卑弥呼が埋めた「大量の銅剣と銅鐸」
此処に出雲と同様、“大量の銅剣”が埋めてある! 全国歴史ファンの方々、三上山に集合せよ。
「吉備の大量の銅剣と銅鐸の探索」 その続き Ⅱ
 大量の銅剣を捜して!

 遅い昼食を車中でとる。濡れた靴を乾かしながら。天気は薄い雲はかかっているものの快晴にちかい。さてと、時計をみると14時前。まだ早い気もするが帰ろうか。 ここからすこし下ると「鬼の城へ行くY字路」 がある。そこでトイレ休憩をとる。このY字路が災難へのはじまりだとは露ほども思わなかった。このまま帰るには時間が早いしもったいない。 ちょっと鬼の城の方へよってみるか。何かの情報が得られるかも知れない。次回はそちらから入山する予定だ。

「鬼の城・きのじょう」 というのは高さ397mのすり鉢状の山で、その頂部の約30ヘクタールは、平ら状に近く朝鮮式山城ではないかといわれている。東西南北に山門を持ち今では巨費を投じてその復元がなされている。筆者は復元する前の状態も見ているが、そこにわずかな石組みを残すほかは、そんな施設の跡があろうなどとは想像もつかないような山林であった。考古学の綿密なる調査に感じ入る。 総社市の郊外で人里離れた山中ではあるが、70余台が停められる駐車場も整備され休日ともなれば多くの人でにぎわう。 地図上でほぼ平坦とはいえ、その一周を歩けば結構な山坂があり、ビジターセンターにも飲料水の自販機はおいていないので、特に夏場は要注意。 熱中症はシャレにならないとのこと。

そのビジターセンターは、鬼城山と新山(にいやま)に挟まれた峠の辻にある。これをさらに進むと巨岩がある「岩屋」へといく。鬼城山への登山は、その西門がある一方のみであとの三方向は全て急峻している。 ビジターセンターには鬼城山の全山模型をはじめ版築土塁の標本。版築土塁というのは、輪切りにした丸太の重しに4本の柄をつけて、それを二人で「お父ちゃんの為ならエーンヤコラ!お母ちゃんの為ならエーンヤコラ!」のかけ声で、土をつき固めて城郭の囲い、池の土手、川の堤防等をつくったそうですよ。そうした工法でつくった「囲い」が約○kmにわたって巡らされた跡。その他の類似山城についての説明等もあり、その趣味がない人でもおすすめだ。 別棟の展示館に私の欲しい 『新山と西谷』が載っている地図があり、それを持っていた封筒をやぶいて描き写した。

南から「経山372m」「新山405m」「犬墓山443m」「登龍山461m」となっている。 その西斜面に午前中に登った「西谷」の沢がある。その渓流の源に水滴形の「堂管池・どうかんいけ」があった。さらに「山王神社」の印もある。この神社は国土地理院電子版の地図にも載っていない。さあて帰るとするか。

そこを出て新山の方を見ると、なにやら大きな案内板が目につく。それには鬼の城から「新山→犬墓山→岩屋→鬼の城」へ帰る遊歩道コースが描かれており、その道筋に四国巡礼に類似した石仏が御座し何番とかをふっている。こういった何番札所とかいうおしえは「真宗や真言宗」によくある特徴だ。その時は、この案内板を見たことが後になって役にたとうなどとは思いもしなかった。14時15分頃。

ここを300mほど下ると数軒の新山集落がある。そこには1、5mほどの大釜がすえてあり「鬼の釜」と名付けられている。これも見ておこうと車を停めて。すると家のほうからバイクをおして80歳がらみのご老人がおいでた。これ幸い。この辺の地理を、とくに朝方の堰堤までの道順を聞いておきたい。 「まあ、御大師堂へかけなされ」 「そこへは、あの家の脇を上がれば「たわ」があるからそれを左手にとればいい」と教えて下さった。「たわ」というのはこの地方でいう峠状のところだ。この時 14時30分。

ふだんは時計も携帯電話も持ち歩かない。この日、時計を持って出たのは、この日の行程を書き残すためだ。 日没までには約3、5時間ある。 次回「その堰堤」へ行く方向づけだけでもしておきたい。次に来れるのはいつやら分からない。30・40分で行って、30・40分で帰れば日没までには充分まにあう。 「今日はおそいから、又、日を改めて出かけなさい」と。ご老人の止めるのを聞かず、「ちょっと、ですから」と言って、そのご老人と別れた。

この「ちょっと」の言葉には、午前中の緊張感は微塵も残っていなかった。それでも杖がわりの小枝をひろう。 山道ながら幅1mは充分こす。農道として使用されていたのであろう。 聞いたとうりの「たわ」についた。これより上に登れば「山王神社」かな? そこを左手に下る。驚いたことに窪溜まりにわずかではあるが雪が残っている。平地で積雪があったのは記憶にないほどの以前であった。 この日の最低気温は5℃、平地より3℃は低いのかな? 倒木あり道崩れありの細道を進むと逆Y字のところへ出た。 かつて、そこに作田があったとは想像もつかないような、背丈をこす笹竹が一面にびっしりと生えている。それでも朝方の堰堤方向へいくのであろうか道筋だけは刈り込んでいる。 これから季節が進み新しい笹が生えてくると大変だ。今のうちに目鼻をつけておきたい。さらに進むと?、どうも逆Y字の右手に進むようなので、笹に隠れた畝をわたって進行方向左手の山斜面を下る。 朝方の堰堤をめざして! 

しばらく行くと、雑木が生えてはいるが、かなりの平地があった。猪が掘り返したのであろうか、あっちこっちにその跡がある。それも新しい。 先ほどのご老人から「猟期は2月末まで」と聞いていた。「小学校の校庭に猪、児童を追いかける」のニュースがあったのを思い出す。少し大きな杖にかえようか。 その堰堤があった。 が??、 朝方の堰堤に似てはいるが?、どうも様子がちがう。桜の木がない。2m幅の清流もない。「めざす朝方の堰堤は」この下方だ。今日はここできりあげよう。次回にすればいい。

 谷の左手・東向き斜面にそって帰るのは、銅剣の埋め地を探査するためだ。 いいかげんに進んで右へわたればいい。 地もとの人が目印のために付けたのであろうか?10m程おきの小枝に赤いビニールテープがまいてある。それを捜しながら進んだ! だんだんと険しくなる。 ない! 見失った! 赤い印を? 引き返すか? まあいいや。下へおりて谷を渡り、来た方にかえろう。 のどが乾いてきた。ほんの「ちょっと」だと思って飲料水は用意してこなかった。まさかの時のために用水の水をふくんでみた。「飲める」。  背丈をゆうにこす笹竹をかき分けて反対の山斜面にでた。これを少し上へ登る。 と?、 なにやらの岩場がありビール瓶の空20本ほどが転がっている。かつての宴会の跡であろう。 その中に缶ビールの空き缶がないから、ずいぶんの昔ではあろうが人跡のあとには間違いない。少し安堵する。 だがこんな所をとおった覚えがない。

山で道を失ったとき、一番こわいのは、方向感覚を失ってぐるぐる廻りをしてその時間を失うことだ。都会で迷っても同じところへ返ってしまう。後ろ向きと前向きでは、その景色はまったく異なる。同じような場所で同じような間違いをくりかえす。 昔の人は、それを「狐につつまれた」という。完全にその状態に入っていた。皆さんはどうかと思うが、筆者は、かつて電車を乗り換えて、西行きの電車が東行きに進んでいると幾度も錯覚したことがある。

今の自分が、「どの位置」にいるのかが分からない。「遭難」の二文字が頭をよぎる。とにかく「今、自分がどこにいるのか」を確かめねばならない。がむしゃらに上へ、上へと登った。中腹まで登りふり返ってみると。 初回に秋山青年と出会ったときの「経山」にかかる高圧の鉄塔・送電線が、はるか下方に見えた。Y字谷の中央にいる! 「登龍山」を背にして、谷をひとつ西よりに間違えていた。 日はまだ高い。 が、渓流下りはとても無理。時計をみたがその時間を覚えていない。

谷をひとつ渡らねばならぬが、「もと来た新山へ返ろう」。 山の中腹を東へ?、思案している時間はない。 が!、シダ草が行く手をはばむ。 明るいうちに下山出来ない。 まさかの時のために 「総社・経山へ行く」 と書きおきしてきた。 家族はその場所がどこにあるのかは知らない。帰宅が10時を過ぎると騒ぎだす。 自力で帰る自信はあったが、家族が騒ぎだして周りに迷惑をかけるのがイヤなのだ。新山へは無理だ。 この山を東へ越えれば必ず「鬼の城~岩屋」への車道にでる。不安はあるがそちらへ進もう。地図で、その斜面は急峻していたと覚えてはいるが。

 後は時間との戦いだ。 夢中で上へ上へと登った。のどは渇くがふしぎと汗はかかない。あい変わらず猪の掘りかえした痕がある。アクシデントでその時間をロスしてはならない。 落葉樹林ではあるが太陽が沈むと山中は急速に暗くなる。どうにか尾根にたどりついてその下を見ると? 木立を透かして、なにやら水面?がみえる。 やったあ!、たすかったあ! 「堂管池」だあ。 対面の斜面を登れば 『案内板でみた遊歩道』 がある。乳緑色の池面が神聖にみえた。
その池は、近くで見ると意外に澄んでいる。片手でその水をすくって戴いた。その手は赤く傷だらけであった。ほんの「ちょっと」のつもりで、軍手もはめていなかった。

その斜面を登ると、明らかにそれと分かる遊歩道があり、「犬墓山」へ着いた。
 この 「犬墓山や、鬼の城、吉備津彦神社」 等をもって、岡山での桃太郎伝説にしているのかな。 ここに、高さ1、5mぐらいの石を墓状に立てていた。そしてその前に幅20cmくらいの石を横たえて祭壇状にしている。 この形式はどこでもあり、めずらしくもない。 が、この墓の後ろに、それより少しこぶりで頂部が平らな石が据えてある。 山の尾根地に巨石二つを人為的?に立てた状態。 ふつうそんな関係位置に石はおかないよね? 墓石と見立てた時その前に供物は置く。明らかにその一つはそのように設えている。その二つの石が元々どこにあったのかは分からないが、似たような石が二つあったのでは意識が集中できず、その一つは邪魔になる。取りのぞいて動かせないほどの大きさではない。「 生け贄の供物用の石台だ!」 とすると、墓石の後方に、「さらなる大きなもの」がおわすことになる。 関心ある人にルミノールテストをお願いする。 私は、その上面をこわくてよく観ることも出来ませんでしたが。

ここから『鬼の城センター』へ、 その道筋に、
 <十七番・十一面観音さま>  この時、17時前。
日没までには、1時間以上を残している。 『 助かりました。ありがとう御座いました。』
二拍一礼をして、センターの駐車場へ降りたときには、管理人さんの車であろうか、その1台がポツンと停まるのみでした。 市街にかえってショッピングで「何か甘い飲み物」でもと、車から降りたときには、足がガクガクしていた。そして家路についた時には、もう薄暮がせまっていた。

 後からおもえば、その地理を知ってござるお人には大したことでも無かったかも知れないが、筆者にとっては大冒険であった。この記事をご覧になって、私も 「大量の銅剣を!」 と思い立ったお人には、「くれぐれも、慎重に(笑)」 特に「神戸の方は」斜面もきつく危険をともなう。決してお一人では行かないほうがいい。「野洲の方が」おすすめかも知れない。但しその雪が溶けていればの話ですが。

※この「一連の行動」には、ふたつの大きな問題が含まれている。 そのひとつは、「国土地理院・2万5千分の1、地形図」を過小に見ていたこと。 その昔には「祟りがある」と恐れられた出雲・荒神谷なのに、今の観光地化された地図を思い描いていて、それを軽んじていた。 じっさいに現地を探索してみると、かなり広い。 もう一つのほうは “次回” をお楽しみに! (H20.3月27日記)


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