<総社・神明遺跡を推み解く!?> 2016 5 07 記
この記事は、前回(8/19で、 今回 (8/20) の追記で完了しました^^。
ただいま「古代史掲示板」http://8220.teacup.com/toraijin/bbsさまへ、訪って
拙コメントを(30ぐらい)残していますので、よろしかったら、そちらへも どうぞ^^!
尚、当ブログの記事は、全てが関連しています。カテゴリー別で見ると読みやすい
かも知れません。
< 筆者より のお知らせ、>
長い間、駄文へのお付き合いありがとう御座いました^^!
つぎの記事のアップは 9月にはいってからを予定しています。
尚、当ブログの“原本”となる 拙;電子出版 極秘報告書「巨大隕石と大津波」文芸社← は、
本年10/21で契約解除でなくなります。その内容は、天動説のなかで地動説を唱えているようなもの。11年で14冊(泣き笑い)しか売れていませんが、ご入用の方は、お早めにどうぞ^^!
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はじめに
この遺跡の存在を知ったのは、総社市・北斗神社をたずねて前述の鬼ノ城・新山<天空のなごみ茶屋太一や>を訪れたときのこと。「北斗神社の御本尊七社宮の今は、下方の神明神社に移されている」とのこと。そして 、「近時、その近くで銅鐸1個が出土した」とのこと。さらに「その宮司○○さんもここに訪れた」こと。筆者が興味を示すと、つづけて「専門家の発表があると思います。」
(この遺跡の発掘は、筆者が知らなかっただけで銅鐸の出土は'14/8月。ネットで発表済みでした^^!)
(2016 / 5 / 01)
その足で「神明神社」を尋ねて、道も定かでないような細い路地をぬけると田畑にかこまれ、石を二つ三つ積み上げた決して広いとはいえない場所にその小さな神社はあった。造りは拝殿と本殿の一般的な造りで脇神も祀られていたように思う。驚くべきは参道も定かでないようなこの場所であるが手入れが行き届いていること。昨日今日の保守ではないとすぐ分かる。運のよいことに四十がらみ?の宮司さま夫妻が掃除をなさっていた。近所の人も声かけをなさる。その信仰の厚さがうかがえる。聞けば「一日(ついたち)参り」とのこと。今一番逢いたいお人に会えた嬉しさでお掃除中にもかまわず>共通の話題は、今にも消滅しかねないような「北斗神社」から始まった。北斗の意は「北極星」だと教わり、判らなかった「七社宮の七は、北斗七星」とも教わった。さらに、“神明”に繋がる鶏のはなしを出すと「時を告げる一番鳥」で中国からの移入ではと云われる。傍らの保管庫にりっぱなお御輿があった。その頂部に鶏のありやなしやを見ておけばよかった。冬至の旭光の話をだすと「その方面に“日差山”があります」 「いま現在の冬至の日の出は○○山からです」と云われた。
このあたりは、「今は田園となっていますが、その昔には、かなり川幅の広い“宮前?川”が流れていた」とのこと。
( 8/13後述; お御輿の頂部には、筆者が知らなかっただけで、鶏造りが標準のようだ。
ということは、ここ神明遺跡の環状木柱列は、お御輿造りの原型になったようで、冬至の朝の“御来光”の時刻を知るために、「その一番鶏」の鳴き声を目覚めに利用していたかと伺い知ることが出来る。しかし、とあるお御輿をみれば、その四方に鳥居を備えており、「東西南北どこからでもいらっしゃい」 との造りになっているのが解からない?? そのお御輿の中には何を納めているのか? 又々謎が増えた^^?)
銅鐸が出土した遺跡の話にうつり、
「丸い住居あとの中に約30cm大の銅鐸一つが斜めに突き立てられた形」であったという。
この「住居跡?に銅鐸出土」は非常に珍しく、中央の偉い先生もお見えになった。
場所: 神明神社の住所(岡山県総社市福井字神明240)の北側の田園地帯
一宮・総社バイパスの予定地で、
その区間工事中に銅鐸が重機に引っかかり一部が欠けて出土した。
神明神社の現状は、 西、北、東の三方は、稲田や畑に囲まれた田園地帯、
南側は墓地に連なる住家地帯となっている。辺りは農家と新入者の混住地帯。
「その住居あとは住居ではなく朝を告げる鶏を飼っていた唐丸カゴではないのですか」と私。
『竹柱あとにしては、かなり大きな穴痕で、竹柱痕とは考えられない』と宮司さま。
「この、西に御崎神社があります」 と私。
『そうですね。その線と、北の北斗神社と、東の冬至光の線は固いですね』 と、このような話をして別れた。(注: インターネットの発表でも銅鐸の出土が住居域の中か、住居の中であるかは不明?)
<神明遺跡を推み解く>
北斗神社
△経山
↑
御崎神社 ← 柱痕遺跡(銅鐸) → 東の、○○山
神明神社 → 日差山
↓ → 今現在、冬至光の○○山
南方の ○○山
<このような仮説を立てて>
今までの謎解きの経緯( 環状木柱列は銅鏡の入魂施設だ!→myブログ)から 御崎神社→ 柱痕遺跡→日差山の一直線上を考えていたが、地図やGoogle earth等で調べると柱痕遺跡の真東には名前の分からない○○山であった。日差山も、どこを捜しても見つけられない。日差山は、現地(宮司さま)の人しか知り得ない情報なのだ。何故、ご先祖さま達は、何んの特徴もない田んぼのど真ん中にそのような重要と思われる施設をお造りなさったのか? 土地の私有化が進んでいるとは思えないその時期に、それをどこへ置こうが自由勝手~~! そこと定めたのは何かの理由・ワケがあるはずだ。現地に立たなければその意は伝わってこない。
<いざ現地へ>
<北斗神社>(石碑のみ)

↑ △経山373m
△47m← 環状木柱列遺跡(標高13m) →△43m石鎚神社(円形遺跡あり?)
<御崎神社> <神明神社> →△庚申山74m
大梵帝釈天
(Google earthより)
← <日差山>どこにあるのですか?
そこに矢射台石ありや無しや?
△和霊山220m和霊神社
△福山302m
<猿田彦神社>
ご先祖さまは、
①北斗神社(北極星)を真北とし、②南に福山?・和霊山、③真西に御崎神社、④東に石鎚神社or庚申山、の順に定め、 この中心に環状木柱列を置いている。
<環状木柱列を推測する>
これは、住宅施設ではないと断言できる!何故なら銅鐸の出土があるからだ。差障りある銅鐸を住家には置かない(土中保管説)。それが銅鏡でなく銅鐸なのは銅鏡文化より以前であったことを意味する。さらに、その大きさが30cm前後と比較的小さいのは、銅鐸文化の初期あたりのものかと思われる。専門家の解析が楽しみだ。木柱列が何本あったのか筆者は知らない。仮にその本数を8本(or10本)として話を進めると。前述の要領で中心点をきめ適当な円(4~6m)を描く。つぎに真北の方向を 1と決め右回りで8等分にする。北を 1と定めるのは、今の日本建築でもその柱列の番号を北の1から始める。そして、暦においても、真北の子(ネ)の刻から始まっている。
次に、この環状木柱列で最も大切な“入り口”を決める。8等分にした円環を右回転させて行き、暦で云う辰巳(タツミ)の方角(南東)を入り口とし、その2本を決める。この入り口2本の柱は残りの6本より別形状のものを使うか、全8本のなかで入り口として最も格好の良いものを使う。石川県のチカモリ遺跡では発掘;総数350本のうち約250本がカマボコ形に割っていた。入り口の中心線となるのは冬至の日の出光の方角であり、この方角に<日差山>があると断言できる。この入り口 2本に横木を乗せる。これが今で言う止まり木の始まりだ。あとは八方郭風に仕上げて、「御輿の上でコケコッコウと一番鶏が鳴いて」その旭光とともに水神でもある竜神さまが“興し”になるのを待てばいい^^。注意すべきは、その日の出の位置が地球の歳差運動(軸振り運動)で、素人のあてにならない計算ではあるが<70年に 1°角?>南側へずれていくことだ。今の日の出位置から逆算すればその設置年代が絞りこめる。それが何故使用されなくなったかと言うと、日の出位置が年とともにズレていくことと、銅鐸文化から銅鏡文化への変革があったからかも知れない。
木材の使用は、栗材か楠木であろうと思われる。初期にはイガグリ=太陽光の考えから栗材を使用し、後にはさらに腐りにくい楠木に移っていったと思われるが、神明神社の裏手に何やらの木(ゴメンナサイ覚えてなくて^^!)が植えられていたので、その木が使用されていたのかも知れない?。
○
○
○
○
+
○ ◎
入口
◎ 冬至の日の出光
○ <日差山>方向
<銅鐸の埋め方を解く>
そこにあった30cm大の銅鐸のレプリカを持たれ半円部を下に、少し斜めにして
『その中央部で、このようにして埋められていました』と奥さま
この埋め方は、別紙報告書「巨大隕石と大津波」で述解したが、銅鐸は空を飛んだ大隕石形で、その半円部は、その頭。下へ向けるのは大地へ突き刺さる形。少し斜めに向けるのは、その方向から飛んできたことを表す。ゆえに、日差山方向から飛んできてヒレの部分を立てて、埋めてあったと推測します。この埋め方は愛知県の一宮でもあったと記憶しています。ヒレの部分を寝かせて「おとなしく寝ていて下さい」としたのは卑弥呼以後であり、そのようにしていないのは卑弥呼の言うことが、すぐに聞けなかった群郡(こおり)であったかと解いています。
<このあたりの地勢と住環境を考える>
この遺跡の西に「御崎神社」とあることからそこが浅海に突き出た海退時期があったと考えられる。ほかに恩崎の地名もあります。宮司さま>のいわれた、かつての宮前川?の流れの位置や、あたりの標高を勘案する必要があります。これは、ウネウネと曲がった道や、現在に残る川底の高さでも想像推察できますが(現在の標高なら、国土地理院かGoogle earthで調べられます)専門家のトレンチの発表を待ちたいものです。特筆すべきは、この近くの高梁川西岸に<秦>の地名があることです。当時の河口にあり 「徐福たち」のながれをくむ人達がこの一帯の歴史に関わっていることは見逃せません。
<何故、銅鏡でなく銅鐸なのか?>
銅鏡への入射施設とした倉敷足高神社(二条岩三条岩)、又は、総社の経山には冬至の旭日光に擬えてそこから矢を放つ台石があった。日差山 にもその施設があれば、その考えを一昔さかのぼることになる。それがなぜ銅鏡ではなく銅鐸だったのかの謎解きは、(史学)貴方さまにバトンを渡します~~!”。
さて、素人探偵の推理、何が当たって、なにが外れているかが楽しみです。
ここまでで、この記事を終了とします。^^! (2016 / 7 / 27,了)
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次は、
おまけ、<犬墓山>を考える。
【鳴釜神事】 ↓ウエブ吉備津神社より、抜粋
この神事の起源は御祭神の温羅退治のお話に由来します。命は捕らえた温羅の首をはねて曝しましたが、不思議なことに温羅は大声をあげ唸り響いて止むこと がありませんでした。そこで困った命は家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしても唸り声は止まず、ついには当社のお釜殿の釜の下に埋めてしまいましたが、それ でも唸り声は止むことなく近郊の村々に鳴り響きました。命は困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの釜殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに 鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん』とお告げになりました。命はそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れました。これが鳴釜神事の起源であり現在も随時ご奉仕しております。~中略~、そうすると鬼の唸るような音が鳴り響き、祝詞奏上し終わるころには音が止みます。この釜からでる音の大小長短により吉凶禍福を判断します が、そのお答えについては奉仕した神官も阿曽女も何も言いません。ご自分の心でその音を感じ判断していただきます。 以上□
この話を想像も含めた<素人流の創作話>にします。(反意修正大歓迎^^)
今はその昔のこと。この地方は、浅口と呼ばれる水深5~6mの海が広がっていた。近くには(今は)高梁川と呼ばれている大きな河口近くでもあることから汽水を生じ、海や川の幸を比較的簡単に漁獲することが出来た。一方、陸のほうは、平野部が少なく、200~300m低い山々の連なりで麦や黍(キビ)がよく採れることから両備地方と呼ばれるようになった。根菜類はサトイモが主流である。それに貯蔵食物としてドングリも利用された。陸生物はイノシシや鹿、ウサギに加えて鳥類に雉(キジ)もいた。住家はそのワラを屋根にふいた竪穴式住居であった。近年までその麦わらはバッカン真田として帽子やカゴ等に編まれた歴史がある。土器の土質は備前焼きほどによくはないが(倉敷)酒津焼としてその味わいを残している。農具等は木製が主流で樫やこの地方でモロ木と呼ばれているトショウの木を利用していた。それに外してはならないものに、竹材や葦もあった。唯一の欠点は、硬い石を産出しないことぐらい^^!。年間の平均気温は、海進、海退から素人のあてにはならない算出で今より15℃前後高く。種子島・沖縄あたりと同じであったと思われる。降雨は適度にあるが、北に中国山地、南に四国山脈を持つ瀬戸内独特の気候に加えて山間部が多く、時に干天が続き人々飲み水にも困窮することがあった。その時、慈雨のお願いをするのが、この地に西進してきた前述の荒神・竜神・天神・水神さまであった。この地の津波の高さは6~7mであろうか。地鳴りとともに襲来してきた地震の大きさは想像すら出来ない。慈雨との交換に差し出す供物は、私達はこれ以上に大切なものはありません。この幼子の命を煙に変えますから、どうぞ、その煙を雨雲に変え、「慈雨降らし給へや」、までにエスカレートした。
このような文化が永々と続いていたある日に魏の国から、東海の列島に「不老長寿」の薬石を求めに来た“徐福”の分団が現れた。この人達は長生き実証用の多数の童男童女をつれての渡来であった。丸太くりぬき船の縄文人からすれば、西安に等身大の兵馬庸一千体を作り、大船団を操る国との文明差は歴然であった。飲み水や食物や宿の提供に多大の礼品をくれた。中国人にとって相手より少ない返品は、相手の下位に下ったことを意味する^^!。さらに、この人達は祈祷による難病平癒を主としていた列島人に対して、珍しい薬石を見つけそれを試してみたいとの思惑もあることから、薬石治療を施してくれた。ありがたいことである。列島の人々は薬師さま道通さまとして石仏二体として路傍に遺している。唯、この人達、徐福団の中には危うい考えの人もいた。
医食同源の国。他の生命を取り入れることによって自らの命を永らえる考えがあった。(←前述)筆にするのもためらうが、卑弥呼が魏帝に献上した “生口” は、余命長い幼子の命をわが身に取り入れることによって長生きするという考えである。 この考えは、列島にあった 「雨乞い時に、荒神様に幼子の命を献上する」 考えと都合わるく(?)符合した。 このことは、獅子舞、山姥、鬼神伝説として列島の各地に、その言い伝えや風習として残っていると確認して頂きたい。
<ここからが、本題「鳴釜神事」の素人探偵の作り話です^^。>
筆者は、この話の当時、“総社市・鬼ノ城”に住んでいた人達が倭国人か渡来人か、或いは、その合同集団であったかを知らない。この人達は銅鐸・雨乞い文化を継承する人達であった。高い文術を持ち、自然石を組み合わせた巨石の石崖を築き一帯の厄事、難病平癒、雨乞い等に答えていた。その返礼としてのお礼参りが今に残っている、そのなかで、「一歳でお札を受ける」新生児登録(前述、鬼ノ城の謎)を行っていた。雨乞い時の供物に要するためだ。その幼児が「七歳」になるまでに雨乞い等の神事がなければ 「お役御免の厄明け」として、お札を返しに行っていた。その記載をするためとした木簡とかスズリの破片が 鬼ノ城中央の住家跡と思われる所から出土した。このような歴史が続いているある早朝に、海を隔てた総社・中山(現吉備津神社がある所)にいる男児に白羽の矢がたてられた。その男児 「神子として上に差し出せよ!」との社会の決まりだ。これも前述しています。
ところが吉備中山で長(オサ)を務める爺婆には桃太郎と称する勇ましい兄がいて、「かわいい弟・吉備津彦を武力にかえても差し出さない」 と言い出した。(筆者は、吉備津と吉備津彦が “何故、山裾の近くに二つ”との疑問を持っていたことから)吉備津彦神社が 鬼ノ城からみて吉備津さまの南にあり、その後ろで吉備津さまに守られているような気がしてならない。
海を挟んでの矢撃ち合戦から始まる。その中央が、現存の「矢食い石」だ! この戦い桃太郎が優勢に終わり「温羅・うら」の首をはねた。鬼とされる鬼神ではあるが「温羅」の字をあてているのは温かいところもあった羅漢であったと思うのは筆者の思い過ごしであろうか。今でも、鬼ノ城の東端にその石碑が祀られている。ちなみにウラは陰陽に対する裏(陰)の意味からかと思っています。墓に犬の名が絡んでいるのは、当時から狩猟用犬を飼っていて、前述でもしましたが、神子として差し出した愛児を取り返しにくる親を阻むための番犬→狛犬・戦闘犬が関係したのかも知れない。 さて、これで平穏になったかと思いきや社会秩序の崩壊と、ご祈祷を願う相手がいなくなったことから、四方近効の村々はぶつぶつと言って治まらない。そこで“命・みこと、桃太郎”は、ウラのカシラを犬墓山の中腹に“現存する”二基の石墓の一つに晒した。この石台は、筆者がかつての探検で、恐ろしさを感じその頂部をみることが出来なかった所でもあります。
<犬墓山中腹の石墓と石台>(2016/4/24撮影)

それでも中々収まらない。 “桃太郎”は、夢枕にたった温羅 の言に従い、長(おさ)を継ぐことをやめて引退しその没後は霊神となった。さらに、「祝」と呼ぶ温羅の妻の娘「阿曽姫・あそひめ」を遣わして竈(カマド)で御饌米(ごせんまい)を炊く「鳴釜の神事を行いなさい」との言にも従った。そうすれば、わたしは、一使者となって参り給う人々に、鳴釜(米が沸々煮える時に釜の内に共鳴共振してブぉーと鳴る)を告げ、「裕と鳴れば幸」「荒らかに鳴れば禍あり」と霊神(あなた命・ミカド)のお告げを鳴り響かせ四方の民に賞罰を与えるであろう。以来、平和がおとずれ今日に至っている。 以上です^^! □
(注)当時の主産は、麦、ヒエ、粟、キビで、味のよい米は高級品であったと思われる。今に赤色米を残すお人がいる。
その<阿曽>の地名は、今でも鬼ノ城のふもとに残り、近年まで、お釜の修理鋳造や 阿曽女の専出はこの村で行っていたとか。 さて貴方さまは、この素人の作り話を信じますぅ^^?。 それとも吉備津神社のお釜神事に聞きますかぁ(笑い) その詳しくは吉備津神社で御検索を^^! ( 完了)
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< 筆者より >
長い間、駄文へのお付き合いありがとう御座いました^^!
つぎの記事のアップは9月にはいってからを予定しています。
尚、当ブログの“原本”となる 電子出版; 極秘報告書「巨大隕石と大津波」文芸社 は10/21で契約解除でなくなります。
ご入用の方は、お早めにどうぞ^^! といっても 12年の販売で15冊ほどの実績です(泣き笑い)
史実探偵 平 素人 拝、
この記事は、前回(8/19で、 今回 (8/20) の追記で完了しました^^。
ただいま「古代史掲示板」http://8220.teacup.com/toraijin/bbsさまへ、訪って
拙コメントを(30ぐらい)残していますので、よろしかったら、そちらへも どうぞ^^!
尚、当ブログの記事は、全てが関連しています。カテゴリー別で見ると読みやすい
かも知れません。
< 筆者より のお知らせ、>
長い間、駄文へのお付き合いありがとう御座いました^^!
つぎの記事のアップは 9月にはいってからを予定しています。
尚、当ブログの“原本”となる 拙;電子出版 極秘報告書「巨大隕石と大津波」文芸社← は、
本年10/21で契約解除でなくなります。その内容は、天動説のなかで地動説を唱えているようなもの。11年で14冊(泣き笑い)しか売れていませんが、ご入用の方は、お早めにどうぞ^^!
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はじめに
この遺跡の存在を知ったのは、総社市・北斗神社をたずねて前述の鬼ノ城・新山<天空のなごみ茶屋太一や>を訪れたときのこと。「北斗神社の御本尊七社宮の今は、下方の神明神社に移されている」とのこと。そして 、「近時、その近くで銅鐸1個が出土した」とのこと。さらに「その宮司○○さんもここに訪れた」こと。筆者が興味を示すと、つづけて「専門家の発表があると思います。」
(この遺跡の発掘は、筆者が知らなかっただけで銅鐸の出土は'14/8月。ネットで発表済みでした^^!)
(2016 / 5 / 01)
その足で「神明神社」を尋ねて、道も定かでないような細い路地をぬけると田畑にかこまれ、石を二つ三つ積み上げた決して広いとはいえない場所にその小さな神社はあった。造りは拝殿と本殿の一般的な造りで脇神も祀られていたように思う。驚くべきは参道も定かでないようなこの場所であるが手入れが行き届いていること。昨日今日の保守ではないとすぐ分かる。運のよいことに四十がらみ?の宮司さま夫妻が掃除をなさっていた。近所の人も声かけをなさる。その信仰の厚さがうかがえる。聞けば「一日(ついたち)参り」とのこと。今一番逢いたいお人に会えた嬉しさでお掃除中にもかまわず>共通の話題は、今にも消滅しかねないような「北斗神社」から始まった。北斗の意は「北極星」だと教わり、判らなかった「七社宮の七は、北斗七星」とも教わった。さらに、“神明”に繋がる鶏のはなしを出すと「時を告げる一番鳥」で中国からの移入ではと云われる。傍らの保管庫にりっぱなお御輿があった。その頂部に鶏のありやなしやを見ておけばよかった。冬至の旭光の話をだすと「その方面に“日差山”があります」 「いま現在の冬至の日の出は○○山からです」と云われた。
このあたりは、「今は田園となっていますが、その昔には、かなり川幅の広い“宮前?川”が流れていた」とのこと。
( 8/13後述; お御輿の頂部には、筆者が知らなかっただけで、鶏造りが標準のようだ。
ということは、ここ神明遺跡の環状木柱列は、お御輿造りの原型になったようで、冬至の朝の“御来光”の時刻を知るために、「その一番鶏」の鳴き声を目覚めに利用していたかと伺い知ることが出来る。しかし、とあるお御輿をみれば、その四方に鳥居を備えており、「東西南北どこからでもいらっしゃい」 との造りになっているのが解からない?? そのお御輿の中には何を納めているのか? 又々謎が増えた^^?)
銅鐸が出土した遺跡の話にうつり、
「丸い住居あとの中に約30cm大の銅鐸一つが斜めに突き立てられた形」であったという。
この「住居跡?に銅鐸出土」は非常に珍しく、中央の偉い先生もお見えになった。
場所: 神明神社の住所(岡山県総社市福井字神明240)の北側の田園地帯
一宮・総社バイパスの予定地で、
その区間工事中に銅鐸が重機に引っかかり一部が欠けて出土した。
神明神社の現状は、 西、北、東の三方は、稲田や畑に囲まれた田園地帯、
南側は墓地に連なる住家地帯となっている。辺りは農家と新入者の混住地帯。
「その住居あとは住居ではなく朝を告げる鶏を飼っていた唐丸カゴではないのですか」と私。
『竹柱あとにしては、かなり大きな穴痕で、竹柱痕とは考えられない』と宮司さま。
「この、西に御崎神社があります」 と私。
『そうですね。その線と、北の北斗神社と、東の冬至光の線は固いですね』 と、このような話をして別れた。(注: インターネットの発表でも銅鐸の出土が住居域の中か、住居の中であるかは不明?)
<神明遺跡を推み解く>
北斗神社
△経山
↑
御崎神社 ← 柱痕遺跡(銅鐸) → 東の、○○山
神明神社 → 日差山
↓ → 今現在、冬至光の○○山
南方の ○○山
<このような仮説を立てて>
今までの謎解きの経緯( 環状木柱列は銅鏡の入魂施設だ!→myブログ)から 御崎神社→ 柱痕遺跡→日差山の一直線上を考えていたが、地図やGoogle earth等で調べると柱痕遺跡の真東には名前の分からない○○山であった。日差山も、どこを捜しても見つけられない。日差山は、現地(宮司さま)の人しか知り得ない情報なのだ。何故、ご先祖さま達は、何んの特徴もない田んぼのど真ん中にそのような重要と思われる施設をお造りなさったのか? 土地の私有化が進んでいるとは思えないその時期に、それをどこへ置こうが自由勝手~~! そこと定めたのは何かの理由・ワケがあるはずだ。現地に立たなければその意は伝わってこない。
<いざ現地へ>
<北斗神社>(石碑のみ)

↑ △経山373m
△47m← 環状木柱列遺跡(標高13m) →△43m石鎚神社(円形遺跡あり?)
<御崎神社> <神明神社> →△庚申山74m
大梵帝釈天
(Google earthより)

← <日差山>どこにあるのですか?
そこに矢射台石ありや無しや?
△和霊山220m和霊神社
△福山302m
<猿田彦神社>
ご先祖さまは、
①北斗神社(北極星)を真北とし、②南に福山?・和霊山、③真西に御崎神社、④東に石鎚神社or庚申山、の順に定め、 この中心に環状木柱列を置いている。
<環状木柱列を推測する>
これは、住宅施設ではないと断言できる!何故なら銅鐸の出土があるからだ。差障りある銅鐸を住家には置かない(土中保管説)。それが銅鏡でなく銅鐸なのは銅鏡文化より以前であったことを意味する。さらに、その大きさが30cm前後と比較的小さいのは、銅鐸文化の初期あたりのものかと思われる。専門家の解析が楽しみだ。木柱列が何本あったのか筆者は知らない。仮にその本数を8本(or10本)として話を進めると。前述の要領で中心点をきめ適当な円(4~6m)を描く。つぎに真北の方向を 1と決め右回りで8等分にする。北を 1と定めるのは、今の日本建築でもその柱列の番号を北の1から始める。そして、暦においても、真北の子(ネ)の刻から始まっている。
次に、この環状木柱列で最も大切な“入り口”を決める。8等分にした円環を右回転させて行き、暦で云う辰巳(タツミ)の方角(南東)を入り口とし、その2本を決める。この入り口2本の柱は残りの6本より別形状のものを使うか、全8本のなかで入り口として最も格好の良いものを使う。石川県のチカモリ遺跡では発掘;総数350本のうち約250本がカマボコ形に割っていた。入り口の中心線となるのは冬至の日の出光の方角であり、この方角に<日差山>があると断言できる。この入り口 2本に横木を乗せる。これが今で言う止まり木の始まりだ。あとは八方郭風に仕上げて、「御輿の上でコケコッコウと一番鶏が鳴いて」その旭光とともに水神でもある竜神さまが“興し”になるのを待てばいい^^。注意すべきは、その日の出の位置が地球の歳差運動(軸振り運動)で、素人のあてにならない計算ではあるが<70年に 1°角?>南側へずれていくことだ。今の日の出位置から逆算すればその設置年代が絞りこめる。それが何故使用されなくなったかと言うと、日の出位置が年とともにズレていくことと、銅鐸文化から銅鏡文化への変革があったからかも知れない。
木材の使用は、栗材か楠木であろうと思われる。初期にはイガグリ=太陽光の考えから栗材を使用し、後にはさらに腐りにくい楠木に移っていったと思われるが、神明神社の裏手に何やらの木(ゴメンナサイ覚えてなくて^^!)が植えられていたので、その木が使用されていたのかも知れない?。
○
○
○
○
+
○ ◎
入口
◎ 冬至の日の出光
○ <日差山>方向
<銅鐸の埋め方を解く>
そこにあった30cm大の銅鐸のレプリカを持たれ半円部を下に、少し斜めにして
『その中央部で、このようにして埋められていました』と奥さま
この埋め方は、別紙報告書「巨大隕石と大津波」で述解したが、銅鐸は空を飛んだ大隕石形で、その半円部は、その頭。下へ向けるのは大地へ突き刺さる形。少し斜めに向けるのは、その方向から飛んできたことを表す。ゆえに、日差山方向から飛んできてヒレの部分を立てて、埋めてあったと推測します。この埋め方は愛知県の一宮でもあったと記憶しています。ヒレの部分を寝かせて「おとなしく寝ていて下さい」としたのは卑弥呼以後であり、そのようにしていないのは卑弥呼の言うことが、すぐに聞けなかった群郡(こおり)であったかと解いています。
<このあたりの地勢と住環境を考える>
この遺跡の西に「御崎神社」とあることからそこが浅海に突き出た海退時期があったと考えられる。ほかに恩崎の地名もあります。宮司さま>のいわれた、かつての宮前川?の流れの位置や、あたりの標高を勘案する必要があります。これは、ウネウネと曲がった道や、現在に残る川底の高さでも想像推察できますが(現在の標高なら、国土地理院かGoogle earthで調べられます)専門家のトレンチの発表を待ちたいものです。特筆すべきは、この近くの高梁川西岸に<秦>の地名があることです。当時の河口にあり 「徐福たち」のながれをくむ人達がこの一帯の歴史に関わっていることは見逃せません。
<何故、銅鏡でなく銅鐸なのか?>
銅鏡への入射施設とした倉敷足高神社(二条岩三条岩)、又は、総社の経山には冬至の旭日光に擬えてそこから矢を放つ台石があった。日差山 にもその施設があれば、その考えを一昔さかのぼることになる。それがなぜ銅鏡ではなく銅鐸だったのかの謎解きは、(史学)貴方さまにバトンを渡します~~!”。
さて、素人探偵の推理、何が当たって、なにが外れているかが楽しみです。
ここまでで、この記事を終了とします。^^! (2016 / 7 / 27,了)
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次は、
おまけ、<犬墓山>を考える。
【鳴釜神事】 ↓ウエブ吉備津神社より、抜粋
この神事の起源は御祭神の温羅退治のお話に由来します。命は捕らえた温羅の首をはねて曝しましたが、不思議なことに温羅は大声をあげ唸り響いて止むこと がありませんでした。そこで困った命は家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしても唸り声は止まず、ついには当社のお釜殿の釜の下に埋めてしまいましたが、それ でも唸り声は止むことなく近郊の村々に鳴り響きました。命は困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの釜殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに 鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん』とお告げになりました。命はそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れました。これが鳴釜神事の起源であり現在も随時ご奉仕しております。~中略~、そうすると鬼の唸るような音が鳴り響き、祝詞奏上し終わるころには音が止みます。この釜からでる音の大小長短により吉凶禍福を判断します が、そのお答えについては奉仕した神官も阿曽女も何も言いません。ご自分の心でその音を感じ判断していただきます。 以上□
この話を想像も含めた<素人流の創作話>にします。(反意修正大歓迎^^)
今はその昔のこと。この地方は、浅口と呼ばれる水深5~6mの海が広がっていた。近くには(今は)高梁川と呼ばれている大きな河口近くでもあることから汽水を生じ、海や川の幸を比較的簡単に漁獲することが出来た。一方、陸のほうは、平野部が少なく、200~300m低い山々の連なりで麦や黍(キビ)がよく採れることから両備地方と呼ばれるようになった。根菜類はサトイモが主流である。それに貯蔵食物としてドングリも利用された。陸生物はイノシシや鹿、ウサギに加えて鳥類に雉(キジ)もいた。住家はそのワラを屋根にふいた竪穴式住居であった。近年までその麦わらはバッカン真田として帽子やカゴ等に編まれた歴史がある。土器の土質は備前焼きほどによくはないが(倉敷)酒津焼としてその味わいを残している。農具等は木製が主流で樫やこの地方でモロ木と呼ばれているトショウの木を利用していた。それに外してはならないものに、竹材や葦もあった。唯一の欠点は、硬い石を産出しないことぐらい^^!。年間の平均気温は、海進、海退から素人のあてにはならない算出で今より15℃前後高く。種子島・沖縄あたりと同じであったと思われる。降雨は適度にあるが、北に中国山地、南に四国山脈を持つ瀬戸内独特の気候に加えて山間部が多く、時に干天が続き人々飲み水にも困窮することがあった。その時、慈雨のお願いをするのが、この地に西進してきた前述の荒神・竜神・天神・水神さまであった。この地の津波の高さは6~7mであろうか。地鳴りとともに襲来してきた地震の大きさは想像すら出来ない。慈雨との交換に差し出す供物は、私達はこれ以上に大切なものはありません。この幼子の命を煙に変えますから、どうぞ、その煙を雨雲に変え、「慈雨降らし給へや」、までにエスカレートした。
このような文化が永々と続いていたある日に魏の国から、東海の列島に「不老長寿」の薬石を求めに来た“徐福”の分団が現れた。この人達は長生き実証用の多数の童男童女をつれての渡来であった。丸太くりぬき船の縄文人からすれば、西安に等身大の兵馬庸一千体を作り、大船団を操る国との文明差は歴然であった。飲み水や食物や宿の提供に多大の礼品をくれた。中国人にとって相手より少ない返品は、相手の下位に下ったことを意味する^^!。さらに、この人達は祈祷による難病平癒を主としていた列島人に対して、珍しい薬石を見つけそれを試してみたいとの思惑もあることから、薬石治療を施してくれた。ありがたいことである。列島の人々は薬師さま道通さまとして石仏二体として路傍に遺している。唯、この人達、徐福団の中には危うい考えの人もいた。
医食同源の国。他の生命を取り入れることによって自らの命を永らえる考えがあった。(←前述)筆にするのもためらうが、卑弥呼が魏帝に献上した “生口” は、余命長い幼子の命をわが身に取り入れることによって長生きするという考えである。 この考えは、列島にあった 「雨乞い時に、荒神様に幼子の命を献上する」 考えと都合わるく(?)符合した。 このことは、獅子舞、山姥、鬼神伝説として列島の各地に、その言い伝えや風習として残っていると確認して頂きたい。
<ここからが、本題「鳴釜神事」の素人探偵の作り話です^^。>
筆者は、この話の当時、“総社市・鬼ノ城”に住んでいた人達が倭国人か渡来人か、或いは、その合同集団であったかを知らない。この人達は銅鐸・雨乞い文化を継承する人達であった。高い文術を持ち、自然石を組み合わせた巨石の石崖を築き一帯の厄事、難病平癒、雨乞い等に答えていた。その返礼としてのお礼参りが今に残っている、そのなかで、「一歳でお札を受ける」新生児登録(前述、鬼ノ城の謎)を行っていた。雨乞い時の供物に要するためだ。その幼児が「七歳」になるまでに雨乞い等の神事がなければ 「お役御免の厄明け」として、お札を返しに行っていた。その記載をするためとした木簡とかスズリの破片が 鬼ノ城中央の住家跡と思われる所から出土した。このような歴史が続いているある早朝に、海を隔てた総社・中山(現吉備津神社がある所)にいる男児に白羽の矢がたてられた。その男児 「神子として上に差し出せよ!」との社会の決まりだ。これも前述しています。
ところが吉備中山で長(オサ)を務める爺婆には桃太郎と称する勇ましい兄がいて、「かわいい弟・吉備津彦を武力にかえても差し出さない」 と言い出した。(筆者は、吉備津と吉備津彦が “何故、山裾の近くに二つ”との疑問を持っていたことから)吉備津彦神社が 鬼ノ城からみて吉備津さまの南にあり、その後ろで吉備津さまに守られているような気がしてならない。
海を挟んでの矢撃ち合戦から始まる。その中央が、現存の「矢食い石」だ! この戦い桃太郎が優勢に終わり「温羅・うら」の首をはねた。鬼とされる鬼神ではあるが「温羅」の字をあてているのは温かいところもあった羅漢であったと思うのは筆者の思い過ごしであろうか。今でも、鬼ノ城の東端にその石碑が祀られている。ちなみにウラは陰陽に対する裏(陰)の意味からかと思っています。墓に犬の名が絡んでいるのは、当時から狩猟用犬を飼っていて、前述でもしましたが、神子として差し出した愛児を取り返しにくる親を阻むための番犬→狛犬・戦闘犬が関係したのかも知れない。 さて、これで平穏になったかと思いきや社会秩序の崩壊と、ご祈祷を願う相手がいなくなったことから、四方近効の村々はぶつぶつと言って治まらない。そこで“命・みこと、桃太郎”は、ウラのカシラを犬墓山の中腹に“現存する”二基の石墓の一つに晒した。この石台は、筆者がかつての探検で、恐ろしさを感じその頂部をみることが出来なかった所でもあります。
<犬墓山中腹の石墓と石台>(2016/4/24撮影)

それでも中々収まらない。 “桃太郎”は、夢枕にたった温羅 の言に従い、長(おさ)を継ぐことをやめて引退しその没後は霊神となった。さらに、「祝」と呼ぶ温羅の妻の娘「阿曽姫・あそひめ」を遣わして竈(カマド)で御饌米(ごせんまい)を炊く「鳴釜の神事を行いなさい」との言にも従った。そうすれば、わたしは、一使者となって参り給う人々に、鳴釜(米が沸々煮える時に釜の内に共鳴共振してブぉーと鳴る)を告げ、「裕と鳴れば幸」「荒らかに鳴れば禍あり」と霊神(あなた命・ミカド)のお告げを鳴り響かせ四方の民に賞罰を与えるであろう。以来、平和がおとずれ今日に至っている。 以上です^^! □
(注)当時の主産は、麦、ヒエ、粟、キビで、味のよい米は高級品であったと思われる。今に赤色米を残すお人がいる。
その<阿曽>の地名は、今でも鬼ノ城のふもとに残り、近年まで、お釜の修理鋳造や 阿曽女の専出はこの村で行っていたとか。 さて貴方さまは、この素人の作り話を信じますぅ^^?。 それとも吉備津神社のお釜神事に聞きますかぁ(笑い) その詳しくは吉備津神社で御検索を^^! ( 完了)
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< 筆者より >
長い間、駄文へのお付き合いありがとう御座いました^^!
つぎの記事のアップは9月にはいってからを予定しています。
尚、当ブログの“原本”となる 電子出版; 極秘報告書「巨大隕石と大津波」文芸社 は10/21で契約解除でなくなります。
ご入用の方は、お早めにどうぞ^^! といっても 12年の販売で15冊ほどの実績です(泣き笑い)
史実探偵 平 素人 拝、
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