「ここ掘れワンワン^^♪」 コミニティ作成2021/6/03

Nice to meet you. My name is Anzu.
You must dig here. bow wow^^.
お宝捜しをしませんか^^?
少年心(こども心)と遊び心から、素人探偵を名乗っています。
ほんとは歴史のこと、な~んも知らんのです^^!
だから、史実の探偵を・・・^^!、私の主目的は、・・・・・・??、
【332】ここに卑弥呼が埋めた未掘の銅鐸23±α個が1700年の眠りについている!!
岡山県総社市岩屋寺金堂の崖上の均地中央(写真目印)

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↓以下、他ブログへの投稿記録です^^。
[2] 学問にない巨大隕石の形
投稿者: 平 素人(ヒイラ モト) 投稿日:2018年 5月10日(木)04時49分17秒
こんばんわ^^? こちらへもおじゃまします^^。
https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs?page=18&
会報7号、まだ、その緒しか見ていませんが「すごすぎる!」とかの論評しかできません。
ぜひに、より多くの専門家の人達に読んでもらいたいと思います。私は、岩淵先生におねだりして^^! その御本を釜石鉱山(株)の太田さまに展示して下さるようにと送付しました。なぜなら、坑道見学の学童たちにも見ておいてもらい、わたしと岩淵先生がかかげ広報している「肝沢扇状地をつくった大事変」について、将来を担う少年少女たちに託しておきたい思いからです。私達の存命中にはならない思いがあります。わたし経由でも、直接にでもいいですが、御氏の会報もそれに加えて頂けませんか^^? 「衝突隕石体の内部が観察できる」しかも、その事変を近い祖先が実体験して地名等にのこしていることに大きな意味があります。
その、少年少女たちへ、
「巨大隕石」の形にはいろいろあって、火星の惑星衝突による大擦過痕。オリンパス山は巨大隕石。金星の惑星衝突でできた緊張収縮痕。等々(拙:絶版報告書より)今の学問にはないことを伝えておきたい^^!
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-81.html
[5] Re: クレーター形状
投稿者: 平 素人(ヒイラ モト) 投稿日:2018年 5月12日(土)06時13分40秒
管理人さんへのお返事です。お早うございます。
> ここ数日お話してきたクレーター状地形が、半月型になる原因について調べてます。
いろいろに考えてみました^^!。自転追っかけ型で衝突体が柔らかい場合は??
この場合だと衝突方向に“逆U字地形”がありか・・・??
> まず、真上から落下した場合のクレーター実験はこちらです。
> http://www.hosizora.miyakyo-u.ac.jp/labo/paper/2001suda.pdf#search=%27クレーター+形状%27
この問題は古くて(火山口か隕石口か?)、新しい(多角形口)問題ですね^^。
私は、衝突地形が圧倒的に円形が多いのは、「銃弾の弾痕は斜めでも正面でも全て円形に
なる説」に加えて,その引力圏に捕らえられた小天体の衝突軌道の多くは、斜めに進入して
も最終的力関係で、二次曲線の頂点のようになるのでは?? と思っています^^!。つまり、
動いているものは食べにくいので、箸という圧倒的引力でつかまえる?
この問題はシモさまのほうがぁ~~^^!
[7] Re: 隕石2
投稿者: 平 素人(ヒイラ モト) 投稿日:2018年 6月11日(月)05時29分43秒
> 隕石2 投稿者:山田 投稿日:2018年 6月10日(日)22時08分41秒
南極に隕石ごろごろというのは、氷中に保存された隕石が特別なメカニズムで氷上に浮き出てくるからだそうです。南極に集中して隕石落下が多いというのでもなさそう。
> 平さんおっしゃる南極へ巨大隕石の飛来というのは、おもしろいけど証明むずかしそうですね。
始原隕石を分析すると、太陽系は約45.7億年前誕生のようです。
写真は、隕石結晶のスペクトル分析か?
山田さまへ> コメントありがとう御座います^^♪。
「古代史掲示板」から、こちらの方へ移転させて頂きました。
さっそくですが「南極大陸に巨大隕石が」ではなくて、「南極大陸の全部が恐竜大絶滅をおこした衝突惑星なのです」
この広報を30年前からやっていますが、今では存命中は無理と諦めが先にたっています^^!。「南極大陸に巨大隕石が衝突し南極の氷が溶けて巨大津波が」なら10年か20年前の新聞ニュースにのったこともありますし。今では「巨大隕石による巨大津波が地球の90%を覆った」等の映画も制作されているようです。また間氷期によって氷上に落ちた隕石がよせ集められたのを南極の日本隊が発見した」とのニュースも思い出されます。
表記のような極大論を「極秘報告書:巨大隕石と大津波」の題で文芸社から電子出版しましたが10年余りで14冊しか売れなかったので、契約が切れて'17/10/21で絶版となりました^^!。どの一つをとっても素人でも分ること。『気づき』さえすれば簡単なことばかりですが、現科学を鳥類の刷込みのように刷り込まれた人々にとっては感覚的に受け入れられないようです。受入れられなければ受け入れられないほど「事は大きいのだ」と我が意を慰めています(泣き笑い)。
報告書11,000bitをこす長駄文のすべてをあげる分けにはいきませんが、myブログでもその要旨を載せています。ご参考にして下さい。地球の90%を覆った巨大津波については、今ではGoogle Earth や Yahoo!地図と中学生地図があれば簡単に確認できます。
<Big Game>http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-15.html
これが世に伝わらない理由の一因は、中坊(中学生)程度の論説だからと思っています。学識に長けた方の参加がない限り世には伝わりません。今後のご教示と参加・広報のほど、よろしくお願い申し上げます。
<対蹠地>http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-date-201002.html
南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ! -1
https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs/11
投稿者: 平 素人(ヒイラ モト) 投稿日:2018年 6月12日(火)
> No.9[元記事へ]
わたし素人が、あれこれという(説明する)前に皆さんで、次の“絶対条件”を与えて
<何が起きるかを>捜してみませんか?
一つ 南極大陸は、衝突惑星である!
二つ 約6,500万年前のことである!
三つ 現在の地球状態を否定しない。
この三つのうちの、どの一つを否定しても、この Big Game には参加できません。
先様がたのコメントをお待ちします^^。
管理人さまへのお返事です。コメントありがとう御座います^^。
「南極大陸の起源」について、絶版になった拙:報告書の一節を紹介します。
(尚、この一節は、30年前の1988/01/11に各所へ送記したものです^^!)
南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ!-2
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2018年 7月11日(水)
Big-Game を再開します^^。
巨大隕石はどこに落ちたか(恐竜大絶滅を起こすほどの)
> 2-2 海上と考える場合
> 海は広い。未知の部分が多い。しかし、その分だけ可能性は高くなる。円形の海は、といえばメキシコ湾ぐらいである。今までに数多くの人たちが捜しているのに見つかってはいない。人より、別の場所を捜さねばなるまい。
> そうだ! 氷で隠されている。南極、南極ではないのか? あったア !! 南極大陸の上ではなくて南極大陸そのものが、まあるい形をしていた。背筋から頭に戦慄が走った。それが図17で、各々の限界線は落下時の波紋に見えた。違いない。これに違いない。
> 南極大陸の概要 へとつづく・・・絶版:電子出版書「巨大隕石と大津波」p229より
<Gig-Game>
> わたし素人が、あれこれという説明する前に皆さんで、次の三つの絶対条件を与えて
<何が起きるかを>捜してみませんか?
> 一つ 南極大陸は、衝突惑星である!
> 二つ 約6,500万年前のことである!
> 三つ 現在の地球状態を否定しない。
> この三つのうちの、どの一つを否定しても、この Big Game には参加できません。
> 先様がたのコメントをお待ちします^^。
「問」、 「貴方のいう南極大陸サイズの惑星が衝突したら、地球は破壊・破滅しませんか?」
衝突惑星体の試算 = 南極大陸の面積×平均海洋深さ3750m× 2 ≒ Φ3500km
×2 は、マントルに浮く大陸の考えからです。月の直径がおよそ、3700kmですから、
これでは、少し大きすぎるようなのでゲームでは<Φ3000km>としておきましょうか^^?
「答え」
もし、地球が火星のように冷たくて固い惑星なら<先様の考えは正しい。
もし、地球が金星のような熱して固まる前の惑星ならトッポリと埋まりこんでしまう。
地球は、その中間で固いのは外殻の100kmほどであり例えれば卵のようと申し上げました。
「次に」 このサイズの惑星が南極に衝突したときに発生する 巨大津波の痕跡!!!
一番わかりやすい南米大陸から申し上げましょう。中学生地図を用意して下さい。
「なんですって^^」こども心といっしょに、遠の昔に捨てました」ですってぇ。それは残念^^!
このとき発生した津波は地球の90%以上を覆ったと申し上げました。→ 北上した津波は、
アンデス山脈とブラジル高地に挟まれたアルゼンチンを駆け抜けます。このような山間をさっとうした津波が駆け抜けるときの特徴として、その入り口近くの表土を削り取り湿地帯にすることがあります。ロサリオあたりや、パラグァイあたりに、それがあることを認めて下さい。そして、マットグロッソ高原の北へ流された扇状の形状にも注意して下さい。この広大で夥しい土量を考えるとき<津波>以外の通常の風雨気象では決して出来はしない。リオデジャネイロの海岸に「その時の<濁泥流>に周囲を削られた山があります」といっても、あなた様は信じることが出来ますか^^? さらに、ブラジル高原の堆積土のなかに衝突惑星のあんこが飛出しドロリ形状の自然金がいっしょに流されている」といっても信じることができますかぁ^^?
学識の高い貴方さまが これに“気付けば” より多くが見えてくる。
「信じるとは、人が言うと書く」人が言うことほどアテにならないことはない。(笑い)
反論をお待ちします。その反論は「この論」の不備を正して、より、この論を強くします。
南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ!-3
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2018年 8月 8日(水)
> No.86[元記事へ]
> 6500万年前、大惑星が南極に衝突し、その時発生した巨大津波は地球の90%以上を覆った。
Big-Game を再開しました^^!。
その時発生した巨大津波は、南半球の三大大陸をすべてカバーしている!!!
> → 北上した津波は、
アンデス山脈とブラジル高地に挟まれたアルゼンチンを駆け抜けます。このような山間をさっとうした津波が駆け抜けるときの特徴として、その入り口近くの表土を削り取り湿地帯にすることがあります。ロサリオあたりや、パラグァイあたりに、それがあることを認めて下さい。そして、マットグロッソ高原の北へ流された扇状の形状にも注意して下さい。この広大で夥しい土量を考えるとき<津波>以外の通常の風雨気象では決して出来はしない。
リオデジャネイロの海岸に「その時の<濁泥流>に周囲を削られた山があります」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%82%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB
そして、ブラジル北部には、下流域に出来る白い砂漠(石英・塩湖)もありました。
https://blog.goo.ne.jp/sekai-kikoh-2007/e/fe727007e3ecbe1a3bde58c49035c646
コメントをお待ちします^^。
南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ!-4
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2018年10月14日(日)
> No.87[元記事へ]
6500万年前、月よりわずかに小さい大惑星が南極に衝突し南極大陸として残った。
その時、発生した巨大津波は地球の90%以上を覆った。
Big-Gameを (myブログより移設^-^!) 再開します^^!。
→ その時、北上した巨大津波は、南半球の三大大陸をすべてカバーしている!!!
<オーストラリア大陸の地形>
ⅰ オーストラリア大陸の南部の海岸線は削り取られ概ね単調なのに対し、大陸の北側の海
岸線が複雑なのは、南からの巨大津波によって形造られたものだ。
大陸の南部は津波によって削り取られ北部の海岸線へ押し流されている。
ⅱ 東部山脈と西部山地に挟まれた大鑚井(さんせい)盆地は、南からの巨大津波によって削
り取られ盆地状(湿地帯)になったものであり、その地下水には多量の塩分(海水)が含ま
れている。(ハの字地形を巨大津波が通り過ぎる形態は南米大陸でも申し上げました)
まさか貴方様は、『そこは、昔は海だった』等とは云わないでしょうね^^?
大讃井盆地の地下水は、巨大津波が残した海水である。
ⅲ 巨大なモナドノックは、その時の大泥流で周囲や頂部を削り取られたものだと断言できる。
カタ ジュタ Kata Tjuta (The Olgas) 別名エヤーズロックとも言う。
それは、南極からの衝撃で噴出した岩体が大泥流によって周囲を削り取られたものだ。
(to My Report)ウルル Uluru(Ayers Rock 863m)
ⅳ オーストラリア大陸は5大陸中で最も低いモナドノック状態。その全域は、南からの巨大
津波によって削り取られ、グレートデバイティング山脈の頂上部をわずかに残すのみか。
オーストラリア大陸は5大陸の中で最も低い。平均高度約340mのモナドノック状態。
ⅴ 大陸の東西に続いている堆積土の鞍部は、この時の津波が造った波状痕だ。
この鞍部の成因は、通常の風雨作用では考えにくく、宇宙人が築いたものだとした学説が
紹介されたことがありました^^!。
ⅵ 大陸の多数の砂漠は津波が成したものだ。
その砂漠で世界最大(60kg?)という自然金が見つかっている~~。
この自然金は大惑星のアンコ(内核の金属部分)が飛びだしたものだとしました。
であるならば、延性の強い金のこと。遠くへは流されず大陸を囲む海嶺の
南斜面にへばり付いているかも^^?。ちなみに、ギュヨー斜面にへばり付いて
いるコバルトリッチクラフト。太平洋海底の大量のマンガン塊、オパール塊、
希土類等も、その時の巨大津波が運んだものと謎解きしています。(拙報告書)
この赤道付近に大量のMn塊や、SiO2塊は、ずいぶん悩みましたねえ^^!。
「なぜ北太平洋の突き当り部まで流されなかったか」と、この答は意外と簡単でした。
地球はまるく、川幅でいえば赤道部分は最大幅となり、津波の流れが弱くなる川下の
様相を示していた。しかし、まあるい形のアンモナイトなんかは、よく転がるので
ベーリング海付近まで流されています。 太平洋を取り巻く海や北極海の海底がその時
の津波で運ばれた堆積土で浅くなっていることも注視して下さい。
別段ながら、
ソ連は、その時流された海生物達が石油となって埋蔵しているアラスカを、米国に
知らずに売ってしまった。米国ではその時高値で買ったと非難されたが後で大儲け^^。
ちなみに、海生物成因の石油は、陸生物土成因の石油に対して質が良いんだよねえ。
ⅶ タスマニア島の南部は削られて北へ流されている。
<Others>
海に沈んだギュヨー(平頂海山)と、大陸棚
これ等は一時期、陸上か浅海であったとされています。素人のおおよそ計算ですが、南極海の水深を約3700mとして南極大陸の面積が押しのけた海水量を全海洋面積で割ったら170mほどの答えになったかな? その数字の正誤は別として考え方は当たっていると思いますよ^^。拙:報告書より、
その他、植物相や進化の異なり等、筆者の知りえないことがたくさんあると思いますよ。
<ニュージーランド>
ⅰ ニュージーランドの全島は、津波で削られた巨大なモナドノックだ。
ⅱ ニュージーランド島から北へ流れ出している5筋の海底の筋痕は、その時の津波の速さと
威力を物語っている。
<ニューギニア島>
ⅰ ニューギニア島の南部平野は、この時の堆積土だと断言できる。
ⅱ こんな所は流された魚類や恐竜が石油化したものがあるんだよね♪ → to My Report
<巨大な渦巻きパンダ海>
オーストラリア大陸を乗り越えた巨大津波と東インド洋から回り込んだ巨大津波は、パンダ海
に直径約○○キロメートルの巨大な左巻きの渦巻き地形を造っている。
バンダ海は津波が造った巨大な渦巻きだ。
<津波の島影に出来る清水域>
流れが障害物に突きあたる時、この場合はオーストラリア大陸ですが、その障害物の岩や島
の後ろに渦巻きが出来ることがある。その流れが速ければ速いほど、その島影は清水域とな
り、元々そこに棲んでいたものは流されないで居つくことがある。インドネシアの海のどこ
やらにはシーラカンスがいましたよね^^。
<津波の島影に運ばれた魚貝類>
セイロン島の地形がその時の巨大津波によって、北に流された形をしていることは以前申し上げましたが、セイロン島とインド半島との間にはかつて陸橋があり石灰土でなっているとか。巨大津波の性質として貝類(石灰)を一ヶ所に積み上げることがあります。フィリピンや、海南島(ハイナン島)北の、大陸奥深くにある桂林の石灰も「その時の巨大津波が運んだものですよ」と言ってもあなた様は信じられないでしょうね。キット^^!。
「信じるという字は、人が言うと書く。人が言うことほどアテならないことはない(笑い)」
その史実に“気付けば”中坊(中学生)でも判るほど簡単なことだ! 史実探偵:平 素人より
以上、皆さんはいくつ見つかりましたか。ほかにも沢山見つけられたのでしょうね。きっと^^、
それとも・・・・~~!、 コメントをお待ちします^^。
南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ!-5
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2018年10月23日(火)
> No.148[元記事へ]
前記事のつづきです。
6500万年前、月よりわずかに小さい大惑星が南極に衝突し南極大陸として残った。
その時、発生した巨大津波は地球の90%以上を覆った。
Big-Game (の一部を myブログより移設^-^!) 再開します^^!。
→ その時、北上した巨大津波は、南半球の三大大陸をすべてカバーしている!!!
<アフリカ大陸の90%以上を覆った巨大津波> part Ⅲ.
The huge tsunami covered up 90% higher than of the African continent.
65 million years ago ! The dinosaur size extinction !
副題 Subtitle: 地球の氷河期痕跡説を覆す!
I overturn a trace theory for a glacial epoch of the earth,
赤道近くまで氷河の痕跡がある?? 子供心は、ヨッポド)その方が信じられない^^。
氷河と津波が造る地形の決定的な違いは、氷河では険しく津波では丸くなることだ…
この記事は前述の巨大津波が造る地形(モナドノック・残丘)に、関連して掲げています。
<地球の90%以上を覆った巨大津波>part Ⅱ. からのつづきです。引き続きのゲーム
感覚で楽しんで頂ければ幸いです。
< Big Game-1.の第Ⅲステージ > 上級編^^ Upper grade
< その巨大津波は地球の90%以上を覆っていた。>
貴方の(好奇心)子ども心をチェックします^^。
I check your curiosity.
私の掲げる“二つの大事変”が、いかに史実であろうとも貴方が首を縦に振らない限り、
それは史実として認定されない。
It is not recognized being to when "large incident" which I advocate will be a historical fact how as a historical fact unless you nod either. At that time, let's meet you once again after becoming !!
<セカンド ステージⅡの オーストラリア大陸> からのつづきです・・・
↓ ↓
Yes,の人(子ども心が残っている人^^) No,の人(子ども心を喪失した人^^!)
貴方は好奇心が残っています 貴方は好奇心を喪失しています
(現状をなんか変?と思う心の人) (現状がいい^^?と思う人)
Curiosity is left to you. You lose curiosity. ↓ ↓
貴方は次のステージへ進むことが出来ます。 私は貴方にこのビッグゲームからリタイヤ
You can advance to the next stage. することをお勧めします(^^!) ↓ I suggest to you to retire from this big game.
Welcome to the Third stage. ^^♪
Ⅲ.<サード ステージ>('12 Jan. 01 )
<アフリカ大陸を南から北へ乗り越えた巨大津波>
The huge tsunami which got over the African Continent from the south to the
north
(質問・Question 3) その痕跡を探して列挙せよ! 2012 Jan. 01
Enumerate the traces
(答え・Answer)
貴方さま>も、探してくださいね!
この第3ステージは、ここに掲げている地図だけでは、その“巨大津波が造った痕跡”は捜しづらいと思いますので、お手持ちに詳細地図がありましたら、どうぞ、そちらもご参照ください。^^!
<年初に (拙論への評価について)思うこと> 2012 Jan.03
上を願えばきりがなし、しょせん多少は我が決めること、我には当千のブログ友あり^^♪。
正月は死出の旅路の一里塚、足跡残ればそれでよし、さて、今年も遊びましょうかぁ(笑)
{ 昭和三十年代の思い出 }
その頃の日本経済の国際的評価は1ドル360円でした。お年玉で千円も貰えば御の字^^♪ さて何買おうか? 甘いものや、おもちゃ漫画雑誌なら普段に買える。当時の少年の欲しかった三種の神器に「天体望遠鏡・顕微鏡・地球儀」が有りました。それを買って貰えるのは一部の子供だけで有り、一般の子が二千円三千円と貯めたお金で買える代物ではない。天体望遠鏡はどうにか懸賞で(弟が^^)手に入れましたが、顕微鏡と地球儀は大人になっても買えずじまいの買わずじまい。映画等の背景小物としての地球儀はカッコいいですよねえ。しかしながら、普段の一般家庭では、どこに置こうかと、その置き場所に困るほど。その地球儀が「世紀を動かす大論」の小道具になろうとは思ってもみませんでした。私・素人は、その解明に(ブログ記事のどこやらに潜ませて有ります。)学童教材用の地球儀を用いましたが、見かねた妻が外国製の中に電気が点くものを買ってくれました(笑い)。
to <Rさん>へ
地球儀の値段は、当時も今も大して変わっていないのですね。それを観ながら宇宙飛行士気分での謎解きも、又、オツなもの^^♪ 今後ともよろしくお願いいたします。
(2012 /1/05/記)
ⅰ アフリカ大陸の南端・喜望峰周辺に多くのモナドノック・残丘がある。
ええ、私はこの形を実験で証明できますよ。満ち潮の前に頂部までが浸らない高さの
砂山を盛り上げておくと波が引いた後にこの地形が出来る。こんな子供だましのよう
な実験では現科学は、おろか貴方さま迄が納得してくれない。アハハのトホホ・・・^^!)
ライオンズヘッド(海抜669m)
ライオンズヘッドは、南極からの大泥流が削った巨大なモナドノックだ !
The Lions head is the huge monadnock which a great mud flow from the
South Pole sharpened. & Table Mountain to. (height; 1087m)
(2012 /1/06/記)
ⅱ ボツワナ盆地は、表土の全てを削ぎ取られ北へ流されている。
(カラハリ砂漠は2~3波以降の津波が成したものだろう。)
I chip all of surface soil and am taken, and the basin of Botswana is carried
away to the north.
(2012 /1/07/記)
ⅲ 巨大津波が盆地の上を通り過ぎるとき、その上流域の半分に土石を運ぶことがある。
※ この地形は、ファーストステージのアマゾン盆地でも見ている。
コンゴー盆地の南部域に津波が運んだその堆積土がある。
There is the sullage which a tsunami carried to the southern level of the
Congo Basin.
(2012 /1/10/記)
ⅳ 巨大津波はチャドを通過し、エミクシ山(3415m)をわずかに残しチベスチを高原状に
造り替えている。
チャドを通過した巨大津波は、チベスチを高原状に造り替えている。
The huge tsunami via Chad converts the Tibesti in the shape of a
plateau.
他方、大西洋を “小溝のごとく”に北上した巨大津波は、ギニア湾岸に突き当たり、陸地奥深く入り込みその表土を削り取って西サハラ砂漠をつくり、タハト山(2918m)をわずかに残して、
アハガルを高原状にした。
ギニア湾から北上した巨大津波は、アハガルを高原に変えた。
The huge tsunami which went north from Gulf of Guinea changed Ahaggar into
the plateau.
(2012 /1/12/記)
ⅴ 巨大津波は、アフリカ大陸のほとんどを覆いつくし、その表土を剥ぎ取り台地状の
サハラ砂漠を造っている。
この巨大な津波を語るとき、わずか2メートルにも満たない人間の感覚を用いてはならない。
<石英の砂粒は、水流によってのみ出来る>のであって、決して風や乾燥気候だけでは
出来はしない。乾燥した土壌は風塵にはなっても大きさが均一な石英砂はつくらない。
巨大津波はアフリカ大陸の殆んどの表土を剥ぎ取った。そしてその土砂は台地状のサハラ砂
漠を造った。
The huge tsunami stripped off most surface soil of the African Continent.
And the earth and sand formed the Sahara of the form of plateau.
私達は、この膨大な砂量の成因を「乾燥によって成した」と教え込まれ “思い込んで”きた。
この問題は卵が先か 鶏が先か と言うほどの難しい問題ではない。
「砂漠が先か?乾燥が先か?」を、 子ども心に還ってもう一度考えてほしい。
Did desert create dry climate? Or did it turn into desert in dry climate?
Please reconsider it once again.
私は小学校の時に習いました。岩石は川で流され、段々小さくなって川下で砂粒に成ると。
もし、貴方が砂粒は、乾燥気候や風や、海流の作用で出来ると思っておられるならばそのメカニズムを私素人に教えてほしい。一度、砂で覆われたら、その下の岩石が砂になり砂量を増してゆく様子が想像出来ない。(^^!)
再度言う。このサハラ砂漠(アフリカ北部砂漠)は、乾燥や風の作用で出来たのではない。
サハラ砂漠は台地状の砂漠であり、この膨大な砂量の『台地状地形』は、通常の河川作用では出来ない。 “台地状”の言葉をキーワードとして前舞台へ忍ばせておきましたが、お気づきになってましたかぁ→“台地状”の砂漠って“なんか変?”だと(^-^)。
通常の河川作用では、台地状の砂漠は出来ない。
By the normal river action, the desert of the form of plateau is not made!.
ええ、私は、この津波が造った台地状・端部と濁流紋の航空写真を見付けました。
<・・信じられなぁ~い !??? 只今、困惑中??? → お先にどうぞ♪>
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-date-201201.html
(2012 /1/15 記)
追記UPがないにも関わりませずの日々のご訪問ありがとう御座います^^。
その写真をUPしようとしているのですがPC素人の私には四苦八苦の難行苦行?
丸一日かけても上手く出来ない。前に出来たことが今出来ない。よく覚えていない。
覚えられない。同じところで同じ失敗を何度もくり返し先へ進めない。おまけに大事な
データまで消してしまう。 あ~~ぁっ、ため息がでちゃう・・・ そんなド素人は、
ホッタラカシテ、お先にどうぞ!
【その写真・地図の閲覧の仕方】
Yahoo!のトップ画面で → 東日本大震災に関する情報 → 放射線情報 → 日本地図 → 縮小する → マウスの左押しで → 西へ数回スクロール → ギリシャ・イタリア辺りへ届いたら → 南のアフリカ大陸へ → そこにはサハラ砂漠を始めとする数々の大砂漠が広がっています。 → 衛星写真・地図の拡大縮小 → 目の錯覚^^? 反転錯視? 思い込み? 順流逆流、等の目を駆使すれば(笑) → アフリカ大陸を覆いつくし、アハガル高原やチベスチ高原に乗り上げ、乗り越した “6500万年前の巨大な濁流痕” が<現科学>を認じる貴方さま>にも見えるかも知れない。
(2011 / 1/18) 三日がかりでやっと載せることが出来たのが次の写真です。(^^!)
この写真は、写真経由なので解像度が悪くなってしまいました。後日に掲載します^^!
その後は、Google Earth で、観ています。ワケワカラン英語を併記しているのは世界への発信です^^!
つづく^^ ~ to be continued ^^.
>
> 以上、皆さんはいくつ見つかりましたか。ほかにも沢山見つけられたのでしょうね。きっと^^、
> それとも・・・・~~!、 コメントをお待ちします^^。
南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ!-6
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2018年10月23日(火)
> No. [元記事へ]
1988/01/11に各所へ第一報を発信して30年をこえました。^^!)
前記事<アフリカ大陸>のつづきです。
6500万年前、月よりわずかに小さい大惑星が南極に衝突し南極大陸として残った。
その時、発生した巨大津波は地球の90%以上を覆った。
myブログのカテゴリーBig-Game の一部より移設して再開します^^!。
→ 赤道越えの巨大津波は、北半球にもその削過痕跡を残していた!!!
<北アメリカ大陸の90%以上を覆った巨大津波> part Ⅳ.
The huge tsunami covered up 90% higher than of the African continent.
65 million years ago ! The dinosaur size extinction !
副題 Subtitle: 地球の氷河期痕跡説を覆す!
I overturn a trace theory for a glacial epoch of the earth,
次のステージは、前のⅠ~Ⅲステージがクリヤーできた方のみにお願いします^^!
Ⅳ.<フォース ステージ> ('12 Feb. 01 )
You Good ! Welcome to the fourth stage. ^^♪
<アメリカ大陸を南から北へ突き抜けた巨大津波>
アメリカ大陸を南から北へ巨大津波が突き抜けた。
A huge tsunami went through the American Continent from the south to the north.
(質問・Question 4) その痕跡を探して列挙せよ! 2012 Feb. 01
Enumerate the traces !
南アメリカ大陸を乗り越え<北アメリカ大陸>へ達した巨大津波は???
Ⅰ~Ⅲステージとの共通点が幾つかあります。先に探しておいて下さいね^^。
あなた様>と、答えが幾つ重なるかが楽しみです・・・^^♪
(答え・Answer)
ⅰ 巨大津波が二つの山間を抜ける時、殺到した泥流が縮流(←前述あり)となってその入り口付近の表土を削り取って凹地にすることがあった。 ロッキー山脈とアパラチア山脈に挟まれたミシシッピー川流域にその湿原地帯がある。同様な成因でアルゼンチンのラプラタ川流域の湿地帯。オーストラリアに大鑚井盆地がありました。
ミシシッピー川流域に巨大津波が削った湿原地帯がある。
The damp plain zone that a tsunami reduced is in the Mississippi basin.
ⅱ 津波の“川岸”と なったグレートプレーンズに、
魚類や恐竜達は、グレートプレーンズに打ち上げられて石油化している。
The fish and dinosaurs are launched in the Great Plains and become oil.
ロッキー山脈の東側のグレートプレーンズ(標高500m~およそ1000m)に、この時の津波によって恐竜達や魚類等が打ち上げられて石油化している。その時をイマジネーションしてみると、津波の第一波はメキシコ湾の魚類達を持って陸上にかけ上がる。そして、そこに棲息している恐竜達や植生をも巻き込む。この強い中央の流れは、その浮遊物を流れの側方へ側方へと持っていく。その浮遊物を運んだ第一波がロッキーの斜面へ駆け上り、駆け下る。それより遅れた数波は表土をウガチながら泥流となってそれ等を覆い隠した。時が経ち地熱で熟成されて恐竜達は石油となった。そして共に運ばれた貝類は石灰岩になっているはずだ。さらに泥粘土に埋まった巨木は珪化木へと変わる。植物の存在量は動物に比べて圧倒的に多いはずなのに、油田に比べて炭田が少ないのが気になる。この広大なミシシッピー流域の植物達はいったいどこへ行ったのであろうか。
【 Top - secret 】
グレートプレーンズの油田は、その多くが汲み上げられ、その数はガス田を除いても20を(中学生地図)超しているようだが、まだ拾い残しはあると思われる。そして、アパラチア山脈側も探せば油田はまだある。それを予測するのは大して難しいことではない^^。キーワードは「谷奥で盆地状」になった所^^♪。 あなた様も、どうぞ探してみれば一攫千金^^?・・・笑い♪
ⅲ 北米のニューハンプシャー州に、モナドノック(残丘)の付名の由来となった所がある。
北米にも、巨大津波が削った巨大岩塊の露表がある。
The bare face of the huge rock lump which a huge tsunami sharpened in a circle is in the North America.
イマイチ、この残丘が素人のいう6500万年前の津波が成したものかどうかの確定が出来ていませんので保留しておきます。その他にもこの時の津波が作ったと思われる“巨大岩塊が露表した場所”があるようですが、この方の捜索は、北米の観光地をよく知る貴方さま>のほうが適任かと思いますので、これも保留にしておきます^^!。
ⅳ 北米大陸の東海岸沿いに、途切れ々れ、ではあるが津波の戻り水が運んだ“防波堤状の長州”がある。
米国の東海岸沿いに津波の戻り水が運んだ防波堤状の長州がある。
There is breakwater-shaped State whom the backwater of the tsunami carried along the American East Coast.
北米大陸の東海岸線は、多くの方が、その海岸に立てば見渡す限りの大西洋の大海原が見えるとお思いであろうが、その○○%は、防波堤のような長い州でさえぎられ直接大西洋を見ることは出来ない。通常の海流ではこのような長州は出来ない。その海流が成したのであれば世界中のどこにでもあるはずだ。ではどのようにして、この長い防波堤状の州は、出来たのであろうか。
南大西洋を北上した巨大津波の主流は、南米大陸と北アフリカ大陸とに挟まれ北西に進路をとる。その結果アパラチア山脈にほぼ直角に乗り上げる。続いて2波、3波と上陸しては、濁流となってもと来た方向へ戻す。さらに、遅れて来た数波との押し合いになり、そこに防波堤状の堆積土砂を残した。もし、これが海流で出来たとすれば、この高さ(かなり高い○m^^?)を超える海水の量を考えなければならず、そのほうにヨッポド無理がある。地球創生期(衝突の集積)で出来た水(H2O)の“総量は”、雷様(電気分解)でも大きくは変えられない^^??
(※この水の生成と総量の件は、古代史掲示板で管理人様に色々ご教示を頂いていますので、→)
アパラチア山脈の裾野を覆っている表土は赤色系の粘土質であり、アパラチア山脈の岩石が風化したものではない。それが何故、粘土質に覆われているのかを考えて欲しい。この巨大津波は、その上流域に何があるかで、その運ばれるものは変わってくる。上流域に岩石を含む陸地があれば土石流となるが、大洋であれば、運ばれるのは海水だけであり、せいぜい、その中に棲息する魚介類や海草類だけなのである。
推理小説風に?<※海州>という言葉を前ステージに忍ばせておきましたが^^?
(ギニア湾に面するコートジボワール(国名^^)のアビジャン・Abidjan やブラジル沿岸にも似たような海州がありました。)
このことは、前ステージの<津波が造った滑り台痕>を覚えておられる方ならば、理解してもらえると思うのですが? 今している話は、なにも遠い異国だけの話ではない。(前述→)日本でも似たような成因の地形が造られていますよ。新大阪から京都までの新幹線の北車窓から見える風景で、←地図で確かめたら間違い(北方ではなくて西方)でした。(汗~) その時の濁流が後方の山に突き当たっては流れ戻し、その山裾に細長い丘状の堆積土を残しています。こんど機会があったら確かめて下さいネッ^^。
(My報告書より)
今、貴方が目にしている山肌の露出岩は、旅先で見かけるその風景は、この巨大津波が成したものかも知れない。
この超巨大な大津波は、地球上の90%以上に、その痕跡を残している。
This super huge massive tsunami leaves the trace than 90% on the earth.
ⅴ 南アメリカ大陸の表土を削った巨大津波の濁流はカリブ海や、メキシコ湾で裏ごしされて、微細土の津波となって米大陸へ上陸したが津波の戻り水は<逆流>となって、その土石流をメキシコ湾へ運んでいる。今から二十数年前であっただろうか。米国は、ホモール計画の名のもとにメキシコ湾の深海底を掘ったことがあるが、その○○○メートルの全てが堆積土であった。
メキシコ湾の深海底へ運ばれた土石流
The mud flood which was carried to the deep sea-bed of the Gulf of Mexico
↓ 次ページへ
メキシコ湾の写真を入れます^^!。
※ 尚、この写真は、(C)Yahoo! Japan (C)OPen Bookの(C)マークがあり、著作権者及び権利者の承諾を得たものではありません!! 他への転載は固く禁じられますし、予告なしに削除する場合があります。↓映像が鮮明でないので、前述の方法で、どうぞのご確認を!!
白い楕円部→津波の逆流で生じた海底堆積物 赤い矢印→津波の北上で生じた海底堆積物
<話は少し反れて> (2/17)
深海底で石油産出の謎!?
石油の成因説に無機質起源説と有機質起源説がある。今では、海生プランクトンの沈殿説が優位であるが、無機質論者の反論として、石油の中に生物起源とするには、生物の内に含まれない重金属類が含まれることや、○○○メートルを超える深海底からも石油が産出することは、生物起源では考えにくいことがあげられている。
今、この写真を見てやっとその謎が解けた!
重金属類は巨大隕石の衝突で生じた核破壊による核分散(別紙-電子出版で)だと推測できるが、北海を始め、メキシコ湾岸の深海底で産出する石油の謎が分からなかった。この写真の形状を見てやっとそれが分かった。地球は丸い! 約1日をかけて北極圏へ集まった膨大な海水は、今度は南へ向けて逆流を始める。(別紙報告書、○○頁、地球を覆った巨大津波の図)その津波の戻り水がメキシコ湾の深海部へ土石と共に被災した生物を流し込し込んで、埋め込んだものであると。 ※ 北海油田の成因も同様な作用で北極からの“逆流泥海水”が運んできたものであった!
【Top - Secret】
今ウエブで調べると、ブラジルは、○○メートルを超す深海底での石油の汲み上げ量、世界第二位とか。<別紙報告書>ではアマゾンの未開発の石油はあえて伏せておきましたが、石油流出のリスクを抱えて深海底を掘るよりかはアマゾンのほうが楽だと思いますが。『 アマゾンには膨大な量の石油が眠っている!』 日本でも渥美半島沖でメタンハイドレードの試掘が始まりました。メタンガスって腐泥から発生するんではなかったっけ?(笑) (2012 Feb, 17記)
ⅵ フロリダ半島で、骨に含まれていたリンが鉱石となって多量に産出している。
Phosphorus included in a bone in Florida Peninsula becomes the ore and produces it abundantly.
カルシウムは水に溶けるが、燐は水に溶けない!
Calcium dissolves in water, but phosphorus does not dissolve in water!
墓地・子供の頃の思い出(別紙報告書より)
その頃は今のように火葬ではなく土葬が一般的であった。その墓地の大抵は住家のはずれにあり恐ろしい所。その墓地で夏場の怪談話に決まって出てくるのが「火の玉」の話。暗闇の中、青白い火の玉がフワフワユラユラと。今では、そんなことを信じる子供たちは殆んどいなくなった。それは死亡した人の魂だとか、ウソかホンとか知らないが、「リンの発火点はおよそ60℃で、死者の骨髄に含まれるリンが、夏場の高温で墓石温が上がり発火したもの」等と聞かされていた。ちなみに魚の骨は炭酸カルシウムでカエル等の両生類や人の骨は燐酸カルシウム。フロリダ半島では、大西洋からの巨大津波とアマゾンを突き抜けた大津波と東太平洋を北上した巨大津波が合流し渦巻いている。そして夥しい魚類が、生物が打ち寄せられて、その屍は白骨化し、累々たる山を築き上げた。やがては骨のカルシウム分は溶けて流れ出す。“リンは水に溶けない”ので鉱石となって残った。第三ステージのナイジェリアのメルリール湖の近くでもリン鉱石の産出(中学生地図)がありました。
ⅶ 6,500万年前に南極から北上し、北米大陸の 「西へ」上陸した巨大津波!!
この項目の概略は、拙電子出版「巨大隕石と大津波」で述べています^^。
To be continued ^^♪ つづきます。・・・♪
Scars of the huge tsunami(Africa south end)
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2018年12月22日(土)
Huge tsunami had made giant-scars.
I found a giant-scar of a huge tsunami.
To build this scar is required collision of a large planet Antarctica size.
22 December 2018
Historical fact Detectiver
Hira Moto (pen name)
へへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへ
・・終活・・・(^-^)
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2018年11月13日(火)00時11分2秒
第五章 創作話(あやまち)三題の、第一話 やしの実(侮り) 【絶版:電子出版】より引用^^!、
昔むかしのこと。海辺で遊んでいた子供たちは、一つの大きな実を発見(み)つけた。それは大人の頭ほどもあり、あんずの形に似ていた。表面は土色をしており、とても重い物じゃった。大人たちに見せたが誰も知らないと言う。物知り爺っちゃんに問うことにした。物知り爺っちゃんは、そのまた爺っちゃんから聞いたことだがといって、次のようなことを話した。これと同じような“もの”が、大荒しの後の海岸に幾つも流れ着いたこと。斧で割るほど固かったこと。中身には「ほれ、こんなに大きなものが入っていたんだと」と言って、両手の指先を合わせて球の形を作った。さらに、それを斧で打ち砕くと、白い果肉が入っていて、「口に入れると、サクサクッとして甘かったんだと」。「爺っちゃん!それ植えたの?」と間を入れず聞いた。 「さあて、そこまでは聞かなんだ」 と、爺っちゃんは答えた。大人たちは、これは種では無いと言った。一番大きなあんずの実だって、こんなもんだと言って、片手でその形を作った。子供は自分が発見(み)つけたものは、大きな大きなあんずに違いないと思った。爺っちゃんの話の中の白いサクサクとした甘さが、口の中で広がるような気がした。大人たちが止めるのも聞かず子供は庭鼻にそれを植えた。 冬が来て春が来た。 しかし、芽は出なんだ。こんなに大きな種だもの、きっと何年もかかるに違いない、と子供は思った。だけど、いくら待っても芽は出なんだんだと。そこは、寒いさむい北の国じゃったから。 むかし、こっぽり (^-^)
創作話・三題 「あやまち」 投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 1月10日(木)
(第三話)牛がえる(蔑み)
梅雨入りの頃だったと思います。家の近くに、幅5m、長さ20mほどのコンクリートで囲まれ、上流から流れてくるヘドロを一時ストックする役目の水溜まりがあります。それでも昔は草で囲まれ、子供たちが「池」と呼び、鮒をすくったりした所でもありました。しかし、今は下水溜まりのようです。この脇の駐車場に車を止め、自販機の飲料水を買って車に帰りますと、ブォーッと大きな声かこの足元の池からするのです。見ると、牛蛙が二匹いました。普段は見かけないものですから、珍しさも手伝って、紅茶を片手に上から観ていました。知ってか知らずか、時おり顎腔(がくこう)を膨らませて、あの大きな声で鳴くのです。
ところが、次に信じられない光景を目にしました。スーッと近寄った二匹は、お互いに飛びかかり、水草の土俵で相撲をとりだしたのです。「鳥獣人物戯画」そっくりにやりだしました。最初は縄張り争いの喧嘩かな、と思ったのですが、そうではないようです。
しばらく、もみ合った後、離れ、再び組みついたのですから、遊んでいるのです。何度か飛びかかりますが、お互いのタイミングが合わないと組み合いません。
そのうち、片方は飽きてきたのでしょう。四肢から力を抜き、プカリと動きを止めてしまいました。もう一方は遊び足りないのか、しきりに飛びかかり、相手を押さえ付けるのです。あの吸盤のある可愛い前足で、押さえられた方は、うさん臭げに目を’ぱちくり’。
このユーモラスな光景を、遠い昔の人たちにも観覧(みせ)たのでしょうか。
(終わりに)
私たちは、今まで、蛙を解剖台の上にしか見ない下等な両棲類として扱ってきた。しかし、蛙のこの様子(さま)は遊ぶという高等な知能を持っていたのである。私たちは、これと同じような 'あやまち' を重ねてはいないだろうか。この創作話'あやまち'三題(第一話やしの実.侮り・題二話まな鶴.のけ者(掲載していません)・第三話牛がえる.蔑み)には、そのようなものを潜ませて書いたつもりです。
答えの無い問いかけに答えを出してしまうことに'間違い'が生じる。「答えが無いから未来が続いているのに・・!」
「答の無い問かけ・不条理の空間」
生産性球の半径Rが“1”の球、四つが接触する空間に入る、破壊性小球の直径 d は ?
d =(R×0.π)< である。
『蝶を愛(め)で、蠅を殺(た)たく、己(おのれ)あり』
時折、鏡に自分を写し、己に問いかけ、姿勢を正したいものである。 (絶版書p571より) □
以上、十余年で14冊しか売れなかった^^!、拙:電子出版書(絶版)『巨大隕石と大津波』より引用しました。米国の科学者は、自分達の仕事に遊び心を加えて 「Game」 と称することがあるそうです。さて、今年もこの掲示板の一隅をお借りして、目いっぱい遊ぶことに致しましょうかぁ(笑い)。 このゲームに参加して下さる人を捜しています。
【 提 案 】
筆者のいう痕跡が津波痕か、風紋かは、先様(方)の、ご判断におまかせしますが、
空港の滑走路と、その“波形”の大きさを対比してみて下さい。起伏の大きさが分かります。
この痕跡を津波痕と認められたら、サハラ全域の津波痕も見えてくるはずです。
この痕跡が、素人のいう津波痕だと認めて下さった方に提案があります。
先さま(方)流に、世間に発表して下さったらと思います。
「何故、それを貴方(筆者)がしないのかって?」
今の私には、その能力もエネルギーもありません。もちろん引用は存分になさって
下さってけっこうです。
今の国際的決りは、先発見者から、先発表者に変わっています。早く発表したもの勝ちです^^♪
先に発見したものより、先に発表したものにその栄誉が与えられます。
それは、先駆者をさがすための時間的ロスで、経済的な損失のほうが大きい理由からのようです。
(2018/11/09 am 7:00 日本時間)
当方の掲げたこの写真は、『そのヒントであり、きっかけを与えるものだ』と、ここに宣言します!! 『百聞(百文)は、一見(衛星写真)にしかず』
早いもの勝ちですよっ^^! お金があり、実行力があるお方ならドローン飛ばすかもね(笑い)
その裏付けがない机上論だけでは、それと認められないのが今の世の中です(^-^!)。
それより、何よりこの写真をあなた様自身が津波の痕跡だと認めることが一番むつかしい。□
Huge return tsunami from the North Pole
北極からの巨大なリターン津波
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年1月23日( )
I found traces of a huge return tsunami from the North Pole in North America.
私は北米で北極からの巨大なリターン津波の痕跡を見つけました。
Tip of the tsunami has the shape of a cow's tongue.
その津波の先端は牛の舌状になっています。
And, there is a residual flow. It shows a blue line.
そして、残流があります。それをブルーラインで示しています。
23 January 2019
Historical fact Detectiver
Hira Moto (pen name)
6500万年前南極発から、北極へ集合した巨大津波は、今度は南へ向けて走り出す。その濁流の一端は北アメリカ大陸東部を南下し、メキシコ湾へ恐竜をも巻き込み流れ込んでいる。その沿岸底で恐竜や海生物たちは今に石油となって眠っている。(合掌)
津波後の残流(+)で大陸西部の山岳部から流れ出したブルーラインにも注視したい。 □
6500万年前「巨大津波の滑り台痕」
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 2月 4日(月)
> No.158[元記事へ]
<Basin of tsunami>
「巨大津波の滑り台痕」
津波が“平斜面の正面から”登りその頂上まで達することなく下り降りた時、その裾野に沿って凹地と凸部が出来ることがあります。そのような状態を「津波の滑り台痕」と名付けたことが、以前のアルゼリアの記事でありました。この地形は遊具の滑り台の着地点をみれば一目瞭然です。北米のアパラチアン山脈の東南の裾野は、ほぼそのような平斜面になっています。
アパラチアン山脈の東南の裾野は、赤色粘土で覆われているところがあります。その赤色粘土が6500万年前の津波が運んだものとは断定できませんが。アパラチアン山脈の岩質とは異質のものではと思っています。中学生地図でみると、かなり急な勾配があるかに見えますが、実際には、なだらかな斜面を持っていて、その川筋は南西方向に一方的に流れるのではなく、網目のような複雑な流れ方をしています。これは津波が引いたあと表土を覆っていた粘土質が乾いて、干天の稲田のようにひび割れ、それに沿って川が発達したためかと思っています。
<北米ノースカロライナの沿岸にある「津波の滑り台痕」>
北太西洋に面した北米のノースカロライナとサウスカロライナには、太西洋と直接接していない沿岸があります。防波堤のような長洲が横たわり、その内側は浅海になっています。これを筆者は上記の津波で出来た「津波の滑り台痕」と断じています。
この地形は、<前ステージ>のアフリカのギニア湾岸コートジボアールにもありました。
Google earth の検索で、その2例をかかげます。
Basin of tsunami in North Carolina & Basin of tsunami in Ivory Coast
[232] 妄想・珍論、大歓迎です。
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 3月24日(日)
こんばんわ^^!
ここは、管理人さまが「縄文と、ちょ~古代史」について、特別にもうけて下さった掲示板です。人類の移動は巨大隕石がもたらした「隕石の冬」による気候降下が大いに関係すると推んでいます。特にBC.2001年/12月/24・25日(日付変更線による違い)/未明6:00頃、イースター島の上空から侵入し、ペルーナスカ、ドーバー海峡を経由して、日本の東北釜石辺りに降臨した小天体は、北上山地を越えるほどの巨大津波&巨大地震を生みました。
「彗星衝突による 縄文超々巨大津波・岩淵國人先生」&、my絶版報告書と、myブログ。
「竜は隕石、竜は神!」
人類が、衣食住だけの生活から巨大隕石という自然の驚異を受け、それが、神となって人々の心に入り込んだ時、それは、驚異的、爆発的な力となって、それを語り継ぐ難しい語彙が、困難に打ち勝つ抵抗力が、そして、新しい文化と、集団性が生まれてくる。 my絶版報告書「巨大隕石と大津波」より^^!、
そして、
ちょ~古代^^の 6,500百万年前に、月より僅かに小さい天体が南極に衝突合体し、南極大陸となりました。この時発生した大事変は、人知を遥かに超えています。その時発生した巨大津波で動物たちは石油となり、植物たちは石炭となり、貝類たちは石灰となり、今の人類に供給しています。希土類もそうかな^^。その片よりが人類の紛争を生んできたと知るところです。
百年前も二百年前も、今の世も、事実は人知という科学の先に用意されている。
この二つの巨大隕石は、今の学識にはありませんが、中学生程度の学識で充分です。『気付けばいい』 だけですから、現にこの私くしがそうですから^^。このような極大論は、その没後に認められるが世の常。この二つの妄想・珍論が^^! 史実として認められた時、先様方は 「どんな顔をなさり、何と云わはる」のかを見れないのが残念です。(笑い)
この二つの大事変が、世に伝わらないのは、その史実がなかったからではなく、この素人の論説が拙いからだ。学識のある先様方が、この広報に加われば、それほど強いことは無い!
[232] ・・ 荒れてますね^^?
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 3月24日(日)
キシ先生>・・日本人のルーツさま> こんばんわ^^。・・ 荒れてますね^^? 今、論じられている 「DNA系列」や、「言語系列」 は、わたしにはレベルが高く、難しすぎてさっぱり解りませんが所感をのべます。キシ先生のご記事は、多情報はありがたいのですが、それが、ご自身の文章か、引用なのかを見極めるのに大変時間がかかります。・・で、途中でアキラメます^^!。「どこぞの誰かのお役に・・」と、「私論・古墳は気象台」が成るといいですね^^♪ ・・日本人のルーツさま> はじめまして^^!。 ご記事の端々に膨大な情報と洞察、高い教養がうかがえます。しかしながら、先様のご記事は専門家向けであり、ドがつく私とは、同列で論じ合えない気がいたします。正論をお述べなるのはいいのですが、今の先様は、一番嫌いであったはずの「誹謗中傷」をご自身がなさっているような気がいたします。反論は、なさるべきですが、暴言はひかえるべきです。先様の品位をご自身で落としているようなものです。 次は、私自身への「戒め」の言ですが、
『蝶を愛で、蠅を殺く(たたく)己あり』 (こども心- 蝶も蠅もおなじ昆虫なのに)
十余年で14冊売れた~~!、絶版報告書「巨大隕石と大津波」の序記より、
'わたしが' 大切なように 'あなたが'大切なのだ。それぞれが “わたし” なのだ。私たちは“共存”している。たとえ、それが人類に仇なす細菌であってもだ。細菌も生きるための活動をしている。誰でも、人から尊ばれるのは嬉しい。それは他人が決めることであって、自分が決めることではない。自分がそう思った瞬間から堕落が始まっている。(あなたがわたしが)・・・が、祖先が、種族が、国が、人類が、「他(相手)より、偉い」と思った時から崩壊(崩落)が始まる。(放物線の頂を越えるように^^!)
古事記? 日本書紀でしたか~~? 「あれこれとある帝紀(物事)を選録し、旧辞(現学)を討究し、偽りを削り、実(まこと)を定めて、後の世に伝えたいと欲(おもう)。」 うる覚えでスミマセン~~。今のわたし、最大の難点は根気が30分とつづかず、これだけ書くのに朝になってしまいました~~!。
[232] 頭・頭骨を飾る底流に潜んでいるもの!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 3月24日(日)
こんばんわ^^? BC.2001/12/24・25にイースター島から侵入した巨大隕石は、欧州では空を駆けるサンタクロースになり、東アジアでは竜となりました。大陸人は列島を探検し、人々からその巨大隕石をモンタージュして龍画「竜頭蛇尾^^!」としました。 この時発生した巨大津波は、列島の津々浦々に「津」の地名を遺しています。そして、大陸の良渚文明を一瞬にして呑み込んだり(奥州・岩淵先生)。「天津・竜因」に迄とどいたと祖先は地名で残しています。津波は魚貝類を一ヶ所にまとめて大量に打ち上げます。瀬戸内の貝塚に人骨が埋められていました。「貝塚=残滓」の考えは今でもあるのでしょうか?
「残滓へ誰が埋めるか愛の骨!」 この時、祖先がうけたその被災と驚愕は、ツングースカの比ではありません。列島の祖先は、貝を天竜からの贈り物として貝殻山山頂にも運んでいます。「骨で包んでいる頭骨と、肉を内に収める貝とを巨大隕石の頭と同一視する考え」が、この大事変で生まれたと推んでいます。
「神秘の国、東洋」 なぜ? 東洋だけに「神秘」の冠詞がつくのでしょうか^^? こども心は、それが不思議でなりません。BC.2001の年末に、列島の東北地方に降臨した巨大隕石は、「大事変の根源は東方にあり!」とした大陸人や、欧州人を東方に駆り立てている。なにも全ての流れが西方からとは思いたくないよ(ねえ、山田さん^^)。碧ミドリなす唐草模様やアスペスク模様は、列島発の巨大津波がシルクロードを通じて渡ったと思いたいのが素人探偵です(笑い)。
[248] Re: 頭・頭骨を飾る底流に潜んでいるもの!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 3月30日(土)
縄文人には皆無の地中海ゲノムが1割入っている日本人のルーツさんへのお返事です。
前記事:アスペクス模様ではなくて、<アラベスク模様>でした。訂正してお詫びいたします。アラベスク模様をウィキで今回、調べてみると思っていた枝ツル紋ではありませんでした。これも削除してお詫びいたします。記憶の片隅にアラベスクと唐草紋の共通性をいう説があつたように思っていましたから。
> 西の大地湾文化と東の仰韶文化、どちらが先かは、まだ分かりません。
> 個人的には大地湾文化であって欲しいですけど。
上記、ふたつの文化は、はじめて聞く文化であり、不勉強ですみません^^!。「BC.3,000年前の気温降下」は、管理人さまも指摘されていました。当方の報告している「隕石の冬」は、6,500万年前とBC.2,001年前のものだけですが、人類が移動を余儀なくされる程の気温降下は「隕石の冬」が関係していると推んでいますから、きっと他にもあるのでしょう。
「隕石の冬」による気温降下の特徴は、“鋸歯状” を呈することにあります。
衝突小天体の大きさや落下地が海か陸か、南北半球や緯度等によっての違いはありますが、基本的には、1~2年のうちに急激な、10℃に近い気温降下がなければ人々は移動しないとみています。ゆっくりと変わっていったのでは、それに対応しますからね。この「1~2年のうちに10℃に近い降下で “生態系が変わる” 食物不足が発生した」の考えは、今の学説にはないようです?。ゲルマン民族の大移動や、アジア大陸北方民族の南下は「隕石の冬」が原因ではないでしょうか。
[251] <巨大隕石が人類史に与えた影響>
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 4月11日(木)
紀元前3,000前の天体の“衝突地”を捜そう!
> 気候大変動、大災害多発で滅びたか、気候大変動の中での権力闘争でO-M117のうちO-M133部族だけ残ったか。(・・日本人のルーツさま) >大災害と種族の生存の関連情報、とても興味深いです!(管理人さま)
「隕石の冬」をおこすほどの巨大隕石が (7・8千年前迄の^^?)近人類史に与えた影響は、今の学識では、ほとんど語られていないような気がします。筆者の言うのは、それがΦ10・20kmサイズですから「Φ1kmサイズで人類は生き残っていない」とする現学の風潮からは大きく外れます。
筆者の考えは、その被災は限定的であり、「直近を外れたところでは生存者あり!」とすることにあります。地球規模でみれば周囲40,000kmの池に、わずかΦ10・20kmサイズのツブテが落ちようがサザ波にも見えない^^!。対比で40,000 : 20 ですから、100mのグランドに Φ5cm のツブテですから端々にいる蟻ん子さんが全滅するとは、とても思えない(笑い)。それより、なにより怖いのは、その後にくる隕石の冬だ!!
その舞い上がった粉塵は、その衝突天体の大きさや、落下地が海か陸か、緯度にもよりますが、『その粉塵は1・2年のうちに半球を覆い10℃ちかく、或いはそれ以上の平均気温の降下』 があったと申し上げました。この “急激な”気温変動 がなければ人々は移動しない。直接の被災はもとより、食料を求めての南下や、生態系に影響の少ないと思われる海浜漁へと向かうのは言をまちません。この大量の民族移動やその南下は、テリトリー紛争を生む原因となったのは歴史の知るところです。しかしながら、狩猟を糧とする人たちは、気温降下に即応する植物と違い、食料を生きたままで保存できる強みもあり、その対抗力は強かったでしょうね。
その驚愕と被災が神となって人々の心に入り込んだ時「神」が誕生し宗教も生まれた!
その被災は比較的広範囲であり、人々は共通した被災認識を持っていますから、予言予知能力の秀でたものが「私は、その神の代行者」とか、「神の付託を語るもの」が出たとき、人々は容易にその人のいうことを受け入れます。それが皇帝になったり、スーパー爺さんで^^あったり、卑弥呼だったのではないでしょうか。 スーパー爺さんは、隕石の頭=男根とした性儀式の延長かな^^? その性儀式を日本では「石棒」、中米ではチェチェンイッツァの「赤い家や尼僧院」か (my報告書)としました。
巨大隕石は、神となり強い「精神的核」となって大集団へと移行した。
狩猟採集栽培を営み 婚姻 を主とした石器時代では “集結力が弱く” 小集団にはなり得ても、その小集団を統合した「国」という大集団にはなり得ない。その場合、「神の代行人」と、「神の神託」を聞くの二通りがあると申し上げました。前者は欧州や中国大陸文化を形成し、後者はその都度、神の神託を聞く、列島文化へと進んでいったと推んでいます。前者は序列した席次をつくり、後者は魏志倭人伝でもあったように「人々席次をつくらず座する」特徴があります。このことは、強く組織立つ国へと移行するか、雨乞い等でその都度集合して郷・こおりとなるかの違いがあります。
「国」の言葉は、中国が「邪馬台国」と呼んだ卑弥呼より以後であり、それまでの列島には「国」の考えはなく、「雨乞い」等で集結したゆるい小集団「郷・こおり」であったと思います。その祀り事と祭り事と政事(まつりごと)等の関連は先様におまかせします~~!
「租税」と「寄進・供出」
もう一つの違いは、社会を形成するための労力を、前者は「租税」として集め、後者は「寄進・供出」を旨とする社会です。組織立ち、テリトリー戦争で敗者を隷属させる前者のほうが遥かに強大な国家へと発展したとは知るところです。一方、列島のほうは後者であり、政教分離がなされた神話「国譲り」以後の、現在でも神様とお寺さんへの収財方法は残っていますよね(^-^)。
この掲示板で素人のわたしが強く言いたいことがあります。
「地球は隕石の集合・集積体であり、その大小をとわず、つねに、その歴史は刻まれてきた」しかしながら、生物は、人類は、その都度しぶとく生き残っている現実がある。紀元前3,000前の天体 “衝突地” を捜しませんか^^!
[253] Re:中東の隕石落下ルート
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 4月14日(日)
管理人さまへのお返事です。
お早うございます^^。 巨大天体衝突へのご考察ありがとうございます。
そのなかで人類史(3,000年前後)においての天体衝突による被災と、その移動について考えています。
中東の黒海、カスピ海。タリム盆地、バルハシ湖等を衝突地と考えておられるのですね。昨年の支笏湖でしたか^^?。その衝突地形が半月型になるとのお考えには新鮮さを覚えました。この度の黒海、カスピ、タリム、バルハシ湖等も図のようなお考えなのですね。今までそのような見方をしたことがなかったので、これも新鮮さを覚えます。これらが母天体の周回で一度期に落ちたものか、その周回の度に分かれて落ちたものかは気になるところです。
わたしの考えは、その衝突規模の大きさから人類史以前の地球肥大化時での衝突ではと感じています。参考のためにmy報告書から「地球肥大化の模式図」を載せておきます。民族が移動した三千年前の衝突では、もう少し小さかったのではと思っていますから、それに該当するものは無いでしょうか~~!。
わたしは、直径が10・20kmサイズの天体衝突でも生物や人類は生き残ったと考えています。例えば、その衝突による爆風が速いとき物陰に隠れていれば渦巻きが発生し、その囲まれた空気によって助かる場合があります。広島の爆心1・2kmや、九州火山爆風で車の影、台所レンジ爆発で壁も飛ぶほどの威力なのにレンジの高さが影になって助かったことがあります。素人のぶっ飛び論では、マダガスカル島の影のコモロ海域、インドネシアのシーラカンスも島影で巨大津波から生き延びたとしました~~!。
岩手県に「遠野」という地名があります。私が釜石鉱山体を衝突隕石だとしているのは以前に述べていますが、これに接した西隣が遠野市です。この「遠野」とはどこの誰が付名したのでしょうか? ここに近すぎても、ここに関係ないような遠くの人達にあっても、この地名は付きません。おそらく北上あたりか、それとも仙台あたりかも知れません。北上にすれば40km。仙台にしても100kmほどしか離れていません。衝突地の直径が20kmもあるのにですよ。
岩手県に「物見山」という地名があります。「被災のモトはどこか??」 一時的な災害が落ち着けば、その地が「どこか?」と捜したいのが人の常。物見山に登ってかなたの「岩の手方面釜石」を眺めたのでしょうね。キット^^! ちなみに物見山は2ヶ所あります。さらに、宮城県境だったかな? その "衝突熱" がいつまでも冷めやらぬ「霧立山」があります。そして、焼けつくした「黒森山 2ヶ所」。立ち枯れして「白髪山」。これは後の "白髭山信仰" へと変わってゆくのは先様方の知るところです。
ことの大小を問わず、中東や中央アジアでも、このような関係地名を捜していけば、三千年まえの民族移動をおこすほどの「人類史に関係した衝突地」が絞り込めるかも知れません。それを学識のある先様方にお願いしたいと思います。
遠野市には河童伝説があります。カッパの頭はミルキークラウンの形をしています。これは巨大隕石が水地や陸地に衝突した時にできる「跳ね上げ形」を模しているとしました。今、ここで論じられているトンガリ帽子や王冠も、空どぶ巨大隕石形や、落下の瞬間の形と思っています。それよりなにより、驚くべきは「それを見た人」が生き延びていたということです。その辺りには鉄鉱山が少なくて金や銅鉱もあるのですか。これにも興味がわきますね。
近人類史(約1万年前~)において大被災を与えた巨大隕石について、
ここで現学識と、わたし素人との考えかたの違いを明らかにしておきたいと思います。 この投稿は管理人さまと被っているようです(汗~^^!)。
<人類が滅亡する巨大隕石のサイズは?>
現学識の趨勢は直径1kmサイズで人類は滅亡」ですが、これには納得できません。筆者は、10・20kmサイズでも生き残っていると前述しました。
巨大隕石は核爆弾とよく比定されますが、そのすべてが核物質ならその考えは正しい。しかし現実には岩石部分がほとんどである。確かに衝突の接触部分では核破壊や連鎖もおきるが、それは限定的である。そして、地球に衝突する巨大隕石の多くは彗星軌道をとっており、大きければ大きいほどその芯は冷え切っていて、太陽近接時には移行スピードが速くなり、大気擦過においても表層のみの温度上昇となる。「彗星は汚れた水玉」の考えが定着しつつあります。太陽に近行する以前の衝突なら別ですが、その状態で太陽を周回し地表にたどりつくまでには、その水分は蒸発してしまう。現にツングースカ等は空中爆発と考えられているようですが、この場合は衝突粉塵のまいあげが極小なので「隕石の冬」へは移行しない。
<気候の大変動と、隕石の冬ついて>
「気候の大変動で人類の移動」とは聞くが、その気候の大変動が何によっておきたのか? その期間・時間的長さはどのくらいなのか? については諸論があるようですが、ここでいう近人類史において、それを巨大隕石10・20kmサイズに、からめていう学者はまったくいない(笑い)。人類の移動をおこすについて、大隕石の被災地についてはもとよりであるが、それより何よりの影響は「隕石の冬」による急激な気温降下である。皆既日食による気温降下だけでも数度?℃は下がる。別紙・縄文の巨大隕石による気温降下は15・16℃で、海水位の海退は5・6mだとしまた。舞い上がった粉塵は1・2年のうちに半球を覆う。人々1・2年のうちの冷害なら何とか持ちこたえようが、3年もすれば暖地や食料を求めて移動する。これは他の縄張りへの侵入であるから紛争の始まりになるとは歴史のしるところです。氷河期の仔細は管理人さまが「古代史掲示板」のほうで述べられました。ですが、近人類史をおおきく見ても2万年前からの巨大隕石絡みの気温降下については未解決です。
<地球温暖化について> インドネシアあたりだったかな^^? なんとか火山の粉塵での気温降下は0.2℃??かとしたことがありました。巨大隕石で舞い上がった粉塵は一時的には雨水の核となって落ちます。しかし、成層圏まで舞い上がった微小の粉塵が降下するには長い時間がかかります。今は炭酸ガスによる温暖化が大きく論じられていますが、私は巨大隕石で舞い上げた粉塵が大きく関係すると推ています。それをわたし素人は『舞い上がった粉塵は濁水が沈殿して清水になるように』と表現しています。問題は急激な気温降下が1・2年のうちに起こることです。それから、徐々に温暖化へと向かいます。粉塵の舞い上げ量の夥多によって氷河紀への差がでるのは言をまちませんし、その衝突の間隔の長短は何時、該当する巨大天体が落ちたかによっても決まります。わたしは氷河期の図表が鋸歯状に落ちたのを見たことがありません^^!。
<海進と海退について> 海進と海退は地球の温暖化と寒冷化で、主には南極大陸やグリーンランド等の陸部の氷結の増減によって決まる。別紙「報告書」で南極大陸を大隕石として、その面積と海洋の平均深度の3,700mを掛け合わせ、それを増位分として現海洋面積の上にのせたら170m近くになったかな~~!(この計算アテになりません)。諸々の計算を積み重ねれば大陸棚の200mは、それによって水没したのでしょうと結んだことがあった。はっきりとした記憶ではありませんが、出雲の日御碕で水没している海底遺跡・水深30m余でも同様の計算をしたことがありました。水深30m余を氷化して全陸地へ等分に積み上げたとすると約80m高さとなりました。(→カテゴリー出雲地方、この計算もアテになりませんので意だけをくんで下さい)。これでは植物は育ちませんから、陸上生物も・・・、 これは、ドがつく素人の考えですが、30m余の水深でさえこれですから、文献でみる100m<あるいは、それ以上の海退は納得できません。「では、H2Oの増減はあるのか??」と、古代史版のほうで管理人さまに「水の誕生」について、詳しくのご教示を頂きましたが、その件については、未だにモヤモヤとした気持ちでいます・・・~~!。
<大洪水と巨大津波について> 6,500万年前の南極発の巨大津波の痕跡については、只今北米大陸シリーズの東部で止まっています。北米大陸東部で五大湖へ流れ入る地形をした湖3~4個所の湖は、南極から北上した津波が成したのではないかと? 、推んではいるのですが、理由付けが全く出来ない大スランプに陥っています~~!。
巨大隕石が海洋やその近くの陸地に落下した時は、必ずそれに見合うだけの巨大津波が発生します。ここでいう巨大隕石のサイズは直径が10・20kmですから、そっと落としただけでも1,000mや、2,000m高の津波は発生します。これが造る波状痕は前シリーズで述べています。信じられないことですが、6,500万年前の波状痕を砂漠地帯では克明に残していました。しかしながら、植生に覆われていたり、人為的な造形があるととても推みづらく、これが謎解きを妨げる主因です。
今では、海洋国日本のTUNAMIは、国際用語として通用します。しかしながら、列島の津々浦々に、4,000年前の津波があったとの伝言を地名として遺しているのに、それが皆さんに伝わりません。海洋国の日本でさえ、このような状態ですから、大陸内部まで遡上した巨大津波を欧州諸国の人達が「大洪水」だと表現するのは無理のないことです。大洪水と巨大津波は全く違います。 洪水は陸から海へ、巨大津波は海から陸へと遡上するのは申すまでもありません。欧州に残る神話や伝説の「大洪水」をその言葉のまま受け取ってはならない!! 「大洪水」=「巨大津波」なのだ。その巨大津波は、巨大隕石に起因している。 □
反論^^、修正をお待ちします。 史実探偵: 平 素人
[257] Re: 世界各地のクレーター状地形
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 4月29日(月)
管理人さまへのお返事です。
> 平さん、こんばんは。ここ数日、古代史板でも、隕石落下の件について指摘してきたのですが、お門違いな気がするので、こちらに続きを書き込ませていただくことにしました。
管理人さま> コメントありがとう御座います。この掲示板に『超』をつけて下さっていることに大感謝しています^^。
6,500万年前の恐竜大絶滅については、バークレー校のアルバレス博士父子が、巨大隕石説をとなえてから、大きくそちらへ傾きました。それ以前にも多くの論説があったようです。わたし素人は、その一部を除きそれ等の全ての論説を含有するには?? を考えた結果が、絶版報告書 『南極大陸は巨大隕石』 でした。最新論は、山田さまもおっしゃっていた「チクシュルーブ・クレーター説」ですよね・・・。
この論の最大の弱点は、その時発生したであろう巨大津波についての詳しくが語られていないことにあります。巨大天体が衝突して発生する津波は、地勢(高さと地形)や緯度によって実にさまざまな様相を示します。動画のように、おしなべてと云うわけにはまいりません。
今、私が掲示している「地球の90%以上を覆う巨大津波シリーズ」ですが、北米東部のオンタリオ湖の南東に在る<キャナンデイクア湖、セネガ湖、カューガ湖、オワス湖、スカニースルズ湖> の条痕を“巨大津波が山越えした時にできた条痕か?” と、推んではいるもののGoogleEarthではダム湖や造畑地に阻まれてまったくウラがとれません~~!。等高線図でもあればいいのですがGoogleEarthでそれを作図するにはあまりにも煩雑で、今は、それをあきらめています~~!。
> それで図2は、ここ古代史板でも作成を進めてきた世界各地のクレーター状地形ですが、・・・
先様の「衝突惑星・多角形論」に、白眉を感じているとは以前にも申し上げましたが、もっとすすめてまとめ上げてくださるべきだと感じています^^♪。(スミマセーン~~!第7号にありました。)
<(先様の)第2図に関連してですが、>
「古代史掲示板」のほうで揚げたかどうか不確かなのですが・・、当方の絶版報告書から「惑星肥大化の模式図」をあげておきます。先さまの<巨大な衝突痕が赤道に並行している>は、はからずも当方の「トーナメント・惑星肥大化図」と、太陽系作成の過程で「各惑星は衝突合体を重ねながら黄道に沈殿してゆく論」と、あわせれば大きいものほど新しいことになります。(もちろん例外はあります)。
<キシ先生のご記事>の精読は出来ていなかったのですが、それの関連地域に「1万2,900年前の痕跡」があるとか・・・^^。
拙トーナメント肥大化論は、自分で掲げておきながら「地球史46億年」の学説を再考しなければならない恐ろしいことでもあり、自分でも信じられないことと、30年前から封印してきました・・・・、「何とか機構」説もあったのですね^^!
尚、この絶版報告書よりの掲載2図は、('19/4/30~)
先様方がどのように引用・掲載されても異議は有りません。 □ 史実探偵: 平 素人
[265] チクシュルーブ・クレーターは南極大陸が大隕石のデブリだ!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 5月 6日(月)02時00分
今晩は、管理人さま情報のユカタンの“チクシュルーブ衝突体”について考えています。
wikiに、ここの重力異常図があります。
USGS - http://soundwaves.usgs.gov/2003/05/meetings.html
この下半分に注目してください。下方(南)から上方へ火炎が吹いたような形にみえませんか? 筆者は、これと同じような地形をニュージーランドの北方海域で観ています。それを前掲した<ゲーム・オーストラリア部>で、「ニュージーランドを削ぎとった巨大津波の濁石流の痕だ!!」としていました。 https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs/148 <ニュージーランド>
わたしは、南極大陸が巨大隕石ならば、必ずその飛散弾はあるはずだと!! 思っていましたが、なかなか発見けられずにいました。チクシュルーブ衝突体は、その時の デブリ(分弾)です。衝突半円形の海上部も北方へ流されているように見えますが・・・^^?
関係図面をあとで載せます^^!
[267] Re: チクシュルーブ・クレーターは南極大陸大隕石のデブリだ!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 5月 9日(木)
管理人さまへのお返事です。
ユカタン半島の重力異常図 & k-Pg境界>の 掲載ありがとう御座いました。
この図の掲載が出来なくて苦慮していました・・・^^!
> ただ、そのクレーターの円形は、逆に北側が開いてますから、北から衝突したようにもみえなくもない感じです。
> もう少し、これの大きな画像があるといいんですけどね。複数のクレーターが重なっている可能性も感じます。
> それが南の炎のような模様を浮き出させているのかもしれませんね。
そうですね<シモ・インパクト^^>の可能性も否定は出来ませんが、私は中心の円形部からも“北側に揺らいで”でている条痕にも注目しています。さらに、この図全体的にも「揺らぎ条痕跡」を観ると出来ますから、その津波の勢いは相当強かったのでしょうね。
> またご指摘の津波の痕跡ですが、メキシコ湾への衝突に際して、ご指摘のようにアメリカ大陸側へと津波が流れていき、平野を浸食した可能性はありそうですね!
そうです。このユカタンを衝撃の中心とみて300m高の津波であれば、今、論じている北米平野部の津波痕跡や、「前・シリーズ」のアフリカ大陸北部の津波痕跡は説明できます。しかしながら、それと認めると、南アメリカ大陸で論じたブラジル高原にあった北方への流紋痕や、南アフリカにあった北方への条痕も説明できなくなります。
> あとは、津波がどのくらい、陸地を削り取れるか・・土砂を運べるかの問題もありますね。
この問題は簡単です。今、わたし達がみている「雨上がりのグランド」で、その条痕を発見ければいいだけですから・・^^。ただ、それを<その相似形>と認めるか、認めることが出来ないかだけの問題です・・・、
> ジャイアントインパクトクラスの衝突ならば、津浪ももはや爆風まじえた火砕流のようになっているでしょうから、溶岩のように融けた物体として表面に残っていることも予想されます。
> k-Pg境界の土層をさらに調べる必要がありそうですね!
ジャイアントインパクトで噴出したデカン高原溶岩があります。まえに地球周囲4万km対比20kmサイズの天体衝突のはなしをしましたが、その小規模^^!の衝撃力で2000m厚さのデカンの溶岩が噴出するでしょうか・・??。 そして、6500万年からのアイスランド全域溶岩の話し(絶版報告書)もあります。さらに、北極海のアルファー海嶺の話しを南極大陸が衝突したときの対蹠地だと(myブログ)で揚げましたが、この岩石年代も6500万年をあらため→6600前でしょうね。キット^^。
k-Pg境界>の異変をふくめ、今までにあった(一部を除く^^!)<全ての大絶滅論を包有すれば>わたしが唱える『南極大陸は大隕石と、その時の巨大津波論』となる!!!
なにしろ、世界トップクラス40人~100人の学者×歴史 : 中坊程度のド素人 ですから一筋縄ではいかない。・・・で、一番わかりやすい<地球の90%以上を覆う津波痕跡>を貴家掲示板に遺そうと^^!思っています。この掲示板に管理人さまの苦肉策、人知を超えた『超』を付けて下さったことに、とても感謝しています・・・。関係図面を後でのせます^^!
[269] Re: チクシュルーブ・クレーターは南極大陸大隕石のデブリだ!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 5月11日(土)
No.268[元記事へ]
管理人さまへのお返事です。コメントありがとう御座います^^。
> 確かに、メキシコ湾のユカタン半島以外にも、隕石落下があったと思いますし、ご指摘の南極方面にもあったかもしれませんね。
> 複数の場合は、それらの時間差と津浪の波の干渉をシュミレーションしないといけませんね・・・。
わたしは、この件をつぎのようにシュミレーションしています。
先ずは、南極大陸=衝突天体が地球にぶつかり合体する。その破片(デブリ)がチクシュルーブに飛んだ。約10~12時間後に、この地においての(緯度によって異なりますが)300m級の巨大津波がとどいた。先の重力異常図は、そのようにみえます。この図の白の点域が(セノーテ・天然の泉の分布?)気になっています・・・、
> ・・・、仮に南極がクレーター由来であるならば、以前から指摘してきたように、衝突時の衝撃波が多角形になるはずですから、結果として同心円の中に多角形が内包されるような構造となるでしょう。・・・、
> それで図3は、南極大陸の解析図ですが、こうみると、図のように6方向に凹凸が綺麗に別れていることがわかりますから、やはり、クレーター由来の大陸である可能性がみえてきますね。
南極大陸が衝突多角形の一部分・・>とても、斬新な見方ですね^^。そのような見方をしたことが有りませんでした。メキシコ湾といい、日本海までもが多角形・・・。半月形と多角形衝突痕<シモ^^インパクト>炸裂の感がいたします^-^♪。ところで、メキシコ湾と北海道の内浦湾は大変よく似ていますね。内浦湾内には鉄鉱石があります。それでも噴火湾^^???
わたしは、内浦湾あたりと、メキシコ湾あたりと、イタリアあたりを「隕石銀座」とよんでいます^^!
> ・・・、今回は特にユカタン半島、五大湖、カナダ方面のクレーター状(多角形)地形の中心を青ラインで結んでみました。
> この落下ルートだと、南極方向へ向かった可能性もみえてきますね。
> ただ、問題は、なぜ地球の地軸ピッタリの南極へと落下したかについてでしょう。多少極からズレたところに落下してもおかしくないはずです。
> そこで考えうることは、その落下地点が軸になったということ、その落下により、つまり23・4度地軸が傾いたとの見方です。
地軸の傾き>に言及してくださる人が、ついにでたか!!の感がいたします。わたしは、白亜紀末の前後で裸子植物から被子植物優位に変わったのは、南極に大陸規模の天体が衝突したから地軸が傾いて無季節から有季節へと変わったからだ(絶版報告書)としています。
極への衝突は、赤道部への衝突に比べて小さい力で地軸は傾きます。その“衝突方向も”合わせて数理に強い専門家の出現を待っていました^^!。
> なぜそうなるのかですが、たとえば、現在の南極の位置に隕石が落下してそこからマグマが吹き出し、南極大陸が生じることで、その部分が変形・密度変化してしまい、そのことのよって、徐々に軸が近づく結果となったとするのはどうでしょう?
> 仮に南極大陸が、隕石落下の刺激によるマグマ噴火によって形成された大陸であったとすると、カルデラのような吹き出し痕が土壌にみえてきそうですね。ただ雪の下になっているので確認は難しいかもしれませんが、地中レーダーの探索などでみつかってくると面白いことになりそうです!
わたしは、南極大陸のクラゲの頭部分は、天体が衝突し片麻岩化して地表に残り、クラゲの触手部分は、既成の陸地と衝突して破砕したかと?(絶版報告書で)していますが、確たる論証はありません。南極横断山脈がその境目あたりですが、今後の詰めが必要かと思います・・・^^!。
[272] 終活中のヤケボックイ^^!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 5月24日(金)
管理人さまへのお返事です。
myブログカテゴリー「報告書・吉備地方」とどきましたか^^! 早速のお返事ありがとう御座います(深礼)。
> ひとつアドバイスさせていただくと、博物館や新聞社に自説をお送りするときは、おそらくはA4ページ1~2枚くらいで絵入りで送られたほうがよいでしょう・・・。長いと後回しにされたまま、どこかに埋もれる可能性がありそうです(汗)
ありがとう御座います。全く、そうですね^^! 書いている時は、それなりに高揚していても、後から読み返すと長駄文だらだらで嫌気がさして、自分でさえも“お蔵入り”していたものですから、多事多忙の先さまならなおさらです。
ある人曰く『あんたにゃわるいが、卑弥呼がどうなろうと、今のワシにゃ~関係ねえ』義兄曰く『あんたにゃわるいが、現学をとる』と、12年ほど前の世間話しから始まりました。多事ある世の中で「卑弥呼云々」に興味をもつ人の割合は微小です。人それぞれ、それよりも面白いことはいっぱいあるのでしょうね。
でも、<共通の文化には、共通の事象あり!>として、吉備でも、出雲と同じような関係場所に大量の銅鐸(予測数23個?)と、銅剣(予測数200余本?)が「埋封」←筆者の造語です。されていたら面白いことになるでしょうね。これは100%であり、1%の欠損もありません。http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-date-201605.html
「三都(出雲・吉備・大和)と卑弥呼」の進歩ジウムを知り得たのもなにかの“ご縁”とおもいお送りしました。どうぞ御机下に^^! いまの私は、終活中のヤケボックイ(^^)。じぶん主導で動くには、そのエネルギーが足りません(汗~)。
[276] 学校の門柱には「冬至の旭光が入光する考え」が潜在していた!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 6月 1日(土)
管理人さまへのお返事です。
> 平さん、こんばんは!さっそくお返事ありがとうございます。まだいただいた報告書のほうは、バタバタしており読み始めてませんが、また機会をみて拝見させていただきます(汗)
管理人さまは多事多忙でお疲れのごようす^^!。 送りました「拙:報告書」のほう、どうぞ御気になさらないで下さい。わたしの中でも"お蔵入り"していたモノですから^^!、御机下に保存して下さるだけで充分です。この件は、論ではなく行動の域にあり、それには逮捕権のある専門家(検察・警察)の「参加と、お墨付き」が無ければ一歩だに進めないと、今はあきらめています。特に<吉備の大量の銅鐸(予測数23個)の埋封場所を記した極秘3頁分>は、コピーを防ぐためのプレミア用として作成しています。それは当方の没後になるでしょうから、その時まで置いとくことにしましょうネ・・(笑い)。
わたし素人探偵は、当掲示板で先さまが苦心してつけてくださった『超』の部分でもある “天体の衝突” が、人類史に与えた影響の解明に興味があり、それは、現代社会にも潜在しているとしています。
・・・^^で、
<キシ先生>が揚げられた「トーテンポールの件」について、ヒラメキました^^。
鳥居については、わたしなりの納得があるのですが、門柱については、とくに「神社や学校の門柱」については分かっていませんでした。既知のようにトーテンポールは信仰上のものとされています。高い棒や「幟・のぼり」を一本立てれば、色々な観測ができるとは貴家で論じられてきました。それが「なぜ二本の門柱に移行したのか??」が、私的には分かっていませんでした。
ご存知のように大陸の地形は平たんであり、太陽が今の時期、どの方角からのぼっているのか目印がなくてよく分かりません。そこで棒を一本立てて、その影を観測すれば春夏秋冬は分かってきます。列島の場合は、あの山この山「向山」朝日山と、特徴のある山姿がたくさんあるので事欠きませんが、米大陸、中国大陸、欧州、その他砂漠地等の広大な平たん地では、目印にするものがありません!!。そこで遠くからでも見えるような巨石をたてようかとなるのが無理のない展開^^。実際にそのような遺跡があるのも先学で知るとおりです。
<でも、並べての対二本は要らない??>
そうだ!! そのスリットが大事なのだ!! その隙間から“射し入る陽光”が大切なのだ!! 今から四千年ほど前のBC2001年12月25日未明am6:00ごろ、地球を半周した20kmサイズ(??)の巨大天体が東北地方に降臨し、眼底も焼き尽くすほどの閃光が走ったことは別紙で報告しています(これは後の千光寺信仰へ)。その門柱は冬至の旭光がそのスリットから入光する考えに基づいている。学校の門柱は冬至の旭光が入光するためのスリットであった!!
この形式をくんでいるモノは、その数をいとわない。伊勢の二見ケ浦の夫婦岩がそうだ。出雲の坪背山では、天岩戸の原形が埋もれていると(古代史版で)謎解きした。 但し、地球の歳差運動で、その旭光の位置は72年に1度角、時計回りにズレてくるとキシ先生から教示されている。今を遡れば、その施設遺跡に旭光が射し込んだ年代が推定できる^^。
それが、今から1700年前のヒミコの代になれば面白くなりそう・・・~~♪
[000] 隕石の衝突痕: 環状列石の移り変わり !?
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 6月 1日(土)
http://fatale.blog24.fc2.com/blog-entry-255.html
上の画像・環状木柱列:石川県桜町遺跡は 「今宵もGACKTコスでお散歩~♪」 の隊長さまより特別のご許可を頂いて、お借りしていますのでコピー転用は固く禁じます!!
管理人さまへのお返事です。
>ストーンヘンジなどは、確かにその岩と岩の間のスリット光を利用しているようにもみえますね。夫婦岩などもそうですし、古神道系の磐座信仰とかにもその辺の話はよく聴きます。
>やはり2000年前後のそれを調べるのでしたら、東北・北海道の環状列石の分析は欠かせないように感じますね!
コメントありがとう御座います。・・・お返事おくれての、ご無沙汰をしています^^!。 環状遺跡と冬至(夏至)の旭光の関係は、ストーンヘンジ等でも云われています。 私素人は、巨大天体が衝突したかニアミスかは別として、その驚愕や畏怖が人類にあたえた影響に興味をもっています。
筆者が提唱するBC.2001年12月25日“未明am6:00時頃”地球を半周して東北地方に降臨した天体は、人々の心に「竜神となって」入り込みました。この日時までも解明したことが、かえってその信ぴょう性を欠き、「四千年前の衝突の日時や時分までも解るはずがない」とされています。しかしながら、その時の衝突光は、『冬至の朝の旭光』として今の人達の心にも遺されています。
その眼底までも焼き尽くした閃光は、荒神様の御来光としても崇められてきました。
<その冬至の旭光の歴史の変遷>
ストーン・サークル: 巨大隕石分弾の落下痕か??
↓↑ (歴史的関係の有無??)
環状木柱列: 冬至十夜の旭光を新造銅鐸や、新造銅鏡へ入魂する施設と謎解きしました。
↓
天岩戸: 冬至の旭光が入るスリットだと謎解きしました。
↓
土俵・すもう: 「これより幕の内にはいります^^」
舞台の幕あけや幕引き、こけら落しにも、その形が残っているのかな(笑い)。
英国のストーンヘンジでは、巨大隕石が飛び去った方向、すなわち東北の方向にビーカーの口のような遺設があったり、四角い粗削りの石が斜めに突き立てられていました。そして、フランスのカルナック列石は、その「巨大隕石の廊下だ」と謎解きしています。
東北や北海道の環状列石の方向性を考えたことはありませんが、それらを構築するとき「何処を起点にして、表情の異なるそれぞれの石をどの位置に配置するか」の方向性があるわけで、富山の環状木柱列では東南に入口風の半割の巨木が用いられていました。東北や北海道のストーン・サークルにも、そのような要石が使われているかも知れませんね^^!> 蛇足ながら、富山のウッド・サークルでは、木柱の劣化と歳差運動による日の出位置のズレから少しずつ時計回りにズレていったと記憶しています。この環宮・遷宮は、今でも出雲大社や、伊勢神宮にも“シキタリ”として残されていますね^^。さらに々にの蛇足ですが六角・八角堂やお神輿のうえで雄鶏が日の出を告げることからも、その大事変が “日の出前の未明”であったとの結論にいたりました^^。
<チカモリ遺跡・環状木柱列について>
所在: 石川県金沢市新保本町5丁目33
① 北
⑩ ② ↑
\
⑨ ③
\ 北から番号を振りました
*
⑧ \ ④ /
\ ④と⑤は入り口か?
⑦ ⑤ (/印は、S状の板)
⑥ / \
← 直径約6m → 当時の冬至の朝の光が射し込む方向?
[280] 遮光器土偶は徐福隊兵士と列島荒神文化の合体したものだ!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 6月27日(木)
管理人さま、多々あるなかでのコメントありがとう御座います。
図・文ともwikiより、
>遮光器土偶 (しゃこうきどぐう)は、縄文時代につくられた土偶の一タイプ。一般に「土偶」といえばこの型のものが連想されるほど有名な型である。目にあたる部分がイヌイットやエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器(スノーゴーグル)のような形をしていることからこの名称がつけられた(遮光器を付けた姿の表現ではなく、目の誇張表現と考えられている)□
この遮光器(遮光面)土偶は主に、縄文代の東北地方から出土している。遮光面とは金属溶接時の強い光で眼底が焼けるのを防ぐお面です。日食等を観るときもこの色付きガラスを使います。度々で申しわけありませんが、四千年前の12月25日未明の東北釜石に約10km(??)サイズの巨大隕石が落下しました。1kmサイズの巨大隕石で「人類は滅びる」とされる学説からすれば、その大きさは推してしかるべきです。未明ではありますが、隕石に先行する衝撃波に起こされた人々はこの強い光を目に受けました。この時発生した巨大津波の数波は北上山地を越えるほどのものでしたが、『どっこいオイラは生きている^^』と、その事変を(伝言)地名として遺しています。詳しくはmyカテゴリー<巨大津波>へどうぞ・・^^!
筆者は、このような巨大災害で人々が立ち直るには200年はかかるかとみています。加えて、10℃以上は下がったと思われる半球の寒冷化もあります。でも、不思議なことに被災の規模が大きければ大きいほど、人々はそこへ集まり文明を築く傾向があります。これは人類が衣食住だけの生活から自然の驚異をうけそれが神として人々の心に入り込んだとき、その神が核となり集団性が生まれるからだと以前も申し上げましたが、その時発生した滝雨や大雪が慈雨へと。津波が運ぶ生体が肥沃土への変化もあると思います。
さて、四千年前の東方に大事変をみた大陸に「神仙思想」が生まれました。わたしの個人的見解かも知れませんが、初物を大事におもう列島人に対して、中国の人達は珍しく手に入りにくいモノほど大枚を払うようです^^。人の殺傷与奪までも得た始皇帝は不老不死の仙薬をもとめて、その大事変があった列島に「徐福」を出立させた。あるいは徐福が申し出ました。この序章として、始皇帝は時の高名な方士の二人に、その秘薬をつくれと命じたが「そんなモノはつくることが出来ません」と、トンズラしてしまった^^!。これを怒った始皇帝は、お前たちでその薬を作って「生き永らえよ」とでも云ったのでしょうか。四百数十名の方士達を穴埋め?にした。そして、それを諫めた長男までも北方に追いやったと聞きますから。それへの欲求は相当なものだったのしょう。
徐福については先様方のほうが詳しいので割愛しますが、その一度目の出航は大鯨(台風)にはばまれ散々だったようです。二度目は、童男童女3000人と百工(それぞれの職人)と五穀を与え万全の体制で臨みました。童男童女3000人を与えたのは「末代かかってもその薬石を持ち帰れ!!」とでも云ったのでしょうか? (これについては別述で) 。三千人の数を誇張した数ととらえる向きもありますが、兵馬傭〇百人の規模をみれば、まんざらでたらめな数でもないようです。
<遮光器土偶について> ここからが、この投稿の本題です。
中国では、絶壁のツバメの巣、熊の肉球、深山の霊芝など。危険を伴うものほど珍重されるのは前述済み^^!。大陸では、 列島は地震や津波の巣であり加えての台風の襲来で度々被害をうけていますから「東海に荒神あり」と思うは自然のながれ。その東海の島にボサボサ頭の長寿仙人(縄文人^^)が住むと聞けば、きっとそこには秘薬・仙薬があるに違いないと思うのも無理のない展開^^。大陸にまで大災害をもたらすほどの東海には、よほどの荒神がいるに違いない。事実、一度目はその荒神に行く手をはばまれている。神秘性はます々増す。「その荒神なにするものぞ!!」 それを恐れては不老長寿の薬石は手に入らない。始皇帝の不老不死の薬石への執着はすさまじく、第一その荒神を制することが政治の基でもありますから、それに臆していては示しがつきません。前述の大資とともに最強の兵士を徐福にもたせました。→カテゴリー「徐福が日本史に与えた影響」へ(^-^!) http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-date-201511.html
徐福達の大船団は、潮来一枚下は地獄といわれた時代。海流に流され千々に分団したが、各々を探し合い出雲に(?)着岸した旗艦・徐福のもとへ集結した。この再開を喜ぶさまは出雲風土記か史書にあったのかな^^!。賢明な徐福は、出雲に本社をおき各地に支所をおく会社組織式をたちあげた。徐福たちは大陸の技術や銅製品と交換に、列島の案内・情報・協力者、人夫等を求めた。そして、列島の人々に医療・施術をした(試した)のは申し上げるまでもありません。その情報の中に空を “リュウ~”と 飛んだ荒神が列島の北の方に光臨したことを知った。この様をモンタージュしたのが龍画だとは前述しています^^。
その荒神・龍と対峙するには最強の兵士が要る。徐福たち、あるいはその分団は津軽をこえ太平洋側へ廻る。とくに注目したいのは、この地方に蕨手刀(わらびてとう)という持手がわらびのゼンマイ形の出土がある。この形は引き切ることを加えた刃であり大陸の匂いがする。もちろん甲冑に身をかためている。
一方、列島人の方ですが、列島各地には「閃光を発した」BC2001年末の大事変を体験した独自の歴史が続いている。その兵士の姿を見て、あらぬ方向から自分達が信じている「荒神様がおわした」と思うのは無理からぬこと。縄文土器のこの時代。遮光面土偶の “兵士ようの甲冑” は、あまりにもリアルティ過ぎる。筆者は、遮光器土偶は、徐福隊兵士と列島荒神文化が合体したものだと断言できる!!。
さて、その眼底をも焼き尽くす強力な衝突光は、列島のどこまでとどいたのでしょうか。祖先はそれを地名として残しています。以前その画像をこの掲示板でもかかげましたが、早く知りたい方は、myカテゴリー「巨大隕石」の方へどうぞ・・・、つづく・・・^^。
<巨大隕石と、その閃光を言う地名(伝言^^)>
徐福たちは、この異変の地に不老不死の薬石を求めて渡来した。
<地 名> ( その 推 定 理 由 ) 北海道・美唄(ビバイ) その時の飛翔轟音(ビリビリバリバリ?)を言っているのかとした。 忍路(オショロ) 恐ろしいものが通る路(みち)の意か? 北海道・白神岬 飛翔体と空気との擦過光を言っている。 竜 飛 崎 巨大竜=巨大隕石がこの上空を飛んだと言っている。 青森県・白神岳 飛翔体と空気との擦過光を言っている。 奥羽山脈・真昼岳 山脈の西側から見て未明の東の空が衝突光で真昼のように輝いた。 丁岳と丁岳山脈 火の戸の意で、奥羽山脈とのT字形で衝突光を止めたと言っている。 (ヒノトダケ) 羽後(うご) 丁岳山脈の北側で、その飛翔体=巨大隕石が飛び去った後方を言っている。 羽前(うぜん) 丁岳山脈の南側で、その飛翔体=巨大隕石が来なかったと言っている。 奥羽山脈・白髪山 シロヒゲ山と読み、その時の発光と恐怖で白髪化と立枯れ木化とした。 (後の白髭山信仰に移行した?)類似伝言に、毛無山、黒森山、等があります。 奥羽山脈・面白山 「面・おも」は、外庭とか顔の意でありその山の方向が発光化した。 北 上 川 ふつう「川が北へ上る」とは云わないよね? 津波なら北へも登るけど! 下北半島 これも同義語、北方がその津波の下手を表す地名。 岩 手 県 この地帯が爆風や衝突熱と、発生した大地震と巨大津波で植生を奪い岩表化した。
子供の頃、「何故、これ等の地名が付いたのか?」と、不思議に思ったことが誰にもあるはずだ。「えっ?」考えたことがなかった^^? それは残念(笑い)」
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『 東北地方 ・ 祖先からの地名伝言 』
(↓ 拙電子出版(絶版)より転載 )
その昔、(BC.2001年12月25日 未明の朝6時頃) 竜が飛んだと、“龍飛崎” 全天覆った“奥羽”の羽 “大槌・釜石”に降臨した。
“松前”のそちらに飛んだと“白神岬”、白光見たと“白神岳” 、真昼のようだと “真昼岳”、私も見たよと“面白山”あな恐ろしや恐ろしや木々も白んだ“白髪山” 「しろひげやま」と読みます。立ち枯れて幹だけが白く残ったんでしょうかぁ? 巨大な津波が生誕した。 “水界峠・250m”のすぐそばに、津波で沈んだ“志津の川”、金の扇か “金華山”舞い踊ったか“竜舞崎”、巨大津波を“歌津”とは酔狂人がいたもんだ。 “岩の手”を敲いて育った大津波、暴れん坊の大津波“牡鹿半島”を蹴散らかし、 花嫁さがして大津波、“志津川”越えて“津山”を越えて、後押しされて“追波川” 鹿の背越えて“渡の波”へ、巨石渦巻く“石巻”、“仙台”越えて“津の田んぼ”、 “次郎太郎山”が通せんボッ。 二俣かけたか大津波、津波は川を北上する。 “北上川”を北上する。 “志波姫”様を横目にし、“江刺”恋しや“花巻”恋し、 妬きもち焼いて“焼石岳”、黒く焼いたる“黒森山”、 それを眺めて“国見山”、 どうなるものかと“物見山871m”、“遠野”で眺める“物見山917m”、 袖を振られた大津波、 “盛岡”の先 “姫神山”へ、 土を盛っての贈り物、 シワぶきひとつ“紫波”の波、行かせてなるかと“区界峠”、節操ないと“八幡平”、 想いかなわじ“七時雨山”、ここから先は下り坂、力落として“一戸”へ、 “二戸・三戸”四歩と歩めず。 気を取り直して“五戸・六戸”、 “七戸”の先、 あの“恐山”、 力尽きたる大津波、 ふる里、目指して“八戸・九戸” 津のない十(とお・ツなし)で、お終いじゃあ! (“・・・・”内は、地名です)
子供の頃、「何故、これ等の地名が付いたのか?」と、不思議に思ったことが誰にもあるはずだ。「えっ?」考えたことがなかった^^? それは残念(笑い)」
管理人さま→ [8200] Re: 東国三社と冬の三角形(続き) 投稿日:2019年 7月 4日(木)
弓張月さま→ [8196]
・・・興味あるご記事をみつけました^^。
こちらへの投稿は敷居が高くて疎遠になってます。それにボケが入り即答できないので^^!
>> 弓張月さんへのお返事です。
『常陸風土記』の行方郡段に見える、「行方郡の郡家の周辺の原野に群棲する蛇体で頭に角を生やした神で、その姿を見た者は一族もろとも滅んでしまうと伝えられていた。継体天皇の時代に箭括氏(やはずのうじ)の麻多智(またち)が郡家の西の谷の葦原を新田として開墾するに際し、妨害する夜刀神を打殺したりして山へ駆逐し、人の地(田)と神の地(山)を明確に区分するためにその境界である堀に「標の?(しるしのつえ)」を立て、以後祟りのないように社を創建して神として崇めることを誓い、自ら神の祝として仕えるようになったといい、麻多智の子孫(箭括氏)によって『風土記』編纂の時代まで代々祀ってきたという。」が、歴史の証明でしょう。
> 杖を突き立てる話は、興味深いですね。神功皇后の新羅遠征のときも、剣か何かを突き立ててますし、支配領域を示すのに、その境界にそういうものを突き立てるわけですね。それで相手を威嚇するというか・・。 ・・・、□
この二つのご記事は、我が意を得たりの感がいたします。
重要な(キーワード)には色付けしました。
(ヒミコ)は、それまで永々とつづいてきた「銅鐸生け贄文化」を「銅鏡身代わり文化」に変えようと魏から得た100枚の銅鏡を、各々の郡で使用していた銅鐸に換え与えました。そして、これも持ち寄った稚児を殺めた刃とともに、すでに大量の銅鐸と銅剣が出土している<出雲方式>で埋封(まいふう:筆者の造語です)しました。この詳しくはmyブログを参照してください~~!。
<出雲方式とは>
銅鐸の埋封場所は、人里を徒で半日ほど離れた岩の付く山の南東斜面(当時は東)。
埋める深さは四尺下(四=死につうじる)。
銅剣の埋封場所は、そこより西方、二山越えの三山のまえ。距離にして約一里(離)。
『同様の文化には同様の事象あり』 貴家で論じられていた難しい学門は、さておいて(笑い)。銅剣のほうはイマイチ詰めが甘いので討議や伺う余地があるのですが・・・
出雲、 吉備、 神戸、 野洲、 以上の四か所は、吉備を除いて大量の銅鐸(銅剣類)が出土しています。
『剣か何かを突き立てて、なにかを威嚇する』 - 管理人さま言
まさに、我が意を得たり!その「なにか」とは、角を生やした神(巨大隕石が八散)であり。「夜刀神」とは、BC.2001年12月25日の未明の巨大隕石であり、四千年前の推定Φ10kmの巨大塊をさします。その天空からおわす荒神さまに抗らいご遠慮ねがう分けですから、並みの剣であってはなりません。出雲にカンナビ山があり、この山の頂上は、なだらかな丸み形。円山に類する地名は各地にあります。荒天に抗らうには、そのような優しい山であってはなりません。威嚇するための剣形(つるぎ)でなければなりません。先にあげた四か所には、「岩」に関係し銅鐸を埋封した地名から西方約4kmのところに、
出雲・仏教山△、 吉備・経山△、 神戸では荒神山△が2個所あったのでチョット迷います^^!。 野洲では三上山△、が天に抗らう剣(つるぎ)形をしています。これは後に剣山信仰へ移行しています。
(ヒミコ)は、そこへなにを埋めたのでしょうか^^? ・・・根がつづきません。この先は皆さま方でお考え下さい^^!。この詳しくはmyブログ^へ、・・・さてさて先様方のお考えと、ドがつく素人の推理妄想^^が一致すればいいのですが ?・・・・(~-~)。
その探索での金属探知機の持ち込みは、<1m>と違えてはならない!!
吉備・岩屋の23±?銅鐸と、 野洲・三上山200本??の銅剣類(正確な予測数忘れました^^!)
尚、以上の記事へのコメントは先様のご自由ですが、当方妄想^^にボケが入りだしてますので「一切のご返答はできません!!」 あしからず・・ この件に関しては論はいらない。ただ実行あるのみ。
素人の予測した場所に予測のモノが出てきたら、今まで送付数の2000通を無視された先様がたは、お困りになるでしょうねえ(笑い)。今から、その先様に貴方がはいります(^-^)♪
「なぜあなたが、それをしないのか?」 ですってぇ^^!
肩書・実績のない赤貧の史実探偵であることと、『文化財保護法』に、はばまれています。
日本人のルーツ・・さまへ>
>あ、キシさん、秦野さん、平の素人さんについては、妄想癖の、ただのアホですwww
ありがとうございます^^。キシ先生や秦野さまと同列にしてくださるとは感謝のきわみ^^
先様ぁ何か思い違いされてませんか? 「ただの〇〇」ではなくて「世界一の〇〇」にしてくださるともっと嬉しいのですが^^。その〇〇にあまり絡まないほうがいいと思いますよ。もし?ご子息がいれば(??)負の遺産を歴史に刻むことになりますから(笑い)。日々の訪問者二百に近いこの掲示板は管理人さまの桁外れの許容力と見識と管理労力に加えて、諸先生方のコメントがなせるとはよくご存じのはず。議論白熱はのぞむところですが、暴言は品を欠きます。せいぜい並列にとどめておきませんかぁ!! 私はイエローカード一枚を切っていましたよね。先国で存分に研究成果をだされていつの日か帰郷されることを望みます。『その暴言が、その有能さを大無しにしてる』
ではでは・・・(管理人さまのパクリです^^!) 再見吧^^
[8268] Re: DNA人類学あるいはルーツ探しの効用
投稿者: 史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト) 投稿日:2019年 7月 9日(火)
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さまへのお返事です。
> [8251] DNA人類学あるいはルーツ探しの効用
しかし、DNA人類学ほど生活の役に立たない学問も少ない。篠田謙一も、2007年の著書あとがきで、日本と隣国はmt-Dを共有しているのだから「民主主義の価値」を共有できるはずだなどとワケ分らんことを述べ、自著の価値を台無しにしている。日本の場合はDNA人類学がアホどもに悪用され、右翼の風潮に拍車をかけてしまってさえいる・・・
君らはどう思ふ?
>私の場合は、そうねぇ、言語学習の意欲昂揚効果は見込めると言えるかな?
>あと、社会・国家を越えた見えない連帯感みたいのも湧くよね。
>いや、何となく、想像上のね。
>わたしゃ、君(平 素人)が何やってるのかも理解不能だから、噛み付きはせんよ。
安心しなさい。
縄文・超古代史掲示板 ←投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019/ 7月01(月)
[284] 米女史DNAアプリで未決20数年前の犯人割り出す!
管理人さま
まことに不確かな記憶(特に数字~~!)の情報で申し訳ないのですが、2・3日まえの、これも確かではではないのですが、TV・アンビリバボーか、仰天ニュースでみたのですが、20数年前「美人教師が自宅(?)で殺害されました」警察はもちろん現場に残されていた犯人のDNAから、過去の犯罪者・交友関係・怨恨・行きずり・変質者とうのあらゆる手段をもちいましたが未解決。聞き込み捜査で女性は品行方正、捜査線上にあがった人数の数百人(?)は、いずれもシロ。・・・で、その女史が開発したアプリ・AI(?)システムで<1個人>を割り出しました。その犯人は有名なミュージシャンで非暴力家であり捜査線上にはありませんでした。美人教師はそのファンで、その公演で目をつけられ後をつけた犯人によって殺害されました。この事件は目撃情報とうの一切の情報がないことが災いしていました。女史が開発したDNAシステムで、出自、白人男性、髪の色、骨格、経年とうで作成されたモンタージュ画は犯人にそっくりでした。
わたしは、米画「クリミナルマインド」ををよく見るのですが、DNAによるプロファイリングはそこまで出来るようになったのですね。これはアメリカや中国(も?)だからできることかも知れませんが、個人情報の出自から現在までの一切がわかることでもあり恐ろしい管理社会へと進む可能性もあります。女史曰く。開発がすすめば「このような犯人は必ず捕まり、減少へ」・・以上、ボケボケもありますから大意をくんでくださるようにお願いし、この番組をご覧になった方の修正をお願いいたします^^!。 ・・・□
追 記('19/7/09)
DNAの解析は、近時安価(99$^^)になったせいで急に拡がりをみせているようです。さて、前記投稿の米女史「体液の DNA」から彼女独自の開発アプリで、犯人<一個人の>26(?)経年後のモンタージュ作成。これにより非暴力をうったえてきた有名ミュージシャン逮捕できた。
これは、犯人は男性・白人・髪の色・目の色・人種的骨格等々の解析からかな^^? そして、この「古代史掲示板」でも、色々に論じ揚げられたように、DNA種の地域グルーブ、特性、性差、罹病性、酒消化、思想傾向、・・出自、等々に加えて、近年問題になっている個人情報の検索の傾向、購買の傾向と財力、交際の夥多と人的資産^^。身体的能力や体躯。・・・等々思いつくままに妄想しましたのでまだまだ上げればキリがないでしょうね^^?。
それは、個人、団体、地域、国?を問わず特化できるわけで、 例えばの話し^^。この人は、その検索傾向から外車思考があり財力もあるからセールスを(笑い)。
・・それには、DNAのサンプル数をいかに多く蒐集できるかが問題となります。その点、中国は有利^^? アメリカもかな^^? 日本の場合は『個人情報保護法』が、足カセとなりますね。このように何かに特化したアプリを開発すれば、“コンピューター上” でのヘッドハンティングは、もちろんのこと。それぞれの有能な子供たちを捜しだし教育をすることも可能になります。中国は日本人のDNA蒐集に触手を^^???
しかしながら、それは効率性をあげることにもなりますが、それが行き過ぎた管理社会になると、国が、人種が・・・、その個人の、優位性を助長することにもなり 「歴史はくりかえす」ことにもなりかねません。
『己(DNA)を知り、相手(DNA)を知れば百戦、危うからず』 中国の人は個人情報を話したがらないが、先国はどうなのかな(笑い)。「存分に研究成果をあげられ・・」ともうしあげました。以上の話しは、確率的に多いということでありそれが全てではありません。その他の<制約や突然変異>の確率は推めないのが現実でしょうか^^!
尚、この投稿に、どなた様もコメントはご自由ですが、当方、妄想癖にボケが加わっているので 返答は出来ません!! どうぞ悪しからず・・・(^-^)。
[290] Re: 大事変(巨大隕石)が神になり聖地となった!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 7月15日(月)
管理人さまへのお返事です。
・・・コメント遅くなっております ^^!
> 日本には、比較的多く・・・というか、平さんの隕石落下によるリアス式海岸生成のご指摘を聴いて以来、いろいろ調べれば調べるほど、日本の複雑な港湾地形のほとんどがクレーター由来と考えるに至ってきたことがありましたね。
リアス式海岸の生成は、わたし「BC.2001年の大衝突で・・」の考えですが、『日本の複雑な港湾地形(ランドルト環状湾)のほとんどがクレーター由来と考えるに至って・・』は、わたしの考えではありません。それは、それをアッシャー・岩淵彗星と名付けられた岩淵先生のお考えです。岩淵先生は、それらの衝突地形は、デビット・アッシャー博士の言われる「対談で→母天体エンケ彗星のデブリだろう」と同一時期・視されています。岩淵先生とわたしは ≪そのとき発生したであろう巨大津波の規模を共通≫ にしていますが、巨大隕石のほうは、私が「巨大隕石の主核は釜石鉱山」とするのにたいし、先生は「その90%(私の覚えです^^!)以上は大洋側へ」とされています。そして、八郎潟あたりと、田沢湖、三陸海岸ライン上にあるリム形はその時のものではないかともされています。この詳しくは<彗星衝突による縄文超々巨大津波・文芸社>で述べておられますので必見です。さらにの違いは、先生が豊富な学識と地元のみぞ知る事案の解析にたいし、わたしのは97.5%が(既成論の再構築)人さまパクリの机上論^^!でしょうか(笑い)。ちなみに。今、大苦戦している「北米・オンタリオ湖に流れ入る条痕」ビッグゲームのほうは、97.5% が素人探偵の主観論です(~-~!)。
[8440] 徐福たちは、童男童女を分散隔離し育てていた。
投稿者: 史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト) 投稿日:2019年 7月18日(木)
東方三神山に、童男童女3000名を連れ不老長寿の薬石を求めた徐福たち は、 下記の<養父・ヤブ>の地名がある場所(その他)に分け、その子たちを育てていた。この詳しくはmyブログの「徐福達が日本史に与えた影響」にあります。
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-date-201011.html
< 結 び > myブログの一節より、
<養父・ヤブ>は、徐福たちが “長命実証用” の子供達を育てていた場所だ と断言します。その後、その子たちがどのような運命をたどったかは分からない。このほか<ヤブ>と発音する地名を探せば、きっとたくさん出てくるに違いない。そこが、徐福たち(一世)と直接関係あるなしは別として、それ等の地に残る イワレや行事の調査の続きは、その地の歴史をよく識る貴方さまにお願いしたい。
☆広島県広島市宮島養父(本土から見えない位置にその地名はある)
☆岡山県倉敷市玉島乙島養父(本土からは見えない場所であった)
愛知県東海市養父町
大阪府枚方市養父元町
佐賀県鳥栖市養父町
徳島県鳴門市大津町木津野字養父の内
こどもの頃、何故、その地を「養父ヤブ」と言うのか?と不思議に思ったことは誰にもあるはずだ。何故、何故、を三つ重ね深く追求しなければ、その祖先からの伝言は貴方には伝わらない^^!。
[8648] Re: 徐福たちは養父で長生き実証用の童子達を育てていた!
投稿者: 史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト) 投稿日:2019年 7月28日(日)
[8575] 秦野北斗さまへのお返事です。忘れた頃のお返事なってしまいました。
オリジナルな訳文ありがとうございます。
> 南衡山列傳
秦皇帝大説、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福 得平原廣澤、止王止王不來
> 此の文章の翻訳が問題になる、当時と現在の漢字の意味が異なる。
「徐福」については、この史記・列伝がもとになっていたのですね。
一般的には、「徐福は始皇帝の認をうけ、男女(童男童女)3000人と、五穀(種)と、百工(色々な職種)を携えて、荒神が棲むという東方三神山へ不老不死の薬石と,その仙人を連れて帰るべく出帆したが、帰ることなく平原廣澤を得てそこの王となった。」というのが受けいれられているようです。
私の場合は、多少の違いはあるものの、ほぼ、これに沿って考えていましたが、^^?
「止王不來」
中坊程度の読解力しかありませんがと前置きして、この「王」は誰のことを指すのでしょうか? 「秦皇帝大説」を秦の皇帝について書きます」と訳すと。この王は皇帝のことかと思われ、「止王不來」は,「止王」つまり皇帝が亡くなったので徐福が得た平原廣澤には、「不來」来なかった行けなかったとも訳せます~~?。来る行くについては、go home のように日本人とは逆の使われ方があります。又、中国人の「ライラ、ライラ^^」は、「良くいらっしゃいました」の使われ方と聞きますので、この場合の「来」は、どちらなのでしょうか~~?。おっしゃるように「此の文章の翻訳が問題になる、当時と現在の漢字の意味が異なる」ことは、充分考えられますし、中国語の火車は汽車で、汽車は自動車。「お手紙下さい」でトイレットペーパーをくれたとかの笑い話もあります~~!。
この「王」を通説のように、徐福だとすると「徐福」は、彼の地の王となり中国へ帰らなかったことになります。
このように、それを一字一句まで突き詰めたり、編集編さんでの誤植。旧字を現用字への変換。この掲示板でも種族によって似たような字句に変換されたことが指摘されていましたね^^!。また、縦書きを横書きにした場合空白のとりかた。返り点をどこにうつかで文意がかわったり、読み手の意が潜入されたりもします。このようなことが諸説を生む原因になっているのでしょうか。いずれにしても、書き手が何を思って書いたのか知ることが大切かとおもいますが、この史記自体が伝聞の集約のようですから、譲れないことは別として色々に論ずることは楽しいことです。わたしの場合は自分の意の言葉がなかなか思い浮かばず、編集に長時間を要することがお返事をお断りしている主な理由です~~!。
> 当時の地域は数字で分けていた模様、 ・・・・・、
これは、たいへん耳よりな情報をいただきました。
というのは、東北地方には、「八森、十二湖、五所川原,十三湖、三本木原、三沢、一戸~九戸」・・等々、番号で表す地名が、他に比べて特に多いのが気になっていました。徐福たちは、妙薬を求めての列島探索が目的であり一部の人達がいう 「列島を支配下におく!!」 が決してその目的ではありません。皇帝がなした方士4百数十名の穴埋め(?)は、徐福達のおおきなトラウマになっており、「その声狼(ろう)のごとし」という始皇帝の恐ろしさは骨の髄まで染みわたっています。その渡来地で王となり安穏と暮らしている等の噂でも本国に伝われば、たちまちの内に10万20万の兵が繰り出され殲滅されるでしょう。(myブログより)
そして、その探索は一度キリのものではなく、また仲間内でも探索場所を知らせ合わなければなりません。徐福たちは、前述のように荒神対抗用の屈強の兵士を用意してはいるが抗らうことが目的ではないので現地住民が多数いて、すでにその地名があれば、その地名を使います。そのほうが後から訪ねる人達にとって住民にその場所を聞くことができるので便利だからです。人口がまばらであれば、地名がないので自分達の記憶のための番号付け地名を付けなければなりません。(myブログより)
はからずも、先さまの情報は、素人の思いをを裏付けてくださることになりました。ですよねえ^^。海、山、川、平地と変化に富んだ列島に比べ、広大な大陸では細かく区切っての番号付けの地名に、自ずとなりますよねえ^^。
「地名は祖先からの伝言である」
地名は物証ではないが、現存していることは否定できない。その地名がいつから使われるようになったかを探ることが大切だ!!。先の「養父・やぶ」に加えて、岡山県(倉敷市)玉島の狭い地域に、唐船(とうせん)服部(はっとり)陶(すえ)金辺(かなべ)の小字名がありました。そして、当時の高梁川河口の総社市・吉備の地に「秦・はた」の地名があると付け加えておきます。ここには「ベンガラ工場」もありました。・・コメントありがとうございました。□
<一事を追求すれば万事につうじる>
>「養父・ヤブ」の地名は、徐福達が “長命実証” のための子達を育てていた場所だと断言したのは、この素人探偵の考えですが、「養父」の地名が現存するのは。何人も(たとえ専門家でも)否定できない!!
> ☆広島県広島市宮島養父(ヤブ)(本土から見えない位置にその地名はある)
> ☆岡山県倉敷市玉島乙島養父(ヤブ)(本土からは見えない場所であった)
> 愛知県東海市養父町(ヤブ)
> 大阪府枚方市養父元町(ヤブ)
> 佐賀県鳥栖市養父町(ヤブ)
> 徳島県鳴門市大津町木津野字養父の内(ヨウフ)
> ☆兵庫県養父市(ヤブ)
> 上記のなかには小字名もあるので、まだまだ出てくるかも知れません。
[8757] Re: 直線上にある5つの山頂
投稿者: 史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト) 投稿日:2019年 8月 3日(土)
たろうさま〔8725〕へのお返事・追伸です。
> さらに佐世保湾の東に立つ烏帽子岳という568mの山がありますが、この山も昔から頂上と思えるところの上にもう一つ数十メーターの高さに盛り上がった丘の頂上があって、そこは夥しい岩が並んでいます。人工的に作られたのではないかと昔から思っていました。
> なお、ついでながら5つの山の距離は5-9kmで、角度は別紙の通りです。
> 神社や遺跡を調べたことはありませんが、この直線はレイラインとは思っていません。それよりももっと光通信に関係するものではないかと思っています。
>・・とにかく、これら5つの山の山頂が直線で並んでいるのは私にとって大変な驚きだったんですが、これをどう捕らえていいのやらわかりません。
> このサイトをご覧になっておられる方の感想を披露していただけば助かります。
「烏帽子岳」について、
「もう一つ数十メーターの高さに盛り上がった丘の頂上があって・・」 この数十メーターの高さは、管理人さまも指摘されているように人工物ではないと考えられるのがふつうです。烏帽子の山名はその山姿からつく場合がほとんどですが、帽子をかぶせる」との意味もありますので、たとえば、すでにある山を造形したとか? 普通の考え以外で、先さまが感じられた違和感は大事にされるべきかと思います。また「夥しい岩」ですが、積み上げられているのと、並べられているのは、おおきく意味がことなってきます。前者は信仰から、後者は方向性。つまり測量性が加わってくるからです。今後のご調査を^^。
「5つの山の山名」について、
赤碕岳、烏帽子岳、八天岳、腰岳、大陣岳」 山の名前が一番変わり難いと思っています。祖先は、それぞれに意味合いをもって付名しています。赤碕岳、烏帽子岳、八天岳、はそれ相応の古さをかんじますが、腰岳、大陣岳からは、ずいぶん新しい感じがいたします。なぜでしょうか^^? そして、「赤碕岳」のサキの字が「碕」の字になっているのは何故でしょうか。たとえ国土地理院でも地元で使用されている字名をかんたんに換えるわけにはいきません。お互い少年(こども)の頃に思った不思議をだいじにしたいものです。
「5つの山の距離は5~9km」
わたしたちは、大平原や大海原に立ったとき、数十キロさきまで見えてるのかと思いがちですが、じつは数キロさきしか見えていないそうです。山の上からだと遠くが見えてるように思いますが、実際のとこ(確かめたことはありませんが)「5-9km」先の山頂が、観測の範囲になるのかも知れません。
「光通信に関係するか」について、
この件については、敬にあたいする先様方がこの掲示板でも論じられていました^^。わたしは素人なので詳しくはわからないのですが、「四千年前に東北に光臨した巨大隕石」が発した冬至の旭光は、列島の歴史に大きく作用していると思っています。しかし、仮のかりとして、このラインを2200年前の「徐福たちがなした測量のための東西ライン」だとすると、いろいろな疑問もでてきます。冬至や夏至のラインは長期の滞在なくして引けますが、東西ラインはその中間ですから、北斗星や星座の知識がなければ、少なく見積もってもその倍はかかります。北斗の知識があれば、それに直角のラインを引けばいいわけですから至極かんたん(笑い)。・・・で、このラインを引く必要なし! となります・・・汗~~!、
考えればかんがえる程、新しい疑問がわいてきます。「徐福は、その行程の全てが不老不死の仙薬を探してのサバイバル !!」、長くその場所に留まることはできない。 ・・ 少年心(こども心)をなくしないで、ロビンソンクルーソーの気持ちから私の謎解きは、はじまりました^^。
[296] <オンタリオ湖へ流れ入る巨大津波の条痕か !?>
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 8月30日(金)
管理人さま、お帰りなさい^^。
[224] 南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ!-6 のつづきです。
6500万年前、月よりわずかに小さい大惑星が南極に衝突し南極大陸となった。
前述の南米、豪州、アフリカ大陸の 90%以上を覆った巨大津波は、北米大陸も例外ではない。
北米大陸の中央平原を北上し駆け抜けた巨大津波は五大湖へもなだれ込んでいる。
しかし、ここで次のような難題にぶつかった。
<オンタリオ湖へ流れ入る条痕>
筆者が想定する巨大津波は、数波~10波を想定している。これ等の津波は地球の全方位をカバーし北極へ集まってゆく。そして、北極へ集まった津波は水位を増し、後々から来る南極からの押し波より勝る時がくる。つまり「北極の増水位が南極からの押し津波に均衡する時点」を過ぎると、今度は南極へ向かって津波は走り出す。前述の<南米シリーズ>では、太平洋の膨大な海水がリターンし、マゼラン海峡をものともせずスコシア海を形成したと謎解きした。
この考えをもとに、巨大津波は北米中央平原を北上し数波の条痕をつくりながら五大湖へ流れ込み、北極からのリターン津波や増水位にはばまれその先端が赤線のような弧状に残ったか?と推したのだったが、その “標高水位”をよく調べてみると、・・・??
西から、①キャナンデイクア湖 (標高)208m
②セネカ湖 133m
③カューガ湖 115m
④オワスコ湖 216m
⑤スカニースルズ湖 262m
⑥オノンダガ湖 109m
以上のように、何の規則性も見られない!! 北からの戻り水と南からの押し波とがガッチャンしたのであれば、ほぼ同じ高さであろうと推んだのだったが、全くあたっていなかった。ちなみに、五大湖は過去にその水位をいく度か変えているという。
<その時をイマジネーションしてみると>
南極から発した巨大津波は、いったん赤道でその力を弱めるが北上するにしたがってだんだんと合流し、水位を上げてその力を蓄えてゆく。津波が海上を走る時、津波は押し波であるからして清水を運ぶ。ところが陸上に上がると、その表土を削り土石を持って進むのでその威力がましてゆく。二波、三波~数波~においても、同様にその表土を削りながら進むのだが、いったん更地にしてしまうと、水だけを運んでゆく。この事は津波の上流に何があるかや、その地形や状態によっても変わってくるとは<前シリーズ>で申し上げました。(注: 惑星の衝突粉砕によって生じる岩石等の含みは除外して考えています)
メキシコ湾を北上しハの字形の中央平原を北上した津波は、〇〇あたりを峠とし、下りながら五大湖へと流れ込む。下り津波は、より低いほうをさがしながら、集まりながら下ってゆく。岩石ゃ土砂を持つ下り流は、のぼってゆく津波より格段に威力を持つとは前述している。
・・・で、表題のオンタリオ湖へ流れ入る①~⑥の条痕湖が出来たと予想したのだったが、・・・前述のように、その条痕湖の北端に<線引きした赤線>の標高水位は予想を違え、てんでバラバラであった???
この条痕湖の成因は、その時の津波が成したかと思うのだが、いい考えが思いつかない。それとも中学時、ならった「北米大陸の東部一帯は褶曲作用でなった」のであろうか? かといって、<シリーズ>1~6で前述してきた地球の90%以上を覆った超巨大津波の全てを否定することは出来ない。 わたしは、自論の 『南極大陸は6500万年前衝突惑星だ!』 をすすめるにあたって以下のような難題に突き当たってきた。・・・ ・・・、
そのⅰ 「大陸移動説」への疑問
その始まりは、大西洋の東岸と西岸がパズル合わせのようにくっ付くからだと思うが、概略において、陸表と大洋の海底との成因はまったく異なる。おおまかに言うと、陸地は火成岩で海洋底は玄武岩だったかな^^!。(絶版報告書:ベイクドライスケーキ論で^^) そして、大陸移動論では玄武岩洋に浮かぶ陸地塊船として考えると、いったん冷えて固まった地球表殻は、原始地球体積の“増量が無い限り”離れてはいかない。(絶版:地球体積増加論)←これ等の考えの一部は、この掲示板でも図示しています^^!
そのⅱ 「南極大陸には石炭の露頭があり温暖期がありました」
この謎解きは、いがいに簡単でした。いったん北極点へ向けて走り出した巨大津波は地表の動植物を北半球へ運ぶ。そして、その一部はリターン流にのって漂い流れて、いまだ衝突熱が冷めやらぬ南極大陸となった地表で蒸し焼きになった。鉄板上のモヤシのようかな^^!
そのⅲ 太平洋の赤道付近の海底に多量のマンガン塊と SiO2 塊あり。
マンガン塊は衝突惑星内部のもの。SiO2 は岩石が衝突で溶けて水中で冷やされ固まったものと謎解きできましたが、なぜそれ等が突き当りのベーリング海峡付近まで運ばれずに赤道付近にとどまったのか?? この謎解きにはずいぶん苦労しました。巨大なアンモナイトなんかは太平洋北部海域で見つかっています。ある時、地球儀でそれを考えました。地球の赤道周囲は4万Km。南極で発した巨大津波は、赤道上で川幅が最大となり、その勢いは衰え、下流域の様相を示したのであった。「目から鱗」のたとえあり。平面地図でのみ考えを進めていた自分に気付いた。
そのⅳ それでは、なぜ深海溝は津波の土石で埋もらなかったのか?
この謎解きには、すいぶん時間がかかりました。月に匹敵するΦ3500kmの大惑星が衝突した。地球殻はヒビ割れ、その時はっした土石で、その海溝は埋まるはずだ。この思い込みがこの謎解きの大きな邪魔をした。その瞬間を人間の時間的感覚でとらえてはならない。人間には一瞬でも地球メロンにとっては、その体積が増すことにより徐々にその海溝を拡げていったのである。ちなみにメロンのほうは即、保護細胞で埋まるそうです(^^)。 話しは少しかわりますがこんな所には枕状溶岩の噴出があるそうです。
<そのⅴ> 北海に油田あり。
この問題も解けずに、ずいぶん長いあいだ放置していた。大西洋を小溝のように北上した巨大津波であれば、そのすべてをシベリア平原奥に持っていったのではないか。この思い込みも、北極からのリターン流を考えれば解けてきます。津波の性質には、同じようなものを同じ場所に。そして、流れの端部分に置いていくことがあります。北海の海底油田は津波の逆流がもたらしたものでした。ちなみに、近年開発をされているブラジル沖の海底油田もそうなのでしょうね^^。
<そのⅵ> 南極横断山脈に2憶数千万年前の?岩石あり。
地球の誕生が46憶年。地球上でいちばん古い岩石がグリーンランドの38億年。
太平洋海底の塗り替わりが2憶年。これが現在、素人の得ている数字です。
この掲示板で先達さまから、「南極大陸横断山脈(端部?)に2憶数千万年前の岩石があるよ」と云われました。
<これは、はっきりとした解ではありませんがと前置きして・・・、>
地球の惑星表面には、色々な生年の岩石が存在している。これと同じように月に匹敵する南極大陸となった衝突前の「南極衝突大惑星」にも、色々な生年の岩石があってもいいのではないか。この衝突惑星は、その全てが溶けたとはしていない。クラゲ状の足部は既存の陸部と衝突し、千々に砕け散ったが、その頭形の部分は、変質しながらも地表にその形をとどめているとしました。
月に匹敵する大惑星が衝突すれば、「木っ端みじんとなる」 この思い込みが、謎解きの邪魔をする。地殻の約100kmは硬い巌であっても、地球の内部は約6,000℃以上の液状?である。その殻を打ち破れば、衝突惑星は容易に沈みゆく。たとえて、『厚氷の張った池に石を落とし、その石の全ては沈み込まずに、その表面上にとどまった状態』 だとした。衝突惑星のスピードは最大に見積もっても、60~80km/sec。このスピードに目をとられてはならない。「近距離的、部分的には、その衝撃反応であっても巨視的、遠視的にみればゆっくりと合体したのである」と管理人さまと論したことがありました^^!。
近時、小惑星探査機「かぐや」が、小惑星「りゅうぐう」の岩石を持ちかえるでしょうが、その岩石の生年が2憶数千万年前であれば面白いなと思っています。・・・^^!
以上のように、難問難題が生じたときはその答えを急がず、ほかっといて時を待ちました^^!。
自論の『南極大陸が大隕石』が、現学に伝わらないのは、その史実がなかったからではない。この素人が到らないからだ。中2生でも分ることを言っている。目の鱗を取り去り“気付く”だけでいい。賢明な先様がたのご参加をお待ちします。
(中二症^^)史実探偵 平 素 人
表題の<北米オンタリオ湖に入る条痕湖の成因>の解は、一時保留して、つぎの「西部北米大陸に残る信じられないほどの津波痕跡」に移ります。・・・おたのしみに^^。
[297] 北米大陸西部をカバーし北上した巨大津波!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 9月 4日(水)
南極大陸は、6500万年前の衝突惑星だ!-6 のつづきです。
> 6500万年前、月よりわずかに小さい大惑星が南極に衝突し南極大陸として残った。その時、発生した巨大津波は地球の 90%以上をカバーした。北米大陸においても例外ではなかった。
> ⅶ 6,500万年前に南極から北上し、北米大陸の 「西側へ」上陸した巨大津波!!
この大陸の西岸は筆者が提唱する<片V字沿岸津波>になっている。この場合、北上直進津波と片V字沿岸津波と合わさりながら進み、そして、沿岸の土石を削りながらも進むので、その威力はすざましいものがある。第一波、第二波?は、ロッキー山脈の頂きをわずかに残すのみだったと思われる。それを受け入れられない 現学(あなたさま)に告げたい。
この超巨大津波を観察するとき
「わずか2mにも満たない人間的視覚を用いてはならない」と!!
To be continued ^^♪ まだまだつづきます。・・・♪
[300] グレートベースンへ侵入した6500万年前の巨大津波!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 9月11日(水)
↑ 帝国地図院 中学校社会科地図・四訂版からの切り取りへ作図しています。
赤い矢印→グレートベースンへ侵入した巨大津波、青い矢印等→巨大津波の戻り水等
尚、この地図のコピーは、許可を得ていませんので、コピーは固くお断りします!
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南極大陸は、6500万年前の衝突惑星だ!-6 のつづきです。
> > 6500万年前、月よりわずかに小さい大惑星が南極に衝突し南極大陸として残った。その時、発生した巨大津波は地球の 90%以上をカバーした。北米大陸においても例外ではなかった。
> > ⅶ 6,500万年前に南極から北上し、北米大陸の 「西側へ」上陸した巨大津波!!
>
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<北アメリカ大陸の90%以上を覆った巨大津波> part Ⅳ - ⅱ
ご訪問ありがとう御座います♪ Welcome to my blog(^-^)♪
この記事はmy blogのカテゴリーBigGameより移設しています^^!。
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-15.html
ⅶ 6,500万年前に南極から北上し、北米大陸の西へ上陸した巨大津波!!
その巨大津波はグレートベースンに侵入してメサやビュートを作っている。
<グレートベースンへ侵入した巨大津波を分析する>
①東太平洋を北上した巨大津波は、中米の西岸を北上したものと合流し、カリフォルニア湾入り口に殺到している。
②その殺到した津波は、その入り口を削り取り深みを作っている。
③細長いカリフォルニア湾によって集められた巨大津波は"ジェット水流”となってグレートベースンへ侵入している。
<水流で墓石を切断する>
水流で岩石を切るとは、異な感じがするが、×2、×4、×8、と、ホースで水流を束ねて行けば水の分子H2Oは、規則性をもって並べられ、それに固い紛剤を混ぜようものなら岩石はおろか、鋼鉄をも切断する。レーザー光線と同じ原理だ。溶接切断とは異なり、熔ける要素が少ないので切断面はより綺麗に切れるという。
岩石を含むジェット水流は巨岩を切断する!!
(堆積したローム層は垂直方向には侵食されにくいが横方向には弱い)と前述しておきました。
④巨大津波の第一波は、カリフォルニア湾に棲息していた貝類をグレートベースンに運び込む。
⑤続いて、2波3波4波と、波高は低くはなるがその水流には岩石を含むのでより威力を増す。
⑥そして、その条痕は段々深くなり、南北へ細長い形のメサやビュートを作った!
その結果。メサやビュートの頂上に貝殻は残されたままになった。その頂上に6,500万年より前の地層はない!
ⅷ <盆地へ運び込まれた海水>
このステージまで進んでこられた方に「ここは昔は海だった」と言われるお方はいないと思いますが、ユタ州へ運び込まれた海水は、残留しグレートソルト湖となっている。
ユタ州の恐竜博物館は有名ですよね。津波の強い流れは、その側方へその浮遊物を持っていく傾向があったから、これより西方のブラックロック砂漠の北辺りを探してみれば面白いものが出るかも知れません。
ⅸ <津波の引き波>
⑦皿状のグレートベースンへ入り込んだ膨大な海水は、コロンビア川や、グレートホーン方面への溢水もあるが、もと来た方向へ逆流をはじめる。
⑧すでに、上陸した時に、その道筋は刻んである。
津波は山を登っていく時よりも下る時のほうが、岩石を持って斜面を駆け下るので、その威力は絶大だ。
⑨その結果。 ますます、その川下では条痕が深くなっていく。
デスバレーが現在の海面下 (Waterfall)にあるのは、これに津波の側流が加わっているからだ。
デスバレーの下流には、その時流れ出た巨岩が転がっているはずだ。
⑩コロラド峡谷は、津波の進行方向と引き波の方向が南北に一致してより強い流れとなった。
算数苦手の素人からのお願いがあります。
コロラド峡谷を作るための必要な雨水量は、地球創世に必要な時間より長くなりませんかぁ?(笑い)雨水だけでこの地形が出来る(現学)と信じて疑わないあなたに^^! もう一度 Google Earthでこのグレートベースンの詳細を観ていただきたい!!
ⅹ <津波が狭い谷あいに入ろうとする時に作る地形>
津波が運ぶ土石流が狭い谷あいに入ろうとする時、それが狭すぎて入れないので、その入り口の サンタバーバラに堆積土を積み上げた!
その結果。海水と共に運ばれた魚達は出口を失って、そこで石油化している。
(お ま け ^-^ )
巨大津波は、太平洋に棲息していた魚達をアラスカへ集めた。
米国は、ヨーロッパへの中継地としたかったのでしょうか。旧ロシアから巨額を投じてアラスカを買った。当時はばかげた買い物との批判もあったが、その後に金鉱が発見された。そして今では米国産の25%の石油はアラスカで汲み上げられている。何が幸いになるか分かりませんね。
蛇足ながら、太平洋を回遊していた魚達がここに集められたことや、ベーリング海を乗り越え、カナダ、そして、大西洋を北上した巨大津波は何を何処へ運んだのでしょうか。 それを知りたいお人はmy報告書へどうぞ♪
さらに、北極海へ集められた膨大な量の動植物は、どこへ行ったのでしょうか?
my報告書へ、つづく^^♪ 2012 March 21 □ 史実探偵 : 平 素人
尚、このグレートベースンの成因は、絶版^^電子出版、極秘報告書「巨大隕石と大津波」でも言及しています。
[302] 南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ!-7
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 9月19日(木)
図1. 地球の90%以上をカバーした巨大津波(1993/9/23作成my報告書より)
図2. アジア大陸の南からと東から上陸した巨大津波
↑帝国地図院 中学校社会科地図・四訂版からの切り取りへ作図、
図3. タリム盆地へ進入し、タクラマカン砂漠をなした巨大津波
↓ この記事はmy blogのカテゴリーBigGameより移設しています^^!。
Part Ⅴ. 地球の90%以上を覆った巨大津波
<アジア大陸の90%以上へ乗り上げた巨大津波>
私の掲げる“この大事変”が、いかに史実であろうとも、貴方がその常識を振り払わない限り、それは史実として見えてはこない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< Big Game-1.>の 番外編(^^)♪ Extra grade
貴方は、さらなる(疑問心)子ども心を必要とします^^。
従来の常識をクリヤー出来ないお人は、
The person who cannot clear conventional common sense ,→Good by^^ !!
次の第Ⅴステージは、ここまで進んでこられた方においても、今までの概念を振り払わないかぎり、貴方はこのステージに進むことは出来ない。信じるということは騙されるということ。私たちは、そのことを信じるのではなくてそのことに気付くことが大切だ。ちょっと言葉がすぎましたか?(^-^!)引き続きのゲーム感覚で楽しんで頂ければ幸いです。
Ⅴ.<ヒィフス ステージ> ('12 Mar. 11 )
<アジア大陸へ乗り上げた巨大津波>
その巨大津波は、アジア大陸へ南からと、東から乗り上げている。
(質問・Question 5) その痕跡を探して列挙せよ! 2012 March 13
この信じられないほどの津波の痕跡探しの答えが、あなた様と(私の答えが)幾つ重なるでしょうか・・・^^?
(答え・Answer)
ⅰ 西太平洋を北進した津波は、オーストラリア大陸をカバーした津波と合流してアジア大陸へ乗り上げている。
ⅱ その巨大津波は、ミャンマーのタンルイシ川や、ベトナム・カンボジアのメコン川を登りチベット高原の近くへ達している。
『 津波は川を登る。』
このことは川が、河口から上流に向かってなだらかな遠浅状になっているためであり、津波にしては、多くの抵抗を受けないで登っていくことが出来る。この結果。津波は驚くほどの内陸部まで侵入する。
分かりやすい例えとして。サーファーが遠浅状の海岸を選んで遊泳するのは、このためであり、海岸近くまで深部の場所よりも、波高は、ハワイのような遠浅状の海岸のほうが格段に高くなる。
ⅲ 巨大津波は、中国の海南島の南側を押し流し、台湾島の太平洋側を削り取っている。
ⅳ 巨大津波は、中国の桂林に膨大な量の珊瑚や貝殻を積み上げた。
その後に発生する津波の“引き波”は、その一部を残して切り立った景勝を作っている。
この地形の成因は、米国グレートベースンや、ローム層の川岸が垂直に切り立つことに似ている。
学説では、この地形の年代を○○としているが、さまざまな年代の土石が混ぜ合わされ、そして運び込まれた時の年代測定は不正確である。
ⅴ 巨大津波は、山東省の諸城市に多くの恐竜達を埋没させている。
2012/ 1月8日のYahoo! に【 気になるニュース 】がありました。
ニューズウィーク日本版9月7日号掲載→ 1月6日(金)17時37分配信
ローレン・ヒルガース氏(ジャーナリスト):の文中より興味深い一部を抜粋 します。
見出し:<中国に現る! 最強の恐竜ハンター>
中国各地で次々と化石を発見する古生物学者、徐星(シュイ・シン、42)が、恐竜の進化と移動に関する従来の学説を根底から覆す?
・・・以前あり、
■古大陸の謎を解くカギ
化石の採掘場 (山東省の諸城市)は、龍骨澗(竜の骨の村)という村の郊外にある。この周辺では何百年も前から化石が見つかっていた。 この採掘場 (深さ300メートルの発掘溝)は、規模が大きいだけでなく、埋まっている骨の量も多い。「なぜ(恐竜の)化石がこれほど多く集まっているのか、私には見当もつかない」と、(米ペンシルベニア大学の) ピーター・ドッドソン教授は言う。
その理由はまだ謎のままだ。 徐は地滑りが恐竜たちを押しつぶし、骨を散乱させたとみている。 (イギリスの古生物学者) デービッド・ホーンは恐竜の死後、大規模な洪水か泥流によって骨がここに運ばれたと考えている。・・・以下云々・・・、 □
この記事で気になる言葉を三つ揚げました。
① (山東省の諸城市)
諸城市は、チンタオ(青島)南西で車で約2時間の所で海岸から ○km入った所 にある。今までの巨大津波のステージをこなしてこられた方なら驚くに値しない。
② この採掘場 (深さ300メートルの発掘溝)
しかしながら、「深さ300メートルの発掘溝」は、驚きだ。もっとも、数百メートルの厚さを持つ炭層の成因を考えれば、このことでさえ驚くに値しない。
③ なぜ(恐竜の)化石がこれほど 多く集まって いるのか
『(イギリスの古生物学者) デービッド・ホーンは恐竜の死後、大規模な洪水か泥流によって骨がここに運ばれたと考えている』← これがこの採掘場の答えだ! ただし、通常に言われている『洪水』ではなくて、それは<巨大津波>によって運び込まれたのだ。 北米のユタ州やゴビ砂漠の恐竜化石の採掘場でも、その「骨は散乱」していて一体の完全体を得ることは殆んどないという。もし『 胴体が2メートルを超える巨体が地表に有れば、腐るか、他の獣に食われてしまい化石となって残らない。』このことが子供心に火をつけた発端でもあります^^。
ⅵ 石炭の成因については、記事のボリュームが大きくなるので、今回は外します。
ⅶ ゴビ砂漠は、巨大津波が運んだ砂塵である。
毎年の春になると気流にのってアジア大陸から黄砂が日本列島にやってくる。この膨大な砂漠を成している粉塵土は巨大津波が運んだものだ。津波が陸へ乗り上げる時、その様相は、岩石が川上から下流へと下り海へと到るまでの様相と大変よく似ている。つまり、大岩から→栗石→砂利→粉塵・粘土質になるまで。巨大津波では、海から山間部へ向かって段々と、その岩粒が小さくなっていく。ゴビ砂漠は巨大津波が運んだ砂塵で覆われている。
ⅷ 中国では津波で運ばれた微細土が頁岩化している。
中国大陸では、この粘土質が頁状化した頁岩(けつがん)の産出は珍しくない。 この中にウミユリに似た海草の化石を見ることがある。ウミユリが内陸部へあるのはオカシイよね。
ⅸ 大火災によって発生した木炭やススが津波で集められ岩石化している。
津波で火災が発生するのは異ではない。この時の火種は火山活動か? 津波で集められた流木に火がついた。中国大陸では、硯(すずり)の原料となる岩石が産出する。これは津波によって発生した大火災によって発生した木炭やススが後進の津波やその後に続く大雨で寄せ集められて岩石化したものだ。書道家がよだれを垂らすという端渓の硯は有名だよね^^。
~to be continued^^ つづく ・・・
6500万年南極に天体が衝突し地軸が傾いた
> 確か平さんのほうで、隕石衝突と地軸傾斜変更に関するご意見あったと思いますが、その件について、もう少しお教えいただけませんか?
わたしは、表題について、つぎのように考えています。
1.6500万年前に月に匹敵するΦ3500kmの天体が南極に衝突合体した。
Φ3500kmは、マントルに浮く陸地としての素人計算ですからあまりあてになりません.
南極大陸を囲む海域に珪藻土があるのはこの時、粉砕したSiだとした。
南極大陸を囲む海域に海嶺があるのは、この衝突の衝撃で地殻がヒビ割れ浮き上がった。
ちなみに地殻が数枚にひび割れ海嶺や海溝状をなしているのはこの衝突でひび割れたとしています。
北極海底の〇〇海盆やアルファー海嶺は、この衝撃の対蹠地だとしました。(別記事)
2.クラゲの頭状の部分は片岩化し地表で陸地化した。
南極大陸のこの部分の片麻岩の存在は辞書で調べたもので私が調べたものではありません。
この素人の論が正しければ南極大陸中央のボストーク湖は大変興味深いものになります。
3.クラゲの触手部分は南米大陸に連なる既存の陸地と衝突し粉砕した。
この証拠として、これに面する太平洋海底の赤道あたりに、その衝突天体の中身と思われる大量のマンガン塊、SiO2塊があります。このオパール塊には、海水の取り込みや海水で急激に冷やされるため、水晶やマーブル状や、その表面は灰土化している特徴があります。
そのほか、ギュヨー(海山)の側面にコバルトリッチクラフト。鳥島?あたりの希土類も気になるところです。 〔極秘〕として、熔けたAuは延性があり重いので遠くへは運ばれず南極を囲む海嶺の内側あたりの海底にベチャとか?としました。(笑い)。
4.6500万年南極に小天体が衝突し地軸が傾いた。
地軸の傾きが天体どうしのぶつかり合いでできることは既知のとおりですが、わたしは太陽系惑星の生誕のモデルとして、太陽でも惑星でもある日突然にできるのではなくて、散乱した宇宙塵がそれぞれの時系のなかで比較的重量の重い物を核にして、基本的にはトーナメント方式でぶつかり合いその重量を増してゆく<太陽系の誕生>と<惑星肥大化論>をとっています。
この詳しくには絶版「報告書」でなのですが、この掲示板やmyブログでも述べていますので後でさがしてみます。
<黄道への沈殿化>
それらのぶつかり合いのなかで回転が生じ、太陽を中心において各々の惑星らしきものが整合しながら出来てゆく。この整合性については、なにやらの難しい言葉で先様もおっしゃっていましたね^^。
<惑星の肥大化>
このような過程のなかで地球や他の惑星もだんだんと大きくなります。しかし太陽軸の近くにあるものは肥大化をしながらも黄道面への沈着がおくれます。こいつが南極へ衝突した天体ではないかと思っています。
ごめんなさい。今日はここまでとします・・・
5.白亜紀末、地軸が傾くほどの天体衝突が南極にあったら何がおこるか。
↓my「報告書」より抜粋、
①地震と高熱が発生する。
②岩石を含む大津波(大泥流)が発生する。
③地殻、地表がひび割れる。
④マグマを吹き上げ、火山活動が活発になる。
⑤粉塵や粉塵が、天を覆い隠す。
⑥水蒸気を舞い上げ、雷、大雨、大洪水が発生する。
⑦一時期を過ぎると、気温が下がり氷河紀へと向かう。
⑧その他の、あらゆる転変地変がおこる。( 地磁気の逆転もありますよ^^。)
~中略~
粉塵や粉塵は全天を覆い隠し、わずかに生き残った生物の存在おも一切許さないかのように太陽光をさえぎった。6500万年を境に地球史は塗り替えられた。地表は急速に冷えて、やがて氷河紀を迎える。しかし、分厚い噴煙や粉塵は、温まった海水と、地下から放出されるエネルギーを包み込み、地表が冷え切ってしまうのを防いだ。
神は、生物の絶滅を、お救い賜うた。
~中略~
<植物の進化から大事変を推定>
植物の進化は、動物の進化に比べて一様に遅い。これは、存続していくための条件が少なくて済むからに他ならない。しかし、この白亜紀末に前後して裸子植物から被子植物へと移行している。裸子よりも被子の方が気候の変化に強い。裏を返せば、大変な気候の'大変化'があったということで、これは'無季節から有季節'へ変化したことを意味する。(この時の大津波によって集められ)石炭化した植物に年輪はない。南極大隕石によって地軸が傾きを増したのだ。 □
[307] Re: 6500万年の南極に天体が衝突し地軸が傾いた!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 9月24日(火)
管理人さまへのお返事です。
早速のお返事ありがとうございます。
> ちょっと調べていて、関連しそうな話を見つけました。
> http://www.jamstec.go.jp/j/about/press_release/20141027/
10月27日付(日本時間)で英科学誌「Nature Geoscience」
> 350万年前に、何かあったようです。
ミランコビッチ・日照時間の変動性等については、いぜんに管理人さまが述べておられましたよね。この論文ではさらに詳しくあり勉強になります。さすが専門家の論文は当を得てるとかんじます。調査に元ずく図解にもわかりやすさがあります。ありがとう御座いました。これはnatureの前編集長の言ですが「私たちは商業誌であることを恥じてはいません」週刊誌でありながら60万というその読者のなかには専門家だけではなく、そのことに興味を示す大多数の読者にも受け入れられる工夫がなされていなければならないとも云われておりました。未完の部分があってもいいのです。それを提供してさらなる発展へとつなげるのが私たちの役目です。とも云われておりました。←以上は全くの言ではないのでその意だけをお汲み取り下さい。 さらに日本人の謙譲深さ(美徳)は他の国からみれば自論の自信の無さにうつっていると見られ、さらなる投稿数の増加をうながしてもおられました。
>350万年前の突発性? がミソですね。わたしはこれを天体衝突と考えています。
このような投稿案内をまともに受けて^^! ダメ元でいく度か投稿しましたが、限られた紙面積への投稿は60万のえりぬきの人達の峻烈な競争にたえねばならず、社会が求める時流にも乗っていなければなりません。このようなことは小保方さんの件でもありました。素人の中二症の発想で中坊程度の論説がとおるわけがありません。
しかしながら、当方が掲げる「南極大陸は6500万年前の大隕石だ!」は史実ですから、いずれ社会に受け入れられる時がきます。「四千年前の東北巨大隕石」のほうは、岩淵先生には「気づき」をえて、先様には強い興味で受け入れられていますが、素人本懐の「大事変」のほうは、客観的にみても天動説のなかで地動説をとなえているようなものですから受け入れられないのが当然です。このような極大論は没後に認められるが歴史の常^^!。その評価の歩みを遺しておきたいと思っています。http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-10.html
my報告書「巨大隕石と大津波」が十余年14冊で絶版となった今、それを刻んでおく手立てはこの掲示板しかありません。それを一番わかりやすい「地表の90%を覆った巨大津波の痕跡」で攻めています。今は、妄想・暴論として楽しむていどで充分です^^。なにとぞよろしくお願いいたします。今は亡き朋友<釣りじいさん>と交わしたことばがあります。「なにか一発釣れればいいですね」・カテゴリー「史実探偵局」より(笑い)
> 難しいのですが、地軸角は変化せずに、南極の位置だけすべるようにして変化するみたいな可能性とか、一時的に地軸が変化して元に戻ったという可能性はないですかね_??
むーーむ、むつかしい課題をいただきました。
わたしは、天体の回転の発生をつぎのように考えています。A>B>Cの質量の物質がある時、その距離をべつにして、まずAとBが引き合い衝突合体。この場合Cの存在があるので、AとBを結んだ真芯どうしにはぶつからず、少しずれた位置に衝突するので回転が生じる。これに慣性の法則がはたらく・・・。一方、太陽のほうですが、惑星の質量を引力と遠心力でとらえてはいるが、その回転軸には影響を与えてないか、もし磁力等で修正があっても長大なのではないかと考えています。この件は先様のほうがはるかに詳しいので反対にこの考えでよろしいか? とうかがいたいくらいです^^!
[308] Re: 巨大隕石の衝突で傾きを増した地軸!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 9月24日(火)
秦野北斗さまへ、 古代史掲示板[9842]へのお返事です。
https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/9842
オリジナルコメントありがとうございます^^。
>蛙(かわず)理論は、単純です。(高校生レベル)
蛙理論、大陸移動は赤道を境に東南と東北方向に移動している。
図の式を参照
>地球は太陽系を中心に回転している。回転のため遠心力と向心力が生じる(高校生)。
>ここで、向心力に注目し、向心力を分力に別ける、1つは重力、1つは地球面の緯度方向の滑り力。滑り力は赤道を中心の南極、北協方向に移動する。
地球の経度方向は回転方向に大陸移動する。
先様の蛙理論(仮称)がわかりません。このわたしが「井の中の蛙」ということでしょうか^^? であるならば甘んじてそれをお受けします。なぜなら、私は自論の「南極大陸は大隕石論」にたいしては、中二ていどの学識しか有しておらず参考にした本は片手にも及びません(笑い)。我が敬愛する岩淵先生から「なぜそのような(奇抜^^?)発想が生まれるのですか」 私「現科学に毒されないからです」その時は誰からも相手にされない 恨み節^^!からでた言葉でしたが、本のすばらしさは重々に知るところです。ですがこの件は中坊ていどの学識があれば充分に解ることです。ただ一言『そうだったのか』と気づいてくださるだけでいいのです。
その後、この掲示板で管理人さまやら、先達さまから色々に勉強させて頂いていますが、この思いは30年来、微動だにしません。
「向心力を分力に別ける」
向心力を分力に別けることが出来るのですか^^? 向心力は地表の微細力をのぞいて、地表面全ての点が中心点(重い方)へ向かう力と思っています。これに遠心力が加わり合力として働く??
「滑り力」
はじめて聞くことばです。ということは将来的、理論的には各々の大陸は両極方向へ移動するということですか? ということは赤道部分は次から次へと両極へ移動しラグビーボールのようになるのですか?? スミマセン^^! まったくの不勉強で理解できないことを残念に思います。
>現在の大陸移動
http://nh.kanagawa-museum.jp/kenkyu/epacs/museum/3c02.htm
この“現在の”大陸移動説は、世間が、キシ先生が、管理人さまが、NHKが、先さままでもが 参考に!!! と 掲げられます。この全てを否定するわけではありませんが「地球トーナメント肥大化論」をとっているわたし素人には、ある日忽然と現在の地球体積が出現したとは考えられず、さらにその表面にハート形(陸部)の風船カズラの種のようにつごうよく陸部と海部が分離していたとは考え難いものがあります。「現在の大陸移動説」は、陸の分離は考えていても 〇/3?以上の海部の存在が論じられていないことに疑問を感じます。私は、この海部をベイクドライスケイク理論(焼き餅理論)で説明しています。つまり、焼きたての餅を両手でつまみ両の親指( 南太平洋と北太平洋惑星)を押し込む。すると反対側の大西洋とインド洋は、ひび割れその間隔を広げてゆく。こののち南極惑星が衝突し、インド半島を北へ押しやる。大陸部と、太平洋&インド洋、そして太平洋の成因は全く異なる。その広大な太平洋の海底に安山岩はない。太平洋はその後この衝突熱で沸き上がり2億年でその海底表面を塗り替えている。と前述しています。
> 6500万年の南極に天体が衝突し地軸が傾いた! の、
さあ、南極を地中海の位置に移動させましょう。次回
楽しみにしています^^。
[310] Re: 6500万年の南極に天体が衝突し地軸が傾いた!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 9月28日(土)
管理人さまへのお返事です。
<古代史版2019/ 9/27 [9862] Re: 6500万年前の地中海が移動して・・・>
・・に、上げて下さった地球史の色々な情報には興味もあり、その全ては消化しきれませんが大変勉強になります^^。ありがとう御座いました。なかの大陸移動説のなかで、現学説や先さまの考えとすこし^^?異なる部分がありますので申し上げておきます。
>この時期は、ちょうどパンゲア大陸と呼ばれる超大陸が形成された時期で、その後プレートテクトニクスで図のように、大陸が分離拡散していきます。
>それで、その時期に、やはり小天体の衝突があったと考え、P-T境界の大量絶滅がそれによっておきたと考えると、恐竜絶滅のときと同様に理解しやすくなります。
>以前、平さんの天体衝突に伴うマントル内のプルーム上昇論を参考にして、小天体群の衝突に際して、こぶのようにして海洋から大陸となる陸地が隆起してきて、バンゲア大陸を造りだし、それがプレートテクトニクスで分散していく過程を論じたことがありましたね。
だから、この時期にはバンゲア大陸は一か所にまとまっていたわけです。
地球の誕生史については、この超・古代史掲示板でその考えをいく度か述べましたが、私は「地球肥大化論」をとっています。これは「天体どうしが衝突を重ねて段々と増大化した」というもので、拙報告書が絶版となった今、その全てを語るには長文を要するので、ここではその図示だけにとどめます。なかで生物がいつ誕生して、その衝突で“種の絶滅”をしながらも生命が継続してきたかについては、大きな疑問があります。しかしながら現状の私たちが現存していることは否定できません。では、自説「地球肥大化論」の全てが間違っているのかというと、そうとばかりは言えません。
ジャイアントインパクトと、「ミドルインパクト」のお考えに共感します。ミドルはとてもいい表現ですね^^。ジャイアントとミドルの大きさはどの程度で区分けするのかは今後の課題ですが、加えて小天体の衝突もありそうです。僅かΦ1kmの天体衝突で人類は絶滅するという現科学の認識はおおいに改めるべきだと思っています。『どっこい、おいら(生命体)は、生きている^^!』 これは、最大比熱の水が地表大量に存在し、その衝突時の発熱や、隕石の冬による気温降下にクッションとして働いているからではないでしょうか。
大陸のでき方については、先さまや北斗さま>とは異なる考え方をもっています。
自説「焼き餅論」では小地球にジャイアントインパクトの南太平洋天体と北太平洋天体の衝突で出来たのが反対側の大西洋だとしました。又、対蹠地をつくった6500万年前の「南極大陸大隕石」のインパクトではプルームを押し上げ、その溶岩を噴出したとする、アイルランド、デカン高原、エァーズロック等としていますが、大陸の作成までには至っていないと考えています。
<ジャイロごま>
この動画情報の全画面はPCの関係で見れなかったのですが、素晴らしいと思いました。ありがとう御座います。もう一度ゆっくり観たいと思います。
[311] ゴンドワナ大陸と古生代の化石の分布
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 9月28日(土)
古代史掲示板 [9872]の管理人さま(2019/9/28)投稿の「ゴンドワナ大陸と古生代の化石の分布・・」について考えています。
https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/9872
>「ゴンドワナ大陸と古生代の化石の分布と、・・中略・・、 現在の大陸が〝図中のように結合して” ゴンドワナ大陸を形成していたという仮定には妥当性がある。」
そうですね。30年来で一番大きな反論・難問かも知れません!!!。拙論の完全ダウンかもしれません。かといってこの掲示板で現在進めている「地球の90%以上を覆った大津波の痕跡が現存しているかぎり」その息の根を止めることは出来ません。困りました・・・、
[313] Re: 6500万年の南極に天体が衝突し地軸が傾いた!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年10月 1日(火)
管理人さまへのお返事です。コメントありがとうございます^^。
ひきつづき惑星誕生について考えています。
南極大陸周辺の「古生物の化石分布」で、拙論は完全ダウンしています・・^^!
> 地球肥大化ですが、初期の地球にはその可能性があったようですね。
> 問題はここ数億年間に、そのようなミドルインパクトがあったかどうか・・。
先の①~⑥の、拙:惑星肥大化につづいて、「焼き餅・衝突ひび割れ論」の図と、自説:惑星肥大化曲線図(オニオンライン)をかかげます。(絶版:報告書より)
『問題はここ数億年間に、』は、とても痛いとこを突いてこられました^^!。図の縦軸は時間(t)を、横軸に質量(m)をとっていますが、年限は言えませんが地球のほぼ現状大の首部で大きな合体があり。わたしも数億年か・を思っていました(汗)。だとすると「地球生命はいつどこで??」という受け入れがたい問題が生じ、また地球生誕46年とも不整合が生まれます。この問題は、ご指摘をうけるまで固く目をつぶっていました^^。・・・・時がたち今は、小さい小天体においても水の存在がいわれるようになりました。
>
> 個人的には地球と金星のサイズがほぼ同じとのこともあり、一定の規則性にしたがって惑星が同じ大きさに生成されていったと考えますので、地球の大きさを大きく変えるものはなかったか、あるいは大きさは変わらず、密度が変化したであろうと睨んでます。
>
> 私のプランク定数仮説では、サイズが重要なのでして、密度や重量があまり重要ではないことは、水星、火星、月、冥王星のサイズが同じなのにそれぞれの密度が異なる事例にもあてはまります。木星と土星、天王星と海王星のサイズのペアも同様ですね。サイズが重要なんです!
> ・・・
「プランク定数」わたしにはレベルが高すぎてよく分かりませんが、宇宙空間の物質の存在は波状にあるとは認識しています。太陽系でいえば、太陽系誕生の時、太陽に近いほど濃い塵帯かなと思っています。話はかわりますが、太陽と水星の間に楕円軌道帯があって、そのスピードの速さと、強大な太陽の重力と、強力な光によって、観測不能な五月蠅的天体があり、それを太陽が黒点として捕食しているのではと疑っていますが、こんなこども染みたこと、今までに口にしたことありません。(^-^!)
追伸: 強大な太陽の重力と、強力な光の方はそれなりに納得できそうですが、五月蠅の猛スピードを考えていましが黒点増大の周期が11~12年ですから笑止千万でした。
[316] Re: バンゲア大陸関連
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年10月 5日(土)
管理人さまへのお返事です。情報コメントありがとうございます^^。
> 欧州地下に沈み込んだ大陸が見つかったそうです。バンゲア大陸の話もでてます!
> https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191003-00000004-binsider-int
そうですか。それは耳よりな話ですね。「地球体積の増大説」をとっている自分には、そのような現象はありうる話かと思います。地球重力は比較して大洋部より大陸部のほうが大きいとは既知のとおりです。したがってすでにある大陸の上に重ねてミドル天体が衝突すると自ずとそこの重力は高くなります。私は地中海あたりと東南アジアあたりも推めていませんでしたが、そうだったのですね^^!。https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E5%9C%B0%E7%90%83%E3%81%AE%E9%87%8D%E5%8A%9B%E5%88%86%E5%B8%83%E5%9B%B3#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D0
蛇足ながら、衝突天体の内核やリム部でもそのようになっていますね。https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E5%9C%B0%E7%90%83%E3%81%AE%E9%87%8D%E5%8A%9B%E5%88%86%E5%B8%83%E5%9B%B3#mode%3Ddetail%26index%3D21%26st%3D864
さらに、地表の重力は地殻の押し合い部でも生じているようです。それが地震によって解消されるのは先学の知るところです。面白い情報がありました。東北3/11の地震で東北の重力位置が変わっていたと、「欧州の重力探査衛星が記録していた」・・・、https://www.gizmodo.jp/2013/12/goce.html この図の三陸釜石あたりの円形の半円部に重力のたかい部分があるのが気になります^^。
ちなみに、自説「BC.2001年末の東北に落下した巨大隕石でも」太平洋側から列島側へと圧縮されていた ストレスがその衝撃を発端に “連鎖的に” 解消したとしています。
[329] 10月/14日の釜石行き
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年10月21日(月)
<釜石を訪れたい>
台風19号は、ハギビスと名付けられ南北2千kmの風雨域をもち年間雨量の1/3が降った所もあるという。静岡県に上陸し福島や宮城、神奈川など12都県で75人死亡、14人が不明者となっている。河川の決壊は7県52か所(16日・朝日)、長野県では千曲川が決壊し新幹線車両7本が水浸しになった。列島の幹線も不通や運行停止が相次ぐなどの大打撃をうけた。釜石市で13日に予定されていたラグビーワールドカップ、ナミビア-カナダの試合が、この台風の影響で中止された。
その釜石に10/14日泊で行きました。
列島大動脈、山陽、東海、東北新幹線は、予定どおりの運行で新花巻14時41分着。花巻から釜石までの釜石線は途中の遠野止まりで運休し、次の電車は2時間余り後の発車。泊りを予約している釜石まで行けない。それを知らずにホームへたたずむのは、私たち2人と、一日一組限定、(とおの屋 要)遠野の美味しいどぶろく^^が目的の30歳がらみ?のお兄さん2人と、釜石でお店が泥水被災した姉さまの手助け目的のご婦人の5人のみ。ここ新花巻で次の電車の2時間余は待てない。オザキさんと云われたお兄さん達は(もう一人のお兄さんのお名を二度聞きしたのに思い出せない^^!)レンタカーを即断!! 「真にもうしわけ御座いませんが、私たち3人を同乗させて頂けないでしょうか^^?」「いいですよ^^遠野までですが・」車行きで1.5時間は? かかったかな。お礼をいい分配を願い出ると「困っている人があったら助けてあげて下さい」と、固辞された。さて、残された遠野駅での3人。これからどうする?? 奇しくもオザキさんといわれる御婦人が釜石の姉さんにTelすると、盛岡から帰りの姪ごさん母娘が約1時間ほどで遠野につくという。駅員さんに聞けば不通であった釜石行きの電車は、先ほど10分前に出たというし、次の電車は2・3時間後の発だという。それまで待つと釜石着は午後の10時はゆうに過ぎてしまう。ここでもその釜石行き御婦人の情にお願いしてのヒッチハイク^^!。着いたのは6時頃。<3/11>で流された姪ごさんのお家がその海岸ホテルのすぐ近くにあったそうです。そして、カナダ選手30名が泊まられたと聞くホテルで合ったお客はただ一人の貸きり状態^^!。 翌朝、歩いた釜石駅までの道路では流れ出た泥土の片づけ作業がなされていて、注意しないと滑りこけるほどでした。もとより、観光が目的の釜石行きではありませんでしたが「人情け」というかえられない経験ができ、我が敬する岩淵先生にもお会いすることができました。
そして、もう一つ学んだことは、このような大災害時には、状況が色々とかわっているのにその錯綜した情報が一人歩きして伝わること。「その情報が何時、だれが、どこで出したか」を見極めることが大切かとおもいました。このようなことは「史記」にもあることで、その一字一句の全てが正しいとは限らないのではとも感じました。
[332] 題 - まだある卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸 !!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年12月 4日(水)04時05分
↑吉備・総社市岩屋・未掘の銅鐸23個が埋めてある岩屋寺金堂とその上斜面
※ 尚、この写真の場所は、地域・地主様へのご迷惑や歴史破壊を考えて〔極秘〕としていました。※写真は散策コースを外れております。(散策道は所有者のご協力からなっており)
コース外の探索はくれぐれも、その許可をとってからになさって下さい。そうしないと
立ち入りさえ出来なくなってしまいます。【厳重注意】
卑弥呼は魏から得た100枚の銅鏡に換えて出雲と “同じ決め事”で 持ち寄った銅剣と銅鐸を封印した!
↓myブログよりコピペ^^!
< 岡山県総社市岩屋 に埋められている大量の銅鐸、現地画策,その 2 >
「卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸を見つけたい人この指とまれ!」
表題を掲げて、(十数年の)広報活動を続けてきましたが、未だ、何方さまからも取り合って貰えていない。もう、私には貴家や世間さまがこのビッグゲームに参加して下さるまでお待ちできる頭脳寿命は残っていない^^!。この先は “ ツルハシかついでスコップ片手に”の暴挙にうつりたいと思いましたがぁ~^-^?。
『今までの概略』
(卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸よりの抜粋)
なぜ、“大量の”銅剣や銅鐸が埋められたのであろうか?
銅鐸は、大量にまとめて埋められた以前にも、必要時以外は個々に(土中保管説)埋められていた。 話は、これを大きくさかのぼり、「BC.2001年の12月25日、未だ暗い朝の6時頃、地球を半周した彗星が、龍飛崎の上空を通過し、三陸地方に巨大隕石となって光臨した!」 ←この詳細は、myブログのカテゴリー「巨大隕石」へ、どうぞ^^! http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-6.html
祖先はその赤く輝いた巨塊を、その風切り音から“竜”と命名した。この巨大隕石は、隕石の冬による慈雨と、津波による魚介類や瑞穂という恵みを打ち上げ、そして、犠牲を強要する荒神となって “人々の心の中” に入り込んだ。
神の発生は大集団社会へと展開する核となる。その過程で雨水の必要性もだんだんと増してきて“雨乞い”が始まる。願う相手は、その慈雨をもたらした八大竜王だ。 この荒神様は、慈雨との交換に赤い血を欲しがる。
生け贄の歴史は、最初の小動物からエスカレートして、 ついには 「私達には、これ以上に大切なものは有りません。 この幼子を煙に変えますから、どうぞ、この海水を、この幼子の煙を雨雲に換えて下さい」 と迄になる。 “その天竜水神を呼び寄せ、荒神を乗り移す媒体となったのが銅鐸だ!” それ等の “雨乞い生贄文化” が永々と続いていた3世紀の初頭に、言い伝えの箒星が現れた。 朝夕の空にあるその星は日々に大きさを増していった!
又来るあの大事変が!! 人々が恐れおののくなかで、ヒミコは云った。
「やがて、あの星は全天を覆うだろう。 私がその難を逃れるお祈りをしてあげる」 と、
結果的に、この彗星はニアミスに終わり、人々は大きく安堵した。
火巫女は説いた。「真は、お日様が主神で荒神彗星は、そのお使者であるよ。
その証しに、その星は、朝夕のお日様の方から来たでしょ。悲しい習慣りは、止めにしましょう」
元は、と云えばヒミコは、一般の子と区別するために、その削がれた耳を、おカッパ頭で隠し、人里離れた境内で “人身供儀用” として、大切にそだてられていた三歳~七歳までの幼子のうちの1人であったが、その口寄せが 「よく当たる」 ことから、その厄を逃れていた。この一件でカリスマ性を増した卑弥呼は、銅鐸を中国・魏から取りよせた銅鏡に替えさせた。初めて見る銅鏡に修厳者(大夫)達は驚愕した。並みの驚愕ではない。太陽の光を反射するその鏡は直視することが出来ない。 目を閉じて地に‘ヒレ伏’した。日巫女さまの云うことに間違いはない! 早朝の戸口に白羽の矢を立てられれば、否でも愛児を差し出さねばならない社会制度。 雨乞いや厄災時には“その命”神が召すのだと! 稚児たちを殺めた。 一度使った刃は二度と使いたくない。出雲の大量の銅剣は、犠牲者(塚)の数だ。 このような「衆生雨乞いのための社会制度」に、不満がくすぶっていたから、それまで銅鐸を使用していた文化は、卑弥呼の提唱する“銅鏡象徴文化”へと、容易に変わっていく。 しかも、ヒミコさまは、その銅鏡を下さると云う。 荒神・銅鐸文化が発達し、卑弥呼(銅鏡)文化へと変わった所には、 「その神二度と起こしてはならない! その剣二度と持たしてはならない!」と、不使用にした銅鐸と銅剣が持ち寄られ、それぞれが 別離させて“封印”されている。 その「雨乞いは」、村人こぞりて行う大行事であり、その埋め場所は “衆知の事実”なのに、その銅鐸や銅剣が、ごく近時まで盗掘の被害に遭わなかったのは、墓泥棒も恐れるほどの “祟り”があったからだ。しかし、銅鏡にかえても欲しい雨は降るとばかりは限らない。 「やっぱり荒神様は、生娘を欲しがっているのだなぁ~」と歴史は続いていく。
以上が解れば、「主題の、大量の銅剣・銅鐸捜しは」簡単だ!! 出雲では、すでに、その両方が出土しているから、これに習えばいい。 ←この詳細は、myブログのカテゴリー「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」へどうぞ^^!
魏からの銅鏡数100個=出雲銅鐸数39個+<吉備銅鐸数23個>+神戸銅鐸数14個+野洲銅鐸数24個
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2016 / 2 / 04(木)
その日の気温は10°C前後で晴天。総社市鬼ノ城(きのじょう)へ着いたのは午後の1時頃、平日のせいか、60~70台停められる駐車場には、10台ほどしか停まっていない。観光の時期を外れるとここまで足をのばす人は、歴史に興味のある人か健康志向のハイカーしかこないようだ。ここから車で10分ほど走ると目的の岩屋へ着く。それでも、10台ほど停められる駐車場には2台の車が停めてあった。目的は(自説)卑弥呼が関係したとする大量の銅鐸(予測数23個)が埋められていると推察している岩屋(宮?)の裏山で、その銅鐸が埋められているとした場所をピンポイントで写真を収めておきたいとの思いからだった。というのは去る1月23日、岡山県立図書館で、著名なお二方の吉備の歴史についての講演を受けてのことだった。
<そんなこともあっての岩屋寺の探索である。二度探索した>
岩屋寺観音院 - 写真省略
○○時代のその昔には、東の比叡山と並び称されるほどにぎわっていたとか。
岡山県総社市岩屋・鬼の差し上げ岩 - 写真1
岩屋という地名は、この人手とも自然風化ともつかない姿形をした巨岩に由来する。そして「鬼の差し上げ岩」と呼ばれるのは、鬼が差し上げたとする(右手の)痕が巨岩の下方についていると伺った。それをネットで知った若者連れが下にマットを敷き寝転んでその霊気をもらう パワースポットとなっているとか^^!。 近年に下部が崩落し、危険なことから、現在は、縄を張りめぐらし立ち入り禁止となっている。
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以下の記述(A4-3頁分)は、地区のご迷惑や 歴史破壊に繋がるとの思いから、
( '16, 2/15 現で! ) 〔極秘〕未公開 としていましたが・・・^^!
<総社市・岩屋寺金堂>
巨岩と同じ敷地にあるこちらの方は、「金堂」と呼ばれているそうで、格子戸の中には小さな木彫りの毘沙門天が祀られている。しかし、近年の過疎から、その本尊は、足守のほうに移されていると駐車場の掃除をされにこられた年配の男性が教えて下さった。この裏手の崖の上が素人探偵が、卑弥呼より受けた者が(或いは卑弥呼本人が)銅鏡に換えて予測23個の銅鐸を '埋封'(筆者の造語)しているとする場所だ。
金堂裏手の崖上の均地(なるち)、の写真(省略)
一度目の探索時(トータルでは二度目)、その銅鐸が埋めてあるとした均地
金堂の写真 (脚部が高いのが特徴) - 写真2
南北30m~40m東西約10m余りの、木の葉形の均地の中央に枯れ枝を赤いテープで結わえて写真に収めた。太い木はない。ここなら枯れ葉の積もりはあるももの筆者が四尺下、実際には掘り底四尺の上に寝かせた銅鐸一尺を差し引いた約90cm下に埋められているとする銅鐸は、草刈り機タイプの金属探知機が使えそうだ。 ・・・・、
と?、足元をみると予想もしなかった黒い瓦片がある。屋根すそのもので三つの渦巻き紋がある。紋の名が思い出せない。黒い瓦だということは時代が新しいことを意味する。落ち葉に隠れているが、他にも破片があるようだ。わざわざ神社の裏山に要もないのに瓦片を持ってくる人はいない。というのは昔人間ならわかって頂けると思うが 「触らぬ神にタタリなし」 の言葉があるように、とくにその後ろ側は、気持ちがわるくて足を踏み入れない場所だ。そこに多数の瓦片があるということは、ここに小さいながらお社(やしろ)があったことになる。ここは、均地のほぼ中央。ならば、脇神は必ずある。均地の北側を探索すると多数の瓦片が。さらにその南端にも少数の瓦片があった。予想は見事に的中した。(自画自賛、だれも相手にしてくれないので^^!) 少なくとも、山中ではあるが瓦を載せた屋根が朽ち果てて平ら状になるまでには半世紀以上を要する? 史学はこれを認識してないのではないか?? (ウキウキ^^)成果はあった。 さて帰るとするか。下りる時は金堂を下に見て右側から下りた、その下りがけにも瓦片があった。その昔にはこの方から上がり降りしていたに違いない。道状にした整地のあとがある。下まで降りて振り返ると立ち入り禁止の立て札が ・・・、 知らなかった。 見なかった。・・・ことにするか(汗~^^!)。
瓦片の写真(省略)
二度目の探索へ、(トータルて゛は3回目)
・・・、・・・、妙に気になる。・・・、何かすっきりしない。・・・、この均地の中央に銅鐸を埋めたとしたのは間違いではないのか、の疑念がわいてくる。・・・・?、
銅鐸を埋めた上にそれと知り得て建物を建てたりはしない。そのようなことをすればバチがあたる。
出雲では「何んのへんてつもない斜面上のところ」とあつた。当地は人手を加えて平ら状にしたかも知れない均地である。さらに、均地中央より南に10cm~20cmほど高い道状の高まりがあったのも気になる。通常では、山歩きをするとき小規模では盛り土の畝上を歩くか、土を谷状にけずりとり歩きやすくする。均地の中部に畝状の道は要らないと思うが? 以前に訪れた時もその道状のところを上に上がって遊歩道に出たがその均地より上は銅鐸を埋めるとするような場所は見つからなかった。さらに、均地につながる斜面にも多くの立ち木があったとも思うし、よく確認していなかった。・・・、その確認をしたい。・・・んで出かけました。
2016 / 2 / 11(木)
ありました!! 次ページの写真が、その 銅鐸23個±α個 が埋められているとする斜面の写真です。かなり急斜面であり、さして広くもない。木の葉形の均地の中央に連なる斜面で、その斜度45°ぐらいかな。均地を立ち位置として、上部のなだらかな所まで4m~5mはあるかも知れない。
その場所を下から見た写真 - 写真3
(倒木の傍で、枯れ枝を赤いテープで結わえている場所)
その位置を上から見た写真(省略)
< 吉備の大量の銅鐸は、この “位置に”埋封されている!!。 >
前回も、前々回も斜度もきつく、少し太めの立ち木もあることから見逃していた。大量の銅鐸の埋め地を探るとき、絶対に外してはならない条件がある。その上を安々と歩いてはならないこと。その足音で ヒレ伏している荒神が目覚めては困るからだ。そして、山の中腹に埋められているのは、荒神がおわす 天井山の頂上と、慈雨受ける大地 である山のふもとの中間にあり、この二つが交わる考えに基づいている。それを別紙報告書では、山頂に埋めたのでは遠すぎるし、ふもとに埋めたのでは「もう降りた」となりチョッと早すぎる。それではチョッと都合がわるい。(笑い)。入れ子(大きい銅鐸に小さい銅鐸を入れて埋めていること)にしているのは、掘る面積を少なくして、少しでも楽がしたいとの単純な理由から^^! 蛇足ながら銅鐸の大小は寄り集まった部族の大小だと謎解きしている。野洲の三上山ではその山上にシメ縄を張った盤座岩があった。これは、封印した銅鐸や銅剣を押さえつけておくものであり、ここ岩屋にもそれがあった。途中の東向き屏風岩は、東から西進してくる荒ぶる冬至の旭光を受け止め、その力を減力する(盾の役目の)もので、今では、それが金屏風に変身していると謎解きした。このような考えは銅剣銅鐸の両方が出土している出雲にもキットあるに違いない。・・・・、
さて、あなたさまは、どうされますぅ・・・^^? 2016/2/15 □
1.実績のない素人の妄想として無視する。→出たらさわぐ^^!
2.自己責任で、その銅鐸を掘り上げ古代史に風穴をあける。→祟りがあるかもよ~~!
以上の(A4-3頁分)は、地区のご迷惑や 歴史破壊に繋がるとの思いから、
〔極秘〕未公開 としていましたが、当方、ボケ(作文や編集能力の衰え)もあり、どうせ(30年来)、誰も相手にしてくれないから大丈夫かぁ^^)と、咎(とが)を承知で、この掲示板の物言わぬ(平均100名)方々にも記憶に止め置いてくだされば幸いと思い掲げることにしました。スミマセン^^!。ただいま終活中。当方ボケ進行中でコメントを下さっても、そのコメントにお返事の確約はできません^^! どうぞ、ご机下に!!
<しかし、実際にそれを掘り上げるとなると、次のような難しさがあります^^!>
↓myブログよりコピペ^^!
<卑弥呼が埋封(筆者の造語)した大量の銅剣や銅鐸の埋め地を 「ここぞと!」推定しても>
その(吉備・総社市岩屋の金堂)あたり一帯は、鬼ノ城の観光地化に伴い、心無いハイカー(=私自身^^!)もあるのでしょうか^^! 「私有地・地主さまの協力のもとに成り立っている」 との立て看板がありコースを外れての立ち入りが禁止されています。
立て看板には、『樹木の伐採、草木の採取、土石の掘削等は県知事の許可がいる』 と書いてある。埋蔵文化財は貴重な国民の共有財産です。文化財保護法では,周知の埋蔵文化財包蔵地、またはこれに隣接する土地において土木工事などの開発事業を行う場合には,都道府県・政令指定都市等の教育委員会に事前の届出等を,また新たに遺跡を発見した場合にも届出等を行うよう求めている。その発掘費用(今から18年前の見積もり数百万円!アーカイブ2008/4月へどうぞ^^)は原則的には地主持ち。そして、素人が勝ってに掘り出しても専門家のお墨付きがなければ意味がない^^!。
さらに、土砂災害防止法では、土砂災害のおそれのある地で『上記』のような作業をする場合、あらかじめ規定の届出をせず、又は虚偽の届出をした者は科料が科せられる。宅地又は垣、柵等で囲まれた他人の占有する土地に立ち入ろうとする場合においては、その立ち入ろうとする者は、立入りの際、あらかじめ、その旨を当該土地の占有者に告げなければならない。等の規定もある。実績のない素人が 「ここに、卑弥呼が埋めた大量の銅剣や銅鐸があります」と言っても、だれ一人(専門家が)相手にしてくれない現在、その申請書がとおるとは思えない。
このように、二重三重四重の幾多の困難が待ち構えている。金属探知機をかつげばいいのだが。それでは意味が半減する。素人探偵がたどり着いたように、 「地名と、地勢と、その歴史的背景」 を探れば、ピンポイントでその埋封地(筆者の造語)を特定できることに意味がある。ドがつく素人が、スコップ片手にツルハシかついで掘る前に、先様方の“お許し”が要る。 その指さす場所を1mと違えてはならない!!
闇夜の不如帰(ホトトギス)。 その口内は、血反吐を吐いたような赤い色をしている。
ちなみに,ホトトギス(素人)は、子育てが苦手でウグイス(専門家)に托卵する習性があります^^!
何故に、血反吐吐くかや、時鳥(ホトトギス)、おぼろなりとも、月さえあらまじ、
あなた(春告鳥ウグイス)・先学鳴くとも、我バイチャ(あの世^^?笑い)。
(カテゴリー<ゲスト様>粗茶室より)http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-3.html
[351] Re: 続・童唄に隠された謎?・その歴史、忘却の彼方に!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年12月28日(土)00時52分42秒
青面金剛さまへのお返事です。
コメントありがとう御座います。・・もう下さらないと思ってたのですがぁ~^-^?
わたしの意とすることは『 ここ掘れ、ワンワン^^』 先様のコメントはありがたいのですが、辛口コメントも、度を過ぎたモノはいかがかと思います^~! この先、その出土までには時間がかかると思います。それ等が出土しなければいいのですが、(もし?)素人の予見した場所に、予測した形でその坑道窟や大量の銅鐸が出土したらまずいことが世に残りますよね(^^)
> > 卑弥呼は「稚児を殺めた銅剣を、二度とその剣、その荒神に持たせてはならない!」
> ★ 前にも指摘した様に、銅剣の×印は、東出雲王家の富家の紋である、銅矛が交差した紋を示す、王権の象徴を意味します。
先さまのご指摘のすべてを記憶している分ではありませんが、出雲には<富・とび>という地名(国土地理院)がありました。何故、これをトビと読むのか不思議でなりませんでした。飛び? 鳶?そのすべては思い出せませんが。加茂(カモ?)や、鷺峠をはじめとして、出雲には鳥の地名が他の地に比べて多いのが気になっていました。×印は、歴史の流れを考えると、「富家の家紋」が先にあったのではなくて、卑弥呼の封印の方が先であり「この剣、二度と使わじ」とした不使用の意や、封印の意があるのではないでしょうか。今では封書を閉じるとき×印を書く人は少なくなりましたが。この×は封をするって意味ですよね。その剣の茎(なかご)に無印のものが幾つかありましたが、これは素人の謎解きでおおいに参考になりました。つまり、それは使用しなかった新品・予備剣かと!! このように考えて歴史をさかのぼれば「富家」は由緒ある家筋になります・・^^。
> ◎ みやすみやまの おんばあと、たぬき
> ぽんぽこぽんの すっぽんぽーん♪ ひとやまこえて ふたやまこえて みやすみやまの うえで ♪たぬきさん たぬきさん ♪あそぼじゃないか いま ごはんの まっさいちゅう ♪おかずは なあに うめぼし こうこ ♪ひときれ わたしにくださいな ♪あかちょこ べっちょこ いやしんぼう♪
> と たぬきさんが まりつきを・・。ほんに 近くに聞こえてくるような。
またまた、貴重な情報をありがとうございます。
わたしは「二山越えて、三山の前で、狸さん・・」の狸さんが推めていませんでした。「なぜ、それが狸さんなのか?」狐ではだめなのかと?「ぽんぽこぽんの すっぽんぽーん♪」 そうです。この形容は。狸の皮太鼓をたたく音だったのです! 「おんばあ」は卑弥呼です。一般に卑弥呼は美娘として描かれていますが、わたしは、そうと考えていません。娘時代と老期とはちがうでしょうが、史記には「千人の傍女にかしずかれ、その姿見たものなし」とあるようですが、女子は長髪が一般的な世の中。老期の卑弥呼は、幼児期に削がれたその耳を隠すおかっぱ頭。目の周りには歌舞伎役者のようなクマドリ。そしてお歯黒の歴史があることから、前歯の全てを抜いていたと推定しています。倉敷市・船穂町の里木貝塚では前歯を意識的に抜いたのでは?とする遺骨がでたとか。その遺骨が卑弥呼だとはしませんが、「お歯黒」は江戸時代まで残っていたようですから、巫女さんにおいては、同様なことが拡散したのではないでしょうか。
卑弥呼は、狸皮太鼓(鼓・つづみ)をたたき、その大量の銅鐸や銅剣を封印している。
卑弥呼の本拠が(自分の知識では)どことはいえないが、その<埋封・まいふう筆者の造語>のため、出雲・吉備・姫路・野洲へと移動している。でなければ「姫路」の地名は残ってはいない。興し(おこし)に乗って移動している。このシキタリは、浜松の姫街道(国土地理院)。地方によっては、今でも花嫁行列や、葬儀列として残っているのは皆さまの知るところです。このように。今の私たちが「何をしているか」から手繰っていくのが素人探偵のやり方です。みやまの前か?上か?の問題は残ります。青面金剛さま>ありがとうございました。
> ☆ 三休公園民話村 岡山県久米郡美咲町西川上400-11
> 岩倉山:標高394.2m 岡山県加賀郡吉備中央町上田西
> 岩倉公園
行ったことも聞いたこともありません・・(滝汗~^^!)。
こういった遺跡に桜の植樹は珍しくありません。今でこそ桜は観光木ですが、その昔をさかのぼれば「農事呪縛の木」であったことは、先さま方の知るところです。逆に「桜」の植樹があれば、その歴史の拡散かと(神戸・桜が丘)疑ってみるのも楽しいことです。「みやすみやま」にしても「宮山・みやま」にしても珍しくありません。今でも、里山に神社があればそれ等は「みやま」の呼称で呼ばれているのではないでしょうか? 「共通の文化があれば共通の事象あり」 何故、それが「三・み」なのか? 今では、その追求を、すっかり忘れていることが大きな問題だと考えています。
> ☆ 平さんが、その説を唱え続けたいなら、絶版本なので、図書館の館員に探してもらう事。
図書館へいけば、そのネットワークをとおして、読みたい本を他の図書館から取り寄せてくださるのは知っていますが、只今は「 終活中^^!」そのエネルギーは残っていません。ので、ので・・・
[353] Re: 鬼の岩屋
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年12月30日(月)
管理人さまへのお返事です。
コメント、たいへん遅くなって申し訳ありません。
> 昔、鬼の岩屋は、地元の方に案内していただいて行ったことがありますね・・・。
> 元は、神籠石の時代、つまり弥生後期~末期のものでしょう。
> 鬼ノ城はその当時の山城だと睨んでます。ライン面でも結びつきましたね。
> 当時の私の探索記録があります。物部氏系の石切神社や磐舟神社とライン面で関係づけてますね・・・忘れてました(汗)
☆ > 鬼の岩屋も、測量面では重要ポイントです。
> 図1はその周辺遺跡との位置関係を示した図ですが、鬼の釜というのが南にあります。
☆ > 鬼の釜も見たような記憶がありますね・・・。鬼の釜についてはこちら。・・・、
☆ > 温羅遺跡と鬼の釜との間に鬼ノ城が位置します。
> この三角形の意味するところについて、ぜひ平さんの所見を伺いたいところですね!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<鬼の岩屋と、 鬼の釜と、 温羅遺跡(←鬼ノ城内の東部に在り)の△点形について>
ごめんなさい。上記の三角形についての考えは及びませんでした。
〔僭越ながら素人の考えをのべます^^!〕
その規模の大きさ(〇〇ha)からして鬼ノ城(きのじょう)が中心だと考えられます。
こういった(遺跡)の施設を弥生期以前の土地の私有化がゆるい場合、祖先の考えをさぐるには「何かの思い」があってその地を選んで施設されていると考えられます。この点で先さまの方角論と一致するものがあります。温羅遺跡とされている所は、自然石を立てた温羅(ウラ)の墓だと思いますが、鬼ノ城は、すり鉢を伏せたような山形ながら多少の起伏はあるにせよ、その頂部は東京ドーム〇個分の広さがあります。ウラの墓が「何故、東部の中ほどにあるのか?」が、私的には分っていません。又、その墓の向きですが「南向き?」だったかなぐらいしか覚えていないのです。その向きを知ることは、祖先の思いを知ることで大切と考えています。
なぜこのような考えに至ったかというと、モアイの石像が島内方向を向いていると知ったからです。ふつう私たちは墓を建立する時、或いは、建物の向きや都市計画においても同様なことがいえます。海の方か、下方か、お日様の方に向けて建立します。その方が気持ちがいいからです。これは「植物から分化した私たちの細胞や分子内には “向日性” が潜んでいる」からだと謎解きしました。
<鬼ノ城について>
鬼ノ城については、先学のほうがはるかに詳しいので、(素人との差異だけにとどめます)
鬼ノ城には30年程まえに訪れたことがあります。その時は、荒れ放題で、巨費をかけた今の復元遺跡は想像だにつきませんでした。考古学者の仔細な労苦に感嘆します。地元史家が端を発してから100年以上はかかっているかも知れませんね(涙ぁ^^!)。東西南北に門があり、南城門と、東の自然石を利用した?巨岩積みは圧巻です。このことから朝鮮式山城とみるのが定説のようですが。わたしはそうとは納得できません。
なぜなら、すり鉢型をした山頂に多少の起伏はあるももの、南側にいくつかの水門 があるからです。史学者は、この水門は敵が登ってきたときに関をきり防御したと考えておられるようですが。それにしてはチャッチイです。山上の戦いに飲料水は大切です。溜井戸は散在しているようですが、その大切な水を放出するでしょうか? 落石や糞尿で防いだとは聞きますが、山頂にあるこのような小さい規模の水門を一気に切ろうが多くの戦果をえるとは思えません。敵が大群で寄せるなら、比較的なだらかな西側から攻めたほうがはるかに有利です。そして、兵糧を蓄えるにしても人里から遠すぎています。
わたしは<この地の>歴史の流れを次のようにとらえています。
後期縄文期→ 徐福渡来期→ 弥生前期→ 水稲拡散期→ 雨水要の拡大→ →
4千年前の大事変→・竜荒神信仰・銅鐸天井雨乞い信仰・ →彗星ニアミス卑弥呼出現→ 銅鏡お日様信仰へ
徐福達は 『私たちは不老不死の薬石を探しに来た』 とは、列島人に絶対に云いません(Dr.S氏)。医療術は施しても、そんな大事なことは〔極秘中の極秘特許〕絶対に漏らしませんよね。万ヶ一発見かっても^^! それを列島人に知られたら大変なことだよね。それですと報告できるのは始皇帝ただ一人です。
もう一つに徐福たちのとった行動に特筆することがあります。
それは、信仰面です。神仙思想からの列島探索とはいえ、歴然たる文明差があるとき、微少を除いてその迎合は皆無だったと思います。それは卑弥呼の「卑」をみても、矮小の「倭国」をみても下げすんだ表現をつかっているからです。下げすんだ人達の信仰を受け入れるとは思えません。一方、列島人にすれば(4,000年前の)東北に落ちた巨大隕石(Φ10km>?なり)を “体験した”歴史と銅鐸を使用した精神文化を受け継いでおり、先国の文明は 習合しても信仰面では譲れない歴史があった。
このようなことから、当初は雨乞いから始めた鬼ノ城であったが、始皇帝も徐福も没し歴史はながれ薄れゆき、今ではその裾野平野は海抜5~6m〔注〕であるが、その昔は浅海であったことから、朝鮮式山城として “転用” された時期 もあったかと思います。
〔注〕この、裾野平野は海抜5~6mの件ですが、吉備津神社への参道の両脇に松林が植えられており、国土地理院の調べでここが分水嶺になっており西へ流れれば高梁川へ。東へ流れれば足守川へと流れるようになっており、分水嶺が出来ない地勢に分水嶺がある不思議もありますが、ここに<境>の地名もあることから、4千年前の巨大津波がこの地まで届き、両岸がここで狭くなっていて、ここで津波の土砂溜まりが出来たことから、この場所を「その神がおいでになり留まった所として吉備津神社を建立した」としたことがありましたが、これも実地検査を怠っており、調べねばと思いながら忘却の彼方へいっておりました。(汗~)そういえば出雲大社の参道にも松林がありましたかぁ??
総社市の東方の平地にウラと吉備津彦側が舟で戦ったとする「矢喰い岩」があります。ということは、いまより地球は温暖化していたということになります。少なくとも瀬戸内の歴史を語るとき、この海退、海進を外すことができず、いつの時点を切り取って議論しているのかが重要となります。それは水稲栽培可能地帯に大きく関係してくるからです。□
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筆者が 鬼ノ城は雨乞い施設だった とする理由がもう三っつあります。
一つに、すり鉢を伏せたような頂部ですが、全体として南側の平野部に傾いていて、東西の左右に版築土壇列が築かれ、南側の水門に流れ込むように設えてあります。わたしは、この水門を雨乞いのための 呼び水 として放流したとみていますが、これを防壁塀とみると防御のためのお城塀ということになりますが?
二つに、南側の海が見える頂部近くの岩表に焚火(?)のあとが黒くあったこと。焚火を長く同じ場所で焚くと、黒くなったり赤くなったりします。これを戦いのノロシ痕とみるか、雨乞いの煙り立たせる所とみるかは先様方のご自由です^^!。
三つ目に、この下部平野に<砂川>が流れていることです。砂川といっても今では水の流れているのを見たことがありません。砂川の地名は、野洲に蛇砂川。出雲にも蛇砂川だったかな?蛇行した人造様の川があります。神戸では余りにも急こう配なので、それらしき川名は見当たりませんでしたが、北海道にも砂川市があり、四千年の津波が運んだ砂土かとも思いましたが問い合わせたところ、「付名の理由は分かりません」との親切なお返事がかえりました。
そして、ここには<血吸川>なる生け贄を連想するショッキングな川名があります。それかどうかは分かりませんが出雲にも赤川がありました。出雲のほうは酸化鉄川かも知れません^^! 以上のようなことを myブログのカテゴリー「吉備地方」に書いたような気がしますが、・・・・、 ??? よく思い出せません^^! (忘却探偵よりぃ~~!)
<温羅(ウラ)について>
この件について先様方に述べるのは赤顔の至りですが、素人の思いをのべたいと思います。
ウラは大陸か半島系の夫婦かとおもいます。当時の大陸・半島との文明差は精神文明をべつとして歴然としたものがあったのは知るところです。方位方角から築城、医療はもとより、衣食住にいたるまで先んじていました。この地で注目したいのは “鋳鉄” の技術です。それは、この鬼ノ城の麓に<阿曽>の地名があります。ここでの鋳鉄製品は吉備津神社のお釜として後々まで納められたと聞いています。そして、上方(かみがた)からの注文も?あったのでしょうか。
次に、ウラ夫婦としたのは、理由(わけ)があります。
この鬼ノ城の散策道はもとより、瀬戸内一帯には“道祖神信仰”があり、各所に石仏2体が残っているのは、夫婦像かと思います。その夫婦は、徐福達が「不老長寿の薬石探索」のために分散した人達のうちでしょうね。わたし素人は歴史をかたる人達について、大きな疑問を感じています。例えば「徐福」についてですが、その足跡は、徐福個人について語られていますが3千人が出立した百工人の大部隊。女もいれば子どももいる。今でいえば「女達の忠臣蔵」でしょうか(笑い)。 岩手県・一ノ関の金色堂の仏画に、観音様と、脇神と、童子神の三身が描かれていたのは驚きました。徐福達は列島各所への新入者でありトラブルがあった地もあるでしょうが、基本的には医療施術をしてくださる有り難い神さま仏さま^^? それを顕彰して道祖神2体の石仏として遺した。
< しかし、銅技術と鉄技術だけは列島人に教えなかった。>
大陸や半島人と、列島人の銅器や鉄器にかんする考え方はまったく違います。大陸人がそれ等を武器の素材として生み出したのに対して、列島人は祭器の素材として扱っています。列島人がその製法を知り自分達に抗らうようになっては困ります。一子相伝でしょうか? とくに銅製品は鉄製品と異なり、その製法も難しかったから、後代で奈良の大仏制作へ〇〇から銅材の寄進があったと聞きますから、遅くまでその製法は門外不出だったのでしょうか。
もう一つの大きな理由は、これを専売にして通商品とすることで、列島人が雨乞い祭祀のために欲しがる銅鐸や祭祀剣と、自分達が欲しい人手や列島の珍宝蒐集と交換できるからです。
<鬼の釜について>
鬼の釜と呼ばれる直径1.8mほどの大釜が、鬼ノ城へ行く道の下方(〇m)にありますが、なぜ此処に置かれたのかは分かりません。塩釜か、煮炊きの釜かは判りませんが、カマドに載せる縁がありますから実用的な形をしています。先の<阿曽>の地で造ったのでしょうか?(溶接製^^??)この脇にお大師堂があり、ここにいたる迄に〇番の石柱や石仏もありましたから、真宗・真言宗の色合いがあるのでしょうか。ここには数軒の人家があり、ここを左手に上ると、小さいながら「山王神社」があります。管理する宮司さまがおられんので、今では足守の「岩屋寺」のほうへ御本尊をうつしているとか。僭越ながら、基準△点と、とるならば山王神社か直ぐそばにある△山姿の<経山>とするほうが良いかと思います。ここらあたりは、筆者が推定した岩屋の23±α個から約一里ほど離れたところにあり、23×9(Dr.いずも氏参考値)≒200本 の銅剣が埋められているとしていますが、未だに探しあぐねています^^!。経山の山頂には〇〇城址があり、韓航の岡山空港への着陸コースとなっており、その飛行機が間近にみえます。ちなみに、管理人さまは、半島史にもお詳しいのですね。中国史を語る人はたくさんいますが、半島史を語れる人に今まで当たったことがありません^^!。多言されていなかっただけなのですね敬意をかんじます。黒潮と半島と北方の三方向からの渡来は、どれも欠かせませんよね^^。
<岩 屋 について>
岩屋は、筆者が「未掘の銅鐸23個あり」とした所です。前述もあるので、詳細は省略しますが、鬼ノ城が市街地から離れたところに在るのに、さらに、2km?ほどだったかな、かなり人里から奥まったところにあると感じています。
管理人さまも、タクシーの運転手の「ウラさん」に導かれて?探索なさっていたとか。そのウラの名に奇縁をかんじますね。
> http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kibisikoku0511.htm
この「渡来人の会報」まだよく読めていませんので、次報にさせてください・・・^^! つづく・・・
[357] あおさぎ・鳥祖卵生!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 1月 1日(水)
年がかわりました。管理人さま、皆さま。 本年もよろしくです^^。
12/31 本日の夕方のことです。車での帰り道ライトのなかに、なにやらが? ブレーキを踏むと、アオサギでした。こんなことは初めてです。私の見るアオサギは昼夜は問いませんが、川の中かその岸辺にじっと佇み、魚を待つ姿しか見たことが有りません。何時捕食しているのかと疑うほどじっとしています。そのアオサギが道の真ん中に。スピードがでてないとはいえ危うく轢いてしまうところでした。停車すると。かの鳥は飛び立つでもなくゆっくりと道を譲ってくれました。私は近時「鳥祖卵生」という言葉をしりました。大まかにいえば人間の祖先は鳥であったという考えです。この中でアオサギは、その漂々とした佇まいと灰色をしていることから、死灰のなかから蘇る鳥とされているようです。萎えることなく絶えることなく続いてきた「この想い」にも存命中はむりとの思いが勝るようになった今日この頃ですが、水辺でもない道の真ん中に、車行き交う私のライトの前に何故いたのでしょうか。わたしには「急くことなく道を譲っておきなさい」とでも言いたかったように思えてなりません。こういった極大論(巨大隕石と大津波)は没後に認められるが世の常。「これでもか。これならば、」と広報を重ねてきましたが本懐にいたるまでには50年100年はかかるかもしれない。これがあなたに伝わらないのは、その史実がなかったからではない。わたしの論述がいたらないからだ。 年の節目に、□
[358] Re: 神籠石
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 1月 3日(金)
管理人さま>昨年は大変おせわになり、ありがとう御座いました。
課題を頂いた、会報「山陽・四国の探索記」の全てに考えが及んではいませんが、とても興味をひく部分があり、何故マイナーな倉敷市玉島の戸島神社に?等の、奇縁もかんじます。今の私は、根がつづかずおおくの考えを総合して判断する能力に衰えがあります。・・ので、ので・ひとつづつ・^^!
> 鬼ノ城は、以前もライン面で分析したかぎりでは、神籠石ですね。山城説もありますが、神域説もあり、その石積みの低さが問題となっています。水門の活用法も考えどころですね。
神籠石(こうごいし)
http://kaifuusoo-575.sakura.ne.jp/kaifu-/kougoishi.html
鬼ノ城(きのじょう)の神籠石列と、その上に版築した土塀の施設場所で「雨乞い施設だ!」との考えにいたったのですが、改めて勉強させていただくと色々にあるのですね。
わたしも随分むかし^^その施設場所に異を感じていました。戦いのための城であれば、城地の全部を囲んであってもいいのだが? なだらかに南側へ傾斜し、すり鉢を伏せた山姿の東西の中腹部にその風化した土塀列はありました。神籠石のほうは分かりませんでしたが、それは「途切れ、々れ」にあるようです。
私は、瀬戸内の干天気候から水稲栽培の拡散・拡大につれ「雨乞い要」は必至とし、各地の雨乞いに関する「地名=伝言」を探していましたから、先に論述した、鬼ノ城の「山上の水門・数基は呼び水施設だ!」と合わせて考えると、南側の水田方面へ「雨水欲しや」の祈りがなされたのではと思って、その塀痕の施設場所を調べると、降った雨水が西側や東側へ流れ落ちる所に “だけ” 施設されているように思いました。これで「途切れ、々れ」の理由はわかりましたが・・??、
雨水集めのためだけであれば、神籠石の上に版築(突き固めた)土塁(塀)まで築く必要はありません!!。先さまがご指摘のように低くても大丈夫です。・・・、そして歴史はながれ、大陸からの侵略にたいし、この神籠石を基礎にして南方部分にだけに防壁として土塁は、築かれたのではないでしょうか。
<神籠石:参考資料>
のすべてを読んだ分けではありませんが、神籠石が “密に”並べられたり、不安定と思われる "斜に"すえられたりしているのは、上流からの雨水泥流が下り降りるとき、土を盛上げただけで、その水の方向決めをしたのでは、たちまちのうちに崩れ去ることは今期の被災でもしるところです。これは素人探偵の思いつきですが^^!。 皆さまには、近場にある神籠石の設えてある場所が、筆者の言うようにあるかどうかを確かめて頂きたいし、もし、そのようになっていれば、それを学術的に論述されるのは、専門家・先様方の役目ではないでしょうか^-^?。
このように、歴史は伝承しながらも移り変わっています。一事を追求することは大事ですが、今、立派に築かれた鬼ノ城の南城門だけを見て、歴史の「一時だけ、一ヶ所だけ」を切り取って、これが歴史の全てだと覆いかぶせることは慎みたいと思うようになりました^^!。
追記:「先の神籠石紀行」の写真を観ているのですが、石の平らな加工面の向きが土留めようにあるか、水路用にあるかで、その考えは変わってきます。鬼ノ城では水路用と解しましたが、もう一つに「籠・かご」という字をあてていることから、囲んだ内を「聖域とか境内」として区切るための考えもありますから、迷うところです・・・^^???、
・・To be continued^^。
[360] Re: 神籠石
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 1月 5日(日)08時32分
管理人さまへのお返事です。ご丁寧なコメントありがとうございます。
皆さまにとって本年も益々のお年になりますように^^。
> 神籠石についてご意見ありがとうございます。特に水門の存在は用途解明のキーポイントになりそうですね。
今までは「神籠石」のことば自体を知らなかったのですが、祖先がその石列を何故、「籠・かご」の字をあてているのかに興味をもつようになりました。ご存知のように、竜は雨降らす水の神であり、その神に人里近くで天にも近い山頂で「雨降らせ給へや!」の祈りがあったのではないでしょうか。山城説のそれはその時期の解明で大切なことなのでしょうが、歴史的知識のない素人には卑弥呼以前の代に的をしぼっています。
地形的干天から瀬戸内沿いでは雨乞いが発達していたようで、管理人さまが特視?される北九州には「岩屋」の地名が数多くあるのには驚かされています。それに名前は思い出せませんが「〇〇平」は龍神への食台(myぶろぐ)だとしたこともありました^^!。
> 平説は、そうすると現在言えばダムのような役割を果たしていたことになるでしょうか。土砂崩れ止めの土塁ともいえそうですね。
そうですね「ダム」と云うと水利の意がつよくなりますが、水田への水利にしては貯水量が小さすぎるので「呼び水儀式のための貯水」ではないかと考えています。そして、神籠石は「境界決め」の意が強いのではと思うようになりました。
> 神籠石の原型については、個人的には沖縄のグスクとの関係を模索していますが、そのグスク自体は山城と神殿の組み合わせとなりますから、その神籠石の構造がグスクと重なれば、立証できるのではないかと感じます。
沖縄の「城・グスク」については全く知識がないのですが、以前、管理人さまの調査で「さいごはやはり現地調査で・」のことばがつよく残っていますし、私も、そのように思います。
> その際に、水門の是非や、その位置などが同じかどうかも気になるところです。
> また聖域の構築方法に共通性がないかどうかも調べる必要がありそうです。
そうですね! それが「雨乞い施設」だとの認識を得るには 学者の論理と解明が是非とも必要です。「水門の是非や、その位置!!」の追求には同感です。わたしは、以前「その海水や湖水(琵琶湖)の水を天にあげて雨水に変えて頂けませんか」と、ご先祖さまは祈ったのではとしたことがありました(笑い)。
> 先ほど、沖縄特集の番組をみてましたが、御嶽という聖域の紹介があり、洞窟や岩の重なり合う地点と、日の出の方角との関係性について触れていました。
わたしが、管理人さまや、先様方に強く願っているのはその件です。正月の番組で伊勢の夫婦岩のあいだからダイヤモンド富士が遠くにある映像をみました。祖先は 正月(≒冬至)の日の出に強い興味をもっています。但し、地球の歳差運動でその方向に変化ありとは先様がたが識るところです。今<渡来人>会報をみていて、私たちが神社にある盤石が山のどの位置(方向)にありかを知ることは先祖の考えをしるうえで大切と考えるようになりました。
今、私たちが両の手を合わせたスリットや 盤石二つの間から初日ノ出がのぼってきました。わたしには、その強い日差しが四千年まえの巨大隕石が発した'<閃光>千光寺' 信仰の源に思えてならないのです。
> また水流という点では、沖縄でも水田が造られていたそうで、湧き水の利用もなされていたそうです。水を通しやすい上層の石灰岩と通しにくい下層の泥岩との組み合わせで、そのような湧き水が流れ出るようになるそうです。
山や、巨岩の隙間から、干天においても涸れない湧き水を聖水としてあがめることは 各地にもあるようです。沖縄と同様な石灰地に中米のセノーテがあるのは先さま方のしるところです。
> 平さん的には、神籠石と貯水、流水の関係があると考えておられるのですよね。その辺、もう少し掘り下げてみてもよいかもしれません。
管理人さまぁ~~ 素人の中坊的発想や論説ではどうにもならんとですよぉ~~
それにボケが加わってきてますしぃ~~ (会報のほうに移りたいのですがぁ^^!)
先さまの岩屋探訪には何かの奇縁^^?をかんじます。わたしも確かな記憶ではないのですが同時期に?訪れたことがありました。鬼ノ城の賑わいに比べその駐車場は小さくて車10台ほどしかとめられません。ここへは何度か足を運びましたが、二人組と一人の三人にしか会ったことがありません。なかでその駐車場へタクシーが一台だけ停まっていたことがあり、「こんなとこ迄、タクシーでくるかぁ~」よほどのお人がと思ったことがありましたから「もしや」とのありえない想像をしたりしています^^!。
[361] 渡来人会報「吉備・四国」を読んで
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 1月 6日(月)04時09分1
管理人様 & 皆々様へ>
・総社市・岩屋・他の探索のほうは、別の機会にします。
岩屋や戸島のようなマイナーな場所へのご探訪には何かの奇縁^^?をかんじます。
> [341] 鬼の岩屋 投稿者: 管理人 投稿日:2019年12月19日(木)
当時の私の探索記録があります。物部氏系の石切神社や磐舟神社とライン面で関係づけてますね・・・忘れてました(汗)
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kibisikoku0511.htm
> それから('05/11)26日に・・、夜広島から新幹線で新倉敷で下車し、夜新倉敷を探索することとなりました。駅前からタクシーに乗り、戸島方面へ。児島の屯倉と関連して、屯倉の比定地を児島にもってくるか、戸島にもってくるかという論説があったような覚えがしたので、水島港方面にある戸嶋神社へ向かってみました。・・・、
ずいぶん前に(も?)「広島・備中地域や四国」を探索されたのですね。
タクシー運転手ウラさんの案内があったとはいえ、地元の人さえ知らないような神社・遺跡を巡られたのですね。そして地元の人さえ見逃してしまいそうな事さえ目をやられていると、・・今度行って確かめたい気持ちにもなります・・^^?。なかで屯田はうっすらの記憶なのですが「屯倉」は初めて聞くことば。戸島神社の乙島祭りは盛大ではありますが、マイナーのなかのマイナー^^!。http://はヒットさえしませんでした。そんな戸島さまへ新倉敷駅から夜の探索直行された理由(わけ)が分かりません。玉島では「羽黒神社」のほうが有名です。↓調べました^^!。
戸島神社(岡山県神社庁より)
創立年代は詳らかではないが、往古からこの地に鎮座していたと言い伝えられ、旧社名を養父母大明神と称した。明治4年戸島山鎮座の「養父母大明神」へ乙島八幡山鎮座の八幡宮を合祀の際、乙島の古名の戸島をとって戸島神社と改称し今日に至っている。□
わたしが注目したのは、その「戸島さま」があるところの 地名が<養父・やぶ>だったからです。
「養父・ヤブ」とは変んな地名だなぁ~が^^? この謎解きの発端です。以下へつづく・・・、
↓myブログより、再度の掲載になりますが「徐福達が日本史に与えた影響」よりコピペします。
<養父の地名を検索する> (Nov.09,2015~ 記)
徐福たちは、長命実証用としての童子たちを<養父・やぶ>に隔離して育てていた。
次が、今回調べた養父の地名がつく場所の<7箇所>です。
日本国内のランドマークより
①兵庫県養父市養父市場 養父神社-ビル ⑤ 愛知県東海市養父町2丁目16
兵庫県養父市薮崎字唐木 愛知県東海市養父町義神
兵庫県養父市別宮 愛知県東海市養父町釈迦御堂
兵庫県養父市新津
④大阪府枚方市養父元町
③広島県宮島市宮島町養父 ②岡山県倉敷市玉島乙島養父
⑥佐賀県鳥栖市養父町 ⑦徳島県鳴門市大津町木津野字養父の内
<なぜ、その地を[養父・やぶ]というのか?>
何時、誰が付けたのかは知らないが、考えてみれば、ずいぶん不思議な地名である。古今東西“子”の無い夫婦は、たくさんいる。その人達がこどもを欲しがり養子を迎えたとする。その行為があったところに「養父」の地名を付けたのでは、列島のそこら中が「養父」だらけになる^^!。・・・??????? □
この地名は徐福達の内が付けた地名ではない。何故なら「私たちは養父です」とはいっても、此処は「養父です」とは絶対に云わないからだ。この地名は列島の住民が付けている。徐福達の養育行動が奇異に見えたからその地名を付けたのだ。地名が地名として定着するにはより多くのひとの認知がない限りその地名は定着しない。
すでに、会報での述解があるのかも知れませんが *万人が否定しえない「養父」の地名 の存在について、
わたしがいう「徐福達と養父・ヤブ」の関連性について、その有りや無しやを 管理人さまや>先様方>のお考えを是非に伺いたいと思います。ちなみに、この報告書を関連先に送りましたが未だに音沙汰なしです^^!。
[362] Re: 渡来人会報「吉備・四国」を読んで
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 1月 7日(火)15時09分
管理人さまへ & 皆さまへ>
<総社市・岩屋の探索について>
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kibisikoku0511.htm
先さまの岩屋探訪には何かの奇縁^^?をかんじます。わたしも確かな記憶ではないのですが同時期に?訪れたことがありました。鬼ノ城の賑わいに比べその駐車場は小さくて車10台ほどしかとめられません。ここへは何度か足を運びましたが、二人組と一人の三人にしか会ったことがありません。なかでその駐車場へタクシーが一台だけ停まっていたことがあり、「こんなとこ迄、タクシーでくるかぁ~」よほどのお人がと思ったことがありましたから「もしや」とのありえない想像をしたりしています^^!。
<屏風岩>
そのすべてを回ったわけではないのですが順路には案内標識もあったような気があります。その内に「石切り場方面へ」があったのですね。自分の関心・知識のないこととして見逃していました^^!。
今、正月の番組で「金屏風」の前での映像をおおく見かけます。「なぜ金屏風なの?」との少年心(こどもこころ)があります。その始まりは四千年前の閃光にはじまり、「その荒神が放つ光を受けるためではないかい」との思いがあり、順路からすこし外れた山の中腹「屏風岩」の写真まで収めているのですが、未だ、その屏風岩が受ける旭光(冬至≒正月)の方向・方角を確かめていません。
屏風岩と名付れられた巨岩は各地にあります。その巨岩の位置が「山の中腹」で「東から東南」で「冬至(正月)の旭光を受ける向き」にあれば、筆者の推みと<ご先祖さまの思いに>つうじるかも知れません。 皆さんへ> 近場の屏風岩へどうぞ^^・・
正月月の今、私たちは神社にお参りします。
わたしには、その神社の〆縄が、四千年前の巨大隕石=神竜に!、その切り下がる白紙が海を西進する巨大津波の白波に!見えてなりません。そして、ギイッと鳴る本殿御開帳の扉の原形「天岩戸」が出雲の猪ノ目茶屋近くの斜面に埋めて隠されていることも、、、
「神官は、頭上のすすを お祓いし」、って川柳がありました。
こども心には、そのすす払い?が 四千年前の “白い波頭” の大津波に見えてなりません。 皆さんも一度、神社・ご先祖様に頭をたれて『現代科学という、そのスス』をお祓いして貰えばぁ? ゴメン言葉がすぎましたぁ^^!(myブログより)
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-7.html
このように現科学と祖先からの伝承が対立したとき、ご先祖さまの方へジャッジを挙げるのが素人探偵のやり方です。だから専門家に伝わらない(笑い)。
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html
[373] Re: [10702] 4大文明と津波地層
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 1月21日(火)
管理人さまへのお返事です。 コメントありがとうございます^^。
> 津浪のメカニズム、気になるところですね。
> 津浪の威力の計算が知りたいところです。東日本大震災のときの津浪の数倍ある津浪が、2000年前に起ったようです。三連動型の東南海地震によるものと考えられているようですが、スマトラ沖地震クラスの威力だったのではないかと感じます。あのときは、はるばるインドまで数mの津浪が奥地にまで入り込むほどの威力がありました。
> 次回の南海地震もそのクラスになる可能性があり、どこまで内陸へと入り込むのかは、過去の津浪地層を追う事である程度予測できるかもしれません。
> 早急に迫られた課題のように感じますが、またお気づきの点ございましたら、宜しくお知らせください。
津波の理論上の計算式は、(ご存知とは思いますが^^)
津波の波高hは、水路幅wに比例し、水深dの四乗根に反比例することが知られています。
1
h = w × ---------
4√ d
津波は港に入った波という意味で、沖合ではたいしたことがなくても、V字状の湾奥では猛威をふるいます。津波警報が出た時、船が沖合に避難するのはこのためです。わたしは、水路幅のほうはロートを水平に切った状態であり、水深は垂直に切った時を思い浮かべています。実際にはロートの中心線上からの進入か、それを外れての進入かでも違いますし、海底地形による抵抗や溢水があれば計算式より少な目になるのかな^^? そして、理由は判らないのですが岬でも高くなることが観測されています。
津波を水位の上昇とみる向きもありますが、津波は押し波であり、V字湾に入った津波は、それと全く異なります。上記の式で入り口幅を20km水深100m波高2mとしたばあい。湾奥幅2km水深1mのところでは、実に30mにもなってしまいます。(計算間違っていたらゴメンナサ~イ^^!) くれぐれも言いたいのですが陸にあがった津波は斜面を登っていきます。これは浜辺の波打ち際での様相と全く同じです。蛇足ながら、〇〇年前のチリ沖地震のとき三陸リアス式海岸では甚大な被害があったのに、阿武隈山地の海岸で被害が少なかったのは水路幅の違いにあります。この意味で高知平野は大きなV字形をしており巨大な津波が予測されますので〇kmおきに、鉄筋コンクリートの避難所建築がなされています。
一般的に津波学者は津波が運んだ堆積層に注目されているようですが、それだけでは無く、巨大隕石やミドルインパクトがなす巨大津波は、その比ではありません。四千年前の東北隕石では、北上“山脈”の尾根をけずり、モナドノック状の北上”山地”にしています。津波が土石をもった時、泥流内の巨石にはアルキメデスの原理が働くので、その威力はすざましいものがあります。山に登った津波が土石をもって低い所へ集まりながら下り降りることは<3/11>で経験しています。祖先からの地名伝言では、北海道に「篠津」がありました。そのほかにも「垂水」等の地名を遺していますから、数条の条痕で川底が岩表を見せていたら要注意です。
山斜面に登った津波や峠を越えた津波は濁泥をもつとは前述しましたが、それらが谷あいを下り一気に広い平野部に降りた時、そこに濁泥だけを置いて扇状地形をつくることがあります。この地形の特徴は、扇の端の弧部が切り立った高台状をなすことにあります。それを胆沢扇状地にみることが出来ます。
「川が無いのに扇状地(胆沢扇状地)」http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-18.html
>東日本大震災のときの津浪の数倍ある津浪が、2000年前に起ったようです。
管理人さまぁ~ わたしはそれが分らんのですよぉ^^! 私と岩淵先生が論じる東北巨大隕石が4000年前。先さまが云われる大インパクトが2000年前。岩淵先生はアッシャー博士との話し合いで東北のそれはエンケ彗星のデブリ(破砕分体)だろうにおちついたようです。とすると、エンケ彗星の母体(本体)は、2000年周期で太陽を周回か?の疑いがあります。人々が、こっから先を紀元だとするには単なる一学者の論説ではなく、多くのひとが同意する何かの巨大インパクトがあったのではないでしょうか。ご存知のように、欧州には、巨大隕石?によるメシア願望があります。それに、海が割れたとか、ノアの方舟伝説とかもありますから、ローマあたりに巨大津波を伴うような巨大隕石があったのではと^^??? 根も葉もない妄想をしています(^-^!)
[375] Re: [10702] 4大文明と津波地層
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 2月 4日(火)22時52分 No.374[元記事へ]
管理人さまへのお返事です。
お返事ずいぶん遅くなりゴメンナサイ!(><)!。
> いえいえ、2000年前のは、プレート型津波です。三連動でしょう。
> 4000年前と4700年前のは隕石落下と睨んでいます。
> あと、3700年前ごろにも、世界的な転機があります。ここにも津波地層があるのですが、ここでも隕石落下があった可能性を考えてます。
人類が「世界的な転機」を起こすには想像を絶するようなインパクトがあったのですね。先さまは、2000年前のはプレート型と推んでおられるのですね。プレート型と巨大隕石が起こす事変の大きな違いは「隕石の冬」が有るか無いかにあります。又、巨大隕石が陸部への衝突か、深さ3700mの海部への衝突かによっても、ずいぶんとその様相は変ると思います。つまり、水蒸気をあげれば早くに爆雨となって終息するし、陸部であれば成層圏へまで粉塵を舞い上げるので、その “微小の” 全てが地上に降りるまでは相応の時間がかかります。そして、火山活動を誘発するかしないかの影響もあると思います。
わたしは、「地球の温暖化」は、CO2の増加とするのが世界のすう勢ですが、それより大きいサイクルは、巨大隕石(その規模にもよります)が舞い上げた粉塵が時間をかけてゆっくりと空気が澄んでいくからではないのかとみています。これを言葉にすれば、地球の温暖化の一番大きな原因は『濁り水(=濁り空気)の沈殿化だ!』と思っています。もちろん先さまが以前に揚げられた天体の運動も関係ありとは思いますが・・・^^!
巨大隕石、又はプレート型地震が起こす巨大津波について、ですが、大きくは、大西洋、インド洋、太平洋の三つと考えています。津波の力は摩擦熱での消費がほとんどないから大洋ではずいぶん遠くまで運ばれます。(チリ沖津波が日本に届いた)しかし、津波の奴(力)は、ズルいから東南諸島や、中南米で邪魔されると、そこで力をそがれて大きくは越えられないのではないでしょうか??。
[382] Re: 大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
投稿者: 机上探偵: 平 素人 投稿日:2020年 2月14日(金)02時06分56秒
青面金剛さまへのお返事です。
数々の情報&コメントありがとう御座います。
わたしには、その全てを消化することは出来ませんが、とくに気になる情報についての
考えを述べたいと思います。
> ★ 「中に小さな毘沙門天の木彫が飾られていた」事から、「お宮」では無くて、仏教の『お堂』です。銅鐸の時代に仏教は未だ渡来していません。
この、地元の人が「金堂」と呼ぶ建物が、神様系か仏様系かは私には分かりません。ただ何となく建物の木組みから「神様」かな。と思っただけで注視していませんでした。「銅鐸の時代に仏教の渡来はなかった」のは、わたしも知っていますが、仏教のお堂の造りをまったく知りません。似たようなもので中国に仏舎利塔がありました。神仏混合や神仏分離の歴史をかたるには、私の知識は無知に近いものがあります^^!。
出雲の「仏教山」、吉備の「経山」、神戸に荒神山と大月荒神谷、野洲に三上山と「妙光寺山」があります。
「仏教山」 「経山」 「 」 「妙光寺山」は、仏教に由来する山名。
△山 △山 荒神山△山 三上山△山
上記の△山姿の山は、周りの山と異なり三上山が「近江富士」と呼ばれているように際立った三角姿をしています。前にも申し上げましたが、これ等の山は大量の銅鐸の出土地から<二山越えの三山の前>あたりにあります。そして、不思議なことに、直線、曲線(徒道)を問わなければ、ほぼ3km~4kmであり。すなわち<1里 = 1離>ほど離れた場所にあります。三山(みやま)の前に大量の銅剣類あり!(別記事)、としたのですが、今回は大量の銅鐸にしぼって考えたいので、銅剣の方はおいとくことにしましょう^^!。
・・・・・・、
[391] Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 2月20日(木)
続・荊の紀氏先生へのお返事です。
> 参考に成れば幸いです。
<岡山県総社市奥坂岩屋寺金堂裏斜面の均地上部斜面>
素 人の予測地> N34度44分? E133度45分 ?
紀氏先生の予測値> N34度43分 E133度46分 48″
上記のように少しのズレがあります。
わたしが(?)印を付けているのは、未だに迷いがあるからです。金堂のすぐ上部に、はっきりとは思い出せないのですが、南北50・60歩、東西20・30歩の均地(なるち)上写真がありました。最初はこの中心部か? と思ったのですが、まてよ!、平地であれば容易にその上を歩けてしまいます。バチあたりにも荒神が乗り移る銅鐸の上を歩いて、その足音でその荒神を起こそうものなら大変なことになります。・・で、この件では「斜面」というキーワードが重要視されていまので、斜面であれば容易にその上を歩くことが出来ません。そこで、その平地に連なる斜面を考えたのですが、その斜面が3mたらずの斜面であり、その上部は簡単に歩行できるなだらかさになっています。はたして、3m足らずの斜面に23個?の銅鐸が埋められるものか? の疑問がありました。
先生の予見値を国土地理院図や、Google Earthで探してみているのですが、なかなかヒットしません。それに、地理院でもGoogleでも以前と検索の方法が変わってきていて、好きな倍率や方角が簡単に選べずとても苦労します。ご存知のように、磁北やら修正の問題を合わせて考えると、他の地も含めての地図からの探求は素人の手にはおえません。
・・で、先生の予測値をみると、当方の斜面とした予測地より、少し南と東へズレています。ということは斜面ではなく<均地>のほうになるのでしょうか^^? いずれにしても、レイラインや、数理だけで、その埋め地を絞り込めることは素晴らしいことであります。
他の大量の<銅鐸の埋め地>のすべてが重機で破壊されている現在、その現状をとどめているのはこの岩屋だけ(?)です。現状のままで保存したい。探知機が進化した現在、それを掘り上げることなしに何かレントゲンのような探知機でその姿をみることはできないですかね。金属探知機を持ち込んで辺り一面を捜せばその有無を調べるのは簡単ですが、それをする前に、<何故、祖先はそこに大量の銅鐸を埋めた>のかの思いをさぐることの方がはるかに大事と考えています。
「出土した結果より、その埋め場所を予測・予見できることの方がはるかに大事なのだ」
ご参考に感謝します。今後もよろしくお願いいたします^^。
[393] Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
投稿者: 机上探偵: 平 素人 投稿日:2020年 2月22日(土)01時34分20秒 通報 返信・引用 > No.392[元記事へ]
荊の紀氏先生へのお返事です。
重ねての情報ありがとうございました^^。
銅鐸=測量器具は、最新のニュースであり、センセも以前にあげられてましたよね。
銅鐸といっしょに<カギフック>が出たことから、そのように考えられたのでしょうね。
それと、認めると素人^^!の「荒神乗り移り媒体説」と、相容れず、いままて積み上げてきた謎解きがまったく成り立たなくなります。銅鐸は未だに諸説墳分^^で「鳴り具」以外は、確たる答えはでていないようです。色々に論じることは大切ですが、測量器具とした場合。「大量にとかマトメテ」というワードが解らなくなります。わたしの場合も<粗雑>に開けられた穴の具体的な使用法がヨメていません^^!。
またまた、当方の拙文をながく張って頂きました。古代史版では張れなくなりました。関連記事が近くにある場合はその要がないのでは^^? ご参考に感謝します。今後もよろしくお願いいたします^^。
[395] Re: 此処に銅鐸が眠っている
投稿者: 机上探偵: 平 素人 投稿日:2020年 2月22日(土)
青面金剛さまへのお返事です。
コメントありがとうございます。
> ☆ 加茂岩倉遺跡の駐車場からガイダンスへの遊歩道の脇には、水量の豊かな水が流れています。加茂岩倉遺跡の元地は、田んぼで、此処の水は鉄分が多く飲料には適さないものの、稲作には十分であります。つまり、加茂岩倉の地では、雨乞いは必要ないのです。斐伊川と赤川が合流する地で湧き水が豊富だからです。
1700年前の昔に加茂岩倉周辺で水稲栽培をしていたとは思いませんが、仰るように水稲は意外と少しの山水でも栽培が可能なようです。水稲の発達拡散が何時頃か、その時の気候がどうだったか、又、海進、海退(沼地)等々の歴史は、私には分かりません。出雲、山陰地方では雨乞いの要は少ないと思いますが、瀬戸内のほうでは干天が多く溜池が多いのが特徴です。
<雨乞いに関係する地名>
松江市だったかな。<茶臼山>や、その西に<嫁ヶ島>の地名がありますから、出雲に雨乞いや人身供儀の歴史がなかったとは言い切れません。ちなみに、茶臼山は列島の山名のなかで一番多い山名と聞いたことがあります。そして<丸山・円山>がそれにつづき、 さらに<竜・龍がつく山名>を加えれば、雨乞いとはかぎりませんが何か厄災時があれば、慈雨や平癒を願った儀式が、そこであったと理解しています。島根半島には<竜山>の地名があります。
> ☆ 「 志谷奥遺跡は鹿島町の朝日山と神目山の間に位置する 」事から、朝日山と神目山を結ぶ線と対称的な位置に有る、弥多仁神社周辺にも、銅鐸や銅剣・銅矛などが埋められている可能性が有ります。
弥多仁神社周辺で、銅鐸や銅剣・銅矛が予見予測して発見かればいいですね^^。
「銅鐸文化から、銅鏡文化への移行は何人も否定できず、その変換点に魏からの銅鏡100枚があり卑弥呼がいる!!」 myブログ「この指とまれ」より、
[395] Re: 此処に銅鐸が眠っている
投稿者: 机上探偵: 平 素人 投稿日:2020年 2月22日(土)21時41分3
青面金剛さまへのお返事です。
コメントありがとうございます。
> ☆ 加茂岩倉遺跡の駐車場からガイダンスへの遊歩道の脇には、水量の豊かな水が流れています。加茂岩倉遺跡の元地は、田んぼで、此処の水は鉄分が多く飲料には適さないものの、稲作には十分であります。つまり、加茂岩倉の地では、雨乞いは必要ないのです。斐伊川と赤川が合流する地で湧き水が豊富だからです。
1700年前の昔に加茂岩倉周辺で水稲栽培をしていたとは思いませんが、仰るように水稲は意外と少しの山水でも栽培が可能なようです。水稲の発達拡散が何時頃か、その時の気候がどうだったか、又、海進、海退(沼地)等々の歴史は、私には分かりません。出雲、山陰地方では雨乞いの要は少ないと思いますが、瀬戸内のほうでは干天が多く溜池が多いのが特徴です。
<雨乞いに関係する地名>
松江市だったかな。<茶臼山>や、その西に<嫁ヶ島>の地名がありますから、出雲に雨乞いや人身供儀の歴史がなかったとは言い切れません。ちなみに、茶臼山は列島の山名のなかで一番多い山名と聞いたことがあります。そして<丸山・円山>がそれにつづき、 さらに<竜・龍がつく山名>を加えれば、雨乞いとはかぎりませんが何か厄災時があれば、慈雨や平癒を願った儀式が、そこであったと理解しています。島根半島には<竜山>の地名があります。
> ☆ 「 志谷奥遺跡は鹿島町の朝日山と神目山の間に位置する 」事から、朝日山と神目山を結ぶ線と対称的な位置に有る、弥多仁神社周辺にも、銅鐸や銅剣・銅矛などが埋められている可能性が有ります。
弥多仁神社周辺で、銅鐸や銅剣・銅矛が予見予測して発見かればいいですね^^。
「銅鐸文化から、銅鏡文化への移行は何人も否定できず、その変換点に魏からの銅鏡100枚があり卑弥呼がいる!!」 myブログ「この指とまれ」より、
[402] 大量の銅鐸・銅剣、地名繋がり!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 2月27日(木)
"共通の文化には共通の事象(地名)あり"
<出雲> <吉備> <神戸> <野洲>
銅鐸39銅剣358 (未出土) 銅鐸14銅剣(未出土) 銅鐸24銅剣(未出土)
加茂岩倉 岩屋 いわや駅 大岩山
荒神谷・西谷 西谷 ( ? ) ( ? )
仏経山△ 経山△ 坊主山・荒神山△ 妙光寺山・三上山△
三宝荒神 山王神社(さんおう)
蛇砂川 砂川 ( ? ) 蛇砂川
赤川 ☆血吸川
現学は、地名を不確かなものとして、いっとう下にみるが、
『地名は祖先からの、一番確かな合意伝言である』 史実探偵: 平 素人
さて、あなた様は、史学は、・・・を何んとよむ・・・^^!
追伸:
出雲と吉備は近くでもあり、何からかんから一番よく似てると思うのですがぁ(笑い)
詳しくはmyブログ「出雲地方」「吉備地方」へ、どうぞ・・・^^!。
[406] 徐福もユダヤ系か!?その影響で太陽主神説へか??
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 2月29日(土)22時30分
ありがとうございます。キシ先生へのお返事です。
> 徐福もユダヤ人か 秦始皇帝がユダヤ人、もしくは失われたイスラエル10支族の血を引いていたとすると、気になるのは徐福(じょふく)である。・・・
・・この件については>
全く知識がないので言及できません。とくにハプロの件は難しいですね。先生が古代史版に張られた超長い「ハプロとは・・」を勉強しようと保存してはあるのですが未だに読めていません~~!。
ユダヤ歴について・・>
そうですか、暦には色々あるのですね。いずれにしても、暦の作成は悠久の昔から、未来永劫まで、変わらずの天体の営みのどこを切り取り、その始まりをどこに置くかの問題があります。紀元は、その元年を天変地変にするか個人を始まりにするかがあります。一年のサイクルでいえば「正月」をどこに置くか、置いたのかにあります。素人的にいえば人類が観測を重ねていけば冬至の日中が一番短いのが分かるので、それを起点すればいいのに何故そのおよそ7日後に正月を持って行ったのか未だに解かりません~~!。
> > > 徐福は子供達約3千人を、遠く離れた異国の日本に移住させましたが、秦の始皇帝の時代で、万里の長城や王宮や始皇帝陵の建設に、延べ約百数十万人を強制的に苦役させている事から、その子供たちも親元から強制的に引き離し、連行した形で集めたものと伺えます。
> > > なぜ子供ばかりなのか、と分析するならば、子供では、物部の兵に楯突く事も出来ず、従順に洗脳し易いからです。
青面金剛さまのこの説を上げられたということは、先生も「その児たちは兵役」とお考えなのでしょうか?? とすると、始皇帝は「不老不死の薬石」が目的でなく「列島を属国に」が目的だったのでしょうか? その場合、先に揚げた「養父の(7ケ所)地名」と全国に散らばる「ヤブの地名」と「ヤブ医者」に関する件はどのようにお考えなのでしょうか~~?。さらに、大クジラ(台風)がふくこの時期に出帆しなければならないのは、食料の米を収穫してからになるため、台風という神風に阻まれた歴史が他にもいく度かあるのは先さま方の知るところです。わたしは、陸行きと海行きでは条件が異なると思います。それでも行かせたのは始皇帝に命への強いつよい執着があつた。なにしろ四百数十名の学者たちを穴埋め状態にし、書物も焼かせた??のかな?とききます。始皇帝曰く「あれほどの大資を持たせたのに、何故、徐福はその薬をもち帰らんのか」と!!!
先に頂いたコメントに、大切なこと「淡路島大量の銅器出土は何故?」かの言及がぬけていました~~!。
<100個以外に銅鐸や銅剣類がまとめて出土している件について>
私は、卑弥呼が魏から得た100枚の銅鏡の分与さきは、出雲39+(吉備24)+神戸14+野洲23=100と考えていることは以前に申し上げたとおりです。
『村の古老ばなし』
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-1.html
その昔のこと、出雲の大神様は、全国・八百万の神々様に、「神議」を行うから、毎年の十月に集合せよ」との通達をだされた。なにせぇ、おお神様のいうことだからと、全国津々浦々の神様たちは、全てが出雲に出向いた。ところぅが、この席に四国のこんぴら様だけは、いかなんだ。大変立腹した大神様は、なぜこなんだと問い糾した。いうことにゃ~、「忙しゅうて、忙しゅうて、行けませんでした」。 「そんなら、お前の暇な時ゃ~、いつなら、わしが行ってみるけぇ」と言われた。「十月の九日~十一日頃なら暇ですけぇ、来てみてつかあせぇ」と言われ、行ってみれば!?、その日は祭りでドンドンいうとったそうな。これを見て大神様は 『暇な時さえこの賑わい、他の日はもっと忙しいのであろう』 と納得され、以来この神議に、四国の琴平様だけは行かんでもええということになって、十月のことを他の国では、神様が出払っていない“神無月”というのに四国のこんぴら様だけは、「この月を神在月というんだ」と。むかし、こっぽり!
上記ように、いかに卑弥呼が「太陽主神、荒神竜従神説」を唱えようが、長い銅鐸祈祷の歴史があり愛着や戸惑いもある。すぐには従えない者がでてきます。しかしながら、初めて見る銅鏡の光は眩くて直視することが出来ずヒレ伏すほどの衝撃を受けた。それに、<木簡の身代わり護摩炊き>←今に密教で割木に名を書いて焚くをやっています。それでよいことになれば稚児の命を供えずに済みますから、銅鐸文化は、(商人)秦(はた)系の人達と、その随行(徒歩行・修行者)大夫(たゆう)をとおして急速にしぼんでいきます。出雲荒神谷で銅鐸6個と銅剣類16本を別々の場所にしないで、まとめて出土しているのは、卑弥呼の考えを受けてから"~後に"埋めたとおもいますよ。歴史の世でも、今の世でも色々の考えの人がいますからね(笑い)。
それが三百余本の銅剣類の「すぐそばで」出土したと云われていますが、わたしは、その7mを「すぐそば」と思っていません。そこに大量の銅剣類が埋められているのは“衆知”の事実なのにその近くに並べて埋めず、<7mも>離して埋めたのは「その三百余りを刺激して」起こそうものなら大変なことになりますから。なぜ<7m>離せばよかったのかを知識あるお方に伺いたいものです^^!。
淡路島の銅器出土の件ですが、「紐」が出たことがニュースになりましたね。ほかに長野や静岡?でも出土していると聞いています。いずれも工事中の偶然からだったのでしょうか^^? それが吉備の岩屋で予見のばしょに予測数の銅鐸が出れば面白いことになるでしょうね^^。コメントをおまちします。
[409] Re: 参考 陶磁器の鐸
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 3月 4日(水)08時35分
荊の紀氏先生へのお返事です。
銅鐸についてのご<参考>ありがとうございました^^。知らないこといっぱいです。
大陸の鐸や鐃(にょう)と列島の弥生代のものとの類似点がみつかっているのですね。
「列島の銅鐸は、大陸や半島の風鐸等の影響をうけて列島独自ものとして発展していった」ぐらいにしか思っていなかった素人には、再考しきりです・・・^^!。
> 銅鐸祭祀の源流https://blog.goo.ne.jp/isaq2011/e/df467d7e0dbb6be9d4e3b609833a6029
銅鐸を使用した祭祀が中国と、列島で全く同じとは思われませんが、大きな影響をうけているのは確かなのですね。
> 『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12~18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
なかでも、龍画は「今から四千年前の東北に降臨した巨大隕石の<モンタージュ!!>としている素人にとって、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手の<虎の姿>は難解です。その年代もふくめて考え直してみます。今後ともよろしくお願いいたします^^。
[415] 中国人と日本人、贈り物の考え方の違い!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 3月 9日(月)22時13分
「大量の銅剣と銅鐸」は、卑弥呼が埋めさせた! の、よもやま話 Ⅰ より、
↓ http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-3.html
⑤魏から、卑弥呼への数多くの贈り物のなかに (Yahoo!魏志倭人伝 参照) 金印は別として、特に目を引くものがある。 五尺刀が2口と、 銅鏡の100枚である。
何故 銅剣が、1振りでなくて2振りなのか? 何故 100個もの銅鏡なのか??
卑弥呼は、女である。 その女の卑弥呼が、100枚もの銅鏡を並べて、身の丈もあるような大刀の二本を腰にぶら下げて、己の姿形(すがたかたち)を眺めている場面が想像出来ない。(笑い)
この “数”には意味がある。
⑥魏の天子は、「遠くの国から、私への贈り物をようしてくれた。 汝(卑弥呼)を、倭の国の国王と認め、その金印を贈る。 そして、返礼として、汝の “好物”を 使いの者に託したから受け取ってくれ」と、云っている。 ( 註:要旨概略 )
<その贈り物の、数量についての考察をするまえに>
日本人と中国人の儀礼的な贈り物にたいする考え方の違いに言及しておきたい。日本のお中元とか、お歳暮とかは、目下のものが目上のものに 「色々とお世話になり、ありがとう御座いました。今後ともよろしく」 との意味合いをもつ。 中国ではこの逆で、その徳と富を表すためだと思うが、目上のものが目下のものへ贈り物をする。 ある公司(会社)に、トラックいちだんの西瓜が届いた。別の公司からの贈り物だという。また、訪問した時の食事のパンがとても美味しいと褒めると、バックいっぱいのパンをもたす。 宴会料理のあり余る程の多さは云うまでもない。 ちなみに、欧州でも、目上のものが目下のものに贈り物をすると聞く。 米国では、スモール・プレゼントの言葉があるように、お互いが負担にならないような(対等の立場?)愛用の小物をプレゼントする。 このように贈り物に対する考え方は、国によって、こもごもで、それ等をふまえての謎解きに入りたい。
⑩日本国内へ、“銅鏡が”大量移入し、『一時的に』 その総数・絶対数が、増大した!!
ここが、この時が、「銅鐸文化」から「銅鏡文化」へ変わる歴史の節目だ! 以上□
その一つが、出雲市・神原の〇〇神社にある!
残り99個の"銅鏡"は、「誰が?」「どのような理由で?」「どこへ散逸したか?」
上記のように、中国人と日本人とでは、贈り物に対する考えかたがまったく違う。前者は地位が上のものが下位のものへ "徳と富"を下賜(かし)するのに対し。後者は、下位のものがお上(おかみ・神)へ "御かげ"(との交換思想が潜在)を頂くために献上する。卑弥呼が魏の皇帝に朝貢(ちょうこう=下位のものが上位のものに貢みつぐこと)したと云われているが、魏の皇帝が「ハイ・ありがとね^^」と、それで済ませば、列島の小国の "下位に下った"ことを意味する。だから、圧倒的な優位を示すために、銅鏡100個、五尺の大刀二口、その他を使いの者に持たせたのだ。今でも中国では、この贈り物文化が残っているのでしょうかぁ^^?
[419] Re: 「埋めるという行為」の意…『分水嶺』とは何かを知っていますか?
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 3月14日(土)
吾亞風(何と読むのですか^^?)さまへ、
数々の情報 &ご教示ありがとう御座いました。大変勉強になります。
このような説明を上げないから<専門家>には伝わらないのですね^^1
銅鐸を「埋めるという行為」についての説には色々とあるようですが、
わたし素人は、まとめて埋めるは別として「土中、一時保管説」を支持しています。
<大事変のシナリオ>
今から4千年前地球を半周した巨大隕石が東北に降臨しました。その時発生した大地震・津波・直後の爆雨・雷、等々、の天変地変は、今の私達が想像すら出来ないものでした。巨大隕石の衝撃はその規模にもよりますが、私達が知り得ている地震や津波の比ではありません。なぜなら、地殻内で起きる地震に対し、その地表を叩くエネルギーの絶対量が表層地震に変るからです。即ち『力は抵抗の弱い方へより強く作用する』からです。
その時を想像しますと、高層建築のない当時ですが、揺れるとか倒れるとかの表現ではなく“豆粒やゴマ粒がハゼル如く”であったと思います。列島の住人は、多少の地域差はありますが、お互いが離れていてもこの大事変を共通の<荒神>と認識するようになりました。大陸や西洋では “この大事変、東洋にあり!” として後々の探索航海に出でていることは皆さまの知るところです。
列島では、その荒神を災いと慈雨の両方をもたらす神として定着しました。列島住人は大陸からの銅器・赤色(あか)から毒性をもつ緑青(アオ)に変色する銅鐸に発展させ、その銅鐸に、その荒神様を呼び寄せ、慈雨や災いの鎮静化をおねがいしたと前述しています。そして、その大事変の発生源が東北であったことから、“西方へ行く”地震や津波をみて、「西方浄土」の考えが生まれました。ちなみに、大陸では東方に「神仙思想」、半島の「東方神起」の考えがあるのは皆さまの識るところです。
<銅鐸を単体で埋める場合>
> 集落から仰ぎ見る山の集落から見えない地点に銅鐸を埋める-埋納行為の謎を解く鍵の一つかもしれない。…
このような荒神様ですから、その扱いには注意を要する。「困ったときの神頼み^^!」呼び寄せた時以外は帰っていただく。銅鐸、以外のどこかしこに取り憑いては困る。そして、その銅鐸も、地中や、裏山の人目に付かない所に一時的に隠しておこかとなった。(笑い)そんなとこに隠してもねえ^^! 地中に埋めるのは深く埋めたのでは再度取り出しにくいし、浅く埋めたのでは見つかりやすい。のでので・・「四尺=死尺」にしとこかとなった。これはスコップで掘り進めて肩までの高さであり、それ以上深く掘ると顔に土がかかります^^!。よっぽど怖いことがあったのでしょうか。その倍の深さに埋めたが「未だ、その声鳴りやまず!」という文面をみたことがあります。今でも、地方によっては、この銅鐸は、"五色の??御幣??"に変り、貴方さまの住む "里山" の目のつかないところへ隠されているかもよ^^?
「歴史会」の会合で講師の先生が「その銅鐸を見つけるのが私の夢です」と仰っていましたが(^-^?) ヒントは、『雨乞い文化』のある所で「悪ヶ谷」とか、荒神谷とか、西谷、(さいたに・才谷、晒谷)、奥谷、黒谷、とかの暗いイメージの地名から始めるといいかもですね。
「ここ掘れワンワン!!」がわたしの得意分野です^^!。
・・っていうか、それ以外はありません^^! Give me a job^^.(史実探偵局より)
> 悪ヶ谷銅鐸の実物は東京国立博物館に展示されている。谷奥の支谷-才四郎谷では、89年に銅鐸研究家の羽間義夫さんが金属探知器で銅鐸を発見している。・・「谷奥・才四」
<銅鐸をまとめて埋める場合>
これは、「その銅鐸、二度と使わじ!!」として、封印している。と前述しているので省略します。こちらの方は、「出雲に習えばいい^-^♪」
<分水嶺と分水界の問題に思うこと>
わたしの知るところでは、長野県だったかな?「この〇〇峠は、日本海と太平洋へ流れるかの分岐点です」といわれたわりに"平な感じ"がしたのが思い出されます。拙「報告書」では、岩手県だったかな、水界峠。出雲平野では、神戸川と(旧)砂川。ここは高低差が少なく、地図だけでは分水界は分かりませんでした。吉備では、高梁川分と東の足守川分の分かれ目に吉備津神社があり、松林が植えられ「境」の地名が残っていました。又、出雲半島の鷺峠の坪背山への山道に「灌流標」があつたのが気になっています。ここは、北の日本海側と南の大社側への分水嶺となっていますから、何か雨水に関係するお祈りごとがあったかと思案中です。このように、分水嶺を境に、或いはそれを模した亀の甲羅の右左に自分達の住む里の方にその雨欲しやの占いやお願いの歴史があったのではないでしょうか。
今ではダム不要論まで出るさまですが、極々、近時まで、干天には悩まされて来ました。水争いの詳しくは知りませんが、水稲栽培への移行につれ雨水の必要性は死活問題であったと容易に考え知ることが出来ます。今でも水利権は小さな小川や小溝にいたるまで不文律があり、その管理と利権はくわしく定められているようです。曲がりくねった小川でも田地整理で区画されていない所をみかけます。特に川底の高低改修は簡単に変えることはできないのかな?? 昨今は宅地造成で地上げをすることが多いのですが、私は、その川底をみて、かつての海からの高さを想像しています。特に、出雲平野の「(旧)砂川」は、周りがきれいに区画整理されているのに「くねくね」と曲がっているのには異様感を覚えました。
≪ > 鏡… ≫
> 鏡山 (北海道) - 北海道北斗市にある。標高330m。
> 鏡山 (山形県) - 山形県村山市と最上郡大蔵村の境にある。標高1097m。
> 鏡山 (福島県・新潟県) - 福島県耶麻郡西会津町と新潟県東蒲原郡阿賀町の境にある。標高1339m。
> 鏡山 (岐阜県) - 岐阜県揖斐郡揖斐川町にある。標高1086m。
> 鏡山 (滋賀県) - 滋賀県蒲生郡竜王町と野洲市の境にある。標高385m。
> 鏡山 (島根県) - 島根県浜田市にある。標高69m。
> 鏡山 (福山市) - 広島県福山市にある。標高150m。
> 鏡山 (東広島市) - 広島県東広島市にある。標高335m。周辺は鏡山公園になっている。
> 鏡山 (愛媛県) - 愛媛県今治市の大三島にある。標高212m。
> 鏡山 (佐賀県) - 佐賀県唐津市にある山。
> 鏡山 (小城市) - 佐賀県小城市にある。標高134m。
> 鏡山 (人吉市) - 熊本県人吉市にある。標高590m。
> 鏡山 (熊本県・宮崎県) - 熊本県上益城郡山都町と宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町の境にある。標高917m。
> 鏡山 (芦北町) - 熊本県葦北郡芦北町にある。標高730m。
> 鏡山 (球磨村) - 熊本県球磨郡球磨村にある。標高551m。
> 鏡山 (玖珠町) - 大分県玖珠郡玖珠町にある。標高675m。
> 鏡山 (宮崎県) - 宮崎県延岡市にある。標高645m。
> その他あり、等々
「鏡山」の存在は全く知りませんでした。
これを<同一文化圏>とみると圧巻ですね。ご調査のご苦労に感謝します。
徐福隊の考えをくむ人達が関係したかとうかがい知ることが出来ますが、北海道にまであるのは驚きです。登るのに手ごろな場所と高さがいいですね。大字名をみると比較的時代がさがったような感じがします。なにはともあれ、「鏡山」という単純地名の統一は「誰が?」「どように」広げていったかの具体性が最大の謎です。
> 地元の伝承によると、鏡山という名前は、かれが渡来したときに持参した、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種の神宝のひとつである鏡を山中に埋めたことに由来するという。
「鏡を山中に埋めた」のですかぁ。古墳に埋めたのなら分るのですが、山にねぇ???
銅鏡を埋めれば錆びて使えなくなるし、簡単に盗掘される^^! そして、一つの山に一つづつとは思えず測量目的なら携帯して移動した方が良いようにも思えます。又、朝夕の斜光時の申し合わせが要ります。しかし、現存する「鏡山名の分布」は、否定できないのが難しい問題です!! 鏡山の名が定着するには、住民にかなりのインパクトを与えたか、継続して使用していたかの要件がいります。何か、それに関係する伝承は残っていないのでしょうか??
> 実際に鏡山に登ってみると、正面に野洲町の三上山が見える。
> 三上山は近江富士の名のとおり、美しいピラミット型の稜線をもつ。古代から信仰の対象とされていて、山頂には奥津磐座、麓には天御影命(アメノミカゲ)を御祭神とする御上神社がある。
>
> さらにおもしろいのは、邪馬台国三上山説というのがある。
> その根拠となったのが滋賀県守屋市伊勢町で発掘された『伊勢遺跡』。守屋市の教育委員会は、伊勢遺跡がつくられたのは1世紀末~2世紀末。建物跡の調査の結果、国内最大規模の大型竪穴建物であることから、有力者の住まいであった可能性が高いと発表しているんだよね。それも集落の形状からいって、住居というよりも大規模な祭祀場であった可能性も高いとのこと。この伊勢遺跡から東に3キロほどいったところに三上山がある。
滋賀県に「伊勢」という地名があるのは知っていましたが、興味がありながらも「何故?」かが分かりません出でした。北海道なら、「伊勢の衆とか、〇〇から移住した人達が」住んでいたところと解することが出来るのですが・・、お伊勢さまには飛び地の行政区があります。出雲には熊野神社がありました。大分には「小京都」があるのは先様方の知るところです。このような飛び地の歴史と、それに至ったいきさつを考えるのも楽しいですね。ありがとう御座いました。□
[420] Re: 「おかげさまで」に潜む謎!?
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 3月19日(木)
吾亞風さまへつづいてのお返事です^^。
今日は、ご資料を頂いたなかに、気になることを見つけましたのて・・^^!
天御影命「おかげさまで」というところをわたしなら「おひかりさまで」と言いたい^^! 影をいただいてもねぇ(笑い)。
> 三上山は近江富士の名のとおり、美しいピラミット型の稜線をもつ。古代から信仰の対象とされていて、山頂には奥津磐座、麓には 天御影命(アメノミカゲ)を御祭神とする御上神社がある。
> 天照大神の孫(天津彦根命の子)にあたる天御影命は物部氏と縁が深く、その娘の息長水依比売(オキナガミズヨリヒメ)は、九代開化天皇の皇子にして崇神天皇の弟にあたる日子坐(ヒコイマス)王と結婚している。ちなみに日子坐王は丹後の鬼退治伝説で知られている。
三上山の『麓には天御影命(アメノミカゲ)を御祭神とする御上神社がある』
三上山の南西方に御神神社があるのは早くから注目していましたが、祭神が「天御影の命」とは知りませんでした。ありがとう御座います。今日はこの件についての考えを述べたいとおもいます。
大量の銅鐸と銅剣埋封(筆者の造語^^!)が、出雲と吉備、神戸、野洲で云々の件は前述しているので省略しますが、三上山の南西斜面に出雲と同様な方法で大量の未出土の銅剣ありとmyブログで述解しています。→カテゴリー「この指とまれ!」へどうぞ^^。
(註)埋納 = 再び使用するために一時的に土中に埋め納めておくこと。
埋封 = 二度と使用しないと封印して埋めること。
(↓myブログより)
その(三上山の)大量の銅剣の埋め場所は、大量の銅鐸の埋め場所から西へ、一里(約4km)程離れた谷間の奥まった所!! 谷奥へ埋めるのは、人が容易に入るのを防ぐためと、命生まれ出流(いずる)女陰と雨落つる源流を象徴している。野洲町の方は、すでに、筆者が国土地理院のネットサービス(25,000分の1)の地形図で、それとおぼしき所、<北緯35度3分31秒、東経135度2分23秒→27秒に訂正>を予測している。
三上山(近江富士)と妙光寺山とに挟まれた谷間を5・600m登り切った源流に、卍印がある。これを西へ5・60m程行った所が少し平らになっている。そこに、干天でもヒビ割れない“亀の甲羅”の形をした封印石が残っていれば、(↓以下に修正!)その下4尺(4尺は約120cmで、ほぼ肩の深さ)の所で、その “大量の銅剣は”眠っている。以上□
上のように謎解きしていましたが、更に修正して、その 卍印お寺?の <境内に連なる山斜面> の目通りより上の所>に、その大量の銅剣が埋封されていると 再修正していました。ここは、大量の銅鐸が発見された大岩山から、童唄「みやまの前でぇ」になるところです。
<剣山型の山姿と大量の(銅鐸)銅剣の埋地の約束事(?)について>
わたし素人探偵は、冬至の日の出 光が△山の頂上に架かった時、つまり、冬至の朝の<ダイヤモンド富士>が見える場所に「その大量の銅剣」が埋められていると推定しています。
この考えの発生は、銅鐸の場合は谷あいからの入光ですが、(不使用とした)銅剣の場合は「冬至の陽光で、その山頂の"山影"を剣先とし、対象を刺し封じ込める!!」このような考えに基づいているとしています。御神神社は、何か関係ありかとネットで調べるには調べていましたが祭神が「天御影の命」とは気づいていませんでした^^!。
このような関係性は、山影が刺す・射すの考えとして射り矢にも通じるとしています。又、その冬至の陽光が谷あいに入谷(いりや・射矢)の地名や、伝聞がないかとの注意してきました。香川の飯盛山・讃岐富士のダイヤモンド富士の射すところが讃岐の金毘羅さんではないかと疑っているのですが、ここには奥の院もあり、いまだその確かめはしていません。このような信仰の広がりは△山を荒天=(荒神)に抗らう剣山(つるぎ)とし、その厄災を鎮める信仰へいったとも謎解きしています。
<1700年前の冬至の陽光の推定が要る!>
実際にその陽光を調査するとなると、卑弥呼が関係するのは、約1700年前ですから、地軸の歳差運動の件もあり、今では、その日の出が23度∠余りほど時計回りに移動していますので、実地検分は出来ないので測量と計算で確かめる手立てしかないのではと思っているのですが・・・~~!。
そして、その陽光に関して出雲岩倉山と、総社市の岩屋の、銅鐸の埋地の比較検討をしているのですが、出雲の方は入谷の奥まったところまでは得ているのですが、はたして、その銅鐸の埋地場所に立てば<マツダ車のシンボルマーク>様の谷間からその日差しが見えるか見えないのかの推測が必要となりますし、木立が邪魔したり、冬至十夜の朝なら大丈夫とはいえ、出かけて行って当日の朝が曇っていればアウトです。(^-^!)。
ありがとう御座いました。□
[428] Re: 不条理の大因は !? = 答えの無い問いかけ
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 4月 1日(水)
荊の紀氏さまへのお返事です。
コメントありがとう御座います^^。
キシ先生へご返答する時、大変戸惑うことがあります。そのご記事の「文」が先生ご自身の書かれたものか、それとも引用文なのか、或いは教示のための参考文なのか、それとも、時事のトピックスなのか、それとも他文をかりて御自分の意を述べていらっしゃるのか。余りにも先生の添え文がすくないために、その意を推しかねて “誰に(カミュ氏? キシ先生? ブロガー?)向かって” 返答すればいいのか、その相手が定まらなくて・・(^-~!)、
<わたしがいう不条理とは>
うまく自身の中坊的思い (=中二症^^) が書ける自信はないのですが^^!
私が不条理として使っている「条理」とは「節理」に近いかも知れません。節理というと< 人間の思いを排した>「自然の摂理」という言葉があります。条理というと少し人間の思いも入るのでしょうか^^?
わたしの考え方の根底には、「自然界は人間だけのために有るのではない」との思いがあります。そういった意味では、東洋的な『平等施一切』があたっているかも知れません。わたしの探求は、「現存する森羅万象」のすべてを肯定することから始めるように努めています。叶わないことではありますが努めるというのは、できるだけ多くを知り得て間違いの部分を少なくしたい思いからです。
少し話が飛びますが、中学生の時、理科の先生が「1 + 1 = 2 ではないよ」と云われたことが有りました。アルコール1?と、水1?を足すと2?にはならないと云われました。忘れましたがどちらかの分子がどちらかの分子に入り込んで2?より少なくなるそうです^^。未だにこの思いをひきずっています^^!。
「1 + 1 = 2」は、2でしょうか? 否、違います。
「1」とは、学問上で人間が “定めた” 数であり、自然界には「1」という数字は実存しません。全ての物質は「時間という動きの中」にあります。例えば、この私が今日はけだるいから家の中から一日中出んことにしょうと思っても赤道上にあれば一日4万kmも移動しています。さらに地球は・・・^^。もし、1 + 1 が 2 であれば、そこで動きは止まり “自然界は閉じて” 今の認識すらなくなってしまいます。<「1」< なら存在しますが、それは「1」少なり、から「1」大なり、或いは、その反対もありますが、それらの移行点であり、それと言葉にした瞬間から「1」より、多くなったり小さくなったりしています。例えば、車に付属品を増していっても一台は一台。このわたしが息を吸った吐いたそれでも一人は一人^^!。それでは便利がわるいから、波動の頭の部分を「1」とか「2」とかに学問として決めてかかると「事」がうまくいきますよね^^!。
1 + 1 の正解は 「1 + 1 ≒ 2」なのです。
このような思いの延長に、自然界には「答がない」数理があるのではないかと目を付けたのが「π」です。これは、スパコンの性能競争になっているのはご存知のとおりです。・・中略(絶版報告書)して、・・行きついたのが下の数式です。
不条理の大因は、
d = 0.π D にあり?
この数式は、一度は落胆して取り下げましたが、その思いを消し去ることが出来ず、再度掲げています。答案用紙に答えだけ書いて「式」が書いていない。解けないでは話にならない^^!。どこの試験官からもそれでは〇は頂けませんよね(笑い)。だから・・(^-^!)
> 「理不尽」という言葉は、人や物事の言動ややり方に納得がいかず、不満を持つ状態を表す言葉です。「理不尽」を使えば、ネガティブな感情を一つひとつ言葉にすることなく、筋道に外れていることに憤りを感じている、という負の感情をコンパクトに表すことができます。ぜひこの機会に「理不尽」を語彙に含めて、筋道に合っていないと感じる人や物事を「理不尽」という言葉で表してみましょう。
「理不尽」とは、きわめて人間的な言葉ですね^^!。他の生物には使わないですからね。私は、前述したように「理」という言葉が人間界の理なのか、自然界の理なのかを分けて考えるようにしています。私が、わたしの論をかたるように、先様方の論説を否定はしません。何故なら自然界には、必ず大流と亜流・傍流が用意されており、主流のみが正しいとは言い切れないからです。
『大河の流れも、蟻の一穴から^^!』・・・ありがとう御座いました。□
[440] 釧路平原の石油を捜す!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 4月21日(火) > No.439[元記事へ]
管理人さまへのお返事です。早速のお返事ありがとう御座います^^。
> これは、起爆剤の原理で、水爆などだと、小さな爆発が巨大な爆発を引き起こすわけでして、小さな隕石落下でも落ちどころが良ければ、マントルを刺激して巨大噴火に至る可能性があるように感じます。
> つまり、物理的なエネルギー保存則には関係しないということでしょう。
> クレーターができるだけなら、物理的なエネルギー保存則以上のものは出てこないとおもいますが、ただし、以前お話した隕石落下が核融合を誘発する場合も同様に、物理的な保存則を裏切る結果となるはずです。その場合、明らかに巨大なクレーターが生じたりするわけですね・・・・。
> 確かに、遠心分離は質量(密度)のみですが、形状や化学反応・・・といった要因も考慮すべきでしょうね。
> 浮力、重力、摩擦力、化学結合、さまざまな要因で津波流体の行きつく先が変化していく・・のでしょうか。
・・ありがとう御座いました。□
(ブラタモリ)、二・三度見ていますが^^、
私達がふだん “何気なく”見過ごしている風景や家並みから、かつての歴史を探り・紐解いてゆく面白さがありますね。
<秋田県のタール油田>に興味をもち検索を重ねているのですが、・・・
いざそれを文章にするとなると、同じ画面(URL)が捜し出せずのアキラメを繰り返しています。とくにユーチューブは、掲載が早く変わりゆくのでとても付いてはいけません~~!。
日本での商用油田は新潟だけかと思っていましたが、秋田にもあったのですね。累計産出量最大の油田が今でも住宅地の近くで、細々とながら汲み上げられている動画 https://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/12c2a66acefbd6730b8aaf8c077fe086
には驚きです。わたしは、油井が津波の戻り水で<河口近く>にありと認めてはいるのですが、ブラタモリでみたタール油田の地が<内陸部>のものか??、と思い検索してはみたものの捜し出せませんでした~~!。
<東北石油株式会社・豊川油田展示室>
秋田県潟上市昭和豊川・・・?、Google Earth のストリートビューでその看板を捜し出しましたが、かつての栄華はどこへやら、近所の公会堂かと見まがいました(笑い)。その展示室の標高は<38m>でした。油井汲み上げ機械に関係する見学施設が他にもあるようです。ほかに「草生津・クソウズ・??」くそうず くさうづ 【臭▽ 水▽】〔「くさみず」の転〕石油の古名。(三省堂)の地名もありましたが、自分の思っていたほど標高の高い内陸部ではなく、「潟」に近いものでした。・・取りあえず秋田はここまでとし、つぎ、北海道へうつります。「地下400mからの汲み上げ」、これが秋田か? 北海道から? の検索かが思い出せません。石油は津波が運んだ生物の油分が地下に埋まり重合・熟成したものと思っているのですが、近年のメタンハイドレードの成因がまったく推めていません^~!。
[444] Re: 釧路平原の石油を捜す!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 4月26日(日)
管理人さまへのお返事のつづきです。
>石油無機質論 対 有機質論
たいへん面白い「論説」をあげて下さり感謝します。
わたしは、石油の成った原因に「巨大津波による物体分別論」を唱えています。
そのいう分別論は、(絶版)報告書で提唱する『同似集合論』でもあります。拙文を捜すのに少し時間がかかりましたが以下に引用します^^!。
南極大陸は6500万年前、恐竜を大絶滅させた衝突惑星だ!
<序 文>
あるところに、「素人」という若者がおりました。素人は、海辺の散歩がとても好きでした。誰も歩いていない砂浜を歩く時のサクッとした感触、砂に残された波紋の造形美、色々な貝殻、変化に富んだ流木、侵食された岩肌、優しくはじける波の音、頬をなでゆく風、潮の香り、見渡す限りの海原、それらの全てが日常とかけ離れた、ときめきを与えてくれるからでした。後になってわかったことですが、そこには恐ろしいまでの自然の摂理と、その謎解きの鍵が隠されていたのです。岩と、砂と、貝殻と、流木と、魚の屍とが、それぞれの場所に、それぞれに治まっていたのです。 即ち、砂は砂、貝殻は貝殻、流木は流木で、魚等と、似たものは似たもの同志で集まっていたのです。ニュートンが万有引力を発見したように、誰もが知っている、当たり前から、私は、『同似集合の原理』を知った。あるきっかけから反転錯視を知り、見ようによっては一方向しか見ていない自分に気が付いた。現存する全てを肯定し、全ての常識をくつがえし、この問題に挑むことにした。常識とは、多数であり多数に過ぎない。□
> 無機成因論の根拠としては「石油の分布が生物の分布と明らかに異なる」「化石燃料では考えられないほどの超深度から原油がみつかる」「石油の組成が多くの地域でおおむね同一である」「ヘリウム、ウラン、水銀、ガリウム、ゲルマニウムなど、生物起源では説明できない成分が含まれている」などが挙げられる。
「石油の分布が生物の分布と明らかに異なる」について
生物の分布がおしなべて地球面全体的にあるのに対し、石炭もふくめて石油の分布は特定の地域にまとまって発見されています。石炭においては特に北半球が多い。オーストラリア大陸北部にも油田はあったが、近年のブラジル沖にも油田があったことから、南半球にも目が向けられるようになったのは既知のとうりです。わたし素人は、6500万年前に南極から、地球の90%以上を覆う巨大津波が発生し、ほぼ数波~10波までは北上し、北極に溜まりこんだ海水が今度は、南へ向けて一部の石油成因物が海水とともに逆流した結果がブラジル沖へ溜まったものだとしました。
津波が運こんだ動植物の多くは第一波で運ばれて、おおむねが第二波以降で運ばれた土砂で埋まります。無機質論では、この独自論の「巨大津波で運ばれた」ことが見過ごされています。津波で運ばれた生物たちは、戻り水で河口あたりに成ったものもありますが、大半は津波主流の突き当りか、脇流で流れの弱まったところに置いていかれています。初頭文の浜辺(砂漠)の波打ち際には、『流木と、魚の屍あり』がおおきなヒントになります。
「化石燃料では考えられないほどの超深度から原油がみつかる」について
極々、近年のシェールガスやメタンハイドレートには考えがまったく及びませんが、石炭の炭層には数百メートルも(?)あるものがあると聞くし、深さもそれ以上もあるでしょうから、南極で数千メートル以上(?)、流れが弱まる赤道あたりで二・三百メートル(?)の津波高かと推定していますから「化石燃料では考えられないほどの超深度」であっても不思議ではありません。巨大津波が運んだものは石油石炭になったものだけではありません。巨大隕石の衝突でできた“衝突飛散体”もあります。なぜ、赤道帯の太平洋海底に大量のマンガン塊やSiO2の分布があるのかに対しては、赤道周囲4万kmを川幅にたとえれば最大川幅となり、流れが弱まる河口の様相を示していると謎解きしました。(この詳細は絶版報告書に^^!)ちなみに、オパールの成分でもあるこの時の溶解したSiO2弾は、海水中でギュと冷やされシマ模様や水晶となったり、中には海水が取り込まれたものもあると聞きます^^。
「石油の組成が多くの地域でおおむね同一である」について
石油の組成は「おおむね」が同一」であって地域によって差異は当然あります。石油の組成は樹脂や魚脂が主だと思いますが魚の場合は海水のみが考えられますので、インド洋の魚たちが運ばれた中東あたりのものは上質であろうし、雑混するシベリア平原のものは色々なものが混ざると考えられます。要は津波の上流に何があったかによって決まります。そして、石炭と石油の産地はおおむねが隣接しますが、それは石炭と石油の形態の違いからでしょうね^^!。
「ヘリウム、ウラン、水銀、ガリウム、ゲルマニウムなど、生物起源では説明できない成分が含まれている」について
この件は、惑星衝突論を唱えられている先さまも同意して下さると思いますが、石炭においても同様なことが云われています。「南極大陸は巨大惑星の衝突論」をいっている当方にとっては、その飛散物や生成物が混ざっていても当然だと思います。過去にこの素人論が正しければ「海水のNaCl」が必ず混ざっているとし、そのすじへ送ったことがありますが、いまだに返事がありません。(笑い) 海水の塩分7%? でしたか。それが地表に大量にあるということは安定物質であるから存在しているのであり、石炭や石油の埋蔵地に塩分が含まれていなければ当方の論はなりたちません。「石油の成因はプランクトンの堆積」が云われていますが津波での埋没を考えなければ、石炭や石油になる前に他の生物に捕食されてしまうとするのが中坊の考えです^^。
> ・・・、
> この無機由来説に基づけば、一度涸れた油井もしばらく放置すると、再び原油産出が可能となる現象を説明することができる。また超深度さえ掘削できれば、日本はもちろん世界中どこでも石油を採掘できる可能性があることになり、膨大な量の石油が消費されたとしても、掘削技術の問題さえ解決されれば、石油が枯渇する危険性はほぼ皆無であるとされている。
・・・、^-~???
> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B2%B9#%E7%84%A1%E6%A9%9F%E6%88%90%E5%9B%A0%E8%AB%96
「涸れ油井、再び産出」井戸水を空に汲み上げて、一晩おくと周りの地下水が染み出てきます。それと同じでは^^?
ずいぶん前の巷(ちまた)説で静岡に油分滲出ありと聞いたことがありますが「相良油田」ありですか^^! 。そして、勇払油田や、表題の「釧路平原に油田あり!」は、極秘でも何でもなく、すでに鉱区が予定されているのですね。石油ショックから30年ちかくも離れていると、色々に探出されているのですね。情報ありがとう御座いました^^。この上は、少し難儀になりますが、<十勝平野のモノ^^>でも捜しますか(笑い)。
それはそれとして、以前に「アフガニスタン砂漠の砂漠西方に大油田あり!」を('15/3/05付け)石油資源機構や、海外のその方面に送ったことがありました~~!。保管されるとは考えられませんが、私の没後にはプレミアがつくでしょうね^^?(笑い)
> 隕石が落下した際に、マントル層を突き破る可能性があることは、先にもお話したとおりですが、その際に石油の層から、石油が噴出してしまったり、それに引火してあたかも火山噴火のような状態になるということはないでしょうか・・・。
可能性ありでしょうね。今でもネシアの方では野火から地下の炭層に火が付いたとか、中国では「火カ山」の話しもありますしね^^。 □
[452] 北海道の未掘油田を捜す!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 5月 2日(土)
管理人さまへのお返事です。
重ねての「北海道の未発掘油田を推測」へのお付き合いおそれいります^^!。
> 北海道にも油田があるんですね!知りませんでした・・・・。
> その油田に海水由来の塩分があるかどうか、気になるところですね。
>
> 下記のサイトに石狩油田 八の沢鉱業所跡の記載があります。
> 「安政5年(1858)厚田望来の海浜で石油の湧出を確認。明治12年(1879)春別で試掘。採掘に数々の困難を窮め採算及ばず。後に日本石油株式会社に譲渡され、昭和初期の最盛期には油井数188杭、年間産油量、約1万キロリットル、従業員250余名の活況を呈した。その後、帝国石油株式会社に引き継ぐが油量激減。北宝石油株式会社に継承。35年(1960)8月採掘を廃止し、試掘から81年の歴史を閉じた。ここに、我々の尊い足跡を永く伝えんと碑を建てる。
> 平成12年10月吉日 八の沢石油友の会 記念碑建立実行委員会」
> https://driving-hokkaido.com/?p=5135
> ここにその位置を示すグーグルマップが掲載されているのですが、石狩湾の低湿地(かつては海)であった地点より少し丘陵になったあたりらしいです。これが平さんご指摘の津波由来の油田だったとすると、面白いですね!
> そのマップはこちら。航空写真添付します。
北海道に油田、秋田に油田があったなんて、私も知りませんでした。だから「釧路に油田」を発見けてやろうと思っていたのですが^^!、明治代からの歴史があったのですね。今では「検索」すれば数々の情報が得られるのですね。わたしも、この情報にあたりましたが、再度、捜し出せなくて諦めていました。その検索力はもとより、読解力・思考力も落ちて根がつづかなくなりました・・^^!。
> 石油の湧出の確認から
先に油分の湧出があっての探掘に至ったのですね。前述の静岡・相良油田や秋田の臭水(くそうず)も、地下の油分の湧出がきっかけのようです。しかしながら、いちばん効率よい汲み上げ場所の選定には、苦労があったと思われます。ずいぶん前のことですが、爆薬をしかけて地震波の跳ね返りで下層の状態を推して探査をしたとかを聞いたことがあります。その試掘には、諸問題の解決はもとよりお金がかかりますよね。採算が合わなければ問題外です・・・^^!。
北海道では、ほかに現稼働の勇払油田もあるとか。6500万年前の超巨大津波は、ほぼ北上して大多数が石狩平野を乗り越え日本海側に突き抜けていますが、一部の戻り水の溜まりが勇払の河口あたりにあったようです。ここにあれば、勇払のように受けV字湾になっていなくて片V字地形なので少し条件は落ちますが <十勝川河口にも必ず油田があります!>それと<然別川と音更川との湿地帯あたり>を予測しておきます。このあたりに「油分が湧き出ている情報」はないのでしょうかぁ^^? 釧路平原のモノは、すでに予定されていたので探索の要はなくなりましたが、ぜひとも参考にはしたいですね^^。
<油田中の海水塩分について>
これは、石油成因は<海底溜まり説>が一般化しているので塩分があって当然と云われそうです。しかし『石炭層の中に塩分ありか?』となると話は変わってきます。いまでは石炭については蚊帳の外にありますが、改めてその堆積状況を知り、一口に石炭層といっても実にさまざまなのですね。それを「6500万年前の巨大津波」に絡めて、その一つ一つの状況を推し考えると面白くて頭が混乱しそうです(笑い)。 ありがとう御座いました。□
その論文を再検索・捜しますので少々お時間をください^^!
(5/3) とりあえず関連しての塩素の含有があることが分かりました^^!
☆「石炭の過熱過程における塩素の行方」
1. 緒言石炭中の塩素(coal-Clと略す)は、・・・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tetsutohagane/103/8/103_TETSU-2016-110/_pdf
☆ 夕張、合せて24尺炭層の大露頭^^
http://www.geosites-hokkaido.org/geosites/site0002.html
[454] 北海道の(十勝平野)未掘油田を捜す!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 5月11日(月)
おまたせしました^^! やっとその論文を再検索することができました。
☆「石炭層の生成と変遷」九州大学 高橋良平
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jie1922/58/2/58_2_102/_pdf
「将(油田)を射んとする者は、まず馬(炭層)を射よ!」
この論文は専門的であり、わたし素人にとっては難しいのですが、石炭の生成因は、現地性とするか、流木性とするかの論があります。その炭層の厚みをなすには十数倍(!?)の植物の堆積を考えねばならず、流木性といってもその厚みは、通常の大洪水では到底考えられず、そして、その分布は地球規模にあります。炭層の年代は、筆者の掲げている6500万年前のものだけではないようですが、<流木=洪水>ではなく、<流木=巨大津波>原因 と考えると解がでることに気付いて欲しい。
先の情報で夕張の炭層の露頭は、下から10尺、8尺、6尺の3層とあるが、これは津波の数波によって回層?をなしたと考えられるし、論文で炭層を挟んでいる夾層が砂から粘土質へと異なるのは、巨大津波が持つ多数波の特徴であり、津波の上流になにがあるかによっても異なり、おおむねは第一波は粒度が大きく、第三波以降は粒度小さくなると思っています。さらに面白いのは<石灰層>の夾層もあるようです。この津波が運んだ堆積層の件は、なにも遠くの国や特別の場所へいかなくても、わたしの貴方の近くにもあるはずだ。瀬戸内山陽道北側の20m~30mの丘陵地。京都府新幹線車窓北側の丘陵地や、岩手県胆沢扇状地北の丘陵地もそうでないかと思っています。なにしろ地球の90%を覆った巨大津波ですから。『川がないのに角のとれた丸こい石の堆積丘^^?』それが少年心(こどもごころ)には不思議でならないのです。
キシ先生>に希望します。長文の情報層で小拙層を覆い隠さないで欲しい(笑い)。
当初の論文を熟読します。その時の超巨大津波と考え合わせながら・・・・
To be continued^^!
> <十勝川河口にも必ず油田があります!>
それと<然別川と音更川との湿地帯あたり> を予測しておきます。
> (5/3)とりあえず関連して石炭中にの塩素の含有があることが分かりました^^!
塩素Clは単体では活性化が強く、それがナトリウムと結び付き海水中にあります。
> ☆「石炭の過熱過程における塩素の行方」
1. 緒言石炭中の塩素(coal-Clと略す)は、・・・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tetsutohagane/103/8/103_TETSU-2016-110/_pdf
> ☆ 夕張、合せて24尺炭層の大露頭^^
http://www.geosites-hokkaido.org/geosites/site0002.html
[455] Re: 北海道の(十勝平野)未掘油田を捜す!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 5月12日(火)
急がば廻れ^^! 油田を探すなら、まず石炭から・・
<石炭層の生成と変遷> 九大:高橋氏 1978/11/16受理、より
1.1 夾炭層の構成
・・、「石炭層の直下にかつて植物が生育していた時の土壌と判断される粘土層があったり,石炭層中の珪化した樹幹(珪化木)が層面に直立した格好で含まれ,さらにこの粘土層をつらぬいていることなどは石炭の原地成因説の有力な証拠とされてきた。」・・、
この件は、4千年前の東北に衝突した巨大隕石で発生した巨大津波の件で述べたことがありますが、同様なことに「直立した藤里の大珪化木」がある。いかに巨大津波とはいえ、その発生源とその先端部分では、その様相がおおきく異なる。発生源では巨石ゴロゴロでも、その先端等で流れが弱くなった場所や後続波では、その濁泥土の粒度は小さくて粘土質のものが運ばれてそこで堆積する。そしてそこに棲息していた樹幹が大きければ直立したままで、津波と共に運ばれてきた粘土層に埋まり珪化木化する。この件で、奥州市の岩淵先生は、島根県の珪化木林の根本部分に倒れてある木化石は、その時の津波が運んだものだとされている。
また、藤里の珪化木はアイソトープ年代で〇〇年前であったが、その年代を示す濁泥土が染入ったものだとしました。津波が運んだ植物の遺骸は他地へ運ばれたり、混ぜ合わされた土粒へ埋まりこんだりするので、その年代を決めるのが難しい。
<続 伸> 上記論文より、
「・・、坂倉は,石炭層の厚さが水平方向で容易に変化したり,石炭を含む一連の地層(夾炭層)が,繰り返しリズミカルな堆積様式を示すことなどによって日本の第三紀炭は原地で生育した植物群をその原料にしたと主張している2)。・・」
この件は、夕張の3層の石炭の堆積層で津波成因を説明できる。3層の炭層の厚みは下から10尺、8尺、6尺であった。リズミカルな堆積様は、津波が同方向からそれらを運ぶからであり、10尺→8尺→6尺へとだんだん小さくなっているのは津波の後続波が弱くなっていることを表す。夾層の状態と何がどのように津波によって運ばれたかを知りたいものです。夕張では炭層がなだらかな傾斜があったようだが、植物体は盆地へ溜まったり、津波の波打ち際に置いていかれる ことがある。この地勢の件の要を氏は説かれている。
To be continued^^。
[457] Re: 十勝平野
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 5月13日(水)
青面金剛さまへのお返事です。
おひさしぶりです。当方にお気をとめて下さってありがとうございます。
根気や記憶の衰えを自覚し、昨年でしたか台風19号を押して一区切りとしてからは、<存命中の可否に>あまりこだわらず成り行きにまかせることにしています。
「北海道に油田あり!?」は、ずいぶん前から内に秘めていましたが、終活の一環として記しておこうかと着手したところです。・・で<高橋先生>の論文「石炭層の生成と変遷」にいきあたり少しずつ読み始めているところです^^!。
秋田県や、北海道の油田採掘はずいぶん前(大正の代?)からあったのですね。当方が知らないだけで、今では検索をつかえば、その多くを知ることができるのですね。行動力のない机上探偵としてはありがたいことです。
今の私は、先さまの意とされる事にお答えできる自信はありませんし、その情報のすべてに目をとおすには時間がかかり過ぎる難があり、スピーディにコメントできないことを済まなく思います。
気になるワードとしては、
「各々の年代の決定」があります。この年代決定には過去の30年あまり、例外ないほど自論とのくいちがいがありました。アウトレットを論じる素人には、その科学的根拠をくつがえすだけの学識はありません。
「それを決定した年代が、永久の過去から同じ場所にあり、同じような圧と温度の経過をたどり、おなじ放射線量をうけ、・・ならば、その年代決定は正しい。しかしながら、巨大隕石というビッグイベントを受け、巨大津波で混ぜ合わされ他の地へ運ばれたその検体をどのように判断したらいいのか私には判らない」と、逃げてきました。
太田市・波根西の珪化木>2000万年前の写真。とても興味があります。以前のことですが「三瓶山の大噴火。太田市に立状根化石発見3500前のもの等を「東北4000年前の巨大隕石で火山誘発、その時の津波で流された流木か?と、思っているのですが、四千年前と三千五百年前では時間があいません」としたら、岩淵先生思い当たるふしがあったのでしょうか。現地へ出向かれて「4000前の説もありました」と教えて頂きました。その年代決定のどちらが正しいのかは私には分かりませんが、著名な人や機関の発表がそのまま定着するのでは?と思うようになりました。この掲示板でも管理人さまがタイムラグや補正値をいかにとるかの問題をあげられていましたし、東大の先生が「年代決定には、放射線法か炭素年代のどちらかの一方に決めて論じるべきだ」といわれているのを思い出します。波根西の珪化木も2000万年前の地層に4000年前の木が流れ着いたと勘ぐることもできます。島根県に流木化石があるならばほかでもあるに違いないと思っていましたから波根西の珪化木もその時のものかと思うようになりました。ちなみに島根県には<千木>という地名があります、筆者はこれをその時4000年前の大津波が運んだものかと疑っています。このように昔のことは思い出すのですが最近のことが・・・^^?
> これらの地層の中には石炭の層が数十枚あり、普通1から3メートルの厚さですが、5メートルをこえるものもあります。
> https://www.city.kushiro.lg.jp/museum/jyousetsu/1f/0003.html
『石炭の層が数十枚あり』
これは、津波流木説では解決できませんね。ただ5mもある堆積層がどのようにしてなったかの疑問がつきません。5m×15倍=75mが堆積するメカニズムが巨大津波以外で考えつかない。1サイクルの炭層厚が夕張のように段々に薄くなっていれば津波の可能性大である。
『カルデラの件』
私はカルデラは巨大隕石痕ではの疑問をもっています。管理人さまも「北海道の多くの火山地形が多角形になっている」ことをあげられていました。私は、そのような見方をしたことがなかったので新鮮に感じたのを思い出します。爆発痕なら多角形痕も考えられますが、火口痕であれば多角形痕にならないのではと思います。このように北海道の火山口を巨大隕石の衝突痕とみれば、その時々に津波が発生しますよね^^。
『坪背山探索の件』
色々の情報はありがたいのですが、<猪の目峠茶屋跡から散策道を7分ほど登った所から右手方の分かれ道の行き当たりに、隠れ坑道のズリありか!?>を確かめる気力が残っていません。かっての山歩きで、イノシシの掘り返した痕に遭遇したり、散弾銃の薬きょうを目にしていますから、間違って撃たれたとのニュースもあるし、こわい怖い^^!
コメントありがとうございました。 □ 机上探偵^^ 平 素人より、
[459] 『坪背山に隠れ坑道を掘ったズリの有無確認の件』
投稿者: 机上探偵: 平 素人 投稿日:2020年 5月14日(木)
青面金剛さまへのお返事です。
「ちなみに島根県には<千木>という地名があります、筆者はこれをその時4000年前の大津波が運んだものかと疑っています」と申し上げました。ごめんなさい。myブログで捜すと<千木>ではなくて<千本>でした。あげて下さらねば間違った思いを残すところでした。
myブログより、
「忌部川」に、「下忌部・西忌部・東忌部」。 このように方向性が3つ以上連なると、(そのことに関して)そこに歴史という時の流れがあったと推むことができます。「忌む」とは、人が死んだ時につかう言葉。 ここに「千本」という地名があります。・・・
> ☆<千木>は神社の社の屋根に付いている風消しです。千木が無いと強風時に屋根が飛び易くなります。立て削ぎが出雲神、横削ぎは物部神です。男千木と女千木で解説している本が多いですが誤りです。
ありがとう御座います。「千木」は風消しの意味もあったのですね。「重し」の意味だけかと思っていました。ちなみに、千木は、大量の銅鐸・銅剣を埋めた時、それに憑いた荒神を動かせないようにするための「重し」のための儀式方があったのではと疑っています。「風消し」の意味もあるのでしたら、「八雲」を抑える意味もあったのでしょうか。慈雨が、あまり暴れすぎて暴風雨になっても困ります。(笑い)今でも、旧家では新築時の棟木の下に刀(刃物)を括り付けることがあるようです。さらに、略式化して竹で挟んだ何やらの紙幣をくくりつけているようですが^^?
今、「神戸・こうど」の地名がつくところの山畑に廃材で休憩小屋を建てているのですが、「屋根が風で飛んで人さまに、必ず迷惑をかける」と息子にしかられました。(汗~^^!)
『坪背山の隠れ坑道を掘ったズリの探索の件』
> ☆ 地図に印を付けて管理人さんに送りなさい。隠れ坑道がある危険な所はドローンしか、ありません。
私は、そのズリの有る無しが拙論の正否を決めると申し上げました。
ずりとは、トンネルの掘削や鉱山の発掘において、発破などによって生じる岩石の屑のこと。その有無を調べるだけなのに、なぜドローンが要るのかわたしには理解できません。もし、私がいった「大文字地形」を思っておられるのでしたら、素人が推論に至った「そのズリ」があってからのこと。そのズリが無ければバカげた素人探偵の作り話ですからね。 そして、その地の歴史を知らないわたしのようなよそ者は、そこが、さして先さまが仰っておられるほど危険な場所とは感じません。(以下の山歩きを参照しました^^。写真はGoogleで坪背山より大社方面と鷺浦方面です)
法師崎(ほうしざき)のやまある記 : 坪背山(壺背山) 引用、
https://houshizaki.sakura.ne.jp/tuboseyama.htm
・・・(猪の目茶屋跡の)登山口から7分程度進めば尾根道へ着き、明確な登山道に合流する。この合流点付近には昔の道が北へ向かって延びているようだが、途中でこの道は消えてしまう。・・・
・・消えてしまう・・『その場所の上斜面側が(隠れ坑道入り口)で、下斜面側が祈祷場所を拡張し(ズリ)を排出したピンポイントです !! 』
むしろ、そのことより、そこを「侵すべからざるところ」とした祖先の思いを世の人に知らせむることのほうがはるかに大事かとおもいます。それは、素人のいう「ズリ」が「あって」からのこと。「なければ」話しにもなんにもなりません。
<机上探偵の推論>
“恣意的に”入り口を塞がれている坑道の奥行は十丈。その坑道の奥へ1700年前の冬至十夜の旭光が、弥山北側の“鼻突峠のあいだ”から昇ったとき「その初光が、奥に設えた木製棚上まで射し込むように設計されている!」
この詳しくは、myブログのどこやら「カテゴリー出雲地方?」に書いたかとおもいますが、今は思いだすことができません。そして、その日差しの方向に「加茂岩倉」があるか!?とおもっていますがこれも調べていません。それよりなにより山小屋をなんとかせねば・・・^^!
[461] Re: 北海道の(十勝平野)未掘油田を捜す!!
投稿者: 机上探偵: 平 素人 投稿日:2020年 5月18日(月)
前回の<石炭層の生成と変遷>高橋良平氏 1978/11/16受理、の論文の
「1.1 夾炭層の構成」で、石炭の現地成因と流木成因のふた通り説についてでは、石炭は、地球の90%を覆った「巨大津波が運んだ」ものだとしました。引き続いて素人の思いを述べていきたいと思います。
> 急がば廻れ^^! 油田を探すなら、まず石炭から・・、
石炭と石油の産地は津波成因において、似通った地域にありますが、石油成分が流動性や、浸透性があるのに対して、石炭の場合は、その浮遊性と絡み性があるために海岸の波打ち際と同様な状況で堆積していることが多く、まず石炭を調べてゆけば、石油の方も推めてくるのではと・・^^!。
<表題の高橋氏の論文よりの抜粋>
Bubnoffの分類4)にしたがうと,石炭堆積盆地は,地向斜タイプ,陸槻タイプ,大陸塊タイプの3つに大別することができる。
1.2.1 地向斜タイプの堆積盆地
・・・、イギリスのSouth Walesからベルギー,ドイツのルール,ソ連のドネツにかけて東西方向に発達した地向斜炭田群である。
地向斜とは、地殻上に生じた帯状の沈降地域であり、石炭地のおおむねは盆地状や谷状の凹地に堆積したものであり、津波が引いてゆけば、その流木は大体がそのような場所に留まる。又、これも海岸の波打ち際で見かけることであるが2波3波の波先に、それに類するものを置いてゆくことがある。「東西方向」の詳しくは調べていませんが、筆者が北上(後に南下)したとする巨大津波に対してに(?)あるのが興味深い。
1.2.2 陸棚タイプの石炭盆地大陸縁辺部の海岸平野とこれに連なる陸棚地域に形成される炭田タイプである。
地向斜タイプの炭田に比べると沈降の程度が低いために一般に全地層厚は薄いが,植物堆積に適した条件を備えていたため石炭層自身はしばしば厚く広範囲に賦存し,多少の例外はあるが,概ね穏かな構造を示すのがその特徴である。
これは、大陸に上陸した巨大津波は、表層の植物群を引きはがしながら進む。一部はその先端や、流れの脇域に残すが、戻り津波の濁泥とともに海岸部に沈降する。「一般に全地層厚は薄いが,植物堆積に適した条件を備えていたため石炭層自身はしばしば厚く広範囲に賦存し,多少の例外はあるが,概ね穏かな構造を示すのがその特徴」というように、陸棚のおおむねの地勢は濁泥土流の堆積もあるが単調であり、その炭層は「概ね穏かな構造を示す」。
ちなみに、大陸棚は、かつて陸地だった所であり『南極大陸大隕石の水没』によって海水位を上昇させたたとし、中坊程度の計算力で180mほど^^?だったかなの増位で海没したとしましたよ^^!。平頂海山・ギュヨーもね。(拙:絶版報告書)
1.2.3 大陸塊タイプの石炭盆地
・・、楯状地のような古期の岩石類からなる安定大陸塊の内陸部にも地域的にはごくゆるやかな上昇,沈降が起こり,盆地状の凹地が生じ,ここに夾炭層が堆積されたのが大陸塊タイプの炭田である。・・・、地向斜タイプの炭田に比べると被覆岩層も薄く,堆積後の地層変形も微弱で,大陸塊タイプの炭田である。しかし,石炭化は一般に進んでいて,大陸塊型炭田としては例外的な炭質であるが,その理由はまだ明らかでない。
その炭田例は、ロシア卓状地やシベリア卓状地西南部にあり、南極から発した巨大津波の突き当り域であり、岩石や土質の多くが津波の移動中に沈んでいくのに対し、植物群は自身がもつ浮力のために遠くまで流される。それによって「地向斜タイプの炭田に比べると例外的な炭質であるが,その理由はまだ明らかでない」
「石炭化は一般に進んでいて」
これは、中坊時代に「泥炭<褐炭<無煙炭」と教わったようにその進化は“褐炭”どまりをいっている。『例外的な炭質であるが,その理由はまだ明らかでない』 石炭への炭化は、植物が地中に埋まることによって、その地熱と圧力によって炭化する。このように被覆岩層が薄い場合。地圧も地熱も小さいので炭化はしにくい。しかしながら、褐炭どまりとはいえ炭化していることが不思議なのである。ひるがえってmy報告書を思いだして欲しい。南極大陸大隕石のあとに、数ある氷期のなかでも、とくに大きい氷河期がくる。薄い被覆岩層とはいえ直接に氷と植物は接していない。その氷圧によって炭化したのである!? しかし、これだけでは足りない気もするので、南極衝突惑星の対蹠地で北極海底へ噴出したアルファ海山(別紙)の余熱でも足しておきましょうか^^!。
別談の報告ではありますが^^!
<南極に石炭の露頭あり>
これは、漂い流れ着いた植物群が、衝突熱冷めやらぬ大陸表で蒸し焼けたとしました。
<南極大陸ほぼ中央の氷下にボストーク湖あり>
これは、氷圧と未だに残る衝突熱によって水液化しているのでしょうかと謎解きしました。ちなみに、南極海岸には温泉が湧いている場所があるそうです。
To be continued^^
[462] 将(=石油)を射んとする者はまず馬(石炭)を射よ
投稿者: 机上探偵: 平 素人 投稿日:2020年 9月 2日(水)
終活の一環として(^-^!) ミッション:北海道の未掘の油田を捜す^~!
すみません。前の投稿から随分あいてしまいました。・・、
高橋良平氏<石炭層の生成と変遷> 1978/11/16受理、の論文をよんているのてすが、
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jie1922/58/2/58_2_102/_pdf
以下のような情報を収集しています。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
一定の順序で堆積した堆積物の一系列の変化。しばしば周期的に繰り返される。陸源物質では礫岩,砂岩,泥岩の一系列が最も多い堆積輪廻で,その原因には海水準の変化(海進),地殻変動(沈降),気候変化などがある。泥岩,砂岩,礫岩の堆積輪廻では逆に海退,隆起などが原因となる。化学的堆積物の堆積輪廻は石灰岩,石膏,岩塩の順に重なる例がドイツ盆地の上部ペルム系の苦灰統(Zechstein)に認められ,浅海から乾燥した内陸盆地への環境変化が認められる。
一般的には,地下数百mに泥炭が沈下してはじめて温度も数十度のオーダーになりうるので,
元来,堆積した植物質が泥炭となるためには著しい容積の減少があり,さらに泥炭から石炭になるまでには1/17~1/20の容積減少があるとされているので,
坂倉は,石炭層の厚さが水平方向で容易に変化したり,石炭を含む一連の地層(夾炭層)が,繰り返しリズミカルな堆積様式を示すことなどによって日本の第三紀炭は原地で生育した植物群をその原料にしたと主張している2)。
石炭層の生成と変遷(高橋)103に大きな特徴がある。生成年代の新旧をとわず世界の夾炭層の大半がこのサイクリックな岩層の連なりを示すことが知られ,ーサイクルを示す堆積物はサイクロセム(Cyclothem)と呼んでいるが,その典型的なものは北米の内陸炭田や,ヨーロッパ西北部の夾炭層に認められ石炭の形成過程・堆積環境などを明らかにするために数多くの研究が行なわれてきた。イリノイ,カソサス州の古生代炭田の場合には,砂岩~礫岩がサイクロセムの最下層をなし,上部にむかって次第に細粒となって淡水性の頁岩層,耐火粘土層,石炭層となり,さらにその上盤側に黒色の頁岩,石灰岩の薄層,海成の頁岩が重なるものである。カソサス州を中心とする炭田の上部ペソシルバニア紀に属するWabaunsee層は全層厚約120mの夾炭地層であるが,6~15mの厚さをもつサイクロセムが13個識別され,400~500kmもの遠距離にわたって追跡されている。 ・・・以上・・□
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<前振り>
6500万年前の南極から発した巨大津波は、地球の90%以上を覆い地表生物のほとんどを北に向けて押し流しました(一図)。そして、濁泥とともに運ばれた動植物の多くは地中に埋って石炭や石油になりました。「巨大隕石の衝突」による大津波の発生でなった石炭石油はこの時だけではありませんが、なにしろ南極大陸そのものが衝突惑星(自論)ですから、今までの科学、人知を絶するものがあります。その詳しくは、拙著の「巨大隕石と大津波」で述べていますが、今は絶版となっています。その主なものをあげますと、南極大陸塊が押しのけた海水の増位で約200m没の大陸棚ができた。主要な島は北に向けて流されている(二図)。その衝突合体は地球を下膨れの洋ナシ形にし、地軸を傾??け、アイスランドやデカン高原を噴出し、北極海海底に対蹠地形のアルファー海嶺や〇〇海盆を造っている(別紙)。このような大惨事のなかで恐竜や海生物や植物は巨大津波によって流され集められ土中に埋もれ石炭や石油となっているとするのが自論です。
< 思 考 ??>
「新旧各々の地の石炭の生成年代の決定について・・・、」
この件は、(地表の植生をうがす)巨大津波を伴うほどの“巨大天体の落下は”各代にあると思われるので一概にはいえません。
「砂岩~礫岩がサイクロセムの最下層をなし,上部にむかって次第に細粒となって・・」
その時、起こる津波は一波だけではなくて何波もおこるであろうから、上層にいくにしたがって細粒になると思われます。
「淡水性の頁岩層,耐火粘土層,石炭層となり,・・」
海で発生した巨大津波が陸上に上がり前方に巨大湖があれば、その淡水が前方の植生を押し流すことになります。
「粘土層」になるほどの細粒は、
津波の行きついた先端部・下流域の様相であり、津波が落ち着いて濁泥が沈殿したときも同様と思います。
「さらにその上盤側に黒色の頁岩,石灰岩の薄層,海成の頁岩が重なるものである」
「黒色の頁岩」について、
この件は、さして難しい問題ではありません。巨大隕石で発生する津波は、それによって発生した火災や粉塵をも運ぶからです。中国の端渓の硯がそれかと思っています。
「石灰岩の薄層,海成の頁岩が重なるもの」
石灰岩の件は、ドーバー海峡岸や、秋吉台のように貝性類が津波で運ばれたとしています。要は津波の上流部に何があるかによってそれぞれの堆積物は変わってきます。したがって、列島の筑豊炭田と釧路炭田の成分の違いにあるのではないでしょうか。
「その他に・・」
琥珀があります。これは、生木が津波で “大量に” 運ばれたとき、表皮が擦れ合いはがされ流れ出たとしています。
★★ 自分(巨大隕石、巨大津波説)的に説けていないことがあります。
『カソサス州を中心とする炭田の上部ペソシルバニア紀に属するWabaunsee層は全層厚約120mの夾炭地層であるが,6~15mの厚さをもつサイクロセムが13個識別され,・・』
「全層厚約120mの夾炭地層」については、想定をはるかに越えていますが、南極大陸が巨大隕石だったとすれば、頷けないでもありませんが・・・、
『サイクロセムが13個識別・・』
この件が一番の難題です!! 以前のわたしは、石炭層は一つの塊となって堆積していると思っていたのですが、そうではなくて、オーストラリアの炭田や北海道( 大露頭)のように、薄いサイクロセム状(サイクル性)になっていることでした。これは、地形や緯度によってもその地へ届く津波の波数は異なりますが<13波もの津波の発生>を説明できなくてはなりません。(注: 後続波によるものか、時期をたがえての堆積したものかの違い)
もっとも、地球を洋ナシ形にしたり、地殻を数枚にひび割れさせた大事変ではあるのですが・・・
[463] 北海道の油田は、数十年前に発見されていた!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 9月 5日(土)
この件は、・・・・さまも指摘されていましたが以下にありました(^~!)
日本北部の天然ガス (北海道の天然ガスと石油)
https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/61_07_02.pdf#page=1&zoom=auto,-150,721
油田・油井の発見は、臭水(クソウズ)であったり、自噴したり、石油ガスの匂いがしたりがきっかけのようですが、国土地理院の地勢図・等高線に重ね合わせてみると、各代・各々の巨大津波が運んだ「未だ見ぬ」動植物の遺骸の油分が見えてくるかもしれませんね(^-^)。あっ、それから巨大隕石落下後の「隕石の冬」が引き起こす海進・海退も考え合わせねばなりません。そこは昔は海だったと云わないためにも・・・つづく(^-~)。
[466] Re: 道東クレーターライン
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 9月 8日(火)
管理人さまへのお返事です。
ご無沙汰いたしております。お元気なごようすなによりです^^。
> 摩周湖・屈斜路湖、サロマ湖、厚岸湾・・・隕石落下によるクレーター湖かどうか確認してきます!
北海道・東北地方には隕石衝突とみられる湖が散在していますね。列島の中部以南にはそのようなクレーター形状様のものがみられません。これに関心をもったのは中坊のとき、噴火湾といわれている内浦湾とメキシコ湾の形状が「よく似ているなあ」と思ったことでした。加えてイタリア辺りもそのようなものがみられます。素人はこれ等を「隕石銀座」とよんでいます。ご指摘のように黄道・偏角と惑星・軌道の交わりが過去にあったのかもしれませんね。
ご調査・ご思考を楽しみにしています。
投稿記録版(2)へ続きます^~!。

Nice to meet you. My name is Anzu.
You must dig here. bow wow^^.
お宝捜しをしませんか^^?
少年心(こども心)と遊び心から、素人探偵を名乗っています。
ほんとは歴史のこと、な~んも知らんのです^^!
だから、史実の探偵を・・・^^!、私の主目的は、・・・・・・??、
【332】ここに卑弥呼が埋めた未掘の銅鐸23±α個が1700年の眠りについている!!
岡山県総社市岩屋寺金堂の崖上の均地中央(写真目印)

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↓以下、他ブログへの投稿記録です^^。
[2] 学問にない巨大隕石の形
投稿者: 平 素人(ヒイラ モト) 投稿日:2018年 5月10日(木)04時49分17秒
こんばんわ^^? こちらへもおじゃまします^^。
https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs?page=18&
会報7号、まだ、その緒しか見ていませんが「すごすぎる!」とかの論評しかできません。
ぜひに、より多くの専門家の人達に読んでもらいたいと思います。私は、岩淵先生におねだりして^^! その御本を釜石鉱山(株)の太田さまに展示して下さるようにと送付しました。なぜなら、坑道見学の学童たちにも見ておいてもらい、わたしと岩淵先生がかかげ広報している「肝沢扇状地をつくった大事変」について、将来を担う少年少女たちに託しておきたい思いからです。私達の存命中にはならない思いがあります。わたし経由でも、直接にでもいいですが、御氏の会報もそれに加えて頂けませんか^^? 「衝突隕石体の内部が観察できる」しかも、その事変を近い祖先が実体験して地名等にのこしていることに大きな意味があります。
その、少年少女たちへ、
「巨大隕石」の形にはいろいろあって、火星の惑星衝突による大擦過痕。オリンパス山は巨大隕石。金星の惑星衝突でできた緊張収縮痕。等々(拙:絶版報告書より)今の学問にはないことを伝えておきたい^^!
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-81.html
[5] Re: クレーター形状
投稿者: 平 素人(ヒイラ モト) 投稿日:2018年 5月12日(土)06時13分40秒
管理人さんへのお返事です。お早うございます。
> ここ数日お話してきたクレーター状地形が、半月型になる原因について調べてます。
いろいろに考えてみました^^!。自転追っかけ型で衝突体が柔らかい場合は??
この場合だと衝突方向に“逆U字地形”がありか・・・??
> まず、真上から落下した場合のクレーター実験はこちらです。
> http://www.hosizora.miyakyo-u.ac.jp/labo/paper/2001suda.pdf#search=%27クレーター+形状%27
この問題は古くて(火山口か隕石口か?)、新しい(多角形口)問題ですね^^。
私は、衝突地形が圧倒的に円形が多いのは、「銃弾の弾痕は斜めでも正面でも全て円形に
なる説」に加えて,その引力圏に捕らえられた小天体の衝突軌道の多くは、斜めに進入して
も最終的力関係で、二次曲線の頂点のようになるのでは?? と思っています^^!。つまり、
動いているものは食べにくいので、箸という圧倒的引力でつかまえる?
この問題はシモさまのほうがぁ~~^^!
[7] Re: 隕石2
投稿者: 平 素人(ヒイラ モト) 投稿日:2018年 6月11日(月)05時29分43秒
> 隕石2 投稿者:山田 投稿日:2018年 6月10日(日)22時08分41秒
南極に隕石ごろごろというのは、氷中に保存された隕石が特別なメカニズムで氷上に浮き出てくるからだそうです。南極に集中して隕石落下が多いというのでもなさそう。
> 平さんおっしゃる南極へ巨大隕石の飛来というのは、おもしろいけど証明むずかしそうですね。
始原隕石を分析すると、太陽系は約45.7億年前誕生のようです。
写真は、隕石結晶のスペクトル分析か?
山田さまへ> コメントありがとう御座います^^♪。
「古代史掲示板」から、こちらの方へ移転させて頂きました。
さっそくですが「南極大陸に巨大隕石が」ではなくて、「南極大陸の全部が恐竜大絶滅をおこした衝突惑星なのです」
この広報を30年前からやっていますが、今では存命中は無理と諦めが先にたっています^^!。「南極大陸に巨大隕石が衝突し南極の氷が溶けて巨大津波が」なら10年か20年前の新聞ニュースにのったこともありますし。今では「巨大隕石による巨大津波が地球の90%を覆った」等の映画も制作されているようです。また間氷期によって氷上に落ちた隕石がよせ集められたのを南極の日本隊が発見した」とのニュースも思い出されます。
表記のような極大論を「極秘報告書:巨大隕石と大津波」の題で文芸社から電子出版しましたが10年余りで14冊しか売れなかったので、契約が切れて'17/10/21で絶版となりました^^!。どの一つをとっても素人でも分ること。『気づき』さえすれば簡単なことばかりですが、現科学を鳥類の刷込みのように刷り込まれた人々にとっては感覚的に受け入れられないようです。受入れられなければ受け入れられないほど「事は大きいのだ」と我が意を慰めています(泣き笑い)。
報告書11,000bitをこす長駄文のすべてをあげる分けにはいきませんが、myブログでもその要旨を載せています。ご参考にして下さい。地球の90%を覆った巨大津波については、今ではGoogle Earth や Yahoo!地図と中学生地図があれば簡単に確認できます。
<Big Game>http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-15.html
これが世に伝わらない理由の一因は、中坊(中学生)程度の論説だからと思っています。学識に長けた方の参加がない限り世には伝わりません。今後のご教示と参加・広報のほど、よろしくお願い申し上げます。
<対蹠地>http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-date-201002.html
南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ! -1
https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs/11
投稿者: 平 素人(ヒイラ モト) 投稿日:2018年 6月12日(火)
> No.9[元記事へ]
わたし素人が、あれこれという(説明する)前に皆さんで、次の“絶対条件”を与えて
<何が起きるかを>捜してみませんか?
一つ 南極大陸は、衝突惑星である!
二つ 約6,500万年前のことである!
三つ 現在の地球状態を否定しない。
この三つのうちの、どの一つを否定しても、この Big Game には参加できません。
先様がたのコメントをお待ちします^^。
管理人さまへのお返事です。コメントありがとう御座います^^。
「南極大陸の起源」について、絶版になった拙:報告書の一節を紹介します。
(尚、この一節は、30年前の1988/01/11に各所へ送記したものです^^!)
南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ!-2
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2018年 7月11日(水)
Big-Game を再開します^^。
巨大隕石はどこに落ちたか(恐竜大絶滅を起こすほどの)
> 2-2 海上と考える場合
> 海は広い。未知の部分が多い。しかし、その分だけ可能性は高くなる。円形の海は、といえばメキシコ湾ぐらいである。今までに数多くの人たちが捜しているのに見つかってはいない。人より、別の場所を捜さねばなるまい。
> そうだ! 氷で隠されている。南極、南極ではないのか? あったア !! 南極大陸の上ではなくて南極大陸そのものが、まあるい形をしていた。背筋から頭に戦慄が走った。それが図17で、各々の限界線は落下時の波紋に見えた。違いない。これに違いない。
> 南極大陸の概要 へとつづく・・・絶版:電子出版書「巨大隕石と大津波」p229より
<Gig-Game>
> わたし素人が、あれこれという説明する前に皆さんで、次の三つの絶対条件を与えて
<何が起きるかを>捜してみませんか?
> 一つ 南極大陸は、衝突惑星である!
> 二つ 約6,500万年前のことである!
> 三つ 現在の地球状態を否定しない。
> この三つのうちの、どの一つを否定しても、この Big Game には参加できません。
> 先様がたのコメントをお待ちします^^。
「問」、 「貴方のいう南極大陸サイズの惑星が衝突したら、地球は破壊・破滅しませんか?」
衝突惑星体の試算 = 南極大陸の面積×平均海洋深さ3750m× 2 ≒ Φ3500km
×2 は、マントルに浮く大陸の考えからです。月の直径がおよそ、3700kmですから、
これでは、少し大きすぎるようなのでゲームでは<Φ3000km>としておきましょうか^^?
「答え」
もし、地球が火星のように冷たくて固い惑星なら<先様の考えは正しい。
もし、地球が金星のような熱して固まる前の惑星ならトッポリと埋まりこんでしまう。
地球は、その中間で固いのは外殻の100kmほどであり例えれば卵のようと申し上げました。
「次に」 このサイズの惑星が南極に衝突したときに発生する 巨大津波の痕跡!!!
一番わかりやすい南米大陸から申し上げましょう。中学生地図を用意して下さい。
「なんですって^^」こども心といっしょに、遠の昔に捨てました」ですってぇ。それは残念^^!
このとき発生した津波は地球の90%以上を覆ったと申し上げました。→ 北上した津波は、
アンデス山脈とブラジル高地に挟まれたアルゼンチンを駆け抜けます。このような山間をさっとうした津波が駆け抜けるときの特徴として、その入り口近くの表土を削り取り湿地帯にすることがあります。ロサリオあたりや、パラグァイあたりに、それがあることを認めて下さい。そして、マットグロッソ高原の北へ流された扇状の形状にも注意して下さい。この広大で夥しい土量を考えるとき<津波>以外の通常の風雨気象では決して出来はしない。リオデジャネイロの海岸に「その時の<濁泥流>に周囲を削られた山があります」といっても、あなた様は信じることが出来ますか^^? さらに、ブラジル高原の堆積土のなかに衝突惑星のあんこが飛出しドロリ形状の自然金がいっしょに流されている」といっても信じることができますかぁ^^?
学識の高い貴方さまが これに“気付けば” より多くが見えてくる。
「信じるとは、人が言うと書く」人が言うことほどアテにならないことはない。(笑い)
反論をお待ちします。その反論は「この論」の不備を正して、より、この論を強くします。
南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ!-3
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2018年 8月 8日(水)
> No.86[元記事へ]
> 6500万年前、大惑星が南極に衝突し、その時発生した巨大津波は地球の90%以上を覆った。
Big-Game を再開しました^^!。
その時発生した巨大津波は、南半球の三大大陸をすべてカバーしている!!!
> → 北上した津波は、
アンデス山脈とブラジル高地に挟まれたアルゼンチンを駆け抜けます。このような山間をさっとうした津波が駆け抜けるときの特徴として、その入り口近くの表土を削り取り湿地帯にすることがあります。ロサリオあたりや、パラグァイあたりに、それがあることを認めて下さい。そして、マットグロッソ高原の北へ流された扇状の形状にも注意して下さい。この広大で夥しい土量を考えるとき<津波>以外の通常の風雨気象では決して出来はしない。
リオデジャネイロの海岸に「その時の<濁泥流>に周囲を削られた山があります」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%82%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB
そして、ブラジル北部には、下流域に出来る白い砂漠(石英・塩湖)もありました。
https://blog.goo.ne.jp/sekai-kikoh-2007/e/fe727007e3ecbe1a3bde58c49035c646
コメントをお待ちします^^。
南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ!-4
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2018年10月14日(日)
> No.87[元記事へ]
6500万年前、月よりわずかに小さい大惑星が南極に衝突し南極大陸として残った。
その時、発生した巨大津波は地球の90%以上を覆った。
Big-Gameを (myブログより移設^-^!) 再開します^^!。
→ その時、北上した巨大津波は、南半球の三大大陸をすべてカバーしている!!!
<オーストラリア大陸の地形>
ⅰ オーストラリア大陸の南部の海岸線は削り取られ概ね単調なのに対し、大陸の北側の海
岸線が複雑なのは、南からの巨大津波によって形造られたものだ。
大陸の南部は津波によって削り取られ北部の海岸線へ押し流されている。
ⅱ 東部山脈と西部山地に挟まれた大鑚井(さんせい)盆地は、南からの巨大津波によって削
り取られ盆地状(湿地帯)になったものであり、その地下水には多量の塩分(海水)が含ま
れている。(ハの字地形を巨大津波が通り過ぎる形態は南米大陸でも申し上げました)
まさか貴方様は、『そこは、昔は海だった』等とは云わないでしょうね^^?
大讃井盆地の地下水は、巨大津波が残した海水である。
ⅲ 巨大なモナドノックは、その時の大泥流で周囲や頂部を削り取られたものだと断言できる。
カタ ジュタ Kata Tjuta (The Olgas) 別名エヤーズロックとも言う。
それは、南極からの衝撃で噴出した岩体が大泥流によって周囲を削り取られたものだ。
(to My Report)ウルル Uluru(Ayers Rock 863m)
ⅳ オーストラリア大陸は5大陸中で最も低いモナドノック状態。その全域は、南からの巨大
津波によって削り取られ、グレートデバイティング山脈の頂上部をわずかに残すのみか。
オーストラリア大陸は5大陸の中で最も低い。平均高度約340mのモナドノック状態。
ⅴ 大陸の東西に続いている堆積土の鞍部は、この時の津波が造った波状痕だ。
この鞍部の成因は、通常の風雨作用では考えにくく、宇宙人が築いたものだとした学説が
紹介されたことがありました^^!。
ⅵ 大陸の多数の砂漠は津波が成したものだ。
その砂漠で世界最大(60kg?)という自然金が見つかっている~~。
この自然金は大惑星のアンコ(内核の金属部分)が飛びだしたものだとしました。
であるならば、延性の強い金のこと。遠くへは流されず大陸を囲む海嶺の
南斜面にへばり付いているかも^^?。ちなみに、ギュヨー斜面にへばり付いて
いるコバルトリッチクラフト。太平洋海底の大量のマンガン塊、オパール塊、
希土類等も、その時の巨大津波が運んだものと謎解きしています。(拙報告書)
この赤道付近に大量のMn塊や、SiO2塊は、ずいぶん悩みましたねえ^^!。
「なぜ北太平洋の突き当り部まで流されなかったか」と、この答は意外と簡単でした。
地球はまるく、川幅でいえば赤道部分は最大幅となり、津波の流れが弱くなる川下の
様相を示していた。しかし、まあるい形のアンモナイトなんかは、よく転がるので
ベーリング海付近まで流されています。 太平洋を取り巻く海や北極海の海底がその時
の津波で運ばれた堆積土で浅くなっていることも注視して下さい。
別段ながら、
ソ連は、その時流された海生物達が石油となって埋蔵しているアラスカを、米国に
知らずに売ってしまった。米国ではその時高値で買ったと非難されたが後で大儲け^^。
ちなみに、海生物成因の石油は、陸生物土成因の石油に対して質が良いんだよねえ。
ⅶ タスマニア島の南部は削られて北へ流されている。
<Others>
海に沈んだギュヨー(平頂海山)と、大陸棚
これ等は一時期、陸上か浅海であったとされています。素人のおおよそ計算ですが、南極海の水深を約3700mとして南極大陸の面積が押しのけた海水量を全海洋面積で割ったら170mほどの答えになったかな? その数字の正誤は別として考え方は当たっていると思いますよ^^。拙:報告書より、
その他、植物相や進化の異なり等、筆者の知りえないことがたくさんあると思いますよ。
<ニュージーランド>
ⅰ ニュージーランドの全島は、津波で削られた巨大なモナドノックだ。
ⅱ ニュージーランド島から北へ流れ出している5筋の海底の筋痕は、その時の津波の速さと
威力を物語っている。
<ニューギニア島>
ⅰ ニューギニア島の南部平野は、この時の堆積土だと断言できる。
ⅱ こんな所は流された魚類や恐竜が石油化したものがあるんだよね♪ → to My Report
<巨大な渦巻きパンダ海>
オーストラリア大陸を乗り越えた巨大津波と東インド洋から回り込んだ巨大津波は、パンダ海
に直径約○○キロメートルの巨大な左巻きの渦巻き地形を造っている。
バンダ海は津波が造った巨大な渦巻きだ。
<津波の島影に出来る清水域>
流れが障害物に突きあたる時、この場合はオーストラリア大陸ですが、その障害物の岩や島
の後ろに渦巻きが出来ることがある。その流れが速ければ速いほど、その島影は清水域とな
り、元々そこに棲んでいたものは流されないで居つくことがある。インドネシアの海のどこ
やらにはシーラカンスがいましたよね^^。
<津波の島影に運ばれた魚貝類>
セイロン島の地形がその時の巨大津波によって、北に流された形をしていることは以前申し上げましたが、セイロン島とインド半島との間にはかつて陸橋があり石灰土でなっているとか。巨大津波の性質として貝類(石灰)を一ヶ所に積み上げることがあります。フィリピンや、海南島(ハイナン島)北の、大陸奥深くにある桂林の石灰も「その時の巨大津波が運んだものですよ」と言ってもあなた様は信じられないでしょうね。キット^^!。
「信じるという字は、人が言うと書く。人が言うことほどアテならないことはない(笑い)」
その史実に“気付けば”中坊(中学生)でも判るほど簡単なことだ! 史実探偵:平 素人より
以上、皆さんはいくつ見つかりましたか。ほかにも沢山見つけられたのでしょうね。きっと^^、
それとも・・・・~~!、 コメントをお待ちします^^。
南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ!-5
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2018年10月23日(火)
> No.148[元記事へ]
前記事のつづきです。
6500万年前、月よりわずかに小さい大惑星が南極に衝突し南極大陸として残った。
その時、発生した巨大津波は地球の90%以上を覆った。
Big-Game (の一部を myブログより移設^-^!) 再開します^^!。
→ その時、北上した巨大津波は、南半球の三大大陸をすべてカバーしている!!!
<アフリカ大陸の90%以上を覆った巨大津波> part Ⅲ.
The huge tsunami covered up 90% higher than of the African continent.
65 million years ago ! The dinosaur size extinction !
副題 Subtitle: 地球の氷河期痕跡説を覆す!
I overturn a trace theory for a glacial epoch of the earth,
赤道近くまで氷河の痕跡がある?? 子供心は、ヨッポド)その方が信じられない^^。
氷河と津波が造る地形の決定的な違いは、氷河では険しく津波では丸くなることだ…
この記事は前述の巨大津波が造る地形(モナドノック・残丘)に、関連して掲げています。
<地球の90%以上を覆った巨大津波>part Ⅱ. からのつづきです。引き続きのゲーム
感覚で楽しんで頂ければ幸いです。
< Big Game-1.の第Ⅲステージ > 上級編^^ Upper grade
< その巨大津波は地球の90%以上を覆っていた。>
貴方の(好奇心)子ども心をチェックします^^。
I check your curiosity.
私の掲げる“二つの大事変”が、いかに史実であろうとも貴方が首を縦に振らない限り、
それは史実として認定されない。
It is not recognized being to when "large incident" which I advocate will be a historical fact how as a historical fact unless you nod either. At that time, let's meet you once again after becoming !!
<セカンド ステージⅡの オーストラリア大陸> からのつづきです・・・
↓ ↓
Yes,の人(子ども心が残っている人^^) No,の人(子ども心を喪失した人^^!)
貴方は好奇心が残っています 貴方は好奇心を喪失しています
(現状をなんか変?と思う心の人) (現状がいい^^?と思う人)
Curiosity is left to you. You lose curiosity. ↓ ↓
貴方は次のステージへ進むことが出来ます。 私は貴方にこのビッグゲームからリタイヤ
You can advance to the next stage. することをお勧めします(^^!) ↓ I suggest to you to retire from this big game.
Welcome to the Third stage. ^^♪
Ⅲ.<サード ステージ>('12 Jan. 01 )
<アフリカ大陸を南から北へ乗り越えた巨大津波>
The huge tsunami which got over the African Continent from the south to the
north
(質問・Question 3) その痕跡を探して列挙せよ! 2012 Jan. 01
Enumerate the traces
(答え・Answer)
貴方さま>も、探してくださいね!
この第3ステージは、ここに掲げている地図だけでは、その“巨大津波が造った痕跡”は捜しづらいと思いますので、お手持ちに詳細地図がありましたら、どうぞ、そちらもご参照ください。^^!
<年初に (拙論への評価について)思うこと> 2012 Jan.03
上を願えばきりがなし、しょせん多少は我が決めること、我には当千のブログ友あり^^♪。
正月は死出の旅路の一里塚、足跡残ればそれでよし、さて、今年も遊びましょうかぁ(笑)
{ 昭和三十年代の思い出 }
その頃の日本経済の国際的評価は1ドル360円でした。お年玉で千円も貰えば御の字^^♪ さて何買おうか? 甘いものや、おもちゃ漫画雑誌なら普段に買える。当時の少年の欲しかった三種の神器に「天体望遠鏡・顕微鏡・地球儀」が有りました。それを買って貰えるのは一部の子供だけで有り、一般の子が二千円三千円と貯めたお金で買える代物ではない。天体望遠鏡はどうにか懸賞で(弟が^^)手に入れましたが、顕微鏡と地球儀は大人になっても買えずじまいの買わずじまい。映画等の背景小物としての地球儀はカッコいいですよねえ。しかしながら、普段の一般家庭では、どこに置こうかと、その置き場所に困るほど。その地球儀が「世紀を動かす大論」の小道具になろうとは思ってもみませんでした。私・素人は、その解明に(ブログ記事のどこやらに潜ませて有ります。)学童教材用の地球儀を用いましたが、見かねた妻が外国製の中に電気が点くものを買ってくれました(笑い)。
to <Rさん>へ
地球儀の値段は、当時も今も大して変わっていないのですね。それを観ながら宇宙飛行士気分での謎解きも、又、オツなもの^^♪ 今後ともよろしくお願いいたします。
(2012 /1/05/記)
ⅰ アフリカ大陸の南端・喜望峰周辺に多くのモナドノック・残丘がある。
ええ、私はこの形を実験で証明できますよ。満ち潮の前に頂部までが浸らない高さの
砂山を盛り上げておくと波が引いた後にこの地形が出来る。こんな子供だましのよう
な実験では現科学は、おろか貴方さま迄が納得してくれない。アハハのトホホ・・・^^!)
ライオンズヘッド(海抜669m)
ライオンズヘッドは、南極からの大泥流が削った巨大なモナドノックだ !
The Lions head is the huge monadnock which a great mud flow from the
South Pole sharpened. & Table Mountain to. (height; 1087m)
(2012 /1/06/記)
ⅱ ボツワナ盆地は、表土の全てを削ぎ取られ北へ流されている。
(カラハリ砂漠は2~3波以降の津波が成したものだろう。)
I chip all of surface soil and am taken, and the basin of Botswana is carried
away to the north.
(2012 /1/07/記)
ⅲ 巨大津波が盆地の上を通り過ぎるとき、その上流域の半分に土石を運ぶことがある。
※ この地形は、ファーストステージのアマゾン盆地でも見ている。
コンゴー盆地の南部域に津波が運んだその堆積土がある。
There is the sullage which a tsunami carried to the southern level of the
Congo Basin.
(2012 /1/10/記)
ⅳ 巨大津波はチャドを通過し、エミクシ山(3415m)をわずかに残しチベスチを高原状に
造り替えている。
チャドを通過した巨大津波は、チベスチを高原状に造り替えている。
The huge tsunami via Chad converts the Tibesti in the shape of a
plateau.
他方、大西洋を “小溝のごとく”に北上した巨大津波は、ギニア湾岸に突き当たり、陸地奥深く入り込みその表土を削り取って西サハラ砂漠をつくり、タハト山(2918m)をわずかに残して、
アハガルを高原状にした。
ギニア湾から北上した巨大津波は、アハガルを高原に変えた。
The huge tsunami which went north from Gulf of Guinea changed Ahaggar into
the plateau.
(2012 /1/12/記)
ⅴ 巨大津波は、アフリカ大陸のほとんどを覆いつくし、その表土を剥ぎ取り台地状の
サハラ砂漠を造っている。
この巨大な津波を語るとき、わずか2メートルにも満たない人間の感覚を用いてはならない。
<石英の砂粒は、水流によってのみ出来る>のであって、決して風や乾燥気候だけでは
出来はしない。乾燥した土壌は風塵にはなっても大きさが均一な石英砂はつくらない。
巨大津波はアフリカ大陸の殆んどの表土を剥ぎ取った。そしてその土砂は台地状のサハラ砂
漠を造った。
The huge tsunami stripped off most surface soil of the African Continent.
And the earth and sand formed the Sahara of the form of plateau.
私達は、この膨大な砂量の成因を「乾燥によって成した」と教え込まれ “思い込んで”きた。
この問題は卵が先か 鶏が先か と言うほどの難しい問題ではない。
「砂漠が先か?乾燥が先か?」を、 子ども心に還ってもう一度考えてほしい。
Did desert create dry climate? Or did it turn into desert in dry climate?
Please reconsider it once again.
私は小学校の時に習いました。岩石は川で流され、段々小さくなって川下で砂粒に成ると。
もし、貴方が砂粒は、乾燥気候や風や、海流の作用で出来ると思っておられるならばそのメカニズムを私素人に教えてほしい。一度、砂で覆われたら、その下の岩石が砂になり砂量を増してゆく様子が想像出来ない。(^^!)
再度言う。このサハラ砂漠(アフリカ北部砂漠)は、乾燥や風の作用で出来たのではない。
サハラ砂漠は台地状の砂漠であり、この膨大な砂量の『台地状地形』は、通常の河川作用では出来ない。 “台地状”の言葉をキーワードとして前舞台へ忍ばせておきましたが、お気づきになってましたかぁ→“台地状”の砂漠って“なんか変?”だと(^-^)。
通常の河川作用では、台地状の砂漠は出来ない。
By the normal river action, the desert of the form of plateau is not made!.
ええ、私は、この津波が造った台地状・端部と濁流紋の航空写真を見付けました。
<・・信じられなぁ~い !??? 只今、困惑中??? → お先にどうぞ♪>
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-date-201201.html
(2012 /1/15 記)
追記UPがないにも関わりませずの日々のご訪問ありがとう御座います^^。
その写真をUPしようとしているのですがPC素人の私には四苦八苦の難行苦行?
丸一日かけても上手く出来ない。前に出来たことが今出来ない。よく覚えていない。
覚えられない。同じところで同じ失敗を何度もくり返し先へ進めない。おまけに大事な
データまで消してしまう。 あ~~ぁっ、ため息がでちゃう・・・ そんなド素人は、
ホッタラカシテ、お先にどうぞ!
【その写真・地図の閲覧の仕方】
Yahoo!のトップ画面で → 東日本大震災に関する情報 → 放射線情報 → 日本地図 → 縮小する → マウスの左押しで → 西へ数回スクロール → ギリシャ・イタリア辺りへ届いたら → 南のアフリカ大陸へ → そこにはサハラ砂漠を始めとする数々の大砂漠が広がっています。 → 衛星写真・地図の拡大縮小 → 目の錯覚^^? 反転錯視? 思い込み? 順流逆流、等の目を駆使すれば(笑) → アフリカ大陸を覆いつくし、アハガル高原やチベスチ高原に乗り上げ、乗り越した “6500万年前の巨大な濁流痕” が<現科学>を認じる貴方さま>にも見えるかも知れない。
(2011 / 1/18) 三日がかりでやっと載せることが出来たのが次の写真です。(^^!)
この写真は、写真経由なので解像度が悪くなってしまいました。後日に掲載します^^!
その後は、Google Earth で、観ています。ワケワカラン英語を併記しているのは世界への発信です^^!
つづく^^ ~ to be continued ^^.
>
> 以上、皆さんはいくつ見つかりましたか。ほかにも沢山見つけられたのでしょうね。きっと^^、
> それとも・・・・~~!、 コメントをお待ちします^^。
南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ!-6
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2018年10月23日(火)
> No. [元記事へ]
1988/01/11に各所へ第一報を発信して30年をこえました。^^!)
前記事<アフリカ大陸>のつづきです。
6500万年前、月よりわずかに小さい大惑星が南極に衝突し南極大陸として残った。
その時、発生した巨大津波は地球の90%以上を覆った。
myブログのカテゴリーBig-Game の一部より移設して再開します^^!。
→ 赤道越えの巨大津波は、北半球にもその削過痕跡を残していた!!!
<北アメリカ大陸の90%以上を覆った巨大津波> part Ⅳ.
The huge tsunami covered up 90% higher than of the African continent.
65 million years ago ! The dinosaur size extinction !
副題 Subtitle: 地球の氷河期痕跡説を覆す!
I overturn a trace theory for a glacial epoch of the earth,
次のステージは、前のⅠ~Ⅲステージがクリヤーできた方のみにお願いします^^!
Ⅳ.<フォース ステージ> ('12 Feb. 01 )
You Good ! Welcome to the fourth stage. ^^♪
<アメリカ大陸を南から北へ突き抜けた巨大津波>
アメリカ大陸を南から北へ巨大津波が突き抜けた。
A huge tsunami went through the American Continent from the south to the north.
(質問・Question 4) その痕跡を探して列挙せよ! 2012 Feb. 01
Enumerate the traces !
南アメリカ大陸を乗り越え<北アメリカ大陸>へ達した巨大津波は???
Ⅰ~Ⅲステージとの共通点が幾つかあります。先に探しておいて下さいね^^。
あなた様>と、答えが幾つ重なるかが楽しみです・・・^^♪
(答え・Answer)
ⅰ 巨大津波が二つの山間を抜ける時、殺到した泥流が縮流(←前述あり)となってその入り口付近の表土を削り取って凹地にすることがあった。 ロッキー山脈とアパラチア山脈に挟まれたミシシッピー川流域にその湿原地帯がある。同様な成因でアルゼンチンのラプラタ川流域の湿地帯。オーストラリアに大鑚井盆地がありました。
ミシシッピー川流域に巨大津波が削った湿原地帯がある。
The damp plain zone that a tsunami reduced is in the Mississippi basin.
ⅱ 津波の“川岸”と なったグレートプレーンズに、
魚類や恐竜達は、グレートプレーンズに打ち上げられて石油化している。
The fish and dinosaurs are launched in the Great Plains and become oil.
ロッキー山脈の東側のグレートプレーンズ(標高500m~およそ1000m)に、この時の津波によって恐竜達や魚類等が打ち上げられて石油化している。その時をイマジネーションしてみると、津波の第一波はメキシコ湾の魚類達を持って陸上にかけ上がる。そして、そこに棲息している恐竜達や植生をも巻き込む。この強い中央の流れは、その浮遊物を流れの側方へ側方へと持っていく。その浮遊物を運んだ第一波がロッキーの斜面へ駆け上り、駆け下る。それより遅れた数波は表土をウガチながら泥流となってそれ等を覆い隠した。時が経ち地熱で熟成されて恐竜達は石油となった。そして共に運ばれた貝類は石灰岩になっているはずだ。さらに泥粘土に埋まった巨木は珪化木へと変わる。植物の存在量は動物に比べて圧倒的に多いはずなのに、油田に比べて炭田が少ないのが気になる。この広大なミシシッピー流域の植物達はいったいどこへ行ったのであろうか。
【 Top - secret 】
グレートプレーンズの油田は、その多くが汲み上げられ、その数はガス田を除いても20を(中学生地図)超しているようだが、まだ拾い残しはあると思われる。そして、アパラチア山脈側も探せば油田はまだある。それを予測するのは大して難しいことではない^^。キーワードは「谷奥で盆地状」になった所^^♪。 あなた様も、どうぞ探してみれば一攫千金^^?・・・笑い♪
ⅲ 北米のニューハンプシャー州に、モナドノック(残丘)の付名の由来となった所がある。
北米にも、巨大津波が削った巨大岩塊の露表がある。
The bare face of the huge rock lump which a huge tsunami sharpened in a circle is in the North America.
イマイチ、この残丘が素人のいう6500万年前の津波が成したものかどうかの確定が出来ていませんので保留しておきます。その他にもこの時の津波が作ったと思われる“巨大岩塊が露表した場所”があるようですが、この方の捜索は、北米の観光地をよく知る貴方さま>のほうが適任かと思いますので、これも保留にしておきます^^!。
ⅳ 北米大陸の東海岸沿いに、途切れ々れ、ではあるが津波の戻り水が運んだ“防波堤状の長州”がある。
米国の東海岸沿いに津波の戻り水が運んだ防波堤状の長州がある。
There is breakwater-shaped State whom the backwater of the tsunami carried along the American East Coast.
北米大陸の東海岸線は、多くの方が、その海岸に立てば見渡す限りの大西洋の大海原が見えるとお思いであろうが、その○○%は、防波堤のような長い州でさえぎられ直接大西洋を見ることは出来ない。通常の海流ではこのような長州は出来ない。その海流が成したのであれば世界中のどこにでもあるはずだ。ではどのようにして、この長い防波堤状の州は、出来たのであろうか。
南大西洋を北上した巨大津波の主流は、南米大陸と北アフリカ大陸とに挟まれ北西に進路をとる。その結果アパラチア山脈にほぼ直角に乗り上げる。続いて2波、3波と上陸しては、濁流となってもと来た方向へ戻す。さらに、遅れて来た数波との押し合いになり、そこに防波堤状の堆積土砂を残した。もし、これが海流で出来たとすれば、この高さ(かなり高い○m^^?)を超える海水の量を考えなければならず、そのほうにヨッポド無理がある。地球創生期(衝突の集積)で出来た水(H2O)の“総量は”、雷様(電気分解)でも大きくは変えられない^^??
(※この水の生成と総量の件は、古代史掲示板で管理人様に色々ご教示を頂いていますので、→)
アパラチア山脈の裾野を覆っている表土は赤色系の粘土質であり、アパラチア山脈の岩石が風化したものではない。それが何故、粘土質に覆われているのかを考えて欲しい。この巨大津波は、その上流域に何があるかで、その運ばれるものは変わってくる。上流域に岩石を含む陸地があれば土石流となるが、大洋であれば、運ばれるのは海水だけであり、せいぜい、その中に棲息する魚介類や海草類だけなのである。
推理小説風に?<※海州>という言葉を前ステージに忍ばせておきましたが^^?
(ギニア湾に面するコートジボワール(国名^^)のアビジャン・Abidjan やブラジル沿岸にも似たような海州がありました。)
このことは、前ステージの<津波が造った滑り台痕>を覚えておられる方ならば、理解してもらえると思うのですが? 今している話は、なにも遠い異国だけの話ではない。(前述→)日本でも似たような成因の地形が造られていますよ。新大阪から京都までの新幹線の北車窓から見える風景で、←地図で確かめたら間違い(北方ではなくて西方)でした。(汗~) その時の濁流が後方の山に突き当たっては流れ戻し、その山裾に細長い丘状の堆積土を残しています。こんど機会があったら確かめて下さいネッ^^。
(My報告書より)
今、貴方が目にしている山肌の露出岩は、旅先で見かけるその風景は、この巨大津波が成したものかも知れない。
この超巨大な大津波は、地球上の90%以上に、その痕跡を残している。
This super huge massive tsunami leaves the trace than 90% on the earth.
ⅴ 南アメリカ大陸の表土を削った巨大津波の濁流はカリブ海や、メキシコ湾で裏ごしされて、微細土の津波となって米大陸へ上陸したが津波の戻り水は<逆流>となって、その土石流をメキシコ湾へ運んでいる。今から二十数年前であっただろうか。米国は、ホモール計画の名のもとにメキシコ湾の深海底を掘ったことがあるが、その○○○メートルの全てが堆積土であった。
メキシコ湾の深海底へ運ばれた土石流
The mud flood which was carried to the deep sea-bed of the Gulf of Mexico
↓ 次ページへ
メキシコ湾の写真を入れます^^!。
※ 尚、この写真は、(C)Yahoo! Japan (C)OPen Bookの(C)マークがあり、著作権者及び権利者の承諾を得たものではありません!! 他への転載は固く禁じられますし、予告なしに削除する場合があります。↓映像が鮮明でないので、前述の方法で、どうぞのご確認を!!
白い楕円部→津波の逆流で生じた海底堆積物 赤い矢印→津波の北上で生じた海底堆積物
<話は少し反れて> (2/17)
深海底で石油産出の謎!?
石油の成因説に無機質起源説と有機質起源説がある。今では、海生プランクトンの沈殿説が優位であるが、無機質論者の反論として、石油の中に生物起源とするには、生物の内に含まれない重金属類が含まれることや、○○○メートルを超える深海底からも石油が産出することは、生物起源では考えにくいことがあげられている。
今、この写真を見てやっとその謎が解けた!
重金属類は巨大隕石の衝突で生じた核破壊による核分散(別紙-電子出版で)だと推測できるが、北海を始め、メキシコ湾岸の深海底で産出する石油の謎が分からなかった。この写真の形状を見てやっとそれが分かった。地球は丸い! 約1日をかけて北極圏へ集まった膨大な海水は、今度は南へ向けて逆流を始める。(別紙報告書、○○頁、地球を覆った巨大津波の図)その津波の戻り水がメキシコ湾の深海部へ土石と共に被災した生物を流し込し込んで、埋め込んだものであると。 ※ 北海油田の成因も同様な作用で北極からの“逆流泥海水”が運んできたものであった!
【Top - Secret】
今ウエブで調べると、ブラジルは、○○メートルを超す深海底での石油の汲み上げ量、世界第二位とか。<別紙報告書>ではアマゾンの未開発の石油はあえて伏せておきましたが、石油流出のリスクを抱えて深海底を掘るよりかはアマゾンのほうが楽だと思いますが。『 アマゾンには膨大な量の石油が眠っている!』 日本でも渥美半島沖でメタンハイドレードの試掘が始まりました。メタンガスって腐泥から発生するんではなかったっけ?(笑) (2012 Feb, 17記)
ⅵ フロリダ半島で、骨に含まれていたリンが鉱石となって多量に産出している。
Phosphorus included in a bone in Florida Peninsula becomes the ore and produces it abundantly.
カルシウムは水に溶けるが、燐は水に溶けない!
Calcium dissolves in water, but phosphorus does not dissolve in water!
墓地・子供の頃の思い出(別紙報告書より)
その頃は今のように火葬ではなく土葬が一般的であった。その墓地の大抵は住家のはずれにあり恐ろしい所。その墓地で夏場の怪談話に決まって出てくるのが「火の玉」の話。暗闇の中、青白い火の玉がフワフワユラユラと。今では、そんなことを信じる子供たちは殆んどいなくなった。それは死亡した人の魂だとか、ウソかホンとか知らないが、「リンの発火点はおよそ60℃で、死者の骨髄に含まれるリンが、夏場の高温で墓石温が上がり発火したもの」等と聞かされていた。ちなみに魚の骨は炭酸カルシウムでカエル等の両生類や人の骨は燐酸カルシウム。フロリダ半島では、大西洋からの巨大津波とアマゾンを突き抜けた大津波と東太平洋を北上した巨大津波が合流し渦巻いている。そして夥しい魚類が、生物が打ち寄せられて、その屍は白骨化し、累々たる山を築き上げた。やがては骨のカルシウム分は溶けて流れ出す。“リンは水に溶けない”ので鉱石となって残った。第三ステージのナイジェリアのメルリール湖の近くでもリン鉱石の産出(中学生地図)がありました。
ⅶ 6,500万年前に南極から北上し、北米大陸の 「西へ」上陸した巨大津波!!
この項目の概略は、拙電子出版「巨大隕石と大津波」で述べています^^。
To be continued ^^♪ つづきます。・・・♪
Scars of the huge tsunami(Africa south end)
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2018年12月22日(土)
Huge tsunami had made giant-scars.
I found a giant-scar of a huge tsunami.
To build this scar is required collision of a large planet Antarctica size.
22 December 2018
Historical fact Detectiver
Hira Moto (pen name)
へへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへ
・・終活・・・(^-^)
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2018年11月13日(火)00時11分2秒
第五章 創作話(あやまち)三題の、第一話 やしの実(侮り) 【絶版:電子出版】より引用^^!、
昔むかしのこと。海辺で遊んでいた子供たちは、一つの大きな実を発見(み)つけた。それは大人の頭ほどもあり、あんずの形に似ていた。表面は土色をしており、とても重い物じゃった。大人たちに見せたが誰も知らないと言う。物知り爺っちゃんに問うことにした。物知り爺っちゃんは、そのまた爺っちゃんから聞いたことだがといって、次のようなことを話した。これと同じような“もの”が、大荒しの後の海岸に幾つも流れ着いたこと。斧で割るほど固かったこと。中身には「ほれ、こんなに大きなものが入っていたんだと」と言って、両手の指先を合わせて球の形を作った。さらに、それを斧で打ち砕くと、白い果肉が入っていて、「口に入れると、サクサクッとして甘かったんだと」。「爺っちゃん!それ植えたの?」と間を入れず聞いた。 「さあて、そこまでは聞かなんだ」 と、爺っちゃんは答えた。大人たちは、これは種では無いと言った。一番大きなあんずの実だって、こんなもんだと言って、片手でその形を作った。子供は自分が発見(み)つけたものは、大きな大きなあんずに違いないと思った。爺っちゃんの話の中の白いサクサクとした甘さが、口の中で広がるような気がした。大人たちが止めるのも聞かず子供は庭鼻にそれを植えた。 冬が来て春が来た。 しかし、芽は出なんだ。こんなに大きな種だもの、きっと何年もかかるに違いない、と子供は思った。だけど、いくら待っても芽は出なんだんだと。そこは、寒いさむい北の国じゃったから。 むかし、こっぽり (^-^)
創作話・三題 「あやまち」 投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 1月10日(木)
(第三話)牛がえる(蔑み)
梅雨入りの頃だったと思います。家の近くに、幅5m、長さ20mほどのコンクリートで囲まれ、上流から流れてくるヘドロを一時ストックする役目の水溜まりがあります。それでも昔は草で囲まれ、子供たちが「池」と呼び、鮒をすくったりした所でもありました。しかし、今は下水溜まりのようです。この脇の駐車場に車を止め、自販機の飲料水を買って車に帰りますと、ブォーッと大きな声かこの足元の池からするのです。見ると、牛蛙が二匹いました。普段は見かけないものですから、珍しさも手伝って、紅茶を片手に上から観ていました。知ってか知らずか、時おり顎腔(がくこう)を膨らませて、あの大きな声で鳴くのです。
ところが、次に信じられない光景を目にしました。スーッと近寄った二匹は、お互いに飛びかかり、水草の土俵で相撲をとりだしたのです。「鳥獣人物戯画」そっくりにやりだしました。最初は縄張り争いの喧嘩かな、と思ったのですが、そうではないようです。
しばらく、もみ合った後、離れ、再び組みついたのですから、遊んでいるのです。何度か飛びかかりますが、お互いのタイミングが合わないと組み合いません。
そのうち、片方は飽きてきたのでしょう。四肢から力を抜き、プカリと動きを止めてしまいました。もう一方は遊び足りないのか、しきりに飛びかかり、相手を押さえ付けるのです。あの吸盤のある可愛い前足で、押さえられた方は、うさん臭げに目を’ぱちくり’。
このユーモラスな光景を、遠い昔の人たちにも観覧(みせ)たのでしょうか。
(終わりに)
私たちは、今まで、蛙を解剖台の上にしか見ない下等な両棲類として扱ってきた。しかし、蛙のこの様子(さま)は遊ぶという高等な知能を持っていたのである。私たちは、これと同じような 'あやまち' を重ねてはいないだろうか。この創作話'あやまち'三題(第一話やしの実.侮り・題二話まな鶴.のけ者(掲載していません)・第三話牛がえる.蔑み)には、そのようなものを潜ませて書いたつもりです。
答えの無い問いかけに答えを出してしまうことに'間違い'が生じる。「答えが無いから未来が続いているのに・・!」
「答の無い問かけ・不条理の空間」
生産性球の半径Rが“1”の球、四つが接触する空間に入る、破壊性小球の直径 d は ?
d =(R×0.π)< である。
『蝶を愛(め)で、蠅を殺(た)たく、己(おのれ)あり』
時折、鏡に自分を写し、己に問いかけ、姿勢を正したいものである。 (絶版書p571より) □
以上、十余年で14冊しか売れなかった^^!、拙:電子出版書(絶版)『巨大隕石と大津波』より引用しました。米国の科学者は、自分達の仕事に遊び心を加えて 「Game」 と称することがあるそうです。さて、今年もこの掲示板の一隅をお借りして、目いっぱい遊ぶことに致しましょうかぁ(笑い)。 このゲームに参加して下さる人を捜しています。
【 提 案 】
筆者のいう痕跡が津波痕か、風紋かは、先様(方)の、ご判断におまかせしますが、
空港の滑走路と、その“波形”の大きさを対比してみて下さい。起伏の大きさが分かります。
この痕跡を津波痕と認められたら、サハラ全域の津波痕も見えてくるはずです。
この痕跡が、素人のいう津波痕だと認めて下さった方に提案があります。
先さま(方)流に、世間に発表して下さったらと思います。
「何故、それを貴方(筆者)がしないのかって?」
今の私には、その能力もエネルギーもありません。もちろん引用は存分になさって
下さってけっこうです。
今の国際的決りは、先発見者から、先発表者に変わっています。早く発表したもの勝ちです^^♪
先に発見したものより、先に発表したものにその栄誉が与えられます。
それは、先駆者をさがすための時間的ロスで、経済的な損失のほうが大きい理由からのようです。
(2018/11/09 am 7:00 日本時間)
当方の掲げたこの写真は、『そのヒントであり、きっかけを与えるものだ』と、ここに宣言します!! 『百聞(百文)は、一見(衛星写真)にしかず』
早いもの勝ちですよっ^^! お金があり、実行力があるお方ならドローン飛ばすかもね(笑い)
その裏付けがない机上論だけでは、それと認められないのが今の世の中です(^-^!)。
それより、何よりこの写真をあなた様自身が津波の痕跡だと認めることが一番むつかしい。□
Huge return tsunami from the North Pole
北極からの巨大なリターン津波
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年1月23日( )
I found traces of a huge return tsunami from the North Pole in North America.
私は北米で北極からの巨大なリターン津波の痕跡を見つけました。
Tip of the tsunami has the shape of a cow's tongue.
その津波の先端は牛の舌状になっています。
And, there is a residual flow. It shows a blue line.
そして、残流があります。それをブルーラインで示しています。
23 January 2019
Historical fact Detectiver
Hira Moto (pen name)
6500万年前南極発から、北極へ集合した巨大津波は、今度は南へ向けて走り出す。その濁流の一端は北アメリカ大陸東部を南下し、メキシコ湾へ恐竜をも巻き込み流れ込んでいる。その沿岸底で恐竜や海生物たちは今に石油となって眠っている。(合掌)
津波後の残流(+)で大陸西部の山岳部から流れ出したブルーラインにも注視したい。 □
6500万年前「巨大津波の滑り台痕」
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 2月 4日(月)
> No.158[元記事へ]
<Basin of tsunami>
「巨大津波の滑り台痕」
津波が“平斜面の正面から”登りその頂上まで達することなく下り降りた時、その裾野に沿って凹地と凸部が出来ることがあります。そのような状態を「津波の滑り台痕」と名付けたことが、以前のアルゼリアの記事でありました。この地形は遊具の滑り台の着地点をみれば一目瞭然です。北米のアパラチアン山脈の東南の裾野は、ほぼそのような平斜面になっています。
アパラチアン山脈の東南の裾野は、赤色粘土で覆われているところがあります。その赤色粘土が6500万年前の津波が運んだものとは断定できませんが。アパラチアン山脈の岩質とは異質のものではと思っています。中学生地図でみると、かなり急な勾配があるかに見えますが、実際には、なだらかな斜面を持っていて、その川筋は南西方向に一方的に流れるのではなく、網目のような複雑な流れ方をしています。これは津波が引いたあと表土を覆っていた粘土質が乾いて、干天の稲田のようにひび割れ、それに沿って川が発達したためかと思っています。
<北米ノースカロライナの沿岸にある「津波の滑り台痕」>
北太西洋に面した北米のノースカロライナとサウスカロライナには、太西洋と直接接していない沿岸があります。防波堤のような長洲が横たわり、その内側は浅海になっています。これを筆者は上記の津波で出来た「津波の滑り台痕」と断じています。
この地形は、<前ステージ>のアフリカのギニア湾岸コートジボアールにもありました。
Google earth の検索で、その2例をかかげます。
Basin of tsunami in North Carolina & Basin of tsunami in Ivory Coast
[232] 妄想・珍論、大歓迎です。
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 3月24日(日)
こんばんわ^^!
ここは、管理人さまが「縄文と、ちょ~古代史」について、特別にもうけて下さった掲示板です。人類の移動は巨大隕石がもたらした「隕石の冬」による気候降下が大いに関係すると推んでいます。特にBC.2001年/12月/24・25日(日付変更線による違い)/未明6:00頃、イースター島の上空から侵入し、ペルーナスカ、ドーバー海峡を経由して、日本の東北釜石辺りに降臨した小天体は、北上山地を越えるほどの巨大津波&巨大地震を生みました。
「彗星衝突による 縄文超々巨大津波・岩淵國人先生」&、my絶版報告書と、myブログ。
「竜は隕石、竜は神!」
人類が、衣食住だけの生活から巨大隕石という自然の驚異を受け、それが、神となって人々の心に入り込んだ時、それは、驚異的、爆発的な力となって、それを語り継ぐ難しい語彙が、困難に打ち勝つ抵抗力が、そして、新しい文化と、集団性が生まれてくる。 my絶版報告書「巨大隕石と大津波」より^^!、
そして、
ちょ~古代^^の 6,500百万年前に、月より僅かに小さい天体が南極に衝突合体し、南極大陸となりました。この時発生した大事変は、人知を遥かに超えています。その時発生した巨大津波で動物たちは石油となり、植物たちは石炭となり、貝類たちは石灰となり、今の人類に供給しています。希土類もそうかな^^。その片よりが人類の紛争を生んできたと知るところです。
百年前も二百年前も、今の世も、事実は人知という科学の先に用意されている。
この二つの巨大隕石は、今の学識にはありませんが、中学生程度の学識で充分です。『気付けばいい』 だけですから、現にこの私くしがそうですから^^。このような極大論は、その没後に認められるが世の常。この二つの妄想・珍論が^^! 史実として認められた時、先様方は 「どんな顔をなさり、何と云わはる」のかを見れないのが残念です。(笑い)
この二つの大事変が、世に伝わらないのは、その史実がなかったからではなく、この素人の論説が拙いからだ。学識のある先様方が、この広報に加われば、それほど強いことは無い!
[232] ・・ 荒れてますね^^?
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 3月24日(日)
キシ先生>・・日本人のルーツさま> こんばんわ^^。・・ 荒れてますね^^? 今、論じられている 「DNA系列」や、「言語系列」 は、わたしにはレベルが高く、難しすぎてさっぱり解りませんが所感をのべます。キシ先生のご記事は、多情報はありがたいのですが、それが、ご自身の文章か、引用なのかを見極めるのに大変時間がかかります。・・で、途中でアキラメます^^!。「どこぞの誰かのお役に・・」と、「私論・古墳は気象台」が成るといいですね^^♪ ・・日本人のルーツさま> はじめまして^^!。 ご記事の端々に膨大な情報と洞察、高い教養がうかがえます。しかしながら、先様のご記事は専門家向けであり、ドがつく私とは、同列で論じ合えない気がいたします。正論をお述べなるのはいいのですが、今の先様は、一番嫌いであったはずの「誹謗中傷」をご自身がなさっているような気がいたします。反論は、なさるべきですが、暴言はひかえるべきです。先様の品位をご自身で落としているようなものです。 次は、私自身への「戒め」の言ですが、
『蝶を愛で、蠅を殺く(たたく)己あり』 (こども心- 蝶も蠅もおなじ昆虫なのに)
十余年で14冊売れた~~!、絶版報告書「巨大隕石と大津波」の序記より、
'わたしが' 大切なように 'あなたが'大切なのだ。それぞれが “わたし” なのだ。私たちは“共存”している。たとえ、それが人類に仇なす細菌であってもだ。細菌も生きるための活動をしている。誰でも、人から尊ばれるのは嬉しい。それは他人が決めることであって、自分が決めることではない。自分がそう思った瞬間から堕落が始まっている。(あなたがわたしが)・・・が、祖先が、種族が、国が、人類が、「他(相手)より、偉い」と思った時から崩壊(崩落)が始まる。(放物線の頂を越えるように^^!)
古事記? 日本書紀でしたか~~? 「あれこれとある帝紀(物事)を選録し、旧辞(現学)を討究し、偽りを削り、実(まこと)を定めて、後の世に伝えたいと欲(おもう)。」 うる覚えでスミマセン~~。今のわたし、最大の難点は根気が30分とつづかず、これだけ書くのに朝になってしまいました~~!。
[232] 頭・頭骨を飾る底流に潜んでいるもの!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 3月24日(日)
こんばんわ^^? BC.2001/12/24・25にイースター島から侵入した巨大隕石は、欧州では空を駆けるサンタクロースになり、東アジアでは竜となりました。大陸人は列島を探検し、人々からその巨大隕石をモンタージュして龍画「竜頭蛇尾^^!」としました。 この時発生した巨大津波は、列島の津々浦々に「津」の地名を遺しています。そして、大陸の良渚文明を一瞬にして呑み込んだり(奥州・岩淵先生)。「天津・竜因」に迄とどいたと祖先は地名で残しています。津波は魚貝類を一ヶ所にまとめて大量に打ち上げます。瀬戸内の貝塚に人骨が埋められていました。「貝塚=残滓」の考えは今でもあるのでしょうか?
「残滓へ誰が埋めるか愛の骨!」 この時、祖先がうけたその被災と驚愕は、ツングースカの比ではありません。列島の祖先は、貝を天竜からの贈り物として貝殻山山頂にも運んでいます。「骨で包んでいる頭骨と、肉を内に収める貝とを巨大隕石の頭と同一視する考え」が、この大事変で生まれたと推んでいます。
「神秘の国、東洋」 なぜ? 東洋だけに「神秘」の冠詞がつくのでしょうか^^? こども心は、それが不思議でなりません。BC.2001の年末に、列島の東北地方に降臨した巨大隕石は、「大事変の根源は東方にあり!」とした大陸人や、欧州人を東方に駆り立てている。なにも全ての流れが西方からとは思いたくないよ(ねえ、山田さん^^)。碧ミドリなす唐草模様やアスペスク模様は、列島発の巨大津波がシルクロードを通じて渡ったと思いたいのが素人探偵です(笑い)。
[248] Re: 頭・頭骨を飾る底流に潜んでいるもの!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 3月30日(土)
縄文人には皆無の地中海ゲノムが1割入っている日本人のルーツさんへのお返事です。
前記事:アスペクス模様ではなくて、<アラベスク模様>でした。訂正してお詫びいたします。アラベスク模様をウィキで今回、調べてみると思っていた枝ツル紋ではありませんでした。これも削除してお詫びいたします。記憶の片隅にアラベスクと唐草紋の共通性をいう説があつたように思っていましたから。
> 西の大地湾文化と東の仰韶文化、どちらが先かは、まだ分かりません。
> 個人的には大地湾文化であって欲しいですけど。
上記、ふたつの文化は、はじめて聞く文化であり、不勉強ですみません^^!。「BC.3,000年前の気温降下」は、管理人さまも指摘されていました。当方の報告している「隕石の冬」は、6,500万年前とBC.2,001年前のものだけですが、人類が移動を余儀なくされる程の気温降下は「隕石の冬」が関係していると推んでいますから、きっと他にもあるのでしょう。
「隕石の冬」による気温降下の特徴は、“鋸歯状” を呈することにあります。
衝突小天体の大きさや落下地が海か陸か、南北半球や緯度等によっての違いはありますが、基本的には、1~2年のうちに急激な、10℃に近い気温降下がなければ人々は移動しないとみています。ゆっくりと変わっていったのでは、それに対応しますからね。この「1~2年のうちに10℃に近い降下で “生態系が変わる” 食物不足が発生した」の考えは、今の学説にはないようです?。ゲルマン民族の大移動や、アジア大陸北方民族の南下は「隕石の冬」が原因ではないでしょうか。
[251] <巨大隕石が人類史に与えた影響>
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 4月11日(木)
紀元前3,000前の天体の“衝突地”を捜そう!
> 気候大変動、大災害多発で滅びたか、気候大変動の中での権力闘争でO-M117のうちO-M133部族だけ残ったか。(・・日本人のルーツさま) >大災害と種族の生存の関連情報、とても興味深いです!(管理人さま)
「隕石の冬」をおこすほどの巨大隕石が (7・8千年前迄の^^?)近人類史に与えた影響は、今の学識では、ほとんど語られていないような気がします。筆者の言うのは、それがΦ10・20kmサイズですから「Φ1kmサイズで人類は生き残っていない」とする現学の風潮からは大きく外れます。
筆者の考えは、その被災は限定的であり、「直近を外れたところでは生存者あり!」とすることにあります。地球規模でみれば周囲40,000kmの池に、わずかΦ10・20kmサイズのツブテが落ちようがサザ波にも見えない^^!。対比で40,000 : 20 ですから、100mのグランドに Φ5cm のツブテですから端々にいる蟻ん子さんが全滅するとは、とても思えない(笑い)。それより、なにより怖いのは、その後にくる隕石の冬だ!!
その舞い上がった粉塵は、その衝突天体の大きさや、落下地が海か陸か、緯度にもよりますが、『その粉塵は1・2年のうちに半球を覆い10℃ちかく、或いはそれ以上の平均気温の降下』 があったと申し上げました。この “急激な”気温変動 がなければ人々は移動しない。直接の被災はもとより、食料を求めての南下や、生態系に影響の少ないと思われる海浜漁へと向かうのは言をまちません。この大量の民族移動やその南下は、テリトリー紛争を生む原因となったのは歴史の知るところです。しかしながら、狩猟を糧とする人たちは、気温降下に即応する植物と違い、食料を生きたままで保存できる強みもあり、その対抗力は強かったでしょうね。
その驚愕と被災が神となって人々の心に入り込んだ時「神」が誕生し宗教も生まれた!
その被災は比較的広範囲であり、人々は共通した被災認識を持っていますから、予言予知能力の秀でたものが「私は、その神の代行者」とか、「神の付託を語るもの」が出たとき、人々は容易にその人のいうことを受け入れます。それが皇帝になったり、スーパー爺さんで^^あったり、卑弥呼だったのではないでしょうか。 スーパー爺さんは、隕石の頭=男根とした性儀式の延長かな^^? その性儀式を日本では「石棒」、中米ではチェチェンイッツァの「赤い家や尼僧院」か (my報告書)としました。
巨大隕石は、神となり強い「精神的核」となって大集団へと移行した。
狩猟採集栽培を営み 婚姻 を主とした石器時代では “集結力が弱く” 小集団にはなり得ても、その小集団を統合した「国」という大集団にはなり得ない。その場合、「神の代行人」と、「神の神託」を聞くの二通りがあると申し上げました。前者は欧州や中国大陸文化を形成し、後者はその都度、神の神託を聞く、列島文化へと進んでいったと推んでいます。前者は序列した席次をつくり、後者は魏志倭人伝でもあったように「人々席次をつくらず座する」特徴があります。このことは、強く組織立つ国へと移行するか、雨乞い等でその都度集合して郷・こおりとなるかの違いがあります。
「国」の言葉は、中国が「邪馬台国」と呼んだ卑弥呼より以後であり、それまでの列島には「国」の考えはなく、「雨乞い」等で集結したゆるい小集団「郷・こおり」であったと思います。その祀り事と祭り事と政事(まつりごと)等の関連は先様におまかせします~~!
「租税」と「寄進・供出」
もう一つの違いは、社会を形成するための労力を、前者は「租税」として集め、後者は「寄進・供出」を旨とする社会です。組織立ち、テリトリー戦争で敗者を隷属させる前者のほうが遥かに強大な国家へと発展したとは知るところです。一方、列島のほうは後者であり、政教分離がなされた神話「国譲り」以後の、現在でも神様とお寺さんへの収財方法は残っていますよね(^-^)。
この掲示板で素人のわたしが強く言いたいことがあります。
「地球は隕石の集合・集積体であり、その大小をとわず、つねに、その歴史は刻まれてきた」しかしながら、生物は、人類は、その都度しぶとく生き残っている現実がある。紀元前3,000前の天体 “衝突地” を捜しませんか^^!
[253] Re:中東の隕石落下ルート
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 4月14日(日)
管理人さまへのお返事です。
お早うございます^^。 巨大天体衝突へのご考察ありがとうございます。
そのなかで人類史(3,000年前後)においての天体衝突による被災と、その移動について考えています。
中東の黒海、カスピ海。タリム盆地、バルハシ湖等を衝突地と考えておられるのですね。昨年の支笏湖でしたか^^?。その衝突地形が半月型になるとのお考えには新鮮さを覚えました。この度の黒海、カスピ、タリム、バルハシ湖等も図のようなお考えなのですね。今までそのような見方をしたことがなかったので、これも新鮮さを覚えます。これらが母天体の周回で一度期に落ちたものか、その周回の度に分かれて落ちたものかは気になるところです。
わたしの考えは、その衝突規模の大きさから人類史以前の地球肥大化時での衝突ではと感じています。参考のためにmy報告書から「地球肥大化の模式図」を載せておきます。民族が移動した三千年前の衝突では、もう少し小さかったのではと思っていますから、それに該当するものは無いでしょうか~~!。
わたしは、直径が10・20kmサイズの天体衝突でも生物や人類は生き残ったと考えています。例えば、その衝突による爆風が速いとき物陰に隠れていれば渦巻きが発生し、その囲まれた空気によって助かる場合があります。広島の爆心1・2kmや、九州火山爆風で車の影、台所レンジ爆発で壁も飛ぶほどの威力なのにレンジの高さが影になって助かったことがあります。素人のぶっ飛び論では、マダガスカル島の影のコモロ海域、インドネシアのシーラカンスも島影で巨大津波から生き延びたとしました~~!。
岩手県に「遠野」という地名があります。私が釜石鉱山体を衝突隕石だとしているのは以前に述べていますが、これに接した西隣が遠野市です。この「遠野」とはどこの誰が付名したのでしょうか? ここに近すぎても、ここに関係ないような遠くの人達にあっても、この地名は付きません。おそらく北上あたりか、それとも仙台あたりかも知れません。北上にすれば40km。仙台にしても100kmほどしか離れていません。衝突地の直径が20kmもあるのにですよ。
岩手県に「物見山」という地名があります。「被災のモトはどこか??」 一時的な災害が落ち着けば、その地が「どこか?」と捜したいのが人の常。物見山に登ってかなたの「岩の手方面釜石」を眺めたのでしょうね。キット^^! ちなみに物見山は2ヶ所あります。さらに、宮城県境だったかな? その "衝突熱" がいつまでも冷めやらぬ「霧立山」があります。そして、焼けつくした「黒森山 2ヶ所」。立ち枯れして「白髪山」。これは後の "白髭山信仰" へと変わってゆくのは先様方の知るところです。
ことの大小を問わず、中東や中央アジアでも、このような関係地名を捜していけば、三千年まえの民族移動をおこすほどの「人類史に関係した衝突地」が絞り込めるかも知れません。それを学識のある先様方にお願いしたいと思います。
遠野市には河童伝説があります。カッパの頭はミルキークラウンの形をしています。これは巨大隕石が水地や陸地に衝突した時にできる「跳ね上げ形」を模しているとしました。今、ここで論じられているトンガリ帽子や王冠も、空どぶ巨大隕石形や、落下の瞬間の形と思っています。それよりなにより、驚くべきは「それを見た人」が生き延びていたということです。その辺りには鉄鉱山が少なくて金や銅鉱もあるのですか。これにも興味がわきますね。
近人類史(約1万年前~)において大被災を与えた巨大隕石について、
ここで現学識と、わたし素人との考えかたの違いを明らかにしておきたいと思います。 この投稿は管理人さまと被っているようです(汗~^^!)。
<人類が滅亡する巨大隕石のサイズは?>
現学識の趨勢は直径1kmサイズで人類は滅亡」ですが、これには納得できません。筆者は、10・20kmサイズでも生き残っていると前述しました。
巨大隕石は核爆弾とよく比定されますが、そのすべてが核物質ならその考えは正しい。しかし現実には岩石部分がほとんどである。確かに衝突の接触部分では核破壊や連鎖もおきるが、それは限定的である。そして、地球に衝突する巨大隕石の多くは彗星軌道をとっており、大きければ大きいほどその芯は冷え切っていて、太陽近接時には移行スピードが速くなり、大気擦過においても表層のみの温度上昇となる。「彗星は汚れた水玉」の考えが定着しつつあります。太陽に近行する以前の衝突なら別ですが、その状態で太陽を周回し地表にたどりつくまでには、その水分は蒸発してしまう。現にツングースカ等は空中爆発と考えられているようですが、この場合は衝突粉塵のまいあげが極小なので「隕石の冬」へは移行しない。
<気候の大変動と、隕石の冬ついて>
「気候の大変動で人類の移動」とは聞くが、その気候の大変動が何によっておきたのか? その期間・時間的長さはどのくらいなのか? については諸論があるようですが、ここでいう近人類史において、それを巨大隕石10・20kmサイズに、からめていう学者はまったくいない(笑い)。人類の移動をおこすについて、大隕石の被災地についてはもとよりであるが、それより何よりの影響は「隕石の冬」による急激な気温降下である。皆既日食による気温降下だけでも数度?℃は下がる。別紙・縄文の巨大隕石による気温降下は15・16℃で、海水位の海退は5・6mだとしまた。舞い上がった粉塵は1・2年のうちに半球を覆う。人々1・2年のうちの冷害なら何とか持ちこたえようが、3年もすれば暖地や食料を求めて移動する。これは他の縄張りへの侵入であるから紛争の始まりになるとは歴史のしるところです。氷河期の仔細は管理人さまが「古代史掲示板」のほうで述べられました。ですが、近人類史をおおきく見ても2万年前からの巨大隕石絡みの気温降下については未解決です。
<地球温暖化について> インドネシアあたりだったかな^^? なんとか火山の粉塵での気温降下は0.2℃??かとしたことがありました。巨大隕石で舞い上がった粉塵は一時的には雨水の核となって落ちます。しかし、成層圏まで舞い上がった微小の粉塵が降下するには長い時間がかかります。今は炭酸ガスによる温暖化が大きく論じられていますが、私は巨大隕石で舞い上げた粉塵が大きく関係すると推ています。それをわたし素人は『舞い上がった粉塵は濁水が沈殿して清水になるように』と表現しています。問題は急激な気温降下が1・2年のうちに起こることです。それから、徐々に温暖化へと向かいます。粉塵の舞い上げ量の夥多によって氷河紀への差がでるのは言をまちませんし、その衝突の間隔の長短は何時、該当する巨大天体が落ちたかによっても決まります。わたしは氷河期の図表が鋸歯状に落ちたのを見たことがありません^^!。
<海進と海退について> 海進と海退は地球の温暖化と寒冷化で、主には南極大陸やグリーンランド等の陸部の氷結の増減によって決まる。別紙「報告書」で南極大陸を大隕石として、その面積と海洋の平均深度の3,700mを掛け合わせ、それを増位分として現海洋面積の上にのせたら170m近くになったかな~~!(この計算アテになりません)。諸々の計算を積み重ねれば大陸棚の200mは、それによって水没したのでしょうと結んだことがあった。はっきりとした記憶ではありませんが、出雲の日御碕で水没している海底遺跡・水深30m余でも同様の計算をしたことがありました。水深30m余を氷化して全陸地へ等分に積み上げたとすると約80m高さとなりました。(→カテゴリー出雲地方、この計算もアテになりませんので意だけをくんで下さい)。これでは植物は育ちませんから、陸上生物も・・・、 これは、ドがつく素人の考えですが、30m余の水深でさえこれですから、文献でみる100m<あるいは、それ以上の海退は納得できません。「では、H2Oの増減はあるのか??」と、古代史版のほうで管理人さまに「水の誕生」について、詳しくのご教示を頂きましたが、その件については、未だにモヤモヤとした気持ちでいます・・・~~!。
<大洪水と巨大津波について> 6,500万年前の南極発の巨大津波の痕跡については、只今北米大陸シリーズの東部で止まっています。北米大陸東部で五大湖へ流れ入る地形をした湖3~4個所の湖は、南極から北上した津波が成したのではないかと? 、推んではいるのですが、理由付けが全く出来ない大スランプに陥っています~~!。
巨大隕石が海洋やその近くの陸地に落下した時は、必ずそれに見合うだけの巨大津波が発生します。ここでいう巨大隕石のサイズは直径が10・20kmですから、そっと落としただけでも1,000mや、2,000m高の津波は発生します。これが造る波状痕は前シリーズで述べています。信じられないことですが、6,500万年前の波状痕を砂漠地帯では克明に残していました。しかしながら、植生に覆われていたり、人為的な造形があるととても推みづらく、これが謎解きを妨げる主因です。
今では、海洋国日本のTUNAMIは、国際用語として通用します。しかしながら、列島の津々浦々に、4,000年前の津波があったとの伝言を地名として遺しているのに、それが皆さんに伝わりません。海洋国の日本でさえ、このような状態ですから、大陸内部まで遡上した巨大津波を欧州諸国の人達が「大洪水」だと表現するのは無理のないことです。大洪水と巨大津波は全く違います。 洪水は陸から海へ、巨大津波は海から陸へと遡上するのは申すまでもありません。欧州に残る神話や伝説の「大洪水」をその言葉のまま受け取ってはならない!! 「大洪水」=「巨大津波」なのだ。その巨大津波は、巨大隕石に起因している。 □
反論^^、修正をお待ちします。 史実探偵: 平 素人
[257] Re: 世界各地のクレーター状地形
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 4月29日(月)
管理人さまへのお返事です。
> 平さん、こんばんは。ここ数日、古代史板でも、隕石落下の件について指摘してきたのですが、お門違いな気がするので、こちらに続きを書き込ませていただくことにしました。
管理人さま> コメントありがとう御座います。この掲示板に『超』をつけて下さっていることに大感謝しています^^。
6,500万年前の恐竜大絶滅については、バークレー校のアルバレス博士父子が、巨大隕石説をとなえてから、大きくそちらへ傾きました。それ以前にも多くの論説があったようです。わたし素人は、その一部を除きそれ等の全ての論説を含有するには?? を考えた結果が、絶版報告書 『南極大陸は巨大隕石』 でした。最新論は、山田さまもおっしゃっていた「チクシュルーブ・クレーター説」ですよね・・・。
この論の最大の弱点は、その時発生したであろう巨大津波についての詳しくが語られていないことにあります。巨大天体が衝突して発生する津波は、地勢(高さと地形)や緯度によって実にさまざまな様相を示します。動画のように、おしなべてと云うわけにはまいりません。
今、私が掲示している「地球の90%以上を覆う巨大津波シリーズ」ですが、北米東部のオンタリオ湖の南東に在る<キャナンデイクア湖、セネガ湖、カューガ湖、オワス湖、スカニースルズ湖> の条痕を“巨大津波が山越えした時にできた条痕か?” と、推んではいるもののGoogleEarthではダム湖や造畑地に阻まれてまったくウラがとれません~~!。等高線図でもあればいいのですがGoogleEarthでそれを作図するにはあまりにも煩雑で、今は、それをあきらめています~~!。
> それで図2は、ここ古代史板でも作成を進めてきた世界各地のクレーター状地形ですが、・・・
先様の「衝突惑星・多角形論」に、白眉を感じているとは以前にも申し上げましたが、もっとすすめてまとめ上げてくださるべきだと感じています^^♪。(スミマセーン~~!第7号にありました。)
<(先様の)第2図に関連してですが、>
「古代史掲示板」のほうで揚げたかどうか不確かなのですが・・、当方の絶版報告書から「惑星肥大化の模式図」をあげておきます。先さまの<巨大な衝突痕が赤道に並行している>は、はからずも当方の「トーナメント・惑星肥大化図」と、太陽系作成の過程で「各惑星は衝突合体を重ねながら黄道に沈殿してゆく論」と、あわせれば大きいものほど新しいことになります。(もちろん例外はあります)。
<キシ先生のご記事>の精読は出来ていなかったのですが、それの関連地域に「1万2,900年前の痕跡」があるとか・・・^^。
拙トーナメント肥大化論は、自分で掲げておきながら「地球史46億年」の学説を再考しなければならない恐ろしいことでもあり、自分でも信じられないことと、30年前から封印してきました・・・・、「何とか機構」説もあったのですね^^!
尚、この絶版報告書よりの掲載2図は、('19/4/30~)
先様方がどのように引用・掲載されても異議は有りません。 □ 史実探偵: 平 素人
[265] チクシュルーブ・クレーターは南極大陸が大隕石のデブリだ!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 5月 6日(月)02時00分
今晩は、管理人さま情報のユカタンの“チクシュルーブ衝突体”について考えています。
wikiに、ここの重力異常図があります。
USGS - http://soundwaves.usgs.gov/2003/05/meetings.html
この下半分に注目してください。下方(南)から上方へ火炎が吹いたような形にみえませんか? 筆者は、これと同じような地形をニュージーランドの北方海域で観ています。それを前掲した<ゲーム・オーストラリア部>で、「ニュージーランドを削ぎとった巨大津波の濁石流の痕だ!!」としていました。 https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs/148 <ニュージーランド>
わたしは、南極大陸が巨大隕石ならば、必ずその飛散弾はあるはずだと!! 思っていましたが、なかなか発見けられずにいました。チクシュルーブ衝突体は、その時の デブリ(分弾)です。衝突半円形の海上部も北方へ流されているように見えますが・・・^^?
関係図面をあとで載せます^^!
[267] Re: チクシュルーブ・クレーターは南極大陸大隕石のデブリだ!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 5月 9日(木)
管理人さまへのお返事です。
ユカタン半島の重力異常図 & k-Pg境界>の 掲載ありがとう御座いました。
この図の掲載が出来なくて苦慮していました・・・^^!
> ただ、そのクレーターの円形は、逆に北側が開いてますから、北から衝突したようにもみえなくもない感じです。
> もう少し、これの大きな画像があるといいんですけどね。複数のクレーターが重なっている可能性も感じます。
> それが南の炎のような模様を浮き出させているのかもしれませんね。
そうですね<シモ・インパクト^^>の可能性も否定は出来ませんが、私は中心の円形部からも“北側に揺らいで”でている条痕にも注目しています。さらに、この図全体的にも「揺らぎ条痕跡」を観ると出来ますから、その津波の勢いは相当強かったのでしょうね。
> またご指摘の津波の痕跡ですが、メキシコ湾への衝突に際して、ご指摘のようにアメリカ大陸側へと津波が流れていき、平野を浸食した可能性はありそうですね!
そうです。このユカタンを衝撃の中心とみて300m高の津波であれば、今、論じている北米平野部の津波痕跡や、「前・シリーズ」のアフリカ大陸北部の津波痕跡は説明できます。しかしながら、それと認めると、南アメリカ大陸で論じたブラジル高原にあった北方への流紋痕や、南アフリカにあった北方への条痕も説明できなくなります。
> あとは、津波がどのくらい、陸地を削り取れるか・・土砂を運べるかの問題もありますね。
この問題は簡単です。今、わたし達がみている「雨上がりのグランド」で、その条痕を発見ければいいだけですから・・^^。ただ、それを<その相似形>と認めるか、認めることが出来ないかだけの問題です・・・、
> ジャイアントインパクトクラスの衝突ならば、津浪ももはや爆風まじえた火砕流のようになっているでしょうから、溶岩のように融けた物体として表面に残っていることも予想されます。
> k-Pg境界の土層をさらに調べる必要がありそうですね!
ジャイアントインパクトで噴出したデカン高原溶岩があります。まえに地球周囲4万km対比20kmサイズの天体衝突のはなしをしましたが、その小規模^^!の衝撃力で2000m厚さのデカンの溶岩が噴出するでしょうか・・??。 そして、6500万年からのアイスランド全域溶岩の話し(絶版報告書)もあります。さらに、北極海のアルファー海嶺の話しを南極大陸が衝突したときの対蹠地だと(myブログ)で揚げましたが、この岩石年代も6500万年をあらため→6600前でしょうね。キット^^。
k-Pg境界>の異変をふくめ、今までにあった(一部を除く^^!)<全ての大絶滅論を包有すれば>わたしが唱える『南極大陸は大隕石と、その時の巨大津波論』となる!!!
なにしろ、世界トップクラス40人~100人の学者×歴史 : 中坊程度のド素人 ですから一筋縄ではいかない。・・・で、一番わかりやすい<地球の90%以上を覆う津波痕跡>を貴家掲示板に遺そうと^^!思っています。この掲示板に管理人さまの苦肉策、人知を超えた『超』を付けて下さったことに、とても感謝しています・・・。関係図面を後でのせます^^!
[269] Re: チクシュルーブ・クレーターは南極大陸大隕石のデブリだ!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 5月11日(土)
No.268[元記事へ]
管理人さまへのお返事です。コメントありがとう御座います^^。
> 確かに、メキシコ湾のユカタン半島以外にも、隕石落下があったと思いますし、ご指摘の南極方面にもあったかもしれませんね。
> 複数の場合は、それらの時間差と津浪の波の干渉をシュミレーションしないといけませんね・・・。
わたしは、この件をつぎのようにシュミレーションしています。
先ずは、南極大陸=衝突天体が地球にぶつかり合体する。その破片(デブリ)がチクシュルーブに飛んだ。約10~12時間後に、この地においての(緯度によって異なりますが)300m級の巨大津波がとどいた。先の重力異常図は、そのようにみえます。この図の白の点域が(セノーテ・天然の泉の分布?)気になっています・・・、
> ・・・、仮に南極がクレーター由来であるならば、以前から指摘してきたように、衝突時の衝撃波が多角形になるはずですから、結果として同心円の中に多角形が内包されるような構造となるでしょう。・・・、
> それで図3は、南極大陸の解析図ですが、こうみると、図のように6方向に凹凸が綺麗に別れていることがわかりますから、やはり、クレーター由来の大陸である可能性がみえてきますね。
南極大陸が衝突多角形の一部分・・>とても、斬新な見方ですね^^。そのような見方をしたことが有りませんでした。メキシコ湾といい、日本海までもが多角形・・・。半月形と多角形衝突痕<シモ^^インパクト>炸裂の感がいたします^-^♪。ところで、メキシコ湾と北海道の内浦湾は大変よく似ていますね。内浦湾内には鉄鉱石があります。それでも噴火湾^^???
わたしは、内浦湾あたりと、メキシコ湾あたりと、イタリアあたりを「隕石銀座」とよんでいます^^!
> ・・・、今回は特にユカタン半島、五大湖、カナダ方面のクレーター状(多角形)地形の中心を青ラインで結んでみました。
> この落下ルートだと、南極方向へ向かった可能性もみえてきますね。
> ただ、問題は、なぜ地球の地軸ピッタリの南極へと落下したかについてでしょう。多少極からズレたところに落下してもおかしくないはずです。
> そこで考えうることは、その落下地点が軸になったということ、その落下により、つまり23・4度地軸が傾いたとの見方です。
地軸の傾き>に言及してくださる人が、ついにでたか!!の感がいたします。わたしは、白亜紀末の前後で裸子植物から被子植物優位に変わったのは、南極に大陸規模の天体が衝突したから地軸が傾いて無季節から有季節へと変わったからだ(絶版報告書)としています。
極への衝突は、赤道部への衝突に比べて小さい力で地軸は傾きます。その“衝突方向も”合わせて数理に強い専門家の出現を待っていました^^!。
> なぜそうなるのかですが、たとえば、現在の南極の位置に隕石が落下してそこからマグマが吹き出し、南極大陸が生じることで、その部分が変形・密度変化してしまい、そのことのよって、徐々に軸が近づく結果となったとするのはどうでしょう?
> 仮に南極大陸が、隕石落下の刺激によるマグマ噴火によって形成された大陸であったとすると、カルデラのような吹き出し痕が土壌にみえてきそうですね。ただ雪の下になっているので確認は難しいかもしれませんが、地中レーダーの探索などでみつかってくると面白いことになりそうです!
わたしは、南極大陸のクラゲの頭部分は、天体が衝突し片麻岩化して地表に残り、クラゲの触手部分は、既成の陸地と衝突して破砕したかと?(絶版報告書で)していますが、確たる論証はありません。南極横断山脈がその境目あたりですが、今後の詰めが必要かと思います・・・^^!。
[272] 終活中のヤケボックイ^^!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 5月24日(金)
管理人さまへのお返事です。
myブログカテゴリー「報告書・吉備地方」とどきましたか^^! 早速のお返事ありがとう御座います(深礼)。
> ひとつアドバイスさせていただくと、博物館や新聞社に自説をお送りするときは、おそらくはA4ページ1~2枚くらいで絵入りで送られたほうがよいでしょう・・・。長いと後回しにされたまま、どこかに埋もれる可能性がありそうです(汗)
ありがとう御座います。全く、そうですね^^! 書いている時は、それなりに高揚していても、後から読み返すと長駄文だらだらで嫌気がさして、自分でさえも“お蔵入り”していたものですから、多事多忙の先さまならなおさらです。
ある人曰く『あんたにゃわるいが、卑弥呼がどうなろうと、今のワシにゃ~関係ねえ』義兄曰く『あんたにゃわるいが、現学をとる』と、12年ほど前の世間話しから始まりました。多事ある世の中で「卑弥呼云々」に興味をもつ人の割合は微小です。人それぞれ、それよりも面白いことはいっぱいあるのでしょうね。
でも、<共通の文化には、共通の事象あり!>として、吉備でも、出雲と同じような関係場所に大量の銅鐸(予測数23個?)と、銅剣(予測数200余本?)が「埋封」←筆者の造語です。されていたら面白いことになるでしょうね。これは100%であり、1%の欠損もありません。http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-date-201605.html
「三都(出雲・吉備・大和)と卑弥呼」の進歩ジウムを知り得たのもなにかの“ご縁”とおもいお送りしました。どうぞ御机下に^^! いまの私は、終活中のヤケボックイ(^^)。じぶん主導で動くには、そのエネルギーが足りません(汗~)。
[276] 学校の門柱には「冬至の旭光が入光する考え」が潜在していた!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 6月 1日(土)
管理人さまへのお返事です。
> 平さん、こんばんは!さっそくお返事ありがとうございます。まだいただいた報告書のほうは、バタバタしており読み始めてませんが、また機会をみて拝見させていただきます(汗)
管理人さまは多事多忙でお疲れのごようす^^!。 送りました「拙:報告書」のほう、どうぞ御気になさらないで下さい。わたしの中でも"お蔵入り"していたモノですから^^!、御机下に保存して下さるだけで充分です。この件は、論ではなく行動の域にあり、それには逮捕権のある専門家(検察・警察)の「参加と、お墨付き」が無ければ一歩だに進めないと、今はあきらめています。特に<吉備の大量の銅鐸(予測数23個)の埋封場所を記した極秘3頁分>は、コピーを防ぐためのプレミア用として作成しています。それは当方の没後になるでしょうから、その時まで置いとくことにしましょうネ・・(笑い)。
わたし素人探偵は、当掲示板で先さまが苦心してつけてくださった『超』の部分でもある “天体の衝突” が、人類史に与えた影響の解明に興味があり、それは、現代社会にも潜在しているとしています。
・・・^^で、
<キシ先生>が揚げられた「トーテンポールの件」について、ヒラメキました^^。
鳥居については、わたしなりの納得があるのですが、門柱については、とくに「神社や学校の門柱」については分かっていませんでした。既知のようにトーテンポールは信仰上のものとされています。高い棒や「幟・のぼり」を一本立てれば、色々な観測ができるとは貴家で論じられてきました。それが「なぜ二本の門柱に移行したのか??」が、私的には分かっていませんでした。
ご存知のように大陸の地形は平たんであり、太陽が今の時期、どの方角からのぼっているのか目印がなくてよく分かりません。そこで棒を一本立てて、その影を観測すれば春夏秋冬は分かってきます。列島の場合は、あの山この山「向山」朝日山と、特徴のある山姿がたくさんあるので事欠きませんが、米大陸、中国大陸、欧州、その他砂漠地等の広大な平たん地では、目印にするものがありません!!。そこで遠くからでも見えるような巨石をたてようかとなるのが無理のない展開^^。実際にそのような遺跡があるのも先学で知るとおりです。
<でも、並べての対二本は要らない??>
そうだ!! そのスリットが大事なのだ!! その隙間から“射し入る陽光”が大切なのだ!! 今から四千年ほど前のBC2001年12月25日未明am6:00ごろ、地球を半周した20kmサイズ(??)の巨大天体が東北地方に降臨し、眼底も焼き尽くすほどの閃光が走ったことは別紙で報告しています(これは後の千光寺信仰へ)。その門柱は冬至の旭光がそのスリットから入光する考えに基づいている。学校の門柱は冬至の旭光が入光するためのスリットであった!!
この形式をくんでいるモノは、その数をいとわない。伊勢の二見ケ浦の夫婦岩がそうだ。出雲の坪背山では、天岩戸の原形が埋もれていると(古代史版で)謎解きした。 但し、地球の歳差運動で、その旭光の位置は72年に1度角、時計回りにズレてくるとキシ先生から教示されている。今を遡れば、その施設遺跡に旭光が射し込んだ年代が推定できる^^。
それが、今から1700年前のヒミコの代になれば面白くなりそう・・・~~♪
[000] 隕石の衝突痕: 環状列石の移り変わり !?
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 6月 1日(土)
http://fatale.blog24.fc2.com/blog-entry-255.html
上の画像・環状木柱列:石川県桜町遺跡は 「今宵もGACKTコスでお散歩~♪」 の隊長さまより特別のご許可を頂いて、お借りしていますのでコピー転用は固く禁じます!!
管理人さまへのお返事です。
>ストーンヘンジなどは、確かにその岩と岩の間のスリット光を利用しているようにもみえますね。夫婦岩などもそうですし、古神道系の磐座信仰とかにもその辺の話はよく聴きます。
>やはり2000年前後のそれを調べるのでしたら、東北・北海道の環状列石の分析は欠かせないように感じますね!
コメントありがとう御座います。・・・お返事おくれての、ご無沙汰をしています^^!。 環状遺跡と冬至(夏至)の旭光の関係は、ストーンヘンジ等でも云われています。 私素人は、巨大天体が衝突したかニアミスかは別として、その驚愕や畏怖が人類にあたえた影響に興味をもっています。
筆者が提唱するBC.2001年12月25日“未明am6:00時頃”地球を半周して東北地方に降臨した天体は、人々の心に「竜神となって」入り込みました。この日時までも解明したことが、かえってその信ぴょう性を欠き、「四千年前の衝突の日時や時分までも解るはずがない」とされています。しかしながら、その時の衝突光は、『冬至の朝の旭光』として今の人達の心にも遺されています。
その眼底までも焼き尽くした閃光は、荒神様の御来光としても崇められてきました。
<その冬至の旭光の歴史の変遷>
ストーン・サークル: 巨大隕石分弾の落下痕か??
↓↑ (歴史的関係の有無??)
環状木柱列: 冬至十夜の旭光を新造銅鐸や、新造銅鏡へ入魂する施設と謎解きしました。
↓
天岩戸: 冬至の旭光が入るスリットだと謎解きしました。
↓
土俵・すもう: 「これより幕の内にはいります^^」
舞台の幕あけや幕引き、こけら落しにも、その形が残っているのかな(笑い)。
英国のストーンヘンジでは、巨大隕石が飛び去った方向、すなわち東北の方向にビーカーの口のような遺設があったり、四角い粗削りの石が斜めに突き立てられていました。そして、フランスのカルナック列石は、その「巨大隕石の廊下だ」と謎解きしています。
東北や北海道の環状列石の方向性を考えたことはありませんが、それらを構築するとき「何処を起点にして、表情の異なるそれぞれの石をどの位置に配置するか」の方向性があるわけで、富山の環状木柱列では東南に入口風の半割の巨木が用いられていました。東北や北海道のストーン・サークルにも、そのような要石が使われているかも知れませんね^^!> 蛇足ながら、富山のウッド・サークルでは、木柱の劣化と歳差運動による日の出位置のズレから少しずつ時計回りにズレていったと記憶しています。この環宮・遷宮は、今でも出雲大社や、伊勢神宮にも“シキタリ”として残されていますね^^。さらに々にの蛇足ですが六角・八角堂やお神輿のうえで雄鶏が日の出を告げることからも、その大事変が “日の出前の未明”であったとの結論にいたりました^^。
<チカモリ遺跡・環状木柱列について>
所在: 石川県金沢市新保本町5丁目33
① 北
⑩ ② ↑
\
⑨ ③
\ 北から番号を振りました
*
⑧ \ ④ /
\ ④と⑤は入り口か?
⑦ ⑤ (/印は、S状の板)
⑥ / \
← 直径約6m → 当時の冬至の朝の光が射し込む方向?
[280] 遮光器土偶は徐福隊兵士と列島荒神文化の合体したものだ!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 6月27日(木)
管理人さま、多々あるなかでのコメントありがとう御座います。
図・文ともwikiより、
>遮光器土偶 (しゃこうきどぐう)は、縄文時代につくられた土偶の一タイプ。一般に「土偶」といえばこの型のものが連想されるほど有名な型である。目にあたる部分がイヌイットやエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器(スノーゴーグル)のような形をしていることからこの名称がつけられた(遮光器を付けた姿の表現ではなく、目の誇張表現と考えられている)□
この遮光器(遮光面)土偶は主に、縄文代の東北地方から出土している。遮光面とは金属溶接時の強い光で眼底が焼けるのを防ぐお面です。日食等を観るときもこの色付きガラスを使います。度々で申しわけありませんが、四千年前の12月25日未明の東北釜石に約10km(??)サイズの巨大隕石が落下しました。1kmサイズの巨大隕石で「人類は滅びる」とされる学説からすれば、その大きさは推してしかるべきです。未明ではありますが、隕石に先行する衝撃波に起こされた人々はこの強い光を目に受けました。この時発生した巨大津波の数波は北上山地を越えるほどのものでしたが、『どっこいオイラは生きている^^』と、その事変を(伝言)地名として遺しています。詳しくはmyカテゴリー<巨大津波>へどうぞ・・^^!
筆者は、このような巨大災害で人々が立ち直るには200年はかかるかとみています。加えて、10℃以上は下がったと思われる半球の寒冷化もあります。でも、不思議なことに被災の規模が大きければ大きいほど、人々はそこへ集まり文明を築く傾向があります。これは人類が衣食住だけの生活から自然の驚異をうけそれが神として人々の心に入り込んだとき、その神が核となり集団性が生まれるからだと以前も申し上げましたが、その時発生した滝雨や大雪が慈雨へと。津波が運ぶ生体が肥沃土への変化もあると思います。
さて、四千年前の東方に大事変をみた大陸に「神仙思想」が生まれました。わたしの個人的見解かも知れませんが、初物を大事におもう列島人に対して、中国の人達は珍しく手に入りにくいモノほど大枚を払うようです^^。人の殺傷与奪までも得た始皇帝は不老不死の仙薬をもとめて、その大事変があった列島に「徐福」を出立させた。あるいは徐福が申し出ました。この序章として、始皇帝は時の高名な方士の二人に、その秘薬をつくれと命じたが「そんなモノはつくることが出来ません」と、トンズラしてしまった^^!。これを怒った始皇帝は、お前たちでその薬を作って「生き永らえよ」とでも云ったのでしょうか。四百数十名の方士達を穴埋め?にした。そして、それを諫めた長男までも北方に追いやったと聞きますから。それへの欲求は相当なものだったのしょう。
徐福については先様方のほうが詳しいので割愛しますが、その一度目の出航は大鯨(台風)にはばまれ散々だったようです。二度目は、童男童女3000人と百工(それぞれの職人)と五穀を与え万全の体制で臨みました。童男童女3000人を与えたのは「末代かかってもその薬石を持ち帰れ!!」とでも云ったのでしょうか? (これについては別述で) 。三千人の数を誇張した数ととらえる向きもありますが、兵馬傭〇百人の規模をみれば、まんざらでたらめな数でもないようです。
<遮光器土偶について> ここからが、この投稿の本題です。
中国では、絶壁のツバメの巣、熊の肉球、深山の霊芝など。危険を伴うものほど珍重されるのは前述済み^^!。大陸では、 列島は地震や津波の巣であり加えての台風の襲来で度々被害をうけていますから「東海に荒神あり」と思うは自然のながれ。その東海の島にボサボサ頭の長寿仙人(縄文人^^)が住むと聞けば、きっとそこには秘薬・仙薬があるに違いないと思うのも無理のない展開^^。大陸にまで大災害をもたらすほどの東海には、よほどの荒神がいるに違いない。事実、一度目はその荒神に行く手をはばまれている。神秘性はます々増す。「その荒神なにするものぞ!!」 それを恐れては不老長寿の薬石は手に入らない。始皇帝の不老不死の薬石への執着はすさまじく、第一その荒神を制することが政治の基でもありますから、それに臆していては示しがつきません。前述の大資とともに最強の兵士を徐福にもたせました。→カテゴリー「徐福が日本史に与えた影響」へ(^-^!) http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-date-201511.html
徐福達の大船団は、潮来一枚下は地獄といわれた時代。海流に流され千々に分団したが、各々を探し合い出雲に(?)着岸した旗艦・徐福のもとへ集結した。この再開を喜ぶさまは出雲風土記か史書にあったのかな^^!。賢明な徐福は、出雲に本社をおき各地に支所をおく会社組織式をたちあげた。徐福たちは大陸の技術や銅製品と交換に、列島の案内・情報・協力者、人夫等を求めた。そして、列島の人々に医療・施術をした(試した)のは申し上げるまでもありません。その情報の中に空を “リュウ~”と 飛んだ荒神が列島の北の方に光臨したことを知った。この様をモンタージュしたのが龍画だとは前述しています^^。
その荒神・龍と対峙するには最強の兵士が要る。徐福たち、あるいはその分団は津軽をこえ太平洋側へ廻る。とくに注目したいのは、この地方に蕨手刀(わらびてとう)という持手がわらびのゼンマイ形の出土がある。この形は引き切ることを加えた刃であり大陸の匂いがする。もちろん甲冑に身をかためている。
一方、列島人の方ですが、列島各地には「閃光を発した」BC2001年末の大事変を体験した独自の歴史が続いている。その兵士の姿を見て、あらぬ方向から自分達が信じている「荒神様がおわした」と思うのは無理からぬこと。縄文土器のこの時代。遮光面土偶の “兵士ようの甲冑” は、あまりにもリアルティ過ぎる。筆者は、遮光器土偶は、徐福隊兵士と列島荒神文化が合体したものだと断言できる!!。
さて、その眼底をも焼き尽くす強力な衝突光は、列島のどこまでとどいたのでしょうか。祖先はそれを地名として残しています。以前その画像をこの掲示板でもかかげましたが、早く知りたい方は、myカテゴリー「巨大隕石」の方へどうぞ・・・、つづく・・・^^。
<巨大隕石と、その閃光を言う地名(伝言^^)>
徐福たちは、この異変の地に不老不死の薬石を求めて渡来した。
<地 名> ( その 推 定 理 由 ) 北海道・美唄(ビバイ) その時の飛翔轟音(ビリビリバリバリ?)を言っているのかとした。 忍路(オショロ) 恐ろしいものが通る路(みち)の意か? 北海道・白神岬 飛翔体と空気との擦過光を言っている。 竜 飛 崎 巨大竜=巨大隕石がこの上空を飛んだと言っている。 青森県・白神岳 飛翔体と空気との擦過光を言っている。 奥羽山脈・真昼岳 山脈の西側から見て未明の東の空が衝突光で真昼のように輝いた。 丁岳と丁岳山脈 火の戸の意で、奥羽山脈とのT字形で衝突光を止めたと言っている。 (ヒノトダケ) 羽後(うご) 丁岳山脈の北側で、その飛翔体=巨大隕石が飛び去った後方を言っている。 羽前(うぜん) 丁岳山脈の南側で、その飛翔体=巨大隕石が来なかったと言っている。 奥羽山脈・白髪山 シロヒゲ山と読み、その時の発光と恐怖で白髪化と立枯れ木化とした。 (後の白髭山信仰に移行した?)類似伝言に、毛無山、黒森山、等があります。 奥羽山脈・面白山 「面・おも」は、外庭とか顔の意でありその山の方向が発光化した。 北 上 川 ふつう「川が北へ上る」とは云わないよね? 津波なら北へも登るけど! 下北半島 これも同義語、北方がその津波の下手を表す地名。 岩 手 県 この地帯が爆風や衝突熱と、発生した大地震と巨大津波で植生を奪い岩表化した。
子供の頃、「何故、これ等の地名が付いたのか?」と、不思議に思ったことが誰にもあるはずだ。「えっ?」考えたことがなかった^^? それは残念(笑い)」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『 東北地方 ・ 祖先からの地名伝言 』
(↓ 拙電子出版(絶版)より転載 )
その昔、(BC.2001年12月25日 未明の朝6時頃) 竜が飛んだと、“龍飛崎” 全天覆った“奥羽”の羽 “大槌・釜石”に降臨した。
“松前”のそちらに飛んだと“白神岬”、白光見たと“白神岳” 、真昼のようだと “真昼岳”、私も見たよと“面白山”あな恐ろしや恐ろしや木々も白んだ“白髪山” 「しろひげやま」と読みます。立ち枯れて幹だけが白く残ったんでしょうかぁ? 巨大な津波が生誕した。 “水界峠・250m”のすぐそばに、津波で沈んだ“志津の川”、金の扇か “金華山”舞い踊ったか“竜舞崎”、巨大津波を“歌津”とは酔狂人がいたもんだ。 “岩の手”を敲いて育った大津波、暴れん坊の大津波“牡鹿半島”を蹴散らかし、 花嫁さがして大津波、“志津川”越えて“津山”を越えて、後押しされて“追波川” 鹿の背越えて“渡の波”へ、巨石渦巻く“石巻”、“仙台”越えて“津の田んぼ”、 “次郎太郎山”が通せんボッ。 二俣かけたか大津波、津波は川を北上する。 “北上川”を北上する。 “志波姫”様を横目にし、“江刺”恋しや“花巻”恋し、 妬きもち焼いて“焼石岳”、黒く焼いたる“黒森山”、 それを眺めて“国見山”、 どうなるものかと“物見山871m”、“遠野”で眺める“物見山917m”、 袖を振られた大津波、 “盛岡”の先 “姫神山”へ、 土を盛っての贈り物、 シワぶきひとつ“紫波”の波、行かせてなるかと“区界峠”、節操ないと“八幡平”、 想いかなわじ“七時雨山”、ここから先は下り坂、力落として“一戸”へ、 “二戸・三戸”四歩と歩めず。 気を取り直して“五戸・六戸”、 “七戸”の先、 あの“恐山”、 力尽きたる大津波、 ふる里、目指して“八戸・九戸” 津のない十(とお・ツなし)で、お終いじゃあ! (“・・・・”内は、地名です)
子供の頃、「何故、これ等の地名が付いたのか?」と、不思議に思ったことが誰にもあるはずだ。「えっ?」考えたことがなかった^^? それは残念(笑い)」
管理人さま→ [8200] Re: 東国三社と冬の三角形(続き) 投稿日:2019年 7月 4日(木)
弓張月さま→ [8196]
・・・興味あるご記事をみつけました^^。
こちらへの投稿は敷居が高くて疎遠になってます。それにボケが入り即答できないので^^!
>> 弓張月さんへのお返事です。
『常陸風土記』の行方郡段に見える、「行方郡の郡家の周辺の原野に群棲する蛇体で頭に角を生やした神で、その姿を見た者は一族もろとも滅んでしまうと伝えられていた。継体天皇の時代に箭括氏(やはずのうじ)の麻多智(またち)が郡家の西の谷の葦原を新田として開墾するに際し、妨害する夜刀神を打殺したりして山へ駆逐し、人の地(田)と神の地(山)を明確に区分するためにその境界である堀に「標の?(しるしのつえ)」を立て、以後祟りのないように社を創建して神として崇めることを誓い、自ら神の祝として仕えるようになったといい、麻多智の子孫(箭括氏)によって『風土記』編纂の時代まで代々祀ってきたという。」が、歴史の証明でしょう。
> 杖を突き立てる話は、興味深いですね。神功皇后の新羅遠征のときも、剣か何かを突き立ててますし、支配領域を示すのに、その境界にそういうものを突き立てるわけですね。それで相手を威嚇するというか・・。 ・・・、□
この二つのご記事は、我が意を得たりの感がいたします。
重要な(キーワード)には色付けしました。
(ヒミコ)は、それまで永々とつづいてきた「銅鐸生け贄文化」を「銅鏡身代わり文化」に変えようと魏から得た100枚の銅鏡を、各々の郡で使用していた銅鐸に換え与えました。そして、これも持ち寄った稚児を殺めた刃とともに、すでに大量の銅鐸と銅剣が出土している<出雲方式>で埋封(まいふう:筆者の造語です)しました。この詳しくはmyブログを参照してください~~!。
<出雲方式とは>
銅鐸の埋封場所は、人里を徒で半日ほど離れた岩の付く山の南東斜面(当時は東)。
埋める深さは四尺下(四=死につうじる)。
銅剣の埋封場所は、そこより西方、二山越えの三山のまえ。距離にして約一里(離)。
『同様の文化には同様の事象あり』 貴家で論じられていた難しい学門は、さておいて(笑い)。銅剣のほうはイマイチ詰めが甘いので討議や伺う余地があるのですが・・・
出雲、 吉備、 神戸、 野洲、 以上の四か所は、吉備を除いて大量の銅鐸(銅剣類)が出土しています。
『剣か何かを突き立てて、なにかを威嚇する』 - 管理人さま言
まさに、我が意を得たり!その「なにか」とは、角を生やした神(巨大隕石が八散)であり。「夜刀神」とは、BC.2001年12月25日の未明の巨大隕石であり、四千年前の推定Φ10kmの巨大塊をさします。その天空からおわす荒神さまに抗らいご遠慮ねがう分けですから、並みの剣であってはなりません。出雲にカンナビ山があり、この山の頂上は、なだらかな丸み形。円山に類する地名は各地にあります。荒天に抗らうには、そのような優しい山であってはなりません。威嚇するための剣形(つるぎ)でなければなりません。先にあげた四か所には、「岩」に関係し銅鐸を埋封した地名から西方約4kmのところに、
出雲・仏教山△、 吉備・経山△、 神戸では荒神山△が2個所あったのでチョット迷います^^!。 野洲では三上山△、が天に抗らう剣(つるぎ)形をしています。これは後に剣山信仰へ移行しています。
(ヒミコ)は、そこへなにを埋めたのでしょうか^^? ・・・根がつづきません。この先は皆さま方でお考え下さい^^!。この詳しくはmyブログ^へ、・・・さてさて先様方のお考えと、ドがつく素人の推理妄想^^が一致すればいいのですが ?・・・・(~-~)。
その探索での金属探知機の持ち込みは、<1m>と違えてはならない!!
吉備・岩屋の23±?銅鐸と、 野洲・三上山200本??の銅剣類(正確な予測数忘れました^^!)
尚、以上の記事へのコメントは先様のご自由ですが、当方妄想^^にボケが入りだしてますので「一切のご返答はできません!!」 あしからず・・ この件に関しては論はいらない。ただ実行あるのみ。
素人の予測した場所に予測のモノが出てきたら、今まで送付数の2000通を無視された先様がたは、お困りになるでしょうねえ(笑い)。今から、その先様に貴方がはいります(^-^)♪
「なぜあなたが、それをしないのか?」 ですってぇ^^!
肩書・実績のない赤貧の史実探偵であることと、『文化財保護法』に、はばまれています。
日本人のルーツ・・さまへ>
>あ、キシさん、秦野さん、平の素人さんについては、妄想癖の、ただのアホですwww
ありがとうございます^^。キシ先生や秦野さまと同列にしてくださるとは感謝のきわみ^^
先様ぁ何か思い違いされてませんか? 「ただの〇〇」ではなくて「世界一の〇〇」にしてくださるともっと嬉しいのですが^^。その〇〇にあまり絡まないほうがいいと思いますよ。もし?ご子息がいれば(??)負の遺産を歴史に刻むことになりますから(笑い)。日々の訪問者二百に近いこの掲示板は管理人さまの桁外れの許容力と見識と管理労力に加えて、諸先生方のコメントがなせるとはよくご存じのはず。議論白熱はのぞむところですが、暴言は品を欠きます。せいぜい並列にとどめておきませんかぁ!! 私はイエローカード一枚を切っていましたよね。先国で存分に研究成果をだされていつの日か帰郷されることを望みます。『その暴言が、その有能さを大無しにしてる』
ではでは・・・(管理人さまのパクリです^^!) 再見吧^^
[8268] Re: DNA人類学あるいはルーツ探しの効用
投稿者: 史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト) 投稿日:2019年 7月 9日(火)
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さまへのお返事です。
> [8251] DNA人類学あるいはルーツ探しの効用
しかし、DNA人類学ほど生活の役に立たない学問も少ない。篠田謙一も、2007年の著書あとがきで、日本と隣国はmt-Dを共有しているのだから「民主主義の価値」を共有できるはずだなどとワケ分らんことを述べ、自著の価値を台無しにしている。日本の場合はDNA人類学がアホどもに悪用され、右翼の風潮に拍車をかけてしまってさえいる・・・
君らはどう思ふ?
>私の場合は、そうねぇ、言語学習の意欲昂揚効果は見込めると言えるかな?
>あと、社会・国家を越えた見えない連帯感みたいのも湧くよね。
>いや、何となく、想像上のね。
>わたしゃ、君(平 素人)が何やってるのかも理解不能だから、噛み付きはせんよ。
安心しなさい。
縄文・超古代史掲示板 ←投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019/ 7月01(月)
[284] 米女史DNAアプリで未決20数年前の犯人割り出す!
管理人さま
まことに不確かな記憶(特に数字~~!)の情報で申し訳ないのですが、2・3日まえの、これも確かではではないのですが、TV・アンビリバボーか、仰天ニュースでみたのですが、20数年前「美人教師が自宅(?)で殺害されました」警察はもちろん現場に残されていた犯人のDNAから、過去の犯罪者・交友関係・怨恨・行きずり・変質者とうのあらゆる手段をもちいましたが未解決。聞き込み捜査で女性は品行方正、捜査線上にあがった人数の数百人(?)は、いずれもシロ。・・・で、その女史が開発したアプリ・AI(?)システムで<1個人>を割り出しました。その犯人は有名なミュージシャンで非暴力家であり捜査線上にはありませんでした。美人教師はそのファンで、その公演で目をつけられ後をつけた犯人によって殺害されました。この事件は目撃情報とうの一切の情報がないことが災いしていました。女史が開発したDNAシステムで、出自、白人男性、髪の色、骨格、経年とうで作成されたモンタージュ画は犯人にそっくりでした。
わたしは、米画「クリミナルマインド」ををよく見るのですが、DNAによるプロファイリングはそこまで出来るようになったのですね。これはアメリカや中国(も?)だからできることかも知れませんが、個人情報の出自から現在までの一切がわかることでもあり恐ろしい管理社会へと進む可能性もあります。女史曰く。開発がすすめば「このような犯人は必ず捕まり、減少へ」・・以上、ボケボケもありますから大意をくんでくださるようにお願いし、この番組をご覧になった方の修正をお願いいたします^^!。 ・・・□
追 記('19/7/09)
DNAの解析は、近時安価(99$^^)になったせいで急に拡がりをみせているようです。さて、前記投稿の米女史「体液の DNA」から彼女独自の開発アプリで、犯人<一個人の>26(?)経年後のモンタージュ作成。これにより非暴力をうったえてきた有名ミュージシャン逮捕できた。
これは、犯人は男性・白人・髪の色・目の色・人種的骨格等々の解析からかな^^? そして、この「古代史掲示板」でも、色々に論じ揚げられたように、DNA種の地域グルーブ、特性、性差、罹病性、酒消化、思想傾向、・・出自、等々に加えて、近年問題になっている個人情報の検索の傾向、購買の傾向と財力、交際の夥多と人的資産^^。身体的能力や体躯。・・・等々思いつくままに妄想しましたのでまだまだ上げればキリがないでしょうね^^?。
それは、個人、団体、地域、国?を問わず特化できるわけで、 例えばの話し^^。この人は、その検索傾向から外車思考があり財力もあるからセールスを(笑い)。
・・それには、DNAのサンプル数をいかに多く蒐集できるかが問題となります。その点、中国は有利^^? アメリカもかな^^? 日本の場合は『個人情報保護法』が、足カセとなりますね。このように何かに特化したアプリを開発すれば、“コンピューター上” でのヘッドハンティングは、もちろんのこと。それぞれの有能な子供たちを捜しだし教育をすることも可能になります。中国は日本人のDNA蒐集に触手を^^???
しかしながら、それは効率性をあげることにもなりますが、それが行き過ぎた管理社会になると、国が、人種が・・・、その個人の、優位性を助長することにもなり 「歴史はくりかえす」ことにもなりかねません。
『己(DNA)を知り、相手(DNA)を知れば百戦、危うからず』 中国の人は個人情報を話したがらないが、先国はどうなのかな(笑い)。「存分に研究成果をあげられ・・」ともうしあげました。以上の話しは、確率的に多いということでありそれが全てではありません。その他の<制約や突然変異>の確率は推めないのが現実でしょうか^^!
尚、この投稿に、どなた様もコメントはご自由ですが、当方、妄想癖にボケが加わっているので 返答は出来ません!! どうぞ悪しからず・・・(^-^)。
[290] Re: 大事変(巨大隕石)が神になり聖地となった!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 7月15日(月)
管理人さまへのお返事です。
・・・コメント遅くなっております ^^!
> 日本には、比較的多く・・・というか、平さんの隕石落下によるリアス式海岸生成のご指摘を聴いて以来、いろいろ調べれば調べるほど、日本の複雑な港湾地形のほとんどがクレーター由来と考えるに至ってきたことがありましたね。
リアス式海岸の生成は、わたし「BC.2001年の大衝突で・・」の考えですが、『日本の複雑な港湾地形(ランドルト環状湾)のほとんどがクレーター由来と考えるに至って・・』は、わたしの考えではありません。それは、それをアッシャー・岩淵彗星と名付けられた岩淵先生のお考えです。岩淵先生は、それらの衝突地形は、デビット・アッシャー博士の言われる「対談で→母天体エンケ彗星のデブリだろう」と同一時期・視されています。岩淵先生とわたしは ≪そのとき発生したであろう巨大津波の規模を共通≫ にしていますが、巨大隕石のほうは、私が「巨大隕石の主核は釜石鉱山」とするのにたいし、先生は「その90%(私の覚えです^^!)以上は大洋側へ」とされています。そして、八郎潟あたりと、田沢湖、三陸海岸ライン上にあるリム形はその時のものではないかともされています。この詳しくは<彗星衝突による縄文超々巨大津波・文芸社>で述べておられますので必見です。さらにの違いは、先生が豊富な学識と地元のみぞ知る事案の解析にたいし、わたしのは97.5%が(既成論の再構築)人さまパクリの机上論^^!でしょうか(笑い)。ちなみに。今、大苦戦している「北米・オンタリオ湖に流れ入る条痕」ビッグゲームのほうは、97.5% が素人探偵の主観論です(~-~!)。
[8440] 徐福たちは、童男童女を分散隔離し育てていた。
投稿者: 史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト) 投稿日:2019年 7月18日(木)
東方三神山に、童男童女3000名を連れ不老長寿の薬石を求めた徐福たち は、 下記の<養父・ヤブ>の地名がある場所(その他)に分け、その子たちを育てていた。この詳しくはmyブログの「徐福達が日本史に与えた影響」にあります。
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-date-201011.html
< 結 び > myブログの一節より、
<養父・ヤブ>は、徐福たちが “長命実証用” の子供達を育てていた場所だ と断言します。その後、その子たちがどのような運命をたどったかは分からない。このほか<ヤブ>と発音する地名を探せば、きっとたくさん出てくるに違いない。そこが、徐福たち(一世)と直接関係あるなしは別として、それ等の地に残る イワレや行事の調査の続きは、その地の歴史をよく識る貴方さまにお願いしたい。
☆広島県広島市宮島養父(本土から見えない位置にその地名はある)
☆岡山県倉敷市玉島乙島養父(本土からは見えない場所であった)
愛知県東海市養父町
大阪府枚方市養父元町
佐賀県鳥栖市養父町
徳島県鳴門市大津町木津野字養父の内
こどもの頃、何故、その地を「養父ヤブ」と言うのか?と不思議に思ったことは誰にもあるはずだ。何故、何故、を三つ重ね深く追求しなければ、その祖先からの伝言は貴方には伝わらない^^!。
[8648] Re: 徐福たちは養父で長生き実証用の童子達を育てていた!
投稿者: 史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト) 投稿日:2019年 7月28日(日)
[8575] 秦野北斗さまへのお返事です。忘れた頃のお返事なってしまいました。
オリジナルな訳文ありがとうございます。
> 南衡山列傳
秦皇帝大説、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福 得平原廣澤、止王止王不來
> 此の文章の翻訳が問題になる、当時と現在の漢字の意味が異なる。
「徐福」については、この史記・列伝がもとになっていたのですね。
一般的には、「徐福は始皇帝の認をうけ、男女(童男童女)3000人と、五穀(種)と、百工(色々な職種)を携えて、荒神が棲むという東方三神山へ不老不死の薬石と,その仙人を連れて帰るべく出帆したが、帰ることなく平原廣澤を得てそこの王となった。」というのが受けいれられているようです。
私の場合は、多少の違いはあるものの、ほぼ、これに沿って考えていましたが、^^?
「止王不來」
中坊程度の読解力しかありませんがと前置きして、この「王」は誰のことを指すのでしょうか? 「秦皇帝大説」を秦の皇帝について書きます」と訳すと。この王は皇帝のことかと思われ、「止王不來」は,「止王」つまり皇帝が亡くなったので徐福が得た平原廣澤には、「不來」来なかった行けなかったとも訳せます~~?。来る行くについては、go home のように日本人とは逆の使われ方があります。又、中国人の「ライラ、ライラ^^」は、「良くいらっしゃいました」の使われ方と聞きますので、この場合の「来」は、どちらなのでしょうか~~?。おっしゃるように「此の文章の翻訳が問題になる、当時と現在の漢字の意味が異なる」ことは、充分考えられますし、中国語の火車は汽車で、汽車は自動車。「お手紙下さい」でトイレットペーパーをくれたとかの笑い話もあります~~!。
この「王」を通説のように、徐福だとすると「徐福」は、彼の地の王となり中国へ帰らなかったことになります。
このように、それを一字一句まで突き詰めたり、編集編さんでの誤植。旧字を現用字への変換。この掲示板でも種族によって似たような字句に変換されたことが指摘されていましたね^^!。また、縦書きを横書きにした場合空白のとりかた。返り点をどこにうつかで文意がかわったり、読み手の意が潜入されたりもします。このようなことが諸説を生む原因になっているのでしょうか。いずれにしても、書き手が何を思って書いたのか知ることが大切かとおもいますが、この史記自体が伝聞の集約のようですから、譲れないことは別として色々に論ずることは楽しいことです。わたしの場合は自分の意の言葉がなかなか思い浮かばず、編集に長時間を要することがお返事をお断りしている主な理由です~~!。
> 当時の地域は数字で分けていた模様、 ・・・・・、
これは、たいへん耳よりな情報をいただきました。
というのは、東北地方には、「八森、十二湖、五所川原,十三湖、三本木原、三沢、一戸~九戸」・・等々、番号で表す地名が、他に比べて特に多いのが気になっていました。徐福たちは、妙薬を求めての列島探索が目的であり一部の人達がいう 「列島を支配下におく!!」 が決してその目的ではありません。皇帝がなした方士4百数十名の穴埋め(?)は、徐福達のおおきなトラウマになっており、「その声狼(ろう)のごとし」という始皇帝の恐ろしさは骨の髄まで染みわたっています。その渡来地で王となり安穏と暮らしている等の噂でも本国に伝われば、たちまちの内に10万20万の兵が繰り出され殲滅されるでしょう。(myブログより)
そして、その探索は一度キリのものではなく、また仲間内でも探索場所を知らせ合わなければなりません。徐福たちは、前述のように荒神対抗用の屈強の兵士を用意してはいるが抗らうことが目的ではないので現地住民が多数いて、すでにその地名があれば、その地名を使います。そのほうが後から訪ねる人達にとって住民にその場所を聞くことができるので便利だからです。人口がまばらであれば、地名がないので自分達の記憶のための番号付け地名を付けなければなりません。(myブログより)
はからずも、先さまの情報は、素人の思いをを裏付けてくださることになりました。ですよねえ^^。海、山、川、平地と変化に富んだ列島に比べ、広大な大陸では細かく区切っての番号付けの地名に、自ずとなりますよねえ^^。
「地名は祖先からの伝言である」
地名は物証ではないが、現存していることは否定できない。その地名がいつから使われるようになったかを探ることが大切だ!!。先の「養父・やぶ」に加えて、岡山県(倉敷市)玉島の狭い地域に、唐船(とうせん)服部(はっとり)陶(すえ)金辺(かなべ)の小字名がありました。そして、当時の高梁川河口の総社市・吉備の地に「秦・はた」の地名があると付け加えておきます。ここには「ベンガラ工場」もありました。・・コメントありがとうございました。□
<一事を追求すれば万事につうじる>
>「養父・ヤブ」の地名は、徐福達が “長命実証” のための子達を育てていた場所だと断言したのは、この素人探偵の考えですが、「養父」の地名が現存するのは。何人も(たとえ専門家でも)否定できない!!
> ☆広島県広島市宮島養父(ヤブ)(本土から見えない位置にその地名はある)
> ☆岡山県倉敷市玉島乙島養父(ヤブ)(本土からは見えない場所であった)
> 愛知県東海市養父町(ヤブ)
> 大阪府枚方市養父元町(ヤブ)
> 佐賀県鳥栖市養父町(ヤブ)
> 徳島県鳴門市大津町木津野字養父の内(ヨウフ)
> ☆兵庫県養父市(ヤブ)
> 上記のなかには小字名もあるので、まだまだ出てくるかも知れません。
[8757] Re: 直線上にある5つの山頂
投稿者: 史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト) 投稿日:2019年 8月 3日(土)
たろうさま〔8725〕へのお返事・追伸です。
> さらに佐世保湾の東に立つ烏帽子岳という568mの山がありますが、この山も昔から頂上と思えるところの上にもう一つ数十メーターの高さに盛り上がった丘の頂上があって、そこは夥しい岩が並んでいます。人工的に作られたのではないかと昔から思っていました。
> なお、ついでながら5つの山の距離は5-9kmで、角度は別紙の通りです。
> 神社や遺跡を調べたことはありませんが、この直線はレイラインとは思っていません。それよりももっと光通信に関係するものではないかと思っています。
>・・とにかく、これら5つの山の山頂が直線で並んでいるのは私にとって大変な驚きだったんですが、これをどう捕らえていいのやらわかりません。
> このサイトをご覧になっておられる方の感想を披露していただけば助かります。
「烏帽子岳」について、
「もう一つ数十メーターの高さに盛り上がった丘の頂上があって・・」 この数十メーターの高さは、管理人さまも指摘されているように人工物ではないと考えられるのがふつうです。烏帽子の山名はその山姿からつく場合がほとんどですが、帽子をかぶせる」との意味もありますので、たとえば、すでにある山を造形したとか? 普通の考え以外で、先さまが感じられた違和感は大事にされるべきかと思います。また「夥しい岩」ですが、積み上げられているのと、並べられているのは、おおきく意味がことなってきます。前者は信仰から、後者は方向性。つまり測量性が加わってくるからです。今後のご調査を^^。
「5つの山の山名」について、
赤碕岳、烏帽子岳、八天岳、腰岳、大陣岳」 山の名前が一番変わり難いと思っています。祖先は、それぞれに意味合いをもって付名しています。赤碕岳、烏帽子岳、八天岳、はそれ相応の古さをかんじますが、腰岳、大陣岳からは、ずいぶん新しい感じがいたします。なぜでしょうか^^? そして、「赤碕岳」のサキの字が「碕」の字になっているのは何故でしょうか。たとえ国土地理院でも地元で使用されている字名をかんたんに換えるわけにはいきません。お互い少年(こども)の頃に思った不思議をだいじにしたいものです。
「5つの山の距離は5~9km」
わたしたちは、大平原や大海原に立ったとき、数十キロさきまで見えてるのかと思いがちですが、じつは数キロさきしか見えていないそうです。山の上からだと遠くが見えてるように思いますが、実際のとこ(確かめたことはありませんが)「5-9km」先の山頂が、観測の範囲になるのかも知れません。
「光通信に関係するか」について、
この件については、敬にあたいする先様方がこの掲示板でも論じられていました^^。わたしは素人なので詳しくはわからないのですが、「四千年前に東北に光臨した巨大隕石」が発した冬至の旭光は、列島の歴史に大きく作用していると思っています。しかし、仮のかりとして、このラインを2200年前の「徐福たちがなした測量のための東西ライン」だとすると、いろいろな疑問もでてきます。冬至や夏至のラインは長期の滞在なくして引けますが、東西ラインはその中間ですから、北斗星や星座の知識がなければ、少なく見積もってもその倍はかかります。北斗の知識があれば、それに直角のラインを引けばいいわけですから至極かんたん(笑い)。・・・で、このラインを引く必要なし! となります・・・汗~~!、
考えればかんがえる程、新しい疑問がわいてきます。「徐福は、その行程の全てが不老不死の仙薬を探してのサバイバル !!」、長くその場所に留まることはできない。 ・・ 少年心(こども心)をなくしないで、ロビンソンクルーソーの気持ちから私の謎解きは、はじまりました^^。
[296] <オンタリオ湖へ流れ入る巨大津波の条痕か !?>
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 8月30日(金)
管理人さま、お帰りなさい^^。
[224] 南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ!-6 のつづきです。
6500万年前、月よりわずかに小さい大惑星が南極に衝突し南極大陸となった。
前述の南米、豪州、アフリカ大陸の 90%以上を覆った巨大津波は、北米大陸も例外ではない。
北米大陸の中央平原を北上し駆け抜けた巨大津波は五大湖へもなだれ込んでいる。
しかし、ここで次のような難題にぶつかった。
<オンタリオ湖へ流れ入る条痕>
筆者が想定する巨大津波は、数波~10波を想定している。これ等の津波は地球の全方位をカバーし北極へ集まってゆく。そして、北極へ集まった津波は水位を増し、後々から来る南極からの押し波より勝る時がくる。つまり「北極の増水位が南極からの押し津波に均衡する時点」を過ぎると、今度は南極へ向かって津波は走り出す。前述の<南米シリーズ>では、太平洋の膨大な海水がリターンし、マゼラン海峡をものともせずスコシア海を形成したと謎解きした。
この考えをもとに、巨大津波は北米中央平原を北上し数波の条痕をつくりながら五大湖へ流れ込み、北極からのリターン津波や増水位にはばまれその先端が赤線のような弧状に残ったか?と推したのだったが、その “標高水位”をよく調べてみると、・・・??
西から、①キャナンデイクア湖 (標高)208m
②セネカ湖 133m
③カューガ湖 115m
④オワスコ湖 216m
⑤スカニースルズ湖 262m
⑥オノンダガ湖 109m
以上のように、何の規則性も見られない!! 北からの戻り水と南からの押し波とがガッチャンしたのであれば、ほぼ同じ高さであろうと推んだのだったが、全くあたっていなかった。ちなみに、五大湖は過去にその水位をいく度か変えているという。
<その時をイマジネーションしてみると>
南極から発した巨大津波は、いったん赤道でその力を弱めるが北上するにしたがってだんだんと合流し、水位を上げてその力を蓄えてゆく。津波が海上を走る時、津波は押し波であるからして清水を運ぶ。ところが陸上に上がると、その表土を削り土石を持って進むのでその威力がましてゆく。二波、三波~数波~においても、同様にその表土を削りながら進むのだが、いったん更地にしてしまうと、水だけを運んでゆく。この事は津波の上流に何があるかや、その地形や状態によっても変わってくるとは<前シリーズ>で申し上げました。(注: 惑星の衝突粉砕によって生じる岩石等の含みは除外して考えています)
メキシコ湾を北上しハの字形の中央平原を北上した津波は、〇〇あたりを峠とし、下りながら五大湖へと流れ込む。下り津波は、より低いほうをさがしながら、集まりながら下ってゆく。岩石ゃ土砂を持つ下り流は、のぼってゆく津波より格段に威力を持つとは前述している。
・・・で、表題のオンタリオ湖へ流れ入る①~⑥の条痕湖が出来たと予想したのだったが、・・・前述のように、その条痕湖の北端に<線引きした赤線>の標高水位は予想を違え、てんでバラバラであった???
この条痕湖の成因は、その時の津波が成したかと思うのだが、いい考えが思いつかない。それとも中学時、ならった「北米大陸の東部一帯は褶曲作用でなった」のであろうか? かといって、<シリーズ>1~6で前述してきた地球の90%以上を覆った超巨大津波の全てを否定することは出来ない。 わたしは、自論の 『南極大陸は6500万年前衝突惑星だ!』 をすすめるにあたって以下のような難題に突き当たってきた。・・・ ・・・、
そのⅰ 「大陸移動説」への疑問
その始まりは、大西洋の東岸と西岸がパズル合わせのようにくっ付くからだと思うが、概略において、陸表と大洋の海底との成因はまったく異なる。おおまかに言うと、陸地は火成岩で海洋底は玄武岩だったかな^^!。(絶版報告書:ベイクドライスケーキ論で^^) そして、大陸移動論では玄武岩洋に浮かぶ陸地塊船として考えると、いったん冷えて固まった地球表殻は、原始地球体積の“増量が無い限り”離れてはいかない。(絶版:地球体積増加論)←これ等の考えの一部は、この掲示板でも図示しています^^!
そのⅱ 「南極大陸には石炭の露頭があり温暖期がありました」
この謎解きは、いがいに簡単でした。いったん北極点へ向けて走り出した巨大津波は地表の動植物を北半球へ運ぶ。そして、その一部はリターン流にのって漂い流れて、いまだ衝突熱が冷めやらぬ南極大陸となった地表で蒸し焼きになった。鉄板上のモヤシのようかな^^!
そのⅲ 太平洋の赤道付近の海底に多量のマンガン塊と SiO2 塊あり。
マンガン塊は衝突惑星内部のもの。SiO2 は岩石が衝突で溶けて水中で冷やされ固まったものと謎解きできましたが、なぜそれ等が突き当りのベーリング海峡付近まで運ばれずに赤道付近にとどまったのか?? この謎解きにはずいぶん苦労しました。巨大なアンモナイトなんかは太平洋北部海域で見つかっています。ある時、地球儀でそれを考えました。地球の赤道周囲は4万Km。南極で発した巨大津波は、赤道上で川幅が最大となり、その勢いは衰え、下流域の様相を示したのであった。「目から鱗」のたとえあり。平面地図でのみ考えを進めていた自分に気付いた。
そのⅳ それでは、なぜ深海溝は津波の土石で埋もらなかったのか?
この謎解きには、すいぶん時間がかかりました。月に匹敵するΦ3500kmの大惑星が衝突した。地球殻はヒビ割れ、その時はっした土石で、その海溝は埋まるはずだ。この思い込みがこの謎解きの大きな邪魔をした。その瞬間を人間の時間的感覚でとらえてはならない。人間には一瞬でも地球メロンにとっては、その体積が増すことにより徐々にその海溝を拡げていったのである。ちなみにメロンのほうは即、保護細胞で埋まるそうです(^^)。 話しは少しかわりますがこんな所には枕状溶岩の噴出があるそうです。
<そのⅴ> 北海に油田あり。
この問題も解けずに、ずいぶん長いあいだ放置していた。大西洋を小溝のように北上した巨大津波であれば、そのすべてをシベリア平原奥に持っていったのではないか。この思い込みも、北極からのリターン流を考えれば解けてきます。津波の性質には、同じようなものを同じ場所に。そして、流れの端部分に置いていくことがあります。北海の海底油田は津波の逆流がもたらしたものでした。ちなみに、近年開発をされているブラジル沖の海底油田もそうなのでしょうね^^。
<そのⅵ> 南極横断山脈に2憶数千万年前の?岩石あり。
地球の誕生が46憶年。地球上でいちばん古い岩石がグリーンランドの38億年。
太平洋海底の塗り替わりが2憶年。これが現在、素人の得ている数字です。
この掲示板で先達さまから、「南極大陸横断山脈(端部?)に2憶数千万年前の岩石があるよ」と云われました。
<これは、はっきりとした解ではありませんがと前置きして・・・、>
地球の惑星表面には、色々な生年の岩石が存在している。これと同じように月に匹敵する南極大陸となった衝突前の「南極衝突大惑星」にも、色々な生年の岩石があってもいいのではないか。この衝突惑星は、その全てが溶けたとはしていない。クラゲ状の足部は既存の陸部と衝突し、千々に砕け散ったが、その頭形の部分は、変質しながらも地表にその形をとどめているとしました。
月に匹敵する大惑星が衝突すれば、「木っ端みじんとなる」 この思い込みが、謎解きの邪魔をする。地殻の約100kmは硬い巌であっても、地球の内部は約6,000℃以上の液状?である。その殻を打ち破れば、衝突惑星は容易に沈みゆく。たとえて、『厚氷の張った池に石を落とし、その石の全ては沈み込まずに、その表面上にとどまった状態』 だとした。衝突惑星のスピードは最大に見積もっても、60~80km/sec。このスピードに目をとられてはならない。「近距離的、部分的には、その衝撃反応であっても巨視的、遠視的にみればゆっくりと合体したのである」と管理人さまと論したことがありました^^!。
近時、小惑星探査機「かぐや」が、小惑星「りゅうぐう」の岩石を持ちかえるでしょうが、その岩石の生年が2憶数千万年前であれば面白いなと思っています。・・・^^!
以上のように、難問難題が生じたときはその答えを急がず、ほかっといて時を待ちました^^!。
自論の『南極大陸が大隕石』が、現学に伝わらないのは、その史実がなかったからではない。この素人が到らないからだ。中2生でも分ることを言っている。目の鱗を取り去り“気付く”だけでいい。賢明な先様がたのご参加をお待ちします。
(中二症^^)史実探偵 平 素 人
表題の<北米オンタリオ湖に入る条痕湖の成因>の解は、一時保留して、つぎの「西部北米大陸に残る信じられないほどの津波痕跡」に移ります。・・・おたのしみに^^。
[297] 北米大陸西部をカバーし北上した巨大津波!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 9月 4日(水)
南極大陸は、6500万年前の衝突惑星だ!-6 のつづきです。
> 6500万年前、月よりわずかに小さい大惑星が南極に衝突し南極大陸として残った。その時、発生した巨大津波は地球の 90%以上をカバーした。北米大陸においても例外ではなかった。
> ⅶ 6,500万年前に南極から北上し、北米大陸の 「西側へ」上陸した巨大津波!!
この大陸の西岸は筆者が提唱する<片V字沿岸津波>になっている。この場合、北上直進津波と片V字沿岸津波と合わさりながら進み、そして、沿岸の土石を削りながらも進むので、その威力はすざましいものがある。第一波、第二波?は、ロッキー山脈の頂きをわずかに残すのみだったと思われる。それを受け入れられない 現学(あなたさま)に告げたい。
この超巨大津波を観察するとき
「わずか2mにも満たない人間的視覚を用いてはならない」と!!
To be continued ^^♪ まだまだつづきます。・・・♪
[300] グレートベースンへ侵入した6500万年前の巨大津波!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 9月11日(水)
↑ 帝国地図院 中学校社会科地図・四訂版からの切り取りへ作図しています。
赤い矢印→グレートベースンへ侵入した巨大津波、青い矢印等→巨大津波の戻り水等
尚、この地図のコピーは、許可を得ていませんので、コピーは固くお断りします!
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南極大陸は、6500万年前の衝突惑星だ!-6 のつづきです。
> > 6500万年前、月よりわずかに小さい大惑星が南極に衝突し南極大陸として残った。その時、発生した巨大津波は地球の 90%以上をカバーした。北米大陸においても例外ではなかった。
> > ⅶ 6,500万年前に南極から北上し、北米大陸の 「西側へ」上陸した巨大津波!!
>
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<北アメリカ大陸の90%以上を覆った巨大津波> part Ⅳ - ⅱ
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ⅶ 6,500万年前に南極から北上し、北米大陸の西へ上陸した巨大津波!!
その巨大津波はグレートベースンに侵入してメサやビュートを作っている。
<グレートベースンへ侵入した巨大津波を分析する>
①東太平洋を北上した巨大津波は、中米の西岸を北上したものと合流し、カリフォルニア湾入り口に殺到している。
②その殺到した津波は、その入り口を削り取り深みを作っている。
③細長いカリフォルニア湾によって集められた巨大津波は"ジェット水流”となってグレートベースンへ侵入している。
<水流で墓石を切断する>
水流で岩石を切るとは、異な感じがするが、×2、×4、×8、と、ホースで水流を束ねて行けば水の分子H2Oは、規則性をもって並べられ、それに固い紛剤を混ぜようものなら岩石はおろか、鋼鉄をも切断する。レーザー光線と同じ原理だ。溶接切断とは異なり、熔ける要素が少ないので切断面はより綺麗に切れるという。
岩石を含むジェット水流は巨岩を切断する!!
(堆積したローム層は垂直方向には侵食されにくいが横方向には弱い)と前述しておきました。
④巨大津波の第一波は、カリフォルニア湾に棲息していた貝類をグレートベースンに運び込む。
⑤続いて、2波3波4波と、波高は低くはなるがその水流には岩石を含むのでより威力を増す。
⑥そして、その条痕は段々深くなり、南北へ細長い形のメサやビュートを作った!
その結果。メサやビュートの頂上に貝殻は残されたままになった。その頂上に6,500万年より前の地層はない!
ⅷ <盆地へ運び込まれた海水>
このステージまで進んでこられた方に「ここは昔は海だった」と言われるお方はいないと思いますが、ユタ州へ運び込まれた海水は、残留しグレートソルト湖となっている。
ユタ州の恐竜博物館は有名ですよね。津波の強い流れは、その側方へその浮遊物を持っていく傾向があったから、これより西方のブラックロック砂漠の北辺りを探してみれば面白いものが出るかも知れません。
ⅸ <津波の引き波>
⑦皿状のグレートベースンへ入り込んだ膨大な海水は、コロンビア川や、グレートホーン方面への溢水もあるが、もと来た方向へ逆流をはじめる。
⑧すでに、上陸した時に、その道筋は刻んである。
津波は山を登っていく時よりも下る時のほうが、岩石を持って斜面を駆け下るので、その威力は絶大だ。
⑨その結果。 ますます、その川下では条痕が深くなっていく。
デスバレーが現在の海面下 (Waterfall)にあるのは、これに津波の側流が加わっているからだ。
デスバレーの下流には、その時流れ出た巨岩が転がっているはずだ。
⑩コロラド峡谷は、津波の進行方向と引き波の方向が南北に一致してより強い流れとなった。
算数苦手の素人からのお願いがあります。
コロラド峡谷を作るための必要な雨水量は、地球創世に必要な時間より長くなりませんかぁ?(笑い)雨水だけでこの地形が出来る(現学)と信じて疑わないあなたに^^! もう一度 Google Earthでこのグレートベースンの詳細を観ていただきたい!!
ⅹ <津波が狭い谷あいに入ろうとする時に作る地形>
津波が運ぶ土石流が狭い谷あいに入ろうとする時、それが狭すぎて入れないので、その入り口の サンタバーバラに堆積土を積み上げた!
その結果。海水と共に運ばれた魚達は出口を失って、そこで石油化している。
(お ま け ^-^ )
巨大津波は、太平洋に棲息していた魚達をアラスカへ集めた。
米国は、ヨーロッパへの中継地としたかったのでしょうか。旧ロシアから巨額を投じてアラスカを買った。当時はばかげた買い物との批判もあったが、その後に金鉱が発見された。そして今では米国産の25%の石油はアラスカで汲み上げられている。何が幸いになるか分かりませんね。
蛇足ながら、太平洋を回遊していた魚達がここに集められたことや、ベーリング海を乗り越え、カナダ、そして、大西洋を北上した巨大津波は何を何処へ運んだのでしょうか。 それを知りたいお人はmy報告書へどうぞ♪
さらに、北極海へ集められた膨大な量の動植物は、どこへ行ったのでしょうか?
my報告書へ、つづく^^♪ 2012 March 21 □ 史実探偵 : 平 素人
尚、このグレートベースンの成因は、絶版^^電子出版、極秘報告書「巨大隕石と大津波」でも言及しています。
[302] 南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ!-7
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 9月19日(木)
図1. 地球の90%以上をカバーした巨大津波(1993/9/23作成my報告書より)
図2. アジア大陸の南からと東から上陸した巨大津波
↑帝国地図院 中学校社会科地図・四訂版からの切り取りへ作図、
図3. タリム盆地へ進入し、タクラマカン砂漠をなした巨大津波
↓ この記事はmy blogのカテゴリーBigGameより移設しています^^!。
Part Ⅴ. 地球の90%以上を覆った巨大津波
<アジア大陸の90%以上へ乗り上げた巨大津波>
私の掲げる“この大事変”が、いかに史実であろうとも、貴方がその常識を振り払わない限り、それは史実として見えてはこない。
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< Big Game-1.>の 番外編(^^)♪ Extra grade
貴方は、さらなる(疑問心)子ども心を必要とします^^。
従来の常識をクリヤー出来ないお人は、
The person who cannot clear conventional common sense ,→Good by^^ !!
次の第Ⅴステージは、ここまで進んでこられた方においても、今までの概念を振り払わないかぎり、貴方はこのステージに進むことは出来ない。信じるということは騙されるということ。私たちは、そのことを信じるのではなくてそのことに気付くことが大切だ。ちょっと言葉がすぎましたか?(^-^!)引き続きのゲーム感覚で楽しんで頂ければ幸いです。
Ⅴ.<ヒィフス ステージ> ('12 Mar. 11 )
<アジア大陸へ乗り上げた巨大津波>
その巨大津波は、アジア大陸へ南からと、東から乗り上げている。
(質問・Question 5) その痕跡を探して列挙せよ! 2012 March 13
この信じられないほどの津波の痕跡探しの答えが、あなた様と(私の答えが)幾つ重なるでしょうか・・・^^?
(答え・Answer)
ⅰ 西太平洋を北進した津波は、オーストラリア大陸をカバーした津波と合流してアジア大陸へ乗り上げている。
ⅱ その巨大津波は、ミャンマーのタンルイシ川や、ベトナム・カンボジアのメコン川を登りチベット高原の近くへ達している。
『 津波は川を登る。』
このことは川が、河口から上流に向かってなだらかな遠浅状になっているためであり、津波にしては、多くの抵抗を受けないで登っていくことが出来る。この結果。津波は驚くほどの内陸部まで侵入する。
分かりやすい例えとして。サーファーが遠浅状の海岸を選んで遊泳するのは、このためであり、海岸近くまで深部の場所よりも、波高は、ハワイのような遠浅状の海岸のほうが格段に高くなる。
ⅲ 巨大津波は、中国の海南島の南側を押し流し、台湾島の太平洋側を削り取っている。
ⅳ 巨大津波は、中国の桂林に膨大な量の珊瑚や貝殻を積み上げた。
その後に発生する津波の“引き波”は、その一部を残して切り立った景勝を作っている。
この地形の成因は、米国グレートベースンや、ローム層の川岸が垂直に切り立つことに似ている。
学説では、この地形の年代を○○としているが、さまざまな年代の土石が混ぜ合わされ、そして運び込まれた時の年代測定は不正確である。
ⅴ 巨大津波は、山東省の諸城市に多くの恐竜達を埋没させている。
2012/ 1月8日のYahoo! に【 気になるニュース 】がありました。
ニューズウィーク日本版9月7日号掲載→ 1月6日(金)17時37分配信
ローレン・ヒルガース氏(ジャーナリスト):の文中より興味深い一部を抜粋 します。
見出し:<中国に現る! 最強の恐竜ハンター>
中国各地で次々と化石を発見する古生物学者、徐星(シュイ・シン、42)が、恐竜の進化と移動に関する従来の学説を根底から覆す?
・・・以前あり、
■古大陸の謎を解くカギ
化石の採掘場 (山東省の諸城市)は、龍骨澗(竜の骨の村)という村の郊外にある。この周辺では何百年も前から化石が見つかっていた。 この採掘場 (深さ300メートルの発掘溝)は、規模が大きいだけでなく、埋まっている骨の量も多い。「なぜ(恐竜の)化石がこれほど多く集まっているのか、私には見当もつかない」と、(米ペンシルベニア大学の) ピーター・ドッドソン教授は言う。
その理由はまだ謎のままだ。 徐は地滑りが恐竜たちを押しつぶし、骨を散乱させたとみている。 (イギリスの古生物学者) デービッド・ホーンは恐竜の死後、大規模な洪水か泥流によって骨がここに運ばれたと考えている。・・・以下云々・・・、 □
この記事で気になる言葉を三つ揚げました。
① (山東省の諸城市)
諸城市は、チンタオ(青島)南西で車で約2時間の所で海岸から ○km入った所 にある。今までの巨大津波のステージをこなしてこられた方なら驚くに値しない。
② この採掘場 (深さ300メートルの発掘溝)
しかしながら、「深さ300メートルの発掘溝」は、驚きだ。もっとも、数百メートルの厚さを持つ炭層の成因を考えれば、このことでさえ驚くに値しない。
③ なぜ(恐竜の)化石がこれほど 多く集まって いるのか
『(イギリスの古生物学者) デービッド・ホーンは恐竜の死後、大規模な洪水か泥流によって骨がここに運ばれたと考えている』← これがこの採掘場の答えだ! ただし、通常に言われている『洪水』ではなくて、それは<巨大津波>によって運び込まれたのだ。 北米のユタ州やゴビ砂漠の恐竜化石の採掘場でも、その「骨は散乱」していて一体の完全体を得ることは殆んどないという。もし『 胴体が2メートルを超える巨体が地表に有れば、腐るか、他の獣に食われてしまい化石となって残らない。』このことが子供心に火をつけた発端でもあります^^。
ⅵ 石炭の成因については、記事のボリュームが大きくなるので、今回は外します。
ⅶ ゴビ砂漠は、巨大津波が運んだ砂塵である。
毎年の春になると気流にのってアジア大陸から黄砂が日本列島にやってくる。この膨大な砂漠を成している粉塵土は巨大津波が運んだものだ。津波が陸へ乗り上げる時、その様相は、岩石が川上から下流へと下り海へと到るまでの様相と大変よく似ている。つまり、大岩から→栗石→砂利→粉塵・粘土質になるまで。巨大津波では、海から山間部へ向かって段々と、その岩粒が小さくなっていく。ゴビ砂漠は巨大津波が運んだ砂塵で覆われている。
ⅷ 中国では津波で運ばれた微細土が頁岩化している。
中国大陸では、この粘土質が頁状化した頁岩(けつがん)の産出は珍しくない。 この中にウミユリに似た海草の化石を見ることがある。ウミユリが内陸部へあるのはオカシイよね。
ⅸ 大火災によって発生した木炭やススが津波で集められ岩石化している。
津波で火災が発生するのは異ではない。この時の火種は火山活動か? 津波で集められた流木に火がついた。中国大陸では、硯(すずり)の原料となる岩石が産出する。これは津波によって発生した大火災によって発生した木炭やススが後進の津波やその後に続く大雨で寄せ集められて岩石化したものだ。書道家がよだれを垂らすという端渓の硯は有名だよね^^。
~to be continued^^ つづく ・・・
6500万年南極に天体が衝突し地軸が傾いた
> 確か平さんのほうで、隕石衝突と地軸傾斜変更に関するご意見あったと思いますが、その件について、もう少しお教えいただけませんか?
わたしは、表題について、つぎのように考えています。
1.6500万年前に月に匹敵するΦ3500kmの天体が南極に衝突合体した。
Φ3500kmは、マントルに浮く陸地としての素人計算ですからあまりあてになりません.
南極大陸を囲む海域に珪藻土があるのはこの時、粉砕したSiだとした。
南極大陸を囲む海域に海嶺があるのは、この衝突の衝撃で地殻がヒビ割れ浮き上がった。
ちなみに地殻が数枚にひび割れ海嶺や海溝状をなしているのはこの衝突でひび割れたとしています。
北極海底の〇〇海盆やアルファー海嶺は、この衝撃の対蹠地だとしました。(別記事)
2.クラゲの頭状の部分は片岩化し地表で陸地化した。
南極大陸のこの部分の片麻岩の存在は辞書で調べたもので私が調べたものではありません。
この素人の論が正しければ南極大陸中央のボストーク湖は大変興味深いものになります。
3.クラゲの触手部分は南米大陸に連なる既存の陸地と衝突し粉砕した。
この証拠として、これに面する太平洋海底の赤道あたりに、その衝突天体の中身と思われる大量のマンガン塊、SiO2塊があります。このオパール塊には、海水の取り込みや海水で急激に冷やされるため、水晶やマーブル状や、その表面は灰土化している特徴があります。
そのほか、ギュヨー(海山)の側面にコバルトリッチクラフト。鳥島?あたりの希土類も気になるところです。 〔極秘〕として、熔けたAuは延性があり重いので遠くへは運ばれず南極を囲む海嶺の内側あたりの海底にベチャとか?としました。(笑い)。
4.6500万年南極に小天体が衝突し地軸が傾いた。
地軸の傾きが天体どうしのぶつかり合いでできることは既知のとおりですが、わたしは太陽系惑星の生誕のモデルとして、太陽でも惑星でもある日突然にできるのではなくて、散乱した宇宙塵がそれぞれの時系のなかで比較的重量の重い物を核にして、基本的にはトーナメント方式でぶつかり合いその重量を増してゆく<太陽系の誕生>と<惑星肥大化論>をとっています。
この詳しくには絶版「報告書」でなのですが、この掲示板やmyブログでも述べていますので後でさがしてみます。
<黄道への沈殿化>
それらのぶつかり合いのなかで回転が生じ、太陽を中心において各々の惑星らしきものが整合しながら出来てゆく。この整合性については、なにやらの難しい言葉で先様もおっしゃっていましたね^^。
<惑星の肥大化>
このような過程のなかで地球や他の惑星もだんだんと大きくなります。しかし太陽軸の近くにあるものは肥大化をしながらも黄道面への沈着がおくれます。こいつが南極へ衝突した天体ではないかと思っています。
ごめんなさい。今日はここまでとします・・・
5.白亜紀末、地軸が傾くほどの天体衝突が南極にあったら何がおこるか。
↓my「報告書」より抜粋、
①地震と高熱が発生する。
②岩石を含む大津波(大泥流)が発生する。
③地殻、地表がひび割れる。
④マグマを吹き上げ、火山活動が活発になる。
⑤粉塵や粉塵が、天を覆い隠す。
⑥水蒸気を舞い上げ、雷、大雨、大洪水が発生する。
⑦一時期を過ぎると、気温が下がり氷河紀へと向かう。
⑧その他の、あらゆる転変地変がおこる。( 地磁気の逆転もありますよ^^。)
~中略~
粉塵や粉塵は全天を覆い隠し、わずかに生き残った生物の存在おも一切許さないかのように太陽光をさえぎった。6500万年を境に地球史は塗り替えられた。地表は急速に冷えて、やがて氷河紀を迎える。しかし、分厚い噴煙や粉塵は、温まった海水と、地下から放出されるエネルギーを包み込み、地表が冷え切ってしまうのを防いだ。
神は、生物の絶滅を、お救い賜うた。
~中略~
<植物の進化から大事変を推定>
植物の進化は、動物の進化に比べて一様に遅い。これは、存続していくための条件が少なくて済むからに他ならない。しかし、この白亜紀末に前後して裸子植物から被子植物へと移行している。裸子よりも被子の方が気候の変化に強い。裏を返せば、大変な気候の'大変化'があったということで、これは'無季節から有季節'へ変化したことを意味する。(この時の大津波によって集められ)石炭化した植物に年輪はない。南極大隕石によって地軸が傾きを増したのだ。 □
[307] Re: 6500万年の南極に天体が衝突し地軸が傾いた!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 9月24日(火)
管理人さまへのお返事です。
早速のお返事ありがとうございます。
> ちょっと調べていて、関連しそうな話を見つけました。
> http://www.jamstec.go.jp/j/about/press_release/20141027/
10月27日付(日本時間)で英科学誌「Nature Geoscience」
> 350万年前に、何かあったようです。
ミランコビッチ・日照時間の変動性等については、いぜんに管理人さまが述べておられましたよね。この論文ではさらに詳しくあり勉強になります。さすが専門家の論文は当を得てるとかんじます。調査に元ずく図解にもわかりやすさがあります。ありがとう御座いました。これはnatureの前編集長の言ですが「私たちは商業誌であることを恥じてはいません」週刊誌でありながら60万というその読者のなかには専門家だけではなく、そのことに興味を示す大多数の読者にも受け入れられる工夫がなされていなければならないとも云われておりました。未完の部分があってもいいのです。それを提供してさらなる発展へとつなげるのが私たちの役目です。とも云われておりました。←以上は全くの言ではないのでその意だけをお汲み取り下さい。 さらに日本人の謙譲深さ(美徳)は他の国からみれば自論の自信の無さにうつっていると見られ、さらなる投稿数の増加をうながしてもおられました。
>350万年前の突発性? がミソですね。わたしはこれを天体衝突と考えています。
このような投稿案内をまともに受けて^^! ダメ元でいく度か投稿しましたが、限られた紙面積への投稿は60万のえりぬきの人達の峻烈な競争にたえねばならず、社会が求める時流にも乗っていなければなりません。このようなことは小保方さんの件でもありました。素人の中二症の発想で中坊程度の論説がとおるわけがありません。
しかしながら、当方が掲げる「南極大陸は6500万年前の大隕石だ!」は史実ですから、いずれ社会に受け入れられる時がきます。「四千年前の東北巨大隕石」のほうは、岩淵先生には「気づき」をえて、先様には強い興味で受け入れられていますが、素人本懐の「大事変」のほうは、客観的にみても天動説のなかで地動説をとなえているようなものですから受け入れられないのが当然です。このような極大論は没後に認められるが歴史の常^^!。その評価の歩みを遺しておきたいと思っています。http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-10.html
my報告書「巨大隕石と大津波」が十余年14冊で絶版となった今、それを刻んでおく手立てはこの掲示板しかありません。それを一番わかりやすい「地表の90%を覆った巨大津波の痕跡」で攻めています。今は、妄想・暴論として楽しむていどで充分です^^。なにとぞよろしくお願いいたします。今は亡き朋友<釣りじいさん>と交わしたことばがあります。「なにか一発釣れればいいですね」・カテゴリー「史実探偵局」より(笑い)
> 難しいのですが、地軸角は変化せずに、南極の位置だけすべるようにして変化するみたいな可能性とか、一時的に地軸が変化して元に戻ったという可能性はないですかね_??
むーーむ、むつかしい課題をいただきました。
わたしは、天体の回転の発生をつぎのように考えています。A>B>Cの質量の物質がある時、その距離をべつにして、まずAとBが引き合い衝突合体。この場合Cの存在があるので、AとBを結んだ真芯どうしにはぶつからず、少しずれた位置に衝突するので回転が生じる。これに慣性の法則がはたらく・・・。一方、太陽のほうですが、惑星の質量を引力と遠心力でとらえてはいるが、その回転軸には影響を与えてないか、もし磁力等で修正があっても長大なのではないかと考えています。この件は先様のほうがはるかに詳しいので反対にこの考えでよろしいか? とうかがいたいくらいです^^!
[308] Re: 巨大隕石の衝突で傾きを増した地軸!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 9月24日(火)
秦野北斗さまへ、 古代史掲示板[9842]へのお返事です。
https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/9842
オリジナルコメントありがとうございます^^。
>蛙(かわず)理論は、単純です。(高校生レベル)
蛙理論、大陸移動は赤道を境に東南と東北方向に移動している。
図の式を参照
>地球は太陽系を中心に回転している。回転のため遠心力と向心力が生じる(高校生)。
>ここで、向心力に注目し、向心力を分力に別ける、1つは重力、1つは地球面の緯度方向の滑り力。滑り力は赤道を中心の南極、北協方向に移動する。
地球の経度方向は回転方向に大陸移動する。
先様の蛙理論(仮称)がわかりません。このわたしが「井の中の蛙」ということでしょうか^^? であるならば甘んじてそれをお受けします。なぜなら、私は自論の「南極大陸は大隕石論」にたいしては、中二ていどの学識しか有しておらず参考にした本は片手にも及びません(笑い)。我が敬愛する岩淵先生から「なぜそのような(奇抜^^?)発想が生まれるのですか」 私「現科学に毒されないからです」その時は誰からも相手にされない 恨み節^^!からでた言葉でしたが、本のすばらしさは重々に知るところです。ですがこの件は中坊ていどの学識があれば充分に解ることです。ただ一言『そうだったのか』と気づいてくださるだけでいいのです。
その後、この掲示板で管理人さまやら、先達さまから色々に勉強させて頂いていますが、この思いは30年来、微動だにしません。
「向心力を分力に別ける」
向心力を分力に別けることが出来るのですか^^? 向心力は地表の微細力をのぞいて、地表面全ての点が中心点(重い方)へ向かう力と思っています。これに遠心力が加わり合力として働く??
「滑り力」
はじめて聞くことばです。ということは将来的、理論的には各々の大陸は両極方向へ移動するということですか? ということは赤道部分は次から次へと両極へ移動しラグビーボールのようになるのですか?? スミマセン^^! まったくの不勉強で理解できないことを残念に思います。
>現在の大陸移動
http://nh.kanagawa-museum.jp/kenkyu/epacs/museum/3c02.htm
この“現在の”大陸移動説は、世間が、キシ先生が、管理人さまが、NHKが、先さままでもが 参考に!!! と 掲げられます。この全てを否定するわけではありませんが「地球トーナメント肥大化論」をとっているわたし素人には、ある日忽然と現在の地球体積が出現したとは考えられず、さらにその表面にハート形(陸部)の風船カズラの種のようにつごうよく陸部と海部が分離していたとは考え難いものがあります。「現在の大陸移動説」は、陸の分離は考えていても 〇/3?以上の海部の存在が論じられていないことに疑問を感じます。私は、この海部をベイクドライスケイク理論(焼き餅理論)で説明しています。つまり、焼きたての餅を両手でつまみ両の親指( 南太平洋と北太平洋惑星)を押し込む。すると反対側の大西洋とインド洋は、ひび割れその間隔を広げてゆく。こののち南極惑星が衝突し、インド半島を北へ押しやる。大陸部と、太平洋&インド洋、そして太平洋の成因は全く異なる。その広大な太平洋の海底に安山岩はない。太平洋はその後この衝突熱で沸き上がり2億年でその海底表面を塗り替えている。と前述しています。
> 6500万年の南極に天体が衝突し地軸が傾いた! の、
さあ、南極を地中海の位置に移動させましょう。次回
楽しみにしています^^。
[310] Re: 6500万年の南極に天体が衝突し地軸が傾いた!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 9月28日(土)
管理人さまへのお返事です。
<古代史版2019/ 9/27 [9862] Re: 6500万年前の地中海が移動して・・・>
・・に、上げて下さった地球史の色々な情報には興味もあり、その全ては消化しきれませんが大変勉強になります^^。ありがとう御座いました。なかの大陸移動説のなかで、現学説や先さまの考えとすこし^^?異なる部分がありますので申し上げておきます。
>この時期は、ちょうどパンゲア大陸と呼ばれる超大陸が形成された時期で、その後プレートテクトニクスで図のように、大陸が分離拡散していきます。
>それで、その時期に、やはり小天体の衝突があったと考え、P-T境界の大量絶滅がそれによっておきたと考えると、恐竜絶滅のときと同様に理解しやすくなります。
>以前、平さんの天体衝突に伴うマントル内のプルーム上昇論を参考にして、小天体群の衝突に際して、こぶのようにして海洋から大陸となる陸地が隆起してきて、バンゲア大陸を造りだし、それがプレートテクトニクスで分散していく過程を論じたことがありましたね。
だから、この時期にはバンゲア大陸は一か所にまとまっていたわけです。
地球の誕生史については、この超・古代史掲示板でその考えをいく度か述べましたが、私は「地球肥大化論」をとっています。これは「天体どうしが衝突を重ねて段々と増大化した」というもので、拙報告書が絶版となった今、その全てを語るには長文を要するので、ここではその図示だけにとどめます。なかで生物がいつ誕生して、その衝突で“種の絶滅”をしながらも生命が継続してきたかについては、大きな疑問があります。しかしながら現状の私たちが現存していることは否定できません。では、自説「地球肥大化論」の全てが間違っているのかというと、そうとばかりは言えません。
ジャイアントインパクトと、「ミドルインパクト」のお考えに共感します。ミドルはとてもいい表現ですね^^。ジャイアントとミドルの大きさはどの程度で区分けするのかは今後の課題ですが、加えて小天体の衝突もありそうです。僅かΦ1kmの天体衝突で人類は絶滅するという現科学の認識はおおいに改めるべきだと思っています。『どっこい、おいら(生命体)は、生きている^^!』 これは、最大比熱の水が地表大量に存在し、その衝突時の発熱や、隕石の冬による気温降下にクッションとして働いているからではないでしょうか。
大陸のでき方については、先さまや北斗さま>とは異なる考え方をもっています。
自説「焼き餅論」では小地球にジャイアントインパクトの南太平洋天体と北太平洋天体の衝突で出来たのが反対側の大西洋だとしました。又、対蹠地をつくった6500万年前の「南極大陸大隕石」のインパクトではプルームを押し上げ、その溶岩を噴出したとする、アイルランド、デカン高原、エァーズロック等としていますが、大陸の作成までには至っていないと考えています。
<ジャイロごま>
この動画情報の全画面はPCの関係で見れなかったのですが、素晴らしいと思いました。ありがとう御座います。もう一度ゆっくり観たいと思います。
[311] ゴンドワナ大陸と古生代の化石の分布
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年 9月28日(土)
古代史掲示板 [9872]の管理人さま(2019/9/28)投稿の「ゴンドワナ大陸と古生代の化石の分布・・」について考えています。
https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/9872
>「ゴンドワナ大陸と古生代の化石の分布と、・・中略・・、 現在の大陸が〝図中のように結合して” ゴンドワナ大陸を形成していたという仮定には妥当性がある。」
そうですね。30年来で一番大きな反論・難問かも知れません!!!。拙論の完全ダウンかもしれません。かといってこの掲示板で現在進めている「地球の90%以上を覆った大津波の痕跡が現存しているかぎり」その息の根を止めることは出来ません。困りました・・・、
[313] Re: 6500万年の南極に天体が衝突し地軸が傾いた!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年10月 1日(火)
管理人さまへのお返事です。コメントありがとうございます^^。
ひきつづき惑星誕生について考えています。
南極大陸周辺の「古生物の化石分布」で、拙論は完全ダウンしています・・^^!
> 地球肥大化ですが、初期の地球にはその可能性があったようですね。
> 問題はここ数億年間に、そのようなミドルインパクトがあったかどうか・・。
先の①~⑥の、拙:惑星肥大化につづいて、「焼き餅・衝突ひび割れ論」の図と、自説:惑星肥大化曲線図(オニオンライン)をかかげます。(絶版:報告書より)
『問題はここ数億年間に、』は、とても痛いとこを突いてこられました^^!。図の縦軸は時間(t)を、横軸に質量(m)をとっていますが、年限は言えませんが地球のほぼ現状大の首部で大きな合体があり。わたしも数億年か・を思っていました(汗)。だとすると「地球生命はいつどこで??」という受け入れがたい問題が生じ、また地球生誕46年とも不整合が生まれます。この問題は、ご指摘をうけるまで固く目をつぶっていました^^。・・・・時がたち今は、小さい小天体においても水の存在がいわれるようになりました。
>
> 個人的には地球と金星のサイズがほぼ同じとのこともあり、一定の規則性にしたがって惑星が同じ大きさに生成されていったと考えますので、地球の大きさを大きく変えるものはなかったか、あるいは大きさは変わらず、密度が変化したであろうと睨んでます。
>
> 私のプランク定数仮説では、サイズが重要なのでして、密度や重量があまり重要ではないことは、水星、火星、月、冥王星のサイズが同じなのにそれぞれの密度が異なる事例にもあてはまります。木星と土星、天王星と海王星のサイズのペアも同様ですね。サイズが重要なんです!
> ・・・
「プランク定数」わたしにはレベルが高すぎてよく分かりませんが、宇宙空間の物質の存在は波状にあるとは認識しています。太陽系でいえば、太陽系誕生の時、太陽に近いほど濃い塵帯かなと思っています。話はかわりますが、太陽と水星の間に楕円軌道帯があって、そのスピードの速さと、強大な太陽の重力と、強力な光によって、観測不能な五月蠅的天体があり、それを太陽が黒点として捕食しているのではと疑っていますが、こんなこども染みたこと、今までに口にしたことありません。(^-^!)
追伸: 強大な太陽の重力と、強力な光の方はそれなりに納得できそうですが、五月蠅の猛スピードを考えていましが黒点増大の周期が11~12年ですから笑止千万でした。
[316] Re: バンゲア大陸関連
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年10月 5日(土)
管理人さまへのお返事です。情報コメントありがとうございます^^。
> 欧州地下に沈み込んだ大陸が見つかったそうです。バンゲア大陸の話もでてます!
> https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191003-00000004-binsider-int
そうですか。それは耳よりな話ですね。「地球体積の増大説」をとっている自分には、そのような現象はありうる話かと思います。地球重力は比較して大洋部より大陸部のほうが大きいとは既知のとおりです。したがってすでにある大陸の上に重ねてミドル天体が衝突すると自ずとそこの重力は高くなります。私は地中海あたりと東南アジアあたりも推めていませんでしたが、そうだったのですね^^!。https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E5%9C%B0%E7%90%83%E3%81%AE%E9%87%8D%E5%8A%9B%E5%88%86%E5%B8%83%E5%9B%B3#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D0
蛇足ながら、衝突天体の内核やリム部でもそのようになっていますね。https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E5%9C%B0%E7%90%83%E3%81%AE%E9%87%8D%E5%8A%9B%E5%88%86%E5%B8%83%E5%9B%B3#mode%3Ddetail%26index%3D21%26st%3D864
さらに、地表の重力は地殻の押し合い部でも生じているようです。それが地震によって解消されるのは先学の知るところです。面白い情報がありました。東北3/11の地震で東北の重力位置が変わっていたと、「欧州の重力探査衛星が記録していた」・・・、https://www.gizmodo.jp/2013/12/goce.html この図の三陸釜石あたりの円形の半円部に重力のたかい部分があるのが気になります^^。
ちなみに、自説「BC.2001年末の東北に落下した巨大隕石でも」太平洋側から列島側へと圧縮されていた ストレスがその衝撃を発端に “連鎖的に” 解消したとしています。
[329] 10月/14日の釜石行き
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年10月21日(月)
<釜石を訪れたい>
台風19号は、ハギビスと名付けられ南北2千kmの風雨域をもち年間雨量の1/3が降った所もあるという。静岡県に上陸し福島や宮城、神奈川など12都県で75人死亡、14人が不明者となっている。河川の決壊は7県52か所(16日・朝日)、長野県では千曲川が決壊し新幹線車両7本が水浸しになった。列島の幹線も不通や運行停止が相次ぐなどの大打撃をうけた。釜石市で13日に予定されていたラグビーワールドカップ、ナミビア-カナダの試合が、この台風の影響で中止された。
その釜石に10/14日泊で行きました。
列島大動脈、山陽、東海、東北新幹線は、予定どおりの運行で新花巻14時41分着。花巻から釜石までの釜石線は途中の遠野止まりで運休し、次の電車は2時間余り後の発車。泊りを予約している釜石まで行けない。それを知らずにホームへたたずむのは、私たち2人と、一日一組限定、(とおの屋 要)遠野の美味しいどぶろく^^が目的の30歳がらみ?のお兄さん2人と、釜石でお店が泥水被災した姉さまの手助け目的のご婦人の5人のみ。ここ新花巻で次の電車の2時間余は待てない。オザキさんと云われたお兄さん達は(もう一人のお兄さんのお名を二度聞きしたのに思い出せない^^!)レンタカーを即断!! 「真にもうしわけ御座いませんが、私たち3人を同乗させて頂けないでしょうか^^?」「いいですよ^^遠野までですが・」車行きで1.5時間は? かかったかな。お礼をいい分配を願い出ると「困っている人があったら助けてあげて下さい」と、固辞された。さて、残された遠野駅での3人。これからどうする?? 奇しくもオザキさんといわれる御婦人が釜石の姉さんにTelすると、盛岡から帰りの姪ごさん母娘が約1時間ほどで遠野につくという。駅員さんに聞けば不通であった釜石行きの電車は、先ほど10分前に出たというし、次の電車は2・3時間後の発だという。それまで待つと釜石着は午後の10時はゆうに過ぎてしまう。ここでもその釜石行き御婦人の情にお願いしてのヒッチハイク^^!。着いたのは6時頃。<3/11>で流された姪ごさんのお家がその海岸ホテルのすぐ近くにあったそうです。そして、カナダ選手30名が泊まられたと聞くホテルで合ったお客はただ一人の貸きり状態^^!。 翌朝、歩いた釜石駅までの道路では流れ出た泥土の片づけ作業がなされていて、注意しないと滑りこけるほどでした。もとより、観光が目的の釜石行きではありませんでしたが「人情け」というかえられない経験ができ、我が敬する岩淵先生にもお会いすることができました。
そして、もう一つ学んだことは、このような大災害時には、状況が色々とかわっているのにその錯綜した情報が一人歩きして伝わること。「その情報が何時、だれが、どこで出したか」を見極めることが大切かとおもいました。このようなことは「史記」にもあることで、その一字一句の全てが正しいとは限らないのではとも感じました。
[332] 題 - まだある卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸 !!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年12月 4日(水)04時05分
↑吉備・総社市岩屋・未掘の銅鐸23個が埋めてある岩屋寺金堂とその上斜面
※ 尚、この写真の場所は、地域・地主様へのご迷惑や歴史破壊を考えて〔極秘〕としていました。※写真は散策コースを外れております。(散策道は所有者のご協力からなっており)
コース外の探索はくれぐれも、その許可をとってからになさって下さい。そうしないと
立ち入りさえ出来なくなってしまいます。【厳重注意】
卑弥呼は魏から得た100枚の銅鏡に換えて出雲と “同じ決め事”で 持ち寄った銅剣と銅鐸を封印した!
↓myブログよりコピペ^^!
< 岡山県総社市岩屋 に埋められている大量の銅鐸、現地画策,その 2 >
「卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸を見つけたい人この指とまれ!」
表題を掲げて、(十数年の)広報活動を続けてきましたが、未だ、何方さまからも取り合って貰えていない。もう、私には貴家や世間さまがこのビッグゲームに参加して下さるまでお待ちできる頭脳寿命は残っていない^^!。この先は “ ツルハシかついでスコップ片手に”の暴挙にうつりたいと思いましたがぁ~^-^?。
『今までの概略』
(卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸よりの抜粋)
なぜ、“大量の”銅剣や銅鐸が埋められたのであろうか?
銅鐸は、大量にまとめて埋められた以前にも、必要時以外は個々に(土中保管説)埋められていた。 話は、これを大きくさかのぼり、「BC.2001年の12月25日、未だ暗い朝の6時頃、地球を半周した彗星が、龍飛崎の上空を通過し、三陸地方に巨大隕石となって光臨した!」 ←この詳細は、myブログのカテゴリー「巨大隕石」へ、どうぞ^^! http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-6.html
祖先はその赤く輝いた巨塊を、その風切り音から“竜”と命名した。この巨大隕石は、隕石の冬による慈雨と、津波による魚介類や瑞穂という恵みを打ち上げ、そして、犠牲を強要する荒神となって “人々の心の中” に入り込んだ。
神の発生は大集団社会へと展開する核となる。その過程で雨水の必要性もだんだんと増してきて“雨乞い”が始まる。願う相手は、その慈雨をもたらした八大竜王だ。 この荒神様は、慈雨との交換に赤い血を欲しがる。
生け贄の歴史は、最初の小動物からエスカレートして、 ついには 「私達には、これ以上に大切なものは有りません。 この幼子を煙に変えますから、どうぞ、この海水を、この幼子の煙を雨雲に換えて下さい」 と迄になる。 “その天竜水神を呼び寄せ、荒神を乗り移す媒体となったのが銅鐸だ!” それ等の “雨乞い生贄文化” が永々と続いていた3世紀の初頭に、言い伝えの箒星が現れた。 朝夕の空にあるその星は日々に大きさを増していった!
又来るあの大事変が!! 人々が恐れおののくなかで、ヒミコは云った。
「やがて、あの星は全天を覆うだろう。 私がその難を逃れるお祈りをしてあげる」 と、
結果的に、この彗星はニアミスに終わり、人々は大きく安堵した。
火巫女は説いた。「真は、お日様が主神で荒神彗星は、そのお使者であるよ。
その証しに、その星は、朝夕のお日様の方から来たでしょ。悲しい習慣りは、止めにしましょう」
元は、と云えばヒミコは、一般の子と区別するために、その削がれた耳を、おカッパ頭で隠し、人里離れた境内で “人身供儀用” として、大切にそだてられていた三歳~七歳までの幼子のうちの1人であったが、その口寄せが 「よく当たる」 ことから、その厄を逃れていた。この一件でカリスマ性を増した卑弥呼は、銅鐸を中国・魏から取りよせた銅鏡に替えさせた。初めて見る銅鏡に修厳者(大夫)達は驚愕した。並みの驚愕ではない。太陽の光を反射するその鏡は直視することが出来ない。 目を閉じて地に‘ヒレ伏’した。日巫女さまの云うことに間違いはない! 早朝の戸口に白羽の矢を立てられれば、否でも愛児を差し出さねばならない社会制度。 雨乞いや厄災時には“その命”神が召すのだと! 稚児たちを殺めた。 一度使った刃は二度と使いたくない。出雲の大量の銅剣は、犠牲者(塚)の数だ。 このような「衆生雨乞いのための社会制度」に、不満がくすぶっていたから、それまで銅鐸を使用していた文化は、卑弥呼の提唱する“銅鏡象徴文化”へと、容易に変わっていく。 しかも、ヒミコさまは、その銅鏡を下さると云う。 荒神・銅鐸文化が発達し、卑弥呼(銅鏡)文化へと変わった所には、 「その神二度と起こしてはならない! その剣二度と持たしてはならない!」と、不使用にした銅鐸と銅剣が持ち寄られ、それぞれが 別離させて“封印”されている。 その「雨乞いは」、村人こぞりて行う大行事であり、その埋め場所は “衆知の事実”なのに、その銅鐸や銅剣が、ごく近時まで盗掘の被害に遭わなかったのは、墓泥棒も恐れるほどの “祟り”があったからだ。しかし、銅鏡にかえても欲しい雨は降るとばかりは限らない。 「やっぱり荒神様は、生娘を欲しがっているのだなぁ~」と歴史は続いていく。
以上が解れば、「主題の、大量の銅剣・銅鐸捜しは」簡単だ!! 出雲では、すでに、その両方が出土しているから、これに習えばいい。 ←この詳細は、myブログのカテゴリー「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」へどうぞ^^!
魏からの銅鏡数100個=出雲銅鐸数39個+<吉備銅鐸数23個>+神戸銅鐸数14個+野洲銅鐸数24個
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2016 / 2 / 04(木)
その日の気温は10°C前後で晴天。総社市鬼ノ城(きのじょう)へ着いたのは午後の1時頃、平日のせいか、60~70台停められる駐車場には、10台ほどしか停まっていない。観光の時期を外れるとここまで足をのばす人は、歴史に興味のある人か健康志向のハイカーしかこないようだ。ここから車で10分ほど走ると目的の岩屋へ着く。それでも、10台ほど停められる駐車場には2台の車が停めてあった。目的は(自説)卑弥呼が関係したとする大量の銅鐸(予測数23個)が埋められていると推察している岩屋(宮?)の裏山で、その銅鐸が埋められているとした場所をピンポイントで写真を収めておきたいとの思いからだった。というのは去る1月23日、岡山県立図書館で、著名なお二方の吉備の歴史についての講演を受けてのことだった。
<そんなこともあっての岩屋寺の探索である。二度探索した>
岩屋寺観音院 - 写真省略
○○時代のその昔には、東の比叡山と並び称されるほどにぎわっていたとか。
岡山県総社市岩屋・鬼の差し上げ岩 - 写真1
岩屋という地名は、この人手とも自然風化ともつかない姿形をした巨岩に由来する。そして「鬼の差し上げ岩」と呼ばれるのは、鬼が差し上げたとする(右手の)痕が巨岩の下方についていると伺った。それをネットで知った若者連れが下にマットを敷き寝転んでその霊気をもらう パワースポットとなっているとか^^!。 近年に下部が崩落し、危険なことから、現在は、縄を張りめぐらし立ち入り禁止となっている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
以下の記述(A4-3頁分)は、地区のご迷惑や 歴史破壊に繋がるとの思いから、
( '16, 2/15 現で! ) 〔極秘〕未公開 としていましたが・・・^^!
<総社市・岩屋寺金堂>
巨岩と同じ敷地にあるこちらの方は、「金堂」と呼ばれているそうで、格子戸の中には小さな木彫りの毘沙門天が祀られている。しかし、近年の過疎から、その本尊は、足守のほうに移されていると駐車場の掃除をされにこられた年配の男性が教えて下さった。この裏手の崖の上が素人探偵が、卑弥呼より受けた者が(或いは卑弥呼本人が)銅鏡に換えて予測23個の銅鐸を '埋封'(筆者の造語)しているとする場所だ。
金堂裏手の崖上の均地(なるち)、の写真(省略)
一度目の探索時(トータルでは二度目)、その銅鐸が埋めてあるとした均地
金堂の写真 (脚部が高いのが特徴) - 写真2
南北30m~40m東西約10m余りの、木の葉形の均地の中央に枯れ枝を赤いテープで結わえて写真に収めた。太い木はない。ここなら枯れ葉の積もりはあるももの筆者が四尺下、実際には掘り底四尺の上に寝かせた銅鐸一尺を差し引いた約90cm下に埋められているとする銅鐸は、草刈り機タイプの金属探知機が使えそうだ。 ・・・・、
と?、足元をみると予想もしなかった黒い瓦片がある。屋根すそのもので三つの渦巻き紋がある。紋の名が思い出せない。黒い瓦だということは時代が新しいことを意味する。落ち葉に隠れているが、他にも破片があるようだ。わざわざ神社の裏山に要もないのに瓦片を持ってくる人はいない。というのは昔人間ならわかって頂けると思うが 「触らぬ神にタタリなし」 の言葉があるように、とくにその後ろ側は、気持ちがわるくて足を踏み入れない場所だ。そこに多数の瓦片があるということは、ここに小さいながらお社(やしろ)があったことになる。ここは、均地のほぼ中央。ならば、脇神は必ずある。均地の北側を探索すると多数の瓦片が。さらにその南端にも少数の瓦片があった。予想は見事に的中した。(自画自賛、だれも相手にしてくれないので^^!) 少なくとも、山中ではあるが瓦を載せた屋根が朽ち果てて平ら状になるまでには半世紀以上を要する? 史学はこれを認識してないのではないか?? (ウキウキ^^)成果はあった。 さて帰るとするか。下りる時は金堂を下に見て右側から下りた、その下りがけにも瓦片があった。その昔にはこの方から上がり降りしていたに違いない。道状にした整地のあとがある。下まで降りて振り返ると立ち入り禁止の立て札が ・・・、 知らなかった。 見なかった。・・・ことにするか(汗~^^!)。
瓦片の写真(省略)
二度目の探索へ、(トータルて゛は3回目)
・・・、・・・、妙に気になる。・・・、何かすっきりしない。・・・、この均地の中央に銅鐸を埋めたとしたのは間違いではないのか、の疑念がわいてくる。・・・・?、
銅鐸を埋めた上にそれと知り得て建物を建てたりはしない。そのようなことをすればバチがあたる。
出雲では「何んのへんてつもない斜面上のところ」とあつた。当地は人手を加えて平ら状にしたかも知れない均地である。さらに、均地中央より南に10cm~20cmほど高い道状の高まりがあったのも気になる。通常では、山歩きをするとき小規模では盛り土の畝上を歩くか、土を谷状にけずりとり歩きやすくする。均地の中部に畝状の道は要らないと思うが? 以前に訪れた時もその道状のところを上に上がって遊歩道に出たがその均地より上は銅鐸を埋めるとするような場所は見つからなかった。さらに、均地につながる斜面にも多くの立ち木があったとも思うし、よく確認していなかった。・・・、その確認をしたい。・・・んで出かけました。
2016 / 2 / 11(木)
ありました!! 次ページの写真が、その 銅鐸23個±α個 が埋められているとする斜面の写真です。かなり急斜面であり、さして広くもない。木の葉形の均地の中央に連なる斜面で、その斜度45°ぐらいかな。均地を立ち位置として、上部のなだらかな所まで4m~5mはあるかも知れない。
その場所を下から見た写真 - 写真3
(倒木の傍で、枯れ枝を赤いテープで結わえている場所)
その位置を上から見た写真(省略)
< 吉備の大量の銅鐸は、この “位置に”埋封されている!!。 >
前回も、前々回も斜度もきつく、少し太めの立ち木もあることから見逃していた。大量の銅鐸の埋め地を探るとき、絶対に外してはならない条件がある。その上を安々と歩いてはならないこと。その足音で ヒレ伏している荒神が目覚めては困るからだ。そして、山の中腹に埋められているのは、荒神がおわす 天井山の頂上と、慈雨受ける大地 である山のふもとの中間にあり、この二つが交わる考えに基づいている。それを別紙報告書では、山頂に埋めたのでは遠すぎるし、ふもとに埋めたのでは「もう降りた」となりチョッと早すぎる。それではチョッと都合がわるい。(笑い)。入れ子(大きい銅鐸に小さい銅鐸を入れて埋めていること)にしているのは、掘る面積を少なくして、少しでも楽がしたいとの単純な理由から^^! 蛇足ながら銅鐸の大小は寄り集まった部族の大小だと謎解きしている。野洲の三上山ではその山上にシメ縄を張った盤座岩があった。これは、封印した銅鐸や銅剣を押さえつけておくものであり、ここ岩屋にもそれがあった。途中の東向き屏風岩は、東から西進してくる荒ぶる冬至の旭光を受け止め、その力を減力する(盾の役目の)もので、今では、それが金屏風に変身していると謎解きした。このような考えは銅剣銅鐸の両方が出土している出雲にもキットあるに違いない。・・・・、
さて、あなたさまは、どうされますぅ・・・^^? 2016/2/15 □
1.実績のない素人の妄想として無視する。→出たらさわぐ^^!
2.自己責任で、その銅鐸を掘り上げ古代史に風穴をあける。→祟りがあるかもよ~~!
以上の(A4-3頁分)は、地区のご迷惑や 歴史破壊に繋がるとの思いから、
〔極秘〕未公開 としていましたが、当方、ボケ(作文や編集能力の衰え)もあり、どうせ(30年来)、誰も相手にしてくれないから大丈夫かぁ^^)と、咎(とが)を承知で、この掲示板の物言わぬ(平均100名)方々にも記憶に止め置いてくだされば幸いと思い掲げることにしました。スミマセン^^!。ただいま終活中。当方ボケ進行中でコメントを下さっても、そのコメントにお返事の確約はできません^^! どうぞ、ご机下に!!
<しかし、実際にそれを掘り上げるとなると、次のような難しさがあります^^!>
↓myブログよりコピペ^^!
<卑弥呼が埋封(筆者の造語)した大量の銅剣や銅鐸の埋め地を 「ここぞと!」推定しても>
その(吉備・総社市岩屋の金堂)あたり一帯は、鬼ノ城の観光地化に伴い、心無いハイカー(=私自身^^!)もあるのでしょうか^^! 「私有地・地主さまの協力のもとに成り立っている」 との立て看板がありコースを外れての立ち入りが禁止されています。
立て看板には、『樹木の伐採、草木の採取、土石の掘削等は県知事の許可がいる』 と書いてある。埋蔵文化財は貴重な国民の共有財産です。文化財保護法では,周知の埋蔵文化財包蔵地、またはこれに隣接する土地において土木工事などの開発事業を行う場合には,都道府県・政令指定都市等の教育委員会に事前の届出等を,また新たに遺跡を発見した場合にも届出等を行うよう求めている。その発掘費用(今から18年前の見積もり数百万円!アーカイブ2008/4月へどうぞ^^)は原則的には地主持ち。そして、素人が勝ってに掘り出しても専門家のお墨付きがなければ意味がない^^!。
さらに、土砂災害防止法では、土砂災害のおそれのある地で『上記』のような作業をする場合、あらかじめ規定の届出をせず、又は虚偽の届出をした者は科料が科せられる。宅地又は垣、柵等で囲まれた他人の占有する土地に立ち入ろうとする場合においては、その立ち入ろうとする者は、立入りの際、あらかじめ、その旨を当該土地の占有者に告げなければならない。等の規定もある。実績のない素人が 「ここに、卑弥呼が埋めた大量の銅剣や銅鐸があります」と言っても、だれ一人(専門家が)相手にしてくれない現在、その申請書がとおるとは思えない。
このように、二重三重四重の幾多の困難が待ち構えている。金属探知機をかつげばいいのだが。それでは意味が半減する。素人探偵がたどり着いたように、 「地名と、地勢と、その歴史的背景」 を探れば、ピンポイントでその埋封地(筆者の造語)を特定できることに意味がある。ドがつく素人が、スコップ片手にツルハシかついで掘る前に、先様方の“お許し”が要る。 その指さす場所を1mと違えてはならない!!
闇夜の不如帰(ホトトギス)。 その口内は、血反吐を吐いたような赤い色をしている。
ちなみに,ホトトギス(素人)は、子育てが苦手でウグイス(専門家)に托卵する習性があります^^!
何故に、血反吐吐くかや、時鳥(ホトトギス)、おぼろなりとも、月さえあらまじ、
あなた(春告鳥ウグイス)・先学鳴くとも、我バイチャ(あの世^^?笑い)。
(カテゴリー<ゲスト様>粗茶室より)http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-3.html
[351] Re: 続・童唄に隠された謎?・その歴史、忘却の彼方に!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年12月28日(土)00時52分42秒
青面金剛さまへのお返事です。
コメントありがとう御座います。・・もう下さらないと思ってたのですがぁ~^-^?
わたしの意とすることは『 ここ掘れ、ワンワン^^』 先様のコメントはありがたいのですが、辛口コメントも、度を過ぎたモノはいかがかと思います^~! この先、その出土までには時間がかかると思います。それ等が出土しなければいいのですが、(もし?)素人の予見した場所に、予測した形でその坑道窟や大量の銅鐸が出土したらまずいことが世に残りますよね(^^)
> > 卑弥呼は「稚児を殺めた銅剣を、二度とその剣、その荒神に持たせてはならない!」
> ★ 前にも指摘した様に、銅剣の×印は、東出雲王家の富家の紋である、銅矛が交差した紋を示す、王権の象徴を意味します。
先さまのご指摘のすべてを記憶している分ではありませんが、出雲には<富・とび>という地名(国土地理院)がありました。何故、これをトビと読むのか不思議でなりませんでした。飛び? 鳶?そのすべては思い出せませんが。加茂(カモ?)や、鷺峠をはじめとして、出雲には鳥の地名が他の地に比べて多いのが気になっていました。×印は、歴史の流れを考えると、「富家の家紋」が先にあったのではなくて、卑弥呼の封印の方が先であり「この剣、二度と使わじ」とした不使用の意や、封印の意があるのではないでしょうか。今では封書を閉じるとき×印を書く人は少なくなりましたが。この×は封をするって意味ですよね。その剣の茎(なかご)に無印のものが幾つかありましたが、これは素人の謎解きでおおいに参考になりました。つまり、それは使用しなかった新品・予備剣かと!! このように考えて歴史をさかのぼれば「富家」は由緒ある家筋になります・・^^。
> ◎ みやすみやまの おんばあと、たぬき
> ぽんぽこぽんの すっぽんぽーん♪ ひとやまこえて ふたやまこえて みやすみやまの うえで ♪たぬきさん たぬきさん ♪あそぼじゃないか いま ごはんの まっさいちゅう ♪おかずは なあに うめぼし こうこ ♪ひときれ わたしにくださいな ♪あかちょこ べっちょこ いやしんぼう♪
> と たぬきさんが まりつきを・・。ほんに 近くに聞こえてくるような。
またまた、貴重な情報をありがとうございます。
わたしは「二山越えて、三山の前で、狸さん・・」の狸さんが推めていませんでした。「なぜ、それが狸さんなのか?」狐ではだめなのかと?「ぽんぽこぽんの すっぽんぽーん♪」 そうです。この形容は。狸の皮太鼓をたたく音だったのです! 「おんばあ」は卑弥呼です。一般に卑弥呼は美娘として描かれていますが、わたしは、そうと考えていません。娘時代と老期とはちがうでしょうが、史記には「千人の傍女にかしずかれ、その姿見たものなし」とあるようですが、女子は長髪が一般的な世の中。老期の卑弥呼は、幼児期に削がれたその耳を隠すおかっぱ頭。目の周りには歌舞伎役者のようなクマドリ。そしてお歯黒の歴史があることから、前歯の全てを抜いていたと推定しています。倉敷市・船穂町の里木貝塚では前歯を意識的に抜いたのでは?とする遺骨がでたとか。その遺骨が卑弥呼だとはしませんが、「お歯黒」は江戸時代まで残っていたようですから、巫女さんにおいては、同様なことが拡散したのではないでしょうか。
卑弥呼は、狸皮太鼓(鼓・つづみ)をたたき、その大量の銅鐸や銅剣を封印している。
卑弥呼の本拠が(自分の知識では)どことはいえないが、その<埋封・まいふう筆者の造語>のため、出雲・吉備・姫路・野洲へと移動している。でなければ「姫路」の地名は残ってはいない。興し(おこし)に乗って移動している。このシキタリは、浜松の姫街道(国土地理院)。地方によっては、今でも花嫁行列や、葬儀列として残っているのは皆さまの知るところです。このように。今の私たちが「何をしているか」から手繰っていくのが素人探偵のやり方です。みやまの前か?上か?の問題は残ります。青面金剛さま>ありがとうございました。
> ☆ 三休公園民話村 岡山県久米郡美咲町西川上400-11
> 岩倉山:標高394.2m 岡山県加賀郡吉備中央町上田西
> 岩倉公園
行ったことも聞いたこともありません・・(滝汗~^^!)。
こういった遺跡に桜の植樹は珍しくありません。今でこそ桜は観光木ですが、その昔をさかのぼれば「農事呪縛の木」であったことは、先さま方の知るところです。逆に「桜」の植樹があれば、その歴史の拡散かと(神戸・桜が丘)疑ってみるのも楽しいことです。「みやすみやま」にしても「宮山・みやま」にしても珍しくありません。今でも、里山に神社があればそれ等は「みやま」の呼称で呼ばれているのではないでしょうか? 「共通の文化があれば共通の事象あり」 何故、それが「三・み」なのか? 今では、その追求を、すっかり忘れていることが大きな問題だと考えています。
> ☆ 平さんが、その説を唱え続けたいなら、絶版本なので、図書館の館員に探してもらう事。
図書館へいけば、そのネットワークをとおして、読みたい本を他の図書館から取り寄せてくださるのは知っていますが、只今は「 終活中^^!」そのエネルギーは残っていません。ので、ので・・・
[353] Re: 鬼の岩屋
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年12月30日(月)
管理人さまへのお返事です。
コメント、たいへん遅くなって申し訳ありません。
> 昔、鬼の岩屋は、地元の方に案内していただいて行ったことがありますね・・・。
> 元は、神籠石の時代、つまり弥生後期~末期のものでしょう。
> 鬼ノ城はその当時の山城だと睨んでます。ライン面でも結びつきましたね。
> 当時の私の探索記録があります。物部氏系の石切神社や磐舟神社とライン面で関係づけてますね・・・忘れてました(汗)
☆ > 鬼の岩屋も、測量面では重要ポイントです。
> 図1はその周辺遺跡との位置関係を示した図ですが、鬼の釜というのが南にあります。
☆ > 鬼の釜も見たような記憶がありますね・・・。鬼の釜についてはこちら。・・・、
☆ > 温羅遺跡と鬼の釜との間に鬼ノ城が位置します。
> この三角形の意味するところについて、ぜひ平さんの所見を伺いたいところですね!
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<鬼の岩屋と、 鬼の釜と、 温羅遺跡(←鬼ノ城内の東部に在り)の△点形について>
ごめんなさい。上記の三角形についての考えは及びませんでした。
〔僭越ながら素人の考えをのべます^^!〕
その規模の大きさ(〇〇ha)からして鬼ノ城(きのじょう)が中心だと考えられます。
こういった(遺跡)の施設を弥生期以前の土地の私有化がゆるい場合、祖先の考えをさぐるには「何かの思い」があってその地を選んで施設されていると考えられます。この点で先さまの方角論と一致するものがあります。温羅遺跡とされている所は、自然石を立てた温羅(ウラ)の墓だと思いますが、鬼ノ城は、すり鉢を伏せたような山形ながら多少の起伏はあるにせよ、その頂部は東京ドーム〇個分の広さがあります。ウラの墓が「何故、東部の中ほどにあるのか?」が、私的には分っていません。又、その墓の向きですが「南向き?」だったかなぐらいしか覚えていないのです。その向きを知ることは、祖先の思いを知ることで大切と考えています。
なぜこのような考えに至ったかというと、モアイの石像が島内方向を向いていると知ったからです。ふつう私たちは墓を建立する時、或いは、建物の向きや都市計画においても同様なことがいえます。海の方か、下方か、お日様の方に向けて建立します。その方が気持ちがいいからです。これは「植物から分化した私たちの細胞や分子内には “向日性” が潜んでいる」からだと謎解きしました。
<鬼ノ城について>
鬼ノ城については、先学のほうがはるかに詳しいので、(素人との差異だけにとどめます)
鬼ノ城には30年程まえに訪れたことがあります。その時は、荒れ放題で、巨費をかけた今の復元遺跡は想像だにつきませんでした。考古学者の仔細な労苦に感嘆します。地元史家が端を発してから100年以上はかかっているかも知れませんね(涙ぁ^^!)。東西南北に門があり、南城門と、東の自然石を利用した?巨岩積みは圧巻です。このことから朝鮮式山城とみるのが定説のようですが。わたしはそうとは納得できません。
なぜなら、すり鉢型をした山頂に多少の起伏はあるももの、南側にいくつかの水門 があるからです。史学者は、この水門は敵が登ってきたときに関をきり防御したと考えておられるようですが。それにしてはチャッチイです。山上の戦いに飲料水は大切です。溜井戸は散在しているようですが、その大切な水を放出するでしょうか? 落石や糞尿で防いだとは聞きますが、山頂にあるこのような小さい規模の水門を一気に切ろうが多くの戦果をえるとは思えません。敵が大群で寄せるなら、比較的なだらかな西側から攻めたほうがはるかに有利です。そして、兵糧を蓄えるにしても人里から遠すぎています。
わたしは<この地の>歴史の流れを次のようにとらえています。
後期縄文期→ 徐福渡来期→ 弥生前期→ 水稲拡散期→ 雨水要の拡大→ →
4千年前の大事変→・竜荒神信仰・銅鐸天井雨乞い信仰・ →彗星ニアミス卑弥呼出現→ 銅鏡お日様信仰へ
徐福達は 『私たちは不老不死の薬石を探しに来た』 とは、列島人に絶対に云いません(Dr.S氏)。医療術は施しても、そんな大事なことは〔極秘中の極秘特許〕絶対に漏らしませんよね。万ヶ一発見かっても^^! それを列島人に知られたら大変なことだよね。それですと報告できるのは始皇帝ただ一人です。
もう一つに徐福たちのとった行動に特筆することがあります。
それは、信仰面です。神仙思想からの列島探索とはいえ、歴然たる文明差があるとき、微少を除いてその迎合は皆無だったと思います。それは卑弥呼の「卑」をみても、矮小の「倭国」をみても下げすんだ表現をつかっているからです。下げすんだ人達の信仰を受け入れるとは思えません。一方、列島人にすれば(4,000年前の)東北に落ちた巨大隕石(Φ10km>?なり)を “体験した”歴史と銅鐸を使用した精神文化を受け継いでおり、先国の文明は 習合しても信仰面では譲れない歴史があった。
このようなことから、当初は雨乞いから始めた鬼ノ城であったが、始皇帝も徐福も没し歴史はながれ薄れゆき、今ではその裾野平野は海抜5~6m〔注〕であるが、その昔は浅海であったことから、朝鮮式山城として “転用” された時期 もあったかと思います。
〔注〕この、裾野平野は海抜5~6mの件ですが、吉備津神社への参道の両脇に松林が植えられており、国土地理院の調べでここが分水嶺になっており西へ流れれば高梁川へ。東へ流れれば足守川へと流れるようになっており、分水嶺が出来ない地勢に分水嶺がある不思議もありますが、ここに<境>の地名もあることから、4千年前の巨大津波がこの地まで届き、両岸がここで狭くなっていて、ここで津波の土砂溜まりが出来たことから、この場所を「その神がおいでになり留まった所として吉備津神社を建立した」としたことがありましたが、これも実地検査を怠っており、調べねばと思いながら忘却の彼方へいっておりました。(汗~)そういえば出雲大社の参道にも松林がありましたかぁ??
総社市の東方の平地にウラと吉備津彦側が舟で戦ったとする「矢喰い岩」があります。ということは、いまより地球は温暖化していたということになります。少なくとも瀬戸内の歴史を語るとき、この海退、海進を外すことができず、いつの時点を切り取って議論しているのかが重要となります。それは水稲栽培可能地帯に大きく関係してくるからです。□
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筆者が 鬼ノ城は雨乞い施設だった とする理由がもう三っつあります。
一つに、すり鉢を伏せたような頂部ですが、全体として南側の平野部に傾いていて、東西の左右に版築土壇列が築かれ、南側の水門に流れ込むように設えてあります。わたしは、この水門を雨乞いのための 呼び水 として放流したとみていますが、これを防壁塀とみると防御のためのお城塀ということになりますが?
二つに、南側の海が見える頂部近くの岩表に焚火(?)のあとが黒くあったこと。焚火を長く同じ場所で焚くと、黒くなったり赤くなったりします。これを戦いのノロシ痕とみるか、雨乞いの煙り立たせる所とみるかは先様方のご自由です^^!。
三つ目に、この下部平野に<砂川>が流れていることです。砂川といっても今では水の流れているのを見たことがありません。砂川の地名は、野洲に蛇砂川。出雲にも蛇砂川だったかな?蛇行した人造様の川があります。神戸では余りにも急こう配なので、それらしき川名は見当たりませんでしたが、北海道にも砂川市があり、四千年の津波が運んだ砂土かとも思いましたが問い合わせたところ、「付名の理由は分かりません」との親切なお返事がかえりました。
そして、ここには<血吸川>なる生け贄を連想するショッキングな川名があります。それかどうかは分かりませんが出雲にも赤川がありました。出雲のほうは酸化鉄川かも知れません^^! 以上のようなことを myブログのカテゴリー「吉備地方」に書いたような気がしますが、・・・・、 ??? よく思い出せません^^! (忘却探偵よりぃ~~!)
<温羅(ウラ)について>
この件について先様方に述べるのは赤顔の至りですが、素人の思いをのべたいと思います。
ウラは大陸か半島系の夫婦かとおもいます。当時の大陸・半島との文明差は精神文明をべつとして歴然としたものがあったのは知るところです。方位方角から築城、医療はもとより、衣食住にいたるまで先んじていました。この地で注目したいのは “鋳鉄” の技術です。それは、この鬼ノ城の麓に<阿曽>の地名があります。ここでの鋳鉄製品は吉備津神社のお釜として後々まで納められたと聞いています。そして、上方(かみがた)からの注文も?あったのでしょうか。
次に、ウラ夫婦としたのは、理由(わけ)があります。
この鬼ノ城の散策道はもとより、瀬戸内一帯には“道祖神信仰”があり、各所に石仏2体が残っているのは、夫婦像かと思います。その夫婦は、徐福達が「不老長寿の薬石探索」のために分散した人達のうちでしょうね。わたし素人は歴史をかたる人達について、大きな疑問を感じています。例えば「徐福」についてですが、その足跡は、徐福個人について語られていますが3千人が出立した百工人の大部隊。女もいれば子どももいる。今でいえば「女達の忠臣蔵」でしょうか(笑い)。 岩手県・一ノ関の金色堂の仏画に、観音様と、脇神と、童子神の三身が描かれていたのは驚きました。徐福達は列島各所への新入者でありトラブルがあった地もあるでしょうが、基本的には医療施術をしてくださる有り難い神さま仏さま^^? それを顕彰して道祖神2体の石仏として遺した。
< しかし、銅技術と鉄技術だけは列島人に教えなかった。>
大陸や半島人と、列島人の銅器や鉄器にかんする考え方はまったく違います。大陸人がそれ等を武器の素材として生み出したのに対して、列島人は祭器の素材として扱っています。列島人がその製法を知り自分達に抗らうようになっては困ります。一子相伝でしょうか? とくに銅製品は鉄製品と異なり、その製法も難しかったから、後代で奈良の大仏制作へ〇〇から銅材の寄進があったと聞きますから、遅くまでその製法は門外不出だったのでしょうか。
もう一つの大きな理由は、これを専売にして通商品とすることで、列島人が雨乞い祭祀のために欲しがる銅鐸や祭祀剣と、自分達が欲しい人手や列島の珍宝蒐集と交換できるからです。
<鬼の釜について>
鬼の釜と呼ばれる直径1.8mほどの大釜が、鬼ノ城へ行く道の下方(〇m)にありますが、なぜ此処に置かれたのかは分かりません。塩釜か、煮炊きの釜かは判りませんが、カマドに載せる縁がありますから実用的な形をしています。先の<阿曽>の地で造ったのでしょうか?(溶接製^^??)この脇にお大師堂があり、ここにいたる迄に〇番の石柱や石仏もありましたから、真宗・真言宗の色合いがあるのでしょうか。ここには数軒の人家があり、ここを左手に上ると、小さいながら「山王神社」があります。管理する宮司さまがおられんので、今では足守の「岩屋寺」のほうへ御本尊をうつしているとか。僭越ながら、基準△点と、とるならば山王神社か直ぐそばにある△山姿の<経山>とするほうが良いかと思います。ここらあたりは、筆者が推定した岩屋の23±α個から約一里ほど離れたところにあり、23×9(Dr.いずも氏参考値)≒200本 の銅剣が埋められているとしていますが、未だに探しあぐねています^^!。経山の山頂には〇〇城址があり、韓航の岡山空港への着陸コースとなっており、その飛行機が間近にみえます。ちなみに、管理人さまは、半島史にもお詳しいのですね。中国史を語る人はたくさんいますが、半島史を語れる人に今まで当たったことがありません^^!。多言されていなかっただけなのですね敬意をかんじます。黒潮と半島と北方の三方向からの渡来は、どれも欠かせませんよね^^。
<岩 屋 について>
岩屋は、筆者が「未掘の銅鐸23個あり」とした所です。前述もあるので、詳細は省略しますが、鬼ノ城が市街地から離れたところに在るのに、さらに、2km?ほどだったかな、かなり人里から奥まったところにあると感じています。
管理人さまも、タクシーの運転手の「ウラさん」に導かれて?探索なさっていたとか。そのウラの名に奇縁をかんじますね。
> http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kibisikoku0511.htm
この「渡来人の会報」まだよく読めていませんので、次報にさせてください・・・^^! つづく・・・
[357] あおさぎ・鳥祖卵生!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 1月 1日(水)
年がかわりました。管理人さま、皆さま。 本年もよろしくです^^。
12/31 本日の夕方のことです。車での帰り道ライトのなかに、なにやらが? ブレーキを踏むと、アオサギでした。こんなことは初めてです。私の見るアオサギは昼夜は問いませんが、川の中かその岸辺にじっと佇み、魚を待つ姿しか見たことが有りません。何時捕食しているのかと疑うほどじっとしています。そのアオサギが道の真ん中に。スピードがでてないとはいえ危うく轢いてしまうところでした。停車すると。かの鳥は飛び立つでもなくゆっくりと道を譲ってくれました。私は近時「鳥祖卵生」という言葉をしりました。大まかにいえば人間の祖先は鳥であったという考えです。この中でアオサギは、その漂々とした佇まいと灰色をしていることから、死灰のなかから蘇る鳥とされているようです。萎えることなく絶えることなく続いてきた「この想い」にも存命中はむりとの思いが勝るようになった今日この頃ですが、水辺でもない道の真ん中に、車行き交う私のライトの前に何故いたのでしょうか。わたしには「急くことなく道を譲っておきなさい」とでも言いたかったように思えてなりません。こういった極大論(巨大隕石と大津波)は没後に認められるが世の常。「これでもか。これならば、」と広報を重ねてきましたが本懐にいたるまでには50年100年はかかるかもしれない。これがあなたに伝わらないのは、その史実がなかったからではない。わたしの論述がいたらないからだ。 年の節目に、□
[358] Re: 神籠石
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 1月 3日(金)
管理人さま>昨年は大変おせわになり、ありがとう御座いました。
課題を頂いた、会報「山陽・四国の探索記」の全てに考えが及んではいませんが、とても興味をひく部分があり、何故マイナーな倉敷市玉島の戸島神社に?等の、奇縁もかんじます。今の私は、根がつづかずおおくの考えを総合して判断する能力に衰えがあります。・・ので、ので・ひとつづつ・^^!
> 鬼ノ城は、以前もライン面で分析したかぎりでは、神籠石ですね。山城説もありますが、神域説もあり、その石積みの低さが問題となっています。水門の活用法も考えどころですね。
神籠石(こうごいし)
http://kaifuusoo-575.sakura.ne.jp/kaifu-/kougoishi.html
鬼ノ城(きのじょう)の神籠石列と、その上に版築した土塀の施設場所で「雨乞い施設だ!」との考えにいたったのですが、改めて勉強させていただくと色々にあるのですね。
わたしも随分むかし^^その施設場所に異を感じていました。戦いのための城であれば、城地の全部を囲んであってもいいのだが? なだらかに南側へ傾斜し、すり鉢を伏せた山姿の東西の中腹部にその風化した土塀列はありました。神籠石のほうは分かりませんでしたが、それは「途切れ、々れ」にあるようです。
私は、瀬戸内の干天気候から水稲栽培の拡散・拡大につれ「雨乞い要」は必至とし、各地の雨乞いに関する「地名=伝言」を探していましたから、先に論述した、鬼ノ城の「山上の水門・数基は呼び水施設だ!」と合わせて考えると、南側の水田方面へ「雨水欲しや」の祈りがなされたのではと思って、その塀痕の施設場所を調べると、降った雨水が西側や東側へ流れ落ちる所に “だけ” 施設されているように思いました。これで「途切れ、々れ」の理由はわかりましたが・・??、
雨水集めのためだけであれば、神籠石の上に版築(突き固めた)土塁(塀)まで築く必要はありません!!。先さまがご指摘のように低くても大丈夫です。・・・、そして歴史はながれ、大陸からの侵略にたいし、この神籠石を基礎にして南方部分にだけに防壁として土塁は、築かれたのではないでしょうか。
<神籠石:参考資料>
のすべてを読んだ分けではありませんが、神籠石が “密に”並べられたり、不安定と思われる "斜に"すえられたりしているのは、上流からの雨水泥流が下り降りるとき、土を盛上げただけで、その水の方向決めをしたのでは、たちまちのうちに崩れ去ることは今期の被災でもしるところです。これは素人探偵の思いつきですが^^!。 皆さまには、近場にある神籠石の設えてある場所が、筆者の言うようにあるかどうかを確かめて頂きたいし、もし、そのようになっていれば、それを学術的に論述されるのは、専門家・先様方の役目ではないでしょうか^-^?。
このように、歴史は伝承しながらも移り変わっています。一事を追求することは大事ですが、今、立派に築かれた鬼ノ城の南城門だけを見て、歴史の「一時だけ、一ヶ所だけ」を切り取って、これが歴史の全てだと覆いかぶせることは慎みたいと思うようになりました^^!。
追記:「先の神籠石紀行」の写真を観ているのですが、石の平らな加工面の向きが土留めようにあるか、水路用にあるかで、その考えは変わってきます。鬼ノ城では水路用と解しましたが、もう一つに「籠・かご」という字をあてていることから、囲んだ内を「聖域とか境内」として区切るための考えもありますから、迷うところです・・・^^???、
・・To be continued^^。
[360] Re: 神籠石
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 1月 5日(日)08時32分
管理人さまへのお返事です。ご丁寧なコメントありがとうございます。
皆さまにとって本年も益々のお年になりますように^^。
> 神籠石についてご意見ありがとうございます。特に水門の存在は用途解明のキーポイントになりそうですね。
今までは「神籠石」のことば自体を知らなかったのですが、祖先がその石列を何故、「籠・かご」の字をあてているのかに興味をもつようになりました。ご存知のように、竜は雨降らす水の神であり、その神に人里近くで天にも近い山頂で「雨降らせ給へや!」の祈りがあったのではないでしょうか。山城説のそれはその時期の解明で大切なことなのでしょうが、歴史的知識のない素人には卑弥呼以前の代に的をしぼっています。
地形的干天から瀬戸内沿いでは雨乞いが発達していたようで、管理人さまが特視?される北九州には「岩屋」の地名が数多くあるのには驚かされています。それに名前は思い出せませんが「〇〇平」は龍神への食台(myぶろぐ)だとしたこともありました^^!。
> 平説は、そうすると現在言えばダムのような役割を果たしていたことになるでしょうか。土砂崩れ止めの土塁ともいえそうですね。
そうですね「ダム」と云うと水利の意がつよくなりますが、水田への水利にしては貯水量が小さすぎるので「呼び水儀式のための貯水」ではないかと考えています。そして、神籠石は「境界決め」の意が強いのではと思うようになりました。
> 神籠石の原型については、個人的には沖縄のグスクとの関係を模索していますが、そのグスク自体は山城と神殿の組み合わせとなりますから、その神籠石の構造がグスクと重なれば、立証できるのではないかと感じます。
沖縄の「城・グスク」については全く知識がないのですが、以前、管理人さまの調査で「さいごはやはり現地調査で・」のことばがつよく残っていますし、私も、そのように思います。
> その際に、水門の是非や、その位置などが同じかどうかも気になるところです。
> また聖域の構築方法に共通性がないかどうかも調べる必要がありそうです。
そうですね! それが「雨乞い施設」だとの認識を得るには 学者の論理と解明が是非とも必要です。「水門の是非や、その位置!!」の追求には同感です。わたしは、以前「その海水や湖水(琵琶湖)の水を天にあげて雨水に変えて頂けませんか」と、ご先祖さまは祈ったのではとしたことがありました(笑い)。
> 先ほど、沖縄特集の番組をみてましたが、御嶽という聖域の紹介があり、洞窟や岩の重なり合う地点と、日の出の方角との関係性について触れていました。
わたしが、管理人さまや、先様方に強く願っているのはその件です。正月の番組で伊勢の夫婦岩のあいだからダイヤモンド富士が遠くにある映像をみました。祖先は 正月(≒冬至)の日の出に強い興味をもっています。但し、地球の歳差運動でその方向に変化ありとは先様がたが識るところです。今<渡来人>会報をみていて、私たちが神社にある盤石が山のどの位置(方向)にありかを知ることは先祖の考えをしるうえで大切と考えるようになりました。
今、私たちが両の手を合わせたスリットや 盤石二つの間から初日ノ出がのぼってきました。わたしには、その強い日差しが四千年まえの巨大隕石が発した'<閃光>千光寺' 信仰の源に思えてならないのです。
> また水流という点では、沖縄でも水田が造られていたそうで、湧き水の利用もなされていたそうです。水を通しやすい上層の石灰岩と通しにくい下層の泥岩との組み合わせで、そのような湧き水が流れ出るようになるそうです。
山や、巨岩の隙間から、干天においても涸れない湧き水を聖水としてあがめることは 各地にもあるようです。沖縄と同様な石灰地に中米のセノーテがあるのは先さま方のしるところです。
> 平さん的には、神籠石と貯水、流水の関係があると考えておられるのですよね。その辺、もう少し掘り下げてみてもよいかもしれません。
管理人さまぁ~~ 素人の中坊的発想や論説ではどうにもならんとですよぉ~~
それにボケが加わってきてますしぃ~~ (会報のほうに移りたいのですがぁ^^!)
先さまの岩屋探訪には何かの奇縁^^?をかんじます。わたしも確かな記憶ではないのですが同時期に?訪れたことがありました。鬼ノ城の賑わいに比べその駐車場は小さくて車10台ほどしかとめられません。ここへは何度か足を運びましたが、二人組と一人の三人にしか会ったことがありません。なかでその駐車場へタクシーが一台だけ停まっていたことがあり、「こんなとこ迄、タクシーでくるかぁ~」よほどのお人がと思ったことがありましたから「もしや」とのありえない想像をしたりしています^^!。
[361] 渡来人会報「吉備・四国」を読んで
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 1月 6日(月)04時09分1
管理人様 & 皆々様へ>
・総社市・岩屋・他の探索のほうは、別の機会にします。
岩屋や戸島のようなマイナーな場所へのご探訪には何かの奇縁^^?をかんじます。
> [341] 鬼の岩屋 投稿者: 管理人 投稿日:2019年12月19日(木)
当時の私の探索記録があります。物部氏系の石切神社や磐舟神社とライン面で関係づけてますね・・・忘れてました(汗)
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kibisikoku0511.htm
> それから('05/11)26日に・・、夜広島から新幹線で新倉敷で下車し、夜新倉敷を探索することとなりました。駅前からタクシーに乗り、戸島方面へ。児島の屯倉と関連して、屯倉の比定地を児島にもってくるか、戸島にもってくるかという論説があったような覚えがしたので、水島港方面にある戸嶋神社へ向かってみました。・・・、
ずいぶん前に(も?)「広島・備中地域や四国」を探索されたのですね。
タクシー運転手ウラさんの案内があったとはいえ、地元の人さえ知らないような神社・遺跡を巡られたのですね。そして地元の人さえ見逃してしまいそうな事さえ目をやられていると、・・今度行って確かめたい気持ちにもなります・・^^?。なかで屯田はうっすらの記憶なのですが「屯倉」は初めて聞くことば。戸島神社の乙島祭りは盛大ではありますが、マイナーのなかのマイナー^^!。http://はヒットさえしませんでした。そんな戸島さまへ新倉敷駅から夜の探索直行された理由(わけ)が分かりません。玉島では「羽黒神社」のほうが有名です。↓調べました^^!。
戸島神社(岡山県神社庁より)
創立年代は詳らかではないが、往古からこの地に鎮座していたと言い伝えられ、旧社名を養父母大明神と称した。明治4年戸島山鎮座の「養父母大明神」へ乙島八幡山鎮座の八幡宮を合祀の際、乙島の古名の戸島をとって戸島神社と改称し今日に至っている。□
わたしが注目したのは、その「戸島さま」があるところの 地名が<養父・やぶ>だったからです。
「養父・ヤブ」とは変んな地名だなぁ~が^^? この謎解きの発端です。以下へつづく・・・、
↓myブログより、再度の掲載になりますが「徐福達が日本史に与えた影響」よりコピペします。
<養父の地名を検索する> (Nov.09,2015~ 記)
徐福たちは、長命実証用としての童子たちを<養父・やぶ>に隔離して育てていた。
次が、今回調べた養父の地名がつく場所の<7箇所>です。
日本国内のランドマークより
①兵庫県養父市養父市場 養父神社-ビル ⑤ 愛知県東海市養父町2丁目16
兵庫県養父市薮崎字唐木 愛知県東海市養父町義神
兵庫県養父市別宮 愛知県東海市養父町釈迦御堂
兵庫県養父市新津
④大阪府枚方市養父元町
③広島県宮島市宮島町養父 ②岡山県倉敷市玉島乙島養父
⑥佐賀県鳥栖市養父町 ⑦徳島県鳴門市大津町木津野字養父の内
<なぜ、その地を[養父・やぶ]というのか?>
何時、誰が付けたのかは知らないが、考えてみれば、ずいぶん不思議な地名である。古今東西“子”の無い夫婦は、たくさんいる。その人達がこどもを欲しがり養子を迎えたとする。その行為があったところに「養父」の地名を付けたのでは、列島のそこら中が「養父」だらけになる^^!。・・・??????? □
この地名は徐福達の内が付けた地名ではない。何故なら「私たちは養父です」とはいっても、此処は「養父です」とは絶対に云わないからだ。この地名は列島の住民が付けている。徐福達の養育行動が奇異に見えたからその地名を付けたのだ。地名が地名として定着するにはより多くのひとの認知がない限りその地名は定着しない。
すでに、会報での述解があるのかも知れませんが *万人が否定しえない「養父」の地名 の存在について、
わたしがいう「徐福達と養父・ヤブ」の関連性について、その有りや無しやを 管理人さまや>先様方>のお考えを是非に伺いたいと思います。ちなみに、この報告書を関連先に送りましたが未だに音沙汰なしです^^!。
[362] Re: 渡来人会報「吉備・四国」を読んで
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 1月 7日(火)15時09分
管理人さまへ & 皆さまへ>
<総社市・岩屋の探索について>
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kibisikoku0511.htm
先さまの岩屋探訪には何かの奇縁^^?をかんじます。わたしも確かな記憶ではないのですが同時期に?訪れたことがありました。鬼ノ城の賑わいに比べその駐車場は小さくて車10台ほどしかとめられません。ここへは何度か足を運びましたが、二人組と一人の三人にしか会ったことがありません。なかでその駐車場へタクシーが一台だけ停まっていたことがあり、「こんなとこ迄、タクシーでくるかぁ~」よほどのお人がと思ったことがありましたから「もしや」とのありえない想像をしたりしています^^!。
<屏風岩>
そのすべてを回ったわけではないのですが順路には案内標識もあったような気があります。その内に「石切り場方面へ」があったのですね。自分の関心・知識のないこととして見逃していました^^!。
今、正月の番組で「金屏風」の前での映像をおおく見かけます。「なぜ金屏風なの?」との少年心(こどもこころ)があります。その始まりは四千年前の閃光にはじまり、「その荒神が放つ光を受けるためではないかい」との思いがあり、順路からすこし外れた山の中腹「屏風岩」の写真まで収めているのですが、未だ、その屏風岩が受ける旭光(冬至≒正月)の方向・方角を確かめていません。
屏風岩と名付れられた巨岩は各地にあります。その巨岩の位置が「山の中腹」で「東から東南」で「冬至(正月)の旭光を受ける向き」にあれば、筆者の推みと<ご先祖さまの思いに>つうじるかも知れません。 皆さんへ> 近場の屏風岩へどうぞ^^・・
正月月の今、私たちは神社にお参りします。
わたしには、その神社の〆縄が、四千年前の巨大隕石=神竜に!、その切り下がる白紙が海を西進する巨大津波の白波に!見えてなりません。そして、ギイッと鳴る本殿御開帳の扉の原形「天岩戸」が出雲の猪ノ目茶屋近くの斜面に埋めて隠されていることも、、、
「神官は、頭上のすすを お祓いし」、って川柳がありました。
こども心には、そのすす払い?が 四千年前の “白い波頭” の大津波に見えてなりません。 皆さんも一度、神社・ご先祖様に頭をたれて『現代科学という、そのスス』をお祓いして貰えばぁ? ゴメン言葉がすぎましたぁ^^!(myブログより)
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-7.html
このように現科学と祖先からの伝承が対立したとき、ご先祖さまの方へジャッジを挙げるのが素人探偵のやり方です。だから専門家に伝わらない(笑い)。
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html
[373] Re: [10702] 4大文明と津波地層
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 1月21日(火)
管理人さまへのお返事です。 コメントありがとうございます^^。
> 津浪のメカニズム、気になるところですね。
> 津浪の威力の計算が知りたいところです。東日本大震災のときの津浪の数倍ある津浪が、2000年前に起ったようです。三連動型の東南海地震によるものと考えられているようですが、スマトラ沖地震クラスの威力だったのではないかと感じます。あのときは、はるばるインドまで数mの津浪が奥地にまで入り込むほどの威力がありました。
> 次回の南海地震もそのクラスになる可能性があり、どこまで内陸へと入り込むのかは、過去の津浪地層を追う事である程度予測できるかもしれません。
> 早急に迫られた課題のように感じますが、またお気づきの点ございましたら、宜しくお知らせください。
津波の理論上の計算式は、(ご存知とは思いますが^^)
津波の波高hは、水路幅wに比例し、水深dの四乗根に反比例することが知られています。
1
h = w × ---------
4√ d
津波は港に入った波という意味で、沖合ではたいしたことがなくても、V字状の湾奥では猛威をふるいます。津波警報が出た時、船が沖合に避難するのはこのためです。わたしは、水路幅のほうはロートを水平に切った状態であり、水深は垂直に切った時を思い浮かべています。実際にはロートの中心線上からの進入か、それを外れての進入かでも違いますし、海底地形による抵抗や溢水があれば計算式より少な目になるのかな^^? そして、理由は判らないのですが岬でも高くなることが観測されています。
津波を水位の上昇とみる向きもありますが、津波は押し波であり、V字湾に入った津波は、それと全く異なります。上記の式で入り口幅を20km水深100m波高2mとしたばあい。湾奥幅2km水深1mのところでは、実に30mにもなってしまいます。(計算間違っていたらゴメンナサ~イ^^!) くれぐれも言いたいのですが陸にあがった津波は斜面を登っていきます。これは浜辺の波打ち際での様相と全く同じです。蛇足ながら、〇〇年前のチリ沖地震のとき三陸リアス式海岸では甚大な被害があったのに、阿武隈山地の海岸で被害が少なかったのは水路幅の違いにあります。この意味で高知平野は大きなV字形をしており巨大な津波が予測されますので〇kmおきに、鉄筋コンクリートの避難所建築がなされています。
一般的に津波学者は津波が運んだ堆積層に注目されているようですが、それだけでは無く、巨大隕石やミドルインパクトがなす巨大津波は、その比ではありません。四千年前の東北隕石では、北上“山脈”の尾根をけずり、モナドノック状の北上”山地”にしています。津波が土石をもった時、泥流内の巨石にはアルキメデスの原理が働くので、その威力はすざましいものがあります。山に登った津波が土石をもって低い所へ集まりながら下り降りることは<3/11>で経験しています。祖先からの地名伝言では、北海道に「篠津」がありました。そのほかにも「垂水」等の地名を遺していますから、数条の条痕で川底が岩表を見せていたら要注意です。
山斜面に登った津波や峠を越えた津波は濁泥をもつとは前述しましたが、それらが谷あいを下り一気に広い平野部に降りた時、そこに濁泥だけを置いて扇状地形をつくることがあります。この地形の特徴は、扇の端の弧部が切り立った高台状をなすことにあります。それを胆沢扇状地にみることが出来ます。
「川が無いのに扇状地(胆沢扇状地)」http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-18.html
>東日本大震災のときの津浪の数倍ある津浪が、2000年前に起ったようです。
管理人さまぁ~ わたしはそれが分らんのですよぉ^^! 私と岩淵先生が論じる東北巨大隕石が4000年前。先さまが云われる大インパクトが2000年前。岩淵先生はアッシャー博士との話し合いで東北のそれはエンケ彗星のデブリ(破砕分体)だろうにおちついたようです。とすると、エンケ彗星の母体(本体)は、2000年周期で太陽を周回か?の疑いがあります。人々が、こっから先を紀元だとするには単なる一学者の論説ではなく、多くのひとが同意する何かの巨大インパクトがあったのではないでしょうか。ご存知のように、欧州には、巨大隕石?によるメシア願望があります。それに、海が割れたとか、ノアの方舟伝説とかもありますから、ローマあたりに巨大津波を伴うような巨大隕石があったのではと^^??? 根も葉もない妄想をしています(^-^!)
[375] Re: [10702] 4大文明と津波地層
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 2月 4日(火)22時52分 No.374[元記事へ]
管理人さまへのお返事です。
お返事ずいぶん遅くなりゴメンナサイ!(><)!。
> いえいえ、2000年前のは、プレート型津波です。三連動でしょう。
> 4000年前と4700年前のは隕石落下と睨んでいます。
> あと、3700年前ごろにも、世界的な転機があります。ここにも津波地層があるのですが、ここでも隕石落下があった可能性を考えてます。
人類が「世界的な転機」を起こすには想像を絶するようなインパクトがあったのですね。先さまは、2000年前のはプレート型と推んでおられるのですね。プレート型と巨大隕石が起こす事変の大きな違いは「隕石の冬」が有るか無いかにあります。又、巨大隕石が陸部への衝突か、深さ3700mの海部への衝突かによっても、ずいぶんとその様相は変ると思います。つまり、水蒸気をあげれば早くに爆雨となって終息するし、陸部であれば成層圏へまで粉塵を舞い上げるので、その “微小の” 全てが地上に降りるまでは相応の時間がかかります。そして、火山活動を誘発するかしないかの影響もあると思います。
わたしは、「地球の温暖化」は、CO2の増加とするのが世界のすう勢ですが、それより大きいサイクルは、巨大隕石(その規模にもよります)が舞い上げた粉塵が時間をかけてゆっくりと空気が澄んでいくからではないのかとみています。これを言葉にすれば、地球の温暖化の一番大きな原因は『濁り水(=濁り空気)の沈殿化だ!』と思っています。もちろん先さまが以前に揚げられた天体の運動も関係ありとは思いますが・・・^^!
巨大隕石、又はプレート型地震が起こす巨大津波について、ですが、大きくは、大西洋、インド洋、太平洋の三つと考えています。津波の力は摩擦熱での消費がほとんどないから大洋ではずいぶん遠くまで運ばれます。(チリ沖津波が日本に届いた)しかし、津波の奴(力)は、ズルいから東南諸島や、中南米で邪魔されると、そこで力をそがれて大きくは越えられないのではないでしょうか??。
[382] Re: 大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
投稿者: 机上探偵: 平 素人 投稿日:2020年 2月14日(金)02時06分56秒
青面金剛さまへのお返事です。
数々の情報&コメントありがとう御座います。
わたしには、その全てを消化することは出来ませんが、とくに気になる情報についての
考えを述べたいと思います。
> ★ 「中に小さな毘沙門天の木彫が飾られていた」事から、「お宮」では無くて、仏教の『お堂』です。銅鐸の時代に仏教は未だ渡来していません。
この、地元の人が「金堂」と呼ぶ建物が、神様系か仏様系かは私には分かりません。ただ何となく建物の木組みから「神様」かな。と思っただけで注視していませんでした。「銅鐸の時代に仏教の渡来はなかった」のは、わたしも知っていますが、仏教のお堂の造りをまったく知りません。似たようなもので中国に仏舎利塔がありました。神仏混合や神仏分離の歴史をかたるには、私の知識は無知に近いものがあります^^!。
出雲の「仏教山」、吉備の「経山」、神戸に荒神山と大月荒神谷、野洲に三上山と「妙光寺山」があります。
「仏教山」 「経山」 「 」 「妙光寺山」は、仏教に由来する山名。
△山 △山 荒神山△山 三上山△山
上記の△山姿の山は、周りの山と異なり三上山が「近江富士」と呼ばれているように際立った三角姿をしています。前にも申し上げましたが、これ等の山は大量の銅鐸の出土地から<二山越えの三山の前>あたりにあります。そして、不思議なことに、直線、曲線(徒道)を問わなければ、ほぼ3km~4kmであり。すなわち<1里 = 1離>ほど離れた場所にあります。三山(みやま)の前に大量の銅剣類あり!(別記事)、としたのですが、今回は大量の銅鐸にしぼって考えたいので、銅剣の方はおいとくことにしましょう^^!。
・・・・・・、
[391] Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 2月20日(木)
続・荊の紀氏先生へのお返事です。
> 参考に成れば幸いです。
<岡山県総社市奥坂岩屋寺金堂裏斜面の均地上部斜面>
素 人の予測地> N34度44分? E133度45分 ?
紀氏先生の予測値> N34度43分 E133度46分 48″
上記のように少しのズレがあります。
わたしが(?)印を付けているのは、未だに迷いがあるからです。金堂のすぐ上部に、はっきりとは思い出せないのですが、南北50・60歩、東西20・30歩の均地(なるち)上写真がありました。最初はこの中心部か? と思ったのですが、まてよ!、平地であれば容易にその上を歩けてしまいます。バチあたりにも荒神が乗り移る銅鐸の上を歩いて、その足音でその荒神を起こそうものなら大変なことになります。・・で、この件では「斜面」というキーワードが重要視されていまので、斜面であれば容易にその上を歩くことが出来ません。そこで、その平地に連なる斜面を考えたのですが、その斜面が3mたらずの斜面であり、その上部は簡単に歩行できるなだらかさになっています。はたして、3m足らずの斜面に23個?の銅鐸が埋められるものか? の疑問がありました。
先生の予見値を国土地理院図や、Google Earthで探してみているのですが、なかなかヒットしません。それに、地理院でもGoogleでも以前と検索の方法が変わってきていて、好きな倍率や方角が簡単に選べずとても苦労します。ご存知のように、磁北やら修正の問題を合わせて考えると、他の地も含めての地図からの探求は素人の手にはおえません。
・・で、先生の予測値をみると、当方の斜面とした予測地より、少し南と東へズレています。ということは斜面ではなく<均地>のほうになるのでしょうか^^? いずれにしても、レイラインや、数理だけで、その埋め地を絞り込めることは素晴らしいことであります。
他の大量の<銅鐸の埋め地>のすべてが重機で破壊されている現在、その現状をとどめているのはこの岩屋だけ(?)です。現状のままで保存したい。探知機が進化した現在、それを掘り上げることなしに何かレントゲンのような探知機でその姿をみることはできないですかね。金属探知機を持ち込んで辺り一面を捜せばその有無を調べるのは簡単ですが、それをする前に、<何故、祖先はそこに大量の銅鐸を埋めた>のかの思いをさぐることの方がはるかに大事と考えています。
「出土した結果より、その埋め場所を予測・予見できることの方がはるかに大事なのだ」
ご参考に感謝します。今後もよろしくお願いいたします^^。
[393] Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
投稿者: 机上探偵: 平 素人 投稿日:2020年 2月22日(土)01時34分20秒 通報 返信・引用 > No.392[元記事へ]
荊の紀氏先生へのお返事です。
重ねての情報ありがとうございました^^。
銅鐸=測量器具は、最新のニュースであり、センセも以前にあげられてましたよね。
銅鐸といっしょに<カギフック>が出たことから、そのように考えられたのでしょうね。
それと、認めると素人^^!の「荒神乗り移り媒体説」と、相容れず、いままて積み上げてきた謎解きがまったく成り立たなくなります。銅鐸は未だに諸説墳分^^で「鳴り具」以外は、確たる答えはでていないようです。色々に論じることは大切ですが、測量器具とした場合。「大量にとかマトメテ」というワードが解らなくなります。わたしの場合も<粗雑>に開けられた穴の具体的な使用法がヨメていません^^!。
またまた、当方の拙文をながく張って頂きました。古代史版では張れなくなりました。関連記事が近くにある場合はその要がないのでは^^? ご参考に感謝します。今後もよろしくお願いいたします^^。
[395] Re: 此処に銅鐸が眠っている
投稿者: 机上探偵: 平 素人 投稿日:2020年 2月22日(土)
青面金剛さまへのお返事です。
コメントありがとうございます。
> ☆ 加茂岩倉遺跡の駐車場からガイダンスへの遊歩道の脇には、水量の豊かな水が流れています。加茂岩倉遺跡の元地は、田んぼで、此処の水は鉄分が多く飲料には適さないものの、稲作には十分であります。つまり、加茂岩倉の地では、雨乞いは必要ないのです。斐伊川と赤川が合流する地で湧き水が豊富だからです。
1700年前の昔に加茂岩倉周辺で水稲栽培をしていたとは思いませんが、仰るように水稲は意外と少しの山水でも栽培が可能なようです。水稲の発達拡散が何時頃か、その時の気候がどうだったか、又、海進、海退(沼地)等々の歴史は、私には分かりません。出雲、山陰地方では雨乞いの要は少ないと思いますが、瀬戸内のほうでは干天が多く溜池が多いのが特徴です。
<雨乞いに関係する地名>
松江市だったかな。<茶臼山>や、その西に<嫁ヶ島>の地名がありますから、出雲に雨乞いや人身供儀の歴史がなかったとは言い切れません。ちなみに、茶臼山は列島の山名のなかで一番多い山名と聞いたことがあります。そして<丸山・円山>がそれにつづき、 さらに<竜・龍がつく山名>を加えれば、雨乞いとはかぎりませんが何か厄災時があれば、慈雨や平癒を願った儀式が、そこであったと理解しています。島根半島には<竜山>の地名があります。
> ☆ 「 志谷奥遺跡は鹿島町の朝日山と神目山の間に位置する 」事から、朝日山と神目山を結ぶ線と対称的な位置に有る、弥多仁神社周辺にも、銅鐸や銅剣・銅矛などが埋められている可能性が有ります。
弥多仁神社周辺で、銅鐸や銅剣・銅矛が予見予測して発見かればいいですね^^。
「銅鐸文化から、銅鏡文化への移行は何人も否定できず、その変換点に魏からの銅鏡100枚があり卑弥呼がいる!!」 myブログ「この指とまれ」より、
[395] Re: 此処に銅鐸が眠っている
投稿者: 机上探偵: 平 素人 投稿日:2020年 2月22日(土)21時41分3
青面金剛さまへのお返事です。
コメントありがとうございます。
> ☆ 加茂岩倉遺跡の駐車場からガイダンスへの遊歩道の脇には、水量の豊かな水が流れています。加茂岩倉遺跡の元地は、田んぼで、此処の水は鉄分が多く飲料には適さないものの、稲作には十分であります。つまり、加茂岩倉の地では、雨乞いは必要ないのです。斐伊川と赤川が合流する地で湧き水が豊富だからです。
1700年前の昔に加茂岩倉周辺で水稲栽培をしていたとは思いませんが、仰るように水稲は意外と少しの山水でも栽培が可能なようです。水稲の発達拡散が何時頃か、その時の気候がどうだったか、又、海進、海退(沼地)等々の歴史は、私には分かりません。出雲、山陰地方では雨乞いの要は少ないと思いますが、瀬戸内のほうでは干天が多く溜池が多いのが特徴です。
<雨乞いに関係する地名>
松江市だったかな。<茶臼山>や、その西に<嫁ヶ島>の地名がありますから、出雲に雨乞いや人身供儀の歴史がなかったとは言い切れません。ちなみに、茶臼山は列島の山名のなかで一番多い山名と聞いたことがあります。そして<丸山・円山>がそれにつづき、 さらに<竜・龍がつく山名>を加えれば、雨乞いとはかぎりませんが何か厄災時があれば、慈雨や平癒を願った儀式が、そこであったと理解しています。島根半島には<竜山>の地名があります。
> ☆ 「 志谷奥遺跡は鹿島町の朝日山と神目山の間に位置する 」事から、朝日山と神目山を結ぶ線と対称的な位置に有る、弥多仁神社周辺にも、銅鐸や銅剣・銅矛などが埋められている可能性が有ります。
弥多仁神社周辺で、銅鐸や銅剣・銅矛が予見予測して発見かればいいですね^^。
「銅鐸文化から、銅鏡文化への移行は何人も否定できず、その変換点に魏からの銅鏡100枚があり卑弥呼がいる!!」 myブログ「この指とまれ」より、
[402] 大量の銅鐸・銅剣、地名繋がり!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 2月27日(木)
"共通の文化には共通の事象(地名)あり"
<出雲> <吉備> <神戸> <野洲>
銅鐸39銅剣358 (未出土) 銅鐸14銅剣(未出土) 銅鐸24銅剣(未出土)
加茂岩倉 岩屋 いわや駅 大岩山
荒神谷・西谷 西谷 ( ? ) ( ? )
仏経山△ 経山△ 坊主山・荒神山△ 妙光寺山・三上山△
三宝荒神 山王神社(さんおう)
蛇砂川 砂川 ( ? ) 蛇砂川
赤川 ☆血吸川
現学は、地名を不確かなものとして、いっとう下にみるが、
『地名は祖先からの、一番確かな合意伝言である』 史実探偵: 平 素人
さて、あなた様は、史学は、・・・を何んとよむ・・・^^!
追伸:
出雲と吉備は近くでもあり、何からかんから一番よく似てると思うのですがぁ(笑い)
詳しくはmyブログ「出雲地方」「吉備地方」へ、どうぞ・・・^^!。
[406] 徐福もユダヤ系か!?その影響で太陽主神説へか??
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 2月29日(土)22時30分
ありがとうございます。キシ先生へのお返事です。
> 徐福もユダヤ人か 秦始皇帝がユダヤ人、もしくは失われたイスラエル10支族の血を引いていたとすると、気になるのは徐福(じょふく)である。・・・
・・この件については>
全く知識がないので言及できません。とくにハプロの件は難しいですね。先生が古代史版に張られた超長い「ハプロとは・・」を勉強しようと保存してはあるのですが未だに読めていません~~!。
ユダヤ歴について・・>
そうですか、暦には色々あるのですね。いずれにしても、暦の作成は悠久の昔から、未来永劫まで、変わらずの天体の営みのどこを切り取り、その始まりをどこに置くかの問題があります。紀元は、その元年を天変地変にするか個人を始まりにするかがあります。一年のサイクルでいえば「正月」をどこに置くか、置いたのかにあります。素人的にいえば人類が観測を重ねていけば冬至の日中が一番短いのが分かるので、それを起点すればいいのに何故そのおよそ7日後に正月を持って行ったのか未だに解かりません~~!。
> > > 徐福は子供達約3千人を、遠く離れた異国の日本に移住させましたが、秦の始皇帝の時代で、万里の長城や王宮や始皇帝陵の建設に、延べ約百数十万人を強制的に苦役させている事から、その子供たちも親元から強制的に引き離し、連行した形で集めたものと伺えます。
> > > なぜ子供ばかりなのか、と分析するならば、子供では、物部の兵に楯突く事も出来ず、従順に洗脳し易いからです。
青面金剛さまのこの説を上げられたということは、先生も「その児たちは兵役」とお考えなのでしょうか?? とすると、始皇帝は「不老不死の薬石」が目的でなく「列島を属国に」が目的だったのでしょうか? その場合、先に揚げた「養父の(7ケ所)地名」と全国に散らばる「ヤブの地名」と「ヤブ医者」に関する件はどのようにお考えなのでしょうか~~?。さらに、大クジラ(台風)がふくこの時期に出帆しなければならないのは、食料の米を収穫してからになるため、台風という神風に阻まれた歴史が他にもいく度かあるのは先さま方の知るところです。わたしは、陸行きと海行きでは条件が異なると思います。それでも行かせたのは始皇帝に命への強いつよい執着があつた。なにしろ四百数十名の学者たちを穴埋め状態にし、書物も焼かせた??のかな?とききます。始皇帝曰く「あれほどの大資を持たせたのに、何故、徐福はその薬をもち帰らんのか」と!!!
先に頂いたコメントに、大切なこと「淡路島大量の銅器出土は何故?」かの言及がぬけていました~~!。
<100個以外に銅鐸や銅剣類がまとめて出土している件について>
私は、卑弥呼が魏から得た100枚の銅鏡の分与さきは、出雲39+(吉備24)+神戸14+野洲23=100と考えていることは以前に申し上げたとおりです。
『村の古老ばなし』
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-1.html
その昔のこと、出雲の大神様は、全国・八百万の神々様に、「神議」を行うから、毎年の十月に集合せよ」との通達をだされた。なにせぇ、おお神様のいうことだからと、全国津々浦々の神様たちは、全てが出雲に出向いた。ところぅが、この席に四国のこんぴら様だけは、いかなんだ。大変立腹した大神様は、なぜこなんだと問い糾した。いうことにゃ~、「忙しゅうて、忙しゅうて、行けませんでした」。 「そんなら、お前の暇な時ゃ~、いつなら、わしが行ってみるけぇ」と言われた。「十月の九日~十一日頃なら暇ですけぇ、来てみてつかあせぇ」と言われ、行ってみれば!?、その日は祭りでドンドンいうとったそうな。これを見て大神様は 『暇な時さえこの賑わい、他の日はもっと忙しいのであろう』 と納得され、以来この神議に、四国の琴平様だけは行かんでもええということになって、十月のことを他の国では、神様が出払っていない“神無月”というのに四国のこんぴら様だけは、「この月を神在月というんだ」と。むかし、こっぽり!
上記ように、いかに卑弥呼が「太陽主神、荒神竜従神説」を唱えようが、長い銅鐸祈祷の歴史があり愛着や戸惑いもある。すぐには従えない者がでてきます。しかしながら、初めて見る銅鏡の光は眩くて直視することが出来ずヒレ伏すほどの衝撃を受けた。それに、<木簡の身代わり護摩炊き>←今に密教で割木に名を書いて焚くをやっています。それでよいことになれば稚児の命を供えずに済みますから、銅鐸文化は、(商人)秦(はた)系の人達と、その随行(徒歩行・修行者)大夫(たゆう)をとおして急速にしぼんでいきます。出雲荒神谷で銅鐸6個と銅剣類16本を別々の場所にしないで、まとめて出土しているのは、卑弥呼の考えを受けてから"~後に"埋めたとおもいますよ。歴史の世でも、今の世でも色々の考えの人がいますからね(笑い)。
それが三百余本の銅剣類の「すぐそばで」出土したと云われていますが、わたしは、その7mを「すぐそば」と思っていません。そこに大量の銅剣類が埋められているのは“衆知”の事実なのにその近くに並べて埋めず、<7mも>離して埋めたのは「その三百余りを刺激して」起こそうものなら大変なことになりますから。なぜ<7m>離せばよかったのかを知識あるお方に伺いたいものです^^!。
淡路島の銅器出土の件ですが、「紐」が出たことがニュースになりましたね。ほかに長野や静岡?でも出土していると聞いています。いずれも工事中の偶然からだったのでしょうか^^? それが吉備の岩屋で予見のばしょに予測数の銅鐸が出れば面白いことになるでしょうね^^。コメントをおまちします。
[409] Re: 参考 陶磁器の鐸
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 3月 4日(水)08時35分
荊の紀氏先生へのお返事です。
銅鐸についてのご<参考>ありがとうございました^^。知らないこといっぱいです。
大陸の鐸や鐃(にょう)と列島の弥生代のものとの類似点がみつかっているのですね。
「列島の銅鐸は、大陸や半島の風鐸等の影響をうけて列島独自ものとして発展していった」ぐらいにしか思っていなかった素人には、再考しきりです・・・^^!。
> 銅鐸祭祀の源流https://blog.goo.ne.jp/isaq2011/e/df467d7e0dbb6be9d4e3b609833a6029
銅鐸を使用した祭祀が中国と、列島で全く同じとは思われませんが、大きな影響をうけているのは確かなのですね。
> 『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12~18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
なかでも、龍画は「今から四千年前の東北に降臨した巨大隕石の<モンタージュ!!>としている素人にとって、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手の<虎の姿>は難解です。その年代もふくめて考え直してみます。今後ともよろしくお願いいたします^^。
[415] 中国人と日本人、贈り物の考え方の違い!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 3月 9日(月)22時13分
「大量の銅剣と銅鐸」は、卑弥呼が埋めさせた! の、よもやま話 Ⅰ より、
↓ http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-3.html
⑤魏から、卑弥呼への数多くの贈り物のなかに (Yahoo!魏志倭人伝 参照) 金印は別として、特に目を引くものがある。 五尺刀が2口と、 銅鏡の100枚である。
何故 銅剣が、1振りでなくて2振りなのか? 何故 100個もの銅鏡なのか??
卑弥呼は、女である。 その女の卑弥呼が、100枚もの銅鏡を並べて、身の丈もあるような大刀の二本を腰にぶら下げて、己の姿形(すがたかたち)を眺めている場面が想像出来ない。(笑い)
この “数”には意味がある。
⑥魏の天子は、「遠くの国から、私への贈り物をようしてくれた。 汝(卑弥呼)を、倭の国の国王と認め、その金印を贈る。 そして、返礼として、汝の “好物”を 使いの者に託したから受け取ってくれ」と、云っている。 ( 註:要旨概略 )
<その贈り物の、数量についての考察をするまえに>
日本人と中国人の儀礼的な贈り物にたいする考え方の違いに言及しておきたい。日本のお中元とか、お歳暮とかは、目下のものが目上のものに 「色々とお世話になり、ありがとう御座いました。今後ともよろしく」 との意味合いをもつ。 中国ではこの逆で、その徳と富を表すためだと思うが、目上のものが目下のものへ贈り物をする。 ある公司(会社)に、トラックいちだんの西瓜が届いた。別の公司からの贈り物だという。また、訪問した時の食事のパンがとても美味しいと褒めると、バックいっぱいのパンをもたす。 宴会料理のあり余る程の多さは云うまでもない。 ちなみに、欧州でも、目上のものが目下のものに贈り物をすると聞く。 米国では、スモール・プレゼントの言葉があるように、お互いが負担にならないような(対等の立場?)愛用の小物をプレゼントする。 このように贈り物に対する考え方は、国によって、こもごもで、それ等をふまえての謎解きに入りたい。
⑩日本国内へ、“銅鏡が”大量移入し、『一時的に』 その総数・絶対数が、増大した!!
ここが、この時が、「銅鐸文化」から「銅鏡文化」へ変わる歴史の節目だ! 以上□
その一つが、出雲市・神原の〇〇神社にある!
残り99個の"銅鏡"は、「誰が?」「どのような理由で?」「どこへ散逸したか?」
上記のように、中国人と日本人とでは、贈り物に対する考えかたがまったく違う。前者は地位が上のものが下位のものへ "徳と富"を下賜(かし)するのに対し。後者は、下位のものがお上(おかみ・神)へ "御かげ"(との交換思想が潜在)を頂くために献上する。卑弥呼が魏の皇帝に朝貢(ちょうこう=下位のものが上位のものに貢みつぐこと)したと云われているが、魏の皇帝が「ハイ・ありがとね^^」と、それで済ませば、列島の小国の "下位に下った"ことを意味する。だから、圧倒的な優位を示すために、銅鏡100個、五尺の大刀二口、その他を使いの者に持たせたのだ。今でも中国では、この贈り物文化が残っているのでしょうかぁ^^?
[419] Re: 「埋めるという行為」の意…『分水嶺』とは何かを知っていますか?
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 3月14日(土)
吾亞風(何と読むのですか^^?)さまへ、
数々の情報 &ご教示ありがとう御座いました。大変勉強になります。
このような説明を上げないから<専門家>には伝わらないのですね^^1
銅鐸を「埋めるという行為」についての説には色々とあるようですが、
わたし素人は、まとめて埋めるは別として「土中、一時保管説」を支持しています。
<大事変のシナリオ>
今から4千年前地球を半周した巨大隕石が東北に降臨しました。その時発生した大地震・津波・直後の爆雨・雷、等々、の天変地変は、今の私達が想像すら出来ないものでした。巨大隕石の衝撃はその規模にもよりますが、私達が知り得ている地震や津波の比ではありません。なぜなら、地殻内で起きる地震に対し、その地表を叩くエネルギーの絶対量が表層地震に変るからです。即ち『力は抵抗の弱い方へより強く作用する』からです。
その時を想像しますと、高層建築のない当時ですが、揺れるとか倒れるとかの表現ではなく“豆粒やゴマ粒がハゼル如く”であったと思います。列島の住人は、多少の地域差はありますが、お互いが離れていてもこの大事変を共通の<荒神>と認識するようになりました。大陸や西洋では “この大事変、東洋にあり!” として後々の探索航海に出でていることは皆さまの知るところです。
列島では、その荒神を災いと慈雨の両方をもたらす神として定着しました。列島住人は大陸からの銅器・赤色(あか)から毒性をもつ緑青(アオ)に変色する銅鐸に発展させ、その銅鐸に、その荒神様を呼び寄せ、慈雨や災いの鎮静化をおねがいしたと前述しています。そして、その大事変の発生源が東北であったことから、“西方へ行く”地震や津波をみて、「西方浄土」の考えが生まれました。ちなみに、大陸では東方に「神仙思想」、半島の「東方神起」の考えがあるのは皆さまの識るところです。
<銅鐸を単体で埋める場合>
> 集落から仰ぎ見る山の集落から見えない地点に銅鐸を埋める-埋納行為の謎を解く鍵の一つかもしれない。…
このような荒神様ですから、その扱いには注意を要する。「困ったときの神頼み^^!」呼び寄せた時以外は帰っていただく。銅鐸、以外のどこかしこに取り憑いては困る。そして、その銅鐸も、地中や、裏山の人目に付かない所に一時的に隠しておこかとなった。(笑い)そんなとこに隠してもねえ^^! 地中に埋めるのは深く埋めたのでは再度取り出しにくいし、浅く埋めたのでは見つかりやすい。のでので・・「四尺=死尺」にしとこかとなった。これはスコップで掘り進めて肩までの高さであり、それ以上深く掘ると顔に土がかかります^^!。よっぽど怖いことがあったのでしょうか。その倍の深さに埋めたが「未だ、その声鳴りやまず!」という文面をみたことがあります。今でも、地方によっては、この銅鐸は、"五色の??御幣??"に変り、貴方さまの住む "里山" の目のつかないところへ隠されているかもよ^^?
「歴史会」の会合で講師の先生が「その銅鐸を見つけるのが私の夢です」と仰っていましたが(^-^?) ヒントは、『雨乞い文化』のある所で「悪ヶ谷」とか、荒神谷とか、西谷、(さいたに・才谷、晒谷)、奥谷、黒谷、とかの暗いイメージの地名から始めるといいかもですね。
「ここ掘れワンワン!!」がわたしの得意分野です^^!。
・・っていうか、それ以外はありません^^! Give me a job^^.(史実探偵局より)
> 悪ヶ谷銅鐸の実物は東京国立博物館に展示されている。谷奥の支谷-才四郎谷では、89年に銅鐸研究家の羽間義夫さんが金属探知器で銅鐸を発見している。・・「谷奥・才四」
<銅鐸をまとめて埋める場合>
これは、「その銅鐸、二度と使わじ!!」として、封印している。と前述しているので省略します。こちらの方は、「出雲に習えばいい^-^♪」
<分水嶺と分水界の問題に思うこと>
わたしの知るところでは、長野県だったかな?「この〇〇峠は、日本海と太平洋へ流れるかの分岐点です」といわれたわりに"平な感じ"がしたのが思い出されます。拙「報告書」では、岩手県だったかな、水界峠。出雲平野では、神戸川と(旧)砂川。ここは高低差が少なく、地図だけでは分水界は分かりませんでした。吉備では、高梁川分と東の足守川分の分かれ目に吉備津神社があり、松林が植えられ「境」の地名が残っていました。又、出雲半島の鷺峠の坪背山への山道に「灌流標」があつたのが気になっています。ここは、北の日本海側と南の大社側への分水嶺となっていますから、何か雨水に関係するお祈りごとがあったかと思案中です。このように、分水嶺を境に、或いはそれを模した亀の甲羅の右左に自分達の住む里の方にその雨欲しやの占いやお願いの歴史があったのではないでしょうか。
今ではダム不要論まで出るさまですが、極々、近時まで、干天には悩まされて来ました。水争いの詳しくは知りませんが、水稲栽培への移行につれ雨水の必要性は死活問題であったと容易に考え知ることが出来ます。今でも水利権は小さな小川や小溝にいたるまで不文律があり、その管理と利権はくわしく定められているようです。曲がりくねった小川でも田地整理で区画されていない所をみかけます。特に川底の高低改修は簡単に変えることはできないのかな?? 昨今は宅地造成で地上げをすることが多いのですが、私は、その川底をみて、かつての海からの高さを想像しています。特に、出雲平野の「(旧)砂川」は、周りがきれいに区画整理されているのに「くねくね」と曲がっているのには異様感を覚えました。
≪ > 鏡… ≫
> 鏡山 (北海道) - 北海道北斗市にある。標高330m。
> 鏡山 (山形県) - 山形県村山市と最上郡大蔵村の境にある。標高1097m。
> 鏡山 (福島県・新潟県) - 福島県耶麻郡西会津町と新潟県東蒲原郡阿賀町の境にある。標高1339m。
> 鏡山 (岐阜県) - 岐阜県揖斐郡揖斐川町にある。標高1086m。
> 鏡山 (滋賀県) - 滋賀県蒲生郡竜王町と野洲市の境にある。標高385m。
> 鏡山 (島根県) - 島根県浜田市にある。標高69m。
> 鏡山 (福山市) - 広島県福山市にある。標高150m。
> 鏡山 (東広島市) - 広島県東広島市にある。標高335m。周辺は鏡山公園になっている。
> 鏡山 (愛媛県) - 愛媛県今治市の大三島にある。標高212m。
> 鏡山 (佐賀県) - 佐賀県唐津市にある山。
> 鏡山 (小城市) - 佐賀県小城市にある。標高134m。
> 鏡山 (人吉市) - 熊本県人吉市にある。標高590m。
> 鏡山 (熊本県・宮崎県) - 熊本県上益城郡山都町と宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町の境にある。標高917m。
> 鏡山 (芦北町) - 熊本県葦北郡芦北町にある。標高730m。
> 鏡山 (球磨村) - 熊本県球磨郡球磨村にある。標高551m。
> 鏡山 (玖珠町) - 大分県玖珠郡玖珠町にある。標高675m。
> 鏡山 (宮崎県) - 宮崎県延岡市にある。標高645m。
> その他あり、等々
「鏡山」の存在は全く知りませんでした。
これを<同一文化圏>とみると圧巻ですね。ご調査のご苦労に感謝します。
徐福隊の考えをくむ人達が関係したかとうかがい知ることが出来ますが、北海道にまであるのは驚きです。登るのに手ごろな場所と高さがいいですね。大字名をみると比較的時代がさがったような感じがします。なにはともあれ、「鏡山」という単純地名の統一は「誰が?」「どように」広げていったかの具体性が最大の謎です。
> 地元の伝承によると、鏡山という名前は、かれが渡来したときに持参した、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種の神宝のひとつである鏡を山中に埋めたことに由来するという。
「鏡を山中に埋めた」のですかぁ。古墳に埋めたのなら分るのですが、山にねぇ???
銅鏡を埋めれば錆びて使えなくなるし、簡単に盗掘される^^! そして、一つの山に一つづつとは思えず測量目的なら携帯して移動した方が良いようにも思えます。又、朝夕の斜光時の申し合わせが要ります。しかし、現存する「鏡山名の分布」は、否定できないのが難しい問題です!! 鏡山の名が定着するには、住民にかなりのインパクトを与えたか、継続して使用していたかの要件がいります。何か、それに関係する伝承は残っていないのでしょうか??
> 実際に鏡山に登ってみると、正面に野洲町の三上山が見える。
> 三上山は近江富士の名のとおり、美しいピラミット型の稜線をもつ。古代から信仰の対象とされていて、山頂には奥津磐座、麓には天御影命(アメノミカゲ)を御祭神とする御上神社がある。
>
> さらにおもしろいのは、邪馬台国三上山説というのがある。
> その根拠となったのが滋賀県守屋市伊勢町で発掘された『伊勢遺跡』。守屋市の教育委員会は、伊勢遺跡がつくられたのは1世紀末~2世紀末。建物跡の調査の結果、国内最大規模の大型竪穴建物であることから、有力者の住まいであった可能性が高いと発表しているんだよね。それも集落の形状からいって、住居というよりも大規模な祭祀場であった可能性も高いとのこと。この伊勢遺跡から東に3キロほどいったところに三上山がある。
滋賀県に「伊勢」という地名があるのは知っていましたが、興味がありながらも「何故?」かが分かりません出でした。北海道なら、「伊勢の衆とか、〇〇から移住した人達が」住んでいたところと解することが出来るのですが・・、お伊勢さまには飛び地の行政区があります。出雲には熊野神社がありました。大分には「小京都」があるのは先様方の知るところです。このような飛び地の歴史と、それに至ったいきさつを考えるのも楽しいですね。ありがとう御座いました。□
[420] Re: 「おかげさまで」に潜む謎!?
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 3月19日(木)
吾亞風さまへつづいてのお返事です^^。
今日は、ご資料を頂いたなかに、気になることを見つけましたのて・・^^!
天御影命「おかげさまで」というところをわたしなら「おひかりさまで」と言いたい^^! 影をいただいてもねぇ(笑い)。
> 三上山は近江富士の名のとおり、美しいピラミット型の稜線をもつ。古代から信仰の対象とされていて、山頂には奥津磐座、麓には 天御影命(アメノミカゲ)を御祭神とする御上神社がある。
> 天照大神の孫(天津彦根命の子)にあたる天御影命は物部氏と縁が深く、その娘の息長水依比売(オキナガミズヨリヒメ)は、九代開化天皇の皇子にして崇神天皇の弟にあたる日子坐(ヒコイマス)王と結婚している。ちなみに日子坐王は丹後の鬼退治伝説で知られている。
三上山の『麓には天御影命(アメノミカゲ)を御祭神とする御上神社がある』
三上山の南西方に御神神社があるのは早くから注目していましたが、祭神が「天御影の命」とは知りませんでした。ありがとう御座います。今日はこの件についての考えを述べたいとおもいます。
大量の銅鐸と銅剣埋封(筆者の造語^^!)が、出雲と吉備、神戸、野洲で云々の件は前述しているので省略しますが、三上山の南西斜面に出雲と同様な方法で大量の未出土の銅剣ありとmyブログで述解しています。→カテゴリー「この指とまれ!」へどうぞ^^。
(註)埋納 = 再び使用するために一時的に土中に埋め納めておくこと。
埋封 = 二度と使用しないと封印して埋めること。
(↓myブログより)
その(三上山の)大量の銅剣の埋め場所は、大量の銅鐸の埋め場所から西へ、一里(約4km)程離れた谷間の奥まった所!! 谷奥へ埋めるのは、人が容易に入るのを防ぐためと、命生まれ出流(いずる)女陰と雨落つる源流を象徴している。野洲町の方は、すでに、筆者が国土地理院のネットサービス(25,000分の1)の地形図で、それとおぼしき所、<北緯35度3分31秒、東経135度2分23秒→27秒に訂正>を予測している。
三上山(近江富士)と妙光寺山とに挟まれた谷間を5・600m登り切った源流に、卍印がある。これを西へ5・60m程行った所が少し平らになっている。そこに、干天でもヒビ割れない“亀の甲羅”の形をした封印石が残っていれば、(↓以下に修正!)その下4尺(4尺は約120cmで、ほぼ肩の深さ)の所で、その “大量の銅剣は”眠っている。以上□
上のように謎解きしていましたが、更に修正して、その 卍印お寺?の <境内に連なる山斜面> の目通りより上の所>に、その大量の銅剣が埋封されていると 再修正していました。ここは、大量の銅鐸が発見された大岩山から、童唄「みやまの前でぇ」になるところです。
<剣山型の山姿と大量の(銅鐸)銅剣の埋地の約束事(?)について>
わたし素人探偵は、冬至の日の出 光が△山の頂上に架かった時、つまり、冬至の朝の<ダイヤモンド富士>が見える場所に「その大量の銅剣」が埋められていると推定しています。
この考えの発生は、銅鐸の場合は谷あいからの入光ですが、(不使用とした)銅剣の場合は「冬至の陽光で、その山頂の"山影"を剣先とし、対象を刺し封じ込める!!」このような考えに基づいているとしています。御神神社は、何か関係ありかとネットで調べるには調べていましたが祭神が「天御影の命」とは気づいていませんでした^^!。
このような関係性は、山影が刺す・射すの考えとして射り矢にも通じるとしています。又、その冬至の陽光が谷あいに入谷(いりや・射矢)の地名や、伝聞がないかとの注意してきました。香川の飯盛山・讃岐富士のダイヤモンド富士の射すところが讃岐の金毘羅さんではないかと疑っているのですが、ここには奥の院もあり、いまだその確かめはしていません。このような信仰の広がりは△山を荒天=(荒神)に抗らう剣山(つるぎ)とし、その厄災を鎮める信仰へいったとも謎解きしています。
<1700年前の冬至の陽光の推定が要る!>
実際にその陽光を調査するとなると、卑弥呼が関係するのは、約1700年前ですから、地軸の歳差運動の件もあり、今では、その日の出が23度∠余りほど時計回りに移動していますので、実地検分は出来ないので測量と計算で確かめる手立てしかないのではと思っているのですが・・・~~!。
そして、その陽光に関して出雲岩倉山と、総社市の岩屋の、銅鐸の埋地の比較検討をしているのですが、出雲の方は入谷の奥まったところまでは得ているのですが、はたして、その銅鐸の埋地場所に立てば<マツダ車のシンボルマーク>様の谷間からその日差しが見えるか見えないのかの推測が必要となりますし、木立が邪魔したり、冬至十夜の朝なら大丈夫とはいえ、出かけて行って当日の朝が曇っていればアウトです。(^-^!)。
ありがとう御座いました。□
[428] Re: 不条理の大因は !? = 答えの無い問いかけ
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 4月 1日(水)
荊の紀氏さまへのお返事です。
コメントありがとう御座います^^。
キシ先生へご返答する時、大変戸惑うことがあります。そのご記事の「文」が先生ご自身の書かれたものか、それとも引用文なのか、或いは教示のための参考文なのか、それとも、時事のトピックスなのか、それとも他文をかりて御自分の意を述べていらっしゃるのか。余りにも先生の添え文がすくないために、その意を推しかねて “誰に(カミュ氏? キシ先生? ブロガー?)向かって” 返答すればいいのか、その相手が定まらなくて・・(^-~!)、
<わたしがいう不条理とは>
うまく自身の中坊的思い (=中二症^^) が書ける自信はないのですが^^!
私が不条理として使っている「条理」とは「節理」に近いかも知れません。節理というと< 人間の思いを排した>「自然の摂理」という言葉があります。条理というと少し人間の思いも入るのでしょうか^^?
わたしの考え方の根底には、「自然界は人間だけのために有るのではない」との思いがあります。そういった意味では、東洋的な『平等施一切』があたっているかも知れません。わたしの探求は、「現存する森羅万象」のすべてを肯定することから始めるように努めています。叶わないことではありますが努めるというのは、できるだけ多くを知り得て間違いの部分を少なくしたい思いからです。
少し話が飛びますが、中学生の時、理科の先生が「1 + 1 = 2 ではないよ」と云われたことが有りました。アルコール1?と、水1?を足すと2?にはならないと云われました。忘れましたがどちらかの分子がどちらかの分子に入り込んで2?より少なくなるそうです^^。未だにこの思いをひきずっています^^!。
「1 + 1 = 2」は、2でしょうか? 否、違います。
「1」とは、学問上で人間が “定めた” 数であり、自然界には「1」という数字は実存しません。全ての物質は「時間という動きの中」にあります。例えば、この私が今日はけだるいから家の中から一日中出んことにしょうと思っても赤道上にあれば一日4万kmも移動しています。さらに地球は・・・^^。もし、1 + 1 が 2 であれば、そこで動きは止まり “自然界は閉じて” 今の認識すらなくなってしまいます。<「1」< なら存在しますが、それは「1」少なり、から「1」大なり、或いは、その反対もありますが、それらの移行点であり、それと言葉にした瞬間から「1」より、多くなったり小さくなったりしています。例えば、車に付属品を増していっても一台は一台。このわたしが息を吸った吐いたそれでも一人は一人^^!。それでは便利がわるいから、波動の頭の部分を「1」とか「2」とかに学問として決めてかかると「事」がうまくいきますよね^^!。
1 + 1 の正解は 「1 + 1 ≒ 2」なのです。
このような思いの延長に、自然界には「答がない」数理があるのではないかと目を付けたのが「π」です。これは、スパコンの性能競争になっているのはご存知のとおりです。・・中略(絶版報告書)して、・・行きついたのが下の数式です。
不条理の大因は、
d = 0.π D にあり?
この数式は、一度は落胆して取り下げましたが、その思いを消し去ることが出来ず、再度掲げています。答案用紙に答えだけ書いて「式」が書いていない。解けないでは話にならない^^!。どこの試験官からもそれでは〇は頂けませんよね(笑い)。だから・・(^-^!)
> 「理不尽」という言葉は、人や物事の言動ややり方に納得がいかず、不満を持つ状態を表す言葉です。「理不尽」を使えば、ネガティブな感情を一つひとつ言葉にすることなく、筋道に外れていることに憤りを感じている、という負の感情をコンパクトに表すことができます。ぜひこの機会に「理不尽」を語彙に含めて、筋道に合っていないと感じる人や物事を「理不尽」という言葉で表してみましょう。
「理不尽」とは、きわめて人間的な言葉ですね^^!。他の生物には使わないですからね。私は、前述したように「理」という言葉が人間界の理なのか、自然界の理なのかを分けて考えるようにしています。私が、わたしの論をかたるように、先様方の論説を否定はしません。何故なら自然界には、必ず大流と亜流・傍流が用意されており、主流のみが正しいとは言い切れないからです。
『大河の流れも、蟻の一穴から^^!』・・・ありがとう御座いました。□
[440] 釧路平原の石油を捜す!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 4月21日(火) > No.439[元記事へ]
管理人さまへのお返事です。早速のお返事ありがとう御座います^^。
> これは、起爆剤の原理で、水爆などだと、小さな爆発が巨大な爆発を引き起こすわけでして、小さな隕石落下でも落ちどころが良ければ、マントルを刺激して巨大噴火に至る可能性があるように感じます。
> つまり、物理的なエネルギー保存則には関係しないということでしょう。
> クレーターができるだけなら、物理的なエネルギー保存則以上のものは出てこないとおもいますが、ただし、以前お話した隕石落下が核融合を誘発する場合も同様に、物理的な保存則を裏切る結果となるはずです。その場合、明らかに巨大なクレーターが生じたりするわけですね・・・・。
> 確かに、遠心分離は質量(密度)のみですが、形状や化学反応・・・といった要因も考慮すべきでしょうね。
> 浮力、重力、摩擦力、化学結合、さまざまな要因で津波流体の行きつく先が変化していく・・のでしょうか。
・・ありがとう御座いました。□
(ブラタモリ)、二・三度見ていますが^^、
私達がふだん “何気なく”見過ごしている風景や家並みから、かつての歴史を探り・紐解いてゆく面白さがありますね。
<秋田県のタール油田>に興味をもち検索を重ねているのですが、・・・
いざそれを文章にするとなると、同じ画面(URL)が捜し出せずのアキラメを繰り返しています。とくにユーチューブは、掲載が早く変わりゆくのでとても付いてはいけません~~!。
日本での商用油田は新潟だけかと思っていましたが、秋田にもあったのですね。累計産出量最大の油田が今でも住宅地の近くで、細々とながら汲み上げられている動画 https://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/12c2a66acefbd6730b8aaf8c077fe086
には驚きです。わたしは、油井が津波の戻り水で<河口近く>にありと認めてはいるのですが、ブラタモリでみたタール油田の地が<内陸部>のものか??、と思い検索してはみたものの捜し出せませんでした~~!。
<東北石油株式会社・豊川油田展示室>
秋田県潟上市昭和豊川・・・?、Google Earth のストリートビューでその看板を捜し出しましたが、かつての栄華はどこへやら、近所の公会堂かと見まがいました(笑い)。その展示室の標高は<38m>でした。油井汲み上げ機械に関係する見学施設が他にもあるようです。ほかに「草生津・クソウズ・??」くそうず くさうづ 【臭▽ 水▽】〔「くさみず」の転〕石油の古名。(三省堂)の地名もありましたが、自分の思っていたほど標高の高い内陸部ではなく、「潟」に近いものでした。・・取りあえず秋田はここまでとし、つぎ、北海道へうつります。「地下400mからの汲み上げ」、これが秋田か? 北海道から? の検索かが思い出せません。石油は津波が運んだ生物の油分が地下に埋まり重合・熟成したものと思っているのですが、近年のメタンハイドレードの成因がまったく推めていません^~!。
[444] Re: 釧路平原の石油を捜す!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 4月26日(日)
管理人さまへのお返事のつづきです。
>石油無機質論 対 有機質論
たいへん面白い「論説」をあげて下さり感謝します。
わたしは、石油の成った原因に「巨大津波による物体分別論」を唱えています。
そのいう分別論は、(絶版)報告書で提唱する『同似集合論』でもあります。拙文を捜すのに少し時間がかかりましたが以下に引用します^^!。
南極大陸は6500万年前、恐竜を大絶滅させた衝突惑星だ!
<序 文>
あるところに、「素人」という若者がおりました。素人は、海辺の散歩がとても好きでした。誰も歩いていない砂浜を歩く時のサクッとした感触、砂に残された波紋の造形美、色々な貝殻、変化に富んだ流木、侵食された岩肌、優しくはじける波の音、頬をなでゆく風、潮の香り、見渡す限りの海原、それらの全てが日常とかけ離れた、ときめきを与えてくれるからでした。後になってわかったことですが、そこには恐ろしいまでの自然の摂理と、その謎解きの鍵が隠されていたのです。岩と、砂と、貝殻と、流木と、魚の屍とが、それぞれの場所に、それぞれに治まっていたのです。 即ち、砂は砂、貝殻は貝殻、流木は流木で、魚等と、似たものは似たもの同志で集まっていたのです。ニュートンが万有引力を発見したように、誰もが知っている、当たり前から、私は、『同似集合の原理』を知った。あるきっかけから反転錯視を知り、見ようによっては一方向しか見ていない自分に気が付いた。現存する全てを肯定し、全ての常識をくつがえし、この問題に挑むことにした。常識とは、多数であり多数に過ぎない。□
> 無機成因論の根拠としては「石油の分布が生物の分布と明らかに異なる」「化石燃料では考えられないほどの超深度から原油がみつかる」「石油の組成が多くの地域でおおむね同一である」「ヘリウム、ウラン、水銀、ガリウム、ゲルマニウムなど、生物起源では説明できない成分が含まれている」などが挙げられる。
「石油の分布が生物の分布と明らかに異なる」について
生物の分布がおしなべて地球面全体的にあるのに対し、石炭もふくめて石油の分布は特定の地域にまとまって発見されています。石炭においては特に北半球が多い。オーストラリア大陸北部にも油田はあったが、近年のブラジル沖にも油田があったことから、南半球にも目が向けられるようになったのは既知のとうりです。わたし素人は、6500万年前に南極から、地球の90%以上を覆う巨大津波が発生し、ほぼ数波~10波までは北上し、北極に溜まりこんだ海水が今度は、南へ向けて一部の石油成因物が海水とともに逆流した結果がブラジル沖へ溜まったものだとしました。
津波が運こんだ動植物の多くは第一波で運ばれて、おおむねが第二波以降で運ばれた土砂で埋まります。無機質論では、この独自論の「巨大津波で運ばれた」ことが見過ごされています。津波で運ばれた生物たちは、戻り水で河口あたりに成ったものもありますが、大半は津波主流の突き当りか、脇流で流れの弱まったところに置いていかれています。初頭文の浜辺(砂漠)の波打ち際には、『流木と、魚の屍あり』がおおきなヒントになります。
「化石燃料では考えられないほどの超深度から原油がみつかる」について
極々、近年のシェールガスやメタンハイドレートには考えがまったく及びませんが、石炭の炭層には数百メートルも(?)あるものがあると聞くし、深さもそれ以上もあるでしょうから、南極で数千メートル以上(?)、流れが弱まる赤道あたりで二・三百メートル(?)の津波高かと推定していますから「化石燃料では考えられないほどの超深度」であっても不思議ではありません。巨大津波が運んだものは石油石炭になったものだけではありません。巨大隕石の衝突でできた“衝突飛散体”もあります。なぜ、赤道帯の太平洋海底に大量のマンガン塊やSiO2の分布があるのかに対しては、赤道周囲4万kmを川幅にたとえれば最大川幅となり、流れが弱まる河口の様相を示していると謎解きしました。(この詳細は絶版報告書に^^!)ちなみに、オパールの成分でもあるこの時の溶解したSiO2弾は、海水中でギュと冷やされシマ模様や水晶となったり、中には海水が取り込まれたものもあると聞きます^^。
「石油の組成が多くの地域でおおむね同一である」について
石油の組成は「おおむね」が同一」であって地域によって差異は当然あります。石油の組成は樹脂や魚脂が主だと思いますが魚の場合は海水のみが考えられますので、インド洋の魚たちが運ばれた中東あたりのものは上質であろうし、雑混するシベリア平原のものは色々なものが混ざると考えられます。要は津波の上流に何があったかによって決まります。そして、石炭と石油の産地はおおむねが隣接しますが、それは石炭と石油の形態の違いからでしょうね^^!。
「ヘリウム、ウラン、水銀、ガリウム、ゲルマニウムなど、生物起源では説明できない成分が含まれている」について
この件は、惑星衝突論を唱えられている先さまも同意して下さると思いますが、石炭においても同様なことが云われています。「南極大陸は巨大惑星の衝突論」をいっている当方にとっては、その飛散物や生成物が混ざっていても当然だと思います。過去にこの素人論が正しければ「海水のNaCl」が必ず混ざっているとし、そのすじへ送ったことがありますが、いまだに返事がありません。(笑い) 海水の塩分7%? でしたか。それが地表に大量にあるということは安定物質であるから存在しているのであり、石炭や石油の埋蔵地に塩分が含まれていなければ当方の論はなりたちません。「石油の成因はプランクトンの堆積」が云われていますが津波での埋没を考えなければ、石炭や石油になる前に他の生物に捕食されてしまうとするのが中坊の考えです^^。
> ・・・、
> この無機由来説に基づけば、一度涸れた油井もしばらく放置すると、再び原油産出が可能となる現象を説明することができる。また超深度さえ掘削できれば、日本はもちろん世界中どこでも石油を採掘できる可能性があることになり、膨大な量の石油が消費されたとしても、掘削技術の問題さえ解決されれば、石油が枯渇する危険性はほぼ皆無であるとされている。
・・・、^-~???
> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B2%B9#%E7%84%A1%E6%A9%9F%E6%88%90%E5%9B%A0%E8%AB%96
「涸れ油井、再び産出」井戸水を空に汲み上げて、一晩おくと周りの地下水が染み出てきます。それと同じでは^^?
ずいぶん前の巷(ちまた)説で静岡に油分滲出ありと聞いたことがありますが「相良油田」ありですか^^! 。そして、勇払油田や、表題の「釧路平原に油田あり!」は、極秘でも何でもなく、すでに鉱区が予定されているのですね。石油ショックから30年ちかくも離れていると、色々に探出されているのですね。情報ありがとう御座いました^^。この上は、少し難儀になりますが、<十勝平野のモノ^^>でも捜しますか(笑い)。
それはそれとして、以前に「アフガニスタン砂漠の砂漠西方に大油田あり!」を('15/3/05付け)石油資源機構や、海外のその方面に送ったことがありました~~!。保管されるとは考えられませんが、私の没後にはプレミアがつくでしょうね^^?(笑い)
> 隕石が落下した際に、マントル層を突き破る可能性があることは、先にもお話したとおりですが、その際に石油の層から、石油が噴出してしまったり、それに引火してあたかも火山噴火のような状態になるということはないでしょうか・・・。
可能性ありでしょうね。今でもネシアの方では野火から地下の炭層に火が付いたとか、中国では「火カ山」の話しもありますしね^^。 □
[452] 北海道の未掘油田を捜す!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 5月 2日(土)
管理人さまへのお返事です。
重ねての「北海道の未発掘油田を推測」へのお付き合いおそれいります^^!。
> 北海道にも油田があるんですね!知りませんでした・・・・。
> その油田に海水由来の塩分があるかどうか、気になるところですね。
>
> 下記のサイトに石狩油田 八の沢鉱業所跡の記載があります。
> 「安政5年(1858)厚田望来の海浜で石油の湧出を確認。明治12年(1879)春別で試掘。採掘に数々の困難を窮め採算及ばず。後に日本石油株式会社に譲渡され、昭和初期の最盛期には油井数188杭、年間産油量、約1万キロリットル、従業員250余名の活況を呈した。その後、帝国石油株式会社に引き継ぐが油量激減。北宝石油株式会社に継承。35年(1960)8月採掘を廃止し、試掘から81年の歴史を閉じた。ここに、我々の尊い足跡を永く伝えんと碑を建てる。
> 平成12年10月吉日 八の沢石油友の会 記念碑建立実行委員会」
> https://driving-hokkaido.com/?p=5135
> ここにその位置を示すグーグルマップが掲載されているのですが、石狩湾の低湿地(かつては海)であった地点より少し丘陵になったあたりらしいです。これが平さんご指摘の津波由来の油田だったとすると、面白いですね!
> そのマップはこちら。航空写真添付します。
北海道に油田、秋田に油田があったなんて、私も知りませんでした。だから「釧路に油田」を発見けてやろうと思っていたのですが^^!、明治代からの歴史があったのですね。今では「検索」すれば数々の情報が得られるのですね。わたしも、この情報にあたりましたが、再度、捜し出せなくて諦めていました。その検索力はもとより、読解力・思考力も落ちて根がつづかなくなりました・・^^!。
> 石油の湧出の確認から
先に油分の湧出があっての探掘に至ったのですね。前述の静岡・相良油田や秋田の臭水(くそうず)も、地下の油分の湧出がきっかけのようです。しかしながら、いちばん効率よい汲み上げ場所の選定には、苦労があったと思われます。ずいぶん前のことですが、爆薬をしかけて地震波の跳ね返りで下層の状態を推して探査をしたとかを聞いたことがあります。その試掘には、諸問題の解決はもとよりお金がかかりますよね。採算が合わなければ問題外です・・・^^!。
北海道では、ほかに現稼働の勇払油田もあるとか。6500万年前の超巨大津波は、ほぼ北上して大多数が石狩平野を乗り越え日本海側に突き抜けていますが、一部の戻り水の溜まりが勇払の河口あたりにあったようです。ここにあれば、勇払のように受けV字湾になっていなくて片V字地形なので少し条件は落ちますが <十勝川河口にも必ず油田があります!>それと<然別川と音更川との湿地帯あたり>を予測しておきます。このあたりに「油分が湧き出ている情報」はないのでしょうかぁ^^? 釧路平原のモノは、すでに予定されていたので探索の要はなくなりましたが、ぜひとも参考にはしたいですね^^。
<油田中の海水塩分について>
これは、石油成因は<海底溜まり説>が一般化しているので塩分があって当然と云われそうです。しかし『石炭層の中に塩分ありか?』となると話は変わってきます。いまでは石炭については蚊帳の外にありますが、改めてその堆積状況を知り、一口に石炭層といっても実にさまざまなのですね。それを「6500万年前の巨大津波」に絡めて、その一つ一つの状況を推し考えると面白くて頭が混乱しそうです(笑い)。 ありがとう御座いました。□
その論文を再検索・捜しますので少々お時間をください^^!
(5/3) とりあえず関連して
☆「石炭の過熱過程における塩素の行方」
1. 緒言石炭中の塩素(coal-Clと略す)は、・・・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tetsutohagane/103/8/103_TETSU-2016-110/_pdf
☆ 夕張、合せて24尺炭層の大露頭^^
http://www.geosites-hokkaido.org/geosites/site0002.html
[454] 北海道の(十勝平野)未掘油田を捜す!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 5月11日(月)
おまたせしました^^! やっとその論文を再検索することができました。
☆「石炭層の生成と変遷」九州大学 高橋良平
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jie1922/58/2/58_2_102/_pdf
「将(油田)を射んとする者は、まず馬(炭層)を射よ!」
この論文は専門的であり、わたし素人にとっては難しいのですが、石炭の生成因は、現地性とするか、流木性とするかの論があります。その炭層の厚みをなすには十数倍(!?)の植物の堆積を考えねばならず、流木性といってもその厚みは、通常の大洪水では到底考えられず、そして、その分布は地球規模にあります。炭層の年代は、筆者の掲げている6500万年前のものだけではないようですが、<流木=洪水>ではなく、<流木=巨大津波>原因 と考えると解がでることに気付いて欲しい。
先の情報で夕張の炭層の露頭は、下から10尺、8尺、6尺の3層とあるが、これは津波の数波によって回層?をなしたと考えられるし、論文で炭層を挟んでいる夾層が砂から粘土質へと異なるのは、巨大津波が持つ多数波の特徴であり、津波の上流になにがあるかによっても異なり、おおむねは第一波は粒度が大きく、第三波以降は粒度小さくなると思っています。さらに面白いのは<石灰層>の夾層もあるようです。この津波が運んだ堆積層の件は、なにも遠くの国や特別の場所へいかなくても、わたしの貴方の近くにもあるはずだ。瀬戸内山陽道北側の20m~30mの丘陵地。京都府新幹線車窓北側の丘陵地や、岩手県胆沢扇状地北の丘陵地もそうでないかと思っています。なにしろ地球の90%を覆った巨大津波ですから。『川がないのに角のとれた丸こい石の堆積丘^^?』それが少年心(こどもごころ)には不思議でならないのです。
キシ先生>に希望します。長文の情報層で小拙層を覆い隠さないで欲しい(笑い)。
当初の論文を熟読します。その時の超巨大津波と考え合わせながら・・・・
To be continued^^!
> <十勝川河口にも必ず油田があります!>
それと<然別川と音更川との湿地帯あたり> を予測しておきます。
> (5/3)とりあえず関連して石炭中に
塩素Clは単体では活性化が強く、それがナトリウムと結び付き海水中にあります。
> ☆「石炭の過熱過程における塩素の行方」
1. 緒言石炭中の塩素(coal-Clと略す)は、・・・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tetsutohagane/103/8/103_TETSU-2016-110/_pdf
> ☆ 夕張、合せて24尺炭層の大露頭^^
http://www.geosites-hokkaido.org/geosites/site0002.html
[455] Re: 北海道の(十勝平野)未掘油田を捜す!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 5月12日(火)
急がば廻れ^^! 油田を探すなら、まず石炭から・・
<石炭層の生成と変遷> 九大:高橋氏 1978/11/16受理、より
1.1 夾炭層の構成
・・、「石炭層の直下にかつて植物が生育していた時の土壌と判断される粘土層があったり,石炭層中の珪化した樹幹(珪化木)が層面に直立した格好で含まれ,さらにこの粘土層をつらぬいていることなどは石炭の原地成因説の有力な証拠とされてきた。」・・、
この件は、4千年前の東北に衝突した巨大隕石で発生した巨大津波の件で述べたことがありますが、同様なことに「直立した藤里の大珪化木」がある。いかに巨大津波とはいえ、その発生源とその先端部分では、その様相がおおきく異なる。発生源では巨石ゴロゴロでも、その先端等で流れが弱くなった場所や後続波では、その濁泥土の粒度は小さくて粘土質のものが運ばれてそこで堆積する。そしてそこに棲息していた樹幹が大きければ直立したままで、津波と共に運ばれてきた粘土層に埋まり珪化木化する。この件で、奥州市の岩淵先生は、島根県の珪化木林の根本部分に倒れてある木化石は、その時の津波が運んだものだとされている。
また、藤里の珪化木はアイソトープ年代で〇〇年前であったが、その年代を示す濁泥土が染入ったものだとしました。津波が運んだ植物の遺骸は他地へ運ばれたり、混ぜ合わされた土粒へ埋まりこんだりするので、その年代を決めるのが難しい。
<続 伸> 上記論文より、
「・・、坂倉は,石炭層の厚さが水平方向で容易に変化したり,石炭を含む一連の地層(夾炭層)が,繰り返しリズミカルな堆積様式を示すことなどによって日本の第三紀炭は原地で生育した植物群をその原料にしたと主張している2)。・・」
この件は、夕張の3層の石炭の堆積層で津波成因を説明できる。3層の炭層の厚みは下から10尺、8尺、6尺であった。リズミカルな堆積様は、津波が同方向からそれらを運ぶからであり、10尺→8尺→6尺へとだんだん小さくなっているのは津波の後続波が弱くなっていることを表す。夾層の状態と何がどのように津波によって運ばれたかを知りたいものです。夕張では炭層がなだらかな傾斜があったようだが、植物体は盆地へ溜まったり、津波の波打ち際に置いていかれる ことがある。この地勢の件の要を氏は説かれている。
To be continued^^。
[457] Re: 十勝平野
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 5月13日(水)
青面金剛さまへのお返事です。
おひさしぶりです。当方にお気をとめて下さってありがとうございます。
根気や記憶の衰えを自覚し、昨年でしたか台風19号を押して一区切りとしてからは、<存命中の可否に>あまりこだわらず成り行きにまかせることにしています。
「北海道に油田あり!?」は、ずいぶん前から内に秘めていましたが、終活の一環として記しておこうかと着手したところです。・・で<高橋先生>の論文「石炭層の生成と変遷」にいきあたり少しずつ読み始めているところです^^!。
秋田県や、北海道の油田採掘はずいぶん前(大正の代?)からあったのですね。当方が知らないだけで、今では検索をつかえば、その多くを知ることができるのですね。行動力のない机上探偵としてはありがたいことです。
今の私は、先さまの意とされる事にお答えできる自信はありませんし、その情報のすべてに目をとおすには時間がかかり過ぎる難があり、スピーディにコメントできないことを済まなく思います。
気になるワードとしては、
「各々の年代の決定」があります。この年代決定には過去の30年あまり、例外ないほど自論とのくいちがいがありました。アウトレットを論じる素人には、その科学的根拠をくつがえすだけの学識はありません。
「それを決定した年代が、永久の過去から同じ場所にあり、同じような圧と温度の経過をたどり、おなじ放射線量をうけ、・・ならば、その年代決定は正しい。しかしながら、巨大隕石というビッグイベントを受け、巨大津波で混ぜ合わされ他の地へ運ばれたその検体をどのように判断したらいいのか私には判らない」と、逃げてきました。
太田市・波根西の珪化木>2000万年前の写真。とても興味があります。以前のことですが「三瓶山の大噴火。太田市に立状根化石発見3500前のもの等を「東北4000年前の巨大隕石で火山誘発、その時の津波で流された流木か?と、思っているのですが、四千年前と三千五百年前では時間があいません」としたら、岩淵先生思い当たるふしがあったのでしょうか。現地へ出向かれて「4000前の説もありました」と教えて頂きました。その年代決定のどちらが正しいのかは私には分かりませんが、著名な人や機関の発表がそのまま定着するのでは?と思うようになりました。この掲示板でも管理人さまがタイムラグや補正値をいかにとるかの問題をあげられていましたし、東大の先生が「年代決定には、放射線法か炭素年代のどちらかの一方に決めて論じるべきだ」といわれているのを思い出します。波根西の珪化木も2000万年前の地層に4000年前の木が流れ着いたと勘ぐることもできます。島根県に流木化石があるならばほかでもあるに違いないと思っていましたから波根西の珪化木もその時のものかと思うようになりました。ちなみに島根県には<千木>という地名があります、筆者はこれをその時4000年前の大津波が運んだものかと疑っています。このように昔のことは思い出すのですが最近のことが・・・^^?
> これらの地層の中には石炭の層が数十枚あり、普通1から3メートルの厚さですが、5メートルをこえるものもあります。
> https://www.city.kushiro.lg.jp/museum/jyousetsu/1f/0003.html
『石炭の層が数十枚あり』
これは、津波流木説では解決できませんね。ただ5mもある堆積層がどのようにしてなったかの疑問がつきません。5m×15倍=75mが堆積するメカニズムが巨大津波以外で考えつかない。1サイクルの炭層厚が夕張のように段々に薄くなっていれば津波の可能性大である。
『カルデラの件』
私はカルデラは巨大隕石痕ではの疑問をもっています。管理人さまも「北海道の多くの火山地形が多角形になっている」ことをあげられていました。私は、そのような見方をしたことがなかったので新鮮に感じたのを思い出します。爆発痕なら多角形痕も考えられますが、火口痕であれば多角形痕にならないのではと思います。このように北海道の火山口を巨大隕石の衝突痕とみれば、その時々に津波が発生しますよね^^。
『坪背山探索の件』
色々の情報はありがたいのですが、<猪の目峠茶屋跡から散策道を7分ほど登った所から右手方の分かれ道の行き当たりに、隠れ坑道のズリありか!?>を確かめる気力が残っていません。かっての山歩きで、イノシシの掘り返した痕に遭遇したり、散弾銃の薬きょうを目にしていますから、間違って撃たれたとのニュースもあるし、こわい怖い^^!
コメントありがとうございました。 □ 机上探偵^^ 平 素人より、
[459] 『坪背山に隠れ坑道を掘ったズリの有無確認の件』
投稿者: 机上探偵: 平 素人 投稿日:2020年 5月14日(木)
青面金剛さまへのお返事です。
「ちなみに島根県には<千木>という地名があります、筆者はこれをその時4000年前の大津波が運んだものかと疑っています」と申し上げました。ごめんなさい。myブログで捜すと<千木>ではなくて<千本>でした。あげて下さらねば間違った思いを残すところでした。
myブログより、
「忌部川」に、「下忌部・西忌部・東忌部」。 このように方向性が3つ以上連なると、(そのことに関して)そこに歴史という時の流れがあったと推むことができます。「忌む」とは、人が死んだ時につかう言葉。 ここに「千本」という地名があります。・・・
> ☆<千木>は神社の社の屋根に付いている風消しです。千木が無いと強風時に屋根が飛び易くなります。立て削ぎが出雲神、横削ぎは物部神です。男千木と女千木で解説している本が多いですが誤りです。
ありがとう御座います。「千木」は風消しの意味もあったのですね。「重し」の意味だけかと思っていました。ちなみに、千木は、大量の銅鐸・銅剣を埋めた時、それに憑いた荒神を動かせないようにするための「重し」のための儀式方があったのではと疑っています。「風消し」の意味もあるのでしたら、「八雲」を抑える意味もあったのでしょうか。慈雨が、あまり暴れすぎて暴風雨になっても困ります。(笑い)今でも、旧家では新築時の棟木の下に刀(刃物)を括り付けることがあるようです。さらに、略式化して竹で挟んだ何やらの紙幣をくくりつけているようですが^^?
今、「神戸・こうど」の地名がつくところの山畑に廃材で休憩小屋を建てているのですが、「屋根が風で飛んで人さまに、必ず迷惑をかける」と息子にしかられました。(汗~^^!)
『坪背山の隠れ坑道を掘ったズリの探索の件』
> ☆ 地図に印を付けて管理人さんに送りなさい。隠れ坑道がある危険な所はドローンしか、ありません。
私は、そのズリの有る無しが拙論の正否を決めると申し上げました。
ずりとは、トンネルの掘削や鉱山の発掘において、発破などによって生じる岩石の屑のこと。その有無を調べるだけなのに、なぜドローンが要るのかわたしには理解できません。もし、私がいった「大文字地形」を思っておられるのでしたら、素人が推論に至った「そのズリ」があってからのこと。そのズリが無ければバカげた素人探偵の作り話ですからね。 そして、その地の歴史を知らないわたしのようなよそ者は、そこが、さして先さまが仰っておられるほど危険な場所とは感じません。(以下の山歩きを参照しました^^。写真はGoogleで坪背山より大社方面と鷺浦方面です)
法師崎(ほうしざき)のやまある記 : 坪背山(壺背山) 引用、
https://houshizaki.sakura.ne.jp/tuboseyama.htm
・・・(猪の目茶屋跡の)登山口から7分程度進めば尾根道へ着き、明確な登山道に合流する。この合流点付近には昔の道が北へ向かって延びているようだが、途中でこの道は消えてしまう。・・・
・・消えてしまう・・『その場所の上斜面側が(隠れ坑道入り口)で、下斜面側が祈祷場所を拡張し(ズリ)を排出したピンポイントです !! 』
むしろ、そのことより、そこを「侵すべからざるところ」とした祖先の思いを世の人に知らせむることのほうがはるかに大事かとおもいます。それは、素人のいう「ズリ」が「あって」からのこと。「なければ」話しにもなんにもなりません。
<机上探偵の推論>
“恣意的に”入り口を塞がれている坑道の奥行は十丈。その坑道の奥へ1700年前の冬至十夜の旭光が、弥山北側の“鼻突峠のあいだ”から昇ったとき「その初光が、奥に設えた木製棚上まで射し込むように設計されている!」
この詳しくは、myブログのどこやら「カテゴリー出雲地方?」に書いたかとおもいますが、今は思いだすことができません。そして、その日差しの方向に「加茂岩倉」があるか!?とおもっていますがこれも調べていません。それよりなにより山小屋をなんとかせねば・・・^^!
[461] Re: 北海道の(十勝平野)未掘油田を捜す!!
投稿者: 机上探偵: 平 素人 投稿日:2020年 5月18日(月)
前回の<石炭層の生成と変遷>高橋良平氏 1978/11/16受理、の論文の
「1.1 夾炭層の構成」で、石炭の現地成因と流木成因のふた通り説についてでは、石炭は、地球の90%を覆った「巨大津波が運んだ」ものだとしました。引き続いて素人の思いを述べていきたいと思います。
> 急がば廻れ^^! 油田を探すなら、まず石炭から・・、
石炭と石油の産地は津波成因において、似通った地域にありますが、石油成分が流動性や、浸透性があるのに対して、石炭の場合は、その浮遊性と絡み性があるために海岸の波打ち際と同様な状況で堆積していることが多く、まず石炭を調べてゆけば、石油の方も推めてくるのではと・・^^!。
<表題の高橋氏の論文よりの抜粋>
Bubnoffの分類4)にしたがうと,石炭堆積盆地は,地向斜タイプ,陸槻タイプ,大陸塊タイプの3つに大別することができる。
1.2.1 地向斜タイプの堆積盆地
・・・、イギリスのSouth Walesからベルギー,ドイツのルール,ソ連のドネツにかけて東西方向に発達した地向斜炭田群である。
地向斜とは、地殻上に生じた帯状の沈降地域であり、石炭地のおおむねは盆地状や谷状の凹地に堆積したものであり、津波が引いてゆけば、その流木は大体がそのような場所に留まる。又、これも海岸の波打ち際で見かけることであるが2波3波の波先に、それに類するものを置いてゆくことがある。「東西方向」の詳しくは調べていませんが、筆者が北上(後に南下)したとする巨大津波に対してに(?)あるのが興味深い。
1.2.2 陸棚タイプの石炭盆地大陸縁辺部の海岸平野とこれに連なる陸棚地域に形成される炭田タイプである。
地向斜タイプの炭田に比べると沈降の程度が低いために一般に全地層厚は薄いが,植物堆積に適した条件を備えていたため石炭層自身はしばしば厚く広範囲に賦存し,多少の例外はあるが,概ね穏かな構造を示すのがその特徴である。
これは、大陸に上陸した巨大津波は、表層の植物群を引きはがしながら進む。一部はその先端や、流れの脇域に残すが、戻り津波の濁泥とともに海岸部に沈降する。「一般に全地層厚は薄いが,植物堆積に適した条件を備えていたため石炭層自身はしばしば厚く広範囲に賦存し,多少の例外はあるが,概ね穏かな構造を示すのがその特徴」というように、陸棚のおおむねの地勢は濁泥土流の堆積もあるが単調であり、その炭層は「概ね穏かな構造を示す」。
ちなみに、大陸棚は、かつて陸地だった所であり『南極大陸大隕石の水没』によって海水位を上昇させたたとし、中坊程度の計算力で180mほど^^?だったかなの増位で海没したとしましたよ^^!。平頂海山・ギュヨーもね。(拙:絶版報告書)
1.2.3 大陸塊タイプの石炭盆地
・・、楯状地のような古期の岩石類からなる安定大陸塊の内陸部にも地域的にはごくゆるやかな上昇,沈降が起こり,盆地状の凹地が生じ,ここに夾炭層が堆積されたのが大陸塊タイプの炭田である。・・・、地向斜タイプの炭田に比べると被覆岩層も薄く,堆積後の地層変形も微弱で,大陸塊タイプの炭田である。しかし,石炭化は一般に進んでいて,大陸塊型炭田としては例外的な炭質であるが,その理由はまだ明らかでない。
その炭田例は、ロシア卓状地やシベリア卓状地西南部にあり、南極から発した巨大津波の突き当り域であり、岩石や土質の多くが津波の移動中に沈んでいくのに対し、植物群は自身がもつ浮力のために遠くまで流される。それによって「地向斜タイプの炭田に比べると例外的な炭質であるが,その理由はまだ明らかでない」
「石炭化は一般に進んでいて」
これは、中坊時代に「泥炭<褐炭<無煙炭」と教わったようにその進化は“褐炭”どまりをいっている。『例外的な炭質であるが,その理由はまだ明らかでない』 石炭への炭化は、植物が地中に埋まることによって、その地熱と圧力によって炭化する。このように被覆岩層が薄い場合。地圧も地熱も小さいので炭化はしにくい。しかしながら、褐炭どまりとはいえ炭化していることが不思議なのである。ひるがえってmy報告書を思いだして欲しい。南極大陸大隕石のあとに、数ある氷期のなかでも、とくに大きい氷河期がくる。薄い被覆岩層とはいえ直接に氷と植物は接していない。その氷圧によって炭化したのである!? しかし、これだけでは足りない気もするので、南極衝突惑星の対蹠地で北極海底へ噴出したアルファ海山(別紙)の余熱でも足しておきましょうか^^!。
別談の報告ではありますが^^!
<南極に石炭の露頭あり>
これは、漂い流れ着いた植物群が、衝突熱冷めやらぬ大陸表で蒸し焼けたとしました。
<南極大陸ほぼ中央の氷下にボストーク湖あり>
これは、氷圧と未だに残る衝突熱によって水液化しているのでしょうかと謎解きしました。ちなみに、南極海岸には温泉が湧いている場所があるそうです。
To be continued^^
[462] 将(=石油)を射んとする者はまず馬(石炭)を射よ
投稿者: 机上探偵: 平 素人 投稿日:2020年 9月 2日(水)
終活の一環として(^-^!) ミッション:北海道の未掘の油田を捜す^~!
すみません。前の投稿から随分あいてしまいました。・・、
高橋良平氏<石炭層の生成と変遷> 1978/11/16受理、の論文をよんているのてすが、
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jie1922/58/2/58_2_102/_pdf
以下のような情報を収集しています。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
一定の順序で堆積した堆積物の一系列の変化。しばしば周期的に繰り返される。陸源物質では礫岩,砂岩,泥岩の一系列が最も多い堆積輪廻で,その原因には海水準の変化(海進),地殻変動(沈降),気候変化などがある。泥岩,砂岩,礫岩の堆積輪廻では逆に海退,隆起などが原因となる。化学的堆積物の堆積輪廻は石灰岩,石膏,岩塩の順に重なる例がドイツ盆地の上部ペルム系の苦灰統(Zechstein)に認められ,浅海から乾燥した内陸盆地への環境変化が認められる。
一般的には,地下数百mに泥炭が沈下してはじめて温度も数十度のオーダーになりうるので,
元来,堆積した植物質が泥炭となるためには著しい容積の減少があり,さらに泥炭から石炭になるまでには1/17~1/20の容積減少があるとされているので,
坂倉は,石炭層の厚さが水平方向で容易に変化したり,石炭を含む一連の地層(夾炭層)が,繰り返しリズミカルな堆積様式を示すことなどによって日本の第三紀炭は原地で生育した植物群をその原料にしたと主張している2)。
石炭層の生成と変遷(高橋)103に大きな特徴がある。生成年代の新旧をとわず世界の夾炭層の大半がこのサイクリックな岩層の連なりを示すことが知られ,ーサイクルを示す堆積物はサイクロセム(Cyclothem)と呼んでいるが,その典型的なものは北米の内陸炭田や,ヨーロッパ西北部の夾炭層に認められ石炭の形成過程・堆積環境などを明らかにするために数多くの研究が行なわれてきた。イリノイ,カソサス州の古生代炭田の場合には,砂岩~礫岩がサイクロセムの最下層をなし,上部にむかって次第に細粒となって淡水性の頁岩層,耐火粘土層,石炭層となり,さらにその上盤側に黒色の頁岩,石灰岩の薄層,海成の頁岩が重なるものである。カソサス州を中心とする炭田の上部ペソシルバニア紀に属するWabaunsee層は全層厚約120mの夾炭地層であるが,6~15mの厚さをもつサイクロセムが13個識別され,400~500kmもの遠距離にわたって追跡されている。 ・・・以上・・□
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<前振り>
6500万年前の南極から発した巨大津波は、地球の90%以上を覆い地表生物のほとんどを北に向けて押し流しました(一図)。そして、濁泥とともに運ばれた動植物の多くは地中に埋って石炭や石油になりました。「巨大隕石の衝突」による大津波の発生でなった石炭石油はこの時だけではありませんが、なにしろ南極大陸そのものが衝突惑星(自論)ですから、今までの科学、人知を絶するものがあります。その詳しくは、拙著の「巨大隕石と大津波」で述べていますが、今は絶版となっています。その主なものをあげますと、南極大陸塊が押しのけた海水の増位で約200m没の大陸棚ができた。主要な島は北に向けて流されている(二図)。その衝突合体は地球を下膨れの洋ナシ形にし、地軸を傾??け、アイスランドやデカン高原を噴出し、北極海海底に対蹠地形のアルファー海嶺や〇〇海盆を造っている(別紙)。このような大惨事のなかで恐竜や海生物や植物は巨大津波によって流され集められ土中に埋もれ石炭や石油となっているとするのが自論です。
< 思 考 ??>
「新旧各々の地の石炭の生成年代の決定について・・・、」
この件は、(地表の植生をうがす)巨大津波を伴うほどの“巨大天体の落下は”各代にあると思われるので一概にはいえません。
「砂岩~礫岩がサイクロセムの最下層をなし,上部にむかって次第に細粒となって・・」
その時、起こる津波は一波だけではなくて何波もおこるであろうから、上層にいくにしたがって細粒になると思われます。
「淡水性の頁岩層,耐火粘土層,石炭層となり,・・」
海で発生した巨大津波が陸上に上がり前方に巨大湖があれば、その淡水が前方の植生を押し流すことになります。
「粘土層」になるほどの細粒は、
津波の行きついた先端部・下流域の様相であり、津波が落ち着いて濁泥が沈殿したときも同様と思います。
「さらにその上盤側に黒色の頁岩,石灰岩の薄層,海成の頁岩が重なるものである」
「黒色の頁岩」について、
この件は、さして難しい問題ではありません。巨大隕石で発生する津波は、それによって発生した火災や粉塵をも運ぶからです。中国の端渓の硯がそれかと思っています。
「石灰岩の薄層,海成の頁岩が重なるもの」
石灰岩の件は、ドーバー海峡岸や、秋吉台のように貝性類が津波で運ばれたとしています。要は津波の上流部に何があるかによってそれぞれの堆積物は変わってきます。したがって、列島の筑豊炭田と釧路炭田の成分の違いにあるのではないでしょうか。
「その他に・・」
琥珀があります。これは、生木が津波で “大量に” 運ばれたとき、表皮が擦れ合いはがされ流れ出たとしています。
★★ 自分(巨大隕石、巨大津波説)的に説けていないことがあります。
『カソサス州を中心とする炭田の上部ペソシルバニア紀に属するWabaunsee層は全層厚約120mの夾炭地層であるが,6~15mの厚さをもつサイクロセムが13個識別され,・・』
「全層厚約120mの夾炭地層」については、想定をはるかに越えていますが、南極大陸が巨大隕石だったとすれば、頷けないでもありませんが・・・、
『サイクロセムが13個識別・・』
この件が一番の難題です!! 以前のわたしは、石炭層は一つの塊となって堆積していると思っていたのですが、そうではなくて、オーストラリアの炭田や北海道( 大露頭)のように、薄いサイクロセム状(サイクル性)になっていることでした。これは、地形や緯度によってもその地へ届く津波の波数は異なりますが<13波もの津波の発生>を説明できなくてはなりません。(注: 後続波によるものか、時期をたがえての堆積したものかの違い)
もっとも、地球を洋ナシ形にしたり、地殻を数枚にひび割れさせた大事変ではあるのですが・・・
[463] 北海道の油田は、数十年前に発見されていた!!
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 9月 5日(土)
この件は、・・・・さまも指摘されていましたが以下にありました(^~!)
日本北部の天然ガス (北海道の天然ガスと石油)
https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/61_07_02.pdf#page=1&zoom=auto,-150,721
油田・油井の発見は、臭水(クソウズ)であったり、自噴したり、石油ガスの匂いがしたりがきっかけのようですが、国土地理院の地勢図・等高線に重ね合わせてみると、各代・各々の巨大津波が運んだ「未だ見ぬ」動植物の遺骸の油分が見えてくるかもしれませんね(^-^)。あっ、それから巨大隕石落下後の「隕石の冬」が引き起こす海進・海退も考え合わせねばなりません。そこは昔は海だったと云わないためにも・・・つづく(^-~)。
[466] Re: 道東クレーターライン
投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2020年 9月 8日(火)
管理人さまへのお返事です。
ご無沙汰いたしております。お元気なごようすなによりです^^。
> 摩周湖・屈斜路湖、サロマ湖、厚岸湾・・・隕石落下によるクレーター湖かどうか確認してきます!
北海道・東北地方には隕石衝突とみられる湖が散在していますね。列島の中部以南にはそのようなクレーター形状様のものがみられません。これに関心をもったのは中坊のとき、噴火湾といわれている内浦湾とメキシコ湾の形状が「よく似ているなあ」と思ったことでした。加えてイタリア辺りもそのようなものがみられます。素人はこれ等を「隕石銀座」とよんでいます。ご指摘のように黄道・偏角と惑星・軌道の交わりが過去にあったのかもしれませんね。
ご調査・ご思考を楽しみにしています。
投稿記録版(2)へ続きます^~!。
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