('16/3/29)
本日をもってこの記事を終えます。一ヶ月ほどのお付き合いありがとう御座いました^-^。
尚、記事の全ては関連しています。カテゴリー別でみるとご覧になり易いかも知れません。
←お勧めは、「史実探偵局」です^^!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<銅鏡の入魂遺構(その)歴史の移り変わり>
「かぐや姫伝説」本当にあった!
時の帝(みかど)が満月の夜、かぐや姫を迎えにきた使者を阻止するために
(銅鏡)月に向かって矢を放ったというもの。その矢射台(仮称)があった!
<倉敷市船穂に銅鏡の入魂遺構あり>の記事、その後
“本年(2015)の冬至の朝” に、倉敷市船穂に集って下さるよう前々の記事で呼びかけた。
二十数年来、奥州市の I.先生を除いて、何方様からも相手にして貰ってはいない^^!。
今回も、「駄目だろうなぁ~」と思うが、万が一のお人があった場合のためにその下準備
だけは、詰めておきたい。12月に入って“冬至の朝”ではないが、船穂の神戸に立って
東方のどの位置から朝陽が昇るのか確かめておきたい思いがあった。以前の調査では、
自分の思っていた神戸→向山公園ラインより、20度角ほど南に振っていたように思う。
東の空には雲がかかり都合よく明けてはくれない。タイミングが合わない。
倉敷市・向山>の稜線から昇る朝日が拝めない! 旧庄屋宅のそばの池の土手に立てば、
谷の右手の山に隠れて全く見えない。谷の左側中腹にある宝満寺あたりに上ってみると、
細長い向山を外れて、その南に見える小高い山のあたりから昇っているように思えた。
<倉敷市・ 足高神社へ!>
その小高い○○山へ行ってみた。
前述の思いから12月のとある日に、その○○山へ行ってみた。名前こそ知らないがその山は、東西に走る国道2号線の南わきにあり、そのわきを通るたび、社寺の建物は見えないが、なにかの社寺があるのは知っていた。国道工事で削り取ったのであろうか、その北側は、かなり急峻している。そこへ行けば何か教えてくれるかも知れない思いからだ。
<○○山 ←鬼山?>
小高い山(標高63 m)にあるその神社の名前は、足高神社。山の北側から上るとその道は、かなり急で道幅も狭く乗用車のすれ違いも難しいほど。晴れてはいるが肌寒い土曜日の朝、途中二・三組のハイカーとすれ違う。頂上は意に反して起伏こそあるがかなり広いと言える。案内版を見れば、社寺のほかに、遊園地、ちょっとしたグラウンド、頂上の一段高い展望台、屋根付きの休憩所、等々、山の周囲が市街化してゆくなか、健康志向の人達の穴場^^!であろうか、その人たちが散々と上ってくる。平野部に孤立した山の山上部からは、木立を通してではあるが360度、倉敷市街が見渡せる。手入れも十分行き届いており是非のお勧めだ。駐車場は数台と、十台余りが停められる二ヶ所がある。
<探索、その1>
まずは、山上の展望所へ、小広いながら一段と高い山頂は展望台として整地されてはいるが周囲の木立が邪魔をしてよく見えない。ので筆者一番の関心事であった西方へ下りていった。途中樹齢こそ若いが植樹されたヤブ椿の花のトンネルを抜けてゆく。この赤色のヤブ椿は、その昔、農事呪縛の木とされた桜と並んでいたと筆者は(別紙の報告書で)認識しているから要注意だ。「なぜ、それを植えたのですか」と。その先に四角い中国風の穴窓がある屋根付きの休憩所がある。中に、二列の丸太様のいすが設えてある。まずは一服^^! 周囲を見渡すと幼児の乗馬風の遊具の基礎であろうかが残っている。枯れ葉の季節ではあるが筆者の欲していた西方の<船穂町神戸>が確認出来ない。 望遠鏡をもってくれば良かった。
・・・さてと、帰るとするか。 ・・・・・・、
< 気になる立石!?>
と、何気なくその広場の西方の端に立つと、急峻した下方に自然石風の立石がみえる。このような石は、総社市・経山の探索(別記事)で、経験したことがある。2mに近いその石の下にはハセ石があって明らかに人手があったと記憶している。何んのためにかは判らなかったが。今回もそれがあるのではないかと降りてみた。ハセ石はないようだ?。・・が、明らかに割り砕いたあとがある。説明が難しいので写真を入れるといいのだが、約1m四方の立場石と、それに沿って前方に50cmほど小高くした二つの囲い石がある。その囲い石は立場での落下防止か? それにしては低すぎる。
(↓入れました^^!)

さらに同様の石組み(下の写真の左上隅)が、その下にあった。このような石組が1ヶ所だけなら、何かの偶然かも知れない。しかし、同様なものが2ヶ所となると、それは重要な意味をもってくる。祈祷の場所か?? そして降り口からこの2ヶ所をつなぐように、今は崩れてはいるが上り下りを易くするような階段石もころがっている。しかし、その方向性は、筆者の欲していた<船穂の神戸>より、かなり右手方向の北に振っている? 分からない。解からない。心無い人が記念にと何字かを刻んでいる石もある。史学がこの “二組の足場石”を認識している(?)とは思えないほど荒れている。(後で宮司さまに聞けば、二条岩、三条岩と呼ばれているとのこと。)

・・・、足高神社へお参りすれば何かを教えて下さるかも知れない。・・・、
<足高神社>
祭神は、正面に天照大明神、向かって右手に足高大明神、バチ当たりが先か、ボケが先かは知らないが左手の大神様は覚えていない~~!。 上がった所は神社の正面に向かって右からであった。そこに以外というか成るほどなというか、小さな( m)土俵が設えてある。建屋はなく露天である。小さいと感じたのは大人が実際に相撲をとれる大きさでないこと。 さりとて、幼児ならとれそうだが、その不思議は周りに観客席用の空地が無いことだ。それを伺わなければなるまいが、何かの象徴的な神事のためかも知れない。昨日今日の設えではなく、近年の設えでもない。きれいに掃き清められていて遠い昔から大事に受け継がれたかの風雨のあとが見える。南側の正面にまわり拝殿より、その神殿をおがむ。拝殿の正面には大きな銅鏡が飾られてある。
今上天皇・皇后様のお写真もあり、その御座位60周年を記念してお出でになったもよう。その記念樹の楠木も植えてあった。全国数ある神社のなかで天皇・皇后の両陛下がお出でになるとは、かなりの名刹なのであろう。おどろくべきは、その境内を一周しても寒風、落葉の季節ではあるが、箒目のあとがたち落ち葉一つ落ちてはいない。その信仰の深さが伺える。近年の改修も含めてかなりの数の寄進の石柱が立っている。覚えているなかでは、白楽町や四十瀬、の地名があった。
<足高神社その不思議>
以下は、筆者がその神社を訪れた時、直感的に感じたものの覚えであり大きな間違いや観察違いがあるかも知れないことをあらかじめお断りしておきます。
その 1. 鳥居がない不思議
拝殿から振り返って、言い換えて拝殿を背にして南方向を眺めれば遠くの山すそと山すそが合う谷間を眺めており、その視界をさえぎるモノは一切無い。普通、神社といえば鳥居があるものだが、上部に横たえる石状のものはなく、石段の上がり口の左右に丸い石柱がズドンと立ててあるだけ。左右の狛犬も無かった?(後日訪れると有りました^^! )ように思うし、その見通しをさえぎりそうな木々は途中で伐採されている。不動産業に「お宮の前に、お寺の後ろ」という言葉があるが、そこは買い手がつき難いというもの。これも何かの意味があるのかも知れない。
その 2. 足高神社その立地場所の不思議
一般的に言えば人家の密集した倉敷市の中央にある鶴形山の阿智神社のほうが知名度は高い。足高神社は、その倉敷中心街より2kmほど離れたところにあり、今では新興の住宅が増えつつあるが、その昔は田園地帯に周りを囲まれ、わずかに高い南側の山すその旧人家だけであり、阿智神社に比べると圧倒的に閑散として(ゴメンナサイ^^!)その氏子数は少ないと思うが、その足高神社が何故に天皇家の訪れを受けるほどの古刹なのか?
その 3. 足高神社その方角性の不思議
足高神社は、平地にあり東西およそ700m。南北がおよそ250mほどの孤立した山。高さは標高63mであった。<前述記事で銅鏡の入魂遺跡ありとした>船穂町の神戸を基点とした東西線から約20度角ほど南へ振っている。前々の記事の図にかえり、高量山を基点にその角度を測ってみると、約20度角ほど北へ振っている。ということは、足高神社の山の西端と、高量山・高徳寺と、旧庄屋宅は一直線上に並ぶ。しかしながら、先の立石を囲んでいる二つの縁石の中央を延長して眺めると、船穂町神戸をはるかに外れた北寄りになってしまう。・・・・・なにかが間違っている。 (後で調べると、北寄りと思ったのは間違いで、ほぼ西方向でした。good^^!)
その 4. 足高神社その名の不思議
足高神社とは、妙な名前である。神聖とされる神社に足の字を付けるのが解せない。体の部位では足は、一番下にあり一般的に、足には下等のイメージがある。なのに何故? 広場の脇に<葦高小学校>の記念樹が植えてあった。<足高>が先か<葦高>が先か? 普通に考えれば、葦の名をイメージの悪い足の字に変えて神社名にはしない。 ・・ ・・・、まてよ ・・・・、
ことの本質には、「 冬至の日の出光、光陰矢のごとし!」 がある。
絵本で見たことがあるが、かぐや姫を月からの使者が迎えにくる時、それに抗って時の帝が満月に向かって矢を放たせた。 つまり、冬至の旭光がその先に設置してある銅鏡に届くように、
その“高く設えた縁石は、矢を遠くへ射るために片足を高くのせるための台であった”のだ。
「 足高神社の由来石!」 右利きの人なら、その縁に左足を乗っけて天に向かって矢を放つ!
なぁ~んだ。ご先祖様からの伝言は、そのままに受け取ればよかったのだ。その立石が2基あるのは一人では心もとないから、一の矢、次の矢と強く撃ちたいと考えたからだ! 勿論、その放たれた矢が○km先の高徳寺までとどきはしないが、形式的な儀式として行っていたと考えられる。
<高梁川河口周辺地図>
・・ を載せたいのですが、仮図として^^!、
旧庄屋宅 ←
船穂町神戸 (北)
高量山・高徳寺 ↑
← 高梁川(川幅ほぼ600m)
向山
←
鬼山・足高神社
<足高神社その昔>
足高神社のある山は、その昔は葦に囲まれた島であった。周りは海であるからして放たれた矢は海に落ちてしまうが象徴的な行事として行っていたのである。海だったことを語るのに、笹沖とか○○新田の地名が周囲にある。その中に<鬼山>の地名があり、山の頂部にある貯水搭の脇の電柱にも鬼山分とあった。その島の昔は、そのように(今でも?)呼ばれていたのであろうか。それはそれで鬼に関わる別の歴史があったのかも知れない。
<別の日の朝、日の出の位置を確認>
本年の冬至('15/12/22)は、まだこないが、日の出がどの位置から昇るのか確かめにいった。まずは、なにものにも遮られない高梁川の土手の上でその日の出を待っていた。その日は快晴。その日の出は、思っていた鬼山・足高神社から、さらに南に外れた場所から昇ってきた。時間をみておくはずだったが、見忘れてしまった(モノ忘れ& ボケが始まっている。 汗~)。 たぶん、7時20分前後ではなかったかと思っている。
<ここで、つぎのような地球の軸振り運動の話をしておこう>
今年のいつ頃だったが、覚えていないが、イヌイットの長老がNASAへ出した手紙がニュースになったことがある。「地軸が傾いて、若い頃の日の出の位置と、今とでは、その上る位置が変わって来た」 というものであった。地軸には歳差運動があってコマの軸のように振れているのは既知の事実であるが、長老の一代で確認できるほどのものかがニュースになったのである。全くもっての素人判断であるが、緯度によって、つまり極にいくほど大きく振れるのではないでしょうか?(^^!) 以前に、ウエブで調べて、その素人計算をしたことがあった。全くあてにならない数字だと思うが、70年に、1度角ずれていくとの答えであった。観測する緯度にもよるが、仮に15歳で観測した日の出の位置と、85歳で観測する日の出位置が1度角のずれであれば、人知では確認できない。しかし、それが700年、1400年の歴史を経ると10度角、20度角とその位置は変わって行くのである。おおざっぱな数字で申し訳ありませんが、徐福来訪が今からおよそ2200年前、卑弥呼が今からおよそ1700年前、さらに時を経て神代(かみよ)の歴史が続いて行く。・・・ ・・・、
<今回の日の出の調査では>
船穂町神戸を基点として
高徳寺・高量山
向山(公園辺りか?)を基線として、
↓
鬼山・足高神社
↓
(2015/12月)今現在の日の出位置へと移動している。
※仮に、その間を10度角+10度角の20度角にしても<神戸→高量山→向山>ラインは、
1400年前となる。是非に史学、天文学での正確な数字を出して頂きたい。
もう一つお願いがあります。
史学がこの足高神社 の“二組の足場立石”を認識しているとは思えない。大枚をかけて公園様に整備されてはいるが、その立石のある西端は荒れている。もし、そうであれば、なにやらの名を付けて復元して頂きたい。きっと大きな“観光遺産”になり得る^^。私は、かつて、総社市の<鬼の城きのじょう>の復元の後先を訪れたことがある。その前は、石ころさえもありやなしやの山林と化していた。素人目には、かつてそのような遺跡があろうなどとは小指の先ほどにも思えない所であった。専門家の考査に、驚きと敬服を覚えた記憶がある。それに比べると今度は簡単。それと、気付きさえすれば、素人目にも判る(笑い)。
<その確認>
足高神社西端から放たれた矢(=冬至の日の出光)は、どこを狙って射ていたのか?
船穂の高徳寺を訪れた時、妙な違和感を覚えていた。小高く盛られたお寺へあがる時の門が、“鐘つき堂”となっていたのである。「妙だな」と、思いながらも、今に至っていた。しかし、この度、ひょっとして、その矢は、その鐘つき堂を狙っているのではないか? ・・・、その思いは的中した! その鐘つき棒は、外から内へ向かっていた! 筆者がその形式を知らないだけかも知らないが、総社のお稲荷さま等は、内から、外へ打っていた?ように思う。さらに、先の出雲の記事の冬至の光道ラインに、<鐘築>の地名が残っている。 それが今では、煩悩を落とすとか、時を知らせる時報の歴史へと変わっている^^!。蛇足ながら、前々(環状木柱列・ウッドサークル)記事の富山県桜町遺跡、石川県チカモリ遺跡にも同様な石組みがあると予測出来る。近場のあなた、興味のある貴方さまがいらっしゃったら是非の探索をお勧めします^^♪。
(この記事を終えるにあたって)
「 かぐや姫伝説の月(銅鏡)に向けて矢を放つは史実であった!!」
この『祖先からの伝言』が貴方さまに伝わらない。初めからいえば、これ等の広報に27年あまりをついやして来た。この実績のない素人がこの先、幾数の駄文を連ねようと専門家の認証がなければ世間さまは納得しない。「足高」とは、変な付名だなぁ~と 子ども心に思ったことが誰にもあるはずだ。その一語に何故?なぜ?なぜを重ねてゆけば、より大きな歴史へと繋がって行く。「足高」の付名の現存は何人も否定することが出来ない。もし、この「足高」の歴史を否定する貴方さまがおられたら「足高神社」にお参りして、頭(コウベ)を垂れそのお頭(オツム)にたまった<現史学のスス> を宮司さまに、お払いして貰らえば^^!、 きっと、ご先祖さまからの真言は見えてくる。 もう、この素人探偵の力では、とても無理だぁ~~、お願いします<困ったときの神(足高神社さま)頼みぃ>^^!
('15/12/10) □
史実 を 探偵する : 平 素人(ヒイラ モト)、 拝
'16/4/24 ○○様> 本日は、ありがとうございました。 拍手に感謝します。^-^♪
'16/3/27 & 4/2, うさぎ様> コメントありがとうございます^-^♪
真夜中の訪問者さまへ>
更新のないときにも関わらず、何故? 毎日訪問してくださるのですか?
子ども心なら残っているのですが、自分ながらの、長駄文に魅力があろうはずもなく、
「なぜに、毎日に?」 の疑問がぬぐえません^^?。 ありがたいことです(深礼)。
広報を始めて28年ちかくになりますが、どうしたら、この報告書が世間様に伝わる
のかの謎が未だに解けません。疲れました。この上は駄文を連ねるではなく。 「実行
あるのみ」 かとも思います。あなた様の思いを<杖>として、がんばります。
・・・・・、つづきます ^-^!。
本日をもってこの記事を終えます。一ヶ月ほどのお付き合いありがとう御座いました^-^。
尚、記事の全ては関連しています。カテゴリー別でみるとご覧になり易いかも知れません。
←お勧めは、「史実探偵局」です^^!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<銅鏡の入魂遺構(その)歴史の移り変わり>
「かぐや姫伝説」本当にあった!
時の帝(みかど)が満月の夜、かぐや姫を迎えにきた使者を阻止するために
(銅鏡)月に向かって矢を放ったというもの。その矢射台(仮称)があった!
<倉敷市船穂に銅鏡の入魂遺構あり>の記事、その後
“本年(2015)の冬至の朝” に、倉敷市船穂に集って下さるよう前々の記事で呼びかけた。
二十数年来、奥州市の I.先生を除いて、何方様からも相手にして貰ってはいない^^!。
今回も、「駄目だろうなぁ~」と思うが、万が一のお人があった場合のためにその下準備
だけは、詰めておきたい。12月に入って“冬至の朝”ではないが、船穂の神戸に立って
東方のどの位置から朝陽が昇るのか確かめておきたい思いがあった。以前の調査では、
自分の思っていた神戸→向山公園ラインより、20度角ほど南に振っていたように思う。
東の空には雲がかかり都合よく明けてはくれない。タイミングが合わない。
倉敷市・向山>の稜線から昇る朝日が拝めない! 旧庄屋宅のそばの池の土手に立てば、
谷の右手の山に隠れて全く見えない。谷の左側中腹にある宝満寺あたりに上ってみると、
細長い向山を外れて、その南に見える小高い山のあたりから昇っているように思えた。
<倉敷市・ 足高神社へ!>
その小高い○○山へ行ってみた。
前述の思いから12月のとある日に、その○○山へ行ってみた。名前こそ知らないがその山は、東西に走る国道2号線の南わきにあり、そのわきを通るたび、社寺の建物は見えないが、なにかの社寺があるのは知っていた。国道工事で削り取ったのであろうか、その北側は、かなり急峻している。そこへ行けば何か教えてくれるかも知れない思いからだ。
<○○山 ←鬼山?>
小高い山(標高63 m)にあるその神社の名前は、足高神社。山の北側から上るとその道は、かなり急で道幅も狭く乗用車のすれ違いも難しいほど。晴れてはいるが肌寒い土曜日の朝、途中二・三組のハイカーとすれ違う。頂上は意に反して起伏こそあるがかなり広いと言える。案内版を見れば、社寺のほかに、遊園地、ちょっとしたグラウンド、頂上の一段高い展望台、屋根付きの休憩所、等々、山の周囲が市街化してゆくなか、健康志向の人達の穴場^^!であろうか、その人たちが散々と上ってくる。平野部に孤立した山の山上部からは、木立を通してではあるが360度、倉敷市街が見渡せる。手入れも十分行き届いており是非のお勧めだ。駐車場は数台と、十台余りが停められる二ヶ所がある。
<探索、その1>
まずは、山上の展望所へ、小広いながら一段と高い山頂は展望台として整地されてはいるが周囲の木立が邪魔をしてよく見えない。ので筆者一番の関心事であった西方へ下りていった。途中樹齢こそ若いが植樹されたヤブ椿の花のトンネルを抜けてゆく。この赤色のヤブ椿は、その昔、農事呪縛の木とされた桜と並んでいたと筆者は(別紙の報告書で)認識しているから要注意だ。「なぜ、それを植えたのですか」と。その先に四角い中国風の穴窓がある屋根付きの休憩所がある。中に、二列の丸太様のいすが設えてある。まずは一服^^! 周囲を見渡すと幼児の乗馬風の遊具の基礎であろうかが残っている。枯れ葉の季節ではあるが筆者の欲していた西方の<船穂町神戸>が確認出来ない。 望遠鏡をもってくれば良かった。
・・・さてと、帰るとするか。 ・・・・・・、
< 気になる立石!?>
と、何気なくその広場の西方の端に立つと、急峻した下方に自然石風の立石がみえる。このような石は、総社市・経山の探索(別記事)で、経験したことがある。2mに近いその石の下にはハセ石があって明らかに人手があったと記憶している。何んのためにかは判らなかったが。今回もそれがあるのではないかと降りてみた。ハセ石はないようだ?。・・が、明らかに割り砕いたあとがある。説明が難しいので写真を入れるといいのだが、約1m四方の立場石と、それに沿って前方に50cmほど小高くした二つの囲い石がある。その囲い石は立場での落下防止か? それにしては低すぎる。
(↓入れました^^!)

さらに同様の石組み(下の写真の左上隅)が、その下にあった。このような石組が1ヶ所だけなら、何かの偶然かも知れない。しかし、同様なものが2ヶ所となると、それは重要な意味をもってくる。祈祷の場所か?? そして降り口からこの2ヶ所をつなぐように、今は崩れてはいるが上り下りを易くするような階段石もころがっている。しかし、その方向性は、筆者の欲していた<船穂の神戸>より、かなり右手方向の北に振っている? 分からない。解からない。心無い人が記念にと何字かを刻んでいる石もある。史学がこの “二組の足場石”を認識している(?)とは思えないほど荒れている。(後で宮司さまに聞けば、二条岩、三条岩と呼ばれているとのこと。)

・・・、足高神社へお参りすれば何かを教えて下さるかも知れない。・・・、
<足高神社>
祭神は、正面に天照大明神、向かって右手に足高大明神、バチ当たりが先か、ボケが先かは知らないが左手の大神様は覚えていない~~!。 上がった所は神社の正面に向かって右からであった。そこに以外というか成るほどなというか、小さな( m)土俵が設えてある。建屋はなく露天である。小さいと感じたのは大人が実際に相撲をとれる大きさでないこと。 さりとて、幼児ならとれそうだが、その不思議は周りに観客席用の空地が無いことだ。それを伺わなければなるまいが、何かの象徴的な神事のためかも知れない。昨日今日の設えではなく、近年の設えでもない。きれいに掃き清められていて遠い昔から大事に受け継がれたかの風雨のあとが見える。南側の正面にまわり拝殿より、その神殿をおがむ。拝殿の正面には大きな銅鏡が飾られてある。
今上天皇・皇后様のお写真もあり、その御座位60周年を記念してお出でになったもよう。その記念樹の楠木も植えてあった。全国数ある神社のなかで天皇・皇后の両陛下がお出でになるとは、かなりの名刹なのであろう。おどろくべきは、その境内を一周しても寒風、落葉の季節ではあるが、箒目のあとがたち落ち葉一つ落ちてはいない。その信仰の深さが伺える。近年の改修も含めてかなりの数の寄進の石柱が立っている。覚えているなかでは、白楽町や四十瀬、の地名があった。
<足高神社その不思議>
以下は、筆者がその神社を訪れた時、直感的に感じたものの覚えであり大きな間違いや観察違いがあるかも知れないことをあらかじめお断りしておきます。
その 1. 鳥居がない不思議
拝殿から振り返って、言い換えて拝殿を背にして南方向を眺めれば遠くの山すそと山すそが合う谷間を眺めており、その視界をさえぎるモノは一切無い。普通、神社といえば鳥居があるものだが、上部に横たえる石状のものはなく、石段の上がり口の左右に丸い石柱がズドンと立ててあるだけ。左右の狛犬も無かった?(後日訪れると有りました^^! )ように思うし、その見通しをさえぎりそうな木々は途中で伐採されている。不動産業に「お宮の前に、お寺の後ろ」という言葉があるが、そこは買い手がつき難いというもの。これも何かの意味があるのかも知れない。
その 2. 足高神社その立地場所の不思議
一般的に言えば人家の密集した倉敷市の中央にある鶴形山の阿智神社のほうが知名度は高い。足高神社は、その倉敷中心街より2kmほど離れたところにあり、今では新興の住宅が増えつつあるが、その昔は田園地帯に周りを囲まれ、わずかに高い南側の山すその旧人家だけであり、阿智神社に比べると圧倒的に閑散として(ゴメンナサイ^^!)その氏子数は少ないと思うが、その足高神社が何故に天皇家の訪れを受けるほどの古刹なのか?
その 3. 足高神社その方角性の不思議
足高神社は、平地にあり東西およそ700m。南北がおよそ250mほどの孤立した山。高さは標高63mであった。<前述記事で銅鏡の入魂遺跡ありとした>船穂町の神戸を基点とした東西線から約20度角ほど南へ振っている。前々の記事の図にかえり、高量山を基点にその角度を測ってみると、約20度角ほど北へ振っている。ということは、足高神社の山の西端と、高量山・高徳寺と、旧庄屋宅は一直線上に並ぶ。しかしながら、先の立石を囲んでいる二つの縁石の中央を延長して眺めると、船穂町神戸をはるかに外れた北寄りになってしまう。・・・・・なにかが間違っている。 (後で調べると、北寄りと思ったのは間違いで、ほぼ西方向でした。good^^!)
その 4. 足高神社その名の不思議
足高神社とは、妙な名前である。神聖とされる神社に足の字を付けるのが解せない。体の部位では足は、一番下にあり一般的に、足には下等のイメージがある。なのに何故? 広場の脇に<葦高小学校>の記念樹が植えてあった。<足高>が先か<葦高>が先か? 普通に考えれば、葦の名をイメージの悪い足の字に変えて神社名にはしない。 ・・ ・・・、まてよ ・・・・、
ことの本質には、「 冬至の日の出光、光陰矢のごとし!」 がある。
絵本で見たことがあるが、かぐや姫を月からの使者が迎えにくる時、それに抗って時の帝が満月に向かって矢を放たせた。 つまり、冬至の旭光がその先に設置してある銅鏡に届くように、
その“高く設えた縁石は、矢を遠くへ射るために片足を高くのせるための台であった”のだ。
「 足高神社の由来石!」 右利きの人なら、その縁に左足を乗っけて天に向かって矢を放つ!
なぁ~んだ。ご先祖様からの伝言は、そのままに受け取ればよかったのだ。その立石が2基あるのは一人では心もとないから、一の矢、次の矢と強く撃ちたいと考えたからだ! 勿論、その放たれた矢が○km先の高徳寺までとどきはしないが、形式的な儀式として行っていたと考えられる。
<高梁川河口周辺地図>
・・ を載せたいのですが、仮図として^^!、
旧庄屋宅 ←
船穂町神戸 (北)
高量山・高徳寺 ↑
← 高梁川(川幅ほぼ600m)
向山
←
鬼山・足高神社
<足高神社その昔>
足高神社のある山は、その昔は葦に囲まれた島であった。周りは海であるからして放たれた矢は海に落ちてしまうが象徴的な行事として行っていたのである。海だったことを語るのに、笹沖とか○○新田の地名が周囲にある。その中に<鬼山>の地名があり、山の頂部にある貯水搭の脇の電柱にも鬼山分とあった。その島の昔は、そのように(今でも?)呼ばれていたのであろうか。それはそれで鬼に関わる別の歴史があったのかも知れない。
<別の日の朝、日の出の位置を確認>
本年の冬至('15/12/22)は、まだこないが、日の出がどの位置から昇るのか確かめにいった。まずは、なにものにも遮られない高梁川の土手の上でその日の出を待っていた。その日は快晴。その日の出は、思っていた鬼山・足高神社から、さらに南に外れた場所から昇ってきた。時間をみておくはずだったが、見忘れてしまった(モノ忘れ& ボケが始まっている。 汗~)。 たぶん、7時20分前後ではなかったかと思っている。
<ここで、つぎのような地球の軸振り運動の話をしておこう>
今年のいつ頃だったが、覚えていないが、イヌイットの長老がNASAへ出した手紙がニュースになったことがある。「地軸が傾いて、若い頃の日の出の位置と、今とでは、その上る位置が変わって来た」 というものであった。地軸には歳差運動があってコマの軸のように振れているのは既知の事実であるが、長老の一代で確認できるほどのものかがニュースになったのである。全くもっての素人判断であるが、緯度によって、つまり極にいくほど大きく振れるのではないでしょうか?(^^!) 以前に、ウエブで調べて、その素人計算をしたことがあった。全くあてにならない数字だと思うが、70年に、1度角ずれていくとの答えであった。観測する緯度にもよるが、仮に15歳で観測した日の出の位置と、85歳で観測する日の出位置が1度角のずれであれば、人知では確認できない。しかし、それが700年、1400年の歴史を経ると10度角、20度角とその位置は変わって行くのである。おおざっぱな数字で申し訳ありませんが、徐福来訪が今からおよそ2200年前、卑弥呼が今からおよそ1700年前、さらに時を経て神代(かみよ)の歴史が続いて行く。・・・ ・・・、
<今回の日の出の調査では>
船穂町神戸を基点として
高徳寺・高量山
向山(公園辺りか?)を基線として、
↓
鬼山・足高神社
↓
(2015/12月)今現在の日の出位置へと移動している。
※仮に、その間を10度角+10度角の20度角にしても<神戸→高量山→向山>ラインは、
1400年前となる。是非に史学、天文学での正確な数字を出して頂きたい。
もう一つお願いがあります。
史学がこの足高神社 の“二組の足場立石”を認識しているとは思えない。大枚をかけて公園様に整備されてはいるが、その立石のある西端は荒れている。もし、そうであれば、なにやらの名を付けて復元して頂きたい。きっと大きな“観光遺産”になり得る^^。私は、かつて、総社市の<鬼の城きのじょう>の復元の後先を訪れたことがある。その前は、石ころさえもありやなしやの山林と化していた。素人目には、かつてそのような遺跡があろうなどとは小指の先ほどにも思えない所であった。専門家の考査に、驚きと敬服を覚えた記憶がある。それに比べると今度は簡単。それと、気付きさえすれば、素人目にも判る(笑い)。
<その確認>
足高神社西端から放たれた矢(=冬至の日の出光)は、どこを狙って射ていたのか?
船穂の高徳寺を訪れた時、妙な違和感を覚えていた。小高く盛られたお寺へあがる時の門が、“鐘つき堂”となっていたのである。「妙だな」と、思いながらも、今に至っていた。しかし、この度、ひょっとして、その矢は、その鐘つき堂を狙っているのではないか? ・・・、その思いは的中した! その鐘つき棒は、外から内へ向かっていた! 筆者がその形式を知らないだけかも知らないが、総社のお稲荷さま等は、内から、外へ打っていた?ように思う。さらに、先の出雲の記事の冬至の光道ラインに、<鐘築>の地名が残っている。 それが今では、煩悩を落とすとか、時を知らせる時報の歴史へと変わっている^^!。蛇足ながら、前々(環状木柱列・ウッドサークル)記事の富山県桜町遺跡、石川県チカモリ遺跡にも同様な石組みがあると予測出来る。近場のあなた、興味のある貴方さまがいらっしゃったら是非の探索をお勧めします^^♪。
(この記事を終えるにあたって)
「 かぐや姫伝説の月(銅鏡)に向けて矢を放つは史実であった!!」
この『祖先からの伝言』が貴方さまに伝わらない。初めからいえば、これ等の広報に27年あまりをついやして来た。この実績のない素人がこの先、幾数の駄文を連ねようと専門家の認証がなければ世間さまは納得しない。「足高」とは、変な付名だなぁ~と 子ども心に思ったことが誰にもあるはずだ。その一語に何故?なぜ?なぜを重ねてゆけば、より大きな歴史へと繋がって行く。「足高」の付名の現存は何人も否定することが出来ない。もし、この「足高」の歴史を否定する貴方さまがおられたら「足高神社」にお参りして、頭(コウベ)を垂れそのお頭(オツム)にたまった<現史学のスス> を宮司さまに、お払いして貰らえば^^!、 きっと、ご先祖さまからの真言は見えてくる。 もう、この素人探偵の力では、とても無理だぁ~~、お願いします<困ったときの神(足高神社さま)頼みぃ>^^!
('15/12/10) □
史実 を 探偵する : 平 素人(ヒイラ モト)、 拝
'16/4/24 ○○様> 本日は、ありがとうございました。 拍手に感謝します。^-^♪
'16/3/27 & 4/2, うさぎ様> コメントありがとうございます^-^♪
真夜中の訪問者さまへ>
更新のないときにも関わらず、何故? 毎日訪問してくださるのですか?
子ども心なら残っているのですが、自分ながらの、長駄文に魅力があろうはずもなく、
「なぜに、毎日に?」 の疑問がぬぐえません^^?。 ありがたいことです(深礼)。
広報を始めて28年ちかくになりますが、どうしたら、この報告書が世間様に伝わる
のかの謎が未だに解けません。疲れました。この上は駄文を連ねるではなく。 「実行
あるのみ」 かとも思います。あなた様の思いを<杖>として、がんばります。
・・・・・、つづきます ^-^!。
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COMMENT
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| | 2016-03-27-Sun 03:42 [EDIT]
| | 2016-03-27-Sun 03:42 [EDIT]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
平 素人 | URL | 2016-03-28-Mon 11:19 [EDIT]
○○様> コメントありがとうございます。久しぶりのコメントです^-^♪。
まず最初にお断りしておかなければならないのですが、これ等の(独自論)報告書を送り続けて2千通たらず、28年なります。いかんせん素人の長駄文では皆様に伝わるべくもなく、その間、奥州市の岩淵先生「縄文超々巨大津波-文芸社」を除いて何方様からも相手にされていません^^!。今後とも、どうぞよろしくお願い致します。
銅鏡は埋められてるものですか?>
銅鐸は、不使用時には(土中保管説)されていたと思いますが、いっぽう銅鏡が埋められるようになったのは古墳時代以降ではと思います。すなわち、首長や祭祀者が「我は太陽神だ」との現神さま的な考えが発生したときから、その死と共に埋められるようになったと考えています。
津波&巨大隕石について>
日本は海に囲まれた国、津波の多くが地震によって発生するのに対し、頻度こそ少ないももの巨大隕石によっても発生しています。ご存知のように有名なもので'恐竜大絶滅'がありました。
これ等についての言及は、当ブログのカテゴリー「巨大隕石&大津波」でしていますので御一読して下されば幸いです。
日御碕近海で海底神殿あり>
とても興味ある事件ですね。この件は、カテゴリー「出雲地方」で言及しています。古代日本史を語るとき、出雲をはずすことは出来ません。なにしろ八百万の神々様が集う所ですからね。
原山遺跡」初めて聞きます。○○様>も、そうですか。こどもの頃の疑問をいまだに抱き続けています(笑い)。わたしの歴史的知識の75%以上は、当ブログに貼ってある 『いずものこころ』から得たものです。すごいお人ですよ!!
ワニ鮫について>
わたしは、ご先祖さまが語った動物達をそのものの実際ではなく、自然事象をたとえた話として受取るようにしています。ワニ、鮫、イノシシ、鹿のつの、鶴、大蛇、大鯨 = 隕石と巨大津波。
ナマズは地下エネルギーですよね^^!。これ等をまとめて「竜は隕石、竜は神」、それを竜と呼んだら伝説で隕石といったら科学ですか?それが科学ならチャンチャラ可笑しい」とご先祖さまがぁ^^!
「古代出雲」は、いまの東京のような “中央都市” 今後の情報、ご教示をお願いいたします。
まず最初にお断りしておかなければならないのですが、これ等の(独自論)報告書を送り続けて2千通たらず、28年なります。いかんせん素人の長駄文では皆様に伝わるべくもなく、その間、奥州市の岩淵先生「縄文超々巨大津波-文芸社」を除いて何方様からも相手にされていません^^!。今後とも、どうぞよろしくお願い致します。
銅鏡は埋められてるものですか?>
銅鐸は、不使用時には(土中保管説)されていたと思いますが、いっぽう銅鏡が埋められるようになったのは古墳時代以降ではと思います。すなわち、首長や祭祀者が「我は太陽神だ」との現神さま的な考えが発生したときから、その死と共に埋められるようになったと考えています。
津波&巨大隕石について>
日本は海に囲まれた国、津波の多くが地震によって発生するのに対し、頻度こそ少ないももの巨大隕石によっても発生しています。ご存知のように有名なもので'恐竜大絶滅'がありました。
これ等についての言及は、当ブログのカテゴリー「巨大隕石&大津波」でしていますので御一読して下されば幸いです。
日御碕近海で海底神殿あり>
とても興味ある事件ですね。この件は、カテゴリー「出雲地方」で言及しています。古代日本史を語るとき、出雲をはずすことは出来ません。なにしろ八百万の神々様が集う所ですからね。
原山遺跡」初めて聞きます。○○様>も、そうですか。こどもの頃の疑問をいまだに抱き続けています(笑い)。わたしの歴史的知識の75%以上は、当ブログに貼ってある 『いずものこころ』から得たものです。すごいお人ですよ!!
ワニ鮫について>
わたしは、ご先祖さまが語った動物達をそのものの実際ではなく、自然事象をたとえた話として受取るようにしています。ワニ、鮫、イノシシ、鹿のつの、鶴、大蛇、大鯨 = 隕石と巨大津波。
ナマズは地下エネルギーですよね^^!。これ等をまとめて「竜は隕石、竜は神」、それを竜と呼んだら伝説で隕石といったら科学ですか?それが科学ならチャンチャラ可笑しい」とご先祖さまがぁ^^!
「古代出雲」は、いまの東京のような “中央都市” 今後の情報、ご教示をお願いいたします。
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| | 2016-04-01-Fri 17:11 [EDIT]
| | 2016-04-01-Fri 17:11 [EDIT]
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平 素人 | URL | 2016-04-02-Sat 22:56 [EDIT]
○○様>コメント有難うございます^-^。
出雲大社の御神体は「三つの山と三つの川」そして、龍脈ですか。初めて聞くお話です。わたしは、祖先からの言い伝えは表現の違いであって、そういった言い伝えのなかに史実が潜んでいると思っています。何故、なぜ、なぜを重ねて深く追求したいものですね・・・^-^?、
出雲大社の御神体は「三つの山と三つの川」そして、龍脈ですか。初めて聞くお話です。わたしは、祖先からの言い伝えは表現の違いであって、そういった言い伝えのなかに史実が潜んでいると思っています。何故、なぜ、なぜを重ねて深く追求したいものですね・・・^-^?、
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