると類推する他の地の、谷間をつくる一方の山名です。 出雲の仏教山は、もちろん仏教に関係する地名。
そして「吉備のお経やま。神戸の坊主やま。野洲の妙光寺やま」も、このように筆記するとすべて仏教に関係してきます。野洲の妙光寺山の「妙」は、仏教用語のようです。荒神(竜神)文化へ仏教がどのように絡んできたかは今後の課題ですが、出雲の「仏教山」は、出雲に4つある “神奈備山”の1つで、一説に天を支えるための山だそうです。 これ等の山名が卑弥呼の昔から付いていたとは思えませんから、何か山の名前を変えるほどの強力な社会制度の変換や意識改革があったのでしょう。

神戸で面白い山名・地名を見つけました。「油コブシ・625m」。油コブシとは一体なにを意味するのでしょうか?、この山の南に先の坊主山・376m。南西に天望山・482m。北に六甲山・815mがありますから、雨乞い儀式で、「こぼした油」に火でも付けて慈雨の有無でも占ったのでしょうか? そして「西山谷」があります。出雲でも「西谷・サイタニ」。吉備でも「西谷」がありました。 さらに「黒五谷」。この黒・五谷のなかの1つに、大量の銅剣が埋めてあると予測している「大月地獄谷」があります。「黒」というのは何か陰をイメージします。 吉備でもありましたよね「黒尾地区・西谷」。それが何故『西でなければならないのか』についてのヒントは、次の記事の「出雲・弓ヶ浜の成因」で述べています。 すこし脇へ逸れましたが、このように地名だけからでも『大量の銅剣の埋め地』を推理することが出来ます。
                                      つづきます・・、

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史実探偵: 平 素人 | URL | 2007-11-27-Tue 06:33 [EDIT]
44よっちゃん75さん> コメント置き、ありがとう。
あなた「女王卑弥呼」大好きのようだね。わたしも大好き(笑)、でもあなたの「ヒミコ」と、わたしの「ひみこ」は違うみたい。 次回のコメントは当ブログと関係あるコメントにしてネ。でないと、消してしまわないとならないから・・、

平 素人(ヒイラ モト) | URL | 2007-12-27-Thu 22:43 [EDIT]
39ニート7段さん> わたしのブログは閑古鳥も鳴いているからコメントうれしいよ、でもなぁ~、
よいお年を!
六尺三寸 | URL | 2007-12-30-Sun 12:46 [EDIT]
年の瀬も近づく12月になってブログを始めて、はやくもお友達ができてうれしいです。いつもコメントありがとうございました。来年もがんばりましょう!
「閑古鳥」も採集しようかと思いましたが・・・、やっぱりやめておきます。



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